わらべうた





391


歌舞伎座は人ごみでごった返していた。何でも有名な役者が主役の夕霧を演じるとのことで、連日超満員だそうだ。
「総司、こっちだ」
近藤に案内されるがままに、二階の桟敷席へと上がった。紋付き羽織という格式ばった格好は、一階では浮いていたが二階に上がると同じような格好の身分の高い者が沢山いた。
普段、このような場所に来ることのない総司は居心地悪く思いつつも、腰をおろして、一階へと目をやった。一階の升席はほとんど埋まり、花道と舞台以外は人で溢れている。特に舞台装置の一環で橋が架かっているのが目立つ。
「どうだ、面白いだろう」
近藤はそう言って満面の笑みを浮かべていたが、総司は
「はい…まあ…」
と曖昧に答えることしかできなかった。
歌舞伎というイベントへ来て浮足立つ気持ちはあるものの、その目的は鑑賞ではなく見合いだ。近藤の夜とまもなく舞台を挟んで向かい側の桟敷席に見合い相手がやってくるらしい。
(気が進まない…)
弟を心配する姉の気持ちは理解できるものの、総司はこの場から離れたい気持ちしかなかった。今のままでは誰に対しても誠実ではない気がしたのだ。
しかし、近藤はそんな総司の気持ちを推し量ることはない。
「今日の演目の夕霧名残の正月は知っているか?大坂新地の夕霧という評判の遊女に入れ込んだ藤屋伊左衛門という男…この男は大坂の豪商の息子で、夕霧と恋人同士になるんだが、放蕩三昧の末に実家から勘当されてしまう」
「はあ」
「そのころ、夕霧も重い病にかかってしまったんだが、勘当された伊左衛門は会いに行くことができない。そのまま夕霧が死んでしまったんだ。それで、今日の演目はその続きだ。夕霧が亡くなって四十九日、紙衣に身を窶した伊左衛門が姿を現す。夕霧が亡くなったことを知らなかった伊左衛門は悲しんで、彼女と交わした起請文を取り出して念仏を唱えると、なんと突然気を失ってしまったんだ!」
近藤は熱く語るが、総司にはその近藤の様子が新鮮に思えた。以前は三国志を愛読し、歌舞伎でも今日の色恋沙汰のような世話物ではなく時代物を好んでいたはずだ。
「すると、形見の打掛から夕霧が顔を出した。この夕霧は実は幽霊なのだが二人は再会を喜び昔を偲ぶ…目が覚めて夢だったと悟る伊左衛門だが、夢の中でも夕霧に会えたことを喜んだ…という話だ」
「…なるほど。先生、お詳しいですね」
総司が尋ねると、近藤は「いやあ」と頭をかいて照れくさそうにした。
「俺はこういう演目はさっぱりなんだが、実は先日、深雪と足を運んだんだ。深雪が詳しく教えてくれてな…だから今のは深雪の受け売りだ」
「あはは…そうですか」
近藤の答えに、総司はどこか安堵した。
昔、試衛館にいた頃は、周斎に連れられて講釈に足を運んでいた。太平記や赤穂義士伝がお気に入りで張り扇で調子をとる語り口によく熱くなっていたものだ。きっと近藤の本質は変わらないのだろう。
「まあ、今日は演目よりも見合いが大切だ。あんまり熱中しすぎてはいけないぞ」
「…はあ、まあ気を付けます」
総司は近藤から目を逸らし、逃げるように一階の光景を眺めた。升席にぎゅうぎゅうに詰め込まれた観客たちは幕が上がるのを今か今かと待ちわびているようだ。今すぐにでも逃げ出したい総司とは裏腹な光景だ。
その多くの観客の中に、見たことのある背格好の人物を見つけた。隣には細身の女性を連れている。
「…あ!」
「ん?どうした?」
総司は思わず声を張り上げたが、「何でもありません」とすぐに誤魔化した。近藤の前で彼の名を口にするのは憚られたのだ。
(松原さん…!)
観客の中に松原の姿があった。大きな体躯は良く目立ち、浮いている。さらに目を凝らしてみると、隣にいるのはなつに違いない。
(どうして…)
切腹を図った松原は、なつとの決別を誓ったのだと思っていた。平隊士へ降格されたとしても、彼がなつではなく新撰組隊士としての自分を選んだのだと。しかし、いま二人がともにいるということはその答えに合致しない。
それになつは松原が新撰組隊士であることを知っていた。知っていたうえで、「復讐」だと言って松原から離れるつもりはないのだと宣言していた。
『今後の松原の行動で…すべてがわかる』
なつに会いに行った帰り道、斉藤はそう危惧していた。彼の予想していたすべてが当てはまってしまう。
でも、それでも。
(…そんなはずはない)
隣にいる近藤は松原を信じた。更生し、やり直してくれるのだと信頼した。総司もまた、そうあってほしいと願っていたのだ。
「あ…」
総司が目を凝らしていると、ちょうど升席に陣取っていた松原が立ち上がった。なつに声をかけて離れていく。厠だろうか。
「こ、近藤先生!」
「ん?」
「厠に行ってきます!」
「ああ、そうだな。見合いの最中に席を立つと不承知となるらしいからな、行ってこい」
近藤が意図する理由ではなかったにせよ、総司はそそくさと桟敷席を出た。そして階段を駆け下りて、人ごみの中から松原を探す。しかし彼を見つけ出すのに時間はかからず、人ごみから頭一つ抜け出した姿はすぐに目についた。
「松原さん!」
総司はどこかへ向かおうとする松原の袖を引いて引き留めた。松原はゆっくりと振り向いて「ああ」と虚ろな目を向けた。
「沖田さん…いや、沖田先生」
「呼び方なんてどうでもいいですよ。それより、なんでこんな処に…!」
「新撰組隊士は歌舞伎を見てはいけないという決まりでもあるのですか?」
「そういうことではなくて」
「でしたら、咎められることはないはずですが」
「松原さん!」
卒なく答える松原には悪びれる様子も開き直る様子もない。淡々と総司の質問に返答するだけで、感情に色が失われていた。
しかし
「なつさん…一緒でしょう?」
「…」
彼女の名前を出すと、その瞳が曇った。
「見ていたのですか?」
敵意を剥き出しにする憎悪と疑いの感情…総司にとって松原の暗い感情に触れたのは初めてだった。
彼は山南と並ぶ『お人よし』だと評判だった。壬生にいた頃は通りすがりの住民に明るく声をかけていたものだ。そんな彼からは想像もできない姿だった。
「…見ていたわけではありません。桟敷席から見えただけで…近藤先生も一緒です」
「近藤局長…」
「先生はまだ気が付いていません。ですから、今のうちに離れてください」
松原の更生を願っている近藤であったも、松原となつがともにいる姿を見れば気が変わるかもしれない。さらに土方に知れれば大ごとだ。
しかし、彼は「ふっ」と息を吐いて笑った。
「もう、沖田先生に見つかってしまったではないですか。近藤局長に見られてしまっても、同じことでしょう」
「…私が、近藤先生や土方さんに告げ口するということですか?」
「それはわかりません。でも、そうしてもらっても構いません」
「松原さん」
すべてを投げ出してしまうような物言い。思わず総司は語気を強めたが、松原は少し沈黙して続けた。
「沖田先生、あなたを信じて話します。あなたは…山南先生が最後まで信じていた人ですから」
「…」
「俺はもう、昔のようには戻れないのだと思います。土方副長に『何者だ』と問われてからずっと…その答えを探していた。新撰組の中でどう在ればいいのか、考えていて、でも答えが見つからなかった。けれど…今は違います」
「…違う?」
「改めて、なつに再会して…俺には彼女が必要だし、彼女には俺が必要なのだと思った。だからそのために生きて…死んでもいいと思っています」
「……」
死んでもいい。それは隊規に背くのだとわかっていても、その想いを貫きたいという松原の確固たる意志だ。
しかし、総司には納得ができなかった。
「…あの人は…おなつさんは、同じだけあなたのことを思っているとは思えません。あの人は私と斉藤さんに言いました、亭主を殺された憎しみを…あなたにぶつけている。あなたとともにいるのは、復讐のためだと、はっきりと」
松原が切腹を図ったことを知っても、態度を変えることはなかった。総司にはとてもなつが松原を愛しているようには思えなかったのだ。
しかし、松原は総司の話に動揺せず、微笑んで見せた。
「…俺と同じだけのものを返してもらおうとは思っていません。そもそも俺が殺したのと同じことなのだから…だから復讐だと彼女が言ったのだとしても、ほんの少しでも俺のことを思ってくれているのなら、俺はそれで構わない」
「松原さん…」
「あなたと土方副長は同じだけ返ってくるような関係なのでしょうね」
固くて、厚い殻が彼を覆っているようだ。声も届かず、同じ空気さえも吸っていないような。
(きっと…何も通じない)
総司は彼にかける言葉も何も見つからないまま立ち尽くす。
「そろそろ始まります。先生も戻られたほうが良いのではないですか?」
「……」
松原は一歩踏み出してかけて、しかし足を止めた。
「…夕霧名残の正月は、夢のなかで死んだ女が男に会う話ですよね」
「そう…聞いています」
「きっと俺も死んだとしたら、なつのもとへ向かうでしょう。…ただ…それだけです」
そう言い残して、松原は背中を向けて去っていく。総司は伸ばしかけた手を止めた。
『あなたにはわからない』
そういわれた気がした。そして
『何をも得ている君にはわからないよ』
と、かつて寂しげに告げた山南の言葉が脳裏を過ったのだった。




392


「ん?どうした、総司…遅かったな?」
近藤は桟敷席に戻ってきた総司に首をかしげていたが、「いえ」と総司は短く返事をするに留めた。
元居た席に座る。舞台により近い席なので、近藤の視界を遮ってしまうが松原たちに気が付かないで済むのは良かっただろう。近藤の気づかれれば大ごとだ。
(このままで…いいのだろうか)
総司は迷っていた。
松原の返答はどれも暖簾に腕押しの状態で、何の言葉も通じなかった。それどころか、彼には確固たる意志がありそれを曲げるつもりはさらさらないのだと実感させられた。
松原は新撰組ではなく、なつを選ぼうとしている。
なつが同じだけ松原を思っているとは限らないのに、それでも命をかけようとしている。
『あなたと土方副長は同じだけ返ってくるような関係なのでしょうね』
そう口にした松原の表情は少しだけ歪んでいた。松原となつの関係を糺そうとした総司に対して、それが普通ではない…それが当たり前ではないのだと釘を刺されたような気持ちになった。
こんな気持ちになったのは、二度目のことだ。
『君にはわからないよ。何ものをも得ている君には』
あれは大津でのことだ。
脱走した山南を迎えに行った総司は、そう言って拒まれた。普段は穏やかで人を羨むことのない山南から初めて聞いた『否定』だった。その瞬間に彼との間に高く聳え立つ壁があるのだと突き付けられたのだ。
いま、松原は山南と同じようになってしまった。
(この後のことは…僕にだってわかる)
もう誰も、あんな風な悲しい別れを迎えてほしくはない。あの時そう思ったはずなのに
(…でもどうやって止められるのだろう…)
松原の決意は固い。
そしてまた土方の裁断も決まっていることだろう。
「総司、向こうの桟敷席を見てみろ」
「え?」
「え?じゃない。向こうの桟敷席だ、ああ、でもジロジロ見るんじゃないぞ」
近藤が一階席を挟んだ向かいの桟敷席を目線だけで促した。松原のことですっかり忘れていたが、見合いの最中だったのだ。
総司は近藤の言う通り、ちらりと遠い向かいの桟敷席に目をやった。すると先ほどまでいなかった三人が腰かけている。
一人は、父親らしき男性。近藤よりも一回り年上らしく貫禄のある風貌だ。隣に座るのはその妻だろうか。色白でほっそりとした女性。そしてさらに隣に座るのが今回の見合い相手だろう。朱色の華やかな振袖に身を包み、少し落ち着かない様子だ。
「……」
「どうだ?可愛らしいお嬢さんだろう?」
父親は町医者で、その一人娘だという。色白で黒目の大きなあどけなさが残る女性…まだ少女と言ってもよいような風貌だ。
総司は沈黙して困惑した。
「…近藤先生…あちらは、本当に新撰組隊士に…私に、嫁ぎたいなんて思っているんですか?」
「もちろんだ。…どうした、気に入らないのか?」
「いえ…ただ、現実味がないです」
総司の率直な感想だった。きっと誰があの桟敷席に座っていたとしても同じ感想を抱いただろう。
きっとあの少女は知らない。
新撰組という場所がどれだけ過酷なものか。
そして命をかける夫とともに歩むことがどれだけ悲しいか。
その覚悟すら決めてなどいない。
「…おっと、始まるな」
客席の後方から屋号を叫ぶ声が響く。そして花道から役者が姿を現すと一気に盛り上がり始める。
夕霧は『伝説の花魁』と呼ばれる高貴な遊女。務める役者も男のはずなのに美しい。
そんな夕霧に伊左衛門はどんどんのめり込んでいく。裕福な家から感動されて、身の回りのものをすべて売り払っても夕霧に会うことをやめられない。でも、それでも金が追い付かなくなって夕霧に会うことすらできなくなってしまい、その間に彼女は亡くなってしまう。
亡くなって四十九日。紙衣を着て夕霧に会いに来た伊左衛門は、すでに夕霧が死んでいることを嘆く。
夕霧がいた扇屋の主人は悲しむ伊左衛門を座敷にあげて休ませた。伊左衛門は夕霧の打掛を眺めながら、せめてもの供養になればと念仏を口にする。すると突然、気を失ってしまう。
すると打掛の陰から夕霧が現れる。
「わしゃ、わずろうてのう」
幽霊として現れた夕霧が、自分が死んだ理由を告げる…そ夕霧の切ない表情は印象に残った。
それから二人は長唄を歌ったりして昔を偲ぶが、やがて夕霧は姿を消す。
すべては泡沫の夢。
しかし夢の中であったとしても夕霧と会えたことを、伊左衛門は喜んだ。最後の最後に楽しい時間を過ごせたことを、幸福だと感じた。
感動的な話だ。伊左衛門と夕霧の熱演に隣の近藤は目を潤ませて、時々涙をぬぐっていた。しかし総司は松原となつのことばかりが頭をめぐっていて、重なった。
ちらりと一階の升席の二人に目をやった。目頭を熱くして泣くなつの肩を、松原が優しく抱きしめていた。
『きっと俺も死んだとしたら、なつのもとへ向かうでしょう。…ただ…それだけです』
松原の感情が伊左衛門と同じくらいに大きなものならば、いつか何もかもを捨てて夕霧のもとに向かってしまうのかもしれない。それは誰にも止められないことなのかもしれない。
(あの二人を止めることすら…勝手な感傷なのか…)
彼を止めたい心と、それができないのだとあきらめる心。
二つが鬩ぎあったまま、総司は結局見合い相手の顔すらろくに見ることもなく、桟敷席を後にすることになったのだった。


芝居を見終えて、なつとともに帰路についた松原は既に覚悟を決めていた。
(もう…俺は屯所には戻らない)
総司に見つかったあの時に、もうすべてを諦めていた。一度はなつではなく、隊士としての自分を選んだはずだったのにそれを貫くことができないのだと…そういう本心を総司に知られてしまったのだ。
その時に強く覚悟したと同時に、何か自分の中の「重さ」がふっと消えたような気がした。
(俺はとっくに…新撰組隊士ではなかったのだ)
そう、悟った。
悟ったとたんに身体が軽くなった。
「なつ」
「ん?」
なつはどこかぼんやりとした表情だ。その目元はほんのり赤く色づいているので、彼女の中に芝居の感動の余韻が残っているのかもしれない。
「このまま、都を出ないか?」
「…え?」
しかしそんな彼女の表情が変わり、その大きな眼を開く。戸惑い、足を止めた。
「でも…新撰組の、お仕事は?」
「もう、やめたんだ」
「やめた?」
「…抜けた。もう俺は新撰組隊士ではないよ」
上手い言い訳が思いつかず、松原はそのままを告げた。抜けたと語るのは事実ではないが、実際今からそうするのだから構わないだろう。
なつの忌み嫌う「新撰組隊士」ではなくなった…そう聞けば、彼女も喜ぶだろうと思ったのだが
「そう…」
と彼女のリアクションはいまいちだった。まだ実感が湧かないのかもしれない。
二人はまた歩き出す。
「…せやかて、都を出てどこへ?宛でもあるん?」
「いや…宛てはないが…」
松原は少し考え込む。
自分の国である小野藩は播磨にあり、都から近い。新撰組から追手が出ればすぐに居所を突き止められてしまうだろう。それに、今更、故郷に戻るつもりはさらさらなかった。
(どこへ…)
頼る身内も友人もいない松原だが、ふっと浮かぶ場所があった。
「…大津へ行こうか」
「大津?」
「ああ…一度、行ってみたいと思っていたんだ」
大津。
山南が京を出て目指した場所。彼が何を思い、そこで足を止めたのか。そしてどうして命が終わると知って戻ろうとしたのか。
(それを…知りたいのかもしれない)
「大津…ええね、うちも行ってみたい」
幸いなことになつは深く事情を尋ねずに頷いた。彼女自身も宛てがあるわけでもなかったのだろう、どこへでも良かったのかもしれない。
「一度家に戻りまひょ。いろいろ…準備もあるし」
「ああ…そうだな」
夕陽が山の後ろに隠れようとしている。
そして赤い光と黒の闇が混じり、夜を迎える。
少し現実味のない幻想的な夜空だ。そんななか、松原は少しの違和感を覚えていたのだが、その正体に気が付くのは太陽が姿を消し、世界が闇に包まれた時だった。






393


夜と昼の間。
夕暮れの薄暗闇のなかを近藤とともに総司は帰営した。
「うーむ、気に入らなかったか…」
近藤は終始悩んでいる様子だった。
総司としては気に入るも気に入らないも相手の顔もろくに見ることもなく終わってしまったのだ。むしろ見合いよりも松原のことで頭がいっぱいだった。そんな状態のまま話を進めるわけにも行かず「またの機会にしてほしい」と近藤に帰路で頼み続けたのだ。近藤は渋面を作ったまま
「良縁だと思うんだがなあ…」
と繰り返す。会津お抱え医師の南部から紹介してもらったということは、会津お墨付きということでもあるのだ。
しかしこのまま進められては総司も困るので、必死に食い下がった。
「とにかく先生、考えさせてください。その…一生のことですし、簡単には決められません。相手にも失礼でしょうし」
「しかしなあ…」
「今日まで縁談なんて考えたことがなかったんです。頭が付いていきません」
「…むう、お前がそういうのなら…仕方ないか…」
総司の言い訳に不承不承という受け答えだったが、どうにか納得させて近藤と別れた。どっと疲れた総司は重い体を引きずりつつ一番隊の部屋に戻ろうとしたのだが、
「暑苦しい格好をしているな」
と斉藤に呼び止められてしまった。
「ええ…ずっと私も脱ぎたいと思っていたんです」
新撰組の顔として会合が多い近藤は慣れているようだったが、総司にとって残暑の残る季節に紋付き袴という格好は苦痛でしかなかった。
「局長のお供か?」
「お供というか…まあ、そんなところです」
まさか見合いをしたきた…など、土方にはもちろん、斉藤にも言えるわけがない。総司は羽織を脱ぎつつ、曖昧にごまかして「それよりも」と話を切り上げた。
「松原さんは屯所には戻っていませんか?」
「ああ…見ていない」
「そうですか…」
総司は目を伏せた。おそらく歌舞伎から戻っていないのならば、なつと一緒にいるのだろう。斉藤が「どうした」と先を促したので総司は声を潜めた。
「その…町中で松原さんに会って…おなつさんと一緒でした」
「…そうか」
さすがの斉藤も眉間に皺を寄せて、不快な表情を作る。
「引き留めて問い詰めましたが…何を言っても松原さんには届きませんでした。おなつさんとともにいるのだと決めきっていて…」
「女を選んだのか…」
「たぶん…もしかしたら、もう…」
「嫌な予感が当たったか」
このまま帰ってこないのかもしれない。総司に知られたことで、より決意を強くしたのかもしれない。だとしたら、あの時の声をかけないでいたら良かったのだろうか。知らないふりをしていたら…
(いや…いつか、露見することだ…)
総司は首を横に振った。
松原は歌舞伎という人出の多い場所になつとともに現れた。切腹を図り、平隊士に降格された松原にとってなつとの関係は隠しておくべきものなのにそうしなかった。もう誰に見られても構わないという彼の決意と…あきらめの表れだろう。
斉藤はふうと深いため息をついた。
「しかし…あの女とで歩いていたからといって、決めつけるわけにはいかない。土方副長に報告をして様子を見たほうがいい」
「そうですね…」
総司は力なく返答した。
静観することしかできない、力不足を味わい…何とも言えない倦怠感が襲っていたのだ。
「斉藤さん…私のことを『何をも得ている』…と思いますか?」
「は…?」
一体何のことだ、と斉藤は困惑していたが、総司は誰かに聞いてほしかったのだ。
「松原さんにも山南さんにも…そういえば宗三郎さんにも言われたんです。私は自分の思うように、思われている。それを普通だと思っている私は『何もかもを得ている』…満たされている私には、何もわからない。苦しみ、もがく人の気持ちがわかるはずがないのだと…」
「…」
「斉藤さんもそう思いますか?」
何かに追い立てられるようにして切腹して果てた山南。
思う人に思われず、募る気持ちを抱え続けた宗三郎。
そして、新撰組隊士であることを捨てようとしている松原。
その誰もが「お前にはわからない」と拒み、お前に話したところで理解できないのだと諦めた。大きな壁を作り遠く離れた。
(誰もがそう思うほど…僕は無知で…愚かなのだろうか)
「…そんなことはない」
総司の不安を垣間見た斉藤は、ふっと軽く笑った。彼が笑うのを見るのは久しぶりのことだった。
「斉藤さん…」
「何を言い出すかと思えば、そんなことか。…あんたは目立つから、傍から見ればそう見えるかもしれない。卑屈な人間からすれば、華やかに映るのかもしれない。しかし…だからといって、あんたが何も苦労していないわけではないだろう。何かを怠ったわけでもなく、力を抜いたわけではない」
「…そうでしょうか?」
「少なくとも俺は、そう思う。だからそんな言葉に惑わされる必要はない」
斉藤はきっぱり言い切って、総司の肩を軽く叩いて通り過ぎていく。総司の迷いをあっさりと一蹴した斉藤は何にも迷ったことがないのだろう。辿ってきた道に後悔もせず。
「…羨ましいな」
総司は苦笑した。
だがどこかで、身体は軽くなっていた。


「総司の見合いに行ってきたぞ」
部屋に入るなり晴れ晴れとした表情で報告した近藤に、土方は少し間をおいて
「は?」
と答えた。
溜まりに溜まった書類の整理に追われ苛々を募らせていた時だったので、タイミングは最悪だ。それに事前の相談もない。
しかし、そんな不機嫌な幼馴染など見慣れている近藤は、紋付き袴を脱ぎながら上機嫌に語り始めた。
「見合いついでに、歌舞伎を見に行ってきたところだ。いやあよかったぞ、歌舞伎は」
「…かっちゃん、何の冗談だ。俺は今忙しいんだ」
「お前が忙しいのはいつものことだが、冗談ではない。南部先生にご紹介いただいた娘さんでな。年の頃合いは総司とはちょっと離れているが、気に入るだろうと思ってな」
「……」
さすがの土方も思いもよらぬことに手を止めて顔を歪めた。得意げに見合いの様子を語る近藤を遮って
「それで、あいつは何て?」
と先を促した。
「いやあ、気に入らなかったのか、返事は保留だ。まあ最初は見合いだと告げずにつれていったから『考えさせてくれ』と言われれば仕方ないよなあ」
「…そうか」
少なくとも総司の意志で見合いをしたわけではないこと、その見合いを受けたわけではないこと。その二点を確認し土方は安堵した。
しかし、近藤は目ざとくそんな土方の心情に気が付いた。
「歳、前に話したよな?お前と総司の関係はわかっているが、嫁を迎えるかどうかは別の話だと。新撰組の局長だ、副長だと言っておきながら俺たちの身分は未だ浪人のままだが、総司は違う。あいつは沖田家の嫡男として継ぐべきものが沢山あるんだ」
「…そんなのは、わかっている」
近藤に説教をされなくとも、その揺るがしようもない事実は土方も分かっている。いっそ同じ農民の出だったならば何も考えないで済んだものを、と思ったくらいだ。
近藤は腰を下ろし、胡坐をかいた。
「もし嫁を迎えることになったとしても、総司を責めるなよ。おみつさんの願いでもある…家のために仕方ないことだってあるんだ」
「…ああ、わかっていると言っているだろう」
「どうかな。お前は納得できていない顔をしているぞ」
「……」
いつもは鈍感な近藤が、土方のことになれば些細な表情の変化に気が付いてしまう。土方はため息をつきつつ白状する。
「…別に納得できないわけじゃない。ただ、あいつが…嫁を取るとか、そういうのが想像できないだけだ」
今まで剣術ばかりを極めてきた総司には浮いた話が一つもなかった。そんな総司が家のためとはいえ、嫁を迎えて家庭を築く。…そんなことができるのだろうか。
(あいつは…不器用だ)
きっと土方との関係を続けながらの両立はできないだろう。感情を切り離して割り切れるほど大人ではないことは、土方が良く知っている。
だからこそ、
(その時は俺が身を引くのか…?)
体裁を考えれば、断ち切るものなど決まっている。
そんな悲観的なことさえ想像してしまうのだ。
「俺だってつねを嫁にもらうと決まった時は想像できなかった。誰もがそんなものさ」
楽観的な近藤はそういって笑う。
土方は鈍感な幼馴染の励ましに、何も答えずにただ受け流すのだった。







394


斉藤のアドバイス通り、総司は早速土方のもとへ向かった。まるで告げ口のような形になってしまうのは気が進まなかったが、このまま何も見なかったことにはできないと思ったのだ。何も見ないでいるのは簡単だが、そうする方が松原を傷つけるのではないか。
(独りよがり…かもしれないけれど)
何もしないでいるよりは、ずっといいはずだ。それに土方なら、何か良い提案をしてくれるかもしれないと期待した。
時間はすでに夕暮れから夜に変わりつつある。夜の黒が昼を塗りつぶしていく…そんな空だった。
「土方さん、入ってもいいですか?」
総司が尋ねると、部屋の中から「ああ」と端的な返事が聞こえた。障子を開けると、いつも通り机に向かい、たくさんの手紙や書物と向き合う土方がいた。
すると、土方は総司の方に目を向けることもなく訊ねた。
「急ぎの用事か?」
「…え?」
「悪いが、また明日でいいなら明日にしてくれ」
いつもどんなに忙しくとも総司に付き合ってくれる土方だが、今日はこちらに目を向けることはない。頑なに背中を向けたままだ。
その様子に違和感を覚えつつ、総司は食い下がった。
「いえ、忙しいところ申し訳ないんですけど…急ぎの用事です」
土方の傍に膝をつき、総司は姿勢を正す。
「松原さんのことです」
「…松原?」
総司が切り出すと、ようやく土方が視線を向けた。それまで眉間に皺を寄せ険しい表情を浮かべていたものが、呆気にとられたものにかわり、そして「そうか」と安堵したように軽く息をつく。
「…そっちの話か」
「そっちって?」
「いや…いい。それで、松原のことだって?」
土方に促され、総司は頷いた。
「その…町中で、会ったんです。松原さんと、例の…おなつさんに」
「一緒だったのか?」
「はい。このままではいけないと引き留めて説得しました。でも…松原さんはおなつさんと離れることはできないのだと…もしそれが咎められるのなら、死んでも構わないと…そう、言っていました」
隊規に背くのだとわかっていても止められない。彼女へのその愛情と激情が、あの生真面目だった松原を動かしている。
「…彼女が復讐のために松原さんと一緒にいるのだと話しても、それでもいい、同じだけを返して欲しいとはおもっていないと…何を言っても届かないと思いました」
たとえそれが偽りの愛だとしても、構わない。
そう言い切った松原の気持ちが、総司にはあまりわからなかった。自分が思っている相手には同じように思われたい…誰もがそう思うのではないだろうか。
(でもそれも…僕には『わからない』ことなのかもしれない…)
総司の心に影が差したが、しかし今はそれに向き合っている時間はない。
「土方さん。松原さんは…思い詰めてしまっています。早く引き止めないと…あの人は…」
あの人は。
あの人は、山南さんと同じようになってしまうかもしれない―――。
そう続けることが躊躇われて、総司は口を噤んだ。口にすれば本当にそうなってしまう気がして。
しかし土方は
「そうか」
と淡々と返した。総司の動揺とは裏腹に、土方はその表情を崩してはいなかった。怒ってもいなければ、動揺もなく、喪失感もない。ただ冷静に受け止めていた。
「…そうかって…土方さんは知っていたんですか?監察を張り付かせていたんですか?」
「いや、俺は何も知らない。監察もつけていない」
「つ、つけていないって…」
総司は驚いた。
監察は不定浪士の動向を探るという任務とともに、内部の隊士たちの行動を監視している。特に松原のように隊規を背きかけたような危うい存在には、当然監察を張り付かせているはずだ。
しかし、土方はそれをしていない。
(それじゃまるで…)
「あいつがそれを選んだのなら、仕方ない」
(もう…)
「…土方さんは、もう…松原さんを諦めているんですか?」
諦めて、手放して、見放して。
もういらないと、捨てたみたいだ。
土方はその問いかけにしばらく黙り込んだ。まるで言葉を探すかのように一点を見つめて
「そうかもな」
と言い放つ。
「土方さんッ!」
思わず、総司は土方の腕をとった。
「松原さんは結成以来の同志じゃないですか!信頼できる存在だからこそ、土方さんだって四番隊組長を任せたんでしょう?柔術師範を勤めさせたのでしょう?!それを、そんな簡単に…!」
「簡単じゃない」
捲し立てた総司に対して、土方は淡々とした答えだった。
「切腹を図ったあとの松原は、どんな顔をしていた?」
「そ…それは…」
「何の覇気もない、気力も、表情もない。まるで空っぽだ。近藤先生はそれでもその空っぽの中身にまた何かが生まれるんだと信じていたが…俺はあの表情を以前にも見たことがある」
空虚で、何を言葉にしたところで揺らがない。
「まるで…山南さんだ」
「!」
「西本願寺への移転を受け入れた山南さんがあんな表情をしていた。自分の命運を受け止めた…穏やかでいっそ清々しい表情だ」
土方の口から、山南の名前が出るのはあの二月の冬の冷たい朝以来のことで。
土方の人生にとってもっとも衝撃的で、悲劇的な出来事のはずだ。
彼は、それと同じだと語る。
つまりその結末もまた、同じなのだろうと。
「そんな松原が新撰組に戻ったところで…何になるというんだ。まるで傀儡か人形か…空っぽのままそんな風に生きることに何の意味があるんだ」
「…でも、それでも…」
生きてほしいと。
山南のときに願ったはずだ。
しかし土方は首を横に振った。
「松原は誰に何を言われても戻らない。自分の意志以外では、無理だ」
「…」
心から戻りたいと願わない限りは、彼は本当の意味でやり直すことはできない。土方にそう断言され、総司は言葉を失った。そして同時にその通りだと思った。
畳みかけるように土方は語る。
「総司、あの女の子供のことは覚えているか?」
「…あ…はい。サチだったかな…」
「早馬に轢かれて死んだそうだ」
「えっ?」
突然突き付けられた事実に、総司は呆気にとられた。あの明るく元気な少女が死んだ…言葉を交わしたのは数回とはいえ、その儚さに愕然とした。
「…じゃあ、おなつさんはそれがきっかけで…」
「ああ。おそらく松原を頼るようになったのだろう。松原もそんな状況では無碍にはできない…お人よしだからな」
「……」
松原がなつと離れられないのだと語ったその理由に、サチのことも含まれているのだとしたらその想いをより強固にしたことだろう。
(本当にもう…彼は新撰組に戻る気持ちはないということ…)
「…あとは松原が最後に選ぶだけのことだ。あいつが戻るのならそれでいい…だが、脱走したなら捕まえて切腹だ」
「土方さん…」
「総司。俺にどんな選択肢があるんだ?」
それは山南と同じ判断。山南の時でさえ、その道を選んだ。だから、松原がそうしないという道は決してないない。
副長としての土方の問いかけに、総司は何と返答していいのかわからなかった。
何も、言葉が見つからない。
あの時と同じ痛みを繰り返すのは苦しい。けれど、それ以外の選択肢を何も持っていない。
土方は掴みかかっていた総司の手を解いた。そして重々しく告げた。
「誰であろうと同じだ。俺は同じ状況になれば、同じ判断を下す」
「…もし、私が脱走したら…切腹ですか?」
「そうだ」
即答した土方に、総司は少し笑った。
きっと誰であろうと、鬼副長は揺るがない。その決断に悲しみや同情は不要なのだと言っているようで
(ああ…強いな…)
そう思った。
『俺は、もっと鬼になる』
かつて君菊を亡くした時に土方はそう言っていた。大切なものを奪わせないために、もっと厳しく、もっと強い鬼になると。
土方にとって大切なものは、この新撰組だ。
農民だと罵られて、邪険にされて、それでも親友とともに這い上がって生まれた夢の結晶。その結晶を砕かれないように、彼は固い甲羅を纏い守り続けている。
そしてそんな彼と同じ道を、いや、彼のすぐそばの道を歩いていくと決めたはずだ。
「…わかりました」
山南が切腹という道を選んだ理由は、何よりも新撰組を守るためだった。彼自身が脱走し、切腹して果てた自分の姿こそが、結束につながるのだと語っていたのだから。
総司が答えた、その時だった。
「土方副長!」
静寂を破るように駆け込んできたのは、元監察の山崎だった。冷静沈着な彼が慌てているのは珍しく、それは何か非常事態が起こったということ。
「どうした」
「はっ…松原さんが、殺されました!!」
「こ…殺された…?」
それは思いもせぬ事態で。
総司はもちろん、土方さえも目をも開いて硬直したのだった。





395


なつとともに彼女の家に戻った松原は、ぼんやりと間口に腰かけていた。風呂敷を広げ、支度を進めるなつを尻目に、これまでの日々に思いを馳せる。
(…長かったな…)
そう思った。
新撰組の前身である壬生浪士組に入隊したのは今から二年ほど前だ。知り合いであった永倉に誘われて、最初は給金目当てで入隊した。どうせ名ばかりの会津の手先…そう考えていた。しかし、八月十八日の政変に関わり、新撰組の名を一躍有名にした池田屋では土方隊に属して報奨金を受け取った。
その頃が一番自分が輝いていると思った。四番隊組長に任じられ、得意の柔術を認められ『先生』なんて呼ばれた。自分が得意としていたものが、周囲に認められる…それは誇らしいことだった。
(眩しかったな…)
入隊前、藩士の子として生まれたもののすぐに身分は浪人となった。あてもなくたどり着いた京で、こうして『新選組の松原忠司』という名前を与えられた。それはもう二度と得られない奇跡であったのに、今では捨てるべき名前になった。
(…俺は我儘だったのかな)
ずっとその奇跡の中に身を置いていたいと願っていたはずなのに。
自ら逃げ出して、投げ出した。
「山南総長も…同じ気持ちだったのか…」
なんとなくつぶやいた言葉に、しかし一瞬で冷や水を浴びせられた気持ちになった。
同じわけがない。
松原は首を横に振った。
(弱い自分にまけて、女と逃げるような俺と…山南総長が同じはずがない…!)
山南がなぜ脱走したのか。
そのわけは依然誰も知らない。隊士の中には近藤や土方、そして脱走した山南を連れ帰った総司が理由を知っているのではないか、不都合だから隠しているのではないかと噂する者もいたが、松原はそうは思わなかった。
山南はきっとその胸の内を誰にも話さなかっただろう。弱い自分を弱いとせず、信念を貫いた。だからこそ切腹の際には凛とした表情のまま最後を迎えたのだと思う。
(そんな山南総長とこの俺が同じだなんて…烏滸がましいな)
感情が高ぶり切腹を図ったのに死にきれず、再出発を願う近藤たちを裏切っていま女と逃げようとしているではないか。
そんな自分と山南と比べること自体が恥ずべきことだ。松原は軽く自分の頬を自分で叩いた。
「松原様、支度整いました」
「…そ…そうか」
なつの声に松原は振り返る。するとなつは真っ赤な小袖を身にまとっていた。
「なつ…それは…」
「…ええ、以前うちに買うてもろた小袖…似合う?」
あれはまだ出会ったばかりの頃。なつに惚れて、どんなことをすれば彼女の気が引けるのかと気を回し、あれこれと買い求めて与えた。美しい櫛や、赤い紅、高級な帯留め…特にこの赤い小袖はなつが気に入ったのをみて即決して購入したものだ。
「ああ…似合うよ」
しかし正直に言えば、似合うとは言い切れなかった。彼女は普段は淡い色の着物を身に着けていることが多い。もちろんなつの整った顔立ちは何でも見合うと思っている松原だが、その真っ赤な赤い色はまるでなつのイメージとは重ならなかったのだ。
だが、自分が買い与えたものに袖を通してもらえるのはそれだけで男心をくすぐった。
「では、行こうか」
松原は立ち上がり、軽く息を吐いた。
もう忘れよう。
今まで新撰組として過ごしてきた日々は、確かに自分の中に深く刻まれている。一生の忘れることのできない出来事だろう。しかし、これからはなつとともに生きる…そう決めたのだ。
すると、カチャ、という金属がぶつかる音が聞こえた。
その硬質な音はよく響いた。
「…なつ」
松原は目を見張った。彼女の手元には、小さな拳銃が握られその銃口は松原に向いていたのだ。

なつは笑っていた。
「ほんま…阿保やなあ…」
「な、なつ…何を…」
「うちが、あんさんとともに逃げるなんて…そんなことあらへんのに」
まるで鳥の鳴く声だと思っていた彼女が、低く思い音を放つ。松原は混乱した。鋭く厳しい目でこちらをみるなつが先ほどまで一緒にいた女だとは思えなかったのだ。
「その、銃は…」
「これは旦那様のお仲間から頂いたものです。刀の腕ではうちでは無理やから…いつか使うことになるだろうと」
「…」
銃を向けられているこの状況でさえ、松原はなつが『旦那様』と前の男である安西を呼んだことに心が痛んだ。本当に安西は討幕派の志士だったのだろう。彼の仲間がいまだになつと通じていてもおかしくはないし、殺すように指示を受けていても不自然ではない。
『亭主を殺された憎しみを…あなたにぶつけている。あなたとともにいるのは、復讐のためだと、はっきりと』
総司に言われた言葉を思い出す。本当にその通りだったのだろう。
松原はふっと息を吐く。状況の激変とは裏腹に頭は意外にも冷静だった。
「俺のことが憎いのか?」
そう問いかけると、
「憎いに決まってるやろ?!」
なつは怒鳴る。こめかみに皺を寄せ、きゅっと唇を噛み、さらに厳しく松原を睨んだ。
「うちはただ、旦那様とサチと三人で平穏な日常を過ごしたかっただけなのに…ッいきなり、旦那様が死んだって聞かされて、わけもわからず…サチと二人になった…!」
なつは感情の高ぶりから、ぶるぶると震えていた。目尻に涙が浮かび、頬が紅く染まる。
「最初は…旦那様は己の志に殉じたんや、それでええって…思ってた。でも、そんな時にあんたが現れた…!何にも知らない顔で、名前を誤魔化して、うちに優しくして…ッ!」
「…」
構えた銃口がその焦点を失ったかのように、なつの感情とともに揺れていた。
「あんたの本当の姿に気が付いたのは…あんたに抱かれたあとや。この銃をくれたお仲間が教えてくれた…あんたが新撰組の隊士や、旦那様を追い詰めた男やって…その時、うちがどんなにどんなに絶望したか…ッ!」
「…っ」
知らなかったとはいえ、直接手を下していないとはいえ、愛していた男を殺した男に抱かれた。
その時の絶望と悲嘆と痛み…それを想像するだけで、松原は激しい後悔に襲われた。なつに盲目的な恋心を寄せる松原だけが幸福に満たされていただけで、なつは知らないところで苦しんでいた。
(そんなことにも気が付かず…俺は…)
彼女が許してくれていたのだと思い込み、甘えた。正体を知られたあとでも、受け入れてくれたのだと思っていた。
(いや…俺は気が付いていたのかもしれない)
総司からなつの本当の気持ちが『復讐』なのだと聞かされた時、それでもいいと答えた。同じだけの愛情を返してもらおうなんて傲慢なことは思っていないのだと。
でも、松原が彼女に与えたのは決して愛情ではなかった。
自己満足の感情を押し付けて、
なつは憎しみを募らせた。
それだけだった。
(俺は…旦那と、サチ…そしてなつさえも殺していたのか…)
なつが着ている真っ赤な小袖は、彼女の涙の血だ。
もしかしたら、彼女は不似合いな真っ赤な小袖を欲しいと言ったあの日から、こんな日が来ることを想像していたのかもしれない。
「いつか、あんたのことを殺そうって思うてた…名誉も金も、すべてを搾り取って…」
「…それがなぜ、今日なんだ…?」
「あんたが、新撰組隊士じゃなくなったからや…!あんたにはもう…何もあらへん」
なつは即答した。その返答に、松原は
(その通りだ)
と思った。
松原は、なつの求める名誉や金…そして立場や存在意義さえもすべてを失ったどうしようもない男に成り下がる。なつにとって無意味な存在になる。
(ああ…そうか…)
歌舞伎からの帰り道、「新撰組隊士をやめた」と告げた松原に対してなつはその眼の色を変えた。今から思えば、暗い影が覆っていた。
その時に決断を下したのだろう。
松原を、殺そうと。
「…わかった」
松原は手にしていた刀をその場に落として、無防備な状態になった。その姿に困惑したのはなつの方だった。
「なに…?」
「すまなかった」
「…な…」
「お前を苦しめているとは知らずに…自分のことばかりで、俺はどうしようもない男だ」
なつとともに、なつのために生きようと決意したはずなのに、彼女のことを全く理解していなかった。
(情けなくて…仕方ないな)
『お前は何者だ』
そう問いかけた土方の言葉が不意に蘇った。
あの時は何も答えることができなかった。責められたのだと思って、思い詰めて感情的になって、切腹までした。
(…すみません)
その答えは、いまこの時でさえわかりません。
(でも…)
最後の最後に願うのは、この命をなつに捧げたいということだけだ。彼女が満足するように、彼女が復讐という醜い感情から解き放たれますように、と。
松原は自身の襟を開き袖から腕を抜いて上半身を晒した。
「…これはこの間、俺が死に損ねた時の傷だ」
「…」
「君が、介錯をしてくれ」
松原は手を広げた。
武士らしい死に方とは言えないだろう。銃口を向けた女に殺されるなんて、不名誉でしかない。
(でもいいんだ…)
不思議とその選択は、松原にとって清々しいものだった。
なつはその頬に涙を一筋流した。
「…新撰組やなかったら、良かったのに…」
そうポツリとつぶやいたなつは、引き金を引いた。
(君は、新撰組隊士ではない自分なら…好きになってくれたのか?)
そう問いかけることはできなかった。
心臓を貫いた銃弾に、松原は倒れたのだ。





96


現在は医務方として京の町医者・南部のもとで修業を積む山崎は、監察の仕事からは手を引いている。そもそも監察という仕事は、いずれ果たせなくなるだろうという危惧があった。成果を上げれば上げるほど顔が知られその職務を全うするのが難しくなる…それを山崎も理解していたので、それが潮時だと感じ始めた頃に針医者の息子である出自を買われ医務方として修業を積むことになったのは良い機会だった。そのことに不満はなく、むしろまだ役立てる場所が新撰組にあるということは有難く思っていた。
しかし、だからといってすぐに監察の頃に養われた業が抜けるわけではない。
松原の動きは逐一、監察時代に懇意にしていた下男を雇って、見張らせていたのだ。
土方には
『あいつの判断に任せる』
と半ば匙を投げるように指示を受けた山崎だが、それに従うことはできなかった。忠実に土方の命令に尽くしてきた山崎でも、投げ出すことはできなかった。
これまで何人も脱走して行方を晦まし、不運にもつかまり切腹になる隊士たちを見てきた。監察として冷静な価値観で遂行してきた山崎だが、今回ばかりはただただ松原が脱走するのを待つことはできなかったのだ。
(あいつとは…戦友や)
山崎と松原は同じ時期に入隊した。かつて壬生浪士組と呼ばれた頃、まだ何を成すのかも知れぬ若い集団に共に入隊した。活気溢れる雰囲気のなか、ともに新撰組を築いてきたという自負がある。
(だからこそ…こんなところで立ち止まってるわけにはいかんのや…)
山崎は白衣を脱ぎ、かつて下男に身を扮していた頃のボロボロの衣服に袖を通した。夕暮れが夜に塗りつぶされるような闇に紛れて、大通から何本か中に入った貧しい家が立ち並ぶ場所にたどり着く。その一つになつの家があり、そのすぐ傍のボロ屋を一時的に借りていたのだ。
「どうや、様子は…」
「へえ、二人で家に入っていきましたわ。なんや喧嘩でもしてるんやないかな」
「喧嘩?」
「女の声が聞こますわ。痴話げんかやないか」
「…ふん…」
下男の報告に、山崎は顔を顰めた。
(今晩は夜番のはずや…)
そろそろ屯所に戻るべき時間だが、家からはその様子はない。
(…松原…)
悪い予感を感じつつ、山崎は祈るような気持ちで息をついた。
松原の真面目すぎる気性や、なつとの経緯、そして亡くなったその娘であるサチとの関係。そのすべてを把握している山崎だが、どうにか新撰組四番隊組長として戻ってきてほしいという気持ちは拭えなかった。それは一隊士としてではなく友人の一人として彼を思う私情だ。
(もし今夜…松原が女を連れて逃げることになったら…)
このまま見逃すのか。
それとも新撰組隊士として彼を断ずるのか。
山崎が決めかねていた、その時だった。
一発の銃声が激しく木霊した。
「な、なんやぁ?!」
飛び跳ねるように悲鳴を上げる下男とは違い、山崎はハッと何かに気が付いた。その銃声が聞こえた途端、それまで抱え続けていた『嫌な予感』が的中してしまったかのような衝撃が走ったのだ。
「隣を見てくる!」
山崎は家を飛び出し、銃声が聞こえた場所…なつの家に走った。
そして躊躇いもなくその扉を開く。
「松原…ッ!」
入ってすぐの土間に、大きな体躯の男が倒れていた。それは間違いなく松原であり、彼は血だまりのなかで横たわっていた。
山崎は駆け寄り、すぐに脈をとる。医務方の経験が生きた…しかし
「…っ、あかん…」
脈は消え、松原の息はない。心臓からどくどくと溢れる真っ赤な血はとめどなく流れ続ける。
山崎は脱力した。すぐそばにいたのに、最悪の結果を防ぐことができなかった悔しさといら立ちが込み上げる。だが、松原は思った以上に彼は安らかな表情をしていた。
「…お前が、撃ったんか…?!」
山崎は呆然と立ち尽くしたままの女…なつに怒鳴った。友人の死を目の前に感情を堪えることはできなかったのだ。彼女は小さく震えながらも、手にしっかりと銃を握っていた。そしてか細くつぶやいた。
「おわ…った」
「何?」
「ぜぇんぶ…終わった…」
なつは微笑みながらも、大粒の涙を流していた。彼女の中に様々な感情が渦巻いているのがわかる。
憎しみ続けていた男に復讐を果たしたその高揚と動揺。しかし松原に対して少しも愛情がなかったわけではないだろう。その彼を亡くしてしまった喪失感が彼女を襲っていた。
「サチ…堪忍な…」
なつは震える両手で銃を掴み、その銃口を自身へ向ける。その意図を察した山崎が「待て!」と叫んだが、間に合わない。
静かでしかし闇が埋め尽くすような夜に、もう一発の銃声が響く。松原と同じ心臓を撃ち抜いて、真っ赤な小袖に身を包んだなつの体が落ちる。
あっけない幕切れに、山崎はその場に立ち尽くしたのだった。



「何ということだ…」
土方から報告を受けた近藤は頭を抱えて項垂れた。参謀として同席していた伊東も顔を顰めて息を吐く。
山崎からの報告は、女が松原を殺した、そして彼女自身も自殺した…ただそれだけだった。結局、二人の間に起ったことは二人にしかわからないものであり、山崎自身も知っていたとしてもそれを話そうとはしなかったのだ。
しかし、土方には結果だけで十分だった。
(あいつは…戻ってこなかったんだ)
戻るチャンスがあって、やり直すこともできたはずなのに、それを彼が選ばなかったのだ。
(それが、あいつの意志だ)
「まさか…女に撃たれて殺されるとは…思いもよりませんでした」
伊東は少し不快感をあらわにした。彼にとっては松原は古参隊士というだけであり、それ以上の思い入れはないのだろう。ただ女に殺されてしまうという不甲斐なさに呆れているようだった。
しかし、局長である近藤はそう割り切れるわけはない。
「なぜだ…なぜ、彼は…こんなことに…!」
近藤は拳を握りしめて、畳を叩く。悔しそうに何度も何度も。彼は松原の再起を心から信じていたのだ。
「近藤局長、落ち着いてくれ」
「…っお前のように、そんな簡単に割り切れるものか…!」」
近藤の怒りと悲しみは、淡々と話す土方に向けられようとしている。しかし、目ざとく察した伊東が
「…近藤局長、お気持ちはわかりますが、土方副長にはどうすることもできなかったことです」
と励まし、続けた。
「義に殉じるのが武士の理想の死に方ではありますが…それが松原君にとっては女だった。これは彼が純粋であるがゆえに、その想いが引き起こした…いわゆる『悲劇』です。誰のせいでもないのです」
伊東は誰も責めることもなく、出来事に名前を付けて幕を引く。
(『悲劇』…か)
土方は内心、苦笑した。その『悲劇』という言葉は、結果だけ諳んじた薄っぺらな言葉に聞こえたのだ。しかし、その美しい言葉に近藤は怒りを解く。
「そう…か、そうかもしれないな…」
もちろんまだ何も解決はしていないだろうが、近藤はどうにか理由をつけて感情を押し込んだようだ。伊東は満足げに頷いて、今度は土方へ目を向ける。
「…それで、土方副長。この件は…」
「ああ…心中とする」
脱走を図っていたとはいえ、松原が新撰組隊士であることは間違いない。そんな彼が女に撃たれて殺されてしまうなど、広めるわけにはいかなかった。
「心中…」
「それが良いでしょう」
土方の提案に近藤は困惑したようだが、伊東は承諾した。様々な憶測や噂話は飛び交うだろうが、心中だと言い張ればそのうち美談にもなることだろう。近藤は受け入れがたいようだったが
「わかった」
と答えた。その返答を得て、土方は早速立ち上がる。
「指示を出してくる」
「ああ……」
土方は近藤と伊東を残して部屋を去る。伊東はそのまやかしのような言葉で近藤を慰めるだろう。
(それでいい)
その役割は自分ではない。
「土方さん」
部屋を出てすぐに総司に出会った。総司は部屋の会話を聞いていたのだろう。
「…心中…ですか」
少し寂し気に尋ねてきた。
「ああ…それが松原にとって最良だ」
近藤と同じで総司も複雑な表情を浮かべていたが、それでもそれ以外の方法は浮かばなかったのだろう。
「…亡骸はどうするのですか?」
「女は縁戚の者がいないか調べさせる。松原は…光縁寺に葬る」
「山南さんと同じですか…」
「同じじゃねえよ」
土方は総司の言葉を遮った。
同じではない。
眠る場所が同じだとしても、山南の死と松原の死は…決して同じではない。
「…そうですね」
総司はぎゅっと唇を噛みしめた。そんな総司の心情を察する余裕は土方にはなく
「あいつに切腹を申し付ければよかったのかもな」
「…」
「…独り言だ」
自分の溢れだしそうな感情を留めるのが精いっぱいだった。





397


松原の亡骸が光縁寺に葬られたのは、秋晴れの気持ち良い日だった。
隊士たちには松原は懇意にしていた女とともに心中したと伝えられた。伊東の言っていた通りまるで物語のような『悲劇』として受け止める隊士もいたが、
「詰め腹を切らされたのではないか」
「脱走を図ったのではないか」
「殺されたのではないか」
と様々な憶測が飛び交った。しかしそのことについて真実を知る者は肯定も否定もしなかった。真実という名の『結果』は、女に殺されたという、ただただ男にとって不名誉なものだけだったからだ。噂は噂を呼び、隊内はどこか騒がしい。
そんななか、総司は一人で屯所を出て壬生へ向かった。途中で花売りを引き留めて菊を買い求め、そのまま光縁寺へ歩く。
松原の亡骸は光縁寺に渡され、葬儀も何もなく埋葬された。新撰組としては女と心中した男の葬儀を催す必要はないという判断だったが、総司にはそれが良いのか悪いのかわからなかった。壬生浪士組の時から隊に尽くしてくれた功績を考えれば見送ることさえできないのは苦しかったが、彼の選んだ最期が新撰組隊士として誇らしい最期ではなかったのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
光縁寺の住職に挨拶をして墓地に入る。松原は山南の近くの墓石だと教えられたので、迷うこともなく奥の方へと向かった。すると思わぬ人がいた。
「…鈴木さん」
九番隊組長であり、伊東の実弟でもある鈴木の姿があった。墓の前で腰を下ろし目を閉じていたが、総司に気が付くとゆっくりとその目を開けた。
「あなたですか…」
依然、鈴木は総司を見ると少し不機嫌そうな顔をになる。伊東に似た顔だが、決して兄のように朗らかに笑うことはない。しかし総司には以前よりも嫌悪感はない。
「松原さんの墓参りですか?」
そう尋ねると、鈴木は淡々と「一応」と答えて続けた。
「…九番隊の隊士でしたから。上司としての責任はあるかと」
「そうですか…」
実際に、鈴木の率いる九番隊に松原が在籍した期間は少ない。松原自身も切腹を図った後だったので九番隊に馴染もうとはしていなかった様子だが、それでも鈴木は彼の死について思うことがあるようだ。
「どうぞ」
鈴木に譲られて、総司は墓石の前に立つ。真新しく刻まれた松原の名前に痛みを感じつつ、菊を手向け手を合わせた。
(どうか…安らかに)
彼に言いたいことは山ほどあった。けれど今彼に贈る言葉はそれしかない。
総司はゆっくり目を開けた。
「女に殺されたとか」
「…知っているんですか?」
松原の本当の最期については、山崎から直接報告を聞いた土方、総司、そして局長の近藤、参謀の伊東しか知らないことだ。組長であっても伏せられているため、永倉や原田たちも「心中」だと信じている。
すると鈴木は
「やはりそうでしたか」
と答えた。総司のリアクションを見て悟ったようだ。
「隊での噂の一つです。女が討幕派の連中と通じており、当初から松原さんを殺すつもりで近づいたのだと」
「…」
それが本当なのか、そうではないのか。
総司にはそれを答える資格がない気がしていた。松原の気持ちは松原にしかわからず、なつの考えはなつにしかわからない。ただ結末が、なつが引き金を引き松原が死んだ…ただそれだけのことなのだから。
しかし鈴木は
「愚かだ」
ときっぱり断じた。
「鈴木さん…」
「俺にはわからない。たった一人の女に溺れて、命まで投げ出してこんな恥ずかしい最期を遂げるなんて…考えるだけで、身震いがする」
鈴木は吐き捨てる。墓に眠る彼の前だというのに、遠慮はない。それだけ松原に対して侮蔑の感情を持っているのだろう。
総司はそれを非難する気持ちにはならなかった。鈴木のように松原を責める声は隊内でもちらほらと聞いた。正義感が強い隊士ほど、松原の死に否定的になるのだろうと思う。
「傍目から見れば、鈴木さんのいうとおりだと思います。隊士としての職務を放棄して女と逃げた…それはその通りです。褒められるものではない。でも…」
「…何ですか?」
「気持ちは…わからないわけじゃない」
松原が殉じたものが、愛した女だったというだけだ。総司だって、近藤に何かあれば身を投げ出す気持ちでいる。土方に何かあればこの身を挺してでも守りたいと思う。
松原が選んだものはきっとそれと同じなのだ。なつに殺される結末…それが彼女への愛を貫く方法だったのだろう。その自分自身の純愛に殉じた松原の決断が、総司の気持ちとまったく違うことはないだろう。
「…俺には分かりません」
鈴木はそう言い捨てると、総司の隣を過ぎ去りさっさと墓地を出て行ってしまう。冷たい言葉ばかりを投げつけて去っていった彼だが、総司は嫌な気持ちにはならなかった。
(本当に嫌だったら、ここに来なくても良かったはずだ…)
たた数日間部下だった…それだけの理由で責任を感じる必要はない。誰も鈴木を責めたりはしない。それなのに、彼は墓参りにやってきた。この墓石の前で静かに手を合わせていたあの表情は、決して松原を責めるような横顔ではなかった。
総司はふっと息を吐き、空を見上げた。雲一つない、晴れ渡った空が眩しい。
この空の上からすでにいなくなった人たちは、何を思っているのだろうか。


総司は屯所には戻らずそのまま別宅へと向かった。屯所には土方はいない。どこへ行くとは誰も聞いていないようだがそういう時は別宅にいるに決まっている。
別宅に辿り着くと丁度おみねが家から出てきた。風呂敷を抱えているので仕事を終えたところのようだ。
「おみねさん」
「…まあ、沖田せんせ」
「土方さん、来てます?」
「へえ…」
おみねは頷いたものの、表情が冴えない。総司が「どうか?」と尋ねると戸惑いつつ答えた。
「どこかお元気がなくて…心ここに在らずというか…何かあったんやろか」
「…そうですか…」
「でも、沖田せんせがいらっしゃったならお元気にならはると思います」
「だといいんですけど」
おみねは少し安堵の表情を浮かべて、「ほな」と軽く一礼して去っていく。総司は彼女を見送って別宅の扉を開けた。相変わらず小奇麗にされている玄関には土埃一つなく、土方の履物が置かれているのみだ。総司は挨拶もなく上がり、そのまま部屋に入った。おみねとのやり取りは聞こえていたはずだ。
「土方さん」
襖を開けると、庭を眺めて横になる土方がいた。元気がないとおみねが言っていたが、確かにそんな風に見える背中だった。
「…来ると思っていた」
彼は背中を向けたままそういったので、総司はすぐそばに腰を下ろした。
「屯所にいなかったからここだと思ったんです。…私は光縁寺に行ってきました」
「ああ…線香の匂いがする」
「鈴木さんに会いましたよ。彼も松原さんのお墓参りに」
「…ふうん…」
土方はようやく体を起こし、総司の方へ向いた。瞼が重そうだ。
「寝ていないんですか?顔色悪いですよ」
「…いや、寝たが…珍しく悪夢を見た」
「へえ…」
土方は乱れた髪を掻き上げる。そして軽くため息をついた。
「…山南さんに説教をされる夢だ」
「山南さん…ですか?」
「ああ。もっと良いやり方があるのではないか、君のやり方は厳しい…ずっと責め続けられる夢だ。だが俺はなぜか何も言い返すことができない…なんだかひどく、疲れた」
「……」
土方は屯所では決して見せない、気だるげで戸惑った表情を浮かべていた。
「山南さんは…そんなことは言いませんよ」
「…どうかな」
「今回のことは、松原さん自身が引き起こしたことです。誰も悪くはない…山南さんだってそう言うはずです」
総司が言い切ると土方は少し笑った。
「お前が誰かを責めるようなことを言うのは珍しいな」
「…だって松原さんを許せば…何のために、山南さんが死んだのかわからなくなるじゃないですか…」
身内さえも厳しく罰する。山南が切腹を選んだということは、それを著しく顕していた。
しかし、かつて山南を介錯した右手がその感触を取り戻そうとしていた。訳もなくあの時の痛みが込み上げてきた。
山南と松原の死は同じではない。でも、仲間を失った気持ちは同じだ。
総司は土方の肩に手を伸ばした。そして自ら抱き寄せた。
「…総司?」
そんな風にするのは初めてのことで、土方は戸惑っていた。彼の耳元で総司は小さく囁いた。
「今日は…お願いに来たんです」
「…何を?」
「いますぐに、抱いてほしいんです」
それは自分のためではなくて、土方のために。弱いものを弱いままではだめだという彼が、少しだけでも癒されるように。
「駄目ですか?それとも…疲れてます?」
「…そんなわけないだろう」
土方は総司の両頬に手を伸ばし、そのまま引き寄せて口付けた。冷たい秋風に晒された唇が同じ熱をもって、溶け合って、同じになっていく。口腔を彼の舌が舐めると堪えきれない唾液が、口の端から漏れた。
「…歳三さん」
「何だ…?」
土方の大きな手が襟を掴み、首筋から鎖骨に触れた。彼の手は冷たかったけれどすぐに温かくなった。
「私は…どんな歳三さんであっても、好き…ですから」
「…」
「だから…今日は歳三さんの思うように、抱いてください」
いつもは照れくさくて、翻弄されるままにこうして体を重ねていたけれど、今日は違う。
自分自身で、そうしてほしいと願うからこそ身を委ねているのだと…それが誰でもなく土方だからそうしているのだと知ってほしい。
「…ああ」
土方は微笑んだ。
それは総司でさえ見たこともないようなとてもうれしそうな声と表情だった。





398


目を開けると、そこには美しい顔があった。しばらくは見惚れてまじまじと見たが、次第に彼女は恥ずかしそうに顔を逸らした。
「…旦那様、もうお目覚めどすか?」
「もう…ということは、長く眠っていたわけじゃないのか」
「へえ、うちの膝枕で微睡まれただけ」
くすくすと笑う深雪の微笑みに、近藤の心が癒された。
(ああ…そうか…)
松原の一件で正直、参ってしまった。
古参隊士として壬生浪士組時代から頭角を現し、四番隊組長を任せた。生真面目で冒頓とした性格は一言二言交わせばすぐにわかる…近藤はすぐに彼を信用して重用した。
しかしそんな彼が切腹を図るほど女にはまり込み、そのまま新撰組隊士であることさえも捨ててこの世を去った。彼の再起を信じていた近藤は、彼のその最期の決断が理解できなかった。
『なぜなんだ…!』
その問いかけには、誰も返答しない。経緯を知っている土方も、客観的に事実を知った伊東も。それは、その答えを知っているのは松原だけだったからだ。
伊東はすべてを『悲劇』と呼んだ。
(――悲劇…)
そう片づけてしまうのは簡単だ。仕方ないことだったのだと諦めることができる。
(しかし…それは、あまりにも楽だ)
楽な方へ逃げて見なかったことにすれば、また同じ過ちを繰り返す。松原のように、山南のように、次々と仲間が去ってしまうだろう。
(これは受け入れるべき痛みだ…)
悲劇といって他人事のように名前を付けるべきではない。冷静になった今ではそう思えた。
「何か召し上がりますか?」
深雪は穏やかな微笑みで問いかけた。
心を痛めた近藤は屯所に居られずこの別宅に駆け込んだ。深雪は普段通りに近藤を迎え、事情も深く尋ねずに膝枕を差し出した。彼女の柔らかで温かい太ももと滑らかな指先に癒されて、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「いや…このままでいてくれ」
「へえ…」
近藤は何も聞かずただただ自分を甘やかす深雪の存在を(有難いな)と思った。ここでは『新撰組の局長』ではなくただの『近藤勇』として気を抜くことができる。そういう場所があるというだけで、心のゆとりが違う気がする。それが親しいものであればあるほど、心が癒される。
「歳や総司も同じか…」
「土方さまと沖田さま?」
つい思ったことが口に出てしまったようだ。
「…いや…その、歳と総司が衆道関係なのは話しただろう?」
「へえ、男はんやけど見目麗しいお二人やから、お似合いやと思います」
不快感もなく深雪は笑ったので、近藤は続けた。
「こういう…厳しい状況の時、俺には君がいるように…あの二人はお互いを励ましあっているのかと思ってな」
「ふふ…羨ましいどすか?」
「羨ましい…か。そうだな、そうかもしれない…」
女である深雪は新撰組の屯所に足を踏み入れることはない。そういう意味では常に傍にいる土方と総司のことを羨ましく思う。
(だが…)
あの二人は、今まで自分の知らない苦しみを味わってきたはずだ。
いつも嫌な仕事ばかり請負い、損な役回りを引き受けて平気な顔をしている幼馴染と、その傍らでその手を血に染めてきた愛弟子。その二人に守られ、支えられてきた新撰組の局長というポジションが、時々虚しく感じてしまう。祀り上げられただけの肩書が悲しく感じる。
(しかし、もう引き返すことはできない)
その決断は揺らがなかった。
たとえ虚構の王だとしても、そこに在ることが自分の仕事なのだと土方に言われてきた。それでうまくいくのなら、いくらでも愚鈍な王を演じよう。それが新撰組のためだというのなら、どんな決断でも下そう。
「深雪…」
(ただ、君だけは本当の俺を知っていてくれ)
願うようにして見つめたはずなのに
「…なんや旦那様、おかしな顔して」
深雪が微笑む。なんだか気が抜けて近藤も笑った。
秋の風が彼女の美しい黒髪を靡かせた。
「下から見上げた君の顔も…美しいなと思って」
「…お上手なこと」
こんな時間が続けばいい。
近藤はそう思った。


「もう起きたのか?」
総司が目を覚ますと、晴れやかな秋晴れの空が真黒な闇に覆われていた。薄ぼんやりとした部屋のなかで衣一つも纏っていない自分に気が付く。そして
(ああ…そうか)
と察する。松原の墓参りから別宅にやってきてすぐに彼と寝た。人通りの少なくない昼間だったというのに、歯止めがきかずに互いを求める衝動を止めることができなかった。
「いま…何時くらいですか?」
「もう真夜中だ。明日は夜番だろう、ゆっくりしていけばいい」
「はい…」
ゆっくりしろと言われたものの、総司は傍にあった着物に袖を通した。一方で土方はろうそくを一本だけ灯し、書物に目を通していた。
「土方さんは、寝ていないんですか?」
「ああ…返って眼が冴えた」
「そうですか…」
土方は平気そうな表情だったが、総司は身体が気怠くて体を起こすのも億劫だった。何度となく重ねた行為のせいだ。
「どうした、まだ寝ていればいいだろう」
「いえ…その、話したいことがあるんです。松原さんの一件で…話しそびれていたんですけど」
「何だ?」
総司は重たい体を引きずりながらも、まっすぐに土方に向かい合った。
「…見合いの件です」
「ああ…」
土方は少し嫌そうな顔をして、手にしていた書物を閉じた。総司から見合いの話をしたのは初めてだが、土方はすでに近藤から話を聞いていたのだろう。驚いたようには見えなかった。
「近藤先生から突然、勧められて…相手の方にお会いしました。でも芝居の席だったので、顔をちらりとみただけですけど」
「それで…どうだったんだ?」
「お断りしようと思います」
総司のあっさりとした言葉に、土方は目を見開いて驚いた。
「断るって…南部先生の紹介なんだろう。かっちゃんだって乗り気だったじゃねえか」
「確かに近藤先生は南部先生のご紹介だから良い人だと言っていました。姉上が私のことを心配しているのも伺いましたし、そういう年齢だというのは自覚しています」
「だったら…」
「でも、縁組なんてできるわけがないじゃないですか」
土方は眉間に皺を寄せたまま戸惑った表情を見せる。彼のそんな顔を見るのは珍しい。
「なぜだ?」
「…私が好きなのは、歳三さんしかいないからですよ」
総司はまっすぐに土方を見つめた。その言葉には虚栄も嘘もなく、何の飾りもないものだったから。
しかし、土方の表情は未だに冴えない。
「…好きだとか嫌いだとか、そういうことの話じゃない。かっちゃんだって言っていただろう、家のため、お前の血を絶やさないために嫁を取るべきだと。好き嫌いの話は関係ないんだ」
「歳三さんは、私が嫁を迎えたほうが良いと思うんですか?」
「だから、そういう話じゃないんだ。実際に好いた女は別にいるのに、家のためにふさわしい家格の娘を嫁に迎えることだってある。かっちゃんだって今、そうしているだろう」
近藤は正妻として清水家の家臣の家柄であったツネを迎え、いまは身請けした深雪を囲っている。土方は子供に言い聞かせるように話すが、総司は「いいえ」と聞く耳を持たなかった。
「私には無理なんです。…松原さんの一件で、わかったんです」
「何が?」
「女と心中するなんて最初は理解ができなかった。恋愛感情のためにすべてを擲つなんて私にはできない…でも、私が理解できなかったのは、相手が女だったからだったんです」
「…どういうことだ」
「松原さんにとってのおなつさんと、私にとっての歳三さんは、同じだと気が付いたんです」
松原がなつのために命を賭けたその気持ちは、きっと自分が土方に対して向ける感情と同じなのだ。
(私はきっと歳三さんに殺されても、それを受け入れる)
ありえないシチュエーションだとしても、それが容易に想像できた。だからこそ、松原の気持ちが理解できたのだとわかった。
しかし、土方は未だに唖然として
「悪いが…意味が分からない」
としかめっ面をしていた。総司は笑った。『意味が分からない』と首をかしげる土方を見るのが新鮮だった。
「私は歳三さんと心中するつもりでこうして一緒にいるんです」
「…お前…」
「だから、私は嫁を貰うことができないんです」
たとえ近藤の勧めだとしても、それだけは譲ることができない。
(もう歳三さんで…いっぱいいっぱいなんですから)
見合いを勧める近藤は、子供っぽい我儘だと叱るだろう。身の上を心配する姉は呆れて怒るだろう。
しかし
「…ッ、ん!」
土方は総司の後頭部に手を回し、引き寄せるとそのままの勢いで口付けた。口唇が重なり舌が絡み、息をつく暇もないような激しい口付けに目が回る。
「っ、ぁ…」
「後悔、しないか?」
「ん…後悔ですか…?」
「ああ。俺とともに生きるってことは、たぶん幸せにはなれない。家族も子供も…温かいぬくもりなんて何もない。楽しいこともなくて、ただ、苦しいだけかもしれない」
修羅の道とは。
そういうものだから。
でも
「そんなことはないですよ」
何も生まれない、何も生み出さない関係だとしても
(今あるこの確かな気持ちは…誰にも揺るがせないから)
「…大丈夫です」
総司は彼の胸に顔を埋めた。
どくんどくんと跳ねる鼓動が、いつもよりほんの少しだけ早い。そして土方がその手を背中に回して抱きしめた。
「わかった」
彼はその短い言葉で受け入れた。素っ気なくも聞こえたけれど、彼の腕は強く抱きしめたままでそのまま解けることはない。その強さで、彼の気持ちは伝わる。
「お前…かっちゃんをどうやって説得するのか、考えろよ」
「考えなくったって近藤先生はわかってくれますよ」
「どうかな…」
秋の夜は深まり、静かだ。
その静けさのなかで小さな小さなぬくもりを大切にしたかった。










399


松原の死から、数日が経った。
「うーっ!寒い!」
人よりも頭一つ背の高い原田が、背を曲げて身体を小さくするように屈んでいた。先日までの秋晴れから一転、冬の片鱗を見せる北風が吹き始めていた。
「巡察帰りですか?お疲れ様です」
丁度、西本願寺の長い廊下ですれ違った総司が声をかける。原田は「おう」と手を挙げて足を止めた。
「今日も異常なし、平和平和!」
「それは良いことです」
「まあそうなんだけど、つまんねえよな。こう…張りがないっていうか。しかも妙に注目されちまうしよ…ああ、面倒くせぇ」
原田が吐き捨てて、総司は苦笑した。
松原となつの心中は瞬く間に京の町に広がった。隊の離脱を考えるほどに追い詰められた隊士と、子を失った未亡人との心中…些か美化されてしまい、まるで浄瑠璃の「曽根崎心中」のように美しい物語として噂されている。
(悪く言われるよりはいいけれど)
真相を知る総司としては複雑な気持ちだ。原田はふうと息を吐いた。
「ま…あいつもさ、何があったかは知らねえが、切腹までして女と心中するなんてよ…何もそこまで自分を追い詰めなくてもよかったのにな。くそ真面目でいい奴だったのに、勿体ねえぜ」
「…そうですね」
「俺とおまさちゃんみたいには簡単にはいかねえんだろうな」
原田はどこか遠い目線を空へ向けた。松原のことを思っているのか、陽気な彼にしては寂しげな表情だ。何も知らない彼の横顔を見ていると胸が詰まり、総司は「そういえば」と話を変えた。
「おまささんと言えば、ご様子はどうなんですか?」
おまさが身籠った、という話を聞いたのは数か月前だ。その後は松原の件があって話を聞いていなかったのだ。すると原田の表情が綻ぶ。
「ん?ああ、ようやく落ち着いたみたいでさ。近藤さんにも報告したところだ」
「そうですか、良かったですね。生まれるのは…」
「春頃だな。俺が父親っていうのも、変な感じだ。この俺に家族ができるんだぜ?想像できるか?」
原田は頭を掻き、少し照れくさそうな顔をした。
昔からどこか浮足立って気性が荒く、落ち着かない雰囲気のある原田だが、おまさを嫁に迎えてからは地に足が付いたように穏やかな表情を見せることが増えた。子が生まれればさらに父性が加わるのかもしれない。
そうやって人は成長するのだろう。
(家族…か…)
「大丈夫ですよ、原田さんなら」
総司が答えると「そうかなあ」と原田はやはり照れくさそうに笑ったのだった。


ポツポツと提灯の明かりが、花街にゆらゆら揺れる。昼間よりもこの場所は明るいが、どこか輪郭のない光がともっている。
馴染みである島原の輪違屋を訪れていた伊東は、腹心の内海からの報告に苦い顔をした。
「死んだ…か」
「はい。殺されたようです」
伊東は一息吐いて、手にしていた酒を口にして一気に飲み干した。
死んだのは伊東が以前、奈良で捕縛した長州藩士の男だった。近藤や土方には『新撰組の間者として長州の事情を探らせる』という理由で釈放し、その後は手紙のやり取りを続けていたが、有益な情報を得る前に殺されたということだ。
「何処で、誰に?」
「場所は備後のあたりということですか…さすがに誰が殺したということまではわかりません」
「…そうだな」
内海の淡々と受け答えるが、本当は誰が殺したなんていうわかり切った野暮なことを口にしないだけだ。
伊東はもちろん察していた。
(あんな涼しい顔をして…)
おそらく男を殺したのは、新撰組の隊士あるいは土方から命を受けた者の仕業だろう。遠く離れた場所でのことなので何の証拠も得ることはできないが、土方は伊東の手先である男を消してしまいたいと考えていたはずだ。
「やり取りしていた手紙が露見したということはないな?」
「ありません」
「だったら…いい」
伊東はぱちん、と扇を閉じて懐に仕舞った。手駒の一つは失ってしまったが、痛手ではない。しかし内海は眉間に皺を寄せた。
「ですが…思ったよりも早いです。半年ほどでしょう…まだ泳がせておくと思っていました。それほど、副長は我々の動きを警戒しているのでしょうか?」
「ふふ…彼が江戸っ子だからじゃないか。せっかちだというじゃないか」
「私は真面目にお伺いしているのですが」
伊東の返答に内海は嫌そうに顔を顰める。彼は真面目な話をからかわれるのが苦手なのだ。
「そうだな…松原君の一件があったからかもしれない。こういう『揺らぎ始める』雰囲気だからこそ、余計な茶々を入れないようにと、私に釘を刺したのだろう」
「…なるほど」
なるほど、と言いつつも内海はまだ納得し切れていないようだが、伊東は続けた。
「それに次の策なら考えてある」
「策…ですか?」
伊東が頷くと、内海は怪訝な顔をした。一体何企んでいるのかと訝しむ表情だったが、しかしその話を続けることはできなかった。
「せんせ、花香どす」
甘く少し高い声が部屋中に響く。そして襖が開けられて、華々しく彩った花香太夫が顔を出した。二、三人の可愛らしい禿を引き連れている。
「太夫、今日も美しいな。待ちわびたよ」
「堪忍しておくれやす」
花香太夫はその大きくつぶらな瞳で伊東を見つめた。小柄な彼女は余計その目が大きく見える。
彼女は伊東の馴染みの太夫だ。島原でも指折りの評判の太夫だが、このところはすっかり教養に溢れ顔立ちも整った伊東に夢中だということで、お似合いの二人として噂されている。
「あら、今日は内海せんせもご一緒?」
「どうも。…すぐに退散しますので」
内海が腰を上げると「もう行ってしまうん?」と花香太夫は口を窄ませた。伊東の馴染みとして付き合いはあるものの、内海は子供っぽい花香太夫に苦手意識があるらしい。
しかし、そんな彼を伊東は「待ってくれ」と引き止めた。
「何か?」
「今日はお前を含めて、大切な話があるんだ」
「お話?なんやろか?」
「太夫、その前に人払いをいいかい?」
伊東の申し出に花香太夫はもちろん頷いて、禿たちを下がらせる。部屋には三人だけになった。
「実は、太夫を身請けしようと考えているんだ」
「え?」
「ほんまに?!」
内海は戸惑い、花香太夫は悲鳴を上げるように声を上げた。その大きな瞳をさらに大きく見開いて、何度も「ほんまなの?」と伊東に問う。
「本当だ」
「嬉しい…っ」
「甲子太郎さん、その件はもう局長には…?」
「いや、まだだ。だが、組頭以上には別宅を設けることを許しているし、既に近藤局長も土方副長も別宅を構えているのだから問題ないだろう」
「それは…そうですが」
内海はやはり納得いかないかのように顔を顰めていたが、伊東は気が付かないふりをして花香太夫に微笑みかける。
「本当はもっと早く君を迎え入れようと考えていたが…隊内で色々あってね。遅くなってすまない。君の意中の相手は私だと思っているが、それは勘違いじゃないかい?」
「せんせ、いけずゆわんといて。せんせに決まってるやないの」
花香太夫は伊東の肩口にそっと手を置いた。そして耳元で甘く囁く。
「せんせが身請けしてくれるなら…こんなうれしいことはありまへんえ」
「…そうか、私も美しい君を傍に置けることを光栄に思うよ」
花香太夫はうっとりと伊東を見つめる。その身の境遇から身請けされるために媚びを売る芸妓はたくさんいるが、彼女は完全に伊東に『恋』をしているようだ。
(恋は盲目という…)
だから構えた別宅で何が起ころうとも、気が付かないだろう。伊東が何を企もうとも気にも留めないだろう。そんな花香太夫だからこそ身請けして傍に置くのだ。
「そういうことだ、内海。早速だが、屯所の近くに別宅を探してほしい。そうだな…美しい庭があると良いな」
「…わかりました」
内海は姿勢を正し、伊東と花香太夫に頭を下げた。
「別宅は早急に探します。太夫…どうか甲子太郎さんの心の拠り所になってください」
「おおきに。内海せんせ」
「では、私は屯所に戻ります。ごゆっくりなさってください」
内海は腰を上げ部屋を去っていく。伊東はその足音を聞こえなくなるまで聞いていた。その音が店を訪れる客の騒がしい人の声に溶けて、消えていくまで。
「…せんせ?」
「いや…何でもないよ」
彼は何を思ったのだろう。
身請けを告げる自分を、そしてそれを心から喜ぶ花香太夫を見て、何を考えたのだろう。
(軽々と嘘をつく私を目の前に、いたたまれなくなったのだろうな…)
伊東は微笑みの奥で、そんなことを考えた。







400


日に日に、季節は冬に近づく。目が覚めるたびに、寒さは厳しくなっていく。
「おはようございます。斉藤さん」
朝餉を終えた総司は稽古着に着替えて道場へ向かう途中で、斉藤に出会った。今日の撃剣師範を務めるのは総司と斉藤だ。
「ああ…寒いな」
「そうですね。でも朝から汗を流して体を温めると頭がすっきりします」
「そういうものか?」
「そういうものです」
二人は並んで歩き始める。西本願寺には壬生から移築した稽古用の道場があるのだ。西本願寺に移って以来、斉藤とは同室の間柄ではなくなったがそれでも言葉を交わす機会は変わらず、親しい関係だ。
「…そういえば、伊東参謀の話は聞いたか?」
「ええ、馴染みの方を身請けされて、別宅を構えるとか。相手の方は相当可愛らしい方だそうですね」
「知らないのか?花香太夫という。伊東参謀のあの顔だから、島原では前々から評判の二人だった」
「へえ…斉藤さん、詳しいですね」
「有名な話だ」
斉藤はそう言うが、島原には滅多に足を踏み入れることのない総司としては耳にしたことのない話だった。
伊東が別宅を構えたい、と近藤の申し出たのは一昨日のことだ。すでに落籍する金や別宅の手配は整えており、後は近藤の許可を待つだけという用意周到なものだったが、近藤はもちろん了承した。
『私や土方副長はすでに別宅を構えているのだから、何の問題もない』
近藤がそう答えたので、土方も頷かざるを得なかったようだ。
「土方さんは敵の拠点が増えるだけだとか、相変わらず伊東参謀を敵対視しているようですけど。でも、反論する理由も言葉も見つからなかったみたいで、まあ不承不承という感じでした」
「それはそうだろうな。近藤局長や原田さんの例があるのだから、拒むことはできない」
「悔しそうでしたけどね」
総司は苦笑しつつ、続けた。
「…ああ、原田さんといえば夏頃に生まれるそうですよ」
「ふうん」
「楽しみですよねえ。原田さんの子供、なんてどんなやんちゃな子が生まれてくるんでしょう」
「やんちゃとは限らないと思うが…近藤局長はあんたにもそうなってほしいと思っているんじゃないのか?」
「え?……ああ、もしかして見合いの話ですか?」
斉藤は頷いた。彼らしくない回りくどい言い方だ。しかし近藤と総司、そして土方しか知らないはずなのに、どうして斉藤までも知っているのかと愕然とした。
「まったく…どうしてそんなに早く話が広まるんですかね」
「紋付き袴を着て、局長と二人で芝居に行ったと聞けば大抵、察しがつくものだろう」
「…じゃあ、寸前まで察しがつかなかった私が馬鹿みたいじゃないですか」
「そうかもな」
斉藤に肯定され、総司は少し口を尖らせた。年下のはずなのに、すっかり斉藤の方が大人びてしまっている。二人がそんな雑談を交わしているうちに、道場に辿り着いた。三十坪ほどの「文武館」と名付けられた道場はすでに隊士たちが集まっていた。そして竹刀が激しくぶつかる音も響いていた。
「…あれ?もう稽古が始まっているのかな」
総司は首をかしげつつ、道場に顔を出す。すると数名の隊士たちが食い入るように、撃ち合う二人を見つめていた。一人は総司の部下である島田、そしてもう一人は
「土方さんっ?」
総司は思わず声を出して驚いた。隣にいた斉藤も目を見開いていた。
二人は真剣勝負で撃ち合っている。土方よりも体格の大きな島田だが、土方の勢いに押されて守りに徹していた。激しい竹刀の音が道場に木霊している。
「沖田先生、斉藤先生、おはようございます」
道場の隅で見物をしていた山野が、声をかけてきた。
「山野君、どうしたんです今日は…?」
「わかりません。土方副長が突然いらっしゃって…稽古が始まるまで付き合えと、島田先輩に」
「へえ、珍しいなあ…朝が弱いからいつもこの時間は寝ているのに…」
土方は島田との試合に熱中しているようで、総司や斉藤がやってきたことには気が付いていないようだ。総司はその場に腰を下ろし、二人の様子を見守った。
天然理心流の門下生だったというのに、土方の型はそれとは違う。数々の道場を渡り歩いて稽古をつけてもらった土方は、どこか野生の獣のように荒々しい。型に忠実な近藤とは対照的だ。それは試衛館にいた時から変わらない。
(懐かしいなあ…)
そんな風に剣を振る土方を見るのは久しぶりだ。京都にやってきて、特に新撰組の副長となってからは彼が剣を振る姿はほとんど見ていない。おそらく隊士も土方が道場に立つのを見るのは初めてだろう。
冷静沈着、鬼の副長と呼ばれる土方だが、その剣士としての姿はとても勇猛だ。
「あっ」
傍に控えていた山野が声を上げた。
土方の横振りに島田が対応しきれずに体勢を崩したのだ。その隙を土方が見逃さずに撃ちこみ、島田はその場に尻餅をつく。そうしてようやく二人の打ち合いは終わりをつげ、双方とも面をはずした。
「…付き合わせて悪かったな、島田」
「いえ!恐縮です!」
荒い息を上げながら、島田は「ありがとうございました!」とその場に深く頭を下げた。そうして一区切りついたところで、ようやく総司たちに気が付いたようで、土方はバツが悪そうな表情をした。
「もう来ていたのか」
「はい。珍しいですね、朝稽古は昔から嫌いじゃないですか」
「ふん…そういう気分だっただけだ」
土方は「汗を流してくる」と言い、道場から出ていく。鬼副長の姿が消えたことでようやく緊張の糸が解け、見物をしていた隊士たちも本来の稽古の準備を始め出す。総司も同じように竹刀に手を伸ばそうとしたが、手を止めた。
「斉藤さん、ちょっと稽古を任せていいですか?」
「…ああ」
「すぐに戻りますから」
斉藤は理由も尋ねずに頷いた。彼は総司がどこへ行くのかなどということはわかっていたのだろう。
総司は道場を出て辺りを見渡す。すでに土方の姿はないので、道場の裏にある井戸へと向かう。そこは稽古を終えた隊士たちが汗を拭く場所だ。
「土方さん」
そこには思った通り土方の姿があった。寒い朝だが、上半身を晒し手拭いで汗を拭っていた。その姿にすこしドキリとさせられたのは、つい先日の生々しい記憶が蘇ったからかもしれない。
「どうした、稽古だろう」
「ちょっと斉藤さんに任せてきました。どうしたんですか、今日は…稽古なんて久々じゃないですか」
「…気晴らしだ。気が滅入るようなことばかり続いたからな。それに伊東が別宅を構えるなんて…胡散臭いだろう。考えるだけで疲れる」
「あはは、そんなに悪い方向ばかりに考えなくてもいいと思いますけど。なるようになりますよ、きっと」
「気楽だな」
土方が少し笑ったので、総司は安堵する。島田との試合は言葉通りの『気晴らし』になったようだ。土方は袖に腕を通し襟を正す。
「見合いのこと、かっちゃんに言ったのか?」
「…まだです。でも隊内にはなんだか広まっているみたいですね」
「ああ。かっちゃんも隠すつもりがないようだからな。…深雪太夫を落籍してから余計、家庭を持ったほうが良いと考えているようだ」
「…それはわからないでもないですけど」
近藤の気持ちは有難く思う。姉の心配も理解している。原田が父になるということを羨ましく思うこともある。
でも。
「もう…決めちゃいましたから。近藤先生をどうにか説得します」
温かい家庭も、安寧も、安らぎもいらない。彼と歩むことだけが、自分の望みだと悟った。そしてともに歩みたいと願った。
それが修羅の道だと土方は言ったけれど、本当は道なき道なのかもしれない。誰も歩むことができない道なき道が二人の前に延々と続いているのだろう。
でも、それでも構わない。
(僕が選んだのだから)
曇りのない心で、それを選んだ。その選択を、道を、間違いだとは思わない。
「…そうだな」
彼もきっと同じことを考えているのだろう。
土方は少し笑って濡れた髪を掻き上げる。そこに冷たい冬の兆しの風が吹き、その髪が流れる。
「もう冬だな…」
「…そうですね」
季節が回りまた冬がやってくる。京で過ごす三度目の冬だ。
時はいつでも一定に流れていく。今までも、そしてこれからも、同じ早さで通り抜けていくだろう。
(僕に何ができるのかはわからないけれど)
ただ、彼とともに歩み続けるのだと、それをずっと信じていたかった。







解説
396 松原忠司の死については、切腹を図って降格され、その後どうなったのかは不明となってします。今回は 銃殺という説をとりましたが、心中したともありますし、病死という話もあります。
399 伊東が奈良で長州藩士を捕縛し、逆に患者として利用するというエピソードは360話です。

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