わらべうた




501


慶応二年三月末。
「あっ、原田さん、こっちですよ!」
沖田総司は、西本願寺の門を潜りこちらに走ってくる原田左之助に手を振った。彼は息を切らしながら必死の形相で駆け込む。
「はぁーっはぁーっ…まだ近藤先生は帰ってきてねぇよな?」
「小者からの知らせではもう少しでご到着されるということでした。ギリギリ間に合いましたね」
「良かった。茂が大泣きしてさ。なかなかおまさちゃん一人に任せられなかったんだ」
元気が取り柄と自負する原田だが、つい先日生まれたばかりの長男・茂は昼夜問わず泣きわめき両親を困らせているらしい。そのため毎日寝不足だと苦笑するが、それでも幸せそうな満面の笑みを絶やさない。
「やっぱりお前に似てやんちゃなんだ。おまささんも手を焼くに違いない」
そう言ってからかったのは永倉新八だ。彼もまた念願叶って小常という馴染みの女を身請けすることが決まっていた。
試衛館食客のなかでも特に親しい二人だが、普段であればここにもう一人加わって談笑しているはずだった。
(藤堂君は…)
総司が周囲を見渡すと、藤堂平助は参謀である伊東甲子太郎の腹心部下、内海次郎と並んで立っていた。その周りには所謂『伊東派』と揶揄される江戸からの同志である加納鷲雄や服部武雄や、伊東の実弟である鈴木三樹三郎の姿がある。藤堂はもともと伊東の門下生であり新撰組に招いた立場であるのだから自然な光景ではあるが、総司はどうしても寂しさを感じてしまう。
藤堂と距離が決定的に開いてしまったのは河合耆三郎の一件だ。河合が隊費の紛失を咎められ、藤堂がそれを庇ったのだが、結局は切腹が言いつけられた。その一件以来、特に藤堂は伊東派と距離を縮めつつあるのだ。
(僕にできることはないけれど…)
人の心はうつろう。それを止めることはとても難しいことだとわかっていたからこそ、総司は深いため息をついた。
すると
「どうした」
とすかさず声をかけてきたのは斉藤一だった。無口で無愛想だが、剣術だけでなく観察力に優れた人物だ。
「何でもありません。巡察は終わったのですか?」
「ああ。今、報告を終えてきた所だ」
「でしたら…」
そろそろ来るだろう、と言いかけたところで、隊士たちの談笑がスッと止む。副長である土方歳三が姿を見せたからだ。
「近藤局長はまだか?」
「はっ…もう少しでお戻りになるかと」
「そうか」
隊士とのその短い会話にさえ緊張感が走る。『鬼副長』の仇名を易々と受け入れて振る舞う土方に、隊士の誰もが平伏さんばかりに縮こまった。
(ピリピリしてるなあ…)
昔から色男と持て囃され端正な顔立ちをしているというのに、不機嫌を隠さず四六時中眉間に深いシワを刻んでいる。このところはいつかそのシワが取れなくなるのではないかと思うくらいずっと不機嫌だ。それが周囲の隊士たちを威圧してしまうのだが、その理由は今日という日を迎えたくなかったからなのだろう。
こうして隊士が一堂に会して集まっているのは、長州から局長の近藤勇が帰還するからだ。二度目の長州行きとなった今回も成果という成果はないままの帰還となるが、武士でもない浪士という立場で幕府の一員として二度も随行できたのは、新撰組が評価されているということだろう。
だが、今回は近藤と尾形俊太郎のみの帰営となる。同行した伊東と篠原泰之進は未だに長州への潜伏を試みるために残ったというのだ。
(土方さんはそれが引っかかるみたいだけど…)
近藤からの手紙には詳細が書かれておらず伊東と篠原の残留を許したとだけあった。遠く離れていても土方の判断を仰ぐ近藤にしては珍しい行動だ。土方はそれが気に入らなかったようだが、彼の不機嫌はそれが理由だけではない。
総司が考え込んでいると、ワッと声が上がった。西本願寺の門から歩いてやって来るのは近藤と尾形だ。
「お帰りなさいませ」
「ご無事で何よりです」
隊士たちから声がかかると、近藤は笑顔で答えた。総司は遠目ではあるが近藤が変わりなく戻ったことに安堵した。
近藤は隊士一人一人の顔を見ながら頷き歩を進める。やがて総司の前に立った。
「近藤先生…!」
「総司、元気そうだな」
「はい。先生もご無事で…」
近藤は笑みを浮かべ、労うように肩をポンポンと叩いた。局長、参謀といないなか一番隊組長として気負うものがあったことを知っていたのだろう。隣にいた斉藤にも「ご苦労だったな」と声をかけると斉藤は頷いた。そして次は原田と永倉へ身体を向けた。
「左之助、ついに生まれたんだって?大変だったな」
「おう。母子ともに元気だ。名前は『茂』だ」
「ははは、大それた名前をつけたものだ。今度会わせてくれ」
「もちろんだ」
『茂』は将軍家茂公から勝手に拝借したものだ。雲の上の存在である将軍に対して不敬とも取られかねない行動だが、近藤は笑って許した。
「永倉くんも良い話があると聞いた」
「はい。また紹介させてください」
「うん」
微笑ましい会話だった。久々に再会した友人がその無事を確かめるような穏やかな雰囲気だ。試衛館にいた頃のような和やかな空気が流れている。
けれど総司には違和感があった。いつもなら真っ先に土方の元へ向かうのに、近藤はその視線すらそちらに向けようとはしなかったのだ。直前の手紙の内容も素っ気ないものだったので、それは偶然ではなく意識的なものなのだろう。
そして、永倉との会話を終えてようやく土方の前に立つ。二人は少し沈黙した。
「…戻ったよ」
「ああ…」
それまでの近藤からは考えられないほど端的な挨拶だった。土方ももちろんそれには気がついている。二人の間に流れる妙な空気は隊士たちにも勘づかれ、どことなく緊張感が増す。
「どうしちまったんだ?」
「さあ…」
原田が小声で永倉に尋ねるが、答えを知らない彼は首を横に振った。先ほどまでにこやかだった近藤が別人のように怜悧な横顔を見せていた。
「…土方君、話がある」
「ああ、わかった」
近藤が先導して歩き、土方はそれに従った。険悪な空気だけ残し二人が去って行ってしまったので、隊士たちは困惑しながらの解散となってしまった。
(前は『歳』って言っていたのに…)
前回帰還した時は隊士の前であったのに『歳』と呼び土方が文句を言っていた。だからこそ先ほどの『土方君』という言い方には距離を感じ、総司は言いようもない不安に立ち尽くすが、
「尾形」
隣にいた斉藤が、尾形を捕まえた。近藤と帰路を共にしていたのだから何か知っているだろうと踏んだのだ。
「何があった?」
「…あの…私が言えることは何も…」
斉藤の問いに、尾形は顔を歪める。目が泳ぎ居心地悪そうにしていたが、
「教えてください」
「すぐにわかることだ」
と総司と斉藤が食い下がったので、仕方なく観念したようだ。
「妾の…深雪殿が亡くなったことを耳にされたご様子です」
「…一体、誰から…」
「伊東参謀です。それから局長のご様子がおかしくなってしまって…」
数日前亡くなった深雪の死については、土方は近藤が無事に帰営するまで伝えないつもりでいた。敵地に居る近藤を動揺させてはならないという土方らしい判断だったのだ。だからこそ、土方は近藤の帰還を複雑な心境で待っていた。
近藤らしからぬ行動や表情ーーー全ては深雪の死を知ったから。
総司は尾形の話を聞き終える前に駆け出した。
「おい…!」
斉藤が引き止める声さえ、総司の耳には入らなかった。


西本願寺の屯所は、使われていなかった集会所を隊別に割り振り使用している。その一番奥は『幹部部屋』とも『鬼の巣窟』とも言われ滅多なことでは隊士が近づかない場所だ。
近藤がまるで地鳴りのような足音を立てながら自室に入る。怒っている…と察するのは簡単だ。誰にでもわかる。土方は黙ってそれに従い襖を閉めた途端、ガンッという激しい音ともに痛みが襲ってきた。
「ーーッ!」
土方はバランスを崩し、その衝撃で積み上げてあった本の中へ身体がなげだされた。まるで身体に電流が走ったかのような痛みは、近藤に?茲を殴られたからだ。
「…不意打ちとは、卑怯じゃねえか」
口の中は血の味がした。けれど近藤は拳をギュッと握りしめ未だに怒りに打ち震えている。
仁王像のようだ。怒りの表情を隠すことなく顕にした阿形像、内なる怒りを秘めた吽形像…その二つを一緒にしたように、近藤は激高していた。
「隊士の前では堪えたんだ…!」
「…意外と冷静だな」
「うるさい!なぜ深雪が死んだことを教えなかった!」
近藤は土方の胸ぐらを掴み怒鳴る。
「お前は俺に深雪は息災だと知らせてきた!だから俺は何も知らず…結局、深雪の死に目にも会えなかった…!」
「…」
「どうして教えてくれなかったんだ!」
その大きな口から放たれる慟哭。怒りの中に悲しみが混じる近藤の心そのものだった。
土方は近藤がこんな風に怒るだろうとわかっていた。順番は違ったが結末は同じはずだ。
「…教えたら、どうなるというんだ」
「何…」
「長州から戻ってくるのか?奥方でもないたかだか妾のために?…そんなこと新撰組の局長にされちゃたまったもんじゃねえ。名折れも良いところだ」
「歳!」
真っ赤になった近藤が反対側の?茲を殴った。土方は歯を食いしばり、拒むことなく甘んじて受け入れた。それどころか煽るように続けた。
「図星を指されたんだろう?正常な判断ができなくなった…だから伊東たちを置いて戻ってきた」
「違う!伊東参謀にはお考えがあって…」
「ふん、深雪のことは伊東から聞いたんだろう。それを使えば局長が混乱する…お前は良いように騙されたんだよ」
「…違う、違う違う違うッ!!」
襟を掴んだ近藤が我を忘れて拳を振り下ろす。
子供の頃でさえこんなに感情を剥き出しにして憤怒することはなかった。幼い頃から土方がどんな悪戯をしても笑って受け流し器の大きさの違いを見せつけられたものだ。
だからこそ、こんなにも憤るほど深雪のことを思っていたのだと知る。
(好きにしろよ…)
近藤が抱える痛みに比べれば、身体の痛みなどなんてことはない。近藤の怒りを煽ったのも、それで少しでも気が晴れるなら構わないと覚悟していたからだ。
土方が目を閉じようとした…時
「近藤先生!やめてください!!」
悲鳴のように声を上げて部屋に飛び込んで来たのは総司だった。近藤の腕に飛びついて静止し、土方を背にするように間に入った。だがそれでも近藤はその拳を振り上げたままだ。
「総司、退け!」
「嫌です!やめてください、先生!」
「お前も殴るぞ!」
「構いません!深雪さんの件なら私も同罪です!」
「…ッ」
深雪の容態を、死を知らせずに黙っていた。その件では土方と同罪だと思っていた。だからこそ土方一人が責められる状況は間違っていて、近藤に殴られても仕方ないと覚悟は決めていたのだ。
だが近藤はその拳を振り下ろさなかった。脱力したようにゆっくりと下ろしうな垂れた。燃え上がった炎が水をかけられてその姿を消すように。
「…出て行ってくれ」
「先生…」
「頼む…一人にしてくれ」
近藤は込み上げてくる感情を堪えるように唇を噛んでいた。怒りが解かれたわけではなく、ただ僅かに残った自制心が働いただけなのだ。
「わかりました…」
総司は土方を支えながら部屋を出た。しばらくすると近藤の嗚咽が聞こえて来たのだった。




502


近藤の部屋を出た総司は、土方とそのまま別宅へ向かうのだろうと思ったのだが
「いや、屯所を離れるわけにはいかない。今のあいつは何しでかすかわからねえからな…」
「そんな…」
普段の近藤なら感情が豊かではあるが、カッとなって自棄になることない。けれど部屋の外にまで響いた大音声の怒声は、少なくとも総司が初めて見る近藤の姿だったので、土方の言い分もあながち大袈裟ではない。
「じゃあ…ひとまず一番隊の部屋へ行きましょうか」
「ああ…」
土方の部屋は近藤と隣り合っているので居心地が悪い。一番隊は今日は非番であるので部屋に残っている者も少ないだろう。そう思って二人で部屋に向かうと伍長の島田魁と隊士の山野八十八たち数人の隊士が思うままに非番の日を過ごしていた。将棋を差したり書を読み耽ったり刀の手入れをしたり…どれも健全な休日の過ごし方ではあったのだが、土方のただならぬ姿を見ると皆が揃って慄き、居住まいを正した。総司はなんだか申し訳ない心地で申し出る。
「すみません、少しの間だけ人払いできますか?」
「は…っ!」
島田が答えぞろぞろと隊士たちが出て行く。するとすれ違い際、山野が
「沖田先生、塗り薬などお持ちしましょうか?」
と小声で尋ねて気を利かせた。普段から総司の体調面などを支えて来た彼なら信頼ができる。総司は頷いて頼み、彼も「わかりました」と了承して去って行く。
そうして部屋はガランとして二人きりになった。
土方は将棋盤の近くに腰を下ろしたので、総司も近くに座った。
「…近藤先生は伊東参謀から深雪さんが亡くなったことを知ったそうですね」
「尾形か?」
「はい。詳しいことはわかりませんが…参謀に近い立場の者が知らせたのでしょう」
「道理で手紙が素っ気ないわけだ」
近藤が伊東らを置いて長州から帰還したことも、土方には何の相談もなかった。これまで幾度となく土方に意見を求めて来た近藤にしては違和感のある行動だということは総司でさえ察していたが、深雪の死を知った上でのことなら納得ができる。
土方は吐き捨てた。
「伊東は近藤先生が冷静な判断が出来なくなることがわかっていて話したんだ。案の定、動揺した近藤先生に『こちらでのことは任せて早く帰ったほうがいい』とでも進言したに違いない」
「…伊東参謀は何のために残留したのでしょうか」
「話によると幕軍は敵を目の前にしても覇気がなく堕落した姿だったそうだ。伊東はもともと尊皇攘夷の考えが強く、佐幕感情は薄い。…そろそろ幕府を見限って行動を起こす頃かもしれない」
伊東は剣の腕だけでなく水戸で学んだ秀才だ。水戸では黒船来航からあっさりと開国を許した幕府に対して反感を持つ考えが強く、伊東もその一人だった。土方はもともとそんな経歴の彼が幕府側である新撰組に加入することに懐疑的だった。
伊東に加入を誘ったのは藤堂だが、その彼もまた隊の根幹をなす試衛館食客たちから距離を置きつつある。
「くそ…」
土方は苛立ったように呟いた。
そんな状況だからこそ、近藤と土方は一致団結してことに当たらなければならないのだが、近藤の怒りは凄まじかった。
「深雪さんのこと…それほど想っていたんですね」
近藤の怒りを目の当たりにして、総司には悲しみが込み上がっていた。心の準備はできていたはずなのに、予想以上の慟哭を目の前に励ます言葉さえ浮かばなかった。
(…そんな自分に落胆してしまうな…)
総司が気落ちしていると、「失礼します」と声がかかった。
「沖田先生、こちらにお薬を置かせていただきます」
「…ありがとう、山野君」
察しの良い山野は部屋には顔を出さず、そのまま声だけ掛けて去って行く。総司は彼が用意した塗り薬を受け取り、土方の目の前で中腰になった。
「唇が切れてますね。痛いでしょう」
「…あいつ、突然殴って来やがったからな。歯をくいしばる余裕もなかった」
「こちらに戻るまでずっと込み上げてくるものを我慢していたのだと思います」
「ああ…」
総司は塗り薬を土方の赤く腫れた患部に塗る。滲みるに違いないが土方は顔色を変えなかった。
(きっとこの人のことだから、進んで殴られたに違いない)
深雪が死んだのは自分のせいだと責任を感じている土方は、近藤が戻ってきたらこうなるということはわかっていた。だからこそ近藤を煽り気がすむまで殴ってくれと思っていただろう。
けれどそんな方法では一時的な怒りを鎮めることができたとしても、二人の間に亀裂が生まれてしまう。幼馴染だからと胡座をかいてはいられないのだ。
だが、それ以上に人の気持ちを他人がどうこうすることは出来ないのだと知っていた。
「…近藤先生が落ち着かれたら、私からお話ししても良いですか?」
「何を話す?」
「これまでのことです。河合さんのことやお孝さんのこと、そして深雪さんが亡くなったことまで…経緯を隠すことなく話すべきだと思います」
伊東から深雪の死を知ったということは、隊士たちのなかで飛び交う根も葉もない噂話を伝えられたという可能性もある。
(全てをお話しして…近藤先生がどう思われるのかが大切だ)
総司の提案を土方は受け入れた。
「わかった。…俺じゃあいつが冷静になれないだろうから、お前に任せる」
「はい」
総司は赤く腫れてしまった土方の?茲に手を伸ばす。すると同じように土方が総司の?茲に触れた。その指が耳の辺りをなぞる。
「くすぐったいですよ」
総司が身を竦ませると、それを引き寄せるようにして土方は口付けた。薬の苦い味がしたが、それがやがて甘く変わる。
すぐ傍に彼がいる。いつ何時も心を占める存在が目の前に。それはきっと自分が思っている以上に幸せなことなのだろう。
(近藤先生は一人きりになってしまったんだ…)
仲間はいる。部下もいる。幕府からの信用も得て夢だった武士への道が近づいている。
順風満帆な近藤の中で深雪という存在はとても大切だったのだ。別宅で過ごす心安らかな時間にどれだけ癒されていたことだろう。だからこそそんな存在を急に失ったことを簡単に受け入れられないのは当たり前のことだ。土方や他の誰かを責めて楽になれることでもない。
「…どうした?」
ぼんやりとしていたことに気がついたのだろう。土方が口付けをやめて見つめた。
「いいえ…何だか寂しくなっただけです」
幼馴染の土方でなくても、近藤のことはよくわかっているつもりだ。だからこそあの激昂が悲しみに裏返しだとわかっている…だからこそ寂しい。
「そうだな…」
土方は何も言わずとも総司の心情を理解してくれた。そして何も言わずに抱きしめた。


「内海さん」
声をかけらた内海は内心(珍しいな)と思いながら振り返った。そこには伊東の実弟である鈴木の姿があった。
「…どうされました」
「兄上は今どちらに?」
ストレートな質問だった。弁の立つ伊東の弟だが、彼は真反対で無口で寡黙であり飾らないまま言葉を口にするところがある。それはある意味では彼の長所ではあるが、隊士たちが行き交う廊下で話すようなことではないだろう。
「…ここで話すことではありませんね。移動しましょう」
内海は境内の裏にある井戸へ向かった。稽古が終わると隊士たちで賑わう場所だが、今はがらんとしている。
「大蔵さんのことですが…私は特には存じ上げないのです。今回、あちらに残留されるということも…近藤局長の帰還が決まってから知ったことですから」
「兄上にはきっと何かお考えがあるはずです。それを…一番近い場所にいる内海さんならご存知ではなくとも察することができるのではないですか?」
鈴木は食い下がった。
彼が内海を嫌っているのはわかっていた。おそらく昔、水戸への遊学を誘い家から連れ出したのだと思っているのだろう。
そんな二人の間には険悪ではないにしろ距離があるのだが、伊東は『だからこそ』と鈴木のことを内海に任せようとする。伊東のことを心配するあまり鈴木が無茶をしては困るので、その楔としての役割だ。
「…私個人の考えですが、大蔵さんはおそらく西国諸国へ足を運んでいると思っています」
「西国…」
「どこか、は具体的にはわかりません。ですが…大蔵さんはこのところますます尊皇への気持ちを強めているように思う」
「兄上は新撰組を裏切ろうとしているということですか」
「鈴木さん」
口が過ぎる、と内海は制した。人気がないとはいえどこで誰が聞いているのかわからない状況なのだ。鈴木は素直に「すみません」と謝った。
「…大蔵さんがどこまで考えているのかわかりません。ただ佐幕だけではこの国を守ることはできないというお考えは入隊時からお変わりないはずです。新撰組を良い方向へ導く…そういう風に解釈してください」
「…しかし今回、近藤局長と尾形のみ戻ったことについてさまざまな憶測が流れています。何か…出来ることはないのでしょうか」
内海は驚いた。
鈴木が本当に内海に問いたかったことは今何が出来るのかということなのだろう。伊東が不在の上、何かが動こうとしている…今回の行動でその気配を伊東に近い隊士たちも察しているはずだ。だからこそ必要以上の憶測が流れる。それを鈴木は危惧していたのだ。
けれど内海も伊東の考えを全て把握しているというわけではない。実際に長州に残って何をしようとしているのか全くわからないのだ。
だが、伊東がこの場にいたら鈴木に何と伝えているのか…それは分かる。
「もし何か行動を起こしたいと思っている者がいたら、こう伝えてください。『伊東先生を信じて待て』と」
「…わかりました」
鈴木はそれ以上は尋ねずに去っていった。内海しかいなくなった井戸に風が流れていく。
「…」
風がどこへ流れていくのか…内海にはわからなかった。



503


土方の傷の手当てを終えた頃、「沖田先生」と障子の外から声が掛かった。
「どうしました?」
総司が障子を開けると、島田が控えていた。身体を縮めているがもともと大きな体躯の彼は隠れようもないが、彼は小声で告げた。
「…いらぬご報告かと思いましたが念のために…。さきほど近藤局長が屯所を出られました」
「先生が?」
「はい。…その、表情があまり優れぬご様子でしたので、気がかりで」
「…」
深雪の死を知り、慟哭し悲嘆に暮れ…近藤が向かう先は一つしかない。総司が振り返るとすでに察していた土方が立ち上がっていた。
「総司、後は任せた」
「…わかりました」
土方は島田に「悪かったな」と言いながら部屋を出た。非番だった彼らを追い出してしまっていたのだ。そしてそのまま自室に向かって行く。
いつもよりもほんの少しだけ頼りない背中に見えた。幼馴染との絆はそう簡単に解けたりはしないだろうが、あれだけの怒りを向けられてなにも思わないわけがないのだ。
彼を追って傍にいたい…けれど、それ以上に近藤のことが気がかりであったし、土方も『任せた』と言ったのだからそれに従うべきだろう。
「島田さん、何かあったらすぐに知らせてください。…近藤先生の別宅へ」
「わかりました」


先に出た近藤を追うために飛び出すように屯所を後にした総司だが、意外にすぐにその姿を見つけることができた。
「こ…」
総司は駆け寄って声をかけようとしたが、すぐにその言葉を飲み込んだ。そこにいる近藤はどこかへ向かっていたのではなく、その場に立ち尽くし項垂れていたのだ。だから先に出たはずなのに西本願寺の太鼓楼からでも見渡せるような近くで見つけることができたのだ。
(先生…)
通りすがりの人々が近藤の様子を見て不審な顔をして通り過ぎて行く。人通りの多い昼間、大柄な男が背中を丸めて俯きピクリとも動かないのだから当然だろう。
総司はゆっくりとその背中に近づいた。今にも脆く崩れそうな姿に近づくにつれ、総司の心の痛みも増したが、近藤のそれには比べようもないだろう。
「…先生」
「!」
考え事をしていたのか総司に全く気がついていなかった近藤は、ビクッと身体を震わせて振り返る。そして総司の顔を見ると少し穏やかに笑った。
「ああ、総司か…驚いた」
「先生、お一人では危ないです。…ご一緒にします」
「…そうか。ありがとう」
近藤が受け入れたので、総司は隣を歩き出す。
しばらく二人はゆっくりとした歩調で進みながら黙り込んでいたが、ようやく近藤が口を開いた。
「実は別宅に…行こうと思ったのだが、なにを話したら良いのかと考えると…迷ってしまった」
「お孝さん…ですか?」
「ああ。何せまだ顔を合わせたことすらない。初対面だというのに…何て謝れば良いのか、許しを乞うても仕方ないと分かっていても、何か掛けるべき言葉がないのか…それを探していた」
近藤の目は悲しみを滲ませるように真っ赤に染まっている。まだ深雪を失った悲しみすら癒えていないが、それ以上に身内を亡くした孝のことを思いやり、責められるために別宅に向かおうとしたのだろう。
そんな愚直なまでに正直でまっすぐな近藤だからこそ、自分から本当のことを伝えたい。
総司は申し出た。
「…先生、別宅へ行く前にこれまでのことをお話しさせてもらえませんか?」
「これまでのこと…」
「先生は伊東参謀からお話を耳にされたと言うことでしたが…一番近くで経緯を見ていたのは私です。そしてなにもできなかった…だからせめて本当のことをお話しさせてください」
総司は近藤の前に立ち、人目も厭わず深々と頭を下げた。近藤は総司を責めなかったが、土方の決断を支持した自分には罪がないわけがない。だから経緯を話す他に贖罪の方法がわからなかったのだ。
すると近藤は「顔を上げてくれ」と総司の肩に優しく触れた。
「…わかったよ。あそこの茶屋に入ろう」
「はい…」
近藤が総司とともに向かったのは、日頃は西本願寺の参拝客相手に商売をしている茶屋だった。一番奥の席に案内してもらい、茶だけ頼んで人払いをしてもらった。
総司はこれまでの事情を出来るだけ詳細に話した。孝が身請けに応じた理由やみねとの関係、また既に報告していた河合の金策の件から深雪への中傷へ繋がったこと、それが結果的に深雪を苦しめる要因になったこと。
総司の話を近藤はほとんど表情を変えずに聞いていた。土方の別宅の世話をしていたみねが深雪と孝の祖母だと知った時は少しだけ驚いたが、それ以外は口を挟まなかった。
近藤にとって経緯がどうであれ、深雪が亡くなりこの世にはいないのだという結果が変わらないのだ。
総司が全てを話し終えると、近藤は「そうか」と言って、冷めてしまった茶にようやく口をつけた。喉を潤して深く息を吐く。
「…総司、俺はわかっているんだ」
「わかって…?」
「ああ。深雪が死んだのは誰のせいでもない。あれはもともと体が弱い…松本先生や南部先生からもそう言われていた。だからいつかこういう日が来るのだとわかっていたんだ」
「…」
会津藩医の南部だけではなく、幕府御典医の松本までそう告げていたのだとしたら、近藤も心のどこかで覚悟を決めていたのかもしれない。
近藤は続けた。
「それから…お前が本当はなにが言いたいのかということもわかる。さまざまな要因が重なって起きてしまったことであり、歳だけのせいじゃない…そうだろう?」
「…はい」
「うん、わかっているんだ。俺の親友は、俺の大切な女を傷つけたりはしない。自分の身内のように守ってくれるに違いないんだ。…わかっているんだ」
わかっている、わかっている。
そう繰り返して口にする近藤の表情が、次第に歪む。
「歳のことだから、廣島にいる俺を動揺させまいとしたのだろう。あいつはそう言う奴だし、客観的に見れば正しい判断だと思う。少し、俺が仕事を投げ出すような真似をするのかと…信用していないのかと怒鳴りつけたい気持ちはあったが…俺自身どうなっていたのかわからない」
「先生…」
「お前の言うことも、歳の考えていることもちゃんと…わかっているんだけどな、それでも…もう一目会いたかったんだ」
グッと唇を噛む近藤に悲しみと同時に悔しさが滲んでいた。
頭でわかっていても、感情がそれを上回る。
突然消えてしまった…その喪失感は死に目に会えなかったからこそ大きい。その後悔は生涯残り続け、膿み続け、苦しみ続ける。
「だからさっきのは八つ当たりなんだ。お前が心配しなくてもいい」
「…私は先生と歳三さんのことは心配していません。きっと歳三さんも自分に八つ当たりしてくれるならそれでいいと思っていると思います」
「ああ…そうだな。うん…でも、少しも恨んでいないといえば嘘になる。もっと早く教えてくれれば…こんな後悔を抱えずに済んだ。深雪だって心残りなくあの世へ逝けたかもしれない。そう怒っているのは間違いない。…ああ、でももしかしたらこれも八つ当たりかもしれないな」
「…」
冗談のように笑って見せようとした近藤の表情が痛々しい。けれどなにもいえない自分がそれ以上にもどかしい。
(僕には…こうして受け止めることしかできない)
だからこそ痛みを痛みだと思わずに受け入れるべきだ。当事者ではない自分が傷つくなんてそんな烏滸がましいことはできない。
近藤はさらに項垂れた。両手で頭を抱えて何かに耐えるように震えていた。
「…総司、正直に教えてくれ」
「え?」
「深雪は…幸せだっただろうか?」
深雪が身請けされてから一年も経っていない。そのなかで二回長州へ向かった近藤と過ごした時間はさらに少ない。だからこそ近藤には自信がないのだろう。
総司は即答した。
「勿論です。深雪さんは…いつも先生のことを想っていらっしゃいました。先生が廣島へいらっしゃる時は毎朝その方角へ手を合わせご無事をお祈りしていらっしゃったそうです。最期の…最期まで」
「…そうか…」
近藤はゆっくりと顔を上げた。そして真っ赤に腫れた目から何度目かわからない涙を流した。
深雪はきっとこんな風に泣いてほしいわけではないだろう。けれど近藤が近藤として生きるために悲しみと向き合う時間はどうしても必要だ。
そして暗闇から再び這い上がる時、必要になるのはやはり深雪だ。
「先生…深雪さんから伝言を預かっています。『幸せだった』と」
「…ああ…」
その伝言を皮切りに、近藤はまるで子供のように憚りもなく泣き始めた。総司はただただその姿を受け止めた。
(この言葉が、どうか先生の心の拠り所になりますように)
今の総司にはそう願うしかなかった。



504


近藤の別宅にやってきた二人を最初に迎えたのは、しばらく世話を勤めているみねだった。
「こ、近藤様…!」
みねは恐縮し深々と頭を下げたが、彼女は訳あって素性を隠していたものの深雪と孝の祖母である。それを知っている近藤もまた同じように頭を下げた。
「長々と…留守を任せ申し訳なかった。お孝さんは…」
「へ、へえ…中におります。どうぞお上りくださいませ」
「かたじけない」
みねに促され、近藤とともに総司は別宅に入る。
総司が別宅を訪れるのは、深雪が亡くなって以来のことだった。土方の別宅と同じようにみねによって美しく保たれている屋内だが、しんと静まりどこか温もりを失ったかのように寂しい。季節の花々が咲き誇る庭もそれを愛でる人がいないせいか、余計悲しみを引き立てるように見えた。
その庭が一望できる場所…そこがいつも深雪の居場所だった。目細め穏やかに笑っていた彼女が今でもそこにいるような気がするのに、もうそこにはいない。
近藤は唇を噛んだ。こみ上げるような悲しみを堪えながら深雪の位牌の前に膝を折る。
そしてしばらく沈黙した後、ただ一言、
「無事に帰った…」
と報告した。沈痛な面持ちで位牌を見つめる横顔に総司もまたあの日の悲しみが蘇るような心地がした。
庭で鳴く鳥の声が響く。近藤は以前、ずっと廓にいた深雪のために広めの庭がある家を探したと言っていた。二人でこの庭を眺めて過ごした時間は短くとも濃密で幸福だっただろう。それが突然絶たれた辛さは近藤でなければ分からない。
(先生…)
重たい沈黙。総司は何を言えばいいのかわからなかった。
そうしていると二人分の足音が聞こえてきた。
「お孝さん…」
総司は孝の窶れた姿に驚いた。目不足の目元にはクマが目立ち、げっそりとした輪郭は病床の深雪のように細くなっていた。そんな孝はみねに背中を支えられるようにしてようやく膝を折り、両手をついた。
「孝でございます…」
初対面の二人。孝は起伏のない挨拶だった。
きっと気性の激しい彼女は深雪の死という悲しみと怒りを近藤にぶつけるのだろう…総司はそう思っていたのだが、孝にはそんな素振りや余裕はなく、痛々しいほど憔悴していた。憎しみの相手である近藤や総司の姿を見ても何の反応も見せない。
「君が…お孝さんか…」
近藤は孝を見るやすぐに近づいた。
「…挨拶が遅くなって申し訳なかった。俺が近藤勇だ…まずは身請けに応じてくれたことに感謝する」
「…」
「それから…こんなことになって申し訳ない。すべては俺のせいだ」
近藤は居住まいを正し、畳に額が付くほど深々と頭を下げた。それは土下座と大差ない姿だった。
みねは「頭をお上げください!」と恐縮したように口にしたが、孝はそれをぼんやりと見ているだけだった。目の焦点は合わず心ここに在らずという様子だ。ずっと悲しみと喪失感に向き合い続けた孝は疲れてしまったのだろう。あらゆる感情を通り過ぎた彼女の瞳には何の色も宿っていなかった。
近藤は顔を上げてそんな様子の孝を心配そうに見た。そして戸惑いながらも懐を探り手拭いに包んだものを彼女の前に差し出した。
「これは…深雪に渡されていたものだ。大切な母親の形見だということだから…お孝さんにとっても同じように大事なものだろう。君に返す」
近藤は折りたたまれた手拭いを広げていく。そこに丁寧に包まれていたもの…古びているが光沢のある美しい簪が露わになった時、孝の真っ黒な瞳に一筋の光が宿る。
「あ…っあぁ…!」
孝は飛びつくようにその簪を手にした。両手で大切に持ち上げてまるで幻に触れるかのように指先で感触を確かめる。
「お姉ちゃん…!」
孝は簪を体に引き寄せて抱きしめる。ずっと探していたものを見つけた時のような感激と堰を切ったかのような感情の洪水を爆発させて、大粒の涙を流した。
「うわぁぁん…!」
深雪に似て大人びて見えた彼女の子供のような泣き声が部屋に響いた。憚りもなく泣き喚く姿は等身大の彼女であり守られるべき孤独で儚い姿だった。
(ずっとこんな風に泣きたかったのだろう)
総司は何故か泣き喚く孝の姿を見て安堵した。先ほどまでの感情もなく虚ろな姿よりはよっぽど自然な姿に見えたのだ。
「お孝…」
近藤は両手を伸ばし、孝を抱きしめた。大きな体躯の近藤の中に孝はすっぽり収まった。
それは愛情ではなく大切な人を失った感情を共有する同情であり親愛の行動だった。孝にもそれがわかったのか拒むことなく近藤の胸で泣き続けた。
近藤は子供をあやすように背中をさすりながらともに泣いた。
「…この簪は敵地へ向かった俺を守ってくれた。だから君のこともきっと深雪は守ってくれるだろう…」
近藤の広い胸の中で孝が頷いていた。総司には凍りついた彼女の心が温かな風に触れてゆっくりと溶けていくように見えた。
「お孝、話を聞かせてくれ。君が知っている…君の大切なお姉さんの話を…どんな些細なことでもいい」
心の中に閉じ込めている言葉は、誰にも届かずに自らを甚振り続ける。悲しみは怒りへ、怒りは後悔へ、後悔は痛みへ…。
だから人は言葉を発するのだ。言葉が腐らないように、心が壊れないように。
ここにいるために。


提灯を手にした総司は近藤の別宅の玄関を出た。
「もっとゆっくりなさってくださいな。夕餉もお支度ができますのに」
みねの誘いに総司は「いいえ」と首を横に振った。
「近藤先生もどこか…お気持ちが楽になったようですから、私はお暇します」
「…そうどすか」
みねは残念そうにしながらも、どこか安心したように息を吐いた。
あれから孝がポツポツと深雪のことを話し近藤が相槌を打つ… そんなやりとりが始まった。孝は辛そうに顔を顰めることもあったが近藤の穏やかでおおらかな返答に心が慰められているようだった。
(きっと…もう大丈夫だろう)
同じことをみねも思ったようだ。
「今日は…近藤様に来て頂けて良かったと思います。塞ぎ込んでいたお孝様もお元気になられるやろうと思います」
「…そうですね。私も安心しました」
「近藤様はお孝様をどうされるおつもりなのでしょうか…?」
近藤は孝を身請けしたことになっているが、もともとは深雪の為の身請けであり妾として囲うつもりは無いはずだ。
「…まだわかりませんが、きっと近藤先生はお孝さんの悪いようにはしないと思います。お孝さんが望むようになると良いのですが」
「へえ」
「おみねさんはどうされるのですか?」
血縁上は姉妹の祖母であるみねは、未だに孝のことを『お孝様』と他人行儀な言い方をしているが、深雪がいなくなった今、孝にとって家族はみねだけだ。
するとみねは複雑そうに表情を歪めた。
「…うちは昔、あの子達の母親を置いていった罪深い存在や思うてます。せやからお孝様が望むようにしたいと思うてます」
「そうですか…」
孝はきっとみねが傍にいてくれることを望むだろうし、みねもそうしたいと思っているだろう。けれどその気持ちをみねが自ら口にしないのは彼女なりの線引きなのだろう。
複雑な心情が交錯しているが、今の総司は
(きっと良いようになるだろう)
と前向きに捉えることができた。近藤と孝が互いに距離を近づけていく姿を見たからだろう。
「じゃあ、おみねさん。お二人のことをよろしくお願いします」
「へえ…土方せんせにもよろしくお伝えくださいませ」
みねに見送られながら、総司は屯所に向けて歩き出した。近藤とともにトボトボと歩いた道を今度はどこか晴れやかな気持ちで戻っていく。
足元には提灯の仄かな明かり。見上げると新月の空に星が瞬いている。月は見えなくともそこに必ずある…深雪は居なくなっても二人を見守り続けてくれることだろう。
(早く話したい)
誰よりも近藤のことを心配しているであろう土方のことを考えると、総司は自然と早足になった。提灯を揺らしながら西本願寺を目指して歩くと、前から同じような提灯の灯りが見えた。ゆらゆらとゆれる灯火が近づき、そのまま通り過ぎる。その一瞬に見た横顔に総司は目を見張って立ち止まった。
(綺麗な人だな…)
総司よりも背が高く髷を結い袴を履いた男に違いないのだが、目を奪われるような端正で華やかな顔立ちをしていた。どこかの貴族だろうかと見紛うその男はその後ろ姿さえも美しく去っていく。
「…」
自分でもどうしてそんなことが気になるのだろうかと不思議に思った。
けれど胸騒ぎが止まらなかった。



505


清らかで涼しい風が、瑞々しく若い葉を揺らす。柔らかな日差しが揺れ地面を照らす木陰で男は竹矢来の奥を覗いていた。静謐で荘厳な西本願寺の敷地と区切られた新撰組の屯所では、若々しい隊士たちが竹刀を振り汗を流していた。その光景は全く正反対だ。
「あんまりまじまじと見たらあきまへんえ」
男の背後から年老いた僧侶が少し諌めるように声をかけた。男は振り返って微笑む。
「ご忠告痛み入ります」
「…つい一昨日も同じことを言うておられましたな」
そう言われ、そういえば一昨日に声をかけて来た僧侶と同じだと気がついた。男は「失礼いたしました」と深々と頭を下げた。年老いた僧侶は目元に皺を重ねながら、男を興味深く見た。
「…洛中を賑わす浪人どもとは違い、ご身分の高いお方とお見受けいたします。そのような方が何故毎日あちらを覗いていらっしゃるのか。新撰組に何か御用でも?」
男は汚れひとつない着物や袴に身を包み、業物の刀を腰にさしている。それだけでも西本願寺を訪れる参拝客からは浮いた存在に見えるが、何よりも気品に満ちた目鼻立ちが彼がただの凡庸な人物ではないことを物語っていた。
男は少し言葉を選ぶように口を開いた。
「…用という用はありませぬ。ただ探している人がいます」
「隊士ですかな」
「わかりません。残念ながらこのように目を凝らして探してもその姿が見当たらないのです」
「…せやったら、もういないのかもしれませんな。新撰組では危ないことを目論む浪人との斬り合いは日常茶飯事、脱走する隊士への処断は切腹、命がいくつあっても足りない残忍な集団や…おっと失礼」
言いすぎたと僧侶は謝った。普段から新撰組に対して良い感情を持っていない故にポロリと出た愚痴だった。
けれど男に不快感はなかった。新撰組の噂など散々耳にしていたのだ。
「お会いできるまで帰らぬ覚悟で参りました。…ご心配とご迷惑をおかけいたしますが、どうか私のことなど気になさらずここに居させていただけませんでしょうか」
「…そこまで言わはるなら、お好きになされませ」
男は穏やかで丁寧な物腰だが梃子でも動かない態度を察したのだろう、僧侶はそれ以上は何も言わずに去っていった。
男は「ありがとうございます」と頭を下げながら、再び竹矢来の向こうにある光景に目を凝らしたのだった。


今日の稽古の当番は永倉と総司だった。五月の爽やかな日差しが差し込むなかで大勢の隊士たちが一斉に竹刀を振るう。その光景は壮観だったが、永倉の顔色は冴えない。
「どうかしました?」
休憩を挟んだ時に尋ねると、「いや」と言い淀んだ。
「…ひょっとして身請けするって話の小常さんのことですか?近藤先生も了承されたということでしたけど」
「あのな…俺は仕事中に女のことで頭がいっぱいになることはないんだ」
「それは失礼しました」
総司は素直に謝った。たしかに原田と違い永倉は『堅物』と揶揄されるほど真面目なところがある。
「じゃあどうしたんです?」
「…竹矢来の向こうでこっちを見ている者が居るんだ」
「え?どこです」
竹矢来は新撰組が西本願寺に移転した際、僧侶たちが設置したものだ。あちらとこちらで全く違う環境となっているのだが、竹矢来なので合間から互いの様子は伺うことはできる。
総司が目を凝らすと、永倉が「あっちだ」と視線だけで教えてくれた。たしかにこちらを覗く人影がある。人相までは見えないが、しかしそれは珍しいことではない。
「いろんな意味で名が知られてますからね。興味があるんじゃないですか?」
「そうかもしれないが、三日前からずっとだ」
「三日前?」
「ああ。一昨日も俺は稽古の当番だったから間違いない」
永倉が断言するからにはその通りなのだろう。しかし敵対する浪士やその間諜ならもっと上手く身を隠して監視するはずだ。それに新撰組の監察が黙って居ないだろう。
「…土方さんに確認してきましょうか」
「ああ、頼む。気になって稽古に集中できないんだ」
「わかりました」
総司は稽古を永倉に任せて竹刀を置き、土方の元へ向かうことにした。
近藤が廣島から帰営して数日経った。深雪の死について怒りをあらわにした近藤だったが、随分と落ち着き普段通りに溜まった仕事をこなし始めた。孝と深雪を失った悲しみを共有し傷を慰めあったのが良かったのかもしれない。しかし土方とは相変わらず距離があるままだ。土方もまた歩み寄ることもなく傍目に見れば喧嘩した状態が続いている。
(もう少し時間が必要なのかもしれない)
総司はそう思っていた。
長年続いて来た友情が裂かれることはないだろうが、すぐに仲直りできるほど深雪の存在は小さくはなかったのだ。
そんなことを考えていると屯所の一番奥、土方の部屋に辿り着いた。
「土方さん、入ってもいいですか?」
「…ああ」
部屋の中から鈍い返答が聞こえる。それだけで土方の顔色など察知できてしまうので、平隊士ならここで引き返したくなるだろう。けれど試衛館で毎日寝起きの悪い土方を叩き起こしていた総司には気に止めるようなことではなかった。「失礼します」と口にしながら襖を開け中に入ると、やはり不機嫌そうに顔を顰めながら手紙に目を通す土方がいた。
「…山崎さんからの報告ですか?」
「ああ」
元監察方であり今は医学方でもある山崎は未だに廣島に滞在している。彼は前々回の近藤の長州行きから同行しているので、屯所を出て半年以上が経っていた。
「伊東参謀はどうされているんですか?」
「西国の諸藩の有力者と面会しているようだ」
「西国の諸藩…というと、幕府に否定的な考えを持つ人たちですよね。よく新撰組の参謀と話をしてくれますね」
総司は素直に疑問に思った。
池田屋の一件で名を広めた新撰組は倒幕を目論む西国の諸藩からすれば、敵であることに間違いない。その参謀の伊東がどのように接見したのだろう…土方はふんと鼻で笑った。
「山崎によると口当たりの良いことを言って回っているそうだ。…長州の赦免とかな」
「…」
不穏な言葉に総司もおもわず言葉を失った。
朝廷は長州藩を八月十八日の政変や禁門の変により『朝敵』として見なし、幕府へ長州征討を実行するように命令した。その時長州藩側は幕府の条件を全て聞き入れる形で終幕し、幕府は長州への処分案として十万石の削封を要求した。しかしのらりくらりと躱され続けその要求が受け入れることはなく、時が経ち国力を取り戻しつつある長州はついに薩長同盟を結んでしまったのだ。
だがもともと近藤たち幕府の使節はこの要求を受け入れさせるように働きかけるために隣国の廣島に向かったのだ。伊東の行動はそれを無視するどころか逆行するものである。
「でも…伊東参謀は新撰組です。そんなことを口にしたところで斬られてもおかしくないですし、信じてもらえないのではないですか?」
「今は信じてもらえなくてもいいのだろう。ただ新撰組にも『そういう考え』を持つ存在がいるということを示したかった。…伊東が戻って何かを実行すればその言葉が真実になる。奴は賭けをしている」
「…いずれ裏切って、長州などの倒幕派に付くために動いているということですか?」
「もともと尊王攘夷、勤王の考えが強い奴だ。そういう下地を作っていてもおかしくはないだろう」
「…」
土方は不機嫌そうではあるが、少し面白そうに顔を歪ませていた。これまで散々『気に食わない』と言い続けていた伊東が土方の予想通りに動いている…それが土方にとって将棋の駒が予定通りに動いているようなゲーム感覚なのだろう。
総司はふっと一息ついた。
「…まあ、難しいことはよくわかりませんけど、山崎さんと大石さんは無事なのですか?」
「ああ。伊東が帰営する頃に一緒に戻らせる」
「そうですか。松本先生は山崎さんを見込んで医者としてしっかり鍛えたいそうですから、早めに戻してあげてくださいよ」
「わかっている…それで、お前は何をしに来たんだ」
「…ああ、そうでした」
伊東の件ですっかり忘れていた。総司は永倉から聞いた竹矢来の向こうからこちらを見る人影について話す。すると土方は「知っている」と頷いた。
「何者か、監察に探らせている所だ。ただ『人を探している』ということだから放っておいても害はなさそうだ。永倉にもそう言っておけ」
「もう接触したんですね」
「『あちら側』にも協力者はいる」
土方は端的に肯定した。直接監察方を手元に置く土方にしか知らない人脈があるのだろう。総司はそれを知りたいとは思わなかった。
「…でしたら、安心です。私はまだその人を見ていないのですが…どういう人なのですか?」
「髷を結い高価な衣服に身を包んだ高貴な雰囲気をもつ…近寄りがたいほど端正な男だそうだ」
「へえ…」
「目立つ見た目だから敵の間諜ということもないだろう。その『探し人』が隊内にいるならさっさと面会させるつもりだ」
「そうですか、わかりました」
総司は頷いて、話は終わった。
けれどこの男の存在が、後々の波紋を齎すとはこの時全く考えが及ばないことだった。




506


近藤と土方の不仲、伊東の不在ーーー何処と無く箍が外れたような雰囲気が漂う屯所では、隊士たちが口々にさまざまな噂話を交わしていた。
普段から何の根拠もない推察には一切関心を示さない総司だが、
「近藤局長がついに妹君を妾に迎えるらしい」
という噂には牙を剥いた。
「近藤先生がそのようなことをなさるはずがありません!」
「俺に言うな」
斉藤が顔を顰める。しかし巡察からの帰り道にそのような粗野な話を聞かされれば、総司が反発するとわかっていたはずだ。
総司は口をすぼませた。
「二人を身請けした頃からそんな噂が流れていましたけど、近藤先生に限ってそのような不誠実な真似をされるはずはありません」
「だが、このまま谷三兄弟の末弟を養子に迎えることも最善ではないだろう」
「それは…そうですけど」
総司は口籠った。
近藤には試衛館に正妻であるつねと娘のたまがいるが、家を継ぐべき男子はいない。その為、暫定的に七番隊組長谷三十郎の末弟である昌武を養子に迎え『近藤周平』
と名乗らせている。
谷三兄弟の長兄である谷三十郎はかつては備中松山藩の上級藩士だった。たがそのことを鼻にかけ、平隊士に横柄な態度を見せる為にあまり好かれてはいなかった。しかしその末弟である周平は兄の高慢さとは正反対に気弱で謙虚すぎるところがあり、隊内では影の薄い存在だった。そんな周平を養子に迎えたのは、時の老中だった板倉勝静の家臣という家柄と周平がその御落胤ではないかという噂を近藤が信じたためだ。養子縁組をしたのが池田屋の一件の前の名の知られていない時期だったこともあり、近藤は権力にこだわっていたのだ。
しかし新撰組としての株を上げた今、斉藤の言う通り、このまま縁もゆかりもない周平が近藤家を継ぐことは誰にとっても本意ではないだろう。特に試衛館に慣れ親しんでいる食客たちは受け入れがたい心境であり総司もその中の一人だ。
だからこそ男子の誕生が望まれるのだが。
「…まだ深雪さんが亡くなったばかりだと言うのに…不謹慎ですよ。それにお孝さんにその気持ちがなければ先生は無理強いなんてしないと思います」
「…不謹慎かもしれないが、谷組長がいつまでも大きい顔をしているのは面倒だろう」
「それは否定しませんけど。…ああ、そうか、そろそろ大坂から戻られるそうですね」
先日、新撰組が大坂での拠点としていた萬福寺からの撤退が決まった。少ない隊士のみ残して谷を中心とした隊士がこちらに戻ってくるのだ。斉藤が危惧しているのはそちらだったのだ。
「でも大坂から引き上げても良いんですか?家茂公が大坂城にご滞在されているからこそ警備の人出が必要なのではないですか?」
「逆に増えすぎてしまったせいだろう。大坂町奉行に諸藩の市中警備…浪士の取り締まりという同じ目的を遂行する組織が多くあればやりづらい。だったらいっそ撤退させる方が良いだろう」
「なるほど」
斉藤の意見に総司は実感を持って頷いた。
実際、京も新撰組と見廻組がそれぞれの担当地域を巡察している。新撰組は主に三条や祇園などの歓楽街を、見廻組は二条城や御所を中心とした役所周り…と住み分けができているが、大坂では組織が増えすぎてできなかったのだ。
「武田先生は馬越君の一件から少し落ち着かれましたけど…谷先生がこちらに戻られるとまた賑やかになりますね」
「ああ。だからはやくに跡継ぎ問題を解決してほしいものだ」
「斉藤さんはそんなに谷先生が苦手ですか?」
斉藤の表情や言葉にはどこか谷への嫌悪がある。好き嫌いの激しい土方ならともかく、誰に対しても淡々としながらも優劣をつけない斉藤にしては珍しい反応だ。
すると彼は「ああ」とあっさり肯定した。
「ああいうくだらない人間が近くにいると思うだけで虫酸が走る」
「ははは。私闘なんて起こさないで下さいよ」
よほど嫌っているらしく斉藤の物言いはいつになく厳しいものだったが、その彼らしくない様子が総司には物珍しい。
そうして歩いていると屯所に帰営した。隊士たちに巡察の終わりと解散を告げて、何気なく隣の西本願寺の境内を覗くとやはり竹矢来の向こうから屯所側を熱心に見ている男の姿があった。新撰組を恐れて距離を置く参拝者が多い中で、彼の姿はよく目立つ。
山野が「先生」と呼んだ。
「『竹矢来の君』って呼ばれているそうですよ」
「え?」
「あの人です。いつも屯所の方を見て…見目麗しい方なので皆が『竹矢来の君』と」
「可笑しなあだ名ですね」
総司は苦笑した。まるで古典の物語のようなあだ名だ。
「僕も最初はそう思ったんですけど、少し近づいて見たらびっくりするくらいの美形だったので驚きました。先生も一度見て見てくださいよ」
「はあ…」
山野に背中を押され総司は彼のもとに近づく。すると
「俺も行く」
と斉藤がやってきた。
「斉藤さんも興味があるんですか?『竹矢来の君』に」
「…別にそういうわけではない。だがもしかしたら危険な人物かもしれないだろう」
「土方さんは心配ないって言ってましたけど」
「そうか」
斉藤は聞き流して総司とともに竹矢来に近づく。なんとなく忍び足で近づくと『竹矢来の君』は境内がよく見渡せる木陰に佇んでいた。
(…本当だ)
竹矢来の隙間から少ししか見えないが横顔だけでわかる。細っそりとした色白の肌に、束のように睫毛が長く凛とした眼差しが一点を見つめていた。形の良い鼻と唇が精巧な人形のように整っていて華やかだ。だからといって女らしい見た目というわけではなく、すらりと背が高くピンと呼びた背筋の先には凛々しく髷が結われている。
(あれ…この人…)
総司はこの男に見覚えがあることに気がついた。つい先日、近藤の別宅から屯所に戻る際にすれ違ったのだ。印象的な面立ちが鮮明に記憶に残っている。
「『竹矢来の君』かぁ…」
総司は呟いた。
隊士たちが面白半分でつけたあだ名だろうが、あながち大外れというわけではない。常人とは違う気品が漂い神々しくて近寄りがたい。
そんな彼が誰を探しているのだろうか。これほど熱心に探しても見つからない相手とはどういう人物なのだろうか。
(詮索せずに土方さんに任せた方がいいだろう…)
「斉藤さん、行きましょう」
「…」
「…斉藤さん?」
振り返ると斉藤はまじまじと『竹矢来の君』を目を凝らすように細部まで見ていた。彼の少し怪訝な表情に総司は違和感を覚える。
すると衣摺れの音とともに鈍い衝撃音が耳に入った。
「あ…っ!」
『竹矢来の君』がその場に倒れていたのだ。


西本願寺の方へ回り込み、『竹矢来の君』の元へ駆け寄ると意識はなく顔色は真っ青だった。総司は斉藤とともに彼を抱えるようにして屯所に戻り、そのまま客間に横にさせた。
隊士の殆どが『竹矢来の君』を知っていたようで担ぎ込まれると驚きと興奮を持って迎えられた。目を閉じていても美形であることに間違いなく、一目見ようと詰めかける。そんな野次馬のように集まった隊士たちへ
「見世物じゃない」
と斉藤は追い払い、島田に新撰組の主治医である南部精一を呼びに行かせた。
そうしていると土方がやってきた。
「また面倒なことになった」
土方は気だるそうに髪を掻きあげながら総司を見た。こんな風に面倒ごとを持ち込むことを責めているのだろう。
「仕方ないじゃないですか。目の前で倒れられたんですから、放って置けないでしょう。…それでこの方の身元はわかったんですか?」
「まだ監察に調べさせている途中だ」
「調べたところでわからないかもしれません」
二人の会話に割り込んだのは斉藤だった。
「どういうことだ?」
「この衣服や持っている刀から考えると身分の高い者であることは間違いありません」
寝床の側には彼の持ち物が置かれている。豪華な装飾が施された大小の刀は実用的というよりも観賞用のような趣がある。ほかの細々とした持ち物も素人の総司からしても高価だろうと思えるもので『竹矢来の君』の持ち物としては見劣りはしないものばかりだった。
そのなかで斉藤が手にとったのは根付だった。
「特に…この根付を見てください」
「家紋ですね」
黄楊に掘られた家紋は九曜巴に掘られている。
「…見覚えがあるな」
土方は腕を組んで考え込む。斉藤はあっさりと答えた。
「板倉老中と同じ家紋です」
「えっ!」
まさか老中板倉勝静が挙がるとは思わず総司は思わず声を挙げた。土方も少なからず驚いたようだったが冷静に努めた。
「…ということは、板倉老中もしくは備中松山藩にゆかりのある人物ということか?」
「そうかもしれませんが、もっと簡単な答えがあります。…谷組長の知人という可能性です」
「あっそうか。谷先生は備中松山藩のご出身でしたね」
斉藤は心底嫌な顔をしながら「ああ」と答えた。もしかしたら斉藤はこの『竹矢来の君』を一目見た時から家紋を見つけ、その可能性に気がついていたのかもしれない。
「…だとしても、高貴な家柄、もしくは板倉様の関係者という可能性はある」
「はい。谷組長に面通しさせればわかるでしょう」
「そうだな…」
谷は近日中に大坂から戻ることになっている。そうすれば自ずと答えは見えてくるだろう。
総司は『竹矢来の君』を見た。彼は瞼の裏に誰の面影を見ているのだろうか。




507


幸運な結末など訪れない。
どれだけ願っても、どれだけ思ってもその先には何の将来もないということは最初からわかっていた。
私だけではない。あの人も同じように理解していただろう。それどころか誰かに露見すれば一生離れ離れになるに違いない。私たちはそういう立場だ。
それでもこの想いを止めることはできなかった。止められるものならとっくの昔に消えていた。私たちは倫理観や道徳心を持った大人にのだから何が間違っているのかわかっているつもりだった。だからそれを超えるほどの…それくらいの想いだったのに。
「自分は…貴方様の前から消えます」
深々と頭を下げてそう告げて去っていくあの人を引き止めることができなかった。この別れこそが正しい道だと信じるしかなかった。
諦めて、言い聞かせて、立ち止まって、嘆いて。
あの人が本当に目の前から居なくなってようやく、私は自分が間違ったことに気がついたのだ。


「詳しいことはわかりませんが、ひとまずは疲労と寝不足ですね」
眠る『竹矢来の君』を目の前に、南部は診断した。
「滋養の良いものを食べさせてよく休ませればすぐによくなります」
「そうですか、良かった」
総司は安堵の息を吐いたが、隣にいた土方と斉藤の反応は悪い。彼の体調よりもその正体が気がかりで頭がいっぱいなのだろう。
総司は南部から薬を受け取りつつ
「そういえばお加也さんはお元気ですか?」
と尋ねた。加也は南部の血の繋がらない義理の娘で、今は長崎で医者になるための勉強に励んでいる。
「元気なようです。時折手紙が来ますが、あの子らしく励んでいる様子です」
「そうですか、良かった。…でも南部先生はお忙しくなったのではありませんか?お加也さんだけでなく山崎さんも不在で…」
新撰組監察の山崎は今は長州へ潜伏しているが、少し前までは南部のもとで医学方として修行に励んでいた。二人も助手を失えば南部には痛手だろう…と思いきや、南部は微笑んだ。
「そうでもありません。もう一人優秀な助手がいますから」
「あ…英さんですか?」
宗三郎こと英もまた南部のもとに身を寄せている。彼とは土方への思いから新撰組に対して反抗的な行動を取ったため距離を置いているが、そのうち互いに理解できればと思う間柄だ。
「とても熱心に励んでくれています。私の弟子たちにも引けを取らないくらいになっています。もともとの素質もあるかもしれません」
「さすが松本先生の見立てに間違いはありませんね」
「そうですね。あの人は何もかもお見通しなのでしょう」
総司と南部は顔を見合わせて笑った。
また数日後に足を運ぶ、と去っていく南部を見送って総司は部屋に戻った。健やかな寝息を立てる『竹矢来の君』の隣で、深刻に話をする土方と斉藤の姿があった。
「…とにかく、この男が何者かは谷に面通しさせる。それまでは誰にも情報を漏らすな」
「近藤局長にもですか?」
「当たり前だ。あいつは隠し事が出来るような性質じゃない」
土方は厳しい表情のまま総司に目をやった。
「わかったな、総司」
「…わかりましたけど、近藤先生にそういう刺々しい言い方をしないでくださいよ」
ただでさえ喧嘩したままなのに、また火種になってしまう。けれど土方は「ふん」と鼻で笑うだけで何も言わなかった。
「斉藤、谷が戻るまでこの男は客ということにして見張りをつけて監視させろ」
「客ですか」
「隊士が納得できようが納得できまいがどちらでも良い」
いつも以上にぶっきらぼうな言い方をして土方は去っていく。もちろんそんな言い方など二人にとっては慣れた光景だったが、
「副長の機嫌が悪いようだな」
と斉藤が言及するほどだった。
「色々重なって忙しいんだと思います。でも一番は…」
「伊東参謀のことだろう」
近藤が伊東を置いて別行動をさせ屯所に帰営したこと。何の目的があるのか…さまざまな憶測が流れているが一方で、伊東入隊した時に同時に入隊したいわゆる『伊東派』が静かなことが気がかりだった。
「今回の伊東参謀の別行動はもともと画策されていた、もしくは前回の長州行きで何か伝手を得ていたのかもしれない。そんななかで深雪の死の一報が入り、局長が冷静な判断を下せないとわかっていたからからそれを伝え、動いたんだろう。副長も予想できなかった」
「…斉藤さんは相変わらず穿った見方をしますね」
総司は苦笑した。何もかもが企てられたことだったのではないかという斉藤の『陰謀論』のようなものは、総司にとっては隊士たちの根も葉もない噂話と同じだった。
すると斉藤はまじまじと総司を見ながら
「参謀のことを味方だと思っているのか?」
と核心をついた質問をして来た。それは総司にとって今まで考えることを避けて来た事柄だった。
もともと苦手だった。華やかな顔立ちで言葉巧みな伊東のそばにいるだけでペースが狂わされてしまう。そういう人間が今までそばにいなかったせいか、彼が心の奥底で何を考えているのかわからなかった。
けれど生来の素直さのせいか一方的な苦手意識は良くないことだと思っていたし、土方や斉藤が敵対しているから敵であるというのは安直な気がした。
それに近藤は未だに伊東を信頼している。
「…私は参謀が新撰組に居る限りは『味方』だと思ってますよ」
安易な返答だが、逆に言えば敵対すればすぐに斬ることができる…その覚悟だけは確かにあった。そしてそれを斉藤は汲み取ったようで
「そうだな…それでいいんじゃないか」
と肯定してくれた。
年下なのに彼に肯定されると安心できた。同僚でもない、友人でもない、食客たちとも違う。まるで少し離れた細道を歩く総司を遠くから見守ってくれて居るような、そんな存在だ。
「ん…」
「あっ」
もぞもぞと衣摺れの音が聞こえ振り返ると、『竹矢来の君』が薄っすらと目を開けていた。ぼんやりと天井を見つめた後に総司と斉藤の方へ視線をやる。
それまで閉じられていた瞳の奥に隠れていたのは、丸く大きな黒曜石のような眼だった。見つめられるだけでゴクリと喉が鳴る。
「ここは…」
薄い唇から溢れる微かな声。
「ここは新撰組の屯所です。えっと…あなたは倒れられて、それでこちらに」
「…倒れた…」
『竹矢来の君』は状況を理解できなかったのか呆然と総司を見ている。けれど総司もまた戸惑っていた。
(もしかしたら高貴な立場の人…かもしれないんだっけ)
粗相があってはならないと気を張る。けれど『竹矢来の君』は微笑んで
「助かりました」
と頭を下げた。そして身を起こし布団から出ようとするが、すぐに眩暈を覚えたのか頭を抱えた。
「寝不足と疲れが出ている。しばらく休んでいく方がいい」
「…しかし…ご迷惑をおかけするわけには」
「迷惑と言うのなら既に迷惑はかかっている」
「ちょっと斉藤さん」
いつもの斉藤らしい物言いだが、流石に気分を害してしまう。総司は焦ったが、彼はやはり穏やかなまま「おっしゃる通りです」と答えた。
「体の調子を整えてできるだけ早くお暇できるように努めます」
「…また竹矢来の向こうからこちらを眺めるつもりか?」
斉藤の問いかけに『竹矢来の君』の表情が一瞬固まる。けれど隠しても仕方ないと思ったのかそれを認めた。
「そのために…参りました」
「探し人でも?」
総司の問いかけに『竹矢来の君』は頷いた。
「どうしても…お会いしたい方がいます」
「その者の名前は?」
「…言えません」
それまで素直な受け答えをしていたが、初めて言葉を噤んだ。
無理やり聞き出すこともできたが、土方はあくまで『客』だと言っていた。つまりはそれ以上踏み込むなと言うことかもしれないし、聞き出さなくてもいずれわかるだろうということなのかもしれない。
総司は斉藤に視線をやった。彼も同じ考えだったようでそれ以上は尋ねなかった。
「…わかりました。ひとまずこちらでお休みください」
「ありがとうございます」
彼は恭しく頭を下げ、総司は斉藤とともに部屋を後にした。
「…俺は隊士に見張りを頼んでくる」
「わかりました」
斉藤と別れ総司は部屋の様子を伺った。
しんと静まり音一つ聞こえない。けれどなぜか彼が声を殺して泣いているような気がした。





508


久しぶりに見た西本願寺の屯所は、五月の爽やかな晴れ間に照らされて神々しく眩く見えた。
(ここに戻って参った…)
谷は整然とした屋根瓦を見上げながら感慨深く思った。
大坂の屯所…というには小さい『寄宿』のような別組織を任され、最初は意気揚々と新撰組の別働隊として大坂を闊歩したものの、町奉行所や諸藩の警護を務める組織との軋轢から、徐々にその役割を失っていった。そもそも大坂では壬生浪士組時代、頻繁に金策で訪れており商家の間で元々新撰組の評判は良くはなかったのだ。そしてようやく、大坂屯所を任せられたことが貧乏くじだったことに気がついた。
それからは都へ戻りたいという気持ちが募り、ようやく大坂屯所の撤退が決まった。再三訴えてきた大坂よりも都の守りに徹するべきだという谷の考えが通ったのかもしれない。そうして今日、谷は実弟である万太郎を残して数名の隊士とともに帰還したのだ。
(気がかりなのは周平のことだ)
末弟の昌武こと周平は、近藤の養子だ。
数年前、万が一のことがあってはならない…と男子のいない近藤を口説き、周平を養子に迎えさせた。腹心の土方はあまり良い顔をしなかったが備中松山藩の御落胤かもしれない…という根も葉もない噂が役立ち近藤は周平を受け入れた。
局長と縁戚になったことが谷の立場を上げ七番隊組長という確立したポジションを与えられたが、しかし今は状況が変わってしまった。
(新撰組は大きくなった…)
身分が浪人であることに変わりはないが、会津の下部組織として機能しその局長の近藤は幕府の一員として廣島へ同行するほど出世した。
大きく、大きくなっていく…その変化に取り残されないように、うまく立ち回らなければならない。
「まずはあの引っ込み思案な弟をどうにかせねば…」
谷がブツブツと呟いていると
「谷組長」
と、呼ぶ声が聞こえた。
「斉藤組長…」
「長旅お疲れ様でした」
言葉ほど慰労の念がない表情で斉藤が迎えた。谷は、土方の左腕でありながら試衛館食客とも違う立場である斉藤のことが少し苦手だった。
「うむ。な、…何用かな」
「谷組長に客人がいらっしゃっています」
「客…?」
谷は首を傾げた。思い当たるような人はない。
「その客人の名は?」
「わかりません。…正しくは答えませんでした」
「私の客ともわからないのでは?」
「そうです」
斉藤との会話は禅問答のようだった。しかし無愛想で表情の筋肉一つ動かない彼が冗談を言っているようには見えず、谷は戸惑いながらも
「…相わかった」
と答えるしかなかった。
共に大坂から帰還した隊士たちに解散を告げて、谷は客間に向かったのだが
(なぜついてくるのだ…)
谷のニ、三歩後ろををなぞるように斉藤が後を追ってきた。まるで監視か尾行するような行動で不快だったが、帰還早々口論になって問題を起こすわけにはいかない。谷はグッとこらえてそのまま客間の前にやって来た。
そこで驚いたのは、部屋の前に斉藤の組下である三番隊の隊士が見張りを務めていたことだ。単なる客人だと安易に思っていた谷は、ちらりと斉藤を見る。しかし斉藤は何も答えようとせず「どうぞ」と部屋の中に入るように促してきた。
(一体誰なんだ…)
「…失礼する」
谷は困惑しながら部屋に入る。そして上座に座る人の気配に目を向けた時、谷の身体中に電撃が走るような衝撃と同時に全ての力が抜けるような脱力感が襲った。目がチカチカと眩しく、けれども視界が揺れる。
(幻か…!)
これが幻や夢だという方が現実味があった。それくらいここにいることが信じられなかったのだ。
その人は、谷を見ると穏やかに微笑んだ。精密で緻密な美しい顔が少し動くだけで谷の身体中に鳥肌が立った。
「…お元気でしたか?」
その言葉が耳で響いた途端、谷は平伏した。
自分は彼の顔を見てはならない。彼の言葉をきいてはならない。ましてやそんなに美しい顔で微笑まれるなんて、許されようもない。
谷は額を畳に擦り付けたまま、上ずった声を上げた。そうすることしかできなかった。
「なっ…ぜ…このような場所に…!」
意気揚々と大坂から戻り微かに抱いていた野望。引っ込み思案な末弟の危惧。そして不気味な同僚…そんなことを占めていた頭のなかが、一気に空っぽになったーーーそしてその代わりに数年前の記憶だけが鮮明に思い出されたのだ。


備中松山藩士の谷三治郎の嫡男として生まれた私は、少し年下の万太郎と十以上歳の離れた昌武の三兄弟だ。
父は旗奉行を勤め、さらには直心流の師範であったため私たち三兄弟は幼い頃から武術を仕込まれた。厳しい稽古だったが、父の期待に答えるため私はみるみる腕を上げ、ついに板倉勝静様の近習役に抜擢された。
まさに順風満帆、谷家の嫡男として期待された通りの人生を歩んでいただろう。
『この方』に出会うまでは。
「隠し子がいるって聞いたか?」
同じ近習役の同僚が小耳に挟んだ噂として口にしたのは、藩主である板倉勝静様には隠し子がいるらしいという根も葉もない噂話だった。
「…そんなくだらないことを言っている暇があったら、剣の稽古でもしたらどうだ」
父に似た堅物だった私は、その手の噂を拒んでいた。たとえそれが真実であっても偽りであっても口は災いの元…そんなふうに大人びて達観する私が面白くなかったのだろう。
同僚は続けた。
「つれないことを言うなよ。…殿は婿養子として我が藩にやってくる前に男児をもうけた。しかし母親が死んだため周囲には内密にさせ共にこちらにやって来たということらしい。しかし殿には嫡男の万之進様がいらっしゃるからその方が家督を継ぐことはないようだ」
「殿は一本気で牢固たるお人柄だ。たとえそのような方がいらっしゃったとしても、万之進様を蔑ろになさらないためにその存在を秘匿されるだろう。それなのにそのように言いふらすとは…」
「まあまあ、怒るなよ。単なる与太話だ。…二十年近く隠されたその方は城下で平凡にお暮らししているそうだ。殿は血を分けた子として金を出して生活させているそうだが…」
途端、同僚の表情が変わった。ニヤニヤと口元に笑みを浮かべている。下世話な話をする予兆だ。
「…話がまだ続くようなら失礼する」
「たいそうな美男らしいぞ。なんでも母親は殿のご出身の白河藩では有名な美人芸妓だったそうだ。その血を継いでハッと我も忘れるような顔立ちなんだとか」
「…」
私は同僚を冷たい目で見た。たとえ伏せられた存在だとしても、殿と同じ血の流れる者に向かって下賎な物言いだ。
不快極まりない同僚から逃れるように、私は腰を上げ話を切り上げた。同僚は「おい待て」と話を続けたい様子だったが、聞こえないふりをした。
私はもう何も聞きたくなかったのだ。殿の近習役としてそのようなくだらない世間話に耳を傾けるわけにはいかない。根も葉もない噂話など突っぱねて当然だ。
「…」
だが、この頃の私の心にはこの堅物さ以上に厄介な、ある迷いがあった。
(私は女を抱けぬのかもしれぬ)
幾度となく父や友人に連れられ遊里に出向いたが、どの女にも指一本触れることができなかった。それは生真面目な性格のせいではなく、女に対する嫌悪感のせいだった。
何故だーーーその答えはなく、ただただ心は『男』へと惹かれて行った。見目麗しい男を見かけると視線で追っていた。
それを私は悪いことだとしか思えなかった。
いずれ嫁を得て、嫡男として谷家を守り存続させていかなければならない。その使命感を背負う私にとって、女が抱けないために子が為せないかもしれないという恐怖はとても大きなものだったのだ。
だからいけないことだと理性でわかっていながらも…その殿の隠し子である美男に会ってみたいという純粋な欲望が芽を出したのだ。

その数日後、私は殿に呼び出された。
その頃には隠し子の噂が公然のものとなった。噂はまるで燃え移る炎のように飛び火していく…殿の周りはなんだか騒がしくぎこちなかった。
「お前に頼みがあるのだ」
殿は私を近くに来いと手招きして呼び寄せた。近習役ではあるがそのように近くに呼ばれることはとても光栄なことで、その喜びで体が震えていた。
「三十郎、お前は直心流を修め寡黙で真面目…若いのに立派な働きぶりだ」
「も…っ、勿体無きお言葉です…!」
私の声は裏返ったが、殿は笑わなかった。
けれど
「そのお前に命令がある。内密だ」
「はっ…」
私だけに与えられた命令…その恍惚に満ちた誘いに身体中が緊張し強張った。
そして反比例するように、殿は冷たい眼差しである命令を告げたのだった。



509


「どうかされましたか、兄上」
玄関でぼんやりとしていた私に声をかけて来たのは、すぐ下の弟の万太郎だった。父に似た顔つきの私とは違い、おっとりとした母に似た万太郎は傍目には兄弟には見えないだろう。けれど同じ直心流を修めた剣士でもある。
「…どうもしない。私はこれから出掛ける」
「はい。ずっと草履の紐を結んでは解き、結んでは解き…何度も繰り返されていらっしゃいました」
「む…」
「気の進まない用事なのですか?」
万太郎の問いかけに、私は口を噤む。弟に心配されるほど私はわかりやすく動揺していたのだろうか。
「…なんでもない。今夜は遅くなる」
「わかりました」
ほどけないように草履の紐をきつく縛り私は気丈に振舞う。弟もそれ以上は何も聞かずにさっさと出ていく私を見送ってくれた。
家を出て目的地に向かって歩き始める。気が進まないせいか脚が重いがそれでも戻るわけにはいかなかった。
道中、決意を揺るがせないように私は殿とのやりとりを反芻した。
数日前、密命だと前置きした上で殿は言ったのだ。
『隠し子のことは聞いているだろう』
『…は…』
密命という言葉に心躍っていた私は、殿が口にした『隠し子』という言葉に冷や水を浴びせられたように頭が冴え、動揺した。
『あ…の、その…噂だけは…』
『隠さずとも良い。火のないところに煙は立たぬ…何処から漏れたのか知らぬが事実だ』
『…』
殿のあっさりとした肯定を私はどう受け答えたら良いのかわからず沈黙したが、殿はご不満そうに腕を組まれた。動揺する私を置いて話を進めてしまう。
『放って置いても良い話だが…時期が時期だけにつまらぬことで足を引っ張られたくはない。忙しい中妻の機嫌を損ねるのも面倒だ』
殿は藩政改革に取り組まれ財政を改善する成果を上げられた。その手腕が認められ我が藩にとどまらず、幕府でもその地位を高めようとしていた。その重要な時期に隠し子のことで揉めるのは億劫だったのだろう。
『そこでお前に頼む…というわけだ』
『…殿…』
『言葉にせずともわかるであろう』
殿は敢えて婉曲に口にはなさらなかったが、私は察して
『…承知いたしました』
深く頭を下げた。ようやく私は殿の冷たい眼差しの意味を察したのだ。
私に与えられた密命は『隠し子』を亡き者にすること。
(気が進まぬ…)
私は目的地…殿に教えられた『彼』の住まいに向けて歩いていた。当然拒むことのできない命令であったが、進んで『やりたい』とも言えない命令だった。
私は人を殺したことはなかった。徳川の安寧が続く日々のなか、田舎では大きな一揆はない。鍛えた剣術はお飾りでしかなく実際に人を斬ったものが城下に何人いるだろうか。
「はあ…」
私は何度目かわからないため息をつき、誰にも相談できない苦悩を味わっていた。
殿の直々のご命令だ。相手が悪党ではないせいで躊躇いがあるが、殿のご出世を邪魔する存在なのだから仕方ないではないか…と私のなかにある『正義感』を説得する。
それに密命を受けた時点で、失敗することすら許されない。聞かなかったことにすることも、引き下がることもできず、私の取るべき行動は一つしかない。
強い風が吹いた。数日前に満開を迎えた桜の花弁が風に誘われてハラハラと舞っていた。花吹雪が幻のような光景を彩っていく。
「…」
しかしいくら美しくともその花弁はいつか地に落ちて枯れていく。風に罪はなく、何物も永遠に咲き誇ることはできない。
(…それと同じだ)
私はそう覚悟を決めた。たとえ私が邪悪な風だとしても、それが世の中の摂理なのだ。
その時。
「先生!」
ある家の前で童たちが集まっていた。家の中にいる「先生」をしきりに呼んでいる。
(住所は…この辺り…)
城下のひっそりとした家屋の一つに住んで近所の童たちを集めて読み書きを教えている、という話を聞いていた。童たちが「先生」と呼ぶ相手がそうなのか。
私に緊張が走るが、強張る私とは裏腹に『彼』はあっさりと顔を出した。
「今日の手習いは終わりですよ」
「えー?」
「また明日、お越しなさい」
私の視線は一瞬にして釘付けとなった。
童たちに視線を合わせるように背を丸め穏やかに語りかける横顔は、精巧で美麗な顔立ちだ。色白の肌に黒く凛とした眼差し、形の良い唇が何の屈託もなく微笑んでいる。かとってそれは女のような儚い美しさではなく、周囲を魅了する不思議な麗らかさを放っていた。
噂通りの…いや、噂以上に美男だった。尾ひれのついた噂話だろうと同僚を馬鹿にしたことを謝りたいくらいだ。
私の胸は高鳴り…そしてそれは動悸に変わっていった。
(あれを…私が、殺すのか…!?)
あの美しい顔に切っ先を向け、血を流し、その息の根を止める…私にそんな酷いことができるのだろうか。いつか散るものだとしても、満開の桜を手折るような真似ができるというのだろうか。
「く…っ」
私は胸を押さえながら、ひとまず冷静になろうと物陰に隠れた。幸いにも童たちは散り、彼も家の中に入って行った。
「くそ…」
私は腰から崩れ落ち、頭を抱えた。
いっそ彼が平凡な男なら、そして私に男色の気が無ければ、躊躇いなく命令に従っただろう。
それなのに何故、こんな巡り合わせになってしまったのか。
(この運命を呪いたい…)
「もし」
「!」
頭を抱えうずくまる私の耳に、声が響いた。私は何故か顔を上げる前からそれが彼の声だということを理解していた。
「お侍様、どうかなさいましたか?お身体の具合でも…?」
「…」
彼は手を差し伸べる。白く細い指先が私をどこかへと誘おうとしている。
その手をとってはならない。
私は彼を殺さなければならないのだ。
わかっていたのに、身体はどうしようもなく彼の手に触れてしまったのだったーーー。



『竹矢来の君』は近くの旅籠に泊まるということで程なく屯所を後にした。彼は念願の人物に会えたお陰か清々しい様子だったが、正反対に顔色を真っ青にした谷は「具合が悪い」と言って部屋に引きこもってしまった。
「一体どういうことだったんですか?」
総司はその場に居合わせた斉藤に訪ねたが、彼は難しい顔をして首を横に振った。
「さあ…。あの男は何度も元気だったか、と尋ねたが谷はただ平伏したまま…会話すら成立しないような様子だった」
いつもは尊大な谷がただただ平伏したまま何も言えなかった…という光景が総司にはあまり現実味がなかったが、話を誇張しない斉藤が語るのだから本当なのだろう。
「…かつての主君か何かだったのでしょうが…とにかく『竹矢来の君』が探していたのは谷組長ということは間違いないということですね」
総司の問いかけに斉藤は「そうだろう」と頷いた。
「でしたらこれ以上は谷組長にお任せして、詮索すべきではありませんね。あの『竹矢来の君』が本当に備中松山藩に関わる方なら尚のこと、知らぬが仏ということです」
「…なんだ、いつものお節介は焼かないのか?」
「いつもお節介しているつもりはないんですけど…色々と手一杯なんです。近藤先生や土方さんは喧嘩したままだし、伊東参謀は不在だし、お孝さんのことも気にかかるし…とにかく私の手に負える範囲は超えてしまったんです」
もともと考え事が得意ではないのに、このところは抱え込むことが多すぎる。総司は自分の力量が分かっているからこそ、谷と『竹矢来の君』の一件には踏み込めないと思っていた。
斉藤は苦笑した。
「その方がいい。あんたのようにどちらかに肩入れすると、どうもややこしいことになる気がする」
「…斉藤さんが私のことをどう思っているのか、分かった気がします」
いつもお節介で厄介ごとに首を突っ込んでしまう…彼がそう言っている気がして総司は口を尖らせて拗ねたが、しかし斉藤はふっと鼻で笑った。
「どうだか。…何も分かってなどいないだろう、俺のことなど」
「それはどういう…」
意味ですか、とムキになって問おうとして総司はハッと言葉を止めた。
友人であるのなら、それを望むのなら踏み込んではいけないテリトリーがある。総司は今、自分が斉藤のそのテリトリーに踏み込んでしまうことに気がついたのだ。
「…すみません」
「…」
総司の謝罪に、斉藤は何も答えなかった。そしてそのまま彼は立ち去っていく。
彼の想いを確認するとき、いつも心が揺れた。無自覚な言葉で彼の気持ちを踏みにじり、傷つけているのではないかと。
(斉藤さんは何で僕のことなんか…思ってくれているのだろう)
その答えは彼の心にしかなく、それは絶対にわからないことだ。
もしかしたら知りたいと思うことすら、傲慢なのかもしれない。





510


彼を招き入れたのは、彼が私を殺しに来たのだと思ったからだ。

私は会話どころか顔を見たことすらない父親の庇護を受け、静かに暮らしていた。正妻を迎える前に出来た子である私は、父が婿養子に入るのに従ってここにやって来たのだ。
母はとうの昔に死んだ。とても美しい芸妓だったそうだが、私を産んだ時に死んだらしい。それ以来、父が遣わした乳母に育てられたが、その乳母も死んだので今は一人だ。
今まで私は存在すらしない人間として生きてきた。影に身を潜めながら本当の名を隠して。けれど二十歳を超えるとそんな日々を退屈に思うようになり、近所の子供達の手習いの面倒を見ることにした。乳母はいつ見放されるかわからない私のこれから先の将来を見据えて、文字を教え書を与え学問を身につけさせてくれた。それが私が外に出るきっかけになったのだが、逆に父に目をつけられることになってしまった。突然城下に現れた美貌の青年…そんな噂が広まってしまったのだ。
最初は女だった。乳母が亡くなりその代わりの女中として父に遣わされたのだと。けれど女は私の茶に毒を盛った。偶然、その場面を目撃した私は女を問い詰めたが、彼女は決して口を割ろうとはせずそのまま姿をくらました。
父の仕業だろうとすぐに察した。正妻との間には嫡男がいる…私は今更父の子であるなどと名乗り出ることなどゆめゆめ思わなかったが、それでも父は恐れたのだろう。
(忘れていなかったのか…)
血が繋がっているだけの父。私がその存在すら幻に思うように、父は私のことなど覚えてすらいないのだと思っていた。だから、たとえ向けられているのが『殺意』だとしても意識されていることへの高揚感があった。
だからこそ、簡単には死ぬまいと思った。
言葉巧みに近づく女たちを看破し、外へと連れ出そうとする男を拒んだ。父は表立って私を殺すつもりはなかったのだろう。それは血の繋がった子への同情なのだろうか。
そうした日々の中、出会ったのが彼だった。
手習いに来た近所の子供達を見送るために外に出た。その時に彼は私を見るやハッと顔色を変えて姿を隠してしまった。
(今度はあの人か…)
私はゆっくりと彼に近づいた。
同じくらいの年の若い侍だった。彼は頭を抱え蹲り小さく震えていた。
(私を殺すのが怖いのだろうか)
藩主である父からの命令を拒めるはずはない…私はやや同情しながら手を差し出した。
「もし…お侍様、どうかなさいましたか?お身体の具合でも…?」
私は素知らぬふりで彼の前に手を差し伸べた。すると頭を抱え蹲る彼がゆっくりとその顔を上げた。『武骨』という言葉が似合う真面目そうな青年だった。けれどその唇は紫に染まりガタガタと震えていた。
けれど、彼は私の手を取った。乾いた手のひらが重なり彼は私の力を頼りながらフラフラと立ち上がった。
「か…かたじけない」
彼は私の目を見ようとしない。後ろめたいことがある証拠だ。
「…いいえ、もしよろしければ中へどうぞ」
「な…?」
「顔色が悪いようです。少し休まれた方がよろしいかと」
「…」
私の申し出に、彼は驚いた顔をしていた。殺しに来た相手からこんな呑気な誘いを受ければ拍子抜けしてしまうだろうが、私も下心なく誘ったわけではない。青ざめた彼の顔色の奥にあるもう一つの感情に気がついていたのだ。
彼は私の誘いを受け、家の中に入った。小さな平屋にある客間…先ほどまで子供達に手習いを教えていた場所だ。開け放った障子の外から風が吹き込み、どこからやって来たのだろう桜の花びらが畳にまばらに落ちていた。
彼は戸惑いながら腰を下ろした。私は彼の隣に膝立ちになり、両肩を掴んだ。
「な…?」
「あなたの考えていることはわかります」
私の言葉に彼のこめかみがピクっと反応を見せた。
あなたが私を殺しに来たこともわかっている。そして…あなたが私に頂いた感情もわかっている。
私は呆けたままの彼の唇に同じものを重ねた。最初は小鳥のように啄ばみ、驚きのあまりに固まったままの口蓋に舌を差し込んだ。
すると彼が私を押した。
「な…っ、なにをなさるのか!」
彼は顔を真っ赤に染めて、悲鳴のように叫んだ。
(おや…坊やだったか)
彼の『男』を見る目が違っていたので男色家だろうと見抜いたのだが、まだその経験がなかったのか。
私は微笑んで答えた。
「一目見てお慕いしてしまったのです」
「は…?」
「あなたもそうだったのではありませんか?」
もちろん、本心ではない。
命を狙われ続ける私の処世術の一つだ。女は「可愛い」といって抱いてやれば良い、男は「惚れた」といって抱かせてやればいい。一度情が通じてしまえば殺すのが惜しくなる。幸いにも母から受け継いだこの美貌で、今まで男女問わず何人も籠絡することができた。だから、この男も同じだろうと踏んだのだ。
すると男は顔を真っ赤に染めたままゴクリと喉を鳴らした。そして震える指先を伸ばして私の首筋に触れ、まるで高価な宝石に触れるようにゆっくりとなぞった。夢ではないのか、幻ではないのか、本当に人間なのか…そんな風に感触を確かめるように。
「お侍様…」
「…っ」
彼は箍が外れたように私を押し倒し、噛み付くような愛撫を繰り返した。決して上手いとは言えない口付けだったが、真っ直ぐな彼の感情に触れて私の気持ちは揺れた。
(ああ…どうしよう…)
彼は私を殺しに来たのに。
私は彼を殺したいのに。
純朴で汚れのない澄み切った彼の感情に触れてしまった。
(あの時…)
頭を抱えて蹲る彼に手を差し伸べてはいけなかったのだと、気がつくのが遅すぎた。



「総司」
巡察から戻ったところで近藤に呼び止められて、総司は足を止めた。
「先生」
「おみねさんから饅頭をもらったんだ。良かったら部屋で一緒に食べないか?」
「もちろん、ご相伴に預かります」
近藤から甘いもので誘われては断る理由は何一つない。総司は二つ返事で頷いて、近藤の部屋に入った。
近藤は上機嫌で総司に饅頭を差し出した。みねがよく買い求めていたものだ。
「残念ながらみんなに配るほど数がないんだ。内緒だぞ」
「わかりました。…ふふ、試衛館にいた頃、こうやって内緒で甘いものをいただきましたよね」
「そうだなぁ。お義母さんに隠れて二人で分け合って食べたよな」
はははと互いに笑い、懐かしさを分かち合いながら二人は饅頭を頬張る。ダイレクトな甘さが口の中に広がり、幸福感で満たされる。
「お孝がこの饅頭が好物らしくて、おみねさんが毎日買ってくるんだ」
「…お孝?」
総司は違和感を覚え首をかしげる。近藤は孝のことを他人行儀に『お孝さん』と呼んでいたはずだ。
すると近藤は「ああ…」を少し顔を赤らめて頭をかいた。
「呼び捨てにしてほしいとお孝に頼まれたんだ」
「…そうですか」
あの気の強い孝がそんなことを申し出たということは、近藤に気を許している証拠なのだろう。
総司は食べかけの饅頭を懐紙に戻した。
「あの…近藤先生、お孝さんのことはどうされるおつもりなんですか?」
「…どう、とは?」
「隊内では先生がお孝さんを妾として迎えられるのではないかと噂が飛び交っています。深雪さんが亡くなったばかりで不謹慎だとは思いますが…」
「…」
近藤は穏やかな表情のまま饅頭を食べ切った。
「隊士たちがそのように思うのは当然だろう。俺がお孝を囲っていることに間違いはないのだからな」
「でも…」
「うん、しかし俺にとってやはりお孝は深雪の妹なんだ。俺は深雪を通してお孝を見ている…二人は確かに似ているが、だからといって妾にしようとは思えないな」
「そう、ですよね…」
「…歳に何か聞き出してくるように言われたのか?」
総司の冴えない顔色を見て、近藤が尋ねてくる。総司は慌てて首を横に振った。
「違います!土方さんはお孝さんのことは何も…。先生の判断に任せると言っていました」
「そうか…疑ってすまない。歳とはあれ以来なんだか話しづらくてな」
近藤はため息をついた。感情に任せて殴るほど激昂した喧嘩について、近藤はどう収めたら良いのかわからなくなってしまっているのだ。土方も土方で歩み寄るような性格ではないため時間だけが経ってしまっている。
「…近藤先生、土方さんは新撰組の『鬼副長』ですけど、それ以前に先生の大切な幼馴染に違いないですよね」
「もちろんだ」
「土方さんもそう思っています。口には絶対にしないけど…でもいつも先生の幸せを願っていて、その為に懸命に動いているんです。だから疑うことなんて何もありません」
総司は食べかけの饅頭に手を伸ばした。なんの変哲も無い小豆の素直な甘さに自然と笑みが溢れてくる。
近藤はふっと安堵の息を吐いた。
「…そうやって甘いものを食べていると子供っぽく見えるが、お前もすっかり大人だな」
「もう二十歳をとうに超えましたからね」
「そうだったな」
互いに顔を見合わせて笑った。そしてもう一つ残った饅頭を二つに割って食べたのだった。




解説
508 谷の生い立ちや松山藩に関する内容については創作です。
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