わらべうた





421


季節が冬めいて、十二月になった。
相変わらず長州から入国を阻まれ、広島に留まっていた近藤は伊東、山崎とともにある宿の一室にいた。
「赤禰武人…ですか」
近藤の口から発せられた名前に、伊東は怪訝な顔を作った。手にしていた扇をぱちんと閉じる。
「確か長州藩士の…一時は奇兵隊を率いていた男ですね。実力のあった男ですが、結成した高杉晋作と対立して長州から追われたとか。先日、大坂で捕縛されたはずです」
すらすらと伊東は赤禰のことを語る。近藤は「さすが伊東参謀」と称賛して続けた。
「その赤禰が実は今回の長州行きに同行しているのです」
「…それは、驚きです」
幕府側の使者として長州藩士が同行する…伊東からすれば大胆な行動だと驚いたが、近藤の隣でまるで置物のように沈黙している山崎には表情の変化はない。
(どうやらすでに知っていたようだ)
伊東は目ざとく察しつつ、近藤に目を向けた。
「想像するに、幕府との開戦を避けたい赤禰が長州との橋渡し役を務めるために同行している…ということでしょうか」
「…どうやら説明の必要はないらしい」
近藤は嬉しそうにほほ笑む。伊東は「恐れ入ります」と頭を下げたが、その一方で少し考えればわかることだとも思った。
(これが永井様の策か…)
怠惰な幕兵たち、連日の宴会…まるで物見遊山のような日々に、さすがに伊東自身も辟易としていた。その代表である大目付の永井は一体何を考えているのかと訝しんでいたが、表立った武力弾圧よりも裏での交渉に重きを置いていたようだ。
「伊東参謀、実はこの宿の別室に赤禰がいます。我々は今から彼に会いに行くのです」
「今から…ですか」
「申し訳ない。実はこの件は内密にしたかったのです」
「…そうですか」
(信用されていないようだ)
伊東は心の中で苦笑した。
もっとも目の前の近藤がそのような行動をとるとは思えない。彼は裏でこそこそと策を練るのは性に合わないはずだし、伊東には参謀として期待していると口にしていたのだから、本来であれば伊東に相談するだろう。もちろんそれを止めたのは、隣の山崎だろう。
(山崎君…というよりは、土方副長か…)
山崎の行動は、土方の意志と同義だ。
(…勤王の考えが強い私が長州と接触するかもしれないと危惧しているのだろう)
そう考えればギリギリまで伏せられていたのは、当然と言えば当然のことだ。
「伊東参謀にもぜひ、彼に会っていただきたい」
「…会うのは構いませんが、どのような話を?」
「話というほどのことはない。ただ彼が信用に足る人物なのかどうか…それを伊東参謀に見極めていただきたいのです」
「…」
笑顔でそう告げる近藤には、おそらく嘘はない。
(人の良いことだ…)
「かしこまりました」
伊東は近藤の笑顔に、微笑みで返した。

近藤、伊東とともに赤禰と面会することになった山崎は神経を研ぎ澄ませていた。見えないものを見て、聞こえないものを聞く…そんな心づもりでいた。もちろん、赤禰の人物を見極めるためでもあり、そしてまた伊東の思考を見抜くためだ。
『注意しろ』
つい昨日、土方から山崎が受け取った手紙にはそう書いてあった。赤禰を信用して長州に入る…そのこと自体土方にとって本意ではないようだが、永井の命令で在り、今更遠い都からでは引き留めることもできない。彼のもどかしさと焦りを感じる手紙だった。
(何の成果が得られなかったとしても…せめて近藤局長の身ぃだけはご無事でないとあかん)
山崎は並々ならぬ重荷を感じていた。
「こちらです」
永井の部下が近藤達を案内してある部屋の前までやってきた。襖を開けるとそこには正座したまま目を伏せた男がいた。山崎が思っていた以上に細身で肌が白く、綺麗に剃りあげた月代が目に焼き付いた。
「失礼する」
近藤が穏やかに声をかけると、赤禰はようやく閉じていた目を開いた。一重の優しそうな顔立ちだが、その黒目はまっすぐに近藤を見つめていた。
赤禰の傍には二人の兵士が控えていた。おそらく彼らは永井の部下で赤禰が不穏な動きをしないように監視しているのだろう。そういう意味では彼は放免されたとはいえ、捕縛されている状況と大差ない。
「どうぞ」
赤禰の返答を受けて、彼の正面に近藤が座り、その奥に伊東、そして反対側の下がった場所で山崎がひざを折った。
「…あなたが近藤内蔵助殿ですか」
赤禰は特徴的な長州鈍りで訊ねた。それは近藤が名乗っている偽名だ。
「ええ…ですが、私の本当の名前は近藤勇と申します」
(局長!)
山崎は慌てた。反対側にいた伊東も驚いた顔で近藤を見たが、彼は微笑んだままだった。
一方の赤禰もまた『近藤勇』の名に驚きを隠せなかったようで、彼の一重の瞳が大きく見開き一瞬にして炎が灯ったように燃え上がった。
「…新撰組の…!」
「そうです。新撰組局長、近藤勇」
躊躇いも、淀みもなく繰り返し告げる近藤に対して赤禰は怒りといら立ちを見せる。拳をぎゅっと握りしめ唇を噛む。
赤禰はしばらく無言のままだったが、次第に力を抜き、ため息を一つついた。
「いまの私の状況では…あなたという仇を目の前にしてもに手を下すことさえできぬ。それを見越して、名乗ったのか?」
悔しそうに顔を歪めた赤禰は近藤を睨みつけていた。しかし近藤は首を横に振った。
「それは違う。此度の策に…嘘と偽りは無用と思った故、名乗ったのです」
「何…」
「永井様の策には信用が重要と考えました。それに私の顔を知る長州の者も多い。いずれ露見することなら、いま話しても良い…そう思ったまでです」
呆気にとられたのは、赤禰だけではない。傍に控えていた伊東と山崎もまた言葉を失っていた。
(局長らしい…)
山崎はそう思ったが、もしこの場に土方がいたら烈火のごとく怒りそうなことだ。近藤には偽名で通すのを約束して長州行きを許可したのだから。
赤禰は朗らかな近藤の様子に絆されたのか、「ふっ」と息を吐いて少し笑った。
「私は長州藩士です。かつては吉田松陰先生の門下生でもあり…新撰組には多数の同志を殺されました。私があなたの正体を昔の仲間に告げ口すればどうなると思いますか?その可能性を考えなかったのですか」
「…赤禰殿、あなたがそのようなことをする人物なのかどうか見極めるために、私はここに来たのです。そして見極めるためには距離を近づけなければならない。正体を隠していては近づくものも近づかない。だから、危険を冒してでも名乗った…それだけのことです」
近藤は微笑みを絶やさず、赤禰から目を逸らすこともなかった。今度は全身全霊で赤禰に真摯な気持ちをぶつけていた。
その誠心を目の前に、赤禰は沈黙したのちに肩を竦めた。
「降参です」
「え?」
「近藤殿、あなたのことを憎む感情は忘れられませんが…今は、私の目的の為にあなたを信用しましょう」
「有難い!」
赤禰の了解に、近藤は子供のように喜んだ。その言葉は近藤だからこそ引き出せたと言っても過言ではない。
その様子を傍目に見ながら、山崎は伊東の方を見た。伊東はじっと赤禰と見つめたまま扇を口元に当てて何かを考えていた。



一方。
巡察を終えた永倉が西本願寺の境内にした総司に声をかけてきた。
「なんだか、また土方さんの機嫌が悪くなったようだな」
永倉は土方のもとに報告に向かったそうだが、いつにもまして苛々した様子で「わかった」とだけ聞くと追い払ったらしい。
「そう…みたいですね」
「近藤先生の長州行きは芳しくないのだろうか?」
永倉は腕を組み首をかしげるが、その答えは総司さえわからない。
先日、斉藤が持ってきた早飛脚には、永井の策で長州に潜入するために長州藩士と行動を共にすることになったと書いてあった。同時に山崎からも手紙があって、その長州藩士は『赤禰武人』という大物であると付け足してあった。
それを読んだ土方は
「馬鹿野郎!」
と苛立った様子で吐き捨てると、山崎へすぐに手紙をしたためていた。それ以来、土方はどこかピリピリとした緊張感を漂わせている。
「危険な局面ではあるようですけど…私にはよくわかりません」
「…まあ、土方さんは何かあったとしてもペラペラと話すとは思えないから、俺たちは待つしかないな」
土方の性分をよく知っている永倉はため息混じりに一息ついた。そして表情の冴えない総司に「ところで」と話を変えた。
「近藤先生の別宅の件、まだ犯人は捕まらないのか?」
「ええ。あれ以来、不審な人影はいないようですが…警戒されているのかもしれません」
「深雪太夫…じゃなかった、深雪の具合は?」
「それはお医者様に見ていただいているので、大丈夫です」
深雪を診察している加也は時折、別宅に顔を出している。深雪も女医である加也に心を許しているようで、世話を勤めるおみねとともに穏やかな時間を過ごしているようだ。ただ床から上がることはできず、臥せってばかりの日々が続いていた。
「じゃあ総司の縁談はまだ先か」
「…そうですね」
父親代わりの近藤が不在で在り、また深雪の具合も良くない。土方も慌ただしいようで、総司の見合い話は宙に浮いていた。
(…そのことに安堵している自分がいる…)
いっそこのままでいいとさえ思いながら、立ち止まっていた。


422


「お加減はいかがですか?」
近藤の別宅を訪れた加也は、みねの案内で深雪の寝所を訪れた。身体を起こし髪を梳いていた深雪は加也を見て微笑んだ。
「加也さま。もうだいぶ良くなったように思います」
深雪はそう答えたが、いまだに食が細く寝込みがちだということはみねから聞いていた。しかし彼女はそんな素振りをおくびにも出さずに穏やかにほほ笑んで見せ、主人もいないのに化粧を施し、気丈に振る舞う。
「…そうですか」
せめて気づかぬふりをして、加也は膝を折った。すると深雪の枕元にあった手紙に気が付いた。
「こちらは…」
「旦那様からお手紙を頂いたのです」
深雪の顔が一層綻んで、続けた。
「危険な場所やいうのに、旦那様のお手紙は楽しそうなことばかり…土産は何が良いかとお尋ねになるのです。加也さまは広島へは?」
「わたくしは江戸と京だけです」
「そう、そうでした。加也さまのお言葉は旦那様と同じ江戸のお言葉…聞いているだけで穏やかな気持ちになります」
朗らか、という言葉は深雪の為にあるような言葉だろうと加也は思った。微笑みを絶やさず、何事も前向きに捉え、言葉を交わす人々を幸せにする。いつも淡々とした物言いをしてしまう自分とは正反対だ。
深雪は近藤からの手紙をまるで宝物のように懐に入れる。
「あちらでは海の向こうに伊予の島が見えるとか。旦那様は波がいつも穏やかで心が洗われるようやと…私は海など見たことがなくてどのようなものかしらと想像してばかりどす」
「海…ですか」
「加也さまは海は?」
「…ええ…何度か」
京に来てからは縁遠くなってしまったが、江戸にいた頃は何度か足を運んだことがある。しかし近藤が穏やかだと言っていた瀬戸内の海とは違い、風が強く荒々しい様子だった。
「羨ましい」
「お体が治ったら、近藤せんせにお連れいただきましょ」
傍に居たみねが深雪を励ますと
「そうやなあ。その時はおみねさんも参りましょ」
と深雪は嬉しそうに笑った。近藤の妾と世話人という二人はすっかり仲良くなっていて、傍から見れば親子のようだ。
お喋りもそこそこに、加也は早速深雪の手首を取り、脈をはかる。数日前からは随分回復したようにも見えるが、まだその脈は頼りない。本人もその不調は感じているだろうから、いまは空元気なのだろう。
「深雪さん、横になってください」
「…加也さま、あれから縁談のお話は?」
「え?」
「ずぅっと気になって…うちのせいであの時は切り上げてしまわれたから…」
先ほどの花のような笑顔を顰め、不安げな様子で訊ねた深雪に
「深雪さんのせいではありません」
と加也はきっぱり否定して続けた。
「そもそも沖田様とお会いするのは初めてというわけではなく、あれは形だけのものでしたから。それに近藤先生がお戻りになられないと正式にお話が進みませぬので…まだ先になるかと」
「ほんまですか?」
「はい」
加也が即答したのをみて、深雪はほっと安堵したようだ。
あの日の見合いから縁談の話は宙に浮いてしまったかのように停滞している。それは深雪の容態に対する懸念もあるが、何より長州に向かった近藤の状況が芳しくないのが理由だと、内情に詳しい松本から聞いていた。隊の長である近藤の身に危険があるなかでは祝い事を進めることはできないのだ。
「それに…少し、安心しています」
「安心?」
深雪が首を傾げた。
「その…まだ心の準備ができておりません。誰かのお嫁様になるなど…想像もしていなかったのです」
ずっと医療に携わる者として生きていくのだと思っていた。幼いころから医学の道に没頭した父のようになるのだとしか思えなかった。だからいざ誰かと夫婦になることすら想像したことがなかったのだ。
「…うちもです」
深雪は加也にゆったりと微笑んだ。
「うちも誰かに請け出されてこんなに恵まれた暮らしを送れるなんて…思うてもおりませんでした。うちは生まれた時から廓にいて幼い頃に母はうちと妹を置いて花街を去りましたゆえ」
「妹様がいらっしゃるのですか?」
「へえ…ゆうても、別の店へ引き取られてしまい長らくあっておりません」
深雪が目を伏せ俯いたと同時に軽く咳き込んだ。冷たい風が入ってきたせいかもしれない、と加也は襖を占めてみねは彼女を布団へと横たえさせた。
「おおきに…。時々、妹のことを思うと胸が痛むのです。うちだけこないな贅沢な生活をして…妹が不憫で不憫で…」
「…妹様のお名前は?」
「お孝と…」
妹の名前を言いかけて深雪が再び咳き込んだので、みねが「なりません」と制して掛布団をかけた。加也もこれ以上は身体を休めるしかないと判断し、聴診器などを鞄に戻す。
「深雪さん、また参ります。しっかり養生してください」
「…へ、へえ…おおきに、加也さま…」
苦しい表情を浮かべながらも、深雪は微笑んで加也を見送った。加也はみねとともに部屋を出て離れた。
「おみねさん、これはいつもの薬です。忘れずに飲ませてあげてください」
「へえ、畏まりました。それで…深雪さまのご体調は?」
「…わかりませぬ。悪くなるようなら義父や良順先生に診ていただいた方が良いかもしれませんが…もしかしたら先日の件だけではなく先ほどお話された妹様のことも気がかりなのかもしれません」
身体的な怪我や病はないはずなのに、状態が芳しくないのは心のせいだろう。深雪の前に現れた不審者がきっかけとなり心に抱えていた心配事に囚われているように見える。それにはみねも同感のようで頷いた。
「近藤せんせがお早めに戻られれば良いのですが…難しいのでしょうか?」
「…良順先生はまだ先だとおっしゃっていましたが、訊ねてみることにします」
「おおきに、お願いいたします」
みねは深々と頭を下げた。土方に呼ばれて深雪の世話を勤めているだけというのに酷く熱心だ。
加也は深雪のいる部屋の方に視線を遣った。新撰組局長の妾だというのに、春の日向のように穏やかな深雪には早く元気になってもらいたいものだ。
「失礼します」
加也はそう願いつつ背中を向けた。


一方、近藤は山崎とともに赤禰のいる宿へと足を運んでいた。
「寒くなってきたな。京の方はもっと寒いだろうが、皆元気だろうかなぁ」
暢気なことを言いながら上着を着こんで歩く近藤の隣で、山崎は厳しい顔を浮かべていた。
「どうした、山崎君」
「…何でもありません」
「何でもないという顔ではないが…そんなに赤禰殿を訪ねるのが不本意なのか?」
「不本意…というわけではないのですが」
近藤が食い下がるので、山崎は言葉を選びつつ答えた。
「…あの男のすべてを信用するわけにはいきません。あれから数日、赤禰はかつての同志に計らい、我々が入国するすべを探していると言っていましたが、いまだに成果がなく状況は変わりません」
「それは仕方ない。彼は一度、国を出奔している身なのだから、なかなか道筋が立てられなくて当然だ」
「もしくは我々を裏切り、仲間と策を練っているということも考えられます」
「君は疑り深いなあ」
ははっとその大きな口で笑った近藤に対して、山崎は淡々と答えた。
「…疑うのが、仕事ですから」
「そうだ、その通りだ。俺は不器用だから二心は持てん。だから『疑う』のは君に任せよう。俺は彼を『信じる』担当だ。これで良いのだろう?」
誰に対しても嘘をつかない。むしろ嘘をつくことができない。その近藤の性分はこんな危険な場所に居ても変わらない。幕府大目付である永井が幕臣でも武士でもない近藤を同行させたのは、彼のそんな性格を見抜いていて絶対に裏切らないと確信しているからなのかもしれない。
「…そうですね」
山崎が頷くと、近藤もまた満足げに笑った。
しかし近藤が『信じる』と決めても山崎が抱える疑念は晴れるわけではなく、それは赤禰だけに向けられたものではない。
(伊東参謀は何を考えているのか…)
先日の赤禰との会見の場では伊東は卒なく振る舞った。赤禰とは多少の距離を取りつついつものように飾り立てた言葉で持ち上げて、近藤に対しては
『彼のことを信用しても良いでしょう』
と太鼓判を押した。それは伊東の考えというわけではなく近藤の考えに同調した返答だろう。それから山崎は伊東が独断で赤禰が接触するのではないかと見張りを怠らなかったが、そういう動きはなかった。
(赤禰のことを使うのは危険やと思うたのかもしれへん…)
このまま何事もなく平穏に終わればいい。山崎はそう思いつつ、どこかでそうはいかないだろうという予感もあった。
そんなことを考えていると、赤禰のいる宿に辿り着いた。今日も永井の部下たちが彼を監視しているようで、宿とはいえ緊張感に包まれている監獄のようだ。
そんななかを近藤は足早に赤禰のもとに向かう。
「近藤です」
軽く声をかけて赤禰からの返答を得て部屋に入ると、ちょうと彼は手紙を広げて読んでいるところだった。頬を紅潮させて興奮気味に近藤の顔を見上げた。
「近藤殿!ついに事が為りそうです!」
そしてその声は部屋中に響いた。



423


「失礼します」
重く低い声が、しかしながら小さく響いた。
土方の直属の部下となる監察方の隊士はその姿はおろか名前すら伏せられている。それは監察方というものが対外的なものだけではなく隊の内部に向けられていることを意味しており、隊士たちが監察の目を気にしながら常に緊張感をもって仕事に励む理由となっている。
そんな監察だが、二人だけ屯所に顔を出し報告をする隊士がいる。一人は山崎烝。土方が最も信頼を置く隊士だがいまは近藤に随行しているためこの京にはいないはずだ。
だとすれば、今現れたのはもう一人の監察だ。彼はもともと平隊士であったため今更顔を隠す理由がないのだ。
「入れ」
土方が答えると、音もなく襖が開いた。土方よりも一回りほど立派な体格、武骨な表情、伏し目がちの瞳…寡黙なその男は忠実に土方にもとで働いていた。
「何か進展はあったのか…芦屋」
彼は芦屋昇。以前は一番隊の隊士だったが、ある理由から土方が監察に異動させた隊士だ。もともと幕臣であり政治学者でもあった佐久間象山のもとで刺客として鍛えられたということで、監察向きの素質があった。
いまは近藤の妾である深雪が何者かに襲われた件を任せている。
「近所に住む女から…別宅に興味を持っていた男の特徴を聞き出しました」
「ふうん…」
この寡黙で無口な男がどうやって姿を装い女に近づいたのか…興味はあったが、芦屋は何も答えないだろうと察した。
「背の低い小柄な男だそうです。月代を綺麗に剃り、服装も小奇麗にしていて見た目には不審な人物には見えないと」
「そんな男は山ほどいるだろう」
「はい」
土方に問い詰められても、芦屋は淡々としている。彼はきっと土方が今ここで激高したとしてもその表情を崩さないだろう。
(すでに大切なものを失っている…)
喜怒哀楽という感情を失って、生気が抜けているとも言える。何の欲望も野望もない…だからこそ信の置ける存在なのだ。
「他に特徴はないのか?」
「…首筋に大きな黒子のある男だそうです」
「黒子…か」
土方は腕を組む。多少は絞れたとはいえそれでも確証には繋がらない。あれから深雪の別宅には組長を交代で待機させているが不審な者はおらず、状況は変わらないのだ。
「近藤局長が戻るまでには解決しろ」
「かしこまりました」
芦屋は軽く頭を下げると立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。
「…はあ…」
土方の溜息が部屋中に響いた。


「…はあ…」
曇った師走の空を見上げながら総司は深いため息をついた。監察から情報を得てやってきた宿屋には不定浪士の類がいたようで、平隊士に突入させると二人を捕縛することができた。成果としては上々なのだが、心が晴れることはなかった。
「どうした」
捕縛の様子を見守る総司の元へ、斉藤がやってきた。今日は一番隊と三番隊が合同で巡察を行っていて、三番隊が突入を担当していたのだ。
「怪我ですか?」
総司は斉藤の羽織に付いた血を差した。しかし斉藤はあっさりと
「そんなわけがないだろう」
と否定した。斉藤に怪我を負わせるような剣客が潜んでいるわけではなかったようだ。
「捕縛は二人ですよね」
「だが、監察から報告を受けたような大物の浪士ではないだろう。すでに知っていることを洗いざらい吐き出している」
「小者ほど早く喋りますからねえ…」
「ああ」
斉藤がそういうのなら、もしかしたら目的の浪士を捕縛したということではないのかもしれない。
(土方さんが喜ぶような成果じゃないってことか…)
総司はもう一度ため息をつくと、斉藤は隣に立った。
「そんなに近藤局長の状況が良くないのか?」
「…詳しいことはわかりません。斉藤さんこそご存じなんじゃないですか?会津からは…」
「俺が会津のことなんて知るわけないだろう」
「ああ…そうでした」
斉藤が会津と関りがある…というのはあくまで表向きに公言できないのだろう。明言を避ける斉藤だが、彼は近藤の身に何かあれば総司には伝えるはずなので、今のところは何も情報がないのだろう。
「斉藤さんは『赤禰武人』って人、知っていますか?」
「…討幕派の大物だ。今回の長州行きに幕府軍の一人として随行している」
「知っているんですね」
赤禰の名前を聞いても顔色一つ変えない斉藤は、近藤が随行する前から把握していたかのような物言いだ。
「奇兵隊の高杉晋作と意見が対立して国を追われて京に上ったそうだが、先日まで捕縛されて六角の獄舎に囚われていた。過激な考え方の多い長州のなかで珍しく幕府との和解を求めている。幕府はその男の伝手を利用して長州への潜入を考えているようだが…」
斉藤はふと言葉を止め、苦い顔をして「喋りすぎた」と口を噤む。しかし斉藤が続けようとした言葉の先は総司でさえ予想ができてしまった。
「危ない橋…ですよね。その赤禰がもし裏切って仲間を手引きしてしまうかもしれない…」
近藤からの早飛脚を受け取った土方が、真っ先に考えたのがそのことなのだろう。いくら幕府軍に随行して和解を望んでいるといえども、敵である赤禰をどこまで信頼できるのかわからない。その赤禰とともに入国する近藤の身は保証できないのだ。
だが、斉藤は「それもあるが」と口を開く。
「その赤禰が和解を望んでいたとしても…長州にそれが響くかどうかはわからない。一度は国を捨てて出ていった男が幕府軍とともに現れ、長州に信頼されるか…」
「…」
確信が持てない様子の斉藤を見て、総司は一層不安に駆られる。足先から身体が冷たくなるような感覚を覚えた。
(長州に行きたい…)
早飛脚がとどいたのは数日前。もしかしたら状況が変わってすでに潜入へと動いているかもしれない。敵だらけの場所へ、敵かもしれない男とともに。
すると小さく震える指先にふっと体温を感じた。
「斉…藤さん…」
「落ち着け。近藤局長の傍には山崎がいる、腕の立つ尾形も一緒なら問題ないだろう」
「…山崎さんと尾形さんのことは信頼しています。壬生以来の古参隊士ですから…二人に問題があるわけじゃないんです。ただ…」
こんな状況で傍に居られないなら、近藤の為に江戸から京にきた意味がない。頼りになる仲間がいると言っても目の前で守れないなら存在意義がない。
(こんなにも張り裂けそうな思いを抱えるくらいなら…)
「…こんなことなら、無理やりにでも一緒に行けばよかった…!」
やり切れない思いにとらわれて吐き出す。すると触れていた斉藤の指先が強く総司の手の甲を握った。
「斉藤さん…」
「信じられないのか?」
「…え?」
「近藤局長のことを、信じられないのかと聞いている。信じたからこそ送り出したんじゃなかったのか?」
『この戦に絶対に勝利して帰る。だから…俺を信じてくれないか?』
曇りのないまっすぐな瞳に見つめられて、信じることこそが近藤が望んでいることだと悟った。だから無事に帰ることを約束して送り出したのだ。
見送ったあの日の晴れ晴れとした近藤が目に焼き付いている。周囲の心配をよそに戦場へ向かう近藤はとても嬉しそうだった。そんな近藤ならきっと無事に戻ってくるはずだ…と、あの日、覚悟を決めたのだ。
「…そう、ですね…。斉藤さんに言われなくても、そう思えないといけないのに」
斉藤の言う通りだ。この場に踏みとどまることしかできないのなら、せめて近藤の無事を願い信じるしかない。
総司は深く息を吸い込んで、吐いた。曇天の空にもいつか太陽の光が差し込むように、きっと良い知らせがやってくる。
「もう大丈夫です」
「…そうか」
「なので、離してください」
総司の右手は未だに斉藤の左手に繋がれたままだ。
「隊士に見られたら誤解されます」
「…誤解されても構わない」
「斉藤さんはそうかもしれないですけど…!」
「沖田先生!斉藤先生!」
二人の間に、総司の組下である島田の声が響く。総司はとっさに斉藤から右手を取り上げた。
大柄の島田がこちらに小走りでやってきた。
「し…島田さん」
「帰営の準備が整いました!」
「…わかりました。戻りましょう」
「はっ!」
島田は気が付かなかったのか、何事もなく背中を向けて去っていく。その島田の指示で一番隊、三番隊の隊士たちがぞろぞろと歩き出した。
「斉藤さん…」
「遠慮はしないと言っただろう。少しでも隙を見せるな」
「隙って…私たちは仲間でしょう?」
総司の疑問に、斉藤は苦笑した。
「…ああ、そうだな」
曖昧な返答を残して斉藤は先に歩いて行ってしまう。
一つ、解消したはずなのに、また一つ悩みが増える。ここのところ、斉藤が考えていることがよくわからない。
そのせいで
「はあ…」
溜息の数は変わらなかった。




424


十二月初旬、廣島。
「冷えますな」
晴れ間のない曇天の空を見上げながら、近藤が先頭を歩く赤禰に声を掛けた。
「ええ。ですが…私には懐かしい匂いがしてくるようです」
「そうですか。それは良い」
顔を隠すため目深にかぶった傘から覗く赤禰の表情は緊張していながらも、しかし明るかった。
永井と近藤をはじめとした新撰組隊士たちは赤禰の先導で秘密裏に岩国に潜入するために街道沿いを歩いていた。入国後は赤禰が伝手を得た者が案内をしてくれることになっている。
「赤禰殿は島のご出身だとか」
「ええ…この穏やかな海に浮かぶ柱島という場所で生まれました。海が何処までも青く、美しい場所です」
「ほう…」
目を細めて故郷を思う赤禰の横顔に、邪なものは何もない。最初は長州藩士としての彼の考えに疑いを持っていたが、今では同志のような気持ちで世間話ができるほどに二人の距離は近づいていた。
「赤禰殿」
「はい」
永井に呼ばれて赤禰は近藤の傍を離れた。するとその頃合いを見計らったように武田観柳斎が近藤の隣で歩き始める。
「あの男は本当に信用できるのでしょうか」
彼は未だに怪訝な顔をしている。
「信用できる…と断言するには難しいが、信用に足る人間だとは思っているよ」
「しかし…岩国に入国したのちに案内役を務める男の名は伏せられたまま。あの男が画策して我々を罠に嵌めようとしているとも考えられます」
眉を顰め赤禰を警戒する武田に対して、近藤は苦笑した。
「だとしたら、もう彼の罠に嵌っているということになるなあ」
「局長!」
「武田君、きっと大丈夫さ。それに、赤禰殿が長州のその協力者の名前を明かせないのは仕方ない。その者にとっては裏切り行為になるのだから、赤禰殿がその男を名を伏せ守るのは当然じゃないか」
「それは…そうですが…」
「それよりも先のことを考えよう。入国を果たしたのちのことが重要なのだから」
「…失礼いたしました」
伏し目がちになった武田は近藤の傍を離れていく。納得できていない様子ではあったが、彼は入隊当初から近藤の意見には何かと賛同してくれているので問題はないだろう。寡黙な尾形も粛々と近藤に従い、山崎は隊士として同行せず、町人に紛れて入国を果たすことになっている。
(伊東参謀は…)
近藤はちらりと後方を歩く伊東に目をやった。いつものことながら優美な笑顔を浮かべ、永井らと談笑を交わしている。赤禰に対しても当初は警戒していたが、今では胸襟を開き微笑みを立たさず接している…ように、近藤には見える。
(やはり、歳の気の回しすぎだな)
近藤は先日届いた土方からの手紙の内容を反芻した。
まずは赤禰という人物について土方個人としては信用できない。しかし幕府が同行を許しているのだから利用するべきだろうということ。そしてその赤禰に伊東が秘密裏に接触するようなことがあれば、真っ先に山崎に伝えること…とあった。
まるで山崎以外は敵だというような内容に近藤は苦笑するしかなかったが、遠い京で心配しているのだということはよく伝わった。
(歳や総司…みんなを喜ばせるためにも、ここで成果を上げねばな…)
近藤は「よし」とつぶやくと、さらに力強く歩き始めた。

そのうち、日が暮れて夜になった。冬の夜は早くにやってきてしまう。
「入国は明日にしよう」
永井の提案でそのように決まり、国境の宿をまるまる貸し切った。目と鼻と先に長州がある…その期待と興奮に近藤の胸が高鳴っていた。
「近藤先生」
荷物を下ろすと、伊東が声をかけてきた。
「宿の女中からこの近くで美味い穴子が食べられる店を聞きました。鰻は都でも食べられますが、穴子はなかなか機会がありません。ご一緒にいかがですか」
「穴子か、いいな」
丁度、腹が減っていたのもあってごくりと喉が鳴る。伊東は微笑んで続けた。
「赤禰殿も同行されます。それから尾形君も一緒に。武田組長はこのまま宿に残るそうです」
「そうか」
武田はおそらく赤禰をいまだに快く思っていないのだろう。元々の疑り深い性格それも仕方ないと思いつつ、近藤は刀を帯びて伊東とともに宿の外に出た。外には赤禰と尾形がいた。
「お待たせした。行きましょうか」
「私まで宜しいのですか?」
赤禰は伺うように近藤を見たが、「勿論です」と即答した。彼の為人はこの数日でわかってきたつもりだ、こういう場面で何かを仕掛けるような卑怯な画策をすることはないだろうと確信していた。
(それもただの勘…なのだが)
根拠のない自信…土方がいれば怒られてしまいそうだ。
近藤は尾形の持つ提灯の明かりを頼りに歩き始める。
冬の夜は空気が冷たくて星がいつもよりも眩く見えた。遠くで聞こえる小波の音が響き、それだけで心が穏やかになるようだ。
少し歩くと目当ての店が見えた。赤い提灯と賑わう客の声、そして美味そうな匂いが漂っていた。
「良い店のようだ」
匂いだけでおいしそうだ…近藤はそう思いつつ中に入った。店の女中が四人を店の奥に通し伊東が名物の穴子をいくつか注文した。
「それにしても、明日が待ち遠しいですね」
料理を待つ間、伊東が切り出した。
「待ち遠しい?」
「ええ。これまで長州への入国を待ち侘びていましたから。それに長州は風光明媚で美しい土地だと伺っています。今回の件がなくともいつか訪れてみたいと思っていた国でした」
伊東のいつも通りの賛美に対して、赤禰の反応は鈍い。彼は困ったように眉を顰めた。
「…私にはそうは思えません。ここ数日、廣島に滞在し入国を果たそうと接触してきましたが…ほとんどの知人には良い顔をされませんでした。どうにか伝手を得たものの…正直に申し上げれば、足を踏み入れるのは不安です」
「裏切られるかもしれない、と?」
近藤があえてストレートに尋ねると「はい」と赤禰は素直な返答を口にした。
「…あなたを前にしてこんな話をするのは何ですが…八月十八日の政変、そして池田屋、蛤御門を経て…我々は優秀な人材を失いました。彼らの過激すぎる挙動には振り回されましたが、それでも藩を動かす力でした。…吉田稔麿は覚えていますか?」
「もちろんです」
近藤は即答した。
池田屋の際に、どうにか逃げ出し長州藩邸に助けを求めたものの受け入れられずその場で切腹を果たした男だ。土方や総司とは紆余曲折関りがあったようだが、その潔い最期には感銘したものだ
「彼は同じ塾生で…一番の優秀な男でした。その考え方は独特でしたが…人を引き寄せ率いる力があった。彼の革命が為っていればこの国は変わっていたでしょう」
「ですが、それは…!」
あの時の吉田は「京に火を放ち混乱に乗じて御上を長州へお連れする」という大胆かつ常識外れの策を企てていた。それを阻止するために新撰組は動いたのだ。
カッと熱くなりかけた近藤を、「局長」と伊東が制する。赤禰は続けた。
「わかっています。過激すぎる考えだと…ただ私は彼らの国の思う気持ちは、あなた方幕府側と変わらないのだということが言いたいのです。佐幕、倒幕…二つに分かれていたとしても私たちのこの国を思う気持ちが重なれば、きっとこの国は盤石になる。異国に狙われている今、幕府だ藩だと争っている場合ではない」
「その通りです」
赤禰の言葉を肯定したのは伊東だった。彼は相変わらず微笑んでいた。
「内戦が起きれば異国の思う壺。幕府と討幕派が戦力を削ぎあったところで、異国の餌食になってしまうだけでしょう」
「はい!ですから、私は仲間に和解を進めたいのです。たとえ相いれないとしても停滞し、後退しようとしているこの国を前へ進めることはできる…!」
「素晴らしい考えです」
穏やかな表情で伊東は赤禰の考えを認め、肯定し、受け入れる。赤禰がまるで積年の親友に出会ったかのように目を輝かせ、伊東に対して信頼を寄せているのが見て取れた。
(それは伊東参謀の人柄ゆえだろう…)
近藤はそう思ったが、しかしそれを目の前にしていると違和感を覚えざるを得ない。
(これまで敵・味方であったものがここまであっさりと互いを受け入れられるのだろうか…)
赤禰に池田屋のことを口にされカッと熱くなった近藤に対して、伊東は二人の仲介をつとめて穏便にまとめた。それは伊東が池田屋に直接関わっておらず、さらに勤王の考えを持ち、近藤よりも長州に近い思想があるからこそそういう行動が取れるのだろうが、それでも彼は『新撰組の参謀』であるはずなのに。
(いや、伊東参謀はわざと赤禰殿に乗ったのかもしれない)
表向きは赤禰に同調することで信頼を得ようとしたのか。それとも
(…本心か?)
本当は伊東は幕府側の人間ではなく、赤禰のように幕府を批判する立場に立ちたかったのだろうか。
そこまで考え至り、近藤は初めて実感した。
土方が散々口にして、総司が距離を置いて、そして山崎が警戒していた、伊東の得体の知れない姿を。



425


食事を終えた四人が暖簾をくぐり外に出た時には、夜は深まりぐっと冷えていた。
「美味でしたな」
近藤の言葉に皆が頷いた。京ではなかなか口にすることができない味に舌鼓を打ち、身も心も満足していた。
「さあ、宿に戻りましょう。明日の出立は早いのですから」
伊東の号令で四人は宿に向けて歩き出す。穴子を食しながら議論を交わした伊東と赤禰はすっかり距離を縮めていて、未だに議論を深めていた。
「…よろしいのですか?」
小声で近藤に尋ねてきたのは、それまで寡黙なまま無駄口を叩くことなく同行していた尾形だ。古参隊士であり長く近藤や土方に従う彼からすれば、伊東が討幕派の赤禰と親しくなることに疑問を感じたのだろう。
「伊東参謀には…考えがあるのだろう」
彼の問いかけに対して近藤には曖昧な返答しかできなかった。尾形の憂う危惧と同じものを抱かないわけではなかったが、それでも伊東がここで近藤に反旗を翻し赤禰ら討幕派に付く…というような浅はかな行動をとるとは思えなかったのだ。それにそんなことはしない…と信じていたかった。
「…わかりました。妙な詮索をしてしまい申し訳ございません」
多くは尋ねず納得した尾形に、近藤は安心した。
そのまま尾形とともに帰路を歩く。星が眩いほどに輝く空を見上げながら、京にいる同志たちはどうしているだろうと思いを馳せた。
(歳のことだから抜かりなくやっているだろうが…)
先日土方から送られてきた手紙には日々隊務を熟し、問題なく過ごしているとの報告があった。総司の縁談も順調で、あとは近藤が戻ってきた後に正式に話を進めたいともあり、心配することは何もないと念押ししてあった。たとえ何かあったとしても土方は何も言わないだろうとはわかっていながらも、その報告には安堵していた。
近藤は深く息を吐いた。
京を立って数日。怠惰な幕府軍人たちに閉口しつつ、ようやく明日長州へ潜入する機会を得た。危険だとは思うがそれでも高揚する気持ちの方が大きい。ようやく何かを為すことができる期待と京で待つ土方や総司に良い報告ができるだろうという喜びを感じていた。
近藤は懐に忍ばせている御守りに触れた。出立前に総司が贈ってくれたもので、それに触れているだけで(大丈夫だ)と思うことができた。
きっと何事もなく無事に終えることができるはずだ。
その時だった。
騒がしい足音が聞こえた途端、突然暗闇のなかに黒い影が浮かんだ。
彼らは頭まで黒い頭巾をかぶり、闇に紛れるように姿を隠していたが、敵意は剥き出しにしていたため刺客だろうとすぐに察することができた。手にしていた提灯の仄かな明りと星の瞬きのせいで、抜き身の刀身が光っているのが目につく。刺客の数はわからなかったが近藤は自分たちよりも多いだろうと直感した。
「何者だッ!」
尾形が咄嗟に近藤を庇うように前に立ち、怒号を上げる。刺客たちは何も答えなかったが、そのなかの一人が前に出た。
「新撰組の近藤勇とお見受けする」
暗く、重く、禍々しい声だ。しかし近藤はあえて穏やかに答えた。
「…人間違いであろう。拙者は近藤内蔵助である」
それは長州行きから一貫して通してきた偽名だったが、それを口にしたところで納得してもらえないのはわかっていた。
「近藤内蔵助でも構わん。…死んでもらおう」
刀の鍔が暗闇の彼方此方で鳴る。
刺客に囲まれたというのに、なぜか近藤は落ち着いていた。長州の仇の象徴である新撰組局長が敵地にいるのだからこんなことはある。むしろいままで無事平穏に過ごせたことの方が不思議なくらいだ。
敵方が切っ先を向けたので近藤や伊東、尾形も刀を抜いたが、しかし赤禰だけは硬直して動かなかった。
彼の持つ提灯が、仄かな灯りが震えていた。
(赤禰殿…?)
彼はまるで信じられないものを見たように、瞳孔は開ききったまま前に出た男を見ていた。
「お…お前…は…」
「…赤禰。幕軍に捕らえられたお前を裏切ったのだと罵る者は多い。長州に入国したところで…お前の言葉に耳を貸すものはいないだろう」
「ま、槇村…!」
赤禰がそう叫んだ途端、複数の影たちは近藤たちへと襲い掛かってきた――。


――思った以上に、早かった。
伊東はそう思った。
いつかどこかでこうなることがわかっていた気がする。幕府軍に捕らえられた赤禰が幕府に同行して長州に戻る…そんな非現実的なことができるわけがなく、さらに彼が橋渡しという役目を全うできるような状況ではないとわかっていた。裏切り者の烙印を押された彼に、できることなど何もない。
けれど、
(こんなに早く…事が起きるとは)
それは予想外だった、と思いながら、伊東は手にしている刀を振り落とし何人目かわからない刺客を切り伏せた。
提灯の明かりは落とされ頼りになるのは月と星の明かりだけだ。幸いにも冬の空気が澄み切っているので空の明かりは眩いが、それでも暗闇のなかでは動きづらい。
「おおおおおおおおおおぉォォォ!」
雄たけびを上げて襲い掛かってくる刺客の刀を、横に一閃する。薙ぎ払われ身体のバランスを失った男はその場に倒れる。それを峰打ちで仕留めると意識を失いそのまま倒れた。
数こそ多いが、そのなかに北辰一刀流と神道無念流を修めた伊東に勝る剣客と呼べる使い手はほとんどいない。近藤や尾形も複数人で襲われているものの、彼らを斬ることができるほどの剣客ではないようだ。
(…さて)
伊東は周囲に目を向けた。刺客は数が少なくなってきたようで、標的を新撰組の局長である近藤に絞り始めた。しかしすでに赤禰が「槇村」と呼んだ男の姿はない。斬られたのか状況の不利を見て逃げ出したのか…それはわからない。
(赤禰の様子を見る限り、あの槇村という男が協力者だったのだろう)
男の正体を知った途端、赤禰は絶望に震えていた。祖国である長州を助けたいと奔走する彼に救いの手を差し伸べた相手にあっさり裏切られたのだから当然だろう。
だが、その赤禰の姿は見当たらない。伊東は彼が死んだとは思わなかった。
(おそらくは逃げ出したのだろう)
何故ならば彼がここで槇村に斬られても、また近藤に加勢したとしても待っているのは同じ結末だからだ。近藤が偽名を使わずに新撰組の『近藤勇』と名乗ったのは赤禰に対してだけなのに、槇村は近藤の正体を見破っていた。それはもちろん赤禰以外の誰かが近藤の顔を知っていて告げ口したのだとも考えられるが、赤禰自身が槇村に伝えたとと受け取れる。その可能性が捨てきれない以上、赤禰は己の恩赦を受けるために永井に随行し、挙句裏切ったのだとも考えられるのだ。
槇村に斬られて死ぬか、それとも幕府に今度こそ処刑されるか…進退窮まった赤禰が選ぶのは、第三の選択肢である「逃げ出す」ということだろう。
そこまで考えが至って、伊東は息を吐いた。疲労感がどっと押し寄せてきて
「…つまらない結末だったな…」
ポツリとつぶやいた言葉に己で苦笑した。赤禰に何を期待していたというのか…。
(いや期待というほどではない…)
伊東は近藤へ目を向けた。すでに刺客の数は減っているが加勢しなければならない。万が一、彼が殺されてしまっては警護役として動向を名乗り出た自分の過失になるのだ。
そう思って踏み出した時、
「く…ゥぅ…」
と小さなうめき声が聞こえた。先ほど峰打ちで斬り伏せた男が弱弱しくも身体を起こそうとしていたのだ。
伊東はその男に近づいた。とどめを刺す…わけではない。男の首根っこを掴み引っ張り上げた。
「こ…殺すなら、殺せぇ…!」
強情を張る男のギラギラとした目が、伊東を睨みつけていた。ただの雇われた野良の刺客ではない…そう直感した伊東はその男に向かって微笑みかけた。
「…助けてやろう。この場から逃げ、国に帰れ」
「な…なにぃ…!」
「そのかわり一つだけ、約束しろ」
「ふ、ふん…交換条件じゃ…と…」
伊東はさらに強く男を引っ張り上げた。頭巾のせいで首が締まったようで「わかった!」と男は何度もうなずいた。
「…なんじゃあ…!」
「難しいことではない。ただ…私の顔を、覚えておけ」
「は…はぁ?」
「私は新撰組参謀、伊東甲子太郎だ。その目にしっかり…刻みつけておけ」
焼きつけさせるように鼻の先が触れるほどに男に近づき、そのあとに手を放した。男はしばし放心して伊東の顔を見ていたが、くるりと背を向けて逃げていった。
その行為に何の意味があるのかは、伊東自身にもわからない。ただ赤禰という長州をつなぐ存在がいなくなった今、いつか何かのきっかけになるのではないか…そんなことを考えたのだ。
伊東は再び近藤の方へ踏み出した。すると、状況は変わり姿を晦ましていた山崎の姿があった。




426


――あかん。
そう思ったときには、近藤たちは刺客に囲まれていた。
山崎は近藤たちとは別行動を取り、監察の腕を生かし町人の姿をして周囲の探索に当たっていた。協力者や伝手はここには居らず、さらに京よりも危険が多い。その分、念入りに警戒をしていたつもりだが土地勘のない山崎よりも刺客たちが一枚上手だったようだ。
しかし、山崎が「あかん」と思った理由は刺客に襲われたことではない。天然理心流道場主である近藤や、神道無念流と北辰一刀流を修めた伊東、さらに古参隊士で組長たちに劣らない使い手である尾形がいるのだからそうそう簡単にはやられまいと思っていた。
それよりも問題なのは、赤禰武人の方だ。
彼は斬りあいが始まると同時にその場を立ち去った。幕府側として近藤に応戦することも、そして裏切った槇村に加勢することもできずに八方塞になり、逃げだすしかなかったのだろう。その心情は理解できるが、その姿を同情心をもって見送ることなどできなかった。
山崎は赤禰を追いかけ、追い越し、その前に立ちふさがるように姿を現した。人ひとり通り抜けられるかどうかの細道だ。山崎の顔を知っていた赤禰はぎょっとして足を止めた。
「き…君は…」
すっかり青ざめた赤禰は「そこを開けてくれ」と口にした。逃げ出した手前、一刻も早くここから去りたいのだろう。
そんな赤禰に対して山崎は淡々と返した。
「仲間を見捨てて、逃げるつもりですか」
「…初めから、仲間などではない…」
「では、敵だったと?初めからこういうつもりで?悪いお人や」
「……」
山崎が責めると赤禰は言葉に詰まった。その様子を見て
(正直な男や)
と思った。「そうだ」と「最初から裏切るつもりだった」と悪人ぶって言えばいいものの、そうとは言い切れない。彼は近藤とともに本気で幕府と長州を繋ぐつもりでいた…少なくとも槇村に襲われるまではその決意は固かったはずだ。
「私を…斬るか?」
赤禰は刀に手を伸ばした。返答によっては抜く…と言わんばかりの殺気を纏わせて。
しかし山崎は首を横に振った。
「そうしたいのは山々やけど…残念ながら、いま長い物をもってへん」
と両手を広げておどけて見せた。町人に紛れるためには当然刀を持ち歩くことはできない。そのため武器になるようなものは何もないのだ。
赤禰は「そうか」と山崎を斬らずに済んだことを安堵した様子で、伸ばしていた手をもとに収めた。過激派の中心人物と言われながらも、当の本人は諍いを嫌う理性的な人物なのだろう。
(だからこそ…残念や)
山崎は心からそう思った。
「これから…何処へ行かれるんで?」
「長州に行く。嫌われ者の私だが…故郷の人々は受け入れてくれるだろう。そこから再起を図る」
「再起…」
「ああ」
山崎にはその赤禰の言葉はどこか虚しく聞こえた。長州にも、幕府にも居場所がなく追われる立場となった彼に、再起などどこにもないというのに。そしてそのことを敏い赤禰は理解しているはずなのに。
しかし赤禰はそれ以上は語らずに軽く頭を下げた。
「…近藤殿には、申し訳ないと伝えてくれ」
それだけ口にすると、赤禰は山崎の傍をすり抜けて足早に去っていく。
もちろん追いかけることはできた。刀がなくとも山崎の得意は棒術なのでそこらの箒など拝借すれば捕らえることは可能だっただろう。しかしそうすることはできなかった。
彼が語る再起…その姿を見てみたかったのかもしれない。

山崎が提灯を持ち、近藤たちの元へ戻った時には粗方事態は収まっていた。
「局長」
「…ああ、君も来てくれたのか。どうにか落ち着いたよ。浅手で仕留めたから死人は出ていないとは思うが、この暗闇だから詳細はわからない」
近藤はそう言って苦笑したが、数人いた刺客たちの姿は既に無く彼にとっては雑魚ばかりだったということだろう。難なくことを修めてしまったのは流石ともいえた。
「お怪我はありまへんか?」
「私は問題ない。だが…尾形君が手首を痛めてしまったようだ」
「え?」
「面目ない」
山崎は傍に居た尾形の手首をサッと取った。医学方として松本のもとで学んで日は浅いが、怪我の見立てくらいはできる。尾形の手首は熱を持っていて軽く捻ってしまったのだろうと伺えた。
「おそらく手当をすれば二、三日で元のように使えるかと思います」
「そうか、良かったな尾形君」
「はい。ありがとうございます」
「やはり幕府御典医の弟子を連れてきて良かったなあ」
襲撃という緊迫した場面の後だというのに近藤は茶化して笑ったのでつられて山崎と尾形も緊張を解くことができた。
そうしていると少し離れた場所から伊東がやってきた。
「近藤局長、お怪我は…?」
「私たちは大事ない。尾形君が少し怪我をしたくらいだ。…伊東参謀の方は?」
「問題ありません。おそらく雇われた刺客ばかりだったのでしょう、こちらの腕前を悟るとあっさりと逃げていきました。…それよりも…」
伊東はゆっくりと周囲を見渡した。月と星の明かりしかない闇のなかだが、そこに赤禰の姿がないことは誰にでもわかる。
「…どうやら逃げたようだ」
近藤は先ほどまでの明るい表情を落とし、目を伏せて続けた。敢えて目を背けていた事実だった。
「赤禰殿は一体どういうつもりなのだろうか…先ほどの刺客の頭領格の男とは顔見知りであったようだ。男の顔を見た途端、まるで絶望に突き落とされたような表情をしていた…男に裏切られたのか…?それともむしろ最初からこうなることを見越して…?」
「局長、落ち着いてください」
困惑する近藤を止めたのは伊東だった。伊東は近藤の肩に手をかけて宥める。
「赤禰殿は敵前逃亡をするような男ではありません。きっと彼には何か考えがあってこの場を去ったのでしょう。きっと我々との友誼を無下にするようなことはない」
「…そうだろうか」
「ええ。信じましょう」
気持ちの良い言葉だ。傍で聞いている山崎すらそう思った。
まるで穏やかな日和のなか縁側で微睡むような心地よさがある。彼の穏やかな言葉を信じて、身も心も委ねてしまえば楽になれるだろう。誰が思い描く理想の姿なのだから。
(でもそれは嘘や…)
伊東は近藤が望む言葉を口にしただけで、それは彼の本心でも真実でもない。赤禰がいなくなった時点ですでに状況は一変しているのだから。それがわからない彼ではないだろう。
「さあ、宿に戻りましょう。尾形君は怪我をしているのでしたね、早く手当てをしなければ」
「…そう、そうだな…」
「申し訳ありません」
近藤は重い足をひきずるように帰路に就く。尾形もそれを追って歩き出し、伊東も続く…かと思われた。
「…なにか?」
伊東は立ち止まったまま山崎をじっと見ていた。そしてゆったりと微笑むと
「赤禰殿は何か言っていましたか?」
「…」
彼の質問に返答するわけにはいかなかった。おそらく伊東は山崎と同じことを考えている。だからこそ山崎が赤禰の行方を知っていると思ったのだろう。
何も答えない山崎に対して、伊東は少し息を吐いた。
「君は本当に…土方副長のような目をしている」
と言い、背中を向けて歩き出した。
山崎はしばらくその場にとどまった。三人が宿へ向かって歩いていく姿が見えなくなると
「はあ…」
と大きなため息をついて、頭を掻いた。


同じ月の夜。
「…っ!」
総司は急に息苦しくなって目を覚ました。もう真冬も近いというのに額から流れた汗は首筋にまで伝わっていた。身体に不調があるわけではない。
(悪夢を見たのかな…)
だが、その夢はもう覚えていない。
幸いにも寝所を同じくする一番隊の隊士たちは何も気が付かなかったようで、鼾を立てて良く眠っている。「体の具合が悪い」と山野に騒がれては面倒なので、総司はこっそりと部屋を出て汗を流すために井戸に向かった。
「…ふぅ…」
夜風の冷たさに晒されて身体が冷える。しかし今の総司には涼しいと感じられるほど、身体は火照っていたようだ。
総司がちらりと土方のいる部屋を見ると、夜も更けているというのに仄かな灯りがともっていた。土方はきっとあの部屋で何かと戦っている。
孤独に、苛まれながら。最善の努力を重ねている。
その場所に寄り添うことすらかなわない自分の無力さがもどかしい。
いつになく輝く星々を見上げる。そこに答えはないけれど、同じ空を近藤は見ているはずだ。手を合わせて目を閉じた。
どうか、近藤が無事でいますように。
どうか、土方の想いが近藤を守りますように。
そう願った。




427


翌日の早朝。
永井へ報告を終えた近藤は伊東たちの元に戻ってきた。未だに周囲の探索を続ける山崎はいない。
近藤は落胆した様子で
「残念な結果になってしまった…」
と告げた。
永井は近藤から不逞浪士と思われる男たちに急襲されたこと、そして赤禰が姿を消したことを聞くと、「油断したな」と一言咎めるだけであとは何も言わなかったらしい。
「いっそ烈火のごとく怒鳴られたほうが気が済むが…永井様は我々を許してくださった」
「それだけ局長への信頼が厚いということでしょう!それに赤禰はどこか信用できない男でしたから、もともと裏切るつもりだったのかもしれません。仲間に局長を襲わせるなど卑劣な真似を!」
腰巾着である武田はそう励ますが、近藤は困った顔で頷くだけで伊東はなにも言わなかった。
(永井様はおそらく予期していたのだろう)
伊東はそう思った。
永井は心の底から赤禰を信頼していたわけではなく、こうなることを可能性の一つとして見越していたのだろう。もしかしたら裏切って逃走したというのも表向きのことで赤禰とのパイプは未だに健在であり、彼は幕府の間者として働くのかもしれない。
様々な考えと可能性が伊東の脳裏を過るが、
(どんな思惑があるとしても…我々の考えが及ぶところではないだろう)
と思い至った。永井が何を考えていたのかはわからないが、それをたかだか新撰組程度に漏らすことはない。
これ以上の思考は無駄だと判断し伊東は手にしていた扇を閉じた。
「近藤局長、この後はどうなりますか?」
「…これから廣島の国泰寺に戻る。おそらく年が明けるまでには京に戻ることになるだろう。幕府軍の士気もすっかり下がり、国泰寺での会談も上手くいっていない。いったん、京へ戻り状況を立て直すことになりそうだ。…何の成果も挙げられずに戻るのは忍びないが…」
「何をおっしゃいます!隊士たちは近藤局長の無事のご帰還を喜ぶでしょう!」
相変わらず盲目的に近藤に尽くす武田の仰々しい励ましは鼻についたが、伊東はひとまず聞き流して「でしたら」と話を替えた。
「せめて山崎君を残すのはいかがでしょうか?」
「残す…?」
「彼の監察の腕を生かして引き続き探索を行ってもらうのです。これまで長州へ潜入するために準備を重ねていたはず…彼だけは残して引き続き状況を報告してもらうのが宜しいかと思います」
「それは妙案だが…」
近藤はちらりと周囲に目を向けた。この場に山崎がいないことを気にしているようだったので、伊東は言葉を重ねた。
「近藤局長、お許しを得たとはいえ我々は永井様の期待にお応えすることができなかったのです。このまま引き下がるわけにはいかない…そうは思いませんか?」
伊東の言葉に、近藤は「うむ」と揺り動かされたようだ。もともと浪人でしかない新撰組を取り立てて同行させてくれた永井に対して近藤は深く恩を感じている。その永井のための案だと言われれば拒むことはない。
「…わかった。山崎君には私から話をしてみよう」
伊東の予想通り近藤は提案を受け入れた。
その後は宿を出て、幕府軍の拠点である国泰寺へ戻ることとなった。長州への潜入に失敗した…その帰路の空気は当然重い。近藤は永井に呼ばれすぐ傍で待機しているようだが相変わらず表情は暗かった。
後方を歩く伊東はふっと宿の傍にあった廃屋に目をやった。すると乞食のような装いをした男と目が合った。
「…尾形君、小用を済ませてくる。すぐに追いつくから先に行ってくれ」
「? はい」
伊東は尾形に告げると、列を離れた。そして頃合いを見計らってその廃屋の陰に入る。すると乞食もやってきて、その頭巾を取った。
「…昨日はどうも、伊東甲子太郎先生…」
昨日、伊東が逃がした男に違いなかった。月明りの下でしか男の顔を見ていないが、陰険でありながら剛毅な眼差しは印象に残っていた。
「無事に逃げ果せたようで何よりだ」
「おかげさんで…槇村の旦那に雇われた男たちは皆、無事さ」
「やはり雇われただけの刺客か」
「使い捨ての駒さぁ」
「使い捨てというわりには君は気骨のある顔をしているようだがね。…私を殺しに来たのかな?」
伊東が微笑んで尋ねると、男は「はん!」と鼻で笑った。
「俺たちも騙されておった。金で請け負った仕事だったが、まさか相手が新撰組だなんてあの時までは知らなかったんじゃ。相手が新撰組だと知っておったらこんな割に合わん仕事など受けん」
「どんな仕事だった?」
「さあ…詳しくは、言えぬ」
男は言葉を濁した。男の言葉が正しければ槇村はもともと新撰組ではなく赤禰を狙ったということになるが…既に仕事を終えた後だというのに口が堅い。この男のもともとの義理堅さなのだろう。伊東には思った以上に有用な人物だと思った。
伊東は懐から財布を取り出して、その中にあるありったけの金を男に渡した。
「…何か頼みたい仕事でも?」
驚いた男は金を受け取りつつ尋ねる。しかし伊東は「いいや」とゆっくりと首を横に振った。
「今はない」
「…今は…?」
「いずれ何かを頼むときの投資だ」
「…」
男に渡した金額は五両ほど。伊東にとってもはした金とは言えなかったが、男にとっては大金に違いない。その金を根拠もなく渡す…もう二度と会うことがないかもしれないのに、託す。
「は…ははは…」
暫く呆けていた男が笑い始めた。そして金を懐に仕舞い、「承知した」と答えると再び頭巾を被って伊東の前から去っていった。
名前も素性も知らない男。けれど
(いつか…私を助けるだろう)
そんな確信があった。その根拠は伊東らしくない「勘」としか言いようがないが、それも悪くないだろう。
そんな風に自分を笑いながら伊東が踵を返し、廃屋から離れて合流しようと足を向けた…時だった。
「…伊東…先生?」
すっかり青ざめた表情で伊東を見ている男がいた。隊士たちからは近藤の腰巾着と揶揄される武田だ。会話を聞かれるほどの距離ではなかったが、彼は伊東と男とのやり取りを見ていたのだろう。
伊東は表情を変えずに、武田のもとに歩いた。
「や、宿に忘れ物をしましてな…それで…」
言い訳のように話す武田を遮って、彼の耳元で囁いた。
「黙っていてくれますね?」
「……っ、それは…参謀の、お考えにも…よります…」
言葉を絞り出しながら、武田は伊東を睨む。
近藤への忠誠が強いと思われる武田だが伊東から見ればそれは彼の本質ではなく、彼は力を持った存在に弱いだけだ。それを重々に知っていた伊東には焦りはなかった。
「…いつか来る日に、君の身を保証しましょう」
「え…っ?」
「一つ忠告しますが…私とあなたではどちらが近藤先生に信頼されているか、考えてください」
「…そ…それは…」
「余計なことはしないほうが良い」
「…」
一組長と参謀…その立場では武田が弱いのは明らかだ。武田は言葉に詰まり、しばし逡巡すると
「わ…わかりました…」
と答えた。
その返答に伊東は微笑んで、まるで何事もなかったかのように彼の傍を通り過ぎた。



一方。
「ふあぁ…」
大きな欠伸をしつつ、総司は深雪のいる近藤の別宅へと向かっていた。深雪の身辺警護が始まってから数日経ったが、相変わらず動きはない。
「昨晩は遅かったのか?」
今日は斉藤とともに当番となっている。彼の問いかけに総司は少し間をおいて「何でもないです」と答えた。すると斉藤は「ふん」と鼻で笑った。
「何もそこまで警戒しなくてもいいだろう」
「…警戒しろって言ったのは斉藤さんじゃないですか」
「警戒すべき時と、警戒すべきではない時がある」
「じゃあ今は警戒しなくてもいい時なんですか?」
「さあな。それくらい自分で判断したらどうだ」
淡々としていて意地悪な返答だ。まるで彼が自分に好意なんて持っていないように見える。そうしていると近藤の別宅が見えてきたが、向かい側から一人の女性の姿も見えた。
「お加也さん!」
総司は顔を確認して手を振りつつ名前を呼んだ。すると彼女も気が付いたようで軽く頭を下げてやってきた。
「こんにちは。今日は沖田様と斉藤様でしたか」
加也はすでに警護役の組長とは顔見知りになっているようで、斉藤のことも知っていた。
「はい。これから診察ですか?」
「ええ…このところ具合が宜しくないようで、毎日伺っています」
「そんなに悪いのですか?」
総司は驚いたが、加也は「いいえ」と微笑んだ。
「お身体の方も気がかりではありますが、むしろ気鬱の方が心配です。…近藤先生はまだお戻りではないのですか?」
「…たぶん」
総司には曖昧な返答しかできずに、思わず斉藤に目をやったが彼もまた首を横に振っただけだった。加也は「そうですか」と少し考え込み
「沖田様、お願いがあるのですが…」
と切り出した。




428


深雪の診察を終えた加也は寝所から少し離れた客間で総司と斉藤に向き合った。気を利かせたみねが茶を持ってきて傍に控える。
「先ほども申し上げました通り、深雪さんのお身体の様子は芳しくありません。これ以上悪くなるようでしたら義父か良順先生が診察した方が良いかとも思いますが…わたくしはお身体よりも気鬱の方が気に掛かります」
「やはり先日の不審者の件でしょうか?」
総司が問うと、深雪は「おそらく」と頷いた。
「近藤様がお戻りになると良くなるかもしれませんが、そうであったとしても深雪さんにつきっきりというわけにはいかないでしょう。仮にそうなったとしても、近藤様のことを慮って逆に心労になってしまうかもしれません」
「それは…そうかもしれませんね…」
新撰組近藤勇の妾として深雪は気丈に振る舞っている節があり、近藤が付きっきりで傍に居たとしても追い返してしまいそうだ。加也の考えには総司も同意できた。
すると加也は両手をついて、少し視線を落として頭を下げた。
「部外者のわたくしが差し出がましいと思われるかもしれませんが…一つ、お願いがございます」
「何でしょう」
「深雪さんの妹様を…お傍に置いていただけませんでしょうか?」
「…妹…ですか?」
加也からの思わぬ申し出に総司は驚いた。深雪に妹がいるという話は原田から世間話として聞いたことがある。姉に似て美しいと評判だったが、しかしその提案をあっさりと飲むわけにはいかなかった。
「妹とは…御幸太夫のことだろうか」
斉藤は難しい顔で腕を組んだ。
近藤が深雪を身請けした直後、隊内ではやっかみも含めて「そのうち妹も身請けするのではないか」という下世話な噂が流れた。近藤が姉妹を身請けして囲う…あまりに節操のない噂だと総司は憤っていたのだが、加也からの提案はそれを現実にしてしまうものだ。
「深雪さんはお孝という名前だとおっしゃっていました。母の顔も分からず、店で生まれた姉妹でしたがそのうち別々の店に引き取られたと…」
「だったら御幸太夫で間違いない。面差しはそっくりだともっぱらの評判だ」
「へえ…」
花街のことに疎い総司の耳には入ってきていないが、斉藤が断言するのだから間違いないのだろう。加也は続けた。
「自分だけ身請けされ恵まれた生活をしているのが申し訳ないのだとおっしゃっていました。妹様のことが気がかりで…近藤様の不在や例の件も伴って深く考え込まれているようです。もちろん深雪さんは何もおっしゃっていませんが、その気鬱を一つでも晴らすことができれば、快方に向かわれるのではないでしょうか」
「それは難しい話だ」
「斉藤さん」
加也の申し出を、斉藤はあっさりと却下した。
「評判の太夫をを二人も身請けしそれが姉妹ともなれば外聞が悪い。近藤局長は新撰組の顔だ…そんなことが許されるわけがない」
「それを承知でお願い申し上げているのです。しかし近藤様にとってご自分の外聞と深雪さんのお身体…どちらが大切なのでしょうか」
「近藤局長は公私混同はされない。それは妾である深雪殿も分かっているだろう」
「ですからわたくしからお願いしているのです」
「…」
「…」
新撰組三番隊組長の斉藤を前に加也は一歩も引かずに食い下がる。その強気な眼差しはまっすぐに斉藤を見ていて、二人の視線は厳しく交じり合っている。場に少しの沈黙と緊張が走ったので、
「ま…まあまあ、二人とも…」
総司は二人の間に割って入った。
「お加也さん、お話は分かりました。どちらにしても近藤先生や土方さんでなければ話は進みません…私から土方さんにお願いしてみますから」
「…お願いいたします」
冷たい返答しかしない斉藤に対して加也はまだ何か言い足りない様子ではあったが、不承不承ながらも頭を下げた。そして顔を上げると「深雪さんの様子を見てきます」と言って部屋を出ていく。
「強情な女だ」
加也の足音がしなくなったあと、斉藤はため息と同時にそう漏らした。加也が女性らしからぬ態度なのはいつものことだが、斉藤は面食らったのだろう。
「お加也さんらしいですよ」
はは、と笑いながら総司は茶を口に含む。
「患者さんのことを大切に思っているからこそ、臆することないのでしょう。お医者様に相応しいと思います」
「ほんに、そう思いますえ」
それまで口出しをしなかったみねが総司に同意してにっこり笑っていた。
「沖田せんせの奥方にも良い方やと」
「…嫌だな、おみねさんも聞いたんですか?」
「もちろん聞いてますえ。深雪さまとも二人はお似合いの夫婦になられるとようお話します」
「あはは…」
みねはそう言って冷やかしたが、隣に座る斉藤からの痛い視線を感じて総司は「そうだ」と話を切り上げた。
「あの、おみねさんはどう思いますか?深雪さんの妹の件は…」
「へえ…加也さまにはお伝えしてへんのやけれど…時々、深雪さまはうわ言で『お孝』と呼ぶことがあります。めったにお話にはなりまへんがやっぱりお寂しいんやと…」
「そうですか…」
総司の前では気丈に振る舞っている深雪だが、気に掛かることが多いのだろう。加也だけでなく常に世話をするみねさえもそう言うのだから「無理だ」と撥ねつけるわけにはいかないだろう。
すると突然、みねは居住まいを糺し深く頭を下げた。
「沖田様、斉藤様…加也さまがおっしゃっていたこと難しいかもしれへんけど…うちからもお願いします」
「おみねさん?」
「深雪さまのお気持ちはうちにもようわかります。…うちにも、生き別れの娘がいます」
「娘…?」
総司は驚いた。みねは自分のことなど滅多に話さないのだ。
「娘のことを考えると…夜も眠れません。あの子たちを置いていったのは、ほかでもなく自分で決めたことやのに…今でも悔やんで」
目を伏せたみねの表情にはこれまで見たことのない寂しさが孕んでいた。みねが自分のことを話さないのは娘のことがあったからなのだろう。
(…そういえば以前…)
『うちも、妾として囲われていた身どすからなあ…』
みねがそう漏らしたことがあった。みねは深雪と同じような境遇で身請けされ、娘と離れ離れになってしまったのだろうか。
「…すんまへん、つまらない話をしました。加也さまを手伝ってまいります。何か御用がございましたらお申しつけくださいな」
みねはぱっと表情を変えていつものように柔和に微笑み、去っていく。
加也とみね、二人から懇願されてしまい(無碍にはできない)と総司は思うが
「安請け合いはするなよ」
と早速、斉藤に釘を刺されてしまった。
「いくら妾のためとはいえ、外聞が悪い上に易々と身請けできるような金額ではない。深雪が画策して金を強請って妹を身請けさせようとしているとも考えられる」
「流石に…それは考えすぎだと思いますけど…」
「如何様にも詮索できるということだ」
斉藤の言葉に総司は何も言い返すことができなかった。彼の言う通り、妹も評判の太夫だということなら請け出すのに莫大な金がかかるだろう。女にばかり金を使う局長を見て平隊士たちがどう思うのか…斉藤は余計な波風を立てるべきではないといいたいのだ。
(それはわかる…けど…)
「やはり許嫁から頼まれると、拒めないのか?」
「許嫁ってわけじゃありません」
「じゃあ破談にするのか?」
「…斉藤さん、妙に見合いのこと気にするんですね。お加也さんに冷たく当たっているのもそのせいですか?」
意地悪な斉藤の質問に、総司は強気で返す。斉藤が返答に迷った――時だった。
深雪の寝室がある奥の間から悲鳴が聞こえてきたのだ。
「加也さま!しっかりなさってください、加也さま―ッ!」
みねの声だ、と総司はすぐにわかった。二人は立ち上がり、声が聞こえたほうへと走る。
「どうかなさったのですか?!」
通り道だった寝室から深雪が顔を出していた。みねの尋常ではない悲鳴を聞いたのだろう、顔が青ざめている。斉藤は
「中に入っていろ!」
と咄嗟に怒鳴り、深雪の身体を部屋に押し込んだ。そして総司は一歩早く土間へと駆け込んだ。
「どうしました!」
土間ではみねが加也を抱えるようにしていた。総司は駆け寄ると加也はぐったりと目を閉じている。見た目には外傷はないようだ。
「わ、わかりません…加也さまが倒れていて…!」
「お加也さん、お加也さん!」
頬を軽く叩くと、彼女の眉が歪んだ。そしてゆっくりとその瞼を開けて総司を見た。
「おき…たさま…」
「怪我は?どこか、痛いところは…!」
「…脇腹を…少し」
彼女はゆっくりと手を脇腹に当てて摩った。脇腹を殴られ気を失っていたのだろう。
「痛みますか?松本先生か南部先生をお呼びして…」
「大事ありませぬ。それよりも、沖田様…」
加也の眼の焦点が定まる。そしてその相変わらずな瞳が総司をまっすぐ見た。
「顔を見ました」
「…顔?」
「ここに忍び込んできた男の顔です」




429


「顔を…見たって…」
「この目ではっきりと見ました。ですから、わたくしに危害を加えたのでしょう…おみねさんの足音に気が付いて逃げていきましたが」
土間で突然襲われたというのに加也は相変わらず淡々と語った。総司が思った以上に彼女の肝は据わっているようだ。
「沖田せんせ、こんな場所では何ですから、客間へと参りましょう」
心配したみねに促され総司は「そうですね」と答えた。
「お加也さん、立てますか?」
「…大事ありません…」
加也は気丈に答えたが、殴られた脇腹が痛むようで庇うようにゆっくりと立ち上がった。苦痛に顔を歪めているが、加也のことだから絶対に人を頼ったりはしないだろう。
「…失礼しますね」
「えっ?」
総司は少し強引に加也の背中と膝裏を抱えた。勇ましいと思っていた彼女は意外にも羽衣のように軽い。しかし突然のことに驚いたのか、加也は顔を真っ赤に染めた。
「お、沖田様、平気です、降ろしてください!」
「怪我をしているのですからそう暴れないでください。…大丈夫ですよ、よく壬生の子供らを抱えて遊んでいますから」
「そ、そういうことではなくて…」
先ほどまで淡々としていた加也が、パクパクと池で泳ぐ鯉のように口を動かして何か物を言いたげにしている。けれど総司がさっさと歩き出してしまったので仕方なく諦めたようだ。
後頭部で一つに結んだ黒髪がゆらゆらと揺れている。細い絹糸のような髪の毛がさらさらと靡いた。抱えている加也の身体はほとんど重さとも感じないほど軽くて、落ちたら零れてしまいそうで。
(女の人ってこんなに細いんだなあ…)
とそんなことを思った。
途中、通りかかった寝室の前で深雪が心配そうに顔を出していた。傍にはそれを守るように斉藤がいた。
「加也さま!」
「…深雪さん、大事ありませんから心配なさらないでください。…少し、気分が悪くて横になっていただけなのです。おみねさんを驚かせてしまって…」
「ほ、ほんまですか…?」
みねの悲鳴を聞けば、尋常ではない事態が起こったのだと深雪は気が付いただろう。しかし加也はそんなことをおくびにも感じさせずに
「ええ」
と微笑んで見せた。患者である深雪の心労を増やしてはならないという気遣いだろう。
「斉藤さん、私はお加也さんの話を伺いますから…深雪さんのことをよろしくお願いします」
「…ああ」
未だに家に誰かが忍び込んでいる可能性がある。斉藤は総司の意図を汲んで何も尋ねずに頷いた。

元居た客間に総司は加也を抱えて戻った。先ほどまで足元に敷いていた座布団を枕代わりにして彼女を横たえる。みねは布団を持ってくると言って部屋を出た。
「薬を飲めば平気ですから」
加也はそう言って、自身で持ってきていたという痛み止めの薬を飲んだ。気を失うほどの怪我だったというのにあまりに簡単に終わらせてしまうので、総司は
「ほかに手当とかはしなくて良いのですか?」
と尋ねると「わたくしは薬師ですよ?」と笑われた。
「おそらく骨は折れていません。二、三日もすればよくなりますから」
「…そりゃ、お加也さんがそういうのならそうでしょうけど…」
「それよりも先ほどの男の件です。男の方にしては小柄で色白で…わたくしの知る者ではありませんでした」
加也は顎に手を当て、少し考え込むようにして続けた。
「…ただ、やはり今回も一人でした。それがわたくしには不思議なのです」
「不思議…ですか?」
「僭越ながら…新撰組の皆さんはここが近藤様の別宅だということで不定浪士に狙われている。故に深雪様を襲ったのではないかとお考えですよね?」
「そうです。ここを襲うということは局長を襲うということと同じこと。ですから組長が日替わりで毎日、警備を担当しています」
通常であれば隊士を寄こさせる程度のことではあるが、局長の別宅ともなれば話は別だ。腕に覚えがある組長クラスが駐在しているのはそのためだ。
「…沖田様、反対の立場になって考えてみたらどうでしょう」
「反対…というと、敵の立場ということですか?」
「はい。近藤様の別宅を狙うのにたった一人で踏み込むでしょうか。ましてや新撰組の方々が毎日警備にいらっしゃっているというのに…あまりにも無謀だと考えます。わたくしはその不審な男は新撰組の局長を狙っているわけではなく、別の目的があるように思うのです」
「別の目的ですか…」
「例えば…深雪さんとか」
「え?」
加也の言葉に総司は驚いた。
「思えば、最初から男は深雪さんの腕を引いたのです。もしかしたら連れ去ろうとしていたのではないでしょうか?」
「…深雪さんに横恋慕をして、ということですか?」
加也は頷いた。
彼女の推測としか言えない話だったが、しかし総司にはすとんと納得ができた。
新撰組の局長を襲うことが目的なら、敵は徒党を組んで襲撃するだろう。しかしそうはせず近藤の留守を見計らうようにして別宅に忍び込み深雪に危害を加えた。新撰組に致命的なダメージを与えたいなら近藤の命を狙うはずなのに、そうはしない。
だったら加也の言う通り目的は深雪なのかもしれない。深雪も無意識にそれを感じ取っているから、恐怖に怯えているのだろうか。
(そうなると、敵は討幕派の浪士とは限らない…)
深雪は大坂の新町では有名な太夫だった。彼女が近藤に身請けされたことを苦々しく思う者は多いだろう。
加也は一息ついた。
「…差し出がましいことを申し上げてしまってすみません。顔を覚えているのはわたくしだけですから、もう一度あの男に会うことができれば話は簡単なのですが…」
「そんな危険なことをさせられません!」
総司は思わず声を張り上げた。
「いくら賢くて勇敢であったとしても、あなたはおなごです。それにその男もあなたの顔を覚えているのだから、口封じにあなたを狙うかもしれない…いくら患者さんのためとはいえ、危険な真似はやめてください!」
「……」
深雪を熱心に看病する加也のことだから、率先してその男を探しかねない。総司は危惧したのだが、加也は茫然と見ていた。
「え…あの…?」
「いえ、沖田様でもそのように声を荒げることがあるのですね」
「…は、はあ…」
加也は微笑み、総司は戸惑った。
部屋には冬の冷たい風が吹き込んだ。さらさらと揺れた髪がその風に靡き、彼女の輪郭に掛かる。
「…少し、休みます。なんだか今更…恐ろしくなってきました」
目を伏せた加也の声は弱弱しく響く。
いくら気丈な加也とはいえ、彼女も深雪と同じおなごなのだ。今まで気を張っていただけで己の状況を鑑みれば恐怖を感じるのは当然ともいえた。
「わかりました。おみねさんを呼んできますから…」
「沖田様、ここにいてくださいませんか?」
「え?」
「少しだけで…構いませんから」
強い人だと思っていた。
女としての生き方にこだわることなく、薬師として、医者として誇りを持った生き方を貫く加也は、きっと何にも動じないのだと。
けれどいま目の前に横たわる彼女は、少しだけ震えていた。まぎれもない、おなごに違いなかった。
「…わかりました」
加也を置いて去ることはできなかった。手を取ったり抱きしめたりすることはできない。ただ、傍に居ることしかできないけれど、しばらくすると彼女は安らかな寝息を立てたのだった。

加也のことをみねに任せて総司は深雪の傍に控える斉藤の元へ向かった。斉藤は寝所の前で仁王像のように腕を組んで立っていた。
「深雪さんはどうですか?」
「ああ…落ち着いて、今は眠っているようだ」
「そうですか…良かった」
加也の一件がさらなる深雪の負担になるのではないかと思っていたが、一応は落ち着いたらしい。
総司と斉藤は場所を移して、別宅の庭に出た。
「…それで、どうだったんだ?」
「お加也さんははっきりと男の顔を見たようです。家に忍び込もうとしたところでお加也さんと鉢合わせして危害を加えたようで…」
「新撰組の一番隊と三番隊の組長がいるというのに、大胆なことだな」
斉藤はふん、と鼻で笑って腕を組みなおした。
「斉藤さん…お加也さんが言っていたことですが、これは単なる討幕派の急襲ということではなく、深雪さんを狙っているのではないでしょうか」
「深雪に横恋慕した男が忍び込んだということか」
総司の疑問に、斉藤はあっさりと理解を示す。
「…知っていたんですか?」
「知っていたわけではなく、そういう推察ができるというだけだ。徒党を組んだ襲撃ではないのなら、忍び込んだ目的は局長ではない。おそらく副長も同じ考えで、外の不審者というよりは新撰組の隊士たちを調べ上げているようだ」
「隊士ですかっ?」
「局長の不在を知っているのは隊士たちだ。当然、それ以外に知る者もいるだろうが隊士たちは確実に知っているだろう。副長は可能背の高い隊士たちを洗っているはずだ」
もちろん土方は斉藤に事細かに自分の状況を話してはいないはずだから、それは斉藤の推察に違いないのだが、総司にはそこまで考えが及ばなかった。
斉藤は続けた。
「しかし具合の良くない深雪はともかくあの女に顔を見られたとなれば、男は自棄になるかもしれない。慌てて次の行動を起こすだろう」
「次の行動って…?」
「流石にそこまではわからない。ここにまたやってくるのか、深雪に危害を与えるのか、女を口封じするのか…」
「…土方さんに報告してきます」
「ああ、そのほうが良い」
総司はすぐに走り出した。
「提灯を持っていけ」
雲の合間に隠れ気味だった太陽はその姿を完全に闇の中に隠そうとしている。橙色と黒が混ざる不穏な夕暮れだ。
「いえ、走りますから」
総司は断り、また走り出した。
胸騒ぎがしていた。





430


同じ夕暮れ。
屯所にいた土方のもとへ監察の芦屋が顔を出した。
「緊急か?」
隊士に顔の知られている芦屋はほとんど日が昇っている時には屯所には現れない。その彼がここに来たということは急ぎの用件があったのだ。
無表情の芦屋は頷いた。
「局長の別宅で動きがあったようです。再び不審な男が現れたと、見張らせていた小者から報告が」
「捕らえたのか?」
「いえ…逃がしたようです」
芦屋自身が直接目撃したわけではないようなので報告は曖昧だ。深雪が倒れて以来、男が姿を見せることはなかったので絶好の機会だったはずだ。
「…今日の警備当番は?」
「沖田組長と斉藤組長です」
「何やってんだ、あいつらは…」
二人は精鋭中の精鋭だ。だから何か不測の事態が起こったのだろうとは思ったが、土方は軽く舌打ちしてしまう。
「お前はその小者から詳しい話を聞き出せ。俺は別宅に行く」
「かしこまりました」
芦屋は再び頭を下げてそのまま退出した。土方は刀を帯び、羽織を着て部屋を出る。
夕暮れと夜が混じりあった空、橙色と黒のコントラストはどこか奇妙だ。その空に不吉なものを感じながら、土方は西本願寺の屯所を出た。
門番の隊士から
「提灯をお持ちください」
と声を掛けられたが「急ぎの用だ」と断った。近藤の別宅は目と鼻の先だ、用事が終わればすぐに屯所に戻るつもりだった。
総司と斉藤が控えていながら男を捕らえられなかったのは失態だが、再び不審な男が忍び込んだのなら新たな情報を掴んでいるはずだ。芦屋は近所に住む者から「首筋に黒子がある男」が怪しいと情報を得ているがそれが同一人物であるかどうかはまだ確定していない。
(かっちゃんが帰ってくる前に解決しねぇと…)
逸る気持ちのせいで早足になる。
だが、行く手を遮るかのようにすぐの角から一人の男が土方の前に現れた。避ける間もなく身体がぶつかった、その瞬間、
「…っ」
身体が触れた場所から火傷のような痛みを感じて、土方は反射的に素早く後ろに引き下がった。痛む脇腹を押さえると生暖かいもの感じ、斬られたようだと確信した。
偶然ではないはずだ。男は土方が通り過ぎるのを待ち、角で待ち伏せしていたのだろう。
「…副長、お疲れ様です…」
男の覇気のない声。虚ろな瞳。血の付いた短刀…彼は新撰組の隊士であり、また土方が目を付けていた隊士の一人だった。
「ふん…桜井か…」
桜井勇之進。約半年前、土方が江戸へ下った際の募集で加入した新入隊士だ。小柄で色白、そして彼の首筋には大きな黒子がある――。
「…何だ、自棄になりやがったのか…?」
土方が睨みつけると、桜井は「へへ」と笑った。鬼副長相手に奇妙に歪んだ表情のなかで口角だけが上がったその顔は奇妙なものだった。
「…最初は、見ているだけで…良かったんだ。生垣の合間から…笑っている顔を見るだけで、満足だった…」
桜井は勝手に語りだし、また唐突に叫びだした。
「毎日…毎日、毎日!死と巡りあわせの毎日だ!そんななかで彼女だけが俺を癒してくれた…!局長が不在の今、やっと彼女と逢瀬できる…そう思ったのに…!!」
「深雪はてめぇのことなんか知らねえ」
「軽々しく名前を呼ぶなァ!」
桜井は激高した。
もともと彼は監察に目を付けさせていた。首元に目立つほど大きな黒子があるのも隊士のなかでは彼だけだったし、非番の日は決まって一人でどこかに出かけているという報告を受けていた。
「今日…今日こそは、ようやく会えるって思ったのに…!あの女医者のせいで、あの女医者が俺の顔を見たせいで…!全部終わりだッ!!」
身体を震わせ、声を荒げ、桜井は持っている短刀を土方に向けたままじりじりと近づく。
「どうせ死ぬんだ…だったらあんたを道連れにする…」
「…馬鹿だな。俺を道連れにしたところで良いことなんて一つもないがな…」
顔を見られれば捕まるのは時間の問題。局長の妾を襲ったとなれば切腹を申し付けられるのは目に見えている。だったら道連れにして破滅したほうが良い…桜井の考えは手に取るように分かった。
(俺を道連れにしたところで、行くのは地獄のみだというのに…)
土方は苦笑した。
しかしその余裕の態度が桜井の癇に障ったのか、彼は持っていた短刀を投げ捨てて腰に帯びた刀を抜いた。その目には一層の殺気が宿る。
「本当は近藤を殺してやりたいが…代わりにあんたにする…!」
「…そりゃ、光栄なことだな…」
土方は左手で脇腹を押さえつつ、右手で刀を抜いた。
「やァァァァぁぁ!」
桜井の声が響いた。土方は刀を薙ぎ払い躱す。
平隊士相手に簡単に斬られるつもりはなかったが、それでも自暴自棄になった桜井の我武者羅な太刀筋を受け止めるには、先ほど負った傷が足かせになった。どうしても傷を庇うようにしか立ち回りができずに、攻めに転じることができない。
「く…っ」
なかなか反撃の糸口を見いだせないまま、重なる刃に押されて片膝をついた。桜井は身体全体で押し込めるように刀を落とし、それに対して土方は両手でどうにか堪えるように相対した。
「アアアアアァァ!」
まるで獣のように襲い掛かる桜井はもう正気を失っていた。殺意に取りつかれた悪魔のように土方の命だけを狙っていた。
毎日、死と向かい合う危険な場面が彼をそうさせたのか、
それとも彼の報われなかった思いがそうさせたのか。
おそらく桜井自身も何がなんだかわからなくなっているのだろう。
そんな彼を目の前に、土方はふと
(死ぬかもしれない)
と思った。
脇腹の傷を庇ったままいつまでも持つような状態ではない。狂気に取りつかれた桜井は己の命も顧みるこがなく襲ってくる。
けれど不思議と(大丈夫だ)と思った。
ここで死ぬわけがない。こんなところでくたばるわけばない。
(何故なら――)
その答えを見出そうとした瞬間、桜井の首が飛んだ。
まだ身体には殺意が残っていたようでその主を失った身体は刀を向けたままだったが、次第に土方の目の前で倒れた。血が滝のように噴き出しその姿は人間ではなくなった。
悪魔を殺したのは、鬼だった。
「…総司…」
崩れた桜井の背後にいたのは総司だった。
彼は背後から刀を一閃させ、一瞬にしてすべてを終わりにした。美しい太刀筋だったがその目は悪魔のように昏く、鷹のように鋭く…夕暮れと闇との曖昧で不気味な空を背景に怪しく光っているようだった。桜井とは違う意味で、正気を失っていた。
「歳三さん!」
けれど総司はその名を呼ぶことで、いつものような顔つきに戻った。戻ってきた、ともいえるそのあまりの豹変ぶりに土方は暫く呆け、その場に尻餅をついた。
「あ…ああ…」
「怪我…っ怪我しているんですか?!」
「浅手だ…心配ない」
「駄目です!油断はできません」
総司は動揺しつつ自分の片袖を破って土方の傷口に当てた。じわりと沁みる鮮血を見て出血が多いようだとようやく理解する。
「この男…桜井くん、でしたか…?」
傍らに倒れた死体と首を見ながら、総司は尋ねた。背後からだったので顔がわからなかったのだろう。
「ああ…こいつが別宅に侵入した男だ」
「…そうだったんですか。じゃあ彼が深雪さんに横恋慕を…」
「おそらくそうだろう。…もう理由を聞くことはできないが…」
止血の為に強く押され、思わず顔が歪んだ。しかしそれ以上に総司の方が痛そうな顔をしていた。
「…どうした?」
「今更…怖くなりました。もし…間に合わなかったらって思ったら…」
傷口を押さえる総司の手がかすかに震えていた。先ほどは鬼人のような顔で桜井を斬り伏せたというのに、まるで子犬のように震える様子は別人のようだ。
「俺が簡単に死ぬと思ったのか?」
土方はそう笑って総司を引き寄せて、抱きしめた。彼の匂い、体温、鼓動…すべてを感じて初めて「生きている」のだと実感することができた。
「…簡単に死んだら、怒ります…」
泣いているのか、と思ったが抱き合った状態では総司の顔は見えない。土方は総司の背中に手を回し、子供をあやすように軽くぽんぽんと叩いた。「子ども扱いするな」といつもなら反抗しそうなものだが、今の総司にはそれが心地よかったようで震えていた体も少しだけ落ち着いたようだ。
「何故だろうな…」
「え…?」
「お前が来る気がした。だから…死ぬわけないと思っていた」
何の確証もない状態だったのにそう信じることができた。
それはすぐそばに総司の存在を感じていたからだ。
(傍に居なくても、どんなに遠く離れていても…お前は俺のすぐ隣の道を歩いている…)
それだけで、十分だ。
「…歳三さん?」
「悪い…」
視界が歪み、頭がくらくらと揺れた。その次の瞬間には土方は意識を手放していた。







解説
425槇村(槇村半九郎)が登場していますが、彼が赤禰に協力していた云々の所は創作です。槇村についての解説は後程。
430桜井勇之進はこの時期に死亡したということになっていますが、その原因や理由はわかっていません。
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