わらべうた






51
「誰かを疑うんなら、早く疑ってくれ。後が面倒だ」
「…歳」


「ついに無くなった感じですか」
「ええ、ついに」
「汁一滴なく」
瓶をのぞき込んだ総司、野口、そして神代がその中をのぞき込んで大きくため息を付いた。毎日の糧としていた京菜の漬け物が、ついに完食の時を迎えてしまったのだ。試衛館の時と違って大所帯なのだから、無くなるのは早いだろうと総司も危惧していたのだが、ついに終わりを迎えてしまったのだ。
「あーっ!もう!今日から何を食べて過ごせばいいんだろッ」
総司が頭を抱えた。今ならふでの気持ちが分かる気がする。
実際食事の当番はあるものの、他の男は料理もままならず結局三人がする羽目になってしまった。すっかり台所係が板に付いた三人は、『北の方』という渾名までつけられていた。
野口は困った顔をして
「どうしましょう。山南先生にこれ以上食費のことでお悩ませするわけにはいきませんし」
と、呟いた。
現在壬生浪士組としての収入は皆無に等しい。会津藩からいくらかの支給はあるものの、とても大所帯をまかなえるほどの余裕はないのだ。金のやりくりは算盤が達者な、山南に任せているのだが、きりつめても、きりつめても無くなっていくのだからどうしようもない。
それにまだ役目を与えられてない以上に、何の手柄も挙げていない以上会津に強請る訳にはいかない。
「そうなんですよね。ただでさえ、山南先生こーんな眉をしてるし」
神代が山南の眉をまねて見せて、野口と総司破顔した。眉がすっかり寄ってしまっている。その様子がそっくりだった。
「ま、とにかく。どうにかしないとだめですよね。土方さんに相談してみようかなぁ」
「土方さんだったら、もっと深い眉寄せますよ。こーんな」
神代がまた真似て見せて、苦笑する。そういえば八木邸で再会したときも顔まねをしていたような気がする。
「…芹沢先生は豪勢に遊んでいるようですがね」
その隣で野口が申し訳なさそうに苦笑した。
野口は芹沢らとあまり行動をともにしない。付いていくときもあまり良い顔をしない。そう仲が良くないのかな、と内心思う総司だったが実際は聞いていない。
「でも私たちが押し借りに行くわけには行かないでしょう?」
総司が呟くと、神代が笑って
「そりゃ総司じゃ迫力が足りねぇなぁ」
と肩をたたいた。
「もー」
総司がすねた顔をすると、また二人が笑った。同世代の三人は何となく気が合う。

「何してるんですか」
と、そこへ顔を出したのはまたまた同世代の斉藤だった。
「あ、ちょっと台所の相談をしてるんです。どうですか、斉藤さんも」
「…嫌な誘いだなあ」
斉藤は苦笑したものの、土間に降りた。
「ほら、ほら、こーんな感じでもう食べるものがなくなったんです。こうなったら山に出かけて山菜狩りでもした方がいいですかね」
「いんや、イノシシ狩りだな。煮て食うと旨いらしい」
「動物は願い下げだな」
「じゃあ釣りなんてどうですか。結構得意ですよ」
「釣り竿あるかなぁ」
「つーか餌がねぇよ。むしろ餌がもったいねぇ」
皆口々に言うが意見はまとまるはずが無く、最後にはため息を付いた。
「とにかく今晩の飯だけでも確保しなきゃなぁ」
神代のつぶやきに、皆がこくん、とうなずいたものの妙案を持つものはおらず、またため息を付く。
「仕方ない」
斉藤が小さく呟いて、袖に手を入れた。
「え?」
「ん?」
「……ここに三両ある」
斉藤なけなしの三両だった。


一方、こちら八木邸離れ。事実上の幹部室、といったところだった。
深刻な顔で暖炉に手を当てるのは近藤、土方、山南。芹沢はもちろん不在だ。
「…間者、ですか」
その響きを嫌うように、山南が呟いた。
土方は山南にこのことを言うのに賛成しなかったのだが、近藤は「組の大切なことだ」とがんとして譲らず、山南に漏らした。
土方としてみれば、山南が殿内の処分に逆らうのは当然だと確信しており、余計だ、と言ったところだ。説得するのは結局土方の仕事になる。
「浪士組の佐々木の手先だ」
「殿内くんが…なぁ」
「近藤さん、決断してくれ。芹沢やじーさんには後で話を通せばいい。他の奴らも間者だと知れば組においておくわけにはいかないと思うだろう。理由は後からつければいい」
土方の言い分に山南が寄った眉をさらに寄らせた。
「……やむを得ないか」
「…ええ」
「決まったな」
殿内、暗殺。土方は心の中だけで呟いた。

殿内が間者であると土方が察したのは、近藤が目撃した佐々木と殿内の接触。
そして殿内が一人で行動することが多いことだった。
明らかに派閥ができるなかで、どの派閥とも偏らず中立な立場を守ったのが殿内のみ。早めの始末が必要だ、と土方はその感性で察していた。


「今日は芋の煮っ転がしですか」
次に台所をのぞいたのは、ひょっとこのような顔をしている殿内だった。
総司達とはほとんど接触はないものの、台所の様子は気になるらしくいつも同じ時刻に台所をのぞきにくる律儀な男だった。
「はい。とりあえず食いつなげそうです」
「どれもこれも斉藤さんのおかげですよね」
「ホント、頼りになります」
皆の絶賛に斉藤が無愛想ながら照れくさそうに「もうしゃべるな」と呟いた。照れくささでは土方と同じくらいだ。
「みなさんのおかげですよ。私は料理も何もできないので、手伝いできず申し訳ない」
「いえ、いいんですよ。それが普通だと思いますし。私は道場でやらされていたから、なれてますけど」
殿内がいきなり謝ったので、総司があわててフォローした。
殿内はあまり愛想が無いものの、こういう律儀なところは試衛館にはないなれないものだった。だが、これが内心、間者としてのカモフラージュだとは総司をはじめ彼らは気が付いていないのだが。



52
文久三年三月二十四日。
壬生浪士組の殿内義雄が深夜、四条大橋において暗殺される。切り口は青眼の突き。


その前日。三月二十三日。試衛館一同は喜びにわいた。
「やった!上様の帰東が延期になったぞ!」
近藤が涙を流さんばかりに、皆に伝え皆も呼応した。
実は都に上っていた将軍家茂候が帰東される、つまり江戸に帰られる、という決定がなされていた。これは公武合体を試みたものの、折り合いうまくいかず「ここまで」と幕府があきらめたからである。
それにあわてたのが、壬生浪士組だった。元々将軍警護のために組織されたものの、特に働かないまま終わるのはばからしい。公武合体を推し、それを楯に将軍帰東阻止の建白書を板倉勝静に提出。目を通されたかどうかは知れないが、帰東は延期となった。
「ふん、このまま帰東されるようでは幕府は終わりだ」
ぐい、と酒を飲み芹沢が試衛館派らの喜びを見て鼻で笑った。感情を表に出さない芹沢は、黙々と酒を飲み、それを祝うだけだった。


とにもかくにも「京に残る」口実を手に入れた土方はご機嫌だった。
いつもはハエを払うように「しっし、」と総司を追い払う土方だが、今日は「つきあえ」と部屋に招いた。夜空のきれいな縁側でのことだ。
「よかったですね」
総司が土方に酌をした。
「ああ、かっちゃんも喜んでる。建白書にお目通りいただけたことがうれしいんだろ」
「それもそうですが、違いますよ。土方さんが一番うれしそうです」
「ふん」
図星、という所だったのか土方は顔を逸らした。
言動や行動はいつも人よりも一枚上手なのに、こういうときに子供っぽい照れくさい所がある。それは総司だけが見抜いていたのかも知れない。
「でもそれなりの働きをしないと、何の支給もいただけませんよ。今のところ斉藤さんのへそくりでやりくりしてたり…。とにかく、仕事を頂かないと」
「見回りだけじゃ、そんなもんだ。なんかでかい事件でも起こればいいんだが」
「もー。不吉な」
総司が小さくため息を付いた。

「江戸を出て、いろんなことがあって会津お抱えが決まって、上様警護のために働くなんて。江戸に居たときの私は想像なんてしてなかったのに」
「そうだな」
あのころはただ。
何気ない一日を過ごしたり、星を眺めるだけで幸せだった。普遍こそが幸せだと、信じていた。
「……京の星も、江戸と変わらないのに」
変わってしまったのは、自分たちだ。星が、輝かしい。
「総司」
「はい」
土方の声色が変わったことに、総司は気が付いた。きっと、まじめな話をするのだろう、と感じたものの、星から目をそらすことができなかった。土方の顔をみてはいけない気がして。
「お前が…江戸を出るときに言った言葉を覚えているか?」
「……きっと、何が起ころうと後悔しない、っていうやつですか」
「そうだ」
どうしてだろう。星から目が離せられない。土方の顔が見れない。
「俺がこれから何をして、何をお前に頼んだとしてもうなずいてくれるか」
「…土方、さん?」
「今日はここまでだ。明日また話す」
「…はい…」
勇気をもって見た土方の顔はどこか自信なさげな、不安そうなものだった。見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。総司は少し後悔した。

 その少し後。
「総司、」
「え?あ、神代さんですか」
厠にたった総司だったが、途中で神代の声がして隣の障子が開けられた。そこには神代と根岸派のものが数名座って、なにやら深刻な話をしていた。空気が違う。
「…ど、どうしたんですか?みなさん……」
鬼のような形相で彼らは総司をにらんだ。何か悪いことをした覚えもない総司はただたじろいで
神代が言うままに座った。空気が明らかに違う。どす黒い。
「あのさ、気を悪くしねぇで聞いてほしいんだけど」
「う。うん」
「建白書のこと」
総司が心でため息を付いた。昔からこの手の話が苦手だった。
もし神代の話が政やら思想の方向に向かうようなら、席を立とう。子供っぽいとは思いながらも冷や汗を流した。
「…この壬生浪士組はそれなりに数も多くなったし、確かにまとめる人が必要だと思う。だけどさ、今回の建白書の件だって…」
総司は思わず席を立ちそうになった。やっぱり、と肩を落として。だが、そういうわけにも行かなかった。
「……うちの根岸先生には知らされていなかったんだ」
「え?」
総司は内部事情をよく知らない。知ろうとも思わなかった。
「どうも根岸先生だけ外されているようにしか思えない。今回の建白書の連名だって芹沢先生と、近藤先生が代表、と書かれていたし……」
「…それは蔑ろになっている、という意味ですか」
総司の言葉に神代は小さく頷いた。神代の師である根岸友山は、浪士組での最高齢隊士だった。
「俺達が勝手に思ってるだけだから直接聞くわけにはいかないからさ」
嫌な予感がする。冷や汗が一筋流れた。
「総司ならなんか知ってるかもって」
「え…ええ?!」
皆の視線が総司に集まる。無骨な男が多いので、ごくりと唾を飲み込んでしまう。
「ざ、残念ですけど。私はそういうのに疎くって……」
「……そっか」
神代の顔がさらに曇った。
少しずつ、少しずつ亀裂が入っているのに総司でさえも、気が付いていた。


翌二十四日。
朝一番に土方に呼ばれた総司は、部屋に向かったのだがそこには近藤、山南、そして芹沢が居た。酔っていない芹沢を見るのは久々で、よほどの呼び出しだな、と思った。まず口を開いたのは近藤だった。近藤の顔は少し、青ざめている。
「総司、これから話すことは決して誰にも口外しないでくれ」
「…お話は私だけが聞かされるのですか」
近藤はゆっくりとうなずいた。そして続いたのは土方だ。いつもと違って暗い口調で
「…殿内を斬る」
「……え?」
ぽかん、と総司の口が開いた。自分で瞬きをしているのかしていないのか、よく感覚がわからない。今、目の前にいる兄弟子は何を言ったのだろうか。
「殿内は間者として俺達に加わっていることがわかった。」
「…ほ、んとう…なんですか?」
「ええ」
きっぱりと答えたのは山南だ。山南の表情もこわばっている。
殿内との関わりは少ないものの、夕食時になると飯の支度に顔を出してくれる、
ただそれだけだった。
「…私に……斬れと言うんですか」
「ああ……」
『俺がこれから何をして、何を頼んでもうなずいてくれるか』

昨日土方が言った言葉が、心の中で響いた。


「わかりました」
総司の答えに一番驚いた表情を見せたのは土方だった。それはきっと総司にしかわからなかったが、総司にだけはわかった。
土方は、自分が首を横に振るのを期待していたのだ。
「斬れない」と言って、甘えるのを。




53
三月二十四日、夕方。総司は念入りに刀の手入れをしていた。『北の方』として日々台所に立っていたせいで、刀の手入れを怠っていた。使用はしていないものの、近藤からもらった大切な刀。その手入れを怠りたくはなかった。

暗殺の実行犯は総司と近藤だった。内々で済ませたい、という土方の意図が伺えた。
「…念入りですね」
「!」
背後に気配を感じたその瞬間に、すでに声をかけられた。同室の斉藤だった。気配を消すのが得意らしく、総司でさえもなかなか気づかない。
「驚くじゃないですか」
「きっと『いつもの』沖田さんなら気づくと思って」
「………」
総司は斉藤が口調で強調した部分で、彼がすでに察していたことを知った。
「さぁ、何のことでしょう」
「行うなら腕の方だけじゃなく、方便をつく巧さも必要ですよ」
「…心得ました」
いつ気づかれたんだろう、と内心はらはらしながらも総司は寡黙に刀に向かった。斉藤とは年が近いこともあって気が合う仲間だった。斉藤の方も気を許している相手といえば総司くらいで、後はそれこそ寡黙な男、として接している。
「土方さんが呼んでました」
「…そうですか」
斉藤の用事はそれだったらしい。淡々と告げた。総司は刀をゆっくり下ろし、鞘に収めた。『刀の盟約』として授けられた『加賀清光』は、どこか怪しく艶めいていた。
「沖田さん」
「なんですか。心配なら無用です」
斉藤は黙った。人のことを呼んでおいて、黙った。だから、総司が続けた。
「私が、すべて自分で決めたことです。人間である前に、武士である前に…あの人の楯になりたい」
寡黙な男は口を開いた。
「…何もかもを背負ってしまう必要はない。一人で抱え込むことをするな、人を信頼し、人を誠実に思うことこそ」
「…」
「武士」


斉藤の言葉が脳裏に残っていた。あれは忠告だったのだろうか。それとも危惧だったのだろうか。一人で何もかも抱え込んでいるような顔をしていたのだろうか。
そんな風に思って総司はふと、頬を引っ張った。ギュッと抓ると、痛みを感じる。そして掌でパン、と頬を挟むようにたたいて「よし」と呟いた。

八木邸離れに向かった時は、すでに空は暗闇を醸し出していた。天気は曇り。暗殺には絶好の日だな、と皮肉交じりに思い障子を開けた。
「土方さん、入りますよ」
もう、障子開けてますけどね。と苦笑して畳を踏むと、そこにいたのは土方だけだった。
「どうしたんですか」
「そこに座れ」
まるでしかられるみたいだ、と試衛館の仏間を思い出しながら苦笑した。ゆっくり土方に相対して腰を下ろし、刀を隣に置いた。
「総司、今回のことだが」
「もう、何度も何度もしつこいですね。手順はわかってますよ」
「そうじゃない」
土方の口調が急に真摯なものに変わった。
「…今回のことには、この刀を持っていけ」
「え?」
土方が差し出したのは己の愛刀、堀川国広。土方が江戸を出立する際に、姉の嫁ぎ先である佐藤家から引っぱり出してきた、と自慢した刀だった。
「…つまり、子供扱いですか」
お前のせいじゃない、お守りにでもしろ、と言うのかと。総司が軽くにらむと
「ああ、子供扱いだ」
と、土方はあっさり肯定した。
「…土方さん」
「俺はお前を弟だと思ってるし、子供だと思ってる。…お前にそんなつもりがないのは知ってる。だが俺にとっては変わらない」
土方の顔が、苦痛に、悲痛にゆがんでいく。彼のこんな表情を見るのは、総司でさえも初めてだった。
「俺は、だからこそお前を見守ってやりたかった。だから…こんなことをさせるつもりじゃなかった」
土方は総司の腕を引き寄せた。きょとん、としたままの総司の掌を開かせ、愛刀堀川国広を握らせた。
「暗殺の話をしたとき、きっとお前は首を縦にはふるまい、と思っていた。だが…芹沢の要請でお前に話を持ちかけた」
芹沢の要請、という言葉に首を傾げたが、土方にその話を触れることはできなかった。
「お前に、お前に暗殺なんてさせるつもりはなかった…!お前が人を斬るときは、いつも俺のことばっかりだ……」
総司が初めて斬った人間は、土方を襲いに来た松平家の刺客だった。ずいぶん昔のことのように感じる。
結果的には土方を助ける形で人を斬ったものの、武士たるものその覚悟はいつでもしておくべきだという教訓を得た。大切なものを学んだ。決して、土方の責任だとは感じていない。
「悪い、悪ぃな…俺はお前を人でなしにさせてばかりだ……。だからせめて、その刀を暗殺の血で汚さないでくれ。すべては…俺が」
庇う。握らされた堀川国広は、きっと人の血を知らない。鮮やかなまでに輝いていた。

「…土方さん」
総司の言葉に、土方はさらに強く愛刀を握らせた。
「もう二度と、そんなこと言わないでください」
「!」
土方の指から力が一瞬にして抜けた。
「私は、喜んで血を浴びます」

「……俺の前で意地を張るな」
そういって土方は総司をあやすように体ごと引き寄せたが、総司は拒否するように両手で土方の胸を押し、離れた。そして口をとがらせて「赤子のような扱いはやめてくださいよ」と苦笑した。
「総司…」
「土方さんが心配するほど、子供じゃありません。江戸で覚悟してきたんです。これくらいで動揺するようでは、江戸に帰らなきゃ。姉さんの説教を食らってしまう」
「……」
総司の冗談にも、土方は硬直した顔を歪めることはしなかった。
「…殿内さんが間者である以上、異存はありません」
総司は自分の手に握らされていた刀を、土方に返した。
「この刀は血に汚れないまま、土方さんが持っていてください。私の加賀清光は近藤先生との盟約です。だから、斬ります」
強くなりたい。 この人を、こんな顔にさせないために。空っぽの笑顔だったとしても、強気に、何でもない振りをして人を、斬りたい。


「わかった」
「はい」
土方は一度深呼吸をした。吸った息を大きく吐いて総司の肩をぽん、とたたいた。
暗殺者を送り出すのだ。


文久三年三月二十四日。壬生浪士組の殿内義雄が深夜、四条大橋において暗殺される。切り口は青眼の突き。
54
文久三年三月二十五日。殿内惨殺の知らせが屯所とする八木邸に届いた。
芹沢や土方、そして実行犯である近藤、総司以外の事情を知らない者は突然のことに驚きを隠せなかった。だが。


「…へぇ、そないですか」
ことのいきさつを近藤、そして土方、山南から聞いた八木家当主源之丞はふぅ、と小さくため息をついた。
まさか朝一番の挨拶と共に、このような物騒な話を聞かされるとは源之丞も思いも寄らなかった。
「お気の毒なことでしたな」
「ええ、我らも驚きを隠せません。反幕のものの仕業でしょう」
「…なんや、物騒な世の中やな…」
源之丞はそのたれ目でちらりと近藤、土方の顔を見た。
近藤は半ば緊張した様子で下を向いていた。誠実な彼にしては珍しく源之丞に目を合わせようとしない。山南もいつも浮かべている穏やかな笑みはなく、痛心な面をしていた。だが、一方土方はというと、そんな様子は全くなくさらり、と涼しい顔をしていた。本当に会話通りの表情をしてた。
(曲者はこの土方やな)
人生五十年の直感だった。
「……この家を血ぃで汚すことは、勘弁してくんなはれ」
ことの真の経緯など、源之丞には手にとるようにわかった。だが、それ以上に無関心を装うことが大切だ。足をつっこむ必要も無かろうと、頭を下げた。

「それで今日は八木さんにお願いがあります」
話を切り替えるように、小さく咳払いをして土方の隣に座る山南が口を挟んだ。
「先日会津藩公用方、本多様から壬生狂言を鑑賞したい、というお話を頂きました」
「壬生狂言を…会津はんが?」
源之丞が確認するように山南を見ると山南が頷く。
壬生狂言は、屯所を構えるこの壬生一帯にある伝統芸能である。鎌倉時代に生まれたこの壬生狂言は、長く広く愛され「壬生さんのカンデンデン」と愛唱される。
それを会津公用方である、本多四郎を始め数人が鑑賞したいのだという。
「会津藩は我らとの友好をはかり、また伝統芸能である壬生狂言を是非、一度見る良い機会だと…」
「それで八木さんにはその取りなしをしていただきたいのです。急な話で、本日の夕方お見えになると…」
「へぇ、それはかましまへんけど」
源之丞にとって決して悪い話ではない。
この壬生一帯を取り仕切っている八木家では、壬生狂言についてはプロフェッショナルだった。「よろしくお願いします」近藤らは小さく頭を下げた。


「困るぜ、近藤さん」
土方が八木本宅から帰る途中に、小さく呟くように言った。
「もっと平気な顔をしてもらわねぇと。八木さんには勘づかれた」
「すまん、歳…」
近藤ははぁ、と小さくため息をついた。
昨日の暗殺の疲れは身体的な者よりも、精神的な者が大きかった。初めての人殺しではないものの、暗殺はもちろん初めてのことだった。
「こんなことは…二度とごめんだな」
「そうですね」
「………」
山南と違って土方は何も答えることができなかった。
これからこんなことが起こらないとはいえない、むしろまたきっと起こるだろう。
壬生浪士組を大きくさせることを願う以上、人の道を外れたことをすることになる。土方はそんな確信をしていた。 
近藤は頭上に広がる青い空を仰いだ。空に昨日の記憶はない。
「…総司は平気な顔をしていたな」
もう一度小さくため息をついた近藤に、土方は何も言わず頷いた。


「あー!斉藤さん、だから漬け物はもっと薄く切ってくださいってば」
台所で本日の朝食に奮闘していたのは、斉藤と藤堂、そして総司だった。
会津藩からの手当ではとても、食事を賄えず総司は日々格闘していた。金勘定をしているのは試衛館で一番の知識人の山南。そして実際調理しているのは、貧乏暮らしが長く家事に慣れている総司である、というのが段々いつもの風景になっている。総司もまさかこんなところまで来て、試衛館の下働きと同じような仕事ばかりしているというのには苦笑するしかない。
そして今日の手伝いの斉藤は、八木さんに好意で頂いた大根の漬け物をざっくりと、煮物のように切っていた。
「質よりも量、量よりも数、ってのが原則なんですから」
「すいません」
斉藤は頭をかくしかない。
かわって総司が包丁を持ったのだが、切られた大根の薄さはまるで一枚の葉のようだった。
「沖田さんは賄い方の天才ですね。これなら、賄い女中なんて雇わなくてもいいんじゃないですか?」
茶化すように言った藤堂だったが
「そんなの御免ですよ。賄いの仕事をするためにわざわざ京まで来たんじゃないんですから」
という総司の言葉には苦笑するしかない。
「刀の天才は包丁を持たせても天下一品ですね」
藤堂はみそ汁をかき回しながら笑った。殿内の暗殺について、触れることはなかった。

殿内暗殺については今朝、知らせが届いたときは一同驚いたもののすぐにそれは収まった。大体の予想がついていたからである。殿内がいつも芹沢派、試衛館派、根岸派で中立を保っていたこともそうだが、こんな名のしれない壬生浪士組の一員が、尊皇攘夷に燃える長人(長州藩の人)に殺されるはずがない、ということが多くの見解だった。
きっと内部で暗殺が行われたのだろう、と一同は解釈している。そしてそれは誰も口には出さなかった。
だが、それを達観できないものもいた。


「総司!」
朝食の準備が整った土間に、野獣のように入ってきたものがいた。ぜぇぜぇと息を切らし、総司達を睨んだ。
「神代さん?」
神代は普段は絶対しないような獰猛な目つきで総司を睨み付けると、総司の胸ぐらをつかんだ。
「ちょ、かみし…」
「お前が…お前が殺したそうじゃないか……ッ!」
「!!」
感情的な言葉とはいえ、総司にはすぐに意味が分かった。
「なんで、そんな涼しい顔で飯なんか、作ってんだよ……!」
「…なんのことかわかりません」
「ふざけんな!!」
神代は胸ぐらをつかんだまま、総司を壁へと打ち付けた。斉藤がとめようと神代の腕をつかむが、「離せ!」と興奮した神代は誰にも止められなかった。
「暗殺しておいて、へらへらと…お前は仮面を被った脳天気だったのか?!」
「暗殺?何のことですか?」
「しらばっくれんな!」
総司があくまで白を切ったのは、近藤と土方との約束があったからだった。二人の信頼を裏切るくらいなら、このまま殴り殺された方がいい。
「…ッ、やろッ!」
神代は総司が思ったとおり、その腕を振り上げた。殴られる、と思い目をつぶった。
だが痛みは無かった。
「…何の騒ぎだ」
神代の腕をつかんでいたのは、土方だった。
事情を知っているに違いない土方の涼しい顔に、神代はさらに激情的になった。
「…黒幕はあんただろうッ!そんなことが許されるとおもってんのか?!」
標的を返るように、神代は土方につかみかかろうとした。だが、土方はグッと神代の掌を捻りその隙に神代の頬を殴った。
「…ッ!」
「土方さん?!」
神代は石造りの土間に、倒れ込んだ。


 
55
土間に転がった神代は、恐ろしいと言うよりも信じられない者を見る様子で、土方、そして総司を睨んだ。そして何事か、と集まった野次馬達は騒然とした。

「どうしたんだよ、」
「何事だ?」
なんだ、なんだ、という具合に永倉、原田が顔を出す。続いて山南、藤堂。そして居合わせた根岸一派の頭である根岸友山が口を出した。
「なにをしているか、神代」
「先生…」
「みっともない。立ちなさい」
根岸は低い声で神代に諭した。神代は躊躇いながら土間から立ち上がった。パンパン、と袴についた土埃をはたいた。
根岸は弟子に支えられながら土方に近づき、
「どういうことですかな。説明してくださらんか」
と言った。土方はふぅ、と小さくため息をついた。めんどくさそうに。
総司の心臓は多く振動するだけだった。
「…総司に殴りかかっていたので止めただけだ。つまらない言いがかりでな」
「言いがかりだと?!」
冷静を取り戻したかに見えた神代がまた激高した。
「あんたらは殿内さんを殺したんだろ?!どういう理由かはしらねぇが、卑しいやり方で…!暗殺って言う武士にあるまじき方法で殺したんだ!」
その目は飛び出るほどに土方を睨み付けた。それでも土方は動じない。
「誰に聞いたんだ。」
「芹沢先生だ」
え?と総司は眉を小さく顰めた。
芹沢は殿内を暗殺すること知っていたこの中で少ない者の一人だが、他言は無用だと同意していた一人でもある。それに何の関わりもない神代に知らせる必要はないはずだ。
なぜ。だがそんな理由は今、考えられるわけが無かった。
「…芹沢か」
土方は小さく呟くと、誰にも気づかれない音で舌打ちをした。根岸は訝しげに
「…真実、ですかな」
と問うた。すると、土方は総司の思惑はずれて「ああ」と短く返事をしたのだ。


夕闇に紛れて進められた壬生狂言の準備は、本多四郎を初めとした会津藩士達が到着するまでには完了していた。
揃いの羽織で身を固めた壬生浪士組達が、手厚く出迎え開演を待つ。壬生狂言は普通の狂言と違い無言劇(パントマイム)である。顔には厳つい面を被り、かね・太鼓・笛の囃子に合わせ台詞なく舞うのだ。曲目は30以上あるが今日は「舟弁慶」を演じる。
舞台裏は大忙しだった。

「…なんや人数が減られましたんかいな」
真っ黒の羽織に身を包んだ源之丞が、舞台を手伝う藤堂に尋ねた。
藤堂は「御落胤」を自称するだけ合って、組の中で一番気品あふれ礼儀正しい青年であるため源之丞から好かれていた。
「ええ、ちょっと…事情があって十名ほど脱退することになったんです」
「へぇ…」
源之丞はすぐに察したらしくそれ以上は藤堂に何も聞かなかった。


玄関先では根岸一派の十一名が行李をまとめ、足袋をはいていた。もちろん神代が含まれる。あれから暗殺をした、と土方が肯定し根岸らの不興を買った。駆けつけた近藤があわてて言いつくろったのだが時、すでに遅く根岸らは脱退することを決めた。
土方は「勝手にすればいい」と言って弁解などしなかった。むしろ好都合だという風に。
だが、壬生浪士組を去る彼らを総司は見送った。つい昨日まで仲良く食事を共にしていた仲間を、無視しておくほど総司も大人ではなかった。
「……神代さん」
「総司…」
行李のひもを結んでいた神代が、総司の方に目を向けた。穏やかな神代の顔だったが、向けられた目は少し軽蔑を含んでいるようにも見えた。
「すみませんでした。私は、嘘を……」
「…もう、いいさ。関係のないことだ」
ズキッと心が痛んだ。つい昨日までは笑顔で話しかけていた仲だったのに。こんな理由で仲違いするなど、気持ち良くはない。だが総司にはどうすることもできなかった。そして何よりも、神代に言い訳をすれば土方を裏切るようになる気がして。
「総司、一ついいか」
「…はい」
罵りならいくらでも受けよう、と総司は覚悟を決めた。だが。
「俺が総司と初めて会ったとき、お前はそんな目をしてなかった…。ここにいたら、いや、こんなことをしている間にお前は変わってしまう」
「………」
「一緒に来い。お前にそんな目は似合わねぇよ」 
神代は手をさしのべた。

「……ごめんなさい」
「そうか……」
神代は総司の答えを半ばわかっていた。わかっていて質問をしたのだ。さしのべていた手を、ゆっくり下ろした。
「…じゃあな」
神代はそういって背中を向けると、すでに門を出た根岸を追っていった。
彼が振り返ることはなく、そして総司は二度と、彼に会うことは無かった。


「……出ていったか」
「はい…」
壬生寺で行われる壬生狂言を鑑賞するために、総司はふらりと境内にやってきた。
すでに準備が整っていて、十三名になってしまった壬生浪士組が勢揃いしている。そして総司は土方の隣に座った。
「いいさ…じいさんはいても役にはたたねぇ」
「そうでは…なくて」
「…神代か」
総司は小さく頷いた。
「ちゃんと、わかってます。どちらが正しいなんかわからないけど、ちゃんと私がどうすればいいのか、わかってますから」
「…そうか」
土方は腕を組んで、もう何も言わなかった。
総司は喪失感に胸を痛め、笛の囃子を耳を傾けて源之丞演じる弁慶を見た。厳ついその仮面の顔は、どこか神代が激高したときの顔に似ていた。


「どうだ、好都合だっただろう、土方」
得意げに言って見せたのは芹沢だった。会津藩士達を見送ったすぐ後だ。狂言の後行われた宴会の酒によって、芹沢はご機嫌だった。
「…好都合?」
「じいさんの脱退だ。あんなくそじじい、存在自体が目障りだった」
「そのために、神代に暗殺の件を…」
芹沢は返事をしない代わりに「うぃっく、」とのどを鳴らした。

月夜だけが夜を照らしていた。



 56
 時代は流れ続ける。
 だがここで、閑話休題。
 
神代脱退後、しばらく落ち込んでいた総司に外出へ誘ったのは原田だった。
「総司これみろよ」
まだ肌寒い時期に着物を崩れた風に着て、原田が総司に話しかけた。
総司は縁側で何をするわけでもなく、呆然としていた。神代らの脱退は総司にとって大きなものだった。
『お前はそんな目をしてなかった』
神代が最後に遺した言葉が気にかかる。自分は変わってしまったのだろうか。

「なんですか、」
総司は少し躊躇いながら原田が手渡したチラシを見た。
「見ろよ。大食い大会」
「…大食い大会……?」
そこには大食い大会の出場者募集の文字があった。
見出しには太く『大食い大会』下に小さく詳細が書いてあって、うどんのイラストのようなものが書かれている。どうやらうどんの大食い大会らしい。
「松代屋っていう有名なうどんやでさぁ。絶品のうどんが食い放題だぜ。それに見ろよ、賞金十両」
「十両も…?」
十両と言えばこの壬生浪士組の会計を務めている山南が泣いてよろこぶ金額だろう。賞金にしては破格の金額だった。
「一石二鳥だと思わねぇか?腹一杯食えてさらに賞金だってよ」
「でもこれ参加料五分って書いてますよ。負けたら大損じゃないですか」
「おいおい、この京に俺たち以上に空腹の奴がいると思うか?」
確かにいないかも。
総司は苦笑した。神代達の脱退があり、人数が減ったとしても貧しいのは相変わらずだ。毎日同じメニューの食事が段々減っているのも確か。
芹沢はどこかに押し借りに行っているようだが、まさかそんなことをするわけにもいかず。事態は深刻化していたのだ。
「でもうどんかぁ~。京のうどんは薄いって聞きますけどどうなんですか」
「さぁな。まぁ味が濃くない分、いっぱい食えるのかもな」
「江戸っ子はそばの方が好きなんだけどなあ」
総司のような江戸っ子は蕎麦の方がよく好む。
試衛館の周斎先生が奢ってくれるそばは絶品だった。思わず口内に唾液が充満する。


「で、参加するのは私と、原田さん。永倉さんに……あれ?藤堂さんは?」
八木邸をでようとしたところで隣にいる永倉に聞いた。永倉は無類のうどん好きらしく、嬉々としている。
「ああ、藤堂は大食いが好かんらしい」
「へぇ」
「これだから坊ちゃんはよぉ」
藤堂和泉守の御落胤だ、と自称する藤堂をからかって原田が言う。
「で…土方さんも?」
「当たり前だ。お前達に失態を晒すわけにはいかねぇからな」
土方はあくまで付き添い、ということだった。
「お前ら、負けたら一両五分の損失。身体で払ってもらうから覚悟しとけよ」
「身体でならいくらでも払うぜ?」
「そういう意味じゃねぇ」
原田が脱いで見せたのを制すように、土方が軽く頭を叩いた。


さて、大食いが行われる松代屋は壬生とは少し離れた、祇園の近くにある。連日人が多いのだが、今日は大食い大会が開かれる、ということで野次馬を含め、人が集まっていた。
「いっぱいいるんじゃないですか」
「いるな。ほら、みろよ。相撲取りまでいるぜ」
ぶくぶくと太った相撲取りが数人、席について競技の始まりを待っている。他にも身体のごつい、火消しの者や貧弱な旅人、数人の武士がいる。
「……お前ら、ホントに勝てるんだろうな…」
相撲取りらを見て眉間にシワを寄せた土方が、「やめとけ」という風に原田を見る。相撲取り相手に勝ち目があるものか、と。
「勝てるって。俺たち程腹が減ってるやつなんていねぇよ。それに負けたら身体で払えばいいんだろ……?」
誘うように原田が視線を向けたのを「お断りだ!」と本気で頭を殴った。「ちぇ」と原田が笑った。
土方は渋々三人分の参加料、一両五分を払い野次馬の一人として見守ることにした。
大食い大会の席が埋まり、ついに始まろうとしていた。
まず一杯目のうどんが数人の女中によって目の前に置かれる。 
うどんはどんぶりにうどん、鰹節がかけられた簡易なものだった。
「やっぱり江戸のうどんよりも薄そうですよね」
汁をみながら総司は永倉に話しかける。永倉は頷きながらも
「まあ京の人は薄いのを好むからな。」
と言った。そして見世の中から現れた女将らしい者が木箱の上に立った。
「ようこそ、いらっしゃいませ!今日は絶品のうどんの大食い大会に参加してくださり、どうもおおきに。今日のうどんはうちの新商品。味わいながらお口に運びくだされ。では、」
女将がすっと取りだした鈴が掲げられる。始まりの合図らしい。
リンリンリン!
「はじめ!」
参加者が一気に箸を手に取った。総司も気後れしながら箸を手にした。


うどんのアピールのためにこの大会が開かれたらしい、そのうどんはやっぱり江戸っ子の総司には味が薄く醤油を加えたいくらいだったのだが
仕方なくうどんを口に運んだ。薄いとは言っても空腹では何でも美味しく感じてしまうのも確かなのだし。それに野次馬のなかで厳しい視線で睨む者もいることだし。


大食い大会で一番早くうどんをたいらげているのが、原田だった。相撲取りよりも早くうどんを流し込み、すでに6杯目だった。別に早食い大会ではないので早く食べる必要はないのだが、原田の負けず嫌いが発揮されたのかそのスピードは計り知れない。相撲取りらはゆっくりと、だがしっかり原田の後を追う。総司の隣に座る永倉はじっくりと味を確かめるように噛みしめているようすで総司と同じ、まだ三杯目だった。
「原田さんに任せておけば大丈夫なんじゃないですか?」
「そうかもな」
二人で苦笑しながらゆっくり味わっていた。
だが。

「う…ッ!」
原田が急に箸を止めた。うどんのどんぶりをおき咳き込む。
「原田さん?」
「腹、腹が…!」
原田はお腹を押さえ席を立った。
箸を置いた時点で失格となるため、りんりん、と女将が鈴を鳴らす。
「失格ー!」
だが、原田はそれどころではない。「厠!」と叫び開場を走り去っていった。どうやら早食いが身体に祟ったらしい。
「……やばいんじゃないですか」
「そ、……そうだな」
野次馬のなかで威圧感を感じさせる目で土方が永倉、そして総司を睨む。
負けたら一両五分の損失だ。優勝候補だった原田が抜けてしまっては勝ち目は……あるのか。


原田失格後、次々と脱落者がでた。
貧弱な旅人は腹一杯になって倒れ込み、火消しの男はごつい身体は見せかけだけだったらしく腹を抱えてやはり開場を後にした。
残っているのは永倉、総司、そして数人の相撲取りだ。
相撲取りの何人かは既に脱落しているのだが、一番ガタイの良い男は残っている。
そして。
「そ、総司……悪ぃ、俺も……」
「な、永倉さん?!」
箸を置き、永倉は顔色を悪くして席を立った。「失格!」と女将が鈴を鳴らす。

そしてついに大食い大会は総司とそして相撲取りの一騎打ちとなったのだ。


土方の視線を感じながらも総司はうどんを啜った。
「……おい、総司なんであんなに平気そうな顔、してんだ?」
野次馬の一人となった原田に土方が問うた。きっと総司が一番に脱落する、と思っていた土方だったのだが。
「さぁ…総司の胃袋は図りしれねぇってことか?」
「あいつ、そんなに大食いだったかな…」
「見たことねぇなぁ…」


総司よりも後ろの席にいた相撲取りが「う!」と声を上げたのは、総司は十八杯目のうどんを啜っていたときだった。
相撲取りのスピードは既に落ち、総司よりも遅い十五杯目だったのだが。
どすん!と大きな音がしたと思うと、相撲取りが地面に倒れ込んだ音だった。
箸が転げ落ち……。
「失格!」
女将がりんりんりん、と鈴の音を立てて大食い大会の終了を告げた。

「十両」
総司が受け取ったお金を、総司は笑顔で土方に渡した。土方は喜び、というよりも疑問を抱えているようで
「お前、そんなに食べるような奴だったか?」
と聞いた。原田と永倉も頷く。
「いや、なんでしょう。貧乏性ってやつかもしれないんですけど。目の前に食べ物を出されたら食べずに残すような気になれないんですよね~」
ケロッと笑う総司に原田、永倉、そして土方は苦笑せざるをえない。
「確かに味はさすがに飽きたんで途中で唐辛子をいれてみたりしたんですけど。当分はうどんは勘弁して欲しいですよ」

総司がまた笑って、「さあ、帰りましょう」と八木邸に向かった。


その夜。永倉そして原田でさえ辞退した夕食を総司はぺろりと平らげた。
十両で購入しためざしは総司を満足させるものだった。



57
神代を含む根岸一派が脱退した後の八木邸はすっかりさびしくなっていた。
 
文久三年四月。京はまだ冬の寒さに包まれていた。
桜はそのつぼみを堅く閉ざしたままなので、春の訪れはもう少し先になる。そんな壬生浪士組ではまた新たな問題が起ころうとしていた。

「そういえば、この間の狂言の時の揃いの羽織は、どこから調達されたんですか?」
いつもの、少し寂しい朝餉の時。総司は何気なく土方に尋ねた。試衛館の時と同じように、みんなで輪になって食べる習慣は変わっていない。
「…芹沢がそろえたそうだ」
「へぇ~」
総司は感心したように、声を挙げた。
総司はてっきりきっと芹沢は組のことをあまり考えていないのだろうと思っていた。だが、実際土方はそうではなくて。
「感心するところじゃねぇ。そんな金がどこから出てきたと思ってんだ」
「え?」
「……さしずめ、押し借り、というところでしょうね」
素っ頓狂な声を挙げた総司に反比例して、その隣の斉藤がそれらしい答えを述べた。
「そうだ。全く、お前はなぁ…」
年上のくせに、という土方の揶揄が聞こえて来そうだった。
斉藤は総司よりも二つばかり年下なのだが、冷静沈着、隙のない男で土方にも気に入られている。それに対照的なのが総司だったりもするのだが。
「ああ、それなら聞いたぜ。どっかの呉服商に押しよって、刀を振りかざして作らせたそうだ。尽忠報国の志士のため、云々の言い訳を突きつけられてな」
原田がケッと反吐を吐くように言った。
「おかげで町を歩き難くなったぜ」
「町って遊里のことですか?」
「んなわけ、ねぇだろ!」
藤堂がからかって訪ねて、原田がバシッと藤堂の肩を叩いた。
手に持った味噌汁がこぼれそうになったのを、藤堂が「おっとっと」とあわてて抱えた。
「でも、今のところ役立っている部分が多いんだがな」
「え?」
永倉が得意げに続けた。
「確かに芹沢のやり方は横暴ではあるが、『悪い』意味であれ、壬生浪士組の名は広まっている。これで仕事がやりやすくなった部分もあるんじゃないか」
「はぁ~永倉さんは考えることが違うなぁ」
総司はまたもや感心した。
「俺もそう思って何も言わないでいるんだ。それに芹沢の集めた金は確かに立ちゆかぬ生活資金の足しになっている。会津様からの手当じゃ足りないし、まだ隊士も足らない」
土方は合理的な考えを述べるが、近藤や山南だけが眉間のしわがそのままだった。
「確かにそうですが…程々にしていただかなくては」
「わかっているさ」
「歳…」
近藤が不安げに土方を見ると、土方は頷いた。


「失礼します」
向かいの前川邸に居座る芹沢達の元へ、総司が訪ねた。そもそもは近藤に呼んでくるように頼まれたのだが、総司にはもう一つ用があった。
「総司か。入れ」
「芹沢先生おひとりですか?」
障子を開けると、酒瓶を持った芹沢が一人酒を飲んでいた。いつもは取り巻きの人がいるのに、と総司は辺りを見渡した。
「あいつらは出かけてる。金を集めに、な」
「…はぁ」
今朝方、話をしていた押し借りだろう、と総司は心の中で嘆息した。
「何のようだ」
「近藤先生が大事な話があるので、八木邸の方に来ていただきたいと…」
「ふん」
芹沢はさらにもう一杯並々に注いだ酒を飲んだ。まるで水のように飲む芹沢を総司は呆気にとられて見ていた。
「……それで、お前は何の用だ」
「え?……ああ、えっと」
総司はしばらくためらって、それでも口にした。
「この間の……暗殺の件です」
「なんだ」
それは総司がため込んでいた疑問だった。
「どうして…私を暗殺犯に選んだんですか。芹沢先生からそうするように言われたと聞いています…」
「簡単なことだ」
芹沢がにやり、と笑った。
「汚れのない者が、血を浴びて堕落していく様子が見たかっただけだ」
「…!」
芹沢は微笑を浮かべていた。総司は背筋に震えがくるのを必死に我慢した。
「俺にはわかる。守られて守られて温室の花のようだったお前が、もう、人殺しの目をしている」
「……」
「俺は今楽しくて仕方ねぇんだ。お前は着実に着実に堕落しているのだからな」
鬼というものが、この世界にいたならば、きっとこんな人を指すのだろう。
総司はただただそんなことを思っていた。

「…! 何するんですか!」
酒瓶を持っていた芹沢の左手が、総司の手をつかんだ。もの凄い力だった。骨さえ折れそうなほどの。
「…ッ」
「俺はお前を汚してやりたくて仕方ねぇんだよ」
耳に囁かれると、ゾクッと体の芯から震えが起こる。
「あ、ちょ……!やめてください」
捕まれた手をきっかけに、総司は全身を抱き寄せられた。
「…次はどこを汚してやろうか。それを考えるのが楽しい…」
「…ッ」
異常だ。叫びそうになって、それはのどで詰まった。

芹沢の手が総司の袴のひもをほどいた。総司はすぐにそれの意味を察し
「やめてくださいッ!」
と叫んだが聞く耳を持つ芹沢ではない。この男は面白がっているのだ。

支配される。

八木邸に激しい足音が響いたのはそれからすぐだった。何事か、と近藤が腰を浮かせるとすぐに訪問者はやってきた。
「総司?」
「せ、芹沢先生は、用件があるならご自分から来られるように、とのことでした!」
総司はそれだけ言うと部屋を去り、ドタバタと自分の部屋に入っていった。
「……なんだ?」
近藤は首を傾げた。

そしてまたここにも首を傾げる者がいた。
「……どうしたんですか」
斉藤である。総司と同室の彼は総司が部屋に駆け込んだとき、ちょうど刀の手入れをしていた。几帳面な彼が習慣としていることだった。
「…な、なんでもないです…!」
「何でも無くはないんじゃないですか?顔が真っ赤ですよ、風邪でも?」
顔が赤いどころか息も荒い。そんな総司を斉藤はさらに疑わしく思った。
「芹沢さんのところに行かれていたんですよね?何か?」
「そ、そ、…そうじゃなくて、いえ、そうなんですけど、そうじゃ…なく」
口ごもる総司を見ながら、斉藤は視線をしたに下ろした。袴のひもがゆるめられている。
「……まさか、とは思うんですが」
「!」
総司が体を震わせた。
「まさかですよね…?」
「い、いえ、まさか、ねぇ、そ、そこまでじゃなくて、えっと、その…!」
明らかにあわてる総司にさらに斉藤は詰め寄った。
「そこまでじゃなかったら、どこまでなんですか?」
「だから、うん、えっと…」
総司が顔を両手で覆ってしまった。背景に黒いトーンを背負うように。
「………さわられて、その、い、い、いか…されたんです」
「はぁ?!」
冷静沈着が売りな斉藤が、口をぽかん、と開けて目を開いた。
「…合意で?」
「まさか!そんなわけないじゃないですか!!一方的に……」
あわてて否定する様子は真摯だったので、斉藤はほっとしたような、そうでもないような。
「秘密にしてください。お願いします、土方さんに知られたらどうなるか…!」
「副長が何か?ああ、やっぱり副長と『そういう』仲だったりするんですか?」
「それも違いますーッ」



58
「あ、…ッ、は、んぅ…ッ!」
自分でも信じられない声が、自然にあふれ出てくる。
「や。やだ…」
嫌だ、と言っても目の前にいるガタイの良い男は聞く耳を持たないどころか、何も聞こえていないかのよう。
「どうだ、……いいだろう」
それどころかわざと羞恥を浴びせるような言葉。
「やだ……先生、芹沢せんせぇッ!」

「はぁ…?!」
目を開けたときには真っ白になった。そしてやがて辺りの視界が脳に伝わり、自分が今布団の中にいるのがわかった。ちゅんちゅん、と陽気な雀が爽やかな朝だということを告げてくれるのだが、総司はとてもそんな気分になれなかった。
「………あぁぁ……」
大きく肩を落として、誰もいないのに羞恥のあまり顔を手で覆った。
今のは夢だった。夢だったのに、相手は現実だった。まるで昨日の続きかのような淫夢に、ぶるっと小さく身体が震えた。
「……土方さんだったらまだよかったのに…」


文久三年四月の曇った空が目に付く今日。総司は自室として斉藤と共有する部屋の縁側から、空を眺めた。雨が降りそうな。黒い雲。

「はぁぁぁぁ……」
総司は盛大なため息をついた。これが何度目のため息だろうか。吐き出すたびに心は重くなるばかりで、何の解決にもならないのに。
こうしていても事実は何も変わらないのだ。わかっていても心が重さを引きずっている。
あの日。
土方が警戒していたことを知っていたはずなのに、何の考えもなく芹沢に近づきそして弱みを握られた。すべての責任は…いや、八割方の責任は自分にあると思う。
油断した、そして無知だった自分。
これからどうすればいいのだろうか。
「……はぁ」
またため息をついた。

そんな総司の後ろで、熱心に刀の手入れをする斉藤が苦笑した。この斎藤だけがすべての秘密を知っている。
「気にすることでもないですよ。犬にかまれたと思ったら良いです」
「……斉藤さん」
楽観的に語る斉藤を恨めしく思いながら、振り返った。
総司よりも年下の斉藤だが、やっぱりすべてのことにおいて自分の上を行っていると思う。こういうときもきっと動揺なんてしないのだろう。
「男ばっかりの道場だとよくあるらしいですよ。金もないので、近場にいる人で慰め合うんだそうです」
「そうなんですか?」
斉藤は試衛館にたどり着くまで、いろいろな道場を回っていた、と総司は聞いていた。試衛館には半年ほどしか滞在しなかったのだが。
「試衛館でもそうだったんじゃないですか?」
「えぇ?!」
「いや、どうだか知らないんですけど」
試衛館は………そういえばみんなはどうしていたのだろう。近藤は奥方がいたから別としても。
「あぁでも。土方さんはそうでもないんじゃないですか?」
「え?どうしてです」
「だって」
斉藤は苦笑して。
「そんなことしなくったってあの方は呼ばなくても女が寄ってくるって、原田さんが言ってましたよ」
と言った。
「そう……なのかな」
「そうですよ。っていって、原田さんも相当の美男なんですけどねぇ」
斉藤は確信した口調で述べる。
そうなのだろうか。自分はそういうことに無知だから何も知らないだけで……。こんなことにいちいち動揺している自分が可笑しいのだろうか。
「でも、どういうつもりでそんなことされたんですか。芹沢先生に恨みでも?」
「………心当たりがないでもないんですけど」
お前を汚してやりたくて仕方ねぇんだよ。
芹沢は総司を嘲笑うかのようにそういった。芹沢と総司が出会ったのはもう何年も前の、少年の頃だった。
土方と出かけた縁日の先で出会ったのがそもそもの始まり。その時も芹沢は同じ台詞を言った。汚してやりてぇなぁ…その目。顔を合わせる度に、毎回言われている気もする。「まあでも」と斉藤は刀を鞘に戻した。
「土方さんにはお伝えした方が良いんじゃないですか?」
斎藤が提案するように言った。
「沖田さんが何をされたか、そしてそれに正しく対処できるのは土方さんだけでしょう。」
「嫌ですよ。土方さんに言ったら何て叱られるか…!」
そう。必ず叱られる。そして知られたくない気持ちもある。
「叱られるって言うか…」
斎藤が総司に見られないように苦笑した。
総司は土方を一種の保護者のように思っているようだが、斎藤からして見れば
土方にとって総司はそれ以上のもののように思われる。これを総司に言ったら、総司は怒るだろうけれども。賢明な斎藤は口に出さない。
「それに……こんな大変なときにこれ以上亀裂を作って欲しくないんです。この間のように…志半ばで仲間と離れるなんて、絶対に嫌です」
総司は神代のことを思い出していた。思えば神代と志は同じだった。そして立場も、思いも、同じだった。そんな彼と離れなくてはならなかったのは、組織での対立が原因だった。
「……野口さんとも変な亀裂を作りたくないんです」
もう、これ以上「仲間」を傷つけたくなかった。例え自分が、何か犠牲を払ったとしても。
「……わかりました」
総司のそんな気持ちを察したのか、斎藤は頷いた。


「総司」
総司が気分転換に前川邸の裏口から出ると、ばったりと芹沢にあった。もちろん芹沢一人ではなく、数人の取り巻きと一緒だ。頬が赤く染まっている辺り、今日もどこかで飲んできたようだが、総司はそんなことに気が付かなかった。
総司はあからさまに顔を背け「こ、こんにちは」とか細く呟く。そんな総司を芹沢は淡い笑みで見つめ「どうした、他人行儀ではないか」と、からかいとも思える一言を投げかける。
「そ、そんなことないです。失礼します」
タッ、と芹沢の隣を通り過ぎようとしたら、またもや腕をつかまれてしまった。
「ッ…」
筋力が足りないのかな、と思ったがそんな考えは脳裏からすぐに消えた。芹沢が抱き寄せるように総司の身体を引いたからだ。
「一度快楽を知れば、再び味わいたいと思うのは当然のこと。いつでも尋ねてこい」
ふっと耳に囁かれると、総司の顔が途端に火の粉を吹いたように赤くなる。
「し、失礼しますッ!」
総司はがむしゃらに芹沢の腕から離れ、全力疾走でその場を後にした。芹沢の高笑いが、遠くの方で聞こえた。


「お、総司!」
総司が大急ぎで曲がり角を曲がった頭、ぱっと目の前に現れたのは近藤と土方だった。二人ともきちっとした格好をしていて総司には見慣れない。
「どうしたんですか。そ、そんな羽織…」
二人とも全身真っ黒な服装。どこかのお役人のようだった。
「会津に用があったんだよ。それよりお前はどうしたんだよ」
「え?あ、いえ。ちょっと犬に追いかけられて……」
総司が必死の言い訳をすると近藤は「そうかそうか」と納得してくれたのだが、土方は疑うように「本当か?」と尋ねる。
「本当ですよ」
犬ではないにせよ、狼に追いかけられそうになったのだから。
「それで会津様には…?」
「ああ、お会いできた。容保公は俺たちと歳が近いから、話のわかる御方なんだ」
近藤が嬉しそうに話をした。
百姓上がりの武士まがい、と罵られた近藤や土方がまさか会津藩主に会うことになるなど誰が予想したのだろうか。総司は近藤がこのように嬉しそうに笑うのが一番嬉しかった。
だから今、芹沢とのことを話すわけにはいかなかった。例え自分の身に何か起ころうとも。もう二度と、あの講武所のときのような悲しい笑顔を近藤にして欲しくなかった。

無理矢理作った笑顔だとしても、それを保ち続ける必要が総司にはあったのだ。
そしてそんな総司の微妙な心境に、土方は少しだけ勘付き始めていた。



59
「総司」
八木邸に珍しい客が訪れた。向かいの前川邸に身を寄せていた芹沢一向だった。
もともとは八木邸にいた彼らだったのだが、手狭なのを気に入らないという理由で、八木邸をでていた。
「……おはよう、ございます。芹沢先生」
文久三年四月三日の朝のことである。

「どうしたんですか、こちらにご用でも」
堂々とした出で立ちで現れた芹沢を不審そうに土方が尋ねた。土方の芹沢嫌いは相変わらずの様子である。芹沢は「ふん」と鼻を鳴らして「用がある」と答えた。
その場には総司と土方、近藤、山南がいたのだが、怪訝そうにしているのは土方だけである。近藤、山南はあくまで“仲間”として考えているので、無理矢理にでも笑顔を繕ってはいる。
「わしらも…こちらに引っ越そうと思うてな」
芹沢が鉄扇越しにチラリと見た先は総司であるが、気が付く者はいない。
「は…?」
事務的な管理をしている山南は不審そうに聞き返す。
「前川邸は広すぎる」
「はぁ…」
八木邸が手狭なのを理由にでていったはずなのに、この理由は筋が通ってない気がする。納得がいかない様子の山南と違って、近藤は「ああ」と安易と思える程簡単に納得し
「はい。こちらは構いませんが」
と二つ返事した。「そうか」と芹沢は途端に上機嫌になると、総司を見て「二刻後、前川邸に来い」と強く言い放った。
土方が制しようと「お待ちください」と言いかけた所で
「…はい」
と総司が答えた。
芹沢は鉄扇を大きく扇ぐと、にやりと笑って去っていった。笑った先は総司だったのか、土方だったのか…わからなかった。ただ後を付いていった野口が心配そうに総司を見て去っていったのだった。

「……どういうことだ、総司」
怪訝そうに総司を見た土方は、不機嫌そうに総司に尋ねた。総司は黙って行李から脇差しを抜き腰に差した。約束の時刻まで後少しだった。
「答えろ」
「……土方さんには、関係ありません」
「本当にそう思っているのか」
「……」
土方の眼差しが厳しく、凄みを帯びている。
土方のことをよく知らない者が見たら、卒倒しそうなものだが総司は平気だ。心臓が高鳴っているのを、知られなければいい。
「……脅されているのか」
「違います。芹沢さんだって尊敬に値する御方です。呼ばれたら何かご用なのかもしれないでしょう」
きっぱりと言い切って冷静を装った総司だが、土方は疑いを晴らそうとしない。
「何があった」
「何もありません。だから、なんでもないんです!」
半ばやけになりながら総司が言い返し、振り切るように部屋を出た。
「総司!」
聞こえてないふりをして、総司は八木邸をでた。

「なんだなんだ?どうしたんだ~?」
言い争いを聞いた原田、永倉、そして汗を流したらしい藤堂と斎藤が顔を出した。土方が深く眉間にシワを寄せた。だが、事情を知っているだけに斎藤だけは目を伏せた。
(……どうしたものかな)
「永倉、総司についてやってくれ」


「お供させてください」
昼過ぎ、永倉を加えた芹沢達は前川邸を出た。
総司は不思議そうに永倉を見たのだが「土方さんにいわれた」と聞くと少し顔がゆがんだ。保護者的な役割として永倉を加えるように土方が言ったのだろう。
「あの人はどうして…こう、勘がいいのかな……」
「どうした」
「何でもありません」
総司は隣で歩く永倉に悟られないように軽く微笑した。
「それにしてもどこにいくんだ」
「いえ…何も聞いていないんです。ただ少し食事に行くとか…」
「食事、ねぇ…」
察しのいい永倉はこれから起こることをわかっているようだったが、総司は首を傾げるだけで、何も気が付かなかった。


やがて京はずれにある両替商にたどり着いた。
ここがどこなのか、総司や永倉にはよくわからない程街をはずれていた。それでも芹沢は「ここだ」と断定し、暖簾を潜った。それに一派である新見錦、平間重助、平山五郎、そして野口健司が続く。総司は躊躇いを覚えながらも一歩を踏み出そうとした、が永倉に袖を引かれる。
「待て。もしかしたら芹沢達は押し借りをしでかすのかもしれない」
「押し借り…?」
まさか、と振り向いた暖簾の先ですでに怒鳴り声が響きはじめていた。
「主人はどこだ!」
芹沢の一番の側近である、新見錦の甲高い声である。そしてへぇへぇ、と言わんばかりに主人であるようなものが出てくる。
「永倉さん」
「様子を見よう」

「壬生浪士組…はて、お聞きしたことがございません」
主人はやんわりとした物腰だが、言い分だけはしっかりとしていて壬生浪士組に金を貸す気は0らしい。それでも取り巻き達は
「…聞いたことがないはずがなかろう」
と詰めより「我らに金をお貸し頂きたい」半ば脅しのように言い放つ。
「そのようにおっしゃいましても、お返し頂く目処がたたぬお客ハンにお貸しする銭はありませぬ」
「……煩わしい奴め」
どっしりといた口調で言い放ったのは芹沢で、そのすぐ後バチン!という激しい音が店内に響き渡る。
「……ひ、ヒィィィッ」
店主の額が晴れ上がっていた。芹沢は持っていた鉄扇で主人を弾き飛ばしたらしい。主人の傍には女将と思しき女が駆け寄り、
「どうか、どうかお許しくだされっ」
と拝むように芹沢に頭を下げた。
「わしを知らんと…これ以上の侮辱はあるまい」
芹沢が女将を睨み付けた。
上から見下された芹沢の瞳がどれだけの力を持っているのだろうか。女将の表情がみるみる強気な瞳から、畏怖を持った震える瞳へと変わる。
「女を殴るのは趣味じゃねぇが…」
鉄扇を広げ、ちらりと見下ろした芹沢に「ひぃ」と女将も震え上がり急いで百両を差し出した。
「……ふん、最初からこうしていればよいものを」
芹沢はその百両を受け取ると、くるりと背を向けて店を出た。店主と女将は震えたまま頭を上げることなく、芹沢らを見送った。

「……芹沢先生」
「どうした、怖いか。わしが怖いか?」
からかうような目つきで芹沢が総司を見た。総司は芹沢が為した所行を正しいとは思えないのはもちろん、賛同できるはずもない。
だが、全身に何か恐怖に似た寒気とふるえが込み上がってくるのを感じた。初めて芹沢と会ったときのあの幼き自分に返ったかのようだ。
この人は、本当に人間なのだろうか。
これは人間がなせる所行なのだろうか。



60
翌日。両替商で押し借りした百両の内、五十両は土方の元に渡った。後に伝えられるシンボルマークの誕生である。


「…羽織?」
五十両を持って土方の元にやってきたのは、芹沢の配下…もとい手下。野口である。野口は総司や斎藤らと親しく、以前は「北の方」と呼ばれていた好青年である。
今は芹沢の配下でいいなりになっているようだが。ぼんやりとした顔つきで、特に土方も顔を覚えていない…というのが本音だった。野口はコクンと頷いて
「そろいの羽織がある方が、町中でも栄えて良いだろうと言うことで。先日両替商から「お借り」した百両の内半分の五十両です」
「「お借り」…ねぇ」
先日の押し借りは土方の耳にも入っている。不敵に笑った土方を見て、野口は苦笑した。
自分の兄貴分ながら、野口は芹沢のことをよく思ってないようなのは、土方も感づいていた。むしろそういうのに関わりたくない、と思っているようにも見える。そう言う点では総司にも似たものがあるが…。
「…一つ、聞いていいか」
「はい」
野口はそう親しくもない土方の言葉に、軽く緊張した面持ちをした。「たいしたことじゃねぇんだが」と付け加えると少しは気が休まったようだが。
「総司のことだが……。最近奴は芹沢先生に近づきすぎている。いや、むしろ……。
どこか、脅されているようにも見えるのだが…何か心当たりはないか?」
「………」
野口は口を閉ざした。その表情は硬くなったようにも思える。だが土方は追求の言葉をやめなかった。
「心当たりがあるなら、教えてくれ。これは別に芹沢の弱みを握ろうとしたわけじゃねぇ。政治的な取引をしようとしている訳でもねぇ。…ただの興味、感心だ」
ただの興味関心、というには語弊がある。ただ、心配なのだ。
弟のように、いや、それ以上に可愛がっていたはずの総司が簡単に芹沢の掌握下に入り離れていく。いとも、簡単に。
「……心当たり、といっても……。先日のことしかありません」
意を決して話し出した野口は、何か意味ありげに含ませた。
「先日?」
「……あの、壬生狂言があった次の日です」
「…次の日、」
確かその日は近藤の用で芹沢に元に向かったはずだが……。
「俺も居合わせた訳じゃありませんし、憶測ですが……その、沖田さんはきっと芹沢先生に、無体なことをなされたのではないでしょうか…」
「何?」
野口の濁した言葉に、土方が眉を寄せた。
知らぬうちに睨んでいたのだろうか、野口がビクッと肩を震わす。
「沖田さんがでていった後、芹沢先生は『沖田の肌は良かった』とおっしゃるものですから……。」
「……チッ」
予想した通りだった。
土方は前々から芹沢がそう言う『目』で総司を見ていたことを知っていた。本庄宿のときから…。そしてそれに総司が気が付いていないことも。
芹沢のことだからいつ手を出すかわからない、と思い普段から気を配っていたのだが殿内暗殺で気が逸れたのだろう。そしてその隙に芹沢は……。
「……そうか」
しかし、土方はそれ以上尋ねなかった。

「悪ぃ。話が逸れたな」
「…はい。えっとその羽織の仕立てのことなんですけど……。もう話は大丸につけているそうです。それで浅黄色に白い山形のだんだらを施して……」
「だんだら?!」
それに浅黄色。
「はい……。これはちょっと俺も閉口しているんですけど」
「どういうつもりなんだ……」
はぁぁ、と手で額を覆って思わず溜息を付く。
浅黄色と言えば江戸では田舎侍の象徴で吉原では着ると笑いものになる、とどこかの女が言っていた。
「…忠臣蔵……か」
切腹上下の色、というのもあるがやはりだんだら、といえば赤穂浪士の忠臣蔵だろう。
「忠臣蔵なら近藤さんも好きだからな…。近藤さんも二つ返事で頷くだろうな……」
ぽつりと呟いて土方はもう一度溜息を付いた。できれば、勘弁して欲しい。


その三日後。
壬生浪士組の元に届いたのは二十着程の「浅黄色のだんだら」だった。サイズはあらかじめ測っていたのでそれぞれ袖を通す。
「わぁ、スゴイ派手!」
総司が嬉しそうに羽織を手に取った。
「おいおい、よろこんでいる場合じゃねぇだろ、なんだこの色~!」
原田があからさまに文句を言った。確かに美男子にこの色は……似合わないかも知れない。しかし、文句を言いながらも原田が袖を通し、槍をブンブン振ってみせる。
永倉や山南、藤堂らもこの色には閉口しているようだが表だって何も言わなかった。みな浅黄色の意味と、だんだらに込めた意志を知っていたからだ。
「あ、斎藤さんこれですよ」
総司から渡された浅黄色の羽織を、斎藤らは無言で受け取った。どうやら斎藤もやや不服のようだ。

「馬子にも衣装……ってやつだな」
「失礼ですねー」
総司が着て見せた羽織を土方が苦笑しながら見守る。
総司は別段「浅黄色」にこだわりがないらしく、よろこんで飛び跳ねている。
「……押し借りしたお金で作ったってことはわかってるんですけど、やっぱりいいですよね」
「…だんだら、か」
「浅黄色」はいつでも切腹を覚悟しているという意志。
「段だら」は忠臣蔵のように命果てる覚悟を持つという志。
「別に心だけで思っているのもいいですけど、こうやって態度に出すのも悪くないですよね」
「……そうだな」
総司の芹沢を擁護するような言葉。土方の胸をチクリと突き刺した。
「お前」
「なんですか?」
「……いや……」
口に出すわけにはいかなかった。この子供のような安っぽい言葉を。
『お前は芹沢の方がいいのか』
 まるで疑うようではないか。総司の思いは信じている。土方に、近藤に、付いてくると言ったのだ。命を預けると言ったのだ。土方はその言葉を信じていたかった。
あの日の盟約を、総司は忘れていないのだと、信じていたかった。





解説
なし
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