わらべうた





441


近藤は境内に降る雪を眺めながら
「今夜は積もるかな」
と土方に尋ねた。
「さあな」
「積もったら雪合戦でもしたいな。試衛館ではよくしただろう。きっと総司も喜ぶ」
「そうかもしれないが、先に仕事を終わらせてくれ、近藤先生」
呑気に雪景色を眺めている近藤に対して、土方は素っ気なく告げた。近藤は深雪と一晩を過ごし屯所の戻ってきたのだが、ちょうど同じタイミングで土方と総司も別宅から戻ってきたのだ。
「巡察に行ってきます」
師匠の前で朝帰りする姿を見られたことが総司には恥ずかしかったのだろう、そう言ってすぐに戻ってしまった。それから二人でこの度の長州行きの報告書をまとめていたのだ。
近藤は仕方なく障子を閉めて、彼の前に戻った。しかし仕事に戻るためではない。
「話はちゃんとできたのか?」
「…近藤先生」
「別に茶化しているわけじゃない。お前と総司のことが心配なだけだ。どうやら俺が余計な気を回し過ぎたせいで総司は随分思いつめたようだし…。縁談の件も、松本先生や南部先生に謝罪しなければならない。だから聞いているんだ」
近藤は近藤なりの理由があるのだと説明すると、それまでため息まじりに聞き流していた土方の表情がかわる。そして言葉を選ぶように少し沈黙した。
「…まあ、そうだな。あいつは縁談を受けるつもりがないと言っていた」
「お前は?」
「俺も了承した」
「総司はお前のことが大切だって?」
「…」
「すまん、今のは茶化した」
土方が軽く睨みつけたので、近藤が頭を掻く。
「俺と総司はかっちゃんが言っていることのほうが筋が通ってることはわかってる。今は良くても、将来後悔するかもな」
「だが、総司はきっとそれでもいいというだろう」
「ああ…そうだな」
土方はふっと息を吐いて薄く笑った。いつもへの字に曲がった口元が緩み、穏やかなものになるーー鬼の副長と呼ばれる片鱗すらないその微笑んだ表情を近藤はじっと見ていた。
(これでいい)
家庭を持ち、妻を娶り、子を為す…そんな未来もある。けれど一方でそれを選ばないからこそ得られる二人だけの幸福がある。幼馴染として、師匠としてそれを見守っていけばいい。
「なんだよ」
近藤の視線に気がついた土方が顔を背ける。 まじまじと見ていたことに気がついたはずだ。
「いやあ、総司が食い減らしにうちに来た時にはまさかこんなことになるとは思わなかったなあと。あんなに小さかった総司とお前がなあ…」
「うるさいな。そんな風にいうと俺に稚児趣味があるみたいじゃねえか。…それより、仕事だ、仕事」
怒っているのか、照れ隠しなのか、土方は話を切り上げて書きかけの報告書を差し出した。長州行きの詳細について会津に報告するために作成しているのだ。年内には書き上げたいと考えているものの、しかしその筆の進みは鈍い。
「…悪い報告は書きづらいものだなあ。会津候の顔に泥を塗ってしまった」
「幕府の使いである永井様の指示で長州に行ったんだ。会津は関係ねえだろう」
「でも会津お預かりの新撰組を名乗っている以上は良い成果をあげたかったものだ」
「…そういえば、昨日、何か言いかけていたよな。『わかったことがある』って」
土方はふと思い出した。深雪の待つ別宅に向かう途中で話を切り上げたが、近藤にしては重たい口調だったので印象に残っている。
近藤は「ああ」と声を落とした。
「お前の言っている意味が少しだけわかったんだ」
「なんのことだ?」
「伊東参謀だ」
近藤の口からまさかの名前が出て、土方は驚いた。
「何かあったのか…?」
土方は眉を顰めて明からさまに警戒した表情を見せる。近藤は苦笑した。
「何かあったわけじゃあない。少し気がついたことがあるだけで…。そう心配するな」
「だったら何があったんだ?かっちゃんはあいつには信頼を置いているだろう」
心配をするなというのに、土方の表情は神妙で強張ったままだ。しかし近藤もどう説明したら良いのかわからず、
「…参謀はとても器用な方だと思ったんだ」
「は…?」
と曖昧な切り出し方になってしまった。近藤は続けた。
「赤禰殿は幕府と長州の仲立ちの役目を果たそうと熱意があった。だがその根本はやはり長州藩士…我々のことをよく思っているわけではない」
「それはそうだろう」
「彼の言い分にカッとなってしまう自分がいた。池田屋の件では互いに仲間を失っている…残念ながら分かり合える道などなかった。けれど伊東参謀は違った。苛立つ俺を抑え、赤禰殿と穏便にことを収めた」
あの伊東ならやりかねない、と土方は容易にその光景が想像できた。むしろ伊東が仲裁をしなければ喧嘩沙汰になっていただろう。しかし土方にとってそれが特段不思議なことだとは思えなかった。
だが、近藤の表情は冴えない。
「あの池田屋の時には伊東参謀はいなかったのだから仕方ないといえば仕方ないのだが…俺にはそんな器用な真似はできないが、彼にはそれができる。その場によって立場を、主張を、考えを変える…相手が敵であっても」
「…」
「そんな伊東参謀を見て少し不安になったんだ。俺は彼の表面に騙されているのかもしれない…伊東参謀は赤禰殿に合わせて話をしていたが、いつか逆の立場になるのだろうかと。仲間を信頼できない俺は愚かだが…少し怖くなったんだ」
「そんなことは今更だ」
俯く近藤に対して、土方は肯定しながら大きなため息をついた。それは土方が最初から感じていることで、むしろ今まで近藤が気がつかなかったことの方が不思議だ。
だが、それが近藤の長所でもある。珍しく眉間のシワを寄せる彼を軽く叩いた。
「近藤先生、それ以上は考えるな」
「なに?」
「あいつに隙を見せたりせずに、警戒してくれるならそれでいい。それ以上を考えると…顔に出る」
土方は幼馴染が上手に嘘をつくことができないことをよく知っている。伊東を疑い始めれば、その気持ちが大きくなって悟られてしまう未来が予想もできた。
「だから疑うのは俺に任せて、もう何も考えるな。それが大将の仕事だ」
「…山崎くんも長州で同じことを言っていたぞ」
近藤は苦笑した。監察として様々な人脈を持ち人当たりの良い山崎だが、ものの考え方が土方と共通しているところがある。長州でもその手腕を発揮していたのだろう。
「わかった。お前のいう通り、これ以上を考えるのやめておこう。…ちょうど頭が痛くなっていたところなんだ」
「…」
近藤は極めて真摯な表情で吐く。それが近藤の冗談ではなく、本音だと気がついた時
(この師匠があって、あの弟子なんだよな…)
と土方は内心苦笑したのだった。


祇園の町にはらはらと大粒の雪が舞う。その光景は冬そのものなのだが、身体を締め付けるような冷たさはない。
しかし鼻がむずっと疼いてくしゃみをしてしまった。
「沖田先生、大丈夫ですか?」
一番隊の山野は心配そうに尋ねてきた。
「風邪じゃないですよ」
後ろめたいことはないのに強がって返答してしまったが、山野は「それもありますが」と声を潜めた。
「久しぶりの朝帰りでしたから。少し…お身体が重そうに見えました」
「あぁ…はは、なるほど…」
これが原田なら揶揄い交じりに笑っただろうが、年下の山野は極めて真摯な表情で気遣っている。しかしそれが逆に総司には恥ずかしい。
「少し疲れてはいますが…それだけですよ。心配しないでください」
「…そうですね、先日よりはお元気そうです。土方副長とは仲直りされたんですか?」
「仲直り…」
正確には喧嘩をしていたわけではなく縁談が拗れていただけなのだが、傍から見ていれば痴話喧嘩に見えたのだろう。
もう何度目かわからない『喧嘩』に想いを馳せて総司は苦笑した。
「…馬鹿みたいですよね、喧嘩ばかり繰り返して。結局、同じところに戻ってくるのに」
「そんなことはありません。僕には羨ましいです」
「羨ましい…?」
総司が尋ねると山野はふと視線を落とした。長い睫毛が憂いを帯びている。
「喧嘩してしまったらそのまま別れるんじゃないかって考えてしまうんです。そんなことはないとわかっていても…だからどんなに喧嘩をしても元どおりに戻れる先生たちが羨ましいです」
山野の視線が一番隊の先頭を歩く島田へと向けられていた。彼は伍長として先日入隊した新入隊士に対して熱心に指導しているようだ。真面目な仕事ぶりは彼の誠実な性格からも滲み出ているので、山野が不安に思うことが総司には不思議な気がした。
総司が返答に困っていると
「つまりは…先生たちのようになりたいということです」
と山野は表情を一変させて笑い、話を切り上げた。心配をかけまいとする総司に対する気遣いだろう。そしてそのまま小走りして島田の元に向かい、指導に加わる。人は良いものの強面の島田とは正反対に柔和で微笑むと花が咲くような山野。彼らの方がよっぽど安定した関係を築けているように見えるが、彼らは彼らなりにもがいている。
(たぶん僕と歳三さんはずっとこんな感じなのだろう)
終わってみれば笑い話になるようなくだらない喧嘩を繰り返して、その度に想いが強く重なって。この関係の終わりはきっと死ぬ時にしかないのかもしれないが、それまでずっと絆は深く結ばれていく。
彼はきっと『悪くない』と言うだろう。嬉しそうな表情を隠して、そっけないふりをして。
「…ふふ」
想像するだけで笑みがこぼれてきた。







442


「問題ありません」
「こちらも特にありません」
各々に巡回を終えた一番隊隊士からの報告は平穏そのものの内容だった。土方は「成果がない」と不機嫌になるかもしれないが、総司としては何も起こらないならその方が良いと考えている。
「では屯所に戻りましょう」
総司の号令で屯所に向けて歩き出す。伍長の島田を先頭に任せていると、ふと祇園社の石段で休む女性の姿が目に入った。
「…山野くん、先に戻っていてもらえますか。後のことは島田さんに任せます」
「え?」
「用事を思い出しました」
山野の返答も聞かずに、総司は隊列を抜けてそちらに向けて走り出す。歓楽街である祇園は昼夜問わず人が多いため人混みを避けながら急いだ。
「お加也さん!」
「…沖田様…」
石段に腰を下ろし、一休みしていたのは加也だった。傍には大きな風呂敷を抱えていたので、彼女の日課だという煎じ薬の祈祷だろう。
しかし彼女は脇腹を痛め、療養中のはずだ。
「どうしてこんなところに!あなたは怪我をして休んでいるはずでしょう…!こんな寒い日に無理をして身体を壊したらどうするんです!」
加也の怪我に関して責任を感じていた総司はムキになって声を上げてしまう。加也は最初はぽかんとした表情をしていたが、そのうち苦笑した。
「医学を学ぶ者なのに、怒られてしまいましたね」
「あ…」
「でも沖田様のおっしゃる通り、今日は義父上の言いつけを破って寝所を抜け出してきてしまいましたから、仕方ありませんね」
微笑む加也に、総司は自分の着ていた羽織を肩からかけた。彼女は「ありがとうございます」と拒まずに受け取った。
「…すみません、よくよく考えれば私がお加也さんを怒れるような立場じゃなかったですね。怪我をさせてしまったのは私の方なのに…」
「その件はもう良いのです。斉藤様にもお詫びをいただきましたし…わたくしは患者である深雪さんを守ることができたのですから」
それは総司に対する遠慮や配慮ではなく、加也の本心だと思い、総司はそれ以上は何も言わなかった。彼女の隣に腰を下ろす。
相変わらずはらはらと雪が降っていたが、木陰になったこの場所は葉のない木の枝に守られている。
「…沖田様、今回の縁談の件は取りやめになると義父上から伺いました」
「勝手なことをしてすみません…」
「いいえ、わたくしもこれでよかったと思います」
「そうなんですか?」
縁談を勝手に中止にしたことを、加也はてっきり怒っているのだと思っていた。縁談は近藤が戻ればまとまるというところまで話が進んでいたのだ。
加也は目を伏せる。
「義父上に怒られました。仮初めの夫婦だなんて不誠実な生き方を沖田様に強いるなんて…とても失礼なことをしていると」
「でもそれは私も同意したことです。そもそもそれを思いついたのは松本先生ですし、お加也さんだけが悪いわけじゃないでしょう」
「そうかもしれません。でももし夫婦になっていたら…きっと土方様を傷つけていたでしょう?」
「…え?」
加也の口から土方の名前が出たことに総司は動揺を隠せなかった。総司の衆道の相手が土方だということは彼女には言っていないはずだ。
加也は「わかりますよ」と総司の心情を汲み取ったのか、微笑んだ。
「土方様が刺された時の顔を見れば誰でもわかります。青ざめて取り乱して…わたくしの声なんて全然耳に入っていらっしゃらなかったでしょう?」
「す…すみません、あの時は我を忘れて…」
「でもきっとわたくしも同じです。わたくしの思う方がそんなことになれば…医者という立場を忘れて取り乱してしまうでしょう」
いつも冷静沈着な加也が取り乱す姿すら総司には想像できなかったが、彼女自身の気持ちもそれほど固まっているということなのだろう。
「それほど心を占めて、もうそれだけで精一杯なのに夫婦のフリ…なんて器用なこと、わたくしにはできません。自分のことなのにそんな簡単なことにすら気づかなかったのですから、お恥ずかしいです」
加也がそう言って笑うので、同じ結論に至った総司もつられて笑った。
けれど、互いに不器用だからこそ今回のような縁談に頼ることになってしまったのかもしれない。自分よりも周囲の幸福を望んだからこそ、選んだ方法だった。それを責めることなどできない。
しかし彼女は笑いながら、次第にその目尻に涙を浮かべた。
「お加也さん…?」
「今回のことで気がつきました。何があってもわたくしには…この気持ちを捨てることができなくて、本当はあの人に受け入れて欲しいのだと」
「…」
「けれどそれは高望みだったようです。こんな気持ちを迷惑でしかないのでしょう」
加也は曖昧に濁していて、総司にはわからないことが多い。ただ彼女の思いは報われないまま、傷ついたまま、今ここに座り込んでいるのだと。
(相手は誰なのだろう…)
けれどそれを聞くのは憚られた。教えてくれるのならとっくにその名前を口にしているはずだ。
「…御免なさい。こんな話、沖田様にしても困らせるだけなのに…」
「いえ、私こそ…なんて言っていいかわからなくて…気の利いた言葉も言えずに」
「聞いてくださっただけで十分ですから」
目を潤ませた加也が微笑んだ。
雪は大きな粒となり、はらはらと舞う。けれど地面に落ちれば跡形もなく消えていく。
けれど誰かを好きになるという思いは、簡単に消えるものではない。心の中に降り続いて、積もって、重たくなって…どんな結末を迎えたとしても美しい水となって溶けていく。
「お加也さん。私にはきっと何もわかっていないのだろうけど…」
「…」
「そんな風に思ってもらえたら、きっと嬉しいと思います。絶対に迷惑なんて思いません」
受け入れられるか、受け入れられないか。それはその人の気持ち次第であり、誰かが思うようにできるものではない。けれどその思いはきっと無駄ではない。
「ありがとう…ございます」
掠れるような声で彼女は感謝の言葉を述べた。そしてそのまま崩れるように大粒の涙を零していた。
抱きしめることも、手を繋ぐこともできない。
ただただ総司はそばにいて、降り続ける雪を眺めながら加也が泣き止むのを待ち続けたのだった。


一方。
「飲みすぎだ」
行きつけの料亭で食事をしていた松本は、友人である南部から酒を取り上げた。
普段は『いつ患者に呼ばれるかわからない』と酒を飲むことを控えている彼だが、どこか箍が外れたようによく飲んでいる。
「…大丈夫ですよ、このくらい…」
顔は真っ赤に染まっているが、意識ははっきりしている。けれどそれは酔いつぶれたいと思っている南部にとっては厄介なのだろう。
青年期から共に南部と過ごしてきた松本ですら
彼がこのように泥酔しているのを見たことがない。医学ばかり学んで女遊びすらしたこともないような生真面目な男だ。
「そもそも良順先生が悪いんです。加也や沖田先生に…無理難題を…」
「ああ、もう。それについては何度も謝ったじゃねえか!」
加也や総司の気持ちをわかっていて縁談を持ちかけたことは事実であり、それが物事をややこしくしてしまった原因だというのは松本自身で納得していた。南部には何度も謝ったが、その恨みは根太いようでなかなか許しを得ていない。
「せっかく良縁を得たと思っていたのに…」
「終わったことばっかり言ってねぇで、お前は次のことを考えねえとダメだろ」
「…次」
「まさか加也が言ったことを忘れたってわけじゃねえよな?」
先日の南部と加也のやり取りを盗み聞きしていた松本は、南部がその場から逃げ出すように去ってから何の進展もないことを気にしていた。
南部の酔いがすっと引いていく。
「次も何も…あれが冗談だったら良いのにと、何度も思ったことか…」
「加也の片恋の相手が自分だなんて、ちょっとも考えなかったっていうのか?」
「…」
「ちょっとは考えただろう?」
「拷問ですか、これは…」
南部はうんざりとした表情で松本を見た。責める立場ではないとわかっていても、松本は止めることはできなかった。
「加也にとってはお前と養子縁組をしてからずっと拷問だっただろうよ。お前は加也が何を望んでいたのかわかっていたくせに嫁じゃなくて、娘にすることを選んだ。そうやってあいつの気持ちに蓋をして、見て見ぬ振りをしたんだからな。そのバチが当たっても俺ァ仕方ねえと思うぜ」
「良順先生は私が悪いとおっしゃるんですか」
「ああ、そうだな。お前が悪い」
腕を組み踏ん反り返って偉ぶる松本に、南部は唖然としたがすぐに苦笑した。
「そこまで言われると、いっそ清々しいですね」
「だったらお前も清々しい答えを出せ。加也を拒むのか、受け入れるのか…まあもっとも、答えは出てるんだろうけどな」
だからこそこうして酔わない酒を飲み続けているのだろう。松本の問いかけに、南部は大きなため息をついた。
「…こんなことになるのなら、加也の伯父だという人に任せていればよかったのかもしれません。でも私にはそれはできなかった。片桐先生の志を加也に継いで欲しいと思ったのもありますが…私はあの子の成長をすぐそばで見ていたかった。彼女を養子にしたのは片桐先生や志乃さんへのご恩返しです。…その選択に間違いはなかったと思います」
「それで?」
「…でも当時の私はわかっていなかった。加也が志乃さんによく似ていて…時を経ればますます似てくるのだということを…」
和かで夫思いだった志乃とは違い、加也は父親の片桐に似たのか強情で自分の決めたことは貫く強い性格だった。けれど見目は志乃そっくりで、ふとした仕草や言葉に母親と通じるものがあった。
「私はそのことに気がついてから、早く良縁に恵まれて嫁に行って欲しいと思っていました。私が邪な気持ちを抱くまえに…。一方で医者として大成して欲しいという願いもあった。その二つの狭間で揺れていた」
『精一郎先生』
久しぶりにその名前で呼ばれたとき、昔の記憶が呼び起こされそうになった。
親しげに呼ぶ彼女の母親が
そしてあどけない表情で笑う彼女の顔が
重なった。
あの時届かなかったものが、彼女に届くのではないかと錯覚した。
「俺はお前がしたいようにすることが、加也の望みと一致していると思うけどな」
「…それは虫が良すぎます。それに…そう簡単に切り替えられるわけがありません」
「だったらまた保留か?」
苛立つ松本に南部は「いいえ」と首を横に振った。
「保留こそ加也を傷つける。だから答えは…もう出ましたから」
「答え?」
「そのために良順先生に頼みがあるんです」
南部の目には決意が宿っていた。





443


師走の空は曇り空ばかりが続き、時折雪が舞っていた。凍りつくような冷たい夜になる前に家路へ急ぐ人々とともに、加也は医療所に戻った。
「…」
往診を終えてこの家に戻る。それはいつものことであり、なんら変わりない日常なのだがこのところはとても気が重い。玄関前の門の前で立ち尽くしてしまった。
(精一郎先生は何を考えているのかしら…)
『頭を冷やしてきます』
その後の答えなどなかった。
あの夜以来、南部とは顔を合わせても事務的な会話のみを交わしている。お互いに気まずさを感じ、核心をつくことができないまま時間は過ぎて行った。
(このままではダメ…)
曖昧にしてしまっては同じことを繰り返すだろう。気持ちを伝えてしまった以上、後戻りはできない。なかったことにする痛みはいままでに十分に味わった。
けれど何をすればいいのだろう。
人の気持ちは誰にも邪魔することはできない。
何が正解なのか。その答えは出なくて、わからなくて、立ち止まったままで―――。
「そんなところで、なにやってんだ」
背後から声をかけられて、加也は驚いて振り向いた。
「良順先生…」
幕府御典医である松本は本当ならば易々と町医者に出入りすべき立場ではないのだが、まるで近所に住んでいるような手を振りながら気軽さでやってくる。そしてその後ろには南部の姿があった。
「おかえりなさいませ、義父上…」
「…ただいま」
ぎこちないながらも南部は笑っていて、加也はほっと安堵する。このところは松本とともに飲み歩いているせいか目元のクマもくっきりとしていたが、今日はそれはない。
「中に入ろうぜ。寒ぃだろ」
松本はまるで自分の家のようにさっさと医療所に入る。南部の後ろに加也も続いて玄関を上がった。
三人はそのまま客間に向かう。客間といっても今は松本の私室のような扱いになっていて、部屋の隅には彼が持ち込んだ医学書が積み上げられていた。
「…温かいお茶でもお持ちします」
加也はそう申し出たが、「待て」と松本が止めた。
「茶はいいから、先に話がある。…っていっても、話すのは南部だが」
「え?」
「俺はこいつが逃げ出さないように見張ってやるからな」
「逃げたりしませんよ」
松本が茶化したのを、南部は迷惑そうに苦笑した。このところの南部のぎこちなさに比べれば幾分かいつも通りの穏やかさに戻ったような雰囲気がある。加也は首を傾げながらも、二人の前に膝を折った。
「まずは報告です。先ほど良順先生と共に西本願寺をお訪ねし、正式に縁談を破棄するお話をしてきました」
それは知らされていないことだったが、予期しない話ではない。加也は軽く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした
…近藤様や土方様は何と…?」
「あいつらももともと断る予定だったようだな。お前に申し訳ないと特に近藤は謝りっぱなしだったぞ」
「そんな…」
天下に名を轟かす新撰組の局長に平謝りされては申し訳なさの方が募るが、友人とも言える間柄である松本が「気にするな」と笑うので、加也は納得することにした。
南部が続けた。
「近藤局長は引き続き深雪さんのことを頼むと言われましたが…」
「もちろんです。深雪さんの件はずっと気がかりで…いますぐにでもお会いしたいくらいです。わたくしにできることならなんでも…」
「お断りしました」
「え…っ?」
それは南部の口から放たれたとは思えない言葉だった。彼はいつも患者に寄り添い、一度関わった患者は健康になるまで共に歩むことを信条としているのだ。途中で投げ出したりなんてしない。
信じられない心地で南部を見ると、彼は困ったように続けた。
「…深雪さんを見捨てるという意味ではありません。ただ…加也には任せないということです。私が代わりに診ます」
「そ…それは、わたくしでは役に立たないということですか…?」
「阿呆だな、お前は」
愕然とする加也に、松本は乱暴な横槍を入れる。
「良順先生…」
「あそこは新撰組局長の別宅だ。この間みたいなことがないとも限らない。これからも危険な目にあうかもしれない…だから南部はお前の身を案じて診察を『断った』って言ってんだ」
南部は加也の技量ではなく、身の危険を案じていた。
「本当ですか…義父上…」
「…良順先生、余計なことを喋らないでください」
ため息まじりに松本を見た南部には、少しの居心地の悪そうな様子があった。松本は「へいへい」と気の無い返事をした。
南部は一息ついて続けた。
「…加也、あの日…君が襲われ土方副長が刺されたと聞いた時、私はとても後悔した。危険な場所だとわからずに行かせて…もし何かあったら、片桐先生に申し訳が立たないと」
「父に…」
あくまで父に対する義理立か、と落胆しかけた心を見抜かれたように彼は言葉を紡いだ。
「でも同時に…君に何かあったらどうしようかと…張り裂けそうな気持ちにもなった」
「…え?」
南部が絞り出したその言葉の意味が、加也にはわからなかった。
「これが血が繋がらないとはいえ娘に向けた情なのか、それとも別の何かなのか…それは今の私にはわからない。君が私の傍にいるかぎり…君を娘だと私は自分に言い聞かせるでしょう」
「…でも…」
南部の娘として引き取られ、いまここにいる。それ以外の居場所なんてないし、今更叔父を頼ることなどできない。
しかし困惑しているのは加也だけではなかった。
「どうすれば良いのかわからなかった。さらに君から…君の気持ちを聞いて、ますます迷った」
ずっと好きだった。
それを南部が知らなかったわけではないだろう。けれど知らないふりをして父と娘として接することしか、南部にはできることはなかった。加也が南部を『義父上』と呼ぶのと同じくらい、その穏やかな笑みの下で『娘』だと言い聞かせ続けていた。
(ずっと…苦しんで…)
知らなかった。
「私は君を立派な医者にしたいと願っていた片桐先生の希望を託されている。そして同時に志乃さんを苦しめてしまったという負い目があり…それは一生消えないでしょうし、君の気持ちを簡単に受け入れることはできない」
「…」
「君のことは大切だ。けれど今は…それ以上は何もいえない」
閉ざされ、凍ったままだった感情。悪い夢を見続けていた過去の自分。
(大丈夫…)
枯れるほど泣いたはずの涙が、一筋こぼれ落ちた。
けれどそれは悲しみではない。悪い夢にうなされていた日々は終わった。
(たとえいま実らなくても…)
大切だと言ってくれた、この幸福を抱いて生きていける。
「加也…」
両手で顔覆い涙を隠す加也には、いま南部がどんな顔をしているのかわからない。それが父の顔なのか、それとも別の顔なのか。
「…やっぱり、阿呆だなお前は」
さめざめと泣く加也に、松本は容赦なく再び言葉を挟んだ。さすがに南部は
「良順先生」
と諌めたが、聞くような彼ではない。
「加也、南部はさっきから『今は』って言ってるだろ?」
「…え?」
加也はぱっと松本に目を向けると、腕を組んだ彼がにやりと笑っていた。ばつが悪そうな南部が目を伏せている。
(いま…は?)
頭が働かない。まるで重病人の患者を前に治療方法が浮かばないのと同じように、混乱していた。
南部は加也に対して過去の出来事やしがらみから家族以上の情を持てないのだと言った。けれどそれは、南部の『いま』の感情だと松本は高らかに口にする。
だったら
未来は?
(希望を抱いてもいいの?)
「…わ、わかりません…」
「何言ってんだ、本当はわかってるんだろ?」
「わかりません!それに、わかっていたとしても、精一郎先生の口から聞きたい…」
加也は泣き腫らした目を南部に向けた。
彼は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「…君は私の大切な娘です。これまでの日々も私にとっては大切な時間でした。だから簡単に…なかったことにしてしまうことは…できない。そんな白々しいこと私には…」
「精一郎先生…」
「でも、君がそんな風に私を呼ぶと…今とは違う未来もあるのかもしれないと思えるのです」
諦めることも、忘れてしまうことも考えた。
時の流れがすべてを癒していく…途方も無いほどに時間がかかるのかもしれないと覚悟した。
でも。
「…加也、私に時間をくれませんか?」
「時間…」
「君と離れて…考えたい。君の望む未来を私に叶えることができるのか…」
当てもなく彷徨い続ける想いは、ようやく着地をした。過去に囚われることなく、未来という不確かだけれど安息の場所へ。
南部が手を差し出した。その手を加也はためらいもなく握った。
彼の手は少し湿っていて緊張していたのだとわかったーーー。


数日後。
「…てぇわけで、加也は長崎に行くことになった」
年の終わりの挨拶にやってきたという松本は上機嫌で語った。たまたま近藤も土方も黒谷に向かっていたため不在であったので、話聞いていたのは総司だけだ。
しかし何もかもが突然の話すぎて頭がついて行かなかった。
「えっと…長崎ですか…」
「俺のツテを頼ってな。俺や南部も若い時分はそこで学んだ。オランダから医学を学ぶことは必ず加也の役にたつ」
「医学のことは私にはよくわかりませんけど…。お加也さんの望んだことなら、良いことだとはわかります」
総司は加也のことは一人の人間として、女性として信頼できる人物だと思っている。だからこそ彼女が歩む道はきっと険しくとも彼女の望みなのだろう。
しかし松本の説明は曖昧なことばかりだ。
「その…片恋の相手と距離を置くために、長崎ということですよね」
「そうだ。押してダメなら引いてみろっていうだろう?」
「なるほど…でも南部先生は寂しくなられますね」
「……」
松本は目を丸く見開いて総司を見た後に、「はぁぁ」と大きくわざとらしいため息をついた。
「鈍感だと噂には聞いちゃいたが、何にもわかってねぇようだなあ、沖田」
「え?一体なんの話ですか?」
「いやいや、気にするな。お前のそういうところを土方が気に入っているんだろう」
曖昧に誤魔化され話題を変えられてしまった。そして改めて総司の方に向いた。
「悪かったな。縁談の件で色々と迷惑をかけた」
「…いえ、松本先生のお考えもまた私にとっては良い選択肢だったのだと思います。でも私がそれを選ばなかった…ただそれだけのことですから」
松本の提示した道は、少なくとも近藤や故郷の人を安心させることはできただろう。けれどそうしなかったのは紛れもなく自分自身の判断だ。
「そうか」
腕を組んだ松本が頷いた。彼がふと外に目を向けたので、総司もつられてそちらに目を向けた。
西本願寺の広い境内には大粒の雪が舞っていた。






444


年の暮れまではまるで玉のような雪が降り続く日々が続いていたが、元旦はまるでそれが決まっていたかのようにその雪も止み空がひらけた。
「わあ…」
総司は土方の別宅で、眩いほどに差し込んできた初日の出に声をあげた。昨晩まで降り続いた雪がキラキラと照らされてどこか幻想的な風景だった。
総司はしばらく手を合わせたままその初日の出を拝んでいたが、一方で部屋の中で寝息を立てる土方は眩い陽光を嫌がったのか寝返りを打って背中を向けてしまった。一年の始まりの日であっても普段と変わらない朝に弱い彼らしい仕草にクスクスと笑いながら、そっと障子を閉めた。
慶応二年という、新しい年を迎える。



「あけましておめでとうございます、近藤先生」
日が昇り始めた頃、総司は屯所に戻ってまっすぐに近藤の部屋に向かった。
「ああ、おめでとう。…あれ、歳はどうしたんだ」
「別宅でまだ寝てます。叩き起こそうかと思ったんですけど、正月くらいはいいかなと思って先に戻ってきてしまいました」
「ははは、そうだな。普段は忙しくて寝る間もないんだ。正月くらいはゆっくり休ませてやればいい」
「先生は深雪さんのところに行かれていたのではないのですか?」
年の暮れは当番の隊士以外は思い思いに正月を過ごすことになっていて、近藤は深雪のいる別宅で過ごしたはずだ。土方のように昼間までゆっくりしてくるのだと思っていたのだ。
「ああ、まだ本調子ではなくてな。正月だと何かと気が急くだろう。気を遣わせてしまっては良くないと思って早めに戻ってきたんだ」
「そうでしたか…」
加也から深雪のことを引き継いだ南部の診察では、心の病はずいぶん良くなったが冬の寒さに身体がついて行かずに風邪気味だということだった。
近藤は腕を組み直した。
「京に来てから体調のこともそうだが、なかなか気苦労の絶えない日々ばかりでな。正直、彼女を身請けして良かったのかと考えたりもするんだが…」
「なにをおっしゃっているんですか。深雪さんは先生のことを思っていらっしゃいます。いまは不運なことが続いているだけでしょう。新しい年になりましたし、良いこともありますよ」
近藤の弱音に総司が食い下がる。新選組の局長の妾ともなれば深雪も気負うところがあるだろう。しかしそれでも長州に行った近藤のことを想い待ちわびる姿は、大切に思っているからこそのものだった。
「そうだな…こんなことを考える方が失礼なのかもしれないな」
「そうですよ」
「しかし、俺もずっと付いていてやるというわけにも行かないからなあ。何か良い方法があれば良いのだが…」
近藤が気を使えば使うほど、深雪の心労に繋がる。それを近藤もわかっているからこそ困っているようだった。
総司はずっと話さなければと思いながらも持ち越しになっていたことを、おずおずと切り出した。
「…近藤先生、実はお加也さんから深雪さんについて頼まれていたことがあるのですが」
「頼まれていたこと?」
「はい。近藤先生は『お孝』という名前を聞いたことがありませんか?」
「『お孝』? ないな」
近藤があっさりと否定した。おそらく深雪は自分の弱い部分である妹のことを近藤の前では決して口に出さないようにしていたのだろう。
「血の繋がった妹さんだそうですよ。大坂の新町にいらっしゃる『御幸太夫』だということでした」
「ああ、噂には聞いたことがあるな。かつて深雪と面差しが似ていると花街でも評判だった…だが深雪はあまり自分のことを話さないし聞かれたくないのだろうと思って 直接尋ねたことはないんだ」
「お加也さん曰く、深雪さんがそのお孝さんを花街に残していることを非常に気にしているということでした。病の酷かった時は譫言のように呼んでいることもあったとか。もしその気がかりなくなれば心労も晴れるのではと思うのですが」
総司の言葉に、近藤は少し困ったような表情をした。
「それは深雪のために…妹御を身請けする、ということか?」
「…呼び寄せることができないかと」
身請けという生々しい言葉を口にすることは憚られ、総司は曖昧に濁した。するとやはり近藤の返答は消極的なものだった。
「そうできれば良いことかもしれないが、簡単な話じゃないな。身請けには金もかかるし、本人たちの気持ちもある。それに姉と妹を囲うというのも…気がひけるな」
「…そうですよね。失礼なことを言って申し訳ありません」
「謝らなくていい。それが深雪の望むことなら善処したい。そのお孝さんのことも含めて色々考えてみるよ」
近藤が微笑んだので、総司は少し安堵した。


「静かですね」
伊東の別宅を訪れた内海は、しんと静まった屋内の様子を不思議そうに見回していた。部屋では伊東が優雅に酒を口にしているだけで、正月らしさは無い。
伊東は苦笑した。
「花香が寝込んでいるんだよ。あれは身体が強いとは言えないからね。この冬の寒さと年の暮れから正月準備に疲れたようだ」
「そうなのですか」
「本当は皆んなを招いてここで宴を催すつもりだったのだが…そうも行かないから、篠原達には金を持たせて飲みに行かせた」
「あなたも行かれれば良いのに」
「私はいい。こうして静かに酒を飲む機会も貴重だよ。それにこの冬の庭も良い」
庭は誰にも触れられていない真っ白な雪が一面に敷き詰められ、草木の上には綿のようなに積もっている。伊東ほど情緒というものを理解していない内海だが確かに目を奪われる光景ではあった。日が昇れば儚く消えてしまう…その景色を肴に伊東の酌で共に酒を飲むことにする。
「それは奥方からのお手紙ですか?」
ふと内海の目に折りたたまれた手紙が目に止まった。女性らしい細身の字で『甲子太郎様』と書かれていた。しかし伊東は「いや」と首を横に振った。
「これは母だよ。実母の方だ」
伊東は武士の家柄に生まれた長男であったが、青年期には家を出て水戸で学びそのまま江戸に移り伊東道場に婿入りした。家族とは縁遠いのだが、実弟の鈴木をはじめとして血縁者と手紙を交わすことすら見たことがなかったので、意外だった。
その表情をみて察したのだろう、伊東はため息まじりに話した。
「昔は気の強い母だったが、父が亡くなり子も離れ一人になったことが寂しいのだろう。こうして手紙を寄越してくる。ろくに返事はしていないが…」
「ただ『息災だ』と送れば良いでしょう」
「気がすすまないな」
伊東は頑なに家族とは距離を取ろうとする。その理由は内海にすらわからないし、彼も話すことはないだろう。
「母君のことはともかく、奥方様にはご連絡をされているのですか?あなたのことを心配しているでしょう」
伊東には『うめ』という妻がいる。すらりと柳のようにしなやかな美人で伊東と縁組をした時は美男美女の夫婦だと評判だった。名高い『伊東道場』に婿入りすることが目的だった伊東も悪い気はしなかったはずだ。
しかし伊東は
「ああ、言ってなかったかな。昨年、江戸に下った折に離縁してきたよ」
とあっさりと口にしたので、「は?」と内海は素直に驚いた。
「手紙が届いたんだ。『母の具合が悪い』と。急いで道場を訪ねてみるとそれは彼女の嘘だった。彼女は私の気を引きたかったあまり嘘をついたんだ」
「それは…」
「国事に奔走し妻の存在を蔑ろにしていたのは事実だが、そのような嘘で振り回すような女のかと興醒めした。それで離縁したんだ」
伊東の怒りも、そして妻のうめの気持ちも内海にはわかる気がした。家族との距離を取ろうとする伊東の態度は妻にとって不安だったに違いないし、都に行ってなんの便りもないとなればなおさらだ。
酒を飲み干した伊東は、ふっと笑った。
「離縁してスッキリしたよ。今の私には江戸に残してきた妻のことなど考える余裕はないんだ」
「…そうですか」
伊東に代わって今度は内海が酒を注いだ。家族のことすら彼の頭の中にはない。
(そんなこの人は何を考えているのだろうか)







445


年明けから数日。正月気分が抜けてきた頃、非番の総司は道場の片隅で稽古を眺めていた。
今日の師範役は永倉と斉藤だ。剣に関して生真面目な永倉の正確な指導と無口ながらも教え方は上手い斉藤の稽古は見ているだけで学ぶところが多い。また二人は、総司と違って未熟な隊士たちの身に立って足りない部分を補うような親切な指導ができるのだ。
(僕はどうしても自分の尺度で測ってしまう…)
悪い癖だとわかっていても、今までもそうやって教えてきたのだから急には変えられない。それ故、総司の稽古を倦厭する隊士もいると聞くがそれは隊士のせいではなくて自分の力量であり、仕方ないことだと思っている。
総司はちらりと斉藤へ目を向けた。あれから縁談が破談になったという噂は広まり、斉藤の耳にも届いているはずだが彼は何も言ってこない。あれだけ縁談に否定的なことを言っていたのに、もう何も言わない。
『俺の気持ちは、変わっていない』
彼の言葉が脳裏によぎる。
そうはっきりの明言したのは彼の気持ちが揺らがないからなのか。
(でも斉藤さんが望むものは…僕にはあげられない)
十分すぎるほどそれが総司にはわかっていて、きっと聡い斉藤にだってわかっている。だからずっとこんな中途半端なままだ。
「このままで…いいのかな」
呟いた言葉は稽古の激しさにかき消されていく。総司はなんとなく斉藤の姿を追いかけるように稽古を眺めていた。
「沖田先生」
背後から声を掛けられて総司は振り返った。一番隊の配下である島田だった。
「稽古ですか?」
「はい。自分は今日は非番ですが、永倉先生には個人的にも熱心に稽古をつけていただいてまして…いま先生に言いつけられた素振りを三百回終えて来たところなのです」
冬の寒い朝だというのに島田は大粒の汗をかき、ぐっしょりと濡れた道着からは少し湯気が立ち上っていた。永倉はこと剣に関しては総司よりも貪欲に取り組んでいるので、島田のような真面目で意欲に溢れる隊士なら喜んで指導するだろう。
ちょうど道場での稽古も一区切りついたようで、ぞろぞろと隊士たちが道場を後にしていく。総司もその様子を見て膝を立てたところで、
「島田さん」
と聞きなれない声が聞こえた。自分が呼ばれたわけでもないのにそちらに目を向けると、稽古を終えた隊士の一人が島田に声を掛けて来たようだ。
「大石さん」
大石鍬次郎。 島田と並んでも大差ない体躯を持つが、その面構えは人の良い島田とは正反対で鋭い剣幕と鋭利な眼差しでどこか威圧的な雰囲気を漂わせている。月代を綺麗に剃り上げ目鼻立ちは整っているので見た目は硬派な男前という印象だ。剣の腕は平隊士のなかでは抜きん出ていて助勤と等しいが、寡黙な性格故に昇進に至っていない。その独特な佇まいから一介の隊士たちから距離を置かれがちだが、
「手が空いているなら試合をしないか」
「ああ、もちろん。自分でよければ」
と島田とは親しい関係を築いているようだ。
大石は総司には目もくれず挨拶もなく、背中を向けて去る。島田は上役である総司への大石の態度に「おい!」と咎めようとしたが
「島田さん、構いませんから」
と総司は穏やかに返した。大石がそういう性格であることを総司は重々承知していたのだ。
「…すみません」
島田が代わりに謝って、そのまま大石の元へ向かう。
すると入れ替わるように斉藤がやって来た。首に手ぬぐいをかけて汗を拭っている。
「どうした?」
「…どうもしませんよ、大丈夫ですから」
目敏い斉藤にあらぬ心配をかけないように首を横に振った。
島田と大石の試合が始まった。もちろん大石の方が剣の腕では上回るが、島田が懸命に打ち込んでいるので彼が暇を持て余すようなことはない。総司がその様子を見ていると、斉藤も隣に並んだ。そして腕を組む。
「あれは…天然理心流か?」
「ええ。大石さんはもともと試衛館の門人なんですよ」
総司が大石の寡黙な性格に慣れていたのは、彼のことを江戸にいた時から見知っていたからだ。
「本人は近藤先生のツテだと思われたくないそうであまり公言はしませんけどね。私たちが浪士組として都に上る時には参加されなかったのですが、池田屋の後に先生が隊士募集に行かれた際に入隊したんです」
身内であり腕の立つ門下生の入隊を近藤は喜んでいた。斉藤は続けて尋ねた。
「昔から強いのか?」
「そうですね…もともとは幕臣のお家柄だそうですが、色々あって出奔されたそうで。日野の佐藤彦五郎さんのところで大工をしていた縁で道場に通い始めたらしいですよ」
「…大工」
「てっきり素人かと思ったら小野一刀流を収めたということでしたから、門下生の中でも一目置かれてましたね。天然理心流も目録くらいまでは収めたんじゃないかな…」
目の前では果敢に島田が大石に食らいついている。島田には所々に鋭い剣筋が見られ、永倉の指導が生きている様子も垣間見ることができた。
「まるで他人ごとのようだな」
「え?」
「大石のことだ。門人の一人ならあんたもよく知っているはずなのに、先程から伝え聞いたような言い方をする」
「ああ…」
流石に目敏い斉藤の指摘に総司は苦笑するしかない。
「実は…そこまで親しくなかったというか。避けられていたみたいなんですよね」
「は?」
「彼は彦五郎さんの道場に通っていたんですが、私が出稽古をするときは決まってお休みだったんです。容赦ない稽古が嫌だったんじゃないかなぁ」
「あの腕前で?」
剣の腕の覚えがない者なら総司のような天才肌とは気が合わないだろうが、大石は違う。斉藤はそういいたげだったが、本当の理由は総司にはわからないのだから仕方がない。
「よくわかりませんけど…たぶん嫌われているんですよ」
「ふうん…」
斉藤は納得はしていなかったようだけれども、総司は話を締めくくった。
大石と島田の試合は続いている。大石は普段の寡黙さからは想像もできないような声をあげて島田に打ち込み始める。彼の目の色が変わり、獲物を狩る野獣のように。島田も避けるだけで精一杯の様子だ。
しばらくは沈黙したまま試合を眺めていたが、
「…振られたんだって?」
と斉藤から切り出した。その台詞はよく原田からからかい混じりに散々聞かされていたので、意味はわかっていた。
「別に振られたわけじゃないですけど、そういうことにしようということになって…。でもまあ、結局は望んだ結末になったから良いんですけど」
「そうだな」
斉藤は少し笑って肯定した。
「斉藤さんはもともと縁談のことは反対してましたもんね」
「反対していたわけではない。ただあんたが自分の意に沿わないことを受け入れるのが我慢ならなかっただけだ」
『それではただの人形だ。良いように扱われているだけだと思わないのか』
そう言って本気で怒っていた。総司はそんなことは思わなかったけれど、彼が自分のことを思って言ってくれているのだということは痛いほどわかっていた。
(わかるからこそ苦しい…)
同じ思いを彼も抱いているのではないか。そう思い「あの…」と切り出したが
「もういい」
「え?」
斉藤は続きを拒んで、腕を組み直した。
「あの時は性急に求めすぎたが、別に無理やり答えを出さなくてもいいだろう。俺もあんたもこのままが心地いいなら」
「そう…ですけど」
「決して諦めたとか忘れたとかそういうことではないが…これはこれで満足している。あんたが笑っているなら、それで」
「斉藤さん…」
どこか朗らかな様子に、総司も緊張の糸が切れた。その答えは絞り出したものではなく、彼の中に芽生えた新たな充足感なのだろう。必要以上に言葉を飾らない斉藤だからこそ、それ以上に詮索する必要はない。
「ありがとうございます」
「…」
斉藤は何も答えなかった。ーーーその時だった。
「グァァァァッ!」
言葉にならない叫び声が道場に木霊した。総司がハッと目を向けると島田が仰向けに倒れこみ、
「ガハッ!ゴホッゴホッ!」
と激しく咳き込んでいた。目の前にいたのはもちろん相手役の大石だ。
「島田さん!」
「伍長!」
様子を側でみていた隊士たちが駆け寄る。総司と斉藤もそれに続いた。
島田の面を外し体を横たえる。彼は青白い表情のまま何度も咳き込んでいて、無意識だろうが苦しそうに喉元に両手を当てていた。
「大石、何をした」
斉藤が鋭く尋ねると、大石はしばらくは無言だったが
「…喉を突きました」
と淡々と述べたが駆けつけていた隊士たちは騒つく。人の急所の一つである喉元は稽古では回避する場所だ。大石の様子ではこれが故意だったのか事故だったのかはわからなかった。







446


島田の件を報告すると土方は眉間に皺を寄せた。
「それで、島田の様子はどうなんだ」
「落ち着いています。南部先生をお呼びしようかと思ったのですが、本人は大事ないと」
「声が出るのなら問題ないだろう」
薬屋として怪我人相手に商売をしていた土方には些少の知識がある。彼がそういうのなら、と総司は安堵した。
「島田さんは自分が避け損ねたから大石さんには咎はないと言い張っています」
「本人がそう言うならそうなのだろうが…。お前はその瞬間を見ていないんだろう?」
「ええ。稽古の後の個人練習でしたから、ほかの隊士も見ていなかったようで…」
気がつけば島田が苦しそうに倒れていた。側にいた斉藤すら同じことを口にしていたのでタイミングが悪かったのだろう。
土方は少しため息をついた。
「…まあ、島田がことを荒立てるつもりがないというのだから大石を責めるわけにはいかねぇからな」
「不問に付する…ということですか?」
「不満か?」
「…いいえ」
島田の上司に当たる立場として思うところはあったが、本人が問題ないというのだから何もいうことはない。土方は「左之助に伝えておけ」と言った。大石は十番隊の所属であるので、上司は原田なのだ。
それから、土方は総司の報告で途中やめになっていた書物に手を伸ばしかけたが、すぐに総司の顔をじっと覗き込むように見つめた。
「…なんだ、やっぱり不満があるのか」
土方の前では隠し事はできない。総司は素直に吐露した。
「不満…というよりも、少し不思議というか、違和感というか…」
「なんだ?」
言葉を選びつつ、総司は慎重に口にした。
「島田さんが倒れても、大石さんはあまり動揺していませんでした。…だから、その…本当に島田さんが避けられなかっただけの偶然の事故なのかな…って」
「…」
「もちろん、故意だったとはいいません。あの人とは昔から疎遠だったので、そういう印象を持っただけかもしれませんし…」
何よりその瞬間を目にしていないのだから、無闇に疑うことはできない。けれど大石は悶絶する島田を見ても何も心が動かされていない様子だった。
けれど土方は「そうか」と頷いた。
「お前は昔からあいつとは距離があったな」
「…まあ、そうですね。土方さんはどうだったんですか?」
「俺は普通だ。義兄さんの所に行けば大抵顔を合わせていたし、稽古にも普通にいた」
「へえ…」
佐藤家に向かうたびに稽古を休まれていた総司とは真反対だ。やはり意図的に避けられていたのだろう。
「お前が出稽古に行くと腹を下す門下生は山ほどいただろう」
「山ほどってわけではありませんよ!二、三人です!」
「そうか?」
「そうですよ!」
総司がムキになって否定すると土方は笑った。試衛館の時のことを思い出すと、懐かしい気持ちが沸き上がり胸が温かくなる。きっとそれは土方も同じなのだろう、『鬼副長』というあだ名をつけられて久しいけれど、本当は笑えば女性が喜ぶような端正な顔立ちなのだ。
「なんだよ」
じっと顔を見ていることに気がつかれてしまったようだ。
「いえ」
と目を背けるが、土方は総司の頬に手を伸ばした。強引ではなく自然と引き寄せられ、口付けた。冬の寒さに乾燥した唇が触れた途端にまるで淡い雪のように溶かされて行く。
誰よりも近くで彼の顔を見ている。
「あの頃は…考えられなかったです」
「なんだ」
「こんなふうに…歳三さんと過ごしているのが不思議です。一緒にいたいとはおもっていましたけど、こんな形だなんて思わなかった」
「ああ…そうだな」
土方の指が総司の髪を絡ませ、触れる。試衛館にいた頃は意地悪ばかりしていたこの人が、こんな風に愛でるようにその指を使うなんて知らなかった。
(これから先も知らなかった歳三さんを見つけることができるのだろう…)
そんなことを思いながら、彼の胸に顔を埋めた。とくん、とくんと鳴る彼の心臓の音が妙に心地よかった。


陰口というものは、おそらく必ず誰かの耳に入るようにできている。それはきっと誰もが分かっているのに、それでも胸の内に芽生えた毒を吐き出せずにはいられないのだろう。
「聞いたか?今朝の稽古のこと」
「ああ。もう知れ渡っているだろう」
「島田伍長に恨みでもあるのか?」
名前を知らない隊士たちがヒソヒソと言葉を吐く。そして大石の姿を見るとはっと顔色を変えてわざとらしく話題を変えた。
大石は出歩くのをやめて十番隊の部屋に戻った。すると同じ隊の隊士ですら大石の姿を見ると
「お、おつかれ」
「大変だったな…」
と挙動不審な態度で声をかけてきたが、素知らぬふりで部屋の片隅に座った。そこにまるで大きな壁があるかのように他の隊士たちは大石から一定の距離を取る。もともと好かれている身ではなかったが、隊内でも信頼の厚い島田に怪我を負わせた分、印象は悪い。
(どうでも良い…)
大石は腕を組み目を閉じた。
脳裏に今朝の稽古が蘇る。剣の腕では劣る島田が、それでも全力で打ち込んできた。すぐに負かすこともできたがしばらく付き合うと島田はその勢いを増した。
『オォォォ!』
まるで猪の突進のようだった。まるでそれ以外のやり方を知らないみたいに真っ直ぐに打ち込んできた。剣の腕では大石よりも劣るが、その我武者羅な姿には好感が持てた。
そんな島田の姿に大石の身体は勝手に動いた。竹刀を薙ぎ払いバランスを崩した所に突きを繰り出す。
(狙ったわけではなかった…)
しかし、それ以外の選択肢だってあった。
それでも突きを選んだのは…。
「あ、いたいた、大石!」
十番隊の部屋に顔を出したのは、組長である原田だった。それまで漂っていた陰気な雰囲気を吹き飛ばすような明るさだ。
「何でしょうか」
「土方さんから話が来た。例の件、特にお咎めはなしってよ。島田もお前を責めるつもりもないそうだからさ」
「そうですか…」
「落ち着いたら、島田に礼を言っておけよ」
「わかりました」
淡々とした返答を返すと、原田は「よし」と言って今度は部屋にいる他の隊士たちに目を向けた。
「お前らも!もう終わったことなんだからグダグダ言うなよ!」
陽気で隊士からの人気もある一方で、豪胆な原田の一喝の効果は抜群で部屋の緊張感は少し緩んだ。
大石は世の中から隔絶されたくて再び目を閉じた。瞼の裏に浮かんでくる暗闇の方がずいぶん自分にお似合いだと思いながら。


総司が島田の元を訪ねたのはその日の夕方頃のことだった。彼は松本の指示で設けられた怪我人や病人が養生する部屋で横になっていた。
「お騒がせして申し訳ありません…」
普段は低く重厚感のある声を持つ島田だが、痛みがあるようで今日はまるで隙間風のように細く小さい声になっている。
「島田さんが謝ることはありませんよ。大怪我にならなくてよかった」
総司は傍らに膝をつく。総司とは島田を挟んで前にいたのは、山野だった。
「でも一歩間違えば命を落とす所でした!」
山野はあからさまに口を尖らせて拗ねた様子だ。島田と衆道関係にある彼からすれば、不問に付された大石に対して思うことがあるのだろう。
「山野…そう、怒るなよ…」
「でも…!」
「山野くん、土方さんも島田さんの意思を汲み取って不問としたんですから。気持ちはわかりますが、落ち着いてください」
「…はい…」
まだ納得はしていない様子だったが、彼にとって上司に当たる総司に言われては興奮を抑えるしかない。そんな山野を島田はどこか愛おしげな顔で見ていて、二人の間に特別な空気が流れているのがわかる。
山野はかつてはその整った容姿から近寄りがたい印象があり、本人も舐めされないように振舞っていたところがあった。しかし島田と特別な関係になってからは感情表現が素直になり、一番隊でも可愛がられるような存在になった。もちろん、兄貴分として慕われる島田の影響があったのは間違いない。
(たぶん僕と土方さんもそういうところがあるのだろう)
そんなことを思いながら、穏やかな気持ちで二人をみていたが、そんな空気を破る人物が現れた。
「失礼します」
起伏のない声に「あっ!」と声をあげて誰よりも早く反応したのは山野だった。総司が振り向くと大石の姿があった。大石も総司がいるとは思わなかったのか、気まずい顔をしている。
「出直します」
「いえ、どうぞ」
踵を返そうとした大石を引き止めると、彼は渋々ながらも総司の隣に膝を折った。向かいにいる山野はまるで子犬が威嚇するように大石を睨んでいる。居心地の悪さを感じたのか、大石は
「申し訳なかった。…それだけだ」
軽く頭を下げ、島田の返答も聞かずに立ち上がる。淡々とした口調は相変わらず謝意など感じられず、何を考えているのかわからない。そんな大石に「ちょっと…!」と山野は感情的になって追いかけようとしたが
「山野くん」
と制した。
「でも、沖田先生!」
「私が話して来ますから」
「先生、自分はもういいですから…」
総司は頷いて二人のそれぞれの気持ちを受け止め、大石を追いかけた。彼はすでに部屋から遠く離れていたため総司は小走りで背中を追う。
「大石さん」
「…」
「島田さんはあなたを責めるつもりはないそうです。山野くんのように納得できない者もいますが…私は島田さんの意思を尊重します」
「お咎めなしと、原田組長からすでに聞きました」
大石はようやく振り返った。彼は総司よりも頭一つ抜けた身長なので見下ろされるようだった。
思えば試衛館にいた頃から考えてもこうして話をすることすら初めてだ。総司は少し続ける言葉を迷った。
「私は…あの場に居合わせましたが、その瞬間は見ていないんです。…故意ではなかったのですよね?」
「…」
疑っているわけではなく確認のつもりだった。しかし大石からすれば避けている相手から突然追及されたと感じるだろう。
眉間に皺が寄ってその剣幕が鋭くなる。
「…わかりません」
「は…?」
「覚えていませんから」
突き放すような返答だった。総司が困惑していると、再び背中を向けて歩き出す。
その背中が夕日に照らされて、影を作った。





447


今日は雲の合間から晴れ間が覗き、真冬だというのに暖かい気候に恵まれていた。西本願寺の境内では何人かの隊士たちが集って餅つきをしていて、総司はその光景を眺めていた。
先陣を切って杵を振り上げて餅をついているのは原田だ。試衛館にいた時から食いしん坊だった彼は、正月の残りで餅を作るのだと言い出して非番の隊士を集めて餅つきを始めた。主に十番隊の隊士たちが組長に従って参加しているようだ。気分屋の組長ではさぞ大変だと思いきや、隊士たちは楽しげに杵と臼の周りに集まっていた。
(大石さんの姿はないようだけれど)
一番隊から十番隊までに分かれた組み割りでは、主に組長の人柄が隊に顕れるという。十番隊も例外ではなく原田に似て豪快で快活、加えて体格の良い隊士が多いように思う。今は亡き山南が組み分けをしたものを採用しているのだが、不思議なことに十番隊には無口で寡黙な大石が在籍している。
(山南さんにはきっと何かの意図があったのだろうけれど…)
今となってはそれを聞くことはできない。
「総司、お前も高みの見物してねぇで暇なら手伝えよ」
杵を他の隊士に押し付けて原田がこちらにやって来た。汗をかいたのか、この寒空の下だというのに上半身を晒し自慢の切腹傷が露わになっている。
「遠慮しますよ。私が手伝わなくても十番隊の屈強な皆さんがせっせと作ってくれるでしょうしね…ご相伴には預かりますけど」
「ちゃっかりしてんな」
ははっと高らかに笑いながら、原田は総司の隣に座った。手拭いで汗を拭きながら「悪かったな」と口にした。
「島田のこと…あいつもなんか鬱憤が溜まってたのか知らねえけど、あれからだんまりだ」
「大丈夫ですよ。島田さんももう回復されましたし、責めるつもりはないようですから」
「あいつも人が良いよな。大事にならなかったのはありがたいけどさ。…けど、なんか有耶無耶になっちまって気持ち悪ぃ感じはあるな」
「…そうですね」
『わかりません。覚えていませんから』
大石は総司の問いかけに淡々と返答した。けれどその表情は明らかな嫌悪に満ちていた。
「私への当てつけじゃないと良いんですけどね…」
「ああ、お前は大石に嫌われてたもんな」
土方でさえ『避けられていた』と濁したが、原田にはっきりと明言され、総司は力が抜けた。
「やっぱり…そうなんですかね?」
「試衛館にいた頃はお前が当番の時以外は必ず稽古にいたからな。お前の鬼のような稽古がよっぽど嫌だったんだろう」
「別に大石さんに特別厳しく接した記憶はないんですけど…」
「まああいつもそんなことでお前を避けるような小せえ器じゃねえだろうけどな。なんか理由があるんだろう」
笑い飛ばす原田の傍らで、総司は考え込む。試衛館にいた頃、彼に嫌われるような何かがあったのか。記憶を探っても、彼の顔すらうろ覚えなのに。
「その割にはさあ、あいつの剣ってどこかお前に似てるよな」
「え?」
総司は俯いていた顔を上げた。原田は「ううん」と考え込むように腕を組んだ。
「小野流だっけ?別の流派を収めてるやつは、大概その型が癖みたいに残っちまうが、あいつはすぐに天然理心流に馴染んだ感じだったよな」
「そう…なんですか?」
「お前は天然理心流の権化みたいなもんだから、その道を極めれば似てくるのは当然っちゃ当然だけど…」
原田は言葉に詰まり「うまく言えねえな」と曖昧に濁した。
「もしかしたら、おまさちゃんみたいにさ、嫌い嫌いも好きのうち…って奴かもな!」
「…何言っているんですか」
「ありえない話じゃねえだろう。好きな子ほどいじめたくなるって昔から言うし」
「…」
原田の冗談か本気かわからない話に総司が絶句していると、「原田組長ー!」と餅つきをしている隊士から声が掛かった。
「じゃあな」
総司の肩を叩き、原田は戻っていく。軽い足取りの背中を見ながら総司はため息をついた。


一方、会津黒谷本陣から戻って来た近藤は浮かない顔をしていた。
「どうしたんだ」
部屋にやってきた土方が尋ねると、近藤は
「美味そうな餅だな」
と土方の手元を見て言った。
「近藤先生に渡してくれと総司から預かったんだ。原田たちが餅つきをしたようだ」
「餅つきか。楽しそうだな」
「話を逸らすな」
容赦ない土方の追及に「うん」と近藤はそれでも言葉を濁らせた。
土方は仕方なく腰を下ろし、餅を渡した。
『近藤先生がお好きだから』
と総司が砂糖ときな粉をまぶした甘い味付けだ。甘い物好きは師弟揃って相変わらずだが、近藤はそれを受け取ると少し表情を和らげた。
「実は…黒谷で永井様にお会いしたんだ。再び長州行きの話が上がっているらしい」
「思ったよりも早いな…それで、同行を断られたのか?」
昨年の長州行きはなんの結果を得られないまま帰還した。そのことを近藤は気にしていたし、役に立たなかったと嘆いていた。幕府側の代表であった永井にも見限られてしまったのか…と危惧したが、
「いや、今回も同行するようにお話をいただいた」
とのことで気が抜けてしまった。長州との折衝の場に呼ばれる…前回に引き続き、未だに武士ではない浪人の身分である新撰組としては名誉なことだ。
「だったら、なんでそんなに落胆してるんだよ。紛らわしい」
「む…すまん。もちろん前回の失敗を考えればありがたい話だ。一介の浪人に過ぎない俺に永井様の寄せてくださっている信頼を思えば感極まる…だがなあ…」
近藤はふうう、と深く息を吐いて続けた。
「こんな大役を喜んで引き受けることのできないなんて情けない話だとはわかっているんだが…」
「もったいぶるな」
「うん…深雪のことが気になってな」
「…ああ、そういうことか」
名誉ある大役だと喜ぶ一方で、もちろんこの都を離れることになる。それは深雪を再び置いていくと言うことだ。
「近藤先生、悪いが…」
「お前の言いたいことはわかる。これは比べるまでもなく仕事を選ぶべきだろう?」
「…」
名誉ある大役と妾…どちらを選ぶかなんてそんなことは近藤はは重々わかっている。追い討ちをかける必要はないだろうと土方は言葉を噤んだ。
近藤は苦悩していた。
「深雪は当然俺を困らせたりはしないだろう。今回も笑顔で見送ってくれるだろうと思う。けど、だからこそ無理をさせるのが申し訳なくてな…」
「南部先生はなんて言ってるんだ?」
「小康状態だと言っていた。回復にはもう少し時間がかかるだろうと」
「そうか…」
太夫として名声を得ていた頃から『儚げな』印象はあったが、このところは痩せ細り、より一層その雰囲気が増している。
「以前、深雪を見てくれていた加也殿も長崎へ旅立ったらしいし、おみね殿も深雪につきっきりというわけにはいかない」
「まあ…そうだな」
「…だから一度は拒んだものの、総司の提案が最良な気がしているんだ」
「総司の提案?」
なんのことだ、と首をかしげる土方に近藤は「聞いてないのか?」と驚いた様子だった。
「てっきりお前も承知のことかとおもっていた」
「なんのことだよ」
「…深雪の妹御を身請けしてはどうか、という話だ」
「はぁ?」
土方は思わず声を上げた。もちろん、深雪の周辺事情を把握している土方は、深雪の妹が大坂で名を馳せている太夫だと知っている。簡単に身請けできるものではない。
近藤は頭をかいた。
「そ、そうだよな。いくらなんても姉妹揃って身請けなんて外聞が悪いし、もちろん金だってかかる。隊士たちにも『局長は女遊びばかりに興じている』と揶揄されるだろうとわかっている」
「…」
「わかっているんだが…身請けしてから深雪には心労をかけてばかりだ。心を休めて欲しいと思って身請けしたのに、彼女には何の良いこともないのが申し訳なくてな」
近藤は言葉を紡げば紡ぐほど意気消沈していた。
土方からすれば、妾に気遣いすぎだとも感じるが、それだけ近藤が深雪のことを思っているということだ。妻であるつねに対しては『親愛』を寄せているが、深雪に対しては『恋』であるに違いない。
「…わかった」
「歳?」
「その妹については少し調べてみる。身請けできるかはわからねえが…だから心置き無く近藤先生は長州行きの話を進めてくれ」
「いいのか?」
土方の顔色を伺うように、近藤は首をかしげる。それが武骨なくせに幼く子供っぽくて土方は苦笑した。
「仕方ねえ。妾のことが気になって仕事に集中できねぇっていうんだし。…それに、頑固で融通の利かないかっちゃんは、本心では身請けして欲しいって思ってるんだろ」
「…なんだ、お前にはお見通しだな」
近藤は苦笑しつつ、姿勢を正して頭を下げた。
「すまない。…よろしく頼む」
「ああ」
新撰組の局長のためにではなく、恋する幼馴染のために。
(全く、俺はかっちゃんに甘い…)
土方は内心そんな自分を笑っていたのだった。





448


細雪の降る夜、総司が別宅を訪ねるとすでにみねの姿はなかったがかわりに土方が着流しの気軽な姿で寛いでいた。ここは別宅…傍から見れば『妾宅』であるが、彼にとってすっかり気を休める場所になっている。
「おみねさんは帰ったんですか?」
「ああ、しばらくお前のことを待っていたが…」
「そうなんですか。悪いことをしちゃったなぁ」
近藤が帰還してからみねはこの別宅の世話役の仕事に戻った。近藤の別宅には年を越してからあまり足を運んでいないらしく、深雪が寂しがっていると近藤から伝え聞いている。みねにはそれを伝えようと思ったのだが、すれ違ってしまったようだ。
総司が腰を下ろすと土方は早速、
「明日大坂に行ってくる」
と気怠そうに横たわりながらそう言った。
「大坂…ですか?怪我の具合はもう良いんですか?」
「いつまでも怪我人扱いするな」
土方は少し不機嫌そうに言い返した。
不逞浪士の取り締まりは都に限ったことではなく大坂には何度か足を運ぶことはあるが、土方自らとなると珍しい。何か重要な案件でもあるのか、と思っていると土方がまじまじと総司を見ていた。
「…何ですか?」
「言っておくが余計な仕事を増やしたのはお前だからな」
「は?」
思い当たる節のない総司は首をかしげる。土方は「ふう」とため息をついて体を起こした。屯所では見せない乱れた髪や緩んだ襟から覗く首筋が目に入って、総司は何と無く目を逸らした。幸いにも土方は気がついていないようで続けた。
「深雪の妹のこと。身請けしたら良いとかっちゃんに入れ知恵したのはお前だろう?」
「あ…」
総司はようやく悟る。もっとも『入れ知恵』ではなく主治医であった加也からの頼みごとなのだが。
「でも近藤先生はあまり乗り気ではありませんでしたよ。お金もかかるし、本人の気持ちもあるから…と」
「きっかけを与えたのはお前だって話だ。金や気持ちなんてどうとでも解決できる問題だろう。姉の元で暮らせるといえば、いくら色街で名を馳せた御幸太夫といっても靡く。それが深雪の為だと気がつけば、かっちゃんは己を止められない…お前はそれがわかってない」
責めるような土方の口調。鬼の副長を恐れる隊士なら黙り込んで項垂れるのかもしれないが、総司は言い返す。
「確かに余計なことを言ってしまったかもしれませんけど…歳三さん、結局は大坂に行くってことは身請けの話を進めるってことですよね?」
「…」
近藤に甘いのは自分だけではない。総司が指摘すると土方は少しバツの悪そうな顔をした。
「…仕方ねえだろだろう。深雪のことが気になって長州行きも覚束ないっていうんだから…」
「また長州へ行かれるんですか!」
総司は驚いた。近藤が戻ってきたのは師走の末。まだ年が明けて数日しか経っていないのだ。
「俺も詳しくは聞いていないが、永井様の考えで再び同行に呼ばれているようだ。かっちゃんもまた誘いがあるとは思っていなかったようだが…名誉なことだ」
「そう…ですね。近藤先生も落胆されていましたから、絶好の機会ですよね…」
「お前、また駄々をこねるなよ」
「わ、わかってますよ」
総司は唇を尖らせた。一度括った腹をもう一度括れないということはない。前回は近藤の出立前に一悶着あったが、今回は汚名返上の機会になる。近藤の背中を押す気持ちしか生まれなかった。
「じゃあ、近藤先生は深雪さんのことが気になって長州行きに気後れしているということですか?」
「ああ。再び都を離れるとなれば、深雪に心労をかけるだろう。だがそれを気にして辞退する…なんてバカなことを考えられたら困る」
「まさか近藤先生に限って…」
「ありえるから言ってるんだ。あいつが惚れっぽいのは昔からだが、深雪に関しては特に情が深いんだ。あいつのことだから見捨てて長州に行くような真似はしない」
近藤に限って妾を気にして仕事を疎かにするわけはないと総司は一蹴しようとしたが、土方は真剣だった。こういう時は大抵、幼馴染である土方の言い分の方が的を射ているのだ。
「…それで大坂に行くというのは、その御幸太夫に会いに行くということですが?」
「ああ。すでに京屋さんには話をつけてもらっている」
京屋忠兵衛は商人であり、地盤のない大坂で何かと力になってくれている人物だ。深雪の身請けの際にも助力してくれていた。土方は本気で御幸太夫を身請けするつもりなのだ。
(深雪さんのためとはいえ、御幸太夫も近藤先生の妾になる…)
深雪の時は近藤のお墨付きがあり、会えばすぐに優しい柔らかな女性だと感じることができたが、御幸太夫は近藤すら会ったことのない未知の存在だ。
「お前も来るか?」
「えっ?」
「気になるんだろう。顔に書いてある」
土方はふっと微笑んで、総司の頬を指でつついた。
「そ、そりゃ気になりますけど」
「かっちゃんは会津に呼ばれていけないんだ。島田も復帰したことだしお前もついてくればいい。深雪の時もそうだっただろう」
つついていた指先で、今度は総司の頬を引っ張る。子供の頃、意地悪な土方が時々こうして遊んでいた。
「もう、やめてください」
「柔らかいな。正月に餅の食い過ぎで太ったんじゃないのか?」
「太ってないです」
「じゃあ確かめる」
頬を弄っていた指先が、総司の肩を捉えてあっという間に押し倒される。不意打ちの出来事に驚く総司とは対照的に、覆いかぶさった土方は満足げに笑っていた。
「…子供みたい」
「お前に言われたくないな。…それで、一緒に来るだろう?」
答えはわかっているはずなのに、土方は尋ねる。総司のリアクションを楽しんでいるのだ。
それをわかっていながらも、二人だけで大坂へ出かけるという甘美な誘惑には勝てない。
「仕方ないなあ…」
総司はそう答えて、苦笑した。すると柔らかな唇がそれ以上の言葉を塞いだのだった。


翌日も粉雪が降り注いでいたが、足元を濡らす程度のものだった。早朝に別宅を出た二人は、一旦は屯所に寄って大坂行きを近藤に報告し隊のことを島田に任せ、再び屯所を出て南へ歩いていた。
「それで、御幸太夫はどういう人なんですか?」
土方の隣を歩きながら総司は尋ねた。彼のことだから事前に大坂に滞在する監察あたりに調べさせているに違いない。
「面差しは深雪に似ているということだ。姉が身請けされた後は、それまで姉を懇意にしていた客が御幸太夫へ流れたらしい」
「深雪さんに似ているということでしたら、大層な美人なのでしょうねえ。」
総司の呑気な返答に土方は少しため息をついた。
「ただ中身は…正反対だそうだが」
「正反対?」
「勝気で強気…自分の好かない客には指一本触れさせないような気高い太夫だそうだ。どんな客からの身請けの申し出にも首を縦には振らない」
「へえ…」
深雪の優しい面差しに似ていながら、性格は真反対。それは総司にはなかなか想像できない女性像だった。
「…だったら、顔も知らない間柄の近藤先生の妾になる…なんて、難しいのではないのですか?」
「ああ。だが、会ってみないことにはわからない。体の具合が悪いとなれば家族へ情が芽生えて、姉のために身請けに応じるかもしれないからな」
「…そう簡単にいけばいいですけど」
総司は先行きに不安を感じながら空を見上げた。薄く伸びた灰色の雲がさらに雪を降らせようとしている。夏の空は何処までも開けているような爽快さがあるが、冬はその反対の閉塞感を覚えてしまう。その向こうに春があるのだとしても、なんとなく不安を感じてしまうのだ。
「…もうすぐ三年だな」
「え?」
ぼんやりと空を見上げていた総司は、土方の言葉で我に帰った。
「俺たちが京都に来てから、もう三年が経つ」
「ああ…そうか、そうですね」
三年前大坂から都に上った同じ道を、今大坂に向けて歩いている。不思議な感覚だ。
「三年もここにいるなんて思っていなかったですよね」
「確かにこんな形になるとは想像はしていなかったが…俺は江戸に戻るつもりもなかった」
「そうなんですか?」
「江戸に戻ったってつまんねぇ毎日が待っているだけだと思っていた。だから意地でもこっちに居場所を作ってやるんだって決めていたんだ」
屯所を離れ都を出たからこそ土方の気持ちが緩んでいるのか、いつもよりも饒舌だと感じた。
土方の言葉は続く。
「それが佐幕だろうと倒幕だろうと…どっちでもいい。かっちゃんが本懐を遂げるものであるなら、なんでもいい」
「近藤先生に聞かれたら怒られますよ」
「ここにいないから言っているんだ。それにお前だって同じだろう」
「まあ…それはそうですね。でも幕府への忠義は私なりには持っていますよ。土方さんだって天領の民なんだから同じでしょう?」
土方は「まあな」と曖昧に頷いて、続けた。
「でもまあ…面白い」
その満たされたような言葉に導かれるように、総司は土方の横顔を見た。その昔、吉原を囃し立てた整った顔立ちは、しかしその江戸にいた時よりも輝いていた。




449


大坂の町は身が縮み凍えるような冬であっても活気がある。薄っすらと地面に塗られた雪が商人たちの草履でかき乱され、土と混ざって茶色くなっている様子を見るとひっきりなしに続く忙しなさが伝わってくるようだ。
総司と土方は商人たちが行き交う道をかき分けて、京屋忠兵衛の商家に入った。騒がしい店先から女将に案内され部屋の奥の客間に通されると、主人である忠兵衛が待ち構えていた。
「遠路はるばる、ご苦労様です」
「ご無沙汰をしております。こちらこそ急な話をお受けいただき、有難うございます」
土方は恭しく頭を下げたので、総司も倣った。
京屋忠兵衛は新撰組を資金的にもバックアップしてくれている力強い存在だ。敵の多い大坂で活動できるのも彼の尽力が大きい。土方のやけに口調が丁寧なのもそのせいだ。
しかし正反対に京屋は親しげに話しかける。
「なんのこれしき。それにうちの女中らも土方先生や沖田先生がいらっしゃるて聞きつけてからはなんやそわそわと騒がしいですわ!二人もお気に入りの芸妓がおりましたらお世話させていただきますさかい、遠慮なく。せやけどそうなるとまたうちの店は大騒ぎやなあ」
ハハッと声を上げて笑う京屋に二人は苦笑するしかない。彼が二人の関係を知ったら度肝を抜くだろう。
「それで…御幸太夫の件はいかがですか?」
話を変えるように総司が促すと、京屋は少し表情を曇らせた。
「ううん…少し難しいかもしれまへん」
「難しい?」
「ご存知やと思いますが、御幸太夫は気難しいところがありましてな。気に入った客やないとなかなか座敷にも上がらへん。まあ、そないなとこが男心をくすぐって太夫にまで上り詰めたんやけれど…せやからいくら新撰組やゆうてもなぁ…」
腕を組み直す京屋は悩ましい顔をしつつ、ちらりと土方を見た。
「沖田先生は可愛らし感じやけども…土方先生の色男っぷりやったら、もしかしたらコロっといくかもしれへんけど」
「そんな私など…」
「謙遜されなくとも。いっそ土方先生の妾にするつもりで落とされはったらいかがです?」
「ご冗談を」
京屋の提案を、土方はさらりと受け流す。しかし京屋は食い下がった。
「冗談やあらしまへん。太夫は顔も見たこともない近藤先生には靡かへんし、ましてや姉妹で囲うなんて…あの太夫がそんなことを受け入れるわけあらへん」
「…それはわかっていますが」
「せやったら、土方先生が身請けするとして話を進めたほうがええと思いますわ」
「…」
京屋の説得に土方は答えあぐねていた。
もちろん京屋の言う通り、すでに姉を身請けしている近藤よりも、こうして足を運んでいる土方が彼女を説得して身請けした方が話が早い。土方は都に来てからは女遊びに耽ることは少なくなったが、吉原では伊庭とともに勇名を馳せていたのだ。気難しい芸妓を籠絡するくらい簡単なのかもしれない。
(でも…)
ちらりと総司が土方を見ると、彼は少しため息をついた。
「…わかりました、少し考えてみます。それで太夫に会うのは…」
「へえ、明日を段取りしてます」
「恩に着ます」
満足げに頷く京屋と土方は明日の段取りを含めて話を始めた。

その夕刻。
「怒るなよ」
ようやく京屋との話し合いが終わると、二人は大阪の町を歩き出した。京屋から夕餉に誘われたが、公用ではなく私用で足を運んでいるので必要以上の歓待は断った。
大坂の町は日が暮れようとしているのに未だに人が多く行き交っている。総司は目的がないまま苛立って歩いていた。
「…怒ってません。それに京屋さんがおっしゃることは的を射ているとじゃないですか」
プライドの高い御幸太夫でなくとも、会ったこともない近藤に身請けされるなど拒むに違いない。それに近藤が姉妹で身請けするともなれば外聞が悪いと気にしていたのだから、土方が身請けするともなれば一石二鳥だ。
「確かにそうだが、俺は妾はいらない」
「…私に遠慮することはありませんけど」
「思ってもないことを口にするな。お前は嘘が下手なんだからすぐにわかる」
土方は総司の顔を見て苦笑した。自分自身でも誤魔化しきれていないことはわかっていたのだが。
「それに…簡単に妾なんて話はできないだろう。俺には」
「…あ…」
土方が何を言いたいのか、総司は理解した。
かつて土方は自分の妾として懇意にしていた君菊を請け出すつもりでいた。それが彼女が間者になる見返りであり、契約だった。君菊はそうしてまでも土方のもとに居たかったし、土方もまた彼女に何かしらの情があったのだろう。結局、それは彼女の死という形の結末を迎えて実現することはなかったが、だからこそ土方は妾という場所を他の女で埋めるつもりはないのだ。
苛立っていた気持ちがすっと引いた。
「…すみません、勝手に妾にすればいいなんて…」
「別にお前が謝ることじゃないだろう。…それにしても京屋さんには困ったな。いっそ俺とお前のことを話せばいいのかもな」
「そんなことを話しても、だったらいっそ妾を持って子供を作ったらいいといわれるだけですよ」
「そうだろうな」
心底疲れたような顔をして土方はため息をつきつつ、続けた。
「しかし、近藤先生の為にもどうにか請け出すように説得しなければならない。深雪のことで気が漫ろになって仕事ができねぇなんて笑い事にもならん」
「そうですね…」
近藤の深雪に対する深い情や、彼女の元気のない様子を見ると総司の心も騒ぐ。どうにかしたいという気持ちは総司も同じだった。
「…それでこれからどうするんですか?何か宛でも?」
「取り敢えず萬福寺に向かう」
萬福寺は昨年大坂の拠点として設けられた『旅宿』だ。『旅宿』と言っても古参隊士である谷三十郎、万太郎兄弟を中心として大坂の地理に詳しい隊士が駐屯しているため、『大坂屯所』とも言える場所である。
「あらかじめ御幸太夫の評判について調べさせるように伝えている」
「へえ」
さすが用意周到な土方らしい行動だ。萬福寺に向けて二人は歩き始める。
町から少し外れ、寺が立ち並ぶ閑静な雰囲気のなかに萬福寺はある。大坂での将軍警護の任務の際には訪れるものの、総司は久々に足を運んだ。
「あれ…」
遠目に萬福寺を見つけたところで、その門前でウロウロとしている小柄な青年の姿が目に入った。中の様子が気になるのか覗き込むようにしているが、人の気配を感じると逃げるように身をひそめる。まるでその姿が子供の隠れんぼのようで、総司は苦笑してしまった。
「隊士…じゃないですよね。入隊希望者かな」
「だとしてもこっちでは入隊試験はやってない」
「ですね」
あからさまに面倒そうにしている土方に代わって、総司は「あの」と声をかけた。
「えっ?」
彼が振り返ると愛らしい瞳と目があった。総司よりも数歳年下だろうか、身だしなみは整えられ月代は綺麗に剃り上げられている。浪士というよりもどこかの身分の高い家の子息というような上品な雰囲気だ。
「こちらに御用ですか?」
総司が尋ねると、彼は少し戸惑ったような顔を浮かべつつも
「はい。あの…失礼ではございますが、こちらの新撰組の方ですか?」
と丁寧に尋ねてきた。
「正しくはそうじゃないんですけど、まあそのような者です。…あなたは?」
「ぼ、僕は…その、人探しを」
「人探し?」
てっきり入隊希望者かと思っていたが、そうではないらしい。彼はぽつぽつと話し始めた。
「あの…行方のわからない兄がおりまして…風の噂で、新撰組に入隊したらしいと伺ったんです」
「ああ、なるほど。でも隊士のほとんどはこちらの屯所ではなく、京の方に駐在しているんですよ。こちらには十数人くらいで」
「そうだったんですか!」
「良かったらその兄上のお名前を教えていただけますか?わかるかもしれないですから」
「…しかしそのようなお手間をとらせるわけには…」
彼は遠慮がちに目を伏せるので、総司は笑った。
「大丈夫ですよ、手間っていうほどのことはありません。この怖い顔をしている人は隊士のことならなんでも把握してますから」
「おい、総司」
面倒ごとに巻き込むな、と言わんばかりに土方が止める。総司は「冗談ですよ」と微笑むが、彼はハッと顔を輝かせた。
「あの!もしや、試衛館塾頭の沖田総司先生ですか…?」
「えっ?」
『新撰組一番隊組長』としての名前の方が知れているなか、『試衛館塾頭』の肩書きが出てくることに驚いた。
「ええ、そうですが…」
「何者だ、お前は」
土方も同じように感じ取ったのか、少し警戒するように睨みつける。しかし青年は深々と頭を下げ
「僕は大石造酒蔵(みきぞう)と申します。兄の名は…大石鍬次郎。試衛館ではお世話になっておりました」
と、意外な名前を口にしたのだった。









450


「土方副長!沖田組長!遠路はるばるご苦労様です!」
萬福寺の大坂屯所にて隊士たちの先頭に立って迎えたのは谷三十郎だった。以前は京都の屯所に身を置いていたが、弟とともに大坂で活動している。彼は武田観柳斎に通じるものがあり、力を持つ存在に媚び諂うところがあるので
「ご苦労」
と気に入らない土方は素っ気なく返した。加えて彼の末弟は暫定的に近藤の養子となっているため、扱いづらいのだろう。そのため、大坂の屯所に厄介払いされたのだ…と揶揄する噂もあるが、土方の態度を見るとそれもあながち間違いではない。
総司は代わりに軽く頭を下げた。
「谷先生、みなさん、ご苦労様です」
「ところで沖田組長、こちらの方は…?」
谷の目線は当然のことながら、総司の後ろに控えていた青年…造酒蔵へと向いた。彼が大石の弟だと知り、詳しい話は中で…と案内したのは総司だった。
「えっと…隊士のご親族で、怪しい人ではありません。谷先生、すみませんが彼と話がしたいので、しばらく人払いをお願いしたいのですが…」
「お安い御用です!」
張り切った返答をした谷は、奥の部屋へ案内した。その客間は枯れ木の覗く眺望の良い場所にあった。
「土方副長、御幸太夫の件は…?」
「後で報告を聞く」
「はっ!」
谷の威勢の良い返事とともに、隊士たちをぞろぞろと引き連れて去っていく。
西本願寺に比べると小規模な屯所だが、小さな庭もあって壬生の頃を思い出されるような雰囲気だ。
そして、しんと静まった部屋に土方と総司、造酒蔵が残された。
「お忙しいなかお手数をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません」
造酒蔵は手をついて深々と頭を下げる。色白で大きな眼が印象的であどけない雰囲気だが、一つ一つの所作は整っていて卒がない。
(確か一橋家の家臣の家柄だっけ…)
総司は兄の経歴を思いだす。兄である大石鍬次郎は家を出奔したらしいが、彼がそうでないのだとしたられっきとした武家の家柄ということになる。御曹司という言葉は伊庭のものだと思っていたが、彼にもよく似合った。
まじまじとその顔を見ながら
「あまり似ていないですね」
総司は率直に問うた。
兄はとても愛想がいいとは言えない武骨な雰囲気があるが、弟である彼は誰にでも好かれそうな愛嬌がある。荒削りの岩と磨かれた庭石のように違う二人は、一見すると兄弟には見えないのだ。
土方は「おい」と無遠慮な総司を嗜めた。相手は一橋家…幕府の御三家に繋がる御家柄なのだ。世間に名を轟かず新撰組とは言っても対応に慎重になるのは仕方ない。
しかし造酒蔵は
「構いません。幼い頃から何度もそのように言われましたから」
と気にする様子はなくにっこりと笑って、続けた。
「僕は兄上のように勇ましい面構えの方が良かったのですが、どうやら僕と妹は母に似たようでして」
「妹様がいらっしゃるのですか」
「はい。年頃の妹がおります」
兄妹仲が良いのか、造酒蔵は朗らかに語る。兄の大石自身は己のことを語るような性格ではないため、このように愛らしい弟や妹がいるなど想像もできなかった。
「…それで、鍬次郎君にどのような用件が?」
土方は促した。面倒ごとはさっさと終えてしまいたい、という土方の意図が総司には分かった。
すると造酒蔵は少し顔を伏せた。
「恥ずかしながら…兄が家を出てから数年、居所がわからずにおりました。家には僕や妹宛に年に一、二度手紙が届く程度で…。その手紙さえもこの二年ほどなく、心配をしていたのです」
二年ほど、ということなら大石が新撰組に入隊してからは手紙を遣っていないということになる。兄なりに新撰組という荒くれ者の集まりであり、身分の不安定な場所にいることについて心配させまいと思ったのかもしれない。
土方は続けて尋ねた。
「総司のことを知っていたのは…?」
「あ、はい。それは兄の手紙に書いてあったのです」
「手紙に?私のことが?」
総司は驚きと疑問が半々だ。試衛館にいた頃、大石とは疎遠でわざわざ手紙に書くほどの会話すらしたことがない。なのに、年数回しか彼らの元に届かない手紙にわざわざ登場するのは違和感があった。それは土方も感じたらしい。
「なんと書いてあった?」
「えぇーっと…それは、僕たち宛の内容ですので、兄の許可を得ないとお話しできません。申し訳ございません」
穏やかな中にきっぱりとした意思がある。その芯の強い辺りは武家の家柄に相応しい対応であり、総司と土方はそれ以上、追及することはできなかった。
「でもとても剣術に秀でた方だと書いてありました。お会いできて光栄です」
「そう…ですか」
お世辞なのかもしれないが、にっこりと笑う彼の表情には嘘は見えない。ますます大石のことがわからなくなってしまう。
(てっきり嫌われていると思っていたけれど)
そんな単純な話ではなさそうだ。
造酒蔵は土方の顔を見た。
「…用件というほどのことはないのです。ただ兄が息災に暮らしているのなら、それで十分ですから。一目顔を見たら家に戻るつもりです」
それだけで良い。
そう言いながらも造酒蔵の表情には影が差す。話せない事情があるのは鈍感な総司でもわかったが、個人的な事情を聞き出すわけにはいかなかった。
「…取り敢えず、こちらでの用を済ませて明後日には私たちは都に戻りますから、一緒に行きますか?」
「良いのですか?」
「ここで会ったのも何かの縁ですし…ね、土方さん、良いでしょう?」
「…勝手にしろ」
無下に断る理由もなかったのか、土方は了承した。造酒蔵は「ありがとうございます」と深々と頭を下げ、
「実は方向音痴で困っていたのです、助かります」
と恥ずかしそうに笑った。

それから程なく土方は谷の報告を聞くため部屋を出た。土方がいなくなると造酒蔵はほっと安堵したように息を吐く。
「怖いですか?」
総司は笑って尋ねた。土方は終始眉間に皺を寄せて話を聞いていたので、怖がられて当然だと思ったのだ。しかし造酒蔵は首を横に振った。
「とんでもない!ただ、『新撰組の鬼の副長』のお噂は江戸にまで届いていますから、僕の方が身構えてしまって…気に触ることをしてしまったでしょうか?」
「大丈夫ですよ。あの人は初対面の人は大抵あんな感じなんです、気にしないでください」
造酒蔵は「でしたら良いのですが」と歯を見せて笑う。余計幼く見えるが、人懐っこさも増すため総司にはまるで近所の子供と話すような穏やかな気持ちになった。
「兄も同じです。外面は冷たく感じるかもしれませんが、弟妹思いの優しい兄なんです。ただ…」
「ただ?」
「…だからこそ、家を出奔することになってしまったことが申し訳なくて…」
出奔。
一橋家家臣の長男という立場であれば将来は約束されている。立派な体格を持ち腕も立つ大石なら重用されたことだろう。しかしそれを捨てて大工にまで身を落とすことになった。
「…なにか深い事情が?」
答えられない質問かもしれないし、詮索するべきではないのかもしれない、と思いながらも総司は口にする。
すると造酒蔵は少し迷いながらも、言葉を選ぶようにぽつぽつと話す。
「詳しいことは…実は、僕にもわからないのです。家督は兄が継ぐのだろうと思っていたのに、父の命令で僕が継ぐことになって…優しかった兄は僕たちに冷たくなった。そしてある日…」
ある日。
そこでハッと我に帰ったかのように造酒蔵は言葉を止めた。
「…やはりこれ以上はお話しできません。申し訳ございません…」
「いえ、良いんです。こちらこそ不躾にすみませんでした」
お互いに謝り合うようになってしまう。
造酒蔵は話を変えるようにパッと表情を変えた。
「沖田先生、宜しければ新撰組について教えていただけませんか?兄がどのような場所で働いているのか、どのような生活を送っているのか…興味があるのです」
「もちろんそれは構いませんが…」
(実は一方的に嫌われている…なんて言えないか)
彼の喜びに水を差すようなことはできない。
総司は大石の上司である原田のことについて話し、造酒蔵を喜ばせたのだった。


その夜。萬福寺の一室を借りることにした二人は並んで眠ることにした。
「…不機嫌そうですね。何か悪い報告でもあったんですか?」
総司が寝所の準備をしながら土方に尋ねる。腕を組んで難しい顔をしていたのだ。
「別に御幸太夫の件は新しい報告はない。美しいが気難しい女だということだった」
「だったらどうしたんですか?」
「…お前がやっぱり面倒ごとを運んでくると思ってた」
土方はまたぼやいた。
「面倒ごと?」
「大石の弟の件だ」
造酒蔵は近くの宿で明後日の出立までは過ごすということだった。さすがに新撰組の屯所に居座るのは遠慮したようだ。
「そこまで面倒ということもないでしょう?一緒に屯所に戻るだけなんですから…」
総司の呑気な返答に土方はわざとらしく深いため息をつく。
「顔が見たいってだけで、こんなところまで来るわけがないだろう。何か深い事情があるはずだ」
「それはそうでしょうけど…」
総司としては屯所へ案内をするだけでそれ以上は関わるつもりはなかった。造酒蔵はともかく兄の大石はそう望むはずだ。
「面倒ごとになる前にできるだけ関わらないようにしますよ。土方さんにも迷惑はかけない…それでいいでしょ?」
「…嫌な予感がするんだよ」
総司が敷いた布団にごろりと土方が横になり、天井を見つめながら呟く。
土方の予感は当たる。
そのことを総司は重々知っていた。







解説
なし
目次へ 次へ