わらべうた





471


二日後。
雲の切れ間から光が差し込むものの、この日も寒い朝を迎えた。
総司は土方と共に屯所を出た。今日は大坂から深雪の妹である御幸太夫が上京する日となっていたので、近藤の別宅で彼女を出迎えるのだ。
二人で門を出ると「あ」という声が聞こえた。総司が目をやると
「あれ?伊庭くん?」
「おはようございます。待ちくたびれましたよ」
と、にこやかに答える伊庭はどうやら総司と土方を待ち構えていたらしい。総司は首を傾げた。
「用事があるのなら屯所に入ってくれれば良いのに」
「いえいえ。『幕臣のくせに暇そうだな』って思われるのは癪です
から」
「そんなことは誰も思わないと思いますけど…」
「それに、今日は御幸太夫がこちらに来られるんですよね。だから同行させてもらおうと思いまして」
伊庭の視線が総司から土方へと移る。すると土方は総司ほどの驚きはないようでため息をつきながら
「勝手にしろよ」
と言い放った。
そして屯所近くの近藤の別宅へ向けて、土方がさっさと歩き出してしまったので、総司は伊庭と並んでその後ろを行く。
「御幸太夫とお知り合いなのですか?」
伊庭がわざわざ待ち伏せするのには理由があるはずだ。総司が尋ねると、彼は曖昧に頷いた。
「知り合いというほどではありませんけど…まあ、何度か新町の座敷で見かけたくらいですよ。有名でしたからね。特に深雪太夫が近藤先生に身請けされてから、新町の男どもに熱い視線は御幸太夫一人のものになりましたから、どこの座敷にも引っ張りだこでした」
「…」
冗長に語る伊庭を総司はまじまじと見る。彼は人気の太夫を一目見たい…という好奇心のためにわざわざ都まで来たのだろうか。
するとその視線に伊庭は気がついた。
「…沖田さん、俺が御幸太夫の花の顔(かんばせ)みたさにここまで来たなんて思ってます?やだなあ、勘違いしないで下さいよ」
「か、勘違い…ですか?」
まるで考えていることが彼の耳に筒抜けになっているみたいだ。心の奥底まで見透かされているような彼の察しの良さは昔からだが、それが益々鋭くなったかのようだ。
「いくらなんでも、幕臣という立場でどうにかこうにか理由をつけて時間を作ってまで、女にうつつを抜かす…なんてことはありませんよ。それに、もう女遊びはきっぱりやめましたから」
「そうなんですか?」
試衛館にいた時から、伊庭が土方と連れ立って吉原に出かけていたのはよく知っている。二人ともモテただろうし、それの駆け引きを楽しんでいたようだった。
土方はこちらに来てからは女遊びをすっかりやめたようだが、伊庭までもそうだとは知らなかった。
すると伊庭が「あー…」となぜか空を仰いだ。
「…懐かしさのせいかな。口が滑ってしまうなあ…」
「?」
「まあ…いいか。俺はきっと土方さんと同じ心境なんです。若い頃、女遊びをしていてもに埋まらなかった心の穴みたいなものがようやくなくなったんです。それよりも大切なことを知って、落ち着いたっていうのかな…」
「大切なこと?」
「…はは。これ以上は察して下さいよ」
総司の問いかけに、伊庭は苦笑で答える。
彼は会うたびに大人びていく。試衛館にいた頃のような焦燥感は無く、その表情はいつも満たされているようだ。
(大切なものを得たから…?)
伊庭はそれが土方と同じだと言った。
土方にとって大切なものは昔から幼馴染の近藤であり仲間だ。そして都にやってきて新撰組という守るべきものを増やした。そして総司との関係が変わった。
(伊庭くんも…)
生まれた場所の系譜通りとはいえ幕臣という出世を果たした。責務を負ったという意味では都に来て新撰組を得た土方と同じだろう。
(ということは…)
彼も思う人を得たのだろうか。
それはこれまでの誰よりも大切だと思える人なのだろう。
彼の精巧で際立った顔立ちがいつも満足げに微笑んで見えるのは、そのせいなのだろうかーーー。
「ついたぞ」
土方の声が聴こえて総司はハッと我に変返った。いつのまにか近藤の別宅へと辿り着いたようだ。
「立派な御宅ですね。試衛館よりも大きいんじゃないですか?」
伊庭はそう笑って中に入った。彼は結局なぜここに来たのかという問いから話を逸らしてしまったが
(きっと…何か考えがあるのだろう…)
と思うことにして、総司もそれに続いたのだった。


深雪は薄紅色の着物に身を包み、三人を迎え入れた。いつも寝込みがちの彼女だが、今日ばかりは顔色も良い。同じ新町に身を置きながらも離れ離れになっていた、念願の実妹に再会できるのだ。
彼女は土方や総司だけではなく、伊庭も顔を出したことに驚いていたが、
「ようこそ、おいで下さいました」
と急な客人を喜んだ。伊庭も深雪へ笑ってみせた。
「実は初めましてではないんですけど。新町の座敷で何度か…」
「へえ、もちろん覚えております。伊庭様…置屋の天神たちがよく見惚れておりました」
「そうなんですか?気がつかなかったなあ」
伊庭がおどけて見せると、深雪は
「ふふ」と口元に手を当てて笑った。
「せやけど、一度として誰も相手にされへんかった。伊庭様の意中の相手はどの妓か、なんて噂してましたえ」
「…あはは、俺の話はもういいですから」
居心地が悪いのか、伊庭はさっさと話を切り上げようとする。その様子を見て先ほどの話は本当らしいと総司は思った。
するとみねが顔を出した。普段は土方の別宅の世話をしているが、御幸太夫がこちらの生活に慣れるまでの助っ人としてこの家に通ってもらうことになっているのだ。人数分の茶を差し出す。
伊庭は温かい茶を受け取りながら尋ねた。
「御幸太夫はこちらで暮らすことになるのですか?」
「ああ。そもそも近藤局長が不在がちなことを気にして太夫を身請けしたからな」
「離れていた時間を出来るだけ共に過ごしてほしいとおっしゃっていました」
土方と総司の返答に、伊庭は頷く。
「近藤先生らしいお考えです」
近藤は農民から身を起こし試衛館の道場主となってから、何人もの食客を受け入れていた根っからの兄貴分であり、その心優しい性格を伊庭はよく知っている。
そして深雪はその愛情を一身に受けている。赤い唇が穏やかに微笑みをたたえていた。そして続けた。
「旦那様だけではありません。土方様にも本当に良くしていただいて…私も妹も身の丈以上の幸せ者です」
「…近藤局長の指示に従っているだけだ」
土方はぶっきらぼうに答えたが、深雪は彼があれこれと手を尽くしていたことをよく知っている。「おおきに」と何度も繰り返した。
そうしていると、玄関先から
「ごめんくださいませー!」
と住人を呼ぶ声が聞こえた。男のものだが、おそらく付き人だろう。この家を訪ねてくるのは御幸太夫しかいない。
「ああ…!」
深雪が感極まったように目を潤ませる。その細い指先で目元を覆う深雪にみねがそっと声をかける。
「参りましょう」
「はい…っはい…!」
みねのサポートを受けながら深雪は立ち上がり、玄関へと向かう。待ちに待った邂逅の時…その表情を見ればこれまで深雪がどんなに苦しく寂しい時間を過ごして来たのかがわかる。
「私も行ってきますね」
総司は深雪たちに続いて立ち上がったが、土方と伊庭はその場から動かなかった。
「あの…」
「行ってこい」
土方は手を払うように振る。伊庭も頷いて背中を押したので総司はようやく部屋を出た。
(やっぱり何かあるんだ…)
伊庭がわざわざここにやって来た理由…土方は硬い表情のままなのもそれを受けてのことなのだろう。
総司は気になったものの、深雪たちの再会に水を差す訳にもいかず、この場で尋ねることはできない。
一旦は胸に収め、玄関へと向かう。
御幸太夫を待ち構える深雪とみね。そしてその視線の先には駕籠があった。そしてその簾の向こうから顔を出す。
「お孝ちゃん…!」
深雪は感激から悲鳴のような声をあげる。姿を現した御幸太夫…孝は新町の華やかな衣装から地味な町娘のような姿へ変貌していたが、その顔立ちは抜きん出て美しく、やはり深雪に似ていた。
身を乗り出すように待ち構える姉の姿に、孝もまた感極まる。そして小走りに玄関に駆け込むとその手を取って抱きしめあった。
「お姉ちゃん…!」
「お孝ちゃん、お孝ちゃん…っ」
人目も気にせず抱き合い、二人は再会を喜ぶ。大粒の涙を流す深雪は何度も「お孝ちゃん」と呼び孝もまた頷いて答える。その光景をそばで見ているだけの総司は心を打たれ、付き添っていたみねもまた目元を手ぬぐいで拭っていた。




472


姉妹の感動の再会が落ち着く頃合いに、総司は深雪と孝へ土方たちが待つ客間に入るように促した。玄関は冷えて身体に良くないだろうと思ったのだ。
「おおきに」
深雪は微笑んで総司の気遣いを受け取ったが、孝は何も返答をせず愛想なく頷いただけだった。彼女の新撰組に対する敵意はまだ健在らしい。
みねと孝に支えられるように、深雪は客間に戻る。そして姉妹は土方の前で並んで座った。似ている姉妹だとは思っていたが、隣に並ぶとより一層彼女たちが血の繋がった姉妹なのだと実感させられる。目鼻立ちから唇の形、髪の毛の一本に至るまでそっくりなのだ。
「土方様。…あらためて妹の孝を世話していただきありがとうございました。このような再会ができるなんで…今だに夢のような心地です」
深雪の感激とは裏腹に土方は淡々と短く「ああ」と答えるだけだった。土方にとっては孝の身請けは仕事の一環であり近藤の希望を叶えただけだ。深雪が感謝すべきは近藤だと思っているのだろう。
一方、隣に並ぶ孝の表情は先ほどの姉妹の感極まった再会から一転、怜悧で無愛想なものに変わった。深雪はそんな妹に「お孝ちゃん」と挨拶を促した。
「…この度はありがとうございます」
言葉とは正反対の素っ気ない言葉。彼女が土方や総司に対してそのような敵意のこもった態度を見せるのは最初からだが、深雪は面食らったようで「お孝ちゃん?」と驚いていた。
孝は姉の動揺を無視して、まっすぐ土方を睨む。彼もまたそれに応戦し睨み返していたため、場の空気が途端にしんと静まってしまう。玄関での感動的な再会が嘘のようだ。
しかし、それを破ったのは伊庭だった。
「…それにしても、よく似た美人姉妹ですね。ねえ、そう思いませんか?沖田さん」
「えっ?え、ええ…そうですね」
いつもより明るい声を発し、伊庭は総司に同意を求めた。場を和ませようとしたのだろう…が、孝の視線は和らぐことなく伊庭に向いた。
「…あなた様は…」
「伊庭八郎と言います。何度か座敷でお目にかかったことがありますが…覚えていらっしゃますか?」
孝は伊庭の問いかけに対して、
「いいえ」
と即答して首を横に振った。売れっ子の太夫ともなればたくさんの客を抱えていただろうから不思議ではないが、伊庭のような目立つ存在を覚えていないというのも気にかかる。
「…そうですか、残念です」
伊庭は少し含みのある間を持たせながら笑った。そして孝は土方へと視線を戻した。
「何度も申し上げましたが、うちは新撰組に身請けされたのやあらへん。身請け代金は働いて、いつか耳を揃えてお返しいたします」
鬼の副長を目の前にしても怯まない孝の態度。土方は眉を顰めたが
それ以上に動揺していたのは姉だった。
「お孝ちゃん!身請けしてくださった恩人の方にそんな失礼なことをゆったらあかん!」
「ううん。お姉ちゃん、これは約束や。最初からそのつもりでこのお話をお受けした…せやからうちのことは下働きとして扱ってください」
「お孝ちゃん…」
「いいだろう」
土方は眉間にしわを寄せたまま答えた。
「お前を身請けしたのはあくまで新撰組局長の妾のためだ。今日からはこの家の下働きとして好きなように働け」
「へえ、おおきに」
孝が軽く頭を下げたのを見るや、土方は
「総司、屯所に戻るぞ」
「え?」
「たかが下働きの女を仰々しく出迎える必要はない」
と立ち上がり、そのまま部屋を出てしまった。ドカドカと聞こえる大きな足音がまるで土方の苛立ちのようだ。
「…はは、あいかわらず短気な人だなぁ」
土方の行動を伊庭はそう笑ったが、深雪は不安そうに総司を見ていた。
「大丈夫ですよ。今日はきっと虫の居所が悪いんです。…それに、お孝さんを近藤先生の妾になんてことは土方さんは考えていませんし、近藤先生だってそのつもりはありません。安心してゆっくり過ごしてください」
「へえ…おおきに…」
総司のフォローもいまいち深雪には納得できていなかったようだ。
しかしこれ以上、姉妹の再会に水を差してはならないだろうと、総司は別宅を出ることにした。あとはみねに任せれば不便はないだろうし、時折様子を見にくれば良いだろう。
伊庭は
「じゃあ、深雪さん、お孝さん。またお会いしましょう」
と笑顔で別れを告げて部屋を出たので総司もそれに続いた。
別宅を出ると門前には土方が腕を組み、不遜な態度で待ち構えていた。
「もう。土方さん、あんな大人気ないことをしないでくださいよ。深雪さんが不安がっていましたよ」
総司は文句を言ったが、土方は「ふん」と鼻で笑った。
「生意気な女だ。近藤先生の妾にされることを警戒しているのだろうが、自意識過剰にもほどがある」
土方はそう吐き捨てたが、ついこの間大坂に出向いた際は『気の強い女は嫌いじゃない』と嘯いていたのだ。総司は内心呆れながら「はあ」とため息をついた。
三人は屯所に向けて歩き出す。伊庭は「はは」と思い出し笑いをした。
「それにしても御幸太夫…いや、お孝さんか。あれだけきっぱりと『覚えていない』なんて言われるとは思いませんでした」
「それが逆に怪しいだろう。お前との関係を隠したいようだった」
「まあ本当に覚えていないのかもしれませんが」
二人の交わす会話の意味がわからず、総司は首を傾げた。
「関係…って、どういうことですか?」
総司の問いかけに伊庭はきょとんとした顔を見せ、そして土方へを目線を移した。
「もしかして、沖田さんに話していないんですか?」
「…」
土方は無言の肯定をしたので、伊庭は両手を開いてやれやれと言わんばかりの仕草を見せた。
「あーあ。俺はてっきり事情を話しているのだと思っていました。でも沖田さんに御幸太夫を拝みに来た軽薄な男…っていう誤解を与えたんですね」
「そこまでは思っていませんけど…」
伊庭は「話していいですよね」と土方に尋ねると、彼は「ああ」と少し不本意な様子だった。もともと話すつもりはなかったようだ。
「実は俺は、大坂にいた時に御幸太夫と何度も座敷で話をしているんです」
「…それは先ほども言ってましたよね」
「ええ。でも彼女が俺のことを忘れているなんてちょっと考えられないんです」
「え?」
伊庭の口調がどんどん真面目なそれに変わっていく。
「売れっ子の太夫でしたからね、何度も座敷で会ううちによく話すようになったんです。それでついうっかり新撰組の隊士とは旧知の間柄だと話してしまったんです。…そうしたら彼女は目の色を変えてもっと新撰組のことを教えてほしいと懇願してきました」
「それは…近藤先生に姉である深雪さんが身請けされたからですか?」
「わかりません。最初は好奇心だろうと思っていたんです。だから他愛のない話をしていたのですが…あまりにも根掘り葉掘り聞き出そうとするので、『何か目的でもあるのか』と逆に問い詰めたんです。そうしたら避けられるようになってしまって…今日はそれ以来の再会だったというわけです」
「…」
孝の伊庭に対する態度は総司と同じように素っ気なかったが、知り合いだったという伊庭を思い出そうとする素振りもみせなかった。逆に考えれば知っていたからこそ、『知らない』と即答したのだとも考えられる。少なくとも土方と伊庭はそのように考えているようだ。
「近藤先生が御幸太夫を身請けするという話を聞いて、このことを土方さんに伝えなければと思い、京まで馳せ参じた…というわけです」
「…まさか、お孝さんが間者だとかそういう疑いがあるということですか?」
「そこまでは考えていなかった」
土方は総司の考えをすぐに否定した。
「監察に御幸太夫のことを調べさせた上で身請けした。 尊王攘夷の志士たちの繋がりもない」
「だったら…」
「だが、さっきの受け答えで怪しいと思った。伊庭のことを知っているならそう言えばいいだろう。わざわざ隠す理由などない」
「…」
土方は孝を警戒しているし、伊庭もまた疑念を抱いているようだ。
けれど、総司には腑に落ちなかった。
もし本当に彼女が間者なら敵の懐に入り込むために態度を軟化させるはずだ。それなのに、いまだに彼女は新撰組を毛嫌いし関わるつもりがないように見えた。けれど身請けされる前に伊庭に新撰組のことを根掘り葉掘り聞き出そうとしていたことも気にかかる。
(どういうつもりなのだろう…)
総司が考えを巡らせている間に、雲の合間から差し込んでいた光は、また厚い雲に覆われたのだった。





473


慶応二年、二月。
勘定方の河合耆三郎は、業務の一つである帳簿付けを行いながらため息をついていた。
自身が入隊した頃は運営が厳しく商家から借金をする…という時期もあったが、今は会津お預かりの身分を確立し、『新撰組』の名が世間に広まったことで支援者も増えた。それ故に帳簿を見て意気消沈する機会は減ったが、今は違うため息となった。
(深雪太夫…そして、御幸太夫の身請け金…)
北陸の裕福な米問屋生まれである河合だが、それでも二人の身請けのために用意しなければならない金額は目が剥くほどのもので、隊士たちの食費が半年ほど賄えてしまいそうな額だった。仕事に追われ女遊びをする暇もない隊士たちからは『局長の豪遊で姉妹を囲っている』と揶揄し、不満を持っている隊士もいる。
「河合~」
そろばんを手にした河合に、馴れ馴れしく声をかけてきたのは平隊士の小川信太郎だった。結い上げたての丁髷の鬢付け油とに香を焚きしめた着物の洒落た匂いがする。彼はもともと濃州の田舎の出で、だからこそこうして着飾ってしまうのかもしれない。
「なんだ、また帳簿付けてるのか」
彼が気軽なノリで帳簿を覗こうとしたので河合はさっと隠した。口の軽い彼に隊の運営事情を漏らすわけにはいかない。
「…仕事ですから」
「お前は相変わらず、刀よりもそろばんが似合うな」
「…」
家を飛び出した河合は、尊王攘夷で揺れる都へ飛び出した。『何かできるのではないか』…自分の抱いた期待をそのままに新撰組の入隊試験を受けるとあっさりと玉砕した。実力主義の新撰組において、裕福な家庭でのうのうと生きてきた自分の居場所などなかったのだ。
落胆して家に戻る覚悟をしたが、それを引き止めたのは今は亡き山南だった。
『君の算術の腕前は眼を見張るものがある』
剣術のできない河合を見下げることなく、山南は賞賛してくれてそのまま推挙してくれたのだ。
「ところでさ、河合」
小川は河合の前でぱん、と手を合わせた。
「悪いけど、一両ほど工面してくれねぇか?飲み屋のツケが溜まっているんだ」
「…」
「今日返さないと利息分をさらに上乗せするって脅されちまったんだ。給金が出たら返すからさ、この通り!」
河合は呆れた顔で小川を見た。彼がこうして頼み込んでくるのは今日が初めてというわけではないのだ。あちこちに飲み歩いているのか、毎月のように手元不如意に陥り、こうして給金までの金を借りにやってくるのだ。
「…普段、もう少し節制を心がけたらどうですか?」
「それはその通りだけどさ。局長が大金を使って女と遊んでいるんだ。俺たちがちょっと羽目を外して酒を飲むくらいいいじゃねえかよ」
本来であればきっぱり断っても良いのだが、小川のような隊士は何人かいる。羽目を外し過ぎてしまった隊士たちのために、河合は何度か金を工面してやっているのだ。
「…一両でいいんですか?」
「おう!」
パッと喜びの表情を見せた小川にこっそりと一両を渡す。
「恩にきるぜ!」
小川は調子よく手を振って飛び跳ねるように去っていく。その一両が彼のいう通り飲み屋のツケに使われるのか、それとも新たな酒に使われるのかはわからないが、彼は給金を得れば必ず返しにくるので問題ないだろう。
(それに…)
『局長が大金を使って女と遊んでいる』
その小川の言葉に、河合は共感していた。身請けには事情がある…と土方は濁していたが、それでも身請けのために隊費が使われているのは否めないはずだ。そして別宅で女たちを囲うためには永続的な金がかかる。
「…」
河合は千両箱へと視線を移した。
そこには金が入っている。隊士たちが命をかけた分に支払われた対価だ。つまりは隊士たちの命でもある。
河合には、勘定方として表立って命を危険に晒すことのない部署だからこそ、その有り難みがわかる。そしてそれを自由に使用する局長への羨望と嫉妬もまた理解できた。
「ちょっとくらい…いいですよね」
河合は呟いた。
今は亡き山南がいたら何というだろうか。近藤を庇うだろうか、それとも隊士の立場に立って糾弾するだろうか。
今となってはわからない問いを、河合は繰り返していた。


一方。
今日も今日とて屯所を訪れた伊庭に誘われ、総司が竹刀片手に足を運んだのは壬生寺だった。旧屯所である八木邸とはほど近い場所であり、よくこの境内で稽古をしていた。
「ここなら思いっきり竹刀を交えることができますね」
伊庭は周囲を見渡しながら笑った。
西本願寺近くの旅籠に身を置く伊庭は、孝の一件が明らかになるまではこちらに留まるらしい。今日は『腕が鈍る』と言って総司に稽古を申し出てきたのだ。
しかし、試合稽古になると隊士からその勝敗について注目されてしまうため、今日は人目のない壬生寺にやって来たのだ。
「伊庭くん、大坂ではご活躍らしいですね」
総司がそう問いかけると「ああ」と伊庭は苦笑した。
「上覧試合のことですか?」
「大層ご活躍らしいと、近藤先生と土方さんから聞きました」
「あんな剣術の真似事、沖田さんからすれば馬鹿らしいでしょう」
伊庭の遠慮のない物言いに今度は総司が苦笑した。
上覧試合とは大坂にいる将軍家茂公の前で剣術試合を行うことだ。心形刀流の御曹司であり有数の使い手である伊庭は幾度となく呼び出され、その腕前を披露している。その評判は都にも聞こえており、近藤の耳にもはいったらしい。
どちらからともなく踏み込み、竹刀のぶつかり合う音が響いた。準備運動のような軽いものだ。
「伊庭くん、この間の長州と薩摩話ですけど」
「ああ…同盟を組んだという噂ですね」
「それが本当だとしたら、どうなのでしょうか?」
伊庭の一手が、互いの竹刀を強く弾いた。二人は距離を取り、息を整える。
「…どうでしょう。二つの国が手を組んだからと言って、三百余年続いてきた幕府が負けるなんてことは想像できませんけれど…脅威であることは違いないでしょうね」
「脅威…」
「長州征討で幕府の体たらくを嘆く者も多いですからね。新しい勢力に与してしまわなければ良いのですが…」
「…」
伊庭の語る幕府の怠慢は、近藤から漏れ聞いていた。昨年の長州行きで目の当たりにした、廣島に出兵した幕府軍兵たちは三百年続いた安寧にあぐらをかいて『まさか戦など起こるはずもない』という緊張感のなさだったらしい。
そしてそれを伊庭も感じているようだ。
「…だから先ほども言いましたけど、上覧試合なんて本当に馬鹿らしいと思うんです。どちらが勝つかわかりきっている試合を披露して讃えあう。周囲は国力を増強しようとしているなか…まるで閉ざされた箱庭に住んでいるようですね…」
そこまで話して、伊庭の口元が緩んだ。
「…沖田さん、昔はこういう話には興味がなかったんじゃないですか?」
「え?ああ…まあ、そうですね」
「尊王攘夷を熱く語る近藤先生たちの輪から離れて、いつも一人聞こえていないフリをしていたじゃないですか。それがいまや自ら尋ねてくるなんて」
伊庭が懐かしい話をするので、総司もつられて笑ってしまった。
「あの頃は自分には関係のない話だと思っていましたから。でも今はそんな無責任なことを言っていられません」
一人で生きていたら、きっと自分に無関係なことから目を逸らし、剣術の道だけに邁進していただろう。
けれど今は違う。支えるべき人がいる。
「ヤァ!」
総司が大きく踏み込み、竹刀は伊庭の眼前で交わった。大きくしなる衝撃できっと本気を出したと伝わったはずだ。
伊庭は鋭く薙ぎ払いかわす。だが守りに徹することなくすぐに攻めに転じた。
試衛館食客という立場にほど近い場所にいながら、彼の剣のことについて総司はよく知らなかった。いつか本気で向かい合いたい…そう思っている間に機会を逸してきた。
しかし、こうして本気で向き合うのが『今』であった良かったと思えた。
(たぶん…試衛館にいた頃だったら、負けていた)
彼の器用さを目の当たりにしてそう感じた。この剣術があの青年期に備わっていたなら、彼の剣筋が読めずに混乱してあっという間に打ち負かされていただろう。
だが今、互角に渡り合うことができるのはきっとこちらにやってきて得たものがあるからだ。
激しい竹刀の音が境内に鳴り響く。互いが互いのことだけに集中し、次の一手を模索する。長時間になってもそれを『楽しい』と思うことができたのは、斉藤以来の存在だ。
それは伊庭も同じだったようだ。
端正な顔立ちで女性にモテる穏やかな雰囲気が、今は欲望に取り憑かれた野生のようになっている。けれどその目はウキウキとしていてまるで童心に戻ったかのようだ。
休むことなく打ち続け、ようやく手足を止めた頃、壬生寺の境内に近所の子供たちが集まり始めた。
「…この辺にしておきましょうか」
伊庭の提案に総司も頷いた。
勝敗はつかなかったが、心はすっきりと晴れていた。
「伊庭くん、腕が鈍っているとか言ってましたけど全然そんなことないじゃないですか」
「はは。沖田さんと打ち合っているとすぐに感覚を取り戻しました」
「本当かなぁ」
総司は伊庭に手ぬぐいを渡し、自分も額に流れる汗を拭った。冷え込んだ冬だというのに二人の周りには太陽の日差しが差し込んでいるかのように暑い。
「沖田さんは変わりましたね」
「え?」
「いや…変わることがいけないんじゃないんです。ずっとそのままであり続けるのはただの『停滞』であり、後退ですから。ただその変化が強さに繋がればいい。それさえ胸に秘めていれば心配しなくてもきっと大丈夫ですよ」
「…不安そうに見えましたか?」
「それは秘密です」
悪戯っぽく笑った伊庭が竹水筒から水を豪快に飲む。
彼の横顔に流れる汗が太陽の光を浴びてキラキラと揺れていた。





474


二月。
主人不在の別宅は賑やかだった。
「包丁はまっすぐ持って…支える方は猫の手にせなあきまへんえ」
「猫の手?」
みねから料理を教わる孝は恐る恐る包丁を手に取り、ぎこちなく大根を切るが、
「これは煮物にせなあかん」
とみねが笑うほど太く切り分けてしまっていた。
「せやかて、始めてやさかい…」
口をすぼませて拗ねる孝にみねは「もう一度」と包丁を持たせた。
幼い頃から廓で育った孝は炊事洗濯どころか包丁すら握ったことなどなかったのだから仕方ない。勝気で強気な孝を根気よく指導するみね…その微笑ましい様子を深雪は台所の片隅からこっそりと眺めていた。
(夢のようや…)
妹とともに一つ屋根の下で穏やかに暮らす。廓では想像できないほど満ち足りた生活を送れていることが信じられなくて、今だに夢ではないかと疑ってしまう。けれど孝が目の前にいて、昔のように『お姉ちゃん』と呼んでくれるたびに『嘘ではないのだ』と確信することができる。
(全て…旦那様のおかげや…)
深雪はこの場にもし近藤がいたらと想像する。孝がいるこの穏やかな光景に目を細め『良かった良かった』と笑うことだろう。
近藤と初めて出会ったのは一年ほど前の大坂でのある座敷だった。幕府に勤める要人が集まる場に、深雪を始めとした名の知れた芸妓が顔を出した。その末席に控えていたのが近藤だった。立派な体躯と無骨な表情…最初は近寄りがたい雰囲気があったが、笑うとその大きな口が愛嬌たっぷりに曲がるのをみて、悪い人ではないのだと思った。
それから何度か座敷で顔を合わせる機会があり、その度に顔を真っ赤にして深雪と会話する近藤のことを特別に思い始めた。
そして二人の関係が新町に広まった頃、近藤が身請けしたいと考えている、と懇意にしている京屋から伝え聞いた。
最初は迷ったーーー身請けされれば、妹がいるこの大坂を離れてしまう。唯一血の繋がった妹を置いて去ってしまえば一生会うことができないのではないかと、恐れたのだ。
しかし
『君のことを誠心誠意、守ろう』
まっすぐ目をみてそう言った近藤に、心を揺さぶられた。
この人ならばいつか自分だけではなく、妹のことも救ってくれるのではないか。なんの確信も理由もなかったのにそう思えた。
(不思議…)
深雪は微笑んだ。あの時感じた予感が当たったように、孝は身請けされてここにいる。
深雪が万感の思いで幸せを噛み締めていると
「お姉ちゃん!またそんな薄着で!」
と、孝に見つかってしまった。
「ここは寒いから来たらあかんって。お医者様も養生するようにゆうてはったやろ?」
「へえへえ…」
孝に背中を押され、深雪は寝所に戻る。孝と暮らすことになってからすっかり気は晴れたが、このところの寒さのせいで風邪っぽいのは確かだった。孝に促されるままに綿入れを着込む。
「お孝ちゃん、いまは『お姉ちゃん』でもええけど、旦那様が戻られたら『姉上』って呼ばなあかんえ?」
「…別に、うちは『お姉ちゃん』って呼びたいし。お姉ちゃんかて『お孝ちゃん』って昔みたいに呼んではるやない」
「じゃあ、うちも今日からお孝って呼びましょ。お孝も『姉上』…ほら」
「…」
孝は先ほどと同じように口をへの字に曲げて不満そうにした。そして
「…そう呼ばなあかんのは、旦那様のため?」
と尋ねた。『旦那様』と呼ぶ孝の口ぶりは固く、明らかに近藤に対して思うことがあるようだ。
「お孝…旦那様や新撰組の皆さんのこと、悪くいうたらあかんえ?」
「…うちは新撰組に身請けされたんやない」
「せやけど、ここでなに不自由なく暮らせるのは旦那様や新撰組の皆さんのおかげや。そうやなかったらうちらは今でも廓の中…そのことを忘れたらあきまへん」
「…」
深雪の説得に、孝は決して納得しないどころか、新撰組の話をするたびに孝の態度は頑なになっていく。
「…お台所、手伝ってきます」
「お孝ちゃん!」
話を遮るように孝は部屋を出て行ってしまった。足音が遠ざかっていく音を聞きながら、深雪は深いため息をついた。
「困った子や…」
そう呟いた時、ヒュッと冷たい空気が喉に入り深雪は何度か咳き込んだ。
かさかさになった手のひらがとても冷たかった。



「土方さん」
総司が顔を出すと土方は相変わらず忙しなく書面に目を通していた。
「どうした?」
「巡察が何事もなく終わりましたので報告です」
「そうか」
「それから、これを」
総司は懐から懐紙に包まれた煎餅を差し出した。土方は怪訝な顔をする。
「…なんだ、これは…」
「途中で伊庭くんに会ったんです。美味しい煎餅を買ったそうでお裾分けしてくれました。これなら土方さんも食べられるだろうって」
「…あいつ、どうやら遊び歩いているようだな」
土方が呆れた顔をしながら煎餅に手を伸ばしたので、総司は傍にあった湯呑みに茶を注ぐ。
「でもわざわざお孝さんのことを気にしてこっちまで来てくれたんでしょう?」
「どうだかな。あながち大坂で上役の機嫌をとるのが面倒になったんだろ。それかこっちに観光に来るのが目的で、ついでだったのかもしれねぇだろ」
「まさか」
総司は笑いながら、同じように煎餅を口にした。醤油の味が強くどこか懐かしい味わいだった。甘いものが嫌いな土方のことをよく知っているからこその伊庭のチョイスだ。
土方の気が紛れたところで、総司はおずおずと切り出した。
「…土方さん、本気でお孝さんが間者かもしれないって考えているんですか?」
孝が身請けされ、深雪と暮らし始めてから数日が経ったが総司はずっと気になっていた。
土方は「どうだかな」と言って続けた。
「可能性がないわけではない。だが…間者なら相手の懐に入って情報を得ようとするはずだ。だが、あの女のあからさまな敵意を見る限り…間者とは思えない」
「だったら…」
「何か目的があるに違いない。油断はできないだろう」
「…」
性格は真反対とは言え、孝は深雪の妹だ。信じたい気持ちはあったが、土方の言う通り警戒を解くわけにはいかないだろう。
パキッと小気味良い音を立てて煎餅が割れる。土方が茶を飲み干したところで
「…まあ、あの女がどんな女であろうと金は払わなくてはならねえ」
と吐き捨てた。深雪のような華々しい身請けではなく、借金のみを引き受ける親元請けであったので安くは済んだが新撰組の懐を痛めてしまったのは間違いない。
「まだ払ってなかったんですか?」
「んなわけねえだろ。前金として半分、これからもう半分を払うところだ」
「ふうん…」
そんな話をしていると
「しっ失礼します。…お、お呼びでしょうか?」
と勘定方の河合が顔を出した。少し顔色が悪く緊張している様子なのは、鬼副長に呼び出されたからだろう。それは彼だけが例外というわけではなく、隊士は大抵このように怯えた様子でやってくるのだ。
土方は構わず用件を告げた。
「御幸太夫の身請け代金…百両あまりを準備してほしい。大坂の京屋さんの遣いがそろそろ来るはずだ」
「わ、かりました」
吃りながら答えた河合に、土方は「それから」と付け足す。
「ついでに帳簿も改める。このところは支出が続いただろう、確認しておきたい」
「きょ…今日ですか?」
「不都合でもあるのか?」
「…い、いえ…」
土方の追及に対し、河合はこめかみに冷や汗をかき、その目が泳いでいた。いくら鬼副長から呼び出されたとはいえ、総司から見ても尋常な様子ではないことがわかる。
「河合さん?どうかされましたか?」
「い、え…その…なんでも…」
河合の指先が小刻みに震えている。何でもない、と誤魔化すには難しい。
当然、土方も気がついている。
「…今日と言わず、今から改める」
「副長!」
土方は河合の悲鳴のような声を無視して立ち上がるとさっさと勘定方の部屋へと向かっていく。
総司もそのあとを追おうとしたが、蹲りその場から動けなくなっている河合を放っておくことなどできなかった。
「河合さん、どうされたのですか。なにか不都合なことでも…?」
「……帳簿は…」
河合は青ざめて唇を震わせていた。
「河合さん?」
「帳簿は…きっと合いません…」
「え?」
河合のその言葉が虚しく響いた。






475


「帳簿が合わないって…どういうことですか?」
「…」
「河合さん!」
河合は絶望したように俯いてなにも答えず、その場に蹲り動けなくなった。総司はそれ以上を聞くことができず、ひとまずは彼を残して土方を追うことにした。
河合は長く勘定方を勤め、その働きぶりは緻密で正確だと評判だ。近藤も信頼する彼に限って『帳簿が合わない』なんてことはないはずだ。
総司が勘定方の部屋に足を踏み入れると、すでに土方が帳簿を片手に金の勘定をしていた。河合の部下に当たる他の勘定方の隊士たちは、何かに取り憑かれたように帳簿に目をやる土方を見て、皆一様に同じ表情をしていた。
怯え、恐怖、後悔ーーー部屋の空気が負の感情に包まれるなか。
「どうしたんですか?」
偶然、顔を出したのは藤堂だった。事情など知らない彼でさえただならぬ様子に「何かあったんですか?」と尋ねてきたので、総司は顔を硬ばらせたまま答えた。
「…その、河合さんが…」
「河合さん?まさか金を使い込んだとかそんなことを疑っているわけじゃないですよね?あの生真面目な河合さんに限ってそれはありませんよ」
「…」
はははと笑い飛ばす藤堂に対して、そうであってくれればいいと総司は思う。酒も飲まず女遊びもしない河合が隊費に手をつけるわけがない。けれど帳簿を確認する土方の顔はどんどん怒りを孕んだそれに変わっていく。その表情を見ているだけで答えがわかる。
そして土方はついに帳簿を閉じた。
「…土方さん」
「総司、河合を部屋に閉じ込めておけ」
「!」
その言葉の意味がわからない者はいない。総司、藤堂、勘定方隊士…この場にいるもののすべてが息を飲む。河合の言う通り帳簿が合わなかったのだ。
総司はグッと唇を噛み、頷いた。
「わかり…」
「待ってください!」
遮るように叫んだのは藤堂だった。
「何かの間違いに決まっています!急な支出があったとか、物入りだったとか…これまでの彼の勤勉さを知っているでしょう!」
魁先生らしく土方に向かっていく藤堂。普段は温厚な彼が声を荒げるのは珍しい。しかし土方は取り合わなかった。
「結果として帳簿が合っていない。それがすべてだ」
「だからそれがたまたまかもしれないと…!」
「たまたまが許されるなら、これまで切腹して死んだやつらだって『たまたましでかしたことだ』と許されるだろう」
「ちょっと土方さん…」
あまりに冷たい物言いに、流石に総司は土方を制止する。だがそれは遅かった。
「…法度に則って、切腹にすると…?」
藤堂の表情が怒りから憤りを通り越し、そして侮蔑へと変わった。
「それはこれから考える」
「考えると言ったって、近藤先生も伊東参謀もいない今、結論を出すのは土方副長しかいないじゃないですか」
「そうだな」
二人の視線がぶつかる。淡々と冷たく返答する土方に対して、藤堂は今にも襲いかかろうかと言わんばかりに熱い。総司がハラハラと憂いていると
「騒がしいですね。どうかされましたか?」
とこの場に似つかわしくない涼しい声が響いた。
「内海さん…」
内海次郎。伊東の腹心の部下であり、彼が不在の今では伊東を支持する隊士たちの心の拠り所となっている。土方は伊東と一緒くたにして警戒しているが、かつては藤堂と同門であった。
そんな内海を見て、藤堂は少し落ち着きを取り戻したようだ。
「…帳簿におかしい点があり…河合さんが不正を働いていると」
「河合…勘定方の河合くんですか?」
藤堂が頷くと普段は無表情な内海でさえ「信じられない」と言わんばかりの表情を浮かべた。途中から入隊した者でさえ、河合に信任を置いていたのだ。
内海は土方へと視線を向けた。
「土方副長、本当ですか?」
「真偽をこれから問い詰めるところだ。あまり口外されては困る」
「…わかりました」
「部屋に戻る」
そう言い捨てると、土方は硬い表情のまま腕組みをして部屋に戻る。
総司は追いかけようとした足を止めた。
「藤堂くん…」
「…」
藤堂は返事をせず、俯いたままだ。しかし「行きましょう」と内海が背中を押すと素直に従い、部屋を離れていく。
「…」
彼の背中から落胆した気持ちが伝わる。
その気持ちがどこへ向かってしまうのか…総司はひどく不安になった。



土方の指示通り、河合は部屋に監禁され一番隊がその見張りについた。
大きな体躯を持つ島田は部屋の前に立ちながら、肩を落としてため息をついた。
「なんだか最近は騒がしいことばかりですね」
松原の件から櫻井の件、大石の件…と身内の不祥事が続いている。仲間を疑うことばかりなので、島田のように辟易としてしまうのは仕方ないだろう。隣に控える山野も同じくため息をついた。
「…僕は河合さんが隊費に手をつけたなんて、信じられません…」
「まだ決まったわけじゃないだろう」
「でもこうして監禁するように指示が出たのですから、お方決まりなのでしょう」
「そうかなあ…」
島田と山野、二人の会話を聞き流しながら総司は思案を巡らせる。
河合と土方の言う通り帳簿が合わなかったのだとすれば、横領が疑われる。しかし、もともと裕福な商家の出である河合はいざとなれば実家からの仕送りがあるだそうし、金に困っていないはずだ。金が合わないのなら、それなりの理由がある。
(他の隊士が盗んだ…?)
それは考えられない話ではない。しかし帳簿が合わないと自ら口にしたのは河合であるから、少なくとも彼はそのことを知っていながら黙認していたということになる。
どちらにしても、河合は責任を負うことになるだろう。
(問題は、その処遇を土方さん一人で決めるということだ…)
藤堂の指摘通り、長州へ向かった近藤や伊東がいつ戻るのかわからない今、河合を裁くのは土方しかいない。
(士道不覚悟で切腹…)
その責任を、土方だけが背負うのだろうか。
総司は重たい気持ちで空を見上げた。太陽は沈み、空は黒く塗りつぶされようとしている。淡い光を放つ月と乱反射する星が遠い朝を待ちわびている。
「沖田さん」
声をかけられ、ハッと視線を向けると斉藤がいた。
「少しいいか?」
「…はい」
総司は島田と山野に任せて持ち場を離れる。斉藤とともに人目のつかない場所へ移動した。
「河合は何をやらかしたんだ?」
斉藤は前置きもなく早速、本題を切り出した。しかし総司はその疑問に対して明確な答えを持っているわけではない。
「…まだ詳しくはわかりません。ただ、お孝さんの身請け資金の半分を支払うために、帳簿を改めることになって…そうしたら河合さんが『帳簿が合わない』と口にしたんです」
「実際に合わなかったと?」
「おそらく。いま土方さんが細かく確認しているようですが…」
土方は昔商いをしていたこともあったのだから、その見立てに間違いはないだろう。河合が言われるがままに謹慎をしているのがその証拠だ。
斉藤は腕を組んだ。
「…隊士の中から何人か河合から金を借りていたことを白状した」
「え?」
「ただ、大金ではない。足りない小銭を貸して、給金が出たら返済をする。その繰り返しだという者がほとんどだった」
「それを…土方さんは?」
斉藤は首を横に振った。
「報告をしなくても、監察から話が伝わるだろう」
「…でも隊士が返済をしているのなら、帳簿が合わないということはないのではありませんか?」
「だから、こうやって詳細を聞いているんだ。いくら帳簿と合わないということなんだ?」
「…」
斉藤に追及されても、総司はその答えを知らない。黙り込むと、斉藤は「そうか」とそれだけで納得した。
「…河合のことも気にかかるが…藤堂さんが随分憤っていた。内海さんに慰められてどうにか落ち着いているが…」
「偶然その場に居合わせたんです。藤堂くんは河合さんを庇って…でも土方さんはそれを聞き入れませんでしたから」
「いつも通りだな」
斉藤は苦笑した。しかし総司は笑うことはできなかった。
「…藤堂くんは山南さんと同門の仲なんです。もともと試衛館に来たのだって山南さんを追ってのことでした。…だから考え方もよく似ています」
「…」
「今は河合さんの『罪』が何なのかわかりませんけど…藤堂くんは河合さんを庇うでしょう。その先には土方さんとの衝突があるはずです。だから…」
それが、不安だ。
その果てに何があるのか…それは山南の迎えた結末を考えれば答えは見える…。それを想像するだけで、ぞくりと背中から冷えるような感覚がした。
すると
「飛躍しすぎだな」
総司の思考などまるでお見通しと言わんばかりに、斉藤は再び苦笑していた。そして自分の羽織を脱いで投げ渡す。
「斉藤さん」
「何かの間違いだったとそんな結末かもしれない…と、そう考えている方があんたらしいだろう」
そう言うと背中を向けて去っていく。
総司が渡された羽織に袖を通すと、仄かに彼の温もりが残っていた。
何かの間違いかもしれない。
そんな風に呑気に構えてられたのは、自分が無知だったからだ。
痛みや苦しみ、そして悲しみを知った今、楽観的に『大丈夫』だなんて言えなくなってしまった。
(僕らしいか…)
それが一体何なのか、今の総司にはよくわからなかった。






476


斉藤と別れた総司は河合の見張りを彼に任せ、土方の部屋に向かった。
冬の夜は更け、あたりは闇に包まれているが土方の部屋には仄かな明かりが灯っている。
「土方さん、入ります」
総司の言葉に対して、土方の返答はない。他の隊士ならここで引き下がるだろうが、総司は構わず中に入った。
蝋燭が数本灯された部屋には、勘定方に運ばせた帳簿の山がいくつも並んでいた。西本願寺に移転する前の壬生浪士組時代からの帳簿だ。
「土方さん…これ、全部確認しているんですか?」
「ああ…」
算盤を手にした土方は眉間に皺を寄せている。豪農であり商いの才がある彼には算術は苦ではないのだろうが、それでも積み上げられた帳簿に目を通すのは大変だったに違いない。ため息を漏らし、髪をかきあげる姿には疲労感がある。
けれど、全ては河合の処遇を判断するためのものだ。彼の命を左右する…そう考えると土方も慎重にならざるを得ないのだろう。
「…帳簿上の数字と今ある金は八十両ほどの開きがある」
「八十両…ですか…」
「河合はかなり細かく帳簿をつけている。それなのに八十両も合わない…」
土方は深いため息をついた。彼は勘定方の一切を壬生浪士組の時代から河合に任せて来た。それは信頼を寄せていた証なのだから、裏切られた気持ちだろう。怒りというよりも落胆の感情の方が強いようだ。
「…斉藤さんに聞きました。河合さんは平隊士にお金を工面していたそうです。少額ですが、たくさんの隊士に融通を利かせていた、と…」
「…」
「もちろん手当が支給されれば返済する者が殆どだそうです。だから河合さんに恩を感じている隊士は多いでしょう…」
「切腹にしたら反発を買うって?」
土方はどこか好戦的だった。
河合が隊士に金を貸している…それをきっと土方も知ったのだろう。それは今回の件で耳に入ったのか、もしかしたらそれ以前から知っていたのかもしれない。
「…藤堂くんも河合さんを庇っていました。彼の仕事ぶりを知っている隊士は切腹にまですることではないと考えているのではないでしょうか…」
河合が日頃から隊務を疎かにするような隊士だったなら、すでに切腹という判断が下っているはずだ。しかしそれができないことに土方は苛立ちを感じているのだ。
「…身請け資金の百両はなんとかかき集めて京屋に渡すことができたが、もし手元不如意で払えないなんてことになってみろ。大坂での唯一の支援者である京屋からの信頼を失うことになりかねない。ただ帳簿が合わないことが、河合の失態ではない」
「…それは…そうですが…」
「それに足りない金は八十両だ。隊士に貸していたとしてもそんな金額にはならないだろう」
「…」
土方が苛立ったように吐き捨てた。
彼の言い分は理解できる。局中法度を制定してから、土方は一貫してその法度を尊重し躊躇なく隊士を罰して来た。長年の仲間である山南でさえ切腹という道を選んだ…だから今回がその例外というわけにはいかない。
けれど藤堂が庇い、隊士の大半が恩義を感じている河合を切腹にすれば反感を買ってしまうだろう。ただでさえこの場には近藤や伊東がいないのだ。隊士が叛旗を翻すことにもなりかねない。
総司はもどかしい気持ちに苛まれつつ、口を開いた。
「でも…定期的に土方さんが帳簿を改めていたのでしょう?河合さんは高額なお金をどうやって補填するつもりだったのでしょうか」
「…それは本人に聞いてみないとわからねえ」
「だったら聞いてみましょう。彼の処遇は全てが明らかになってから決めるべきでしょう」
「…ああ…」
総司の提案に対して土方の返事は鈍い。それから彼は口を閉ざして押し黙ってしまったため、総司は部屋を出ることにした。
「…はぁ…」
淡く光る月さえも厚い雲に覆われた。昼の暖かさから一転、凍えるような夜を迎えた。その黒い空の向こうを見つめながら
(近藤先生…)
と、西へ向かった近藤のことを思った。
今この場にいれば、良い案を巡らせてくれただろう。誰も彼もが納得できなくても、土方だけが悪者になるような結末にはならないはずだ。そう思うとなぜこのタイミングで近藤がいてくれないのだろうと恨めしくも思う。
「…そうか」
たとえここにいなくても、状況を伝えることはできる。
総司は思い立ち、すぐに部屋に戻った。そして隊士が眠る中、小さな明かりを灯して筆を取り近藤への手紙を認めることにしたのだった。


翌日。
朝に弱い土方にしては珍しく、早い時間に総司を起こしにやってきた。
「眠そうだな」
彼の指摘通り、総司は気だるい眠気が拭えないでいた。けれど近藤への手紙を夜通し書いていたと言えば『余計なことをするな』と叱られてしまうので、
「…土方さんこそ、クマができていますよ」
と返した。
「帳簿を全て二回確認したからな。寝ていない」
「だったら少し寝た方が…」
「河合を聴取したら寝る。お前も来い」
「私もですか?」
隊の金銭事情には詳しくない総司自身はは役に立たないだろうと思っていたのだが、
「お前は一番隊組長で、今は俺に次ぐ地位だろう。それに河合に話を聞けといったのはお前だ」
と土方が言うので「わかりました」と付き合うことにした。
総司は土方と並んで歩き出す。その横顔に疲労と苛立ちと迷いが入り混じっていることに、総司は気がついていた。
「土方さん!」
そんな二人を引き止めるように、背後から声が響いた。
「…藤堂くん…」
「河合さんに話を聞きに行くんですよね。俺も同席しても良いですか?」
「…」
普段は穏やかな藤堂だが、まだ朝早いと言うのに目の色を変えていた。彼がそんな風にしているのは、山南が切腹した後くらいのものだ。
「…勝手にしろ」
「ありがとうございます」
拒む理由がなく、土方は渋々受け入れた。
そうして三人で河合が謹慎している部屋に入る。
河合は正座したまま目を閉じていて、ゆっくりとその目を開けた。
「…切腹ですか?」
挨拶もなく河合が切り出したので、総司はギョッとした。生気のない河合は冗談を言っているようには見えない。それ以上に声をあげたのは藤堂だった。
「何を言っているんですか!俺たちは河合さんに話を聞きにきただけですよ。そんなに思いつめないでください」
「…」
藤堂の励ましなど聞こえていないかのように、河合の表情は暗いままだ。
そんな彼の前に土方が腰を下ろした。
「…帳簿を改めると、八十両不足があった。身に覚えがあるか?」
「…」
河合は土方の問いかけに対して俯き、何も答えようとしない。その代わりに藤堂が
「隊士たちに融通を利かせて金を貸していたんですよね?だから不足分が出ているんですよ」
と答える。庇う藤堂に対しても、河合は何の反応も見せずにさらに俯くだけだった。
土方は重々しく告げた。
「…隊士に融通を利かせていたとしても、八十両なんて損失は出ないだろう。あとはお前が使い込んだと言うことになる」
「土方副長は河合さんを疑うのですか?!」
「実際に金がないんだ。疑うに決まっている」
「河合さんは長年の同志です!ずっと勘定方筆頭として財政を預かってきた真面目な方です。そんな彼を疑うよりも盗人の類が出入りしたのではないかと考えるべきでしょう!」
藤堂は堰を切ったように土方に刃向かった。『鬼副長』と揶揄される土方に対して真っ向から反論する…その光景は同じく『長年の同志』であった山南を彷彿とさせる。
そんな藤堂に対して土方は気怠げに返した。
「…俺は河合に聞いているんだ」
「…」
「河合。金を貸した隊士は、本当に返済していたのか?」
土方の問いかけに、河合の眉がピクリと動いた。それまで何の反応も見せなかった河合だからこそ、それはとても目についた。
しかし、土方のその台詞は藤堂の怒りに火をつけた。
「隊士まで疑うのですか!」
河合だけではなく隊士まで疑うのかと、悲痛な声を上げた。傍で聞いているだけの総司は焦燥感にかられる。
そんな緊迫感のある部屋で、ようやく河合が言葉を発した。
「…わ、私は…」
蚊の鳴くような声だった。
「私は、商家の出です。剣ができるわけでもなく、幸運な巡り合わせで山南先生に拾っていただきました…隊士の皆さんのように、前線に立ち功績をあげることもできません。そ、それを最初は歯痒く思うこともありましたが…この職務を全うすることが私の選んだ武士道なのだと信じてきました…」
俯いていた河合が、ゆっくりとその顔を上げる。そして血走った目を土方に向けた。
「私が扱う金は、隊士の命と心得ております…。その身を危険に晒すことで勝ち得た褒美であると」
「素晴らしいお考えです」
称賛する藤堂の姿が、伊東のそれに重なった。彼は伊東の講座を熱心に受講していると言うことなので不思議ではないが、総司はいいようのない違和感を覚えてしまう。
河合は続けた。
「ですから、隊士たちの多少の給金の不足などはお…補うべきだと考えていました。たまには息抜きをしたいでしょう、そのために金が必要なこともある。…か、勝手な振る舞いであることは重々承知しております」
「八十両の不足はどうするつもりだ」
「…私に与えられる給金と…実家から送金をお願いしておりました。それで補填を…」
「実家から…」
「もうじき届くかと…」
総司は驚いた。隊費の補填として金を送ってもらえるほど河合の実家は裕福なのだろう。
土方は「ふん」と息を吐く。
「それで誤魔化していたってことか。…お前の考えはわかった。確かに外での金策は法度で禁じているが、隊内で貸し借りをすることを禁じてはいない。切腹までの罰は与えない」
土方の言葉に、河合よりも先に藤堂の顔が綻ぶ。
「だったら…!」
「ただし、貸したお前に責を負わせるなら、借りた方にも同じ責を負わせる。…金を借りたのはどの隊士だ?」
「…!」
それは、土方としては随分譲歩した提案だっただろう。本来であれば切腹まで申しつけられてもおかしくはないなかで、隊士の名前を挙げればその罪を軽くしてもらえる。貸す方にも借りる方にも等しく罰を与えるのだから平等だ。
しかしそれは仲間を売るという行為でもある。河合の表情はこれまでで一番動揺した。目が泳ぎ、わなわなと唇が震え、その震えは指先まで伝わっていた。
「土方副長、そんなやり方は…」
「お前のいう通り、俺はこれまでの河合の働きぶりを見て譲歩したつもりだ。不服だっていうのか?」
「…」
威勢良く噛み付いていた藤堂でさえ口籠ってしまう。
すると、河合が突然畳に突っ伏して頭を下げた。
「副長…!こ、今回だけは…今回ばかりは…見逃していただけないでしょうか…っ!」
「…何故だ」
「わ、私が勝手に貸しそれを罪だと知らずに借りていた者もいるでしょう!その者に咎はありません!」
土下座をしながら河合は叫ぶ。けれど彼の必死の懇願に対して、土方は意に介さない。鼻で笑うように
「仲間を告発するのは嫌って?」
と挑発したが、河合は相変わらず「お願いします!」と頭を下げ続ける。
「二度とこのようなことが無いように致します…!」
「…八十両はどうする?」
「そ、それは…私の方で補填します」
「三日だ」
土方の言葉に「えっ?」と河合が顔を上げた。
「お前のその土下座に免じて、三日のうちにその補填が届くなら…今回のことは不問に付す。それを過ぎるなら、八十両はお前の失策と判断する」
「…」
「これでいいだろう?」
土方は河合、そして藤堂に視線をやった。河合は困惑しているようだったが、藤堂は代わりに大きく頷いたのだった。




477


二月の空には大粒の雪が舞う。
総司からの話を聞き終えた斉藤は
「副長にしては寛大な処分だったな」
とあっさりとした感想を述べた。
その土方は、河合の部屋を出るや「眠い」と言ってそのまま別宅へ行ってしまった。いつもならそれに従う総司だが、今日は昼から巡察の当番なので同行はしなかった。それにもしかしたら土方は一人になりたいのかもしれないと思ったのだ。
代わりに同じく巡察の当番である三番隊の斉藤に経緯を話した。
「そうですよね。最初は法度に則って切腹…とでも申し渡しそうな剣幕でしたから…」
「…納得していないようだな」
「納得…」
誰もが納得できる終着点が一体どこなのだろうと思いながら、総司は言葉を選ぶ。
「…結局、河合さんは八十両の行方について明確なことは口にしませんでした。ただ、自分に責任があるから…とその一点張りで…」
「隊士たちからの返済が滞って八十両溜まったのではないのか?」
「土方さんはすべてを勘定方には任せずに、定期的に帳簿を確認しています。それなのに短期間で八十両も違算が出るでしょうか?」
「…」
総司の疑問に斉藤は腕を組み直して考え込む。彼の吐く白い息が空へと上っていく。
「…じゃあ結局、河合が使い込んだのか?それとも盗まれたのか…?」
「わかりませんが…でも、土方さんは結局それを問い詰めませんでした」
「何か考えがあるのかもしれないな…」
山崎とともに土方の片腕として信頼されている斉藤でさえ、土方の胸の内の全てを推し量ることはできない。
けれど斉藤が言った通り、『寛大な処分』であるはずなのにどうしてこんなにも胸を騒がせるのだろう。総司は言葉にならない不安を覚える。それは斉藤も同じだったようで表情が冴えない。
「藤堂は金を集めているらしいが…」
「…万が一、八十両が届かなかった場合のことを考えているのでしょう。でも八十両なんて大金、すぐには集められないとおもいますけど…」
「配下でもないのに随分、河合に肩入れしているようだな」
「…彼は昔から優しい人ですから」
総司は彼について曖昧に答えた。
藤堂は特別河合と親しいわけではなく、偶然あの場に居合わせてしまっただけだ。それなのに己の身を顧みず河合を必死に庇い助命に尽力している…傍目には不思議な光景なのかもしれないが、その場にいた総司にはその理由がわかった。
(きっと藤堂くんは、山南さんならそうするって思っているんだ)
隊内のことに重きをおく総長というポジションはいまだに空席のままだ。近藤や伊東がいない今、状況的に不利な河合を庇う者はいない。そんな状況だからこそ藤堂は河合に味方して、土方にさえ刃向かっているのだ。
(無事にお金が届けばいいけれど…)
総司は視線を遠くへやった。一番隊と三番隊の隊士たちは方々に散っている。彼らの頭上に降り続ける雪はそのうち地面に積もるだろう。
(そろそろ…)
二月。
山南が切腹を果たしてから一年が経とうとしている。そんな頃に何故こんな巡り合わせのような出来事が起こってしまったのだろう。
「嫌だなあ…」
総司は無意識に呟いていた。


雪が舞う空を見上げながら、孝は手のひらを伸ばした。はらりはらりと落ちてきた大粒の雪は肌の体温に溶かされてゆっくりと溶けていく。こじんまりとした庭の草木も雪を被りつつある。
「お姉ちゃん、積もりそうや」
雨戸を閉めながら孝が深雪に声をかける。姉は庭を眺めながら微笑んでいた。
「どうりで寒いわけ…ゲホッ!」
「お姉ちゃん、寝てなあかんって」
このところの寒さのせいか、深雪は再び体調を崩した。本人は『ただの風邪』だと言って聞かないが、床から出られない日々が続いていた。
「南部せんせから頂いたお薬飲も。すぐに白湯を…」
「お孝ちゃん、大丈夫やから…」
「せやかて」
「冷たい風がヒュッて喉に入っただけや。お孝ちゃんが雨戸閉めてくれたからもう大丈夫」
「…せやったらせめて横になって」
孝は深雪の背中を支えながら、ゆっくりと体を横たえるが、日々薄くなっていく背中に漠然とした不安を覚えていた。
しかし姉はというと、努めて明るく振る舞い常に化粧を忘れず笑っていた。孝の不安を感じ取っていたのかもしれない。
以前、深雪を診察している南部が来訪した際に
「近藤先生がいらっしゃった時は調子が良かったが…」
と漏らしていた。結局、孝はタイミング悪く近藤とはすれ違いのままで会ったことはないが、この冬の寒さを吹き飛ばすほどに姉にとって心強い存在だったのだろうか。
「お孝ちゃん、その簪、よう似合うてるなあ」
「え?」
横になった深雪が孝の髪をまとめる簪を指差した。
「ああ…これは、お客はんがくれはった。なんや舶来の細工やゆうて…」
「へぇ。趣味の良いお客はんやなあ」
目を細める深雪。穏やかで慈愛に満ちた姉は、幼い頃から変わらない自慢の姉だ。こうしていると、たった二人の姉妹でともに生きてきたあの頃の記憶が蘇る。
「…お姉ちゃん、覚えてはる?お母ちゃんのこと…」
「え…?」
「うちは物心ついた頃にはお母ちゃんなんておらへんかったけど…本当はずっと…ずっと、知りたかった」
孝が母の話を切り出すと、それまで微笑んでいた深雪の表情が固まった。
「お孝ちゃん…?」
「お姉ちゃん、お母ちゃんの形見やゆうて簪持ってはった。こんな舶来の品みたいな上等なものやないけど…。それ、今でもあるの…?」
母の存在すらあやふやなまま置屋で育った姉妹にとって、簪だけが母の形見だった。孝は母という曖昧な存在を遠ざけていたため簪などには興味がなかったが、深雪は唯一無二のそれをとても大切にして片時も手放そうとはしなかった。
しかし、深雪は「堪忍な」と弱々しく笑った。
「いま…ここにはあらへんの」
「なんで?」
「…旦那様に…お渡ししてるから」
「旦那様って…」
「いまはたぶん長州に持って行ってくださってます」
あの大切な簪が近藤の手にある…それを考えるだけで、孝の感情は一気に高ぶった。
「なんで!!」
「お孝ちゃん…」
「あれは、お姉ちゃんが大切にしてはったものやろ?!それをなんで壬生狼なんかに…!」
「そないな言い方したらあかんッ!」
温厚な深雪の一喝に、孝は竦む。
『新撰組』と名を変えて久しいが、評判の悪い大坂では未だに素行の悪い『壬生狼』と揶揄されている。孝は激高するあまりつい漏らしてしまったが、深雪の中で新撰組を侮蔑するそれは禁句だったのだ。
シィンと静まる部屋。孝はグッと唇をかみしめて深雪の言葉を受け止める。姉もまたそんな妹の様子を見て、ゆっくりと息を吐いた。
「…うちは、旦那様のお役に立ちとうて身請けされました。せやけど身体がついて行かず、迷惑ばかりをおかけしてるのに、お孝ちゃんまで身請けしていただいた…。せやからせめてうちの代わりに旦那様をお守りするようにと、簪をお渡ししたんや」
「でも、あれは大切なうちらの形見や…」
「…堪忍な。でもうちには旦那様にお渡しできるものはなぁんにもなかったから…せめてあの簪が旦那様をお守りするようにって」
「…」
「お孝ちゃんの気持ちも考えずに…堪忍…」
深雪が申し訳なさそうに顔を歪ませて、孝の手に自身のそれを重ねる。
細い指先から、姉の気持ちが伝わってくるようだった。
深雪が新撰組に身請けされたと聞いた時、金を積まれて仕方なく受け入れたのだと思っていた。そんな姉に対して怒りすら感じていたが、いまは本気で近藤のことを想っているのだとわかる。大切な形見を渡してその身を案じるほど。
でも。
(わかっても…心は別や…)
未だに会ったことのない近藤を受け入れることができるわけがない。
深雪はゆっくり口を開いた。
「…きっと旦那様は無事に戻られる。戻られたらあの簪はお孝ちゃんにあげましょ」
「え…?でも…」
「そうしましょ」
多少強引な姉の提案に、孝は頷いた。
それから深雪は目を閉じて健やかな寝息を立て始めた。孝はその様子をしばらく見ていた。






478


一日目。
剣術師範として稽古の当番である総司は早朝から道場へと向かった。
あれから一晩経ち、河合の件は瞬く間に隊士たちに伝わっていた。河合は多くの隊士に便宜を図っていたようで、同情する声があちこちで上がっているらしい。けれど表立って河合を庇う者はいないーーー近藤と伊東がいない今、鬼副長の采配で全てが決まってしまう。それを恐れているのだ。
(…土方さんは理不尽に切腹を申し付けるような極悪非道なことはしない…)
そう総司は否定したいけれど、本人が『誰にどう思われようと構わない』と思っているに違いないので、何も言うことはできない。ただ見守るしかない総司は歯痒かった。
道場に足を踏み入れると、数名の隊士たちと同じ稽古の当番である永倉の姿があった。
「今日は稽古にならないかもしれないな」
忙しない隊士たちの様子に彼はため息をつく。皆、河合の身を案じ金はいつ届くのかとそわそわしているのだ。
「…永倉さんは今回の件をどう思っているんですか?」
永倉はかつて近藤と土方のやり方に反目し、命をかけて会津公に建白書を提出したことがある。常に土方の横暴に見えるやり方には反発しがちな彼だが、しかし今回は鈍い表情を見せた。
「河合がどれだけ真面目で良い奴なのか、それを知らない隊士はいない。世話になった隊士は多いだろう…けれどそれと八十両の不明は別の話だと思う。河合にとって金勘定が職務であるなら、どういう理由であれ金が無くなったとのなら、河合が責任を問われるのは当然だ」
藤堂とともに叛旗を翻す気概を持つ永倉の、意外とも言える冷静な返答に総司は少し安堵する。
「…藤堂くんは河合さんを庇っていましたけど…」
「ああ…」
永倉は一層深いため息をついた。
「平助は隊士たちに声をかけて八十両を集めようとしているようだな。俺も二両ほど渡したが…正直、八十両も集まるとは思えない…」
「大金ですからね」
「無事に金が届けば良い。それでも、何かしないでいられないという平助の気持ちはわかる」
河合へ同情はしても、庇う気にはならない…永倉らしい実直な返答だ。
永倉は腕を組み直し、「うぅん」と唸る。
「…しかし、こういう状況になるとますます話しづらくなってしまう…」
「? なんのことですか?」
「女を身請けしようと思うんだ」
あっさりと彼の口から漏れた言葉に、総司は「えっ!」と声を上げて驚く。稽古に集まってきた隊士たちの注目を浴びてしまったので「なんでもない」と手を振って誤魔化すが、驚きは隠せなかった。
「女って…永倉さんも別宅を構えるってことですか?」
「幹部以上に認められている権利だ、そんなに驚くことじゃないだろう。馴染みの女なんて皆んな持ってる」
「…それは、そうなんですけど…」
総司はまじまじと永倉を見る。
彼は無骨で真面目、あまり女にうつつを抜かすことはない。試衛館にいた頃、一度だけ惚れた女がいたが人妻とわかって思いを告げることもなく玉砕したことがあった。彼に纏わる色っぽい話はそれくらいのものだ。
永倉は総司の視線を感じたのか、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「小常という女だ。近藤局長の妾のような華やかな美人というわけではないが、明るく気立ての良い女だと思う」
「小常さん…」
「実は山南さんには紹介していた。いづれ身請けするつもりだったが…色々と重なって言い出せなくなってしまった」
山南の切腹、局長の長州行き、松原の死…真面目な永倉は己の身請け話など切り出せなかったのだろう。
「請け出すとなればそれなりの大金が必要だから、前借りという形で少し工面してもらおうと思ったんだが…」
「ああ…それは間が悪かったですね…」
金勘定で揉めている時に切り出せる内容ではない。永倉は「だろう?」と己の運のなさに苦笑した。
(運がない…か)
そういう意味では河合も運がなかったのだろう。本来であれば実家からの仕送りで補填するはずだったのだ。
「良い結果に収まると良いですね」
「そうだな」
話を切り上げた二人は、稽古を開始する。
厚い雲の合間から朝日が差し込む。憎らしいほど清々しい朝だった。


稽古を終えた総司は手拭いで汗を拭き、部屋に戻ろうとした。
すると境内で話し込む藤堂と斉藤の姿が見え、自然と視線がそちらへ向いた。斉藤の交友関係が狭いせいか、珍しい組み合わせだ。二人が何を話しているのかはわからないが、いつもと変わらず淡々とした無表情の斉藤に対して、藤堂は?茲を紅潮させ怒っているように見える。そうしていると
「そんな言い方はあんまりじゃないですか!」
藤堂の怒鳴り声が聞こえた。眉を釣り上げて激昂する彼に対して、斉藤は表情を崩さない。今にも藤堂が掴みかかりそうな剣幕だ。
「どうしたんです?」
総司は駆け寄って二人の間に入った。藤堂の肩を押し、斉藤と距離を取るが彼の興奮は冷めやまない。
「河合さんの件です!仕送りが届かなかった時のために、隊士たちから金を募っているのに…斉藤さんは協力できないと!」
「ただ八十両があれば良いという話ではない。金の過不足は河合の失態だ」
「人一人の命がかかっているんですよ!」
藤堂は感情的になって斉藤を責めるが、彼は表情一つ変えずその主張を曲げない。
「明日までに金が届かなければ失策として処分される…これは土方副長と河合の取り決めであり、けじめのつけ方だ。わざわざ他人が介入する必要なんてないだろう」
「他人って…仲間じゃないんですかッ」
「同志ではある。だが、仲良しごっこをするつもりはない。河合を救いたいなら別の方法があるはずだ」
「仲良しごっこって…!」
「藤堂くん!」
容赦ない斉藤の言葉に、藤堂はさらに顔を真っ赤に染めて怒りを募らせる。普段は温厚な彼が『魁先生』と呼ばれるのはこういう獰猛な一面があるからだろう。
「とにかく俺は協力はしない」
斉藤はそう言い捨てて背中を向けて去っていく。藤堂はしばらく歯軋りをして悔しそうに顔を歪めていたが、
「もう大丈夫です…」
と総司から離れた。彼の表情から怒りは消え、ただ斉藤の態度に失望しているように見えた。
「藤堂くん…斉藤さんには斉藤さんの考えがあるのだと思います」
「仲間を切り捨てて、自分は関係ないということですか?」
「…河合さんが謹慎を言い渡された時、斉藤さんはすぐさま隊士から情報を得ようと動いていました。それに先ほども『別のやり方があるはずだ』と言っていたでしょう、何か考えがあるのだと思います」
「…」
「とにかく、河合さんに嫌疑がかかっている今、あまり揉め事を起こすのは彼にとってもよくありません」
「…わかりました」
藤堂は渋々ながらも頷き「すみませんでした」と軽く頭を下げて斉藤とは別の方向に去って行った。
二人は同じ試衛館食客という立場ではあるが、斉藤は馴れ合わず一線を画す存在である。だからこそ永倉のように藤堂の情に流されずに拒んだのだろう。
総司は自然と斉藤を追いかけた…が、物陰に佇むように静かに彼が待っていた。
「斉藤さん」
「冷酷な人間だって?」
「…藤堂くんはそんなことは言っていませんでしたよ」
斉藤の試すような問いかけに総司は少し呆れて返答したが、彼は「そうか」と特に感慨はなく先ほどのやり取りも意に介さない様子だ。
総司はため息をついた。
「藤堂くんがこの件について熱くなってるって知っているくせに、わざわざ焚きつけるようなことを言わなくてもいいじゃないですか」
下手すれば『私闘を許さず』の法度に触れる。そんなことを知っているくせに斉藤は平気で藤堂を挑発したのだ。
「考え方の違いだから仕方ないだろう。藤堂さんは河合を守ろうと動いているが、俺はそれが正しいとは思わない。自分で犯した過ちの責任は自分で取るべきだ。勘定方であってもそれは俺たちと変わらない」
「…」
己の責務は己の命をかけて向き合うべきである…斉藤の言い分は至極もっともである。藤堂に言わせれば情がないのだろうが、金を借りたことのない斉藤からすれば河合に温情をかけたりはしない。
「…さっき、別のやり方って言っていましたよね?」
「八十両もの金が何故なくなったのか…それを追求すれば河合だけの責任とは言えないだろう」
「つまり犯人探しをする…隊士を疑うということですか…」
気乗りする提案ではなかったが、
「盗人を捕まえればそれで終わりだ」
と斉藤が述べた端的で最良な回答に、総司はぐうの音も出ない。黙り込んでいると彼が尋ねてきた。
「…藤堂に請われて、金を出したのか?」
「それは…」
実は総司も気にかかっていることだった。あちらこちらに声をかけて金を集めている藤堂だが、総司には相談していない。先ほども目の前にいたにも関わらず持ちかけられることはなかった。
「…たぶん、私は土方さんに近い立場なので避けているのだと思います」
斉藤に答えながら、自分に言い聞かせた。しかし藤堂との距離を感じざるを得ない。
「仕方ないですよ」
その言葉が乾燥した冷たい風の中で、虚しく響いた。






479


二日目。
「今日は巡察後、河合さんの見張り役を順番に務めてもらいます」
一番隊の隊士たちを前に総司が告げると、彼らは一様に苦い顔をした。
精鋭が集う一番隊には河合から金を借りていた者はいないが、皆河合がどれだけ勤勉に働いていたのか知っている。それだけに罪人を監視するような職務に積極的になれないのだろう。
ひとまず島田を先頭に巡察に向かう。雪が舞い息が白く立ち上るような寒さのせいか、いつもは繁盛している町でさえ人影はまばらだ。
「沖田先生」
しんがりを歩く総司に声をかけて来たのは山野だった。
「どうかしましたか?」
「いえ…その、勘定方の河合さんのことが気になって…」
彼は寒さでその?茲を赤く染めながら、長い睫毛を伏せた。
「八十両の不明は河合さんの失態だと思います。でもその原因は河合さんの管理の問題なのでしょうか…?」
「…山野君も盗まれたのではないか、と言うのですか?」
昨日、斉藤もそう疑っていた。総司は『隊士を疑うのか』と否定したが、それでも彼は引かなかったのだ。
山野は言葉を選びながら慎重に答えた。
「…河合さんは八十両がないとわかっていて、ご実家に補填をお願いしたのですよね?犯人が誰かを突き止めたり、訴えたりせずに…でしたら少なくとも河合さんは八十両がどうして無くなったのかご存知なのではないですか?」
「…なるほど」
総司は唸った。
斉藤は言葉が少なく細かな説明をしてくれなかったが、そういった部分からも『盗まれた』のではないかと考えたのだろう。
山野は深いため息をついた。
「でも…その八十両を『露見さえしなければいい』と不問に付したというのを土方副長はきっと問題にされたのでしょう。その点は僕も同じ考えです」
「…意外に、山野君は土方さんの考えと似ているのかもしれませんね」
「恐れ多いです。でもきっとそんなことはありません。これは僕が心の内で思っているだけのことで…藤堂先生にもご協力しましたし」
山野は苦笑しながら、視線を先へと向けた。
「島田先輩なんて有り金全てを藤堂先生に渡してしまいました」
「あはは、お人好しな島田さんらしい行動です」
人情派の島田ならそれでも足りず、藤堂とともに金集めに奔走していそうだ。
それが良いのか悪いのかはわからない。しかし人の命を助けるために動く藤堂の姿は眩しいほど『正しい』。
(でもその正しさが否定されたとき…)
彼は再び絶望するのではないか。
彼の考えを理解する山南も、中和出来る近藤も、そして彼の師である伊東もここにはいないのだ。
総司は無意識に自分の胸に手を当てた。チクチクと痛む。
(それが、たまらなく不安になる…)
山南の命日が近いせいだろうか。あの痛みが疼くようだ。
「どうかされましたか?!お胸が痛むのですか!」
隣にいた山野が声を上げて心配する。すっかり総司の世話役になってしまった彼は少し過剰なので、隊士たちも慌てて集まってしまった。
「大丈夫ですから」
「いいえ、寒いですし何かの病の前兆かもしれません!」
「そんなことは…」
「いいですから、先生はあちらの茶屋でお休みください」
山野は食い下がる。さらに他の一番隊の隊士たちからも背中を押されてしまい、結局総司は巡察を島田に任せ、近くの茶屋で休むことになってしまった。
「まったく…心配性なんだからなあ」
山野のお節介は時に執拗な時もあるが、今は自然とに笑みが溢れた。
店の看板娘と思われる若い女子から温かい茶を差し出され軒先で口にする。湯気の立つ湯呑みを両手で持つと、指先から身体が温まるようだった。
「お寒い中、お疲れさんどすなぁ」
気軽に声をかけて来たのは店の女将だった。中年の目尻のシワが印象的な女性で、新撰組だとわかっているだろうが、その態度も柔和だ。
「いえ…」
「こちらは草餅どす」
「え?頼んでいませんが…」
女将が草餅の皿を差し出すと、こそっと耳打ちをした。
「どうか、そのまま…うちの独り言や思うて聞いておくれやす」
「…」
なんの脈絡もない言葉。けれどその目尻のシワの先にある瞳が何を言いたいのかすぐにわかった。
(新撰組の協力者だ…)
現在は長州にいる山崎は、以前は監察として都中に協力者を得てその活動を行なっていた。女将はその一人なのだろう。
彼女は自然な流れで話し始めた。
「この近くに金飛脚があります。うちも嫁いだ娘に何度か仕送りで使用させてもろうてまして、信頼の置ける飛脚どす」
総司は草餅を受け取りながら「へえ」と適当な相槌を打つ。金飛脚とは、金銭輸送を専門にする飛脚であり、送る方と受け取る方に証文を交わすことで成り立つ輸送方法だ。
「先日、何やら大急ぎでその飛脚を利用する方がおって…新撰組の隊士やと名乗ってましたわ。大金を手にしてはったから、まあ新撰組というのは儲かってはるんやなあ」
「は…はは」
側から見れば世間話のように彼女はにこやかに話す。
総司は草餅を頬張りながら尋ねた。
「…それでいくらほど送金していたのですか?」
「八十両やと耳にしました」
八十両。
もちろん偶然の一致と考えることなどできなかった。草餅を頬張る手が止まる。
「…どのような隊士でしたか?」
「 遠目にしか見てへんからなぁ…せやけど月代を綺麗に剃り上げた洒落た男はんやったと思いますえ」
「他にご存知のことは?」
「…そう急かんと。茶のおかわりでもお持ちしましょ」
総司が動揺していることに気がついたのか、女将は湯呑みを持ち出し奥に引っ込むことで一旦間を置いた。もちろんそれは正しい判断だ。新撰組の協力していると周囲に露見すればその命さえ危ぶまれるのだ。
総司は自ら反省しつつ、周囲に目を向ける。幸いなことに雪が降っているせいで人影はない。
温かい茶とともに戻ってきた女将は
「名前までは流石に。ただその金は濃州へ送られるとか」
「濃州…」
「さあさ、おぜんざいでもどうぞ」
微笑んだ彼女の眼差しが協力者としてのそれから、女将のものへと変わる。彼女の持っている情報はそれだけということだろう。
「ありがとうございます」
総司は礼を言ってぜんざいも受け取った。
濃州に金を送ったともなればそちらの出身で家族宛に金を送ったとも考えられるのだ。


屯所に戻った総司は早速、この件を土方に報告した。
「濃州か…」
土方もつかんでいなかった情報のようで、早速名簿に目を通し始める。
「その金飛脚を問い詰めたら良いのではないですか?」
「後ろめたい金だ。おそらく偽名を使っているだろう」
「偽名を?」
「金飛脚なんて一番最初に疑われる。だから送り先に申し合わせて、偽名を使って送っているに違いない。そうじゃなかったらわざわざ金飛脚を使わず、為替手形を送っているはずだ」
大金を送る方法は二つある。一つは金飛脚を使って直接やり取りする方法、そしてもう一つは為替手形を送って受け取った側が手形を金に交換するやり方だ。しかし後者の場合は様々な手続き上、偽名を使うのは難航する。だったら直接金を送る方が手っ取り早いだろう。
「でしたら、手がかりになるのは濃州出身であろう…ということだけですか…」
「まあな」
土方は素早く隊士の名簿に隈なく目を通していく。
犯人探しは嫌だ、と斉藤に反抗しておきながら結局は助力をしてしまった。総司はその後ろめたさを感じていた。
「あの…もし、その八十両を盗んだ隊士が誰だかわかったとして、河合さんはどうするのですか?」
「どうって?」
「…処罰されるのですか?」
「…」
土方は総司の問いかけに対して一旦手を止めた。
「あいつは八十両を元通り補填することを約束した。それが果たされないのなら処罰することになるだろう」
「でも盗んだのは別の隊士かもしれないのに…」
「河合はそれを隠している。あの時の態度を見ればそれは歴然だろう」
「…」
総司はぐっと息を飲む。
河合は確かに誰かを庇っている様子だった。その時は小銭を貸していた隊士たちを守っているのだろうと思っていたが、本当は山野の言う通り八十両を盗んだのが誰かわかっていたのかもしれない。その者は必ず処罰…切腹になる。誰だってそれを告発するのは嫌だろう。
温情、厚情、優しさ…しかしそのどれもが土方の考えにはそぐわない。
そしてそれはきっと、藤堂をはじめとした隊士たちの反感を買う。
「総司。俺のことは考えるな」
「…」
総司の考えていることなどお見通しだと言わんばかりに、土方はそう言った。総司は何も答えることができなかった。





480


三日目。
冷え切った朝を迎えた屯所は、不自然に静まり返っていた。
河合が実家に頼んだと言う仕送りはいまだ届いていない。隊士の誰もがもどかしい気持ちを抱えながらも、無情に一刻一刻とタイムリミットが迫っている。
「八十両はまだ集まってねぇんだよな」
原田がため息混じりに息を吐いた。
今日は槍術の稽古の日で、もちろん得意としている彼が指導を担当した。その熱気からか、寒い朝だというのに彼は上半身を晒したまま井戸の前にやってきたのだ。
総司は顔を洗いながら
「原田さんはお金を出したのですか?」
と尋ねた。人情に厚い彼にとっては愚問かと思いきや、気まずい顔をした。
「…ま、手持ちの金は渡してやったけど、雀の涙程度さ。俺の財布はおまさちゃんに握られてるからな」
「ああ、そうでした」
所帯持ちの彼は給金を全て妻であるまさに渡しているため、自由にできる金は多くはない。加えて彼女は身ごもっているので何かと入り用なのだろう。
「平助はなんだか熱くなってるみたいだけどなぁ…」
「…原田さんはどう思っているのですか?」
以前の建白書騒動の際、永倉との友誼のために加担した原田なら、今回も藤堂の情にほだされてともに集金に駆けずり回っていそうだが、彼にその様子はない。
「んーまあ、真面目に働いてるのも知ってるし不憫だとは思うけどさ。他のやつだったらどうだったんだろうって思うとな」
「他の奴って…?」
「河合みたいに実家が裕福じゃない奴だったらどうだったかってこと。責任とって八十両返せる宛がない俺みたいな奴だったら、とっくに切腹になってるだろうぜ」
原田は井戸の水を組み上げてバチャバチャと音を立てながら豪快に顔を洗う。そして手ぬぐいで水滴を拭いながら続けた。
「ま、河合の命が助かるに越したことはねえけどさ、今回のことは平助ほど俺はお人好しになれねぇな。土方さんもよく猶予をやった
思うぜ」
原田の言う通り、河合に返せる宛がなければすでに切腹を言い渡されているだろう。彼は逃げ道を得ている河合を糾弾はしないにせよ、不平等だと感じているようだ。
「何にせよ、今日金が届くかどうか、それでおしまいだ」
原田が話を切り上げたので、総司もそれ以上は尋ねなかった。


壬生寺の境内にはうっすらと雪が積もっていた。
非番の総司は伊庭に誘われ、共にその境内で竹刀を合わせていた。
『屯所を覗いたら、なんだかピリピリしてたんで』
西本願寺の門前で待ち伏せをしていた伊庭は、そう戯けて口にした。事情を知らない外部にいる彼にも屯所の異様さは感じたらしい。
凍えるような冷たい気温も、剣に夢中になればすっかり忘れてしまう。特に相手が互角かそれ以上の伊庭ともなれば一瞬も気を抜くことはできないのだ。
「ヤァッ!」
声を上げて踏み込む。伊庭は華麗に避けて今度は自分の番だと言わんばかりに打ち返してくる…その繰り返しが心地良い。特に河合の件で鬱屈していた気持ちが和らぐようだった。
邪念が消えて、相手の剣先だけに視線が集中する。やがてその感覚は自分が一本の剣になったかのような一体感を生み、無機質で無心となっていく。
一歩、また一歩と大きく踏み込む。やがて伊庭が押される形になって、その手元から竹刀が離れた。
「…参りました」
伊庭は両手を上げて降参のポーズをした。それを見てようやく総司は感情を取り戻す。
「すみません、力み過ぎました」
竹刀を下ろしつつ、総司は謝った。『体が鈍るから』と誘われた稽古がいつの間にか殺気を帯びた試合形式になってしまっていた。
伊庭は笑った。
「いいえ、本気で稽古できる人は少ないんで、それくらいの方が良いんです。むしろまだまだ底知れないなあって思いました」
「そんな…」
そうしていると細雪が大粒に変わった。二人は境内から屋根のある手水場に移動した。
「こりゃ、積もりそうだなあ」
伊庭は空を見上げながら苦笑する。大粒の雪は刻々と地面を白く染めていく。
その様子を息を整えながらぼんやりと眺めていると、
「何かありました?」
と、伊庭は総司の顔を覗き込みつつ尋ねてきた。『何でもない』と答えたとしても彼にはきっと何もかもお見通しなので、総司は素直に認めた。
「…ありました。でも伊庭くんに詳細を話すわけにはいかないんです」
「もちろんそうでしょう。隊のことなら仕方ありませんよ」
柔らかく微笑む彼を見て、少しだけ心が絆される。そのせいなのか総司は雪の舞う曇天を見上げながら、吐露した。
「…色々と複雑な事情があって、それを取り巻くみんなの考え方も違って…。どれもが正解だと思うし、誰も間違っていないと思うんです。ただ…」
そこまで話して、言葉が途切れた。
河合の立場や、藤堂の厚情、永倉や原田のやりきれない気持ち、突き放す斉藤…そんな中で総司の持つ感情はあまりに、勝手な気がしたのだ。
でも伊庭は言葉を待っていた。総司は深い呼吸をして続けた。
「…ただ、私は土方さんのことが心配なんです」
本当は誰よりも、自分は冷たい人間なのかも知れない。
窮地に立たされる河合に対する同情よりも、土方の立場を懸念しているのだから。
「近藤先生がいない今、土方さんの味方と言えるのは私しかいません。どうにか両者を救える道を探したいと…いや、土方さんが悪者にならないようにしたいとそう思っているのに、土方さんはそんなのはいらないって言うから…己の無力さを痛感しています」
何もできない、力ない自分に嫌悪するしかない。心の多くを占める靄は自分の力不足のせいだ。
総司は大粒の雪に手を伸ばした。手のひらで儚く消えたその頼りなさは、まるで自分のようだと思った。
「…わかります、とは気軽には言えませんけど」
伊庭はゆっくりと切り出した。
「いくら思い合っていたとしても、結局人はひとりだし相手が何を考えているかなんてわからないじゃないですか。喜怒哀楽さえ曖昧で、それがいくら付き合いの長い相手であったとしても、全部がわかるわけじゃない。…わかりたいと願っても」
ふーっと吐いた彼の息が白く立ち上る。
彼の物言いは、まるで実感があるかのように響く。
「だから、確かな気持ちなんて自分の中にしかないんです」
「…自分の中、ですか?」
「相手を思う気持ち…って言うと、なんか小っ恥ずかしいですけどね。でもそれだけはとても明瞭じゃないですか。だから、沖田さんがそんな風に色々考えたり悩んだりしているのを、土方さんはきっと知っているはずです」
地面の雪が積もり始めた。その姿を消すことなく、たとえいつかは溶けて消えるものだとしても、そこに在り続ける。
「だから、何があっても…どんな困難なことがあったとしても、自分を思ってくれている人がいるというのはそれだけでとても有り難いと思うんです。そして、そんな沖田さんのこと思う時だけは土方さんは穏やかな気持ちでいられるはずです。…それは、沖田さんも同じじゃないですか?」
伊庭の澄んだ瞳に見つめられ、総司は同じような言葉を口にした人のことを思い出した。
『君はいつまでも土方君のことを好きでいてあげなさい』
『彼はきっと、君を想う時だけ鬼の仮面を取ることができるだろう』
大津でのあの悲しい夜。山南はそう優しい語り口で告げた。彼はまさか全てを見通していたわけではないだろうが、自身がいなくなった後の土方の『孤独』は予期していたのだろう。
「だから決して無力なんかじゃない」
穏やかで、それでいて力強い言葉に背中を押される。
「…何もできなくても良いのでしょうか?」
「そう思います。でも俺は、土方さんは結構沖田さんのことを頼りにしていると思いますよ。わかりずらいですけど、昔からそうじゃないですか」
伊庭がははっと笑い飛ばしたので、総司も思わず笑みが溢れた。
「昔から土方さんのことを知っている伊庭君に言われると説得力があります」
「近藤先生や沖田さんには負けますけどね。…ああ、雪が止んできました。どうですか、もう一本」
伊庭の誘いに応じて総司は頷いた。彼は総司を励ましてくれたが、一方でその言葉を自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


「お姉ちゃん、またそんな薄着で」
台所に立っていた孝は足音が聞こえて、姉の姿を見つけた。今朝は大粒の雪が降っていると言うのに寝間着から着替えて、髪を整え化粧を施している。
「せやけど、今から隊士の方が来はるから…」
「隊士て…新撰組の?」
孝が苦い顔を浮かべると、「お孝ちゃん」とすぐに嗜められた。
「今日は月に一回、勘定方の方が来られてお金を受け取る日どす。せめて身支度を整えてお迎えせな」
「…」
未だに新撰組に身請けされたことを受け入れない孝にとって、複雑な心境だった。新撰組から生活費を受け取る以外に生きていく術がないのがもどかしい。
そうしているうちに
「ごめんください」
と男の声が聞こえた。深雪は「はい」と言って出ていくので、孝もそれに従った。
玄関で待っていたのは若い隊士だった。もちろん孝は始めて相対する相手だったが、深雪は深く頭を下げた後に、首を傾げた。
「ご苦労はんどす。…あの、河合様は?」
「…河合、先生は…その、都合が悪くて、自分は同じ勘定方の嗣井と申します」
気弱そうな男はそう言いよどんで頭を下げた。『壬生狼』…荒々しいイメージを持つ孝は彼の雰囲気に拍子抜けしてしまった。
そして、嗣井は深雪へ風呂敷を渡し「では」とそそくさと出て行く。その背中に
「おおきに、ありがとうございます」
と深雪は感謝を述べたが、嗣井の耳に入ったかはわからなかった。







解説
なし
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