わらべうた




461


土方の部屋へとやってきた総司は
「どういうことか説明しろ」
と早速詰め寄られた。大石とのやり取りをどこから聞いていたのかわからないが、彼が怒っていることはよくわかった。
総司はしばらく沈黙し、状況を説明できる言葉を選ぼうと思案したが
「…実はよくわからなくなってしまった、というのが本音なんです」
という素直な気持ちが口から溢れたが、土方は「は?」と少し呆れた顔をした。
「試衛館にいた頃から一方的に嫌われているのだと思っていました。土方さんもご存知の通り私の稽古を嫌がる門下生は沢山いたから気にも留めなかったんです。でも…」
大石は江戸にいた頃から総司に対して別の感情を持っていた。冷たい目で見下されたい…そんな暗い欲望を孕んでいたのだ。
「大石さんは私が想像する以上に私のことを憎んでいたみたいです」
「だからあんな殺気を漲らせて木刀を突きつけられたっていうのか?」
「あれはどちらかといえば牽制というか…私にあれ以上近づいて欲しくなかったのかもしれません」
彼が惹かれたのは冷たく侮蔑する総司の一面であり、明るく周囲と接する総司の姿は彼にとっては偽りのものだった…ということになる。
しかし、それは第三者である土方にはさっぱりわからないことなのだろう。
「…要領を得ないな。最初から順序立てて話してくれ」
少し冷静になった土方が腕を組み直した。総司も彼の前に腰を下ろしてゆっくりと話し始める。
「きっかけは島田さんの件です。あれは私の目の前で一番の部下が怪我を負いましたから…私への当てつけなのかもしれないと思いました。本人にははぐらかされましたが」
「認めたら私闘だ。大ごとになるからな」
「はい。それから造酒蔵さんをこちらへご案内したことをお知らせしました。すると酷く怒って…」
乱暴に口付けされた…とは言えず口ごもる。何もかもを見透かしてしまう土方に悟れてしまうかと思ったが「そうか」と相槌を打っただけだった。
「てっきり私が招き入れてしまったせいで造酒蔵さんには会わないのだろうと思っていましたが、先程問いかけると既に会ったとのことでした。どんな話をしたのかは知る由もありませんが…でも拒絶したのではないでしょうか」
「そうみたいだな。近藤先生の別宅から帰営する途中で弟を見かけたが…青白い顔をして出歩いていた」
「そうですか…」
明るく人懐っこい造酒蔵は兄のことを心から心酔している様子だった。数年ぶりに邂逅した兄に冷たく拒まれれば落胆してしまうのは当然だ。
総司は一息ついた。
「…土方さんは大石さんがなぜ天然理心流に入門したのか知ってますか?」
「義兄さんからは特に聞いてねぇが…」
「はっきりとは言わなかったけれど…たぶん彼は私を追って入門したようです」
「はぁ?」
それは土方でさえ予想していなかったらしい。
「あいつはお前のことを嫌っているんじゃなかったのか?それにあいつとは入門したときが初対面だったはずだ」
「私にとっては初対面でしたが、大石さんにとっては違ったんです。彼は入門の少し前に盗賊として私と相対しているのです」
「盗賊?」
土方はギョッとしたが、総司もはっきりと覚えているわけではない。だから想像で語ることしかできない。
「確かあの頃は日野で盗賊の類が多発していて…一人殺されました。それが彦五郎さんの顔馴染みのお婆さんで…ひどく憤慨されていた」
「ああ…あったな、そんなことも。それで試衛館に夜警を頼まれた」
「はい。たぶん、その渦中に大石さんと対峙したのだと思います。よく覚えていないけれど…」
それがいつで、それが誰だったのか。詳細までは思い出すことはできなかったけれど、その当時のことは思い出すことができた。
「…じゃあ、あいつはお前の剣技に見惚れて入門を願い出たってことなのか?」
「いいえ…あの人はすでに小野流を修めていましたから、そういうことではないと思います」
「だったら…」
だったらどうして総司を追いかけて、入門をして、それでいて一方的に嫌うのか。
聡い土方でもその答えに辿り着くことができなかったのだから、大石の内面は捻れて拗れているのだろう。
総司は土方の手に触れた。
「…歳三さん、本当のことを教えてください」
「なんのことだ?」
「私が…私が、人を斬ろうとしている時…私はどんな顔をしていますか?」
総司の問いかけに、土方の瞳孔がカッと見開かれた。そして次の瞬間には気まずさがあった。ひた隠しにしていたことを指摘されたかのように。
「…歳三さん、教えてください」
「それを聞いて…何になるっていうんだ」
「わかりません。でも…それを聞けば大石さんの言っていた言葉の意味がわかると思うんです」
彼が取り憑かれたと言った言葉の意味が、飲み込める気がした。
すると土方は深いため息をついた。
「…この間、俺が刺されただろう。そしてお前が桜井を斬って捨てた…」
「…はい」
「あの時、俺にはお前が鬼のように見えたよ。一閃した剣筋は見惚れるほど綺麗なのに…お前の冷酷な表情は桜井を生き物としてすら見ていないようだった。まるで別人のようだと思った」
総司の手は自然と土方から離れた。
無意識のこととはいえ、残忍な顔で人を殺している―――その事実は素直にショックだった。
「それは…いつから…?」
「…さあな。お前が潜在的に持ってきたものかもしれない。…大石に何か言われたのか?」
「大石さんは…そんな私に対峙して心惹かれたようです。だからそれが本当の姿だと…明るく振舞っている私の方が嘘だと…」
大石の言葉を反芻していると、自分の知らない本当の自分がいるように感じた。初めて人を斬った時、芹沢の暗殺、池田屋の襲撃…そのどれもに自分の知らない自分がいたのだろうか。
近藤や斉藤、土方たちもそんな自分を知っていた。知らないのは自分だけで…。
(山南さんの時も…?)
「本当はそうなのかもしれない…」
総司は無意識につぶやいていた。そこまで考えが至った所で、指先に絡まる土方の手のひらの温かさに気がついた。
「歳三さん…」
「大石がどう思おうが勝手だが…俺はそういう冷酷な部分もお前の一部だと思っている。だからそれを否定する必要はないし、お前は堂々としていればいい」
淀みのない土方の肯定が総司の身に沁みた。大石の言葉よりも、昔からの自分を知っている土方の優しさの方を信じるのは当たり前だ。
「…はい。すみません、弱気なことを言って」
「別にいい。…だが、大体のことはわかった。そういえば以前義兄さんも大石のことを気にかけてほしいと言われたことがある」
「…彦五郎さんは大石さんがどういう人か知っていたってことですか?」
地元の名士として名を馳せる佐藤彦五郎は人望が厚く誰からも好かれる存在だった。加えて誰でも受け入れる懐の広さがあるので、大石が盗賊だと知っても受け入れてもおかしくはない。
しかし土方は首を傾げた。
「さあ…義兄さんはそこまでは言わなかったが…無愛想だが悪い奴じゃないとは言っていた」
「彦五郎さんがそういうのなら、きっとそうなのだと思います。ただ私と折り合いが悪いだけで…今までの彼の働きだって問題なかったですから」
「だから面倒だな…」
土方は少しため息をついた。彼の仕事を増やしてしまったのは申し訳なく感じるが、しかし総司自身が解決できるような問題ではない。
(解決…)
解決とは何を指すのだろう。彼との和解か決別か…はてはどちらも望まないでいるべきなのか。
「…それよりもお前に『惹かれた』っていう大石の奴の方が気になる。お前、変なことをされていないだろうな?」
「…」
土方の勘の良さはまるで本当は最初から何もかも知っているのではないかと疑いを抱きたくなるほどだ。
咄嗟の問いかけに対して
「えー…っと」
と戸惑うしかなかった。



造酒蔵は月明かりを頼りに土地勘のない都を歩き、祇園へと足を踏み入れていた。夜になっても賑わい続ける町を傍観者のように遠目に見ながらふらふらと歩いた。
兄に拒まれた…その事実は時間が経つほどに悲しみを増す。それは心の何処かで受け入れてくれるのではないかという甘い考えがあったせいだ。
『家を継ぐはずだった兄の落ちぶれた姿を見て、満足したのか』
兄の言葉に造酒蔵は言葉を失った。そして兄にそんなことを言わせてしまった自分を恥じた。
今まで季節に一度送られてくる兄の手紙を心待ちにしていた。兄が家族と繋がろうとしてくれているそれが嬉しくて勘違いをしていた。
兄は自分に会いたくはなかったのだ―――兄と弟の心の隔たりは誰が見ても明らかだっただろう。
『二度と俺の前に現れるな』
それが兄の願いで、それを守ることが兄のためになるのだと言い聞かせるべきだ。
(でも兄上…そんなことできることならとっくの昔にしています)
たとえ血が繋がらなかったとしても、兄と弟して過ごした日々は記憶の中に生き続ける。それを無かったとにするなんてどうやったらできるのだろう。
「…疲れた…」
八方塞がりになった造酒蔵は賑やかな居酒屋にフラリと立ち寄った。看板娘というのには年を取った女将が奥の席へと案内してくれて腰を下ろす。
「熱燗でお願いします」
「へぇい」
愛想の良い女将が去っていく。
こういった居酒屋にはほとんど足を踏み入れたことはなく、酒は得意ではない。多少の居心地の悪さはあったが、騒がしい店の中にいると自分の心の声が掻き消されるようだった。
(兄上に…もう一度だけ会いたい)
兄に拒まれたとしても、もう一度だけ目を見て話をしたかった。
家を継ぐために勉学に励み剣術を鍛えた兄を心から尊敬している。たとえ蔑まれてもこの気持ちは変わらない。
(だから…)
だからどうぞ息災で。兄の思うように生きてくれればいい。
(僕のことを嫌いでもいいから…)
それを伝えたい。
そうすれば今すぐにではなくても、いつか納得することができる。
「はぁい、熱燗おまちぃ」
女将が持ってきた銚子で酒を注ぎ、猪口で流し込んだ。そういえば昨日からろくに食べていなかったな…と思っている間にどんどんと酒が回っていった。
けれど酒がやめられず三度目の熱燗を頼んだ時だった。
「大石の野郎、どういうつもりだ」
男の声が耳に入ってきた。
「あの島田さんに怪我させてなんの釈明もない。上からもお咎めなしなんだろう?」
「何でも一番隊に入れなかった意趣返しっだって噂だぜ」
造酒蔵は賑わう客席を見渡す。二つ隣の席にいる男三人組の会話のようだ。
「そういえば…聞いたか?あいつ天然理心流の門下生らしいな」
「じゃあ近藤先生のツテで入隊したってことか?」
(兄上のことか…?)
造酒蔵は耳を澄ました。
酒が入っているとはいえ三人は賑やかな店内でも響く声で話をしている。
「局長たちの身内贔屓はあるだろ?だから今回のこともお咎めなし」
「今井、お前、いつだったかの打込み稽古で大石にコテンパンにやられたよな?」
今井と呼ばれた男が「それをいうなよ」と嫌そうな顔をした。
「あの不遜な態度が鼻につくんだよ。いつか思い知らせてやらねえと」
「今度泥酔させて甚振ってやろうぜ。天然理心流の門下生だからって二度と大きい顔できねぇようにさ」
「思い知らせて やるか!」
男たちがハハハと声を揃えて笑う。
いつもは聞き流せるはずなのに
酒の入った造酒蔵は三人の男たちへの苛立ちを堪えることができなかった。
(兄上はそんな人じゃない…!)
何があったのかはわからない。しかし兄は門下生だからと言って上役に取り入ったりするような卑怯な真似はしない。
「女将お勘定」
「へぇい」
今井という男が女将に金を渡し、三人は席を立った。
彼らは今から兄のところへ行くのだろうか―――そう思った途端、造酒蔵も席を離れ気がつけば男たちを追っていた。
その右手は刀の柄に伸びていた。






462


宵闇に包まれた頃、総司は目を覚ました。
(騒がしい…)
いつもならしんと静まっている時間だが、障子の向こうにはいくつもの松明の火がゆらゆらと揺れている。
何かあったのではないか…隣で眠っているはずの土方に目を向けると既にもぬけの殻となっている。
いつもなら総司の方が先に目を覚ますが、土方との行為でクタクタになっていたので気がつくのが遅れたようだ。
(やっぱりなにかあったんだ…)
総司は重たい身体を起こして、寝間着に袖を通した。一月の夜は凍るように寒いのでさらに綿入れを着込むことにする。しかし気持ちがせいて髪は下ろしたまま部屋出た。
そして騒がしい方向へ歩いて行くと途中で斉藤に出会った。彼の手には蝋燭があり仄かに光っている。
「斉藤さん、何の騒ぎですか?」
彼は今日は夜番だったはずだ。何か事情を知っているに違いない。
しかし斉藤はそれには何も答えず、じっと総司を見て「こっちに」とすぐ隣の物置部屋に入った。勿論誰もいない。
「斉藤さん?」
「事情は話す。だから、そんな乱れた格好で出歩くな」
「え?あ…はい、すみません」
斉藤は総司の寝起きの姿で何があったのかわかってしまったのだろう。総司は羞恥心を覚えながら髪を整えて綿入れの紐をきつく結び直した。
「それで一体何が…?」
「非番の隊士が人を斬った。酔った上の口論で…相手から抜いてきたそうだ」
「…それが、なにか?」
安易に人を斬ることは戴けないことだが、無い話ではない。相手から抜いてきたというのなら応戦すべき状況だったのだろう。
斉藤は重々しく告げた。
「殺されたのは…大石の弟だ」
「え…?造酒蔵さんですか?!」
総司は衝撃を受けたと同時に信じられない気持ちが湧き上がった。少しの時間とはいえ会話を交わし、彼の人柄はそれなりに感じ取っていた。穏やかで温厚な彼が自ら刀を抜いたなど想像もできない。
「詳しい事情はまだわからない。とりあえず遺体は役人に引き渡したそうで、大石は上司の原田さんと一緒に確認に向かった」
「…そんな…」
総司は言葉を失った。兄のために京都までやってきたのに拒まれ、本懐を遂げる前に命を落とす…彼が不憫で仕方なかった。
「でも…何でそんなことに」
「斬った今井は大石のことを気に食わないと度々漏らしていたそうだ。今日もそんな話をしているところに弟がたまたま居酒屋に居合わせ、口論になったらしい」
「…」
斉藤は物置部屋を出る。総司もそれに続いた。
「いま、副長が今井と居合わせた二人に事情を聞いているところだ」
「…同志である隊士を疑うのは気が引けますが…造酒蔵さんから抜いたというのは本当ですか?」
総司にはどうしても彼から刀を抜くとは思えなかった。虫も殺せないような優しい彼は、宿を譲ったりと人柄の良さを滲ませていたのだ。
何かの間違いであってほしい―――しかし斉藤は首を横に振った。
「残念ながら本当だ。何故なら俺が見ていた」
「え…?」
「夜番の途中に通りかかった。騒がしい口論に駆けつけたが…気がついた時には弟の方が刀を抜いていた」
「…」
斉藤がそう言うのなら間違いないのだろう。総司は沈黙してしまった。
大石はどう思っているのだろう。
距離があったとはいえ弟が殺されたのだ。黙って受け入れるとは思えない。
(嫌な予感がする…)
ごくりと唾を飲み込んだ。
するとドカドカと激しい足音が聞こえてきた。
「総司、起きたのか」
あからさまに不機嫌な顔をした土方がやってきた。そして総司と斉藤が並んでいるのを見てさらに表情を顰める。
「…斉藤、あの三人は部屋に待機させる。お前の組下を交代で監視させろ」
「承知しました」
斉藤は軽く頭を下げて去って行く。
総司も「そんな格好で出歩くな」と斉藤と同じようなことを言う土方の背中に押され、元来た部屋へ戻ることになった。
「…事情は斉藤さんから聞きました。斬られたのは造酒蔵さんで間違いないのですか?」
「ああ…あの三人は島田の件から大石をやっかみ、懲らしめてやろうと話をしていたそうだ。それをたまたま聞いていた弟が怒り、襲ってきた…」
土方は「くそ」と苛立ったように吐き捨てる。
「長州行きの前に面倒なことになった」
「三人のことはどうされるんですか…?」
「どうしようもできないだろ」
部屋に戻った二人は蝋燭に火を移した。部屋はぼんやりと明るくなり、土方の表情もよりはっきり見えるようになる。眉間にしわを寄せて悩ましい表情だった。
「抜いたのが弟の方が先だと三人だけではなく、斉藤まで証言している。だったら応戦して防衛するのは当然の流れだ」
「…斬ってしまったのは仕方ないことで、何の処分もないということですか?」
「そうだな」
「…」
それは合理的な判断だと思ったが、感情的には納得することはできない。敬愛する兄を愚弄されればあの穏やかな造酒蔵でさえも怒るのは当然だ。無意識とはいえ喧嘩を売ったのは隊士たちの方ではないのか…。
(…だめだ)
造酒蔵に同情している故に贔屓をした考えになっている。土方もそれを見抜いたのか、点けたばかりの灯りを消した。
「もう寝よう」
と総司をやや強引に布団へと引き込んだ。
「ひとまず明日、近藤先生と相談する。全てはそれからだ」
「…そうですね」
近藤は別宅にいる。長州行きを控えたこの時期にややこしいことになってしまったが、局長としての判断を仰ぐことになるだろう。
(頭を冷やそう…)
総司は目を閉じた。けれどどうにも眠れそうになくて朝日が登るのを待つことにした。


知らせを受けて原田は大石とともに現場へ向かった。弟が殺されたようだ…そう告げると大石は一瞬目を見開いたがそのまま一言も喋らなかった。
重たい沈黙のなか、夜でも賑やかな祇園から少し外れた人気のない現場に到着した。数人の役人が集まる中、若い青年が凄惨な姿でその魂を失って倒れていた。
(心臓をひと突き…か)
口論の末、急所を指してしまった――今井はそう言っていたが、だとすれば不運なことだ。互いに酔っていなければ怪我程度で済んで、こんな結果を向かえずに終えたことだろう。
(まだ…若ぇなぁ…)
まだ二十歳そこそこの青年は、大石にはあまり似ていなかったけれど、目を閉じたその死に顔でさえ優しい面差しであることがわかる表情をしていた。
その骸を目の前に立ち尽くす大石に
「…間違いないか?」
と原田は尋ねた。大石はじっと弟の遺体から目を離すことなく
「はい」
と覇気のない言葉を吐いた。弟の死を目の前に何も考えられなくなっているのだろう。
役人たちは遺体に藁を被せる。
「大石、戻るか」
原田は大石の肩を数回叩いた。肉親を同志によって殺された…そんな彼の表情は悲しみでも憎しみでもない『無』だった。事実に感情がついていかない…そんな空虚な姿は見ていても痛々しいものがある。
「…大石」
「はい…戻ります」
大石は踵を返し、現場に背を向けた。そして早足で歩き出す。弟の死を振り切るように、そしてこのどうしようもない苛立ちをぶつけるように。
原田は慌てて彼のあとを追って駆け出した。
「大石、今回のことは近藤さんや土方さんが裁断する。だから馬鹿なことは考えるなよ」
「馬鹿なこととは何ですか?」
「…んなの、馬鹿なことは馬鹿なことだよ」
「弟の仇を取ることですか」
「…」
はっきりと尋ねられ、原田は返答に困った。
大石は立ち止まった。
「…話では、弟の方が先に抜いた…正当な防衛だったということでしたが」
「まあ…今井たちはそう言ってる。斉藤もその様子を見ていたらしいからなあ…」
原田は頭を掻いた。いっそただの口論で今井たちが先に抜いたのなら兄である大石には仇を討つ権利があったのかもしれない。けれど今回はそれも許されないだろう。そして
(たぶん…今井たちも処分されない)
隊内の運営に疎い原田でさえそう感じていた。
となれば、大石はこれから弟を殺した男とともに暮らしていかなければならない。
(俺には…耐えられねぇけどよ…)
でもそれが法度だ。
隊士が不逞浪士以外に斬り捨ててしまうことはこれまで幾度かあった。こちらから刀を抜いた以外は処分の対象にはならないが、今回はたまたまそれが大石の弟だっただけだ。
「…少し、頭を冷やしたいのですが」
「お…おう、そうだな…脱走なんて馬鹿なこと考えずに屯所には戻ってこいよ」
出来るだけ明るい調子で原田が言うと、大石はふっと薄く笑った。
「逃げたしたりはしませんよ…絶対に」
「…」
大石はそう言い残すと、屯所は反対方向の路地へと曲がりそのまま闇の中へと紛れて行った。
「…拙いな…」
原田は呟いた。
彼がその暗闇のなかから戻ってくるのか―――原田にはわからなかった。







463


泥濘にはまり、一歩を踏み出すごとに奥へと沈んでいくようだった。
瞼が重い。
心は凍り、何にも動かされない。
泥濘に飲み込まれていくとわかっていながらも、それを易々と受け入れた。
善と悪…その狭間でいつも揺れていた。善であるはずだと信じながら、心の奥底では悪なのだと嘲笑っていた。
でもようやく、その答えが出た。だからこの泥濘から逃げ出すのをやめたのだ―――。



翌日。
近藤が別宅から戻り、土方は伊東と原田、加えて総司を集めた。
昨晩起こった事の経緯を説明すると、近藤は唖然として伊東は顔を顰めた。
「…大変なことになりましたね」
癖なのか伊東は扇で顔を半分隠すように話すため、その感情も半分しか読み取ることはできない。だが困惑しているのは総司にも分かった。
近藤は深いため息をついた。
「身内を同志が斬ってしまうとは…何とも言えない出来事だ。…大石君はどうしているんだ?」
近藤が昨晩共に遺体の検分に向かった原田に目を向けると、彼は首を横に振った。
「頭を冷やしたいって言って、まだ屯所に戻ってねぇよ」
「そうか…彼には時間が必要だろう、しばらくは彼が納得するまで思うままにさせてやろう」
近藤は同情してそう言うが、総司は大石がそれだけで心を収めてくれるようには思わえなかった。それは原田も同じだったようだ。
「近藤局長、大石はそう楽観的な様子じゃねえよ。俺があいつに『馬鹿なことを考えるな』と言った時、あいつは冷たい目をして少し笑っていた。何を考えているのか…」
「それは報復を考えているということですか?」
伊東がストレートに尋ねると、原田は「そこまでは言えねえけど」とさすがに言葉を濁した。
すると近藤が「うーん」と唸り腕を組み替えた。大石は近藤にとって隊士であると同時に試衛館の門下生でもあるため、身内意識がある。法度を破って報復する…とは疑いたくはないのだろう。
するとそれまで口を挟まなかった土方が口を開いた。彼は昨晩からずっと不機嫌な様子だ。
「夜番の斉藤が様子を見ている。大石の弟から先に刀を抜き、今井たちはそれに応戦する形になり、結果的には弟が死んだ…と報告が上がっている。客観的に見て、今井たちを処断する理由がない」
「土方副長はこのまま事を収めるべきだとお考えですか?」
伊東の問いかけに、土方は少し間をおいて頷いた。
「なによりも法度を優先する」
機械的な返答も言えたが土方らしい考えだと総司は思った。そこを崩されてしまうと新撰組の根幹が揺らぎ、今までの仲間の死が全て無駄になることを重々承知していたのだろう。
しかしそんなわかりきったルールを凌駕してしまうのが感情というものだ。
「…俺は正直、納得がいかねえんだけどよ」
「原田さん…」
「弟が殺されたっていうのに、その仇討ちをすることも、この隊を出ることも法度違反になるってことだろ?じゃあ大石はこれからずっと憎くて殺したい奴らと共に暮すことになる。それって新撰組で飼い殺されるのと同じじゃねえのか?」
原田は身を乗り出して土方に訴えるが
「それが法度だ」
と土方は淡々とした答えしか口にしなかった。原田はそれを『冷たい』と感じたのだろう、「ちっ」と舌打ちして今度は近藤へと向かって行った。
「近藤局長、大石が望むなら脱退を許してやってほしい」
「左之助…」
「法度が大切だってことはわかってる。でも何事にも特例だってあるだろ?病気でも怪我でも何か理由を作って脱退させる。それがせめてあいつにしてやれることだとおもうんだよ!」
原田の必死の懇願に、近藤はさらに眉間に皺を寄せて土方の顔を見た。しかし意外にも土方は何も言おうとはせずにむしろ局長である近藤の返答を待っているかのようだった。
法度か大石の心情か…近藤は迷っているようだった。
すると伊東が助け舟を出した。
「すぐに判断することはできないでしょう。数日後の長州行きもあります、慎重な答えを出しましょう」
「…ああ、そうだな…」
近藤は一日しっかり考えて明日まで決断を先延ばしにする旨を伝えた。原田は少し不満そうだったが「仕方ねえな」と受け入れてさっさと部屋を出て行く。
伊東もまたすぐに講義があるため立ち去り、部屋には近藤と土方そして総司が残された。
「どうしたものかな…」
近藤はため息混じりに悩む。
「歳、今井君たちの様子はどうなんだ?」
「斉藤からの報告によると大石からの報復を恐れて一睡もできていない様子だそうだ」
「…彼らも彼らなりに後悔しているのだろう。…総司はどう思う?」
それまで聞き手に徹していた総司は正直な心情を吐露した。
「私は少ししか造酒蔵さんとは関わっていませんが、彼がとても優しくて穏やかな人だと知っています。だから彼を事故とは言え殺してしまった今井さんたちを簡単に許すことはできません。それに彼を都に招いたのは私です、少なからず責任を感じています」
造酒蔵と大坂で出会ったときに声を掛けなければよかった。お節介を焼いて屯所に案内しなければ良かった…どうしようもない後悔に苛まれ、昨晩は眠ることができなかった。
隣で寝ていた土方はそれをよく知っている。
「お前が案内しなくてもいずれ弟は兄を訪ねて屯所にやってきただろう。お前のせいじゃない」
「…そうかもしれませんが…」
「そうだぞ、総司。あまり深く考えるな」
土方だけではなく近藤にまで励まされ、総司は「はい」と頷いて続けた。
「仇討ちを許可して法度を破ることはできません…だから、私個人の感傷ですが原田さんの意見に賛成します。せめて仇敵と共に暮らさなければならないことを彼に強いることなく、別の選択肢を提示するべきではないでしょうか」
「そうだな…」
既に近藤も原田の意見に心を動かされていたのだろう。深く頷いた。
「おそらく伊東参謀は長州行きに支障をきたさない限り、俺の出す結論に異議はないだろう。…どうだ、歳?」
と土方の顔色を伺う。
彼が望むのなら脱退を許可する…以前、松本の頼みで馬越の脱退を許可したことがあるのだから前例が無いわけではない。
しかし土方は踏み切れないようだった。
「…大石の件は話が大きくなりすぎている。隊の中では大石に同情する声や今井たちを擁護する意見もあるんだ。いまの段階でさっさと脱退させると余計な邪推を生むだろう」
「時が必要か…」
「だか長州行きもある」
「…うーん」
近藤は再び唸って頭を悩ませ始めた。


結論が出ないまま場はお開きになり、総司は部屋を出た。
冷たい冬の風が通り抜けて行く。ふと十番隊の部屋を覗くと、頭を冷やす…と言った大石はいまだに屯所には戻っていないようだった。
(僕ならどうするだろう…)
血を分けた兄弟を殺され、しかし法度で縛られて何もできない。そんな現実を易々と受け入れることなんて誰ができると言うのだろう。
『飼い殺し』
大石の置かれる立場を原田はそう言ったが、的を射ていたように思う。このままでは心を殺して生きていけと言われるようなものだ。
「あ」
ふと視線を落とすと、原田が腰掛けていた。彼も総司に気がついて「おう」と答える。
「土方さん、なんて言ってた?」
「…なんとも。ただ原田さんの意見を否定するわけではないようです。時期を考えなければならないって」
「そうだよなあ…いま脱退させたらあからさますぎるよな」
原田は深いため息をつきながらも、土方の考えに理解があるようだった。義理堅く人情に厚い性格でだからこそ感情の高ぶりがある原田だが、彼は彼なりに隊の状況にも目を配っている。
「でも確かに現状を打開するには良い案ですね。私には思いつかなかったです」
「んー…まあ、俺は隊のことや法度のことを考えて思いついたわけじゃねえんだけどな」
原田には珍しく声のトーンを落とし、神妙な面持ちだ。総司は彼の隣に腰掛けて
「どういうことですか?」
と尋ねた。
原田は少し迷った様子だったが、話し始めた。
「昨日の晩、頭を冷やすって去って行くあいつに『馬鹿なことを考えるなよ』って言ったんだ。早まって今井を襲うんじゃないか…俺ならそうするって思ってたからさ」
血気盛んな原田らしい心配だ。
「そうしたら…あいつ『逃げません』って言ったんだ」
「逃げない…?」
「ああ。『逃げたりはしない、絶対に』ってな。それまで弟の遺体を見てもなんの反応もなかったくせに、あの時だけは力強くそう言った。それが不穏で…寒気までしちまったよ」
ブルっと震えたような仕草をしておどけてみせる原田だが、しかしその表情は少し強張っていた。
「…無口だが悪い奴じゃねえ。それは試衛館にいた時から知ってるし、島田に怪我させたのも何かの手違いだろうと思っている。だから今回のことは不運な事故だし、大石には同情する。だから…馬鹿な真似する前に、出て行くように命令した方がいいと思うんだ」
「…」
『逃げたりはしません…絶対に』
その場にいなかった総司でさえ、その言葉になんらかの意思と決意を感じた。
何かが起こるのではないか―――。
灰色の雲の伸びた空には光すら差し込むことはなかった。








464


大石はゆっくりと目を覚ました。書物を読み耽るうちに、文机を枕に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。
日々繰り返させる勉学と剣術の稽古。父から与えられる漢詩や古事の暗記いった課題はまだ十代半ば、元服前の大石には負担ではあったが、嫌ではなかった。それだけ父が期待をしているという顕われであったし、それに答えたいという思いがあった。
すべては家のため―――立派な当主になるために、寝る間を惜しんで励んでいた。
ポツンと一つ照らされた蝋燭の灯の元で、乾いた墨に手を伸ばす。すると襖の向こうから小さな泣き声が聞こえてきた。
大石は手を止めて、ゆっくりと襖を開ける。
「…どうしたんだ、造酒蔵」
声を押し殺すようにしながら泣いているのは弟だった。暗がりのなか目を真っ赤にしているので手を引いて自分の部屋に連れてくる。造酒蔵は同い年の子供たちと比べても小柄で気の弱いところがあった。父はそんな造酒蔵には厳しくはせず、『健やかであれば良い』などと甘やかしていた。まるで同じ兄弟の扱いとは思えなかったが、自分はいづれ家を継ぐ長兄として厳しく躾けられているのだろうと考えていた。
「兄上…僕は自分が情けないのです」
「情けない?」
しくしくと泣く造酒蔵の手元を見ると『四書五経』の一冊が握り締められていた。
「は、母上は言っていました。僕の年齢には兄上は『四書五経』をすべて諳んじていたと。それなのに、僕は…全然、覚えられなくて」
そんな自分が情けない、とさめざめと泣く造酒蔵は小さくて今にも怖そうなか弱い子犬のように見えた。
大石は造酒蔵を抱き寄せて、ぽんぽんとその頭を軽く叩いた。そうしていると次第に涙が止まり、落ち着いてそのまま眠ってしまった。
安らかな寝息を立てる弟の顔を見て、父が『健やかであれば良い』と言った意味がわかる。
「お前はそのままでいいよ」
大石は呟いていた。
明るく朗らかな弟が妹の与磯とともに庭先で遊んでいる姿を見るのが好きだった。その穏やかな生活を守るために、自分がこの家を継ぐことができるのならどんな苦労だって受け止めて見せる。
「俺が守ってやるから…」
だから、何も心配することはない。
だから、泣かなくていい。
だから、
お前にはいつまでも幸せでいて欲しかった―――。



夜半。
「交替しましょう」
島田、山野とともに総司は三番隊の隊士に声をかけた。彼らは昨晩から部屋の前で今井たちの見張りを勤めていたのだ。するとその声が聞こえたのか、なかから斉藤が出てきた。彼にも疲労の表情が見えた。
「大石は?」
開口一番に尋ねられたが、総司は首を横に振った。
「まだ戻っていません。明日の朝戻らなければ、監察に捜索させるとのことでした」
大石がどのような結論を出すのかはわからないが、嫌気がさして脱走したならばそれは法度違反になる…土方は淡々とそう言っていたけれど、原田からの話を聞く限りでは必ず彼は戻ってくるだろう。
「…今井さんたちの様子はいかがです」
「怯えている。特に手を下した今井は自分だけは絶対に許されるわけがないと」
「…」
大石はその実力を表立って発揮することはあまりないが、総司からみると今井よりも格上の剣術を身につけている。相対した時に負けるとわかっている今井は、今か今かと敵がやってくるのを恐れているのだろう。
造酒蔵のことを思うと、自業自得だと切り捨てたい気持ちはあったが法度を優先するとそれは私情ということになってしまう。
「なかには私が入ります。島田さんと山野くんは外で待機してください」
「わかりました」
二人は頷き、斉藤はそれまで見張りを勤めてた隊士とともに三番隊の部屋に戻っていった。
総司は部屋に入る。二、三本の蝋燭が灯された部屋には件の三人がいた。あれから丸一日が経ち、流石に疲れたのか二人はウトウトと眠ってるようだが、今井祐次郎だけは目元にクマを浮かべながらも目を覚ましていた。
「…沖田先生…」
顔色の悪い今井は、総司を見て居住まいを正した。
「このたびは…ご迷惑を、おかけして…申し訳ありません」
「…」
今井とはほとんど言葉を交わしたことのない総司には彼が一体どのような人間なのかはわからなかったが、悪人であるという印象は受けなかった。だからこそ、ただただ自分の起こしてしまった殺人を悔やみ、その報復を恐れる…弱く脆い姿に総司は何も言えなくなってしまう。
「大石は…大石は、隊に戻ってきていないのですか…?」
彼に恐る恐る尋ねられ、総司は腰を下ろしつつ答えた。
「…まだ戻ってきていませんが、脱走するつもりはないと原田組長には伝えているようです」
「そう…なのですか…」
「大石さんが脱走すれば法度違反、あなたたちに危害を加えるならそれもまた法度違反になります。だから幸か不幸か、あなたたちは法度に守られている…」
自分自身が納得できていないせいか、総司の物言いが自然と冷たくなってしまう。それを感じ取ったのか、今井は「いいえ」と首を横に振った。
「実の弟が殺されたとなれば…恨むのは当然のこと。知らなかったこととはいえ謝って済むことではないと、わかっています…」
「…」
今井の言葉の端々が震えて、その顔は哀れなほど青ざめ、怯えている。
彼をこれ以上責めることはできず、総司は大きく深呼吸した。
「…私は大石さんの弟とは、少しだけですが面識があります」
「そう…だったのですか…」
「ですから彼の人となりはわかっています。穏やかで優しく…あなたが手を下してしまうような人ではない…だから、何が起こったのか、話してもらえませんか」
総司は未だに、造酒蔵の方から刀を抜き襲いかかったのだということが信じられなかったのだ。
すると今井はゆっくりと話し始めた。
「昨日は深酒をしてしまい…居酒屋で俺たちが何を口走っていたのか、実はよく覚えていないのですが…大石の話をしていたと思います。島田さんに怪我をさせた大石に反省している様子が見えなかったから…思い知らせてやろう、と…」
「…」
「でも本気だったわけではありません!私闘が禁じられているのもわかっています。だから酒の肴に、そんな話をしていて…そして店を出たところで、弟に呼び止められたのです…」
『待ってください!』
造酒蔵も酔っている様子で、突然今井の腕にしがみついてきた。もちろん大石の弟だと知らない今井は振りほどこうとした。
『なんだよ、お前…!』
『取り消してください!』
『何をだよっ!』
今井だけでなく、他の二人も加わってようやく造酒蔵を引き剥がし、そのまま地面に倒れ込んだ。
『チッ…何者かしらねぇが、俺たちは新撰組だ!』
新撰組と名乗れば大概は恐れおののいて去っていく。今井は牽制のつもりで言い放ったのだが、造酒蔵にはなんの効き目もなかった。むしろ彼は敵意をむき出しにして
『大石鍬次郎は…いつだって正しい男です!』
そう叫んだ。
そしてふらふらと立ち上がると、刀を抜いた―――。
「…あとは無我夢中で…殺されると思いました。ただただやられる前にやらないといけない。だから…」
「正しい男…ですか…」
「たしかにそう言っていました。…あのとき弟だと名乗ってくれれば、こんなことにはならなった…!」
今井はぶつけどころのない苛立ちと後悔を滲ませ俯いた。彼のいう通り、造酒蔵が自分の正体を口にしていれば違う結末を得たのかもしれないが、それは考えても仕方がないことだ。
ただわかるのは、造酒蔵が兄を思う気持ちがどれだけ深いのかということ。
(彼は何のためにここにきたのだろう…)
総司には『一目会えれば良い』と言っていたけれど、本当はそうではないのだろう。もう今となっては聞くことはできない―――そんなことを考えている時だった。
ガタンッと大きな物音が聞こえた。それと同時に山野の悲鳴にも似た声が聞こえたが、それもすぐに途切れてしまう。
今井は咄嗟に「ひぃっ」と身を隠すように後退り、残りの二人も目を覚ましたようだった。
一瞬の静寂ののちに、ゆっくりと障子が開かれる。そこには一人の男の姿が佇んでいたが、月明かりに背中から照らされて黒い影になっていた。
今井たちが部屋の隅に隠れるように逃げ、その前を遮るように総司が立ち上がった。
「…島田さんと山野くん。殺してはいませんよね?」
「峰打ちです」
そう淡々と答えた男は、大石に違いなかった。







465


月明かりだけの宵闇の中、刀を抜き禍々しい殺気を漲らせた大石の姿はまるで鬼のように見えた。
島田と山野は殆ど抵抗することなく峰打ちで意識を失って倒れている。小野流を修めた使い手だとは思っていたが、総司が想像する以上に彼は手練れなのかもしれない。
「一晩では…頭は冷えなかったのですか?」
総司は自衛の意味も込めて刀を抜きながら尋ねると、大石は口元だけで笑った。
「冷えましたよ。冷えて…冴えて、出した結論です」
「法度に違反していることも理解していますか?」
「勿論、理解しています。同志を峰打ちにして、あなたに木刀ではなく真剣を向けたともなれば新撰組に楯突いたのと同じこと。切腹どころか敵とみなして打首でしょう」
淡々と語る大石は彼自身が語るように冷静であり、そしてそれ以上に冷え切っていた。
大石と総司が相対して刀を構える。ピンと張りつめた空気のなか、
「大石!許してくれ!」
と、総司の背面で小さく震えていた今井が叫んだ。
「お前の弟だなんて知らなかったんだ!知っていたらこんなことにはならなかった!」
今井は土下座して赦しを乞う。
悲鳴のような言葉は、大石にとって言い訳にしか聞こえなかっただろう。彼はさらに剣幕を鋭くして切っ先を今井へ向けた。
「黙ってろ、殺すぞ」
「ヒィ…ッ!」
今井は大石の殺気を目の当たりにして腰を抜かし、そのままあとの二人とともに部屋に隅へと身を引いた。
「…どうするつもりですか?」
彼は『殺すぞ』と脅したがその気はないように見えた。殺したいなら今すぐにでも襲いかかっているはずだ。彼が出した『冴えた』答えが総司には見えなかった。
大石は再び視線を戻した。
「自分が死ぬ方が楽だと思いませんか」
「え?」
唐突な問いに総司は戸惑うが、大石は構わず続けた。
「あなただって同じはずだ。局長や副長が死ぬくらいなら、自分が死ぬ方がマシだと、そう思うでしょう」
「…」
「俺にとって、弟はそういう存在だった」
雲が流れたのか、月明かりが差し込んだ。影を作りながらも照らす淡い光は、大石の寂寞の表情を映す。
「訳あって共にいることはできなかったが…ただ息災でいてくれればいいと思っていた。弟や妹のことを思う時だけは自分が善人であると信じることができた。自分の中にある悪人の性を否定することができた…」
突然、父から告げられた冷たい宣告によって生きる意味を失い、自暴自棄になって弟を傷つけた。自分はこんなに悪い人間なんだと貶め続けたなか、弟が『兄上』と呼ぶ声が脳裏から離れなかった。そして別れ際にせめて手紙を寄越してほしいと懇願され、仕方なく書いていたがそれが善である自分を一瞬だけ呼び戻した。
けれど闇は深かった。
落ちぶれ続け、ついに悪行に手を染めようとしているとき、総司に出会い―――その矛盾がさらに大きくなった。
「善と悪の狭間でずっと矛盾している自分がいた。良き自分でありたい、けれどその心は悪に惹かれている。…でもようやく結論が出ました」
打ち消そうとしても、否定しようとしても、心の奥底にあるのは
「俺は悪人です」
それが結論だった。
弟がいなくなった今、『善人』である必要はなくなった。細く頼りない糸で繋がっていた気持ちが、脆く崩れた。
そして大石は一歩、総司に近づいた。
「沖田先生。真剣で勝負してもらえませんか」
「…私はあなたを殺すかもしれません」
「俺があなたを殺すかもしれないでしょう」
総司を見据えた大石の目には冗談を言っているようには見えなかった。
彼の申し出を断れば、総司の後ろに隠れる三人は殺されるだろう。そして大石自身もまたその身を投げ出すに違いない。
「…わかりました」
そう答えたのは、大石のためではない。
(そんな結末はきっと造酒蔵さんも望んでいない…)
この騒動の一端として造酒蔵を都へ招いてしまった自分にも責任があると感じていた。だからこそ、大石の申し出を受け入れるべきだと思ったのだ。
「そのかわり、私が生き残った場合…彼らに手出しはしない、そしてあなた自身も自分を手にかけるようなことはしないと誓ってくれますか」
「いいでしょう」
大石は躊躇いも無く頷いた。そして背を向けて部屋を出る。彼は裸足のまま境内に立ったので、総司もそれに続いて大石に相対した。
風が強く吹いていた。雲が流れ、眩しい月の光が遮られる。幸いにも騒ぎは気づかれていないようで、屯所は静まり返っている。
合図はなかったが二人は刀を互いに向け、そしてどちらともなく踏み込んだ。
キィィンと刃先が弾き合う音が鳴り響く。木刀とは違う真剣の重たい感覚は久しぶりだが、気後れする遑はない。
大石の剣には迷いがなかった。道場での稽古とは明らかに違う、急所を狙った素早い動き。隊内で一、二を争う腕前を持つ総司でさえ、その勢いには圧倒された。それが彼が隠し持っていた才覚なのか、それとも彼が語っていた『悪』の一面なのだろうか…冷たく暗い眼差しが総司を射抜く。
(僕もこんな顔をしているのだろうか…)
相手を生き物とすら思っていない、冷酷で無慈悲な表情。土方はそれは総司にある一部分だと言っていたが、大石の顔を見るとまるで自分を鏡で見ているかのように思えた。
そんなことを考えていると、横から薙ぎ払われた切っ先が総司の頬を掠めた。火傷のような熱い痛みを感じ距離を取る。
大石は息を整えながらもう一度構えた。
「…沖田先生、俺はあなたに惚れていたんですよ」
「は…」
突然のことに総司は言葉が紡げないが、大石は続けて語った。
「でもそれは、あなたの全てというわけではない。こうして真剣を手にして相手を殺そうとするあなたの無慈悲な『悪』に心奪われた。それを見たときに自分のなかのなにかが同調した」
隠し秘め続けてきたなにかが湧きたち、それまで脱力感に苛まれていた大石に生きている実感を与えた。
「それがずっと見たいと思って…だからあのとき、島田さんに怪我をさせてしまったのだと思います」
「…あの場に私がいなければ、あんなことにはならなかったのですか」
「さあ…。ただあなたに意識されたかった、だからあなたの嫌がることをしたかった。…子どもっぽいですね」
大石は苦笑して、しかしすぐに表情を戻した。
「…だから、もっと本気で来てください。盗賊として目の前に立った俺を殺そうとしていた、あの時のように…」
「…」
頬を伝う血が熱い。
彼が本気でその剣を振るっている一方で総司にはまだ躊躇いがあった。そのことを大石は見透かしていたのだ。
総司は踏み込んだ。
身体が一本の刀になるように、向かっていった。刀のぶつかり合う甲高い音が木霊のように鳴り響く。
形勢は逆転し防衛につとめていた大石は次第に後退した。攻撃の隙さえ見つけられずに耐えしのいでいる。
徐々に総司の心が無になっていく。周りの音がなにも聞こえなくなって、視界には大石の姿さえない。
かろうじて片隅に残った心が呟いた。
(これが…みんなが見ている僕か…)
相手の顔さえわからず。
自分の吐息しか聞こえない世界で。
我儘に、意のままに、願望を叶えようとする。
この自分という一本の剣が、自分の感情とはかけ離れた場所で動いている。
大石が落ちたと語る闇は、何も彼自身だけのものではない。一歩間違えれば、そこにあるのだ―――。
大石は小石に躓いてそのまま尻餅をついて倒れ込んだ。刀が手から離れ、彼は自身を守る術を失った。
彼は負けた。
それを自覚した大石は総司を見上げて
「殺してください」
と言った。彼は薄く笑っていた。
月の光が二人の間に差し込んで、世界が止まったかのように静かになった。
「…先生、俺に明日というものを与えないでください」
「…」
「弟の仇を討つことができず、無気力に生きるしかない…そんな明日なんていらないんです」
いつか、時は傷を癒すだろう。
でもそんなもの大石はいらないのだと口にした。
そんな明日という名の希望などいらない。陽の当たらない闇の中へ沈めばいい。
「だからこのまま…あなたが殺してください。俺が心奪われたあなたに殺されるなら、本望です」
闇に落ちたまま、魂を捨てて、ただ傷跡だけを残す。
(それがあなたの望むことならば…)
総司は大石に呼応するように彼の喉元へ切っ先を向けた。
―――殺せば終わる。終わらせることができる。
そう思った時。
「総司」
そう、呼ぶ声がした。
その声はまるで暗闇の中で光る星のようだった。
「…歳三さん…」
「戻ってこい」
土方はいつの間にかそこにいた。
彼の声は、真っ暗な池のなかに沈んでいく総司の身体を引き上げるように、心の中に侵食していた闇を取り払ってしまう。
(ああ…)
きっとこの闇に囚われてしまったとしても、
(僕はあなたを選び続ける…)
総司は刀を下ろし、そのままニ、三歩下がった。
土方は二人に近づいて、大石の刀を取り上げる。
そして尋ねた。
「…大石、満足したか?」
「満足…ですか…」
大石はふん、と鼻で笑って続けた。
「満足なんてするわけがないでしょう。何もかも失って、もう生きる気力もない。せめてその最期の幕を沖田先生に引いてもらおうとしたのに…副長のせいで台無しだ」
大石はギロリと土方を睨んだ。
彼は最初から死ぬつもりだった。彼の『冴えた』答えはすべてを抛つことだったのだ。
土方はは表情を変えることなく聞き流した。
「悪いが、お前と総司は違う。お前の中にあるのは『悪』ではなく『狂気』だ。お前は総司に自分を殺させることで同じ闇に落としたかったのかもしれないが…余計な罪を背負わせることは俺が許さない」
「…」
「連れて行け」
土方が控えていた隊士に命令する。両脇を抱えられた大石は虚ろな目をしていたが、抵抗することなく従ったのだった。






466


冬の夜は長く、朝陽が昇るまでまだ時間がかかるだろう。
「自分は、とても情けないです…」
すぐに目を覚ました島田は、一番隊の部屋で横になりながら深いため息をついた。大石に一瞬にして峰打ちで意識を奪われ、山野は隣で眠りについたままだ。
総司は苦笑した。
「仕方ないですよ。私もあれほど大石さんが手練れだとは知りませんでした」
「先生はお怪我はありませんか?」
「頬を掠めたくらいですから、大丈夫ですよ」
すでに総司の?の傷から流れていた血は止まっている。数日のうちに消えて無くなるだろうが、心配性の山野なら大騒ぎしそうだ。
「…大石はどうなるのでしょうか。先生に剣を向けたともなれば、土方副長はお許しにならないでしょうが…」
「さあ…どうでしょうか…」
総司は曖昧に答えた。
土方は大石を監禁するように指示を出して、そのまま近藤の元へ向かった。そこには伊東も呼び出されていたので大幹部の三人で大石の処断について話し合うのだろう。
普通に考えれば、島田の言う通り法度違反で切腹、もしくは上役に刀を向けた咎で打首になる。しかし総司は近藤の元へ向かおうとする土方を引き止めていた。
『私は大石さんと約束をしました。私が勝ったら三人の命も、そして大石さん自身の命も手にかけないように…と』
『…』
『…土方さん、お願いします』
総司は何を、とも語らずに託した。しかし土方ならきっと察してくれるだろうという期待があったのだ。
「待つしか…ありませんよ」
総司の返答に、島田は力なく「そうですね」と頷いた。
すると、
「沖田さん」
と部屋の外から総司を呼ぶ声が聞こえた。
「斉藤さん?」
「今、ちょっといいか」
部屋では話せないことなのか斉藤はそう尋ねてきた。断る理由のない総司は言われるがままに部屋を出て、斉藤とともに人気のない場所に移動する。
「どうしたんですか?休んでいたんじゃ…」
「あんなに大騒ぎになって休めるはずはないだろう」
彼にしては珍しくトゲのある言い方だった。だが、一昨日造酒蔵が殺されてから今井たちを監視し、ようやく総司たち一番隊に交代したところでこの騒ぎになってしまったのだからほとんど眠れていないはずだ。流石の斉藤も疲れているのだろう、目にはうっすらとクマがある。
「…無茶なことをするなって、叱るために呼んだのですか?」
「それは副長に任せる。違う話だ」
「違う話?」
総司が首をかしげると、斉藤は手にしていた風呂敷を渡した。
「何ですか、これは…」
「大石の弟の荷物の一部だ。宿から引き取ってきた」
「え…?」
意外な返答に驚きながら、総司は風呂敷の結び目を解いた。すると中には束になった手紙があった。宛先は二種類あり一つは『大石造酒蔵殿』…そしてもう一つは
「『大石鍬次郎殿』…ですか」
「差し出しは弟だった。つまりは出さなかった…もしくは出せなかった手紙だろう」
大石は家を出た後は各地を転々としていたらしい…と佐藤彦五郎から聞いたことがあった。ようやく定住したのは天然理心流に入門してからだそうなので、それ以前は造酒蔵は手紙を出したくても出せなかったのだろう。
総司は戸惑いながらもいくつかの手紙を開いた。
大石からの手紙には『息災だ』という短い内容ばかりだが、造酒蔵の手紙はその十倍以上の長文が書かれていた。
『父は今日も病故に床に伏しております。時折、兄上の話をします、父は父なりに兄上のことを思っているようです』
『今日は与磯とともに花見に出かけました。桜が見事に咲いていましたが、与磯は兄上とも見たいと泣いていました』
『兄上、いまどちらにいるのですか。お会いしたいです』
どの手紙にも兄の名前が出てくる。兄を慕い思いやる造酒蔵の優しさを感じると同時に、この手紙が兄の元に届くことはなかったのだという切なさを覚えた。
総司はゆっくりと手紙を閉じた。
「…これを、大石さんには…?」
「見せていない。副長のところへ持って行ったが、これをどうするかは沖田さんに任せると言われた」
「私に…ですか?」
「ああ。大石の気持ちがわかるだろうと…」
「…」
総司は手紙を見つめた。
大石と対峙した時、たしかに彼の気持ちに共鳴した。彼が抱えるもの…土方はそれを『狂気』と言ったが、それが総司にはないとは言い切れないことがわかった。だからこそ、最後の幕引きをしてほしいと託されたときに、手にした刃を向けたのだ。
終わらせる方がいい。終わらせる方が彼のためになる…そう確信していた。
時が解決する。
時が傷を癒す。
人は無遠慮にそういうだろう。けれど大石はそうやってすべてを過去にしてしまうことを恐れたのではないだろうか。
人はいつか忘れる。心のそばに在り続けていたのに、それが過去になった途端にその姿が薄れる。
怒りも、憎しみも。
それが怖くて、そんなことになるくらいなら時が止まったままの場所に居続けるほうがマシだと。
時が止まった場所―――それは死だ。
そこまでの覚悟を決めた大石に、この手紙を見せて何になるというのだろう。
(彼を引き止めることができるのだろうか)
明日さえいらないと言った大石に、どんな先が残されているのだろう。
総司は迷った。


部屋に何本かの蝋燭を灯し、土方は近藤、伊東へ事情を説明した。
「…そうか、大石くんは思いつめていたんだな…」
同情めいた言葉で近藤は嘆息する一方で、伊東は
「しかし、沖田くんやほかの三人に怪我がなくて良かったですね。彼の素晴らしい剣技があったからこその結果でしょう」
と称賛した。彼が言うように殺気を漲らせた大石に応戦できたのは総司くらいのものだ。死人を一人も出さずに済んだのはよかったと言えるが、総司はギリギリで踏みとどまっただけだ。
(俺が声をかけなければ殺していただろう…)
あの時の総司は大石の『狂気』に焚きつけられたように見えた。そんな状況にまで追い詰められて得た結果を、伊東のように「よかった」と簡単に称賛できなかった。だが、それはあの現場に居合わせた者にしかわからない感覚だろう。伊東を責めることはできない。
「…大石に対する処分を決めたい」
土方は話を進めた。
すると伊東は手にした扇子を口元に当て「おや」と首を傾げた。
「土方副長は問答無用で打首にするのだと思いました。組長に刃を向けたのですから、法度違反どころではないでしょう」
「…大石へは、同情の余地がある」
苦々しい返答に、伊東は納得しなかったのか、まじまじと土方の顔を見た。
もちろん、土方も最初はそのつもりだった。個人的な感情を抜きにしても、一番隊組長へ刀を抜いたことは新撰組への反逆に等しい。その場で打ち首にしてもおかしくはないのだ。
だが、土方は総司の言葉を無視することはできなかった。
『大石さん自身の命も手にかけないように』
これは大石や今井たちの命を守るための『勝負』で、それに勝ったのは紛れもなく総司だ。だったらその結末は、少なくとも土方が決めることではない。
そう思い、土方は近藤に託すことにしたのだ。
「…近藤局長、明後日の長州行きのこともある。できれば今、この場で決めてほしい」
「うむ…」
近藤は腕を組み直し、「伊東参謀の意見は?」と尋ねた。すると伊東は
「近藤局長にお任せします」
とあっさり答えた。彼自身の意見はあるのかもしれないが、大石に対してそこまでの思い入れがないため、近藤の思う通りにしても構わない…ということなのだろう。
(いけ好かないが…)
日和見な態度は気にくわないが、「打首にすべきだ」と主張されても困る。土方は複雑な心境になりながらも、近藤の答えを待った。
しばらく沈黙した。固く閉ざされた近藤の唇はなかなか開かれなかったが、ようやく「よし」と呟いて決心し、話し始めた。
「…同門の門下生という贔屓があると言われても仕方ないが、大石君の状況には同情すべき点がある。実弟を殺されて文句も言えないのはあまりにも哀れだ」
「そうですね」
伊東が相槌を打ち土方は結論を待つなか、近藤は続けた。
「幸いにも怪我人は出なかったし、今井君たちも深く反省している…この件は不問に付す。しかし、このままでは左之助が言うように新撰組で飼い殺すような状況になってしまう。もし大石君が望むのなら、脱退を認めよう」
近藤が出した温情のある答えに、伊東は「わかりました」と返答し、土方も頷いた。
最良の結末とは言えないが、近藤らしい優しい結論と言えた。
長い夜が開ける。
永劫に続くように思えても、必ず闇を払う朝が来る。







467

夜が明けた。
東の方向から太陽が昇り、雲ひとつない空をゆっくりと明るく照らしていく。久々の寒さの合間の快晴となりそうだが、屯所の雰囲気は沈黙し重たいままだった。
もちろん昨晩の一件が尾を引いている。実の弟を殺された大石に同情する者や総司に襲いかかったことを正気を失ったと問題視する者がいたが、しかし大半の隊士たちはこれから打ち首になるのだろうとやるせない、憐れみの表情を浮かべていた。
「…飯、不味いなあ…」
朝餉の席。
いつもは威勢良く飯をかき込む原田だが、今日は箸を持つのさえ重たそうにしていた。大石は原田の部下であり、これまでの騒動の間ずっと彼を庇っていたのだ。
(山南さんがなぜ原田さんの下に大石さんを入れたのか…)
以前感じた素朴な疑問。
総司はその答えが何となくわかった気がした。原田はどんな時でも仲間を思いやり、部下を大切にする。彼の元では誰もが平等であり、愛想があっても無愛想であっても同じように可愛がる。山南は試衛館時代から大石の危うさに勘付いていて、だから原田に託したのだろう。
原田は「はあ」と深いため息をついて茶碗を置いた。
「総司、土方さんはなんて言ってたんだ?」
「…私にもわかりません。寛大な処分をお願いしましたが…」
「法度は法度。…まあ、土方さんならそう言うよな」
「原田さん…」
原田は半分諦めたように息を吐く。それきり黙り込んでしまったので、総司は部屋の隅で朝餉を取る今井たちに視線を向けた。
大石が監禁状態にあるため見張りの必要がないということとなり、普段の生活に戻った三人だが、もちろん何事もなかったようにすぐに元通りというわけにはいかない。周囲からの注目を浴びて所在無く、居心地悪そうにしていた。
(一刻も早く決着をさせた方がいい…)
そう思いながら、朝食を取り終えたところで
「総司、左之助」
と土方が顔を出した。隊士たちが集まる場にあまり顔を出すことがない上にこの状況だ。大部屋には自然と緊張感が走った。
「…話がある」
そんな状況を察したのか、土方は短く用件を告げるとさっさと踵を返した。呼ばれた総司と原田はその後をついていく。
「…大石のことか?」
原田が飾らずに尋ねると、土方は頷いた。
「大石の処分が決まったからこれから伝えに行く。近藤局長が判断し、伊東参謀も同意している」
「土方さんはどうなんだよ?」
場合によっては局長や参謀よりも力を持つ土方自身の意見があがらなかった。そのことに対して原田は抜け目なく尋ねた。
すると土方は
「…概ね、了承している」
と渋々、曖昧に答えた。それ以上は答えるつもりはないらしく、土方はさっさと歩いていく。
そして三人は大石が監禁されている部屋にやってきた。
大石は部屋の中で一人、膝を折り目を閉じていた。その表情には喜怒哀楽というものが抜け落ちた『無』であり、抜け殻に等しかった。
土方は構わず目の前に座り、総司と原田はその後ろに控えた。
「大石鍬次郎。今回の件についての処断を伝えにきた」
「…」
土方の仰々しい言葉に大石は聞こえなかったかのように何の反応も見せなかったが、総司と原田には緊張が走った。
そして、土方が伝えたのは
「不問に付す」
という短い言葉だった。
大石は目を開けた。総司は安堵し、原田は
「マジかよ!」
と驚きのあまり身を乗り出した。
「実弟を殺された…ということは同情すべき点だと判断した」
「本当かよ!よかったなぁ、大石!」
まるで自分のことのように満面の笑みで喜ぶ原田とは正反対に、大石は鼻で笑った。
「…仇敵とともに暮らせとは…打首より惨い仕打ちですね」
「お前が望むなら、脱退も許可する」
「え…?」
更なる厚遇に総司は驚いた。打首を避けただけではなく、脱退も許可されるほど生易しくはないとこの場にいた誰もが覚悟していたのだ。
大石も流石に唖然としていた。
「…意味がわかりません」
「局長の判断だ」
土方は不承不承という言い方をしたが、総司は納得した。土方らしくない判断だが、一方で近藤らしい温情だ。
寛大な処分を望んでいた原田は
「よかった…本当に良かったな!」
と涙ぐんでいたが、大石の表情はいまだに固い。
「…そんなことをして良いのですか。贔屓だと噂されて局長の求心力が下がりますよ」
大石は土方を挑発するように食い下がった。
傍目に見れば同門の隊士を優遇したと言われても仕方ない処置だろう。しかし土方は淡々と答えた。
「そんなことはわかった上で局長は判断した。誰に何を言われてもお前を処断しないと」
「…」
「大石、お前の好きにしていいんだよ!このまま隊に残るのか、国に戻るのか…」
「国などありません」
原田の喜びに水を差すように、大石は冷たく答えた。
総司にはその意味がわかった。
『訳あって共にいることはできなかったが…ただ息災でいてくれればいいと思っていた』
彼にとって弟こそが帰る場所だった。その場所を失った今、彼にはいく場所などない。だから何を選んだとしても、その先には空虚な道のりしかないのだ。
(何が正解なのだろう…)
いや、正解を求めることこそが間違いなのかもしれない。彼にとっての正解はどこにもないのだから。
しかし土方は同情しない。
「選ぶのはお前だ。さっさと決めろ」
「ちょっと土方さん…」
乱暴な物言いを総司は制するが、近藤の長州行きが目前に迫るなかこれ以上の騒ぎにはしたくないという土方なりの考えがあるのだろう。
大石は唇を噛んで俯いていた。その表情は依然として暗く虚ろだ。
「俺は…」
そんな彼が切り出そうとしたところで
「大石!」
と原田が遮った。
「…俺は俺なりにお前のことを理解しているつもりだ。お前は無愛想だが悪いやつじゃない…だから死んでいい奴じゃない」
「…」
「お前の事情とか理屈とかそういうのはよくわかんねえけど…死んで良いことなんて何にもねえんだよ。死ねばよかったと思うことがあったとしても、いつかは生きていてよかったと思う、絶対にだ。切腹しかけた俺がいうんだから、間違いねえ」
原田にしては珍しく茶化すことなく、真摯な眼差しを大石に向けていた。
「最初はお前は脱退させるのが良いと思ってた。でもお前のその顔を見てたら気が変わった。お前…ここを出て一人になったら絶対に死ぬだろう」
「…そうでしょうね」
「じゃあだめだ。悔しくて苦しいかもしれねぇけど…お前はここに残れ。それに死んだって、今井たちはお前がいなくなったことに安堵するだけだ」
「…」
「んなの、馬鹿らしいじゃねえか。全部無かったことになるんだぜ、それこそ悔しいじゃねえか」
負けたままでいいのか…それは幼子を説得するような子供騙しの言い分だ。総司と土方は少し呆気にとられてしまったが、大石はその言葉を受け止めて
「…そうかも、しれません」
と頷いた。
『生きろ』…直球の感情でそう願う原田を目の前に大石の心が少しだけ揺れた…そんなとき。
「邪魔していいか?」
「近藤先生…!」
顔を出したのは近藤だった。予定外だったようで総司や原田だけではなく土方も驚いている。しかし近藤は構うことなく土方と大石の間に腰を下ろし、優しい眼差しを向けた。
「大石君…このところは大変なことが続いただろう。気持ちの整理ができないのは当然のことだ」
「…」
「君にその気があるのなら、どうだ…俺と一緒に長州へ行かないか」
「局長」
何を言っているんだ、と言わんばかりに土方が眉間に皺を寄せて険しい顔つきで止めようとする。
だが近藤は怯むことなく、それを敢えて聞き流した。
「まあ敵地であるから気軽に誘えるほど生易しい旅路ではないが…少し距離を置いて違う場所へ行くのもわるくない。瀬戸内の海は穏やかで心が洗われる…答えを出すのはそれからでいいじゃないか」
柔らかな真綿のような優しさで包もうとする近藤。しかしそれさえ跳ね除けるように大石は噛み付いた。
「…俺は、沖田先生にさえ刀を抜きました。気が触れて局長の寝首を掻かないとも限りません」
「ははは。そんな気概を持つ隊士は君くらいのものだ」
大石の脅しを近藤は笑い飛ばしてしまう。その楽観的な様子にはその場にいた全員の気が抜けてしまった。
しかし近藤は茶化したわけではない。
「…たとえ君の心が闇に囚われてしまったとしても、俺は生きている限りいつか光が差すと思っている。だから君が生きるのに疲れてしまうその日まで、この新撰組に留まってみないか」
近藤自ら差し出した救いの手。
それを素直に受け入れるほど、大石の心はまだほどけていない。
けれど
「大石。お前が死ぬときには介錯してやる。だからそう思い詰めるまでは生きろよ」
原田の必死の懇願に折れたのだろうか。
「…わかりました」
「大石!」
「ただ、答えを先延ばしにするだけです。何もかもを許せるわけではない。あいつらが生きていることも…自分がまだ死んでいないことも」
「それでいい」
釘を指すような大石の一言にも動じず、近藤は満足げに頷いた。
そして未だに納得していない様子の土方に目を向けた。
「土方副長、長州行きの人選に大石君も加えてくれ」
「…」
「伊東参謀は俺に任せると言っていただろう。だからあとは副長が了承すればいい」
近藤にしては多少強引なやり方だったが、最初からそのつもりだったのだろう。円満解決する兆しが見えている状況では土方でさえ拒むことはできない。
「…わかった」
「よし。じゃあ俺は伊東参謀に話をしてこよう。申し訳ないが大石君は出発までここで謹慎だ。余計な混乱を生むのは良くないから出発のギリギリまで彼の同行は伏せる。左之助、十番隊が監視に付くように」
「おう!」
近藤は如才なく振舞って出て行く。それはあっという間の嵐のようだが、全てを丸く収めたのは近藤の懐の広さだからできたことだろう。
続いて原田も「よし!」と立ち上がる。
「安心したら腹が減ってきたぜ。早速十番隊の奴らに言いつけてくる」
心から安堵したのか、原田の表情は綻び、「じゃあな」と大石の肩を叩くと浮き足立った様子で部屋を出て行った。
部屋には大石と土方、そして総司が残される。
総司には近藤や原田のように単純に喜んでいいのかよくわからなかった。彼の抱く闇は深いということを誰よりも知っている分、戸惑った。
だが、土方はまた違う感情を持っているようだ。
「…大石、近藤局長はああ言ったが…俺はお前を簡単に許すわけにはいかない」
「土方さん…」
「違反は違反だ。この法度のおかげで何人もが死んできた」
誰、とは言わなかったが、さまざまな顔が浮かんだはずだ。今回のような例外を許すということは、彼らの死を無駄にするということになる。だからこそ土方は副長として踏みとどまらなければならなかった。
「今後、お前には厳しい任務を与えることになるだろう…闇の中で影を潜めるような危険な仕事だ」
「…構いません」
そんなペナルティは覚悟していたと言わんばかりに、大石は反抗することなく受け入れた。
土方はちらりと後ろに控える総司に目をやり、そしてここに来いと言わんばかりに畳を軽く叩いた。総司は(なんだろう)と思いつつ従い、隣に座った。
「…それから」
土方はそう続けながら突然、総司の後頭部に手を回した。そして力づくで引き寄せて口付けた。
「ん…?!」
突然与えられた息をつく暇さえ与えない濃厚で激しい口付け。土方の舌が口腔を舐め、逃げる総司の舌を捕まえる。
「ゃ…っ、ちょ…!」
総司は混乱した。
身体の力が抜ける。それまで強張っていたから尚の事、いうことを聞かない。
大石の目の前だというのに…いや、彼の目の前だからこその、見せつけるような口付けだ。総司が土方の胸板を押しようやく逃れることができたが、大石は言葉を失っていた。
土方は眼光鋭く、大石を見据えた。
「今後一切、総司には指一本触れるな」
「…歳三さん…」
「総司はお前とは違う」
(ああ、そうか…)
きっぱりと言い切った土方は、本当は大石のことを何も許していなかったのだろう。
総司を同じ深い闇へ引きずり込もうとしたことも。
試すように口付けしたことも。
『違う』…土方の言葉が総司の心にも響いて、背中を押した。
「あの…」
総司は抱き寄せられていた土方と距離を取り、改めて大石を見た。
「…大石さん、あなたは私の…いわゆる闇の部分に惹かれたと言っていました。でもそれは私にとって別の部分ではなくて表裏一体なのだと思います」
「表裏…」
「その闇は何も切り離されたものではなくて…常に私の中にあって、忘れてはいけないし、無くしてもいけないものです」
こんなのは自分じゃない、と否定するのは簡単だ。切り捨てて見ないふりをして見捨ててしまえば楽になるだろう。けれど紛れもなくそれが自分であることに違いはなく、いつかは顔を出すのだ。
自分の中に潜む『自分』であることは間違いないのだから、認めるしかない。
どうにか折り合いをつけて共に生きるしかない。
「昨晩…あなたは自分のことを『悪人』だと決めつけたけれど、それだけじゃない。私だってそういう面があるし、土方さんだって近藤先生だってそうです。誰しも『善』ばかりで生きているわけではない。…でも原田さんが気にかけ、近藤先生が温情を与えるような『悪人』はいません」
『悪人』『善人』…それは自分で決められるようなものではない。だからこそ自分が『悪人』であると決めつけて自分を貶める必要はない。
「…造酒蔵さんもあなたのことを『悪人』だなんて微塵も思っていなかったはずです」
『兄上』
『兄上』
と繰り返された手紙のなかには間違いなく『善人』の兄…大石がいた。
それを忘れてはならない。
それを捨ててはならない。
それは造酒蔵を殺すのと同じだから――。
「…大石さん?」
彼の頬に一筋の涙が流れた。それは無意識のものだったのか、彼はすぐに隠すようにぬぐい、そのまま俯いた。
「…勘弁してください。…いまは、もう…」
大石がポツリと零した言葉。
「なにも、わかりません…」
頑なだった大石がようやく感情を漏らす。紛れも無い本音を口にしたとき、少しだけ彼の鎧のような心の檻がほどかれた。
大切な弟を失った―――混乱して、錯乱して…悲しみさえわからなくなった。
でもそれが当然なのだから。
『善人』でも『悪人』でも悲しみは同じだ。
「…行くぞ」
土方は立ち上がり、さっさと背中を向けて去って行く。総司も間をおいて彼の元を去った。
傷が膿み続け、自分を苦しめ続けることが贖罪になるというのなら。
その傷が癒えるまで苦しむしかない。
答えが出るまで、生きるしかない。
明日がいらないといっても、明日は来るのだから―――。






468


二度目の長州行きとなる朝を迎えた。
「行ってくる」
近藤は別宅で見送る深雪に優しく声をかけた。
前回と同様、いつ戻れるかわからない戦地への危険な旅路だ。これが最後の逢瀬になるのかもしれないという気持ちはお互いにどこかにあった。
「御幸太夫…いや、お孝さんか。彼女は数日中に身請けされてこちらに来るという話だった。俺はすれ違いになって会うことはできないが…すべて歳に任せているから、頼りなさい」
「へえ…この上ないご配慮を、おおきに」
「うん。俺が戻るまでは姉妹水入らずで過ごすといい」
昨年、不在にしている間は色々なことがあって心労が重なった深雪だが、今回は実妹が側にいて世話をしてくれるので安心だ。彼女の体調もみるみる良くなることだろう。
「さて…そろそろ屯所に戻らないと歳に怒られるな」
「旦那様」
深雪は近藤を引き止めた。そして懐から簪を差し出した。翡翠の簪は古びているが定期的に磨かれているのだろう、美しく輝いていた。
「これは…?」
「これはうちの…顔も知らぬ母の忘れ形見どす。どうかお持ちください」
「しかし…大切なものだろう」
深雪は「はい」と頷いたが、そのまま手を伸ばして近藤に握らせた。
「…その昔、おなごにとって簪は武器であったと聞及びました。うちは共に戦さ場に足を踏み入れることはできまへんが…気持ちだけはご一緒してます。その証やと思うてください」
「…わかった。必ず俺も、そしてこの簪も無事に戻る。君も身体を大切に、帰りを待っていてくれ」
「はい」
深雪は深々と頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
凛とした眼差しと声。近藤は背中を押されるように玄関を出た。
深雪の簪を大切に懐にしまった。彼女の真摯な気持ちが沁み渡るようで、彼女を身請けしたことの喜びと感謝が沸き上がった。
(必ず…君が誇れる男になって戻って来よう)
そう胸に誓ったのだった。


「大蔵さん」
身支度を終えた伊東の元に顔を出したのは、内海と鈴木だった。「甲子太郎だよ」といういつものやり取りを交した。
「篠原はどうした?」
伊東は尋ねた。篠原泰之進は伊東の腹心の部下である。入隊後は諸士調役兼監察を務め、その才覚を理由に今回の長州行きの同行を認めてもらったのだ。
「すでに準備を終えて他の隊士と共に待機しています。あとは近藤局長が屯所へ戻られるのを待つだけかと」
「そうか」
伊東は羽織の紐をきつく結んだ。
今回の長州行きは表向きは近藤、伊東、篠原の他に前回と同様に尾形俊太郎が参加することになっているが、山崎は依然として長州行きを探索し、そこに大石鍬次郎が加わることになっている。
ここ数日の騒動の渦中にいる大石に寛大な処分が与えられたのは一昨日のことだ。伊東に近い隊士たちは近藤の身内贔屓だと揶揄したが、伊東にとってはどちらでも良いことであった。
内海は少し声を潜めた。
「…聞いた話では、長州では不穏な動きがあるそうです。武器を買い他藩との協力をとりつけているとか。まだ噂程度ですが、今回も幕府側の通達をはねのけるのだろうという見通しです」
第一次長州征討の処分として提示された条件を、長州はこれまで悉く無視してきた。前回の長州行きでは幕府の使者の入国さえ阻んでいる。
近藤は前回の失敗を挽回したいようだが、そううまくことが運べるという雰囲気ではなかった。
「…そうなれば流石に温厚な家茂公も痺れを切らすだろう」
若年の将軍は穏やかで臣下に好かれる人柄だそうだが、戦には消極的だ。だが、長州の脅威を目の前にすれば考え方が変わるに違いない。
(新撰組の…いや、この伊東の立場を明確にする必要があるな…)
伊東が思案を重ねていると
「兄上」
それまで黙り込んでいた実弟の鈴木が、手にしていた酒を差し出した。出陣前に勝利を祈願して盃を飲み干し、それを割る。厄を祓う風習だ。
江戸への隊士募集や前回の長州行きの際は「策略だ」などとゴネていた弟だが、今回は殊勝な態度を見せグッとその気持ちを堪えているようだ。
「…」
いつもなら弟の為すことには反発する伊東だが、今回はそれを受け取り飲み干した。そして部屋を出て杯を地面に打ち付けて割ると、小気味良い音が響いた。
「ご武運をお祈りいたします」
内海が頭を下げる隣で
「どうぞご無事で」
鈴木が口にした。
伊東は大石の弟が死んだと聞かされた時、果たして自分ならどうするだろうと考えた。大石の兄弟と、鈴木と愚弟との関係とは事情が違うだろうが、少なからず血を分けて生活を共にしてきた記憶がある。仇を討ちたいと思うのだろうか…。
「失礼します。…伊東参謀」
そうしていると、珍しい訪問者が現れた。
「どうされたのですか、土方副長」
滅多に部屋にやってくることなどない土方だ。華々しく見送るためか、紋付の黒の羽織を着用してる。
「近藤局長が戻りました故、出立の時間です」
「わかりました。共に参りましょう」
伊東は頷き、土方と共に部屋を出た。
出立の今日は晴れているものの冷たい北風が吹く、寒い一日となりそうだ。これから春になるまでさらに凍える季節となるだろう。
「かわらけですか」
珍しく土方が話しかけてきた。先程のやり取りを見ていたのだろう。
「ええ…戦国の世の習わしですが、あの盃の割れた音を聞くと憑き物が落ちたように思います」
「憑き物とは?」
土方がまるで揚げ足をとるように尋ねてくる。きっと彼には言いたいことがあるのだろう…と伊東は付き合うことにした。
「…前回は成果を上げることができずに、永井様を始め会津侯を落胆させてしまいました。その憑き物を払えられれば良いのですが」
「なるほど…」
「こちらからもお尋ねしたいことがあるのですが、宜しいでしょうか」
伊東が申し出ると、土方は硬い表情のまま「どうぞ」と答えた。
「…今回、篠原の同行を許可していただきました。土方副長は反対されるだろうと思いましたので、実は驚いていました。その理由をお聞かせ願えますか?」
「…」
篠原が伊東の腹心の部下であることは重々承知しているはずだ。成果を優先する人選とはいえ、伊東を未だに敵対視する土方は了承しないだろうと思っていたのだ。
すると土方は間をおいて答えた。
「…前回の長州行きは、成果がないとはいえ滞りなく終えることができた。それを評価したつもりです」
「ほう?」
「あなたを信用して良いのだと」
『信用』―――正直、伊東はその言葉を土方の口から聞くとは思わなかった。
彼は続けた。
「長州ではあなたの裁量に任せることになる。そのために篠原君が必要だと言うことでしたから、それに応えた。ただそれだけです」
「…裁量ですか」
「新撰組のためになる『裁量』です」
土方は足を止め、振り返って伊東を見た。それは射抜くような強い眼差しだった。
「近藤のことを頼みます」
頼む…というわりには、彼の表情にはそれがない。威圧的かつ高圧的な…鬼の副長そのものだった。
「…勿論」
伊東はそう答えるに留まった。そして
(どうやら釘を刺されたらしい)
と感じた。
お前を信用していない、と言われるよりも信用していると言われる方が身が重くなるものだ。近藤が伊東の思うままにはならないという確信があるからこその宣戦布告だろう。
(面白いことになりそうだ)
伊東は内心、ほくそ笑んだ。


慶応二年、一月。
「出立する!」
近藤は威勢の良い声と共に、再び長州へと旅立った。
それは凍えるような風の吹く日だった。











469


近藤たちが旅立って数日。
年が明けてからずっと噂の的となっていた大石が一緒に長州へ向かい(それを土方の懲罰だと揶揄する隊士もいたが)、彼の不在によって屯所には久しぶりの平穏な空気が流れていた。
非番の総司が寒さをしのごうと火鉢に手をかざしていると、「沖田先生」と山野が呼んだ。
彼も先日の騒動の被害者であるのだが、
『僕が未熟だっただけです』
と大石を責めず、島田と共に彼を許したのだ。
「どうしました?」
「あの、沖田先生を訪ねていらっしゃった方が…」
「え?」
心当たりのない総司は首を傾げた。すると山野は声を潜めた。
「あの…うら若きおなご、なのですが」
「…何かの間違いじゃないですか?」
総司の知っている『うら若きおなご』といえば加也くらいのものだが、彼女は長崎へ行っているはずだ。だが、山野は首を横に振った。
「いいえ、試衛館の沖田先生、とはっきりとおっしゃいました。口振りは江戸の言葉のようですが…」
試衛館と言うからには、親戚か日野の縁者が訪ねてきたのだろうか。そう思った総司は
「…とりあえず、行ってみましょうか」
と立ち上がり、山野の案内で西本願寺の門を出た。
連日降り続く雪は溶けることなくはらはらと舞う。その雪から身を隠すように、頭巾を被り、門の脇に一人の女が立っていた。しかし小柄な横顔に見覚えはない。
「…あの?」
「あ…っ」
彼女は総司と山野の姿を見るとパッと目を見開いた。まん丸な黒目が印象的な、若い…というよりも幼い顔立ちをしていた。桃色の着物に身を包み、町娘というよりも箱入り娘、どこかの由緒正しい家柄の出だろうという雰囲気がある。
(誰かに似ているような…)
まじまじと見ていると、彼女は深々と頭を下げ、ようやく名乗った。
「不躾にお訪ねいたしまして誠に申し訳ございません。大石鍬次郎の妹の…与磯でございます」


立ち話では寒かろうと、総司は近くの料亭に案内した。そして山野に土方を呼びに行かせ、三人で席を囲むこととなった。
新撰組の鬼を二人目の前にして、与磯は緊張しているようだが怖がっている様子はなく肝が座っているた。総司が彼女の面差しに既視感を覚えたのは、次兄の造酒蔵に良く似ていたからだろう。
「この度は…兄がお騒がせいたしまして、誠に申し訳ございませんでした」
与磯は深々と頭を下げた。
「新撰組の方からお手紙をいただきました。次兄の死を知り…こちらに参りました」
「お一人ですか?」
「いいえ…付き添いには宿で待っていただいています」
「そうですか…」
この大雪の中を一人で長旅してきたのかと思ったが、流石に一橋家家臣の娘はそんな無茶はしないようだ。
「申し訳ないが…長兄の鍬次郎君は任務で都を離れている」
土方の固い物言いに、与磯は「構いませぬ」と頷いた。
「長兄は…私たち兄妹とは縁を切ったつもりでいます。おそらく私が顔を出したところで、会ってくださらないでしょう」
「…大石さんは訪ねてきた造酒蔵さんにも冷たくあたったようです。それほどまでに兄弟仲は疎遠だったのですか?」
「おい」
隣に座る土方が総司を制した。
新撰組は入隊しに際し身分や素性を問わないため、込み入った事情や個人的な感情を問い詰めるのはふさわしくない…土方が止めたのにはそういう意図があったが
「お話しするために参りましたから」
と与磯は柔らかく微笑んだ。そして少し間をおいて語り出す。
「…長兄はとても優秀な…勉学においても、剣術においても立派な兄だったと記憶しております。家を守り立派な跡継ぎになるだろうと周囲も賞賛していましたし、兄もそのつもりだったのだと思います。…けれど、父が倒れたことがきっかけとなり…」
「お父上が?」
「突然、跡継ぎに次兄を指名したのです。長兄は…父の姉の不貞でできた子だと」
「…」
総司と土方は何もいうことはできなかった。
跡継ぎとして羨望され認められてきた輝かしい場所から突き落とされたかのような絶望…それは想像以上に苦しく悔しいものだろう。
「長兄は何もかもを捨てて家を出ました。そのあとの生活はわかりませんが、季節に一度、手紙が来たり来なかったり…次兄と私はそれに一喜一憂する日々を過ごしました」
与磯は温かい茶を口に含んだ。
「…でも何年も経つと薄情なもので、私はもうこのままでいいと思うようになりました。父は確かに勝手です。子がいなかったため養子に迎えた兄を、私たちが生まれたからと遠ざけて…。だから兄は兄として生き、私たちは家を守る。時折送られる手紙で生きていてよかったと思うことができる、それだけで満足ではないかと。…けれど次兄は違いました。この家は兄が継ぐべきだとずっと言って、父とも険悪な関係に…」
与磯は寂しげに目を伏せた。その後の言葉が続かなかったのは、よほど父と造酒蔵との関係が悪化していたんだろう。少し涙ぐんでいる。
「…造酒蔵さんは大石さんのことを心配して、とうとう都までやってきたのですね」
総司が問いかけると、与磯は頷いた。
「次兄は私に言い残していました。『自分は絶対に家を継がない、兄が継いでくれないときはお前が婿を迎えて家を継ぐように』と」
「…そこまで追い詰めて…」
造酒蔵は兄を訪ねて来た理由について『顔が見たいだけだ』と答えたが、本当はそうではなかったのだろう。そして大石はそれを拒んだ。家に戻るつもりはないと冷たく言い放った…それが造酒蔵との最後の言葉となったのだ。
与磯は顔を上げた。
「次兄は、兄のことを敬愛していました。跡継ぎとして立派に育てられた兄と自分は違う。血筋だけで兄が疎まれるのはおかしいと…自分だけは兄の味方でありたいと口癖のように言っていました。ですから、お願いがあるのです」
与磯は座布団から離れると、手をつき深々を頭を下げた。
「…次兄を…造酒蔵を兄のそばにおいてほしいのです」
「そばに…って」
「墓か?」
「はい」
察しの良い土方に問いかけに、与磯は頷いた。彼女が上京したのは兄の遺体を引き取りためかと思ったが、そうではなかった。彼女は造酒蔵の無念を晴らすためにやって来たのだ。
「でもお父上は…」
「父は次兄の死については知らせておりません。もっとも、もう父にはその気力さえないかもしれませんが…行方不明になったと話します」
与磯は土方と総司の顔をしっかりと見た。
「せめて兄のそばに…眠らせてあげたいのです。お願いいたします」
彼女の懇願を受け、総司は土方の顔色を伺った。大石を土方は完全に許したというわけではない。近藤が認めたとはいえ法度を破り、特別扱いのような形になってしまったのは不本意なはずだ。そして今回の与磯の『願い』も土方にとっては大石を特別扱いすることと等しい。簡単に頷くとは思えない。
土方なら、そうだ。
「…土方さん。光縁寺ならいいんじゃないですか?」
壬生の屯所であった八木邸のほど近くにある光縁寺はこれまでも数名の隊士が眠っている。
しかし総司の提案に土方は怪訝な顔をした。
「何言って…」
「大丈夫ですよ。あそこは直接的に新撰組に関わる場所というわけではないですし…」
「そういうことじゃない」
「山南さんはきっと受け入れてくれると思いますよ」
法度を重んじる土方には受け入れがたくても、山南なら快く迎え入れるだろう。
(あの人は、そういう人だ…)
二人ともこの世にはいないのに、山南と造酒蔵が穏やかな会話を交わしている様子が眼に浮かぶようだった。
「何かあれば私の指示でということにしてください。それが…造酒蔵さんを屯所へ導いてしまった私の責任ですから」
「…」
「お願いします」
与磯と総司、二人に懇願され、土方は「はあ」と深いため息をついた。
「…わかった。お前の好きにしろ、俺は関わらない」
「ありがとうございます!」
喜びに声をあげ、さらに深々と頭を下げる与磯の肩は、よく見えると震えていた。それが願いが叶った嬉しさなのか、兄を失った悲しさなのか…それは総司にはわからなかった。
そんな彼女に、総司は傍に置いていた風呂敷を差し出した。
「…これは…」
「造酒蔵さんの荷物の中にあったものです」
与磯は目尻をぬぐいながら、風呂敷の結び目を解いた。
「ああ…手紙、ですね。家になかったので次兄が持ち出しているのだとは思いました」
「あなたにお渡しします。大石さんには見せていません」
結局、総司にはこの手紙を大石に渡すという選択肢は選べなかった。いなくなった造酒蔵の気持ちや思いを知ったところで、今の大石には苦しみしか生まないだろうと思ったのだ。
与磯も総司の選択を支持してくれたようで
「…これは次兄の心です。一緒に埋葬させていただきます」
と頷いたのだった。


三人が料亭を出る頃には、降り続けていた雪が積もり足元を白く染めていた。「駕籠を呼びましょう」と総司が申し出たところで
「与磯殿!」
と男の叫ぶ声が聞こえた。雪道をかき分けて駆けつけたのは、総司よりも少し年下の青年だった。剃り上げた月代にはうっすらと雪が積もっている。
「庄之助様。宿で待ってくださっているのでは…?」
「遅いので心配になりました。…新撰組の方ですか?」
「はい。…土方様、沖田様。こちらは私の許婚です」
庄之助と呼ばれた青年は頭を下げた。与磯が言っていた『付き添い』は彼のことだったのだろう。許婚とのことだが、近い将来には大石の家を継ぐ男だ。この寒空の下、息を切らして与磯を探していた様子を見ると好青年だ。
総司と土方は二人を見送って屯所へ戻ることにした。与磯が訪れたことで、ようやくこの数日の出来事が結末を迎えた。
「…これで、良かったのでしょうか?」
「何がだ?」
総司には漠然とした不安や戸惑いの残る出来事だったように思う。加えてこれから先の大石の身の振り方を考えると楽観的にも思えないだろう。
「正解だったのかなって」
「いつも正解ばかりを選べるわけじゃないだろう。これで良かったのかどうかなんて…未来の俺たちにしかわからない」
すべてはいつか遠ざかっていく。
正解だったのか、不正解だったのか。
それがわかるのは、いつだって時が過ぎてからだーーー。







470


慶応二年二月。
夜の間ずっと降り続けた雪が積もるなか、西本願寺北集会所の新撰組屯所に珍しい客人が訪れた。
「失礼します」
総司が三人分の温かい茶を持って土方の部屋を訪れた。火鉢を囲うように座っているのは土方と
「ありがとうございます」
伊庭八郎だった。総司から受け取った湯呑みを両手に持ち、手を温め始める。
なんの前触れもなく顔を出した彼は、少し大人びたような雰囲気を漂わせていたが、一方でまるで試衛館へ遊びにきたのと同じ気軽さだった。それにつられたのか
「それで、何の用だよ」
と少し土方も砕けた様子で尋ねた。
「特筆して何の用というわけでもありませんよ。大坂に滞在しているんですから、用がなくったって顔を出します」
「嘘言え。お前が江戸から大坂に戻ってきたのは去年の六月くらいのことだろう。今まで散々顔を出さなかったくせに…何か用があるんだろう」
「やだなあ、そんな怖い顔をしないでくださいよ。お二人をはじめとして試衛館の皆さんに会いにきただけです」
問い詰める土方に対して、伊庭は余裕で返す。土方は飄々とした彼の返答に「ちっ」と舌打ちしたが、それは本気で怒っているわけではなく昔から続く二人の挨拶がわりのじゃれ合いのようなものだ。
「そういえば伊庭くん、奥詰に昇進されたそうですね。おめでとうございます」
伊庭は昨年江戸に戻った際に奥詰を拝命した。石高三百俵、十人扶持の立派な幕臣として将軍家茂公に随行して大坂城に滞在しているのだ。
「ありがとうございます。血筋で敷かれた道通りですけど、沖田さんに祝ってもらえるのは嬉しいです」
伊庭はニッコリと笑った。その柔らかな微笑みはどこか落ち着いた大人の風貌であり、『伊庭くん』などと親しく呼んでも良いものか迷ってしまう。しかしそんな総司の躊躇いなど伊庭は関係ないようで、そばに置いていた風呂敷から「お土産です」と羊羹を差し出した。
「もう数年前になるのですが、初めて京にやってきた年にもらった赤貝を食べて腹を壊しましてね。数日間寝込んだのですが、その時に見舞い品をいただいたなかにあったのがこちらの羊羹なんです。それ以来病みつきで…甘くて美味しいので沖田さんや近藤先生はきっとお好きだと思って持参しました」
「そうなんですか、ありがとうございます」
総司は羊羹を受け取ると、伊庭が続けた。
「本当は近藤先生をお見送りできたら…と思っていたのですが、残念ながら間に合わなかったようですね」
近藤が都を出立して長州へ向かったのは数日前だ。入れ違いになってしまったが、伊庭の表情には言葉ほど残念そうな様子はない。そのことに土方も目ざとく気がついたようで、
「わざと、そうしたんだろう?」
と指摘すると、伊庭は小さくため息をついた。
「…そう怒らないでくださいよ。今回は大目付の永井様ではなく、老中の小笠原様の使節に同行するということで、大坂でも近藤先生の名前が知れ渡っているんです。何が何でも成功し、責務を果たさなければならない…近藤先生も重圧を感じられているでしょうから、旧友としてお会いして激励したかったという気持ちは本当にあります」
「そうしなかったのは?」
「…近藤先生のお耳に入れたくない話を聞いたからですよ」
伊庭は手にしていた茶を口に含んだ。そしてその口唇が器から離れた時から彼の表情は少しだけ真摯なものへと変わる。
「まだ噂話程度のものですが…あまりにも荒唐無稽なことですからむしろ真実なのではないかと勘繰っているんですけどね」
「勿体ぶるな」
「勿体ぶっているわけではないんですけどね…」
言葉通り、伊庭は茶化している風ではなく、言い淀んでいるようだった。彼のそんな様子は珍しくて総司は思わず息を飲む。
すると伊庭は意を決したように口にした。
「…薩摩と長州が手を組んだらしい、と」
「は…?」
「…薩摩と、長州が?」
唖然とした顔をしたのは土方で、総司は思いがけないことに首を傾げた。
薩摩藩と長州藩はともに経済力や軍事力を持つ雄藩であるが、幕府を支持する薩摩とは正反対に長州は反幕姿勢を崩さず、両藩は対立関係にあった。
特に新撰組が関わった『八月十八日の政変』では薩摩藩は会津藩とともに長州藩を都から追放し、池田屋事件に端を発した『禁門の変』で戦火を交え、長州藩は敗北を喫した。そのため政治に疎い総司でさえ両藩が相入れない関係だということは理解していたため、伊庭の言うことが信じられなかった。それは土方も同じで
「馬鹿を言うな。薩摩と長州なんて水と油…特に長州が薩摩を受け入れるわけがない」
と吐き捨てた。
幕府側として先陣を切った薩摩藩のことを長州藩は憎んでいる。両藩が手を組むなど土方には考えられなかったが、伊庭は首を横に振った。
「もちろん、間を仲介した者がいるようで…それに長州征討について薩摩が消極的な態度をとるようになったという話も聞きます。あながち噂とはいえ嘘というわけではないようです」
「でも…だったら、近藤先生は…」
近藤は長州藩を恭順させるための説得に向かったのに、無駄骨ということになる。それどころか薩摩藩という後ろ盾を手にした長州藩が強気の態度に出てもおかしくはない。
総司の胸には一気に不安が押し寄せたが、伊庭は否定した。
「そう簡単に叛旗を翻すなら、とっくに長州とともに戦を起こしているでしょう。それをしないのは何か考えがあるからです。だから近藤先生の身にすぐすぐ危険が迫るというわけではないと思いますし、それに危険が迫るのなら都の方が先でしょう」
「まあ…お前の話が本当なら、そうだな」
二人の言葉を耳にして、とりあえず総司の不安は払拭された。それに、すでに出立してしまった今では幸運を祈ることしかできないのだ。
伊庭の表情も砕けたものに変わる。
「そんなわけで、近藤先生のお見送りに参上したかったのですけれど、ポロッと余計なことを言って尻込みさせることになっては申し訳ないのでご遠慮させていただいたんですよ」
「じゃあ、今日の目的はなんだよ」
「だから遊びにきたんですって。いやだな、疑り深くなっちゃって。敵と味方くらい区別をつけてくださいよ」
「お前は底知れないところがあるから信用できないな」
「ひどいなぁ」
テンポの良い二人のやり取りを聞いているうちに総司も自然と微笑んでいた。
「じゃあ羊羹、切り分けてきますね」
総司は伊庭から受け取った羊羹を手に部屋を去った。

「すみません、余計なことを言いましたね」
総司の足音が聞こえなくなったのを確認すると、伊庭は謝罪した。
「近藤先生の安否に関わる話を沖田さんに聞かせるべきじゃありませんでしたよね、迂闊でした」
「…あいつだっていつまでも子供じゃない。自分で折り合いをつけるだろう」
「そうだといいんですけど」
伊庭はすでに温くなった茶を飲み干して、話題を変えた。
「西本願寺の屯所には初めて伺いましたけど、思った以上に広いですね。境内も稽古に十分使えるし…」
「前の屯所は狭すぎたんだ」
「新しい隊士が沢山入隊したから移転したのでしたね。その筆頭が伊東参謀…でしたっけ、一度お会いしてみたかったのですけど、近藤先生と一緒に長州へ行かれたんですよね」
「…お前はなんでも知っているな」
土方は呆れたように声を上げた。親しい間柄とは言っても普段は手紙のやり取りのようなことはない。こうして突然訪れてきて会話を交わすだけなのに、まるで近所に住んでいるような距離感だ。
しかしなんでも知り得るのは彼の立場上の問題だ。
「こちらでも評判ですよ。こう…まるで木彫りの彫刻か絵画のような美男ぶりで、口がうまくて褒め上手。その上頭が切れて北辰一刀流と神道無念流を修めているっていうんだから」
「嫌味なほど整いすぎているんだよ」
「土方さんはそういう人が嫌いですよね」
ははっと伊庭は笑ったが、その通りなので土方は否定しなかった。
「まあ、また近藤先生が戻られた時にご挨拶に伺いますよ」
「…それで、お前はいつまでこっちにいるつもりなんだ?」
「ちょいと目的があるんですよ」
先ほどまで『遊びにきた』と嘯いていた伊庭がまるで掌を返したように言ったので、土方はやや呆れてしまった。
「お前な…」
「仕方ないじゃないですか。沖田さんの前で話すわけにはいかなかったんですから」
「なんだよ」
鬼の副長と奥詰の幕臣という立場の二人だが、飄々とした伊庭に振り回されるのは昔から変わらないパターンだ。
「つかぬ事をお聞きしますが…大坂の御幸太夫を近藤先生が身請けしたというのは本当ですか?」
「ああ。とは言っても親元請けということにしているが…二、三日中にはこっちに来ることになっている」
大坂の新町で評判の御幸太夫を身請けしたことは伊庭の耳に入ってもおかしくはない。しかし彼は「ああ」と少し嘆くような顔でため息をついた。
「やっぱりそうなんですね」
「それがどうしたんだよ」
「いやぁ…その、御幸太夫について気になる噂話がありまして…」
声をひそめる伊庭に、土方は苦笑した。
「お前が持ってくるのは噂話ばかりだな」
「失礼な。羊羹だって持ってきたじゃないですか。真面目な話ですから、ちゃんと聞いてください」
伊庭が真摯な眼差しを向けたので、土方も腕を組み直したのだった。








解説
大石鍬次郎や兄妹について史実とは違う人物像で登場させています。以下、簡単に記します。

・大石が家を出奔した理由は女性関係となっています。造酒蔵との血縁関係はあるはずです。
・『新撰組始末記』では大石が口論になった広島藩士を、今井祐次郎が造酒蔵を同日に殺し、鉢合わせた…という話がありますが史実には「大石鍬次郎弟酒造氏当地於いて病死」との記載があり新撰組がなんらかの形で関わったような形跡はありますが不明です。
・造酒蔵は一旦、家督を継いでいます。ですので、この次の家督について近藤は大石鍬次郎を家督を継がせるように主張し、佐藤彦五郎などを頼っていろいろと手を焼きますが、結局は与磯の婿である庄之助(名字不明)が継ぐことになりました。
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