わらべうた





431


父が倒れたと聞いたのは十五の夏のことだった。
医学所で学びながら近所の住人の往診を欠かさなかった父は、その日も患者の元へ向かっていた。カンカンに真夏の太陽が照り付けるなか額に汗しながら歩き回り、その途中に倒れそのまま亡くなった。
加也は父は死なないのだと思っていた。誰よりも医学を熱心に学ぶ父はきっと己の身体のことは当然わかっていて、誰よりも長生きするすべを知っている。だから死ぬわけがない…そう思っていたからこそ、父が死んだと聞かされたときにはまるで現実味のない絵空事のようにしか思えなかった。
それからあっという間に葬儀の日は訪れた。沢山の人々が父の死を悼み、残された母と加也を励ました。母は特に悲しんでいた。周囲の知人たちが心配するほど嘆き、後追い自殺をするのではないかと危惧されるほどに悲しんだ。父の死を受け入れることができずに母が泣きじゃくるその隣で、加也は茫然と空を仰いでいた。幼いころから医学所に出入りし父とともに医学を学んだが、死んだ後どうなるかなんて考えたことはなかった。
ただわかるのは
(父上…)
そう問いかけてももう返事はないということ。医学所を読みふける横顔も、患者の隣で微笑む柔らかな表情も、もうこの目には映ることはないということ。そしてもうあの穏やかな声で名前を呼ばれることさえもない――それが死だ。
医学を学んでいたのにそんなことすらわかっていなかった。
茫然とする加也は母とともに喪服に身を包み、弔問に訪れた知人たちを見送っていた。
「加也」
「…!」
その中の一人が加也の名前を呼んだ。その優しい声がまるでそれまで波一つ起きなかった水辺に落ちた一滴のように響いた。
「…精一郎先生…」
父とともに医学所で学んでいた南部精一郎だった。誰に対しても柔和な眼差しで接する穏健な人物であり、年は離れていたが父が『親友』だと語っていた男だ。加也は父とともに医学所を訪れ遊び場にしていたし、南部とは家族ぐるみの付き合いだったため幼いころから知っている。
南部はそっと加也の頭を撫でた。
「…ちゃんと食べていますか?」
父が死んでから、悲しみに明け暮れる母を皆が心配していた。だから、傍目には動揺していない加也はそんな風に声を掛けられたことがなかった。
「た…食べて、…ます…」
「本当ですか?顔色が悪い」
「…っ」
本当はここ数日食欲がなく、水しか口にしていなかった。けれど誰もが母に気を取られ、そんなことには気が付かなかった。こんな風に心配してくれたのは南部だけだ。
指先が震えた。瞳が潤んで、視界がぼやけた。
「加也」
南部は加也を引き寄せて抱きしめた。彼は父みたいな声で名前を呼んだ。その声に導かれるように加也は南部の胸の中で泣きじゃくった。
彼の体温に包まれ、それまで固まっていた感情が解けていく。
悲しい、とようやく思えた。
だから
「…っと…」
「何ですか?」
「もっと…呼んで…」
彼が父じゃないことはわかっている。しかし加也はあまりにも突然の別れを受け入れることすらできていなかった。
だからせめて、もう少しだけ。偽りの、偽物のぬくもりであったとしても傍に居てほしい。
そんな我儘を南部は何も言わずに受け入れた。
「…加也…加也…」
強く抱きしめたその耳元で囁かれる名前。
父の声で、
南部の声で、満たされていく。
その温かさにいつまでもいつまでも浸っていたかった――。


薄く目を開くといつもとは違う天井がそこにあり、その瞬間今まで見ていたのはただの夢だと悟った。
「加也さま!」
目を覚ました加也に気が付いたみねが、安堵したように微笑んでいた。加也は身体を起こそうとしたが脇腹が痛んでしまい、みねの介添えが必要だった。
「おみねさん、深雪さんは…?」
「へえ、大事ありまへん。斉藤せんせが傍にいてくれはります」
「そうですか…」
障子の向こうから橙色の色が差す。長く眠っていたわけではなさそうだ。
「あの…沖田様は?」
「お西さんの屯所へ。先ほどの一件をご報告に」
「…」
加也が眠りにつくまで、総司は傍に居た。心から加也のことを案じてくれている姿は父の葬儀のときの南部に似ていた。
(だから…あんな夢を…?)
二度と思い出さないようにと心に決めたはずなのに、あっさり夢に見てしまった…そんな虚無感に襲われた。
その時、玄関の扉が開く音とともにガタッと大きな物音が聞こえた。総司が帰ってきたのかと思ったがそれにしては騒がしい。
「様子を見てまいりましょう」
みねはそういったが「わたくしも参ります」と加也は床を出ようとしたが、止められてしまう。
「あきまへん。加也さまはお怪我をされているのですから」
「先ほどの不審者かもしれません。それこそおみねさんを一人で行かせるわけにはいきません」
「せやけど…」
食い下がるみねを無視して加也は痛みを堪えて立ち上がる。そっと障子をあけて様子を伺いつつ、すぐ近くの玄関まで足音を立てないようにやってきた。身を隠すように様子を伺うと、そこに広がっていた光景は加也の想像にないものだった。
「お…沖田様!」
加也は思わず叫んだ。
玄関に倒れ込むように二人の男がなだれ込んでいた。一人は総司でどこか虚ろな表情でもう一人の男…土方を見ていた。土方は顔を真っ青にして項垂れていて、意識がない様子だ。土方を抱えてここまでやってきたのか、土方だけではなく総司の着物まで血まみれに汚れている。
その凄惨な光景に加也は脇腹の痛みを忘れて飛びつくように駆け寄り、土方の傷を見た。
「…お…加也さん…」
「斬られたのですか!?」
「おそらく脇腹を…浅手だと言っていましたが…」
「そんなことはありません!このままでは死にます!」
傷口をみるや加也はすぐに止血のためその傷を強く押し込んだ。半分意識を失っている土方の表情が歪んだが、構わず押す。
「沖田様はお怪我は…?」
「わ…たしは、ありません…」
加也の問いかけに対して、総司の返答は鈍い。彼の視界には土方しかなく、加也の声は掠めている程度にしか聞こえていないのだろう。加也は振り返り動揺するみねに声をかけた。
「おみねさん、義父上を…いえ、もし可能であれば良順先生を呼んできてください」
「へ、へえ…」
「俺が行こう」
いつの間にか姿を現していた斉藤は、みねには代わりに深雪の傍に居るように指示を出す。もちろん彼の方が足が速いだろうしこのような状況を前にしても冷静な彼の態度には、加也は少し安堵した。
しかし
「…殺したのか?」
斉藤は総司の肩を引いて問いかけた。彼はそれに対して
「はい」
と、答えた。
彼らは誰を、とは言わない。もちろん土方を刺した人間に違いない。
その短いやり取りを目の前にして、加也は冷や水を浴びせられたかのように身体が冷えた心地がした。総司の表情が見たこともないほど暗く淀み、嫌悪と怒りという闇にに囚われていたように見えたのだ。
「そうか」
斉藤は表情一つ変えず淡々と受け取ると「行ってくる」といいすぐに玄関を飛び出していく。男の足なら数十分で引き返して来ることができるだろう。
加也は傷口を押さえつつ、彼の手首の脈をとる。
「…歳三さん…歳三さん…」
総司は朦朧としている土方の名前を一心不乱に呼ぶ。そう名前を呼ぶことで次第に先ほどまでの表情は消え失せ、まるで自分が怪我を負ったかのように追い詰められたような横顔だ。そして土方のもう片方の手を取り両手で握りしめた。
祈るような願うようなその姿を見て、加也は悟った。
(ああ…この人なんだ…)
松本の言っていた『沖田の想い人』はこの人だ。もっとも、いつも穏やかな彼がこんなに必死に助かるようにと祈る姿を見れば誰でも気が付くに違いない。
『加也』
どうしてあの夢を見たのだろうと思っていた。もうとっくに忘れたはずのあの声を、なぜ今更思い出してしまったのだろうと。
けれど、いまこの時のことを予感していたのかもしれない。
「沖田様、もっと名前を呼んであげて下さい」
「…え?」
「そうすればきっと…大丈夫ですから」
何の根拠もなかったけれど、総司はそれに頷いてずっと土方の名前を呼び続けた。そうしていると痛みに苦悶していた彼の表情が和らいだ気がした。







432


斉藤が南部を連れて別宅に戻ってきたのは、それからすぐのことだった。松本は残念ながら不在だったようで数人の弟子を連れてやってきた。
玄関で倒れたまま加也の看護を受けていた土方は、弟子たちによって傷口を気遣われながら部屋に運ばれた。
「義父上、出血は止まりましたし、脈拍や呼吸は随分と落ち着きました」
「わかりました。傷を見る限り、数針縫うことになるでしょう」
「わたくしも手伝います」
「いいえ」
加也の申し出を南部はきっぱり拒んだ。患者の前ではいつも温厚な南部の表情は冴えない。
「斉藤先生に伺いました。あなたは怪我をしているのでしょう」
「それは…」
「休んでいなさい。治療中は誰も部屋には入らないように」
取り付く島も与えない南部は加也の前から去り、土方が運ばれた部屋に入っていく。いつになく厳しい顔をした南部に加也は首を傾げた。
「南部先生の言う通りだ」
「斉藤様…」
「あんたも…沖田さんも、休んでいろ。俺は屯所に戻ってくる」
南部を連れて戻ってきた斉藤はそう告げると、翻すように屯所へと向かった。玄関には加也と総司、そして痛々しく残る土方の血痕が残った。
するとそれまで黙り込んでいた総司はふらりと立ち上がった。覚束ない足取りで歩き出し、土方が運ばれていった部屋の方へ向かっていく。
「沖田様、なりませぬ。義父上が部屋には誰にも入らないようにと…」
加也は総司の腕を掴み引き留めたが、彼は振り払った。
「沖田様」
「…せめて、近くに居させてください」
総司は寂しく口にする。今にも泣きだしてしまう子供のような表情に加也は何も言えなかった。総司は土方が運ばれた部屋にほど近い縁側に腰を下ろした。
早速治療が始まったのか、部屋からは騒がしい音が聞こえてくる。松本や南部が学んだ医学所では麻酔を使わない方法で傷口を縫う。その痛みに悶絶し気を失ってしまう患者は多くいた。
時折聞こえる土方の苦悶の声に総司は顔を歪める。加也は膝を抱えて蹲る総司の隣に座った。
「きっと大丈夫です。出血は収まりましたし、呼吸も穏やかになっていました。傷口さえ塞がれば…」
「…わかってます。南部先生のことは信頼しています」
「…」
「…」
二人の沈黙の間に、冷たい風が流れる。夕暮れの空はいつの間にか夜に塗りつぶされ始めていて、その闇は刻一刻と空を支配していく。
顔を伏せたまま何も口にしない総司の隣で、加也も目を閉じた。ひたむきに愛する人を思う彼を隣にしていると、同じように純粋だったあの頃のことが思い起こされた――。


父の葬儀から数日。その日は残暑の厳しい日だった。
加也は医学所を訪れていた。突然、何の前触れもなく亡くなった父の遺品が遺されていてそれを引き取りに来たのだ。
「手伝いますよ」
そう申し出たのは南部だった。
「…一人でできます」
「いいから、手伝わさせてください」
温厚で穏やかな南部だが、自らが決めたことには融通の利かない頑固な一面がある。それを重々知っていた加也はそれ以上断ることはできなかった。
父の私物は加也が思っていた以上にたくさんあった。医学書は山積みになっていてその分野は多岐にわたる。仕事では優秀だった父だが、整理整頓は苦手だったのでどう手を付けていいのかわからないような状態だった。
「母上はいかがですか?」
「……相変わらず、塞ぎこんでいます」
「そうですか…」
加也の短い返答に、南部は少しため息をついた。
父が亡くなってから、母はすっかり気落ちしていて心ここに在らずという状況だ。食事にもろくに手をつけておらず、水しか口にしていない。眠ることもできないようで真っ青な顔で父のことばかり考えて憔悴しているようだ。
「一度、お伺いしましょう。残暑の厳しいなかですから、身体を壊しやすい」
「…ありがとうございます」
「あなたは大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
それは反射的な返答だった。
父が亡くなってから親族や知人に心配されたが、そのたびに「大丈夫です」と答えた。父がいなくなったことも、母が落胆していることも、そして自分自身さえその芯がふらついてしまっていることも、誰かに話して解決するようなことではない。だから「大丈夫」だと答えてそれ以上の詮索を避けた。そうすることで自分を守った。
けれど、南部はその返答を聞いてもじっと加也を見つめた。加也は目を逸らしたが、彼は逃がしてくれなかった。加也の肩を押さえて正面を向かせて微笑む。
「…私は医者ですから大丈夫ではないことくらい、すぐにわかりますよ」
「精一郎先生…」
「ここは私が片づけますから、休んでいなさい」
少し強引に南部に手を引かれて、近くの一室に連れられた。そこはいつも患者が寝泊まりする部屋だが偶然にも今は空室のようで誰もいない。
南部から渡された白湯を飲み干し、加也は横になった。いつも清潔に保たれた布団からは何の匂いもしなかった。
「…あの…精一郎先生…」
「何ですか?」
「父の遺品ですけど…先生が、引き取ってもらえませんか?」
「私が?」
「…あんなに沢山の医学書を持ち帰っても仕方ありませんから」
残された膨大な遺品。それを持ち帰るのも難儀なことだし、誰もその医学書を読むことはない。だったら南部に託したほうが父も喜ぶはずだ。
加也はそう思ったのだが、南部は首を横に振った。
「いけません。片桐先生の遺品ですから、あなたが持ち帰るべきです」
「迷惑ですか…?」
「違います。あれはあなたに遺されたものですから」
「…おなごは、医者にはなれませぬ」
「そんなことはありませんよ。片桐先生もおっしゃっていたでしょう」
生前、父も同じようなことを言っていた。熱心に医学所に通う父を真似るように難しい医学書を読む加也に「お前は医者になればいい」と笑っていて、幼かった頃は父の言葉を真に受けて「医者になりたい」と言っていたが、今はそれは簡単なことではないとわかっている。
ただでさえ、医者は男の世界。知識も技術も必要な厳しい道のりを志すだけで白い目で見られてしまう。女は芸事を学ぶことこそ優秀…そう嘲笑を含めて陰口をたたかれることもあった。それでも「父のようになりたい」と願う気持ちは変わらなかったが、もうその父がいなくなってしまった今では「医者になる」という気持ちも消え失せてしまった。
「…もう父はいませんから。それに、いまは母のことが心配です。医学を学んでいる時間なんて…わたくしにはありません」
「…」
流石に南部も何を言っていいのかわからなかったのか、口を噤んで顔を顰める。重たい沈黙と気まずい空気が流れた。
「…少し眠ります…」
加也は耐えかねてそう申し出ると、南部の視線から逃げるように布団を頭まで被った。
父の遺品を片付けてしまえば、ここに来ることはない。
幼い頃から父とともに過ごしたこの場所は、もう自分とは関係ない場所になる。
そして
『大丈夫ですか?』
彼の優しい声に心配されることもない。
それがなぜだか無性に寂しくて、とめどなく涙ばかりが溢れてきた。
「加也」
「!」
南部が被っていた布団を強引に引き剥がす。聞こえていないと思っていたのに、南部は気が付いていたようだ。加也はとっさに両手で顔を覆ったが、隠しきれるものではない。
大粒の涙を指で拭いながら、南部が加也の頭を撫でた。
何も言わずに、ただただ優しく。
「精…一郎先生…」
「…何ですか?」
「母の…田舎に帰るんです」
「え?」
父がいなくなったいま、頼れるような親戚は近くに住んでいない。それでは生活が覚束ないだろうと加也の伯父にあたる母の兄が援助を申し出てくれたのだ。幸いにも兄は商売を起こして裕福な暮らしをしていているので、母と二人で生活することなどできないいまその話を断る理由はない。
「だから…父の遺品を片付けたら…この場所を去ります…」
「…」
「いままで…ありがとうございました…」
これまでの思い出が走馬灯のように駆け巡る。
ここで過ごした時間も、父が魔法のように患者を救う姿も、そして穏やかな微笑みで加也を見守る南部さえも…すべてが過ぎ去り、過去になって、離れてしまう。
考えれば考えるほど寂しさと悲しみばかりが募り、涙は止まらなかった。
そんな加也を南部は抱き起こし、そして強く抱きしめた。
「精一郎…先生…」
「…行ってはいけません」
「え…?」
「君はここから離れてはいけない」
真綿でくるむように抱きしめられ、いつになく強い口調で引き留められる。その言葉を聞いて、加也の心はすとんと落ちた。
恋に、落ちた。
(そうだ…)
ここから離れてはいけない。
ここから離れることなんてできない。
だって
ずっと、この人の傍にいたいから――。


身体を休めたのち、遺品の一部を持ち帰ることにした。それは特に父が愛用していた聴診器などの医療用具で加也にとっては形見に等しいものだった。
「送りますよ」
まだ日が長く明るいものの、持ち帰るものが沢山あったため南部の申し出を有難く受け取ることにして、二人は家に向かった。並んで歩くなんて今まで幾度となくあったのに、なぜだか今日は心臓が高鳴って仕方ない。
『行ってはいけません』
南部の言葉が、声が、鼓膜に張り付いて離れなかった。「あれはどういう意味ですか?」と訊ねたかったけれど、何だか期待しているようではしたない気がした。
「着きましたね」
「あ…っはい…ありがとうございます」
そうしているといつの間にか家に辿り着く。母と暮らす平屋はこの頃は手入れが行き届いておらず、雑草が足元に生えてしまっている。
「ここまで足を運んだのですから、母上の診察をしていきましょう」
「…はい!」
別れがたく思っていたのが知られてしまったのかもしれないが、南部がそう申し出てくれたのは嬉しかった。
南部とともに家に上がる。父という灯を失った屋内は、相変わらずしんと静まり返っている。
「母上?」
いつも寝込んでいる寝所を覗くが、そこに母の姿はない。布団が捲りあがったままで放置されていて几帳面な母にしては珍しいなと思った。
「どうしました?」
「…いえ…母が、いなくて」
「え?」
それまで遠慮がちに様子をうかがっていた南部は、荷物を置いて足早に屋内を歩き回る。
嫌な予感がする――南部も加也と同じ感覚を覚えたのかもしれない。
南部の後を追っていた加也だが、彼がふと足を止めて立ち尽くしたので同じように立ち止まる。庭の景色が見渡せる母のお気に入りの縁側だ。
少し沈黙して、南部は告げた。
「加也、あちらを向いていなさい」
「…!」
その意味はすぐに分かった。
けれどそんな言葉で誤魔化されたくなくて、加也は南部の背中越しにその光景を見た。
「加也!」
南部が制したけれど、それは目に焼き付いた。
小刀を手にした母が血まみれでその場所に倒れていた。その表情はなぜか安堵に満ちていた。






433


父の後を追うように亡くなった母の葬儀は、身近な人だけでひっそりと終えた。
加也は南部とともに母が首を切って自害するという凄惨な光景を目の当たりにしたが、それでも母の顔が穏やかであったことに安堵していた。父のことを愛してやまなかった母にとって、父のいないこの世に何の未練もなかったのだろう。娘として一人残されたことを思えば寂しくもあるが、それが母の選択なのだと受け入れることができた。
放心する加也の代わりに、葬儀を取り仕切ったのは南部だった。父には身寄りはなく、母の親族も遠方に住んでいる。南部は父の友人として家族ぐるみの付き合いをしていたので、それは自然な姿に見えた。
「加也!」
葬儀を終える頃、顔を出したのは松本良順だった。
「良順先生…」
「悪かったな、親父さんや奥方の葬儀に間に合わなかった」
松本はこのころ、長崎伝習之御用を命じられ長崎海軍伝習所に身を置いていたため、とても葬儀には間に合わなかった。
「いいえ…遠方からわざわざ申し訳ございません」
「当たり前のことだ。親父さんと俺は兄弟子と弟弟子の仲だぞ」
久々に会う松本の相変わらずな物言いに、どこか安堵しながら加也はともに客間へと入った。
「南部はどうした?」
「…おそらく住職と話をしています。精一郎先生には何もかもお任せしてしまって…」
「構わねえだろう。お前たち家族と一番親しくしていたのはあいつだったんだ」
「はい…」
客間に生暖かい風が差し込んだ。
人が立ち止まったとしても、時が止まることはない。季節は少しずつ秋に近づいていく。人の死さえも遠いものになっていく。
松本は躊躇いながらも口にした。
「奥方は自害…と聞いたが」
「…はい。父が亡くなって母は酷く気落ちしていました。いつかこうなるのではないかと…考えなかったと言えば嘘になります」
「そうか…大変だったな」
松本は茶に手を伸ばし一気に煽った。なんとも言えない結末を飲み込むように。
「…それで、お前はどうするつもりなんだ?奥方が亡くなっちまったら近くに身寄りは居ないだろう」
「母が亡くなる前から…伯父が生活の面倒を見てくださると申し出てくださっています。伯父には子供がいないので養女として引き取られるのではないかと思います」
「そうか…」
松本は顔を顰めて、大きなため息をついた。
「惜しいな…。お前は片桐さんに似て医者の素質があると思っていた。親父の所の弟子よりもよっぽど知識に長けている」
「…そう言って頂くのは嬉しいのですが、それでも私は所詮女子です。良順先生や精一郎先生のようには生きられません」
南部も「行ってはいけない」と引き止めてくれたが、しかしそれは母が生きていたからだ。母がいなくなったいま、己の身の振り方は自分では決められない。それに男の医者からすれば加也がいくら医学を学ぼうともそれは飯事でしかなく道は途絶えている。いっそこの身が男であれば、と何度願ったことか。
すると松本はぽん、と手を叩いた。
「そうだ…いっそ、南部の嫁になったらどうだ?」
「は…っ?」
「俺にはすでに家内がいるが、南部は独りもんだ。生憎そういう女子もいないようだから、お前と夫婦になればいいじゃねえか。そうしたらここに残って、医学の勉強もできるだろう?将来は南部の助手としてその道に進めばいい」
「そ、そんな…冗談でしょう?」
昔から松本は面白いことを興じる性格だ。今回もその類かと加也は困惑したが
「冗談じゃねえよ。俺ァ本気だ!」
と、なぜか偉ぶっていた。そしてにやりと笑った。
「それに加也、お前まんざらでもねぇって顔してるぜ?」
「…っ!か、からかわないでください…!」
松本の視線から逃れるように、加也は顔を背けた。確かに体の芯から燃えるように熱くて顔が真っ赤に染まっているだろうということは鏡を見なくても分かった。これでは松本でなくても気持ちを見透かされてしまうだろう。
「よし、早速親父に話して縁談を進めようぜ」
「でも精一郎先生は…」
「大丈夫だ、親父のいうことならなんでも聞く。それにお前のことだって可愛がってるんだ、悪い話じゃないだろう」
「そ、それは…」
「心配するな」
松本は立ち上がると、加也の頭を少し乱暴に撫でた。そして「善は急げだ」と笑って去っていく。強引だけれど松本なりの励まし方なのかもしれない。
誰もいなくなった部屋で加也は身体を横たえた。父と母の死、度重なる疲労でついに全身の力がなくなってしまったような気がした。
けれど頭の中を占めるのは悲しみばかりではない。
(精一郎先生と夫婦に…)
どくどくと心臓が跳ねた。
『行ってはいけない』…南部のあの言葉の意味が少し変わってしまったけれど、そんな未来があるのならそれも良い。
何もかもを失った今、加也にとってそれが唯一の光のような気がした。


「善は急げ」
そう言った松本だったが、それから数日は何の音沙汰もなかった。
本当は一刻も早く南部が何と答えたのか知りたいと思っていたが、
(わたくしから聞くのははしたない…)
という気持ちが上回って何も聞くことはできなかった。加也の心は忙しなかったが、父と母の遺品を片付けることでどうにか気を紛らわせた。
だが、せっかちの松本はそうはいかなかった。
「南部!どういうつもりだ!」
松本にとっては実家であり、また南部にとっては師匠の家である佐藤泰然のもとで、二人は向き合って座っていた。
「良順先生…」
「加也を嫁にしてやれって、親父からも話があっただろう?!何で何の返事もねぇんだ!」
畳を叩いて詰め寄る松本に対して、南部は穏やかにほほ笑んだままで、それがさらに松本を苛立たせた。
「加也のことが気にくわないってわけじゃねえんだろうっ?」
「もちろんです」
「だったら!」
「…」
「くそ!肝心なことはだんまりかよ!」
微笑んだまま押し黙る南部が頑固なことは松本もよく知っていた。「ちっ」と苛立ちながら、松本は茶で喉を潤した。
「良順先生、佐藤先生から聞いているでしょう。私もあなたと同じ長崎海軍伝習所で学ぶことになったのです。近々、ここを離れるのです」
「聞いてる!だが、別にそんなことは関係ねえ。加也がお前と夫婦約束をするなら、あいつは待っているだろうからな」
「…そうですか」
南部は明確な返答をせず松本と同じように茶に手を伸ばした。その穏やかな様子が松本のいら立ちに拍車をかけるが、南部は気にする様子はない。
「…明日には加也の伯父ってのがあいつを迎えに来る。ど田舎だそうだから、当然、加也の医学の道は絶たれることになるだろう」
「そうでしょうね…」
「お前だって、加也の才能を知っているだろう。あいつは片桐さんの血ぃをしっかり受け継いでる。志半ばであの世に逝っちまった父親の代わりにその志を遂げさせてやろうという気持ちは無ぇのか??」
「勿論、加也が望むならここに残って医学を志すのが良いと思っていますよ」
「だから…!」
息巻く松本に対して、南部は困ったように一息をついた。
「…良順先生。何も無理に夫婦になることはありません。私でなくとも、佐藤先生のお弟子さんは沢山おられるのですから誰かと夫婦になれば…」
「本気で言っているのか?」
「…」
「南部、お前は医者だ。医者は鈍感じゃねえ。加也がお前のことをどう思っているのかなんて、本当はわかっているんだろう?」
松本は語気を強めた。父を失い相次いで母を失った孤独のなかで、加也は南部のことを思っている。それは誰から見ても明らかなもので、彼女にとって南部が唯一の心の支えともいえた。それを南部は自覚しているはずだ。
すると、ようやく南部が顔色を変えた。その微笑みが悲しみに変わり、視線を落とした。
「…だったら余計、私には夫婦にはなれない。私にはその資格はない」
「南部…?」
それまで会話を交わし続けていた南部は、どこか諦めたように言葉を吐いた。
「良順先生。私は…きっと私が、殺したのですから」
「殺したって…誰のことだ…?片桐先生のことか?」
「片桐先生の奥方…加也の母親である志乃(しの)さんですよ」
「…何言っているんだ、お前…?志乃さんは自害だったはずだ」
冗談だろう、と笑い飛ばそうとしたが、南部の目は昏い。いつも平穏としていた彼からは想像もできないほど淀んでいた。





434


「南部…これは一体、何の冗談だ?お前が志乃さんを手にかけたっていうのか?」
思わぬ告白に松本は一気に背筋が凍るような気持ちになった。昔からの付き合いがあるが冗談でそんなことを言っているのではないということはもちろんわかっていたが、冗談だと思いたいというのが本心だった。
「直接関わったということではありません。ただ…私には、そのように思えるのです」
「…話せ」
松本が先を促すと、南部は一瞬ためらうように口を噤んだ。しかし一度漏らした言葉を今更誤魔化すことはできないと意を決して語り始める。
「片桐先生には私が入門したときからお世話になっていました。先生は誰にでも優しく…ある日、家に招いてくださったのです。その時初めて志乃さんにお会いしました。若くして夫婦になられながらも、医学に熱中してたまにしか帰宅しない片桐先生を責めることもなくとても穏やかな女性でした」
「確かに亭主が寄り付かねえのに一つも文句を言わねぇいい女だった。…岡惚れしちまったのか?」
「…ただ、志乃さんのような妻ならばどれだけ幸せだろうと思っていました。そういう目で私は彼女を見ていた…その時の私には自覚はないままでしたが…片桐先生には気づかれていたように思います」
「片桐さんがっ?!」
松本は思わず声を上げた。
いくら可愛がっている後輩とは言えども、自分の奥方に岡惚れしていると気づけばよい気分ではないだろう。遠ざけたりする距離を置いたりするはずだ。
南部は苦笑した。
「片桐先生は優秀な医者でしたから人の心に敏感でした。…ある日、『医者だからいつ患者から病を貰うかわからない、何かあった時は家族のことを頼む』とも言われました」
「…変わった人だとは思っていたが…そこまでとは思わなかったぜ」
南部の気持ちを容認する…それは松本には理解の及ばないことではあったが、あの片桐なら、と納得はできた。己のことよりも周囲を案じる…案じすぎる人間だった。
南部の話は続いた。
「しかし、片桐先生はそうおっしゃいましたが、私は志乃さんとどうこうなりたいと思ったことはありません。加也と三人、ずっと穏やかに暮らしてくれれば良いと、本当にそう思っていました。加也が医者を志すならそれを本気で支えていく…それが志乃さんの幸せに繋がるのならそれだけでいいと満たされていた」
「…」
「そんなときに、片桐先生が亡くなったのです」
あまりに突然の別れに、彼を取り巻く人すべてが茫然となり悲しんだ。とりわけ妻の志乃は人目も憚らずに嘆いた。
「片桐先生が亡くなって、志乃さんのことは気がかりでした。すべてに絶望して自暴自棄のような気持ちになっている彼女を放っておくことなどできなかった…私は暇を見つけては、彼女の元へ通いました」
彼女から目を離してはならない。そんな焦燥感に煽られるように通い続けた。
けれどその気持ちが変わっていく。
「それが…次第にどうしてだか後ろめたい気がきました。片桐先生か亡くなった途端に志乃さんのもとに通う…それが裏切っているような…。だから加也にも見つからないように時を見計らって彼女のもとへ通いました」
「…まさかとは思うが、手ェ出したのか?」
「…」
南部は曖昧に首を横に振った。
「ただ邪な気持ちがなかったかと言われれば嘘になります。それは片桐先生の言葉を思い出してしまったからです。『何かあった時は頼む』…それが免罪符のようだった」
もう何も阻むものはない。むしろこれは亡くなった片桐の願いを叶えることができることなのだと、自分を擁護する理由はたくさん見つかった。
「じゃあ何で…自害なんかしたんだ?」
南部のことだから志乃をしっかり支え、励ましたことだろう。
松本が尋ねると、南部は視線を落とした。
「本当のことは何も…。ただ、私は…この気持ちが志乃さんに気付かれたのではないかと思います。そして自惚れかもしれませんが…志乃さん自身が揺れていたのでしょう」
「揺れていた?お前のことを好いていて夫婦になるつもりがあったってことか?」
「…いえ、私よりもむしろ加也のことを気にしていたのだと思います。片桐先生がいなくなれば加也もそれまでのように医学所に通うことはできない。けれども私と夫婦になれば加也を医者にすることができるでしょう」
「なるほどな…」
片桐とともに医学所に通う加也を志乃はずっと見守り続けてきた。片桐のような医者になってほしいと思っていたに違いない。
「その時は私は知らなかったのですが、遠方の親戚のもとに身を寄せる話が来ていた。片桐先生が亡くなった悲しみはもちろん、加也のことと自分自身のこと…そして私のこと。色々なことが頭を過り、混乱していたのでしょう。ですから…」
だから悩みぬいた挙句、自害した。
しかし松本は「違うな」と首を横に振った。
「…悩みが多いからって、自害はしねぇ。あの奥方はそんなに柔じゃねぇし、加也のことを案じていたならなおさらだろう。…南部、お前はわかっているんだろう?一番の理由が、何かってことは」
「…」
「志乃さんは、一番つらくて仕方ねえときに傍に居たお前に…惚れちまった。操を立てたはずの亭主が死んですぐにほかの人間を好きになっちまった。そんな自分に…絶望したんだな」
ひたむきに片桐を支えてきた彼女だからこそ、そんな自分を許せなかった。松本にはそれが突発的な自害に繋がったと考える方が自然なことのように思えた。
そしてそれを、南部はわかっている。
だから『殺した』というのだ。
「…私が余計な考えを回して、彼女の傍に居なければ良かった。悲しみに沈んだとしても加也がいるなら志乃さんはきっと立ち直ったはずなのに…!」
南部の握りしめた拳が震えていた。後悔してもし足りない…そして誰にも話すことはできない懺悔。松本にもそれは痛いほど伝わった。
そしてかける言葉も見つからなかった。
(南部も志乃さんも…そして加也も、誰も悪くねえ…悪いとすれば、片桐さんだけだ…)
何で死んでしまったんだ。
あっさりと逝ってしまった片桐に「くそったれ」と言いたい気持ちだ。
項垂れてしまった南部から流れる涙が畳の色を変えた。
これからどうしようもない後悔を抱えて彼は生きていく。ただ純粋に彼女を想っていただけのことが、ここまで最悪な結果を招いた…その罪は背中に伸し掛かる。
それは重くて、仕方ないだろう。
「南部…わかった」
「…良順先生」
「加也は例の伯父に任せよう。悪かった」
松本は頭を下げた。志乃のことで苦しむ南部にこの上、加也と夫婦にさせるなど酷なことはできない。加也は面差しは志乃に似ているのだ。傍に居ては一生責められるような気持ちになるだろう。
南部は顔を上げて、涙を拭った。
「…いいえ」
「ん?」
「加也は…ここにいたほうが良い」
「だが…」
困惑する松本を南部は強い眼差しで見た。その瞳には決意が宿っていた――。


その日の夜、南部が松本ともに加也の元を訪れた。
「ど…どうぞ」
二人を目の前にして加也は緊張していた。きっと松本が加也を嫁にするように南部に話したに違いない。今日はその返事を告げに来たのだ。
加也は二人を客間に通した。父と母の荷物を整理した家は、どこか寂しく生活感のない雰囲気になっている。
「ちょっと厠を借りるぜ」
松本がそう言って席を外した。加也は南部に茶を差し出しながら、その表情がいつもと違うことに気が付いた。
「どうかされたのですか?」
「え?」
「いえ…その目元が赤いです」
驚いた表情を見せた南部は少し言葉を選ぶように「何でもありません」と穏やかにほほ笑んだ。いつも通りの穏やかさだったはずなのに、なぜだか胸が騒いだ。
そうしていると松本が戻ってきた。加也が差し出した茶を一気に飲むと、「プハーッ」と声を出す。そして意を決したように話し始めた。
「加也、悪い!」
「…え?」
豪快に頭を下げる松本に加也は困惑した。
「夫婦の話は無しだ!俺の早とちりっていうか、気が急いたみたいだ。すまない!」
「…あ…そう、ですか…」
その勢いに押されて加也はそう答えるしかできない。
期待していたものが崩れていく。悲しいというよりも、心が凍るようなものだった。
加也はちらりと南部を見た。頭を下げる松本の隣で複雑な表情を浮かべていて、加也は申し訳なさを感じた。
(勝手に期待して、思い込んでいただけなのに)
「良順先生、頭を上げてください。先生はわたくしがこれからも医学を学ぶための方法を考えてくださっただけなのですから…」
松本にも、そして南部に非があったわけではない。
だから、好きじゃないと嘘をつく。強がって心の動揺を見透かされないように笑った。
「明日には伯父が迎えに参ります。これまでお世話になりました」
伯父とともに田舎に帰る。遠く離れれば、こんな気持ちも消え去ってしまうだろう。いい思い出だったと笑えることができるだろう。
(だから…大丈夫…)
「加也」
「…精一郎先生」
「言ったでしょう…『ここから離れてはいけない』と」
「え…?」
その意味がわからず、加也は首を傾げた。隠したはずの期待がまた膨らんでしまう。しかしいつも通りの穏やかな南部の隣で松本が複雑な顔をしていた。
南部が口にするその言葉を既に知っていたのだろう。
「君を…私の娘にしたい」
「…むすめ…?」
「養女です。そうすれば、君はここに残って学び続けることができる。片桐先生の歩んだ道を君が継ぐことができる」
それは思ってもない申し出だった。妻ではなく娘にしたい…確かにそうなれば南部の養女としてここに留まり学ぶことができる。父の意思を継いで医者として生きることもできるかもしれない。
けれど、
でも、それは
(好きじゃないってことだ…)
ここに残ることができるという結果は同じことなのに、南部は妻ではなく娘を選んだ。
それは加也にとってとても残酷な宣言に聞こえた。
「加也…断ったっていいぜ」
加也の心情をよく知っている松本は、そんな風に気遣った。南部の申し出がどれだけ加也を傷つけるのかわかっているのだ。でも松本はそれを黙って見過ごすような性格ではない。きっと止めたはずだ。
それでも南部は申し出た。
(あなたのことが大好きで…大嫌いだ)
加也の溢れだしかけた気持ちに、南部はその穏やかな笑みのまま蓋をした――。




435


慶応元年十二月半ば。
「明日、京に向けて出立することになった」
同行している伊東、武田、尾形、山崎を目の前に近藤はそう告げた。
あと一歩というところで不測の事態に遭い、長州への入国を断念した近藤たちは幕府軍の拠点でもある廣島の国泰寺に戻っていた。長州と幕府の交渉は難航し、それに加えて仲介役を務めるはずだった赤禰が出奔するという痛手を負ってしまった。
「無念です」
伊東は扇で口元を隠しつつ、眉を顰めた。結局あれから赤禰との連絡はなく、長州に鞍替えしたのだと噂された。せっかく捕えてた討幕派の大物を口先で騙されあっさりと獄から出し野に放ってしまった――そんな揶揄さえ聞こえてくる。
近藤は肩を落とした。
「…このような状況では我々にできることはないが、幕府はこのまま長州を放置しておくこともできないだろう。機会を見計らって出直すことになるだろうが…また我々がお力になれるかどうかはわからないな…」
赤禰を逃がしてしまうという失態を犯してしまった。再び新撰組に長州行きの声がかかるかどうかは難しい。深く落胆する近藤に対して、誰も言葉を発することはできなかった。いつもは近藤の腰巾着のように賞賛する武田も唇を固く結んだまま、何も言わなかった。
近藤はふう、と息を吐いた。
「――とにかく、戻ろう。今できることは一刻も早く京に戻って仲間たちと合流することだ。都の治安を安定させることが、世の平安に繋がるのだから」
沈黙を破る言葉は、近藤が自らに言い聞かせるようなものだった。
その後は出立に向けた準備や挨拶回りの為に解散したが、近藤は山崎を呼び止め「話がある」と連れ出した。広い境内の人気のない場所だ。
「暫しの別れになるな」
近藤がそういうと、山崎は複雑そうに顔を歪めた。彼にはこのままこちらに残ってもらうことになっていた。長州への入国を図り、状況を探る…山崎にしかできない仕事だ。
だがそれは彼の意に背く命令だった。
「…あまり納得ができまへん。俺は土方副長から近藤局長の傍を決して離れないようにと厳命されています。このまま残れば、それを破ることになる」
「歳には俺から君を怒らないように言っておくよ、心配することはない、無事に戻れば良いのだから」
「副長から怒鳴られることを危惧しているわけではないのですが…」
山崎は近藤の身の危険を真剣に案じているのだが、近藤は「ははっ」と笑った。
「試衛館食客以外で歳に怒られるのが怖くないというのは、君くらいかもしれないな」
「はあ…」
「だが今回のことは受け入れてくれ。君が引き続き長州に残って探るというのはもともと伊東参謀の考えだが、それに私も同意した。何も成し遂げることができず、ましてや赤禰殿と別れてしまった…その失態を永井様は強く責めなかったが、せめて今回の同行を許してくださった永井様に報いたい」
「…」
山崎を残すという選択は藁にも縋るような近藤の想いと同義だ。だとしたらそれに従うのが正しい…山崎ももちろん理解はしていたが、それでも近藤の身を第一に考えろという土方の命令を蔑ろにすることはできなかった。
山崎が返答に迷っていると、冬の冷たい風が通り抜けた。ここに来たときはまだ秋の残り香があったのに、すっかり木々は枯れ木だらけの寂しい風情となっている。
「…今回のことで君や歳の気持ちが少しわかったよ」
「え?」
「少しだけ私も参謀のことを恐ろしく感じた。得体の知れなさを…思い知った」
近藤は声を落とした。
「赤禰殿と話をしている時だ。彼と同調する参謀の姿を見て…私にはそこまではできないと思った。目的や手段の為に距離を縮めることはできても、同意することはできない。赤禰殿は池田屋の敵方だ…あの場で死んだ仲間のことを考えると、申し訳なさの方が上回る」
「それは…そうやと思います」
「だが、それが参謀の本心なのかもしれない。長州のように幕府など打倒すれば良いと考えているのか。いや、違う…彼は赤禰殿に心を許してもらうために上辺だけの同意をしているんだ…と、そんな風に迷って参謀の本当の姿がわからなくなった」
山崎は素直に驚いていた。伊東が加入してから、近藤は何かと彼のことを擁護してきた。藤堂の師匠であり、剣の腕も確かで秀才で弁が立つ…秀逸な彼を新撰組に招くことができたと喜び、土方が苦言を呈しても耳を貸すことはなかったのだ。
「これからは参謀のことを盲目的に信頼するのではなく、俺なりにちゃんと考えたいとおもう。君や歳が言うように警戒もする。…だから、君は安心してここに残って密偵を続けてくれ」
「…わかりました」
これまで近藤は伊東に対して疑問を抱くこともなく信頼していた。それを土方は危険だと考えていたのだが、彼自身が少し見つめ直すというのなら山崎が警戒する必要はないだろう。
(それに帰路に何かしでかすことはないやろ…)
山崎はようやく納得して受け入れることができた。近藤もその様子を見て安堵したようだ。
「しかしせっかく監察から医学方へ異動になったというのに、申し訳ないな。君も医学の勉強がしたいだろう」
「…いえ、俺は監察でもなんでも『新撰組の為の仕事』がしたいだけですから」
形が何であっても、新撰組の為になるのなら何でも構わない。表に出る華々しい仕事ではないがそれだけでやりがいは感じていた。
「そうか」
近藤は嬉しそうに笑った。そして「じゃあ」と別れようとしたところを山崎が引き留めた。
「局長。一つ…ご報告が」
「ん?」
「実はあの日…俺は逃げる赤禰殿に会いました」
山崎は槇村と名乗る男たちに襲われ逃げ出した赤禰に相対した。
「…なんて言っていたんだい?」
近藤は特に驚かなかった。常に陰ながら同行している山崎がすぐに近藤の元に駆け付けなかったことについて、察しがついていたのかもしれない。
「故郷に戻って再起を図る。…局長へ申し訳ないと伝えてくれ…と」
「…そうか」
近藤は赤禰からの伝言に曖昧な返答をした。
敵方である彼を信じたいという気持ちがないわけではない。けれどどこかで二度と赤禰に邂逅することはないと思っていた。


一方。
「土方さん、起き上がっちゃ駄目ですよ」
近藤の別宅に身を寄せる土方のもとに総司は連日、足を運んでいた。
南部による傷の縫合は無事に終わり、傷口さえ塞がれば問題ないだろうという診断を受け入ていた。土方は自分自身の別宅に戻るつもりだったらしいが、みねは深雪の看病のため近藤の別宅にいる。それでは誰も世話ができないということで、近藤の別宅の一室を借りることにしたのだ。みねは深雪と土方と二人の世話を務めることになってしまったが、快く引き受けてくれた。
「もう痛くねえよ」
「痛くなくても横になっているように南部先生がおっしゃっていたじゃないですか」
「もう治ったようなもんだ」
「子供じゃないんですから。おみねさんにそんな我儘言っているんですか?」
総司は横になるように促したが土方はそれを無視して「それを寄こせ」と脇に抱えていた手紙に手を伸ばした。総司は仕方なく屯所に届いた近藤からの手紙を渡した。
土方が怪我を負ったということは新撰組の中でも伏せられている。局長と参謀がいない今、副長すら床に伏しているとなれば邪なことを考える輩が出てくるかもしれない…そんな彼の考えで、事実を知っているのは総司と斉藤くらいだ。土方は連日、近藤の代わりに仕事を熟しているということにして、完治を待つことになったのだ。
土方は近藤からの手紙を眼をカッと開いて読んでいた。
「近藤先生、なんて書いてあるんですか?」
「…京に戻るそうだ」
「えっ?」
思わぬ報告に総司の顔は綻んだ。だが、土方の顔は冴えない。
「ただ…山崎はこのまま残るらしい」
「山崎さんが?」
「詳しくは書いていないが山崎にはこのまま密偵を続けさせるようだ。廣島に残して既に出立している」
「…まあ、山崎さんの監察の腕なら敵国であっても密偵することは簡単でしょうけど…何かあったのでしょうか?」
土方は首を横に振っただけで何も答えない。その後、土方に手紙を見せてもらうと、詳しいことはあまり書いておらず赤禰を伴って入国を図った件も『帰ったら説明する』とあった。心配と言えば心配だが、戻ってくるのであれば身の上の心配はない。
「良かったですね。あと数日でお帰りになられるでしょう」
「ああ…それまでには治す。刺されたなんていったら、あいつに笑われる」
「だったら薬を飲んで、早く横になってください」
総司が薬を渡すと、土方は手慣れた手つきで口にした。そして横になると、あっさりと眠り始めた。薬のせいもあるかもしれないが、ここの所近藤と伊東がいない分職務を請け負い忙しくしていた。その溜まりに溜まった疲れもあってよく眠っているのだろう。
総司はできるだけ音をたてないように部屋を出た。
開放感のある庭はみねによっていつも綺麗に保たれており、落ち葉一つなく寂しい風景になっていた。それは主がずっと不在だからかもしれない。






436


土方が寝入ったことに安堵した総司はそのまま深雪のもとを訪ねた。部屋は玄関を挟んだ先にある。
「おおきに、沖田せんせ」
この家に出入りしていた不審な男を捕まえた…そう話すと、深雪は安堵した表情を浮かべた。
総司は敢えてその男が桜井という新撰組隊士で、すでに自分が手を下したということは口にはしなかった。優しい彼女は自分のせいで一人死んだと悩むだろうし、これ以上の心労は身体に良くないだろう。深雪は疑うことなく総司の話を信じた。
総司は傍に控えるみねに声をかけた。
「おみねさんには深雪さんだけではなく土方さんの世話まで任せてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「いいえ、うちは深雪さまとお話しさせてもろうて、楽しゅうて楽しゅうで…でも近藤せんせが戻られましたらこれまでのようにはいきませんなぁ…」
「いいえ、ぜひいらっしゃってください。うちはこっちに来させてもろうてからお話相手は旦那様だけで…正直、退屈しておりました。おみねさんが来てくださるなら、どんなに嬉しいことでしょう」
みねと深雪は顔を見合わせて微笑む。不運な出来事から出会った二人だが結果的に意気投合したのなら良いことだ。総司から見れば二人は母と娘のようにも見える。
「そういえば土方さん宛てに近藤先生からお手紙がきて、もうすぐこちらに戻られるということでした」
「ほんまどすか?お身体の方は…」
「おそらく無事に戻られるでしょう」
総司の言葉に深雪の顔がぱっと明るくなる。つられるように看病を続けてくれていたみねも顔を綻ばせた。
「深雪さま、楽しみでございますね!」
喜びを通り越して涙ぐむみねに「おおきにおおきに」と深雪も貰い泣く。未だに目の隈が目立ち、顔色もさえない彼女だが、近藤が戻ってくれば快方へ向かうだろう。
(もしそれに、妹さんの身請けが叶えばなおのこと元気になるはずだ…)
難しいと斉藤は言っていたが、近藤は積極的に動くだろう。周囲の反感は予想できても、深雪の穏やかな微笑みを見れば妹を身請けしてあげたいとさえ思う。
総司がそんなことを考えていると
「ごめんください」
という声が玄関から聞こえてきた。
「南部せんせどす」
みねが急いで涙を拭ったが、総司は「代わりにご案内しますよ」と請け負って部屋を出た。泣きはらしたままで迎えると、南部が一体何があったのかと心配するだろう。
部屋を出て、玄関に向かうと南部がいた。診療の器具を風呂敷にまとめて抱えている。
「南部先生、ご苦労様です」
「いえいえ、お二人の具合はいかがですか?」
「はい、随分良くなったみたいです。近藤先生も戻られることになりましたので、深雪さんの心も少しは穏やかになるでしょうから」
「それは良かった」
南部はにっこりと笑って腰掛けて草履を脱ぐ。
「あの…お加也さんは…?」
加也とはあの日以来、顔を合わせていない。彼女は自分が怪我を負っていたにも関わらず、土方が傷口を縫合している間、ずっと傍にいて慰めてくれていたというのに、お礼も言えないままなので気になっていたのだ。
南部は苦笑した。
「元気ですよ。ただ肋骨が痛むようでしばらくは養生させています。深雪さんのことが気になって仕方ないようですが、しばらくは私に任せるようにと言い付けて休ませています」
熱心に深雪を診ていただけに気がかりなのだろう。
総司は膝を折って、手をついた、
「…本当に申し訳ありませんでした。あの日、私がもう少し警戒していれば怪我をさせるようなことはなかったのに…」
深雪を警護することばかりに囚われて、加也やみねの身を案じることまで考えていなかった。桜井に襲われた後も加也は気丈に振舞っていたが、もちろんそれが彼女の本心ではないはずだ。
南部は頭を下げる総司に対して、しばらく黙り込んだ。そして「頭を上げてください」と告げた。その声色は南部らしくなかった。
「…南部先生?」
「私も甘かったのだと思います。近藤局長や沖田先生は穏やかで…土方副長も頭の切れる方です。だからきっと嫁がせても大丈夫だと…己を納得させていました」
「…」
「自分でも驚いています。早く私の手元を離れて幸せになってほしいと思っていたのに…今ではまだ…」
南部はそこまで語って言葉を濁した。それはこれまで養父として育ててきた以上の何かの迷いを感じた。いつも朗らかな南部がここまで表情を落とすのは初めて見るのだ。
(だから、あの日も…)
土方の縫合前、南部はどこか厳しい顔をしていた。加也曰く難しい手術ではないということだったが、あれはおそらく怒っていたのだろう。加也を守れなかった総司に対して、そしてそんな新撰組に嫁がせようとした自分に対して。
義理とは言え、手塩にかけてきた娘を嫁がせることに対して不安に思うのは当然だ。そんな誠実な南部に対して、総司も
「…南部先生、本当は私もまだ決心がつかないんです」
と、嘘偽りない心境を吐露した。
「沖田先生…?」
「本当はいま、自分のことだけで手一杯で…またこんなことになったときにお加也さんをちゃんと守れるかどうか自信がありません。それに私は近藤先生や土方さんのためならこの命を投げ出しても構わないと思っています。そんな私にお加也さんみたいな人に嫁いでもらうのは…申し訳なく、思ってしまいます」
「…そうですか…」
南部の表情は複雑だが、それは当然だ。嫁がせようとしていた男にそんなことを言われると頼りなく感じるだろう。しかし、それでも構わないと思った。嘘をつくことなどできない。
「…南部先生、私は土方さんと衆道の関係です」
「え…っ?」
視線を落としていた南部が顔を上げ、ぽかんと総司を見た。周囲には知られた話だし松本も知っていたのだが、南部にまでは伝わっていなかったんだろう。
「近藤先生は衆道と家は別であり、縁談をすべきだとおっしゃいましたし、松本先生はそれでも良いと言いました。お加也さんも…私にはそういう相手がいるというのは承知のことのようです」
「加也も…ですか」
総司の告白に南部は驚きを隠せないようだったが、次第に顔色を変えて頭を抱えた。
「…きっと良順先生の悪知恵だったのでしょう。面白がって…」
「いえ、違います。松本先生は私と土方さんがそういう関係だと知っていて、だからこそお加也さんを紹介してくださったのだと思います」
南部の怒りの矛先が松本に向くのではないかと思い、総司は焦った。しかし南部には怒りではなく困惑が勝ったようだ。
「なぜ、加也を…?」
「それは…きっとお加也さんにも別に思う方がいるからだと思います。縁談の日に彼女からもそう聞きました」
「…」
「お互いに別の人を思っていてもいい…そんな外面だけの夫婦だと。最初はそれで周囲が納得するならそれでいいんじゃないかって」
「そんな…馬鹿げた…」
「私も最初は戸惑いました。けれど少しだけそれで話がまとまるなら、とも思いました。お互いが承知しているなら…不運なことにはならないだろうと」
「…」
でも周囲にも後ろめたくて。それでいいのかと、ずっと迷っていた。
けれどそんな迷いを悟られたかのように、土方が刺された。
「…やっぱりそんなことはできないと思いました。私はきっと人よりも不器用だから、土方さんのことを支えるだけで手一杯で、それ以上のことを望んだらきっとどちらも失うような気がして…」
自分がもし傍に居られなくなったら、こんなことも起こるのかと怖くなった。土方はきっと「そんなに柔じゃない」と突っぱねるだろうけれど、土方のためではなく、自分のためにずっと傍にいたいと思った。
「…お加也さんはとても素敵な女性だと思います。女子の身でありながら医者としての信念があって…素直に憧れます。だからこそやはりこのような縁組はできません」
総司は深々と頭を下げた。
「最初から気が付けばよかったと今では思います。本当に…申し訳ありません」
何も知らなかった南部には寝耳に水の話ばかりだっただろう。突然こんな結末を突きつけられれば怒るのは当然だと思った。
けれど、南部は一息つくと
「頭をお上げください」
と穏やかに口にした。
「沖田先生が謝ることばかりではありません。元はと言えば良順先生の発案だったのでしょうし、加也も嫁ぐ身でありながら片恋をしているなど…失礼なことを申し上げました」
「そんな…お加也さんを怒らないであげてください。お相手の方は願っても思いが叶わない方なのだと言っていました。本当に好きだからこそ、こんな無茶な話を受け入れたのでしょうから…」
「ええ、わかっています」
総司の懇願を南部は微笑んで受け入れた。その表情に総司は少し安堵したが、南部はしかし陰りを見せた。
「きっと私に原因がないとはいえないのですから」
「え?」
「…いいえ、何でもありません。誠実に話してくださってありがとうございます」
南部には義父としての感情以上の何かがある。総司はそう感じたけれど、それを彼に尋ねることはしなかった。
「…さて、深雪さんを診察しましょう。そのあとに土方副長の傷の具合も診させてください」
「は…はい、ありがとうございます」
先ほどまでの暗澹たる表情を打ち消すように南部はさっさと草履を脱いで玄関を上がった。そしてそのまま深雪のいる部屋へと向かって行ったのだった。







437


冬の夜が更ける頃。
診療所の裏口の扉がガタガタと開く音が聞こえた。横になって目を閉じていた加也は、その身をゆっくりと起こした。普段痛みはないものの、そういった動作には少し痛みを感じてしまう。
肩から羽織を掛けて、裏口へと向かう。そこには腰を下ろして草履を脱ぐ南部の背中があった。
「おかえりなさい」
「…」
「…義父上?」
南部は背中を向けたまま返答することはなく、その背中には疲労感があった。夜遅くまで診療に時間がかかることは多いが、こんなにも疲れている姿は初めてだ。
「義父上、どうかなさったのですか?いまお茶でも…」
「加也、そこに座りなさい」
南部は背中姿のまま名前を呼んだ。その口調は強く、彼らしくないものだった。
(怒っている…?)
加也はすぐにそう思った。最も南部が怒っている姿など一度も見たことがないのだが。
加也は言われるがままにその場にゆっくりと膝をついた。肋骨は少し傷んだがそれよりも南部のことが気になっていた。
「…あの…」
何も言わない南部から、ほのかに煙の匂いがした。そして僅かに酒の香りも鼻を掠める。
(飲んで帰ったのかしら…)
松本に付き合って飲むことが多いのに、と彼らしくない行動に加也は首をかしげる。よっぽど難しい治療があったのか、助からない命に出くわしたのか…加也自身にはその理由が思い至らなかった。
するとようやく彼は口を開いた。
「沖田先生から、縁談は取りやめたいとお話を伺いました」
「え…っ?」
寝耳に水の話に、加也は驚く。
深雪が襲われた一件があって先延ばしになることに決まっていたが、取りやめることになるとは思わなかったのだ。
「あの…わたくしは何か粗相を…?」
総司から断られてしまい、さらには南部がこうして不機嫌になるほどの何かをしでかしてしまったのだろうか。しかし加也には心当たりがない。
南部は背中を向けたまま続けた。
「沖田先生に、片恋の相手がいると告げたそうですね」
「!」
「先生にも同じように好いた相手がいる…それを利用して縁談をまとめようとしていたと正直に告白されました」
ようやく南部は加也の方へと身体を向けた。怒っている…というよりもどこか哀しそうに眉を顰めていた。
「義父上…それは…」
「今回の縁談を言い出したのは、良順先生です。あの人が考えそうな素っ頓狂なことです。いつまでも隠し通せることでもないでしょうに…」
「申し訳ありません…」
加也は素直に頭を下げた。発案が誰であれ、それを受け入れて縁談を進めたのは他でもない自分自身だ。それが南部を騙すとわかっていたのに、悪びれはしなかった。
悪いことだと、思わなかった。
南部は深いため息をついた。
「世が世なら縁談後に別の相手を思うなど…手討ちになってもおかしくはありません。それを新撰組の…誰よりも誠実に生きようとしている沖田先生に強いようとしたことは謝って済むことではないでしょう」
「…はい」
南部の話に反論できることは何一つない。加也は俯き、唇を噛んだ。
それからしばらく沈黙が流れた。重苦しく冷たい時間だった。指先一つ動かすのさえ緊張する…そんな空気は初めてで、加也は息を飲む。
「…それで?」
「え…?」
「あなたの片恋の相手とは…誰なのですか?」
それは、
ガン、と頭を殴られたかのような衝撃だった。何を尋ねられたのかわからないくらい、クラクラと目の前が揺れていたのは、きっと自然に込み上げていた涙のせいに違いない。
哀しさと、悔しさと。
様々な感情が混じり合う。
それまでずっと堪えてきたものがガラガラと崩れていくようだ。
(もう…我慢しなくていいや)
加也はそう思った。
だから、覚悟した。
「…精一郎先生」
南部のことをそう呼ぶのは随分久しぶりだった。養女として迎えられてから、ずっと封じてきた名前。
「わたくしは…精一郎先生を義父上なんて呼びたくはありませんでした。ずっと…最初から、ずっと。でもそう呼んでいないと…怖かった」
「…」
「本当は分かっているくせに、まるでなかったように聞き流す。精一郎先生のそういうところが…嫌いです」
加也は涙を拭った。そして目の前にいる南部の顔をしっかりと見据えた。
「わたくしの片恋の相手は精一郎先生です。…本当は、知っていたでしょう?」
「加也…」
まっすぐに見つめている加也から逃れるように、南部は視線を落とした。
「…精一郎先生、良順先生を責めないでください。良順先生はきっとわたくしのことを想ってこそ、沖田さまとの縁談を進めようとなさったのですから」
「何故…」
「そうしていれば、この気持ちをずっと持っていられるからです。沖田先生との夫婦関係を隠れ蓑に精一郎先生をずっと想っていられる。良順先生にはそれが過酷な道だとも言われましたが、それでもいいと言ったのはわたくしです。沖田先生はお優しいからそれに付き合ってくださっただけのこと…悪いのはすべてわたくしです…」
でもそれでも、何をも犠牲にしても。
(好きだったから…)
その気持ちが勝っていた。
南部もそれをようやく理解したのだろう。表情を歪めて頭を抱えた。そして両手で顔を覆ってどうにか動揺を堪えようとしているように見えた。
いつも穏やかで温厚な彼が見せる苦悩の姿に、加也はそうさせてしまった罪悪感と痛みを感じる。けれどもう引き返すことなどできない。
「精一…」
「その名で呼ばないでください」
加也の言葉を、南部が遮った。手で顔を覆ったままだった。
「…私は、君が思うような人間ではない」
「どういう…ことですか?」
「私は君の家族を殺した」
「…」
「私は君の母…志乃さんのことをずっと想っていた。それは父の片桐先生もご存知のことだった。あの日、片桐先生が倒れたとき、処置を施したのは私です。でも…私にはその時の記憶がさっぱりありません」
南部は顔をくしゃりと歪めた。
「気がつけば片桐先生が亡くなっていた。そして私はすぐに志乃さんのことを思った。相思相愛の仲だったのに、こんなにも突然の別れを志乃さんが乗り越えられるはずがないと…そう思って…」
気がつけば、駆け付けた。自分がいるから大丈夫だと励ました。そして彼女の気持ちが少しだけ変わっていることに気がついた。弱り切った彼女の心に、自分の居場所ができていた。
淡い期待。邪な熱情。暗い願望…
『精一郎先生』
そんななか、加也が名前を呼んだ。父を亡くして途方にくれる少女が穢れのない瞳で見つめた。
そのたびに後ろめたい気持ちでいっぱいになった。
そして志乃は死んだ。
それは紛れもなく彼女の意思によるものだったけれど、一方で紛れもなく自分のせいだった。
これは報いだ。
善良だと信じていた自分のことが何一つ信じられなくなった。
「…私は志乃さんを想うばかりに、片桐先生の処置を怠ったんじゃないか…死んでもいいと手を抜いたんじゃないか…」
「精一郎先生はそんなことしません」
加也はいつの間にか震えていた南部の手を取った。寒い冬だというのに温かい手だった。
「加也…」
「わたくしも…あの時のことは朧げにしか覚えていません。でも精一郎先生は父の為に精一杯処置をしてくださって、亡くなったあとも母を励まそうとしてくれた…それはちゃんと覚えてます」
加也はもう片方の手も添えた。その言葉と暖かさに震えは止まった。
「精一郎先生は何も悪くありません」
その言葉に嘘はなく、加也には南部を責める気持ちなど微塵もなかった。
「加也…」
しかし南部はその手を逃れるように引いた。そして立ち上がる。
「精一郎先生…?」
「…少し頭を冷やしてきます。先に寝ていなさい」
「え…」
引き止める間も無く、南部は扉を開いて出て行く。ガラガラと深夜に響く扉の音が、まるで南部の心の扉が閉じて行くような音に聞こえた。
(やっぱり…迷惑なんだ)
ずっと封じ込めてきた気持ちを解放し、伝えた。それだけで満たされると思っていたけれど自分は自分が思う以上に貪欲で、望んだ答えが得られないことを嘆いてしまう。
「う…ぅ…」
大粒の涙が溢れた。
(言わなければ良かったの…?)
ポタポタと落ちて行く涙を止めることはできなかった。
「加也」
ギシィという足音とともに、松本の声が聞こえた。南部は知らなかったようだが、松本は今晩南部に会う為に来ていたのだ。当然、二人のやりとりは聞いていただろう。
松本はゆっくりと加也のもとにやってきて、膝をついた。そして肩を抱き
「よく頑張ったな」
と、頭を撫でた。それはまるで子供をあやすようだったけれど、誰かに肯定されるととても心が解かれた。
先ほどよりも大粒の涙が頬を伝う。けれどあの日…養女になったあの日のような冷たい悲しみではなく、心に小さな明かりが灯ったかのような温かさがあった。
ただの自己満足かもしれない
でもこれで良かったと、そう思った。






438


十二月。
その日ははらはらと雪が舞っていた。
「近藤局長のおかえりだ!」
先んじて様子を見に行っていた隊士が、西本願寺の屯所に駆け込むようにやって来て、出迎えの準備をしていた隊士たちがワッと盛り上がる。今か今かと帰還を期待する隊士たちの一番前に土方とともに総司がいた。
「大丈夫ですか?」
近藤に会えるという高揚感はあったが、総司は土方の身体を気遣う気持ちの方が上回った。傷口は完全に塞がっておらず、南部から床を出ることは了承してもらったが、無理をせずに安静にするようにと何度も念を押されている。しかし土方は強気だった。
「大丈夫だと言っているだろう。それから、近藤先生の前で余計なことを言うなよ」
「私が言わなくてもきっと近藤先生には気づかれると思いますけど…」
普段は疎いところがある近藤だが、土方に関しては長い付き合いだけあって鋭いところがある。
だが土方は「気づくものか」と鼻で笑った。しかしそれが傷に響いたのか少しだけ眉をひそめた。
そんなことをしていると一気に辺りが騒がしくなり、近藤を先頭に伊東、武田、尾形が姿を現した。
「おかえりなさい!」
「ご無事で何よりです!」
「局長!」
「伊東参謀!」
隊士から様々な声が飛び、近藤や伊東は手を振ってそれに答え、武田と尾形は少し頭を下げた。旅姿の四人は長旅の疲れはあるようだが、屯所に戻ってきたという安堵感からか、顔は綻んでいた。
そして彼らは土方と総司のもとにやってきて足を止めた。
「ただいま、歳」
近藤は満面の笑顔で土方の前に立った。土方は少し苦笑して
「『土方副長』だろ」
と指摘した。大勢の隊士の前だ、しかしそれに対して近藤はなおも笑う。
「いいじゃないか、無事に帰還したんだ。お前たちに会えて気が緩んでいるのだから仕方ないだろう」
「緩んでもらっちゃ困るが…おかえり」
土方らしい皮肉があったが、総司はその横顔が誰よりも隠しきれないほどに緩んでいることに気がついていた。
近藤は隣にいた総司へと目をやった。
「総司も元気そうだな」
「はい。先生もご無事で何よりです」
「お前からもらったお守りが効いたよ。肌身離さずちゃんと持っていたよ」
そう言いつつ近藤は懐からお守りを出す。総司は素直に「良かった」と喜んだ。
それから近藤は永倉や原田、藤堂の元へ向かい談笑を交わす。土方の元へは伊東がやって来た。
「…参謀、道中お疲れ様でした」
「いえいえ、土方副長こそお勤めご苦労様でした」
伊東は相変わらずの美しい笑顔で微笑む。長旅で疲れているはずだが、そんな様子を一切出さないどこか人間離れしている微笑みだ。
そんな伊東に対して土方は淡々としていた。
「山崎を監察役として置いてきたそうだが…」
「ええ、それは私の案です。もちろん局長にご了解を頂いております…その件に関しては後ほど詳しくお話ししましょう」
「…わかりました」
優美に語りかける伊東と、冷たい風が吹くかのような土方の返答。それは誰が見ても近寄りがたく感じる会話だったが、当の二人は気にする様子はなく、土方は背中を向けてその場を去り、伊東は江戸からともに上京した仲間の元へ向かい、迎えられたのだった。


早速、組長助勤以上の幹部と同行していた二人が集められ、今回の長州行きの経緯が報告された。伊東による話は無駄がなく彼の頭を良さを示すような内容だったが、誰もが驚愕したのは赤禰武人の一件だった。
「…結局、その赤禰って野郎は裏切ったってことなのか?」
長州からの刺客に襲われ逃げ出した赤禰に対し、正義感に溢れる原田は苛立っているようだった。その隣にいた永倉は「ふむ」と腕を組む。
「もしかしたら最初から裏切るつもりだったのかもしれないな。幕府を利用して獄を抜ける…今頃はかつての仲間と再会して、反逆の術を探しているのかも」
「卑怯な野郎だぜ」
吐き捨てる原田に対し、伊東は何も言わなかったがかわりに
「その件に関しては会津から話が来ている」
と土方が切り出した。
「話?赤禰殿について何か知らせがあったのか?」
近藤は困惑し、伊東も驚いているようだったが、土方は彼らが戻るよりも先に情報を得ていたのだ。
土方は重々しく告げた。
「…赤禰武人は処刑された」
「なんだって?!」
「長州内で倒幕派の浪士に捕縛され、殺されたそうだ」
「そ…そんな…」
近藤は愕然とした表情で肩を落とし、尾形と武田も落胆している様子を見せた。少なからず交流があっただけにショックなのだろう。しかしそんななかで伊東は
「そうでしたか」
とさらりと流す。土方の隣に控えていた総司はその表情にぞくりと背筋が震えた。
表情ひとつ変えないように見えるのはもともとその作り込まれたような容貌のせいなのか、それとも彼の本質なのか。後者なのだとしたらなんて恐ろしい人なのだろう。
そんな伊東に気がつく余裕のない近藤は震える唇で尋ねた。
「と…土方君、赤禰殿は何故…」
「理由はわからないが、もともと長州の中でも幕府との融和を唱えていたと聞く。今回幕府と同行したことで裏切り者の誹りを受けても仕方ないことだろう」
「そう…か。そうだな…しかし、無念だ…」
あからさまに悲しむ近藤をはじめ、原田や永倉さえも死人を悪く言うこともできずに部屋はしんと静まりかえる。
口を開いたのは伊東だった。
「…ご報告は以上です。永井様からは今後もまた長州へ足を運ぶこともあり、その際には新撰組にも力を貸して欲しいとのお言葉を頂きました。隊士の皆さんには今以上に隊務に励んで頂きたいと思います」
その言葉で場は解散となった。後味の悪い結末に皆は閉口したが、ぞろぞろと部屋を去っていく。部屋には近藤と土方、そして総司が残った。
「…歳、一つだけ教えてくれ」
「なんだ」
「赤禰殿はどこでその命を落としたんだ…?」
「…故郷の柱島という場所だと聞いている。潜伏していたところを捕まったそうだ」
縁もゆかりもない場所故に総司にはピンと来なかったが、土方の言葉を聞いて近藤は少しだけ表情を和らげた。
「…そうか。だったら嘘じゃなかったんだな…」
近藤はそう呟いて両手で顔を覆った。そしてしばらくして深く頷いて「そうか」ともう一度口にして手を外す。その意味は総司には分からなかったけれど近藤にとって大切なことだったのだろう。その顔にもう落胆はなかった。
「この話は終いだ。…歳」
「ん?」
「今すぐ横になれ」
「…は?」
「怪我をしているんだろう。隠したって無駄だ、お前の歩き方はどこかおかしいし、痛みを我慢しているのだろう、額に冷や汗をかいているぞ」
近藤は自身が座っていた座布団を差し出して枕がわりにし、土方の肩を掴むと無理やり横たえさせる。土方はそんな乱暴な近藤の行動に対して
「いてぇな」
と口にしてしまったので「やっぱり!」と肯定することになってしまった。そんな二人のやりとりが微笑ましくてすこし懐かしくて、総司はクスクス笑った。
「だから言ったじゃないですか。近藤先生はきっとお気づきになるって。あ、私は何も言ってませんからね?近藤先生は全てお見通しなんです」
「…お前は黙ってろ」
悔しかったのか、土方は不機嫌そうに顔を歪める。近藤は「やれやれ」と軽くため息をついて
「色々あったんだろう?お前たちの話を聞かせてくれ」
と尋ねた。


三人は場所を近藤の別宅へと移すことにした。土方が屯所では誰にも弱った姿を見せたくないと譲らなかったためだ。
道中は近藤がしきりに「大丈夫か?」「肩を貸そうか?」と心配したが、土方はその都度「必要ない」と突っぱねた。怪我を隠していたのにあっさりと見破られたのが悔しかったのか、不機嫌な様子だ。
別宅への道中で土方の代わりに総司が経緯を話した。別宅に不審者が現れ深雪が具合を悪くしていること、その不審者が隊士の桜井であったこと、そして桜井が土方を刺したということ。
「…そうか。色々と大変だったな」
「この件は私と土方さん、それから斉藤さんたち幹部以上にしか知らせていません。桜井は私が殺しましたが、その件は脱走を図ったためと伝えてあります」
「歳の怪我は?」
「土方さんが隊士たちには伏せるようにとのことでしたから、その場にいた私と斉藤さんが把握しているくらいでしょうか。それから南部先生たちと深雪さん、おみねさんもご存知です」
「いや、芦屋も知っている。奴には今回の件を探らせていた」
それは総司も知らなかったことなので驚いた。芦屋とは以前の三浦の一件から顔を合わせていないいが、監察のなかでも土方に重用されているのなら良い働きをしているのだろう。
「そうか…お前も随分、無茶をするなぁ」
「かっちゃんだって長州で無理をしていただろう。赤禰の一件は本来なら新撰組の手に負えるようなことではなかった」
「ああ…まあ、そうだな。でもわかったこともあるよ」
「わかったこと?」
「…後で話そう」
三人は別宅へたどり着いた。








439


近藤の別宅にやってくると、深雪とみねが出迎えた。
「おかえりなさいませ…旦那様」
いつも床に伏していた深雪は化粧を欠かさず身なりを整えていたけれど、今日は特に際立って美しく、薄紫の着物をまとい紅を差し、上品な奥方の風情で出迎えた。その様子は病で伏しているということを感じさせない神々しさがあったが、表情は万感の様子で、近藤を見る目がキラキラと輝いているように見えた。
「ただいま…息災で何よりだ」
深雪の病状や不在の間の出来事について近藤はもちろん知っていたが、それを悟られまいとする深雪の健気さを感じ取り、あえて何も言わずに彼女の出迎えを受け取った。
見つめ合う二人。どこか他の人を寄せ付けない二人だけの空気が流れていた。
「…皆様、奥のお部屋にお上がりください。夕餉もすぐに支度させてもらいます」
みねが申し出て、近藤は「頂こう」とようやく草履を脱ぎ、玄関を上がった。
近藤と深雪が談笑しながら先んじて歩いて行く中、土方が小声で総司を引き止めた。
「総司、お前は近藤さんと先に夕餉を呼ばれてこい」
「え?土方さんは…」
「俺は…少し休んでから行く」
そう言うと土方は総司に背を向けて、怪我の休養のために使用している別の部屋に歩いて行く。本人は強がっているが傷が痛むのだろう。だがそれを口にすれば心配をかけるだろうと、近藤と深雪の久々の再会に水を差さまいという土方らしい配慮だ。
総司は台所へ向かうみねにこっそりと声をかけた。
「…おみねさん、あとで土方さんに茶と痛み止めの薬を渡してください」
「へえ、かしこまりました」
もともとは土方の別宅の世話をしているみねも土方の性格は心得ているようで、頷いた。
総司は遅れて近藤と深雪とともに部屋に入る。この別宅で一番庭が美しく眺めることができる客間だ。
「歳はどうした?」
「少し…仕事が残っているようです。部屋で済ませてくると」
「そうか」
総司は咄嗟に嘘をついてしまったが、おそらく近藤も土方の遠回しな気遣いはわかっているはずだ。
深雪は両手の指先をそっとついて、軽く頭を下げた。
「旦那様、お役目を果たされ、こうしてご無事にお戻りになられたこと…嬉しく思います」
「ああ。時折、歳から手紙をもらっていた。少し…身体を壊したそうだが」
「大事ありませぬ。ご心配をおかけして堪忍どす」
「…そうか、大事ないなら良い」
深雪は未だに本調子とはいかないようだが、彼女自身が断言したため近藤もそれ以上の追及は口にしなかった。
「君に土産がある。気に入ってもらえると嬉しいのだが」
近藤は屯所から持ってきた小さな風呂敷を深雪の前に差し出した。深雪は顔を綻ばせ結びを解く。
「…まあ、これは筆…ですか?」
「あちらでは上質な筆が作られているらしい。伊東参謀に教えていただいて手習い用の筆を買い求めたのだが、化粧筆は君の良い土産になるのではないかと思ってね」
「こんな上等なものを…おおきに」
深雪はまるで宝石に触れるかのように筆を取り、嬉しそうに微笑んだ。それを見ている近藤もまた満足げに頷いていた。
その頃、みねが戻ってきて温かい茶を差し出した。
それからしばらくは土産話に花が咲いた。西国は誰にとっても足を踏み入れたことのない場所で、特に近藤は穏やかな波が打ち寄せる瀬戸内の海は良いと場所だったと口にした。もちろん、政治的な内容はなく総司も和やかな気持ちで聞いていた。
そして一通り話し終えた後、近藤が切り出した。
「…ところで、総司。見合いの方はどうだったんだ?歳からは順調にことが運んでいると手紙が来ていたが…」
「あ…」
「会津藩医である南部先生の娘さんを迎えるなんて良いお話じゃないか、深雪もそう思うだろう?」
「へえ、加也様は熱心にうちの看病もしてくださいました。とても素敵な女子はんやと思います」
「そうかそうか」
近藤どころか深雪、みねもまた傍で頷いている。総司も加也に不満があるというわけではない。
「素敵な夫婦になられると思いますえ」
「そうか、ならすぐに話を…」
「先生」
しかし、もう迷いはなかった。
「…近藤先生、この縁談が私にとって良いものだということはわかっています。お加也さんは私にはもったいないほど聡明で素晴らしい方です」
「惚気か?」
「…でも、お断りをさせてください」
「な、なんだって?」
総司の申し出にその場にいた三人は驚きを隠せない様子だった。特に近藤は土方から『縁談はまとまる』と聞いていたのだろう、目を丸くしていた。
総司は深雪へ目を向けた。
「すみません、深雪さん。縁談の席では色々と気を回していただいたのに…」
「そないなことは構いしまへん。せやけどどうして…?」
「…」
既に加也と友達のように親しくなっている深雪にどう説明していいのかわからず、総司は迷った。
「お加也さんに何か問題があるわけではありません。申し分ない方です。ただ…私には、誰とも縁談を受けるつもりがないということだけです」
「…総司、それは歳のことと関係があるのか?」
「そうです」
近藤の問いかけに、総司は即答して続けた。
「…先生がおっしゃることは理解しています。沖田家は義兄が継ぐけれども、姉が本当は私に継いで欲しいと願っていることも…知っています。だから一度は、そうする方が良いと納得しました。別に歳三さんと離れるわけではないのだから、そうする方が誰もが幸福なのだと言い聞かせました」
「…だったら何故だ?」
愛弟子を思う近藤の気持ちも、遠くに離れた末の弟を心配する姉の心情もわかっている。その為に、土方との関係とは別のものだと受けれようとした。土方でさえも納得した。
けれど、それはできなかった。
「でも先生…たとえ私に家族がいなくても、子がいなくても…それは私にとって不幸なことではないと気がついたんです」
「どういうことだ…?」
「…私にとって不幸なことは、歳三さんがいないことだけです。それを…この間、歳三さんが刺された時に悟りました」
「…」
ずっと一緒に居られると思った。けれどそうじゃないのかもしれないと気がついた。
すると全てが惜しくなった。
「限りある時間は…もしかしたら明日終わるのかもしれない。今回は歳三さんは無事でしたけれど…次はわからない、今度は私に何かがあるのかもしれない。私たちはそういう世界で生きています。だからこそ、私には縁談をして別の人と過ごす時間すら…惜しい」
未来のことは誰にもわからない。加也を嫁に迎えることが幸せに繋がるのかもしれない。
でもそれは全てが不確かであり、確かなものだけを信じるならば、土方との『今』だけだ。
「私にとって歳三さんはかけがえのない存在です」
そしてこんな思いを抱えながら、加也を嫁にもらうことはできない。それは、彼女を不幸にしてしまうだけだから。
総司は近藤に頭を下げた。
「身勝手で…我儘だと思います。近藤先生や姉上の思いを踏み躙るものだともわかっています。私がもっと器用だったら良かったのかもしれません。でも…歳三さんとともにいることが、私の生きる意味だとわかったんです。それ以外も、それ以上も望みません。だからこれだけは譲れません…ごめんなさい」
「…」
総司は深く深く頭を下げた。
その言葉を聞いていた近藤や深雪、みねが一斉に口を閉ざし、部屋はしんと静まった。
総司は目を閉じていた。あと一歩で縁組がまとまるところまで話は進んでしまっているのだ。だから、どんなに叱られても構わないと思った。
けれど、聞こえてきたのは近藤の穏やかなため息だった。
「…総司、頭を上げなさい」
「先生…」
「お前にそこまで言われるなんて、歳は幸せ者だな」
「ふふ…うちもそう思いますえ。こんな殺し文句…廓の女子なら卒倒してしまうわ」
顔を上げると、近藤や深雪は微笑んでいた。みねもまた穏やかな表情をしていて、そうしてようやく総司は自分が恥ずかしいことを口走っていたことに気がついた。一気に頬が熱くなる。
「え…あ、あの…」
「お前にそこまで言われちゃ、もう俺は降参するしかない。どうやら余計なことをしたみたいだ」
「そ、そんな…先生は何も悪くありません」
「そういえばこうやってお前が俺の意思に背くのは初めてだな。お前は素直で…優しい。だからいつも己の気持ちを犠牲にして俺の考えを尊重してくれていた」
「…」
近藤は感慨深そうに口にするが、総司には今まで犠牲なった、という感情はない。総司にとって近藤の喜ぶ姿が、自分にとっても喜びだったというだけだ。
でも、今回だけは違う。
「先生…私は先生のお考えが間違っているとは思いません」
「ああ。だが、お前の選ぶ道が違うだけだ」
近藤は総司の肩に手を置いた。ゴツゴツとした大きな手が、それでいいと言っている気がした。
「歳は俺の手紙をお前に見せたか?」
「…手紙…ですか?」
心当たりのない総司は首を傾げる。その様子を見た近藤は「ははっ」と笑った。
「あいつも随分律儀な男だな。もうこうして無事に戻ってきたのだから、笑い話になるが…」
「どういうお手紙だったのですか?」
「それは歳に聞いてくれ。…総司、お前の縁談の件は歳が納得するのならなかったことにしよう。俺はお前も…歳のことも大切だ。お前たちが後悔のない人生を送ってくれるなら、それが一番だよ」
「先生…」
「松本先生と南部先生には俺から話をしよう。お加也さんにも詫びよう。…ただ、言っておくが後になって惜しい女だったと言っても後の祭りだからな?」
「…わかっています」
近藤が少し茶化して、深雪と目を合わせて笑う。みねも微笑んで「夕餉にしましょ」と部屋を出た。
庭の草木が冬の冷たい風を受けて、ゆらゆらと揺れていた。けれどその根はしっかりと土に根付いて、春を見据えていた。




440


和やかな食事を終えると、世話をしてくれていたみねが家に戻ると言いだした。総司は
「お送りしますよ」
と申し出た。夜はすっかり更けてしまっているので、一人の夜歩きでは心もとないだろうと思ったのだ。しかしみねは「生娘やあらしまへん」と柔らかに断ったので、玄関まで送ることにした。
「近藤せんせがお戻りになられはりましたし、深雪さまも落ち着かれますやろうし…うちの仕事はもう終わりやなぁ」
みねが感慨深そうに呟く。
「そんな。深雪さんもまた来て欲しいとおっしゃっていましたから、別宅の世話がないときは顔を出してあげてください」
「…せなやあ」
「急に顔を出さなくなったら、深雪さんも寂しがりますよ」
総司は食い下がったが、みねの返答は鈍い。
(どうしてだろう…)
深雪とみねは距離を縮め、傍目にはまるで親子のように見えるほど親しくなっていた。そのためみねがここに来づらいということはないはずだが。
みねは提灯を手にして微笑む。
「沖田せんせ、深雪さまの妹さまのこと…よろしくお頼み申します」
「え?ああ…身請けの件ですね。もう少し落ち着いたら話をしてみます」
「へえ。きっともっとお元気になられると思いますえ…ほな」
みねは軽く会釈をして去っていった。しなやかな言葉遣いだが、その雰囲気にはこれ以上は踏み込んでほしくない…という意思を感じた。
違和感を覚えつつも総司は彼女が手にしていた仄かな明かりが消えて無くなるまで見送った。
「…よし」
総司はそのまま近藤の元には戻らずに、土方のいる部屋に向かった。部屋には小さな明かりが点いていた。
「土方さん」
「…ああ」
返答が聞こえたので部屋に入る。着崩した姿で横になっていた土方だったが、蝋燭の灯りを頼りに読み物をしていた。
「傷の具合はいかがですか?」
「問題ない。薬が効いた」
「そうですか。おみねさんが土方さんの分の夕餉を御重に詰めて用意してくださっていますけど、召し上がりますか?」
「いや…今はいい」
土方は手にしていた書物を閉じた。そしてゆっくりと身体を起こして襟を正す。
「…屯所に戻るか」
「え?せっかくですから今夜はこちらで休ませてもらったらどうですか?」
「馬鹿。久々の逢瀬を邪魔するわけには行かねえだろ」
「あ…ああ、そっか」
総司は頭を掻いた。熱心に深雪の世話をしていたみねがあっさりと帰宅したのも二人に気を利かせたのだろう。
帰り支度を始めた土方は羽織に袖を通す。一つ一つの動作が未だに鈍く、強がっていながらも痛みがあるのだろうと察することができた。痛みを堪えて屯所に身を置いては治るものも治らないだろう。
「だったら、屯所ではなくて別宅に行きませんか?屯所だったら無理をしてしまうでしょう?…それに、土方さんに話があるんです」
「…わかった」
土方の返答はどこか重い。総司は別宅に行きたくないのか…と勘繰ったが、土方はさっさと部屋を出てしまった。
総司は台所に向かいみねが準備してくれていた夕餉を手に、近藤に一言挨拶をして家を出た。近藤は「泊まっていけばいい」と言ってくれたが、すでに土方は自身の別宅に向けて家を出てしまっている。有り難くも断って、総司は慌てて土方を追いかけた。
月明かりの眩しい夜だった。見上げれば雲ひとつない空に満月が神々しく鎮座していた。
すたすたと歩く土方の背中には、傷を負っている様子など微塵も感じられない。それどころか、ぴんと背中を張って歩く姿は月明かりを浴びて近寄りがたいほどに凛としている。
その姿は目を奪われるほど、眩しかった。

近藤の別宅ともほど近い土方の別宅には、久しく誰も出入りしていないせいかどこか静まり返っていた。けれどみねが定期的に世話をしてくれているようで埃が溜まっていることなどはない。
土方は客間に腰を下ろして、深く息を吐いた。そのため息にはどこか疲労感がある。
「土方さん、夕餉を食べますか?」
「後でな。…お前の話を先にしろ」
総司は強引な土方に言われるがままに目の前に膝を折ったが、彼の目の前に改まって座ると、どう切り出して良いのか分からなくなった。
しばらく総司の言葉を待っていた土方だが、痺れを切らしたように
「縁談のことか?」
と切り出して続けた。
「かっちゃんが帰ってきたことだし、話を進めることになるだろう。仲人は松本先生にお願いして…」
「歳三さん。ひとつお願いがあるんです」
総司が強い口調で遮ると、土方は言葉を止めた。
「なんだ?」
「近藤先生が歳三さんに託けたという手紙を読ませていただけませんか?」
「!」
土方はあからさまに驚いた顔を見せた。
「…かっちゃんが話したのか?」
「はい。内容は歳三さんに聞いて欲しいと言われました。きっと歳三さんのことだから、私事の手紙なら屯所ではなくてこの別宅に置いてあるのではないですか?」
「…」
図星だったのか、珍しく土方の目が泳ぐ。そして深くため息をついた。
「…ったく、無事に帰ってきたからってすぐに気を抜きやがって…」
ブツブツと文句を言いながらも近くにあった文箱と引き寄せて中を開いた。そこにあったのは、土方の義兄である佐藤彦五郎宛の手紙だった。彦五郎は昔から何かと試衛館のために尽力してくれていて、新撰組が壬生浪士組だった頃も金策に手を貸してくれていた。近藤にとっては恩人のような人だ。
土方は手紙を手にとって、総司の前に出した。
「言っておくが、これは長州行きを前にかっちゃんが覚悟を決めて書いたものだ。もしその身に何かあれば義兄さんや小島様に送るように言われていた」
「小島様へも…」
「だからお前も、覚悟を決めて読め」
「…」
土方の語気が強くなり、総司も思わず息を飲んだ。恐る恐る手紙に手を伸ばして開くと、そこには見慣れた近藤の筆跡によってなんの迷いもなくサラサラと流れるように文字が書かれていた。
総司は読み進める。長州行きは危険が伴い、自分の身に何が起こるのかわからない。戦場を前に怯む気持ちは無いが、それでも自分がもしこの世を去った時に気がかりなことがある。それは天然理心流のこと…新撰組の局長となった今だからこそ、己の身を押し上げてくれた剣術への深い感謝をしている。だからこそ、それを後世に伝えていくために何ができるのか―――。
「…歳三さん…」
「ああ。かっちゃんはお前に天然理心流を継いで欲しいと考えているようだ」
「そんな…私は近藤先生の血縁ではありません!」
いくら剣術が上達しても、その名前を継ぐことはない。そんなことは当たり前だと思っていたし、近藤も自分の子に継がせたいと思っているはずだ。それなのに自分の名前が挙がることは、総司にとって信じられないことだった。
「…かっちゃんが無事に戻ってきた今となっちゃ笑い話だが…あいつは本気だった。かっちゃんには男子がいないし、あいつの次点はお前だ」
「でも…」
「ああ。お前は沖田家を継がなければならない。だからかっちゃんは剣術だけをお前に継がせようとした」
「…」
手紙を持つ手が小刻みに震えていた。渦巻く感情は喜びなのか驚きなのか、わからない。
「…近藤先生に後継がいなくったって、娘のたまちゃんがいます。剣術のできる婿養子を迎えた方が良いじゃないですか」
「確かにその方が話が早いだろう。でもかっちゃんはお前に継がせたいと言っていた」
「どうして…」
「お前の剣術が好きなんだそうだ」
「…え?」
それはとても土方の口から発せられたとは思えないような子供っぽい内容だったが、土方の顔は極めて真摯なものだった。
「お前は天然理心流しか知らない、だからこそお前の身に沁みた剣術こそが後世に伝わるべきだと」
「…先生は買い被りすぎです…」
「ああ…そうだな、そうかもしれない。だが、俺もお前が継げばいいと、そう思った」
「歳三さん…」
近藤だけではなく、土方も同じ考えでいてくれた。
彼らの思いを簡単に受け取ることはできない。けれど未来を託してくれていたという彼らの気持ちに総司の胸は高鳴り、目頭が熱くなった。
土方は総司の手から手紙を取り上げた。そしてそれを元どおりに折りたたみ、文箱の中に戻す。
「あくまでかっちゃんの身に何かあった時の話だ。だから本当に何かが起こるまでお前に知らせる必要はないと考えていた」
「…もちろんです。私が絶対にお守りしますから、近藤先生の身に何も起こるはずがありません」
総司は目尻を拭った。
近藤が認めた未来は来ない。何故なら自分が守るから。近藤よりも先を生きている未来なんてない。その覚悟は試衛館を出て、ここにやってきてからずっと決めている。近藤の思いを聞いてその覚悟を新たにすることができた。
「お気持ちだけ有難く受け取っておきます。…歳三さんの気持ちも」
「俺は何も言っていないだろう」
「鈍感な私だってわかります。…歳三さんはきっとこの手紙を見て縁談を進めようと思ったんでしょう?だから近藤先生も手紙を見せてもらえって言ったんですね」
剣術を継ぐということになれば、相応しい縁談相手を…と考えるだろう。近藤が総司の縁談を進めていたのはそのせいだし、土方が急に考えを変えて縁談に同意したのことにも納得ができた。
「…」
土方は肯定も否定もしなかった。
「…歳三さん、ごめんなさい」
「何がだ?」
「もっと早く気がつけば良かった。歳三さんが考えを変えるとしたら、近藤先生のため以外にはないのに…ずっと気がつかなかったせいで、歳三さんを苦しめてしまった」
「別に…苦しんでなんかいねえ…」
「縁談はお断りしました」
唐突と、そしてあっさりと告げた報告に、一瞬空気が止まる。そっぽを向いていた土方が「は?」と目を剥いた。
「こ…断ったって…」
「近藤先生の許可もいただいてますし、松本先生や南部先生…それからお加也さんにはちゃんとお詫びします。だから、もうこの話はおしまいです」
「何、馬鹿なこと言っているんだ!」
カッと熱くなった土方に、総司は淡々と答えた。
「馬鹿なことなんかじゃありません。歳三さんと生きることを、私が選んだだけです」
「な…」
「私は近藤先生をお守りしたい。それから歳三さんの傍にいたい。それ以外は何もいらないんです」
ただでさえ不器用にしかできないのに、それはただの高望みになってしまう。
唖然としていた土方が、「くそ」と舌打ちした。
「…かっちゃんはなんて言ったんだ?」
「私の思いを汲んでくださいました」
「あいつが簡単に納得するわけがねえだろう。縁談には随分固執して力を入れていたんだ」
「…それは…」
『私にとって歳三さんはかけがえのない存在です』
『歳三さんとともにいることが、私の生きる意味だとわかったんです』
近藤や深雪たちの前では簡単に口にできた言葉が、本人を目の前にする何も言えなくなる。
(ああ…本当だ)
深雪の言った通り卒倒しそうなほど、恥ずかしい言葉だ。口に出して伝えることなんてできないほど。
でもその言葉には、一片の曇りもない。それだけは確かだ。
「ただ…歳三さんと一緒にいたいと、言っただけです」
この気持ちを伝える言葉なんてわからないけれど、ただともにいたい―――そう思った。
「…きっと私が歩みたいと思っている道は、近藤先生を守りたいと同じように思っている歳三さんと同じ道です。だったらその道だけをまっすぐに進みたい。それだけが…私の望みで、それ以上は望まないとお話ししました」
「…」
「近藤先生はあとは歳三さんが納得するのならそれで良いと言ってくださいました」
土方は総司の言葉を聞いてしばらく何も口にしなかった。
部屋の障子が揺れる音がした。部屋に灯るほのかな数本の蝋燭がゆらりと靡いて、その影だけが動いた。
すると土方が重たい口を開いた。
「…お前が女と一緒にいるところを見て似合いの夫婦になるだろうと思った。子供でもできれば賑やかな家族になる…そんなことまで想像ができた」
「歳三さん…」
「だからこの間、俺がお前に言ったことも事実だ。お前が俺だけのものであることで、お前の未来や可能性を狭めてしまうのは俺にとっては不本意なことだ。だから、誰かと夫婦になることを止めることはできない…そう思っていた」
土方が発する言葉の端々に彼の苦悩を感じた。土方も簡単に総司の縁組を進めてきたわけではない。総司の知らない所で迷いや葛藤があったに違いないのだ。
「お前が嫁をもらったとしても、お前の心は俺のものだ…そう言い聞かせてきた。それがかっちゃんの望みであるのなら言うまでもない……そう思っていたのにな」
ふっと息を吐いた土方が、少しだけ微笑んでいた。
「お前も…馬鹿だな。もうこの先、嫁をもらうことなんてできねぇぞ」
土方は総司の手を引き寄せた。傷を心配して逃れることもできたけれど、総司はその手に引かれて土方の胸の中に収まった。
その暖かさはとても懐かしく思えた。
ずっとこの場所にいたい。
彼と同じ道を歩んでいたい。
(それが、僕が選んだ道…)
何度でも選び続ける、僕にとっての正解。
「もしも、はぐれたら…ちゃんと探してください。迷子になってしまう」
「ああ…」
土方が微かに頷いた。







解説
438 赤禰武人は柱島で捕らえられ、慶応2年(1867)1月25日、山口で処刑されたとのことです。作中では少しはやめています、ご了承ください。
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