わらべうた




491


「沖田先生、土方副長がお呼びです。客間でお待ちだそうです」
巡察から戻ってきた総司は隊士に声を掛けられて、内心ビクッと身体を竦ませた。
「…わかりました。すぐに行きます」
動揺を悟られないようになんとか平常心を保って応えたものの、総司の心には戸惑いがあった。
河合の死から数日が経つが、未だに土方とは巡察の報告以外は会話を交わしていない。土方が他人を寄せ付けない張り詰めた空気を醸し出しているように感じたし、また自分自身も本人を前にして何を言えばいいのかわからなくなっていた。
(心は決まっていても、口にするのは難しい…)
少し前までは何でも言い合えたはずなのに。今ではまるでいくら呼んでも土方が背中を向けてそっぽを向いているような、そんな寂しさがある。
(…考えすぎかのかもしれない)
総司はそう切り替えて、呼び出された客間に向かった。部屋に近づくと中から数人の聞き覚えのある声がした。
「失礼します」
「おう、やっときたな」
気軽に手を挙げて声をかけたのは幕府御典医の松本良順だった。隣には藩医であり度々世話になっている南部、そして土方がいた。
「ご無沙汰をしております…松本先生」
「ああ、お前さんも元気そうで何よりだ」
松本とは加也との見合い話の一件以来の久々の再会だ。総司のことを元気そうだ、と笑う松本だが少し疲れていように見える。
総司は土方の隣に控えた。彼はいつも通りの横顔で、目上の客人相手だからか少し愛想の良い表情をしていた。
早速、松本は切り出した。
「さて…今日は二つ、話があって来たんだ」
「二つですか」
「残念ながらどちらも悪い知らせだが…先に俺から話そう」
どうやら松本と南部、二人とも話があって来訪したらしい。
南部だけではなく普段から明るく快活な松本は表情を神妙な面持ちだ。それだけで総司は息を飲んでしまう。
「まず…『薩長同盟』だが、噂は本当らしい。長州と薩摩が手を結んだ」
「え?」
総司は声を上げて驚いた。以前伊庭からそのような話を聞かされていたものの、まさか松本の口から語られるとは思わなかったのだ。だが隣にいる土方はあまり顔色を変えなかった。
総司は尋ねた。
「…蛤御門の戦では幕府側についたあの薩摩が、長州とともに敵になるということですか…?」
味方だった者が身を翻して敵になる…伊庭から聞いた時もそうだったが、総司には俄かに信じられなかった。
すると松本は「いや」と首を横に振った。
「すぐに戦を仕掛けて倒幕へ動くというわけではないようだ。ただ、長州に対する幕府の不甲斐ない対応に痺れを切らし、だったらいっそ同じ外様で大国である長州を支援する…ということになったらしい」
「長州は薩摩を恨んでいたのではないのですか?」
「恨み以上の旨味があるのだろう。薩摩が長州へ好条件を出したに違いないし、二藩を結びつけた者がいるそうだ」
「…」
奥医師である松本はその立場から様々なことを耳にしているので、情報は確かだ。それに伊庭が似たような噂を口にしていたので、事実なのだろう。
それでも信じられない総司は黙り込む。すると、それまで口を閉ざしていた土方が話し始めた。
「…会津を目の敵にする長州を支援するということは、たとえ薩摩は幕府の敵ではなくとも会津の敵になったということになります。だったら敵とみなしても同じことでしょう」
「まあ、お前はそういうだろうと思ったよ」
ハッと鼻を鳴らして松本は笑う。
以前、伊庭から同じ話を聞かされた時、土方は『荒唐無稽だ』と突っぱねたが、彼なりのルートで調べを進めていたのかもしれない。表情に驚きや動揺はなかった。
土方のように敵が増えただけだ…とそう達観できれば良い。けれど総司には気がかりなことがあった。
「あの…近藤先生は大丈夫でしょうか?」
二回目の長州行き。近藤は前回よりもより意気込んで乗り込んでいった。薩摩という大藩の協力を得た長州が事を起こすのではないか…近藤の身に危険が迫るのではないかと危惧したが、
「お前は相変わらず近藤のことばかりだな」
と松本に笑われてしまった。
「危険がないとは言えないが、薩摩が手を組んだなら連携して事を運ぶだろう。まだ薩摩は幕府側に近い…だからむしろ、長州が暴走して何かをやらかす可能性は低くなったんじゃねえかと俺は思う」
「そう…ですか」
力強い松本の言葉に総司は安堵する。
「それで…もう一つの、悪い知らせというのは?」
薩長同盟の情報を掴んでいた土方にとってはもう一つの悪い知らせの方が気がかりだったようだ。すると松本の隣にいた南部が「私から」と身を乗り出した。
「…深雪さんの件なのですが」
南部は懐から一枚の皺々の紙を取り出した。
「実は…こんなものが別宅の方へ」
「…」
土方は南部からそれを受け取り、開く。するとその眼がカッと開かれた。
「…誰がこんなものを…」
「わかりません。庭に落ちていたものを深雪さんが拾い、見つけたそうです」
「土方さん、それは…?」
苛立つ土方から、総司はその紙を受け取る。落書きのような乱暴な字で書かれていたのは、目も当てられないような言葉の数々だった。近藤や深雪、孝への誹謗中傷…なかでもとりわけ大きく書かれた『河合を殺したのはお前たちだ』という言葉が目についた。
ドキリ、とした。
河合を殺したのは土方なのだ。
「…こんなのは事実無根です。隊士の河合は勘定方として失策を犯し、切腹になりました。深雪さんもお孝さんにも関係のないことです」
紙に書かれた全てのことが、受け入れがたい暴言だ。河合の死は身請けされた二人には何ら関係のない。総司が訴えると、松本は「そうだろう」とうなずいて続けた。
「だが、事実であるとなかろうと恨み嫉みってのはどこにでもある。新撰組が気に食わねえのか、局長への糾弾か、美人姉妹への嫉妬か…わからねえが、とにかくこれを深雪が見ちまったって方が問題だ」
渋面を作る松本の隣で、南部は主治医としてもっと深刻な顔をしていた。
「もともと身体が丈夫ではなく、小康状態でしたが…今回のことで精神的な衝撃が大きく寝込んでいます」
「治るのですか?」
「…気候の変化のせいか肺が弱り食べ物が喉を通らず…このままでは長くは持たないかもしれません」
「そんな…」
総司と土方は絶句する。
深雪が身請けされて都にやってきてから一年。身体が弱く寝込みがちではあったが、彼女が近藤の妾として懸命に尽くしている事を知っている。またそんな彼女に対して近藤が今までになく幸せそうな笑顔を浮かべ惜しみない愛情を注いでいたことも。
近藤がいない今、二人は切り裂かれてしまうのだろうか…総司はぐっと唇を噛み締めた。


松本と南部を見送ったあと、必然的に二人きりになった。
「…」
重たい沈黙が二人の間に流れる。
総司は未だにいろいろなことが上手く飲み込めなかった。長州と薩摩が手を結んだことよりも、非現実的な深雪の死が近いという知らせ。
(やっぱり新撰組に関わると良くないことが起こる…)
梅や君菊、明里ーーー立場はそれぞれ違ったが最後は結局引き裂かれる運命に至った。そして深雪を請け出す時、同じ運命を辿るのではないか…と危惧したことが、ついに現実になってしまう。
「これ…誰が書いたのか、探させるのですか?」
手にしていた紙を総司は土方に戻した。すると土方はじっとその紙をに見つめた後、ビリっと真ん中から割いて破った。
「…わざと乱暴に書かれているから筆跡から特定はできないだろう。それに、隊の内部の人間にしかわからない内容だ」
「そうですね…」
外部の人間の犯行なら新撰組への脅迫やとも取れるが、書いてある内容からおそらく隊士の中の誰かが書いたものだろうということがわかる。けれど犯人探しをしてそれを追及したところで事態は何も変わらない。
(なんでこんなことになったのだろう…)
静かな水面に落ちた一滴の粒が、波紋を広げるようだ。
「…近藤先生にお知らせしますか?」
「そんなことするわけがないだろう」
土方はきっぱりと否定した。幕府の役人とともに長州へ向かった近藤を、私ごとで都に戻すことなど不可能だ。それに近藤は知らせを聞けば戻れない悔しさと心配で、身を焦がすに決まっている。
わかっている。
わかっているから、苦しい。
土方はビリビリとその紙を破いた。どうしようもない苛立ちをぶつけたいけれど、それをぶつける場所がない…そんな風に見えた。
「あの…土方さん…」
「何もいうな」
「え?」
土方は総司の言葉を遮った。その手元からハラハラと紙くずが舞う。
「…深雪さんのことは、土方さんのせいではありません」
「河合が死んだのは俺のせいだろう」
「違います。あの人はもう士道不覚悟だった。…土方さんのせいではありません」
「総司」
土方は総司の手を取った。彼の手は思った以上に冷たい。
「土方さん…」
「俺を許すな。…お前に許されたら、俺は俺を許せなくなる」
「…」
土方はそう言うと、総司の手を放してそのまま去っていった。
総司は呆然と立ち尽くした。
土方はきっと自分を許さない。
ーーーじゃあ誰が彼を許すというのだろう。
「許すなんて…烏滸がましいことできません」
ポツリと呟いた言葉は、決して土方には届かなかった。




492


「また新撰組の局長はん、来られてますえ」
「深雪姐さん気に入られてますなあ」
同じ座敷に呼ばれた女たちがくすくすと笑っていた。
新撰組局長近藤勇…その名前を聞いたのは諸侯の役人たちが集う座敷の席だった。その末席に座りながらも、背筋がピンと伸びた大きな体躯に皆の視線は自然と集まっていた。
『どうぞ』
深雪が近藤の隣に座り、酒を差し出すと彼は『いや結構っ』と声を裏返し顔を真っ赤に染めて拒んだ。後から聞いたところによると、深雪のことは一目惚れだったそうで過剰に意識をしてしまっていたらしい。
深雪は変わった客だと思うだけだったが、その後何度か座敷で顔を合わせる機会があり、そのうち暇があれば一人でやってくるようになった。ほかの妓には目もくれず深雪にだけ会いにやってくる。
「そんな風に笑ったらあかんえ」
年下の芸妓たちは「はぁい」と気のない返事をしながらまた噂話に興じ始めた。彼女たちを横目に、深雪は近藤の待つ座敷へ向かう。
噂に聞いていた『壬生狼』の長は実際に会うと実に人間臭いひとだった。
酒よりも甘いものが好き。
『三国志』について語り始めるといつまでも流暢に話す。
深雪が触れるだけで沸騰しそうなほど真っ赤に染まる。
そんな彼がたどたどしい言葉で好意を伝えてくれるのが、深雪にとってはたまらなく嬉しかった。
(周りがどう思おうと構わへん…)
深雪にとって『新撰組局長』という肩書きを通り越し『近藤勇』としての彼との時間を楽しみにしていたのだ。
「失礼いたします」
近藤の待つ座敷の障子を開ける。上座で正座して待つ近藤は些か緊張しているように見えた。
「近藤せんせ?」
「あ…ああ、入ってくれ」
その言葉に従い、深雪は中に入った。いつもと同じように彼の隣に膝を折る。
骨張った顔立ち。黙っていると身を竦ませてしまうような迫力があるが、笑顔になるととても愛嬌がある。けれど今日はその笑顔さえもぎこちない。
「近藤せんせ?どないかされましたか?」
こめかみにはうっすらと汗が滲んでいる。深雪が懐から懐紙を取り出して拭うと「すまない」と近藤はさらに謝った。
「実は…君に話がある」
「へえ」
「身の程をわきまえない無理な話だというのはわかっている。君が少しでも嫌だと思うのなら断ってくれて構わない」
慎重な前置き。酒を飲んでもいないのにほんのり赤らんだ頬。
「君を…身請けしたいんだ。都へ来て欲しい」
照れ臭そうにしながらも、近藤は真摯な眼差しを深雪に向ける。
「君ともっと長く共にいたい。こんな狭い場所ではなく、風通しが良い家で、美しい庭を縁側で眺めるような…そんな時間を過ごしたいんだ」
飾らない言葉、まっすぐ駆け抜けていくように清々しい近藤の気持ち。気がつくと
「…わかりました」
深雪はそう答えていた。何故だか近藤の語るそんな穏やかな時間を過ごすことが想像できたのだ。
しかし近藤はその大きな口を開いて「え?!」と声をあげた。
「い…いや、深雪。私は少なからず都では恐れ憎まれている新撰組の局長だ。逆恨みして君のことを狙う輩もいるかもしれない。自分から言いだしておいて何だが…もっと慎重に考えた方が良いのではないのか」
喜びと興奮、困惑と混乱の入り混じる近藤の顔はコロコロとその表情が変わっていく。深雪には何だかそれが可笑しくて、やはりこれで間違っていないのだと確信した。
深雪は居住まいをただし、近藤の前に三つ指をついた。
「こんな私でよろしければ…近藤せんせのお側においてくださいませ」
いつかこんな日がくることを願っていた。
これまで散々手の届かない女だと周囲からもてはやされた。けれど深雪自身はそんなつもりはなくて、いつも『だれか』を探していた気がする。
その『だれか』が、目の前のこの実直で優しいこの人なら、きっと幸せになれるに違いない。
「…せんせ?」
深雪は近藤が何の反応も示さないので、ゆっくりと顔をあげた。
「…う…うぅぅ…」
「せ、せんせ?」
近藤は目を真っ赤にして大粒の涙を流していた。深雪は再び懐紙を差し出し、目の前の大きな子供のような近藤の目元を拭った。
彼の側にいること。
彼を愛すること。
―――全て、私が選んだこと。



麗らかな春の陽気が続くが、正反対に心は曇り続けている。
非番の総司は行き先も告げずに屯所を出て、そのまま近藤の別宅を訪ねた。
医学の心得のない自分にはできることは何もない…そんな当たり前のことはわかっていても、じっと時が過ぎるのを待っていることはできなかった。
しかし正面から堂々と訪ねることはできず、足は裏の勝手口へと向かった。するとちょうど居合わせたのはみねだった。
「…沖田せんせ?」
「おみねさん…」
総司とは母と子以上に歳の離れたみねだが、疲労ゆえかより一層深くシワが刻まれているように感じられた。
「どないされましたか、こんな裏口に…」
「正面からお訪ねするのは憚られて…松本先生や南部先生から話は伺っています。…深雪さんの具合はいかがです?」
「…」
総司の問いかけにみねは眉間に皺を寄せた。その様子だけでも深刻な様子がわかるが、そして慎重に言葉を選ぶように答えた。
「…よくはございません。このところはお身体の具合も良かったのですが、流行りの風邪をもらってずっと床に伏したままです…」
「肺を病んでいると聞きましたが」
「へえ…苦しそうな咳を何度も…」
みねの目尻に涙が浮かぶ。丸くなってしまった背中に総司は手を置いて摩った。みねは絞り出すように話す。
「ただでさえお身体のよろしくない時に、このあいだの件でまるで糸が切れてしまったかのように弱ってしもうて…」
「…あれは何の根拠もない言いがかりです。でも…そんなことは関係ありません。深雪さんたちを傷つけてしまいました」
誹謗中傷の殆どは現体制に対する苛立ちを八つ当たりするような文言だったが、ただ一つ『河合が死んだ』ということだけは事実だった。けれど一つでも真実が加われば、ほかのものも真実に見えてしまう。その焼け付くような衝撃に小康状態だった深雪は耐えられなかったのだ。けれどそれを責めることはできない。
みねは涙ぐんだ。
「…南部せんせはもう長くはないと…優秀なお医者さまやから、その通りなのやとわかっていても…私もですが、お孝さまも信じられないご様子で…」
「お孝さんは…?」
あの勝気で強気な孝はきっと新撰組にますますの憎悪を募らせただろう。みねは頷いた。
「…深雪さまの側を離れることなく、看病をされています。おそらく新撰組の方は受け入れられへんかと…。せやから沖田せんせ、せっかく来ていただいたのやけど…」
「わかりました…ではこれだけ、私からと言わなくて良いですから」
総司は手土産に持って来た朝鮮人参を手渡した。精がつく高価なものだ。みねは「おおきに」と何とか笑って答えると、再び裏口から中へ入っていった。
総司はさっさと去っていくのが忍びなく、しばらくその場に立ちつくす。そうしていると生垣の向こうから深雪の苦しそうな咳が聞こえてきた。
(無力だ…)
深雪の病を治すことも、近藤を連れ帰ることもできない。自分にできることの少なさに脱力した。
孝が怒るのは当然だ。大坂から身請けしたのに、近藤は不在がちでそばにいることができず、色々な騒動に巻き込んでしまった。
「沖田さん?」
ぼんやりしていると、声をかけられた。
「伊庭くん…」
「どうしたんです、こんなところで。深雪さんを訪ねて来られたのではないのですか?」
伊庭は首を傾げて不思議そうな顔をしている。おそらくまだ事情を知らないのだろうが、総司は見知った顔を見ただけでどこか安堵した。
ひとまず伊庭の背中を押して裏口を離れる。そして一通りの事情を話した。土方が河合を斬ったことすら彼に話してしまったのだから、今更隠すことはない。
話を聞き終わると伊庭は神妙な顔をした。
「苦しい状況ですね」
聡い彼でも打開する策を思いつくわけがない。わかっていたのになぜかガッカリしてしまうのは自分勝手なのだろう。
伊庭は目を伏せた。
「その流言飛語を誰が投げ入れたのかは、さすがに土方さんでもわからないでしょう。いっそ犯人が分かれば気が楽ですが…苛立ちをぶつける場所がないと自分を責めてしまうでしょうからね」
「…」
伊庭の推測は的を射ている。
半ば事実であり、半ば自分のせいでもある。土方はそれを自覚していたからこそ、
『俺を許すな』
と言ったのだろう。
(土方さんを糾弾すれば、その方が楽なのかもしれないけれど…)
それを土方が求めているのかはわからない。答えの見つからない迷宮のようだ…考え込む総司の肩に伊庭は手を置いた。
「…とにかく今は深雪さんが回復することを祈りましょう。悪いことを考えるといくらでも考えてしまいますから」
「はい…」
梅や君菊たちの辿った結末を考えるととても良い方向へは考えることはできなかったが、悪いことばかりを考えても仕方ない。伊庭の言う通り気分を変えようと少し息を吐いた。
「…そういえば伊庭くんはどうしてここへ?」
「ああ、お孝さんに用事があったのですが…今はそれどころではないでしょうから出直します」
「お孝さんに?」
孝にとって伊庭は新撰組と一緒くたになって嫌われている存在だ。いったいどんな用件があるのだろうと訝しがると
「そんな浮気者の男を見るような目で見たいでくださいよ」
と苦笑されてしまった。
「そんなつもりはありませんが…」
「前もお話しした、彼女たちの母親の件ですよ。俺のツテで調べることができたのでそのご報告です」
「わかったのですか?」
「まあ粗方。幸運なことに俺の顔見知りの幕臣の縁戚が彼女の母親を身請けしたとのことで、すぐに当てがつきました」
伊庭はさらりと言ったが、総司は素直に驚いた。
彼は貧乏道場である試衛館に気軽な様子で顔を出していたが、実際にはその身分に似合った知人も多い。だがいくら顔が広いと言ってもその奇跡のような偶然を起こすのはまた別の彼の『運』のようなものだ。
「それで母親は…?」
「すでに亡くなっていました」
「え?」
「身請けした先では丁重に扱われたそうですが数年前、流行病でこの世を去ったそうです」
「…そうですか…」
病に伏せる深雪に良い知らせができるかと期待したが、残念な報告はますます落胆させてしまうだろう。
「それは機会を見てお伝えした方が良さそうなのですが、少し気になることがあって…良かったら沖田さんから聞いてもらえませんか?」
「私からですか?」
「ええ、実は…」
伊庭の口から語られたのは、思いもよらない話だった。




493


霞む視界に飛び込んできた妹の不安そうな顔に、深雪は微笑で答えた。
「なんて顔…してはるの」
「お姉ちゃん…!」
孝は目尻に涙を浮かべながら悲痛な眼差しを向けた。
自分の体のことはよくわかっているが、それに加えて肉親の妹がこのような反応を示すのだから自ずと答えは見えてしまう。
そんな妹とは正反対に、そばに控えていたみねは努めて穏やかな笑みを浮かべていた。
「深雪さま、少しでもお召しあがりませんか…?」
手元には湯気の立ち上る粥が準備されていた。けれども深雪は首を横に振った。
「おおきに…せやけどいまは…」
「…南部せんせをお呼びしましょうか」
「食欲がないだけどす…」
「…」
二人の痛いほど見つめる視線から逃れるように、深雪はゆっくりと目を閉じた。
「旦那様は…いつお帰りになるのやろうか…」
目を開かなくても、二人が答えに窮しているのがわかる。
この目がもう閉じたまま開かないでいる時が、いつかはやって来る。けれどもどうしても最後に一目近藤に会いたかった。
そして詫びたかった。
本当に心から彼を支えたいと願っていたのに、その役目を果たすことなく彼を悲しませるだけの存在になってしまうことを。
そして彼に見合う妾になろうと懸命に覚えた京ことばもままならないまま、何の恩返しもすることはできなかったことを。
「こんど…土方せんせにお伺いしておきましょ」
みねがどうにか返答してくれたので、深雪はゆっくりと頷いた。
深雪は枕元に置いてあった桜の押し花に手を伸ばした。同じ桜がいま庭で咲き誇っている。まるで近藤と同じ時間を共有しているかのような気持ちになり、随分落ち着いた。
そして再び静かな薄暗闇の海に沈むように、眠りについた。

「…お姉ちゃん?」
「お孝さま、ご安心なされませ。お眠りになっただけどす」
みねの言う通り、深雪の胸はゆっくり上下している。孝は安堵のため息を漏らしながら、目尻の涙を拭った。
南部に『先は長くないだろう』と告げられてから数日が経った。日毎に深雪は深い眠りにつくようになり、孝はそのまま永遠の別れになってしまうのではないかと気が気ではなかった。
「お孝さま、ここはうちが側におります。少しだけでもお休みくださいませ」
孝はずっと深雪の側で看病を続けていたためろくに眠っていなかった。目元にはクマが目立ちやつれている。けれど孝は意固地に拒む。
「せやけど…こんな時に…」
「そんなお顔をされると深雪さまが心配なさいます」
みねの言うことは尤もで、孝は言い返す言葉がなく申し出を渋々ながら受け取ることにした。
孝はみねとともに重たい体を引きずるように隣室に移る。そして温かい布団に包まれると体が勝手に眠り始めてしまった。
みねはゆっくりと掛け布団を肩口まで掛けて部屋を出た。すると玄関から「ごめんください」という声が聞こえた。できる限り足音を立てないように向かうと、そこには南部と総司がいた。
「南部せんせ、沖田せんせ…」
「すぐそこの角で偶然会ったのです」
南部は朗らかに語り、「お邪魔します」と上がりながら尋ねた。
「深雪さんはどうでしょうか?」
「いま眠りにつかれたところです。お孝さまもお休みに…」
「そうですか。お孝さんが眠れたのなら良かった」
南部は頷くと慣れたように部屋に向かっていく。玄関には総司とみねが残された。
みねは困ったように切り出した。
「…沖田せんせ、お孝さまはお休みされていますが…」
「いえ、良いんです。勝手に深雪さんを見舞ったと知ればおみねさんが怒られてしまうでしょうから…それに私はおみねさんに話があってお邪魔したのです」
「うちに…?」
総司はみねを誘って別宅のなかの庭にやってきた。桜が満開に咲き誇り風が吹くとその花弁が舞い、まるで幻想的な風景となっていた。深雪の病床からも眺めることができるだろう。
「あの…沖田せんせ?」
「あまり回りくどいのは…そういう風にお話ができないので単刀直入にお伺いします」
「へえ…」
「おみねさん。あなたは深雪さんお孝さんの…血縁者ですね」
「!」
みねはカッと目を見開いたが、それを誤魔化そうとして咄嗟に袖で口元を隠した。
けれどそのリアクションこそが、総司の言葉を肯定していた。
「なんで…そないなこと…」
「この間、一緒にお邪魔した伊庭君がお孝さんから『母親を探しているらしい』という話を聞いて、ツテを当たって調べたそうなんです。残念ながら母親は亡くなっていましたが…その縁者としてあなたの名前があったそうです」
「…」
最初は動揺を見せていたみねだが、総司から経緯を聞き観念したように穏やかなため息をついた。
「いつか…こんな日が来るのではないやろかと思うてました」
「では…」
「うちはあの子らの母親を生んだことに間違いはありまへん。つまりは祖母ゆうことになります」
みねは認めると、不意に背中を向けて二、三歩総司と距離を取った。
その背中越しに、みねはゆっくりと語る。遠い日に想いを馳せるように。
「うちは貧乏な田舎のある武家の娘でしたが飢饉の時、食い扶持に困って大坂へ売られました。武家といっても外面だけ。酒癖の悪く子供にも手をあげるような父で…正直、売られて良かった、あの家から出られて良かったと心底思うてました」
「…」
「新町で人気の芸妓になって、さる大店の若旦那さんに身請けされることになりました。その時うちは旦那さんの子を身籠ってましたが…せやけどうちはその子を置いていった」
「どうしてですか?」
「旦那さんが本当に自分の子かと疑ったからどす。旦那さんは子を煩わしく思うてる…そう考えて、生まれたばかりの赤子を我儘に置いてけぼりにして新町を出ました」
みねは目を伏せて心底寂しそうな横顔を見せた。
けれど総司はみねの穏やかで包み込むような優しさを知っている。
本当は彼女は怖かったのだろう。自分の子ではないのではないかと疑う父親が、いったい自分の子供にどんな仕打ちをするだろうかと。自分の父親のように手をあげるのではないかと恐れたのだ。
「せやけど、うちは身請けされてすぐに旦那様を亡くし…どうにか大店の下女として雇われました。何かを犠牲にした幸せなんて…どこにもあらへんのや…」
みねは舞う花びらを目で追った。彼女にとって身請けされて幸せであった時間というのは、桜が散る早さと同じくらい短かったのだろうか。
みねは続けた。
「それからはずぅと一人で、旦那さんの冥福と娘の安寧を祈って生きてきました。せやけど娘はどなたかに身請けされた後、亡くなったと風の噂で聞きました」
そこでみねは沈黙し、深いため息をついた。
「…おそらく、娘が深雪さまとお孝さまを置いて行ったのはうちのせいでしょう。娘はうちがそうしたように、自分の幸せのために姉妹を置いて行っただけ。悪いのは全部うちどす…」
「…」
春の風が足元を流れていく。みねはどうしようもない後悔に苛まれ懺悔しながらも、その目に涙はなかった。
後悔も悲しみも全て受け入れているからこそ、姉妹にとっての加害者である自分が涙を流すべきではないと思っているのだろう。
「…いつ、気がついたのですか?」
「深雪さまが簪を持ってはったから。母親の大事な形見やゆうて…それはもともとうちが娘に残したものでしたから」
「…深雪さんはこのことは?」
総司の問いかけにみねは首を横に振った。
「話してまへん。卑怯や思われるかもしれまへんが…うちはこのまま下女として二人を支えたいと思うております」
みねはようやく総司の方へ向き直った。
よく見れば目元や唇の形が姉妹と似ている。それに血が繋がっているからこそ、自然と距離を縮めていくことができたのかもしれない。
「沖田せんせ。どうかこのことは…ご内密にしておくれやす」
みねは総司へ深々と頭を下げた。
しかし総司は答えに迷った。みねの気持ちは重々承知したが、母親に…自分たちの生まれたルーツを知りたいと願う深雪や孝に黙っておくことが良いことなのかわからなかったのだ。それに深雪にはおそらく時間がない。
「おみねさん…余計なお節介かもしれませんが、きっとおみねさんが祖母だと知れば二人は喜ぶのではないですか?残念ながら母上は亡くなっていますが…その代わりに果たせなかった家族の時間を過ごすべきなのではありませんか?」
総司にとって生家は日野だが、感覚として試衛館が家族だった。家族として過ごした時間は例え短くともふと思い出しては、心に温かく染みる…心の糧になっている。
深雪たちもきっと姉妹二人きりではなく、誰かと繋がりが欲しいはずだ。
するとみねは、眉間にしわを寄せて俯いた。
「うちも…ずぅとそれを考えてます。せやけど答えが決めきらんのです…」
再び風が吹いて桜の花が散った。
こうして季節は、時間は通り過ぎていくのだ。




494


長い冬を経て、ようやく迎えた春だというのに靄がかかったかのような鬱陶しい気分が続いていた。
(答えが出ない…か…)
祖母であることを自覚しているみねは、孫娘の死に際しても自分が血縁であることを告げるべきなのかわからないと言っていた。総司は余計なお節介だと思いながらも背中を押したが、みねはみねの気持ちがあるのだから無理強いはできない。
それに、答えを探しているのは総司も同じだ。いまだに土方にどういう言葉をかければ良いのかわからず、伊庭はただ笑っていればいいと言ったけれど深雪が病に伏せるなかで呑気に笑うのは不謹慎な気がしていた。
「集中を欠いているようだな」
「あ…」
目の前に構えていた斉藤は剣先を下ろした。
今日は総司と斉藤が稽古を勤めることになっていた。他の隊士たちが打ち合いの稽古をするなか、斉藤に誘われて向かい合った。
途中までは彼と竹刀をぶつけ合うことに集中できていたのに、いつのまにか別のことを考え始めてしまっていた。
「す…すみません。仕切り直しましょう」
「いや、いい」
斉藤は淡々と言いながら、首を横に振った。そしてそのまま隊士たちの稽古を眺める上座に戻る。そして腕を組んで隊士たちを見渡し始めた。
剣術師範を務める総司にとっては隊士たちへの稽古は仕事だ。それに同じかそれ以上の力量を持つ斉藤との稽古は特に気を抜いて掛かると命に関わる。それをよく知っていたはずなのに、集中力を失っていた。
(情けない…)
総司はため息をつきながら肩を落とし、斉藤の隣に座った。
熱気のこもった稽古を眺める。四月とは言えまだ寒い朝稽古にも関わらず、あちこちの隊士から白い湯気が立ち上っている。
「具合が悪いそうだな」
「え?…ああ、深雪さんのことですか?」
斉藤は頷いた。
しかし深雪の容体については南部から直接聞いた土方と総司しか知らないはずだ。だが斉藤には斉藤の情報網があるので、どこかで耳に入ったのだろう。総司は深くは尋ねなかった。
「南部先生のお話では、長くはないだろうということでした。この頃では眠りについているばかりで…日に日に衰弱しているそうです」
「そうか」
総司の話に斉藤は言葉少なく返答しただけだった。
総司は続けた。
「こんなことになってしまって…近藤先生がどれだけ悲しまれるのかと思うと気が滅入ります」
「局長は誰かのせいにするような性格ではないだろう」
「もちろん、そうですが…」
総司は視線を落とした。
「…思えば、新撰組に関わりのあるおなごは皆、不幸になっています。お梅さんも君菊さんも明里さんも…。だから深雪さんを身請けすることになった時、あまり気が進まなかった。こんなことになってしまう予感があったのかも知れません…」
あの時、強く引き止めていれば。こんなことになることはなかったかもしれない…しかし、
「それはどうしようもないことだ」
竹刀が重なり合う激しい音が響くなか、斉藤のきっぱりとした言葉が鼓膜に響いた。
総司は斉藤の横顔を見た。彼は少し怒っているようだった。
「ああすればよかった、こうすればよかったなどと考えたところで現状は何も変わらない。そんなことを考える時間ほど無駄なものはないだろう」
「それは…そうですが…」
「それに、彼女たちが本当に不幸だったのか決めるのは他人ではない。結果が不幸であったとしても、その人生そのものがが不幸だったとは限らないだろう」
「…」
普段は無口な斉藤が冗長に喋る。けれどそれはとても的を射ていた。
梅は芹沢と添い遂げた、君菊は土方の役に立ったと笑って逝った、明里も山南と出会えてよかったと笑っていた。そして病床の深雪も誰をも恨むことも憎むこともなく敵地に向かった近藤の無事を祈り続けている。
確かに斉藤が言うように、他人がその人生を不幸だったと決めつけるのは間違っている。
斉藤はなおも続けた。
「もし明日、あんたが誰かに斬られて死んだとして…不幸だったと思うのか?新撰組など入らずに田舎の師範代のままでよかったと嘆かれたいのか?」
「いいえ」
総司は首を横に振った。
それだけは明確に否定できる。自分で選んで進んだ道で得た結果を、『可哀想だ』なんて思われたくはない。そしてそれは彼女たちも同じはずだ。
「…ありがとうございます。なんだか、少し気が晴れました」
「別にいい。見ているだけしかできないことが億劫になっただけだ」
「億劫?」
「自覚はないかも知れないが、以前から余計なものまで背負い込む癖がある。おなごたちの件もそうだが、河合が死んだことも別にあんたのせいじゃないだろう」
斉藤は腕を組み直し、稽古を見ている。
「…でも土方さんのせいでもありません」
「そうだ。あの時の河合は錯乱状態で、とても立派な最期など迎えられそうもなかった。だから、土方副長が手を下した…それだけだ」
「…そう…ですが…」
総司は斉藤のように割り切ることができずに口ごもる。すると斉藤は深く息を吐いてゆっくりと続けた。
「俺は今まで何人も殺した。新撰組に入るまでそれが正しい殺人なのかどうかなんて考えたことはなかった」
斉藤の言葉は総司に聞こえるだけで、あとは竹刀の音にかき消されていく。
彼は試衛館に来る前、人を殺したと言っていた。それにどんな理由があったのかはあまり語ろうとしないが、名を変え国を逃げ出すほど彼の人生にとって大きな出来事だったのだろう。
「今から思うと浅はかな感情だったと思うが…それを後悔したところで生き返るわけではない。せめて死んだ者に嗤われないような誇り高い人生を選択しなければならないと常に思っている」
「誇り高い人生ですか…」
「ああ」
後ろ暗い過去を持っていても、どこか斉藤は清らかなまま生きているように見える。それは彼に気高い誇りがあるからなのだろうか。
(だからいつも気づかされる…)
俯いて躓いてしまっている時、常に彼は背中を押してくれる。彼の中にどんな感情があるのかは総司にはわからないが、それでも彼の存在はいつもありがたく思う。
総司はクスリと笑った。
「…斉藤さん、本当は年齢、鯖読んでいるんじゃありませんか?」
「そっちこそ本当は年下なんだろう」
「はは、ひどいなあ」
(…ようやく心が定まった…)
靄が晴れて、まだ晴天が見えると言うわけではないけれど、ようやく踏み出す勇気を得た気がした。


真っ暗な水底。しんと静まったここには空気さえない。
―――深雪。
彼が呼ぶ声が聞こえる。けれどそれに答えるすべがわからずに喉元に熱さだけがこみ上げる。
―――深雪、どこにいるんだ。
遠い場所から聞こえてくる。どこへ踏み出したら良いのかわからないまま、手を伸ばした。
その指先は何にも触れないまま、空を切った。
「…さん、深雪さん」
深雪はゆっくりと重たい瞼を開けた。白く霞んだ視界に飛び込んできたのは南部だった。
「深雪さん。苦しいですか?」
「…いい、え…」
そう答えながらも、ひゅーひゅーと頼りない虫の息が聞こえる。それが自分のものであると分かっていたが、苦しくはなかった。
「お姉ちゃん…!」
南部の隣で同じように顔を覗き込んでいたのは孝だった。今にも溢れそうな大粒の涙をどうにか堪えている様子がかわいそうだった。
深雪はどうにか妹を安心させようと微笑んだ。
「夢で…旦那様、に…お会いしました…」
「そうですか…近藤局長はお元気でしたか?」
夢だと言うのに南部は優しく問いかける。深雪はゆっくりと首を横に振った。
「…わかりま…せん。せやけど、お声は…ハリのある…優しい、お声で…」
夢か冷めてしまうのが勿体無いような、そんな気がした。
けれどそれ以上は喋れず、ゲホゲホと軽い咳が出た。
南部は深雪の額に置いた手ぬぐいを取り、後ろに控えていたみねに渡した。
「深雪さん…誰か会いたい人はいますか?」
「!」
その質問に過敏に反応したのは孝だった。最後通牒のような宣告だと受け取ったのだろう。
けれど深雪は穏やかに答えた。
「そうやなあ…旦那様は…夢でお会いできました。妹…にも、幸せなことに、こうして近くにおってもらえ…ます」
「お姉ちゃん…」
「あと…は、お世話になった…土方せんせや、沖田せんせに…ご挨拶せな…」
「私が承ります。すぐにお呼びしましょう」
南部が力強く頷いて、深雪も安堵するように「おおきに」と口元を綻ばせた。
そして目を閉じて続けた。
「…それから…うちの母上を産んでくださった、お祖母様に…」
「え?」
深雪の言葉に、孝は声を上げて驚いた。そして身を乗り出して
「お姉ちゃん?お姉ちゃん、お祖母様って…どういうこと?」
と問いかける。しかし深雪は力尽き目を閉じて再び深い眠りについてしまった。




495


斉藤との稽古を終えた総司は顔を洗い、部屋に戻ろうとした。
けれど門前に土方の姿を見つけて足を止めた。話し込んでいるのは南部の弟子の一人だ。
胸騒ぎがした。土方は弟子と話を終えると踵を返してこちらにやってくる。
「何かあったんですか?」
「…ああ、危篤だそうだ」
「…!」
心の準備はできていたとはいえ、言葉を失う。土方も同じように唇を噛み締め、言葉にならない表情を浮かべていた。
そして重たい唇を開いた。
「俺とお前…二人で別宅へ来て欲しいそうだ」
「南部先生が…?」
「いや…深雪が挨拶がしたいと言ったそうだ」
「深雪さん…」
意識が朦朧とする中、総司と土方の名前を挙げた。その事実がさらに胸を締め付けるが、今は立ち止まって悲しみにくれる暇はない。
「…すぐに着替えて来ます」
「ああ」
総司は土方と別れ、早足で部屋に戻った。稽古後の非番となった一番隊の隊士たちが寛ぐなか、手早く着替える。行李を漁っていると、久しく袖を通していない浅葱色の隊服が目に入った。
伊東が入隊した頃から、初期に作らせた浅葱色の隊服は着用する機会が減った。池田屋を経て新撰組の名は世に轟いたし、恨みを持った倒幕派に逆に狙われる可能性が高まるからだ。今ではもっぱら黒の羽織に身を包んでいる。
「…」
総司は羽織を手にして行李を閉じた。
「黒谷へ行かれるのですか?」
その浅葱色の羽織が目についたのか、山野が声をかけて来た。会津本陣である黒谷へ向かうような公用の時には羽織ることがあるのだ。
「いいえ…。私は外出しますから何かあったら島田さんに指示を仰いでください」
「…わかりました」
総司のただならぬ様子を察知したのか、山野はそれ以上尋ねず見送ってくれた。
そして部屋を出るとすでに門前には土方が待ち構えていた。
「…行くぞ」
渋い顔をした土方とともに総司は駆け足で別宅へ向かう。
半歩ほど後ろを歩く総司には土方の表情を伺い知ることはできない。けれど彼の背中から伝わる悲しみの感情は、決して鬼として恐れられる怜悧なものではない。
土方は深雪のことを認めていた。近藤の妾として相応しいと思ったからこそ身請けの手助けをしたのだろうし、近藤の深い愛情を知っていたからこそ後押しをしたのだ。憎まれ口を叩く妹の身請けも、情があったからこそ深雪のために奔走したのだ。
そして誰よりも近藤の気持ちを知っている幼馴染だからこそ、苦しいはずだ。
二人は無言のまま、別宅に辿り着いた。
「桜が…」
総司は生垣越しに見える桜がすでに葉桜になっていることに気がついた。あの美しい花が散ってしまったという事実だけなのに、ものさみしい気持ちを加速させる。
玄関に足を踏み入れると、足音に気がついたのかみねが膝を折り、待ち構えていた。目を真っ赤にして見るからに力無い様子だ。
「土方せんせ…沖田せんせ…」
「状況はどうだ?」
「もう…息も絶え絶えの…」
みねは嗚咽を堪えきれず目を抑えてさめざめと泣く。土方は「そうか」と答えて草履を脱ぎ、足早に部屋へと向かった。
総司は追いかけず、みねの隣に片膝をついた。
「おみねさん…」
「可哀想で、可哀想で…見てられまへん…」
「…お察しします。おみねさん、あのことは…」
みねは顔を覆ったまま、首を横に振った。
「意気地のないこととお思いでしょう…せやけど…」
「…これは深雪さんとおみねさんの問題です。私は差し出がましいことは申し上げません」
総司はみねの肩に手を置いた。細く薄い肩が小さく震えている。
みねは続けた。
「…深雪さまは…お気付きのようです…」
「え?」
「南部せんせが会いたい人は、と尋ねられ…母ではなく『お祖母様に』と…」
「…でしたら尚更…」
「わかってます…」
頭ではわかっていても、踏み出せないことがある。
それをこの数日で身にしみて実感していた総司はそれ以上何もいうことはできなかった。
総司はみねと支えるようにして立ち上がって歩き、部屋へと入った。
深雪はぐったりと目を閉じている。けれどその真っ白な顔には苦しみはなく、呼吸も落ち着いていた。
側には南部が控え、孝が大粒の涙を流してはらはらと見守っていた。土方は距離をとって膝を折っている。
「南部先生…」
「申し訳ありません。良順先生は所用で来られませんので、私一人です」
南部は総司に謝ったが、彼もまた会津藩医であるので名医に違いない。それに松本がここにいたところで深雪の容体は変わらなかっただろう。
総司とみねが腰を下ろすと、深雪がゆっくりと瞳を開けた。
「お姉ちゃん…!」
虚ろな目がゆっくりと辺りを見渡し、そして穏やかに微笑んだ。
「今日は…賑やか…や…なぁ…」
ひゅーひゅーと喉から掠れた音が漏れる。孝は身を乗り出し細くなった深雪の手を取り、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と何度も名前を呼んだ。総司にはこれが最後にならないようにと引き止めるような悲痛な叫びに聞こえた。
姉は妹を愛おしそうに見て、そしてゆっくりと土方と総司へと顔を向けた。
「…お忙しい、ところを…ご迷惑をおかけして…」
「深雪さん、そんなことはいいですから…」
総司が遮ると、深雪は土方へと目線をやった。
「土方せんせ…せっかく、身請けしていただ…いて、お役にも立てず…」
申し訳ない、という言葉はかすれて聞こえなかった。死を悟り、息も切れ切れの彼女の謝罪に、土方は感情を押し殺すように唇を噛んで答えた。
「少ない時間だったかもしれないが…近藤は充実していた。礼を言う」
「…おおきに…そう言って、頂けて…安心しました…」
そして深雪は隣の総司へと微笑んだ。
「沖田せんせ…どうか、お戻りになられましたら…旦那様には…深雪は幸せやったと…お伝えを…」
「…わかりました。必ずお伝えします」
総司の返答に安堵するように、深雪は頷いた。
そして、
「おみねさん…」
「…深雪さま…!」
深雪がゆっくり、ゆっくりと伸ばした手を、みねは必死に両手で掴んだ。落とさないように、離さないように、心底大事なものを抱えるように。
「…お世話をおかけしました…とても、穏やかで和やかで…楽しかった…」
「う、うちもです…ここで過ごした時間は何にも…何にも変えがたい…大切な…たいせつな…」
みねはそのまま言葉を失った。
みねは土方の別宅の世話役に、そして深雪が近藤の妾になったことで離れ離れになった孫娘と再会するという妙な縁を得た。それが二度と会うことのなかった二人を繋げたのだ。
背中を丸めて泣くみねに、総司はその肩を支えた。
「おみねさん…!」
本当にこれでいいのか。例え深雪が知っていたとしても、何も言わずにこのままで別れてしまっても良いのか。
総司に促され、みねは切れ切れの声を絞り出す。
「深雪…さま、うちは…うちは、ずっと…隠して…欺いていたことが…」
するとみねの言葉を待っていた深雪が、ポツリと呟いた。
「…わかっております…お祖母様…」
「!」
「母上に、面差しが…似ております」
深雪だけが微笑んだままで、その場にいた誰もがハッと驚く顔をした。なかでもとりわけ表情を変えたのは孝だ。
「ど…どうゆうこと…お姉ちゃん…」
悲しみと困惑…入り混じり呆然としていた。深雪は孝には知らせていなかったらしい。
けれど深雪はそれには答えず、「孝」と手招きした。孝は動揺しながらもさらに膝を寄せた。
「…これからは、おみねさんの言うことを聞いて…旦那様のこと…頼みましたえ…」
「お姉ちゃん…」
そう言うと、突然激しく咳き込んだ。それが彼女の最後の体力を奪ったのか虫の囀りのような頼りない吐息がか細いそれへと変わっていく。
南部は動かなかった。グッと唇を噛み、何もできることはないのだと首を横に振った。
「お姉ちゃん、いやや…!」
「深雪さま…!」
血の繋がった家族の必死の問いかけに、深雪は答えることができない。
とうとう訪れた最期の時…総司は傍に置いていた浅葱色の羽織に手を伸ばした。
そして袖を通す。
「深雪さん」
「…あ…あぁ…」
どうにか薄眼を開いた深雪の目が、総司の浅葱色の羽織を捉えた。
そして、それまで穏やかに笑い続けた深雪の目から一筋の涙が溢れた。
(旦那様…)
ついに一度も羽織を来た近藤を見たことはなかったけれど、幾たびも話には聞いていた。
浅葱色は武士の色だ。だんだらに染め抜いた羽織を着ていることを誇りに思う―――と。
そう語る近藤の顔の輝きが瞼に焼き付いている。
(旦那様…どうか、お元気で…)
遠い場所へ行ってしまうけれど、ずっと願い続けよう。
誇り高い浅葱色のような、時間が続きますように。
「…美しい…あ…お…」

そう呟くと深雪は目を閉じた。そして二度とその瞳が開かれることはなかった。
庭の桜の花びらが、嵐のように渦巻いて散った。






496


西の桜はすでのその花びらを散らし、次の季節を誘う。
多忙な毎日を過ごす中でふと滞在する宿屋から見える、なんてことのない景色を眺めていると、
「近藤局長、何か落とされましたよ」
と声をかけられた。前回に引き続き今回の長州行きにも同行した伊東だ。相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
彼が腰を屈め、拾い上げてくれたのは簪だった。
「おっと、いけない」
近藤は簪を受け取った。伊東は微笑む。
「古いものですが美しい簪ですね」
「ああ…深雪から預かったものだ」
「そうでしたか」
簪は長州行きの前、深雪が母の形見だと言って渡してくれたものだ。この簪とともに気持ちは共にある―――戦場へ向かう近藤にとってその言葉がどれほど背中を押してくれたのかわからない。
(必ず戻る)
その誓いを再び胸に刻み、懐に戻した。
「…ところで伊東参謀、先ほど篠原くんから私にお話があると伺いましたが」
「ええ…中へ入りましょう」
庭を眺めながらするような安穏とした話ではないようで、伊東に言われるがままに近藤は宿の一室へと足を踏み入れた。同行した尾形や篠原の姿はない。
二人きりの部屋で伊東は切り出した。
「局長、このままでは状況は変わりません」
婉曲的な言い回しを好む彼にしては単刀直入の言い方だ。しかし彼も苛立っているのだろう。
二度目の廣島。長州への揺さぶりは全く意味をなさず、前回から潜入を続けている山崎によるとむしろ長州藩では戦への機運が上がっているという。
しかし幕府はと言えば、三百年続いた安穏とした日々に胡座をかいて戦など起こるわけがないと決めつけ、依然として軍備には危機感のない様子が伝わってくる。
こんなことでいいのか…前回の雪辱を果たしたいと願う近藤にも伊東の気持ちは重々理解できた。
「…だが、勝手な行動はできない。何か策はあるのか?」
「このままでは平行線を辿るため、私たちはまもなく都へ戻るという話を伺いましたが」
「…参謀は耳が早いようですな」
近藤は苦笑した。
まだ知られた話ではないはずだが、伊東の社交的な交流のせいか何処からか伝わったのだろう。
伊東は身を乗り出した。
「局長、このまま都へ戻れば我々は何の成果もなくただ物見遊山に行っただけだと嗤われるだけです。隊士たちにも顔向けできません」
「しかし前回のような真似はできない」
「…無茶はいたしません。ただ無理はしなければならない…私はそう考えます」
いつも近藤の気持ちを汲み取った上で立ち回る伊東だが、今回は食い下がった。彼には何か考えがあるのだろう…近藤は、
「続けてくれ」
と先を促した。伊東は頷き、声を潜めた。
「私が篠原を同行させたのは、彼が柔術を得意とし監察も勤めていたからです。私もそれなりのツテを得ました…彼となら長州に近い他藩への接触も可能かと考えます」
「伊東参謀が自ら潜入される…ということですか」
伊東が頷いたので、近藤は素直に驚いた。
「し、しかし、あまりにも危険でしょう」
「ですが、このまま膠着したままではここに来た意味がありません。近藤局長には都へお戻り頂き、会津や幕府へこの状況をご説明いただき、私は篠原と共に残りたいと考えます」
「…」
近藤は困惑した。
伊東の状況を打開したいという熱意は重々理解できる。近藤にも同じ気持ちがあり、一兵卒として潜入には賛成だ。
しかし伊東がそれだけで動くとは思えない。土方のように真正面から疑うわけではないが、彼にも得るものがあるからこそ直接潜入したいと言い出したに違いない。
(だが肝心の目的…それが俺にはわからない…)
近藤は腕を組み直し、唸った。
「…参謀、しばらく考えても良いかな」
「もちろんです」
伊東は姿勢を正し、一礼した。そしてそのまま去っていく…それはいつも通りの優雅で隙のない姿だった。
「…ふう」
近藤は天井を仰いだ。屯所よりも低いそれがひどく狭く感じた。
見晴らしの良い庭で深雪と共にゆっくりしたいものだ。
近藤はそんなことを考えていた。


一方。
深雪が目を閉じ、そのまま深い眠りについた。
孝はとめどない涙を流して悲しみ、その側にみねが寄り添った。
穏やかで優しい死に顔に、南部がそっと打ち覆いを掛けて手を合わせた。
「力及ばず…申し訳ありません」
南部は頭を下げる。懸命に深雪を診察していた南部を責めるものなどこの中にはいない。もちろん土方も「いや」とそれだけ口にすると立ち上がり、そのまま部屋を出て縁側に腰かけた。
部屋に孝とみねの悲しい嗚咽だけが響く中、総司は袖を通していた羽織をゆっくりと脱いだ。
彼女は旅立つ前、この浅葱色の羽織を見て涙を流した。本当は総司ではなく近藤が着ている誇らしい姿を見たかったことだろう。そう思うと近藤がこの場におらず、深雪を看取れなかったことが悔やまれる。
けれど深雪が近藤へ遺した言葉は『幸せだった』ということだ。たとえ共に過ごせる時間が少なかったとしても、騒ぎに巻き込まれても…彼女にとって『新撰組局長近藤の妾』であったことは幸福なことだったのだ。それを聞いて総司は些かだが安堵できた。
だんだらで染め抜いた浅葱色の羽織をそっと掛ける。局長の妾として逝った…新撰組としての敬意のつもりだった。
すると孝が、
「いややッ!」
と悲鳴のような大声をあげて、その羽織を引き剥がした。
「お孝さん…」
「お姉ちゃんは新撰組のせいで死んだんや!こんなもん掛けんとして!」
孝は羽織を投げ捨てて、大粒の涙を流して総司を睨みつけた。
「お姉ちゃんは新撰組の道具にされただけや。体弱いの知ってはったくせいボロボロになるまで…こんなことになるまで…!」
「お孝さま…」
みねが孝の腕を掴むが、姉を失った悲しみをぶつける場所がないのだろう。怒りが入り混じる孝の表情をみて、総司は何も言うことはできなかったし、聞こえているだろう土方もまた言葉はなかった。
何の反応も示さない二人の態度に、孝の怒りの感情は加速した。
「お姉ちゃんは新撰組のせいで死んだのに、あんたらは涙ひとつ流さへん!人でなしや!」
何を言われても甘受するつもりだった。もともと新撰組を毛嫌いする孝はさらにその憎しみを深めただろうということは理解できたからだ。
言いたいことを言って、それで孝の気がすむならそれでいい。…総司はそう思っていたのだが。
「お孝!」
みねの声とともに、頬を叩く音が部屋に響いた。
孝はバランスを崩しそのまま畳に倒れこむ。彼女は何が起こったのかわからないのか困惑した様子だった。
一方でみねはぎゅっと唇を噛む。
「お世話になった方にそのような物言いは許されませぬ!」
「…っ」
「おみねさん、良いですから…」
総司はみねを止めようとしたが、彼女は頑なだった。
「いいえ、いいえ!新撰組の方をそのように愚弄するのは近藤さまを蔑ろにすること…それは深雪さまの本意ではありません!」
充血した眼をカッと開いて、みねは孝を見る。
それほどまでに激昂したみねを見るのは総司ですら初めてだった。むしろいま彼女は孝の祖母として叱りつけているのだろう。
「お孝さま、深雪さまがそのように思われたと本当に思っていらっしゃるのですか…!」
「…っ、せやけど…!」
「毎日毎日、深雪さまが西の方角へ手を合わせていらっしゃったことはご存知でしょう!」
「…」
孝は押し黙り、部屋には沈黙が流れた。
病床にありながら自分の身ではなく近藤の身を案じる…そんな深雪の健気な姿を想像すると、総司の胸は更なる悲しみに沈んだ。
しばらく沈黙が流れるなか、みねはその剣幕を柔らかくして孝の肩に手を置いた。
「…深雪さまが亡くなり、お孝さまが動揺なさっていることを土方さまも沖田さまもちゃんとわかってくださっています。…謝りなさい」
「…」
孝は俯いた。みねに促されてもその口から言葉はなく、ついには立ち上がりそのまま部屋を出て行ってしまった。
「お孝さま…!」
「おみねさん、もう良いですから」
「せやけど…」
みねの気が済まないようだが、孝も心の整理がつかないに決まっている。これ以上追い討ちをかけては流石に可哀想だと思った。
するとそれまで縁側にいた土方が立ち上がった。
「…葬儀の準備をする。屯所に戻るぞ」
短く淡々とした言葉だった。そしてそのまま背中を向けて玄関に向かって行く。
事務的に見えるかもしれないが、彼なりの気遣いなのだろうと総司は分かっていた。孝は本当は誰のせいでもないことはわかっているが、八つ当たりをしないでいられないはずだ。
「おみねさん、南部先生…あとはお願いします」
「へえ…」
「わかりました」
総司は頭を下げ、土方を追って駆け出した。





497


『屯所に戻る』
土方はそう言ったけれど、近藤の別宅を出てまっすぐ向かったのは、屯所ではなくほど近い彼の別宅だった。総司は『鬼副長』として沈む自分を誰にも見せたくないと思う彼なら、そこへ行くだろうと思っていた。
「土方さん」
「…」
総司の呼びかけを無視して土方は寡黙に歩き続ける。総司はその後を付いて別宅の玄関をくぐった。
土方は気怠げに俯きながら部屋に入りそのまま縁側に腰掛けたので、総司はそのすぐ後ろに座った。
近藤の別宅ほどではないがみねによって手入れされた小庭は春を終え新緑の季節を迎えようとしている。葉の一枚一枚が柔らかな陽を浴びてゆらゆらと揺れている。
―――その光景をどれくらい眺めただろう。彼の背中は全く動くことなく、固まっていた。
彼は何を考えているのだろう、と総司は思った。
深雪が遺した優しい言葉や孝の罵倒…そのどちらもがとても耳に痛かった。けれどそのことを安易に『悲しい』とは言えない立場であることは間違いない。
そして彼女を身請けした近藤の気持ちを思うとやりきれなかった。共に過ごせた時間はあまりにも短く、また最期まで何も知らせず、看取らせることもできなかったのは近藤にとって嘆かわしいことだろう。
そして彼の留守中に彼女を守りきれなかった…その無念や苛立ちの矛先はきっと土方自身に向いているはずだ。
たったひとり、孤独に。
(…だからこそ僕は迷っているわけにはいかない)
いつまでも黙り込んで、彼を見守っているわけにはいかない。
「歳三さん」
いつもは無意識に出るその呼び方を、今は意識的に口にした。すると土方の背中がピクリと動いて
「…何だ」
と振り向かないまま低い声が返ってきた。彼のそれとは思えないほど暗い声だったが、総司はゆっくりと答えた。
「歳三さんのせいじゃありません」
「ふん…そんなことは…」
「ありきたりな言葉だと言われても、私にはそうとしか言えません。…ずっと、言いたかったんです。河合さんが死んだ時から…」
「失望したって?」
土方はようやくゆっくりと振り返った。しかしその表情は苦悩に塗れ、まるで闇だけを見つめ続けたように暗い。
土方は自嘲するように続けた。
「お前がそう言うのは当然だ。芹沢の時も…いつもお前には『私情を混えるな』と言ったくせに、俺は俺の感情で河合を殺した。近藤先生を侮辱したことが許せなくて、苛立ってカッと頭に血が上って…あいつの首を刎ねた」
「…」
「河合を死に追いやった…それが隊士の不興を買い、深雪にまで害が及んだ。…深雪が死んだのは紛れもなく俺のせいだ。もっと慎重に行動をすれば良かったんだ。…それなのに、お前はどこが俺のせいじゃないって言うんだ?」
土方が長々と懺悔した後、総司を睨みつける。何か言ってみろ、と言わんばかりの好戦的な眼差しだ。そして同時に許されたくない、励ましの言葉などいらないと頑なに拒んでいるように見えた。それはまるで暗い水底にいる彼が、総司の差し伸べた手を振り払うかのように。
けれど総司は逃げなかった。逃げたくはなかった。
「…たしかに、歳三さんを責める人はいると思います。お孝さんや隊士たち、藤堂君…でも、誰よりもそうやって責めているのは、歳三さん自身じゃないですか」
「…だったら何だよ」
さらに苛立つ土方に、総司は首を横に振った。
「だから、私は歳三さんを責めません」
傷つきたいのかもしれない。けれどそれが自分の役目ではない。
総司は土方に手を伸ばした。
すると土方は拒むようにその手を払いのけた。優しくなどされたくない…土方のそんな意思を感じたが、総司は構わずにもう一度手を伸ばし、その腕を掴んだ。
「総司…俺に触るな」
「…嫌です。触られたくなくても、少しだけ我慢してください」
総司はゆっくりと土方の肩口に手を伸ばし、そして抱きしめた。膝立ちで全身で包み込むように。
人は彼のことを冷酷だと血の通わない人間だと非難するけれど、決して冷たくなんかない、温かい体だった。
けれど土方はまるで温かさを厭うように、その腕の中で震えていた。
「…お前に慰められていると、許されてしまうようだ…」
自分の気持ちを、弱さを吐露するだけでも、土方にとっては罪に感じるのだろう。周囲が決めた『鬼副長』という渾名を誰よりも一番自分に言い聞かせているのだ。
そんな土方を、総司は素直に可哀想だと思った。
試衛館にいた頃、女遊びが好きて破茶滅茶なところもあったけれど、こんなにも孤独な人ではなかったのに。
時の流れが、そして新撰組副長という立場が彼をそうさせている。夢と引き換えに得た代償と彼は戦い続けている。
(そんな彼の傍らにいる…僕は何度もそう誓ったはずだ)
その誓いを裏切ったりはできない。
「歳三さんが正しいとは言いません。でも間違っていたとも言いません。だから私には許すなんて烏滸がましいこともできません」
「…」
「でも…それでも、ひとつだけ言わせてください」
彼の気持ちに寄り添うこと以外、無力な自分には何もできないけれど、確かなことがある。
本当はそれを口にするのは憚られた。けれど口にしなければ伝わらないと何度も気づかされてきた。
「…ただ、私は歳三さんを傷つけるものが許せないんです」
「は…」
「自分でも馬鹿だなって思うんですけど…正しいとか間違っているとか関係ないんです。それくらい…」
(それくらい、あなたに心を捧げてしまったんだ…)
盲目的で愚かだと笑うなら笑えばいい。
でもそんなところまでこの想いは辿り着いてしまったのだ。
選んだ『正しさ』が間違っていてもいい。彼を信じるということが貫けたなら。
(僕はそれだけでいい)
「…本当に、馬鹿だな」
腕の中にいた土方が顔を上げた。そして総司を見る眼差しは柔らかくもういつもの土方のものだった。
「歳三さん…」
「お前はいつの間にか強くなっちまったんだな」
土方は総司の?茲に手を伸ばした。指先が戯れのようにその肌をなぞる。
「…強くなんかないですよ。本当は…泣き出しそうなくらい悲しいんです」
「だったら泣けよ」
「いいえ…泣きません」
総司はどうにか微笑んで見せた。総司が悲しんだところで土方を追い詰めるだけだと分かっていた。
―――人にはそれぞれ役割がある。
伊庭が以前そう言っていたことを思い出す。こんな時に土方が自分を責めることしかできないように、総司は悲しむことはできない。
笑え。
『それが沖田さんの役割じゃないですか?』
「深雪さんが亡くなったことは、悲しいことです。でも彼女は幸せだったと言っていました。死の間際に残した言葉が嘘だったなんて、私は思いたくありません」
「…そうだな」
土方は頷きながら、再び顔を伏せた。総司はそんな土方を抱きしめたまま天を仰いだ。



数日後、深雪の葬儀がしめやかに行われた。
故人の遺言で決して派手ではなく、深雪を知る人々を招いただけの小さなものだった。
「こんなことになってしもうて…残念なことや」
大坂からやってきた京屋は複雑な表情をしていた。彼は深雪と孝の身請けを仲介したので、新撰組を責めることもできない立場だ。
葬儀を手伝っていた総司は深々と頭を下げた。
「京屋さんには…色々とお世話になったのに、申し訳ありません」
「謝ることはありまへん。命の終わりゆうのは誰にもわからへんこと…ただ…」
京屋はちらりと葬列へと目をやった。目を真っ赤に晴らし未だに泣き続けている孝の姿があった。
「御幸太夫…やなかった、お孝さんはどないなことに?」
「…わかりません。近藤先生はまだ廣島で深雪さんが亡くなったことを知らせてないのです」
「そうですか…」
京屋は何か物言いたげにしたが、何も言わなかった。深雪も孝も身請けしたのは近藤だ。その近藤が何も知らず、ここにいないということに強い違和感を持ったのだろう。
「…どうか、お孝さんの良いようにことを運んでくれますよう、土方せんせにもようお伝えください」
「わかりました。…お気遣いありがとうございます」
京屋はそういうと、総司の側を離れて知り合いの参列者へ声を掛けに行った。
土方は近藤が戻ってくるまで、深雪が亡くなったことを告げるつもりはないようだ。また深雪も自分が仕事の妨げにならないようにと願っていたので、土方の行動に賛同していることだろう。
けれど、深雪のためにできることがこれだけしかなかったのだ。
(わかってください…)
総司は空を見上げた。憎らしいほど晴れ渡る空は深雪が「美しい」と言い残した浅葱色に似ていた。





498


葬儀の数日後、深雪の死については土方の口から隊士に報告がなされた。
土方はもともと体調を崩していたが、季節の変わり目で肺炎を起こしそのまま亡くなった…南部から聞いた死因を違うことなく話した。近藤の妾として身請けされてから一年ほどでの死には、隊士たちから同情の声が上がった。
報告が終わり場が解散になると、
「残念だったな」
と散り散りに分かれていくなか、総司に声をかけてきたのは永倉だった。眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。
「ええ…南部先生が手を尽くしてくれたのですが」
「こればっかりは天命だと諦める他ないが…佳人薄命とはよく言ったものだ」
深雪とは直接の関わりはない永倉でさえ、近藤が深雪を深く慈しんでいたことを知っている。その死を悼むように天を見上げ手を合わせた。
そして一息つきながら総司に目をやった。
「…勿論、近藤先生には…?」
「はい。土方さんは戻って来るまでは報告しないそうです」
近藤は戦地にいる。薩長が手を結んだことで、長州が幕府相手に暴走することはないだろうが、それでもその道中は危険を伴う。深雪の死など知らせれば、一途な近藤は気が漫ろになって任務どころではないだろう。
そんな近藤の気性をよくよく理解している永倉は「そうだよなあ」とやはり苦々しい顔をして頭を掻いた。彼の苦悩する様子に総司はピンときた。
「…もしかして、身請けの…小常さんでしたっけ?」
「あ、ああ…」
永倉には馴染みの小常という女がいるそうで、身請けを考えているということだった。けれども近藤の長州行きや隊士の死が続く中でなかなか話が進まないままだった。
「こんな時に自分の勝手を言うようなんだが…。この屯所の近くにいい貸家を見つけたんだ。金の都合もついたしあとは局長と副長の許可を得たいところなんだが…ますます言い出しずらいことになってしまった」
近藤の妾である深雪が亡くなった後であることを気にして、真面目な永倉はタイミングを見計らって慎重になっているようだったが、
「今だからこそ、いいんじゃないですか?」
と総司は背中を押した。思わぬ返答だったのか、永倉は困惑していた。
「しかし…」
「深雪さんもかつては身請けされた身ですから、請け出される小常さんの喜びは理解しているはずです。だからこそそんな祝い事を控えてまで喪に服してほしいなんて思っていないと思います」
「…そうだろうか…」
「そうですよ。それにいつまでも待たせては小常さんが可哀想です。振られちゃいますよ?」
総司がからかうと、ようやく永倉にも笑みがこぼれた。
「総司にそんなことを言われるなんてな。…わかったよ、早速土方さんに相談してみる」
「そうしてください。仏頂面かもしれませんが、土方さんも了承してくれると思います」
「ああ」
永倉は「ありがとう」と言ってそのまま土方の部屋がある奥へと向かって行った。
その後ろ姿を見送っていると、入れ替わるようにバタバタと大胆で激しい足音が聞こえてきた。
「原田さん?」
血相を変えて走ってきたのは原田だった。普段から粗暴なところがある彼だが、こんなにも慌てているのは珍しい。尋常ではない取り乱し方に何事かと様子を見にきた隊士たちが沢山いた。
「どうしたんですか?!」
と総司は緊急事態かと構えて問いかけた。すると原田は叫んだ。
「大変だ!」
「な、何がですか?不逞の輩が何か…?」
「ちげえよ!おまさちゃんが!」
「おまささん?」
「産気づいたんだ!」
「えぇ?!」
原田の大音声が近くの部屋にまで響く。その声の大きさとともにまさが産気づいたということに総司は驚く。
「小者が知らせてきたんだよ!もう産婆もきてるって…!」
「じゃあ早く行かないと…」
「一人じゃ怖えから、しんぱっつぁんについて来てもらおうと思って探してたんだよ!」
「永倉さんは土方さんへ大切なお話があって…」
「じゃあお前でいいから一緒に来てくれ!」
必死の原田は強引に腕を引いて駆け出す。総司は引き摺られるように屯所を出たのだった。

二人はほど近くにある原田とまさの住まいに辿り着いたのだが、すでにお産が始まっている状況で乳母をはじめとして、近所の女たちが駆けつけていた。慌てふためく原田を見て
「男はんは部屋の外で待っておくれやす!」
袂に襷をかけた年配の女子がピシャリと怒鳴って、総司とともに部屋から追い出してしまったため、二人して慌ただしいお産の現場から離れて、大人しく縁側に腰かけていた。
総司は威勢良く働く女たちを頼もしく見ていたが、原田は落ち着かない様子だった。
「あー…くそ…」
眉を潜める原田は、手持ち無沙汰であることが余計不安へ駆り立てるようだった。
「きっと大丈夫ですよ。念のため、南部先生もお呼びしましたし」
「…そりゃおまさちゃんも風邪ひとつ引かねぇ丈夫な身体だから大丈夫なんて笑ってたけどさ…」
「じゃあ大丈夫ですよ。それに産まれて来る子は他ならぬ原田さんの子供なんですから、少々暴れん坊かもしれませんが元気に生まれてくるにきまっています」
総司は気を紛らわせようと笑うと、原田も「おう」と答え表情を和らげた。
そして大きく息を吐いて話し始めた。
「…俺、さっさと田舎に見切りをつけて脱藩してさ。そのあともフラフラしてたからさ、正直家族の有り難みとかそういうの、よくわからねえんだ」
「原田さん…」
「だからなんか、こういう時どうしていいのか…やっぱりよくわかんねぇや」
原田はそう自嘲して何かを誤魔化すように空を見上げたたが、その気持ちは総司にも理解ができた。
幼い頃に両親を亡くした総司は姉であるみつに育てられたが、やはり姉が与えてくれる優しさや厳しさは、産んでくれた母は違うものなのだろうと思っていた。だからいつまでも記憶のなかにいる母はぼんやりとした想像でしかなく、そして自分が生まれて来たということも漠然とした事実としてしか認識できなかったのだ。
けれど、わからなくても原田は進み続けている。
「…でも原田さんはすごいです」
「ん?」
「家族を持つのは、自分のことだけではなくて他のものも守らなければならないってことですよね。それって今まで以上に覚悟が必要なことじゃないですか?」
自分だけ良ければいいのではない。自分以外の命を守るために尽くさなければならない。…それは総司にはまだ実感のできないことであったし、これからも得ることのない感覚だろう。
すると原田は「そうかもな」と笑った。そして視線を総司へ戻した。
「でも、俺はお前の方がすげぇなって思う」
「…え?私ですか?」
「昔、試衛館にいた時はさ、小難しいことなんてわからねえ、剣だけできればいい…なーんて甘ったれたことを言ってたのに、今や新撰組の一番隊組長なんてさ」
「それは…いまだに私も信じられませんが」
原田の言うことは尤もで、時々田舎の道場の食客でしかなかった自分たちが胸を張って京を歩いているのが可笑しくなったりする。
すると原田は「それだけじゃなくてさ」と続けた。
「例え家族を持たなくったって、俺と同じでお前はお前の守りたいものがある。だから強くなったんだろ?」
「…そうですね」
総司は頷いた。
もしあのまま試衛館にいたら、きっと何も変わらずに剣だけできればいいと割り切って生きていただろう。そして土方と特別な関係になることもなく、もしかしたら嫁を得て平穏に暮らしたのかもしれない。それは原田も同じことで、浪士組に参加しなければまさと出会うことはなかった。それぞれ全く違う人生を歩んだだろう。
いつだって振り返ってできた足跡、そして選択したきた場所に道ができる。
「ったく…お産でビクビクしてるようじゃいけねぇんだよな!」
原田がパンっと自分の頬を叩き立ち上がったところで、部屋の奥から唸り声が聞こえて来た。
「そ、そろそろか?!」
「そうかもしれません…」
およそまさのものとは思えぬ苦痛を伴った声に、二人は息を飲む。しかしその声も次第に聞こえなくなってかわりに二人の耳に飛び込んで来たのは、オギャアオギャアという元気な泣き声だった。

母子ともに健やかに産まれた、と産婆から聞かされて原田とともに総司はまさを見舞った。
「左之さん、沖田せんせ」
それが普段の呼び方なのだろうか、まさは生まれたばかりの我が子を抱いて微笑んでいた。
原田は飛び込むようにまさの傍に腰を下ろした。
「お…おまさちゃん…!大事ないか?」
「へえ…大事おへん。沖田せんせも、おおきに。元気な男の子や」
「オォ!」
「そうでしたか!」
原田はまさが身籠った頃から男の子に違いないと断言していたが、見事に的中したようだ。
そしてまさが赤子を差し出してきたので、原田はぎこちないながらも抱えた。
「重てぇ…重てぇな!」
「なんやの、それ」
「だってなんて言ったら良いのかわかんねぇんだよ。でも俺の息子だ、元気に違ぇねえよ!」
根拠のない言葉だが、まさは「そうやね」と嬉しそうに微笑む。息のあった夫婦漫才のような会話だが、自然と二人だけの優しい雰囲気に包まれていく。総司は頃合いを見計らって部屋を出た。
失われていく命もあれば、生まれてくる命もある。
総司はそれを目の前にして、どこか心が安堵していることに気がついた。その理由はよくわからなかったが、心はとても温かかった。




499


土方は墓の前に立っていた。
月命日に総司とともに通う壬生寺ではない。近いのにずっと足が遠のいていた…いや、どこかでここに来ては彼女に叱られるのではないかと思い、距離を置いていた場所だ。
土方は持ってきた早咲きの百合を備えた。神々しいほどに清廉に白く咲き誇る花は、華美な賛辞ではなく彼女にぴったりの花だと思っていたからだ。
「…君菊」
西本願寺の墓地で彼女の名前を呼んだ。もちろん返事はない。
明確に、土方が殺したと言える女だった。守れるはずだったのに、守れなかった。手を放したほんの少しの間にその命が奪われた。
彼女が与えてくれた恩に報いることすらできずに。
「…」
土方は立ち尽くした。膝を折って手を合わせることはなく、語りかけた。
彼女は決して恋人だったわけではない。けれどその身請けして傍に置いても良いと思えるような信頼できる女だった。
(俺は…あの日よりも鬼になれているか?)
あの日、池田屋での騒動が落ち着いた頃。土方のほんの少しの油断のせいで失った。だからこそ、もうこんなことは繰り返さない、そのためにもっともっと鬼になる―――そう決めた。
だから敵味方関係なく、新撰組のために尽くしてきたつもりだ。新撰組という近藤が夢見て、仲間が形作った場所を守るために、心を鬼にしてその道を切り開いてきた。
河合という仲間を殺した―――それは、法度という盾を武器に無抵抗な弱者を虐げたということなのだろうか。
(その報いなのか…?)
深雪が死んだのは、自分が為してきたことへの報いなのか。
問うても答えの出ないことで、土方は自分を責めた。総司は何があっても土方の味方であると告げた。近藤はきっと慟哭し、憤り…もしかしたら土方を憎むのかもしれない。
「…お前は何て言う…?」
何故だか、その答えを知っているのは彼女なのではないかと思ったのだ。
しんと鎮まった墓地に、土方は目を閉じてその答えを待つ。目に浮かんだのはあの日、男に刺されて絶命する君菊の最後の姿だった。
真っ赤な血を浴びた痛々しい君菊だったが、その命運を受け入れて『仕方ない』と言い遺した。それは『許す』と同義だった。
「…お前も許すのか?」
土方が問いかけると突然強い風が吹いて、百合が風に煽られて揺れた。それは土方の言葉を、頭の中をかき消すようだった。
(そうだな…)
許す、許さないの問題ではない。
自分のせいではないと責任を転嫁するわけでもない。けれどその人生の全てが最期の迎え方だけで語られるものではない。
少なくとも君菊は
『何ゆうてはるの?』
と笑い飛ばしている気がした。
「じゃあな…」
土方は君菊の墓に背を向けた。彼女もまた『それでいい』と言ってくれるのだと信じたかった。


総司が朝の巡察から戻ると、屯所には伊庭の姿があった。その傍には原田と永倉、そして藤堂の姿があり、それはまるで試衛館での一場面を彷彿とさせるような光景だった。
「みんなで集まって、懐かしいですね」
総司が駆け寄って声をかけると、その中心にいた原田が「だろ?」と笑い、永倉が続けた。
「試衛館にいた時の懐かしい話をしていたんだ」
「他愛のない話がどんどん盛り上がって…もう一刻ほどになりますかね」
「おなごの井戸端会議のようだ」
一緒になって伊庭が笑うと、原田と永倉が頷く。懐かしい顔が集まってよほど盛り上がっていたのだろう。しかし傍にいた藤堂が
「…じゃあ、俺はこれで失礼しますね」
と軽く頭を下げて去って行ってしまった。その後ろ姿を見ながら
「なんだ、あいつ?」
「内海さんの講義があるのかもな」
原田と永倉は不思議そうに首を傾げていたが、総司にはその理由がわかった。
(僕を避けているんだろう…)
河合の一件で、土方と藤堂の間には明らかな溝ができてしまった。その溝は埋まることのないまま時間だけが流れている。当然、土方に一番近い立場である総司にも何か思うところがあるのだろう。
仕方ないとわかっていながらも、総司は落胆せずにはいられない。機敏な伊庭はそれに気がついたのか、「それより」と話を切り上げて続けた。
「聞いてください、沖田さん。先日生まれた原田さんのご子息につける名前が決まったそうなんです」
「…へえ、どんなお名前なんですか?」
めでたくも原田が男児を授かったことは、新撰組にとってもひさびさに良いニュースとなった。河合と深雪が亡くなってから鬱屈と蔓延していた暗い雰囲気を、原田の喜びが吹き消していたのだ。
そんな原田がなぜか誇らしげに胸を張った。
「へっへー。聞いて驚け、名前は茂だ!」
「しげる……って、まさか?」
「将軍家茂公から一文字拝借したのさ!」
「えぇ?!」
自信満々に宣言する原田に、総司は肝を冷やした。
自分たちの主君である将軍の名前を軽々しく口にするのさえ憚られるというのに、その名前から一文字頂くなど、総司には考えられない大胆さだったのだ。
「だ…大丈夫なんですか?そんなことをして…」
「何ビビってんだよ。俺たちは伊庭みたいな幕臣でもなければ武士でもない浪人だ。わざわざ咎められることもないだろ?」
「それはそうかもしれませんが…」
「大丈夫ですよ、沖田さん。上様はそのようなことで怒るようなお人ではありませんから」
ははっと伊庭が笑い飛ばす。幕臣であり将軍家茂公に近い場所にいる彼がそう言うのだから間違いないだろう。
「将軍様はどういうお人なんだ?」
永倉の質問に、伊庭は微笑んだ。
「とてもお優しい方ですよ。お若いですが、素直で聡明で周囲の家臣を惹きつけるような温かな方です」
「へえ…」
直接顔を合わせたことがある伊庭だからこその実感のこもった言葉だった。
もともと一橋公とその座を争った家茂だが、様々な思惑に振り回されながら将軍職についた。朝廷との距離を縮めるための政略結婚として迎え入れた和宮だが、その仲も穏やかで睦まじいと噂で聞いたことがある。
「幕臣として、今の情けない幕府には辟易とすることがありますが…それでも上様にはこの身を尽くすつもりです」
いつも茶化してその本心をなかなか語ろうとはしない伊庭にしては、固い決意を感じる言葉だった。それほどまでに将軍を敬愛し尊敬しているのだろう。
「だから茂というお名前もなかなか良いお名前だと思います。きっと原田さんのように男らしく、上様のようにお優しく育つことでしょう」
「…伊庭にそう言われると、そんな気がしてきたな」
原田は照れ臭そうに頭を掻きつつも「ありがとな」と嬉しそうに笑った。
そうしていると、隊士が原田と永倉を呼びにやってきた。二人は昼の稽古当番だったのをすっかり忘れていようで慌てて道場へ走って行ってしまった。
そんな二人を見送って、伊庭は総司に向き直った。
「すっかり話し込んでしまいましたが…実は大坂に戻ることにしましたので、ご挨拶に来たんです」
「そうでしたか」
もともと伊庭が上京したのは、大坂で関わりのあった御幸太夫が近藤に身請けされたことが気にかかったから、ということだった。無事に孝が間者ではないかという疑いが晴れたため、元いた場所に戻るのだろう。
「こちらに来て一ヶ月ほどでしたがこれから日に日に情勢が変わっていくことでしょう。薩長が手を組んだというのもどうやら噂ではなかったようですから」
「御典医の松本先生もおっしゃっていました」
「ええ…これから目まぐるしく何かが変わっていく。それに伸るか反るかはその時にならないとわかりませんが、この身を賭して…」
伊庭がふと言葉を止めて笑い始めた。
「伊庭君?」
「いや…すみません。俺は自分が幕臣という生まれであることを何度も呪いましたし、新撰組として意気揚々と活躍する皆さんを羨ましく思っていたんですが…いつのまにか自分の考えが変わっていたようです」
「変わっていた?」
「上様にお会いしたことが俺の考え方を変えてくれたようです。あの聡明でお優しい上様をお守りしたい…その気持ちが芽生えた。だから俺はどうあっても幕臣であることは捨てられないでしょう」
そう笑う彼の横顔に髪がなびく。彼はいつも冷静で大人びていてとても総司よりも年下には見えないけれど、その胸の奥にはいつも何か明かりが灯っているように見える。
それはきっと幕臣であると言う覚悟と誇りなのだろう。
そんな彼がとても頼もしく見えた。
「…またぜひ遊びに来てください」
「はい。残念ながら土方さんは不在のようですから、よろしくお伝えください。近藤先生にも。それからお孝さんにも…良いように計らってあげてください」
「わかりました」
伊庭は満足げに頷いて「じゃあ」と手を振って背中を向けたのだった。






500


廣島の夜。最前線と言われながらも、ここでは平穏な時間が流れていた。
「伊東先生、よろしいでしょうか?」
宿屋の一室、帯同する篠原の声に伊東はもちろん「どうぞ」と答えた。
「夜分遅くに申し訳ございません」
篠原はその大きな体を丸めて頭を下げた。柔術を得意とし新撰組ではその師範を務めるだけあって体格の良い男であり、威圧感のある顔立ちも相まって近寄りがたい雰囲気を醸し出している。しかしその内面は伊東を信奉し忠義に厚く信頼できる男だ。だからこそ同行に選んだ。
「どうした、篠原。君はいつもならもう寝ている時間だろう」
よく食べて、よく働き、よく眠る…内海は篠原のことを『少年のようだ』と評していたがその通りだと思う。
すると篠原は素直に頷いた。
「そうなのですが…手紙が届きまして」
「手紙?」
「内海先生からです」
伊東は「ほう」と関心を持った。一番の腹心の部下である内海は屯所に残し、何か状況に変化があれば報告してくるように伝えていた。聡い彼は戦地にいる伊東を気遣って、本当に有用な情報しか寄越さないだろうと思っていたので、つまりはこれは重要なことが書かれているに違いない。
手紙を受け取り、内海の美しい文字に目を通す。やや仰々しい挨拶の後に新撰組の現状について報告があった。
勘定方の河合の死ーーーこれに関しては近藤から聞き及んでいたので新しい情報ではない。ただこのことで藤堂の心が随分と乱れ、揺れているようだと付け加えられていた。彼はまだ若いが試衛館の食客として影響力を持つ…伊東が新撰組に加入したことも恩義に感じているようだから、いずれなんらかの形で役立つだろう。
そしてもう一つ、近藤の妾である深雪の死。
「…局長の様子はどうだった?」
伊東が尋ねると篠原は首を傾げた。
「特に…いつもと変わらないご様子でしたが」
「そうだな」
伊東は同意した。
感情の豊かな近藤は最愛の妾の死を知れば取り乱すに違いない。つまりは深雪の死を近藤は知らないのだろう。内海曰く、正式に箝口令が敷かれた訳ではないのでお知らせした、ということだったが。
「伊東先生。近々、都へ戻ることになるというのは本当でしょうか?」
「幕軍はそのつもりだ。長州は頑なに幕府の使者を受け入れようとはせず、薩摩と手を結んでしまった。ここにいても埒があかないと判断したのだろう」
薩長が手を結んだという話は廣島にも届いていた。真っ向から幕府に喧嘩を売っていた長州と、したたかに幕府側として動いていた薩摩…二藩が結びつくことは予想だにしないことだったが、けれどももともと関ヶ原以降から外様大名として遠ざけられて来た無念が根底にあったのだと考えれば、そう理解できない展開でもない…と伊東は考えていた。
巨大な二藩が結びついた…けれどもこれまで三百年弱続いてきた幕府は、月日にあぐらをかいてこれからも安泰に違いないと楽観的に構えている。近藤はこのことに危機感を持っているようだった。
「伊東先生のお考えは…?」
「…」
篠原の質問に、伊東は口を噤んだ。すぐに応えることもできたのだが、監察として動く山崎の存在が気にかかる。壁に耳あり障子に目あり…誰がどこで何を聞いているのかわからないのだ。
すると彼は「申し訳ございません」と再びその大きな体躯を丸めた。差し出がましいことを言ったと思ったのだろう。
伊東は微笑み、「頭をあげてくれ」と言った。幸いにも山崎の気配はない。
「私の考えは変わっていない。そもそも入隊した時から野蛮な異国を打ち払う『攘夷』の実行を願っている。ただ『佐幕』か『尊皇』か…その違いが近藤局長との差異だ」
藤堂の誘いに応じて、新撰組に加入した。会津の傘下ではあったが都の治安を維持することが攘夷につながるのなら『佐幕』もやもなしと考えたからだ。
しかしこうして怠慢で愚かな幕府の態度を見せつけるたびに、『佐幕』という場所に身を置くことに嫌悪を覚えた。そして疑うことなく幕府を信奉する近藤は、命運を共にするだろう。
(そんな愚かな真似はしない)
水戸で学んだ伊東には幕府への忠義はなく、幕府と心中するつもりはない。だからこそ、薩長が手を結び何かが起ころうとしている今、身の振り方を考えなければならない。
伊東は突然、篠原に問うた。
「…近藤局長はどちらへ?」
「は…その、幕府の役人と会食へ出かけたはずですが…」
困惑した篠原が首をかしげる。するとタイミングよく宿屋の女将が「おかえりなさいませ」と迎え入れる声が聞こえて来た。それに応える近藤の声も聞こえた。
「…私は近藤局長と話がある。君は先に寝ていなさい」
「は…はあ」
伊東は内海からの手紙を懐に入れ立ち上がり、そのまま部屋を出た。残された篠原はポカンとした表情で伊東を見送ったのだった。


総司が別宅を訪れると、土方は縁側で何かを読んでいた。
「土方さん、来ましたよ」
「ああ」
もちろん気配で分かっているのだろう。土方は振り返ることなく頷いて、その手元から目を離さなかった。
総司は土方の隣に腰を下ろす。
「そのお手紙…近藤先生ですか?」
「ああ…近いうちに都に戻ると書いてある」
「本当ですか!」
総司は喜んだ。
直筆の手紙が届いているのなら、心身ともに無事だということなのだろう。
けれど土方の表情は冴えなかった。
「何か気にかかることでも?」
「…伊東と篠原は残る」
「え?」
総司は驚いた。前回の長州行きから山崎を潜伏させているように、参謀である伊東が諜報活動を行う…とは俄かに信じられなかったのだ。同行した篠原は監察としての経験があるが、近藤に次ぐ地位にいる伊東自ら行うことではない。その意図は総司には想像ができなかった。
「どういうことなんでしょうか…?」
「手紙には詳しくは書いていない。それに…かっちゃんにしては素っ気ない内容だ」
「え?」
総司が首を傾げると、土方はその手紙を手渡してくれた。
手紙は短かった。幕府の意向で帰京することになる、そして伊東が篠原とともに残り長州の様子を探る…それだけが書かれていた。
(たしかに近藤先生らしくない手紙だ)
大抵自分のことや周りのこと、そして新撰組を気遣う内容が添えられているがそれもない。
「…お忙しい、ということでしょうか」
「そうかもな…」
土方はそう答えたが、納得していない顔だった。それに伊東たちが残るということを近藤が一人で決めてしまったので受け入れがたいことなのかもしれない。総司は手紙を折りたたみ彼に返した。
「まあ…お戻りになられたらお話を聞かせて頂けるということでしょう」
「…」
土方は深く息を吐いて「膝貸せ」と言ってきた。そして有無を言わせず総司を引き寄せて膝枕にして横になる。総司は「仕方ないなあ」と苦笑した。
春と夏の間、暖かで柔らかな日差しが縁側に差し込んでいた。日向ぼっこには心地よい天気だ。
「歳三さん」
「何だ」
「…おみねさんが、しばらくこちらに来られないことを申し訳なさそうにしていましたよ」
みねはいま、孝に付きっきりで世話をしている。深雪が亡くなってから葬儀だけは何とか顔を出したが、ずっと部屋に引きこもっているらしい。
「別に…いい。俺は毎日ここに来るわけじゃない」
「はい、そういうと思っておみねさんにもこちらは大丈夫なので、お孝さんのことを頼みますとお伝えしました。…お孝さんはどうするつもりですか?」
「どうするもなにも…俺が決めることじゃない。かっちゃんと孝が決めることだ」
「…そうですね」
深雪も孝も近藤の妾として囲われている立場だ。自由にはなれないが、近藤のことだから妾という立場から解き放ち、良い嫁ぎ先でも探すのかもしれない。
(それもこれも…近藤先生に全てをお伝えしてからだ)
廣島から戻った近藤がどんなに悲しみ嘆くか…そして幼馴染であり親友である土方がどんな風に謝るのかと想像するだけで胸が痛んだ。
「変な顔をしているな」
「え?…ああ、いいえ」
表情の変化を土方に見られていたのだろう。彼は総司の?茲に手を伸ばし、軽く抓った。
「い、痛い」
「いいから、考えすぎるな」
土方はそう言って少しだけ微笑んだ。屯所では決して見せない気の緩んだ姿に、総司も絆される。
遠い場所ばかりを見据えても、足元が覚束無くなるだけだ。先の見えない将来を心配するよりも、今のこの健やかで和やかな時間を幸福に思って過ごす方が良い。
「…わかりました。ずっと隣で笑っています」
総司はそう答えて笑って見せた。土方は満足げに頷いて目を閉じた。そして彼が微睡み始めたので、総司は天を仰いだ。
(ずっと隣で…笑ってほしい)
屯所では鬼だと言われていても、この小さな家のなかでは本当の彼でいてほしい。
(僕はそこに寄り添っていたい…)
いまの願いはただそれだけだ。
たった一つの願い。
だから叶うに違いないと、そう思っていた。





解説
深雪の死亡時期については史実とずれているところもあります。また深雪は近藤の気持ちが妹のお孝へ移ったことを理由に 手切れ金を受け取り身を消したという説盛ります。また原田の息子・茂が生まれた時期もずれている可能性があります。
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