わらべうた





411


慶応元年十一月。
ついに大目付・永井尚志に随行する出立の日を迎えた。
「兄上」
伊東が旅装に着替えていると、弟である鈴木が顔を出した。いつも以上に固く、強張った顔色だ。
「…何だ?出発の時が迫っているんだが」
内海に手伝ってもらいながら、伊東は羽織に袖を通す。雪が降っているので、準備していたよりも厚着をしなければならない。今は愚弟のつまらない話を聞いている場合ではない…伊東はそう思ったのだが
「ご挨拶だけです。御武運を。…どうかご無事でお戻りください」
鈴木は部屋に入ることはなく居住まいを正し、両手をついて深々と頭を下げた。これには伊東は少し驚いた。てっきりいつものように「長州になど行ってはならない」「危険だ」と食い下がり駄々をこねるのだと思っていたのに、あっさりとしている。
「…ああ」
「お邪魔をいたしまして申し訳ございません。…失礼します」
そういうと鈴木は立ち上がり去っていく。分別のつかない幼稚な弟であるはずが、まるで聞き分けの良い躾けられた臣下のようだ。
すると内海が羽織紐を結ぶため、伊東の前に跪いた。その表情は少し緩んでいる。
「…お前が何か言ったのか?」
「いえ。ただ長州行きの話は事前にお伝えしました。暴走して無茶をされると大蔵さんも困るでしょう」
「それは…そうだが…」
「あっさりと見送られると、それはそれで気になりますか?」
「そんなわけがない」
内海にからかわれたような気がして、伊東は思わず言い返す。それを聞いてさらに彼は笑った。
「あなたと血を分けた兄弟だけあって、彼はなかなかに賢いのです」
「そんなことはない。あれはいつまで経っても頭が足りない」
「あなたに似て目ざといところもあります」
伊東は怪訝な顔で首をかしげたが、内海は何も答えずに羽織紐を結び終えた。するとちょうどこちらに近づいてくる音があった。
「伊東先生!」
「ああ、藤堂君」
「良かった、お見送りに間に合いました。こんな日に限って巡察だったんですよ」
息を切らしてやってきたのは藤堂だ。伊東が新撰組に参加するきっかけにもなった彼は、このところはよく伊東の講義に顔を出しかつての師匠と門弟の間柄のように親密になっていた。
藤堂もまた畏まって頭を下げた。
「長州は未だに危険な場所だと聞き及んでおります。無事なご帰還をお待ちしております!」
「ありがとう。局長と参謀が抜けた新撰組は何かと大変だろう。副長をしっかり支えるように」
「…あ、はい、そうですね、しっかりしないと…ですね」
溌剌と挨拶を述べたのに藤堂はどこか生返事で答えた。彼の中でその考えがなかったという証拠だ。彼の心情としては、近藤や伊東のいない新撰組に気持ちが入らないのだろう。
(少し心が離れてきたようだ)
伊東はそんなことを内心思いながら、「頼むよ」と伝えた。

屯所にしている西本願寺の門前では伊東を除く随行者たちが出立の時を迎えようとしていた。
「無事に帰ってきてくださいね。怪我一つ、いえかすり傷ひとつ負ってもらっては困ります」
総司は何度も何度も念を押すと、近藤はその大きな口で笑った。
「まったく、今生の別れじゃないんだぞ?多くの兵士もともに行くし、せいぜい二か月くらいで帰ってくるんだ」
「わかっていますけど…心配なものは心配なのです。お傍に居られないし…」
「大丈夫だ。お前にもらった御守りもちゃんと懐に入れているんだからな」
近藤は懐から総司が手渡した祇園社の御守りを見せた。昨日加也とともに祇園社で受けたものだ。それがただの気休めでしかないとわかっていても、総司は安堵する。
「松本先生から頂いたお薬もお持ちですか?」
「もちろんだよ。…まったくお前は心配性だな。俺はよっぽどお前のことの方が心配なのに」
「私は心配されるようなことはありません」
「隠さなくてもわかる。また歳と喧嘩しているだろう?」
普段は安穏としている近藤だが、自分に近しい人のことは目ざとく気が付く。図星をつかれた総司だが、この出発を控えた場で吐露するようなことではない。
「…たぶん、きっとすぐに仲直りしますから。近藤先生はお役目のことだけ考えてください」
「そうか。そうだな」
そんな話をしていると、ちょうど話のタネだった土方がやってきた。近藤は誤魔化すように茶化した。
「何だ、歳、見送りに来てくれないのかと思ったぞ」
「山崎と話をしていただけだ。…近藤先生、くれぐれも気を付けてくれ」
「わかっているよ。そういえば、伊東参謀はまだか?準備に手間取っているのかな」
「そうかもな」
二人の会話を耳にしながら、総司はちらっと土方の顔を見た。
見合いの一件以来、土方とは会話を交わしていない。それは互いに避けているというわけではなく、長州行きの準備の都合で暇がなかっただけに過ぎないのだが、それでもどこか距離を感じていた。
『嫁をもらえ。それがお前と、かっちゃんのためだ』
そう告げた土方には何の躊躇いもなかった。そして偽りを述べているわけでもなく、それが心からの本心であるかのように聞こえた。
(それが土方さんの本心なのだとしたら…)
そう考えるだけでひやりと心が冷たくなった。
「遅くなって申し訳ございません、局長」
そうしていると、丁度伊東が準備を整えてやってきた。内海や篠原といった腹心の部下たちも見送りにやってくる。
「いやいや。別れを惜しんでいたところだよ。…では出発だな。じゃあ、土方副長。あとは任せるよ」
近藤が土方の肩を叩く。敵陣である長州に踏み込むという大事に、皆の顔は少し強張っていた。
「近藤局長…伊東参謀、どうか道中はお気をつけて」
「土方副長も留守を頼みます」
伊東は傘を被りつつ、土方に微笑む。その整いすぎた微笑みには一体何の意図が含まれているのかはわからなかったが、土方は「ええ」と頷いて
「御武運をお祈りします」
と固く告げた。伊東はなにも答えずにそのまま去り、背中を向けて歩き出す。
「じゃあな、歳」
「ああ…」
近藤もまた伊東と同じ方向へ歩いていく。その後ろを武田と尾形が続き、殿は山崎だった。
「…では」
短く別れを告げた山崎に土方は何も答えなかった。伝えるべきことはすべて伝えている…その信頼が感じられる二人だった。
ハラハラと雪が舞っていた。その雪は地面に落ちて水となって溶けるのか、それとも降り続いて戦に行く彼らの道を阻むのか…総司にはわからなかった。
見送りの者たちは次第に屯所に戻っていったが、総司は旅立つ五人をずっと見えなくなるまで見送った。そしてその小さな姿が角を曲がって消えた時、ようやく長州行きを反対していた心に諦めが付いたような気がしたのだ。
(近藤先生は…きっと大丈夫だ…)
旅立ってしまった今では願うことしかできない。どうか無事に戻って再び会えるように…そう思って手を合わせていると
「総司」
と、まだ残っていた土方に声をかけられた。
「は…はい」
「話がある」
「あ…」
土方は返答を待たずに珍しく強引に総司の手を引いて歩き出す。雪が降るほど冷たいせいで土方の掌は酷く冷たい。
「何処へ、行くんですか…?」
「…」
訊ねながらも何処に向かっているのかはわかっていた。いつもの別宅の方向であり、いつもの道順でもある。しかしそれでも総司は土方の考えていることに確信が持てなかった。
(…土方さん、何も答えない…)
ただただ手首を掴んだ彼の掌がいつまでも冷たくて。その後、総司は何も言えずに土方に従ってただただ歩いた。


別宅にはちょうどおみねが居合わせたが、
「悪いが、帰ってくれ」
と土方がいつも以上にぶっきら棒に告げたのに加え、総司もまた暗い表情で何も言わなかったため、おみねは察したように「へえ」とそれだけ答えると家を出た。別宅はいつものことながら清潔に保たれており、埃一つない。
家に入るとようやく土方は手を離した。
「…土方さん、あの…」
「ここは俺とお前の居場所だ」
「…え?」
土方が突然切り出した言葉の意味が分からず、総司は呆ける。言われるまでもなく二人の居場所であり、リラックスできる場所だと思っていた。しかし戸惑う総司を置き去りにして土方は続けた。
「何度も言ってきた。俺はお前を手離すつもりはない…お前が嫌だと言わない限りは」
「…はい」
その気持ちは土方と同じだ。彼の傍で、彼の一番近い道を歩いていきたいと願ってきた。その場所を誰にも譲るつもりはない。
けれど土方はふと寂し気に視線を逸らした。
「だが…俺は、時々お前を独占しているのが怖くなる」
「…どういうことですか?」
「上手く…言葉では言えない。ただ、お前が自分の手の中にずっといることでお前から何かを奪っているような気がする」
「…そんなことありません。私は歳三さんから何も奪われてなんていない」
「ああ…お前はそう言うだろうと思っていた。だがこれは俺の感覚の問題だ。お前のせいじゃない」
「…」
(そんなこと言われたら)
何も言えないじゃないか。
総司はぐっと唇を噛んだ。彼に何も伝える言葉が見つからない自分が悔しかった。
土方は続けた。
「だから…最初は受け入れがたいと思ったが、かっちゃんがお前に見合い話を持ってきたのは都合がいいと思い始めた。お前が俺だけのものじゃなくなっても、それでもお前には別の幸せがある…子供がいて家族がいる、そういう普通の幸せを手に入れられる。それが安心だと、そう思えたんだ」
「歳三さん…」
「だから見合いを受けろ。かっちゃんが良い相手をもう見繕っている。松本先生のご紹介だから…」
「歳三さん」
総司は土方の袖を強く掴んだ。
「…歳三さんは、そんな話をするためにここに来たんですか?」
「…」
「二人だけの場所だって言ったここで、違う人と幸せになればいいって、そう言ってるんですか?」
彼の袖を掴んだ手が震えていた。怒りや悲しみ、嘆き、いろんな感情が混じって名前の付かない苦しさに変わる。
「総司…」
「私はそんなに器用じゃありません。歳三さんのことだけでも手いっぱいなのに…別の人も大切になんてできない」
「だったらその器用さを身に着けるんだ」
「歳三さん!」
まるで言葉の通じない人になってしまったみたいだ。
総司は必死に食い下がるが、頑な拒む土方もまた苦しそうな表情を浮かべていた。
「俺も、お前が嫁を貰うことを歓迎しているわけじゃない」
「だったら…」
「かっちゃんのためだ。ただ…それだけだ」
「歳三さ…!」
言葉では突き放すくせに、土方は総司を抱きしめた。背中に回された腕はこれまでで一番強い。吐息が聞こえる、鼓動を感じる…それなのに
(こんなにも遠い…)





412


積もることのない雪が夜の闇の中をハラハラと舞う。いつもよりも冬の訪れが早いためか、身体を壊す患者が多くこのところはろくに眠ることなく看病をする日々を過ごしていた。
今夜、加也は高熱で駆け込んできた子供を看病していた。やってきた時は顔を真っ赤にしてぜえぜえと息をするのも辛そうだったが、薬を処方すると幾分かは収まったようだ。母親は女である加也が診察を請け負ったことに最初は懐疑的だったが、子供が落ち着くと「おおきに」と何度も礼を言った。加也は安静にするように告げて部屋を出る。
「加也」
「…義父上、お戻りでしたか」
義理の父である南部が穏やかな表情で加也を呼んだ。このところ巷にも病人が多いせいか、回診のため家を空けることが多い。今日も朝早くに出ていき、戻ったのが今である。
「何か簡単なものを作ります」
「すまない」
加也は台所に向かう。加也自身も疲れ切っていたが、南部の前でそのような顔は見せなかった。水屋を覗きすぐに作れる夜食を考える。すると南部もやってきた。
「義父上、お疲れでしょう、お部屋にお持ちします」
「いや…いいよ、最近は加也と話をしていなかったからここで待つよ」
「…そうですか」
加也は包丁を握り野菜を切る。南部が土間に腰掛けて、その様子を見ている。トントントンと包丁とまな板が軽やかに音を立てて、二人の沈黙を埋めた。
(話をしたいって…言ったのに)
南部は何も口にしようとはせず、むしろじっと加也の様子を見ている。加也は野菜を切り終え、鍋に移す。そして火を起こすため竈に腰を屈めた。
「…ここでの暮らしはどうかな?」
ようやく南部が口を開いたが、それは幾度となく尋ねられたことだった。だから加也は同じ答えを口にした。
「不自由はありません。満足しています」
淡々とした返答に、南部は苦笑する。
「いつも同じ答えだ」
「ここに来てからずっと同じ暮らしをしているのですから」
「それはそうだねぇ」
傍目には可愛げのない返答でも、南部は穏やかに受け取る。きっとこの人は喜怒哀楽のうち、怒というものをどこかに無くしたのだろう…加也はそう思っていた。
「加也がこちらに来て…もう三年になるかな。毎日が目まぐるしくてあっという間に過ぎてしまったように思うよ」
「…そうかもしれません」
「加也が医療所を手伝ってくれて助かる。片桐さんの血を引いてるからかな、君はとても優秀だよ」
「……」
片桐とは南部の兄弟子にあたり、また加也の父である。佐藤泰然のもとでともに学んだ南部は年の離れた片桐のことを尊敬していた。
(だから私を引き取った…)
竈に水を加えた鍋を移し、火にかける。
「…義父上、何がおっしゃりたいのです?」
南部が何か言いたげにしていることには気が付いていた。回りくどい物言いをしているのは言いずらいことなのだということも察していた。すると彼は「うん」と少しためらいながら続けた。
「君がここにいてくれると助かるけれど、でも私は君の幸せを考えなければならない。片桐さんから預かった大切な娘さんなのだからね」
「…ここにいるのが、私の幸せです」
「そうかもしれない、けれど、そうじゃないかもしれない」
南部は加也の言葉を受け取りつつも、それを聞き入れようとはしない。やわらかい物腰からは想像がつかないがとても頑固なのだ。
「加也、縁談を受けなさい」
「…!」
それまで核心に触れなかったくせに、南部ははっきりと加也に告げた。加也は驚きのあまり、手にしていた杓子を落とした。
「…縁談…?」
「良順先生にお話を頂いている。私も相手のことはよく知っているし、君のことを尊重してくれる人だと思う。良い人だよ」
「…」
淀みなく縁談を進める南部の言葉に、じわりじわりと責められているようだ。
加也はその場に立ちすくんだ。頭が真っ白になり、上手く言葉が浮かんでこない。ただひとつだけわかるのは
(苦しい…)
その感情が、埋め尽くす。
「…驚かせたかな。夜食はいいから、しっかり考えてほしい」
茫然とした加也の表情を見て、南部はそう告げて立ち上がる。「おやすみ」と言って立ち去ろうとしたが
「待ってください!」
と加也は引き留めた。こんなに声を上げたのは初めてのことで、南部も驚いていた。
「加也…?」
「義父上…私は…わた…しは…」
その先の言葉を、ずっと胸に秘めてきた。けれど同時にもう二度とそれを口にしないのだと決めていた。
「…私は…ずっと独り身でも構いません…ここに居させてください」
この想いを捨てて生きるくらいなら、この想いと向き合い続けたほうがマシだ。傍目には幸せに見えなくてもいい。誰かに幸せだと認めてもらえなくたって、幸せでいられるのだから。
でも
「いいえ、この縁談は進めます」
「…っ」
「その心積もりをしておくように」
南部の言葉には有無を言わさない頑なさがあり、加也は口を噤むしかなかった。南部は言い置くともう一度「おやすみ」と告げて去っていく。何の躊躇もない毅然とした意志の前で、加也は絶句した。
「ああ…」
涙を拭うことさえできなかった。
(もうこの想いを捨てろというのですね…)
あの日あなたが蓋をして、この想いを殺したように。


「みーつけた!」
少年は得意げな満面の笑みを浮かべて、指さした。木の裏に隠れていた総司は笑って「もう見つかっちゃったか」とおどけて見せた。
今日は非番なので、久々に古巣である壬生にやってきた。するとたまたまかつて一緒に遊んでいた子供たちに出くわして乞われて壬生寺でかくれんぼに参加することになったのだ。
「為三郎は見つけるのが上手だね」
「沖田はんが隠れるのがへたくそなだけや」
「あはは、ごもっとも」
八木家の子である為三郎にはっきりと言われて、総司は頭を掻くしかない。壬生を去ってから半年ほどしか経っていないのに子供たちの成長は早くすっかり年を取った気分だ。
為三郎は隠れていた近所の子たちを次々に見つけて、仕切り直しになった。次の鬼は最初に掴まった子に決まり、再び隠れ場所を探して散る。総司もきょろきょろとあたりを見渡して身を隠せそうな場所を探すが、「あっ」と門外に目が留まった。
「斉藤さん!」
「…なぜここにいる?」
「ご覧の通り壬生の子たちと遊んでいるんですよ。斉藤さんこそどうしてこちらに」
「通りかかっただけだ」
「そうですか」
斉藤と二、三言交わしている間にも「ろーく、ごー」と鬼役の子のカウントダウンは進んでいた。総司はとっさに
「こっちに来てください」
と斉藤を連れて、境内の背の高い草むらに隠れた。不揃いな雑草が覆い茂っていて手入れはされていない。大人二人が身を隠すには狭かったが、子供たちも近寄らない場所なので時間は稼げるだろう。総司は膝を抱えて身を小さくした。
「…なぜ俺が付き合わなければならない」
斉藤は不満顔だったが、総司は笑った。
「すみません、思わず。…でも別について来なくても良かったんですけど」
「…見つかったら帰る」
「はい」
不承不承ながらも仕方なく一回は付き合ってくれるようだ。
「いつもこうして遊んでいるのか?」
「いえ、久々に八木さんに顔を出そうと思ったら為三郎に掴まったんです」
為三郎とは八木家に屯所を構えていた時から暇さえあれば遊び相手になっていた。西本願寺に屯所を移す際も「また来て」と何度も懇願されていたのだ。
「…でも、今日は遊んで『もらっている』っていう方が正しいかな…」
総司はため息混じりに呟いた。
近藤が出発した日、土方から告げられた言葉にさすがに総司も参った。同じ方向を向いていると思っていたのに、いつの間にか別の方向を向いていた…同じだと思っていた感情にいつの間にかほつれが生まれていたのだ。
「見合いのことか?」
斉藤は目ざとく察した。
「まあ…そうですね…」
「以前も言ったが、はっきり断ればいいだろう」
「いえ…受けることになりました」
「…なに?」
斉藤の眼が鋭くなる。
「断るつもりだったんですけど…そういうことになりました」
「受けるって…それは嫁を貰うということだろう。それを副長が良いと言ったのか?」
「土方さんが、そう言ったんです」
「何だって?」
普段は表情に乏しい斉藤でさえ、驚きを隠せない。総司は続けた。
「自分ひとりだけのものじゃないほうが…良いって、そう言われました。近藤先生のために、家の為に縁談を受けろと」
「何故…副長はそんなことを…」
「わかりません…考えても考えてもわからなくて、だからいっそ土方さんの言うとおりにしようと思ったんです」
土方には何か考えがあるのかもしれない。土方のことだからきっと悪いようには進まないはずだ。
総司はそう思い込むしかなかったが、斉藤は納得しなかった。
「土方副長に従う必要はないだろう。自分のことなのだから、自分の思うとおりにすればいい」
斉藤はなぜか必死に食い下がったが、総司は首をゆっくりと横に振った。
「それはできません」
「何故だ」
「…私にとって近藤先生と土方さんの考えは、私の意志よりも上なんです。近藤先生だけならまだしも二人がそうすればいいというのなら、そうしたいと思う…きっとそれは正しいから」
「馬鹿馬鹿しい」
斉藤はいつになく厳しい口調で総司の腕を掴んだ。
「それではただの人形だ。良いように扱われているだけだと思わないのか」
「そんなことは思いません。二人とも私のことを思ってくださっているんです」
「だったらなぜ悲しげにしている?今にも泣きそうな顔をしているんだ」
「…っ」
図星だった。
今日、ふらりと屯所を出て壬生にやってきたのも、気を紛らわせたかったから。子供たちと遊ぶことで現実逃避をしていたのも事実だ。
落ちこんでいると思われたくはなかった。誰にも心配されたくはなかった。
「もうちょっと…もうちょっと時間が経てば、受け入れられると思うんです。だから今は辛抱するしかない…だから、斉藤さんも気にしないでください」
いつか二人の考えを理解して、「縁談を受けて良かった」と思えることができるはずだ。
しかし
「気にするな、だと?」
斉藤の剣幕は鋭い。彼が怒っているのだとわかる。
「斉藤さん…」
「そんな話を聞いて、俺が気にしないでいられるとでも思うのか?」
「…すみません」
「謝ってほしいわけじゃない。ただ…俺の気持ちは変わっていない」
斉藤は掴んでいた腕を引き寄せる。そしてさらにもう片方の腕も取った。
茂った草木が揺れる。
「気持ちって…」
「副長があんたのことをそういう風に扱うのなら、俺もただ黙って引き下がるわけにはいかない」
目と鼻の先にある斉藤の顔は、真摯に総司を見つめている。総司の顔がカッと赤くなった。咄嗟に顔を逸らすが、両手を掴まれたままでは身動きが取れない。
「何を…考えているのですか…?」
「…ここで口付ければ、鈍感なあんたでもその意味が分かるだろうか?それとも一線を越えれば…」
「…っ、斉藤さん!」
狭い場所で、手足が絡まり視界には斉藤の表情しか入らない。いつも孤高で不愛想で「何を考えているのかわからない」と揶揄される彼が、感情をむき出しにしてこちらを見つめている。その切迫した表情に息をのんだ。
その時だった。
「みぃーつけた!」
子供の高い声が二人の間に響いた。鬼役の子供の声だ。咄嗟に斉藤は掴んでいた手を離し、総司も距離を取った。
「沖田はん、この人は?」
「…あ…その、友達かな」
「そうなん?うち、みんな見つけた!すごいやろ?」
「そ…そっか、うん、すごいや」
「へへ!」
子供は得意げに胸を張って「あっちいってるから!」とこの場を離れて駆けていく。無邪気な幼子はいまの二人の状況には全く気が付いている様子ではなかったので、総司はひとまず安堵する。
すると、斉藤は「ふう」と息をついて立ち上がった。
「…斉藤さん…」
「訂正するつもりも、誤魔化すつもりもない。忘れてくれとも言わない。…それだけだ」
斉藤は草木をかき分けて離れていく。
彼の放った一つ一つの言葉が脳裏で木霊していた。総司はその場で足を抱えて俯いた。
「もう…ぐじゃぐじゃだなあ…」
何故だかとても、泣きたい気持ちになった。




413


陽が落ちる頃、松本はひとけのなくなった南部の医療所を訪れた。
「おい、来たぞ」
松本は我が家のように遠慮なく中に入り、腰を下ろす。幕府御典医として上洛している身ではあるが、将軍の傍に控え続けるというのは居心地が悪いもので、合間を縫っては南部の家に居座るというのがすっかり習慣化していた。
出迎えには加也が顔を出した。
「良順先生…」
「おう。なんだ、南部はまた往診か?あいつも人が良すぎるきらいがあるなあ。お前、あいつが言葉通りの『医者の不養生』にならねえように気ぃつけるように言っておけよ」
「…はい」
松本は草履の紐を解き、家に上がる。すると加也の顔色が真っ青であることに気が付いた。
「なんだ、その顔は?」
「…地顔です」
「地顔でもそんな不細工じゃあるまい」
「…」
いつもは淡々と言い返す加也だが、今日はその気力はないようだ。松本はため息をつきつつ、抱えてきた風呂敷とともに奥の客間に入った。客間と言っても、長く滞在する松本の為に開けている彼自身の部屋のようなものだ。
「座れ」
松本は加也を目の前に座らせた。加也は膝を折ったが力なく項垂れていた。適当な世間話も通じまい、と松本は早速本題に移ることにした。
「見合いの話、聞いたのか?」
「…良順先生が持ってきたのだと聞きました」
「そうだ。何だ、恨み言か?お前の年じゃあすでに行き遅れだと笑われるだろう。このまま医療所で手伝いをしていても良縁には恵まれまい」
「…別に、私はこのままでよかったのに」
加也はまるで恨み節のように口にした。そして鋭く松本を睨む。
「お嫁に行きたいと思ったことはありませぬ。このまま…ここで、わたくしができる手伝いをしたいと考えています」
「お前が良くても南部が気にするだろう。あいつはお前の父である片桐さんとは特に親しくしていたし、だからこそお前を引き取って…」
「嫌なものは嫌なのです!」
加也は突然、何かを爆発させるように声を上げた。いつも平静な態度を崩さない彼女が唇を噛み、感情をどうにか堪えようと両手の拳を握りしめていた。
松本はそんな加也をみて、深く息を吐いた。
「…お前さん、やはりあのこと、整理がついてないのかい」
「……」
加也が口を噤み、目を伏せた。目は口程に物を言う…松本はそれが答えだと思った。
しかし加也の躊躇いとは対称的に、松本が南部に見合いを持ち掛けた時、
『いいお相手だと思います』
と即答した。相手の為人を知っているからこそ早々に受け入れることができたのと、加也には早く嫁に行ってもらいたいという親心があったはずだ。南部の中で過去の出来事は過去のものであって、加也のように引きずってなどいない。
(南部は…そんな加也の気持ちをを知っていて、見合いをさせることを決めたのだろう…)
残酷だと思ったが、しかしいつまでも手元に置いておくことはできない。南部は己の心情を吐露することは少ないが、その決断は二律背反する彼の心情が見て取れるようだ。
「加也、南部はお前のことを娘としか見ていない」
「そんなこと…、そんなこと、わかっています…」
「わかっているなら、早々に諦めて縁談を受けろ。あれが頑固なのは知っているだろう?」
松本は傍に置いていた風呂敷を加也に差し出した。解いて中身を見せる。
「ほら…振袖だ。俺の娘が着たものだが、背格好がよく似ているからお前にも似合うだろう」
「これは…」
「南部に頼まれたものだ」
薄紅の振袖に触れようとした加也の指先が止まる。そしてその手を引っ込めて、膝に戻した。
「…着たくありません」
「加也、聞き分けろ」
「嫌です」
「…はあ」
加也の頑なな態度に、松本はため息交じりに頭を掻いた。怒鳴って従うような女ではないことは重々承知していた。
「困った女子だ」
「融通が付かないのは性分です。ですからわたくしのような者を嫁に迎えようなんてお方はいらっしゃいませぬ」
「そうでもないさ。愛想のないお前と親し気に話をしていたじゃないか」
「…お相手はわたくしのご存知の方なのですか?」
「なんだ、聞いていないのか」
加也は自分のことが精いっぱいで相手の素性を知ろうとはしていなかった。すると松本はなぜか得意顔で告げた。
「沖田だよ。新撰組の、沖田総司だ」
「…沖田様…」
「あいつはああ見えて立派な武士の出だ。良い嫁ぎ先だろう」
「…でしたらなおのこと、お断りせねばなりません。わたくしのような不躾な者…」
町人相手の縁談ならまだしも、武家との縁談では家格が違いすぎる。それに加也には武家の妻に収まるような覚悟すらなかった。
しかし松本は「いいや」と首を横に振った。
「お前には沖田が相応しいし、沖田にもお前が相応しい」
「…どういう意味です」
きっぱりと言い切った松本とは対照的に加也は訝しげな表情を浮かべた。
松本は居住まいを糺し、それまでの茶化した雰囲気を一変させた。


珍しい訪問者が屯所に訪れたのは同じ夜のことだった。
「南部先生」
迎え出たのは土方だった。
南部は会津の藩医であり、また新撰組の主治医ではあるものの急ぎのようでもない限り屯所を訪れるのは珍しい。
「急病人ですか?」
屯所の誰かが呼んだのだろうか…土方はそう思って尋ねたが、南部はいつもの穏やかな表情で「いいえ」と返した。
「お約束もなく、お訪ねして申し訳ございません。どうしても土方副長とお話がしたくて来てしまいました」
「話…?」
「縁談の件です」
土方は驚きつつ「どうぞ」と客間に通した。通りかかった平隊士に茶を準備させるように託けて土方も部屋に入り、早速話を切り出した。
「縁談というのは、沖田の縁談ですか?」
「はい。…もしや良順先生は何も?」
「ええ…ただ紹介すると、それだけで。お相手については伺っておりません」
「あの方は相変わらず人を驚かすのがお好きなようですね」
南部はやれやれとため息をつきつつも、それでも微笑んでいた。松本と南部は昔からの縁だということなので、松本の自由なふるまいにはすっかり慣れているのだろう。
すると丁度隊士が茶を持ってやってきた。南部は口にして、一呼吸を置いた。
「縁談の相手は…私の娘です」
「! ご息女…でしたか」
「いえ、血は繋がっていません。古い知り合いが亡くなり引き取った養女です。元々は江戸で暮らしていましたが、数年前からこちらに」
「そう…でしたか…」
南部にはこれまで近藤が乞うて見合い相手を探してもらっていたが、顔見知りの武家の娘や町医者の娘などで彼自身の身内ではなかった。
土方は驚いたものの、それがわざわざ南部が屯所を訪問する理由だとは思えなかった。
「それで…南部先生は、この縁談を破談にされたいのですか?」
松本が勝手に取り付けた縁談をなかったことにしたいという理由なら、わざわざ訪ねてきた意図がわかる。しかし南部はその表情を変えずにゆっくりと首を振った。
「いいえ…沖田さんの為人についてはわかっているつもりです。家柄も申し分なく、娘にはもったいないお話だと思っております」
「でしたら…」
「ただ一つだけ、お願いがあって参ったのです」
「…何でしょう?」
南部は湯呑を置いて、畳に手をついて軽く頭を下げた。
「娘は…もともと医者の子です。こちらに来てからもずっと私の医療所を手伝ってくれています。女であるという理由から本人は決して口にはしませんが…医者になりたいと思っているはずです」
「医者…ですか」
「才能のある娘です。ですから私はできればその願いを叶え、娘には医学の道を歩んでほしいと思っています。ですが…その一方で女としての幸せも考えてやらなければならないと思います」
「…」
人の親としての気持ち…それはまだ土方にはわからないものだった。ただわかるのは、南部は娘と血がつながっているわけではないということだったが、彼女への想いは本物の父親と同じくらいに強いのだということ。
南部は深く頭を下げた。
「無理を承知でお願いがあります…どうか、この縁談が上手くいきましたのちにも娘が医者として働くことを許していただくように、ご了承いただきたいのです」
武家の妻であり、そして医者であること。女は家の為に尽くすべきだという考えが蔓延する今のご時世では当然考えられない話だ。だからこそ、南部自ら頭を下げにやってきたのだろう。
(だが…)
「…南部先生、頭をお上げください」
「しかし…」
「確かに沖田は武家の出ですが、幼くして道場に引き取られたため今は姉が婿養子を迎えて家を継いでいます。姉君はいずれ沖田に家を託したいと考えているようですが、新撰組隊士である以上なかなかそうもいかないでしょう」
「でしたら…?」
南部は土方の表情を伺うように顔を上げた。
「格式ばったものに囚われなくても良いということです。医学の道を学ぶ…沖田が良いと言えば、それも良いと考えます」
「土方副長…!」
それまで不安げな顔だった南部が、ほっと安堵したように穏やかな笑みを浮かべる。だが、土方はそんな南部を目の当たりにして複雑な心境となっていた。
(あいつを渡したくなどないのに…)
板挟みになった心が痛む。
けれど、どうしようもないのだと言い聞かせた。




414


季節が冬に近づくにつれ、なぜだか気持ちも重くなっていった。
(…曇っているからかな)
総司は空を見上げながらそんなことを考えた。
ここのところ、太陽の光は厚い雲によってすっかり覆われていて曇りばかりの日々が続いていた。陽の光を浴びることができないと、花が枯れて葉が朽ちる。それと同じで自身の気持ちも上向かないのだと思った。
「…なんて、現実逃避かな」
脳裏を過ることが沢山ある。
見合いの件はもちろん、土方の考えているところも分からないし、斉藤の本意も読めない。わからないことだらけで考えれば考えるほど頭が痛くなってしまう。
「何かおっしゃいました?」
傍に控えていた山野が総司の顔を覗き込む。今日は山野とともに屯所の一角にある馬小屋に顔を出していた。
「いえ…池月はようやく安富さんに懐いたみたいですね」
会津候から下賜された『池月』は馬小屋で大人しく餌を食べている。暴れ馬と言われた池月は、当初は総司にしか懐かず皆が手を焼いていたが、このほどはようやく馬術役の安富才助のいうことを聞き始めたらしい。
「安富さんは大坪流馬術を修めていらっしゃいますから、さすがですね」
「でも安富さんも随分ご苦労なさったそうです。以前は傷が絶えないとおっしゃっていました」
「想像に難くないですね」
総司は笑い、池月に触れた。池月が安富に慣れるまでは顔を出さないようにしていたため、触れた毛並みさえ懐かしい。
(この背中に乗ったのは、前の冬か…)
池月とともに初めて遠出をしたのは、大津だった。雪道を駆ける池月は従順に総司に従った。
「この子は人の気持ちがわかるんですよ、きっと…」
総司は愛しさを込めて、池月を撫でた。
あの日、山南の脱走を知り総司は混乱していた。そんな総司の心を見抜いていたかのように池月は大人しく、また大津からの帰り道、山南とともに屯所に戻るときもまるで何もかもを知っているかのように、普段の暴れ馬っぷりを少しも見せなかった。
(きっと今も…)
この触れた手から何かが池月に伝わっているのかもしれない。
そんなことを考えていると
「総司」
駆け足でこちらにやってきたのは
「ひ…土方さん」
土方だった。山野は姿を見るとすっと後ろに下がる。
「ここにいたのか」
「どうしたんですか…何か急用でも?」
「客だ」
「…客、ですか…」
思い当たる人物がなく、総司は首をかしげる。すると土方は淡々と述べた。
「松本先生だ」
「…松本先生…ですか?診察か、何か?」
「いいから、戻れ」
総司の質問には答えず、土方は踵を返して戻っていく。有無を言わせない物言いはいつもの通りだが、しかしいつもよりも彼の表情が硬かった。
(何だろう…)
総司はしばらく土方の背中を茫然と見た。


時間は遡る。
見合い相手が総司であると明かした松本は、それまでの飄々とした口調から一変して真摯な表情で加也と向き合った。そんな松本の雰囲気に加也も思わず姿勢を正す。
そして重々しく話し始めた。
「加也、俺はお前に女としての幸せを手に入れてほしいと思うが、同時に医学の道に生きるべきだとも思う。何度も言うが父親の血を受け継いでいるせいか、お前には才能がある…医者になるべきだ」
真摯な松本の言葉に加也の表情は揺れる。だが、答えはいつもと同じだった。
「…しかし、わたくしは女です」
せいぜい助手として手伝うことはできても、医者として認められることはない。加也が日々実感していることだった。
しかし松本は続けた。
「ああ、お前はそういうと思った。だが、時代は変わる…西洋では女も積極的に医療の現場に立ち会っている。女の医者がいたって良いし、むしろ俺は女の医者だからこそ女の病には理解や共感を示せるものだと思う。幕府御典医の俺が言うんだ、いずれそういう世の中は来る。学び続ければ道は開ける」
「…」
松本の言葉にはいつも説得力がある。加也もその言葉に幾度となく納得させられてきたが、今回ばかりは安易に受け入れることはできずに、無言を貫いた。
「だが、お前を娶る男の側がそれを受け入れることがなかなかできないだろう。女は家に入り、家事(イエゴト)をすればいいと思っている者が多い…しかし、沖田は違う。お前が医学の道を歩むことを阻んだりはしないし、お前の意見を尊重するだろう」
「それは…あの方はお優しそうな方でしたから、そうかもしれませんが…」
女だからと言って特別扱いすることなく、ごく自然な会話を交わしていた。
『女は医師にはなれませぬ』
初めて会ったとき、加也がそう言っても、
『そうなのですか?』
と柔らかく返した。加也を医者だと認めている総司の受け答えが、加也には少しうれしかったのだ。
しかし、だからと言って話は変わらない。
「…良い方だと思いますが、縁談となれば話は別です。お受けできないものはお受けできません」
「まあ、話は最後まで聞け。お前に相応しいと言ったのは気持ちの面でも、ふさわしいということだ」
「どういう意味ですか?」
「あいつには、想い人がいる」
「…ではその方をご内儀にお迎えすればいいのではないですか?」
「無理だ。相手は…男だからな」
「!」
加也は目を見開いて驚いたが、松本は続けた。
「だから今回の縁談はもともと沖田にとっても気の進むことではない。そしてお前にとっても『その気持ち』があるのなら誰であろうと夫婦になどなりたくはないだろう。だから、相応しいんだ」
「…互いに違う人を好きでいても良いということですか…」
「ああ。形だけの夫婦みたいなものだな」
松本は得意げに語ったが、加也はすっかり唖然としてしまった。
「…良順先生の考えそうな、奇想天外なことです」
「奇想天外か。…そうかもな、傍目にはバカバカしい飯事みたいなものかもしれない。でも互いの立場や体面を守ることができる…どうだ、いい作戦だろう??」
松本の考えることはいつも突拍子のないことが多いが、今回のことはその最たるものだろう。面白がっている…ようにも見えるが、加也にとって悪い話ではないのはその通りだ。
医者として生きる道も。
そして、恋しく思った気持ちを忘れなければならないという心痛もない。
「…良順先生、このことは義父上は…」
「言っていない。反対するかもしれないからな。だが沖田のことはよく知っているから、あいつの為人を見てお前の嫁ぎ先には良いと思っているだろう」
「…」
加也は迷った。
(本当に…これでいいの…?)
医者になりたい――その気持ちを持ったのは、まだ父が存命だったころだ。苦しんでいた患者が医者の手によって元気になる…幼い加也からすればそれは『魔法』に等しかった。できれば父のような医者になり多くの人を救いたい…けれど現実は厳しかった。女は医学の講座さえ学ぶことを阻まれ、『そんな暇があるのなら芸事でも学べばいい』と幾度となく男たちに揶揄された。加也にとって『医者になる』ということは諦めかけた夢なのだ。
そしてもう一つの想い。これもまた加也にとって切り離せない感情だ。たとえ報われないとしても、忘れることはできない。
総司との縁談はそのすべてを叶えるものだと松本は言う。加也にはそれがあまりにも恵まれすぎており、そして
(自分勝手…)
そうと感じた。
加也は松本に向けて両手をついた。
「…良順先生、縁談のことで一つお願いがあります」
「なんだ、言ってみろ」
「すべて…沖田様には打ち明けたいと思います。そのうえでわたくしで良いというのなら…このお話、お受けします」
「…そうか。そうだな」
松本は微笑んで「お前らしいな」と笑った。けれど加也からすれば、仮初のとはいえ嫁に迎えるのだからそれを承知していないと不誠実である気がしたのだ。
松本は安堵したように一息ついたが、最後に釘を刺した。
「加也、今回のことは良い話だと俺は思っているが、同時にお前にとって苦しい選択肢なのかもしれないとも思う。医学の道は険しく、さらに女だということで様々な障害があるだろう。簡単に乗り越えることができるものではない」
「はい」
「そしてもう一つ。…沖田と夫婦になることでお前の『本当の想い』は貫くことができたとしても、一生報われない。お前と南部は娘と親だ。それは変わらないし、それは沖田と縁組をすることで決定的になる。…それでもいいか?」
ぐさりと、胸に刺さる言葉だったのは間違いない。松本が加也に問うているのは、その『覚悟』を持つことができるのかどうかということだ。
(でも…)
「…そんなことは、今だって同じことですから」
その返答は、どこか寂しく部屋に響いた。



415


土方の背中を追いながら、総司が屯所に戻ると境内に松本が一人佇んでいた。
「松本先生!」
「おう、来たか」
「どうしたのですか、こんなところで…なかでお待ちいただければ良いのに」
客人であるどころか、幕府御典医である松本を外で待たせるなど、と総司は思ったのだが
「俺がここで待つと言ったんだ」
と松本はいつもの軽快な様子で笑っていた。
「どうせすぐに出るんだ、客人として仰々しくもてなされるのはまどろっこしい」
「出る?…ああ、先生の警護役ですか?」
「ははっ!新撰組の副長と一番隊組長に警護されるほど、俺ァ命を狙われてねえよ。…なんだ土方、話してねえのか」
「…ええ、まあ」
松本の問いかけに対して、土方の歯切れは悪い。相変わらず表情は冴えず、彼らしくない。そんな土方を見て総司は意を決して「ひじか…」と話しかけようとしたが
「松本先生、私は所用がありますので後で足を運びます。どうぞよろしくお願いいたします」
と、土方はあからさまに総司の言葉を遮った。何も話すつもりがないという土方の拒絶の感情がはっきりと見えてしまい、総司は口にしかけた言葉を飲み込むしかない。
もちろん、敏い松本がそんなギクシャクとした二人の様子に気が付かないわけがないが
「ああ、わかった。任せておけ」
にこやかに笑って「行くぞ」と総司の肩を叩いた。そしてさっさと歩き出してしまう。
総司はちらりと土方の表情を伺った。そんな総司の視線を感じ取っているに違いないのに、土方は答えない。重く息苦しいほどの沈黙…周囲から見れば威圧的に感じるほど土方の表情は暗い。しかしいくら総司が彼を見つめても伝わってくることはなにもない。
(何も…わからないや…)
少しは土方のことをわかったつもりでいた。様々な出来事や壁を乗り越えて、ようやく孤独な道を行く土方の傍に寄り添っていられるんじゃないかと思っていた。
(でもそれは錯覚だったのかもしれない)
心が通じ合っているのなら、喜ばしい時も、悲しい時もどんな時でも彼の考えていることや胸の内がわかるはずなのに。
今は何も見えない。
「おい、沖田!」
西本願寺の門を出ようとする松本が手を振った。総司は何かを振り切るかのように駆け出した。

「思ったとおり、拗れてるみてぇだなあ」
総司は松本ともに屯所を出て大通りを歩いていた。すっかり肩を落として重々しく歩く総司を、松本は揶揄して笑う。
「見合いの件、まだ話が付いていないのか?」
「…見合い相手は松本先生が探されているんですよね…」
「まあな、近藤に頼まれた。…なんだ、俺を恨むなよ?」
やれやれと芝居がかった風に苦笑する松本に、総司は応対する気力もない。
「…もともと断るつもりでした。土方さんともそういう話で決まっていて…でも近藤先生がどうしても縁談をまとめたいとおっしゃって、それを断る理由を探していたんです。そうしたらいつの間にか土方さんさえ縁談を受けろって言いだして…私は何が何だかわからずに、混乱しています」
総司はまるで愚痴のように零してしまう。自分の与り知らぬところで物事が進んでしまい、総司からすれば自分だけが取り残されてしまっているような感覚なのだ。
「土方さんの考えていることが…よくわかりません」
「そうか?土方の考えていることなんて、三つしかないだろう?」
「三つ…ですか?」
暗澹とする総司に対して松本ははっきりと言い切って、続けた。
「一つ目は新撰組のことだ。鬼副長として新撰組をどう盛り立てていくか…考えないで居られない日はないだろう。それから二つ目は近藤だ。盟友として近藤を出世させるため、そして近藤の夢を叶えるために奔走している」
「それは…そうだと思います」
「そして三つ目はお前のことだ、沖田」
「…私、ですか?」
「何だ、自覚してないのか?」
松本は呆れたように総司を見て、続けた。
「お前が思っている以上に、土方はお前のことを考えている。自分の感情や立場なんてものは俺からすれば不憫なほど取っ払っちまって…その結果が、今回の見合いってわけだ。いわば愛情の裏返しってやつかもな」
(自覚がないわけじゃない…けど)
隠しているわけではないにせよ、土方との関係を第三者に口にされるのはいつも照れくさい。だが、総司はそれ以上に松本が確信じみた物言いをするのが引っかかった。
「…松本先生は何かご存じなのですか?」
鈍感だと揶揄される総司でさえ松本が何かを知っているのではないかと気が付かざるを得ない。しかし松本は「さあな」と茶化してしまう。
「お前は強引だと思うかもしれないが、土方には考えがある。それだけは理解してやれ」
「…それは、そうだと思いますが…」
土方が心から縁談を受けろと言っているのではない、ということはわかる。何かを堪えるように、でもそれを悟られまいとしている。
(でもその理由がわからない…)
「まあ、お前にとって今回の見合いはそう悪い話じゃない。近藤だけではなく土方でさえ進めているんだから、後ろめたくないだろう?」
「…」
「おう、着いたな」
松本は一軒の家の前で足を止めた。そこは総司の知っている場所だったので驚いた。
「ここは…近藤先生の別宅ですよ?」
屯所の近くに構えた近藤の別宅。江戸の試衛館よりも大きな邸宅は、身請けした深雪を住まわせるためのものだ。松本は深く頷いた。
「知っている。何度か深雪の診察の為に顔を出したことがある」
「…もしかして、深雪さんの具合が悪いとか…?」
深雪は身体が弱いのだと常日頃近藤が言っていた。今日の来訪もそのためかと危惧したが、松本は「そんなわけがないだろう」とその大きな口で笑った。
「人の心配ばかりして、相変わらず鈍感な奴だな。…いいから中に入るぞ、深雪には土方から話をつけているからな」
「え?あの、先生…」
何が何やらわからずに戸惑う総司を置いて、松本はさっさと玄関の扉を開けて中に入る。総司は混乱しつつもそのあとを追った。
塵一つない玄関には美しい葉牡丹が生けられている。季節に沿った花を活けているのはもちろん深雪なのだろう。別宅を訪れたのは初めてではないが、総司の知らない近藤の暮らしがここに在るように感じた。
松本が遠慮なく腰を下ろし草履の紐を解いていると、ほどなく深雪がやってきた。
「おこしやす、松本せんせ、沖田せんせ」
相変わらずの美しい所作で頭を下げた深雪は、藤色の着物を身にまといいつもよりも格式ばった出で立ちをしている。
「遅くなって悪かったな」
「いいえ、お二人はごゆるりとお待ちどす。土方せんせはご一緒ではないのですか?」
「土方は後で来るそうだ」
「そうどすか」
松本と深雪の会話はそつがない。総司は理解が及ばないまま、玄関を上がり深雪の案内で奥の部屋に向かって歩いた。
「あの…松本先生?」
「部屋に入ればわかる」
総司の言葉を制するように松本がにやりと笑って、部屋の前で止まった。深雪が膝をつき「失礼いたします」と声をかけてすっと障子を開ける。
すると中には二人の人物がいた。一人は松本ともに新撰組の主治医である南部。そしてその隣に座るのは
「…お加也さん…?」
加也だった。いつも一つに結んでいた髪を今日は島田髷に結い上げ、薄紅色の振袖に身を包んでいる。聡明な目元といつもはつけていない紅を施した唇が何故だか目に焼き付いた。
「中へどうぞ」
深雪に促され、松本に従って総司は中に入る。
(これは…まるで)
「ま…松本先生、もしかして」
「ああ、その通りだ。縁談の相手は加也だ…どうだ、驚いただろう?」
まるで企みが成功したかのようにほほ笑む松本に、総司は驚く以前に動揺し、言葉を吐くことができない。目の前に座る加也はこれまで全く化粧っ気がなくそれでも総司が「美しい」と思うほどの美人だったが、化粧が加えられ明るい振袖を来た姿は良家の子女のようだ。
「…良順先生、もしやまた何もお話をされていないのですか?」
養父である南部は深くため息をつきながら松本を見た。
「まあな、驚かせようと思ってな」
「そのような軽々しいことでは困ります。沖田さんだって心身の準備というものがあるでしょう」
「そう固いことを言うなよ。…なんだ加也、馬子にも衣裳とは言うがよく似合ってるじゃねえか」
「良順先生」
口が過ぎる、と南部に窘められ、松本はようやく「へえへえ」と座についた。総司は必然的に松本の隣、そして加也の前に腰を下ろすことになったのだった。



416


土方は『所用がある』と断って二人に同行しなかったが、実際には何か用事があったわけではない。手持無沙汰ではあったが、率先して見合いの場に顔を出すのは気が重く、部屋で時間をつぶしていたのだ。
もちろん、総司の見合いの場を設けたのは自分だ。まさか見合いを請け負った松本の紹介先が南部の養女だとは思わなかったが、長州へ向かった近藤へ手紙を遣ると『良縁だ』と返答が来たし、調べれば調べるほど娘は申し分ない才女だということが分かる。むしろ総司にはもったいないと思うような女だ。
安堵する反面、皮肉にも思う。
(ケチが付けれるならまだ楽だった…)
総司に相応しくないところがあれば、それを理由にして縁組をなかったことにできる。しかし、そのようなところは見当たらない。
土方は監察からの報告書をくしゃりと握り潰し、苛立ちをぶつけた。
松本とともに屯所を出るとき、総司はどこか寂しげに土方を見ていた。ずっと一緒にいると誓ったのにどうして見合いを勧めるのかと、戸惑うような責めるような視線だった。総司の疑問はもっともなことだ。逆の立場なら怒鳴りつけているだろう。
土方は唇を噛んだ。本当は近藤の別宅で進んでいるであろう縁談の場に乗り込んで、すべてなかったことにして壊してしまいたい。
けれど、そんな土方の心を留めるのは近藤の強い覚悟と思いだった。

数日前。
『俺の覚悟だ、読んでくれ』
長州行きを目前に、近藤は故郷への手紙をしたためていた。それは義父である近藤周斎だけではなく、佐藤彦五郎や小島鹿之助など今でも試衛館近しい人々に宛てられていたのだ。
土方は手紙を手にしてゆっくりと開いた。長州という危険な敵地に足を踏み入れるため、万一のことがないとは限らない。新撰組のことは土方に託し、剣術のことは総司に継がせたい…その内容を見て、土方は正直驚いた。
『…新撰組のことを俺に任せるということは理解できる。だが、剣術を総司に継がせるというのは…』
『意外だったか?』
『ああ…まあな…』
天然理心流の免許皆伝は近藤の他には総司しかいないのは事実だが、沖田家の嫡男である総司は近藤のように養子に入ることはできない。そのため総司に継がせるということは、代々継いできた近藤家から離れるということになってしまう。それは周斎を初めとして試衛館の人間が納得しないだろうし、もっとも本人がまさか剣術を継ぎたいなどと考えていないはずだ。
しかし近藤はなおも笑った。
『歳、俺はなあ…総司の剣が好きなんだよ』
『は?』
『いや、師匠である俺が弟子である総司に劣っているとか卑下する思いがあるとか、そういうことではない。そんなことを口にしたら俺を四代目に選んでくれた義父上に面目が立たないからな。…けれど、なんていうかなあ…』
近藤は腕を組みなおして、言葉を選びつつ続ける。
『俺とお前は昔から近所の子供等と木刀を振り回して遊んでいただろう?だからこそ、入門する前から少なからず手癖ってものがある。誰しもそうだ。でも…総司は違うだろう?あいつは試衛館で剣術を始めて、その腕を磨き続けて今に至る。俺の剣術に似たわけではなく、本当に純粋な美しい型を見につけている…何ていったらよいのかわからないが、総司を見ていると理想の姿だと…いわば天然理心流の申し子みたいなものだと俺は思っている』
『…』
土方は近藤の言いたいことがわからないわけではない。近藤と総司は同じ天然理心流を身に着けているが、その身のこなしはどこか違う。近藤が見劣りするわけではなく、総司の構えは癖がなくまるで天然理心流という名の一本の剣のように精巧なのだ。
『だから、もし万が一俺の身に何かがあった時には…あいつの剣が後世に伝わることこそが、一番良いことなのではないかと思うんだ。それが新撰組局長ではなく天然理心流四代目近藤勇としての正しい選択だと思う』
『…そうか。あいつも喜ぶだろう』
土方は総司のことを剣術馬鹿だと揶揄してきた。いまは新撰組の一番隊組長なんて役目を背負わせているが、本当は人を傷つけることなく道場で自分の腕を磨くのが彼の性分に合っているはずだ。
近藤もそれをきっとわかっている。彼の総司への愛情をひしひしと感じつつ、土方は近藤へ手紙を返した。彼の想いが故郷の人々に伝わると良い…そう思った。
しかし、近藤は『頼みがある』と前置きした。
『歳、このことは総司には言わないでくれ』
『何故だ?悪い話じゃないだろう』
『いや。ただでさえ俺の長州行きを総司は納得していない。その上にこんな話を聞けば、何があっても俺を引き留めるだろう』
『…まあ、そうかもな』
土方は苦笑した。土方でさえ近藤の万が一を想像するだけで身震いがするが、彼を慕う総司はその言葉すら聞きたくはないだろう。ましてやこんな状況で剣術を継がせたいと話してもそんな状況すら受け入れたくないと突っぱねてしまいそうだ。
『だから万が一の時だけでいいんだ。何かあったら…お前が必要だと思ったら、総司に話してくれ』
『…分かった』

土方はふと部屋の障子越しに外を見た。東寄りに在った陽は西に向かい、陰りつつある。
(見合いは滞りなく進んでいるだろうか…)
近藤が総司に縁談を進めようとしていたのは剣術を継がせるためだった。
道場主になる以上、独り身であるよりも嫁をもらった方が拍が付く。近藤自身が四代目を襲名する前にツネを嫁に迎えたのもそれが理由だったように思う。それに身を固めていた方が、故郷の人々も総司が剣術を継ぐことを納得するだろう…近藤はそう考えたようだ。
(…いい、それでいいんだ)
土方は幾度となく自分に言い聞かせる。すべては近藤のため、天然理心流のため、道場のため、総司のためだ。
(そこに俺が介在することはできない)
部外者である土方が言うことは何もない。それに何も、総司が遠くへ行ってしまうわけではない。近藤も別れろとは言わなかったのだから、二人の関係は変わらないはずだ。
「行くか…」
土方は億劫に感じながら重い体を持ち上げ、羽織にそでを通した。すると「失礼します」と声が聞こえた。相変わらず監察のように気配なく現れる男だ。
「斉藤か」
「はい」
端的な返答が聞こえて、障子が開く。
「巡察から戻りました。特にありません」
「わかった」
「外出ですか」
「…ああ。遅くなるかもしれないから屯所のことは頼む」
いつものように斉藤から「わかりました」と返答があるのだと思っていた。しかし彼は少し沈黙して
「…もしや近藤先生の別宅へ行かれるのですか?」
と尋ねてきた。どこから話を聞いたのか、斉藤は事情を知っているようだ。
「…ああ」
「沖田さんの見合いだとか」
「詳しいな」
苦笑する土方に対して、斉藤の表情は厳しい。普段は無表情な彼が睨みつけるように土方を見ていたが、彼は固く唇を噛んでいた。
「…なんだ、言いたいことがあるのなら言え」
「私闘になります」
「構わん」
土方がそう答えた途端、斉藤は近づいて遠慮なく胸倉をつかんだ。
「どういうつもりですか」
「…縁談は近藤局長が決めたことだ」
「そんなことはわかっています。俺が言いたいのはそういうことではありません」
「だったらなんだ」
「本当にあの人のことを考えているのか、ということです」
斉藤は土方の襟元をさらに握りしめて、続けた。
「近藤局長と副長の考えは、自分の意志よりも上なのだと言っていた。自分の感情よりも二人の考えの方が正しい。…俺は何度もその答えを聞いたことがある。芹沢の時も、山南総長の時も…自分というものを押し殺して、あんたたちに従うことこそが自分の望むことだと、いつも言っていた。今回も同じだ」
「…」
「俺から見れば、沖田さんはあんたたちの傀儡だ。自分たちの都合の良いようにしているだけだ」
そんなことはない。
縁談は総司のためでもある。
斉藤に対して土方はそう言い返したかった。けれどそれを言う資格はないのだと思った。
(お前の言うとおりだ)
心のどこかで、総司が従うだろうと思っていた。近藤の意志ならば、総司は拒まない。ましてやそれが総司自身の為になるのだと言われれば、黙って従うだろう。
それを傀儡だと斉藤は弾じたのだ。
「副長は以前、言いました。沖田さんが自分だけのものにならないほうが良い、その方がずっと求めていられるのだと」
「…ああ」
斉藤は土方の胸倉をつかんでいた手を離した。
「俺もそう思っていました。自分の手に入らないほうが良いと…けれど、今回のことのようにあの人の意志さえもあの人の自由にならないのなら、話は別です」
「どうするつもりだ」
普段は無表情で何の感情も伝わってこない斉藤の表情が変わる。明確な意思を持ってまっすぐに土方を見ていた。
「遠慮はしないということです」
その一言を言い放つと、斉藤は背を向けて部屋を出ていく。その短い言葉にどんな意味が込められているのか…土方にはわかっていた。



417


「縁談と言っても、顔見知りの四人が互いに向かい合って座っているだけだな。南部の医療所で顔を合わせるのとそう変わらねえ」
松本はそう言って、緊張して向き合う総司と無言を貫く加也を茶化したが、総司は松本のように割り切ることはできなかった。
(縁談の相手がお加也さん…)
医療所で会った白衣を着た素顔の加也と、今目の前で薄紅色の振袖の身を包み唇を赤く染めた彼女ではまるで別人のように見える。けれどもその両者に共通する「凛とした美しさ」は健在で、まるで人形のようだ。
「沖田先生、突然のことで驚かれたでしょう」
加也の隣にいる南部が総司を気遣った。
「い…いえ、その…はい。まさか、お加也さんだとは知らず…」
「すみません、私はてっきり良順先生がお話されているものと思っていました。良順先生は土方副長にもお話を隠していたのです」
「土方さんにも…ですか?」
土方は加也とは面識がないはずなのだが、義理とはいえ南部の娘が縁談相手だと聞いて驚いたことだろう。すると松本が「ふん」と鼻を鳴らして胸を張った。
「南部が話しちまった。鬼副長の驚く顔、俺ァ拝んでみたかったんだが」
「偉ぶらないでください。まったく…」
松本の破天荒な行動に慣れきっている南部でも、さすがに娘の縁談ともなれば神経質になっているのか、軽く松本を睨みつけた。それでも松本は「おっと」と飄々として視線を交わした。
するとそれまで黙り込んでいた加也が
「良順先生、義父上」
とはっきりとした口調で告げた。
「沖田様と二人きりでお話がしとうございます。庭を散歩させていただいてもよろしいでしょうか?」
「え?」
「おう、あとは若い者同士でって奴だな。行って来い行ってこい」
戸惑う総司をよそに、松本は背中を押されて加也は立ち上がる。
「参りましょう」
加也はそういうと、さっさと部屋を出て行ってしまう。総司は戸惑いつつも加也を追いかけるしかなく、同じように部屋を出た。

深雪に断りを入れて、二人は手入れの行き届いた庭にやってきた。近藤が深雪の為に用意した別宅は、広々とした開放感のある造りだ。狭い遊里という閉ざされた場所にいた深雪への近藤なりの気遣いなのかもしれない。
「山茶花が咲いていますわ」
加也は枯れ木が多い庭の中で、白く咲く山茶花を見つけた。そちらに近づいていき、総司もそのあとをゆっくりと追った。加也は幾枚に重なった山茶花の花びらに触れつつ、口を開いた。
「…わたくしが縁談相手だと知って、驚かれたでしょう」
「それは……驚きました」
「良順先生は昔から悪戯好きです。ご無礼をお許しください」
「そんな…お加也さんが謝るようなことではありませんよ」
目を伏せた加也の横顔に、総司は言いようのない照れくささを感じた。髪を一つに束ね医療所でテキパキと働く姿しか見ていないせいか、振袖に身を包んだ女らしい姿は見慣れない。
「でも…意外でした。お加也さんは医療所で熱心に学ばれたと伺いましたから、てっきりそのまま南部先生の跡を継がれるのだと思っていました」
「女は医者にはなれないと、以前も申し上げたでしょう?」
「いまはそうかもしれませんが、これからもそうだとは限らないですよ。私だって貧乏道場の居候だったのに、いまや新撰組だなんて持て囃されているんですから。世の中何が起こるか分かりません」
それは総司の偽りない本音だったのだが、加也は「ふふ」と口を隠すようにして笑った。
「そんなに面白いことを言いましたか?」
「いいえ。ただ…良順先生以外でそのようにおっしゃる方は初めてです。女が医学を学んでいると聴けば、大抵『嫁入り修行をするほうがマシだ』と言われます。無駄なことだと」
「でもそれは農民が剣術の修行をするのと同じでしょう。でしたら、きっとそれは無駄な努力ではありません。私の師匠である近藤局長はもともと農民の出です。そこから試衛館の道場主になられ、いまの幕府の使いとして長州に向かっています。だから…」
加也を励ますつもりが、師である近藤の立場と重なるようで総司は熱く語りすぎてしまった。「すみません」と慌てて言葉を止めたが、加也は「いいえ」と微笑んだ。
「ありがとうございます。縁談のお相手が沖田様で良かった」
「あの…その件なんですけど…」
「わかっています」
「え?」
加也は総司に向き合って、まっすぐに視線を向けた。
「沖田様には心に決めた方がいらっしゃるのでしょう」
「…どうして、それを…」
「良順先生から伺いました」
総司は驚いた。それでは松本がそのことを話したうえで縁談を加也に持ち掛けているということになる。
「あの…でしたら、なぜ縁談を?」
「わたくしも同じだからです」
「同じ?」
「好いた方がいます」
加也は躊躇いも恥じらいもなく、総司に告げた。
「好いた方…ですか。でしたら、お加也さんこそその方と結ばれたほうが良いのではないですか」
「いいえ。わたくしのその想いが叶うことはありませぬ。絶対に…ないのです」
それまでまっすぐに総司を見ていた加也が、目を伏せて少し寂しげな表情を見せた。絶対にない、と加也が断言するほどの相手がどんな人なのか、総司には想像もつかなかった。けれど、加也がその相手に真摯な想いを寄せているのは痛いほど伝わった。
「お加也さん…」
「このたびの縁談を良順先生は丁度良いとおっしゃいました。夫婦は形だけのもの、互いに別の方を好いていて良いのだと」
「それは…そうかもしれませんが」
ここに来る前に松本が『お前にとって今回の見合いはそう悪い話じゃない』と言っていた意味がようやく分かった。世間体では夫婦でも、総司は土方を、そして加也はその絶対に報われない相手を、好きなままでいていい。松本が考えそうな突飛な発想だ。
けれど、心に引っかかるものがあった。
「…お加也さん、でもそうなると私はあなたを利用するようなことになります。対外的には夫になるのに、心は裏切っているような。それはとても…不誠実です」
出会ったその日に夫婦になり祝言を挙げることも珍しくはない。互いに愛し合うから夫婦になるわけではなく、形式や家柄に囚われた縁談もある。だから、そこに心の介在は必要ないのだとは思うけれど、それでも自分だけ私情を満たし、加也を置き去りにするような関係は良くないのではないかと思わざるを得なかった。
加也も頷いた。
「わたくしもそう思いました。妻として、沖田様に仕えながら、けれども別の方を想う…そんなことが許されるはずはないと。だからあらかじめお話をさせて頂きたかったのです」
加也は総司の方へ向き直った。
「…沖田様、わたくしはあなたがほかのだれを思おうと構いませぬ。わたくしも生涯忘れることのできない想いを抱えています。…こんなわたくしで良ければ、夫婦になってくださいませ」
「…」
丁寧に腰を曲げ、頭を下げる加也に、総司は言葉が出てこなかった。
(本当にこれで…いいのだろうか)
加也と形だけとはいえ夫婦になれば、近藤は喜ぶだろう。互いが互いを利用しあうような夫婦関係であるのだから、総司も加也も不自由はない。義父である南部はおそらくはこのことを知らない。知れば縁談を進めようとはしないはずだ。
(土方さんは…)
この話を聞けば、安心するだろうか。二人の関係は何も変わらない…そう思うのだろうか。
総司が返答を迷っていると、強い風が吹いた。冬の冷たい木枯らしは庭中の落ち葉を攫い、遊ばせる。その風で加也は身体のバランスを崩した。
「あ…っ」
「危ない!」
総司はとっさに加也の身体を支えた。『強いひとだ』と思っていた加也の身体は思ったよりも華奢で、細かった。
「ご、ごめんなさい」
「いえ…強い風でしたね」
「振袖なんて着慣れないものを着ているせいです」
「あはは、でもお似合いですよ」
「からかわないでください」
加也は少し頬を紅く膨らませて拗ねたような顔をした。最初は淡々とした人だと思っていたけれど、次第にいろいろな表情が垣間見れて
(可愛い人だな)
と。
そう思った心を見透かされたのかもしれない。
ガタンッと扉が閉じる音がした。強い木枯らしのせいかとそちらに視線を向けると、それは風のせいだけではなかった。
「土方さん…!」
庭越しに続く玄関先で、土方がこちらを見ていたのだ。加也を支える姿は土方から見れば二人が抱き合っているようにも見えただろう。総司は加也と距離を取ったが、すでに遅い。
(勘違いされた…!)
総司は焦ったが、土方はふいっと目を逸らした。そして何事もなかったかのようにそのまま玄関に向かっていく。
「沖田様?」
「…すみません、ちょっと…」
追いかけなくてはならないと思った。たまたま彼女の身体を支えただけで、勘違いだと…否定しなければならない。
けれど踏み出した一歩が、止まった。
「きゃあああああ…ッ!」
「?!」
広い家中に響く悲鳴。それが誰のものなのか総司にはわからなかった。けれど傍に居る加也のものではないのだとすれば、深雪のものに違いない。
何かが起こった――そう思ったのは総司だけではない。玄関に入りかけていた土方が声の方向へと走り出す。
「お加也さん!中に入っていてください!」
「は…はい!」
総司は加也に指示して、自分も走り出した。





418


悲鳴を上げた深雪のもとに先に到着していたのは土方だった。深雪はすっかり気を失い、土方の腕の中で目を閉じていた。
「土方さん!一体、何が…?!」
「わからない。俺が駆け付けた時には倒れていた」
目を閉じた深雪は青ざめているが、目立った怪我はない。すると客間にいた松本と南部がバタバタとやってきた。
「どうした!」
「松本先生、南部先生!深雪さんを診てあげてください!」
松本は足袋のまま地面を走り、深雪のもとに駆け寄る。脈や呼吸を素早く確認し「うむ」と頷いた。
「…顔色は悪いが、今は気を失っているだけだ。暫く寝かせれば目を覚ますだろう」
「ありがとうございます」
松本の診察結果に、総司はひとまず安堵した。深雪の身に何かあれば近藤が悲しむのは間違いないのだ。
「中に入りましょう…土方副長、お願いできますか?」
「ええ」
南部に促され、土方は深雪を抱えて立ち上がる。そしてそのまま全員別宅に入った。

深雪を寝所へ連れていき、布団に横たえさせた。目が覚めた時に誰かが付き添っていたほうが良いだろうということになり、加也が傍に控えることになった。必然的に見合いという雰囲気ではなくなり、「機会を改めましょう」と南部が申し出た。見合いに乗り気だった松本は不承不承という顔で同意した。
「土方、不定浪士がこの周りにうろついてるってことはないのか?」
「可能性がないわけではありません。周囲にはここが近藤の別宅だということは広まっています。…早速、隊士に見回りをさせましょう」
「そうしたほうが良い。さっきの悲鳴は何かに怯えている悲鳴だった」
松本の意見に総司も深く頷く。深雪は意識を失うほどの恐怖に直面したのだろう。
「ひとまず俺たちは帰る。加也は看病の為に置いていくが、何かあったら呼んでくれ」
「ありがとうございます」
「ご自宅までお送りしましょう」
土方が申し出たが「いや」と松本は手を振って払った。
「野郎が二人で家に帰るのに、護衛も何もいらないだろう。なあ、南部」
「ええ。私たちのことよりも娘のことをよろしくお願いします」
「もちろんです、家まできちんとお送りします」
総司が請け負うと、南部は安堵したように微笑んだ。
それから二人を見送って、総司は土方とともに客間に入った。まだ不定浪士が潜んでいるとも限らないし、深雪には目が覚めたら事情を聴かなければならない。
先ほどまで松本と南部がいた場所には飲みかけの茶と冷めた急須が置かれていて、座布団も四枚敷かれており、見合いの名残が残る。
「…お茶でも入れてきましょうか?」
そんな雰囲気がなんとなく居心地悪く感じて、総司は尋ねたが「いや」と土方が断った。土方は腰を下ろし、総司もその向かいに膝を折った。
(…なんていえばいいのだろう…)
深雪の悲鳴が聞こえる前、土方を追いかけて『誤解だ』というつもりでいた。そもそも見合いだと知ってここに来たわけでもなく、加也が見合い相手だと知っていたこともなく、ましてや彼女と抱き合っていたわけではない。
でもどれも言い訳じみているような気がして、総司には上手く言葉が浮かんでこない。
そうしていると、土方の方から口を開いた。
「美人だったな」
「…え?」
「お前の縁談の相手だ。加也…だったか。気の強そうな女だと思ったが…それくらいの方がお前にはいいのかもしれないな」
「……」
総司はぎゅっと手のひら握った。嫉妬してくれているのかもしれない…と甘い期待を抱いた自分が恥ずかしい。土方は加也を縁談相手として既に認めているのだから、彼女との関係が進むことに対して背中を押す以外にあり得ないのに。
いつの間にか、彼との遠いと思っていた。けれど
(気のせいじゃない…)
「総司」
俯いていた総司の肩に、土方の手が触れた。いつの間にか土方の顔がすぐそばにあった。
「…泣くな」
「な…泣いてません」
「嘘つけ」
土方の指先が、総司の目尻に触れた。薄く湿ったものを感じて、(ああ、泣いていたんだ)と気づかされた。
総司は土方の袖を握った。
「…歳三さんは…本当に、縁談を受けたほうが良いって…思っているんですか?」
「それが近藤先生のためだと言っただろう」
「近藤先生は望んでいるのはわかっています。でも、歳三さんは本当に…これでいいと思うんですか?」
「…」
縋るように尋ねると、土方の表情が揺れた。まるで痛みを堪えるかのように唇を噛んだ。
でもその口から出てきた言葉は
「…ああ。これでいい」
と、その表情とは裏腹の言葉だった。
「歳三さん…」
「夫婦関係と衆道は別だ。俺がお前のことを想うことは変わらないし、お前が俺を思うのも変わらない。ただ…お前に守るべきものがもうひとつできるだけだ」
「…」
「だから、心置きなく縁談を受けろ。俺のことは気にするな」
本当にそれだけなのだろうか。
本当に二人の関係は変わらないのだろうか。
その答えはきっと、土方にもわからないはずだ。
木枯らしが吹く。
先ほど加也の背中を押した風が、二人の間を寂しく通り過ぎる。



深雪が目を覚ましたのは、その日の夕方のことだった。
加也に呼ばれて土方と総司が寝所に赴くと、いまだに顔色の悪い深雪が床に臥せっていた。
「ご心配をおかけして…堪忍どす」
「お加減はいかがですか?」
「少し熱があるようです。お話は短くお願いします」
総司の問いかけに対して、深雪の代わりに返答したのは加也だった。振袖姿からいつもの小袖に着替え、髪を一つにまとめた加也はテキパキと深雪の看病をしていた。
土方と加也が直接顔を合わせるのは初めてだ。だが、土方が加也に視線を向けることなく、深雪の傍に座った。
「率直に聞くが、何があった?」
「へえ…その、知らない殿方が、裏口に…」
「討幕派の浪士ですか?」
「…うちには、討幕派や佐幕派なんて…」
深雪はわからない、と首を振る。それもそのはずだろう、と総司は「すみません」と謝った。しかし土方は構わず続けた。
「何かされたのか?」
「ちょっと、土方さん…」
あまりに単刀直入な質問に、総司と加也は顔を顰めた。すると深雪は表情を渋らせてポツリポツリと語る。
「…最初は、魚屋やと思うたんです。今日の…見合いの為にお祝いの鯛を頼んでいて…でも急に手を掴まれました。引っ張られて、思わず声を挙げたら…そのまま突き飛ばされてしもうて…」
「このくらいにしてください」
次第に涙声になる深雪を庇うように加也が制した。相手が鬼副長と言われる土方でも構わず睨みつけているあたりは気の強い加也らしい行動だ。
しかし
「加也さま、構いまへん」
と臥せっていた深雪が身体を起こした。加也は慌ててその背中を支えて傍にあった羽織を掛けた。
「でも…」
「うちは新撰組局長の妾どす。誰かがうちの命を狙っているなら、それは勇様の命を狙っているのと同じこと。土方様には詳らかにお話するのは、うちのお役目どす」
深雪は青ざめながらも微笑んで加也をとりなした。そして土方と総司の方へ向けて語る。
「…実は、その方を見たのは初めてではないと思うんです」
「何?」
「何度か…門の外や生垣の向こうからこちらをご覧になっているのを見たことがあります。その時は勇様のお知り合いかと思うておりました…」
「近藤先生には?」
「お話しておりまへん。その…長州行きの、前でしたから」
長旅に出る近藤の気がかりになってはならない、と深雪は黙っていたらしい。総司は深雪の近藤への思いやりと優しさを感じたが、土方は軽くため息をついた。
「そういうことなら先に言ってもらわないと困る。もしあなたに何かあればそれこそ近藤の心労になる」
「へえ…堪忍どす」
深雪は謝りつつ咳き込んだ。さすがに加也が「もういいでしょう」と止めて深雪をゆっくりと横たえさせる。
そしてそのまま総司と土方と共に部屋を出た。
「もともと身体が弱く風邪をひかれていたようです。それに今回のことで心も弱くなられています。…お話はまた機会を改めてお願いします」
「わかりました」
総司は頷いたが、土方は何も答えずに背中を向けて去っていく。不愛想というよりも無礼なふるまいに拍車をかけているのは、加也が総司の縁談の相手だということが原因だろう。
「すみません、色々と…」
「…いえ。新撰組の鬼副長という悪名は聞き及んでおりますから、構いませぬ」
皮肉のように口にする加也に、総司は苦笑するしかない。
「ああ見えてちゃんと深雪さんのことを心配しているんですよ、わかりにくいですけど。…とにかく、警備の隊士を寄こします。申し訳ないのですが、深雪さんのことをお願いしても良いでしょうか」
「もちろんです。一人にさせてしまうのは心細いでしょうから、しばらくはわたくしもこちらに寝泊まりをさせて頂きます」
「良いのですか?医療所は…」
加也は少し間をおいて「構いません」と答えた。
「丁度良い機会かと思っています」
「え?」
「いえ…こちらのお話です」
加也はそういって軽く首を横に振ったのだった。



419


それから数日。
「土方さんも、大仰だよな」
深雪の周辺に現れたという不審者から彼女を守るため、近藤の別宅には毎日、組長以上の幹部が二人組で詰めることになった。もちろん普段の仕事に加えられた特別任務のような形であり今日の当番は総司と原田だ。
「仕方ないですよ。新撰組局長の妾宅が狙われているということは、新撰組に対する挑発…ということ等しいのですから」
「それ、土方さんの受け売りだろ」
原田の指摘はその通りで、総司は苦笑した。
深雪を診察した加也の言っていた通り、彼女は身体がもともと弱いうえに今回のことで精神的にも参ってしまったようですっかり寝込んでいた。加也が時折診察に訪れているが、
「今は身体を休めるしかない」
と答えるだけだ。土方としては近藤が戻ってくるまでに何とか深雪に回復してほしいようだが、まだその兆しは見えない。
原田は「まあいいけど」とごろんと横になり欠伸をした。
「ここにいるだけで任務完了って言うなら楽だしな」
「もう。不審者はもしかしたら討幕派の浪士ってこともあり得るのですから、気を抜かないでくださいよ」
「お前がいるから大丈夫だろ」
楽観的な原田が「うーん」と背筋を伸ばすと
「お茶、お持ちしましたえ」
と柔らかい声が聞こえた。それは寝込んでいる深雪のものではない。
「おみねさん、ありがとうございます」
「こんなお寒いのに縁側なんておりましたら、風邪ひきますえ」
おみねは茶を持った盆を抱えて微笑んだ。
加也は医療所の手伝いで時折しか顔を出せず、深雪自身の身の回りの世話をすることができない。そのため土方は自身の別宅の世話をしているおみねを近藤の別宅に呼んだのだ。
「ばあさん、ありがとよ」
「へえへえ」
以前は大店に仕えたこともあるというおみねは物腰が柔らかく、誰に対しても穏やかに接する。無遠慮な原田に対しても、まるで自分の孫に接するように優しい。
「深雪さんの具合はいかがですか?」
おみねから茶を受け取りつつ、総司が尋ねた。
「へえ…相変わらずやと思います。お食事もそんなにされまへんし…」
「そうですか…」
「近藤様が戻られたら、ようなられるかと思いますえ」
この場に近藤がいれば、あっという間に深雪の気鬱も晴れてしまうのかもしれない。
(近藤先生…)
総司は空を見上げた。長州にいる近藤もまた同じ空の下にいるはずなのに、遠くに行ってしまったみたいだと感じた。


一方。
「まだ長州は我々を拒んでいるのか…」
いら立ちを隠せない近藤は、唇を噛んだ。
幕府と長州の話し合いの場として、永井とともに近藤達が中立的立場にある広島藩に入ってから数日が過ぎた。いまも長州は幕府使者の入国を拒み続け、膠着状態が続いていた。
「長州が我々を警戒するのは仕方ありません」
いら立ちを宥めようと伊東は穏やかに返答するが、近藤の怒りの所在は長州ではない。
(何だこの体たらくは…!)
近藤はこれまで何度も怒鳴り上げたい衝動を堪えた。
幕府の命を受けてやってきた藩兵たちはここが長州を目の前にした戦場だというのに、連日宴会を催し遊び周り、およそ士気など感じられない姿になり果てていた。
「…こんな状態で長州が話し合いの場になど顔を出すわけがない。これまで同様彼らが強気な態度を崩すことはないだろう…!」
(だとすれば、ここに来た意味などない!)
近藤は怒りと悔しさと焦燥に駆られ握りしめた拳で畳を叩く。痛みなど感じないほど心は荒れていた。何よりももどかしいのは、こんな状況を打破できない己の立場の弱さだ。
しかし、そんな近藤を目の前にしても伊東は特に表情を変えずに涼しいままだ。
「近藤先生、私たちがなにを言っても幕府の使者は動かないでしょう。むしろ覇気もなく怠惰に過ごすばかりの兵ではいざ戦になったところで負けるのが目に見えています」
「伊東参謀…」
「ここは先んじて我々が動かねばなりません」
伊東が手持ちの扇を開き、声を潜めた。
「近藤局長…我々だけでも長州に入国を願い出ましょう」
「…しかし、今まで散々拒まれている」
「ええ、拒まれたら…潜入を試みます」
「なに?」
伊東らしからぬ提案に、近藤は素直に驚いた。いつも冷静沈着であり慎重な参謀という立場を忘れない彼にしては、大胆な策だ。
「千載一遇の機会です。そして土方副長もそのために山崎君を同行させたのだと考えます」
「…確かに、山崎君なら潜入するのは簡単だろう」
「何の手柄も情報も得ず、京に引き返すわけにはまいりません」
近藤は伊東の強い決意と意志にいつも以上に感じ入った。これまで腑抜けた幕兵ばかりを目の当たりにしてきたせいもあるかもしれない。
「よし、やろう…!」
伊東の言葉でいら立ちや怒りはすっかり抜け落ち、眼に生気が戻った。そして膝を立てた。
「早速、永井様にお話をして来よう。伊東参謀は武田君と尾形君にその旨を」
「畏まりました」
伊東が恭しく頭を下げたのを見つつ、近藤は部屋を出る。ほかの部屋からは幕兵たちが相変わらず宴に酔う声が漏れ聞こえていたが、もう気にならなかった。
(俺は命を賭けてここに来たのだ…)
もしかしたらもう都の地も、そして江戸の地も踏めないかもしれない。そういう気持ちでここまでやってきたのに引き下がるわけにはいかない。
近藤が早足で待機場所となっている宿所から出ると、「お待ちください」とすぐに引き留められた。
「山崎君」
先ほど話にも出た山崎だ。
「永井様のおられる宿所は遠い。おひとりで出歩かれるのは危険やと思います。一緒に参ります」
「…やはり君は話を聞いていたようだ」
近藤が苦笑すると「はい」と山崎は肯定した。伊東の話ではないが、もともと土方はそのつもりで山崎を連れて行かせたのだから隠す必要はない。
近藤は山崎とともに歩き出すが、彼は早速切り出した。
「近藤局長、些か急いていらっしゃるのではないでしょうか?」
「急いている?」
「率直に申し上げると…伊東参謀の案に簡単に乗っては困ります」
「君も参謀のことを好いていないようだ」
土方の直属の部下として働く山崎は、やはり上司に似てくるのかもしれないと近藤は苦笑したが、山崎は複雑な表情を作った。
「…そもそも好き嫌いを考えたことがありまへんが…ただこれが副長の意に沿わない策であることは確かやと思います」
「そうかな。あいつも猪突猛進なところがあるから、もしこの場にいてくれれば同意しただと思うが」
策士の土方ではあるが、子供の頃のバラガキな部分が消え去ったわけではない。熱しやすく勇猛果敢な彼なら、幕府の怠慢を目の前にすれば「長州に乗り込もう」と言いかねない。
だが、山崎は首を横に振った。
「それはこの場に土方副長もいらっしゃるなら、という仮定の話です。俺が長州に潜入するのも大胆で面白いと考えますが…いま近藤局長の傍を離れるのはよくない」
「やはり君も参謀のことを疑っているのではないか」
「…疑っています」
近藤の追及に抗うのを諦めたのか、山崎は白状した。
「あの方の目ぇは…何を見ているのか、わかりまへん。人の心の奥底を見透かすようで…せやけど、その一方でどこも見ていないような、底知れないところがあります」
「…なるほど、君にはそう見えるのか」
「近藤先生は違いますか?」
山崎の質問に、近藤は微笑んだ。
「違うなぁ」
「…なぜ」
「確かに、伊東参謀の底知れなさは感じている。知識と経験という意味では、彼は農民でただの貧乏道場主だった俺よりもはるかに上回っているだろう」
武家の子に生まれ、水戸を遊学し、乞われて有名道場へ婿入りした。そんな近藤とは真逆のエリートとしての人生を歩んできた伊東が、なぜ新撰組の参謀にその身を置いているのかは近藤もよくわからない。
「だが…彼のすべてが『嘘』というわけではあるまい。少しでも同調できる部分があるのなら、その部分を信じればいいのではないかな」
彼が何を考え、何のために策をめぐらせているにしても、それはこの国を思う気持ちであることは変わりない。そこが一致しているなら、疑うことはない。
「…呆れているだろう?」
山崎が呆けた顔をしていたので、近藤は思わず指摘してしまった。彼は慌てて「いえ」と首を横に振ったが、
「隠さなくていい。きっと歳なら呆れかえって怒ることだろう」
「はあ…」
山崎は言葉に困り頭を掻く。近藤は笑った。
「山崎君、今はとにもかくにも長州で有用な情報を得ることと事態が好転するために動こう。私の身はその次でいい」
「…それは命令でしょうか?」
「君が納得してくれるなら、そうだと言おう」
山崎は逡巡しつつ「わかりました」と答えた。
二人は足を速めた。



420


近藤が山崎とともに永井の元を訪れた。永井は近藤の懇々切々とした訴えに口を挟むことなく、耳を傾け続けた。幕府の大目付という立場である永井は元治元年から長州と折衝を重ね、第一次長州征討の際には幕府代表として総督を補佐している。新撰組の局長とは言えども永井は雲の上の存在であるが、なぜか彼は近藤を気に入り重用していた。
「話は分かった」
待っているだけでは事態は好転しない、そしてもしいま戦になったとしても腑抜けきった幕兵たちでは対抗できない。この状況を打開するためにいまこそ我らだけでも長州へ潜入したい――…永井は近藤の話を聞き終わると深く頷いた。
「相変わらず、勇猛果敢なことだ」
「永井様。単なる警備兵というお役目なら私たちではなくても良いはず。永井様も新撰組という名を使い、彼らに何か刺激を与えたかったのではないのですか?」
「それはそうだ。しかし、お前が危険な目に合うかもしれないのだぞ」
「承知の上です」
近藤の己の身を案じる気持ちなど一片もない。それゆえの即答だったが、永井は苦笑して「まあ待て」と制した。
「こちらもこのまま何もせず、京に帰るつもりなど毛頭ない」
「永井様…もしや何か策があるのですか?」
「近藤、赤禰という男を知っているか?」
「赤禰…」
覚えのない近藤は山崎に視線を向けた。監察の彼なら何か知っているのではないかと期待したのだ。すると彼はその期待の応えた。
「憚りながら…赤禰武人のことでしょうか?」
「その通りだ」
山崎の答えに、永井は深く頷いて続けた。
「長州藩士赤禰武人はもともと松下村塾の塾生で、高杉晋作の奇兵隊に参加している。のちの総督を勤め下関戦争の指揮を執った男だ」
「大物ではないですか」
松下村塾の塾生ということなら、攘夷の思想を持った過激派だろう。近藤はそう判断したのだが、永井の話は続く。
「半年ほど前にこちらが捕縛している。何でも思想の違いから高杉晋作をはじめとした過激派のなかで孤立したようでな。居場所を無くして京にやってきたのを捕縛したというわけだ。…実は今回の長州行きに同行させている」
「何ですって!」
近藤は思わず声を張り上げ、山崎も目を見開いた。捕縛した罪人を同行させているという情報は近藤の耳には入っておらず、永井が独断で押し進めてきたらしい。
永井は企みが成功した策士らしく、にやりと笑った。
「この赤禰という男は六角獄に半年ほど捕縛されていたが、一貫して長州を擁護し続けた。幕府が総力をもって長州を攻撃すればひとたまりもない。それをどうにか回避したいと思っているようだ」
「では…永井様はその男は長州と幕府を結ぶ存在になるとお考えですか?」
「上手くいけばな」
永井は慎重な一言を忘れなかったが、近藤は「なるほど」と理解した。過激派として活動しながらも長州藩内で幕府との融和を進めてきた男なら役に立つかもしれない。
永井は続けた。
「今は赤禰の人脈を利用して機会を見計らっているところだ。長州に潜入することになれば、お主らの力を借りることになるだろう。その時までしばし待つのだ」
「…畏まりました」
今回の長州行きの代表である永井がそういうのなら、受け入れるほかない。それに正面突破を考えていた近藤に比べれば、建設的な作戦だろう。
(しかし…)
その男が本当に幕府側の使者として今回の長州行きに同行したのだろうか。
「…永井様、一つお願いがございます」
「言ってみなさい」
「その赤禰という男に…会わせていただけませんか?」
近藤の申し出に、隣に控えていた山崎は驚いた。だが、永井は微笑んで「良かろう」と頷いたのだった。



一方。
「土方さん。近藤先生からの飛脚ですよ」
総司は偶然出くわした飛脚から受け取った手紙を土方のもとに持ってきた。書物に目を向けていた土方は、いつもなら「その辺においておけ」とそっけないが
「見せろ」
と今回ばかりはすぐに手を伸ばした。長州に向かった近藤から手紙が届くのは初めてのことだ。土方はすぐにのめり込み無口になってしまったので
「お茶淹れてきますね」
と総司は席を立った。
十一月も終わりが近づこうとしている。日に日に寒くなる季節は嫌いではないが、曇りばかりが続き明るい陽射しが恋しい。なんとなく屯所が静まり返っているのは、太陽のような存在である近藤と隊士からの人気がある伊東がいないからだろうか。
総司が台所にやってくると、丁度山野が茶の準備をしていた。
「山野君、二人前お願いできますか?」
「もちろんです」
山野は笑顔で答える。美男子として噂される彼が微笑むと可憐な花のようで愛らしい。
「土方副長の分ですか?」
「そう。きっと熱いお茶が飲みたいだろうから、うんと熱いお茶にしてくださいね」
「わかりました」
もともと熱いお茶を好む土方だが、今朝は冷えたのでより熱いお茶が飲みたいだろう。総司としてはいつもの自然なやり取りのつもりだったのだが、頼まれは山野がくすくすと笑っていた。
「私、何か面白いことを言いました?」
「いえ…すみません、その、沖田先生は土方副長のことを何でもご存じなんだなあと思って」
「そりゃ十数年の付き合いですからね」
「羨ましいです」
山野はなおも笑いながら、急須に湯を注ぐ。モクモクとした白い湯気が立ち上がり、要望通りの熱いお茶が出来上がりそうだ。
(羨ましい…か)
彼の生活習慣や、好きな食べ物、嫌いな食べ物なんかは試衛館に居た頃に随分と叩き込まれた。立場や環境が変わっても、彼のそう言った部分は変わらないから何となく欲しているものはわかる。
(でもいつも…土方さんの考えていることは、わからないことだらけだ)
様々な出来事を経てようやく近づいたつもりでいたら、離れていく。そんなことばかりを繰り返しているような気がする。
「沖田先生?」
「えっ?ああ、はい…ありがとう」
山野に差し出されたお盆を総司は慌てて受け取った。山野は首をかしげて総司を伺うが
「じゃあ、戻りますね」
と総司は話を切り上げて背中を向けた。妙に勘の良い山野には心配を掛けたくはなかった。
そして元来た道をたどり、土方の部屋に戻る。既に手紙は読み終わったようで、悩まし気にため息をついていた。総司は膝を折って座り熱いお茶を土方に差し出した。
「…良くない知らせだったんですか?」
「いや…そんなことはない。ただ膠着状態で動きがないと嘆いている様子だ」
「読ませてください」
総司が頼むと、土方は持ってた手紙を寄こした。総司は流し読む。
道中は無事に広島までたどり着いたこと。しかし長州側には近藤が期待していたような動きはなく、ましてや幕府軍も覇気がない様子で落胆していることが書いてある。
そして最後には総司の見合いの進捗はどうかと尋ねる一文があった。
「…」
「近藤先生には縁談は順調に進んでいると伝える。…いいな?」
大変な状況に置かれている近藤に心労を与えてはならない。せめて良い知らせを送りたいという土方の気持ちはわかる。
(その気持ちは痛いほどわかる…だから)
「…はい」
自分に答えられる言葉はこれしかない。
総司が俯いて返答すると、土方は近藤の手紙を取り上げた。そして開け放っていた障子を閉めてしまう。
「土方さん…?」
土方が総司に近づき、そしてその頬に触れた。輪郭を辿り、手繰り寄せ、そして口付ける。カサカサに乾いた唇が彼の唾液を含んで赤く色づいた。
「…どうして…」
「局長と参謀が不在の時は、別宅に行くわけにはいかねえからな」
「それは、そうですが…」
戸惑う総司をよそに、土方は総司の肩を押しそのまま押し倒す。そして襟に手をかけ開いた。
「寒くはないか?」
「え、ええ…。でも土方さん、ここで?」
「別にいいだろう。お前は非番で、誰もここに来るような用事はない」
「それはそうかもしれませんが…」
「嫌なのか?」
どこか寂しさを含んだ土方の問いかけに、総司は何も答えることはできなかった。
(嫌なわけがない)
けれど、心のどこかに引っかかるものがあるだけだ。でもそれはきっと土方も同じだ。
「何にも変わらねえんだって…俺に、教えろ」
そんな弱弱しい台詞を呟く彼は、彼らしくなくて。
(変わらないんだって…教えてほしいのは、僕の方だ…)
彼の背中に腕を回した。
その時だった。
「副長、宜しいでしょうか」
障子の外から声が聞こえた。気配もなく現れる斉藤の声だ。
「…取り込み中だ、あとにしろ」
不機嫌を隠さない低い土方の声。だが斉藤は怯むことなく淡々と答えた。
「急ぎ、確認していただいたほうがよろしいかと」
「何だ」
「近藤局長からの早飛脚です」
「飛脚なら先ほど受け取った」
「早飛脚です」
斉藤が強調した早飛脚は特に急いで書状を運ぶ飛脚を差す。総司が渡した手紙から状況が変わり、近藤が特に急いで知らせたいことがあるということだ。
「…土方さん」
総司は土方の胸を押した。近藤や伊東が不在だからこそ、屯所で何があっても良いように構えていたはずだ。タイミングが悪かったが、仕方ないとしか言いようがない。もちろん土方はそんなことはわかっていて「ちっ」と軽く舌打ちしながら身体を離し、総司は襟を整えた。
「入れ」
八つ当たりに近い乱暴な物言いだが、斉藤は構わず障子を開ける。彼はちらっと総司の方を見た。おそらく彼のことだから今何があったのかはわかっているだろう。だがあっさりと流して
「こちらです」
と手紙を手渡した。土方は早速中を開き、素早く読む。
そしてその顔色はだんだんと歪んでいった。





解説
なし
目次へ 次へ