わらべうた




451


翌日。
御幸太夫に会うため京屋の紹介で訪れた茶屋には、既に何人かの芸妓たちが待ち構えていた。どれも美しい女だが深雪の風貌に似ていない。
「すぐに来よるさかいに」
店の者はそう言ってしばらく待つように伝えた。
京屋の計らいで呼ばれたらしい女たちは土方と総司に酒や料理を勧める。相手が新撰組だと知っている故か妙に愛想が良く、粒揃いの美女ばかりなので京屋が妙な気を回したのかもしれないと思った。
面長の女が総司の隣に座る。
「私は酒はあまり嗜みませんので」
総司は断るが
「そう言わんと」
女は酒を注ぎ距離を縮める。総司は躊躇いながらも盃を受け取りつつ、ちらりと土方を見た。
「お噂通りの色男やわぁ、素敵」
「ああん、うちの酌の番や」
土方の周りにはまるで見世物のように女が集まる。うっとりとした視線を集めるのは土方の端正な顔立ち故のことだが、彼もまたそれを拒むようなことはせず軽くいなす。逆の立場なら後で土方にどれだけ文句を言われることか。
(自分のことは棚にあげるんだからなぁ…)
総司は内心ため息をついた。土方の女癖が悪いのは昔からなので思うことはないが、気にならないといえば嘘になる。
そうしていると
「お待たせしました」
と京屋が顔を出した。その後ろから紅色の装いに身を包んだ女が、首を垂れて控えていた。
(彼女が…)
それまで座敷で騒いでいた女たちがスッと身を引いていく。太夫とそうでないものとの境目がはっきりと分かれるかのようだ。
深々と頭を下げた姿では顔を見ることはできない。それなのに、頭の先から足の指先まで洗練された佇まいには目を奪われた。
土方は居住まいを正し、御幸太夫に目を向ける。
「顔を上げてくれ」
「…」
御幸太夫には少し躊躇いがあったが、それでもゆっくりとその顔を見せた。
「あ…」
総司は思わず声を漏らしてしまった。
生え際から輪郭、眉の形、スッキリと通った鼻筋、形の良い唇…そのどれもが深雪と似通っていて、血を分けた姉妹であるということは顔を見ただけで明白だ。
しかしただ一点、その目は鋭く尖った鏃のように土方と総司を見ていた。そこに込められた感情は決して好意ではない。
(何だろう…)
事前に聞いていた『気が強い』とは違う。明らかに土方と総司を敵視していた。
「さあ、皆んなは下がりなはれ」
京屋がパンパンと手を叩くと、土方や総司の傍に侍っていた女たちがぞろぞろと座敷を出て行く。
入れ替わって部屋に入った御幸太夫は視線をそのままにその場に膝をついて、何も言わずに口を噤んでいた。その無愛想な姿に京屋は慌ててとりなす。
「すんまへん、別の座敷が長引いてしもうたみたいで…太夫も、ほれ、そないにまじまじと見んとご挨拶せな」
「…」
「太夫!」
まるで何も聞こえていないかのように反応を見せない御幸太夫に京屋は慌てるが、総司はやんわりと止めた。
「京屋さん、大丈夫ですから。…来ていただいて有難うございます」
「うちは日頃懇意にしてもろうてる京屋さんのために足を運んだだけや。新撰組の方にお礼なんて言われる筋合いはあらへん」
御幸太夫はようやく言葉を発した。その内容は明らかなトゲがあったけれど、声色はやはり姉によく似ていた。
彼女は土方と総司を見据えた。
「…うちはお客さんの前で芸をして喜ばせるのが仕事や。せやけどお二人は客やない、せやったら愛想を振りまく必要も、喜ばせるのが必要もあらしまへんな」
「太夫、そないな言い方…」
物怖じしない御幸太夫に京屋は頭を抱えた。
一方で総司はその言葉に圧倒されるだけで、特に気分を害するということはなかった。新撰組を目の前に啖呵を切る姿は勇ましく惚れ惚れとしてしまう。
それは土方も同じだったようで
「それでいい」
と、あっさり許した。
「確かに俺たちは客ではない。ただ、客ではないが太夫を身請けしたいと考えている」
土方は余計な世間話や腹の探り合いは無用だと考えたのだろう。単刀直入に用件を述べた。
すると御幸太夫は眉間に皺を寄せた。
「…うちはその辺に売ってる芋やあらへん。はいどうぞゆうて買えるとでも思ってはるの?」
「単純な話ではないのはわかっているが、了承さえもらえれば筋を通して華々しく身請けするつもりだ」
「…悪趣味やなあ」
御幸太夫はふっと息を吐いて笑う。いくら似ていても嘲笑を含んだその表情は深雪には決してなかったものだ。
そして続けた。
「この新町ではな、新撰組の局長はんは無類の女好きやて評判や。姉に続いて妹まで身請けしようとして…ご報国やと言いながら金にモノ言わせて…ええご身分やて、この大坂中で笑われてはります」
「な…っ!」
気の強い台詞なら笑って聞き流すことができたが、近藤のことを揶揄されるのは看過できない。総司は身を乗り出しそうになったが、咄嗟に土方が止めた。
「土方さん!」
「我慢しろ。かっちゃんのためだろう」
土方の言う通り御幸太夫の身請けは深雪のためでもあり、近藤のためでもある。そう諭されれば総司は何も言えないが、黙って見過ごすことはできなかった。
「…近藤先生は、深雪さんのことを大切にしています。そのような目で見られるとわかっていたも、あなたを身請けしたいと考えている。それは深雪さんの幸せを願ってのことです」
おそらく御幸太夫の言う通り、姉妹を身請けして囲う近藤は笑い者になるのかもしれない。けれどそこに近藤のやましい気持ちはなく、深雪に対する愛情と御幸太夫への心からの善意だということは間違いなかったのだ。
しかし、彼女にそれが簡単に伝わるわけがない。
「せやったら局長はんがお越しにならへんのや?うちは一度もお会いしたことはあらへん。せやのに部下を遣って身請けの算段をする…?うちのことを馬鹿にしてはる」
ツンと跳ね返された言葉に、総司は返答ができなかった。太夫まで上り詰めた彼女からすれば失礼極まりない話だろう。
代わりに土方が言い返す。
「それはその通りだ。だが、近藤局長は公務があり都を離れるわけにはいかなかった」
「せやったら出直して来たら」
「そうはいかない。事は急ぐ」
「そちらの事情は知りまへん」
御幸太夫は土方相手に一歩も引かない。彼女の強気な態度は絶対に身請けを引き受けないという意思を感じた。一方で負けず嫌いの土方も下手に出るつもりはないようで応戦する。
平行線を辿る会話に、京屋がやんわりと口を挟んだ。
「太夫、深雪はんとは別の店に売られるまでは仲がよろしかったんやろ?確かに不本意な身請けかもしれへんけど…血の繋がった家族と不自由なく暮らせるなんて夢ような話やあらしまへんか?」
「…京屋はん、そんなのは夢やのうて、ただの幻やと思います」
「幻?」
「お姉ちゃんはあの頃のお姉ちゃんやあらへん。…うちは風の噂で新撰組の局長はんに身請けされたて聞いて、幻滅した。よりによって嫌われ者の新撰組にやなんて…」
御幸太夫は細い指先をグッと握りしめ、悔しそうに顔を歪めた。 深雪の話だと幼い頃に別の置屋に売られたため会えていないということだったが、そのせいで誤解が生じているようだ。
「…あなたにとっての深雪さんがどのような姉君だったのかはわかりませんが、私はとても優しく慈愛に満ちた人だと思っています。深雪さんは近藤先生のことを想い、真摯に支えてくださっています。新撰組だからとか、そんなことはきっと関係がないのだと思います」
「好きやから身請けされたて?」
「私はそう思います」
総司の肯定に御幸太夫は
「…そんなの、会ってみんとわからへん」
と弱気に呟くにとどまった。
総司はちらりと土方を伺うと、彼は軽く頷いた。彼女を説得するための大きな理由がある。
「…御幸太夫。実はあなたを身請けするのは深雪さんのためなのです」
「それはさっきも聞いた。姉妹で囲いたいゆう局長はんの酔狂やろ」
「違います。…深雪さんのお身体の具合がよろしくないのです」
「!」
それまで鋭く睨みつけていた彼女の瞳がカッと見開かれた。
「な…なんの、病やの…」
「わかりません。最善を尽くして会津藩医に診て頂いていますが…」
「お姉ちゃんは身体が弱くて昔からよう風邪をひいてはった…それを、あんたらが無理させたんや」
怒りから憎しみへ。
彼女の表情が変化したのは気がついたが、それを否定することはできなかった。近藤の不在や隊士の不祥事で彼女を衰弱させてしまったのは事実だからだ。
しかしだからこそ、彼女を説得しなければならない。
「…病床で御幸太夫…いえ『お孝』さんの名前を呼んでいます。あなたを廓に残していることが気がかりだと漏らしていたそうです」
「…」
「…だから、その心労を一つでも減らすためにあなたを身請けしたいんです。深雪さんのために、このお話を受けてくださいませんか?」
総司は丁寧に頭を下げた。彼女の新撰組や近藤に対する侮蔑は決して受け入れられるものではなかったが、きっとこの場に近藤がいればどんなに厳しい言葉を投げられたとしてもそのようにするのではないかと思ったのだ。
ハラハラと状況を見守っていた京屋も
「太夫、近藤先生はそないに悪い人やあらへん。それはうちが保証しましょ」
と言い添えてくれた。
御幸太夫はしばらく何も答えなかったが、
「…土方様」
と居ずまいを正した。
「なんだ」
「お話はよう分かりました。新撰組に身請けされるやなんて御免やと思うてましたが…姉のためなら、仕方ありまへん」
「御幸太夫…!」
「ただし」
総司の喜びを制するように、御幸太夫は続けた。
「華々しいを身請けは結構や。うちはお姉ちゃんのために廓を出る。局長はんの妾にも誰の妾にもならへん。…それでもええ?」
「…ああ、構わない」
「ありがとうございます!御幸太夫…!」
安堵とともに喜びがこみ上げた。土方もまた大きく息を吐いていた。




452


夜。
萬福寺に戻った二人は谷らの大仰な出迎えを断って、疲労感を覚えながら腰を下ろした。
「…何はともあれ、丸く収まって良かったですねえ…」
総司の言葉に土方は「ああ」と頷いた。
話に聞いていたよりも気の強かった御幸太夫は土方や総司の話に耳を貸そうとしなかった。大金を積んで姉だけではなく妹までも身請けしようとする不届き者…そんな侮蔑の感情を持った彼女とは会話すらままならない状況が続いたが、しかし彼女の心を解きほぐしたのはやはり姉の深雪だった。遠く離れていても姉の具合が悪いと分かれば飛んでいく…絆で結ばれた姉妹愛を実感した。
「親元請けでいいということだから、派手な身請けの宴もやらなくて済んだ」
どうしても新撰組や近藤に請け出されたくないと彼女が言い張ったので、親元請けという形となった。太夫ともなれば廓中でお祭り騒ぎになるほど華々しく身請けされるものだが、彼女はそれには固執せず、それよりも早く姉の元に行きたいと気が急いていた。
そして、後のことは京屋に任せることにして、任務を終えた二人は明日、都へ戻ることになったのだ。
「…まあ結果良ければ全て良しですね」
「そうだな」
「気の強そうな人でしたから、これからが大変かもしれませんが…」
「俺はああいう女は嫌いじゃないな」
「え?」
意外な返答に総司は驚く。
「お淑やかな女子を好むかっちゃんの好みじゃねぇだろうが…ああいう気の強い女も悪くない。江戸にいた頃ならいの一番に口説いたかもしれねえな」
土方はそう言いながら横になった。まるで自身の別宅のような振る舞いなのは、きっと無事に身請けの話をまとめたという達成感故だろう。それ故に軽口になっているのだということはわかっていたが、
「歳三さんはああいう人が好みなんですか?」
「ん?」
総司は思わず尋ねてしまっていた。
江戸にいた頃、土方は伊庭とともに連日吉原へ出掛けていて総司はそれを呆れて見ていたし、ましてや一緒に行くことはなかった。だから、土方の好みがどんな女で、どうやって口説き落としていたのか…なんてことは伊庭が茶化して教えてくれたこともあったが、本当はわからない。だから今更土方の女の好みを知っても仕方ない…とわかっているのに尋ねずにはいられなかった。
「……やっぱり、何でもありません」
総司は誤魔化そうとしたが、土方はそれを見過ごしてくれなかった。
「総司」
「!」
総司の腕を強引に引き寄せて、そのまま押し倒す。
「とし…」
「つまらないことで妬くなよ。御幸太夫は美人だが好みじゃねぇし…それに、俺が今まで口説いてきた中で一番お前が大変だったんだからな」
「え?」
土方はふぅ、とわざとらしいため息つく。そしてみだれた髪をかきあげながら答えた。
「大体十日あればどんな女でも落ちる。手順さえこなせばな。…でもお前は俺の気持ちを知ってから一年近く応えなかっただろう」
「あ…」
「それでも俺は諦めなかった」
土方の告白は芹沢を暗殺する少し前、それにようやく応えたのは池田屋の当日だった。百戦錬磨の土方からすれば長い道のりだったはずだ。それでも諦めずにいてくれたのはそれだけ思いが強かったのだということ。
「過去…そして未来も、他の誰とも比べるな。お前だけが特別だ」
(特別…)
その言葉が胸に沁みた。そしてその熱量が身体中に伝わって、火照って行く。総司は咄嗟に顔を隠した。きっとその熱のせいで真っ赤になっているに決まっている。けれど意地悪な兄弟子はそれを許してはくれなかった。
「隠すな」
「い、いやです」
顔を隠す手を土方は引き剥がそうとしたが、総司は拒む。
「顔を見せろ」
「恥ずかしいからいやです…」
土方が優しいため息をついたのが聞こえた。彼は手を離し、総司の首元に顔を埋めた。二人の体が密着して、その分彼が何を求めているのかが直接的に伝わってくる。
「歳三さん…」
「なんだよ」
「ここ…屯所ですよ…」
「…ああ。そうだな」
総司の些細な忠告など無視して、土方は蝋燭の灯火を消した。


翌朝。
京へ帰還するために早起きをした総司だが、土方はその気はないようで惰眠を貪っていた。仕方なく着替えを終えて部屋を出る。大坂屯所に籍を置く隊士たちはすでに朝食を終えていた。
「沖田先生、召し上がりますか?」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて…」
小者の申し出をありがたく受け取って膳を受け取り客間に入る。するとそこには先客がいた。
「造酒蔵さん?」
「あ、沖田先生、おはようございます」
大石造酒蔵。兄の鍬次郎に会うために一緒に出立する約束をしていたのだ。その彼が総司と同じ膳を口にしていた。
「おはようございます。どうしたのですか、待ち合わせの時間はもう少し先でしたよね」
「ああ、実は…昨晩、宿を取っていたのですが、事情があって他の方にお譲りしたのです。ですが泊まるところもなく路頭に迷い…野宿を覚悟したところでこちらの谷先生にお会いしまして、ご好意で泊めていただいたのです」
「ああ、なるほど。そうだったのですか。私たちは夜に帰営したので気づかなかったんですね」
「寝床だけではなく、有難くも朝餉まで頂いてしまいました。図々しくて申し訳ないです」
箸を置いて深々と頭を下げる造酒蔵に、総司は「いいんですよ」と慌てた。相手は一橋家家臣の家柄だ、むしろ質素な朝餉でこちらが申し訳なさを感じてしまう。
総司は一応下座に当たる場所に腰を下ろした。
「…それで、事情というのはどういったことで?」
「実は宿の前に若い夫婦がいたのです。奥方は臨月でもう産まれるかもしれない、体を休める場所が欲しいと宿の女将に懇願しておられたので、お譲りしたのです」
「それはそれは…」
「無事に産まれると良いですが」
人の良い笑顔を浮かべる造酒蔵はおそらく同じ笑顔でその若夫婦に宿を譲ったのだろう。その人当たりの良い雰囲気は、やはり鍬次郎の無愛想とは真逆の性質を持っているようだ。
それからは雑談に興じたが、朝餉を食べ終わる頃に「あの…」と造酒蔵が言いづらそうにモジモジと口にした。
「…その、僕は生来素直な性格でうまく隠し事ができないのです」
「? はい」
「なので正直にお伝えさせて頂くと…実は昨晩、土方副長と沖田先生の隣のお部屋をお借りしていたのです。なので…その…」
昨晩何があったのか。
いくら声を押し殺していたとしても襖一枚くらいなら筒抜けになってしまっただろう。総司は造酒蔵の言葉でまるで沸騰したように身体が熱くなった。
「すっ…すみません!まさか造酒蔵さんが隣にいるとは…思わなくて…!」
「いいえ!僕の方こそ、聞き耳をたてるような下世話なことをしてしまって、申し訳ございませんでした!」
何故か二人で深々と頭を下げることになってしまった。
(…歳三さんのバカ…!)
総司は喉まで出かかった罵倒をどうにか飲み込む。なにも土方のせいではないのだが、辱めを受けているのは総司だけなのだから仕方ない。
「あ、あの…お二人はそのような仲でいらっしゃるのですか…?」
「は…はい、まあ、そうです」
「…」
造酒蔵はまじまじと総司を見た。総司からすればいたたまれなく穴があったら入りたい気持ちだったが、幸いにも造酒蔵が土方との関係を茶化すようなことはない。
それどころか
「いつからですか?」
と興味があるようだ。
「えぇっと…一年半くらいでしょうか」
「どのような理由で?どちらからそのように?」
「造酒蔵さん?」
造酒蔵は単純な興味というよりも、どこか必死に問い詰めていた。矢継ぎ早の質問に総司が返答を困っていると、
「す、すみません。囃し立てるわけではないんです」
と申し訳なさそうに頭を下げて、続けた。
「ただ…衆道はやはり男女の関係とは違うものだと思うんです。戦国武将たちも衆道相手とともに戦場へいく。いざとなれば命を張って守る…とても強い絆で結ばれているのですよね」
「武将と同じなのかはわかりませんが…確かに女性と関係を持つのとは違うのだと…思います」
昨晩、土方が熱っぽく語っていた『特別だ』という言葉は、きっとこれまで彼が口にしたことがないものだろう。彼がどのくらい自分を思ってくれているのか、しみじみと分かる一言だった。
その時は恥ずかしくて返答はできなかったけれど、もちろん総司もその気持ちは同じだ。
(今朝起きたらそう言おうと思ったけど…)
造酒蔵に昨晩のことを知られてしまったと思うとその気持ちは失せてしまった。せめてもの仕返しだ。
「そう…ですよね…」
造酒蔵は顔を伏せた。その横顔は何か思い悩んでいる様子だった。




453


大坂を出立して半日ほどで都にたどり着いた。夕暮れ時の空に再び大粒の雪が降っていて、足元が微かに凍り始めている。
「積もりそうですね」
灯りがぽつぽつと燈り始めた祇園の町を横切りながら総司は造酒蔵に声を掛けたが、彼はキョロキョロと辺りを見渡していて聞こえていない様子だ。都にくるのは初めてだということなので、大坂とは違う雅な雰囲気に目を奪われているのだろう。少年のように目を輝かせている。
総司は先を歩く土方に声を掛けた。
「土方さん、このまま屯所にご案内するんですよね」
「…いや、近くで待ってもらったほうがいい」
「え?」
意外な返答に驚くと、土方は少し声を潜めた。
「大石が二年も手紙を書かなかったのはそれなりの理由があるだろう。このまま屯所に招けば無理やり会わせることになってしまう。…弟に会うかどうかは俺たちの関わるべきところではない」
土方のいうことは尤もだった。弟である造酒蔵の無邪気な会いたいという気持ちを目の当たりにし、優先するあまり兄の心情を考えていなかったことを総司は素直に反省した。
「そうですね…でしたら、旅籠にご案内しましょう」
「ああ」

造酒蔵を屯所近くの旅籠に案内し、二人は西本願寺に戻った。兄には、旅籠に彼がきていることを伝言する、と言うと造酒蔵は
「よろしくお願いします」
と深く頭を下げた。てっきり屯所に足を運びたいと食い下がるかと思いきや、あっさりと旅籠に留まることを了承した。
(造酒蔵さんも察しているのかもしれない…)
兄である鍬二郎がなぜ自分へ手紙を寄越さないのか…そこに何か深い理由があるとわかっているからこそ、押しかけるのではなく待つという選択をしたのだろう。
「じゃあ、俺は仕事に戻る。大石のことはお前に任せるからな」
「えっ?」
隊士たちが『幹部部屋』と呼ぶ奥の間へ向かう途中で、土方はそう告げた。
「え?じゃない。お前があの弟を拾ってきたんだろう。最後まで面倒を見ろ」
「それは…そうですけど…」
総司は言葉に詰まった。
正直気が進まないというのが本音だった。造酒蔵は愛想が良く親しみを感じるが、兄は真反対であるし一方的に避けられている。
だが、総司が造酒蔵を連れてきたと言っても過言ではないのだから、土方が言うことはその通りで反論することはできない。
「何かあったら報告しろよ」
「…はい」
土方はさっさと背中を向けて去っていく。常日頃の仕事に加え、御幸太夫を身請けするための準備も加わったのだから彼が忙しいのは仕方ない。
その姿を見てようやく諦めがついた総司は踵を返した。早速、大石が所属する十番隊の部屋を覗くとタイミングの良いことに原田がいた。真冬だというのに薄着で寛いでいる。
「原田さん」
「おっ総司、大坂から戻ったのか?」
「ええ、つい今しがた」
部屋を見回すが大石の姿はない。隊士たちがぽつぽつと過ごしているだけだ。
「大石さんはいらっしゃらないのですか?」
「ああ。今日は非番だからどこか飲みにでも行ったんじゃねえのか?」
「ふうん…」
「あいつに用事か?…もしかして島田の件か?」
「その件はもう解決したじゃないですか」
総司は苦笑した。
島田はすでに隊務に戻り稽古にも参加しているし、いつまでも過去を引きずるような性格でもないので、大石を責めるようなことはしないだろう。
しかし原田は「そうでもねぇんだよ」と頭を掻いた。
「お前はわかってねえだろうけど、一番隊は新撰組の中でも特別なんだよ。立身出世を果たしたいっていう野望を持った隊士はみんな一番隊に入りたいんだ。大石はその一番隊の伍長の島田に怪我させたんだから、いろいろやっかまれる」
「そうなんですか?」
その一番隊の組長である総司には自覚がないことだったが、局長の親衛隊であり何かあれば真っ先に行動に移すという花形的な側面があるので、憧れはあるのかもしれないと思った。
「わざと島田に怪我させたんじゃないかとか…まあそういう陰口が絶たないんだ。あいつも明確に否定しねえし、もともと無口で何考えているかわからない奴だから話は広まる一方だ」
原田は少し苛立ったように爪を噛む。日頃楽観的な彼がそんな風に心配しているのは珍しい。
「…そういうことなら、私も気に留めておきます」
「おう、頼む。大石に話があるのなら、たぶんそろそろ戻ってくるんじゃねえのか。夜まで飲んだりしない奴だから」
「わかりました」
総司は原田に礼を言って部屋を離れた。
彼の話を聞いて少し大石のことが不憫に思えた。怪我をさせた相手が一番隊の、しかも伍長の島田ではなかったらここまで疎まれることもなかっただろう。真剣勝負の稽古で起こった事故なのだから。
「事故…か」
『わかりません。覚えていませんから』
本当に事故だったら、あんなに淡々と返答ができるだろうか。法度で私闘が禁じられているのだから、必死に『わざとではない』と言い募るのではないだろうか。
(だったらやっぱり故意だったということなのだろうか…)
総司はそう思いながら、(だめだ)と言い聞かせた。総司は斉藤とともにその場に居合わせたが、肝心の喉を突く瞬間は見ていない。確かな証拠がないのに、むやみに疑うべきではない。
「…出直そう」
邪に考えてしまう自分を嫌悪してします。総司が呟いて、一歩踏み出した時だった。
「あ…」
目の前に大石が現れた。彼のことを考え疑っていたタイミングだったので思わずたじろいでしまった。
しかし次に目が行ったのは、彼の乱れた格好だった。真冬なのに肩口や袴の裾あたりが泥水に塗れている。
「何かあったのですか?」
「…いいえ、なにも」
大石は首を横に振って軽く頭を下げると、そのまま総司の横を通り過ぎた。
彼の汚れた格好を見るとなにかあったことは明白だ。もしかしたら原田の言った通り島田の怪我の件で執拗に絡まれたのかもしれない。
(本当は関わらない方がいいのだろう…)
一番隊の組長である総司が大石を庇えば、さらに事態は悪化するだろう。人の嫉妬とは想像もつかないほどの悪になり得る。だから、これ以上関わらず時が経つのを待った方がいいの違いない。
けれど、わかってはいたけれど、放ってはおけずに総司は大石を追いかけた。彼は西本願寺の裏手にある井戸で井戸水を汲み上げていた。
「大石さん」
「なんでもないと言っているでしょう」
大石は上半身を晒し、手拭いで身体の汚れを落とす。寒空の下だが彼はやはり淡々としていた。
「島田さんの件ですか?」
「…違います」
「でしたら、暴漢にでも襲われたのですか。剣の立つあなたが?」
「…」
彼は黙り込む。
それはきっとこの件が大事になって私闘を禁じるという法度に触れる恐れと、総司には話したくないという意思なのだろう。
総司はため息をついた。
「話したくないのなら構いません。ただ、あまりに酷くなるようなら原田さんに報告してください。心配していましたから」
「…わかりました」
大石は渋々ではあったが頷いた。そしてまた井戸に桶を戻し引き上げる。
総司よりも一回り以上大きな身体は屈強な筋肉を身につけている。鍛え上げられた身体はいくら鍛錬しても総司には得られない、おそらく生まれ持ったものだろうが、それにしても弟の造酒蔵とは全く違うものだった。それは彼が出奔し、一橋家の家臣である弟は全く違う生活を送ってきたからなのだろうか。
「…何か?」
「え…?ああ、すみません」
考え事をしていたのだが、大石からすれば総司がまじまじと自分を観察していたように見えただろう。
長話をするような間柄ではないので、総司は早速切り出した。
「…話があります」
「話?」
「造酒蔵さんの件です」
「…は…?」
大石の表情が、歪んだ。それまで石膏の彫刻のように動かなかった顔の一つ一つがはっきりと『困惑』という形へと変わった
彼からすれば総司の口からなぜ弟の名前が出たのかわからなかったのだろう。本人しか知り得ないことなのだから。
「実は大坂の屯所でたまたま造酒蔵さんにお会いしました。あなたを探してやって来たそうです」
「…」
「詳しい事情は分かりませんが、あなたと話がしたいようです。この近くの旅籠にご案内しましたから、会いに行ってあげてください」
総司は端的に説明したが、大石はカッと目を見開いた。
「勝手な…真似を…!」
喜怒哀楽の乏しい彼から、怒りという感情が見えた。彼の鋭い眼が総司を捉えるが、怯むことはない。
「お節介だったかもしれません。しかしあなたが新撰組の一員であることを造酒蔵さんはご存知でしたから、遅かれ早かれここに辿り着いていたでしょう」
「そういうことではない…!」
大石は手にしていた桶を叩きつけるように地面に落とした。
「大石さん…?」
「よりによって…!」
その言葉の続きを聞く前に、彼の怒りに震えた指先が総司の襟を捉えた。
―――殴られる。
咄嗟に身構えたが、そうではなかった。
「…ッ?」
無理矢理、引き寄せられそのまま大石は口付けた。いや、接吻なんて生易しいものではなく噛みつくような強引なものだった。
「な…っ」
何で、と問う言葉さえも彼の口に奪われる。呼吸もままならないなか感覚が研ぎ澄まされて、次第に彼の舌に口腔を舐められていた。
吸い取られるような痛み。
「んぅ…!」
胸板を押しても、彼の大きな手が後頭部をとらえていたため身体の自由がない。頭が混乱し、身体の力が抜ける。でも心までは奪われなかった。
土方の顔が思い浮かんだ。
(嫌だ…!)
途端、総司は渾身の力で腕を大石の胸を叩きつけた。それは屈強な大石でさえ咳き込んでしまうほどだったが、気遣う余裕などなかった。
大石を見据えて怒鳴った。
「なにを考えているのですか!」
「…」
動転する総司とは裏腹に大石は涼しい顔をしていた。造酒蔵のことを伝えた時のあの湧き立つような苛立ちすら消え失せていた。
「大石さん…?」
「…その顔が…」
「は…?」
呟いた言葉の意味がわからず唖然とするしかない。
「…失礼します」
総司の質問にはなに一つ答えず、大石は背中を向けて去っていく。
夕暮れから夜になる。その薄暗い闇に溶けていくように彼の姿は見えなくなった。



454


夜が更けた頃、大石は蝋燭を片手に屯所を出た。
「どちらへ?」
門番の隊士が声をかけてきた。深夜の外出は認められているものの、こうして行き先を訊ねられるのだ。
「遠くではない」
「すぐに戻るか?」
「ああ…。沖田組長の密命だ」
「密命…」
門番はいまいち飲み込めないようだったが、一番隊組長の名前を出されてはそれ以上引き留めることはできなかったようだ。
大石は門を出て南に向かった。目的地はわからない…この近くの旅籠は何軒かあるので虱潰しに当たらなければならないだろう。
(聞き出すべきだったが…)
今更訊ねてもあの人は教えてくれないだろう。
あんなことをしてしまうつもりはなかったが、一番触れて欲しくない…造酒蔵のことを言及されたことで衝動を抑えることはできなかった。
彼に対する感情は、愛情や恋情なんて生易しいものではない。
けれどそれを表す言葉がわからない。
ただあの口付けを交わした一瞬、彼が自分に暗い感情を…本気の怒りを向けた。鋭利な瞳で見据えられて、恐れではなく身体の奥から悦びを感じた。
(あの日から、俺はおかしい…)
仄かな灯りが闇にぽつんと浮かぶ。その頼りない灯りが過去の記憶へと誘った。


十年ほど前。
その時はまだ大石家の長男として勉学や剣術に勤しむ日々を送っていた。一橋家の家臣としてこれから邁進する…そんな未来を描いていた頃だ。
ある日、病床の父からたった一人で呼び出され、告げられた言葉は実は特に驚くものではなかった。
「お前は私の子ではない」
父…と言っても結局は義父ということになるが、その子は自分を含めて三人いることになっている。弟と妹…しかしその彼らとは顔や体格が似ていなかった。武骨な顔立ちで長身で体格の良い自分とは違い、弟は小柄で細身であったし生まれつきの柔和な表情をしていたし、妹も同じだった。なので、心のどこかで自分はこの家の子ではないのではないか、という疑いがあっていつまでも払拭できなかった。それが事実だったというだけのこと。
「そうですか」
大石は気難しい青年期だったが、冷静に事を受け止めることができた。
父は事情を語り始めた。
もともとは亡くなった姉の子であること。その姉が不貞の末に生まれた子であったが、当時妻を亡くし子供がいなかった父が引き取ったのだということ。そしてその父が後妻を迎え生まれたのが弟と妹であること。
事実を突きつけられると、腑に落ちることがたくさんあった。父は昔から自分にだけ厳しく接し、弟と妹を溺愛した。それはやはり自分の血を分けた子供が可愛かったのだろう。
「…それで、父上。なぜ今、この話をしたのですか」
病床の父は日に日に老いていく。大きいと思っていた身体はまるで花が萎むように小さくなっていた。それは本人にも自覚があって、だからこそ弱気になったのだろう。
「造酒蔵に家督を譲ってほしい」
父は淀みなく告げた。
それまで冷静に話を聞いていた大石だが、さすがにサッと血が引くような心地になった。
いままで長兄として振舞ってきた。苦手な勉学も身につけ、剣術では評判の腕を得た。大石家の跡取りとして恥じない自分でいようと努力したつもりだった。
(たとえ血が繋がらなくても…)
この家を継ぐことになると思っていたのに。
それだけがたとえ血が繋がっていなくても、家族としての証明だと思っていたのに。
「…わかりました」
怒りや憤りよりも落胆の方が大きかった。
長兄としての誇りは、この身に流れる血によってズタズタに切り裂かれた。これまで歩んできた人生は無に帰したのだ。
だが、それだけではなかった。
「造酒蔵を支えてやってくれ」
その父の言葉は、それまでギリギリで張り詰めていた糸をあっさりと切ったのだ。

その日の夕暮れ。
大石は部屋に篭り荷物をまとめた。一両日中にもこの家を出るつもりだった。宛てはないが身についた学問や剣術で何とかやっていけるだろう…と意外にもこの先の道に不安はなかった。
「兄上?いらっしゃいますか?」
襖の外から造酒蔵の声がした。大石は咄嗟にまとめた荷物を隠す。
「…ああ、なんだ」
造酒蔵が顔を出した。愛くるしい大きな黒の瞳が印象的な華奢な弟だ。齢は三つほどしか違わないが、まるで子供のように大きな口で笑う。
「与磯(よそ)と縁日で金平糖を買ってきたのです。兄上にお裾分けしようと思って…」
与磯はまだ十にもならない幼い妹で、造酒蔵が特に可愛がっている。縁日にも共に遊びに行ったのだろう。
(親には縁がなかったが、弟妹には恵まれたな…)
天真爛漫という言葉が似合う弟と妹はやはり血が繋がっていなかったけれど、かと行ってすぐに他人だとは思えなかった。産まれた時からこの目で見ているのだ。
造酒蔵はキョロキョロと部屋を見渡した。
「部屋を片付けていらっしゃるのですか?随分と物が少なくなりました」
普段はそんな些細なことに気がつかない造酒蔵だが、虫の知らせなのか様子が違うことに気がついたようだ。
本当は顔を見ることなく出て行こうと思っていたのだが、大石は正直に話した。
「造酒蔵、お別れだ」
「…兄上?何をおっしゃっているのですか?」
金平糖を手にしたまま首をかしげる造酒蔵は、冗談だと思っているようだ。突然出ていくと告げられれば当然の反応だろう。
だから、まとめていた行李を彼の前に示した。
「俺は家を出る。そしてもう二度と帰らない」
「ど、どうしてですか!?何かあったのですか!」
造酒蔵の手から金平糖が零れ落ちる。バラバラに散らばった小さな星たちが、まるで引き裂かれた自分の心のようだと思った。
「もしや兄上も尊王攘夷だとか、そういったものを支持されるのですか?それとも父上や母上と仲違いを??駆け落ちしたい女子が…?!」
先走る造酒蔵はいろいろなことを口にした。的外れなことばかりだと思って聞き流していると
「父上の本当のお子ではないからですか?」
と思わぬことを口走ったので、大石は目を剥いた。
「お前…知っていたのか?」
「し、知っていたわけではありません。昔、女中がそのような噂話をしていたのを…聞いただけで…」
「…」
心が冷たく凍っていくようだった。客観的にもそのように見えていたのだと愕然とした。
造酒蔵もそれを感じ取ったのだろう、必死の形相で大石の腕を掴んだ。
「でもそんなのは嘘に決まっています!兄上は僕と与磯の兄上です。それにこの家の立派な跡取りで…!」
「…嘘ではない。その証拠に父はお前に家督を譲るそうだ」
大石は造酒蔵の掴んでいた手を払い除けた。
「…父上が、そんなことを…?!」
「俺は本当の子ではないから、お前に譲りたいと告げられた。死期が迫り今更自分の子に継がせたいと思ったのだろう」
勝手な話だ、と吐き捨てる。義父へはいままで育ててくれた恩よりも憎しみが勝った。
「…だから俺はこの家を出る。次男のでお前が継ぐとなれば余計な詮索や諍いを生む」
「兄上!」
青ざめた造酒蔵はもう一度大石の腕を掴んだ。今度は指先に力を込めて、離さないように。
「父上はひどい!今まで家の為に尽くされたのは兄上です。僕なんか次男だからと、のうのうと暮らしてきただけで…自分が跡を取るなんて考えたことはありません!」
「それでも父上はお前を選んだ」
どれだけ秀でていようとも、お前の中に流れる血を選んだ。それはどうしようもない事実だ。
造酒蔵は悔しそうに唇を噛んだ。
「父上に抗議します。僕は家督は継がない」
「…なぜだ」
「もちろん兄上の方がふさわしいからです。それに僕にとって家督よりも兄上の方が大切だからです」
きっぱりと言い切った造酒蔵に嘘はない。昔から嘘をつくのが下手な子供だったのだ。
その言葉が嬉しくなかったといえば嘘になる。たとえ血が繋がっていなくともそこに情があったのだと思い知ることができたから。
しかし、それでもなお大石の心は冷え切っていた。
「俺はお前の兄ではない」
「そんなことはありません!僕は兄上を尊敬しています!」
「俺はお前が嫌いだ。兄弟でないと知ってせいせいした」
「…兄上…」
「そうやって駄々を捏ねればすべての願い事が叶うと考えているのだろう?…甘えるな」
自分が思っている以上の厳しい言葉だった。造酒蔵の目尻に涙が滲んだが、彼は諦めなかった。
「…っ、でも、僕は兄上が好きです。与磯だって悲しむ」
「だったら、嫌いにさせてやる!」
売り言葉に買い言葉。それが相応しい言葉だろう。
「兄…上?」
大石は造酒蔵の肩を掴み、そのまま畳上に叩きつけた。彼の手からこぼれ落ちた金平糖がさらに四方へ飛び散る。突然のことに造酒蔵は唖然としていたが、その両手を拘束し組み敷いてその意味を悟った。
「兄上…」
以前一度だけ陰間を抱いたことがあった。柔らかい胸も滑らかな肌もないのになぜか欲情を掻き立てられて、自分にはその気があるのだと悟った。 その陰間と同じ目で弟を見下ろした。
そんな兄は造酒蔵からすれば、野生そのものだっただろう。
そこに愛情はなく、怒りと苛立ちで自分を見失い、ただそのウサを晴らすためだけの行動だったのだから。
しかし弟は「いやだ」とも「痛い」とも言わず耐え続けた。そうしていれば兄は気が済む…そう信じている弟は哀れになるほどに純真な姿だった。
ただただ
「兄上」
と呼ぶだけだった。形を無くそうとしている兄を必死に繋ぎ止めるように。
(もう兄ではない…)
散々告げたはずなのに、造酒蔵は手を伸ばし大石に触れようとする。
(そんなものはありもしない幻影じゃないか)
大石はその手を払い除けた。
そのたびに泥濘のような闇に囚われていくような気がした。



夜が更ける頃。
大石はまとめた荷物を手に部屋を出ようとした。
「…兄…上…」
意識を失うように倒れ込んでいた造酒蔵が掠れた声で呼んだ。
大石は返事をしなかった。兄ではない自分にはその資格がないと思ったのだ。
しかし弟は違った。
「せめて、お手紙を…お元気ならそれでいいです」
「…」
「僕と与磯にとって兄上は兄上なのです…」
造酒蔵は搾り出すような言葉で、いま切れてしまったものを繋ぎとめようとしている。紛れも無い澄み切った心を持つ弟の姿に、初めてやってはいけないことをしてしまったのだと思った。
大石は部屋を出た。そしてそのまま振り返ることはなかった。







455


弟の造酒蔵がいる旅籠はすぐに見つけることができた。そこは常日頃から新撰組が贔屓にしている場所だったからだ。
「お二階の一番奥のお部屋どすゥ」
醜女の女将の案内で階段を上る。客でいっぱいの部屋からは騒がしい人々の声が漏れ聞こえてきた。
大石の足取りは重い。数年間会っていない、ここ二年ほどは手紙すら送っていない弟に、一歩ずつ近づいているのだと思うと気が進まなかった。
「どうぞ、こちらどす」
「…」
騒がしい旅籠の中で、この部屋は静まり返っている。大石の内情など知る由もない女将はあっさりと襖を開けた。
「…兄上…」
もう深夜だというのに、造酒蔵は姿勢の良い正座をして兄を出迎えた。いつからそうしているのかわからないが、いつでも兄が訪れても良いように待っていたのだろう。愚直で素直な態度は未だに変わらないようだと察した。
女将は「ごゆっくり」と言い残して襖を閉めた。蝋燭が数本部屋を灯している…淡い光の中で兄に再会した造酒蔵は最初に驚いたような顔をして、徐々に安堵を浮かべた。
「お元気そうで…なによりです」
造酒蔵は数年ぶりの再会を喜び目に涙を浮かべていた。少し大人びて声が低くなったようだが、根本の素直な性格は健在らしい。
大石がなにも答えないでいると、造酒蔵は指先を畳について、深々と頭を下げた。
「…申し訳ございません。兄上は僕の顔など見たくもないのだとわかっていながら、勝手にここまできてしまいました」
「なぜ俺が新撰組にいるとわかった?」
「兄上をご存知の方が都で見かけたと教えてくださいました。新撰組の羽織を着ていたと…」
造酒蔵は顔を上げて、微笑んだ。
「兄上はとても精悍になられました」
その言葉をどう受けとれば良いのか、大石にはわからなかった。
弟とはひどい別れ方をした。大石にはその自覚はあって心の奥底では後悔の念もあったというのに、弟はまるでそんな様子を見せていない。何もなかったかのように笑っている。
けれどそんな簡単に忘れて良いようなことではない。
「…満足したか?」
「え?」
「家を継ぐはずだった兄の落ちぶれた姿を見て、満足したのかと聞いている」
一橋家の家臣の家柄から、一時は大工に身を落とし、いまは有象無象の集まる新撰組に身を置いている。そんな大石とは正反対の場所に造酒蔵はいる。二人の間に横たわる溝を見ないふりなどできるはずがない。
冷たく突き放すように吐き捨てる大石に、造酒蔵の顔が歪む。
「…兄上は落ちぶれてなどいません。新撰組の噂は江戸にまで届いております。兄上がその隊士の一人だと聞いた時、僕がどんなに誇らしかったか…」
「…」
「それに、兄上がたとえどんなお立場になっても構いません。手紙が届かなくなってから与磯も心配していました。お元気でご活躍されているだけで僕達は嬉しいのです」
嘘偽りのない造酒蔵の言葉が、なぜか大石には重く感じた。捨ててきたはずの鎖がいまだに体を縛り付け苦しめるような居心地の悪さを覚えてしまう。
早く終わらせたい…この鎖が雁字搦めになって引きづられる前に。
大石の気持ちが急いた。
「…それで、何の用だ。ただ顔を見にきたというわけでもあるまい」
表情を一変させて造酒蔵は俯いた。
「実は…父がもう長くないのです」
あの日、大石へ無情な命令を下した父はそれからも患い続けているということは造酒蔵の手紙で知っていた。
「なんだ、ようやくか」
苦しめば良い…そんな風に達観していた大石は吐き捨てる。造酒蔵も事情を知っている故にそんな大石の暴言を責めなかった。
「…父は、やはり僕に家督を継ぐように譫言を繰り返しています」
「当たり前だろう」
男児は造酒蔵しかいない。養子の長兄を切り捨ててまでも血筋を重んじたのだ。
造酒蔵は首を横に振った。
「しかし僕にはそれはできません。幼少の頃から兄上が跡を継がれるのだと思ってのうのうと生きてきた。だから自分がどんなに相応しくないか…わかっているつもりです」
「まさか今更、俺に継げというつもりか?」
大石は鼻で笑った。出奔した兄に家を託す…まるで現実味のない考えだと感じたからだ。
造酒蔵は寂しそうに答えた。
「…兄上はきっとそうおっしゃると思いました。きっと家のことなどどうでも良い…そうお考えになるだろうと」
「その通りだ」
「しかし僕にもそのつもりはありません。…ですから、僕は与磯に婿養子を取って家を継がせたいと考えているのです」
「…は…?」
突拍子のない話に、思わず唖然とした声が出た。
立派な男児がいるというのにわざわざ妹の婿養子に継がせる。それは結局は血の繋がらない者に家を託すということになり、父が最も望まないことだ。それまで育ててきた大石を切り捨ててまで血筋を重んじたのだから。
造酒蔵もそれを重々知っているはずだ。
「与磯も良い年頃になりました。大石の家柄なら喜んで婿養子に入りたいと望む者がいるでしょう」
「…お前、自分が一体何を言っているのかわかっているのか?」
「わかっています。これは僕の…父への復讐です」
「…復讐?」
「父は兄上を蔑ろにした挙句、僕と与磯から兄上を取り上げました。そんな父への復讐には父の期待に背き、僕が家督を継がないことが一番ですから」
愛らしい丸々とした瞳に暗い影が差す。大石は造酒蔵のそんな顔を知らなかった。
少なくとも大石が家を出るまでは造酒蔵と父との関係は良好だったはずだ。与磯とともに傍目からは溺愛というほどに可愛がられていたはずだが、しかしいまの弟の様子ではそんな関係には見えない。だとすればあの後に家の様相は変わってしまったのだろうか。
(いや…俺が壊したのか?)
あの日の、あの夜。
あの家を、この弟を。
(俺の望みは…そんなことではなかった…)
だがもう戻ることはできない。
大石は一呼吸置いて再び尋ねた。
「…お前が継ごうと、与磯が婿養子を貰おうと俺には関係がない。何をしに来た?」
大石家がどうなってもすでに自分の手に負えるものではない。与磯が婿養子を得るのだとしてもすでに出奔した大石の許可は必要ないのだ。
すると造酒蔵は微笑んだ。
「兄上もあの時におっしゃいました。家督を次男が継ぐとなれば周囲との軋轢が生まれると」
「…家を出るつもりか?」
造酒蔵は頷いた。
「もちろん与磯の縁談をまとめてからです。妹を見捨てることはできませんから…。でも兄上には真っ先にご報告をしたかったのです。そして…」
言い淀んだ言葉。造酒蔵は少し迷いがあったようだがそれでも告げた。
「僕を側に置いてください」
真摯な眼差しはあの頃にはなかったものだ。
大石はあの日に全てを捨てたのだと思っていた。築きあげた努力と絆…親、家族、友人何もかもを。
けれど、弟の愚直さによって本当は逃げただけだと見せつけられるようだった。抗うことのできなかった過去を責められている様に感じた。
「…何を馬鹿なことを考えている」
それでも、大石の心にはここから逃れたいという気持ちしかなかった。
「お前と父には隔たりは無かっただろう。いいから俺のことは忘れて家督を継げ。それですべて終わりだ」
「終わりになんてしたくありません!僕は…兄上と共に生きていきたい」
「俺はそうではない」
いき過ぎた兄弟愛だと思った。いつまでも乳離れ出来ない赤子のように駄々をこねているだけだと。
しかし造酒蔵は違った。縋るように大石の腕を取り掴んだ。
「僕は…浅ましいのかもしれません。あの日、兄上とあのようなことになって…でも全然、後悔なんてしなかった。いつまでに忘れられなかった。だから一層兄上のことを…」
造酒蔵が何を言いたいのか、大石にはわかった。だからこそ咄嗟にその口を手で塞いだ。
「う…っ?」
「…それ以上は言うな。…勘違いだ」
それは兄弟愛なんてものではない。そもそも兄弟ではないのだ。
(だから、あんなことができた…)
陰間のように扱って酷いことをした。いつまでも離れようとしない弟に決定的に嫌われたいという我儘だった。
けれど造酒蔵はそう思わなかった。兄弟ではないとますます実感し…大石にとって勘違いとしか思えない感情を抱いたのだ。
造酒蔵は眉間に皺を寄せた。息苦しいのか…と手を離すと落胆したように肩を落とした。
伏せられた睫毛には今にも落ちそうな涙が揺れていた。
「…帰る」
大石は膝を立てた。造酒蔵はハッとして大石の手を掴んだ。
あの日のように。
「兄上!」
「…家督の件は好きにしろ。お前が継いでも、与磯が婿養子を得ても構わない。だが…二度と俺の前には現れるな」
もうこれ以上、心をかき乱す様なことをするな。
そして
(これ以上…お前を拒みたくはない)
血が繋がらないとはいえ、最低限の弟への愛情はあった。だからこそ彼の望み通りに手紙を送ったのだ。
けれどそれ以上は望めない。望むべきではない。すれ違った人生はもう二度と交わらないのだから。
「…一つだけ聞かせてください」
「…」
「兄上はどうして新撰組に入隊したのですか…?」
手紙のやりとりが止まったのは新撰組に入隊を果たしてからだ。名を挙げたとはいえ浪人身分に過ぎない新撰組に兄がいるとわかれば余計な心配をかけるだろうと思ったのだ。
なにも答えない大石に、造酒蔵は続けた。
「沖田先生のためですか?」
「な…?」
思わぬ名前が挙がり、大石は目を剥いた。
「兄上のお手紙にはいつも沖田先生のことが書かれていました。剣術のできるご立派な方で…尊敬していると」
「…それは…」
「兄上は必要以上の賛美などされない。誰かを褒めることもなかった。だから…本心だったのでしょう」
「…」
無言の肯定だと受け取られてしまう沈黙だということはわかっていた。しかし返答できる言葉に詰まる。造酒蔵は時折、心の奥底を覗き込んでくる。
「兄上は…先生のことを慕っていらっしゃるのですか?」
慕っている?
(そうではない)
そんな簡単なものならば、とっくの昔に受け入れている。
「関係ない。入隊したのは…給金をもらって生きる為だ」
大石は掴んでいた造酒蔵の手を乱暴に払って、そのまま部屋を出た。
あの日、弟を置いて家を出た日のように。






456


家を出た大石は宛てもなく、その日暮らしのような生活を始めた。商家に奉公に出ても慣れないままに三日と保たずに辞めてしまう。そうしているともともと少ない手持ちの金も底をついてしまい、家もなく満足に食事もできない…そんな生活は大石を卑屈にさせ心を蝕んでいく。身を立てる勉学も剣術もあったが、それも義父から与えられたものだと思うと役立てる気にはならなかった。
けれど弟と妹へ手紙を書くことだけは続けていた。季節に一度、今どこにいて達者に暮らしているというだけの内容だ。一方的に送りつけるだけで弟からの返事は住処のない自分には届かないが、それで良いと考えていた。
数年後、流れ着いた江戸で大工の真似事をしていると、悪い連中と顔見知りになり博打を知った。勝てば天国、負ければ地獄というわかりやすい世界がその時の大石には楽だった。
(ここまで落ちた…)
自分を嘲笑うことが、慰めになった。手紙を送り続ける良心とは正反対の悪意が自分にはある。血の繋がらないとはいえ情のあった弟にあんな仕打ちができたのは、自分自身の心の奥にこんな闇があったせいなのだと言い訳ができたからだ。
そんなある日。
博打で大敗した大石は取立ての大柄な男から
「良い儲け話がある」
と持ちかけられた。なんでも彼らは黒船来航から続く世情の乱れや民の不安を利用して、盗みを繰り返しているらしい。
「田舎の奴らは風刺画を見て異国人を天狗だと思っている。だから俺たちが天狗の面をつけて盗賊を名乗ると異国人が来たと恐れ戦くんだ」
取立ての男は自慢げにそう言ったが、大石は子供騙しのお遊びだと思った。しかし男には大金を借りていて返せる当てもないため、気が進まなかったがその話に乗ることにした。
その日の深夜、大石以外にも数人の男たちが集まり、多摩の田舎へ向かった。顔も名前も知らない金に困った連中が集まった。
畑ばかりが連なる文字通りの田舎であるが、天領の民であるため暮らし向きは豊かなようで、大きな屋敷がいくつもある。
狙いの家に向かう道中で、一人の男が大石に話しかけてきた。
「お前さん、新入りかい?」
「ああ…」
「一昨日もこの先の家に盗みに入ったんだ。息子は行商に出て婆さんが一人しかいなくてよ。何でもやるから命だけは助けてくれって拝まれたんだ」
天狗の仮面のせいで表情はわからないが、にやにやとした不快な物言いだった。
「殺したのか?」
「ヒヒッ」
男は明言を避けて引き笑いをしただけだった。命乞いをした老婆を容赦なく殺した…男を軽蔑すると同時に大石はふと我に返った。
(俺は…こんな奴らと同じ場所にいるのか)
彼らと同じ仮面を身につけた大石が彼を蔑む権利があるのだろうか。
「ここだ」
リーダー格の男が指差したのは大きな蔵のある屋敷だった。剪定された生垣の合間に立派な門が佇んでいて、裕福な家だということはすぐにわかった。
もちろん面から乗り込むなんて真似はせず、裏口に回る。屋敷はしんと静まっていた。
「俺は見張りをする」
大石はそう申し出た。すると先ほど嫌な笑い方をした男が
「見張りは取り分が少ない取り決めだ。それでいいのかい?」
と尋ねてきた。一番危険が少ないのだから当然だ。
「構わない」
見張りは彼らにとって貧乏籤だったようで、大石の即答に多くの金を得たい男たちは特に文句はないようだった。
ここまで一緒に来て罪がないとはいえないが、せめて自分の手を汚すようなことはしたくない。
(くだらない)
くだらない自分の、くだらない線引きだとわかっていたけれど、これ以上踏み込むことはできなかった。
(本当に戻れなくなる…)
「行くぞ」
リーダー格の男の合図で中に入って行く。天狗の仮面をつけ真っ黒な頭巾と着物に身を包んだ様相はこの暗闇の中で不気味に映るだろう。
大石は木刀を片手に裏口に立った。
灯りひとつない闇の中に佇む自分が、酷く惨めに感じた。
(…終わりにしなければならない)
これ以上、深みへと堕ちないように。
良心こそが本当の自分なのだと信じられるように。
そう心に決めた時だった。
「ギャァァァァ!」
屋敷の中から聞こえた悲鳴にハッとした。それは先ほど引き笑いを浮かべていた男の声に違いない。
中で何かあったーーーその予感通り、裏口から仲間の一人が飛び出すように逃げ出してきた。
「なにがあった?」
「中で待ち伏せされてたんだ!いいから逃げろ!」
男は天狗の仮面を脱ぎ捨てて一目散に走り去る。四、五人が中に入ったはずだが、逃げ出すことができたのはその一人だけだったようだ。
逃げなければ…わかっていたのに、大石の足が向かったのは正反対の屋敷の中だった。中で何があったのか気になったし、腕には覚えがあるので自分は逃げ切れると高を括っていた。
裏口から忍び足で中に入ると先ほどまで真っ暗だった敷地にはポツポツと灯りが灯っていた。大石が覗き込んだ蔵の前には松明が灯されていて、捕らえられた仲間が縛られていた。
「賊はこれだけか?」
「そうみたいです。歳三さん、怪我はないですか?」
「あるわけねぇだろ、こんな盗人相手に。…かっちゃんは?」
「正門から逃げ出した盗賊を追いかけて行きました。原田さんも一緒なのできっと引っ捕らえるでしょうね」
「あいつはこういう時に変な馬力を出すからな」
二人の男がテンポの良い会話を交わしている。縛られているのは悲鳴をあげた男を含め三人、彼らが逃げ出したと語るのはリーダー格の男だろう。
(何者だ…)
大石は木陰から目を凝らす。
歳三さん、と呼ばれたのは長身の男だった。目鼻立ちが整っているのが松明の灯りでよく見える。
もう一人は
(女…いや、まさかな)
と勘違いするほど美しい顔立ちをした青年だった。遠目には細身だが、木刀を手にしているので待ち伏せしていた一人であることに違いない。
彼は軽やかに笑っていた。
「これで盗人も容易に多摩で盗みはできないでしょう。彦五郎さんも喜びますね」
「義兄さんは今回の件で自警団を作るなんて言い出してるけどな」
「勇敢な彦五郎さんらしいですね、ははは」
「笑ってないでこいつらを蔵に突っ込むから手伝え、総司」
二人は縛り上げた男を引っ張って蔵へと投げ込む。おそらく夜が明けたら役人に引き渡させるのだろうが、大石の目は総司と呼ばれた青年へ釘付けになっていた。理由はよくわからないが、一瞬足りとも彼から目を離してはいけないと思ったのだ。
最後の一人を蔵へ入れ、錠前を掛けたところで青年の目がちらりと大石の隠れる木陰へと向いた。それは偶然のことだったのかもしれないが、青年は大石に気がついた。
「歳三さん、ここは任せます」
「あ?」
彼がこちらに向かってきたので、大石は咄嗟に背中を向けて駆け出した。裏口から外に出れば逃げられる…闇に紛れてしまえば捕まることはないと思っていたが、何故か大石の歩調は鈍く、裏口を出たところで振り向いて自ら青年と対峙した。
「あなたも盗賊の一味ですか?」
青年は木刀を構える。黒い装束に身を包み天狗の仮面をしているのだから答えなくともわかるだろう。
大石も木刀を向けた。
「中に入った人は捕らえたはずだから…さしずめ見張り番ですか?逃げれば良かったのに」
雲が流れ、月明かりが射し込んだ。
青年は大石を前に微笑んでいた。先ほど軽やかに会話を交わしていたのとは違う。この天狗の面よりも不気味な、敵意をむき出しにした暗い微笑みだった。
大石は
(本当に…同じ人物か?)
と戸惑ってしまう。
「逃げないのなら、捕まえますよ?いいんですか?」
彼は踏み込み、手にしていた木刀を振るった。大石は咄嗟にそれを受け止めたがその重さに驚いた。彼が持っていたのは普通の木刀よりも一回りから二回りほど太いもので、大石の木刀が折れてしまうほどの衝撃があったからだ。
けれど彼はそれを軽々と振り回してしまう。大石は後退しながらそれをやり過ごすことしかできなかった。
青年は片時も目をそらすことなく打ち込み続けていた。その怜悧な眼差しに見つめられ、大石の背中はゾクゾクと震えていた。
家を出て孤独と無気力に過ごしてきたこの数年。
忘れていた『生きている』という実感。
(なんだ、この感覚は…)
身体中が震えていた。
しかし青年は突然手を止めた。
「…あなた、他の盗賊と違って剣の覚えがあるみたいですね。しかも相当鍛えていたでしょう」
息切れひとつない問いかけ。
大石は何の反応も示さなかった。月の光を背中に浴びて神々しい彼の姿に何を答えるべきなのかわからなかった。
「どんな理由があるのかは知りませんが…勿体無いなぁ」
「…」
冷たい眼差し。
憐れみが混じったため息。
蔑む彼が俺を見ている。
(俺のことを言っているのか…?)
しばらく青年を見つめた。彼は首を傾げていたけれど、そうしているだけで冷え切った心に火が灯るようだった。
「総司、どうしたー?」
沈黙を破ったのは、裏口の辺りから聞こえてくるもう一人の声だった。
「…行ってください」
「…」
「あなたがどう生きようと勝手ですが…もう二度と盗賊なんてものに身を落としてはいけません」
青年はそう言うと背中を向けて裏口へと戻っていく。大石が背中から襲いかかる可能性があったのに、彼はそんな警戒はしなかった。
「何してるんだ」
「歳三さん、何でもありませんでした。狸や狐だったのかな…」
はははと笑いながら屋敷に入って行く青年に先ほどまでの影はない。歳三と呼ばれた男の顔を見るやそれまでの怜悧な眼差しは影を潜め、柔和で優しい表情に戻った。
大石はしばらく立ち尽くしていたが、天狗の面を外して投げ捨てた。
自分の中にある闇が、青年のそれと同調しているかのようだった。
もう一度、あの目に見つめられたい。
蔑むように見下され、命のやり取りをしていたというのに、いまだに背筋がゾクゾクと震えていた。彼と対峙したあの時だけが自分が生きているのだと実感することができたような気がした。
いままで自分は善人だと言い聞かせていた。それを確かめるように弟へ手紙を送り続けた。けれど本当はそうではなくて、弟を犯し盗人にまで身を落とした自分こそが本当の『大石鍬次郎』という人間なのかもしれない。

月明かりは再び雲に隠れて辺りは闇が立ち込める。
その闇の中、大石は歩いた。





457


大石は数日後には多摩の田舎へと向かった。博打の悪い仲間たちからは足を洗い、それまでの細々とした生活を捨てた。特に惜しいものなどなく、闇の中で歩いた道をもう一度歩く。
脳裏には冷たく見下した青年の瞳ばかりが過っていた。
もう一度彼に会いたい。
そしてあの背筋が生きているのだという実感をもう一度感じたい。
その一心で多摩を目指して歩いた。
手がかりとなるのは総司、歳三と言った名前だけだったが、彼らの会話に登場した彦五郎という名が聞き込みで名主を務める佐藤彦五郎だということがわかった。地元の有力者であり、自宅で道場を開き自衛に努めるなど意識の高い人物らしい。
その佐藤彦五郎の屋敷を訪ねると、意外にもすぐに本人に会うことができた。名主らしく威厳がある面構えだが、突然訪ねてきた大石を疑うことなく迎え入れもてなしてくれた。闊達とした雰囲気で誰にでも好かれそうな度量の大きさを感じた。
「へぇ、うちの道場で剣を習いたいって?」
大石は自分が流れ者の浪人だと名乗り、剣術修行のため彼の道場での稽古を願い出た。佐藤が開いている道場は身分を問わずに誰でも受け入れているということだったので、自然な理由だろう。
しかし、佐藤はまじまじと大石を見た。
「…君、ただの浪人じゃァないだろう。肌は焼けているから外仕事をしていたのだろうが、体格は昔から剣を持っていた者のもんだ」
佐藤は腕を組みながら述べる。大石の嘘を見抜いたわけではないだろうが、人を見る目に長けているようだ。
大石は隠すことはできないだろう、と正直に告白した。
「…生まれは一橋家の家臣の家柄です。小野流を修めています」
「ほお、お武家さんですか」
「すでに出奔した身です。俺は流浪の身ですからそのように扱ってください」
そんな肩書きは今の大石には関係のないものだ。佐藤もこれ以上は探られたくないという大石の意図を感じたのか、「そうか」と胸に収めてくれた。
「もちろん、道場に通いたいのなら通ってくれて構わない。もともと治安が悪くなって自衛として道場を構えたものだから、この地域の男どもが自由に出入りしているんだ」
「ありがとうございます」
「君も時折、夜の見回りに参加してくれると嬉しいな。このところ盗賊が増えて困っているんだ。先日も婆さんが一人殺されてしまった」
「…」
直接的に関わったわけではないが、盗賊の一味だった大石は深々と頭を下げるしかない。すると「失礼します」と婦人が茶を持ってやってきた。
「家内ののぶだ」
のぶと呼ばれた女性は微笑んで軽く会釈した。名主の妻らしい上品な面持ちだが、どこか見覚えのある顔立ちをしている。
「彼は大石鍬次郎君だ。うちの道場で稽古をしたいそうだ」
「まあ…。でも旦那様、ここの道場は大石様のような血気盛んな若い方が通われるようなものではないでしょう。試衛館をご紹介した方がよろしいのではないのですか?」
「シエイカン?」
聞き覚えのない道場の名前だ。大石が困惑すると佐藤は苦笑した。
「田舎の貧乏道場さ。天然理心流ってのは聞いたことがないか?」
「…すみません、浅学なもので…」
「あっはっは!あいつらもまだまだだなぁ」
佐藤は大石の鈍い反応を見て大声を上げて笑って続けた。
「天然理心流はこの多摩で広まった田舎剣法さ、知らないのは無理はない。試衛館は天然理心流宗家の道場で、うちの道場はその試衛館から出稽古をしてもらっている」
「そうでしたか…」
「試衛館は天然理心流にこだわらず何人かの食客を受け入れている、懐の広い道場主がいるんだ。家内の弟…つまり俺の義弟も世話になってる」
「歳三と言います」
のぶから出た言葉に大石はハッと目を見開いた。
『歳三さん』
あの青年は親しげに名前を口にしていた。あの冷たい眼差しがその名前を呼ぶことで正気を取り戻していた。
「歳三のことをご存知で?」
「い…いえ。あの…」
「ああ、そうか。花街ではあいつは相当浮名を流しているらしいから聞いたことがあるのかもしれないな。土方歳三という」
「お恥ずかしいことです」
佐藤は相変わらず笑い飛ばしたが、のぶは口元を隠すように苦々しく笑っただけだった。のぶの顔を見た時の既視感はあの『歳三』に似ていたからだった。暗闇の中でもはっきりとわかる色男だったから、きっと花街では評判になっているだろう。
佐藤は話を戻した。
「試衛館には歳三以外にも数名の若い者がゴロゴロ居候している。だから本気で剣に取り組みたいというのなら試衛館の食客になるという手もある」
「…」
佐藤の語る『若い者』のなかにあの青年がいるのだろうか。
そう思うと心が躍ったが、安易に彼らに近づくと邪な気持ちを悟られてしまいそうだった。それに、盗賊として青年と相対したのはわずか数日前であることを考えると無闇に接触するのは良くはない。
(ここに居ればそのうち彼に出会えるだろう…)
急いては事を仕損じる。
大石は高ぶった心を抑え
「…有難いお話ですが、少し考えさせてください」
と謙虚に申し出ると「何も急ぐことはないだろう」と佐藤も納得してくれた。
それから佐藤は大石のことを気に入ったようで仕事を紹介してくれた。偶然にも佐藤の屋敷の修繕を行っている大工が人員不足で困っているということだったので、真似事程度の腕前だが大石を雇ってくれることになったのだ。
加えてのぶが、住まいとして近くの空き家を準備してくれた。もともとは佐藤が人に貸していた家屋だそうだが、今は無人で借り手もいないらしい。
二人の温情を有り難く受け取ったものの、後ろめたい気持ちはあった。
(俺は正体を隠し、邪な気持ちで彼らに近づいている…)
去り際、大石は尋ねた。
「何故、ここまで良くしてくださるのですか?今日会ったばかりだというのに…」
大石の質問に、佐藤は即答した。
「袖振り合うのも多生の縁というじゃないか」
彼は淀みなくそう言って続けた。
「私は勉学や剣術の腕は素人並だが、自分の見る目に絶対の自信を持っている。君は…本当は別の目的で道場に通いたいと申し出てきたのだろう」
「え?」
「目がそう言っている」
困惑する大石に、佐藤は微笑んだままだった。
「どういう野心かはわからないが君のような目をした若者を私は沢山知っている。若さ故の無鉄砲な側面もあるが彼らがどうなるのか、私は見届けたいと思っている。だから、君のことも世話したいと思った。つまり個人的な興味だ、気にすることはない」
悠然と語る佐藤は最後には興味だと言い切ったが、悪い気はしなかった。彼は名主としてこの地域の自治に努めている立派な人物であるが、その一方で何にも縛られずに自由に振る舞う大石のような若者に羨望の気持ちがあるのだろう。
彼が見守る『若者』はおそらく試衛館に屯する食客たちのことなのだろうと思った。
(あの青年も…)
そのなかにいる。



それから数日。
大石が大工仕事の合間に道場に通うと、試衛館から出稽古でやってきた若者に会うことができた。食客は数人いるらしいが、そのうち天然理心流を修めているのは三、四人ほど。大石が驚いたのは他の食客たちが北辰一刀流や神道無念流などの一流の剣術をを修めている剣豪だったことだ。わざわざ田舎の道場に身を置かなくても立身出世が果たせるような若者ばかりだった。
(余程、その試衛館という道場の居心地が良いのだろう…)
そう察することができた頃、佐藤の義弟でありのぶの実弟である土方を紹介された。
「どうも」
無愛想な様子だが、端正な顔立ちはまさにあの夜に見た面影に間違いがない。大石は内心緊張しながら挨拶をしたが、土方は大石の顔を見ていないので覚えがないようだ。
「今日は歳三一人なの?」
のぶが尋ねると土方は「いや」と首を横に振った。そして
「総司は近藤先生におつかいを頼まれて遅れてくる」
と、ついに彼の名を口にした。
大石の胸は高鳴った。きっとあの青年は試衛館の食客なのだろうと想定し、今か今かと待ちわびていた。
そして彼の訪問を楽しみにしていたのはのぶも同じようだ。
「まあ、良かった。この間美味しいお菓子を頂いたからぜひ総司さんにって思っていたの。甘いものがお好きでしょう?」
「ったく、あんまり子供扱いするとあいつが怒るぞ」
「だってあなたは無愛想で可愛らしくないんだもの」
のぶはまるで自分の子を迎え入れるようにいつにも増して上機嫌の様子だ。しかし彼女が語る青年の姿は、大石のそれとは全く違っていた。
(どういうことだ…?)
もしや大石の想像する青年とは別人なのかーーそう危惧した時だった。
「すみません、遅くなりました」
少し息を切らした様子で顔を出した。細く長い髪が束ねられ、凛とした眼差しや筋の通った鼻、そして形の良い唇と輪郭で構成された華やかな顔立ちはあの夜に対峙した者に違いない。
大石の体に緊張が走り彼から目を離すことはできなかった。
「総司、大石鍬次郎君…新入りだそうだ」
土方が大石を紹介する。総司はぱっと笑って「そうですか」と喜んで大石の前に膝を折った。
「はじめまして、試衛館塾頭の沖田総司と申します」
愛想の良い笑顔はまるで太陽のように眩しくてそれでいて人懐っこい。誰もが彼の笑顔につられて頬を緩めてしまうだろう。
しかし、大石はそうはならなかった。
(違う…)
あの夜。
真っ暗闇の中、対峙した彼はもっと深く闇のような目で自分を見つめていた。触れれば切れてしまいそうな鋭利な眼差しが自分を侮蔑するように見ていたのに。
目の前の彼は違う。
闇など感じさせない明るく朗らかな表情。まさに天真爛漫という空気を醸し出す彼に対して、大石はなんの感情の高ぶりもなかった。
(どういうことだ…)
一心不乱に彼を追ってここまでやって来たというのに肩透かしのようだ。
大石は奥歯を噛み締めた。
あの日感じた悦びとは正反対の感情を、彼に向けていた。







458


「大石君、どうかしたのか?」
佐藤に声をかけられ、大石はハッと我に返った。
青年…総司を紹介された後すぐに稽古の時間になった。自衛のために剣術を身につける近所の農民たちと混じり集団稽古だ。佐藤は自ら田舎道場だと揶揄していたが、熱心に取り組む門下生が多く道場は所狭しと男たちが集まっている。
新参者の大石はその片隅で袴を結ぶ手を止めて、総司を見ていた。朗らかで気さくな様子は変わりなく、むしろあの夜見た姿が嘘だったのではないかと疑いたくなるような豹変ぶりだった。
「なんだ。沖田君に見惚れているのか?」
袴を結ぶ手を止めて熱心に見つめていたものだから、佐藤は勘違いをしたらしい。
「そういうわけでは…」
「なに、彼を初めて見た者は大抵そういう反応をする。儚げな美青年という風貌だが、あの見た目に騙されてちょっかいを出したら返り討ちにあうぞ」
ふふっと意味深に佐藤は笑う。かつて返り討ちにあった者でもいたのだろうか。しかし総司に懸想をしているのではないかという佐藤の疑念を否定するのが面倒で、大石はそのまま尋ねた。
「彼はあの若さで塾頭なのですか?」
「ああ。沖田君はもともと武士の子だが、幼い頃に試衛館に口減らしに出されてね。物心ついた頃からみっちり剣を仕込まれている。歳三なんかは我流で鍛えた節があるが、沖田君はいわゆる天然理心流の申し子だな」
「申し子…」
「普段は子供と無邪気に遊んだりもするが、いまや彼に勝てるような男がいるかどうか…」
必要以上の賛美をしない佐藤が総司のことを寸分なく賞賛する。
おそらく佐藤の言葉通りの人物なのだろうが、その話の中に大石が感じ取った闇の部分はない。
(俺の勘違いだったのか…?)
月夜が見せた妖だったのか。それとも闇の中で見た幻だったのか。
そんなことを考えているうちに稽古が始まった。
天然理心流の太い木刀を使った素振り。この重さには大石でさえ慣れないが、総司は涼しい顔をして寸分違わぬ素振りを繰り返している。細い体躯のどこにそんな胆力があるのか不思議に思うほどだ。
門人たちはすでに素振りだけで疲労を見せはじめていたが、彼の稽古はまだ序の口だった。小手や胴を狙った素振りは毎回百を超え、細かな指導はどちらかといえば玄人向けのもので素人同然の農民たちにはハードルの高いものだった。特に敵を想定した突きの練習には力が入っており、一人また一人と稽古から離脱する者が出た。
「顔に似合わない荒稽古だろう?」
大石の隣で汗をかく佐藤はそう言って苦笑した。
「はあ…まあ」
「君は小野流を修めているからある程度は平気なのだろうが、沖田君は加減を知らなくてね。おそらく手加減というものをしらないのだろう。農民相手に本気で指導してくれるのは有難いが彼の鬼稽古を嫌って欠席する者が多いのも確かだ」
大石は再び総司へと目を向けた。稽古が始まる前の愛想の良い雰囲気は一変され厳しい顔で講師を務めている。逆に無愛想だった土方の方が面倒見が良いようで丁寧に指導していた。
(鬼稽古か…)
佐藤はそう評したが、大石にはそうは思えなかった。
彼の中に眠る鬼はこんなに生易しいものではない。その証拠に纏わりつく空気さえも尖らせる禍々しさがないではないか。
(誰も知らないのか)
彼を幼い頃から知っている佐藤も、食客として共に過ごす土方も、誰も彼も知らない。
あの闇の中にいた彼は、彼自身すら自覚のない姿なのではないか――。
そんなことを考えているといつの間にか素振り、型稽古そして打込稽古が終わり
「試合稽古をしましょう」
と試合形式での稽古を行う指示が出た。実戦に一番近い稽古だ。
「大石さん」
上座に立つ総司が、末席で稽古をしていた大石の名前を呼んだ。凛とした声に大石の背筋が伸びる。
「まだ日が浅いでしょうが、試合稽古をしませんか。相手は…そうだなぁ…」
総司はぐるりと門下生たちを見回した。
おそらく彼はこれまでの稽古で大石が素人ではないことに気がついただろう。佐藤には己の経歴は伏せるように頼んでいたが、総司のような手練れならすぐにわかるはずだ。だからこそその腕を見極めたくて試合稽古を指示したのかもしれない。
「すみません」
大石は手を挙げた。
「どうしました?」
「宜しければ…沖田先生にお相手頂けませんか?」
大石の申し出に周囲は騒ついた。つい先日入門したばかりの若者が無謀な申し入れをしたと思ったのだろう。総司は目を丸くして土方は怪訝そうに大石を見ていた。
しかし大石としては力量を見たいということなら本人に試して欲しかったし、またあの夜のように彼と対峙できるなら本望だと思ったのだ。
総司は決めかねているようだったが、
「いいじゃないか、面白い」
という鶴の一声が響いた。もちろん、佐藤だ。その言葉通り面白がっているのだろうとは思ったが、背中を押された総司も頷いた。
「…彦五郎さんがそうおっしゃるなら、構いません」
門下生たちは道場の端に身を寄せ、小さな道場の真ん中には総司と大石だけになった。大石は太い木刀を竹刀に持ちかえ、防具を身につけた。こうしてきちんとした格好で稽古に臨むのはずいぶん久しぶりだ。
周囲の視線を感じながら大石は軽く一礼し真ん中に立った。総司も同じようにして大石の前に立つ。
あの夜と同じように対峙した。
けれど、あの時と同じ高揚感はない。
「はじめ!」
土方の掛け声で竹刀が動く。
試合とは言っても稽古の一環だ…稽古を見守る門下生たちはそう思っていただろう。
しかし大石にはそのつもりはなかった。
「ヤァァァ!」
大きく踏み込んだ足。遠い昔に身についた剣術はまだ体に染み付いたままで、つい初手から大胆に攻める癖が出た。
総司はそれを真正面から受け止めた。しかし竹刀がしなるほどの押し込みの強さを感じて、目の色が変わった。大石がそれなりに熟練した遣い手だとすぐに理解できただろう。
それからは慎重にお互いを探るような手捌きが続いた。大石が小手を狙った剣筋は逸らされ、代わりに空いた胴を狙った突きを避けた。
そうした攻防を続けていると、大石は佐藤が彼のことを高く評価していた理由を思い知った。
無駄のない動き。鮮やかな立ち回りにはおそらく彼自身の『癖』はない。天然理心流という流派のなかを自由に飛び回って、最善かつ最良の答えを常に出し続けている。頭で考えるよりも先に身体が動くーーまるで竹刀と同化しているように軽々と動いた。
それは人間離れした姿に見える。だからこそ佐藤は『天然理心流の申し子』と評したのだろう。
(だが…)
いま、目の前にいる総司は稽古という名の試合を存分に楽しんでいるように見える。
けれど、あの闇の中で大石が見た表情はそれではない。
(どうしたら、引き出せる…!)
大石は必死で打ち込んだ。
彼はそれを竹刀で受け止めていたが、大石にとってはそれはまるで空を割くようだった。
(ちがう…違う、違う!!)
こんなものではないだろう。
あの日、冷たい眼差しで蔑むように見下した。あの瞳に見つめられていると己の本能を刺激されるようだった。
だから求めた。
なのに、
目の前にいるのに焦燥感ばかりが募っていく。
もどかしさだけが重なっていく。
「アアアァァ!」
大きく振りかぶり、彼の面を狙う。
けれどそれは激しい音を立てて弾かれ、そのまま大石の手から離れた。
「そこまで!」
土方の声で終わりを告げられた。総司の竹刀の先は大内の面を寸前まで捉えていた。
道場はしんと静まったままだった。大石はジッと総司を見つめる。その顔は、その目は、何を見ているのだろうか、と。
「…やっぱり」
彼が呟いた言葉に大石はどきりとした。
竹刀を合わせている間は本能を剥き出しにしていたため、自分がそれなりの使い手であることは総司だけでなくこの場にいた者に露見してしまったはずだ。
彼が何かを勘付いたのではないか…けれど総司は微笑んで見せた。
「初めてお会いした時からお強いのではないかと思っていたんです」
面の奥でニコリと笑った表情は無邪気な子供そのものだった。
全身の力が抜けるとともに、苛立ちが込み上げてきた。
「…ありがとう…ございました」
大石は軽く頭を下げた。
そしてそれからも試合稽古は続き門下生たちが挑んでいく。自分の力量を知ることができる稽古故に活気付いた。
大石は防具を外し、ひっそりと道場を出た。裏手にある井戸までやってきて水を汲み上げ、そのまま顔を洗った。冷たい水が肌に沁みたがそれでも胸に宿った苛立ちは止まらなかった。
「…くそ…っ!」
大石の剣では、総司の中にある闇を引き出すことはできなかった。それはつまり彼を本気にさせることができなかったということだ。剣の腕が彼に劣ったという純粋な悔しさもあったが、大半を占めるのは彼への嫌悪だった。
(どうして見せない…!)
彼を問い詰めたい気持ちが湧き上がる。
けれど本当はわかっている。彼の本質は佐藤の言う通り明るい部分なのだと。闇の部分は天狗の面をした大石を敵だと認識したからこそ見せた一面だということ。
けれども彼の闇の部分に惹かれ取り憑かれてしまった大石のなかには、笑っている彼を否定したいと言う邪で捻じ曲がった欲望しかなかった。だから、彼の傍にいると苛立つ。
(出会い方を間違えてしまった…)
盗賊として彼の目の前に現れなければ、こんな暗い気持ちにならなかったのか。
(いや、違う…)
彼の闇を見たからこそ、大石はそれまでの落ちぶれた生活を捨てることができた。その闇を見たからこそ、生きているということを実感することができた。

様々な感情が入り乱れた大石は、その後は総司とは距離を取ることにした。荒稽古が嫌になったのだろうと佐藤は苦笑していたが、彼自身がどう思ったのかはわからない。
けれど大石はこれでいいと言い聞かせ続けた。
闇に囚われれば、そのまま闇の中で生きるしかない。自分は総司の闇の片鱗を見た故に引きづられたのだ。
これ以上飲み込まれてはならない。
多摩の地に土着してからは弟への手紙も再開し、いまの居所を知らせると返事が届くようになった。手紙には総司のことも書いた。尊敬している――そう書かないとこの抑圧された心が弾け飛びそうだった。
けれど一方で、時折遠目に総司を見ると胸の焦燥感は治らなかった――。







459


冬の寒さは日毎に違う。都での冷え込みは江戸で暮らしていた頃には味わったことのない凍りつくようなものだった。あちこちで水溜りが凍っている。
今日の朝の巡察は三番隊と合同だ。この寒さ故か不逞浪士の数は少なく町の風景はどこか沈黙しているように見えるが、嵐の前の静けさということもある。巡察はいつも通り念入りだ。
「何かあったのか?」
「え?」
隊士たちを周辺の探索に散らせたあと、斉藤が総司へ不意に尋ねてきた。
「何かって…」
「唇から血が出ている」
「…あ、ほんとだ」
ぺろりと舐めると血の味がした。寒さのせいです唇が荒れていたのだろうと単純に考えたが、
「ずっと唇を噛んでいただろう」
と彼から目敏く指摘されて腑に落ちた。強く噛みすぎて血が滲んでいたのだろう。
「ああ、そうか…」
「何があった?」
斉藤は先ほどよりもより断定的に尋ねてきた。総司の様子を見て確信したのだろうが、しかし何を答えれば良いのかわからなかった。
(あれは結局、何だったのだろう…)
唇には大石の感覚が残っているだけで、その意味はわからないままだ。
避けられ嫌われているのだと思っていた。いやむしろあの時さえも自分に好意があるのだとは感じず、何かに苛立ち当て付けるような暴力のようなものだと思った。
「…何もありませんよ」
生娘じゃあるまいし野良犬に噛まれたと思って、気にすることはない。そう自分にいい聞かせる意味での返答を
「相変わらず嘘が下手だな」
と斉藤はため息混じりに受け取った。納得をしていないことは重々わかったが、彼はそれ以上追求しようとはせず腕を組み直した。
「まあいい。行き詰まったら話してくれ」
「…斉藤さん、なんか雰囲気が変わりましたね」
以前は過剰なほど心配をしていた気がするが、今の斉藤からはその気配がない。総司が首を傾げると
「…別に。それより御幸太夫の件はどうなったんだ?」
と話を逸らした。
「無事に話がまとまりましたよ。新撰組のことはあまり良く思っていないようですが…やはり姉上のことをお話しすると、身請けを受け入れてくれました」
近いうちに再び近藤は長州へ旅立つことになる。それまでにはどうにか間に合わせると土方は意気込んでいた。
斉藤は「そうか」と淡々と答えつつ
「また面倒なことになるな」
と呟いた。
「面倒なこと?」
「深雪太夫を身請けするのに五百両、そして妹を身請けするのにも金が要る。局長の色好みに大金が注ぎ込まれるのをよく思わない隊士はいるだろう」
「それは…」
それは土方も懸念していたことだった。近藤が大坂で評判の太夫を二人も囲うことになれば大金が必要になるが、それが隊費から出ているのだ。隊士から不評を買うのは間違いない。
「先生は己の色欲ではなく深雪さんのことを思って御幸太夫を身請けされたんです。事情を話せばきっとみんなわかってくれますよ」
「…そうだといいな」
斉藤は何が含みを持たせたが、あえて何も言わなかったようだ。
大石のことや御幸太夫のこと、そして数日後には近藤が長州へ向かう…色々なことが頭のなかを目まぐるしく駆け回っている。けれど総司以上に土方は忙しなく動き回っているはずだ。
(せめて大石さんの件はどうにかしないと…)
土方曰く総司が『厄介ごと』を運んできてしまったのだ。せめてその始末はつけなければならないだろう。
頭を悩ませていると、隣で斉藤が苦笑していた。目まぐるしく変わる総司の表情を見ていたのだろう。


一方。
土方は近藤とともに彼の別宅へと向かっていた。
「後ろめたい気持ちもあるが…きっと深雪は喜ぶだろう」
目的は深雪へ妹である御幸太夫の身請けと数日後に控えた近藤の長州行きを伝えるためだ。
「近藤先生、深雪の前では後ろめたいことなんてまるでないという顔をしろよ」
周囲の評判や金の工面…気になることはあるだろうが、冴えない顔をしていると深雪が気に病むことになる。彼女を安心させようと計らったというのに、それでは本末転倒だ。
近藤は頷いた。
「…そうだな。ありがとう、歳」
「俺は何もしていない」
「そんなことはない。お前はいつも俺のことを一番に考えてくれている。俺はお前に何の恩返しもできていないのに」
「…恩返しなんてむず痒いな」
土方は居心地が悪くて顔を逸らした。
そもそも近藤のための苦労を厭うたことは一度もない。土方にとって幼い頃から今まで自分の果たすべき役割をこなしてきただけに過ぎないのだから、礼など言われる筋合いはないと思っていたのだ。
しかし義理堅い近藤はそれを良しとしない。
「いや、この恩は何かで返さないと気が済まない。何か俺にできることはないのか?」
食い下がる近藤を拒むことができず、土方は考える。
「…だったら、一つ頼みがある」
「なんだ?なんでも言ってくれ」
「今度の長州行きも必ず生きて帰ってきてくれ」
近藤にとって二度目の名誉ある長州行きだが、そこが敵地であることに変わりはない。一度目ほどではないが近藤自ら足を運ぶことに気が進まないのは変わらない。そんななかで御幸太夫を身請けしたのは、土方にとって深雪よりも彼の気がかりを一つ減らすことに重きを置いたからだ。
だからこそ、無事に戻ってもらわなければ困る。
「…勿論だ。傷一つなく帰ってくる、約束しよう」
近藤のに力強い言葉に土方は頷いた。あれが約束を違えるような男ではないことは重々承知していたのだ。
そうしていると別宅までたどり着いた。門の生垣には昨晩降り積もった雪が残っていた。
近藤が「ただいま」と声をかけて中に入ると、深雪が出迎えた。
「旦那様、おかえりなさいませ。土方せんせもおこしやす」
深雪はまだ本調子ではないものの、化粧を欠かさず小綺麗にしている。大坂の新町にいた頃のような派手な出で立ちは影を潜めたが、それでも抜きん出た美しさは健在だ。
しかし近藤は怪訝な顔をした。
「深雪、もっと暖かい格好をするようにと伝えていただろう?」
「へえ、お部屋には火鉢置いて暖かくさせてもろうてます」
「身体を冷やすのは良くないと南部先生も仰っていた。いいから綿入れを着込んで部屋に入るんだ。茶は俺が淹れる」
近藤は深雪の背中を押し温かい客間へ押し込むと、自分は台所へと向かった。
土方も客間に足を踏み入れた。深雪は言いつけ通りに綿入れに袖を通し、火鉢の前に佇んでいた。
「土方せんせ、お怪我の方はあれからいかがですか?」
「…ああ、大事ない」
土方は一時この別宅で療養をしていた。今では傷の痛みすら忘れるほどに回復しているので、すっかり忘れていたほどだ。
深雪は微笑んだ。
「それはようございました。旦那様にとって土方せんせは女房役…倒れるなんて鬼の霍乱、いらっしゃらなければ隊の仕事が回らなくなってしまうと伺いました」
「総司か?」
そんなことを言うのは総司くらいだろうと尋ねると案の定その通りのようだ。彼女は軽く頷いて続けた。
「どうか御身を大切にしてくださいませ。うちはせっかく身請けして頂いて、旦那様のお役に立ちたいと思うておりますのに、足を引っ張ってばかり…情けへんどす」
深雪の長い睫毛が悲しげに伏せられる。彼女は彼女なりの覚悟を持って近藤の妾になった。しかし思うように身体が動かずにもどかしい思いを抱えているのだろう。
土方にはそれが気負いすぎのように見えた。
「…あの外見通り、近藤先生は丈夫だ。昔からろくに怪我や風邪をしたことだない。だから多少足を引っ張られたところでビクともしないだろう。…あまり考えすぎないことだ」
「…土方せんせ…」
深雪はまさか土方の口からそんな言葉が聞けるとも思っていなかったようで、最初は唖然としていた。しかし次第に嬉しそうに笑い
「はい」
と改めて答えた。彼女の中に眠る無邪気さが垣間見れる表情だった。
「お茶が入ったぞ」
盆に三つの湯呑みを乗せて近藤がようやく客間にやってきた。
「おおきに、旦那様」
「このくらい造作もない。…なんだ、二人でなんの話をしていたんだ?」
「内緒どす」
深雪はいたずらっぽく微笑むと近藤は「気になるな」とつられて笑った。
土方はそんな穏やかなやり取りを見ながら、近藤の見せる柔らかな表情に安堵した。都にやってきてから数年、こんなにも心穏やかに休める場所はこの別宅にしかない。
これから険しい道を辿ることになるときに、近藤にとって心の拠り所になる場所は、深雪のもとなのだろう。そんな彼女のために妹を身請けしたことはきっと間違いではないはずだ。
「それで旦那様、今日は土方せんせとお揃いでどうされたのです?」
深雪が尋ねる。近藤はその大きな口を綻ばせて話し始めたのだったーーー。





460


夕暮れ時。
土方は一人で近藤の別宅を出た。夏にはあんなに長かった昼間が今ではすっかり短くなった。別宅は屯所からほど近い場所にあるものの、帰りつく頃には暗くなっているだろう。屯所に向けて足早に歩き始める。
近藤が再び長州へ行くことになったと告げると、気丈な深雪でさえ少し不安そうな顔をした。けれど近藤の働きが認められた故に同行するのだということを重々承知している彼女は
「おめでとうございます」
と満面の笑みで祝った。近藤が自分のことを気にしないように、と配慮したのだろう。
続けて近藤は妹である御幸太夫を身請けすることを話した。すると驚いた表情を見せ、意外にも
「旦那様、お気持ちは嬉しゅう思います。せやけど…」
と拒んだ。近藤のことを慮る故に土方が危惧するようなことが深雪にも想像できたのだろう。
しかし、だからこそ土方が共に来たのだ。
「全ての準備は整っている。気にすることはない」
「でも…親元請けとはいえ安くはありません。隊士の皆様のお気持ちを考えると…」
「妹御を身請けすることは新撰組のためだ。この度の近藤先生の働きによっては新撰組の評価も変わってくる。そのための準備の一つだ」
土方は敢えて淡々と説明した。深雪の身体を気遣った身請けではなく、近藤を安心させ長州行きを成功させる準備なのだと。強情な一面がある深雪も仕事の一つとしてなら受け入れてくれるだろう。
「歳もこう言っている。新撰組の鬼副長が良いというのだから、安心してほしい」
「でも…旦那様、こんなに良くして頂くやなんて何やら申し訳なくて…」
「君が健やかに暮らしてくれるのならどんな助力も惜しまない。むしろこれは自己満足なんだ。そのために受け入れてほしい」
近藤の懇願に、深雪の強張っていた表情が絆されていく。本当は幼い頃に別れた妹との再会を心から喜んでいる筈だ。目尻に光るものが浮かび、大きな涙が溢れた。
「おおきに…旦那様、おおきに…」
泣き崩れた深雪を近藤が抱きしめる。その様子を見て土方は気を利かせてその場を去ったのだった。
屯所へ向かう土方はひとまず一つ片付いたと安堵した。御幸太夫の身請けの具体的な話は京屋が進めてくれるので任せても良い。住まいは当分は姉と共に別宅に滞在するだろうし、その世話はみねに頼むことになるだろう。
しかし土方には他にもやらなければならないことがある。
(今回の長州行き…伊東もやはり同行を名乗り出るだろう)
前回同行した伊東はその社交的な性格故に幕府の上層部に気に入られたそうだ。永井からもぜひ同行を許可してほしいと話を受けているので、本人が望めば断ることはできない。そして頼みの綱である山崎は未だに長州に潜入している。
(山崎は長州の動きがないという報告がきたが…)
それを幕府に従順になったと単純に解釈することはできないだろう。これまで幾度となく恭順の姿勢を見せながら裏切ってきたのだから、嵐の前の静けさとも考えられる。
さらに様子を伺うためにも山崎の助けになる者が必要だ…とそんな考えに至ったところで、すれ違った男に目がいった。
(あれは…)
夕陽が落ちる間際だったため、はっきりと表情は見えなかったが大石の弟である造酒蔵だった。彼は土方には気づかなかったようで、青白い顔をして提灯を片手に祇園の方へ歩いていく。
彼は総司の手配で屯所の近くの旅籠に身を置いたはずだ。事情はよくわからないが兄との再会を願っていた。しかしあの表情を見る限り上手くはいかなかったように思える。
「…まったく…」
総司に一任したものの、手に負えなかったのだろうか。また一つ仕事が増えたようだと土方はため息をついたのだった。


夕食を終えた総司は囲碁をする島田と山野の様子を観戦しながら、一つくしゃみをした。
「風邪ですか?」
目敏く気がついた山野に、総司は「いいえ」と首を横に振った。
「山野君の言いつけ通りちゃんと綿入れも着込んでいるし、体に不調はありませんよ」
「それなら良かったです」
そう答えると彼は安堵したように笑った。
「きっと誰かが噂しているんですよ」
「…そういえば、噂といえば大石さんのことですが」
碁をさしながら島田は眉間に皺を寄せた。
「あれから大石さんの評判が良くないようです。あれは意図的だったとか一番隊を妬んでいたとか…自分が避けきれなかっただけなのに、なんだか申し訳なくて」
怪我を負ったというのに、島田は大石に同情しているようだ。しかし山野は
「先輩が気にすることではありません。それに大石さんも弁明しないからこういうことになるんです」
自業自得だと言わんばかりに言い切った。あの時の島田への素っ気ない謝罪の態度が今だに尾を引いているのだろう。
しかし島田の杞憂や山野の不満も、おそらくは大石が総司に抱く感情に起因している。そう思うといたたまれない気持ちになり、総司は「厠に行ってきます」とその場を離れた。
夜の冷たい風は着込んでいても寒さを感じさせる。
(土方さんに相談しようかな…)
隊内の噂はすでに土方の耳に届いているだろう。何かあれば報告するように言われていたのだが、どこか気まずい。
(大石さんにあんなことをされたと知ったらなんて言うか…)
想像して思わず身震いしてしまった。
そうしているとブンブンと空気を切る素振りのような音が聞こえてきた。誰かが稽古に励んでいるのだろうか…総司がその音を頼りに屯所の裏手に向かうと、一番顔を合わせなくない存在である大石の姿があった。
島田と遜色ない大柄な体躯から振り落とされる木刀は天然理心流独特の太くて重たいものだ。彼は小野流を修めているだけあって、入門した当初からその重たい木刀を使用した素振りも難なくこなしていた。
大石はピタリとその手を止めた。
「何かご用ですか?」
総司の方へ目を向けることなく尋ねる。
「…造酒蔵さんとはお会いになりましたか?」
「会いました」
感情の起伏のない即答だったが、総司には意外だった。あれだけ造酒蔵の件で反発していたのだからてっきり会いになど行かないのだと思っていた。
「弟の目的は果たされました。この件は終わりです」
「…そうですか…」
数年ぶりの弟との再会だというのに大石の返答は事務的だ。その冷たい態度を見ると造酒蔵のことも冷たくあしらったのだろうと想像がつく。
すると大石は小さく溜息をつき、ようやく総司の方へ目を向けた。
「あまり俺に近づかない方が良いのではないですか?」
いつになく挑戦的な眼差しが総司を見ていたが、たじろぐことはなかった。
「…あれは何かの間違いでしょう?あなたは私のことが嫌いですよね。昔から…」
昔から避けられていた。それはあの頃には気に留めるほどのことではなかったが、いま目の前にいる大石にはありありとした嫌悪がある。
大石は少し沈黙した後に苦笑した。
「そうです。本当の顔を隠して穏やかに笑っているあなたが…昔から嫌いでした」
「…本当の顔…?」
大石の放つ言葉の意味が総司にはわからないが、彼の目には禍々しい暗さがあった。
「…新撰組は身分や罪状を問わずに入隊が許される。だったらもう過去のことは咎められない…」
「それがなにか…?」
「俺はかつて盗賊としてあなたに対峙したことがある」
「え?」
大石の告白に総司は唖然とした。過去へと記憶を辿ると何度か盗賊を退治したことがあったのとを思い出す。そのなかの一つが大石が入門する直前の出来事だった。
「あなたは冷たい目で俺を見た。切れ味の鋭い刀のように…いまにも俺を殺そうとしていた」
「…」
「俺はその目に取り憑かれた。冷酷で寒々しいほどの眼差しが…俺を虜にした。なにもかもどうでも良いと投げやりだった俺は、ゾクゾクと痺れるような感覚を得て…生きていることを実感した」
冗長に語る大石の表情は月明かりの元で怪しく照らされていた。総司が知らない…誰も知らない彼の中に眠る狂気の片鱗を見ているようだ。
「…あなたには自覚はなかったのだろう。その証拠に道場で再会したあなたは朗らかに笑っていたのだから」
それまで開いていた距離を縮めるように、大石が一歩また一歩と近づく。総司は後ずさることもできず立ち尽くしていた。
「俺があなたを避けていたのはそういう理由です。…わかりましたか?」
大石は持っていた木刀を総司へと向けた。その先が総司の喉元を捉えていた。
彼の表情からあからさまな敵意を感じた…時だった。
「なにをしている」
重く低い声が二人の間に響き渡った。緊迫した空気を揺らしたのは、土方だった。
「土方さん…」
「何のつもりだ、大石」
土方は厳しい表情で大石を睨んだ。彼の持つ木刀が総司の喉元を狙っていたのだから、ただ事ではないと察し、私闘を疑ったのだろう。
大石はゆっくりと木刀を下ろした。
「…何のつもりもありません。そうですよね、沖田先生」
鬼の副長を前にしても大石の態度は変わらず堂々としている。匙を投げられた総司は
「…そうです」
と答えるのに留まった。彼を理解して肯定はできなかったけれど、罰したいとは思わなかったのだ。
土方は総司の返答に不服そうだったが
「今回は見逃すが、組長相手に木刀を向けるなんて真似は二度とするな」
次はない、という厳しい口調だったが大石は怯まず「はい」と淡々と返答しただけだった。そして何事もなかったかのように再び素振りを始める。
その様子を見た土方は苛立ったように踵を返しながら「総司」と呼んだ。
総司は月明かりの下で黙々と木刀を振る大石を見ていた。彼が言い放った言葉はいまだにうまく飲み込められていなかった。






解説
なし
目次へ 次へ