わらべうた





381


嘘を重ねる。
その重ねた先にあるのは、きっと薄い殻に覆われ落ちれば割れる…うっすっぺらな真実しかないのに。

「じゃあ…そろそろ帰るよ」
松原はなつと娘のサチに見送られ家を出た。今日はサチに請われて甘い水菓子を持って立ち寄っただけで、夜には巡察の当番が控えている。
最初は彼女たちに会いに来るのは非番の日だけだと決めていた。『小野』である自分と新撰組の組長である『松原』という本当の自分を分け、せめてそのどちらにも誠実に向き合おうと思っていた。しかし、その決意もいつの間にか箍が外れてしまい、こうして何かと理由をつけては彼女たちの元へ通っていた。自分は思った以上に我慢ができずに、不器用だった。
「また来てね、小野のおじちゃん」
そんなことは露知らないサチの無邪気で可愛らしい瞳に見つめられると、愛しい気持ちが湧き上がると同時に、複雑に絡む罪悪感がちくりと己を責めた。
「…ああ、また来るよ」
サチの頭を軽く撫で、なつの方へと視線を向ける。軽く頷いたなつに松原も同じように返し、帰路へと付いた。
足早に狭く入り組んだ町屋を抜けて、大通りに出る。人の行き交う流れに混じり、『小野』という仮初の姿から『新撰組の松原』へと戻っていく。
しかし、今日は何だかぼんやりとしたままだった。脳内は先ほどまでのぬるま湯のような時間を反芻し、その延長で甘い妄想に浸っていた。
(まるで…家族のようだ)
なつを妻に迎え、サチを本当の娘にすることができれば…こうして新撰組に通うようになるのかもしれない。彼女たちは「さようなら」ではなく「行ってらっしゃい」と自分を見送ってくれるのだろう。まるで妻を娶り、別宅を持った原田のように。
組長以上には別宅を持つことが認められている。松原もそういう立場にあり、決して不可能なことではないのだろう。
(本当のことを…話せば、もしかしたら…)
自分が小野ではなく松原であること。なつの前夫である男を追い詰めた新撰組の者であること。
「いや…駄目だ…」
松原はそう呟いて、首を横に振った。
急に冷や水を浴びせられたかのように、背筋が冷たくなった。
いくら故意に男を殺したわけではないと言っても、なつが信じてくれるかどうかはわからない。彼女のなかで夫への愛情よりも自分への親愛が勝ったかどうかなんて確信はない。
何よりもいま、なつやサチにこっ酷く拒まれる勇気は、情けないことに松原にはない。
それよりもこの怠惰で偽りだらけながらも、生ぬるく甘い関係を続けていたい。癒されていたい。そんなふうに自分を甘やかしていた。
その矢先のことだった。

「おかあちゃん、これ」
松原が去った部屋のなかで、娘のサチは松原の小銭入れを見つけた。
「あら…小野様が忘れられたのね」
「うち、行ってくる!」
草履を履いて家を飛び出していこうとするサチ。なつは迷ったものの
「暗くなる前に戻っておいで。小野様に会えなくてもやで?」
と、声を掛けた「うん!」と元気よく答えたサチを見送った。
サチはすぐに小野こと、松原を見つけられるだろうと思っていたが、実際には松原自身が周囲を気にして足早に彼女たちの家から離れていたために、サチの脚ではすぐには追い付くことはできなかった。
「どこ行ってしもうたんやろ…」
サチはきょろきょろと辺りを見渡すが、人通りの多い大通りではすぐには見つけることはできない。適当に走り出し、松原の姿を探した。

その頃、松原は偶然仏光寺通り辺りで総司と出くわした。
「松原さん、今日もお出かけですか?」
総司にとっては何の気もない質問だったのだろうが、なつとサチの元から戻ってきた松原としてはドキリとさせられた。
「は、はあ…まあ、ちょっと…」
良い返答や誤魔化しが見つけられず頭を掻き、言葉を濁すしかない。「沖田さんは?」と話を逸らすのが精いっぱいだったが、総司は特に察した様子はない。
「今日は山南さんの月命日だったんですよ。副長と一緒だったんですけど、なんだかまた最近忙しくなったみたいで…光縁寺からとんぼ返りで屯所に戻ってしまったんです。だから私は一人で墓掃除をしていたんですよ」
「…そ、そうですか…ご苦労様です」
総司の言葉によって、松原の心がまたちくりと責められたような気がした。
今日が山南総長の月命日だということをすっかり忘れ、自分は姿を隠しながら女と逢瀬を重ねていた。そんな自分の姿を天から山南はどんな目で見ていたのか。
(そう思うと…顔向けができないな…)
松原は視線を落としたが、総司は気が付かず
「一緒に屯所に戻りましょうか。今日は松原さんの組が夜番ですよね」
と誘い、二人は並んで歩き出した。
その後は、柔術の稽古の話や原田の妻であるまさがやはり子を身ごもったらしいという他愛ない話を交わした。主に総司が一方的に話しかけ、松原が生返事を繰り返していた。会話らしい会話が成立していないことに、さすがに総司も気が付いた。
「元気ないですね?」
西本願寺の大きな寺門が見えるほど近くになる頃、総司が松原の顔を覗き込むようにしたが、松原は慌てて否定した。
「そ!そんなことはありませんが…!」
「嘘ですね。最近、上の空のことが多いじゃないですか。何か悩みでも?」
「い…いえ、ここの所暑い日が続いているので…そのせいじゃないでしょうか…!」
我ながら苦しい言い訳だと思ったものの、総司は「うーん」と腕を組む。
「確かにこの暑さで寝込んでいる者は多いですけど、松原さんのように柔術で鍛えて、体格も立派な方は病なんて寄せ付け無さそうですけどね」
「そんなことはありませんよ、風邪をひくときは風邪をひきます」
「そうかなあ…」
首を傾げて考え込む総司は子供っぽい。一番隊組長として剣を振るうのとは全く別の姿だ。
(サチと仲良くなれそうだ)
松原の緊張が少し解れた、その時だった。
「小野のおじちゃん!」
最初はサチのことを考えたせいだと思った。総司の子供っぽい姿が彼女と重なったせいだと。しかし
「おじちゃん!」
ともう一度呼ばれたときには身体が固まっていた。
(サチの声だ…!)
間違えようもない、あの幼いサチの声だ。しかし振り返って答えてやるわけにはいかない。
「松原さん?」
松原は一気に青ざめ、冷や汗をかいて硬直した。鈍感な総司でさえもその変化には気づかざるを得ない。
「どうしたんですか?」
「おじちゃん!小野のおじちゃん!」
幸いなことにサチの声はまだ遠い。総司もまさか松原が「小野のおじちゃん」と呼ばれていることを知る由もない。このまま立ち去れば、総司に状況を悟られることもなく、サチも勘違いだったのだと理解するだろう。
(まだ誤魔化せる…!)
あの小さな足音がこちらに迫る前に逃げ出せばいい。
「沖田さん。やはり体調が優れないようです。屯所で休みます」
「え?ああ、そうですね。医者でも…」
「いえ、結構です。お先に!」
総司の前であれ程つっかえていた言葉が、さらさらと流れていった。松原はその場から逃げるように、総司からもサチからも離れて屯所の中に駆け込んだ。
(何で、サチが…!)
「どうかしました?」
門番の隊士が心配して声をかけたが、やはりそこからも松原は逃げた。
「松原組長?」
「なんでもない!」
怒鳴り声にも似た声を上げたので、門番は怯んだようだ。松原は余裕のない自分の対応を申し訳なく思いつつも、その場を去ったのだった。

一方、取り残された総司は首を傾げた。
(どうしたんだろう…)
松原は顔を真っ青にしていて、総司はそんな彼の表情を見るのは初めてだった。柔術を究め、見た目にも屈強な彼が何かにおびえているように見えた。
するとそこに、子供…女の子の姿が目に入る。
「小野のおじちゃーん!」
名前を呼びながら総司の傍を走り過ぎ、西本願寺に駆け込もうとする。しかし、そこには門番がいて
「こら!勝手に入るな!」
「子供はあっちに行っていけ!」
と追い払われる。女の子は困惑した表情で「せやけど!」と食い下がるが、門番たちはもちろん受け入れることはない。
「小野のおじちゃん!おじちゃーん!」
女の子は屯所の中にいる誰かを呼んでいるようだ。幼いましてや女の子なら新撰組の隊士たちの面構えを見れば怯みそうなものだが、怯まない女の子と門番の押し問答が続く。
「お嬢さん」
総司は間に入り、小さな肩に触れた。子供の扱いには慣れている。
「ここに何の御用かな?」
「うち、小野のおじちゃんに忘れ物、持ってきたん!」
「忘れ物?」
「ん!」
女の子は手にしていた小銭入れを総司に突きだす。しかし、その小銭入れに見覚えもなく、小野という隊士にも覚えがない。
「人違いじゃないかな?」
「そんなことない!いま、ここに入って行った!」
総司の問いかけに、女の子は首を横に振り西本願寺の中を指さした。門番にも食って掛かった様子を見る限りでは、決して己の意思を譲らない性格だろう。
「…わかった、じゃあこれは責任を持って『小野のおじちゃん』に渡しておくからね。だから早くおかえり」
総司は女の子を宥め、小銭入れを受け取る。彼女は素直に渡してくれたものの、その真ん丸な目を見開いて首を傾げた。
「しん…?」
女の子の視線の先には『新撰組屯所』と書かれた看板が掲げられている。彼女は一体ここがどこなのかわかっていないようだ。
「…ここは『鬼の住処』だよ」
「鬼?」
「うん、だから早くおかえり」
「……」
女の子はしばらく立ち尽くしていたものの、突然、背を向けてきた道を戻っていく。
夕暮れが夜に変わろうとしていた。あの子は自分の家に戻れるだろうか…総司は小銭入れを懐に仕舞いつつ、そんなことを思った。






382


少女から預かった小銭入れを懐に抱えたままの総司は、その足で土方の元へ向かった。
「土方さん、入りますよ」
なかから返事はない。それはいつものことで、総司は遠慮なく障子を開けた。するとやはり険しい表情で手紙に目を通す土方がいた。
「戻りました」
「そうか」
淡々とした返答には慣れている。総司は膝を折り、土方の傍に座った。
土方は額にじんわりと汗を掻いている。
「団扇でも煽ぎましょうか?」
「ああ…頼む」
普段は簡単に人に頼ったりしない土方だが、さすがに連日の暑さで疲れているのだろう。総司は近くにあった扇を手に取り、ゆっくりと動かした。
「近藤先生は休息所ですか?」
「おそらくそうだろうな…深雪とは上手くやっているようだ。こんなクソ暑いときに連日通っていやがる…」
「はは、暑さは関係ないでしょう?」
土方の八つ当たりにも似た愚痴に、総司は苦笑した。しかし、土方はブツブツと続けた。
「夏になると使えない隊士が増えて面倒だ。どいつもこいつも夏の暑さにやられて寝込んでやがる。隊士の割り振りを考えるこっちの身にもなれっていうんだ…」
「その点については私は何にも言えないですけど」
一年前、土方の愚痴の通りに倒れてしまい、池田屋で迷惑をかけてしまった総司としてはぐうの音も出ない。
団扇の微かな風に、土方の髪が揺れる。時折覗く彼の眉間には相変わらずの皴が刻まれている。
「…土方さんは倒れたりしないでくださいよ。土方さんが寝込んじゃったら、誰が新撰組を回すんです?」
「意地でも倒れるかよ」
強気に言い返す土方は、どこか子供っぽく見えた。すると土方は読んでいた手紙を折りたたみ、文机に重ねた。整理整頓されているとは言い難い文机の上は、土方の中では判別がつくようになっているのだろう。
「そういえば、左之助のところの…」
「あ、おまささんですか?やはり身籠られたそうですよ」
総司が原田から嬉しい報告を聞いたのは今日の昼間のことだった。産婆から「冬頃に生まれる」と聞いたらしい原田は既に屯所中の隊士に触れ回っていたのだ。もちろん土方の元にも報告があったのだろう。
「よっぽど嬉しいんでしょう。原田さんの血を引く子供が生れて、家族ができるんですもんね。…何だか新撰組にいると、そういう『普通のこと』を忘れそうになりますけど…」
「羨ましいか?」
「え?」
嬉しい報告だと言うのに、土方が存外真剣な表情で総司に訊ねた。
「…単純に、羨ましいとは言い難いですけど。守るものが増えて、自分の勝手では死ねないでしょうし家を守るのも大変でしょう」
「そういうことじゃねえ」
「じゃあ、どういうことなんです?」
「……」
総司が鸚鵡返しに訊ねると、土方にしては珍しく視線を外した。何か言い淀むようにしている。
「土方さん?」
「…だから、お前は…子供が好きだろう?」
「好きですけど」
「いまのままだと、お前の子供は生まれてはこない。俺たちの関係は、そう言う関係だ」
「……」
男同士なのだから、そんなことは当たり前だ。総司には土方の言葉が冗談か何かかとしか思えなかったが、やはり彼の表情は真剣そのものだ。
(前にも…似たことを言っていたっけ?)
『お前だって一応、沖田家の嫡男だ』
『だから…いずれお前だって嫁を貰うことになるだろう』
『家の為には跡継ぎは必要だろう。俺とお前とじゃあどうやっても無理だ』
まるで総司が嫁を貰うべきだと促すような発言だった。
「土方さんは、私が嫁を貰った方が良いと思っているんですか?」
「…前に近藤さんが言ってたんだ。俺との関係と…お前が嫁を貰うことは別の話だと。お前もいずれ嫁を貰うべきだと」
「そうでしょうか?」
「……」
総司の問いかけに、土方の答えは無い。彼の中にも正解が見いだせないのだろう。
そして総司自身にもまた実感のないことだった。
「…土方さん、私は…」
手にしていた団扇を置き、身を乗り出そうとしたところでポロリと懐から小銭入れが落ちた。少女から預かったものだ。
「あ」
「…それ、お前のか?」
土方が見覚えのない小銭入れに目敏く気が付く。総司は「そうだった」と思い出した。
「さっき、この小銭入れを持った女の子が屯所に駆け込もうとしたんですよ。小野…とかいう名前を呼びながら。でも屯所に入れるわけにはいかないから、私が預かったんです。土方さん、わかります?」
「…貸してみろ」
土方の剣幕が急に険しくなった。総司は小銭入れを渡すと、さらにその目は鋭くなる。
「土方さん?」
「…小野、と言ったのか?」
「ええ…小野のおじちゃん、と」
「…」
土方は受け取った小銭入れをぎゅっと握りつぶすように持つ。そして膝を立てて立ち上がると、勢いよく部屋を出た。
「土方さん?!」
早足で駆けて行く土方。総司は困惑しつつそのあとを追ったのだった。


陽が暮れ、夜になる。いつもならあっという間に過ぎる時間が、松原にとってはとても遅いものに感じた。
(大丈夫だ…大丈夫のはずだ…)
何度も己に言い聞かせるものの、額から流れる冷や汗は止まりそうもない。夜番の準備を進める四番隊の組下たちには大量に流れる汗を「暑いせいだ」と誤魔化したが、その指先は震えたままだ。
『小野のおじちゃん!』
そう呼んだ声はサチに違いない。何故彼女がここまで追いかけてきたのかわからない。しかし、自分の正体に気が付いたのではないか、そうでなくとも新撰組の屯所に入っていく自分を見たのではないか、そしてそれを母であるなつに伝えるのではないか…それを聞いた彼女はどう思うだろう、何に気が付くのだろう…悪い想像ばかりが進んだ。
(嫌われたくはない…)
彼女たちと家族になれるかもしれない。そんな甘い妄想は、所詮松原の独りよがりの夢でしかなかったのだと、まざまざと見せつけられたような気がした。
(俺は…どうしたいんだ…)
彼女たちのことを愛すれば愛するほど、本当のことを言えないでいる自分が憎らしくて、情けない。けれどもう一方で、このままでいいのではないかと今の状況に浸っていたい自分もいる。
境内で頭を抱えていると、組下の隊士がやってきた。
「松原組長、そろそろ」
「…あ、ああ。そうだな…」
頷きつつも、松原の気持ちは揺らぐ。屯所の外でサチが待っているのではないか…そう思うと、立ち上がるのもなかなか億劫だった。
「…行くか」
松原がようやく決心を固める。するとほぼ同時に、バタバタと激しい足音が聞こえてきた。
「土方副長?」
組下が先に気が付き、松原もそちらに視線を向けた。土方は『鬼副長』と陰で呼ばれているが、その通りの表情をしている。
(一体、どうしたのだろう…)
土方が目前に迫るまで、松原はまさかその鬼の能面のような表情が自分に向けられているものだとは思わなかった。
「土方副長…?」
松原の目の前で、土方が立ち止まる。そして土方はその鬼の形相のまま、思いっきりの力で松原を蹴り飛ばした。
「…っ?!」
松原はすぐそばの障子まで転がった。無防備だった分、体勢が崩れてしまい障子を押し倒してしまう。
「松原組長ッ!」
「土方さん?!」
激しい音とともに、組下の大声と総司の驚く声が聞こえた。松原は蹴り飛ばされた痛みよりも、驚きと困惑が勝り、腰を抜かしたまま土方を見上げた。
そうしていると騒ぎを聞きつけた隊士たちが集まってくる。
「土方…副長…」
「…これは、お前のものだろう」
鋭利な眼差しで、土方は手にしていた小銭入れを松原に投げつける。それは松原の持ち物に違いない。
「な、何故…これを…」
「そんなことは自分で考えろ」
冷たい物言いに、松原は背筋が凍った。
(もしや…)
サチが屯所にやってきた理由。この小銭入れを届けにやってきたのか。
(だとしたら…!)
土方がこれほどまでに怒る理由。
人目も憚らず、松原を責める理由。
(土方副長はすべて…すべてご存じなのか…!)
松原は悟り、愕然と項垂れた。
「…松原」
依然として冷たい眼差しと、重たい声で土方は続けた。
「お前は…何者だ?」
「……ぁ…」
その答えを、松原は口にできなかった。
あの簪を届けてからすべてが始まった。死へと追いやった新撰組であることを隠し、なつに惚れ、サチを娘のように感じていた。そんな自分勝手な妄想に浸った。
それがいま、冷や水を浴びせられたかのように、夢から覚めた。
なつやサチのことを考えるとき…自分の本当の正体を忘れていた。命を賭けたはずの使命を…思い出すことはなかった。
(俺は…新撰組四番組組長、松原忠司だ…)
その事実は揺らぎようもないのに。忘れることはないのに。
しかし、土方の問いかけにその名前を口にすることはできなかった。その資格がない気がしたから。
「…自分の始末は自分でつけろ」
青ざめる松原に、土方は淡々と短く語って背を向けて、あっさりと去っていく。
「ちょ、ちょっと土方さん?」
蹴飛ばされた松原を気遣いつつも、総司は土方を追いかけて去っていく。
残された松原と集まっていた隊士達の元に不自然な沈黙が流れた。
一体何があったのか。
松原は何をやらかしたのか。
そんな好奇な視線に晒されながら、松原は「ふっ」と息を吐き出した。
(今の俺はきっと…何者でもないのだろう…)
偽名を名乗り女に溺れ、使命を忘れここにいる。
なんて情けない姿だ。そんな自分の始末の付け方なんて一つしかないじゃないか。
「松原組長…?」
松原は愛用の脇差を抜いた。そして上半身を晒し、脇差を逆に構える。
「松原組長!」
組下が叫ぶが間に合わない。
松原は己の腹に、その切っ先を突き刺した。
その瞬間、
(山南総長…)
同じように切腹を選んだ、今は亡き穏やかなあの人の表情が浮かんだ。




383


その日の夜。屯所の近くに構えた深雪との別宅から急いで戻ってきた近藤は
「一体、どういうことなんだ…?」
と困惑した表情を浮かべていた。土方と伊東、場に居合わせた総司と事情を知っている山崎が一堂にそろった。
「山崎君、松原組長の具合はどうなんです?」
伊東は山崎に視線を向けた。南部と共に医務方の一人として呼ばれた山崎は松原の手当てにも付き添ったのだ。
「浅手やと思います。松原組長の組下が咄嗟に刀を取り上げたようで、出血はありましたが傷が塞がれば問題ないと南部先生もおっしゃっております…じきに目を覚ますでしょう」
「そうか…それは良かった」
「何よりです」
安堵の表情を浮かべる近藤と伊東。しかし傍で憮然と腕を組む土方の表情は変わらない。見かねて総司が「あの」と切り出した。
「土方さん…それから、山崎さんも。松原さんが切腹をしようとした理由を…知っているんですよね?」
「…」
総司の問いかけに、土方はやはり表情を変えず、山崎は少し俯いた。しかし二人とも何も答えようとはしない。
すると少し苛立ったように「歳」と近藤が厳しい表情を浮かべる。
「松原君は隊士の中でも八月十八日の政変以前からの長年の同志だ。真面目な性格で親切者…四番隊組長や柔術の指南役だってきちんと仕事を果たしている。…そんな彼が何故こんなことになったのか…ちゃんと説明してくれ」
近藤の真摯な眼差しに、土方は腕を組みなおした。そもそも隠すつもりがなかったからこそ、近藤と伊東、そして総司を呼んだのだ。
土方は意を決するように、軽く息を吐く。
「……わかった。山崎」
「はい」
土方に促された山崎は、ようやくその重たい口を開いた。
「松原組長は…この夏の間、自身のことを『小野』と偽り未亡人との密会を重ねていたのです。未亡人の名はなつ。娘が一人おります」
「…ほう…」
伊東が目を丸くしていた。
山崎は続けた。
「それ自体を咎めるつもりはありまへん。松原組長は隊務を疎かにしたわけではない…ただ、相手が…悪かったんやと思います」
「相手?」
「なつという女は松原が殺した男の女だったんだ」
山崎に変わり、土方が率直に語った言葉に、近藤は「何だって!」と声を上げた。伊東は口元に扇を当てて、あからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
総司は戸惑っていた。
「その…なつという人は、松原さんの正体を知らない…ってことですか?」
「はい。松原組長のことは『小野』という流れ者の浪人やと思っているようで」
「じゃあ偶然にも好きになった女が、自分が殺した男の家族だった…ということか…」
近藤は松原となつとの関係に同情めいた言葉をこぼす。しかし、それを土方が「どうかな」と遮った。
「本当のことは誰にもわからねえ。松原が女に横恋慕して、奪うためにわざと男を死に追いやった…ということだって考えられる」
「何を言うんだ、歳!松原君はそんな男じゃないだろう!」
冷静で非情な言葉を吐く土方に、近藤が怒鳴る。しかし、土方はその表情を変えずに聞き流した。
「事実が何であるかは関係ない。松原の正体はいずれ露見するだろう。新撰組四番隊組長…どうやったって顔を知られないでいることの方が難しい」
「なるほど、土方副長が気にしているのは…人の噂、ですね?」
伊東が扇をぱちんと鳴らして閉じた。土方もその通りだと言わんばかりに軽く頷いた。二人が同調しているのは珍しく、困惑しているのは近藤と総司だけだ。
「噂…?」
「本当の真実がどうであれ、周りの人からどう見えるか…ということですよ。旦那である男を新撰組が殺し、その女を奪い取った…そんな噂が広まれば、新撰組の立場がありません。土方副長はそれを懸念していらっしゃるのです」
「…」
伊東はさらりと説明をした。池田屋以前からの同志とはいっても、伊東からすれば格下の組長でしかないため、嫌悪はするものの近藤のように感情的になることもないのだろう。
誰よりも心を痛め、沈痛な面持ちで顔を顰めたのは近藤だった。
「…それで、松原君は…責任を感じて、切腹を図ったのか…?」
「いや、違う」
やはり松原への同情を募らせる近藤に、土方はきっぱり否定した。
「俺が、唆した」
「歳…?」
土方の返答に総司は慌てた。
「土方さん、何を言うんです。あれは…」
「お前は黙ってろ、総司」
しかし土方が強く制し鋭く睨んだので、総司はぐっと唇を噛む。
「土方副長、どういうことですか」
「あいつを蹴り飛ばし『自分で自分の始末をしろ』…そう言ったんだ」
「な…っ!何と言うことを…!」
近藤が青ざめ叫び、伊東は目を見開いた。場の空気が一気に土方一人を責めはじめる。傍で見ているだけしかできない総司は歯痒い気持ちでいっぱいになった。
(だってそれじゃあ…また土方さんが悪者になるだけじゃないか…)
この話の流れでは、やはり土方が松原を責めて切腹に追い込んだように聞こえてしまう。しかし、その場に居た総司は土方が松原に伝えたかった意図は違うのだと知っている。
(土方さんはあんなやり方をしない)
大勢の目の前で切腹を言いつけて去る…いくら『鬼副長』と呼ばれていても、長年の同志である松原に残酷で乱暴な結末を言い渡したりはしない。
ただ、土方は松原に突きつけただけだ。
『お前のやっていることは何なのか』と。
そしてきっと
(戻ってきてほしいって…思ったはずだ)
切腹しろと言いたかったわけではない。ただ改心してほしかっただけだったのに。
しかし、その場に居合わせなかった近藤がそんなことを理解できるわけはない。
「歳!副長であるお前がそんなことを言えば松原君が思いつめるのは当たり前じゃないかっ!お前の言葉の重さは誰もがわかっていることなんだぞ!」
近藤は激昂した。温厚な彼にしては珍しく、土方に掴みかかり襟元を掴んだ。
「近藤先生!」
「責めたきゃ責めろよ。どう考えても、松原は士道不覚悟…結果は同じことになるんだ」
「お前!それを本気で言っているのか?!」
「ああ」
「土方さんっ!」
一方的な近藤の怒りを、土方が助長させる。その二人の間で総司は何とか二人を止めようとしたが、
「やめましょう、近藤局長、土方副長」
というまるで小川のせせらぎの様な冷静な声が聞こえた。伊東参謀だ。
「松原組長の回復を待って話を聞きましょう。彼が本当に『士道不覚悟』なのかどうか…それは彼の話を聞いてからです」


伊東が場を治めて、松原が回復するまで待つという結論に至り、お開きになった。山崎は南部の元へ戻り、伊東は文学師範としての講義の時間だと言って席を立った。近藤はまだ土方に対する苛立ちが収まらないようで、ドンドンと苛立った足音を立てつつ去っていく。
残された土方と総司はしばらく沈黙した。
「…土方さん、あんないい方をしなくてもいいじゃないですか…ああいう言い方をすれば近藤先生が怒るのは当たり前なのに…」
「……」
総司が声をかけても、土方はいまだに不機嫌そうだ。
「土方さんだって…松原さんを切腹にさせるつもりはないんでしょう?」
「何でそう思うんだ?」
「…長年の仲間を切り捨てる痛さを、十分に知ったじゃないですか」
「…」
土方のその沈黙が答えだった。
脱走言う紛れもない隊規違反を犯した山南を切腹にしたあの痛みは、まだ疼きつづけている。山南とは比べ物にならないとはいえ、松原も長い付き合いであり信用しているからこそ試衛館食客に並ぶ組長に選んだはずだ。そんな松原をいくらなんでもあっさり切り捨てる様な土方ではない。
総司は土方の前に腰を降ろした。
「…歳三さん」
「もう何も言うな」
土方が総司の肩に両腕を回して、抱きしめた。総司はそうされるのだと分かっていた。
皆はきっと冷たいのだと思っている。副長という人間は血の通っていない鬼のような人間だと。
(でも…本当はこんなにも熱い…)
紛れもなく一人の人間であり、強いときがあれば弱いときだってある。
本当はいま、彼だって揺れている。松原があんなことになるだなんて、思ってもいなかったのだろう。
「歳三さん…」
総司もまた彼の広い背中に手を回した。
きっと彼は何も言わない。すべてが自分のせいだと飲み込んで、また隊士達から恐れられてしまうのだろう。『鬼副長』との揶揄をあっさり受け入れてしまうのだろう。
彼が選んだ道は、そういう道なのだ。
そして同じ道を、彼は総司には歩ませてはくれない。
『君と同じ道ではなくても、君のすぐ隣の道を歩いていきたいのだと願う人がいる。だから君はたまにはその鉄のような仮面の脱ぎ捨てて、彼に甘えたっていいんだ。私は…君の幸せを願っている』
山南が言い残した言葉が、一言一句違わず胸の中にある。そしてその言葉のすべてが、当たっている。
「…すごいなあ…」
「何だよ」
「いえ…何でもありません」
山南は何を見ていたのだろう。この先の未来の、何を見つめていたのだろう。
(傍の道を…)
歩きつづけていきたい。同じでなくともいいから、彼の痛みをわかっていたい。
総司はそう願っていた。




384


短い夢を見ていた。
内容は毎回違う。過去に起こった出来事であったり、思い出であったり、そうかと思えば全く身に覚えのない夢を見ることもあった。そんな夢を繰り返すうちに、ついにはこれが夢だと分かって俯瞰していた。
しかし、最後は不思議と必ず同じ結末を突きつけられた。
お前は死ぬのだ…と。

松原が目を覚ましたのは、切腹を図ってから三日後のことだった。
最初は切り裂かれるような痛みに『俺は斬られたのか?』と錯覚したが、だんだんと記憶を取り戻すうちに思い出した。
(切腹できなかったのか…俺は…)
土方に責められ、何も言葉を返すことができなかったあの時。もう死ぬしかないのだと諦めたのに、死ぬことさえできずに生き延びてしまった。
「松原組長、お水でも飲まれますか?」
「…あ、あぁ…」
世話役を引き受けてくれているのは組下の隊士達だった。最初は松原が目を覚ましたことに喜んでいた彼らだが、次第にその表情は曇っていった。
彼らは何故松原が切腹を図ったのか知らない。だが、松原が何か重大な違反を犯して切腹まで追い詰められたのだということはわかるだろう。
(…死んだ方が楽だったのに…)
原田が自慢げに語る切腹話とは違う。己の勝手で切腹を図ったというのに死に損ねるなんて…なんというお笑い草だ。
松原はぼんやりと天上を見上げた。虚ろな瞳には何も映らない。時だけが過ぎていく。
そして呟いた。
「…もう…どうでも…いいか」
「組長?何かおっしゃいましたか?」
組下が聞き返してきたが、松原は答えなかった。
何だか、疲れ果てていた。


一方。
「あんまり気が進まないなあ…」
総司はため息をつきつつ、斉藤と共に大通りを歩いていた。今日は偶然二人とも非番で、しかし非番だったからこそ頼まれごとをされてしまったのだ。
気が進まないのは斉藤も同じようで
「あまり口にするな。こっちまで気が滅入る」
と声を落とした。
二人は松原が足しげく通っていた女…なつのもとへ向かっていた。土方から多少の手切れ金を預かっていて、松原を縁を切るように説得するためだ。
「こういうのは私の役回りじゃないと思うんですけど」
「そんなことは土方副長もわかっているだろう。だが、松原の一件を知っているのは幹部のみで、今日の非番は不運なことに一番隊と三番隊だった…理由はそれだけだろう」
「そうかなあ…」
「考えても仕方ない」
淡々と答える斉藤はどこか諦めているようだ。それもそうだろう、もう引き受けて女の元へ向かっているのだ。
「…それにしても、その…おなつさん、という人。納得してくれますかね…?」
突然、他人が家にやってきて『別れてほしい』と言われれば納得できなさそうなものだ。しかし、斉藤は「納得するだろう」と頷いた。
「その女は松原の正体を知らなかった。いくら愛した男でも、旦那を殺した新撰組と知れば気持ちも冷めるはずだ」
「そうですかねえ…」
「むしろ、悪い方向に行かなければ良いが…」
「悪い方向?」
総司の想像力では斉藤の示唆する『悪い方向』が分からなかったが、彼は「なんでもない」とそれ以上を口にはしなかった。
そして二人は大通りから細い道に入る。整然と整った都らしい町屋の出で立ちが、だんだんと貧しく修繕も覚束ない町屋に変わっていく。
「…ここか」
なつの居所を知っている山崎からの受け取った地図を頼りにたどり着いたのは、狭くみすぼらしいボロ屋が並ぶ一角だった。閉鎖的な雰囲気で、突然やってきた余所者である総司と斉藤に冷たい視線を投げかけてくる。
「…行くぞ」
「は、はい…」
斉藤は足早に目的地へと向かっていくので、総司もそのあとを追った。手前から三番目、隙間だらけの扉を見て斉藤は「ここか」と言って遠慮なく叩く。
すると、中から人の気配がした。
「どちらさまで…?」
扉を開いたのは若い女だった。褪せた着物に身を包んでいるが、白い肌とくっきりとした目鼻立ちが印象的で、住まいに似つかわしくない美人だった。
「失礼ですが…おなつさん、ですか?」
「へえ…」
総司の問いかけに女は頼りなく頷いた。すると女の後ろから「おかあちゃん!」と呼んで子供が顔を出した。
「小野のおじちゃん、来はったん?!」
満面の笑顔で少女が母親の背中家から顔を出す。しかしすぐに総司を指さした。
「鬼の兄ちゃんや!」
「お、鬼…って…」
指さされたのは総司だったが、総司もまた「あ」と気が付いた。ついこの間、屯所に松原の小銭入れを持ってきた少女だ。その時に『ここは鬼の住処だ』と教えたのを覚えていたのだろう。
(変なあだ名をつけられてしまったな…)
と頭を掻くと、なつはふっとその表情を落とした。
「せやったら…新撰組の方どすか?」
「え?」
「…知っているのか?」
総司と斉藤は驚いたが、なつは含みを込めた笑みで曖昧に頷く。そしてその視線を娘…サチへと向けた。
「サチ、陽が暮れるまで遊んでおいで」
「えぇ?おかあちゃん、いつもうちを追い出す…」
「ええから。お友達と甘いもんでも食べておいで」
なつは懐の財布から五文ほどをサチに渡した。サチは不承不承という表情だったが、母親に背中を押されて駆け出して出て行った。
サチの姿を見送ると
「…こんな軒先でするようなお話やあらへん。どうぞ、中へ…」
なつは二人を招き入れた。

部屋の中は外観とは少し雰囲気が違っていた。家の廃れた様子はそのままだが、部屋に似つかわしくない派手な着物が掛かり、簪、赤い口紅等が沢山置かれていた。
(松原さんが買い与えたもの…かな)
花街にもほとんど通わない純粋な松原が、惚れた相手に尽くして贈った物なのだろう。そう思うと二人を別れさせに来たという立場故に、胸が痛む。
なつは総司と斉藤を家に上げ、茶を差し出した。
「小野様…松原様、最近とんとお姿を見かけまへんえ…」
「…その前に、お前は松原の正体を知っていたのか?」
斉藤は遠慮なく話を進めたが、なつは穏やかに笑った。
「あの人は気づいてへんと思うてるやろうけど…新撰組の組長さんの顔くらい、この界隈の人間なら知ってます。騙されてるのは、サチくらいや。今でもあの子、待ってるみたい」
「あなたの…ご主人を死に追いやった、ということも」
「へえ…旦那様のお仲間が教えてくれはりました」
「仲間と言うのは?」
「思想を同じくする同志…旦那様からはそうとしか聞いておりまへん」
総司の問いかけにも、なつは淡々と答えた。取り乱すことも、驚くこともなく、なつは表情を崩さなかった。
「…それで、今日は何の御用やろか。あの人の正体の告げ口?それとも、うちと別れさせるために?」
「その両方だ」
「ちょ…斉藤さん」
斉藤の憮然とした態度に、総司は思わず引き留めたが、しかし彼は構わずに懐から預かってきた袱紗…『手切れ金』をなつに投げた。なかには二十両ほどが入っていて、貧しい暮らしをしている二人には十分すぎる額だった。
「…これで、別れろ。もう二度と松原の前に姿を現すな」
斉藤はまるで敵に相対したかのように冷たい物言いで、なつを睨み付けた。一方で、なつの方はその視線に怯むこともなくその袱紗を手にした。そして重さを確かめるように持ち上げ、
「…これっぽちで、別れろって…?」
となつは逆に斉藤に微笑みかける。先ほどまでの穏やかな表情が消え失せた冷笑に総司はぞくり、と背筋が冷えた。
「あの人…うちが全部知っているのも気づかへんで、何でも買ってくれはります。そこの赤い着物も、高価な簪も…うちが『欲しい』ゆうたら、何でも。ふふ…あんな赤い着物…似合わへんのにね」
なつはまるで小馬鹿にするように語り続けた。
「…あの阿呆で、お人よしな男…うちに惚れてますえ。うちが言うたら何でも買うてくれはる。食うにも困らへん…そんな男みすみす別れるわけ、ないやろ」
最初は松原の過ちだったのかもしれない。なつに近づくべきではなかった。けれど、生来真面目な松原を手玉に取り騙されたふりをして、松原の想いを踏みにじる…そんななつを、総司はいつの間にか睨み付けていた。
「松原さんは…切腹したんですよ?」
「…切腹?」
「幸いにも一命は取り留めましたが…あなたとの関係を責められ、切腹までしたんです。その松原さんに…何か思うことはないのですか?」
松原の人の良さは少し関われば誰にでもわかる。それ故に『壬生の親切者』と呼ばれたりもしたのだ。そんな松原が惚れた相手なのだから、人としての情が少しでもあるはずだ。
総司は厳しく詰め寄るが、しかしなつはその口元に微笑みを浮かべた。
「何や、死なへんかったん」
「な…っ」
総司はカッとなり、身を乗り出した。しかし隣にいた斉藤に
「止めておけ」
と素早く止められる。斉藤の眉間にも嫌悪故か深い皺か刻まれていた。
「…男はやっぱり、身勝手や。死んだ方は満足かもしれへんけど、遺された者のことなんて何にも頭にあらへん。責任を取って切腹?そんなことうちが頼んだわけやない、関係ない」
なつは手にしていた袱紗を、逆に投げつけた。
「これは…うちの復讐や」
そう告げた彼女は、とても冷たい目をしていた。







385


家を出た二人は、屯所への帰路を歩いた。なつに突き返された手切れ金の入った袱紗を、総司は複雑な思いで握りしめていた。
「…あの人の考えていることが、よくわかりません」
総司は先ほどまでのやり取りを思い返しつつ、溜息混じりに呟いた。
松原の惚れた人なのだから…とてっきり穏やかで優しい女を想像していたのだが、二人が見た彼女は全くその逆だった。松原のことを金蔓としてしか見ておらず、旦那を殺した仇だというのに今後も松原との関係を断つつもりはない。松原を恣に扱うことが、復讐なのだと彼女は言い放った。
しかし斉藤は
「悪い予感が当たった」
と、吐き捨てた。
「悪い予感?」
「あのなつという女がどういう女だろうとどうでもいい。しかし、今後も松原との関係を続ける…という選択が一番拙い」
「拙いって?」
「松原にとって、自分自身が仇の新撰組隊士だから…という理由でしか、松原はあの女を諦められないだろう。女から拒ませて、別れ話を仕向けたほうが話は早かった。松原を説き伏せるのは難しいからな」
「そういうもんですかね?」
「……」
斉藤は疑問ばかり投げかける総司を、ついには冷たい目で見た。
「…本当に、こういうことには疎いらしいな」
「だって切腹までしかけて責任を取ろうとしたのだから、松原さんはあの人との関係を恥じたということでしょう?だったら、松原さんはもう既に彼女のことを諦めているんじゃないんですか?」
「逆だ」
はーっとわざとらしくため息をつき、斉藤はあきれた顔で総司を見る。総司は少しむっとして「どういう意味なんですか?」訊ねた。斉藤は少し間をおいて、答えた。
「諦めていないからこそ、その想いを捨てることができずに切腹を図った…とも考えられるだろう」
その重たい言葉に総司は思わず息を飲み込んだ。
『お前は何者だ?』
土方がそう問うた時、松原は言葉に詰まって何も答えることはできなかった。
総司はそれを彼が新撰組隊士としての自分の立場を顧みたうえでの後悔…と取ったが、斉藤は違う。答えられなかったのは、『新撰組隊士』である自分よりも、『なつを愛する』想いの方が上だったから。そして、そんな自分を自覚したからこそ松原は絶望して切腹を図ったのではないか。
「…考えすぎじゃないですか?」
斉藤の考えにそう返答しつつも、総司のなかでは嫌な予感がしていた。
隊内でも抜きんでるほどの親切者で女遊びにも興じないまっすぐな人間だからこそ、なつのことを諦められない。たとえ彼女の中に深い闇があろうとも…松原は突き進んでしまうのではないか。
(松原さんは…どうなってしまうのだろう)
彼はどちらを選ぶのだろう。
どっと押し寄せる不安に総司が戸惑っていると、斉藤はふっと緊張感を解いた。
「いま考えても意味はない。今後の松原の行動で…すべてがわかる」
すべては松原の気持ち次第であり周囲の考えは杞憂にしか過ぎない。彼なりの励ましに、総司もこれ以上考えることをやめた。
「…そうですね」
二人の間に流れていた空気がなんとなく和み、屯所へ向かう足取りを早めた。その後は軽い雑談を交わしながら歩き続ける。すると、人通りの多い道に出たところで小さな影が二人の正面から近付いてきた。
「あ…」
サチ、と呼ばれたなつの娘だ。なつに追い出されてしまい、いま家路についたところなのだろう。少女もまた総司と斉藤に気が付いた。
「…鬼の兄ちゃん」
サチは斉藤を見向きもせずに総司ばかりじっと見つめていた。斉藤は子供が不得意なので、子供ながらにその空気を察しているようだ。
総司は腰をかがめてサチの視線に合わせた。子供相手にはそうしたほうが警戒を解きやすいことは壬生の子供たちから学んでいた。
「突然お邪魔してごめんね。家に帰るのかな?」
「…お母ちゃんのこと、泣かしてへん?」
サチは明らかな敵意を向けて睨んでいた。総司のことを相変わらず『鬼の兄ちゃん』と呼ぶくらいなのだから、決して好かれてはいないのだろう。
「そんなことはしていないけど…まあ、怒らせちゃったかもしれない」
「…怒る?」
「大丈夫、君に怒ったりはしないよ」
「小野のおじちゃんは?」
サチは松原のことを親切な『小野のおじちゃん』としか思っていないのだとなつが言っていた。彼女は松原が家に来るのを待ちわびているらしい。もちろん、なつは松原が新撰組の隊士であるということをサチに教えるつもりはないのだろう。
「…しばらく来られないかもしれない」
まさか切腹を図ったとも言えず総司が曖昧に答えると、サチは表情を落とした。
「そう…またお母ちゃん、泣いてしまう」
「泣く?」
「前のお父ちゃん、おらんようになった時もずうと泣いてた」
「……」
少女が語る『前のお父ちゃん』は新撰組に追い詰められて自害を図った男のことだろう。実際にサチのとの血縁関係があるかはわからないが、少なくともサチにとっては『父親』だったようだ。
「せやけど、小野のおじちゃん来るようになってからお母ちゃん元気になった。いつもニコニコしてて…うちうれしかったん」
「…それは…」
「鬼のお兄ちゃん、小野のおじちゃんにまた遊びに来てっていうといて。うち待ってるから!」
「あ…っ」
サチはそういうと駆け出して走ってく。人ごみに紛れた小さな体はあっという間に見えなくなったが、総司は屈めていた腰を上げてサチが走っていった方向を見た。
娘のサチから見て、松原となつとの関係はとても良好なものだったようだ。
大人よりも子供の目を欺くのは難しい。素直な心は目に見たものだけを感じ取り、その本質を受け取る…総司はそのことをよく知っていた。だからこそ、なつが松原のことを『復讐』だと語ったあの言葉をそのまま受け入れるのは間違っているのではないかと思った。
(憎からず…おなつさんも松原さんのことを想っているのかもしれない…)
しかし、その想いは実ることはない。二人の間には大きな隔たりがあり、それを乗り越えるには互いに何かを捨てなければならない。
立場か、憎悪か、愛しさを。
「…行こう」
斉藤が総司を急かして歩き始めた。
『余計なことを考えるな』
彼は短い言葉にその意味を込めたのかもしれない。


その日の夜。
「歳、いいか?」
隣り合う局長の部屋から近藤の声がしたので土方は「ああ」と返答した。すると隔てる襖が開き、険しい表情を浮かべた近藤が顔を覗かせた。近藤とは松原の一件以来、会話を交わしていなかった。一度怒ると引きずる性格の近藤は納得できるまではその怒りを相手にぶつける頑固な性格だ。
(何か言いたいことがあるらしい)
長年の勘で土方は察した。近藤は部屋に入り、土方の正面で膝を折る。
「…詳しい経緯を教えてくれ」
「経緯?」
「松原君のことだ」
近藤は真摯な表情を土方に向ける。
「経緯…って言っても、この間、話しただろう?」
「最初から、最後まで。些細なことでも聞きたいんだ」
「どうしたんだよ、急に…」
てっきり喧嘩の続きを始めるのかと思いきや、近藤は表情を顰めた。
「…今まで…いや、これからも俺はお前を信頼している。局長として些細なことに囚われずにどんと構えていろ…というお前の考えもわかる。だが、俺はちゃんと知りたいんだ。松原君に何が起こって、どうしてこんな結果になってしまったのか」
「それは…」
「山南さんの時のようなことを、繰り返したくはない」
「……」
近藤はまるで刀を向けるときのような鋭い眼差しで土方を見た。いつも温厚で最前線に立つことのない『局長』という立場であるゆえに、そのような表情を見るのは土方でさえ久しぶりのことだった。
それだけいまの近藤は必死であり、そして山南の一件で後悔したのだろう。
(あの時…一番、何も知らなかったのは近藤さんだったな…)
近藤が山南が思い悩む理由を知ったのは脱走した後だった。そんな近藤だったのに、切腹を言いつける役目を背負わせてしまった。その矛盾が近藤の中にずっと在り続けていたのだろう。
そして同じような過ちを繰り返さない…そう誓ったのだろう。
「…わかったよ」
近藤に子細を話すつもりはなかったが、彼が知りたいということを教えない理由はない。それに昔から近藤に頼まれるとつい引き受けてしまうのだ。
土方は話し始めた。
偶然にも山崎が往診の途中になつのもとへ通う松原を見かけたこと。屯所になつの娘がやってきたこと。土方が松原に問いかけた言葉。そして、彼がなぜ切腹という選択をしたのか――。
「…そうか」
話を聞き終わるころには、近藤は腕を組みさらに眉間にしわを寄せて難しい顔を浮かべていた。
「松原君への処遇は…難しいな」
「ああ…」
「歳は彼を切腹にするつもりか?」
近藤が不安げに尋ねてきたので、土方は苦笑して答えた。
「周囲はそう思っているだろうと思ったが…近藤さんまでそう思ったのか?」
「お前は芝居上手だからな。でも、今ならわかるよ。お前は伊東参謀の前だからあんな風に振る舞ったんだろう?」
「…どうだかな」
土方らしいリアクションに近藤はようやくふっと息を抜いて笑った。
そして腕を組みなおした。
「松原君は平隊士へ降格だ」
「わかった」
近藤の結論と、土方の考えが一致していた。近藤は満足げに頷いた。
「心機一転、松原君にはまた這い上がってきてもらおう。彼にはそれができるさ」
「ああ…そうだな」
何をも疑わずに、良い方向へ考える近藤…その姿が土方には少し羨ましかった。
(これから…)
どうなってしまうのか。
それは土方にもわからなかった。



386


つい数日前まで茹だるような夏の厳しい陽気が続いていたというのに、昨日から雨が続いていた。別宅の縁側にいた総司は、雨が降り出したので部屋の中に移った。
「…屯所に戻るつもりだったのに…」
「大雨になるだろうから、やめておけ。戻るのは朝でもいいだろう」
「それはそうなんですけどねえ…」
土方はすでに屯所に戻るつもりはないようで、横になって寛いでいる。このまま彼と共にのんびり過ごしても構わないのだが、心の隅に引っかかるものがあった。
「…松原さん、今夜から復帰ですよね?」
突然、切腹を図り浅手を負った松原は今夜の夜番から平隊士として復帰することになっていた。切腹した理由も、降格になった理由も伏せられたので、屯所には不穏な空気が流れている。
「大丈夫かなあ…」
「お前が心配することじゃないだろう」
総司が危惧するのとは裏腹に、土方の返答は冷たい。
すると別宅の管理を務めるおみねが顔を出した。
「お食事、出来上がってますえ。お持ちしましょか」
「ああ、はい。手伝います」
総司は土方の傍を離れ、部屋を出ておみねとともに土間に向かった。土方とともに部屋で待っていても良いのだが、試衛館にいたころからの習慣か、食事の支度は手伝わなければ居心地が悪いのだ。
準備されていた食事は、まるで料亭のそれのように彩られていた。京料理にはいまだに慣れない二人のためにおみねは江戸の食事も取り入れてくれている。
「今日もおいしそうだなあ」
「お二人のお好きなお漬物もお持ちしましたえ」
小皿にのせて漬物が添えられる。総司はもちろん、口少ない土方でさえも「美味い」と言わしめたおみねお手製の漬物だ。
雑談を交わしながら和やかに食事の準備を進めていると、おみねが「そういえば」と声を潜めた。
「新撰組の噂、聞きましたえ」
「噂?」
おみねの言葉に総司は少し構えた。おみねには新撰組に関わる話があれば逐一教えてほしいと頼んでいたのだ。
「なんとかという組長…夫のおる奥方に手ぇ出さはったって」
「……」
おそらくは松原のことだろう。なつの夫が既に亡くなっているという差異はあるが、噂なんて尾ひれがついて大きくなってしまうものだ。
総司はため息をついた。
「…その話って、広まっているんですか?」
「へえ、どこに行ってもこの話で持ち切り。ほんまのことなんて誰もわからしまへんけど、恋色沙汰は皆、面白がるものやから」
「そうですか…」
「人の噂も七十五日や言います。そのうち、誰も忘れてしまうでひょ」
おみねは軽い調子で話を切り上げた。
しかし、誰が言い始めたのかはわからないが、そのうち新撰組にもその話が伝わることだろう。そうなれば、ますます松原は居心地が悪くなってしまうかもしれない。己の撒いた種とはいえ、再出発を果たそうとしている松原には苦しい状況だろう。
(再出発…)
だが、その言葉には違和感があった。
切腹を図ったのちに意識を取り戻した松原だったが、彼には以前のような覇気はない。誰よりも忠実に真面目に仕事に向かい続けていたのに、まるで別人のように変わっていた。虚ろな瞳、薄く開いた唇が彼の喪失感を物語っているように見えた。
(また最初から…やり直すことなんて、できるのかな…)
「沖田せんせ?」
「あ、ああ…ごめんなさい。部屋まで運びますね」
総司はおみねから膳を受け取り、部屋へ向かった。
雨はいつの間にか大雨になっていた。

おみねが仕事を終えて別宅を去った後に、遠くで雷が鳴った。雨が地面を強く打ち付けて、鼓膜を揺らす。
「おみねさん、無事に家に戻ったかなあ…」
総司はそうつぶやきつつ、障子を閉めた。土方は相変わらず身体を横たえて眠そうにあくびをしている。
「そういえば、おみねさんに聞きましたけど…松原さんのこと、随分町の人に広まっているそうですね」
「…まあな」
土方は面倒そうに返答した。監察方を取り仕切っている土方はとっくの昔に知っている話だろう。
「松原さん、大丈夫ですかね…」
「根も葉もない噂話っていうわけじゃない。自業自得だろう」
「…さっきからずいぶん冷たいですね」
総司は少し責めるように土方の傍に腰を下ろした。しかし土方はその不機嫌な様子を崩さない。
「ふん…近藤さんが温情を与えて、初めからやり直す機会を与えたのに…いまのあいつはまるで空っぽだ」
「…」
土方は吐き捨てた。
数日前。
平隊士へ降格…土方、伊東が同席するなか近藤がそう処分を告げた時、松原は「わかりました」と淡々と返事をしたそうだ。近藤は何度も「一からやり直してほしい」「君ならできる」と励ましたそうだが、それにも曖昧にしか答えずに何の感情もなかった。
その様子を土方は「気味が悪い」と総司に語った。確かに総司から見ても、松原の様子はおかしかった。島田と並んでがっちりとした体格の松原の背中は今までピンと伸びていたのに、いつの間にか曲がっていたことに気が付いた。屯所で静養している間にも視線が定まらず、うつむいていることが多かった。
その様子からも、彼が再起を果たす…それが想像できなかった。
「…仕方ないですよ。身体も心も…傷が癒えていないんでしょう」
原田のように自慢できる傷ではない。彼の自尊心は傷つけられたはずだ。その痛みから立ち直れないのは仕方ない…総司はそう庇ったのだが、
「そんな悠長なことを言っていられるか」
すっかり苛立った土方には届かない。
「でも…」
「もうあいつの話はいい」
土方は強引に総司の手首を取り、そのまま引き寄せた。土方の上に乗りかかるようになる。
「とし……んっ…」
バランスを崩した総司の後頭部に土方の手が回され、強引な口付けを交わす。生温かい唇の感触や、いつもよりも強引な舌遣いに翻弄されて頭がぼんやりする。
その柔らかな感触に雷雨の激しさが、遠のいていく。


地面を打ち付ける雨が騒音のように聞こえ始めた頃、内海が気を利かせて障子を閉めた。
「ありがとう」
伊東がそう声をかけると、内海は「いえ」と答えて腰を下ろし、続けた。
「このところ、嵐ばかりですね」
「この嵐が夏の暑さを攫っていく。もう秋が近いということだよ」
伊東は書物を手にしながら、優雅に答える。青春時代、同じ道場で学び過ごしてきたというのに内海には彼のような優雅さは身につかなかった。
(生来のものだろう)
内海はそう思っている。もともと武骨な内海は文化人のような類は苦手だが、なぜだか伊東という男には引き寄せられた。
「…今日は鈴木君の隊が夜番でしたね。この夜の中、大変でしょう…風邪でも引かなければ良いが…」
「昔から馬鹿は風邪をひかないというだろう」
弟である鈴木の心配をする内海を尻目に、伊東はふんと鼻で笑った。血を分けた弟に対する厳しい態度に、内海は喉まで言葉が出かけたが、言ったところで受け入れられないことをわかっていた。
しかし、優雅な色香で常に人を惑わせているというのに、弟の話題になると急に人間味を感じさせる。その二面性が興味深くて、内海はわざとこのように弟の話題を振ってしまうのだ。
しかし今宵は気にかかる点がもう一つあった。
「ただでさえ…今夜は療養していた松原くんも加わっての夜番ですからね…」
切腹傷により療養していた松原は、自分の組を離れて九番隊の鈴木の組下へと移動になったのだ。切腹を図った理由が理由だけに、隊内でも根も葉もない噂話が飛び交っている。
伊東は書物に目を通りつつ、笑った。
「相変わらず、土方副長の人選は素晴らしいよ。ほかの隊に遣るよりは、あの無口で他人に関心のない奴の組下の方が妙な対立も無かろう」
「…嫌味のようにしか聞こえませんが…」
「嫌味だけじゃないさ」
「と、言うと?」
内海の問いかけに、伊東は手にしていた書物に栞を挟んで閉じた。
「松原君は今、窮地に立たされている。四番隊組長、そして柔術師範…これまで人の上に立ってきた人間が急にその地位を剥奪されれば、普通は自棄になるだろう。古参隊士であっても、これまで通りの振る舞いができるかどうかわからないし、近藤局長や土方副長に従順でいられるかは不確実だ」
「それは…そうかもしれません」
「そんな時、私が手を差し伸べたらどうなると思う?」
くすり、と笑った伊東の傍で、内海は少し沈黙した後に「そういうことですか」と納得した。意地の悪い考え方だ。
「土方副長は試しているんだよ。私に近しい鈴木の傍に彼を置いて…裏切らないでいられるのか。私に靡かないでいられるのか…流されないでいられたなら、彼は更生したとみなされるだろう」
穿った見方だ、とも思ったが、鬼の副長ならありえない話ではない。
(だが、その考えが読み取れるあなたもあなたではないのか…)
「靡いたとしたら?」
「…さあ、どうなるかな…」
伊東は言葉を濁した。内海はその謎めいた微笑みの意図を掴みとれなかった。
雨はどんどん強く、降り注ぐ。足元を濡らし、歩む道を妨げる。






387


久々の巡察は雨がひどく打ち付ける、雷雨の夜だった。鼓膜を響かせ続ける轟音に、ぬかるんだ足元、まとわりつく雨風はただでさえ巡察には不向きの環境であり、気分は酷く重い。
松原は七番隊組長鈴木三樹三郎の組下の一人として、巡察に向かうことになっていた。ただでさえ好奇な目で見られている上に、今日から復帰ともなれば自然に視線が集まった。
「よ、よろしくお願いします、松原…さん」
「体はもう宜しいのですか…?」
七番隊の平隊士たちは気遣って言葉をかけてくれるが、松原は「ああ…」と短い返事しかできなかった。その素っ気ない返答にそれ以上のコミュニケーションの拒絶を感じるのか「そうですか」と隊士たちは去っていく。
切腹を図ってからは、誰ともまともに話をしていない。それまで人当たり良く誰とでも接してきた松原の豹変に、周囲は戸惑い、誰もが距離を取っていた。
(それも…当然だな…)
突然、切腹を図り降格処分を言い渡された、いわくつきの存在である自分。客観的に考えても、誰もかかわりあいたくないと思うのは当然だ。そして自然に、一人でいる時間が多くなり、その分おのれの内面に向き合う日々が続いた。
なつと出会ってしまったこと。
そして自分を見失い、なつに溺れていった甘い心。
それを見破られ、狼狽し、切腹に走った弱い自分。
向き合えば向き合うほど情けない状況に、ただただ気分が沈んでいく。考えるギル製で次第に顔から表情が失われ、手足を動かすことさえ億劫で、虚脱感ばかりが襲った。
(いっそ…切腹すればよかったものを…) 
しかしそれさえも、四番隊の組下に止められ、覚悟を貫き通すことはできなかった。一体自分が何がしたかったのだと、自分を問い質し続けた。
そんな自分に優しくしてくれた人はたくさんいた。切腹から助けたかつての組下は、懸命に看護を続けてくれたし慰めてくれる同僚もいた。そして降格処分を下した近藤局長でさえ、情けない自分を『やり直せばいい』と励ましてくれた。
…でも、それでも。
心は動かなかった。
枯れてしまった花がもう二度と咲かないのと同じだ。
心に何も灯ることはない…しかし、松原の中で唯一、彼女のことを思う時だけが、心が少しだけ温かくなった。
(なつ…)
急に家へ訪れなくなった自分のことを、どう思っているのだろうか。少しでも待ちわびてくれているのだろうか――。
「巡察に向かう」
轟音の雨の中、組長である鈴木の声が響いた。淡々としているが、良く通る声だ。今日から松原が加わったというのに、特に紹介も説明もなく、彼は何事もなかったかのように巡察に出発した。
鈴木のこの無関心さが、今の松原には有難かった。変に詮索されるくらいなら、興味を持たれないほうがいい…諦めにも似たこの感情は以前の自分には無かったものだ。
(俺自身が、もう…どうでもいいんだ…)
法度さえなければ、こんな場所を逃げ出してしまっただろう。
何もかもを失った。いや、自分から捨てたんだ。
…そんなことを思った。

雨が視界を遮る中での巡察は、まるで滝の中を進んでいくかのようだった。しかし鈴木の組下たちは皆、文句ひとつ零さず寡黙に仕事に取り組んでいる。組長自身の性格を反映したうえでの布陣なのか、それとも組長が無口だから皆も押し黙っているのか…それはわからない。
大通りに進んでいると、「あっ」と松原は思わず声を上げた。転びかけたのだ。
「どうか?」
すぐ隣にいた平隊士が尋ねる。松原は「先に行ってくれ」と口にした。草履の紐が切れていた。
「わかりました。この先が今日の巡察場所ですので」
「ああ…」
平隊士は短く告げると、小走りに去っていく。
雨の中、残された松原はその場にしゃがみ込み、草履の紐を結ぶ。
(随分履き古したな…)
雨に濡れた草履は草臥れていた。この草履を履き、四番隊組長として胸を張って歩き続けていた日々がとても昔のことのように思えた。
応急処置を済ませ、松原は立ち上がる。
すると、目の前にポツンと明かりが見えた。そしてその仄かな灯りは少しずつこちらに近づいてくる。最初はただの通りすがりだろうと思ったが、傘を差し目深に頭巾をかぶった影は確実に松原を目指して近づいてくる。
(賊か…?)
そう思い刀に手を伸ばしたが、すぐに手を止めた。
その影は女だった。そしてその女は
「…あ…あぁ…」
ずっと会いたいと願っていた女だった。
ほっそりとした体躯。傘を持つ手の腹の白さ。己をまっすぐに見つめるその黒い瞳。
「…松原様」
なつだ。
豪雨だというのに、なつの声はまっすぐ松原の耳に入った。上品で甘い甘美な響きが脳裏に木霊する。
「なつ…」
その名前を呼んだ時に、はたと気が付いた。なつは自分のことを『小野』だと思っているはずだ。そして新撰組の隊士であることは知らないはず…それなのに、なつは迷いなく松原を見ている。
「なつ…俺は…」
「存じ上げております。新選組四番隊組長、松原忠司様…」
「…な…?」
松原は混乱した。なつがなぜ自分の正体を知っているのか、そして正体を知ったうえでなぜ朗らかに笑っているのか…その理由がわからなかったからだ。
しかしなつは穏やかなまま続けた。
「お会いに来てくださらないから…もう…私のことをお忘れになったのかと思いました」
「そ、そんなはずはない…!」
「お体の具合はいかがですか?」
「…っ?!」
なつは松原が切腹を図ったことさえ知っている…その事実に戸惑うのは松原ばかりで、なつは笑みを浮かべている。
なつは一歩、また一歩と松原に近づいた。
「なつは…ずっと、お待ちしております」
「…!」
「あなた様がどこのどなたであろうとも構わない。もう私には…あなたしかいないのですから」
耳元で囁く彼女の声。闇に誘われてしまうのだとわかっているのに、拒めない。
なつは松原の目の前まで来て、持っていた傘を松原の頭上にも差す。同じ傘の中で、豪雨に囲まれて二人きりになる。
なつの匂い、なつのぬくもり、なつの息遣い。
すべてがくらくらと松原を惑わせていく。
黒髪に白い肌、真っ赤な唇、そして…真黒な着物。
「また…お会いしましょう」
彼女の赤い唇がそう告げて、なつは松原から離れた。そしてそのまま彼女は去っていく。雨の中に溶けていくかのように。
「な…なつ…!」
松原はなつの後ろ姿に追いすがるように、彼女の名を呼んだ。彼女は振り返らなかったがそれでも続けた。
「どうしてなんだ…」
なぜ、君はここに現れたんだ。
なぜ、君は名前を知っている。
なぜ、君はすべてを受け入れている。
なぜ――
「なぜ…」
君は、そんな姿で現れたんだ。
しかしその言葉は一つとして彼女には届かなかった。疑問ばかりを残して彼女は去る。
ぽっかりと開いていた心の穴に、熱が宿る。
それが破滅につながるのだと、わかっていたのに。


雷雨は、夜のうちに空を通り過ぎた。朝陽が昇るころにはすっかりその姿を消していて、土の泥濘だけにその形を残していた。
「今日は…いい天気ですよ」
総司は別宅の障子を開けたが、土方は「まだ開けるな」と不機嫌そうに布団を被る。相変わらず朝に弱い彼は眩しい朝陽に目を顰めている。
総司は苦笑した。
「早く起きてくださいよ。これ以上寝ると体が鈍ってしまう」
「もう鈍っているだろう」
土方は大きなあくびをしながらそう言った。
昨夜のことを揶揄しているのだ。
「…だから、早く起きてくださいって言ってるんです。はやく木刀が振りたい気分なんです」
別宅で過ごす朝はいつも気怠い。その理由は言わずもがななのだが、こういう時は早く稽古をしたくて屯所に戻るのだ。
「まったく…剣術馬鹿め…」
土方は渋々ながら身体を起こすが、一糸纏わぬ姿に総司ははっと目を逸らした。とっさに傍にあった脱ぎ捨ての羽織を押し付ける。
「は…早く何か着てください」
「何、照れてるんだよ。昨晩散々見ただろ」
「ああ、もう!いいから!」
慌てる総司を見て土方は「わかったよ」と少し笑いながら、袖を通す。
雨上がりの空にスズメが羽ばたく。
澄み切った青空にその姿が消えた。






388


雷雨は朝になってようやく去った。まるで嵐が通り過ぎたかのように、スズメが甲高い声で鳴く。
巡察から戻った松原は休息もそこそこに
「出かけてくる」
と同室の七番隊平隊士に告げた。平隊士は「何処へ?」と尋ねたが、聞こえないふりをして背中を向けた。夜番あけは大抵非番になるため、どこへ行こうと構わないはずだ。
もちろん後ろめたさはあった。ケガから復帰して間もない自分は、非番だからといってふらふら外を出歩けるような身分ではない。誰よりも誠実に隊務に取り組んで名誉挽回すべき立場であり、非番であったとしても反省の態度がない…と咎められてもおかしくはないが、だが、今の松原にはそんなことはどうでもよかった。
(なつ…)
豪雨の中、偶然か必然か…なつは突然、現れた。すでに失われたと思った存在が目の前に現れたため、幻影か幽霊か…松原には今でも信じられない。しかし記憶を反芻しても、あれはなつに間違いなく、そして彼女はひどく寂しげな表情で松原に声をかけた。
『松原様』
彼女が、初めて目の前で呼んだ、本当の名前。
『小野様』という響きで己を客観視し、『旦那様』と呼ばれることで前の男への嫉妬を感じていた松原にとって、その響きはは沈めたはずのなつへの熱い思いを蒸し返す引き金となった。
早く彼女に会いたい…その逸る心とは裏腹に(駄目だ)と引き止める自分もいた。
もう会ってはならないはずだ。新撰組から脱けることができない以上、なつとともにいることはできない。その自制心は僅かながらに残っている。
二つの心で揺れるまま、しかし体は正直で、松原は屯所を出ようとした。
「松原…さん、今日は非番ですか?」
西本願寺の門をくぐろうとしたところで、門番の一人に声をかけられた。こんなことになってしまう前はよく世間話を交わしていた隊士だ。
「…あ、ああ、君か。非番だよ…ちょっと気分転換に」
「気分転換、いいですね。今日は天気も良いですから!」
「ああ…そうだな」
門番は明るい笑顔で松原を見ていた。彼なりに松原を励まそうとしているのだろう、その眼差しに邪なものは一切ない。
彼は新撰組屯所と書かれた木札の前に立ち、槍を手に誇らしく胸を張っている。爛々とした表情は新撰組隊士であることを誇りに思っているからこそなのだろう。
しかしその姿がいま、女のもとへ向かおうとしている松原にとって、眩しくて、悲しくて、胸を締め付ける。
(もう…戻れないのだろう)
彼のようにはできない。
なつに会ってしまえば、きっと気持ちが高ぶって、もう戻れなくなる。
でもそれでも。
「すまん…」
「はい、いってらっしゃい!」
松原は門番に背を向けて速足で歩いた。その足はどんどんと速くなり、そしていつの間にか駆け出していた。
水たまりをももろともせず、前も見ず、遠くへ、遠くへと逃げるように。でも、誰かが追いかけてくるような気がして松原は下を向いて走った。
だが、松原不運は重なった。
「松原さん!」
「…!」
西本願寺が見えなくなった頃、向かいからこちらに手を振る人影が見えた。それは総司と土方だった。
(よりによって…!)
二人の登場は、まるでなつに会いに行く自分を戒めるかのようだ。
しかし隠れるわけにもいかず、松原は息を整えつつこちらにやってきた二人に「おはようございます」と頭を下げて挨拶をした。
「おはようございます。昨晩はひどい雷雨だったでしょう、巡察の方は滞りなく終わりましたか?」
総司はいつもの穏やかな笑顔で松原に声をかけた。これまでの経緯を知っているはずだが、それを決して表情には出さない。それとは対照的に憮然として無表情の土方が腕を組んで横にいる。松原の方を少しも見ようとせず、その横顔は冷たい。彼は松原を厭い、会話が終わるのを待っているようだ。
「…ええ、まあ。何事もなく」
「そうですか。今日は非番ですよね、こんな朝早くにどこかへ行かれるのですか?」
「…」
松原は言葉を止めた。
何の邪気もないと思っていた総司のにこやかな笑顔も、
(尋問だな…俺を疑っているのだろう…)
今の松原にとっては自分を追い詰めている関所の役人のように思えたのだ。
「散歩です」
「散歩?」
「今日は天気も良いですから。…それに、お二人も朝早くにご一緒じゃないですか」
今までになく、嘘があっさりと滞りなく口から出ていく。息をするかのように、無意識に、吐き出されていく。
「それは…まあ、そうですね…」
総司は少し言い淀んで、顔を赤らめた。その表情を見て松原は気が付いた。
(そうか…)
二人は別宅から屯所へ戻るところなのだろう。組長以上に与えられるという別宅は、ほとんどが気に入った女を囲うためのものであるが、この二人にとっては屯所以外に設けた二人だけの住まいのようなものだ。
(俺となつには…許されない…)
穏やかに過ごす時間を、二人は過ごして来た。
その事実に、松原の心にどす黒い感情が生まれていく。
苛立ちや憎悪、怒り、悔しさ…なぜ自分となつは、彼らのように在ることはできないのだろう。サチとともに穏やかな家庭を築くことができない。
(俺があの男を殺したわけじゃない…!)
松原は苛立った。
この手にかけて殺して、なつを奪ったわけじゃない。ただ彼女との出会いがそうだっただけなのに。
周囲が勝手に穿った見方をして、俺たちの恋を阻もうとしている。だったらなおのこと、この想いを捨てることはできない。
なつは待っている。
「散歩のくせに、そんなに息を切らせているのか?」
「土方さん」
それまで無関心だった土方が、鋭い牙を向けるかのように松原に声をかけた。総司は諫めるように遮ったが、今の松原にとって鬼の副長の追及にも何の恐怖もない。
「ええ…犬の追いかけられたました」
動揺することもなく返答した松原に、土方は少し間をおいて「そうか」とやや不満そうな表情をした。
嗾けたつもりが宛が外れたのだろうか。
「では失礼します」
松原は軽く頭を下げて、二人の傍を通り過ぎた。二人は何も言わなかった。そして不思議なことに、門番の隊士と言葉を交わした時のような後ろめたさがすっかり消えていた。
(新撰組なんて…どうでもいいじゃないか…)
綺麗ごとばかりの局長、利己的に暗躍する副長。近寄りがたい参謀に、力に従うだけの組長たち。
思い返せば、新撰組に守りないものは何もない。
(山南先生がいれば違ったかもしれない…)
松原は苦々しい気持ちを感じた。


松原がなつの家にたどり着くころには、「良い天気」だったはずの空が曇った。
(天さえも見放すか…)
暗澹たる思いを抱えつつ、松原は相変わらずの狭い町屋の細道を進む。十数日ぶりの道なりは少しだけ懐かしく思った。
松原はなつの家の前に立った。中からは物音ひとつしない。サチの笑い声さえない、静けさに包まれていた。
「…ふう」
少し息を吐いて、取っ手に手をかけた。
なんといえばいいのかわからず、しかし気持ちは逸り引き戸を引いた。建付けの悪い扉がガラガラと煩い音を立てる。
「な…なつ…」
部屋に入って最初に気が付いたのは線香の匂いだ。籠っていた匂いが一気に松原の方へ押し寄せる。
そしてあばら屋の真ん中に座る女の背中が視界に入る。質素な部屋なのに、なぜか物が散乱し、まるで強盗でも押し入ったかのような有様だ。
「…なつ、俺だ」
松原がもう一度声をかけると、ようやく彼女は振り返った。
「松原様…」
「どうしたんだ…これは…」
「……」
なつは答えようとしない。いつも穏やかに笑っていた彼女の表情が暗くやつれている。
「なつ…サチは…?」
「……」
松原の問いかけに、なつの表情はさらに曇る。ぎゅっと唇を噛みしめて、ゆっくりと壁の方を指さした。
「…え?」
そこには小さな文机があった。以前、その机の上でサチが飯事をして遊んでいたのだ。しかし今、机上にはそんな和やかな姿はない。
うっすらと煙を立てる線香と、戒名が書かれた札。
「あの子は…死にました」
なつがポツリとつぶやいた言葉。
そのすべてを受け入れる前に、松原は悟る。
昨晩のあの大雨の中、彼女が身に着けていた真黒な着物は、喪服だったのだと。








389


総司と土方が屯所に戻ると、すでに山崎が待ち構えていた。
「おはようございます」
恭しく頭を下げた山崎は、監察方から離れて久しいが相変わらず気配がない。いくら手先が器用で家柄が針医師だからと言っても彼を監察方から異動させたのは惜しいことだ。
「どうしたんです?」
普段なら町医者の南部のもとで医学に励んでいるはずの時間だ。総司は疑問に思ったが、
「松原のことか?」
と土方は察しがついていたようだ。山崎も軽くうなずく。
「少し…お話したいことが」
山崎がちらりと総司を見て、その先を言い淀んでいた。
「総司、席をはずせ」
「…わかりました」
松原のことと聞けば、心配になるし後ろ髪をひかれる思いではあったが、二人の間に流れる空気は決して穏やかなものではない。総司は土方に言われるままに部屋を後にした。
総司の足音が消えたのを確認した土方は、「それで?」と続きを促した。山崎の表情はゆがんでいる。
「…松原さんが懇意にしている女の…娘の件です」
「娘?…ああ、一度屯所まで追いかけてきた…」
松原のことを『小野』だと信じた少女は、財布を届けるために屯所まで追いかけてきた。それが松原の切腹のきっかけとなったのだ。
山崎は重々しく告げた。
「…死んだそうです」
「何?」
思わぬことに、土方は素直に驚いた。
「南部先生の医者の知り合いから伝え聞いたことです」
「病か?」
「いえ…事故だそうです。早馬に轢かれて…」
「…」
山崎のことだから、きちんと裏を取り報告を上げてきたはずだ。
早馬との事故は少ないわけではないが、多少の見舞金は出るものの基本的には斬り捨て御免だ。早馬を妨害した方に非があるとみなされる。
実際に顔を見たことがないにせよ、幼い子供が死んだというのはやり切れない。
「母親のなつは相当憔悴しているようです。夫を亡くし、続けて娘も…」
「それはそうだろう。…その話、松原には?」
「わかりません。しかし、心の拠り所を失った女が…いづれ松原さんに頼るのは当然の流れかと」
山崎の考えに、土方も「そうだな」と同意した。なつは松原を手放すつもりはないようだ、と総司と斉藤から報告を受けていた。
先ほど別宅から屯所へ戻る際に松原と出会った。松原は散歩だと言い張り通り過ぎていったが、そのあっさりとした姿が逆に土方には不審に感じられた。
『一からやり直してほしい』
近藤は松原にそう言って励ましたが、今のところ彼にそのような態度は見られない。日ごとに覇気がなくなりまるで廃人のように脱力した姿になり果てている。それでも、近藤は『待とう』と言った。松原は壬生浪士組の頃に入隊した古参隊士であり、近藤からの信頼も厚い。だからこそ、再起の機会を与えたのだ。
しかし、いまなつの状況を知れば松原は彼女に傾くだろう。
「…山崎」
「はい。引き続き、松原さんの動向を…」
山崎は監察方にいた時の、あの鋭いまなざしを向けたが
「いや、いい」
と土方に遮られ「え?」とまた柔和な表情に戻った。
「いい…とは?」
これまで土方と山崎は主に裏の仕事に徹してきた。都度顔を合わせるわけにもいかないため、ある程度は山崎の裁量に任せられてきた。山崎は意思疎通という意味では土方の考えも理解しているつもりだったのだが、今回の土方のリアクションは意外だった。
「あとは…あいつの判断に任せる」
「匙を投げるということですか」
「…これ以上、できることはない」
いま何か行動を起こしたところでそれは火に油を注ぐだけであり、松原を一層熱情へと走らせるだけだ。
(あいつを…信じるしかない)
『何者か』
その問いを投げた時の答えを、松原がまだ探し続けているのだとすれば。
その答えがどこへ転ぶのか…そしてその答えこそが、松原のこれからの行く先を示しているはずだ。彼の出す結論が近藤を失望させることがないよう…今は静観するべきだろう。
「…わかりました」
山崎はそう答えつつ、その表情は渋かった。


サチが死んだ。
その経緯は真黒な喪服に身を包んだなつがポツリポツリと語った。
塞ぎこんでいたなつが、いつものようにサチに小遣いを渡して外に遊びに行かせたこと。サチは近所の子供たちと遊んでいたが、いつの間にかその輪から外れて大通りに飛び出し早馬に轢かれたということ。
現実味のないサチの死に、松原は茫然とした。しかしあの純真な少女の姿は確かにこの家にはなく、残されているのは位牌のみという事実に次第に打ちのめされていく。
すべてを語り終えて、
「うちが…悪いんどす…」
なつは俯いて大粒の涙を流していた。
「一人になりたくて…せやから時々、サチのことを鬱陶しく思うて…まだ小さいのに、一人で家から追い出して…あの子が文句言わんことに甘えて…せやから、罰が当たったんや…」
「…」
項垂れるなつに、松原はかける言葉が見つからなかった。ほっそりとした華奢な彼女を抱きしめることさえ、躊躇われた。
それは、自分が同罪だと感じたから。
なつとの逢瀬に夢中になりサチを蔑ろにしていた。幼いのにしっかりしているから大丈夫だと過信していた。
いつの日かなつと家庭を持ち、サチを娘として迎える――そんな甘い考えを抱いた自分を殴ってやりたい。
「なつ、お前のせいじゃない。サチが死んだのは…俺のせいだ…」
「松原様…」
「お前がふさぎ込んでいたのは…俺のせいなのだろう…?」
親切者を装って現れた男が、偽名を使い夫を殺した新撰組だった。その事実がなつを落胆させサチを遠ざける理由になった。そしてその先で事故が起きた。
悔やんでも悔やみきれない。
「俺は…!」
「松原様」
なつは細い両腕を松原の後ろ頭に回した。そして凭れ掛かるように松原へ身を寄せた。
「な、なつ…」
「…そうや…」
羽衣のように滑るなつが、抱きしめつつも松原の耳元で囁いた。
「松原様は…うちから、何もかも奪っていくんや」
「…!」
「旦那様も、サチも…松原様が殺したんや…!」
彼女の一言一言が…いや、その口から発せられる音のすべてが松原を責める。心臓が早鐘を鳴らす。
しかしその一方で彼女が自分を責めることに安堵した。やり場のない怒りを悲しみをぶつけてくれるほうがまだましだとさえ思えたからだ。
「な…つ…」
「でも、ええよ…」
「え…?」
なつの表情が変わる。
彼女は悲しみと、苦しみと…そして妖しげな微笑みを混在させる。
「…あんさんが、うちと一緒に地獄へ落ちてくれるのなら…構わへん。許してあげまひょ」
なつは松原の後頭部に回していた腕を解き、その手のひらで松原の両頬を包んだ。なつは涙を流しつつも、まっすぐ松原を見つめていた。
「ずぅっと…うちの傍にいて。うちを一人にせんといて…」
「…っ」
至近距離で見つめるなつ。鼻先が触れ合うほどで、彼女は同意を求める。その悪魔のような囁きに、松原は自分でも驚くほどに早い決断を下した。
「…わかった」
新撰組に居場所はない。
しかしなつは憎みながらも、自分を求めてくれている。
(どちらを選ぶかなんて…もう決まっているじゃないか)
その先の結末がどんなものであったとしても、選ぶものは決まっている。
松原はなつの背中に手を回して強く、抱きしめた。
(こんな俺でいいなら…)
いくらでもくれてやる。
彼女の怒りが静まり、寂しさが紛れるのなら。
松原はなつの背中を畳に押し付ける。そしてその襟を剥ぎ、白い肌を曝け出した。
(俺は…間違っていますか…?)
松原はもういなくなった人に問いかけた。
しかし、答えはなかった。



夕暮れ時になり、夜番の総司は準備を始めた。
あれからいつの間にか山崎は姿を消し、土方も普段通りの仕事を始めた。二人の間には松原に関わる何かが共有されたはずだが、隊内に変わった様子はない。
総司は周囲を見渡す。散歩だと言って出かけた松原はまだ戻ってきていないようだ。
(考えすぎかな…)
総司は一息ついて刀を帯びた。
すると「総司」と、近藤が顔を出した。突然、局長がやってきたことで総司以外の一番隊の隊士たちがが一気に背筋を伸ばす。そんな様子を気遣って
「そのまま、そのまま」
と宥めた。
「どうしたんですか、近藤先生」
「話があるんだ。ちょっといいか?」
「はい」
ご機嫌な様子の近藤に従い、総司は部屋を出た。島田に「準備を進めてください」と声をかけて去る。
部屋から少し離れた廊下で近藤は足を止めた。
「総司、明日は非番だな?」
「え?ああ、はい」
「だったら俺の供をしてくれないか。芝居を見に行こう…歳には内緒だ」
「それは構いませんが…」
「よし!じゃあ、約束だからな」
近藤は満面の笑みで総司の肩をポンと叩いて、去っていく。足取りは軽く、鼻歌まで歌っている。
「近藤先生…?」
その場に取り残された総司は、首を傾げたのだった。




390


翌日。
「上方歌舞伎は何度か見たが、なんというか上品で卒のない雰囲気でな。江戸にいた頃に見ていた歌舞伎とは少し違うようだ。俺は江戸歌舞伎の方が迫力があって好きなんだが、たまには情緒のある話をのんびりと楽しむのも良いのではないかと思うんだ」
「はあ…?」
上機嫌に語る近藤に総司はやや不審な目を向けていた。
というのも、近藤は重々に「歳には内緒だ」「こっそり屯所から出るんだ」としきりに周囲の…特に土方の目を気にしていた。歌舞伎を見に行くくらいで土方は咎めないとは思うのだが、近藤は本当にこっそりと西本願寺の裏口から屯所を出たのだ。しかも紋付き袴という改まった格好だ。
「あの、近藤先生…上方歌舞伎は紋付き袴で行かなければならないのですか?」
「うむ。今日はそうなんだ」
「…へえ…」
普段、歌舞伎を見に行くことのない総司は「そういうものですか」とあっさり納得しかけるものの「今日は」という近藤の物言いは引っかかる。しかも、まず最初に近藤の別宅…つまりは深雪の住まう家に寄るというらしい。
「深雪さんも一緒に行くのですか?」
「いや、今日は二人で行くんだ。それに深雪もここのところ体の具合が良くなくてな…」
「え?大丈夫なんですか?」
「ああ、心配ない。おそらく大坂からこっちに来てから、気張っていたのだろう。最近はようやく気が抜けて風邪をひいてしまっただけだ。南部先生にも診て頂いたしな。今日は大事を取って休ませるんだ」
「そうですか」
総司は安堵した。新撰組のかかりつけ医である南部の診察を受けたということなら、問題ないだろう。すると近藤は「そういえば」と手を叩いた。
「南部先生ともに、例の…英くんが顔を出したぞ」
英こと、宗三郎は南部のもとで助手として働いている。深雪の診察に同行してもおかしくはない。
「お元気でしたか?」
「ああ。火傷のあとは不憫だが、しかし南部先生の右腕として勤めているようだ。深雪はすっかり彼のことを気に入っているようだから、また顔を出してくれるだろう」
「それは良かった」
時折、彼の噂は耳にするが実際に顔を合わせてはいない。おそらくは土方も。
(いつか…)
また会えるだろう。不思議なことに、その確信はあった。
そのまま近藤とともに雑談を交わしていると別宅にたどり着いた。土方との別宅よりも一回り大きい立派な佇まいだ。
近藤が玄関の戸をひくと、奥の方から深雪が顔を出す。愛嬌のある顔立ちで
「おかえりなさいませ」
と出迎えた。
「深雪、身体の具合は?」
「おかげさまでもうすっかり良くなりました。沖田せんせ、ようこそ、お久しゅうございます」
深雪の言葉通り、顔色は良い。総司は「お邪魔します」と軽く頭を下げて草履を脱いだ。すると深雪が
「奥へ準備できてますえ」
と意味深な笑みを浮かべる。
「奥?」
「ふふ、お気に召すとええんやけど」
「はあ…?」
可憐にほほ笑む深雪に総司は首を傾げたのだった。

「…近藤先生、暑いです」
別宅を出た総司は早速、近藤に不満を述べた。二人はようやく歌舞伎小屋へと向かっていた。
「はは。気持ちはわかるがそういうな。お前のために仕立てた新しい紋付き袴なんだぞ?」
あれから、深雪に案内された部屋で紋付き袴に着替えるように言われた。この日のために作らせたものだそうで、袖を通すのも強張るような高級な品だということは総司でさえも感じとれた。深雪も手伝ってくれて着替えたものの、まだ残暑の残る季節には暑すぎる。
「俺は着物の良し悪しなんてよくわからないから深雪とともに呉服屋に行ったんだ。さすがにおなごは詳しくて上等なものを選んでくれたよ」
「それは…ありがたく思いますけど…」
紋付き袴は身丈にあったぴったりのものだが、服に着られているような感覚は拭えない。近藤の着慣れた様子とは真逆だ。
別宅を離れて大通りに出る。この先をまっすぐに行くと歌舞伎小屋がある。
「まあ、そろそろお前も気が付いているだろうから先に言っておくが…」
「え?」
総司は近藤の期待をよそに、まったく何も気が付いていない。そのため、近藤の次の言葉には驚きを隠せなかった。
「今から見合いに行く」
「…は…っ?」
「お相手は南部先生のご紹介の町医者の娘だ。俺は一度顔を見たことがあるが、可愛らしい女子で年の頃合いもお前にぴったりで…」
「ま、待って下さい!」
総司は思わず足を止めた。
「近藤先生、本気ですか…?」
「紋付き袴を仕立てさせた挙句に『冗談だった』と笑うほど、俺は器用じゃないぞ?」
近藤は「ははっ」と満足そうに笑う。総司を驚かせることができて喜んでいるのかもしれない。
しかし、総司の方は頭が混乱していた。
(だからか…!)
土方に内緒だと念を押して、こっそり屯所を出た。紋付き袴なんて畏まった格好をしているのは相手に失礼のないようにということだ。
なんで気が付かなかったのだろう、という公開とともに、総司は慌てた。
「見合いの作法は知っているだろう?初詣や花見の席でお互いの顔を確認して気に入ればそのまま縁談成立だ。今回は俺たちの座敷席の反対側にそのおなごがいるからな。しっかり顔を見るんだぞ」
「そういうことではなくて…」
「いや、芝居を見つつ、ちらちらと確認するんだ。じろじろと見ては失礼にあたるかもしれないからな」
「先生!」
捲し立てる近藤を総司は引き止める。
「私にはその気はありません!」
「歳に対する義理立てか?」
「…そ…それは…そうです」
見合いすると言えば、土方はきっと良い顔はしないはずだ。それに総司も嫁をもらう気はさらさらない。
しかし近藤は首を横に振った。
「お前たちの関係は理解している。互いに大切に思っているのも分かっているつもりだ」
「だったら…」
「でも、これとそれは違う」
近藤は懐から折りたたまれた手紙を取り出した。それを開いて総司に見せると、そこには見覚えのある字が書かれていた。
「…これは…姉上ですか?」
送り主は姉のみつだ。総司がさっと目を通すと、『誰か良い人がいたならば総司に縁談を頼みたい』という旨が書かれていた。
「確かに、沖田家はおみつさんの夫である林太郎さんが継いでいる。でもそれは父上がお前が幼い時分に亡くなったため仕方なくということだった。本来であればお前が継いでいくのが、亡くなった父上も母上も喜ぶのだとおみつさんは考えているようだ」
「…でも、それは…」
「お前が義兄の林太郎さんに申し訳なくおもうのはわかるが、姉のおみつさんが手紙を寄こして俺に世話してほしいというのだから、林太郎さんも納得してのことだろう」
「…」
姉の気持ちや近藤の気遣いに抗う理由が見当たらず、総司は黙り込む。遠く江戸にいる姉には心配ばかりかけていることだろう。嫁を迎えて子でも生まれれば、親代わりのみつは喜ぶことだろう。
(でも…)
脳裏に浮かぶのは土方のことばかりだ。
「なに、歳のことは気にするな。俺が説得してやる」
近藤は胸を張り、そういって笑う。
彼は何ていうのだろう。怒るのだろうか、拗ねるのだろうか、それとも…
『近藤先生の言うとおりにしろ』
とあっさりというのだろうか。
「む、約束の時間が迫っている。総司、ひとまずは急ごう」
「…はい」
速足で歩きだした近藤。総司はしばらく立ちすくみながらも、身体は近藤の背中を追って歩き出した。
(どうすればいいのだろう…)
迷う心だけが取り残されていた。


一方。
松原は昨日に引き続いて、なつのもとを訪れていた。もう二度と会わないと心に決めていた枷が無くなった途端、罪悪感は消えていた。現金だと思うけれど、自分の心を止めることはもうできなかったのだ。
「松原様、歌舞伎に行きとうございます」
「…歌舞伎?」
なつからの思わぬ誘いに松原は驚いた。なつは松原との醜聞を避けたいのか外出に誘うことなど一度もなかったし、松原もまた周囲の視線を気にしてなつと二人で出歩くことはなかったのだ。
「『夕霧名残の正月』…ご存知ですか?」
「いや…知らない」
剣や柔術を鍛えるだけの時間を過ごしてきた松原は、文化や流行には疎いのだ。それに比べ、なつは以前は花街に身を置いていたため詳しいのだろう。
「想い人が亡くなって…夢のなかで一時、再会するお話です」
端的に、しかし寂しげに語るなつの表情に、松原の心が鷲?みにされる。
その『夕霧名残の正月』がどんな話なのかは松原には分からない。しかし、いなくなった大切な人と夢の中だけでも会える…夢物語だとしてもそれだけでなつの心が癒され満たされるのだというのなら。
「わかった…行こう」
断る理由はなかった。
松原はなつとともに家を出た。







解説
386 降格処分を受けた島田は、小荷駄方の平士になったと言われていますが、今回は変更しています。
目次へ 次へ