わらべうた





401


慶応元年、十一月。
日に日に寒さが募るなか、新撰組の屯所である西本願寺の境内では隊士たちが稽古に励んでいた。今日の撃剣師範は永倉新八と斉藤一。新撰組でも一、二を争う剣士からの指導とあって、隊士たちも稽古に熱が入る。沖田総司はその様子をぼんやり廊下から眺めていると、
「どうしたんですか?」
と新撰組八番隊組長である藤堂平助に声をかけられた。池田屋で負った額の傷は、すっかり彼の一部となり精悍な印象を与えている。総司は「いえ」と首を横に振った。
「稽古を見ていると、なんだか落ち着くんですよ」
「へえ…」
あまり同意は得られなかったようで、藤堂の反応は鈍い。人の稽古を見ているよりは、自分が稽古をする方が楽しいと思っているのだろう。温厚ながらも『魁先生』と呼ばれる藤堂らしいリアクションだ。
「それより、藤堂君は講義が終わったのですか?」
「はい。沖田さんも一度受講してみてはいかがですか?伊東先生の講義はなかなかわかりやすくて面白いですよ」
今日は撃剣師範による稽古とともに、参謀である伊東甲子太郎による文学講座が開かれていた。文学師範を務める伊東の講義は、政治学だけに留まらず、和歌や古典など多岐にわたり、当初は荒くれ者ばかりの隊士たちには倦厭されていたものの、今となっては部屋から人が溢れ出るほどに大人気の様子だ。
藤堂は昔は伊東のもとで学んでいたこともあり、熱心に講座に出席している。
しかし、総司は苦い顔で首を横に振った。
「私には無理ですね。試衛館にいた頃、大先生に講談に連れて行ってもらいましたが、途中で寝てしまうものだから、ついには連れて行ってもらえなくなったんです」
今は近藤周斎と名乗る大先生は、講談に通うのが趣味でよく食客を連れて足を運んでいた。特に武勇伝や仇討ちといったジャンルを好み、同じ講談に何度も通っていた。毎回同じお話を聞かされるので食客たちは大先生のお供を嫌がったが、息子である近藤勇、そして幼馴染である土方歳三、さらにその友人である伊庭八郎は付き合って出かけていた。
藤堂は「懐かしいなあ」と笑って続けた。
「毎回同じ講談だから飽き飽きしていましたけど、講談が終わると周斎先生からお小遣いが貰えるんですよね」
「そうそう。それを目当てに土方さんや伊庭君なんかは付き合ったりしていたんですよ。今から思うと、伊庭君は伊庭道場の御曹司なのだからお小遣いをせびらなくても良かったはずなのに」
「そんな二人が、新撰組の鬼副長と奥詰の幕臣だっていうんだから、面白いですよねえ」
時折思い出す、試衛館にいた頃の出来事が遥か昔のことのように思える。そして同時に、今こうして「新撰組」として京都を歩いていることも、まだ夢の中にいるのではないかと感じてしまう。
藤堂は少し目を細めて、遠くを見た。
「何の意図がなくとも…色々変わるんですよね」
「…」
彼が何を言いたいのか。
それは朧気にわかったけれど、総司はあえて口にはしなかった。藤堂もまた言葉にして顕したくなかったのかもしれない。
二人の間に少しの沈黙が流れるが、
「なーに、二人で黄昏ているんだよ!」
という明るい声ですぐにかき消された。巡察から戻ってきたばかりの原田左之助だ。この寒空の下だというのに、腕を捲り裸足で歩いている。
「お疲れ様です。巡察はどうだったんですか?」
「どうもこうも、怪しい奴はいたんだが逃げられちまったぜ」
「それは残念」
やれやれ、と原田は芝居がかったため息をついて見せる。彼はいつも場を和ませることができる貴重な存在だ。
そしてドカッとその場に腰を落として境内を見下ろした。
「今日は新八が稽古か。で、へーすけはお勉強?」
「そういう茶化した言い方をしないでください。伊東先生の講義はとても為になるんです。今は、剣ばかりを振っていればいいという世相ではないんですから」
八月十八日の政変、そして禁門の変により長州藩は「朝敵」となり幕府は長州征討を行ったが、長州側がすぐに降伏し幕府の出す条件を飲むとしたため終戦を迎えた。しかし、いまだに長州は恭順の姿勢を見せず、藩内では倒幕の動きを見せ始めている。再び征討に乗り出す動きも鈍く、国内は混乱したままだ。
藤堂は力説したが、原田は手を振って拒んだ。
「俺ァ、馬鹿のままでいいね。変に物事をややこしく考えないで済むし、考えれば考えるほど頭が痛くなる」
「まったく、原田さんは…」
藤堂はやれやれと言わんばかりに肩を竦めたが、総司も原田に同感だった。
(できれば剣を振っているだけで生きれればいいんだけど)
しかし、そんなことを口にすれば藤堂の力説が長引くだろう。原田もそれを察したらしく「それよりもさ」と話を変えた。だが、変える方向は総司にとってはさらに耳を塞ぎたいような話題だった。
「総司、見合いはどうなっているんだよ?」
「あ、そうでした。俺も気になっていたところです。どうなっているんですか?近藤局長が熱心にお相手を見繕っていると伊東先生から聞きましたよ」
「俺も聞いたぜ?松本先生や南部先生なんかにも相談してるって?」
「隊内にはすでに広まっていますしね。隊士たちも気にしているみたいですよ?」
矢継ぎ早に問いかける二人に、総司は困惑した。
「……」
そう。
稽古の様子を眺めていたのは、半ば現実逃避に似た気持ちだったのだ。


「うーむ、二十歳かあ。若ければ若いほど良いとは思うが、総司にはもう少し年の近い女子が良いと思うのだが…歳はどう思う?」
「……」
局長である近藤に呼び出されたとあっては、「何か重大事か」と思うものだが、ここ最近の近藤の用件といえば総司の見合い相手に関する相談だった。
土方は辟易としていた。
「俺に聞くな。総司本人に聞け」
これは何度となく近藤に伝えたはずだが
「総司がはっきりしないから、お前に聞いているんじゃないか」
と近藤はケロリと答える。
もちろん、近藤は土方と総司の衆道関係についての理解はしている。それを後押しすらしてくれていたのだが、最近は総司に良い嫁を見つけるため…まるで父親のように奔走している。近藤の言い分としては、「衆道と縁談は別」。元々武士の出である総司は子を為し、血を絶やさないようにするべきだと繰り返して主張していた。
そんな近藤の親心を総司が分かっているからこそ、強く拒めないのは、土方もよくよくわかっているのだが。
「俺にあいつの連れ合いを選べっていうのは、酷な話だとは思わねえのかよ」
土方はついつい苛立って返事をした。近藤の言い分を理解はできても、易々と受け入れることはできない。想像するだけで、相手の女に対して冷たい感情が湧いてくるのだ。
すると近藤は首を横に振った。
「お前だからこそ聞いているんだ。歳は若いころはよく遊んだだろう?何人もの女を知っているだろう?」
「…喧嘩売ってるのか?」
「いやいや、今のは冗談だ。俺はお前と総司が衆道関係だからこそ、お前に相手を選定してもらう方が良いと思うんだよ。素性の知れない女は嫌だろう?」
「…」
土方は言葉に詰まった。
だからと言って、どんな女なら納得するというのだろうか。
どんな女なら、総司に相応しいというのだろうか。
(俺がどんな顔で、総司にその女を勧めるって言うんだよ…)
いつもは用意周到に立ち回る土方が、らしくない、八方塞の状況に追い込まれ、嘆息するしかない。
しかし近藤はそんな土方を気に留めることもなく忙しなくあれこれ周囲から勧められた見合いの手紙に目を通す。
「…近藤先生、急ぎすぎじゃねえのか。総司だって、そもそもまだ見合いを受けるとは言っていないんだろう」
土方は近藤の嫁探しが、日に日に熱心になっていくのが気になっていた。まるで何かに追い立てられるかのようだ。
すると近藤は「うむ」と少し真摯な表情を浮かべる。
「…実はな、まだ確定の話ではないんだが」
「何だよ」
「近いうちに長州に行くことになるかもしれぬ」
近藤の言葉に、土方は「は?」と素直に驚き、間の抜けた返事をしてしまった。
幕府と長州は未だ緊張状態にあり、京でも浪人たちの不穏な動きは続いている。特に池田屋事件以来、新撰組は目の敵にされており、報復を企む者も多いだろう。
「なぜ長州に…」
「長州は未だに恭順の姿勢を見せていない。このままでは再び長州征討となると見込んで、幕府側から長州訊問使が送られることになったんだ」
「それで、何で近藤先生が…」
「その訊問使を務めるのが永井様だからだよ」
永井尚志は京都町奉行を経て現在は大目付の役に付いている幕臣だ。会津藩とも親しく、近藤と面識がある。
「昨年の征討から何の動きもない。煮え切らない長州の態度に、俺も辟易としていた。だからこそ俺自身の目で長州の実態を探りたい、と永井様に願い出たら前向きに考えてくださるとご返答を頂いたんだ!」
近藤は誇らしげに語ったが、土方は渋面を作って
「駄目だ」
とすぐに拒んだ。
「長州にはまだ過激な討幕派がいる。新撰組だと知れれば奴らは全力でかっちゃんの命を狙うだろう。そんな馬鹿げたこと、できるものか」
土方はそう言って吐き捨てた。近藤自ら長州に足を踏み入れるということは、戦場に大将が一番乗りで乗り込むのと同じこと。誰よりも近藤の身を案じる土方が許すはずはない。
しかし
「馬鹿なのはお前だろう、歳」
近藤は??りつけるように続けた。
「新撰組のなかでは、俺は確かに局長だ。しかし大局を見れば俺なんて幕臣でもない、ただの駒なんだ。そんな俺が幕府の為に何かができる…これは滅多にない、絶好の機会なんだぞ?」
「それは、そうかもしれねえが、あんたに何かがあったらどうするんだ」
「いまそんなことは考えなくてもいい」
「いや、そういうわけにはいかねえ。あんたこそ自分の周りが見えていない」
近藤と食い下がる土方はしばらく睨みあいになる。いつもなら近藤から折れて「わかったよ」と受容するのだが
「俺は行くからな」
と、言い放ち彼は部屋を出て行ってしまった。




402


「雨が降りそう…」
島原の輪違屋から身請けされた花香は、空を見上げながら眉を顰めた。雨が降ったからと言って何か不都合があるわけではないはずだが、彼女にとっては「天気が悪い」というただそれだけで不運な気持ちになるのだろう。
「美しい庭に、雨が降る光景も悪くない」
手紙を読む伊東がそう答えると、彼女は「そうやろか」微笑んだ。大きくつぶらな瞳を持つ彼女が笑うと一気に少女っぽくなる。
屯所近くに別宅を構えて数日が過ぎた。さすがに毎日足を運ぶわけにはいかないが、屯所以外の居場所があるということは伊東にとって心地よいものだった。
花香は伊東の隣に腰を下ろして、手元を覗き込んだ。
「旦那様、それはお仕事?」
「ああそうだよ。あまりじろじろと見てはいけない」
「ふふ、うちは字ぃも読めまへんから、心配あらへん」
花香は気軽に返答した。ここでの時間は雁字搦めの屯所から逃れられる一方で、おしゃべり好きな花香に付き合わなければならないという苦痛はある。しかし
(学のない女で助かることは多い)
伊東はそう思っていた。ここでは人に読まれては困る手紙のやり取りや聞かれて困る話をすることがある。そんな時に花香を警戒をせずに済むのは助かるのだ。
(そのために彼女を身請けしたと言っても過言ではないのだから…)
多少は彼女の我儘に付き合うべきだろう。
「旦那様、雨が上がったら散歩でもいかへん?近くにええ甘味屋見つけましたんえ」
「花香、残念ながら雨は夜まで上がらないよ。向こうの空まで雲が覆っているだろう」
「いけずやなあ」
「また今度にしよう」
「大蔵さん」
二人の会話に割り込むように名を呼んだのは、内海次郎だ。いままでまるでそこに在る置物のように固く口を閉ざしていたが、いい加減我慢の限界だったのだろう。
「私はそろそろ屯所に戻ろうかと思うのですが」
「ああ…花香、下がっていなさい」
「はぁい」
花香は少し不満そうな表情を浮かべながらも、伊東に従って部屋を出ていく。彼女の足音が消えると内海は「はあ」と少し息を吐いた。
「大蔵さんが引き留めたので、何かお話があるのかとこうしてお待ちしていたのですが」
「そう怒らないでくれ、内海。私だって花香のご機嫌伺いをしなければならないんだよ。彼女の機嫌を損ねると長いんだ」
「はあ…」
内海は心底疲れたと言わんばかりの返答をした。
(よっぽど花香のことが苦手らしい)
いつも冷静沈着で他人に対しても分け隔てなく接する彼の意外な側面だ。伊東は時々こうして内海を困らせて楽しんでいるのだ。
「それで、どういった用件なのですか?お話すべきことは全てお話したと思いますが」
「ああ。報告はすべて聞いている…ただ、一つ頼みたいことがあるんだ」
「何でしょうか?」
「鈴木のことだ」
伊東は一息つきつつ、愛用の扇を取り出した。
他人行儀に「鈴木」と呼んだが、鈴木三樹三郎は血の繋がった弟だ。母は違うもののよく似ていて名乗らずとも兄弟だとわかる顔立ちをしている。しかし口を開けばま反対の性格だ。兄が知識人で社交的にもかかわらず、弟はどこか淡々としていて感情に起伏がない。
姓が違うのだから顔が似ているだけの他人の空似と言っても良いのかもしれない、と伊東は思っている。
「鈴木君が…どうかしたのですか?」
「最近、いつにもまして不機嫌な様子だ」
「…その理由は、大蔵さんが誰よりも知っているのではないですか?」
内海は怪訝な顔で訊ねてきたが、伊東は聞き流して「甲子太郎だよ」といつものように訂正した。
彼の言うように、なぜ実弟の鈴木の様子がおかしいのか…それは花香を身請けしてからだ。彼女を身請けして別宅を構えると話した時は、『あんな知性のない女は兄上にはふさわしくない』と言い捨てた。もちろん伊東は聞く耳など持たなかったが、実弟は未だに引きずっているようで組長を務める九番隊の雰囲気も重たいものになっているらしい。最初は弟を気遣うつもりなんてなかったものの、隊務にまで支障をきたすようでは参謀としては考えものだ。
だが、内海は良い顔をしなかった。
「…しかし甲子太郎さんもご存じのとおり、私は鈴木君にはどうやら嫌われているようですから…何をお伝えしても聞く耳など持たれないのでは」
「いいんだよ。そんな内海から苦言を呈されればさすがに反省するだろう」
「…わかりました」
渋々ながら、内海は頷いた。そんな内海に伊東はくすりと笑う。
「不本意な様子だ。内海も、私が花香を身請けしたことを良く思っていないのだろう?」
「……そんなことはありません。こうして別宅をもって寛ぐことができることは大切なことでしょう。気分転換にも良いです」
「それは別宅を持つことについて賛成しているわけであって、その相手が花香であることが気にくわないのだろう?」
「……」
伊東に問い詰められ、内海は困ったようにしかめっ面を作った。
「そのように揚げ足を取られるのは少し不愉快ですが…おっしゃる通りではあります。何もあのように額のない女でなくとも…と、正直に言えば思います。そういう意味では鈴木君に同感です」
「嫉妬か?」
「違います」
内海が即答したので、伊東は笑った。
「花香はいい女だよ。あのように見目も美しく、そこにいるだけで華がある」
「それはそうでしょうが…」
「…学のある女では、きっと力になりたいと手足となって働く…なんて、お節介なことを考えかねない。花香はそういったことを考えすらしないだろう。私が花香を選んだ理由はそういうことだよ」
「…なるほど」
なるほど、と口にしつつ、内海はどこか複雑な表情を浮かべた。伊東の思惑を知って花香のことを不憫に思い始めたのかもしれない。
そうしていると、再び足音が近づいてきた。
「旦那様」
襖の向こうから、花香の甘えるような声が響く。
「どうしたんだい?」
「へえお客様どす」
「…客?」
それは思ってもいない客だった。

「いやあ、良いお宅ですな!」
「滅相もない。局長の別宅のほうがご立派でしょう」
伊東に上座を譲られ腰を下ろした近藤は、庭を眺めながら快活に笑った。突然の訪問者はまさかの近藤だったのだ。
「いやいや。庭が美しいのは伊東参謀らしいです」
「ありがとうございます。…局長、ご紹介させてください。先日身請けいたしました、花香です」
「花香どす」
伊東は花香を隣に座らせて近藤に紹介した。花香は愛想よく微笑み、近藤もまた深く頷いた。
「評判通り、お美しい」
「おおきに。近藤せんせもご評判通り、とてもお口が大きくて素敵どす」
「花香!」
素直で屈託のない花香は以前から近藤のことを「口の大きな人」と言っていて、本人としては悪気がない賛辞のつもりだろう。しかし新撰組の局長に対して失礼ともいえる発言に、伊東は慌て、傍にいた内海もハラハラとしている様子だ。
しかし、近藤が「ははは!」とその大きな口で笑った。
「昔からそういわれたものだ!実はこの口には拳がまるまる入る」
「まあ!ほんまどすか?」
「私の兄も同じなんだ。今度披露しよう」
「おおきに、楽しみにしてます」
伊東と内海の心配はよそに、近藤と花香は穏やかに談笑している。伊東はほっと安堵しつつ花香を下がらせた。
「申し訳ございません。不躾なことを…」
「明るい方のようだ。その…なんていうか、伊東参謀が身請けされるのは意外な雰囲気というか…」
「よくそう言われますが、彼女の明るさには救われています」
「そうか、それは良い」
近藤は満足げに頷いて、気分を害した様子はない。伊東は安堵しつつ「それで」と話を変えた。
「局長がこのような場所にいらっしゃるとは…何かお困りごとでも?」
「ああ…そう、そうなんだ。伊東参謀、永井様が長州訊問使として下られることはご存知ですか」
「ええ。なかなか態度を決めない長州に対して使者を送られるというのは、良い考えだと思っています」
昨年の長州征討以来、煮え切らない長州に強気の態度を見せない幕府。膠着状態が続くもどかしい状況は伊東も察している。近藤は特にことあるごとにいら立ちを見せていた。
「実はいま永井様に、随行させて頂くようにお願いしているところです」
「局長…自らですか?」
「ええ、永井様も前向きに考えてくださっています」
「…そうですか」
伊東は考え込む。
永井は近藤のことを気に入っている様子なので、近藤が『前向きに』と言うように考えているとすれば、随行は決まっているも同然だ。しかし、長州にとって目の敵である新撰組、さらにその局長自ら敵地に足を踏み入れるとなれば敵を煽ることになり何が起こるかわからない。
(土方副長が受け入れるとは思えないが…)
すると近藤は伊東の表情を伺うように見た。
「伊東参謀も、反対されますかな?」
「…『も』、というとやはり土方副長は反対されたのですか?」
「ああ。馬鹿げたことだと一蹴された。…伊東参謀はどう思われますか?」
「…」
伊東は腕を組みなおし、素早く計算する。何を口にするのが正解なのか、と。
「…悪い話ではない、と思います。局長自ら足を運ばれることは長州を刺激するでしょうが、それゆえに何か成果を上げることができるかもしれません。難しいことでしょうが…」
「そう、そうなんだ。私一個人の命を惜しんでいる場合ではない。新撰組にとって絶好の機会となる」
伊東が賛同したことに、近藤は「うんうん」と何度も頷いた。余程、土方とは揉めているのだろう。こうして伊東のもとを訪れたのは自らの考えを肯定されたかったのかもしれない。
「ですが、土方副長を説得するのは大変でしょう。彼は新撰組、そして局長の身を案じている」
「…ああ、まったく己の身ばかりを案じていては事態は好転しない。こういう時だからこそ先陣を切って乗り込むべきだと思うのだが、あいつは全く…」
「近藤局長、でしたら私もご一緒いたしましょう」
伊東の申し出に、近藤は
「伊東参謀もですか?」
と驚き、傍に控えていた内海も「え?」と思わず声を漏らした。
「私も長州の鈍い動きは気に掛かっておりました。参謀として是非ともご一緒させていただきたい」
「しかし…」
「危険なのは承知の上です。ですが、近藤局長のおっしゃる通りこういう時だからこそ大胆な行動をとるというのも必要なことかと考えます。それに私がご一緒すれば危険は分散されるでしょう。何かあれば私が局長を守ります」
伊東はいま近藤が聞きたいであろうという言葉を並べた。彼が何を言えば喜ぶのか、瞬時に考えたのだ。
するとやはり近藤は
「有難い!伊東参謀がそこまで申し出てくれるとは!」
と感激した。
ただ、傍に控えている内海だけは複雑な表情を浮かべていたのだった。



403


十一月の夜は陽が落ちると真冬のような冷えた風が吹く。夜番を務める一番隊と三番隊は巡察を終え、屯所へと歩いていた。
「それで、見合いはどうなったんだ?」
先頭をお互いの伍長に任せ、総司とともに殿を歩いていた斉藤。そんな彼の突然の質問に、思わず「は?」と驚いてしまう。
「いつまで経っても話が進まないから、近藤局長が痺れを切らしているという話だったが」
「…斉藤さんまでそんなことを聞かないでくださいよ」
近藤には毎日の挨拶のように「見合いはどうするんだ?」と詰め寄られ、土方の不機嫌は増すばかり。さらに屯所内ではその件で隊士から好奇な眼差しを浴び続けているのだ。
しかし、斉藤はぴしゃりと
「明確な答えを出さないのが悪い」
と言い捨てた。それはその通りで総司は返す言葉がなく、「おっしゃる通りです」と返答するしかない。
総司が近藤にきっぱり断れないでいるのは、何よりも彼の親心を感じるからだ。熱心に見合い相手を見繕う姿はもちろん総司の将来を見据えたうえでの行動であり、その様子を見ていると何も言えなくなってしまう。それに断る明確な理由が見つからないのだ。
「先生を納得させられるような上手い理由が思い浮かばないんです。近藤先生はその…土方さんとのことと、見合いは関係ない、良い人と夫婦になり沖田家の血筋を絶やさないことが大切だと繰り返すばかりで…」
総司としては、もともといつこの命が果てても仕方ないという覚悟で江戸を離れて都にやってきた。その気持ちは今でも変わらないし、この身に流れる血を後世に残したいという気持ちもない。幸いにも姉にもとには男子が生まれているし、高貴な家柄でもないのだからそれで十分だろうと思っている。
すると斉藤は
「それは仕方ないだろう」
とあっさり肯定したので、総司は驚いた。
「…意外です。斉藤さんはきっと、血筋とが家柄とかそういうのは気にしないと思っていたのに」
どこかで総司は根無し草のように生きている斉藤も同じ考えだと思っていたのだ。斉藤は「ふん」と軽く息を吐いた。すっかりその息も白くなっている。
「確かに俺自身はそういうことに興味はない。家から勘当されているような身だ。それに家族なんていずれ荷物だと感じるだろうし、もともと子供が好きではない」
「だったらどうして…」
「俺が仕方ないと言ったのは、近藤局長があんたに身を固めてほしいと望むことについてだ。局長からすれば弟も同然なのだから、それを世話したいと思うのだろう」
「…」
幼少の頃、食い減らしとして試衛館にやってきてから、近藤や土方のことを本当の兄だと慕い、家族以上に強い絆で結ばれてきた。そんな家族同然の近藤が年下の弟を心配し、あれこれ世話を焼きたい気持ちはもちろん総司だって痛いほどわかっている。
(でも…)
いま、総司が望むのは、誰よりも孤独な道を歩む土方とともに生きるということ。それはなつとともに死を選んだ松原忠司が胸に抱えた想いと同じくらい、強い気持ちだ。
だから自分には家族はいらない。守るべき主君と、ともに歩む人と、この剣さえあればいい。
(そう思うのは勝手なのかな…)
総司は小さくため息をついた。
「こう…自分の気持ちが上手く言葉にできないんです。それに姉が近藤先生に頼んだようで、そのことが余計に近藤先生に拍車をかけているんでしょう」
「それだけではないだろう。おそらく己の身に万が一何かあればと考えているはずだ」
「己の身…?」
斉藤が重い言葉を発したので総司は戸惑う。すると彼は目を剥いて「聞いてないのか?」と尋ねてきた。
「聞いてって…何をですか?」
「近藤局長が長州に行くという話だ。副長は何も言っていないのか?」
「…近藤先生が、長州に…?」
総司は己の血の気がサッと引くような感覚を覚えた。思わず立ち止まる。すると斉藤は「口が滑ったな」と少し後悔するような言葉を漏らしたが、話をつづけた。
「会津と懇意である幕臣の永井様が長州に向かわれることになり、それに近藤局長が随行することになったらしい」
「どうして近藤先生が…!」
「それは局長の希望だ。煮え切らない態度ばかりの長州に揺さぶりをかけたいという意図もあるだろうし、幕府としても腕の立つ者を警護に連れていきたいのだろう」
「でも新撰組だと知られれば…!」
総司は思わず声を上げて斉藤の両腕を掴んで揺さぶった。池田屋以来、目の敵にされてきた新撰組の局長ともなれば、何が起こるかわからない。ましてや敵の陣地ともなれば防ぎようがない。
(そんなところに近藤先生が行くなんて…っ)
総司は「先に戻ります」と告げて屯所に向かって走り出す。突然、駆け出した総司に組下たちは驚いた。
「沖田先生?」
「どうされたのですか!」
島田魁と山野八十八の声さえ聞き流して、総司は走る。
西本願寺の立派な山門をくぐり、境内を駆け抜け草鞋も脱ぎ捨てて急ぐ。血相を変えてバタバタと駆け込む総司を見てすれ違った隊士たちが唖然としていたが、構わず集会所の奥にある局長の部屋にやってきた。
「…っ、あれ…?」
もうすっかり夜になっているというのに部屋の明かりは灯っていない。
「近藤先生?」
と一声をかけて襖を開けるとやはり近藤の姿はなかった。すっかり部屋は冷え切っているので近藤がこの部屋を後にしてから大分時間が経っているのだろう。
もちろん今日明日に近藤が長州に向かうわけではないのだから、急ぐ意味などないと分かっていた。けれど逸る心が抑えられない。
「…はあ…」
「何しているんだ?」
落胆する総司に声をかけたのは土方だった。局長と副長の部屋は隣り合っているので、総司の足音で気が付いたのだろう。
「土方さん、近藤先生は…?」
「今夜は黒谷で会合だ。どうしたんだ、血相を変えて…」
「近藤先生が長州に行くって本当ですか?」
「…」
土方の表情が一気に曇る。そしてその表情のまま「中に入れ」と自分の部屋に導いた。部屋には?燭が何本か灯っていて、仕事の途中だったようだ。
「誰に聞いたんだ?」
「…斉藤さんです」
「なるほどな…」
土方は軽く舌打ちした。どうやらまだ総司の耳に入れるつもりはなかったようだ。そんな情報を斉藤が知っていたということは会津から伝わった話なのだろう。
「まだ決まったわけじゃねえ。ただ今夜の会合もおそらくはその話のためのものだろう。永井様も近藤先生を連れていくことを受け入れたようだからな」
「…っ、そんなの危険すぎます!ただでさえ長州には恨まれているのに…もし近藤先生の身に何かがあったら…!」
「わかっている」
逸る気持ちを抑えられない総司とは正反対に、土方は冷静に返答した。しかし彼にはいら立ちも見えた。
「俺もあいつに何度も説得した。何かあれば新撰組の存続に関わる。何も局長自ら随行しなくてもほかの隊士に行かせればいい…だが、あいつは全く聞く耳を持たない。仕舞いには口を利かなくなった」
「そんな…」
普段は温厚で心の広い近藤だが、己が決めたことに対しては頑なに譲らない面がある。土方の説得に耳を貸さないほど覚悟を決めているのなら、その覚悟が揺らぐことはないだろう。
総司は暗澹たる思いに襲われた。
「…だから私の見合い話も進めたいと考えていらっしゃる…ということですか?」
「たぶんな。お前の見合いを急いでいるのは、万が一、自分に何かあった場合を考えているんだろう」
「万が一なんてことがあっては困ります!」
土方の言葉に総司は思わず叫んだ。
近藤の身に何かがある…それを考えるだけで、想像するだけで、体の芯から震える。もちろんそれは土方も同じで
「ああ、そうだ」
と深く頷いた。
「いわば長州は京に潜む不定浪士たちの巣窟だ。都ではこちらが優位に立てるが長州では違う。そのことを近藤さんだってわかっているはずだ」
「…それをわかったうえで、随行を決めているということですよね。どうすれば近藤先生は思いとどまってくださるのでしょう…」
どんな言葉を尽くせば、近藤が意見を改めてくれるというのだろう。しかしその答えを土方さえも持っていなかった。
「わからねえ。あいつの意固地は昔からだし、俺と話せば喧嘩になる…お前が話してみるか?」
「…」
難しい話は分からないし、土方以上に説得ができるほど言葉に長けているわけではない。総司は戸惑ったものの
「そうしてみます」
と頷いたのだった。




404


夜の闇の中に夜風が流れる。
消えかかった行燈の蝋燭の炎を別の蝋燭に移す。昔、試衛館にいた頃は魚油を使っていたため、その匂いを嗅ぐだけで顔を顰めたものだが今はそれはない。それだけで豊かな暮らしをしているのだと実感できた。
総司は西本願寺の縁側に腰掛けて、山門に目をやる。夜番の隊士が二人並んでいるが、近藤が帰還する様子はない。もう亥の刻は過ぎているが、会津との懇談はまだ続いているのだろう。ひょっとしたら、長州へ随行する件も話が進んでいるのかもしれない。
「はあ…」
口から吐き出された息はすぐに白くなって天に舞う。皆が寝静まるなか総司がこうして近藤の帰りを待ってもう数刻になる。一番隊の山野は「風邪を召されます」と心配したが、居ても立っても居られずに彼を振り切ってこうして今か今かと帰りを待ち侘びている。
総司は悴む指先を息で温めつつ、綿入れを着込んで体を丸めた。心配性の山野は近藤を待つと言ってきかない総司を見かねて「一緒に待ちます」と言い出したが、「大切な話だから」と断った。けれど、総司は未だにどう近藤に切り出せばいいのか、わからないでいた。
(どうすれば先生は留まってくださるのだろう…)
政治的な難しい話ではもちろん総司は近藤に太刀打ちできないし、逆に説得されてしまうだろう。だからと言って感情的に引き留めれば、土方のように喧嘩になってしまうのかもしれない。でもそれ以外に何が近藤を踏みとどませることができるというのだろうか。
総司が頭を悩ませていると、ギシィと床板が軋む音がした。その音はやがて近づく。
「…まだ待っているのか?」
やってきたのは斉藤だった。手燭を持ち彼も厚手の綿入れを着込んでいる。
「厠ですか?」
「ああ…まあ、そんなところだ」
総司の質問に、なぜか斉藤は曖昧に答えてそのまま総司の隣に腰を下ろした。
「随分、帰りが遅いんだな」
「そうみたいですね。近藤先生が会津や諸藩との会合にたびたび足を運ばれているのは知っていましたけど、こんなに夜遅くまでなんて…。私はよっぽど、稽古をしているほうがマシです」
「それはそうだな」
くっと斉藤は少し笑って、続けた。
「悪かった。…余計なことを口にした」
「…いいえ。むしろ、斉藤さんには感謝しているくらいです。きっと近藤先生や土方さんは間近まで何も教えてくれなかっただろし…」
長州という戦地に近い場所に赴くと聞けば総司がどんな反応をするか、二人はもちろんわかっていたはずだ。それをわかっていたからこそ、土方はあえて一人で説得しようとしたのだろうし、近藤も一人で決めるはずだったのだろう。
「でも近藤先生に何かあったら…そう考えるだけで、胸が締め付けられます」
「…俺は悪い話ではないと思う」
「え?」
斉藤の言葉に、総司は驚いた。彼の表情は淡々としていた。
「煮え切らない長州に対して揺さぶりをかけるのは必要なことだ。そしてその大役に大名でも幕臣でもない…武士でもない近藤局長が随行する…近藤局長にとってこれほど名誉なことはない」
「それは…そうかもしれませんが」
「古来より武士は戦場で武功を上げることによって褒賞を得てきた。新撰組も池田屋という戦場を経たからこそ、こうして幕府に認められている。だから今回のことも、名誉なことだと喜んで戦場に送り出してほしい…近藤局長はそう望んでいるに違いない」
「…」
総司は二の句が継げなかった。
斉藤が言うように、近藤がこんな夜遅くまで会合を重ねているのも、御上と幕府を守りたいというその一心があるからだ。その積み重ねの成果として今回の話が廻ってきた。いわば近藤にとって待ちに待った好機なのだ。
さながら、あの池田屋に乗り込んだ時のような。
「…斉藤さんと話をしていると、迷ってきました」
頭では理解していても、心が付いていかない。頭を抱える総司を見て斉藤は苦笑した。
「てっきり副長からそのような話があったのだろうと思っていたが」
「いえ…そう言われると、確かに土方さんもどこか慌てているような感じでしたから…」
近藤のことともなれば冷静な判断ができなくなる…『副長』らしくない姿ではあるが、『土方』らしくはある。
そんな話をしていると山門の方に動きがあった。提灯を手にした二、三人ほどが屯所に戻ってきたのだ。彼らは近藤とともに警護役として今夜の会合に向かった隊士たちだ。
「お帰りなさい…近藤先生は?」
彼らはこんな夜更けに総司に声をかけられたこと、そしてその隣に斉藤がいたに驚いた様子だったが
「今夜は別宅でお休みになるとのことでした」
と報告した。
「そう…ですか」
「ご苦労だった」
あからさまに落胆する総司の代わりに、斉藤が彼らに声をかける。隊士は戸惑った様子だったがそのまま各々の部屋に戻っていった。
斉藤は立ち上がり、息を吐く。
「…局長が戻られないのなら、仕方ないだろう。部屋に帰って休むんだ」
「そう…ですね」
近藤が深雪のいる別宅に戻ることは少なくはない。待ち合わせを反故にされたわけではないのに、気落ちする自分を誤魔化しきれなかった。斉藤は何も言わずに、片手を差し出した。総司は迷いつつもその手を取り立ち上がる。すると座り続けていたせいか足に力が入らずバランスを崩してしまい、そのまま斉藤の方へ倒れ込んでしまった。
「わ…っと、すみません!」
総司はすぐに斉藤から離れようとしたが、彼は総司の背中に手を回した。
「さ、斉藤さん…?」
抱きしめられるような格好になり、総司は動揺した。けれど斉藤は何も言わずにただただ抱きしめ続けている。
総司はふと、彼が何のためにこんな夜更けに顔を出したのかという答えに辿り着いた気がした。厠なんかではなくて
(心配してくれたのだろうか…)
「あの…」
「やはり冷えている」
総司の言葉を遮るように斉藤は身体を離した。そしてまるで何事もなかったような顔で
「部屋に戻ろう」
と背中を向けて去っていく。
「…はあ」
彼が何を思っているのか、何を考えているのか。
(駄目だ…)
いまの総司には考える余裕すらなかった。


翌朝は非番だった。総司は今度こそ、近藤と話を…と意気込んだのだが。
「先生!顔が赤いです!」
組下の山野が目を覚ました途端に、まるで悲鳴のような声を上げた。
「山野君…大袈裟ですよ」
「そんなことはありません!僕は先生のお体について先生以上によく知っているんですから!」
山野は強引に総司を横にさせると、手のひらを額に当てた。
「つめたー」
彼の冷たい手が心地よくて声を漏らしてしまうが
「やっぱり!」
と、それは返って熱があるという証明になってしまったようだ。
確かに彼の言う通り身体が怠い。しかしそれはただの寝不足であり朝餉を食べれば治るだろうと思っていた。
「山野君、大丈夫ですよ」
「駄目です。どんな些細な不調でもお医者様に見てもらうようにと副長から頼まれているんです!」
「土方さんが?」
総司は過保護だな、と内心苦笑する。彼がそうやって体のことばかりを心配するようになったのはいつからだっただろうか。
「南部先生をお呼びします」
「え?やめてくださいよ、重病でもないのに会津藩医を呼びつけるなんて」
「でしたら、南部先生のところへ参りましょう。駕籠を用意しますから」
「嫌ですよ、そんな重病人みたいな…歩いて行けます」
「先生!たまには僕の言うことも聞いてください!」
山野が声を上げる。彼の方がよっぽど熱がありそうな興奮ぶりだが、重病人のように扱われるのは懲り懲りだった。すると二人の会話に島田が間に割って入ってきた。
「先生、南部先生の所へは自分も山野とともに付き添います。万が一倒れるようなことがあれば自分なら軽々背負うこともできますから、駕籠を呼ばずに済むでしょう。…山野も変に大事になるような声を上げるんじゃない。俺も同行するからそれでいいな?」
「…はい」
山野は目を伏せて少し落ち込んだ様子だ。二人は衆道の仲だというが、傍目に見れば良い先輩後輩の間柄のようだ。
「すみません、島田さん、山野君」
「いえ。昨晩遅くまで近藤先生をお待ちになったのが宜しくなかったのでしょう。風邪は早めに直すべしです」
「僕も…大袈裟にしてしまってすみません。でもお医者様に掛かった方が安心です」
総司としては気が進まないところもあったが、二人に念を押されてしまっては拒むことはできない。
「わかりました」
そういって南部のもとへ向かうことにした。


405


総司は島田、山野とともに会津藩医を勤め、町医者でもある南部精一の住まいである木屋町を訪れたが、生憎南部は急患で外出しているとのことだった。
「申し訳ございません、先生のお戻りがいつになるかは…」
「そうですか…」
南部の弟子が困ったように頭を下げ、山野は困惑した。
「出直しましょう。案外屯所で大人しくしていれば治るかもしれませんし」
総司はそう言って笑ったが、実際は自分でも「風邪だ」と認識できるほどに体調が悪いと感じていた。体温はあがり頭がぐるぐると回っているかのように覚束ない。もちろんそれをお目付け役である山野が見過ごすはずはない。
「駄目です、先生。せめて一休みさせて頂きましょう」
「自分もそう思います。随分顔色が悪い」
山野だけではなく島田も引き留める。大柄な島田に抱えられて抵抗する気力は、いまの総司にはない。
すると、丁度南部の家の奥から
「誰かと思えば、沖田か」
と男が顔を出し気軽に声をかけてきた。
「松本先生…」
松本良順。幕府の奥医師を勤め、国内でも一、二の知識と腕を持つ医者だ。松本は父の弟子である南部と親しく、時折窮屈な立場から逃れるように南部の家に自由に出入りしているのだ。
松本は総司の様子を見るなり、表情を変えた。
「どうした、顔色が悪いようだな」
「ええ…ただの風邪だと思うんですが」
「松本先生!無礼を承知でお願いがございます、どうか沖田先生をご診察していただけませんでしょうか?」
山野が懇願し、島田とともに深く頭を下げた。総司自身は松本とは親しいが、二人からすれば幕府御典医ともなれば雲の上の存在であり、言葉を交わすことすら恐縮してしまうのだろう。
しかし、当の松本は「当然だ」とすぐに腕を捲った。
「そう畏まるな。頼まれなくても診察するに決まっている。近藤から新撰組隊士の健康は任されているんだからな」
「ありがとうございます!」
島田と山野は声をそろえて喜んだ。医者嫌いの総司としてはこのまま屯所に引き下がっても良いと思っていたのだが、松本が診察すると申し出た以上拒む理由はない。
そのまま南部の弟子に案内されて、奥の客間に入る。島田と山野は別室で待たされることになり、部屋には松本と総司のみとなった。
総司は周囲を見渡した。
「あの…」
「わかってるさ。英のことだろう?今日は南部とともに急患の所に行っている。戻りは夜になるだろうから、気兼ねするな」
「…そうですか」
総司はほっと安堵した。ここにやってくることを危惧した理由は彼のこともあったのだ。
英(はなぶさ)こと、宗三郎はかつて江戸にいた頃に土方と懇意にしていた陰間だ。土方のことを追いかけて都までやってきたが、新撰組とはひと悶着あり今では南部のもとに弟子入りして修業を積んでいるのだ。その経緯から彼自身が望まない限り、総司は英に会うつもりはなかったため、病とはとはいえ顔を合わせることに気まずさを感じていたのだ。
しかし松本は笑い飛ばした。
「病人が周りのことを心配している場合か。…ほら、大きく口を開けてみろ」
総司は松本に言われるがままに口を開き、彼は真摯な眼差しでその中を見た。いつも飄々としている松本だが、医師の仕事をしている時は鋭いまなざしになる。
「いつから体調が悪い?」
「…今朝からです。昨晩、遅くまで外にいたので」
「阿呆だな。昨晩はよく冷えただろう…まったく…」
松本の辛辣な指摘はどこか小気味よく、総司は「すみません」と苦笑するしかない。
「それで咳はでるか?」
「少し…」
「血が混じるようなことは?」
「ありません。先生、おそらくは風邪ですから、そんな大袈裟になさらないでください」
たかが風邪くらいで松本に診察してもらうだけでも大袈裟なのに、と総司は首を横に振ったが、松本は真面目な顔を崩さずに「そうか」と淡々と答えた。
その後も松本は聴診器などで胸の音を聞いたが、最終的には「風邪だな」と断定した。その結果を聞き、総司はほっと胸をなでおろす。
「ありがとうございます。屯所に帰って養生します」
「すぐに戻らなくてもいい。今日は寒いようだから薬を飲んで一休みしていけ。組下には先に戻るように伝えておく」
「…わかりました」
幕府御典医に抗う理由はなく、総司は渋々ながらも頷いた。松本は南部の弟子にてきぱきと指示を出し、薬や寝床の準備を始めさせる。風邪だと聞けば近藤や土方は心配するだろうが、松本のもとにいると伝えれば安堵するだろう。
「近藤も忙しなく動いているようだから、ついでに胃薬でも持たせておくか…」
「…松本先生は近藤先生のご状況をご存じなのですか?」
「あ?ああ、長州に行くって話か?」
直接的に政治にかかわるわけではない松本ですら、近藤の長州行きを知っている。総司はほとんど決定事項なのだということを痛感した。
「…そうですか」
「何だ、辛気臭ぇ顔してるな。さては、近藤の長州行きを反対してるのか?」
身体のことだけではなく心のことまで見透かす松本に、総司は躊躇いつつ頷いた。
「難しい話はわかりません。でも近藤先生自らが足を運ばれるのがどれだけ危険なことかくらいは、私にだってわかります」
「まあ…危険なのはその通りだろう。近藤が長州にいくというそれだけで、奴らの導火線に火をつける事態を招く。案外、幕府はそれを狙って近藤の同行を許可したのかもしれねえ」
「だとしたら余計危険じゃないですか!」
声を上げた瞬間、頭がくらっと揺れた。視界が歪み身体の力が抜けたが、松本は素早く総司の身体を支える。
「…っ、すみません…」
「やはり阿呆だな。病人が興奮するんじゃねえぞ」
「でも…松本先生…」
「いいから一旦、横になるんだ」
松本に支えられるがままに、南部の弟子が敷いた布団に横になる。それまで気を張っていたものが解かれて、随分楽になったように感じた。松本は話を再開した。
「病人にこんな話するべきじゃねえのかもしれねえが…俺は近藤が長州に乗り込んで事態を打開したいという気持ちはよくわかる。再々俺のもとを訪ねては幕府の長州に対する遅々とした対処を嘆いていたからな…。今回の長州行きはようやく巡ってきた好機だと、俺も思う」
「でも先生…」
「お前の言う通り危険な場所だ。己の命さえ危うい…本当はいま新撰組の局長として盤石な地位を築いた近藤が自ら足を運ぶ必要はないのかもしれないが、それを捨ててでも幕府の為に働きたいっていう、あいつのそういう心意気は俺は気に入っている」
「…」
松本は腕を組みなおした。
「…沖田、あいつを信じてやれよ。易々と殺されるようなそんな男じゃないだろう?池田屋の時だって近藤一人だけが怪我一つなく無事だったらしいじゃねえか。心配をしなくても剣術も達者だし、あいつは強運の持ち主だ」
「でも…それが今回も同じというわけではありません。もし、何かあったら…」
「確かに何があるかなんてわからんが、近藤はお前には『大丈夫だ』と信じてほしいと思っているはずだ」
「…」
松本の言葉はいつも迷いがない。だからこそ強張った心に、松本の言葉が沁みる。
(危険な場所に赴く先生を信じていなかったのは、誰よりも僕自身なのだろうか…)
「それに話は思った以上に進んでいてだな…」
「良順先生。病人を無理させないでください」
二人の会話にふっと別の人物の声が割り込んだ。部屋の隅々まで響く女性の声は水面に落ちる一粒の水のように凛としている。そして声の持ち主は松本の隣に座った。
「おう、加也か」
「いつも良順先生はおしゃべりが過ぎます。この方は風邪を召されているのでしょう?」
「ああ、そうだったそうだった」
「もう」
『加也』と呼ばれた女性に松本は頭を掻いて笑った。彼女は遠慮のない態度で松本と会話を交わしていた。
(誰だろう…)
年の頃は総司と同じくらい。真黒な髪を一つに束ね、凛々しい目元と真黒な瞳が印象的な、総司からしても美人だと感じる女性だ。太目の眉と形の良い唇が彼女の意志の強さを表すように凛々しく、気の強い女性だということは雰囲気だけで伝わってくる。
彼女は南部の弟子と同じように白衣に身を包んでいるあたり医療所の手伝いだろうか。それにしても、幕府御典医である松本と対等な会話を交わしていることには違和感があった。
「…お薬、飲めますか?」
江戸の出身なのだろうか、彼女はすべてをオブラートに包む京ことばは口にせず、懐かしい江戸の言葉を口にする。
「ああ…ええ」
「苦いでしょうが、お飲みになって。それからすぐに目を閉じて体を休めてください」
「はい…」
有無を言わせない加也に言われるがまま、薬を飲みほしそのまま目を閉じた。松本が加也によって摘み出されたようで、部屋は総司一人となりしんと静まる。
次第に自然と眠気が襲ってきた。




406


冬の夜はすぐにやってくる。
「…おかえり」
宵闇のなか土方は会津本陣が置かれている黒谷から帰還した近藤を出迎えた。ほろ酔い気味の近藤は少し頬を染めている。
「ああ…歳、まだ起きていたのか?」
「そんなに夜は更けていないだろう。…長州行きの件は話が進んでいるのか?」
「まあな…ほとんど決まったも同然だ」
「…」
「不満そうだな」
土方の表情を見て近藤は苦笑した。余程歪んだ表情をしていたのだろう。近藤は「中に入ろう」と自分の部屋に土方を招き入れ、蝋燭に明かりを灯し二人は向かい合って座った。
二人が顔を合わせるのは、先日言い合いになって以来のことだ。どこか気まずさがありどちらから何をも切り出すこともなくしばらくは沈黙した。
しかし先に口を開いたのは近藤だった。
「…今日はなんだか静かだな」
「総司がいないからだろう」
「ん?」
「あいつは南部先生の所で休んでいる。風邪だそうだ」
土方のもとに島田と山野がそう報告してきた時は一瞬、嫌な考えがよぎったが、松本の診察を受けたということなので心配はないだろう。
「風邪か。まあ先生に診ていただいたなら心配はないだろう」
「ああ…それで、何がどこまで決まったんだ?」
土方は腕を組みつつ、近藤に促した。
「長州訊問使として遣わされる永井様に随行する。出発は数日後、随行するのは俺と数名の隊士…それから伊東参謀だ」
「伊東参謀だと?」
土方の表情がさらに険しくなったが、それは近藤も予想していたことなのだろう。
「こういう時だからこそ『参謀』に同行してもらうべきだ。何が起こるか予想もできない敵地に、知見の広い伊東参謀が一緒なら心強い」
「しかし…」
「お前が言いたいことはわかっている。伊東参謀のことが信用できない…そう考えているんだろう?」
「…そうだ」
土方は沸き立ついら立ちをぐっと堪え頷いた。もともと勤王よりの考えを持つ伊東だ、土方の目の届かない場所で彼が考えを翻して新撰組の裏切らないとも限らない。
しかし近藤は
「いい機会じゃないか」
と言い切った。
「いい機会…?」
「お前はこれまで散々、伊東参謀のことを疑ってきたが、これまで彼が不審な動きを見せたことがあったか?」
「…それは…」
「だから今回はそれを見極めるいい機会になるだろう。もし今回の長州行きで何もなければさすがにお前でも伊東参謀を信用せざるを得ないはずだ。それに伊東参謀も了承しているし、永井様も参謀のことを気に入っている。今更、人を替えるわけにはいかないぞ」
「…」
土方は腕を組みなおして目を伏せた。最初は長州行きに伊東を同行させることに危惧を覚えたが、しかし伊東も長州に憎まれる『新撰組の参謀』という立場だ。易々と画策することはできないだろう。
(かっちゃんの言う通りかもな…)
伊東の動向を見極める…近藤のようにポジティブな目的ではないが、確かに『良い機会』になる。同行者に意を含ませておけば問題ないだろう。
だが、土方は深くため息をついた。その様子を見て近藤は首を傾げた。
「何だ、まだ納得いかないのか?伊東参謀も承知のことだぞ」
「伊東参謀のことはいい。永井様が了承しているなら今更、取り消すことはできないだろう」
「だったら何が納得いかないんだ?」
「…俺が言いたいのはもっと根本的なことだ。新撰組の局長であるあんたにそんな危険な真似をさせるわけにはいかない」
近藤の身に万が一のことがあったら。
その場所に自分は助けに行くことすらできない。
それを考えるだけで、土方の思考は真黒に染まってしまうかのように暗転する。開けていたはずの道が閉じてしまうかのような絶望に落ちるのだ。
しかし、近藤は土方をまっすぐに見つめた。
「だったら、お前は俺を何だと思っているんだ」
「…何?」
「確かにただ守られるばかりのお飾りの局長ならお前の言うとおりにすればいいのだろう。だが、俺はその座に甘んじて一人安全な場所に留まることはできない。なぜならそれは俺の誇れる姿ではないからだ」
「…」
「俺は今回の長州行きは隊士たちが命をかけて巡察に向かうのと同じだと思っている。危険な場所だからこそ、俺が向かう。この身に何かが起こるかもしれないなんてことは俺だってわかっている。だからこそ新撰組のすべてをかけて今回の話を受けたんだ」
近藤の言葉は、気持ちは、迷いすらない。彼はとっくの昔に覚悟を決めていたのだ。彼の土方が想像する闇を払うような強い眼差しが、眩いほどの光を放つ。
(いつだってそうだ…)
どんな困難な状況でも近藤は迷わず進む。
だからそれについていくと決めたはずだ。
(箱入り娘なんてガラじゃねえんだ…)
「…勝手に新撰組をかけるなよ」
土方は笑った。強張っていた顔の筋肉が解かれていき、その表情を見て近藤もすべてを悟ったようだ。
「ああ…そうだな」
「わかった。そのかわり条件がある」
「条件?」
「一つは、『近藤勇』という名前を名乗るな。幕府としては新撰組の名前を出して長州に揺さぶりをかけたいという狙いもあるのかもしれないが、その名を名乗るのはあまりに危険すぎる」
「ああ、それなら永井様とも打ち合わせ済みだ、問題ない」
近藤は満面の笑みで頷く。彼にしては周到な用意をしたつもりなのだろう。土方は続けた。
「それから同行する隊士は俺が決める」
「構わない。むしろそういうことはお前に任せるつもりだ。…条件はそれだけか?」
「ああ」
近藤の命を守ることと伊東の動向を見極めること、そのどちらも当然のことではあるがもちろん長州行きで失態を犯すわけにはいかない…土方のなかではすでに人選が始まっていた。
すると近藤は突然、懐から「これを読んでくれ」と懐から折りたたまれた手紙を差し出した。宛先は近藤の義父であり先代の近藤周斎だ。
「何だ?」
「俺の覚悟だ、読んでくれ」
そう言い切った近藤は、微笑んでいた。


スズメの囀る音で目が覚めた。一番最初に目に入った天井の木目がいつもと違うことに気が付いて、「そうか」と一気に頭が冴えた。
風邪だと診断され、南部の家で一晩を過ごした。一度も目覚めることなく朝を迎えたおかげか、それとも薬の効果か、身体はすっきりとしていた。
「おはようございます」
「!」
総司は声をかけられて驚いた。すぐそばに加也が控えていたことに気が付かなかったのだ。
「おはよう…ございます。…ずっと看病をしてくださったのですか?」
「ずっとというわけではありませぬ。時折、こうしてご様子を伺いに」
加也はさもそれが当然というような素っ気ない態度だった。そして彼女は総司の額に手を当てた。
「…もう熱はないようですね。具合はいかがです?」
「大丈夫だと思います。これ以上ご厄介になるわけにはいかないので、早々に屯所へ戻ります」
総司は身体を起こしたが、加也は「なりませぬ」と両肩を押して再び布団に横たえさせた。
「治ったと過信してぶり返すほうが大病につながります。せめて良順先生にもう一度診てもらうまではお休みください」
「しかし…」
「ここは南部の診療所です。厄介な患者ばかりですから、風邪程度で厄介だとは思いませぬ」
懐かしい江戸の言葉、遠慮のない口調。清々しい彼女の様子に、総司は従わざるを得ないが不思議と不快感はない。
加也は乱れた布団を直し、総司の喉元まで掛布団を被せた。後頭部で一つに結ばれた長い黒髪が肩口からはらりと流れる。真黒な瞳が印象的に映るのは透き通った白い肌のせいだろうか。
「あなたは…診療所のお手伝いの方ですか?」
「…いえ、私は南部の娘です」
「娘さん…ですか」
総司はまじまじと彼女を見る。松本に対して遠慮のない口調で会話をしていたことには合点がいった。しかし南部は近藤らと同世代のはずだが、加也の年の頃合いは総司と同じくらいであり年齢に誤差がある気がした。すると加也は目ざとく総司の疑問を察した。
「養女です。私の父が亡くなり、南部の娘として江戸から参りました」
「やはり江戸ですか。私も元々は江戸の人間なので、あなたの言葉遣いはどこか懐かしいです」
「…そうですか」
加也は愛想もなく淡々と答える。これまで総司の周囲にいた女性は微笑みを絶やさなかったため、彼女のような態度は新鮮だ。
「あなたも…」
「加也とお呼びください」
「お加也さん。…お加也さんも南部先生と同じように医師を目指しているのですか?」
総司の問いかけに、加也は少し驚いた顔をした。それまで淡々と会話をしていた加也にはじめてあらわれた変化だ。
「なぜ…そう思われるのですか?」
「? 昨晩は白衣を着ていらっしゃったでしょう。それに手際も良いですし…」
「女は医師にはなれませぬ」
「そうなのですか?」
「…」
加也はしばらく目をむいたまま、総司を見ていた。
(何か拙いことを言ったのかな)
総司は困惑したのだが、彼女はやがてふっと笑った。
「変な方」
それまで端正な顔立ちながらも氷のように固まっていた彼女の表情が少しだけ解けた。形の良い唇が朗らかに笑っているのを見て
(笑った方がいいな)
と総司は思ったのだった。





407


耳に当てた聴診器を外した松本は「うむ」と深く頷いて
「良くなったようだな」
と太鼓判を押してくれたので、総司はほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
「ただし油断は禁物だ。前にも言ったかもしれねえが、誰しも剣は強くとも病には弱いんだ。それを心得ておけ」
「わかりました」
歯に衣着せぬ松本の忠告に総司は満面の笑みで返す。すると加也が顔を出して傍に座り、手にしていた薬袋を松本に渡した。
「良順先生、お薬です」
「おう。…沖田、念のため薬を出しておく。それからこっちは胃薬だ、近藤に渡してくれ。旅先で動けなくなっちゃあ仕方ねえからな」
「…わかりました」
松本は軽く笑い飛ばしたが、近藤の長州行きについて未だに心が決めきらない総司としては、松本の気遣いとはいえその胃薬を受け取ることに躊躇いを感じていた。しかしそれは二人に吐露するようなことではない。有難く受け取った。
「薬が足りなきゃ加也を訪ねてこい。ここの薬は加也が調合している」
「そうなのですか?」
「良順先生」
窘めるように加也が話を制するが、松本は続けた。
「今は南部の養女だが加也の亡くなった父親も医者でな。加也は子供のころから薬の知識だけは叩き込まれている。今まで近藤の胃薬を調合しているのも加也だ」
「そうだったんですか?」
「…良順先生、余計なことはおっしゃらないでください」
加也は鋭い眼光で松本をにらみつけているが、話は終わらない。
「そう怒るなよ、俺は褒めてんだからな。お前は南部の弟子以上に医学の知識に長けている。男の身ならお前は今頃、立派な医者になったことだろう」
「へえ…」
幕府御典医であり世辞を嫌う松本が褒めるくらいなのだから、加也は余程医者になる素質があるのだろう。総司はまじまじと加也を見たが、彼女は一気にその表情を落としてしまった。怒っている、と総司が気が付いてしまう程度にはあからさまだ。
「…そういう仮定の話は嫌いです」
松本の誉め言葉を拒んで立ち上がる。一言「お大事に」と総司に言葉をかけてさっさと部屋を出て行ってしまった。その足音が聞こえなくなると
「…愛想のない娘で悪いな」
と松本は笑った。加也とのやり取りはいつもこうなのか、慣れた様子だ。
「いえ…」
「顔は島原でも一、二を争う美人だが、ああいう性格でな。本人はたぶん父親と同じように医者になりたいのだろうが、おくびにも出さねえから可愛くねえよ」
「女だから…ですか」
「たぶんな。…加也がそう言っていたか?」
「まあ…そうですね」
深く事情は尋ねなかったが、加也が自分は女なのだから医者ではないと口にしていた。先ほども松本の『男の身なら』という言葉に過敏に反応していたように見えたのだ。
松本は「ふうむ」と腕を組んだ。
「あれは色々事情があってな。養女としてこっちに来て数年経つが、南部と俺以外にはなかなか心を開かない。普段は口数も少なくて何を考えているのかわからん。ただ、お前のことは熱心に看病をしていたなあ。案外、お前のことを気にっているのかもしれねえな」
「…またそういうことを言っていると、怒られますよ」
仮定の話は嫌いだと言っていたばかりだ。
「違えねえや」
ははっと松本が笑い飛ばしたので、総司もつられて笑ったのだった。


薄暗い雲が空を覆い、ポツリポツリと雨が降っていた。雨の筋がまっすぐに地面に向けて落ちていく。
「鈴木君、ちょっといいかい」
非番である九番隊組長鈴木は声をかけられて足を止めた。しかし振り返ることには躊躇した。声の主は自分が最も苦手としている人間だったからだ。しかし彼はそれを自覚していて、滅多に会話を交わすことはなかったため、よっぽどの用事があるのだろう。仕方なく
「…何の用ですか?」
と返答して振り向いた。すると声の主である内海は微笑んで「話がある」と散歩に誘ってきた。
しかし鈴木は眉間に皺を寄せた。
「雨ですが…」
「聞かれて困る話ではないが、雨のほうが良い」
「…」
内海はそういうと、鈴木の返答も聞かずに先に外に出た。鈴木としては無視して立ち去るということもできたが、それはまるで敵前逃亡のようだと感じ仕方なく付いていくことにした。
互いに傘を持ち、ひたすらに歩く。内海が先に歩き鈴木はその二歩ほど後ろを歩いていた。鈴木には内海と交わすような世間話はなく、「話がある」と誘った内海も話を切り出さなかったため、沈黙が続いた。その沈黙を埋めるように雨の滴が傘に落ちて弾ける。
「…実のところ、何を話せばよいのか私にもわからない」
「は?」
沈黙を破った内海だったがその物言いは曖昧だ。鈴木は怪訝な表情で内海を見るが、今は傘とその背中しか見えない。
「だったらなぜ…」
「大蔵さんに頼まれたからです」
「…兄上が…?」
「花香太夫を身請けしてから、あなたの様子がおかしいと言っていました。大蔵さんは以前の…山南総長の時のようなことになることを危惧しているのでしょう」
「…」
山南敬助が脱走した理由は表向きには明瞭に語られていない。しかし伊東は実弟である鈴木が山南の馴染みであった明里に横恋慕したせいではないか…と近藤に話しているらしい。
もちろん真実は違う。鈴木はなかなか伊東の手に落ちない山南にさらなる揺さぶりをかけるために勝手に明里に正体を隠して身請け話を持ち掛けたのだ。明里は山南の心の拠り所になっていたので、それを無くせば簡単にことが進む…そう思ったのだが、しかしそれは山南の脱走という形で失敗に終わってしまった。鈴木の行動を伊東は横恋慕だったため、と大きな嘘という名の風呂敷で被せて終わらせた。さらに山南の死後は明里の世話を焼いて馴染みの商家に身請けを依頼した。事をどうにか収めたのだ。
伊東はあの時のような鈴木の先走りを案じているようだ。
「…安心してください。あんなことはもうしません」
「では花香太夫の件も、受け入れていますね?」
「……」
内海の問いかけに、鈴木は言葉を詰まらせた。
伊東が懇意にしていた花香太夫を身請けしたということを知ったのは、兄が別宅に目星を付けて近藤に報告した時だ。鈴木が止める間もなくあっという間に二人は別宅で暮らし始めた。
「…受け入れるもなにも…兄上が、決めたことですから」
感情を押し殺して答えたものの、その声は震えていた。
(何であんな女と…?)
伊東には江戸に残している正妻がいる。正妻とは婿養子となり道場を継ぐために縁組をしたということだったので受け入れることができた。道場の一人娘だという正妻は厳かで楚々とした人だったため、「兄上にはふさわしい」と思ってた。
しかし、花香は違う。
(廓の女なんて…兄上にはふさわしくない)
その言葉が喉元まで出かかっていた。それを内海は目ざとく察したのか、急に立ち止まって振り返った。「大蔵さんの長州行きが決まったようです」
雨の中でも聞こえる、重々しくしかしはっきりとした口調だった。だが、鈴木にとってはそれが一体何のことなのか理解できなかった。
「…なんの話ですか?」
「幕臣の永井様が膠着状態の長州に出向かれ、それに近藤局長が同行されます。大蔵さんは自ら随行を志願され、承認されたようです」
「兄上が…長州に…?!」
長州が新撰組を目の敵にしていることは政治に興味のない鈴木でも理解している。その敵だらけの中に兄が向かう…
「なぜそんなことを!」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず…大蔵さんはそう言っていました。長州の内情を探るとともに伝手を得ることができれば上々だと」
「だからと言ってなんて危険な真似を…!」
鈴木は手にしていた傘を捨て、内海の胸倉に掴みかかった。その衝撃で彼もまた傘を落とした。
「内海さんは止めなかったんですか?!内海さんが止めれば兄上だって考えを改めて…!」
「私は大蔵さんを止めません」
「なぜですか!」
「そう決めているからです」
二人の間には雨が降り注いでいる。熱くなる鈴木に対して、内海は淡々と答え続ける。
「私はあの人の行動を止める気はありません。大蔵さんの望み通りにことが運ぶように、私は善処するだけです」
「そんな…」
「ですから、鈴木君もよくよく考えてください。行動や言動はすべて慎重に…大蔵さんの邪魔だけはしないように」
内海は掴んでいた鈴木の手を解いた。そして傘を拾い肩に落ちた雨粒を払う。
「話はそれだけです。そのうち長州行きの件は隊士に発表があるでしょうからそれまでは口外しないように。…落ち着いたら、屯所に戻ってください」
用件だけ伝えて、内海はその進路を屯所に戻す。鈴木は震えるような感情を堪え、「内海さん」と引き止めた。
「…何ですか?」
「兄上の意志を尊重するあなたが…なぜいつまでも『大蔵さん』と呼ぶのですか?」
「…」
『甲子太郎』と名を変えて久しい伊東のことを、内海はなぜか昔の名で呼び続けている。伊東から何度訂正されてもいつまでも呼び続けている。
(望み通りというのなら…その呼び方で呼ばないはずだ…)
そこに何らかの内海の意志がある。
だが、彼は何も答えずにそのまま立ち去って行ったのだった。



408


雨が降り続く中、総司は屯所に戻った。
「沖田先生!」
総司の帰営に一番最初に気が付いたのは山野だった。彼は駆け寄ってきてまじまじと総司の頭から足の先まで見回した。
「…もう、宜しいようですね」
「大丈夫ですよ。御典医の松本先生お墨付きなんですから」
「だったら僕も安心です。今日は一番隊は夜番ですからそれまではしっかり養生してくださいね」
「わかってます。今から近藤先生と土方さんの所に行ってきますから、そのあとはゆっくりします」
松本と加也から託された近藤宛の薬を届けなければならない。総司は山野とは別れて集会所の奥の部屋に向かった。
「近藤先生、いらっしゃいますか?」
「…総司か?中に入ってくれ」
近藤の声が聞こえたので、総司は中に入る。ちょうどそこには土方もいて二人で書面を広げて話し合いをしていたようだ。
「失礼します。…南部先生の診療所から戻りました。ご心配をおかけしてすみません」
総司は深々と頭を下げて詫びた。土方は「ああ」と短く答えただけだったが、近藤は大袈裟に「心配したぞ」と総司を気遣った。
「風邪だって?」
「はい。少し夜風にあたりすぎたようです。南部先生がご不在でしたので、居合わせていらっしゃった松本先生に診ていただきました。今朝は全快したとお言葉もいただきましたし、お薬も頂戴していますからもう大丈夫です」
「そうか、それなら安心だな。これから俺がいない間は歳とお前が新撰組を支えなければならないんだ、頼むぞ」
「…」
近藤はニコニコとご機嫌な様子だが、総司はうまく返答ができず困惑しつつ、土方へ目をやった。土方は近藤の長州行きを受け入れたようで近藤のコメントに反論する様子はない。二人のなかで今回のことは解決しているのだろう。だが
「総司、言いたいことがあるなら言え」
と促された。近藤も総司の戸惑いに気が付いたようで「どうした?」と尋ねてくれた。
「…あの、近藤先生」
「うん?」
「その…長州行きの件は、もう本当に決まってしまったんですか?」
「そうだ。これから隊士たちにも知らせる。いま同行者を決めているところなんだ」
近藤はやはり嬉しそうに笑っていた。二人の間にある書面は同行者の候補たちなのだろう。数人の名前が挙がっている。
「そうですか…」
「総司、お前も反対か?」
「長州は未だに新撰組を目の敵にしています。…できれば近藤先生にそんな危険な場所に行ってほしくないと思います」
「お前も歳と同じことを言うんだなあ」
近藤はははっと笑って土方に目を向けたが、彼は照れ隠しなのかふいっと目を逸らしてしまった。近藤は総司の方へ身体を向けて姿勢を正した。
「お前の心配はわかってい。俺も長州が決して安全な場所だとは思っていない。だから、今回のことは俺は戦地に乗り込むつもりで永井様の同行を願い出たんだ。…これは俺の戦だ」
「…戦」
「この戦に絶対に勝利して帰る。だから…俺を信じてくれないか?」
まっすぐに、真摯に総司に向けられる目を、何度も見てきた。
『近藤はお前には『大丈夫だ』と信じてほしいと思っているはずだ』
(松本先生は本当に何でも見えている)
病だけではなく心の中まで見透かす名医だ。
そして雲一つない晴れ渡るような近藤の心からの言葉に、土方も絆されたに違いない。
「…わかりました」
本当はすべてを納得できたわけではない。近藤の長州行きを止められるものなら止めたいという気持ちもある。
(でもきっと先生には抗えないんだ)
近藤が信じるものを、信じてきた。そしてともに歩んできた道に間違いはなかった。
だからもちろん近藤が信じてほしいというのだから、そうするしかない。それは決してあきらめから出た感情ではなく、自分の中に染み付いた生き甲斐のようなものだ。
「でも絶対、無事に帰ってきてくださいね」
「わかってるよ。まったく、お前も歳も俺を過保護に扱いすぎだぞ?」
「新撰組の局長なんだから当然だろう」
土方はふんと鼻を鳴らして、近藤が穏やかに笑う。喧嘩をしたと言っていた二人だがすっかり忘れていつも通りの様子だ。
総司はそんな二人の『いつも通り』に苦笑しつつ、二人の間に広げられた書面に目をやった。
「…それで、長州には誰が同行するんですか?」
「今のところ決まっているのは伊東参謀だ。それから出雲出身で土地勘のある武田組長が名乗り出てくれている。それから尾形君も同行させようと思っている」
「武田さんと尾形君ですか…」
武田観柳斎は先日馬越三郎との一件で一時期隊内で噂の的になったが、馬越が新撰組を去り怪我を負った武田も回復し、今ではすっかり過去のことになっていた。近藤に媚び諂うのはいつものことで今回もお供したいと熱心に願い出たのだろう。古参隊士の尾形俊太郎は平隊士ながらも義理堅い性格ゆえに近藤からの信頼が厚く、以前も江戸での隊士募集の際には同行させていた。
「あの…私はご一緒させてもらえないのですか?」
二人が信頼できないわけではないが、自分が候補して挙がっていないことは不本意だった。総司が申し出ると、
「お前は駄目だ」
と、近藤よりも先に土方が答えた。
「ただでさえ局長と参謀がいないなか、一番隊組長のお前に何かがあれば新撰組は立ち行かなくなる。それでは本末転倒だ」
「それは…そうかもしれませんけど…」
土方から取り付く島もなくあまりにあっさりと却下されてしまい、総司は助けを求めるように近藤を見た。近藤は穏やかに笑った。
「総司、今回は堪えてくれ。それに俺とお前が新撰組を離れてみろ、歳が寂しがるだろう?」
「近藤局長、そういう話をしているんじゃねえ。新撰組としての判断だと言っているだろう」
「素直じゃないな」
土方が鋭く近藤を睨むが、怯むような関係ではない。
「そういうわけだから、総司、歳と留守番を頼むよ」
「…わかりました。そういうことなら仕方ないです」
総司も近藤の会話に乗って調子よく答えた。
もちろん危険な長州行きに同行できない無念はあったが、近藤の言う通りこういう時だからこそ土方を支える為に新撰組に残るべきなのだろう。
土方が「ごほん」とわざとらしく咳払いをして話を変えた。
「それから、山崎も同行させるつもりだ」
「山崎君もか?」
「でも山崎さんは医学方でしょう?」
土方から名前の挙がった山崎烝は監察方のトップとして新撰組を支えていたが、針医師の息子という腕を買われ監察から医学方へと移り、今は南部のもとで修業を積んでいる。
「山崎を監察から移動させたのはこの京で顔が広くなったせいだ。だが、長州では山崎のことを知っている者はいないし、むしろ山崎はこれまで何人もの不定浪士の顔を覚えている。こういう時だからこそ、これまでの経験を生かして有用な働きをするだろう」
「なるほどな。それに、何かあった時は早速その医学の腕を生かしてくれればいい」
「まあな」
近藤は合点がいったようで、「南部先生にもお願いしておこう」と頷いたが、総司は土方のもう一つの意図を察していた。
(伊東参謀のことを見張らせるつもりなのだろう…)
かつて土方の右腕として力を発揮した山崎は、土方が最も信頼を置いている隊士だ。もちろん土方が口にしたように不定浪士を探らせる意図もあるだろうが、彼に意を含ませて伊東参謀の動向を監視するのだろう。
(土方さんらしいな)
総司としても山崎が同行するなら安心して見送ることができる。
そして近藤は「よし」と息を吐いた。
「これで決まりだ。武田君や尾形君、それから山崎君には歳から詳細を話してくれ」
「わかった」
「あとは総司のことだな」
「…え?」
心当たりのない総司は首をかしげたが、近藤は満面に笑みを浮かべて「見合いだよ」と続けた。
「長州に行く前に見合い話を進めたいんだ。俺はお前の父親代わりをおみつさんからから託されているし、いつ戻れるかわからない状況で旅立つ前に気がかりを残しておくのは本意ではないからな」
「それは…その…」
総司はちらりと土方を見たが、彼は広げていた書面を懐に戻しつつ、まるで何も聞こえていないような涼しい顔をしていた。
(土方さん…?)
見合いの話となればいつも不機嫌そうにしていたくせに、土方の表情は変わらない。そして総司の方を見ようともしない。
(どうしたんだろう…)
困惑する総司に気が付いたのは、近藤の方だった。
「総司、歳のことは気にしなくていい。歳もお前が嫁を迎えることは理解してくれている」
「…え?」
「そうだよな、歳」
近藤の言葉にそんなはずはない、と総司はすぐに思った。
『私は歳三さんと心中するつもりでこうして一緒にいるんです』
『だから、私は嫁を貰うことができない』
松原の死後、改めて総司は土方とともに生きていくことを決めた。確かにこれまで近藤の見合い話を断り切れずに有耶無耶にしてきたが、だからといって総司が嫁を迎えることに理解を示すはずはない。
しかし
「ああ」
と、土方は短く答えた。そしてそれ以上は語らず
「見合いのことは二人で話し合ってくれ」
そういって立ち上がると、さっさと部屋を出て行ってしまう。総司は茫然とした。頑なな背中を見せた土方が何を考えているのかわからない。
「土方さん…!」
「おい、総司…」
総司は反射的に追いかけなければならない、と思い近藤が引き留めるのも聞かずに立ち上がり部屋を出た。そしてしばらく走って
「待ってください!」
と土方の腕を掴まえた。彼は相変わらず涼しい顔をして「何だ?」とまるで何事もなかったかのような表情だ。
「…土方さん、怒っているんですか?」
「…」
「見合いのこと…いつまでも、断り切れなかったから…」
近藤の親身な気持ちを目の前にはっきりと拒むことができない…そんな総司の曖昧な態度に痺れを切らしてしまったのだろうか。
しかし土方は、総司の掴んだ腕を離した。
「別にそういうわけじゃない」
「だったら…」
「…俺とお前のことと、お前が嫁を貰うことは別のことだと…そういうかっちゃんの考えを理解しただけだ」
「え…?」
(それは…どういう意味なのだろう)
まるで土方の言葉とは思えず、総司は唖然と彼を見上げた。怒っているわけではない、悲しんでいるわけではない。ただただそれが自然の摂理だというような悟った顔をしていた。
「嫁をもらえ」
「…!」
「それがお前と、かっちゃんのためだ」
淀みなく告げた土方は、「もう行くからな」と言って総司に背中を向けて歩き出す。総司はそれを追いかけることもできずに立ち尽くした。
土方が歩いていく一歩一歩。それが彼の心が遠のいているんじゃないかと錯覚した。



409


近藤、伊東らの長州行きを数日後に控えた十一月初旬。どこか忙しない西本願寺の屯所に突然の来訪者があった。
「松本先生!」
隊士の知らせを聞き駆け付けた総司は、共一人連れず屯所を訪れた松本に驚いた。まるで寄り道に顔を出したと言わんばかりに気軽な様子だ。
「おう。顔色は良くなっているな」
「どうしたんですか、突然…」
「何だよ、新撰組の主治医が屯所に来て不都合でもあるのか?」
松本は軽快に笑い、総司もつられて笑った。しかし、主治医は主治医でも相手は将軍の御典医であるのだから、隊士たちが恐縮してしまうのは当然だ。
松本は周囲を見渡し、「うむ」と頷いた。
「俺の指導通り、衛生面で気を配っているようだな」
「もちろんです。先生のおっしゃる通り病人とけが人は部屋を分けていますし、みんなきちんと風呂に入っていますよ。豚は…好き嫌いがありますけど」
屯所では松本の助言により残飯の処理を目的として豚を飼い始めた。成長して大きくなれば食料とすればいいということだったが、独特の臭みや食感ゆえに好まない隊士も大勢いた。そのうちの一人が総司自身なのだ。
「南部から話を聞いている。病人も随分減ったらしいな」
「はい。先生方のおかげです。…今日は近藤先生に会いにいらっしゃったんですか?」
「近くに用があったんだが、長州行きの激励を込めてな」
「ありがとうございます。近藤先生も喜ぶと思います」
総司の案内で松本は近藤がいる奥の部屋へと歩き出す。隊士たちが松本の顔を見るや深々と頭を下げたが、そのたびに松本は「気を遣うな」と声をかけた。彼の気さくな人柄がうかがえた。
「今日は加也の調合した薬も持ってきた。この間渡した分じゃ足りねえだろうからな」
「ありがとうございます。それにしてもすごいなあ、お加也さんは幕府御典医付きの薬師なのですね」
「まあな。あいつには医者として優秀だった父親の血が流れている。知識だけではなくて勘の良さもあってな…もともと才能を持って生まれたんだろうなあ」
「お加也さんの父上は…」
「ああ…俺の兄弟子だった」
松本は目を細めた。
「自分に厳しい男だったな。若くして結婚して加也が生まれたんだが、徹夜なんて日常茶飯事、ろくに家戻ることもなく医学所に籠るような医者だった」
「へえ…」
「家族を顧みない男だったが、不思議なことに加也は父に懐いてな。医学所にも一緒についてきては難しい本ばかり読んだり医学の教えを乞うような…変わった子供だったんだ。俺を初めとして医学所の弟子たちにかわいがられたものだ。…だが、数年前に父親が亡くなってから相次いで母親も死んだ。それからはどうも心を閉ざしたというか…すっかり愛想のない娘になっちまったよ」
「それから南部先生の?」
「…まあ、色々あってな」
それまで懐かしさに囚われたように饒舌に加也のことを語っていた松本が、南部の養女となった経緯だけは言葉を濁した。そのことに総司は違和感を覚えたものの、詳細を尋ねる前に近藤の部屋の前までたどり着いてしまった。
「失礼します。…近藤先生、松本先生です」
「なに!」
部屋の奥から驚いた声がする。総司が障子を開けると、丁度近藤と土方が顔を揃えていた。
「松本先生!どうされたのですか!」
松本の顔を見るや近藤は歓喜の声を上げ、土方は目を伏せて無言で頭を下げた。
「何、近くに来たから寄っただけだ。お前さんの顔を見たくてな」
「ははは、ありがとうございます。私も長州行きの前に先生にお会いできて嬉しく思います」
近藤は松本を部屋に招き入れ、おずおずと申し出た。
「…先生、実は丁度長州行きについて土方君と子細を打ち合わせしていたところですなのです。何分、西国については足を踏み入れたことすらない。もしお時間があれば見識の広い松本先生にご教授いただければ助かるのですが」
「へえ、おもしれえな。俺で役に立つのなら話に加わろうじゃないか」
「ありがとうございます!」
長崎海軍伝習所で蘭学を学んだ経験のある松本は、西国についても詳しい。そんな彼に助力してもらえることになり、近藤はすっかり上機嫌になった。
「総司、お前も良かったら話に加われ」
「いえ…私はそういうことに疎いですから…」
総司はやんわりと断りを入れつつ、ちらりと土方を見た。だが、彼は一切総司の方には目を向けずこちらを見ようともしない。
「…失礼します。松本先生、ごゆっくりなさってください」
総司はどうにか微笑んで、部屋を去った。

「どうしたんだ、一体?」
総司が去った後、松本は近藤ではなく土方の方に尋ねた。土方は少し沈黙して「何のことでしょうか?」とはぐらかすが
「とぼけるなよ、沖田のことだ」
とさらに追及した。
「風邪の方は良くなったみたいだが、どうも他に心配事があるようだな?何があった?ひょっとしてまだ長州行きの件に蟠りがあるのか?」
「…」
「先生、長州行きの件は総司も納得しているのです」
無言のまま答えようとしない土方を見かねて、近藤が代わりに苦笑して答えた。
「そうではなく、どうも見合いの件がこじれてしまっているようで…」
「見合い?…ああ、前に南部から聞いたな。あいつが紹介した娘がいただろう?」
「ええ。ですが相手の娘の年が離れていることもあり、その件は無いことになりまして。ですが私としては、長州行きの前に総司の見合い話に目途をつけておきたいと思っているのです」
「早急だな。何も長州に行くからと言って死に別れるというわけでもあるまいし」
松本は相変わらずはっきりとした物言いだ。しかし近藤は微笑みつつ続けた。
「死に別れるつもりはありませんが、その覚悟を持って私は永井様に随行します…だから、万が一に備えて万全の準備を行っておきたいのです」
「それが沖田の見合いだと?よくわからねえな」
「…」
松本は首を傾げた。自分の身を固めるならともかく、愛弟子の縁談をまとめることが『万全の準備』だとは理解できなかったのだ。
しかし、近藤はためらったものの深く頷いた。
「松本先生にはお話いたします。ですが、これは総司には決して話さないでいただきたいのです」
「…分かった。聞こう」
松本の了解を得て、近藤は重々しく話し始めた。
「私は万一の場合、天然理心流を総司に譲ろうと考えているのです。本来であれば私の子に、というのが摂理でしょうが残念ながら私には男子がおらず剣術を…道場を継ぐ者がいません。私に何かがあれば天然理心流が途絶えるということになる」
「ふむ…」
松本は腕を組みなおした。
「だか、沖田は嫡男のはずだ。お前の跡継ぎにはなれないだろう」
「そうです。ですから、総司には私の跡継ぎになるのではなく、剣術だけを継いでもらいたいのです」
「しかし、天然理心流は代々近藤家が継いできたんじゃないのか?それを沖田に譲るというのか?」
「…先生は相変わらず目ざとい」
近藤は賞賛の眼差しで松本を見た。
「新撰組として数年が経ち…私はもう江戸は捨てたつもりでいました。家も、道場も…誰かが継ぐだろうと他人事のように思っていた。けれど今回の長州行きが決まり、それではいけないと思いました。新撰組の局長としてではなく、近藤勇として継がせてもらった剣術を守らなくてはならない…それを考えた時に、真っ先に頭に浮かんだのが総司でした。総司なら、天然理心流を継ぐ才能がある。だから近藤の家とは別に、剣術だけは総司に継いでもらいたいと思っています。すでに江戸にいる義父や故郷の人々には伝えて既に了承を得ています」
「…なるほど。だから見合いをさせて地盤固めをしようと?」
「そうです。独り身でいるよりは外聞も良いでしょうし、総司に男子が生まれればさらに安泰ですから」
松本は早急に見合いを進めようとする近藤の考えにようやく合点がいった。これまで近藤家が継いできたすべてを総司に譲るというのは大きな決断だが、そう思えるほど総司のことを信頼しているのだろう。師弟愛には感心するばかりだ。
「…だが、本人に伝えなくていいのか?」
「いいのです。私の万が一など…総司には伝えなくても良い。それが私と土方君の考えなのです」
近藤が土方に目をやると、彼は軽く頷いた。松本はそんな土方をじっと見た。
(板挟みだな…)
親友である近藤の想いに同調して、自らの考えに蓋をする。それは鬼副長の土方らしい行動だが、二人の関係にヒビが入るのは当然だ。だからこそ、先ほどの総司と土方の距離感があったのだろう。
「…土方はそれでいいのか?」
飾った言葉や、つまらない小細工は土方の心を閉ざす。それを知っている松本はあえてストレートに尋ねた。
すると土方は表情は変えなかった。ただ少し間をおいて
「俺は近藤局長の決断に従います。ただそれだけです」
と答えた。
「…そうか」
万が一の時は剣術を譲りたい。
そう聞かされた時に土方は何を思ったのだろう。そんな大きな覚悟をして長州へ行く幼馴染の心情を思うとともに、総司の為に己の身を引くことすら頭をよぎったに違いない。
(見合い相手か…)
「…よし。じゃあ俺が一肌脱ぐか」
「? 松本先生?」
「見合い相手の娘を紹介してやるよ」
困惑する二人をよそに、松本は腕を捲る仕草をしてにやりと笑ったのだった。


410


ついに出発の前日となった。久々に新撰組の屯所に戻った山崎は早速、土方のもとへ向かった。
「悪かったな」
鬼と恐れられる副長が己に対して耳を疑うような言葉を述べたので、山崎は「へ?」とまともな返答ができないほどに驚いた。
すると土方は苦笑した。
「医学方に専念させるつもりだったのに、引き戻すような真似をして悪かったと言っているんだ」
「いえ、そないなこと…お役に立てるんやったら、監察でも小荷駄方でもなんでも言うてください」
「そうか」
(らしくない)
山崎はすぐにそう思った。その原因や理由は長く屯所を離れているために察することはできないが、やはり近藤が長州に行くことについてすべてを納得したわけではないのだろう。
しかし気づかないふりをして山崎は尋ねた。
「結局、同行者は武田組長、尾形君、伊東参謀ですか」
「ああ。武田は近藤局長を引き立てるだろうし、尾形は剣が立ち義理堅い性格だから妙な気を起こさないだろう。伊東参謀は…局長曰く『知見が広く心強い』そうだ」
近藤の言葉を引用した土方の物言いが固いのは、警戒心の現れだ。余程伊東が同行者の一人になったことは不本意だったのだろう。だからこそ山崎も同行者の一人となったのだ。
「長州の内情を探ると同時に、参謀の行動も見張れ…ということですね」
「そうだ。咄嗟の判断はお前に一任する」
「…わかりました」
山崎は頭を下げて受け入れた。
(咄嗟の判断…)
それは、重たい言葉だと思った。


非番だった総司は一人祇園の町を歩いていた。秋の空はどこかその青みが薄くてぼんやりとしたものに見える。雲の流れる速度もゆっくりとしていてまるで時が流れるのも遅くなってしまったかのようだ。
総司はそのまま祇園の町を通り過ぎ、祇園社に辿り着いた。町の人々が「祇園さん」と親しげに呼ぶ祇園社には今日もたくさんの人が参拝に訪れている。少し前までは木々が紅葉し目にも鮮やかな様子だったが、冬の木枯らしに吹かれて葉を散らしてしまったのか少し寂しい姿になっていた。
西楼門からぼんやりとその光景を眺めていると、ふっと知った顔が目に入ったので声をかけた。
「お加也さん」
呼ばれた彼女は少し驚いたような顔をして振り向いた。
「…沖田様」
「偶然ですね。こんなところでお会いするなんて」
「それはこちらの台詞です。わたくしは毎日足を運んでいるのですから」
「なるほど、確かに」
彼女の相変わらずなはっきりとした物言いに、総司は笑った。
加也は髪を一つにまとめ、薄紅色の着物に身を包んでいた。手には風呂敷を抱えている。髪を結いあげている女が多い中で彼女の存在は際立って目立ち、その整いすぎた相貌のせいか近寄りがたくもある。しかしその切れ長の瞳が微笑むと柔らかくなることを知っている総司は、その近寄りがたさを感じなかった。
「もうお体のお加減は宜しいのですか?」
「はい、おかげ様ですっかり良くなりました。お加也さんの薬が効いたようです」
「そうですか」
総司の賞賛も、加也にとっては感慨はないようで淡々とした返答だ。「愛想がない」と松本は言っていたが、総司は気にならなかった。
「お加也さん、良かったら境内を案内してもらえませんか?」
「え?」
「実は初めて来たんです。どうしても…参拝したくて。お加也さん、毎日来ていると言っていたじゃないですか」
「…それは、構いませんが」
「よろしくお願いします」
加也は訝しげに首をかしげたが、積極的に断る理由はなかったようで「参りましょう」と声をかけて歩き出した。総司は加也の隣を歩き、西楼門をくぐった。手水舎で手を洗いながら、加也が尋ねる。
「この辺りは新撰組の方が良く巡察していらっしゃるでしょう。いらっしゃたことがないのですか」
「まあ、この通りの前までは毎日のように来るんですが、門をくぐったことはないのです。その…憚られて…」
総司は言葉を濁して苦笑した。
仕事とはいえ何人もの人の命を殺めてきた。そんな立場で神仏は簡単に許したりはしないだろう。だからこそ人々の信仰の場所は自分には分不相応に感じて、足が遠のいてしまうのだ。
加也は総司の言葉の意図を察したのか、それ以上は理由は聞かずに
「でしたら、今日は何故?」
と尋ねてきた。その率直な物言いに総司は思わず口を開く。
「…局長の近藤先生が危険な戦地に赴くことになったんです。何が起こるかわからない場所で…本当は傍にいたいのだけれどそうも行かなくて。だからこればっかりは神様にお願いしないと行けないかなと思って」
遠く離れた場所で命を賭けて戦いに挑むのだと覚悟を決めた近藤に、自分にできること。それを考えた時にただ手を合わせて無事を願うことしかないのだと思い至った。だからこそこうしてらしくなく、祇園社を訪れたのだ。
総司が手を洗い終えると、加也はすっと手拭いを差し出した。
「どうぞ」
「あ…ありがとうございます」
加也の手拭いを受け取り、冷水でひえた手を拭く。普段女性と関わる機会のない総司は戸惑うが、加也はまるで何事もなかったかのように持っていた風呂敷を抱えた。
「持ちましょうか?」
風呂敷にはそこそこ大きな荷物が包まれている。総司は気遣ったが「いいえ」と加也は首を横に振った。
「これだけはわたくしが持って参ります」
「中身は?」
「わたくしが調合した薬です」
二人は手水舎を離れて、本堂に向けて歩き出す。
「薬?ああ、こちらに届けに来られたのですか?」
「違います。…沖田様と同じで、わたくしも『神頼み』です。調合した薬がちゃんと患者様に効きますようにこうしてお願いに参っているのです」
加也はあっさりと口にしたが、総司は驚いた。
彼女は毎日ここに足を運んでいるのだと言っていた。決して軽くはない風呂敷を毎日診察所から持ってきては快癒するように願いを込めて参拝していたのだろう。何の気なしに受け取っていた総司は彼女のひたむきな気持ちに心を揺さぶられる。
(表情には出ないけれど…優しい人だな)
総司は自然と微笑んだ。すると加也が目ざとく気が付いた。
「どうして笑っていらっしゃるのです。子供だましだとお思いなのです?」
「いえ、そうじゃないんです。その…お加也さんの患者さんは幸せだなと思って。きっとその薬はたちまち病に効いてしまうのでしょうね」
「…そんなことはありません。助けられなかった患者様もたくさんいます」
「でも救われた患者もたくさんいますよ。その証拠に私や近藤先生はすっかり元気になっているんですから」
「…」
加也は総司の言葉を聞いて暫くぽかんとした表情をしていたが、少し頬を赤く染めて「そうですか」と顔を逸らして速足で階段を昇る。素っ気ない彼女の表情が変わると、総司の心も温まった。
二人はしばらく歩いて本殿までやってきた。賽銭を投げ入れて作法に沿って手を合わせる。
(どうか…近藤先生が無事でお帰りになりますように)
総司はひたすらにそれだけを願った。近藤は戦果を挙げてくると意気揚々に語っていたが、総司はただ無事に戻ってきてくれればそれで十分だと思っていた。明日の出発が別れにならないように、ただただそれだけが願いだった。
ようやく気が済んで目を開けると、既に加也が待っていた。知らぬうちにまじまじとその意志を持った黒い瞳で見つめられていた。そして彼女は少し笑っていた。
「…お加也さん?」
「ごめんなさい。とても必死だから…本当に近藤先生のことがご心配なのですね」
加也にしみじみと言われて、(いったいどんな表情をしていたのだろう)と総司も照れてしまった。
「いや…その」
「それだけお願いされたなら、きっと大丈夫です。近藤先生はご無事でお役目を果たされます」
その言葉は凛と響いた。
いつも迷いなく、思ったことを誇張することもない加也にそう言われると、不思議と安心感が生まれた。
「…ありがとうございます。お加也さんにそう言って頂けるなら、私もそう思えてきます」
「私は何もしていません。…何事も気持ちからですから」
「はは、松本先生も同じことをおっしゃっていましたよ。病は気からって」
「それは良順先生の口癖です」
加也は階段を下り、本殿に背を向けたので総司も同じように歩き出す。
「松本先生とはお親しいんですね」
「はい。…まあ、昔からあのような方ですから。良順先生の実父でいらっしゃる佐藤泰然先生のもとで父が学んでいた時からお世話になっています」
「では南部先生とも昔から?」
松本と南部は同じ医学塾の弟子だったと聞いたことがある。松本と親しかったのなら、南部とも昔から顔なじみだったのだろうと安易な考えて聞いたのだが
「…そうです」
加也の表情が固まった。
松本も南部の養女となった経緯を詳しくは語りたがらなかった。
(二人の間に何かあるのだろうか…)
しかし加也がまるですべてをシャットアウトするように表情を閉ざしてしまい、その答えを詮索することはできなかった。そして加也は「沖田様」と話を切り上げた。
「…あちらに授与所があります。参りましょう」
「は…はい」
加也が速足で授与所に向かう。総司は戸惑いつつも、彼女の背中を追いかけた。







解説
祇園社とは今の八坂神社です。慶応四年に「八坂神社」に改称されるまで「祇園社」「感神院」と呼ばれていました。
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