わらべうた





481


冷たい板張りの床。冬の澄んだ空気。不自然なほど静寂で静謐で…孤独な水底の暗闇。
刻一刻と過ぎていく時間は、まるで心を蝕んでいく。河合は形のない恐怖に纏わり付かれている気がした。
「は…はは…」
乾いた笑い声だけが部屋に響いた。
指先が震えて、冷たくなる。
くらくらと頭が揺れて、身体がまるで自分のものではないかのように感じる。
自分はおかしくなっている。
少しずつ、少しずつ、死の川へと足先が浸っているようだ。
「ああ…」
その川の中から誰かが引っ張っている。無念の死を遂げた隊士か、殺されたかつての局長か、それとも…誇り高く死んだあの優しい総長か。
(助けてくれ…!)
その悲鳴は喉元から先へは届かずに、もどかしく自分の身体の中に留まり続けている。
「…河…さ…ん」
誰かが呼んでいる。けれど瞼が鉛のように重たい。
「河合…ん」
「…」
「河合さん!」
身体を揺さぶられ、河合はようやく眼をあけた。
そこには眩しいほどの光を背中にした総司の姿があった。河合は自分が板張りの床に身を投げ出すようにして倒れていたのだ。
「魘されていましたよ。大丈夫ですか」
総司は河合の背中を支えて抱き起す。つい先ほどまで夜だったような気がしていたのに…夢と現の間を行き来していたようだ。
「今は…」
河合は掠れた声を出すので精一杯だった。
「何ですか?」
「…今は、朝…ですか…?」
その質問をした時、総司の顔が少しだけ曇った。
「ええ…朝です」
「金は…届いて、いないのですか…?」
「…はい」
総司が頷いたのを見て、河合は全身の力が抜けた。
三日間の猶予が終わった。金は届かず、状況は最悪だ。
きっと三途の川に引きずられていたのは、夢であって夢ではなかったのだろう。
「は…はは…」
「河合さん?」
「はは…切腹、ですか…」
怒ることも、悲しむことも、嘆くこともできない。だったらもう笑うしかないではないか。
「はは…はははは…」
不運な自分を嘲笑う。
実家への補填をもう少し早く頼むことができたなら。
土方の帳簿改がもう少し遅くなっていたならば。
全ての不都合な現実を悲嘆に暮れながら笑う…そんな異様な様子に総司はどんな言葉をかければいいのか、わからないようだった。
「河合」
そうしていると斉藤が部屋にやってきた。状況は理解していただろうが、相変わらずの無表情の彼は淡々と述べた。
「犯人を教えろ」
「…は、んにん…」
「斉藤さん…」
「細かく帳簿をつけていたお前が八十両もの大金が無くなったことに気がつかないはずがないだろう。…隊士の中に盗人がいる。お前はそれを隠している」
「…」
「お前が助かる唯一の道だ。…八十両を盗んだのは誰だ?」
冷たい物言いであったが、斉藤が助け舟を出そうとしているのはわかった。総司は気がすすまないようだったが、河合の答えを待つように何も言わなかった。
河合は暫く沈黙した。うな垂れたまま目を伏せ…そして重々しく答えた。
「山南総長は、なぜ亡くなったのでしょうか…」
「…河合さん、何をおっしゃっているのですか?」
ついに気が触れてしまったのかと総司は訝しむ。だが、河合は続けた。
「あれからもう一年が経ちます…表面上は屯所への移転や腕のお怪我のせいだということですが…あの方はそのようなことで脱走を選ぶような方ではありません…」
普段は言葉を選び、迷い過ぎて吃ることの多い河合だが、サラサラと口から溢れ出てきた。
「あの方は、きっと何も語らずに美しく去りたかったのでしょう。私の失態と同じにしてはならないのでしょうが…もし『犯人』という者がいるのだとしても、せめて私も同じように何も語らずに去りたいと考えています…」
「切腹になっても、後悔はしないと?」
「…」
「その盗人はお前が死んだからといって悲しむとは限らない。愚かだと笑うかもしれない。…それでも、隠し通すつもりか?」
斉藤は問い詰める。彼にしては珍しい言動だが、河合は首を横に振った。
「犯人などいません」
盗人が誰か、どころかそんな事実はないのだと河合は庇う。力なくうな垂れ俯いた彼の中に残る、ほんの少しの矜持…斉藤と総司はそれをただ受け入れるしかなかった。
そんな静寂に包まれた部屋に
「河合さん!」
と藤堂が飛び込んでやってきた。両手に風呂敷を抱え、なだれ込むように河合の前に座った。
「藤堂…先生…」
「八十両には足りませんが、五十両余り集まりました!」
「五十両…」
「これでもう少しだけ猶予をもらいましょう!このところは雪も多く、飛脚も足止めされているはずです」
藤堂は河合を励ますように笑い、「しっかりしろ」と言わんばかりに力強く肩を叩き、風呂敷を彼の手に無理やり持たせた。
「河合さんが勤勉に働いていることを知っているからこそ、隊士達から五十両もの金が集まったんです。河合さんの日頃の行いのおかげですよ!そうでしょう?」
藤堂の前向きな言葉に、河合は困惑していた。
「藤堂先生…しかし…」
「俺も一緒に頭を下げますから!ね、河合さん!」
「…どうして、ここまでしてくださるのですか…」
「どうしてって…それは河合さんを救いたいからで…」
河合の虚ろな目が藤堂を見つめていた。その暗い眼差しに藤堂は何を答えるべきなのか迷ったーーーその時。
「騒がしいな」
低く重たい声が部屋を一瞬にして支配した。河合の身体が強張り、恐れ多のくようにその姿を見た。
「…副長…」
彼が不機嫌なのは朝が早いせい…ではないだろう。斉藤は部屋の隅へと移り総司も河合の側から離れ、隣に残ったのは藤堂だけだった。
河合はどうにか体を動かし、深々と頭を下げた。
「八十両は、届かなかったようだな」
土方は仁王立ちのまま冷酷に現実を告げた。河合は何も答えられなかったが、藤堂が食いついた。
「このところ雪が多く、飛脚も道を阻まれているのだと思います。それは河合さんのせいではありません!」
「…不運なだけだって言いたいのか?」
「はい!」
鬼副長に食らいつく藤堂は、風呂敷に入った金を広げた。
「ここに五十両余りあります」
「八十両には足りねぇ」
「金額の問題ではありません!これは隊士たちが河合さんを助けたいという…連判も同じこと。隊士たちの総意です!」
「今回のことに、他の隊士は関係ない」
「でも隊士たちの『意思』です。だから土方副長は無碍にはできないはずです!」
「…」
土方の厳しい眼差しと、正しいと信じる藤堂の正義がぶつかり合う。
その間に挟まれた河合は青ざめた顔でただ見守るしかないようだった。
しばらくの沈黙の後、土方はため息混じりに問いかけた。
「…藤堂。お前、誰のために必死になっているんだ?」
「誰…って、どういう意味ですか」
「不憫な河合のためか?それとも八十両を盗んだ誰かか?」
「…俺はただ、こんなことで命を落とすようなことはあってはならないと思うから…」
「違うだろう」
土方に断定され、藤堂はカッと目を釣り上げた。
「じゃあ、誰のためだと言うんですか?!」
「お前自身だろう」
「な…っ?」
藤堂はその眼を大きく開いた。驚きと動揺…その二つの感情が見えた。
けれど彼はそれを認めようとはしなかった。
「それこそ違います!お、俺は…河合さんを助けたい一心で…」
「河合への同情だけではない。お前は…過去への贖いをしたいだけだ」
「贖い…」
「言わなくてもわかるだろう」
土方の一言で、藤堂はその意図を察し途端に顔色を変えた。そしてその場にいた全員がその意味を察した。
(山南さん…)
総司はゴクリと喉を鳴らした。
藤堂が何故、必死に河合を庇うのか…それは総司も感じていたことだったが、今まで言葉にするのは憚られたのだ。
だが、土方は敢えて口にした。
「お前は窮地に立たされた河合を救って、山南さんを助けられなかった自分を許したいだけだ」
それは、土方が一年前から決して口にしなかったことだ。きっとそうすることを決めたはずなのに、彼は自らそれを破った。
藤堂は顔を真っ赤にして立ち上がり、そのまま土方に向かって駆け出しその胸倉を掴んだ。
「藤堂くん!」
咄嗟に二人の間に入った総司だが、
「それをあなたにだけは言われたくない…ッ!!」
魁先生ーーー藤堂はそれまでの憤懣を晴らすように叫んだ。
「山南さんを殺したあなたには言われたくない!!」
土方はそれを涼しい顔で受け取った。もともと藤堂がそのような反応を見せることをわかっていて挑発したのだろう。
けれど、耐えられなかったのは総司の方だった。
土方の胸倉を掴んだ藤堂を無理やり引き剥がし、勢いそのままに床に投げ飛ばした。激しい音を立ててその体が打ち付けられる。
「…ッ!」
「…藤堂くん、前にも言ったはずです。山南さんを殺したのは私だと」
自分でも、思った以上に冷たい声が聞こえた。怒りの冷めない藤堂は
「そんなのは建前だ!」
と反発したが、
「脱走した山南さんを大津まで迎えに行き、連れ戻し…介錯をしたのは紛れもなく私です。その事実は揺らぎようもありません」
客観的な事実だけを並べる総司に対し、藤堂はグッと唇を噛む。
「…斉藤。藤堂を別の部屋に閉じ込めておけ」
「わかりました」
「少し頭を冷やせ」
藤堂は土方を睨みつけたままだったが、斉藤に腕を引かれると素直に従い部屋を出て行った。
二人が出て行き、土方は深く息を吐く。そして呆然とそれまでのやり取りを見たまま、その場に座り込んでいた河合へと目をやった。
「…河合」
「は…、はい…」
「藤堂と…金を預けた隊士たちに免じてあと二日だけ待ってやる」
「は…」
予想していなかった甘い裁断に、唖然とした河合はろくに返事ができない様子だったが、土方は構わずに去って行った。
総司は
「良かったですね」
と少し微笑んでその後を追っていく。
一人残された河合は呆然と天を見上げた。
それまでの騒がしいやり取りが嘘のように部屋は静まっていく。
「ああ…」
また、水底に落とされていくようだ。
振り向けばまた死の川へと足を引っ張る影が見えるのだろう。
与えられた二日間の猶予は、真綿の縄で少しずつ首を絞められているようなものだった。






482


藤堂の二の腕を掴んだ斉藤は、そのまま屯所の奥にある物置部屋にやってきた。陽の差し込まない薄暗い部屋に藤堂を投げ飛ばす。
「…っ、いて…!」
勢いよく尻餅をついた藤堂に一瞥をくれながら、
「三番隊の者を見張りに置く」
と斉藤は告げた。いつまで…とは土方から聞いていないが、おそらくは河合の件が結末を迎えるまで藤堂にはここで大人しくしてもらうことになるだろう。
藤堂は、淡々と告げた斉藤を睨む。まだ怒りは冷めやまぬ様子だ。
「斉藤さんは、冷たい人ですね。普通なら河合さんを助けたいと思うはずです…!だから、隊士だって力を貸してくれた…」
「別にどう思われようと構わない。自分が『普通』だと思ったことなどないからな」
「…」
「言いたいのはそれだけか?」
聞く耳を持とうとしない…という斉藤の態度に、藤堂は怒りを失望に変え、深く息を吐く。
そして呟いた。
「…確かに、土方さんの言っていたことは図星です。俺はもともと河合さんとは勘定方としての付き合いしかない…それなのにこんなに必死に『助けたい』と奔走するのは、山南さんのことを重ねているからです」
陽の差し込まない部屋に、藤堂の声が重たく落とされるようだ。
「でも…永倉さんも原田さんも協力をしてくれましたが、気がすすまないようでした。皆、冷たくなってしまったように感じた…」
藤堂の両手がギュッと握られる。その拳が小さく震えていた。
「…山南さんの切腹の時、俺は江戸にいてその場にいなかった。手紙で伝え聞くだけで…だから皆んなが本当はどういう態度で山南さんを見送ったのかはわかりません。今と同じように…『法度に背いた』と淡々と、冷たく見送ったのですか…?」
怒りと、困惑と、絶望と、失望…混じり合い複雑に絡んだ藤堂が縋るように斉藤を見た。
「斉藤さんは…そんな冷たい顔で山南さんの最期を見届けたのですか…?」
一年も前のこと。まだ一年しか経っていないこと。
それが長かったのか短かったのかはそれぞれ違うはずで、藤堂にとってはきっと昨日の事のように短く感じられるのだろう。その場にいなかったからこそ、色々な想像ができてしまう。良い方向にも悪い方向にも考えが傾くのだ。
斉藤は暫く沈黙し、答えた。
「…俺がどんな顔をしていたかなんて覚えていない。だが総長を『法度を犯した隊士の一人』だと認識していた」
「やっぱり…」
「そうしなければ、私情や感情を優先してしまうからだ」
俯きかけた藤堂の視線が「え?」と再び斉藤を見る。彼は続けた。
「冷静に、厳粛に…総長の切腹を見届けたつもりだ。それを冷たい人間だというのなら、そういうことなのだろう」
斉藤は一歩物置部屋に踏み込み、そして藤堂の前で片膝をついた。
「…だから俺を河合を見捨てる冷酷人間だと…侮蔑するならすれば良い。そうすることであんたの気が晴れると言うのなら別に痛くも痒くも無い」
「…」
「但し…二度と沖田さんにああいうことを言わせるな」
『山南さんを殺したのは私だと』
土方を背にして…まるで守るように立った彼の表情は平静だった。一年前のあの悲しみに一気に引き戻されたはずなのに、それを隠して強気に振る舞う姿が斉藤には見ていられなかったのだ。
藤堂は少し唖然として言葉を失ってしまったので、斉藤は立ち上がり背中を向けた。
「…とにかく、これ以上状況を引っ掻き回すな。大人しく謹慎していろ」
「斉藤さん…」
「なんだ」
「…斉藤さんは…」
藤堂は何かを言いかけて
「やっぱりいいです」
と引っ込めた。彼が何を問いかけたかったのか…斉藤にはわかっていたが、それに答えるつもりはなかった。


その日の夕暮れ。
非番の総司は屯所を出て北へと向かった。
河合の動向は隊士たちの間で逐一噂されているようで、猶予が二日伸びたことに、安堵感が広がっていた。
けれど未だに金を乗せた飛脚はその姿を見せない。
行く末にどことなく不安な気持ちを抱えながら、総司は空を見上げた。茜色の夕焼けに夜が混じろうとしている。
同じ空を近藤は西の地で見上げているのだろうか。
「手紙は…届いたかな」
河合の件を報告した手紙は早飛脚に乗せたため、おそらく近藤の元まで届いているだろう。遠く離れた場所で近藤に隊のことを心配させるのは気が引けたが、それでもそうしなければ土方一人の判断で河合の命が左右されることになる。局長と参謀が不在の中、藤堂のように反発する者が出てしまい、隊の規律を見出すわけにはいかないのだ。
そうしていると住み慣れたかつての屯所である壬生にたどり着き、そのまま光縁寺に足を伸ばした。住職に簡単に挨拶し、墓地の奥へ進むと山南の墓がある。普段は静かで人気のない場所だが、珍しくそこには先客がいた。
「あれ…」
「…お、沖田先生…」
彼は手を合わせていたが、総司の顔を見てハッと立ち上がった。『沖田先生』と言われたので隊士に違いないが、名前まではわからなかった。
「えっと…」
「小川信太郎です。五番隊の…」
小川は綺麗に剃り上げた月代が印象的な青年だった。だが顔色が悪く目元にはクマができていた。
「お墓まいりですか?」
「…河合が…無事で済みますように、総長へお願いを…」
言葉を詰まらせながら話す小川は、本人以上に深刻そうな顔をしている。
「あなたも、河合さんにお金を借りていたのですか?」
そうならば罪悪感があるのだろうと気軽な気持ちで問いかけたのだが、
「す、すぐに返しています!」
と小川は過敏に反応をした。寒い二月だというのに顳?莵から汗が滲んでいる。彼はまるで火がついたように矢継ぎ早に話した。
「給金が出ればすぐに…河合も快く貸してくれて、だからまさかこんなことになるなんて…!」
「小川さん、私は責めるつもりはありません。他にもたくさんの隊士が河合さんに都合をつけてもらっていたようですから…」
「…は、はい…」
総司の言葉で小川はようやく落ち着きを取り戻した。しかしその表情は青ざめたまま「失礼します」と告げて去っていった。
彼のように河合が責められていることで心を痛めている隊士は多いだろう。土方や斉藤は隊内に盗人がいると考えているようだが、もしそうだとしたらどのような心持ちなのだろうか。
総司はそこまで考えて、それ以上をやめた。そして山南の墓の前で腰を下ろし手を合わせた。
(…山南さん…)
目を閉じるとあの穏やかな笑みを思い出す。彼の誇り高い最期を思い出すと胸が痛むが、それよりも優しく包み込んでくれたぬくもりの方が勝った。
藤堂は山南を追いかけて試衛館にやってきた。同門である先輩を慕っていた彼にとって、法度による切腹を告げた近藤や土方のことを許せないという感情がいつまでも残っているのは仕方ないだろう。けれど、
『山南さんを殺したあなたには言われたくない!』
藤堂の非難に応じるべきは、土方ではなく紛れもなく自分だと思った。脱走先の大津から連れ戻し、介錯を勤めたのは自分だ。土方を庇ったつもりはなかった。
忘れてもいい、無くなったりはしないのだからーーーそう言い聞かせて一旦は取り除いた痛みが、ここに来ると思い出される。
それが悪いことだとは思わない。けれど、かつて同じ釜の飯を食べた藤堂からぶつけられた憎しみの感情は簡単には飲み込むことはできなかった。
(どうか…良い方向に進みますように、お願いします)
総司はゆっくりと目を開けた。よくよく見ると美しい花々が彼の墓の周りを彩っている。小さな風に花びらが揺れ愛嬌を振りまくが、橙色の夕陽がそこに寂しさを与えていた。
その花弁の一つに触れると、それだけで落ちてしまった。物悲しい気持ちが加速した…時、
「総司」
呼ばれて振り向くと土方がいた。少し息を切らせている。
「…土方さん、どうしたのですか?」
「お前を探してたんだ」
「え?」
土方は総司の傍までやってくると、ひとまずは腰を落として手を合わせた。総司とは違って彼の横顔には迷いはない。すぐに目を見開いて総司の手をとった。
「行くぞ」
「行くって…」
「別宅に決まっているだろう」
土方はさも当然だろうという顔をして歩き出す。手を繋がれたままの総司は引っ張られるままに彼の後ろを歩き出した。
冷え切った総司の手に、土方の温かいそれが重なり彼の感情が伝わってくるようだ。
(あの夜を思い出すな…)
一年前の夜。
山南の首を落とした感触が手に残り、無我夢中に冷たい水で手を洗い続けた。土方はそのときもこんなふうに総司の手を引いて別宅へ向かったのだ。
あの日を繰り返す。
「…はは…」
「どうした?」
「いえ…歳三さん、私は大丈夫ですよ」
打ちひしがれたあの日とは違う。そう微笑んで見せると
「そうか」
と土方は頷いて、でも手を離すことはなかった。






483


雪の降った日の昼は太陽が燦々と差し込み、地面の雪がキラキラと反射していた。その姿が水に変わる頃、孝は両手に大きな風呂敷を抱えて、古着屋を訪ねていた。
(もう…お姉ちゃんは真面目すぎるわ…)
孝が抱えているのは、深雪の着物だ。廓にいた頃、客に貢がれた派手で煌びやかな着物はきっと高価なものに違いない。姉は
『もう着ることもあらへん』
とあっさりと手放すと言う。孝が貰い受けても良いと言われたのだが、あまりにも絢爛豪華なそれを持て余すだろうとわかっていたため、姉の意思に従って古着屋に持ってきたのだ。
孝は妾として着飾って居れば良いと思っているが、姉は煌びやかな生活をせずとも慎ましく穏やかに過ごせるだけで満足だそうだ。
「…」
姉と暮らし始めて随分経つが、日に日に近藤に身請けされたことがどれだけ嬉しかったのか…という姉の素直な気持ちが伝わってくる。
廓にいた頃、孝は姉が新撰組の局長に身請けされたことを風の噂で聞いた。きっと好き好んで請け出されたわけではなく、金を積まれて仕方なく引き受けたのだろう…そう自分を慰めながら、姉に失望さえしたのだ。
けれどそうではなく、姉が自らの意思で近藤に身請けされたのだとようやく知った。
(それをまだ受け入れてへんけど…)
廓にいるよりは良かったと思うことができたのだ。
そんなことを考えながら、孝は古着屋の暖簾をくぐった。店に客はなく、音を聞きつけた年老いた主人が顔を出す。孝のような若い女子がやってくることが珍しかったのか、最初は怪訝な顔をしていたが持ってきた着物を広げると目を見張った。
「これはええ品や」
赤と金と銀、あちこちに刺繍が施された振袖は一度も袖を通していない新品のものだ。主人は
「五両でどうや?」
と言ってきたが、金に困っていたわけではないので孝はそれで承諾した。
主人が金を取りに行くために店の奥に下がると同時に、入り口の扉が開いた。若い男が二人連れだってやってきたようだ。
古着を売りにやってきた孝とは違って彼らは古着を見るためにやってきたらしい。しばらく雑談を交わしながら品定めをしていたが、
「それにしても河合さん、どうなるんだろうな」
と片方の男が神妙な顔持ちで問いかけた。河合…という聞き覚えのある名前に孝はピクリと反応する。するともう一人の男が答えた。
「隊の金を使い込んだって言うなら仕方ねえよ。切腹だろう」
「お前は案外冷たいな」
「なんだ、お前は金を借りていたのか?」
「…まあ、何度かな」
男は言いづらそうに頭を掻きながらも、「もちろん返したぜ」と付け足して続けた。
「…ここだけの話、局長だって女遊びに随分金を使っているじゃないか。別宅に姉妹で囲ってさ」
その言葉に孝はハッとした。彼らが新撰組の隊士だと気がついたのだ。孝は出来るだけ表情に出さず、彼らの会話に耳をそばだてた。
「二人とも大坂の新町で評判の芸妓だったんだろう?…一体、いくら隊費を使ったんだ?」
「土方副長も身内には甘いからな」
「そうなんだよ!」
最初は声を潜めていた二人の会話は、その憤懣とともに次第に大きな声になっていく。
(好き好んで身請けされたわけやない…!)
孝は歯向いたくなる気持ちを抑えるので精一杯だった。けれど隊士たちの会話は続く。
「それなのに隊士たちは法度だなんだって口うるさく言われる。…羽目を外して遊びたいってのは道理だろ?河合さんは古参隊士だけど、そういう隊士たちの心情に理解にある人なんだよ」
「じゃあ、お前も藤堂先生に協力したのか?」
「もちろん」
お喋りな男は、「けど」と顔を伏せた。
「明日までに金が届かなかったら今度こそ切腹だ。局長が女遊びに大金を使っているくせに、河合さんはたかだか一回のことでさ…そんなことになったらやりきれねぇよな…」
男は不安そうに視線を落としため息をつく…その顔に既視感があった。先日、別宅を訪れた嗣井という隊士も同じように落胆した表情を浮かべていたのだ。
「お嬢さん」
「え…っ」
孝が二人の会話に耳を傾けている間に古着屋の主人は戻ってきていた。約束の五両を受け取ると孝はそそくさと店を出た。
外の冷たい風に晒されて、最初は腹立たしいだけだった彼らの会話が、次第に別のものに変わる。
(切腹って…)
勘定方を務める河合は金の不明を問われ、切腹になるかもしれないという。それがどうやら隊士のなかで反感を買い、直接的ではないにせよ深雪や自分の身請けにも関係している…。
「おや、奇遇ですね」
「!」
古着屋の前で考え込んでいると、突然背後から声をかけられた。振り向くと一人の青年が微笑んでいた。
「どうしたんですか、御幸…じゃなかった、お孝さん」
「…」
「あれ?また忘れられちゃいましたか?」
調子良く話しかけてきたのは、伊庭だった。孝は
「…こんにちは」
無愛想に返答して歩き出す。すると伊庭は不機嫌を丸出しにした孝を構うことなく後をついてきた。
「別宅に戻られるのですか?お送りしますよ」
「お構いなく」
「お孝さんのような可愛らしい方が供を連れず歩いていたら目立ってしまって、何が起こるかわかりませんよ」
「…」
彼は穏やかな口調だが、孝は押しの強さを感じたので仕方なく受け入れることにした。
伊庭は孝のことを『目立つ』と言ったが、彼自身の容姿もまた他とは抜きん出て整っているため、通り過ぎる女子の視線を集めている。
だが彼はサラサラ興味がないと言わんばかりにその視線を交わしている。血気盛んな年頃だろうが、落ち着いて見えた。
伊庭は切り出した。
「一度、ちゃんとお話をしたかったんです。お孝さん、本当は俺と廓で会ったこと、覚えていますよね?」
「…」
やはりそのことかと孝は内心ため息をつく。
伊庭と再会したのは、孝が身請けされて別宅にやってきた時だ。彼の目立つ容姿を一目見てあの時の客だと思い出した。知らないふりをしたのは、すでにここは座敷ではなく愛想を振りまく必要がないと思ったからだ。
何も答えないでいると、伊庭は続けた。
「あれはお姉さんが近藤局長に身請けされた頃でしたよね。あなたは熱心に新撰組のことを尋ねてきた…何か目的があったのですか?」
「目的…なんて、そんなの…」
孝は口籠る。姉が身請けされたのだから興味を持つのは当然だ…と単純には考えてくれなかったようだ。
「お孝さん、俺は新撰組の人間ではありませんが彼らとは長い付き合いがあって、他人事だとは思えないんです」
「…せやから?」
「単刀直入に言うと、目的があって彼らに近づいたのではないかと、勘繰っているんですよ」
「!」
彼の穏やかな笑みが、一瞬にして別のものに変わった。朝日のように眩しかった光が、夕闇のように怪しく鈍く光るように。
孝は足が竦み、立ち止まった。
「…間者やないかって、うたがってるってこと?」
「さあ…さすがに土方さんが何を考えているのかはわかりませんが、言わずと知れた『鬼副長』ですからね」
「…」
軽口のように言った伊庭の表情はいまだに冷めている。
孝は、佐幕や倒幕などと叫ばれる世情のなかで『間者』として情報を得た芸妓が捕縛されたり殺されているのを知っている。
無愛想に接していたことを自覚はしていたが、まさかそんな疑いをかけられているとは思わず、ぞっと背筋に冷たいものを感じた。震える唇を堪えながら、孝は話し始めた。
「…伊庭先生。うちは間者やない…先生に新撰組のことをお尋ねしたのは…お姉ちゃんが身請けされたのは、絶対にお母ちゃんのことに関係があるって…思うたから…」
「母上…ですか?」
伊庭は唖然とした顔を浮かべた。間者ではないかと疑っていた孝が、まさかそんなことを言い出すとは思っていなかったのだろう。
だが孝にとってはずっと抱え込んでいたものだった。
「うちが生まれてすぐ、お母ちゃんはお姉ちゃんとうちを残して廓を出た。うちは面影さえ覚えてへんけど…でもお姉ちゃんはずっとそれにこだわって…お姉ちゃんが別の置屋に移る時、約束したんや」
『絶対に…お母ちゃんを探し出すから』
深雪に言われるがままに指切りをした。姉とはいえ幼い深雪の目には大きな決意と意思があったのを幼心に覚えている。
「…お姉ちゃんが新撰組なんかの身請けに応じたのは、きっとお金を積まれただけやのうて、お母ちゃんのことがあるからやって…そう思うてた。せやから、新撰組のことを知ってはる伊庭先生に不躾にお尋ねして…すんまへん」
孝が素直に深く頭を下げると、伊庭は「困ったな」と苦笑した。
「どうやら俺の勘違いだったようですね。大ごとにしてしまったことを怒られないと良いんですけど」
凍りついた雰囲気が解かれ、伊庭は恥ずかしそうに「こちらこそすみません」苦笑した。
孝は首を傾げた。
「…信じてくれはるのですか?」
「もしあなたが本当に間者だったなら、あなたの敬愛する姉上に危害が及びますからね。疑ってはいましたが、同じくらい他に何か理由があるのだろうと考えていました」
「…」
伊庭は微笑む。コロコロと変わる表情に翻弄されてしまったようで、孝はむっと口を尖らせ歩き始めた。
「それでお母上は見つかったのですか?」
「…いいえ。お姉ちゃんも探す気があらへんし…」
念願叶って二人とも身請けを果たしたが、深雪から母のことについて口にすることはない。大事にしていた形見の簪さえ近藤に渡してしまっている始末だ。
孝は深いため息をついた。
「あの…うちからも、お尋ねしたいことがございます」
「何でしょう、わかることでしたら」
「河合様…とおっしゃる勘定方の隊士様の件です。いま新撰組で詮議を受けていらっしゃるとか…」
「…」
伊庭は沈黙したが、その表情を崩さなかった。
「…さあ、俺は部外者ですから詳しいことは何もわかりません。ただあなたや深雪さんのお耳に入っていないことなら、あなた方が知る必要がないことだと言うことでしょうね」
「…」
伊庭の言う通り新撰組内部のことなど知り得ないことなのかもしれない。けれどどこか達観し俯瞰したような物言いは、本当は何かを知っていて誤魔化すようにも聞こえる。
(やっぱり…このひと、嫌いや)
孝はそう思って、早足で別宅へ向かったのだった。





484


夜が更ける頃、藤堂が身を置く物置部屋へ訪問者があった。
「内海さん?」
「ここは寒いですね」
手元に一本の蝋燭を携えて、内海がやってきた。現在は副長助勤
座にある藤堂の方が立場が上だが、もともと伊東道場で知り合った時には彼の方が先に入門していたので兄弟子にあたるため、つい癖で居住まいを正した。
「どうして…ここへ…」
藤堂は謹慎を言いつけられ、三番隊の隊士が見張りをしているはずで、誰も立ち入ることはできない。すると内海は「ああ」と薄く笑った。
「今宵の見張りは、伊東先生の講義を熱心に受講してくれている隊士でしたからね」
「…そう、ですか…」
彼は遠回りな言い方をしたが、伊東派として懇意にしている隊士に融通を利かせたのだろう…土方や斉藤が知ったら問題になりそうなことだが、今の藤堂にはそこまで気を配る余裕はなかった。
「あの…河合さんは?金は届いたのですか?」
「残念ながら、状況は変わりません。副長は今日を含めて二日の猶予を出されましたが、明日までに届くかどうか…」
「…」
あの激しいやり取りの後、土方が猶予を与え温情をかけたことには安堵したが、しかしまだ金は届いていないのだから状況は変わらない。
「…土方さんはどうするつもりなんだろう…」
藤堂はため息とともに、不安と困惑が溢れた。
謹慎を言いつけられ、斉藤にこの部屋に投げ入れられてから半日以上が経ち、部屋の寒さのおかげもあって頭は冷静になっていた。確かに山南の一件と今回のことを重ねて、『どうにか自分が助けたい』と必要以上に必死になっている自分がいた。土方に指摘され苛立ったのは図星だったからだ。
だが、例えどんな理由があったとしても自分の起こした行動を悔やむことはなかった。
「…彼は法度に背くようなことはしていません。隊士たちに同情して金を貸していただけで…俺は間違っていません」
藤堂は素直な気持ちを吐露した。
揺るぎないこの想いは己の中にある正義だ。誰に何を言われても、寒くて暗い部屋に閉じ込められてもその思いは決して消えることはない。間違っていない。
たとえ誰も、肯定してくれなかったとしてもーーー。
「伊東先生がこちらにいらしたら、同じことをされていたでしょう」
「…!」
内海の抑揚のない声が藤堂の鼓膜を揺らす。弱りかけた心が跳ね上がった。
「本当にそう…思いますか?」
藤堂は思わずもう一度問うた。
独りよがりな正義を肯定されたい…そんな藤堂の心を見透かしていたように受け入れるかのように彼はゆっくりと頷いた。
「勿論です。伊東先生は情に厚い方です。きっとこの場にいらっしゃったら藤堂先生の思いに賛同して行動されていたでしょう」
「…そう…そうですよね…」
内海の答えに藤堂の心が踊った。
「それを思うと、この場にいらっしゃらないことが悔やまれます。河合さんの命運も変わったでしょうに」
「…本当に、その通りです」
かつて伊東と山南は同門として親交を深めていた。知識に長けた二人の会話に藤堂はとてもついていけなかったが、二人は同じ志を持っているようにみえた。伊東が新撰組に加入したのも藤堂の勧誘の先に、知識人の山南の存在があったからこそだ。
(ああ…きっとそうだ…)
山南の残した志を継いでくれるのは、人としての優しさを持つ伊東に違いない。この暗闇のなかでポッと光る蝋燭のように、穏やかに優しく隊士一人一人に寄り添ってくれるだろう。
あの人は人の心を持っている。
「内海さん…ありがとうございます!」
「感謝されるようなことを私は何もしていませんよ」
「いえ…そんなことはありません!」
藤堂は思わず内海に握手を求めた。まるで伊東がそうするように。
内海はそれに微笑んで応えた。


同じ頃、総司は土方とともに別宅から屯所へと戻った。別宅で朝を迎えても支障はなかったが、河合と藤堂を謹慎させている今、うかうかと屯所を離れる気持ちにはなれなかった。
「状況はどうだ?」
土方は河合の謹慎を見張っていた島田を呼び出して、尋ねる。彼は硬い表情だった。
「はっ…金は相変わらず届いておりません」
「そうですか…」
その報告に総司はため息をついた。屯所の雰囲気から事態が好転していないことはわかっていたが、明日までに届かなければ本当に彼を処刑することになってしまうのだ。気が重いのは当然だった。
すると島田は
「ただ…その…」
と言い淀む。土方が「なんだ?」促すと彼は戸惑いながら続けた。
「河合の様子が…少し、変わりました」
「どんな様子だ?」
「…ブツブツと何かを呟いています
。経を唱えたり、譫言のようにわけのわからないことを口にして…正直、気味が悪く気が狂ったのかと言い出す隊士もいます」
「…」
部屋に軟禁されて四日目。食事も睡眠もろくに取らず暗闇の中で追い詰められているのだ。当然といえば当然のことだが、それでも土方は温情をかけたりはしない。
「そうか」
と一言口にしただけでそれ以上は言わなかった。
そのあと島田が出て行くのと入れ替わるように斉藤がやってきた。土方は前置きなしに、
「それで、わかったのか?」
と声をかけた。総司は何のことを言っているのかわからなかったが、斉藤は理解しているようで腰を下ろしながら頷いた。
「目星はつきました。ただ筆跡が似ているだけで証拠はありませんから、本人が名乗り出るかはわかりませんが」
「本人には何も言っていないだろうな?」
「はい」
「…もしかして、八十両を盗んだ人がわかったんですか?」
いくら鈍感であっても二人の会話から自然に察することができる。総司が尋ねると、土方は腕を組み直した。
「お前が聞いてきた飛脚の件以外は証拠はない。ただ八十両という金額は帳簿でぽっかりと穴のように空いている。河合が何も語らないのはそれをわかっていたからだろう」
「だったらその人を処罰して、河合さんは無罪放免で良いんじゃないですか?」
罰せられるべき者が罰せられる…それで藤堂も納得し、全てが良い方向に向かう…総司は安易にそう思ったのだが、
「言っただろう、証拠がないんだ。だからその者が自分の罪を認めるしかない」
「…」
土方の淡々とした答えに総司は戸惑った。しかし一方で斉藤は顔色ひとつ変えなかった。『似ている』と言うと嫌がる二人だが、土方の考えていることを斉藤はよく理解しているのだろう。
「…席を外しますね」
きっと自分には聞かせたくない話があるに違いない、と思い総司は腰を上げてそのまま部屋を出た。
夜半、いつもは聞こえてくる豪快な鼾が今日は息を潜めているかのように静かな夜だった。別宅で月が綺麗だと見上げていたのがまるで嘘のように、屯所の雰囲気は緊張感に包まれて殺伐としている。
だが、それも明日には終わるーーーどんな結果になったとしても、終わりはやってくる。
「河合さん!落ち着いてください!」
そんな静かな闇の中に悲鳴のような山野の声が響いた。総司がそちらへと駆け出すと、河合が謹慎を言いつけられている部屋の前で二人掛かりで河合を押し込もうとする島田と山野の姿があった。
「中に入ってください!」
「河合!」
二人は必死に彼を部屋に戻そうとするが、河合は青白い顔のまま
「飛脚の音が聞こえたんだ…!」
と声を上げた。
月明かりだけの夜でもわかる目元のクマ。張りつめた緊張のせいで浮き出た血管。生気のない真っ白な顔…しかし目だけがギョロリと何もない場所を見ている。真面目で健康的だった河合の姿はそこにはなく、この世のものとは思えない底抜けの『恐ろしさ』をぞくりと感じた。
「飛脚は届いてない!」
「確かめてくれ、確かめてくれよ!」
「届いたらすぐにお知らせしますから!」
島田と山野の言葉に、瞠目していた彼の目が次第にその光を失って行った。力なくその場に倒れ込み、
「来てない…のか…来ていない…来てない…」
と絶望する。
彼は何度それを繰り返したのだろう。真っ暗な闇に幻聴や幻覚を見て、希望と絶望の間を何度行き来したのだろう。
島田が正気を失った河合を抱えるようにして部屋に戻す。すると残った山野がようやく総司に気がついた。
「沖田先生…」
「…ずっとああいう感じなのですか?」
「はい…この四日間、一睡もされていないので、少し疲れていらっしゃるのではないでしょうか…」
山野は気遣いながら答えた。以前彼自身はこの件について否定的だったが、彼が弱っている姿を目の当たりにして流石に同情し始めているのだろう。
「明日は…一体どんな日になるのでしょうか」
「…」
山野の言葉に、総司は上手く答えを見つけることはできなかった。『きっと大丈夫だ』とそう言ってしまうのは今の状況では絵空事で寒々しい気がしたのだ。
ただ夜空を見上げた。星のない闇を悠然と照らす満月にかすかな光さえ遮る雲がかかった。







485


螺旋に伸びた階段を、一歩ずつ下っていく。それは足先、足首、膝…体がどんどん黒い闇に浸っていくかのように重い。昨日までは川に引きずられていくという恐怖を感じていたが、いまは無意識に自らそのなかに足を踏み入れていく。
時折聞こえる飛脚の幻聴…けれどそれは幻でしかなく、いくら探してもその姿はどこにもなかった。
(…誰か、早く背中を押してくれ)
絶望をするなら一度でいい。そして二度と光の差し込まない最奥へと押し込んでほしい。
そう思うのは、弱さなのだろうかーーー。



総司は目を覚ました。
同じ部屋で寝起きしている一番隊の隊士たちはまだ眠っている。
普段から目覚めの良い総司だが、今日は特に冴えていてまるで昨晩と朝が一瞬で通り過ぎてしまったように感じた。
(疲れてるな…)
自分の身体のことは自分が一番わかっている。浅い眠りだったせいか昨晩の倦怠感が未だに残っていたのだ。
薄暗闇の中、目を閉じる。
『飛脚の音が聞こえたんだ…!』
河合の悲鳴が脳裏を過る。普段は大人しく勤勉に働く彼が、我を忘れて狂ったように叫ぶ姿は衝撃的な光景だった。それくらい追い詰められているのだろう。
「…」
総司は音を立てないようにゆっくりと寝床を抜け出して、部屋の外に出た。ひっそりと静まった屯所には霧が立ち込めていた。
「…はぁ…」
総司はその白い霧に紛れるように腰を下ろしながらため息をついた。
今日はついに与えられた猶予の最終日になる。藤堂に免じて土方は二日の猶予を与えたが、これ以上延ばすことはないだろう。
静まった朝に飛脚の訪れる気配はない。それがどうしようもない倦怠感を加速させる。
するとギシィと床板が軋む音が聞こえた。
「早起きだな」
「…おはようございます。斉藤さんこそ、早起きですね」
斉藤は少し不機嫌そうな表情をしていた。
「早く起きたわけじゃない。藤堂さんの見張りで寝ていないだけだ」
「ああ…ご苦労様です」
謹慎を言いつけられた藤堂の見張りは三番隊が勤めている。
「藤堂くんの様子はどうですか?」
「落ち着いているようだ」
「そうですか…」
土方に噛み付くように藤堂は怒りを露わにしていたが、流石に時間が経って彼も冷静になったのだろう。
斉藤は総司の隣に腰掛けた。
「斉藤さんは…誰がお金を盗んだのか、知っているんですよね?」
「副長も言っていたが…目星がついたというだけで証拠はない。本人が名乗り出る以外は断定できない」
「…斉藤さんは一体誰を処罰すべきだと思っているのですか?」
「誰…とは?」
斉藤は何を言い出すのかと言わんばかりの表情だったが、総司は続けた。
「お金を盗んだ犯人なのか、それを敢えて見過ごす河合さんなのか…それとも金を借りた全ての隊士ですか?」
本当はその問いを投げかけるべきは土方だと思っていた。けれどきっとその答えを土方は教えてくれないだろう。結果が全てだと言わんばかりに。
だから考え方の似ている斉藤に尋ねてみたくなったのだ。
「斉藤さんは最初、藤堂くんに河合さんを救うために別の…本当の犯人を見つければ良いと言っていましたよね。昨日も河合さんにも自白させようとしていた…でも、今のままでは河合さんが処罰されてしまいます」
「ああ…そうだろうな」
「たとえ証拠がなくても…本当の犯人を告発すべきではないのですか?それがもともとの斉藤さんの考えではなかったのですか?」
「…」
藤堂が金集めの協力を仰いだ時にそのやり方は間違っていると拒んだのが斉藤だった。だから例え確証がなかったとしても処罰されるべき者を処罰するのを良しとしていたはずだ。
総司が問い詰めると彼は黙った。白く漂う霧へ視線を送り、考え込んだ後に言葉を吐いた。
「…最初はそのつもりだった。八十両を横領した者自身がその咎を負うべきだと。…だが、河合の様子を見て考えが変わった」
「変わった?」
「これだけ追い詰められても、河合はその者を庇い、告発しようとはしない。自分の命がかかっていたら普通は白状するだろう」
「…そうですね。河合さんは憔悴しているようでしたから…」
「逆に言えば、河合にはそれだけ強い覚悟があるのだろう。自分が告発者になりたくないのか、もしくは…その者に自ら名乗り出て欲しいと思っているのか…」
斉藤は深く長く息を吐いた。
「どれだけ気が狂っていても河合は犯人を密告するよりも、ただ飛脚を待つことを選んだ。本人がそれを選んだ以上、それを尊重すべきだと今は思っている」
「そうですか…」
斉藤の言う通り、河合は最初から犯人探しなど求めず、ただ自分が悪いの一点張りで誰かを貶めようとはしなかった。追い詰められる状況に至ってもそれが変わらないのは、それが彼の意思だと言うことだ。
「あんたはどう考えているんだ?」
「…私は…」
鸚鵡返しに尋ねられて、総司も同じように考え込んだ。
『ただ、私は土方さんのことが心配なんです』
伊庭の前で漏らしてしまった本音。けれどそれはあくまで部外者で事情を知らない伊庭の前だから言えたことで、斉藤に伝えるのは間違っている気がした。
「私は、ただ飛脚が届けば良いなって思っているだけですよ」
そうすれば、土方は河合を許すことができる。河合を庇う藤堂や隊士たちから責められることなく収めることができる。
「…そうだな」
斉藤は微笑していた。彼は冷たく突き放しているように見えても、争いを好むわけではないのだ。


朝靄が去り、陽が昇った。
期限は日が暮れるまでとしているため、この太陽が沈む頃にはすべての結果が出ているだろう。
そんな緊迫感に包まれたなか、伊庭が来訪した。客間に招き応対したのは総司だったが、
「土方さんをお呼びしましょうか?」
と尋ねる。わざわざ屯所にやってきたのは重要な話があったのだろ
思ったのだが、彼は「いえいえ」と首を横に振った。
「なんだかお忙しいようですから。それにできれば俺から直接じゃなくて、沖田さんから伝えて欲しいので」
伊庭は普段と変わりなく調子良く笑っている。屯所の中にはギクシャクとした雰囲気が漂っているため、彼の朗らかさに総司もどこか安堵してしまった。
「お孝さんのことなんですけど…すみません、俺の早とちりだったようです」
「早とちり?」
「昨日、偶然お孝さんにお会いして色々と伺ったんです。身請け前に俺に根掘り葉掘り新撰組のことについて聞いてきた理由を」
「一体どんな理由だったんですか?」
一時は彼女が間者ではないのかと疑っていたのだ。総司が固唾を飲んで尋ねると、伊庭は笑った。
「理由は彼女たちの母親でした」
「…は?」
「二人は幼い頃に生き別れた母親を探しているそうです。だからお孝さんは、深雪さんが身請けに応じたのは新撰組が母親の状況を知っていたからではないか、と考えていたそうなんです。それで俺に色々と尋ねたのだと」
「そ…そうですか」
真実は総司にとって少し拍子抜けするものだった。伊庭も同じだったようで「すみません」と笑っていた。
「こんなことを土方さんに直接報告したら『大げさにしやがって』って怒られるじゃないですか。だから沖田さんから伝えて欲しいんですよ」
お願いします、と伊庭は両手で拝むように頭を下げた。確かに彼に言う通り土方は不機嫌になるかもしれないが、懸念事項が一つ消えたので、内心安堵することだろう。
総司は「わかりました」と受け取った。
「でも、今まで深雪さんから母親のことなんて聞いたことがありませんでした。だからきっと近藤先生や土方さんも特にそんな情報を得ているわけではないと思うのですが…」
「ええ。お孝さんもこちらに来てから深雪さんが母親のことについて口にすることない、探す気がないようだと不思議がっていました。だから単純に近藤先生と惚れ合って身請けに応じたのだと考えたいですが…真実は深雪さんのみ知ることですね」
「…そうですか」
傍目には深雪は近藤に誠心誠意尽くしているように見える。妹の孝のこともそうだが、心配をかけまいと母親のことを口にしなかったのかもしれない。
伊庭は茶を口に含みながら続けた。
「もうしばらくこちらに滞在しようと思います。罪滅ぼしじゃないですけどその母親のことも調べてみようと思いますし、何より沖田さんとの稽古はとても楽しいですからね」
「そう言ってもらえると有り難いですけど」
会話が和やかになったところで、部屋の外からワッと数名の騒がしい声が聞こえてきた。何を言っているのかはよく聞こえなかったが、おそらく河合の部屋から聞こえてくるのだろう。彼が『飛脚の音が聞こえた』と叫びそれを押しとどめるというやり取りが、昨晩から幾度ととなく繰り返されている。
「…すみません、騒がしくて」
総司が謝ると、伊庭は「いいえ」と微笑みながら茶を置いた。
「なんとなく事情は理解しています」
「え?」
「はは…本当に秘匿したいのなら、隊士たちに屯所の外でのおしゃべりも禁止だと伝えなくちゃいけませんよ…ってこれもついでに土方さんに言っておいてください」
伊庭が苦笑したので、総司は「伝えておきます」と答えるしかなかった。
「お孝さんも町で新撰組がいま揉めているということを聞いたそうです。俺はシラを切りましたが…彼女たちの身請けの金が問題になっているのだとしたら、あまり耳に入れたら良くないでしょう」
「そう…ですね。そこまで気が回っていませんでした。すみません」
「俺に謝ることではありませんよ」
遠くで聞こえていた騒がしい声が、またひっそりと聞こえなくなる。何度も何度も絶望へと叩き落される河合のことを考えると気が滅入ってしまう。
「…ここは、箱庭のように狭いですね」
伊庭がふっと呟いて、続けた。
「傍からみているととても美しいけれど、美しくあり続けるというのはとても大変です。たとえ小さな場所であっても綻びが生まれて、いつまでも誰もが仲良くできるわけじゃない」
「…」
「組織を続けていくには、誰かが悪者にならなければならない。不満や怒りの矛先があるというだけで人は安心し、団結しますから」
「それが、土方さんの役目だと…?」
「少なくとも土方さんはそれを自覚してやっていると思います。…だって、あの人本当はもっと奔放で、いつだって規律からはみ出しているような人だったじゃないですか」
伊庭は試衛館の頃を思い出したのか、はははっと思い出し笑いをし始めたので、総司も少しだけ気分が楽になった。
ひとしきり笑った後に、伊庭は続けた。
「まあ…だから、前にも言いましたけど、いくら悪人になっても沖田さんだけは味方にいるなら、きっとあの人は大丈夫ですよ」
「…はい」
いつだって未来は不確かで、時々その先を知ってしまうのが怖く感じることもある。
けれど自分の中に確かなものがあれば揺らぐことはないはずだ。
たとえ何が起こっても。





486


その日は藤堂にとって、とても長く感じる一日になった。
三番隊の隊士らしき者が部屋の前で待機するなか、藤堂が得られる情報はなく、ただ物置部屋に差し込んでくる陽の傾きだけが時間を教えてくれていた。
(もう…陽が沈む…)
部屋の外に耳を澄ます。
喜びの声も悲しみの声も聞こえない。静まり返った屯所…きっとまだ飛脚の姿はないのだろう。
(みんな…どうしているのかな)
じわじわと仲間死が迫っている。彼に金を借りていた隊士は心を痛めていることだろう。そうでなくても古参隊士の河合はその働きを認められていたのだ、彼の命を助けたいと思う者はたくさんいるはずだ。
そして河合自身はーーー。
「ああ…」
ここにいるしかない自分は、なんて無力なのだろう。
法度によって、いくつもの悲しみが生まれてきたと言うのに、けれど法度という戒めがないと新撰組はその姿を為さないというジレンマ。
(いつまで、いつまで…続くのだろう)
藤堂は迷いを抱えたまま、日没を迎えた。


遠くの山に陽が沈む。反対の方向に薄っすらと月の影が見えて昼と夜の間となった。
総司は斉藤とともに呼び出され、土方の元へ向かった。部屋にいるだろうと思っていたが、彼は部屋の前で柱に寄りかかるようにして立ち、空を見上げていた。いつからそうしていたのかはわからない。
「時間だな」
「…」
とうとう飛脚はやって来なかった。
八十両の補填は叶わず、すべてが河合の失策となった…それが答えになってしまった。
総司は土方の前に立ち、まっすぐ彼の目を見て尋ねた。
「…土方さん、本当にこれで良いんですか…?」
なんの迷いもなく、なんの躊躇いもなく出した結論なのか。そして後悔はしないのか…総司が問いかけると、土方は少し笑った。
「…良いわけねぇだろ、バカ」
「…」
「優秀な隊士を一人、失うことになる。勘定方としてそれなりに信頼を置いていたんだ。八十両が届いて助かるものなら、助かったほうがいい」
そう言って「でもな」と続けた。
「もう今更、後戻りなんてできねぇんだ」
「…っ」
悲しく放たれた言葉。総司はその土方の言葉にすべてが集約されている気がした。
金の不明は勘定方である河合の責任であり、それを見過ごすことはできなかった。唯一彼が助かるための条件さえ、クリアすることができなかった今、すべてを撤回して彼を許すことはできないのだ。
後戻りはできないーーーいつだって、そうだ。
「念のため、申し上げます」
総司の後ろで黙っていた斉藤が口を開いた。
「隊士の半分以上が河合に恩義を感じています。河合を処罰すれば局長がいない今、反感はすべて副長に向かうことになる。…それでも、本当に良いのですか?」
「…斉藤、お前も変なことを言う。そんなことは今更だ。嫌われ者の『鬼副長』がさらに嫌われたところで何になるって言うんだ」
何も変わらない。法度に則って普段通りの判断をするだけだ…そう言わんばかりに土方は鼻で笑う。総司はそんな彼の腕を掴んだ。
「…わかりました。私は土方さんの判断に従います。ただ…一つだけ言わせてください」
「なんだ?」
「土方さんがそれで良いって言っても…私は、誰にも土方さんを否定されたくありません。私がそう思っていると言うことを忘れないでください」
彼と同じ荊の道を歩くことができなかったとしても、すぐそばの道を歩いているはずだと信じている。どんなに孤独になろうとも、自分だけは味方になれる。
「ああ…わかった」
土方は掴んでいた総司の手を握り
ゆっくりと離した。そして「行こう」と言って歩き出した。

見張りの任を解き、河合が謹慎している部屋には土方と総司、斉藤以外の姿は無くなった。
彼は俯いていた。生真面目で几帳面な彼は身だしなみを乱すようなことは一度としてなかったが、いまは髪を結い上げることさえままならず落ち武者のような姿になってその場に座り込んでいた。
「河合」
「…」
彼はなんの反応も示さない。
斉藤が部屋の蝋燭に火を灯しようやくその表情を伺うことができた。
彼の目はどこも見ていなかった。焦点の合わない右目と左目が遥か虚空を見つめるように上の空だった。血の通わない正気を失った顔、恐怖や慟哭といった表情さえ失い口は半開きのままで、彼が本当にあの河合なのかと疑うほどその輪郭を失っていた。
そんな河合へ土方は淡々と告げた。
「河合、時間だ」
「…」
「飛脚は間に合わなかったようだな」
土方の挑発に、河合はゆっくりとその顔を上げた。焦点の合わない血走った瞳が土方を見る。
「…間に合わ、…なかった…?」
「そうだ」
「河合さん、残念ながら八十両は届いていません」
「は…はは…」
半開きの口から乾いた笑い声が漏れる。
「いつも…手紙が届いたら、すぐに親父は送ってくれるんですよ…。家を出てもお前が店を継ぐんだってうるさくて…だから、と、届かないなんて無いんだ…」
「それが現実だ」
「本当は、届いているんじゃないですか…?」
「…」
「そ、そうだ、俺を陥れるために、ほ、本当は届いているのに隠しているんでしょう!そうだ、そうに違いないんだ…っ!」
河合は火がついたように叫ぶが、その声は虚しく部屋に響くだけだった。
土方は少しため息をつきながら、河合の前に膝をついた。そして興奮気味の河合に重々しく告げた。
「…八十両の不明。約束通り、これはお前の失態とする」
「そ、そんな…」
「切腹だ」
土方がそう言った途端、河合の表情が停止した。
「せ…切腹…せっぷ…切腹…」
河合は何度か切腹という言葉を口にしながら、ゆっくりと前のめりにうな垂れた。
(河合さん…)
総司は小刻みに震え、愕然と背中を丸める河合へ素直に同情した。この五日間、彼がどれだけ苦しみ、狂い、絶望し…そして最後には最悪の結果を押し付けられたのだ。
部屋に重たい沈黙が流れ、隙間風が蝋燭を揺らした。ほんの少しの時間だというのに果てしなく長く感じた。
「副長…」
そう呼んだ声が誰のものか、総司には最初は分からなかった。だが土方は「なんだ」と河合に返答する。それまでと打って変わって澄み切った明瞭な声…それは河合のものだった。
「俺は商家の出です。切腹の作法など知りません」
「真似事くらいできるだろう」
「真似事…」
顔を上げた河合は、まるで別人のような顔をしていた。血走った眼
そのままだが、その口元は笑みを浮かべていた。
「…そうですね。新撰組は全部、真似事で絵空事ですから」
「なんだと…?」
「…河合さん?」
人が変わってしまったかのように、吃ることなく河合は話を続けた。
「俺は昔から勘定方として隅から新撰組を見てきました。芹沢先生は何だかんだと乱暴者でしたが、それでも一本の筋みたいなものは感じられた。あの粗雑な背中に武士とはこうあるものかと矮小な俺は憧れたものです。でもあなた方は芹沢先生を殺した」
「…芹沢局長は長州の浪士に暗殺された」
「別にもうすぐ死ぬ者に隠す必要などないでしょう。あの世に行けば本当のことがわかるんですから」
ハッと鼻で笑って、河合は吐き捨てる。
「そして山南先生まで切腹に追い込んだ。同じ釜の飯を食べた仲間さえ…見捨てた。それだけじゃない、士道に背くまじきことという言葉一つで何人死んだのでしょうか」
河合の問いかけに、土方は顔を顰めた。
「…お前は何が言いたいんだ」
「俺は山南先生に教えられました。金は…毎日不逞浪士と死と向き合いながら隊士たちが汗水流して得た彼らの『命』そのものだと。でもその金をまるで我が物のように女に使い込む…そんな局長に、そして身内を贔屓して許すあなたに、辟易としているんですよ!」
河合は勘定方の筆頭として、様々な金の出し入れに直接関わってきた。そんな彼は抱き続けた『本音』を吐露しているのだ。
「文句ひとつ言えず酒を飲んで誤魔化し、給金が出る前に金を借りに来る哀れな隊士たち…八十両の不明が何でしょうか。俺は後悔なんてしていない…!」
河合が叫ぶ。狂気に満ちた目でギョロリと土方を睨みつけながら。
だが土方はそれでも態度を崩さず
「…言いたいことはそれだけか?」
とゆらりと立ち上がった。そして刀を抜き、ゆっくりと河合の前に突き出した。
「土方さん…」
土方の横顔から怒りと苛立ちが伝わってくる。総司がごくりと息を呑んだが、河合はせせら笑う。
「はは…別に俺は武士じゃないですからね。切腹を名誉な死だとも思いませんから、殺してくださって構いません」
「…てめぇのような士道不覚悟…新撰組にはいらねぇ」
「はは…士道不覚悟…」
切っ先を突きつけられながらも、河合は笑っていた。だがそれは常人のそれではない。
彼はもう狂っていた。
彼は疲れ果て、なにかを失っていた。
「士道だなんだって…そんなのは、武士じゃないから言えることだ。局長もあなたも、武士じゃないからそんな無責任に人を殺せ…」
突然、彼の言葉が途切れた。
土方が刀を一閃し、河合の首を刎ねていた。彼の骸から血飛沫が舞い、畳は真っ赤に染まっていく。この五日間の苦悩が嘘のように、彼はあっという間に物言わぬ死体になった。
「歳三さん…」
総司は何を言ったら良いのか分からず呆然と立ち尽くすが、隣に控えていた斉藤は立ち上がると、首のない河合の死体の腹に脇差で傷をつけた。そして用意していた短刀を河合の手に持たせる。
「…河合は突然、切腹を図り、副長が介錯した…これで宜しいでしょうか」
「ああ…そうだな…」
土方は懐紙で刀の血を拭いながら頷いた。死を偽装し、通常通り切腹したことにする。だが
(歳三さんが…私情で、斬った…)
その事実は揺らがない。
総司は呆然と立ち尽くす。土方は何も言わず、そのまま部屋を出ていってしまった。







487


河合の死については、すぐに隊士たちへと知らされた。
八十両が届かなかったこと。
金の紛失が河合の失策となったこと。
自らの意思で切腹を遂げたこと―――。
隊内には少しの動揺と、落胆のため息が溢れた。飛脚が届かなかったのは周知の事実であり、土方が下す処罰も予期されていたものであったが、それでもそれが現実になってしまった衝撃はなかなか消えることはなかった。

河合が死を遂げた夜。
「…そうですか」
内海からの報告を藤堂は努めて冷静に受けとめた。謹慎を言いつけられても、外の気配から飛脚が来ていないことはわかっていた。当初の三日からさらに二日の猶予を与えた土方が、これ以上待つわけがないとも頭では理解していた。
(でも…こんな結果はあんまりだ…!)
拳をぎゅっと握り、苛立ちと悲しみを堪えるので精一杯だった。
それに気がついた内海は、優しく励ますように声をかけた。
「こんな結果になってしまって残念ですが…彼自身が立派に切腹を遂げたのですから、それを粛々と受け入れることも大切でしょう」
「立派な切腹…」
「ええ。山南総長と同じく扇腹ではなく短刀で自身の腹を裂き、立派な切腹を遂げていました。介錯を務めた土方副長の切り口も鮮やかなもので、おそらく苦痛を感じる暇はなかったでしょう」
「…そう…ですか…」
助けたかった人を助けられず、その最期を聞くのは複雑な心境であったが、それでも苦しまない最期を迎えたというのなら、素直に良かったと思えるし、少しだけ安心できた。
藤堂は握りしめた拳の力をそっと抜いた。
「…内海さん、お願いがあるのですが」
「何でしょう」
「俺が隊士たちから掻き集めた五十両余り…皆に返してもらえませんか?」
「それは構いませんが…私ではなく、藤堂先生自身でお返しになられたら良いのでは?」
内海の問いかけに、藤堂は首を横に振った。
「俺は…もう少し頭を冷やしたいと思います。まだいろんなことに整理がつきません。でも、金の貸し借りは早めに返しておいたほうがいいですよね…」
「…良い心がけだと思います」
内海は微笑み「わかりました」と請負ってくれた。そして藤堂の肩に手を置き、
「ゆっくり休んでください」
と告げて出て行った。
藤堂は内海がいなくなったあとに、全身の力を抜いてその場に横になった。
一人きりの部屋で目を瞑ると様々な感情が渦巻く。
彼を助けられなかった情けなさ、彼を助けようとしなかった土方への怒り、泣く泣く死を選んだ河合への同情…。
どうすればよかったのだろう。
どうすればこんな結果にならなかったのだろう。
答えのない問いを繰り返す。
(だれか…答えを教えてください…)
心の中で弱音を吐いた時、一筋の涙が溢れた。

「どういうつもりですか」
藤堂の部屋を出た内海はすぐに鈴木と出会った。偶然ではなく、彼は待ち構えていたようだ。
「…どういうつもり…とは」
「藤堂組長は試衛館食客の一人です。いくら同門の間柄といっても油断して良い相手ではありません」
鈴木は硬い表情で攻撃的な言葉を投げかける。おそらく内海と藤堂のやり取りを盗み聞きしていたのだろう。内海は内心ため息をつきながら、彼を誘って境内の隅へと移動した。
「鈴木組長、誰かに聞かれたらどうするつもりですか」
「周囲に誰もいないことは確認していました。問題はありません」
「…」
鈴木が内海に対して反抗的なのはいつものことだが、今は兄である伊東が不在であるからこそ警戒心を露わにしているのだろう。
彼がどうして自分のことを嫌っているのかは何となく理解しているのだが、伊東の実弟であることを考えると無下に扱うことはできなかった。
「…藤堂先生のことですが、たしかに彼は試衛館食客の一人ではありますが、もともとは大蔵さんの門下生です。何も仲違いして道場を出たわけではありませんし、大蔵さんが新撰組に参加したことを彼は喜び、恩義に感じているはずです」
「そんなことはわかりません。いくら兄上に恩があったとはいえ、試衛館食客として今の地位を与えられている。いつ裏切るかわからない相手になぜ近づくのですか」
鈴木は内海へ厳しい目を向ける。だがそれだけではなく鈴木は兄に近づくあらゆる人間に疑心を持った目を向けるのだ。特に藤堂のように局長や副長に近い人物には、敵意を剥き出しにしてしまう。それをいつも兄の伊東は危うんでいることに、彼は気がついていない。
内海はため息をついた。今度は心に留めておくため息ではない。
「裏切られるのは何も私たちというわけではないでしょう」
「…どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味です。土方副長が強固な姿勢を貫けば貫くほど、隊士たちは縮み、抑圧され、少しずつ楽で優しい方向へ流れる。素直で優しくて正義感が熱い者ほど、打たれ弱い」
それが藤堂のことだとは口にしなかったが、流石に鈴木でも理解したようだ。だがその硬い表情は崩さない。
「…しかし危険すぎます」
「危険なことなど何もありません。私はかつての同門であった藤堂くんを励まし、きっと『伊東先生なら』という仮定の話をしただけです。罪に問えるようなことでもなければ、藤堂先生が疑心を抱くこともない。…外野が何も言わなければ」
「…」
内海は鈴木に釘を刺した。鈴木のように囃し立てる者がいなければ、疑心など生まれないのだ。
鈴木はぐっと唇を噛みながらも納得できたのか、「申し訳ありません」と頭を下げた。昔から直情型で兄以外になかなか周囲に目を向けにくい性格だったが、素直な分扱いやすいところもある。
(だからこそ、大蔵さんが遠ざけているのだが…)
本人も、そして兄である伊東もその事実に気がついていないのだ。



同じ夜。
総司は夜番だったため、隊士たちとともに巡察に向かった。
夜になって急に冷え込み、風も強く吹いていた。体は酷く冷えたがそんなことが気にならないほど気は漫ろになっていた。
河合の死はすぐに隊士たちに広まった。落胆と衝撃を与え、特に河合のために金を全額差し出した島田はしょっちゅう溜息を吐いている。気落ちしている隊士が多かったため今夜、浪士に鉢合わせせず無事に夜番を終えることができたのは幸運だっただろう。
「屯所に戻りましょう」
総司が声をかけて帰路につく。隊士たちは覇気のない様子で歩き出したが、足取りが一番重いのは総司だった。
河合の死を目の当たりにした。皆は斉藤が言っていた通り、『その場で切腹を図った』という嘘を信じているが、そうではないことを知っている。
(歳三さん…)
今から思うと、あの時すでに河合は精神を病んでいたのだろう。金が届くか届かないか、自分の力の及ばないところで命が左右される恐怖に五日間も苛まれ続け、飛脚の幻聴が聞こえ、金が届いていないのは自分を陥れるためだと訴えた。土方は河合の言葉を間に受けたわけではないだろうが、切腹を許さずに殺したのは、おそらくは彼の最後の言葉が琴線に触れたのだ。
『局長もあなたも、武士ではないから』
自分のことだけだったら聞き流せた言葉が、近藤を巻き込んだことで許せない言葉に変わった。あの瞬間に土方の目の色が変わったのだ。
(…でも、だからって…勢いで殺してしまったのは…)
私情で人を殺めるな。
それは総司が土方から何度も言われてきたことだ。だから敵であっても味方であっても、そこに総司自身の思いは関係なく仕事を務めてきたつもりだ。だが、土方はあの一瞬完全に河合に殺意を持ち、その気持ちのまま殺した。
それを仕方のないことだとは言えない。けれど避難することもできない。だから慰めて欲しいなんて土方は絶対に思っていないだろう。
(僕は…どうすればいいのだろう…)
迷いながら答えを探し、屯所にたどり着いた。すると門番の隊士が「あっ」と声を上げて、総司の方へ駆け寄ってきた。
「沖田先生、ご苦労様です」
「どうかしましたか?」
「いえ、その…飛脚が」
飛脚、という言葉に
「まさか金が届いたのですか?!」
と島田が食いついた。金が届いていたとしたら最悪のタイミングだが、門番の隊士は顔を歪めて首を横に振った。
「い、いいえ…。そうではありません」
彼は懐から手紙を取り出し、総司へと渡した。
「先程、早飛脚がやってきました。沖田先生宛てのお手紙です」
「手紙…」
総司は差出人の名前を見てハッと目を見開く。近藤内蔵助…近藤からの手紙だ。
「島田さん、後は任せます」
総司は島田に全てを任せると、その境内の奥まった人気のない場所に駆け込んだ。
数日前…河合の件で近藤に出した手紙。その返答が届いたのだ。
総司は震える手で手紙を開く。長い手紙には近藤らしい筆跡で色々なことが書かれていた。
廣島には無事に到着したということ、皆が息災でいるということ、山崎と再会したということ…そして。
「…あぁ…」
その言葉を見たときに、総司は声が漏れた。
『河合のことは許してやれ』
近藤はそう土方に伝えて欲しいと書いていた。
手紙を持つ総司の手が震えた。
この手紙が、どうしてあと半日早く届かなかったのだろう。土方が局長である近藤の意思を蔑ろにすることはない…つまりは土方は河合を許すことができ、河合も命を落とすことはなかったのだ。
総司はその場に座り込んだ。
自分の中に渦巻く名前のない感情が心を押しつぶしていく。
そしてただただ、涙が流れた―――。







488


「ごめんください」という声が聞こえて、孝は「はいはい」と台所仕事をひと段落させた玄関に向かった。
ここの所、冷え切ったせいで姉は再び寝込んでいる。咳き込む様子もあり、南部がその弟子たちがしきりに診察に足を運んでいた。
孝が出迎えると、そこには医者には似つかわしくない二本差し姿の男がいた。
「…えっと…」
どこか見覚えのある顔立ちに戸惑っていると、気弱そうな男は
「嗣井です」
と名乗った。先日代理で金を届けにきた勘定方の隊士だ。
「…何か?」
新撰組の隊士だとわかった途端、孝の態度が冷たくなる。しかし嗣井はそんなことも気にならないほど、青ざめて虚ろな目をしていた。
「あの…ご報告申し上げたいことがございます」
「報告?」
「…勘定方の河合が昨晩…切腹になりました。つきましては…今後は自分が金を届けさせていただくことになります」
「…」
彼は震える唇でそう告げたが、孝はすぐに理解が及ばなかった。けれど『河合』『切腹』という言葉は先日、古着屋で耳にしていた。
嗣井の動揺が、次第に孝にも伝わった。
「それ…は、お金のことで、責任を…?」
「ど、どうしてそれを…」
そう口走ったあとに嗣井はハッと口に手をあてた。口止めをされていたのだろう。
「聞かなかったことにしてください…失礼します!」
「あ…っ」
嗣井は強引に会話を振り切って、背中を向けて去っていった。
(嘘や…)
嗣井からすべてを聞かなくても、察することができる。河合という男は、金の失策を問われて切腹に追い込まれた。その原因は身請けの金…。孝にとっては直接関わったことのない男のことでも、死んでしまったという事実はじわじわと胸を苦しめた。
孝はふらふらと台所に戻った。
「お孝さま、どうされました?」
台所にはみねの姿があった。彼女は定期的に足を運んでくれて、深雪の看病や孝に料理の手ほどきをしてくれている。
目尻に皺の寄った年増の老婆に孝はどこか温かいものを感じていて、すぐに懐いた。それ故に胸の内を隠すことなどできなかった。
「あの…嗣井という隊士の方が…」
「…ああ、嗣井さま。河合せんせの代わりに時々様子を見にきてくださる方」
「そ、そう…やけど…」
「お孝さま?」
みねは手にしていた菜箸を置き、前掛けで手を拭きながら孝のそばにやってきた。
「嗣井さまがなにか?」
「…ご報告に…。河合ゆう人が、切腹で亡くなったって…」
「河合さまが…」
孝が嗣井から伝染するようにその動揺を受け取ったのとは違い、みねはハッと目を見開いただけで何かを堪えるようにグッと唇を噛んだだけだった。
もともと新撰組副長の別宅の世話をしているみねにとっては珍しい話ではないのかもしれない。孝はみねの胸に飛び込んだ。
「おみねさん…その河合って人、うちらのせいで亡くなったかもしれへん…!」
「…お孝さま、なんでそないなこと…」
「この間、町で耳にしました…。河合さまはお金の件で揉めはったって。もしかしたらうちらの身請け金のことがきっかけかもしれへん…!」
大坂にいた頃、人を殺しても平気な顔をしている鬼のように恐ろしい集団だと耳にしていた。身請けしてこちらにやってくるまで戦々恐々としていたが、実際に会う新撰組の隊士たちは噂とは違い、穏やかな人物が多いように感じていた。また深雪から聞く話も大坂で聞いていたものとは違っていた為、尾ひれがついた噂話だったのだと思い始めていた。
けれどたかだか金の行き違いで『切腹』を言いつけられる…安穏とした生活を送る孝にとっては衝撃的なことだった。
動揺を隠しきれない孝を「気をしっかり」とみねは励ました。そして続けた。
「…お孝さま、このことは絶対に深雪さまには話してはなりませぬ」
「せ、せやけど…」
「深雪さまが床に伏されているいま、そういうお話をお聞かせするわけには参りません。どうかお気をしっかり持ってくださいませ」
「…」
みねに背中をポンポン、と軽く叩かれて次第に心臓の高鳴りが収まっていった。
夕餉の支度をしていた鍋がしゅーしゅーと音を立てる。
平穏な日常だと思っていたこの日々が、いつの日か違うものになるのかもしれない。
孝はそんな予感がした。


河合の実家である播磨の米問屋から百両の金が届いたのは、彼が死んでから三日後のことだった。行き違いで河合が切腹を遂げた旨の知らせが家に届いたようで、すぐに父親が飛んできたのだ。
父親は商いで家を出ていた為、仕送りを頼む河合の手紙をすぐに受け取ることができなかったらしい。代わりに少し多めに送金したのだが、それが間に合わずに息子を失ってしまった…その怒りと悲しみと後悔を入り混ぜながら屯所にやってきた。
「この金で墓を建てさせていただく!」
と涙ながらに宣言し、一両日中に壬生寺に立派な墓を作ってしまった。土方は「勝手にさせろ」と放任しているが、その墓がかつて新撰組が建てた芹沢たちのものよりもずいぶん立派なものだったので、
「あれは俺たちへの嫌味か当てつけだな」
と後で原田が苦笑していた。
人は、どれだけ悲しくとも死んだ人が戻らないことを知っている。だからいつまでも悲しみに耽ることなく、いつもの生活へと戻っていく。
時間が解決する…という無責任な励ましが、いつの間にかその通りになっているのだ。
けれど、時間の経過さえ無意味なことがある。
「…死ぬのか?」
人気のない竹林にやってきた斉藤は、目の前で蹲る男に声をかけた。男は斉藤がつけていたことを知らなかったのか、ハッと気がついて振り向いた。
「斉藤…先生…」
皆が悲しみから立ち上がろうとする中、この小川信太郎という男はそれをせずいつまでも引きずっていた。目を真っ赤に晴らしながらも、その目元にクマを作っている…ここのところは眠れなかったのだろう。
「…どうして、ここへ…?」
「聞かなくてもわかるだろう」
恐々と問う小川に、斉藤は冷たく言い放った。
河合が非業の死を遂げてから数日、斉藤は小川のことをずっと見ていた。土方は何一つ命令などしなかったが、そうすべきだと思っていたのだ。
小川は何も答えなかった。けれど
「…わからないのか?」
と斉藤が尋ねると、首を横に振った。
「わ、わ…わかって、います。俺…俺のことを、疑っている…から…」
「疑っているわけではない。確信している…お前が八十両を盗んだのだろう」
斉藤は鞘からゆっくりと刀を抜いた。小川は「ヒィ!」と後ずさりながら
「仕方なかったんだ…!」
と悲鳴をあげた。
「い、田舎のおっ母が倒れたって、妹から知らせがきたんだ。妹は輿入れを控えて…とにかく金が必要だった…!」
「お前は勘定方から金を盗み、早飛脚で濃州へ送った」
「すぐに返すつもりだった…給金の中から少しずつ…」
「嘘だな」
斉藤は刃先を小川に突きつけた。彼のコメカミから冷や汗が流れていた。
「お前は河合が実家から用立てていたことを知っていた。己が返済しなくても、いつか補填される…そう思った」
「…っ」
図星だったのか、小川はグッと唇を噛みそのまま項垂れた。
そしてポツポツと口を開いた。
「…隊士たちは、河合から金を借りて…皆が皆、きちんと返していたわけではありません。でもあいつは…『仕方ない』って笑って、実家から補填してもらうから大丈夫だって言うから…その言葉に、甘えて…」
「…」
だから今回も許されると思った…それは小川だけでなく隊士たちに蔓延していた甘えだろう。
「だったら、何故名乗り出なかった?」
「…」
「河合はずっと飛脚を待っていたが、お前が名乗り出ることも待っていたはずだ」
斉藤の厳しい追及に、小川はさらに深く項垂れた。
河合はおそらく小川が金を盗んだことを知っていたのだろう。けれど自身が甘やかしてきたという負い目や小川が名乗り出てくれるのではないかという期待から、自ら告発はしなかった。
けれど、小川は自分の身を案じ、最後の最後まで名乗り出ることはなかった。
「百両…」
「…何だ?」
小川は俯いていた顔を上げた。不自然なほどに歪んでいた。
「局長の妾…百両の金を積んだのですよね」
「…詳しいことは知らん」
「俺は…おっ母の病のために、妹を安心して輿入れさせるために、八十両借りた…誰が聞いたって、俺に同情するはずだろう?!」
血走った目が斉藤を睨みつけていた。それは少し河合に似ていて、彼も混乱しているのだということがわかる。
けれど、斉藤は依然冷たい眼差しを彼に向けていた。
(士道不覚悟…)
その言葉では表せないほど、この男は法度から逸脱している。
竹林には誰もいない。
静謐な冷たい空気が二人の間に流れている。
「…河合がどうやって死んだのか、知っているか?」
斉藤は小川に語りかける。
「せ…切腹では…ないのか…」
「こうだ」
力を込めた一瞬、春を待ちわびていた冬の地面に赤い花が咲いた。河合がどうやって死んだのか、小川はその身をもって知ることになった。
骸となった小川が、その場に虚しく倒れた。斉藤は刀を振るって、その血を払い落とした。
(何人殺しただろう…)
数えるだけ億劫になってしまうが、それくらい人の死は身近になった。
昔、旗本を斬って家を出たが、その時自分が得た感情をすでに失ってしまったような気がする。
「…」
竹林の間から光が差し込む。
死者となった小川と斉藤には、その光が降り注ぐことはなかった。








489


河合の死から十日ほど過ぎ、凍えるような冬は雲の合間から柔らかな日差しが差し込む早春の季節へと変わった。
非番の総司は西本願寺の境内で行われている稽古を眺めながら、ぼんやりと時間を過ごしていた。彼らと同じように稽古に加わっても良いのだが、どこか気怠い気持ちで上の空だった。
「素振り百回、始め!」
撃剣師範の永倉の号令で、一斉に素振りが始まる。縦横に並んだ隊士たち一人一人に永倉と同じく稽古の当番である斉藤が指導をして行く。
いつも通りの、日常の光景。
けれどそのなかに溶け込むことができず、総司はふわふわと浮いたように俯瞰しながらそれを見ていた。
「沖田さん」
「!」
背後から声を掛けられて総司はハッと振り向いた。巡察から戻ってきた藤堂だった。
「藤堂くん…」
あれから謹慎が解けた藤堂は通常通りの任務に戻った。けれどいつもの人懐っこい笑顔はなく、他人を拒絶するような冷たい眼差しを向けていた。
「どう…しました?」
「門前で伊庭さんに出会いました。時間があるなら稽古をしないかという伝言でした」
「そ、そうですか…」
「では」
藤堂はそれ以上の会話を避けるように、くるりと背を向けて去って行く。
河合の死に対し、彼はもう怒ることすらなかった。
藤堂の見張りを勤めていた三番隊の斉藤曰く、
『切腹したと言うことなら、何も言うことはありません』
と無理やり自分を納得させるように言っていたらしい。彼は飲み込めない言葉を飲み込んで、どうにか自分を落ち着かせたのだ。
それがまた総司の心を抉った。
(切腹じゃない…)
藤堂がそれを知ったらどう思うのだろう。
河合が土方によって斬られたということを知っているのは、総司と斉藤だけで誰かに知られる心配などないのだが、それでも真実は曲げられることはない。
「…」
土方とは巡察の報告以外、あれから一度も会話を交わしていない。土方がどこか避けている様子もあったし、総司もまた彼に何を言ったら良いのかよくわからなかった。
何故あんなことをしてしまったのか問い詰めれば良いのか。
それとも何もなかったことにして、目を瞑って仕舞えばいいのか。
(…でも、それじゃダメだ…)
そんな漠然とした思いはある。けれどどうやって踏み出せばいいのかわからなかった。


総司は重たい体を起こして門前で待つ伊庭の元に向かった。彼は相変わらず涼しい様子で手を振って
「すっかり春の陽気になりましたね」
と朗らかに言った。部外者の立ち位置にある伊庭との何気ない会話に、どう答えていいかわからず
「ああ…そうですね…」
総司はぎこちなく相槌を打った。もちろん聡い伊庭は気がついていただろうし、隊内で何があったのかは知っているのだろうが、何も言わなかった。
二人はいつもの壬生へ向けて歩き出し、伊庭は笑顔で話を続けた。
「そういえば先日の伝言…土方さんなんて言ってました?」
「…あ…」
伊庭の言葉でハッと思い出す。彼は先日、孝の一件で屯所を訪れ『間者の疑いは誤解だった』と訂正したのだ。
「す、すみません…あれから土方さんとゆっくり話をする時間がなくて…」
「ああ、そうでしたか」
「すみません…」
河合の件があまりにも心を占め過ぎて、それ以外のことを失念していた。総司が気を落として謝ると、伊庭は気にする様子もなく、「そういえば」と話を変えた。
「つい先日、斉藤さんと食事をご一緒したんですよ」
「え?斉藤さんと?」
斉藤は試衛館に滞在したことはあるが、伊庭とはすれ違いで顔を合わせていない。無口で寡黙な斉藤と社交的な伊庭…二人が一緒にいる様子は総司にはなかなか想像できなかったけれど、伊庭は楽しそうだった。
「町でばったり出会った時、斉藤さんはあからさまに嫌な顔をしましたけどね。俺のことを嫌っているわけじゃなくきっと苦手なんだと思いますけど、俺はそういう人ほど仲良くなりたいって思う困った性なもので、無理矢理食事に誘ったんです」
「へえ…」
「少し前に赤貝に当たったことがあったので、『貝以外の店が良い』と要望したんですけど、貝の美味い店に連れていかれました。嫌味だったのか嫌がらせだったのかわかりませんけど、でもすごく美味くて…まんまとしてやられたわけです」
ハハッと笑う伊庭につられて、総司も少し笑う。いつも淡々としている斉藤がそんな意地悪をしたのかと想像するとなんだか可笑しかった。
するとそんな総司の顔を覗き込むようにして
「やっと笑いましたね」
と言った。
「伊庭君…」
「人の口に戸は立てられぬと言いますから、何があったのかはなんとなくわかっているつもりです。口を出すつもりはありませんが…沖田さんがそこまで気落ちしているのは、噂以上の何かがあったんでしょう?」
「…」
総司は足を止めた。そしてそれに合わせるように伊庭も止まって、ゆったりとした微笑みで言葉を待っていた。
二人の間を春風が流れていく。
「…切腹じゃないんです」
堰き止めていたものが脆く崩れるように、呟くように漏らすともう止めることができなかった。
「土方さんが斬ったんです。…あの一瞬は紛れもなく私情だったと思います」
「…」
「『私情で人を殺めるな』…何度も土方さんは私に言いました。私情で人を殺めれば殺意に囚われてしまう…だから私はいつもギリギリのところで踏みとどまることができて、後悔をすることはなかった。そうやって土方さんはいつも守ってくれていたんです…なのに…」
目の前にいたのに、止めることができなかった。
それどころか近藤へ手紙をもっと早く送っていれば、土方だけではなく河合の命さえ救うことができた。
きっと土方は『お前のせいじゃない』というのだろう。
そして
「土方さんはきっと…自分は違う道を歩いているから良いって…そういうんだと思います」
新撰組の法度は側から見れば美しい『理想』だろう。しかしそれを守らなければならない土方は、自分が歩いている道は『武士道』ではないと割り切っている。
だから非情になれる。
だから守れる。
それがわかるから…苦しい。
「…あ」
ずっと総司の言葉を聞いていた伊庭が、不意に視線をあげた。総司もそれにつられて目を向けると、そこには家の軒先から飛び出た梅の枝があった。赤く染まった梅の花弁が力強く天を仰いでいる。
(土方さんの好きな花だ…)
試衛館にいた頃、土方は句作に耽っていたことがある。題材は決まって梅の花で、春になる今頃の季節にはよく試衛館の近くにある梅の木を眺めていた。
「…沖田さん。こう言っては元も子もないですが…」
伊庭はその梅の枝に手を伸ばして、語りかけるように続けた。
「土方さんが歩いている道は、絶対に沖田さんとは違う道ですよ。それは誰しも言えることで、その道を歩くことは与えられた役割なんです。俺が全部投げ捨てて幕臣以外の道を選べないのも同じです」
彼の指先が咲いている花弁に触れると、ハラハラと舞い落ちた。
「だから、例え違う道でも信じているだけで大丈夫だって言ったじゃないですか」
「…信じています。でも信じるだけで全てを任せてしまうなんて…なんだか無責任だと思うんです」
少しくらい頼りにして欲しい。背負わせて欲しい。
けれど土方は総司の差し出した手を払いのけて、『大丈夫だ』と言うだろう。
「なるほど…」
伊庭は梅の枝から手を離す。そして少し考え込んで視線を総司へ向けながら、
「じゃあ、笑っていればいいんじゃないですか?」
と、突然あっけらかんと言った。それまで緊張感のある会話を交わしていたにもかかわらず脈絡もなく言ったので、総司は「え?」と唖然として戸惑ってしまった。
「い、伊庭君…?」
「いえ、別に冗談を言っているわけじゃないんですよ。なんだか小難しいことを悩んでいるみたいだから…もっと単純だと思うんですよ」
伊庭は再び微笑んだ。
「だって傍で笑っていてくれたら安心するじゃないですか。特に好きな人が笑っていればそれだけでいい。なんだかいろんなことがどうでもよくなって…違いますか?」
「それはそうですけど…」
「ほら、眉間にシワ。似合わないですよ」
伊庭の指先が総司の眉間を啄く。総司自身に自覚はなかったが、たしかにそこには深くシワが刻まれていた。
総司は眉間をさすりながら尋ねた。
「…でも、そんなことで良いんですか?」
「あはは。沖田さんはそうじゃないのかもしれないですけど、笑うのも結構大変ですよ。笑えない時…つらくて苦しい時も笑わないといけない。…さっき役割って言いましたけど、それが沖田さんの役割じゃないですか?」
「…」
眉間に伸ばしていた手を今度は頬に当てる。するとどこか強張ったまま力が抜けていないことに気がついた。
だから簡単なことに気づけたなかったのか。
河合が死んでからずっと、凍りついていた気持ちが溶け始める。
「…なんだか…気持ちが軽くなりました」
「そうですか…そりゃ良かった」
伊庭は「じゃあ行きましょう」と再び歩き始める。
総司はもう一度、梅の枝を見上げた。赤く色づいた花弁が凛と咲いている。
桜のように派手に咲かないその花が、土方は好きだと言っていた。冷たい雪に埋まっても、芽吹き、鮮やかに彩る。
(笑え…)
総司は自分に言い聞かせた。




490


早春の季節。しかし朝晩はまだ冷え込み、春はまだ遠く感じる。
総司は隊士たちを稽古へ送り出した後一人、部屋で火鉢に手をかざしていた。
総司はふと思い至って、行李の奥にあった手紙を取り出した。近藤の筆跡…先日届いた手紙だ。一度読んで、それ以来見つからないように奥へ仕舞い込んでいたそれをそのまま火鉢へと入れた。
炭から燃え移った小さな炎によってゆっくり、ゆっくりと手紙が焼かれていく。その様子を目で追うと不思議と心が安らいだ。
「ひとりか?」
「!」
急に声を掛けられて振り返ると、斉藤の姿があった。彼は朝の巡察の当番なので帰ってきたところなのだろう。
「お…おかえりなさい」
「一番隊は稽古へ行ったようだが」
「え、ええ…でも今日は槍術の稽古なんで原田さんにお任せなんです」
「そうか」
「…」
「…」
不自然な沈黙の後、斉藤の視線は自然と火鉢へと向かう。まだ端しか焼かれていない手紙…その筆跡に斉藤も気がついたようだ。
「近藤局長からの手紙か?」
「…」
図星の総司は口籠る。斉藤はその様子を怪訝な顔をしてまじまじと見て、そのあと周囲を確認し、障子を閉め中に入った。彼はただならぬ理由があると察したのだろう。
「何が書いてあったんだ?」
「何…って、近況報告ですよ」
「ただの近況報告か?だったら局長を慕うあんたがその手紙を焼くなんて考えられないだろう」
斉藤の目ざとい指摘に呆気にとられた総司は、たまらず苦笑した。
「…斉藤さんは勘が良すぎますよ。何でもかんでも気がついて…一体いくつ眼を持っているんですか?」
「見ての通り二つしかない」
「たとえ話ですよ」
茶化して誤魔化したつもりの会話は斉藤には通じない。総司は観念して再び火鉢へと視線をやった。ゆっくりと焼かれる手紙はもう三分の一ほど黒く焦げて灰になった。
「…河合さんが謹慎になった頃、近藤先生に手紙を出したんです。こういう状況でどうしたら良いかって…そのお返事の手紙です」
「何て書いてあったんだ?」
「『河合を許してやれ』と。でももうこの手紙が届いた時、河合さんは亡くなっていました」
総司の言葉に、さすがに斉藤の表情が凍りつく。おそらく自分もこの手紙を受け取った時、同じような表情をしていたのだろう。
総司は苦笑した。
「…色んな後悔をしました。もう少し早く手紙を送っていればとか、むしろ手紙なんて送らなければ良かったとか。この数日考えて…でももう結論が出たから、こうして焼いているんです」
「結論?」
「絶対に、土方さんにはこの話を隠し通すということです」
一番近く思う存在である土方に隠し事をするのは気が引けたが、それ以上にこの手紙が彼自身を傷つけるだろうということがわかっていた。近藤が許していたのに、自分が許すことができなかったという事実はずっと後をついて回り、土方は頑なに自分のせいだと思うだろう。
だから言わない。
だからこうして燃やしている。
「間違っているのか、正しいのかそんなことはもうわかりませんしもうどうしようもありません。ただ…少しでもあの人の負担になるようなことはしたくない。後悔して欲しくない」
守られるだけではなく、守りたい。
そのために土方を信じると同時に自分を信じる。今は何も見えなくとも、それが先へと繋がるはずだ。
「近藤先生には河合さんは切腹したと報告して、このことは知らなかったことにしてほしいと手紙を書きました。先生なら何も言わなくても私の気持ちを汲んでくださるはずです」
「…」
「斉藤さんも、忘れてください」
土方の腹心の部下である斉藤だが彼は彼の判断で行動する。
「わかった」
そう理解を示してくれて、総司は安堵した。
その頃には火鉢の中の手紙が全て灰になり、跡形もなくなっていた。


春の麗らかな陽気に誘われて、小鳥が鳴き蝶が舞った。冬の間眠り続けていた草花が空を見上げているのを見ていると、心まで晴れやかな気分になった。
深雪が庭の縁側に佇みその光景を眺めていると、妹の孝が「お姉ちゃん」と顔を顰めた。
「南部せんせはゆっくり横になっているようにって言わはったでしょう?」
「お孝ちゃん、堪忍。せやけど今日は気分がええし、ずっと床に臥せっていたら根を張ってしまいそうや」
「もう」
孝は文句を言いながらも、隣に腰掛けて厚く温かな綿入れを肩にかけてくれた。
別々の置屋に分かれてしまい十数年のブランクはあったものの、共に暮らせば姉妹の距離は一気に縮まり、今では長年苦楽を共にした家族のようになった。
「すっかり暖かくなって春の陽気や。庭の桜が咲きそう」
「お姉ちゃん、せやかて朝晩は冷えるんやし油断したらあかんえ?」
「へえへえ」
どちらが姉でどちらが妹なのかわからないくらい、甲斐甲斐しく姉の世話をする妹が頼もしく見える。
深雪は微笑みながら傍にあった手紙を手に取った。先程近藤から届いた手紙だ。
「ほら、見てお孝ちゃん。旦那様のいらっしゃる廣島ではもう美しい桜が咲いているそうや。可愛らしいやろ?」
「ふうん…」
手紙には健やかな近況を伝える内容とともに桜の押し花が添えられていた。見た目は屈強で近寄りがたい無骨な顔立ちの近藤が、どんな顔で押し花を作ったのかと思うと思わず笑みが溢れてしまうと同時に床に伏して花見にすら行けない深雪を気遣う近藤の優しさを感じた。
「こんなのええ人、なかなかおらへんえ。…お孝ちゃんもそう思わへん?」
身請けされた当初から近藤や新撰組に批判的で反抗的な態度を見せる孝だが、
「そんなん、わからへんもん」
と最近は態度が柔らかくなった。とは言ってもまだ受け入れがたい様子なのだが、実際に近藤に会えばすぐに打ち解けるだろうと深雪は考えていたので、さほど心配はしていなかった。
深雪は押し花を手紙に戻し、そのまま折りたたむと大切に懐に戻した。
「お孝ちゃん、お庭行こ」
「…もう、お姉ちゃん子供みたいや」
孝が苦笑しながら頷いたので、深雪は縁側の草履を履いて庭に出た。すぐそばに孝が立ち支えるように腕を取る。
別宅の広い庭には世話役のみねの手入れのおかげもあって、色とりどりの花が咲いている。季節ごとに違う顔を覗かせる広い庭が近藤がここを別宅にする決め手だったのだという。それまで廓という狭い場所で生きてきた深雪にとって、この庭は心の癒しだった。
万感の思いで見渡していると、孝が少し腕を引いた。
「お姉ちゃん…」
「なに?」
「…お母ちゃんのことやけど」
おずおずと切り出した孝。だが深雪はいつか彼女がそれを言い出すだろうと思っていたので、心構えができていた。言いづらそうにしている妹を代弁した。
「廓から出て晴れて自由の身になったのに、なんで探さへんかって?」
「そ…そうや。お姉ちゃん、昔は毎日ゆうてたやろ。廓から出て必ずお母ちゃんを探し出すって…」
孝は不安そうに顔を歪ませていた。
幼い頃、廓で姉妹を産んだ母は二人を置き去りにした。母の記憶のない孝にとっては初めから居ない存在であり執着はなかったが、姉である深雪は母の思い出がある。そのため置屋にいた頃はいつまでも母親にこだわり続けていた。
だが、久しぶりの再会を果たすと姉は母のことを一言も口にしなかった。孝が気にするのは当然だろう。
「あれだけ大事にしてたお母ちゃんの形見やゆうてた簪も局長さんに渡してしもうたんやろ?せやったらもうお姉ちゃんはお母ちゃんのことは諦めたってこと?もう探さへんの?」
それまで溜め込んでいた疑問をぶつけるように孝は吐露する。記憶になかったとしても無意識であったとしても母の存在は孝にとって大きなものだったのだろう。
深雪は穏やかに微笑んだ。
「…もう探す必要があらへん」
「え?」
「ふふ…もう少しお孝ちゃんが大人になったらお話ししましょ」
「…ずるいわ」
深雪の返答に対し、孝は子供のように頬を膨らませて拗ねた。
そうしていると冬の残り香のような冷たい風が吹いた。孝は「中へ」と深雪の背中を押したが、ふとあるものが目について立ち止まった。
「あれは…?」
「え?」
庭の隅、生垣のあたりに紙が落ちていた。風に吹かれて飛ばされてきたのだろうか。
深雪は近寄って拾い上げる。乱暴な文字が書かれたそれを見てハッと息を飲んだ。
「お姉ちゃん…?」
静止してしまった姉。孝が手元のそれを覗き込む。途端目を見張った。
「な…っ、なんやの、これ…!」
孝は悲鳴のような声をあげた。
半紙に乱暴に書かれていたのは、妾宅に住む姉妹を嘲笑する文言、そして金を湯水のように使う近藤への糾弾ーーー直視できないほど、激しい内容だった。
そして一番大きく書かれていたのは『河合を殺したのはお前たちだ』という言葉。
孝さえ青ざめてしまう内容を、深雪は顔を硬直させて呟いた。
「…河合さまが…お亡くなりに…?」
「お姉ちゃん…!」
「そんな…うちらのせいで…?」
孝は深雪から手紙を取り上げたが、すでに遅い。深雪の体はフラッと軸をなくしたように崩れた。
「お姉ちゃん!」
孝が必死に抱えると、台所仕事をしていたみねが慌てて駆け寄った。
深雪の顔は血の気が引いて真っ白になっていた。




解説
488 河合の死についてひと段落したので、少しだけ本編と史実の違いを記しておきます。
河合の切腹理由については、深雪太夫の見受け資金が足りなかったため、そもそも勝手に私事に使ったため…など様々な理由が残っており、どれが正しいのかというのはわかっていません。河合の墓は壬生寺にありますが、これは明治になって作られたものです。
また小川信太郎についてですが、彼は入隊後に死亡したという記録しかなく、今回のように処断されたわけではありませんが、河合が亡くなって三日目くらいに死亡しているので、こういう流れになりました。
目次へ 次へ