わらべうた




521


七番隊組長の谷三十郎の死について、総司は経緯を土方に説明したがその真実はとても公にできるものではないため、『不逞浪士に襲われたことによる急死』として隊士に伝えられた。しかし嫌われ者の谷が大坂から戻った直後の出来事であったため憶測が臆測を呼び、谷の存在が邪魔になっただとか、谷自身が周平の存在を盾に尊大な態度を見せたためだとかいう、内部の粛清とする噂が広まってしまった。真実を知る総司はとても苦々しい思いだったが、通常通りの悪役を引き受けた土方は涼しい顔をしていた。そして真実を知る斉藤もまた感情を一切見せない淡々とした表情を貫いて巡察に出掛けていた。
そんななか総司は近藤の別宅に足を運んだ。
「そういうことだったのか…」
近藤は複雑な顔で腕を組み直した。
総司は土方に話した同じ説明を近藤にも話した。隊の一組長であり、養子である周平の兄であるのだから親戚関係あたる谷の死の真相を近藤に隠すことはできなかったのだ。
「谷組長は縁のある大坂へ、水野殿の遺体は名のわからない無縁仏として供養してもらうことにしました」
「…残念なことだが、水野殿の素性を知られては困るということだな。お前のいうとおり互いに本懐を遂げたということなら良かったと思い見送るほかあるまい。…それに、そもそも谷君はそのつもりだったようだ」
「と、いうと…?」
「実は先程、周平がここにきていたんだ」
「え?」
近藤は残念そうに顔を顰めた。
「…谷君は自分が死ぬ前に己の大刀を周平に渡したそうだ。大坂からこちらに戻ってきて心機一転、刀を新調するから…と渡されたそうだ。周平はそれを受け取ってしまった、谷君が大刀を持っていたなかったから不逞浪士に殺されてしまったのだと自分を責めて嘆いていたが…総司の話を聞いて納得したよ。彼は最初から水野殿の手で死ぬつもりだったのだろう」
だからあらかじめ武士にとっての命である刀を周平に託した…隊内では末弟を局長と近親関係にして権力を得ようとした強欲な男として嫌われていた谷だが、死に際の言葉が正しいのなら、彼は過去の己の失態により苦しめてきた家族への償いを貫いたのだろう。どんな誹りを受けようとも。
(不器用で、でも強い…)
そういう男だ、と誰にも言うことはできないけれどせめて覚えていよう。
総司はそう心に誓った。きっと同じ気持ちである近藤も頷いて、続けた。
「それから、残念なことだが…周平とは養子縁組を解消することにしたよ」
「え?でも…」
「ただし表向きには公表はしない。谷君の計らいを無碍にするわけにはいかないが、しかし周平はまだ若く気が小さい…養子縁組が彼の足枷になるのは本意ではないだろうし、周平もそれを望んでいた」
「…そうですか」
近藤の決断を亡き谷は不服に思うかもしれないが、周平が望んだことなら仕方ないと納得してくれるだろう。それに表向きには養子のままなのだから、周平も気が楽になり肩身の狭い思いをしなくて済む。
ふう、と息を吐き近藤は続けた。
「ふん…これで歳も安心するだろう。周平を養子にしたことをあまり快く思っていなかったようだからな。昔、谷君に言いくるめられたのだと散々馬鹿にされたものだ」
「…先生、この間のことですけど…」
「俺はまだ怒っているぞ」
近藤は口をへの字に曲げてしまった。
もともと深雪の死について蟠りがあった二人だが、先日土方が『お孝を妾に』と言い出した事でさらに険悪になってしまった。土方は近藤が孝に惚れるはずだと言っていたが、近藤からすれば義妹を妾にするという考えそのものが許しがたいことだったのだ。
「深雪の喪の明けぬうちに不謹慎なことこの上ないだろう。隊士たちの下世話な噂はともかく、あいつは副長なのに!」
「それは同意しますが…土方さんなりに、近藤先生とお孝さんのことを考えた上でのことだと…」
「今回ばかりはあいつの思う通りにはさせん」
近藤は頑なに拒み、そっぽを向いてしまった。普段は温厚なのに頑固なのは昔からなので、総司にはなすすべはない。これ以上土方を庇うと火に油を注ぐだけなので、総司は黙るしかなかった。
するとみねが顔を出した。
「失礼いたします。…近藤さま、沖田さま、お隣からお饅頭を頂きました、おひとついかがですか?」
「おみねさん、もちろん頂きます」
「俺ももらおう」
みねは柔らかな笑顔で饅頭と茶を差し出した。甘いものを食べれば近藤が喜ぶのを知っているみねは、二人の雰囲気を察して差し入れてくれたのだろう。温かな茶で喉を潤し、甘い饅頭で心を満たす。
「そういえば昨日、松本先生にお会いしました。近藤先生の胃痛についてご心配されていましたよ」
「大坂から戻られたのだな、お忙しいご様子だ。俺のことなんかより心配されることがあるだろうに」
「大樹公のこと…ですか」
「ああ。やはりお加減が良くないらしい。松本先生のような奥医師だけでなく、江戸から和宮様が医師を送られているそうだが、それでも御辛労が多いのだろう」
近藤は「ふう」と息を吐きながら食べかけの饅頭を置いた。
「二度目の長州征討が間近に迫っている。一度目は大勝したが…薩摩と長州が手を結んだいま、何処と無く不安に感じるな」
「まさかたった二藩に幕府が負けてしまうとお考えなのですか?」
三百年近く統治してきた幕府が、大藩とはいえたった二藩に敗戦する…総司にはあまり想像のできないことだった。
近藤は「そうだな」と苦笑した。
「たしかに、薩摩が明確に敵になったわけではないのだし、幕軍の兵が数で勝るのは間違いない。そう心配することはないだろう」
「…そうですね」
漠然とした不安は残ったが、すぐそばにはみねもいたので二人は話を切り上げた。
近藤は食べかけの饅頭を一口で平らげて茶で流し、みねに視線を向けた。
「おみねさん、お孝は?」
「へえ、今はお買い物に出られております。そろそろお帰りかと…」
「そうか。実は良い縁談を見つけてきたんだ」
近藤はその大きな口を綻ばせたが、みねと総司は驚いた。
「先生、縁談というとお孝さんの?」
「勿論だ。商家の次男で年の頃も同じくらい、心根の優しい青年だ。芸事を好むようだからお孝も気があうだろう」
「…」
近藤は満足そうに笑う。
総司はそばにいたみねをちらりと伺うと、複雑そうに顔を歪めていた。
彼女は孝の祖母にあたる…孝の心情は誰よりも理解しているだろう。しかしその一方で深雪と孝を身請けした近藤に対して意見ができるわけではない。
孝だけではなく、みねの為にも総司は口を開いた。
「あの…先生。縁談のこと、お孝さんにお気持ちを伺ってみたほうが良いのではありませんか?」
「…まさかお前も俺の妾に、と思っているのか?」
「違います。そうじゃなくて…」
「そもそもお孝は深雪のために身請けに応じてくれたんだ。だが深雪はここに来て…新撰組に関わって死んだ。お孝に同じ目にあって欲しくない」
「…その気持ちは私も同じです。でも…」
「もう決めたことだ」
近藤は顎を引き唇を結び、総司を見据える。その重々しい言葉が、近藤の本気なのだということを露わにしているようだった。
「先生…」
「ここにいることは、お孝の幸せではない」
近藤が言い切ったその時、ガンッという激しい物音がして三人は自然とそちらに目を向けた。みねが障子を開けると孝がそこに立っていた。彼女の足元には桶が転がっていて買い求めた豆腐が形を崩して落ちていた。
「お孝…!」
孝は話を聞いていたのだろう、最初は青ざめた表情で俯いていたが、すぐに近藤を睨み、唇を震わせた。
「ようわかりました。うちのこと…邪魔やと思うてはるってこと」
「誤解だ!俺はそんなことを…」
「うちの幸せはうちが決めます!」
孝は怒鳴ると背中を向けて走り去る。
「お孝!」
近藤が呼び止めたが彼女は無視して家を出ていってしまった。
嵐のような孝の激情…それを目の前に唖然と立ち竦む近藤が呟いた。
「…俺は間違っているのか?」
「…」
その問いかけに総司は答えることができなかった。


522


谷の一件が収束する頃、廣島に残っていた伊東と篠原が帰営した。
「長らく留守に致しまして、申し訳ございませんでした」
伊東は篠原とともに恭しく頭を下げた。
その場に居合わせたのは近藤と土方、巡察の報告に足を運んでいた総司、そして伊東の帰営を知らせに来た斉藤だった。
近藤は
「長旅、ご苦労でした。色々お話は伺いたいがお疲れだろう。少し休まれたあとで…」
と労ったが、隣に控えていた土方が「いや」と言葉を遮った。
「…二度目の長州征討が近い。有用な情報を得ているのなら一刻も早く聞きたい」
土方はいつも以上に鋭く伊東を見据えていた。
伊東は深雪の死を知り、近藤の早めの帰京を促し自身は廣島に留まった。愛妾の死で動揺する近藤に漬け込んだ行動だと非難しているのだ。しかし近藤の前で口にするわけにはいかない。
もちろん伊東も誹りを受けることを理解していただろうが、涼しい顔をして「わかりました」と微笑んで頷いた。
「…さまざまな伝手を利用し、情報を得るよう努めました。長州藩は思った以上に国力を増強しているようです。幕府に恭順すべきという意見もありましたが、今では倒幕へ向け長州挙藩一致し、幕軍を迎え撃つ体制のようです」
伊東は懐から書を取り出し、近藤の前に出した。
「これは?」
「『防長士民合議書』…三十万部以上作成され、藩内に配布されているそうです。内容としては、忠臣蔵を例に挙げ、冤罪で朝敵となった藩主のために忠義を尽くすべし…というものです」
「忠臣蔵か…」
土方は「ふん」と鼻で笑った。新撰組の羽織の『だんだら』は忠臣蔵から得たものだがそれを全く正反対の立場の者が例に出すとは皮肉なことだ。
伊東は続けた。
「幕府が朝廷に奏上し勅許が下された最終処分案…藩主の蟄居、家老の断絶などを長州が受け入れる様子はありません。それどころか薩摩と手を結び異国からの最新鋭の武器を得ているとなれば…今度の長州征討、幕府が苦戦することもありうるでしょう」
「外様一藩に幕府が負けると?」
「可能性の話です」
総司は息を飲む。
伊東の流れるような語り口のせいかもしれないが、全てが「言った通りになる」ような感覚を覚えてしまうのだ。しかしそれでも、何百年続いて来た幕府が長州藩に負け、全てが覆されることは想像ができなかった。
場が緊迫したが、伊東は微笑みを絶やさなかった。
「…とはいえ、長州征討に新撰組が関わることはないでしょう。今は長州や薩摩、そして土佐に刺激を与えるようなことを避けるべきであると考えます」
「土佐?」
「二藩に手を結ばせるように手引きしたのは、土佐藩の者だと聞いています。今はまだ幕府に近い立場ですが…今後、どう転がるかは注視しなければならないでしょう」
「…」
数年前の蛤御門の変の際、幕府側として朝廷をともに守った薩摩と土佐が反対の立場へと変わりつつある。
政局は動いている…総司はそれを改めて感じた。
そして伊東は話を切り上げた。
「局長、詳細はまたご報告いたします。大変申し訳ないのですが、私も篠原も長旅の疲れを癒したく思います」
「そうだな、すまなかった。…土方君、いいだろう?」
「…ああ」
土方は渋々ながら頷いた。
伊東は篠原とともに腰を浮かし、そのまま部屋を出ていく。するとしばらく間をおいて土方が「厠へ行く」と行って去ってしまった。
部屋には近藤と総司と斉藤が残った。
「…いてて」
「先生、どうかされましたか?」
「いや、大したことではない。いつもの胃痛だ」
腹を抱えるようにしながらも近藤は大したことはないと苦笑するが、総司が傍に寄ると額やこめかみに脂汗をかいていた。
近藤が胃痛持ちになったのは都へ来てからだ。それまで貧乏道場主でしかなかった近藤が新撰組局長として政治の表舞台で議論を交わすようになってから精神的なプレッシャーが生まれ、それが胃痛となって現れたのだ。
「お薬をお持ちしましょうか」
「いや…薬は、切れている。南部先生の所へ行こうと思っていたが…足を運べないままだった」
「でしたら先生をお呼びしましょうか。そうだ、診療所には松本先生がいらっしゃいますから…」
「休めばなんとかなる。松本先生は大樹公の件でお忙しいんだ、ご負担をかけるわけにはいかない」
青ざめていたが近藤は語気を強めて拒み、総司は「すみません」と謝った。近藤の言うように松本も大坂城での診察に疲れている様子だったのだ。
すると同じように青ざめている人物がもう一人いた。
「局長…今の話は本当でしょうか」
「…斉藤さん?」
それまで無言を貫いていた斉藤が語尾を震わせ動揺を隠すことなく問いかけた。カッと瞳孔を開き、深刻な表情だ。
そのあまりの態度に近藤も痛みを忘れたように驚く。
「斉藤君…?どうした?」
「どうかお聞かせください。いま、なんと…!」
「ん?…松本先生は大坂城に出入りし、大樹公を診察されている。まだ内輪の話だが…お加減が良くないご様子らしい」
「…!」
斉藤はぐっと唇を噛み、素早く立ち上がった。そしてそのまま早足で去って行ってしまう。冷静さを欠いた彼らしくない様子だ。
「斉藤さん…?!」
「…総司、彼を追いかけろ」
「でも…」
胃痛に苦しむ近藤を置いてはいけないし、先日の一件もある。総司は斉藤とはしばらく距離をとるべきだと考えていたのだ。
しかし近藤は「いいから」と背中を押す。
「斉藤君の様子は明らかにおかしかった。彼のことはよくわからないが、今のは追い詰められてる表情に違いない」
「…わかりました。すぐに山野君に薬を取りに行かせますから先生はこのまま休んでいてください」
「ああ」
近藤の返答を受け取り、総司は急いで斉藤を追いかける。どうしようもない胸騒ぎがしていた。


一方。
「伊東参謀、どちらへ?」
土方は伊東を呼び止めた。「疲れた」といって退出した伊東はさっさと旅姿を解き、自室を出ようとしていた。
「…妾宅へ行く所です」
「妾宅ですか」
「屯所とは距離を置き、疲れを癒す…それが妾宅でしょう」
伊東は穏やかな笑みで答えたが、先程の近藤の前とは違う、どこか土方を牽制するような表情だった。
「二つ話がある。一つ目は近藤局長の許可のみで廣島に残留したことだ」
「前回同様に我々は手土産なく帰営するわけにはいきませんでしたから、私と篠原が残った次第です」
「…深雪の逝去を利用して近藤に伝えた」
「人聞きの悪いことを仰らないでください。近藤局長は深雪殿を大切にされていたので、まさか口止めされていることなどと思いもよらなかったのです。…死に際に会えなかったのはとても残念なことですから、せめて早めの帰京を促したまでのこと」
「他意はないと?」
「もちろんです」
伊東は終始表情を崩さなかったが、その用意周到さが逆に真実を覆い隠しているようだった。
しかしこの件に関しては土方はこれ以上問いつめるつもりはなかった。
「もう一つは?」
「…幕府の要人を相手に長州への寛典論を説いたとか」
「…」
流石に伊東は一瞬表情を曇らせた。秘密裏に行動していたつもりかもしれないが、監察の山崎も残していたので情報は土方の耳に入る。
しかし伊東はすぐに取り繕い微笑んだ。
「説いたと言うほどではありません。寛典論は私の持論です。長州の罪を問わず寛大な処置を取れば、戦など起きずに政局は安定します」
「局長の論理とは異なる」
「そうでしょうか。『攘夷』という意味では同じです。国力をつけた長州と幕府の戦が長引いた場合、諸外国につけ込む隙を与えてしまう…それを阻止するためです」
「それを『新撰組参謀』が吹聴していることが問題だ」
会津お預かりである新撰組はどう考えても佐幕の立場にある。寛典論が最終的に『攘夷』に繋がるとしても、戦へと動いている幕府に逆らうことになってしまう。土方はそれを危惧していたのだ。
硬い表情を崩さない土方に対して、伊東は尚も微笑んだ。
「…わかりました。でしたら局長を説得しましょう。土方副長は『局長の論理と異なる』ことがお気に召さないようですから」
「…」
「それでは、花香が待っていますので失礼します」
伊東は軽く頭を下げて去って行く。
彼は今まで飾り立てた言葉で真意を覆い隠し、はっきりとした意見を口にすることは少なかった。
けれどいま、伊東は『自分は違う』ことを隠さなかった。
(ついに動き出すのか…)
土方は深く息を吐いた。



523


居場所がなく
形がなく
心がなく
靄のように輪郭がない。
けれどたったひとつ在るのは、この身に宿る忠誠心だけ。
それがこの身体を生かしている。


総司は山野に近藤のことを託して屯所を飛び出したが、すでに斉藤の姿は視界のどこにも無かった。
(何処へ行ったんだろう…)
見張りの隊士は屯所を出て行く斉藤の姿を見たものの、その行方は分からないと言っていた。声をかけることさえ躊躇するほど厳しい剣幕だったらしくとても話しかけられなかったらしい。
そんな彼の行き先に心当たりは何もない。
「どうしよう…」
「どうした、総司」
手を振りながらやってきたのは原田だった。着流しのラフな格好なのでまさの所から帰ってきたのだろう。
「原田さん、斉藤さんを見ませんでしたか?」
「斉藤?ああ、見たよ」
「何処で!」
総司が飛びつくように尋ねたので、原田は驚いた。
「なんだよ、何かあったのか?」
「まだ何もありませんけど、何かあるんじゃないかと思って探しているんです」
「わけわかんねえな…まあいいや、四条の辺ですれ違った。声をかけたんだが耳に入ってない様子でさ…そのまま祇園の方へ向かって行ったぞ」
「ありがとうございます!」
総司は原田への礼もそこそこに駆け出した。原田が西本願寺の北にある四条の大通りで会ったということなら、斉藤はかなりの早足で出て行ったということだ。いつも冷静沈着で、感情の振れ幅の狭い斉藤が原田にも気がつかないほど焦ってどこかへ向かっている。
(きっかけは…大樹公のご病気だ)
斉藤は目の色を変えて近藤に尋ねた。病状を聞いて動揺し、そのまま出て行った。大樹公に心酔しているのか…だがそれだけで全てを推察するのは難しい。
(斉藤さんは何を抱えているのだろう)
それを知りたいような、知るべきではないような相反する二つの気持ちに苛まれた。斉藤の中に踏み込んではいけない領域があるのはわかっていたからだ。
けれど今更、彼を放っておくわけにはいかない。
その一心で走り、原田が見かけたと言う四条通りに合流し東へと向かった。人混みをかき分けてしばらく進むと鴨川が見えてきた。
総司は息を切らしながら辺りを見渡す。老若男女さまざまな人々が交差するなか、鴨川の手前を北へと向かう背中が目に入った。確信はなかったがその姿を追って細道に入ると、足早に歩く斉藤に間違いなかった。
「斉藤さん!」
「!」
斉藤は足を止め、振り返った。総司の姿を見ると顔を顰めて
「何故追ってきたんだ」
と責めるような言い方をした。
「何故って…それは、斉藤さんの様子がおかしかったからで…近藤先生がご心配されていました」
「…局長の指示か」
「…」
斉藤は鼻で笑った。
指示、と言われればその通りだがそれよりも斉藤を慮る気持ちの方が勝る。だがそんな言い訳すらいま彼の耳には入らないだろう。
斉藤は総司を拒むように鋭く見据えたまま
「付いてくるな」
と吐き捨てて再び歩き始めた。
彼はいつも自分の感情を頑丈な殻で覆い隠していた。淡々と職務を遂行し、時には人を斬り、そして的確な言葉で総司を励ました。
いま、そんな彼の感情の片鱗に確かに触れた。
『醜悪な怪物だ』
(僕は、彼のことを知りたい)
その気持ちに突き動かされるように斉藤を追った。もちろん斉藤は気がついただろうが、総司の存在を無視するように歩き続けた。そうして辿り着いたのは、よく知っている場所だった。
「診療所…」
つい先日も訪れた木屋町にある南部の診療所だ。相変わらず患者で溢れているが斉藤は構うことなく慣れたように中に入り、弟子の青年に「松本先生は?」と尋ねた。あまりの剣幕に怖気付いたのか弟子は「奥です」とあっさりと教えてくれて、斉藤はさっさと行ってしまった。
「沖田先生、どうされたのです」
「あ、南部先生…すみません、突然」
主である南部に診療の手を止めさせてしまったが
「構いませんよ」
と穏やかに微笑んだ。職業柄、いつ誰が訪問しても気に触ることはないのだろうが、斉藤の険悪な雰囲気には驚いたようだ。
南部は「奥へどうぞ」と促しながら付け足した。
「英は他の弟子とともに出かけていますから、夕刻まで戻りません」
「そうですか」
総司が斉藤を追って易々と診療所なかに入れないのは英のことが気がかりだったからなのだが、不在ということに安堵した。
総司は診療所の奥の客間に向かう。すでに中から話し声が聞こえてきた。
「松本先生、沖田です」
「なんだお前も来たのか」
客間に入ると、積み上げられた医療書たちの隙間で二人が向かい合って座っていた。総司は二人の間に膝を折る。
松本は深くため息をついた。
「沖田、こいつはどうしちまったんだ?突然やってきて、無理難題を押し付けやがって。お前からも無茶を言うなと言ってくれ」
「え?」
「え?じゃねえ。…なんだ、お前も同じ用件で来たんじゃないのかよ。…大樹公に会わせろってな」
「えぇ??」
総司は何の冗談かと思ったが、松本の苦い表情や斉藤の真摯な面立ちを見ると冗談を口にしている様子ではない。
「大樹公を心配する臣下は大勢いるが、皆が直接お会いできるわけではない。俺たちのような医者や側近だけだ。幕臣でもない、藩士でもないお前たちには無理だ」
「勿論、分かった上でお願いしています」
「頭の良いお前さんが本当に『分かって』いるなら『無理だ』とすぐわかるはずだろう。まったくどうしちまったんだ…冗談のつもりか?」
「それでも、お会いしたいのです」
斉藤の頑として譲らない態度に、松本は困ったように腕を組む。しかし総司から見ても、斉藤が無茶を口にしていることは分かった。
「斉藤さん、上様を心配知る気持ちは私も同じですが、直にお会いするなんて近藤先生にだって叶わないことです。いくら松本先生のお力でも…」
「あんたは黙っていてくれ」
斉藤は総司に視線を向けることなく遮った。苛立っているというよりも焦っている。
松本もだんだんと斉藤が冗談を言っているのではないのだと理解した。
「…お前、大樹公と何か個人的な縁があるのか?」
「…」
「黙ってちゃわからねえ。自分の要求だけ通してわけを話さねえのは不平等だろう。まず、てめぇの事情を話せ」
今度は松本は斉藤に詰め寄った。彼の言い分はもっともで、斉藤も言い返さなかったが、視線を落とし迷っていた。話したくないのではなく、話せない…何かに雁字搦めに囚われているようだった。
「どんな理由があろうと口外はしねぇと約束する。だから話してみろ」
「…」
斉藤は視線をあげた。そして松本ではなく総司の方へと向けた。
「…帰ってくれ」
「斉藤さん…でも」
「局長や新撰組に迷惑はかけない。だが…これは、あんたには聞かれたくない話だ」
「…」
傍目には総司を拒否しているように見えただろう。
しかし総司は既視感を覚えた。あの雨の日、自身のことを「醜悪な怪物」だと言いながら、「嫌わないでほしい」と叫んでいた。今も同じだ。聞かれたくないと口にしながらもその心のどこかではきっと知ってほしいと願っているに違いない。
(僕は逃げたくない)
今まで知りたくないものから目を逸らし、彼の優しさに甘え続けていた。片方だけが痛みを受け入れ続けるそんな関係がどうして『友人』などと言えるのだろう。
「…いいえ、私にも聞かせてください」
「だから…」
「斉藤さんが言ったんじゃないですか。何かを隠して私と向き合うことが限界だと。だったら中途半端にしないで、ちゃんと試してください。斉藤さんの気持ちも…そして私の気持ちも」
「…」
斉藤は唇を噛んだ。いつもの彼ならそれでも「帰れ」と言い張っただろうが、彼にその気力はないようで、深く息を吸い込み吐き出した。
そして
「…もう何年も、何年も前の話です」
と切り出した。


524


天保十五年、一月一日。
「一」という名前はめでたい日に生まれたからなのだと両親は語っていたが、実際のところはわからないし、さほど興味がなく物心ついた頃には簡単で楽な名前だと思っていた。
父は明石藩の足軽であったが、江戸へ下り旗本の鈴木家に仕えた。姉と兄がいて次男として生まれた俺はなに不自由なく育ったが、幼少の頃から周りに「変わった子だ」と評されることが多かった。
まず無口であった。両親は最初は喋ることができないのかと危惧したようだがそうではなく、単に性格の問題だったのだ。一人遊びを好み、面倒を厭い、交流を疎う…陰気な子供であった。
そして人の話に耳を貸すことがなかった。次男なのだから他家への士官など将来を見据えて学問をするべし、という両親や兄姉の忠告を聞き流し、唯一興味のあった剣の道に邁進し続けた。
剣はわかりやすい。身につけたことがすぐに形となって現れる…その単純明快な事実が無関心な俺を惹きつけた。毎日、ただただ剣を振るい続けた。
十になる頃には両親は諦めたようだった。後継である兄を立派に育て、姉は良い嫁ぎ先に出せるように注力し、俺のことは放置した。厭われていたわけではないが、「何を言っても無駄だ」と悟ったのだろう。俺にとってはそれは都合がよく益々剣の道ばかりを辿った。
当然、幼い頃から培われた無愛想な性格は直らずついに十五になった頃、通っていた道場で孤立した。その頃は幕府の大老井伊直弼によって朝廷の勅許を得ないまま条約を結んだことで世間が乱れ始めていた。道場の血気盛んな青年たちは剣よりも論議に花を咲かせ道場の外で盛り上がる。道場の裏の小庭で「尊王攘夷だ」「佐幕だ」と唱える彼らを、俺はそれを白い目で見ていた。
「何だよ山口、その人を小馬鹿にした目は」
三つ年上の梶谷という男が俺に絡んだ。同じ御家人だが大きな旗本に仕える家柄の嫡男である彼は傲慢な態度で周囲を萎縮させ、道場で中心人物として居座っていた。
「…別に」
「ふん、日和見しやがって。剣ばっかりやってるからおつむが足りないんだろうが、江戸の民でありながら世の情勢に無関心など考えられぬな」
「全くその通りだ」
「少しは梶谷さんの話に耳を傾けたらどうだ」
「…」
梶谷とその手下のような金魚の糞弟分二人が俺を嘲笑する。しかし他人が口にしたことに昔から悉く興味のなかった俺は、なんの感慨もなくそのまま通り過ぎようとした。しかし
「おい!無視するのか!」
弟分の一人が俺の前に立つ。稽古で使う木刀を俺に突きつけた。
俺は宣戦布告と捉え、すぐに同じく手にしていた木刀を構えた。そして素早い動作で先制して彼の木刀を打ち払うと、威力の差は明らかであっさりと落とした。
「ひっ」
と弟分の一人が小さな悲鳴をあげた。落とした木刀を慌てて拾おうとしたが、それは必然的に俺に背中を向けることになる。
「おいやめろ!」
梶谷が叫んだが、彼の耳にも俺の耳にも入らない。喧嘩をふっかけてきたのはそちらであり、相手をしてやっているのは俺の方だ。高ぶった気持ちがあった。
しかし
「やめなさい」
という別の声が響いた時、俺は弟分の背中に向けた木刀を止めた。それは背筋に触れるか触れないかギリギリのところであり、側で見ていた梶谷ともう一人の弟分も「やられた」と思っただろう。だが三人は窮地を救った声の主を見上げて少し青ざめた。
「せ、先生…」
「こんな裏庭で何をしているのですか」
道場の若い塾頭である『先生』だ。凛々しい眉に綺麗に剃られた月代が印象的な精悍な男である。
「さ…佐助が稽古の相手を頼んだだけです、なあ佐助?」
「は、はい」
「本当か?山口君」
先生は公平な性格の持ち主で道場で人気者だ。そんな彼に睨まれては梶谷たちもやり辛いと思い嘘をついたのだろう。
だが俺はその嘘を暴くつもりはなかった。それはさらなる面倒ごとを招くだけだとわかっていたからだ。
「はい」
「…そうか、だが稽古ならこんな裏庭ではなく道場でしなさい」
「わかりました!」
三人は慌てて去っていく。しかし梶谷は俺を睨みつけることを忘れなかった。
先生は「ふう」と大きなため息をついた。もちろん梶谷たちが俺に絡んで返り討ちにあった…ということなど百も承知のはずだ。
「山口君。確かに君の剣は強いが、強いが故にああいう輩を真っ向から相手にすることはないだろう」
「…」
「だんまりか。…面倒な喧嘩に巻き込まれなくなかったら、年が上の者にはそれなりの敬意を払わなければならないよ」
「…剣の前で年齢は関係ありません。先生は戦うべき相手を前に『あなたはいくつですか』と尋ねるのですか」
俺は梶谷たちを相手にした時には感じなかった苛立ちを、先生の言葉に覚えた。そんな妥協をするくらいなら売られた喧嘩を買う方がましだ。
しかし先生は俺を笑った。
「…君のその率直なところは嫌いじゃないな」
「…」
「でも君が『くだらない』と思うことも、もしかしたら本当はそうじゃないかもしれない…そう考えることも必要じゃないかな」
「…はい」
俺は空返事で答えた。剣の腕の優れた先生だが、こういう子供扱いのような説教は苦手だったのだ。
しかし先生はそんなことさえ見透かして「じゃあもう帰りなさいい」と穏やかに笑ったのだった。


道場から家に戻ると待ち構えていたように父に呼び出された。
それは珍しいことだった。父は兄と姉ばかりに関心を寄せて俺のことは相変わらず放置していたからだ。
床の間を背にして父は難しい顔で腕を組んでいた。無骨な父であった。足軽から御家人に上り詰めたあとも黙々と仕える主人のために働き、子供達を厳しく育てた。兄はそんな父にて真面目な後継になり周囲から信頼され、姉は堅実な嫁ぎ先が決まったらしい。
(俺は一体誰に似たのか…)
そんなことを考えていると、父がようやく口を開いた。
「…一、お前に頼みたいことがある」
「頼みたいこと…」
何か説教が始まるのだと思ったので、そんな風に切り出されるとは思わず俺は少し驚いた。
「あるお方の話し相手になって欲しいのだ」
「…話し、相手?」
「年の頃はお前よりも少し下だが、由緒正しいお家柄のお方だ」
「…」
父が重々しく語る『お方』はおそらく身分の高い人物なのだろう。父の仕える鈴木家からの依頼なのだろうか…としかしそれよりも俺には不似合いな『話し相手』という仕事の方が気になっていた。
「稽古の前後、少しの間で良いそうだ。長くて半年、頼まれてくれるか」
「…父上、俺はあまり喋りが得意ではありません」
「その通りだ。だから一度は断ったのだが…先方はどうしてもお前が良いそうだ」
「…」
己を他人がどう見ているのか…そんなことは知っている。一人を好み、周囲とは関わりを持たずそのせいで愛想など身についていない。そんな俺をわざわざ指名して『話し相手』など何かあるのだろうと勘ぐるのは当然だ。
「お断りします」
俺はきっぱりと告げた。相手が高貴な立場というのならなおさら自分に全うできる仕事だとは思えなかったのだ。
しかし父は渋い顔をして「それはならん」と突っぱねた。
「直々のご命令だ。それにお前が断ればお勝の縁談に支障をきたすかもしれない」
「…」
一体どこからの『命令』なのか…父は明言を避けたが、断ることができないのだと理解した。それに決して仲の良い家族とは言えないが、姉に迷惑をかけるわけにはいかないと思った。
(たった半年だ…)
期限があるのだから腹をくくることはできる。それにわざわざ俺を指名するのだから無口で無愛想なことも承知しているのだろう。
「わかりました」
俺がそう答えると、父は少し安堵したようだった。
「…明日の朝、迎えの者が来るそうだ。今夜は早めに休みなさい」
「はい」
俺は頭を下げてそのまま立ち上がって部屋を出た。





525


翌朝、俺を迎えにやってきたのは月代を見事に剃り上げ高級そうな着物と袴に身を包み、武人というよりも貴族のようにお高く止まった男一人のみだった。
「君が山口一か」
「…はい」
男は値踏みするように俺の頭の先から足のつま先までまじまじと見た。父に言われて外向けに誂えた衣服に身を包んでいたが、この男の前ではすっかり霞んでしまう。
男は「ふん」と少し鼻で笑った。
「私は名乗れぬ立場の人間だ。本来であればお前と会うことはない。それ故にここから全ては他言無用だ」
「はい」
男の高慢な態度は気に障ったが、いちいち反抗するのは面倒だったので頷いた。しかし例の話し相手がこの高慢な男の主人かと考えると億劫だった。
男は「道を覚えろ」と端的に命令したので俺は男の二、三歩後ろを歩いた。入り組んだ武家屋敷を歩き回る…途中からそれが最短距離ではなく誰かに尾行されないように向かう道順であることに気がついた。細道や人目につかない道が多いので、これからこの道を使えということなのだろう。
そしてようやくたどり着いたのは大きな屋敷の裏口だった。見渡してもその屋敷の終わりが見えないほど広大な土地であったので(どこかの藩邸だろうか)と察した。門番の付く裏口は俺の家の玄関よりも随分立派だ。
「さて、お前に言っておくことがある」
男は中に入ろうとせず、俺を見据えた。
「まずこのあとお会いする御方は高貴なお立場の御方である。御方について余計な詮索や口出しは重罪と心得よ」
「…わかりました」
「そして御方の前ではお前は『人』ではない。…それ故、名乗るどころか一言も発することは許さぬ」
「…」
俺は流石に首を傾げた。父の話ではその高貴な方の『話し相手』として呼ばれたはずだ。それなのに一言も発することを許されないとは思いもよらなかった。
しかし男は俺の疑問になど答えることはなく、裏口を開けて中に入った。俺に当然拒む権利などなく男に従うしかなかった。
中に入るとすぐに一面に季節の花々が広がっていた。花びらの紅色、橙色、桃色、葉の青々とした緑色…鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。そんな眩い光景に囲まれながら人が一人通れるかくらいの狭い石畳を歩き、やがて視界が開けてたどり着いたのは広い庭と外観通りの立派な屋敷だった。
そしてそこにいたのは、年老いた女中に付き添われた一人の年若い少年だった。
「若様」
そう呼ばれた少年は俺よりも少し年下だろうか、真っ白な肌に細く長い髪が靡き温厚そうでいて繊細で美しい顔立ちだった。精巧に作られた人形のように現実味のない存在に俺は思わず目を奪われていた。
しかし俺をここまで誘導してきた男は少年の前で膝をついて深々と頭を下げたので、慌てて従った。
「若様、お身体の具合はいかがでしょうか」
「うん。今日は大分いいんだ。お千代と一緒にお屋敷をぐるりと回っても息が上がらなかった」
若様と呼ばれた少年は部下である男に向かって愛想よく返事した。声変わりは終えているようで、何だか顔立ちと釣り合いが取れていないように感じた。
「それはよろしゅうございました。しかし邸内と言えども乳母一人では心許ないでしょう。…今日は先日ご所望されましたものを連れてまいりました」
男が振り返り、俺に前に出るように促す。(献上品か)と内心吐き捨てながら俺は頭を下げたまま二、三歩前に出た。
「若様、新しい『イチ』です」
男の紹介に俺は「え?」と喉元まで声が出かけたが、ぎりぎりのところでぐっと堪えた。
(『イチ』…?)
たしかに俺の名前をそう読むことはできる。しかし通常は『はじめ』と読むものが大半であるので、男が間違えているのだろうか。しかし俺の素性など調べ尽くしているだろう彼がそんな間違いをするとは思えなかった。そして『話すこと』を禁じられた俺には訂正することはできない。
それに少年が
「イチ!」
と俺を見て目を輝かせたのだ。そして少年は俺に近づくとまじまじと好奇な眼差しで見ている…俺は顔を上げることはできなかったが、彼がとても喜んでいるのはわかった。
そして俺はぼんやりと理解した。
『御方の前では「人」ではない』
先程この邸宅に入る前に男が釘を刺した言葉。それは誇張でもなんでもなく『事実』だったのだろう。
ーーーー犬だ。
寡黙な自分などがなぜ『話し相手』などに選ばれたのかと不審に思っていたが、今なら納得できる。
この時から俺は『イチ』という若様の『犬』となったのだ。



俺はそれから連日、迷路のような道を歩いて若様に会いに行った。彼らから受ける『犬』扱いは不服ではあったが、たった半年のことならと耐えることにした。
それに、慣れれば苦痛ということはなかった。
毎日、若様の話を聞いているだけなのだ。相槌も返事もせずただ黙って聞く。傍目に見れば若様の独り言だ。しかもその内容は朝食が美味しかっただの、天気がどうだなど日々の他愛のないことばかりで拍子抜けしてしまうほど平和な内容だった。俺はその話を庭に膝をついて頭を下げ、黙々と耳に入れる。たまに邸内の散歩に付き合うことはあるけれど、空気のように彼に寄り添うだけだ。
彼の周りには常に俺以外の誰かがいた。千代と呼ばれた乳母であったり、女中であったり…決して二人きりになることはなかった。若様が病弱なせいかもしれないが、俺の存在が警戒されているのかもしれない。
けれど若様は毎日穏やかだった。人間なのだから喜怒哀楽というものがあり機嫌の良い日や悪い日があるはずだが、彼に限ってはそれがないように思えた。日々の些細なことに気を配り、誰に対しても人当たり良く接している姿しか見たことがない。初めて若様に会った時の『人形のようだ』という感覚は俺の中にまだ残っていた。
けれどそんな若様が晴れ渡った空を見上げながら
「ああ、外に出て見たいなあ」
と呟いたのが印象的だった。それまでの世間話のような口調とは全く違う子供じみた憧憬。
籠の中に囚われたまま囀り続ける鳥のようだった。

晴れの日も、雨の日もあった。しかし俺の中では同じ日が続いた。
本当の『犬』ならば主人の話を延々と尻尾を振りながら聞き続けることができるだろう。意味を理解せず聞き流せる。
けれど俺は次第に考えるようになった。
若様は何者なのか。
若様は何を考えているのか。
若様は俺のことを本当に『犬』だと思っているのだろうか。
(問うてみたい…)
誰にも関心がなく、人と関わろうとしなかった俺にとってその感情は今まで生まれたことのない稀有なものだった。だからこそどうしていいのかわからなかった。
そんなある日、乳母とともに三人で広い庭を歩いていると突然の雷雨に見舞われた。すぐに屋敷に入れれば良いのだが、広すぎる庭ではそれは難しい。大きな木の麓に移動した。
「傘をとってまいります」
乳母がそう申し出て俺をチラリと見た。二人きりにさせることが不安だったのかもしれないが、それよりも病弱な若様を気遣う感情が優ったようだ。
初めて二人きりになった。俺は少し距離を置いて若様の側で跪いていたが
「イチ、もっと近くにおいでよ。そこでは濡れてしまう」
「…」
「イチ」
言葉を発することができないが故に拒むことはできなかった。俺は木陰に入り、雨を凌げる場所でもう一度跪くと若様が笑った。
「せっかく二人きりになったのだから、喋っても良いのに」
「!」
俺は驚いたが若様は構わず続けた。
「イチ、本当の名前は何ていうの?まさか本当に『イチ』なんて犬みたいな名前ではないでしょう」
「…」
「ううん…こういう言い方は好きではないけれど、答えてくれないなら仕方ないな。命令だよ、教えてくれないかな」
あの男によって縛られていた命令が、容易く解かれる。俺は恐る恐る口を開いた。
「…あながち、間違っているわけではありません。私の名前は『一』です故」
「へえ!偶然のことなのかな、篠原も面白いことを考えるね。じゃあイチのままでいいのかな」
「はい」
若様は俺を見て無邪気に笑った。篠原と言うのがあの男の名前なのだろう。
「『イチ』というのはね、君が来る前に死んだ…犬なんだ。ずっと私のそばに寄り添ってくれた…心優しい犬だった。死んだ時は悲しくて…思わず篠原にお願いしたんだ『私よりも先に死なない友人が欲しい』って」
「…」
秘められていたことがあっさりと明かされていく。俺は突然のこといに呆然としていたが、若様は堰を切ったように話を続けた。
「そうしたら君を連れてきた。少し驚いたけれど、君は一言も喋らず、かといって聞き流す風でもなく私の話を聴いてくれた。…まるで『イチ』のように」
「…」
「…私の周りは少々複雑で、いろんな思惑を持った大人が出入りしている。君は篠原が連れてきたのだからそういうこととは無関係の人間なのだろうけれど、周りはなかなか認めない。だからこうやって二人きりになりたかったんだ」
ようやく叶ったよ、と言わんばかりに若様は満足げだ。
彼がどういう大人に囲まれているのかはわからない、けれどそのなかで息苦しい思いをしていることはわかる。
俺は言葉を選びながら口を開いた。
「…自分は、若様がどういうお立場の御方なのかは存じあげません」
「うん、それでいい。それがいい。イチは私の友人でいてくれ」
若様の願いに俺は頷いた。
そうしていると雨が降る中、乳母が傘を持って戻ってきたのだった。


526


初めて若様と会話を交わしてから、同じだと思っていた日々に変化が訪れた。若様は二人きりになると俺に会話を求め、邸内の散歩には乳母の千代や女中たちに『イチと行くから』と遠ざけた。生来無口な俺は若様の話に相槌を打つ程度なので、何が彼を喜ばせているのかわからなかったが、若様はいつも楽しそうにしていた。
もちろん若様の魂胆や俺が若様と会話を交わしていることを彼女たちは分かっているだろうが、それを咎めるようなことはしなかった。俺のことをそれなりに認めてくれたのか、若様の望みだからなのか…それはわからない。ただ俺は若様に会うことが存外楽しいと思い始めたのだ。
その矢先のことだった。
「おい、山口」
稽古を終えると梶谷が声を掛けてきた。珍しくいつも連れている取り巻きがおらず、一人だった。だが尊大な態度は相変わらずだ。
「…何の用だ」
このあと俺は若様に会いに行くので梶谷に付き合っている暇はない。
「そんなにつれない態度を取るなよ。…後悔するぜ」
「…話がないのなら帰る」
苛立った俺は踵を返すが「待てよ」と肩を掴まれた。そして梶谷が小声で囁いた。
「お前、紀伊の藩邸に通っているんだろう?」
「!」
「お前が裏口から出入りしているのを見たって奴がいるんだ」
瞳孔がカッと開き、驚いた俺を見て梶谷は確信を深めた。素知らぬ顔をすれば良かったのだろうが、出入りする姿を見られたという失態に焦ってしまったのだ。
それに加えて梶谷の言葉に動揺していた。
(紀伊…だと)
どこかの藩邸だということは察していたが、まさか親藩の紀伊藩だとは思いもよらなかったのだ。
俺は梶谷の手を払い、鋭く睨んだ。
「…お前には関係ない」
「関係なくはないだろう?…将軍様の継嗣の問題はお国の問題だ。道場でも度々話題になっている」
「…」
「ははっ まさかお前、何も知らないのか?」
梶谷は何も答えない俺を高らかに嘲笑した。
勿論世間で話題になっているのでそれなりに理解していたつもりだが、興味が無いため明確に説明できるほどではない。墓穴を掘るのは面倒だと思い黙っていると、彼は得意げに話し始めた。
「今の大樹公はお身体が優れずお子の望めないお身体故に、早急に後継が必要だ。老中様をはじめとした島津と水戸は一橋様を推したが、大樹公や譜代の大名は一番血筋が近いことを理由に紀伊の若様を押し上げている。俺は幼少の紀伊の若様よりも聡明で博識な一橋様が将軍職に就かれたほうが良いと思っている。お前はどうせ何も考えていないのだろう?」
「…」
「図星か」
梶谷はまた笑ったが、遠く手に届かないような将軍家の問題を、なぜ自分のことのように置き換えて議論できるのか…俺にはそのほうが不思議だった。
梶谷は続けた。
「まあお前が無知だろうとどうでもいい。だが、お前が紀伊の若様にお会いできるなら話は別だ。後継から辞退するようにお願いできるだろう?なあ、俺も連れていってくれよ」
「断る」
俺は即答した。そもそも内密の任務であり、馴れ馴れしい梶谷のいうことを聞いてやる義理はなかった。
俺の返答に対して梶谷は「ふうん」と含みのある表情をした。そして再び小声に戻るが、今度は脅しだった。
「紀伊の藩邸に通っていること、バレたくないだろう?俺ならお前を見たってやつの口止めもできる。…お前の父君だって立場がある、皆に知れたら困るんじゃないか?」
俺は反射的に梶谷を突き飛ばしていた。梶谷はそのまま尻餅をつく。
俺は梶谷に吐き捨てた。
「黙れ。お前には関係がない!」
「こ、この野郎!」
顔を真っ赤にした梶谷はすぐに立ち上がり猛然と俺に掴みかかってくる。襟を掴まれ頬を殴られたので、俺はすぐに同じように返したが一つ年上の梶谷の方が少し体格が良いため、殴られた衝撃は俺の方が大きい。だが怯むことなく俺は梶谷を殴った。
自分のためではない。父のためでも、家のためでもない。
ただ俺は守りたかったのだ。若様との穏やかな時間を梶谷なんかに邪魔されたくはなかった。ただそれだけの思いで拳を振り上げていた。
そうしていると塾頭の先生が「やめなさい!」と俺たちの間に入って静止した。互いに息が上がり、痣だらけになり梶谷は鼻血を出していた。俺も口の中が血の味がしたので唇を切ったのだろう。
先生は眉を釣り上げて怒った。
「梶谷君、山口君。君たちには三日間稽古を禁止します」
「な、なんで…!こいつが先に俺を突き飛ばしたんだ」
「喧嘩両成敗だ。頭を冷やしなさい。…山口君、君もだ」
「……はい」
俺は唇を拭いながら頷いた。一方納得のいかない梶谷は「畜生!」と吐き捨てて去っていく。
先生は「やれやれ」と呟きながら俺を見た。
「紀伊…だとか不穏な言葉が聞こえたがなんの話をしていたんだい?」
「…俺は知りません」
俺は表情を変えずに淡々と答えた。梶谷の前での失敗を繰り返すつもりはなかった。
すると先生は「困った子だ」と言いながらそれ以上は何も聞かなかった。


それから、道場を出て若様のところへたどり着く頃には、俺は冷静になっていた。
(若様は…紀伊の、若様だったのか…)
若様が乳母やたくさんの女中に囲まれ、どこか浮世離れしていたのも、この広い邸宅が親藩の紀伊家の藩邸だということも、それが紀伊の若様だということなら頷ける。
それに
『私の周りは少々複雑で、いろんな思惑を持った大人が出入りしている』
若様はそう語っていた。それは将軍継嗣を巡る問題を指していたのだ。
俺は若様の正体を知ることで、感情を乱されていた。
ずっと若様のことを知りたいと思っていたが、知ってしまうと若様の望んでいた『友人』にはなれないのではないかと恐れていた。穏やかで朗らかな若様の望んでいる『存在』で在りたい。だがこんな不本意な形で知ることになってしまった。梶谷を恨むが、いずれ知ることになったことだろうとも思う。
(できれば…若様のお口からお聞きしたかったが…)
何にせよ、俺が若様にお会いするのは今日で最後になるだろう。梶谷に知られてしまったのは俺の落ち度なのだから。世話役の篠原に知られる前に自分で辞することを申し出るべきだ。
俺はそんな覚悟を胸に、裏口から中に入った。咲き誇る花々はすっかり見慣れてしまったがそれも今日で終わりかと思うと目に焼き付けたくなる。花に囲まれた道を歩むと庭に抜ける。
縁側には若様がいて、乳母が隣に控えていた。
「…イチ?」
俺は黙って若様のお側に近づき、膝を折った。土埃が袴を汚してしまうのも構わずに、若様の前に平伏した。
若様は俺の顔を覗き込むようにして
「怪我をしているの?」
と尋ねられた。若様は梶谷に殴られて赤くなった頬と唇の切り傷に気づかれたのだ。
(大事ありません)
そう答えたいのに乳母がいるので口を開くことができない。もどかしい気持ちに苛まれていると、若様が乳母の千代に
「塗り薬を持ってきて」
と頼んだ。乳母は戸惑っていたが「お願い」と若様が念を押したため立ち上がり奥の部屋へと向かっていった。
「イチ、喋っていいよ」
「…若様、大事ありません。自分のことなど…」
「イチは私の『友人』だよ。怪我をしていたら薬を塗ってあげる…それは友人として当たり前のことだ。…ほら、顔を見せて」
俺は若様に導かれるままにゆっくりと顔を上げた。若様は俺の傷を見て「ひどいな」と眉をひそめたが、俺は若様の顔をまじまじと見ていた。
細い髪の毛にほっそりとした輪郭。白い肌、まるでビードロのように澄んだ瞳。形の良い鼻筋に優しげな口元。精巧すぎて触れれば壊れそうな危うさと、しかし慈愛に満ちた眼差しが俺に向けられている。
俺はそれを記憶に焼き付ける。忘れないように、刻み付けるように。
「イチ?」
いつもと違う俺の様子に気がついたのだろう。若様は首を傾げた。
「…自分は、若様の『友人』にはなれませぬ」
「どうして?」
無垢な若様に尋ねられ、俺は迷いながら言葉を選んだ。
「…若様のことを…知ってしまったからです」
俺の若様への態度は自然と硬化していた。それはやはり次期将軍である若様に対して萎縮していたからだ。それは決して若様の望む『友人』ではあるまい。
俺は続けた。
「それから…ここに足を運んでいることを知人に悟られてしまいました。このままでは若様にご迷惑をおかけしてしまいます」
俺は顔を伏せた。
「…今日で最後にさせてください…」
思った以上に、その言葉は俺自身を傷つけていた。まだ短い間だけれども俺は若様にお会いすることに喜びを感じていたのだ。
するとポタポタ、と地面が濡れた。雨が降ってきたのかと思ったがそれは同じ場所を濡らし続ける。
「…わ、かさ」
「嫌だ…嫌だよ、イチ」
若様のビードロのように大きく輝きに満ちた瞳から、大粒の涙が?茲を伝い、地面に落ちていた。雨ではなく若様の涙だったことに気がつき、俺はどうしていいのかわからなかった。
だが若様は足袋のまま庭に飛び降り、俺に抱きついた。
「若、様…」
「私は何者でもない…なのに、皆は特別だという。囃し立てて飾り立てて…利用する。そんなのはもうウンザリだ。私が欲しいのは心を許せる友人だけなのに」
いつも穏やかで喜怒哀楽のない朗らかなお方だと思っていた。けれどそうではない。若様は己の感情を隠し周囲が望むように振舞っていただけだ。
嗚咽を堪えながら若様は俺に問いかける。
「イチは私の友人だ、そんなの誰に知られたって良い。それともイチは私が友人だというのは恥ずかしいの?」
「違います…しかし、ご迷惑が…」
「迷惑なんてかけてもいい。私がイチを守る…だから…そばにいて」
涙を流しながら俺を離さまいと強く抱きつく若様が、俺の心を揺さぶった。離れて別れを告げることこそ最良だと分かっているのに、脆く崩れる若様を突き放すことなんて俺にはできない。
(俺は…この方を守りたい)
若様にとって『友人』でも『犬』でも構わない。
いつか会えなくなっても、遠い場所に行ってしまっても、その気持ちはいつまでも揺るがないだろう。
明日のことさえ無関心だった俺が、そんなことを思った。
「…わかりました」
「イチ…本当?本当だよね」
「本当です」
若様が俺を必要としてくれている。父にも母にも兄弟にも見放され、見放してきた俺にとって誰かに必要とされるは初めてのことだった。
若様は目尻に涙を浮かべながら微笑んだ。
「…イチが笑ったの、初めて見た」



527


数日後、いつも通り藩邸の裏口から出たところで世話役の篠原に出会った。その不遜な態度で偶然ではなく待ち伏せをしていたのだろうということがわかる。
篠原は不機嫌そうな顔を隠さず報告した。
「梶谷という青年には金を渡して黙らせた」
「…」
任務のことを梶谷に知られてしまった件はすぐに篠原に報告していた。篠原は怒り、俺を任務から外そうとしたが若様が止めた。
『イチを辞めさせるなら、私にも考えがある』
普段は温厚で感情の起伏がない若様だからこそその脅しは効いた。篠原は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも「わかりました」と引き下がったのだ。
「本来ならお前に責任を問うているところだが、若様のご命令なら仕方ない。…ただ二度とは許さぬ。より一層警戒して任務に当たれ」
「…ありがとうございます」
「お前に礼を言われる筋合いはない。…それから、若様との会話も許可する」
「!」
「これは乳母の千代殿からの進言があったからだ。若様がお前と二人きりになり会話をするために、しきりに千代殿や女中を遠ざけておられる。しかし若様は病弱な身…御身に何かあった時に困る、とのことだ」
篠原は腕を組み直し、わざとらしく「はぁ」とため息をついた。
「…お前のような下賎な者を若様に近づけるのは本意ではないが…しかしあまり機嫌を損ねるわけにはいかぬ。何が気に入られたのかはわからぬが、ぐれぐれも余計なことは口にせぬように」
「一つ…お尋ねしたいことがあります」
「何だ」
「…本当に若様は、紀伊の若様…つまり次期将軍候補、なのでしょうか」
「…」
この邸宅が紀伊藩邸なのだとすれば若様の正体は梶谷の言う通りなのかもしれないが、俺は彼の下世話な話を鵜呑みにしたくはなかった。
(せめて自分で確認をしたい…)
そんな俺の問いかけに篠原は少し視線を外した。いつも率直で口が悪い彼に迷いが見えた。
しばしの逡巡の後、篠原は答えた。
「…確かに、若様は紀州藩十三代藩主徳川慶福様である。そしてお前の言う通り若様の周囲には将軍に推す思惑を持つものが多い…。しかし、私は若様の近習役にすぎず、お前も若様の『犬』。これ以上出過ぎたことを口にするな」
篠原から告げられた重々しい名前は、予想通りではあったもののそれが現実だと思うと俄かには信じられない。俺は改めて住む世界の違うお方なのだということを実感した。
篠原は「今聞いたことは忘れろ」と命令したが、もとより若様の事情に踏み込むつもりはない。
「わかりました」
俺は聞き分けの良い返事をして篠原を満足させた。


俺は若様の正体を知ったがその事実は心の奥底に留め置いて、若様の『友人』として接するように努め、その結果自然と距離を縮めることになった。
病弱な若様は、一日の半分は部屋に篭り乳母の千代の加護を受け、もう一人養育係である浪江(なみえ)という女性から歌や儒教を学ばれる。それ以外は勇ましい武芸などは目もくれず、女中とともにあやとりや双六など女子が嗜むような遊びをして過ごしていた。
そんなある日、いつものように裏口から庭を通り抜けると若様のお姿がない。すると乳母の千代に招かれて俺は初めて縁側から若様のお部屋に入った。
若様は寝込んでおられた。千代によると軽い風邪だそうで、今は話し相手を欲しているらしい。
「くれぐれもご無理をさせませぬように」
千代に釘を刺されながらも、俺は若様の側で膝を折った。
「イチ」
嬉しそうに笑う若様の頬は少し赤く火照っている。
「すまない。イチに風邪を移してしまうかもしれないとわかっているけれど、呼んでしまった」
「…構いません、自分の身など」
「『友人』に風邪を移して平気ではいられないよ」
「…」
若様は俺のような遥かに身分が下の者に対しても穏やかで心優しい。しかしその一方で『友人』というものに固執しているように感じられた。優しく手厚く扱わなければいなくなってしまう…そんな恐怖の裏返しのような。
(そんなことをご心配されなくとも良いのに)
俺とは違い、若様の温厚な性格なら誰にでも好かれるが、けれど若様には理解できないだろう。広いこの邸宅の片隅の世界しかご存じないのだ。
若様は横になられたままいつものようにあれこれと話し始めた。
「少し咳と嚔をしただけで千代から床から出るのを禁じられてしまったんだ。昔から千代は大げさで困る。…退屈で仕方ないと浪江に訴えたら、物語を聞かせてくれた。まるで幼子のようだが、不思議と心地よかった」
「…そうですか」
俺は相槌を打ちながら、自分自身にはそのような体験がないことに気がついた。母は無口で無愛想な幼少の俺に物語を読み聞かせようなどという発想はなかっただろうし、それくらい可愛いげのない子供だったのだということは自覚している。
若様は続けた。
「『源氏物語』の『蛍』を読んでもらった。イチは知ってる?」
「いえ…自分はそういうものは、全く」
「そうだね、『源氏物語』なんて女子の読み物だ。…源氏は自分の養女にした玉鬘に恋心を寄せながら、他の男との仲を焚きつけるような悪戯をして玉鬘は困ってしまう…そういうお話なんだけれど、その源氏の気持ちは私にはよくわからない。沢山の女に想いを寄せるなんて不誠実だし疲れると思う」
「…」
若様らしい意見だが、俺にはなんと答えていいのかわからずそのまま耳を傾けた。
「でもその中に、源氏が玉鬘に想いを寄せる男を呼び出して、几帳越しに対面させる場面があるんだ。源氏は玉鬘の後ろに控えて蛍を放つ…その仄かな明かりで玉鬘の横顔が少しだけ照らされてその美しい顔立ちにさらに男は想いを寄せる…」
若様は目を閉じた。
「…私は生まれてからほとんどこの藩邸から出たことがないから、知識として蛍は知っているけれど実際に見たことはない。…だから想像するだけだけれど、小さくて淡い灯りが飛び回る…とても幻想的で美しい光景なのだろうと思うんだ」
目を閉じて恍惚に浸る若様は、その瞼の裏にどのような景色を想像しているのだろう。
(俺にはきっと想像すらできない)
若様が心踊るような物語も、俺にとっては他人事のように受け取ってしまう。蛍を見たことがない若様は部屋に放たれた淡い光を見て喜ぶだろうが、俺は同じように喜ぶことはない。
誰もが、俺とは違う人間だ。けれど若様はその誰よりも遠くにいるような気がする。
(それなのに、どうして俺はここにいるのか…)
何故俺を『友人』だと思えるのか。
「イチ、どうしたの?」
「…いいえ、何も」
若様はいつのまにか目を開けて、俺を見ていた。微熱のせいで潤んだ瞳のせいでいつも以上に幼く見える。
吸い込まれそうだ。
「イチ、何か聞きたいことがあるのでしょう」
「…」
「今は千代も浪江もいない。私に答えられることなら、なんでも答えるよ。イチに隠しごとはしたくない」
『友人』だから。
まるで枕詞のように若様は繰り返す。しかしその言葉に頑なな気持ちが解きほぐされていくのもまた事実だ。
俺は慎重に口を開いた。
「…若様は、この先も実際に蛍をご覧になることはないとお思いですか」
「…?」
「蛍など、外に出ればいくらでも見ることはできます」
川辺に足を運べば、蛍の淡く脆い光をいくらでも目にすることができる。しかし若様はこの広くも狭い檻のような場所から出ようとはしない。望むことすら恐れているように見えたのだ。
若様は俺の問いかけに対して少し驚いたような表情を浮かべた。だが次第に言葉の意味を噛み砕き、飲み込み、「ふふ」と穏やかに笑った。
「イチがそんなことを聞くなんて思わなかったから驚いてしまった」
「…申し訳ございません。気分を害されたのなら…」
「いや、いいんだ。…イチは私のことを心配してくれているんだね」
聡明なお方だ。俺の遠回しな問いかけの意味をもう察してしまったのだ。
若様はゆっくりとお身体を起こした。そして俺を真っ直ぐ見つめた。
「…私は生まれてすぐに養子に出され家督を継いだ。藩政は側近たちが思うままにしたから、私は飾りのような存在だった。だから生まれながらに将来のことは自分で決められない運命なのだと悟ったんだ。…この先も、それはきっと変わらない。私の人生は私のものではない」
「…」
「私が推されるのは、大樹公との血筋が一番近いという理由だけだ。私よりも年上で聡明と噂の一橋殿の方が相応しいのに…本当はこんな面倒なことになって申し訳なく思っているくらいなんだ」
若様が半分は誰をも羨むことなく心の奥底からそう思っているのがわかる。しかしもう半分は諦めから出た言葉だろう。
「私はきっと誰かに望まれる場所で生きていく運命なのだろう。だから自由に外を出歩いて蛍を見ることなんてきっとできない」
「…」
悲観する若様に何を言えばいいのか、俺にはわからない。けれど若様は俺をみて微笑む。
「…私はイチの目が好きだ。最初に会った時から私のことを知ってしまった今でも変わらず、恐れずしがらみもなく曇りなく、真っ直ぐ見つめる」
「それは…自分の悪いところです」
家族にも周囲の人間にもそして自分にも心を許すことができない。それ故に無意識に牽制し、怒らせ悲しませ遠ざけてきた。
しかし若様は首を横に振った。
「違うよ。イチは強いから、目を逸らさないんだ。世の中を遮断し内に篭り逃げ続ける私とは違う…。だから本当はきっと私と出会うことはなかった。ふふ…今の立場でなければイチと出会えなかったのなら、この幸運に感謝したいくらいだ」
「若様…」
若様は俺の手に触れた。細くしなやかで温かなぬくもりを感じた。
「私にとって蛍よりもイチの方がとても尊いものに思える。…だから、今は何も望まないんだ」
若様の声は寂しく俺の鼓膜を揺らす。
部下がいる、乳母がいる、女中がいる。俺よりも沢山の人に囲まれているのに、それなのに孤独を感じていた。それは誰もが『次期将軍』として若様を見ているからだ。誰も彼も本当の若様を見ていない。
だからしがらみのない俺を『友人』だと繰り返す…そんな孤独な若様を守りたいと思った。
(俺はこのお方に…忠義を誓う)
俺は若様の手を握り返した。
『友人』を所望する若様には不本意かもしれないが、生来『友人』など居たことがない俺にはその方がわかりやすかった。
何があっても、この手を汚すことがあっても、若様を守ろう。
その誓いは深く、胸に刻まれた。


けれど時は止まることなく、流れ続ける。変わらなくて良いものを変えてしまう。
大樹公がお亡くなりになったのだ。




528


安政五年、十月。
大樹公が亡くなったことで、俺と若様は突然面会を遮断された。
「任務は終わりだ」
いつも以上に不機嫌な篠原から一方的に告げられ、納得はできなかったがその篠原さえも近習役を解かれ若様にお会いすることはなかなかできなくなったらしい。そして若様もまた益々自由のない生活になってしまった。
「お立場が変わるのだ。仕方あるまい」
「…」
若様はこれから弱冠十三というお歳で将軍の座に就任される。想像のつかないことだが、若様はますます遠くへ行くことだけはわかった。
「これは謝礼だ」
篠原から渡された金はズシリと重かったが、若様との時間を換金されたような気がして俺は一銭ももらわずさっさとその金を父に渡した。姉の嫁入り道具の資金になるのだろうが、構わなかった。
そして俺は再び元の生活に戻る。家と道場を行き来する静かな生活へ。
(手の届かない御方になってしまった…それだけだ)
俺は自分に言い聞かせた。
お立場が変わったからと言って、すべてを忘れてしまうような御方ではない。そして俺の心に灯った若様への『忠義』が消えるわけでもない。
けれど、
(ただ、もう一度お会いしたかった…)
お立場上いつかこんな日が来るとは分かっていたが、別れを言えないままなのが心苦しかった。特別な感情で俺のことを『友人』だと繰り返していた若様も同じように思っているに違いない。若様は悲しんでいる…俺はそのお側にいることさえできない。
そんな悔しさに心をかき乱され、その苛立ちは必然的に剣に伝わった。いつも以上に気迫のある稽古の相手をできるのは先生くらいで、梶谷やその子分たちは遠巻きに見ているだけだった。
打ち込み稽古を終えると、先生が声をかけてきた。
「どうした、山口君」
「…別に」
「別に、ということはないだろう。いつも冷静沈着な君がまるで人を殺すような剣を振るっていた。…何か理由があるのだろう?」
「…」
温厚で中立的な先生のこのお節介のような気遣いが今は癇に障った。
「放っておいて下さい」
冷たく言い放つが、先生は「汗を流そう」と宥めるように俺を道場の井戸へと誘った。
井戸には稽古を終えた門下生たちが集っている。『井戸端会議』なんて言葉は女のものだと思っていたが、ここへ来るといつもその認識を改めなければならないと思う。
「紀伊の慶福様が次の将軍だろう?」
「一橋様が優れた方だと聞くが、血筋を東照神君まで遡らなければならぬらしいな」
「異国に狙われている今、血筋など関係あるまい!」
「俺も一橋様が相応しいと思う」
「慶福様はまだ十三ではないか」
好き勝手な議論が交わされている。昔の俺なら気にも留めなかったが、若様と出会ってしまった今では自然と彼らを睨みつけてしまう。
(相応しくないなどと、勝手なことを…!)
若様は慈悲に溢れた方だ。無口で無愛想な俺にすら優しく手を差し伸べ『友人』だと言った。そんな若様にとって将軍職は確かに重荷かもしれないが、それでもこの国を良い方向へと導いてくださると確信できる。
「山口君、顔が怖いよ」
「!」
先生に指摘され、ハッと我にかえった。気がつけば井戸を囲っていた門下生達がこちらに気がついていて、俺の剣幕を見るや逃げ出すように去ってしまう。そして井戸は無人となった。
「はは、都合がいい」
先生はそんな風に笑いながら桶を引き上げた。
「しかし君は南紀派だとか一橋派だとかそんなことに興味がないのだと思っていたが、そうでもなかったのか?」
「…今でも興味はありません」
数ヶ月前に若様は大樹公の世子と決まり、今更立場がひっくりかえるようなことはないだろう。俺は門下生達の輪に入り議論を戦わせるつもりはさらさらなく、ただ若様の行く末を案じているだけだ。
先生は手拭いを濡らし、俺に渡した。
「興味がない…その一言で済ませられれば良いが、いまこの国は危機に晒されている。私などは歯痒さを感じるな」
「…この国がどうなろうと、関係のないことです」
「あまり無関心なのもどうかと思うが」
「若輩の自分にできることなど何もありません」
己の無力感などすでにひしひしと感じている。俺はあの藩邸の扉を乗り越えて、若様に会いに行くことすらできないのだ。
けれど先生は「そんなことはない」と笑った。
「君のその剣があれば、この世界を変えることはできる」
「…」
その時、俺はその言葉の意味を理解することはできなかった。

その日の夕刻、道場を出た。
むしゃくしゃした思いを素振りに込めたが、未だに靄は晴れないままだ。いつかこんな思いも無くなるのか…それが待ち遠しいような苦々しいような複雑な気持ちだ。早く解放されたいが、その方法はわからない。
夏が過ぎ、秋が訪れようとしている。日に日に昼が短くなり、太陽がその姿を隠すのも早くなって行く。
俺は足早に帰路に着く。すると俺を引き止める小さな声が聞こえた。
「イチ」
「…」
俺は空耳だと思った。ついに俺の願望が幻聴になったのだと呆れた。俺のことをそんな風に呼ぶのはたった一人だけで、この場におられることはないのだ。
けれどもう一度「イチ」と今度ははっきりと聞こえた。俺が周囲を見渡すと物陰に身を潜め、顔を隠すように頭巾を被り手招きする姿があった。
「…若様…!」
俺は驚いて駆け寄った。
「なぜこのようなところへ…!」
俺は混乱しながらも、誰かに見つからないように若様を狭い路地に誘導した。
若様は頭巾を取りながら、まるで悪戯が成功した子供のように満面の笑みを浮かべていた。
「篠原に頼み込んでようやく屋敷を抜け出すことができた。たぶん彼は遠くで見守ってくれているはずだよ、だから安心して」
「…な…」
「篠原は私にとても優しいんだ」
俺は幻でも見ているのかと思ったが、若様は確かに目の前にいる。
いつも俺に対しては冷たい態度を示してきた篠原がどういう気持ちで若様を連れ出したのかわからないが、ああ見えて若様への忠誠が厚い男なのかもしれない。
俺は若様の前に跪いた。
心よりも体の方が素直だった。若様に再会できた喜びで足先が、指先が、震えていたのだ。
そんな俺を若様は優しく見下ろす。
「…篠原に頼んだんだ。もう一度だけでいいからイチに会わせてほしいと」
「もったいない…お言葉です」
「イチにお願いがあるんだ」
「何なりと」
俺は即答した。厳重な警備が敷かれているなか危険を顧みずここまで来てくださったのだ。たとえ命の危機があったとしてもその御望みを叶えたい。
けれどそれはあまりにも和やかな望みだった。
「蛍が見たいんだ」
「え…?」
「前に源氏物語のことを話した時に、イチが『外に出ればいくらでも見られる』と言ったでしょう。…私はこれからますますこうして外に出ることが難しくなる。だからその前にイチと一緒に蛍が見たいんだ」
「…」
若様は十三の年相応に目を輝かせていた。若様が俺ごときの言葉を覚えていてくれたことに喜びを覚えたが、それと同時に俺自身の言葉不足を申し訳なく思った。
「若様、申し訳ございません…蛍は今は見られません」
「どういうこと?」
「夏の前にはたくさん見られますが…今は…」
季節は秋に移ろうとしている。山奥へ足を運んだとしてもその姿を捉えることはできないだろう。
俺の返答を聞いて若様は最初はぽかんと呆けていらっしゃったが、次第に笑いだした。
「はは…!あはは!恥ずかしいな。知識としては知っていると言ったのに、そんなことは知らなかった!」
「若様…」
「イチは悪くない。私が勘違いをしたんだ」
若様は気分を害された様子はなく、それどころかかつて見たことがないほど弾けたように笑い続けていた。
(これが本当の若様の笑顔なのだ…)
囚われた鳥かごで囀る小鳥ではなく、開け放たされた自由という空のもとなら、こんなにも無邪気で天真爛漫なお方なのだ。朗らかな彼に見守られる民が不幸になるわけがない。
(将軍に相応しい…)
「…若様、宜しければ自分に案内させてください」
「うん。でもどこへいくの」
「自分にとって、大切な場所です」
そんな曖昧なお誘いに若様は
「行こう」
とすぐにお答えになれた。



529


俺は人目を偲びながら若様を引き連れ、江戸の町を抜けた。幸いにも陽が落ちてあたりに人気はない。田畑を抜け小道を進むと背の低い小山が見えてくる。
ここまで四半刻も歩いていないが若様は既に息切れをしていた。
「若様」
「大丈夫だよ」
気丈に返答されるが、ただでさえ慣れない外出をされたのだ、身体に何かあってからでは遅い。
「…若様、どうぞ」
無礼かとも思ったが俺は背中を差し出した。若様は少し拗ねたように拒んだ。
「イチ、大丈夫だって」
「この先は階段が続きます」
「階段…」
「この山の上までです」
「…わかった」
若様は不服そうだったが見上げた階段の途方も無い高さに根負けし、俺の背中に身を預けた。
軽く細いお身体だった。こんな小さな身で国を背負われることになるのかと思うと同情を禁じ得ない。俺がそんなことを考えている一方で若様は、
「イチは私と一つしか年が変わらないのに、こんなにも背中が大きい」
と楽観的に言いながら、先ほどまで嫌がっていたのにさらに身を預けた。
俺は若様のあたかな体温を感じながら埋もれた石段を登り、荒れ果てた境内にたどり着いた。
「静かな場所だ」
俺の背中から降りながら、若様は周囲をキョロキョロと見渡した。かつては人々の信仰を集めていたとらしき神社だが、雨風にさらされ草木に覆われ鬱蒼としていて見る影もない。不気味な静けさと闇に包まれているが、若様は怖がる様子はなく物珍しい光景に興味津々なご様子だ。
「若様、こちらへ」
「うん?イチ、ここは…?」
暗い境内のなかで光が差し込むようにポッと明るい場所がある。俺は若様をそこへ案内した。
すると若様は「わぁ!」と声をあげた。
「なんと美しい…!」
そこに光が差し込むのは手入れのされていない鬱蒼とした樹々が、不思議なことに輪になっていてぽかんと空いたその穴から夜空を眺めることができるからだ。特に今夜は風が冷たく空気が澄んでいて星がはっきりと見える。
「ここは幼少の頃見つけた自分の隠れ家のようなところです。ご所望の蛍の代わりにはなりませんが…」
「屋敷で見る星とは全然違う!こんなに眩しいのははじめてだ…!」
若様は歓喜の声をあげながら夜空を見上げ、両手を伸ばす。輝く星を掴むようにつま先立ちされる姿は無邪気な子供そのものだった。
「すごいなぁ…!イチは馬道良の絵図を見たことがある?」
「ありませんが…」
「五十年以上前に書かれた天体図絵なんだ。西洋ではこの星一つ一つの配置が図絵になっていると考えられている。魚、羊、牛、蟹、女子…西洋の人馬なんてものもある。私は屋敷でそれを睨めっこしながら探したけどわからなかった。でも、こんなに美しく鮮明な今なら分かる気がする!」
この満天の星をみて同じような感想を口にする聡明な者がどこにいるだろう。若様の見識の広さには浅学の俺には理解が及ばないが、いつもわかりやすくお話ししてくださるのだ。
若様はしばらく興奮気味に星を眺めていたが、次第に落ち着かれた。
「…イチ、ありがとう。私はイチに与えてもらってばかりだ」
「若様…」
「そう呼ばれるのももうお終いになる。『徳川家茂』…それが私の名前になるらしい」
若様は他人事のようにおっしゃったが、それは無関心でも謙遜ではなく本音なのだろう。生まれながらの後継ならまだしも、誰しも自分が世を統べる将軍になるなど思っていないのだ。誰よりも若様自身が。
若様は俺の方へ体を向けられた。
「本当はイチにお別れを言いに来たんだ。短い間だったけれど本当に楽しかった」
「…」
「それから…嘘をついていたことを謝りたい」
「嘘…?」
俺には身に覚えのないことで寝耳に水だったが、若様は神妙な顔で俺を見た。
「はじめて言葉を交わした時『イチ』は死んだ犬だと伝えたけれど、そうではないんだ。本当は…私を幼少から知っている心優しい臣下だった。誰よりも忠義に厚く…いや、あまりに厚すぎて、周囲から『忠犬』というあだ名をつけられていた」
若様は少し苦笑したが、すぐに表情を落とされた。
「でも『イチ』は死んでしまった。面倒で複雑な事情があって私を邪魔だと思う者から私を守るために、身代わりで死んだ」
「…」
「『イチ』が死んだことが悲しくて寂しくて、私は篠原に頼んだ。面倒ごととは無関係で、剣が強くて絶対に死なない…『イチ』に似た者を連れて来て欲しいと。そうしたらイチが私の目の前に現れたんだ」
「…似ていましたか?」
「とても。もっと年は上だったけれど…よく似ていた。こんなにそっくりなイチを探してくるなんて篠原はとても優秀だ」
若様は俺の前で膝をついた。俺と同じ目線で語りかけた。
「だから、今度こそ私を守る『忠臣』はいらない。そんなのいくら命があっても足りないのだから。…欲しいのは『友人』なんだ」
「…そのような立場は自分には勿体ないです」
「そんなことはないよ。私たちは沢山のことを話したじゃないか」
若様は俺の右手に、両手を添えた。夜の寒さで冷えていたのに、俺よりは温かい。
「…もう会えないのかもしれないけれど…でも私はずっとイチのことを『友人』だと思っている。きっとこれから夜空を見上げるたびにイチのことを思い出すだろう」
「…っ」
俺は言葉を失った。若様の温かいお言葉に何を返せばいいのか俺には全く検討がつかなかったのだ。
生まれながらに感情に乏しかった俺は身の丈以上の喜びを得てまさに感極まった。だがその感動や感謝を伝える言葉がうまく出てこない。だから俺は若様の手を握り返した。言葉にはできないが、俺の感激が伝わるはずだ。
そして喜びの一方で、このあとにやってくる別れが経験したことがないほどの寂しさを俺に与える…そんな悲しい予感だけを感じていた。
ーーーその時だった。
ガサガサッと草の茂みが音を立てた。俺は咄嗟に若様を背にして立ち上がった。その音は動物の類が立てる音ではない。
「イチ…?」
「若様、どうかこのまま…」
俺は声をひそめると若様もうなずいて返した。その足音はゆっくりと、確かにこちらに近づいてくる。
やがて月明かりに照らされてその姿が明らかになったが視界に入った途端、俺は驚きを隠せなかった。
「…先生…!?」
それは先生だったのだ。優しく時に厳しい先生は門下生から人気を得ているが、いま俺の目の前に現れた先生はまるで別人のように険しく剣呑な様子だった。
「何故…!」
「君をつけたからに決まっているじゃないか」
「!」
「梶谷君から聞いたよ。君が紀伊の若様と懇意にしているらしいと。…本当だったようだね」
(くそ…!)
梶谷の口の軽さと自分の愚かさを呪った。だが後悔している暇はない。
先生は抜刀していて、標的はもちろん若様なのだ。
先生は一歩一歩ゆっくりと俺たちに近づいてくる。俺は自分を盾にして若様とともにじりじりと後ろに下がったが、それもいつしか限界がやってくる。
「山口君、私は言ったはずだよ」
「何を…」
「『君のその剣があれば、この世界を変えることはできる』と。いま、そこにいらっしゃる若様を殺せば、この世は良い方向に変わるんだ」
俺はあの時の先生の言葉をようやく理解した。俺の将来に期待してくれた言葉ではなく、もっと即物的に若様を殺せば世情が一変することを示唆しただけだったのだ。
俺は苛立った。
「先生は…一橋派だと…!」
「そうだね。そこの年少の若様が将軍になるよりはよっぽどお国のためになる。きっと私は罪を免れないだろうけれど、この国のために死ねるなら本望だよ」
先生のどこかイかれた表情に俺は寒気を覚えていた。道場の片隅で激論を交わす門下生たちを笑って諌めていたのに、その本心ではもっと過激な思想に囚われていた。
「イチ…」
若様の心細そうな声が聞こえる。
(必ずお守りする…!)
俺は決意を込めて刀を抜いた。先生はそんな俺を見てせせら笑った。
「私を殺せるとでも?」
腕前が自分よりも上だというのはわかっていたが、時間を稼げば若様を見守っているという篠原が駆けつけてくるかもしれない。
「若様、このまま後ろにおさがりください」
「…でも…」
「自分に何かがあった時は、どうかお逃げください」
「イチ…!」
引き止めようとした若様を振り払うように俺は先生の前に立った。
月明かりの淡い光の中、刀が鈍く光る。俺は躊躇いを捨てて先生に打ち込んで行った。
真剣の鋭利な刃が重なり、その高音が鼓膜を揺らす。俺にとってはじめての経験だったが、そんな戸惑いに手を止めている隙はない。
「ヤァァァ!」
先生は何かに取り憑かれたかのように真っ直ぐに俺の命を狙った。彼との間にあったはずの情はすっかり消え失せている。
そんな先生に対して、俺も物怖じせずいつもとは違う感覚を覚えていた。
(なんとしてもお守りしなければならない…!)
すると身体中に炎が宿ったように俺を突き動かす。
俺と先生は互角に渡り合っていた。予想していた展開とは違ったのか、次第に先生に焦りが見え始め隙が生まれる。
先生は叫んだ。
「何故わからぬのだ!」
先生は五、六歩下がり俺と間を置いた。
「この国は危機に瀕している…!それなのにこのような幼子を将軍に据えるなど、馬鹿げたことだと思わないのか!」
「…そんなことは、俺にはわからない」
「貴様はいつもいつも…!わからないで済ませるつもりか!」
先生の怒号が響く。いつも穏やかに俺を諭していた心の奥で、そんな風にして嘲笑っていたのだろうか。
だが、そんなことはどうでもいい。
「俺は…どんな事情があれ『友人』を見殺しにすることなどできない」
「…はっ『友人』、だと…?笑わせるな!」
思想に囚われ、若様をただの幼子と馬鹿にする彼に理解してもらおうなどと思ってはいない。
だが、それが紛れも無い真実だ。
俺と先生は睨み合う。
その張り詰めた緊張感の中、「何事だ!」と別の声が聞こえた。
(篠原だ…!)
先生の後ろで仄かな提灯が揺れているのが見える。
これで形勢は逆転する…と俺が油断した時、
「イチ!」
若様の声が聞こえると同時に、左肩に熱いものを感じた。
「ぐ…っ!」
篠原の姿に意識を取られその隙に左肩を斬られた。浅手だが思い通りに剣を握ることができない。
さらに先生は若様に向かって駆け出していく。
「若様…ッ!」
出遅れた俺は先生に追いつくことはできない。篠原もまだ遠い場所にいて、このままでは若様の身が危ない。
(一か八か…!)
俺は咄嗟に手にしていた刀を槍のように投げた。槍術の経験のない俺には賭けのようなものだった。失敗すれば若様を貫くことだってありえるのだ。
けれど、今はそれ以外の選択肢はない。
(どうか…!)
俺は願うように放ち、その賭けに俺は勝利した。
「ぐあぁぁ!」
俺の大刀は先生の背中側から右脇腹を突き刺し、そのまま若様の目前で突っ伏した。若様は青ざめた表情でその場に力なく尻餅をつかれた。
「若様…!」
俺は左肩を抱えながら駆け寄った。だが、先生もまだ諦めていなかった。
「ころす…ころす、殺す…!」
先生は這い蹲るように若様に躙り寄る。その狂気の沙汰としか言いようのない姿に若様は逃げることさえままならなかった。
「あ…あぁ…」
「死ね…!」
「若様ッ!」
俺は脇差を両手に持ち、先生に覆いかぶさるようにして馬乗りになると、両手を振り上げ先生の背中から心の臓へ突き刺した。
「ああぁぁあああぁ…!」
血が滝のように溢れ出る。俺自身だけではなくあたりは真っ赤に染めながら、先生は絶命した。俺がはじめて殺した屍…だがそんな感慨はない。
(若様を守れた…)
その安堵感に包まれて俺はゆっくりと息を吐き、若様を見た。
「わか…」
「…あ…」
若様は俺を見ていた。
目を見開き、唇は紫に染まっていた。
そう、まるで醜悪な怪物を見るように、恐れ、慄き…震えていた。
先生だった屍が横たわり俺は彼の血で汚れている。だが若様を恐れさせるのはそんなことではなくて。
(若様は俺が…恐ろしいのだ…)
仕方なかったとはいえ若様の方へ刀を投げ、若様の目の前で馬乗りになって先生を殺した…その光景が、若様の目に焼き付いたのだ。
「山口ッ!これは何事だ!」
ようやくやってきた篠原は凄惨な現場を見て、まず若様の前に立った。
「若様、見てはなりませぬ!」
「篠原…」
「山口、貴様、若様を危険な目に…!まさか貴様も一橋派と手を組んでいたのか?!」
「ち、違う、篠原…」
「説明しろ!」
若様は取りなそうとしてくれたが、篠原の激昂は当然だった。
身勝手な感傷でこんな人気のない場所に若様を連れ出し、危険な目に合わせてしまったのだ。自分に非があることはわかっていた。
俺は左腕を庇いながら、その場で土下座した。
「…申し訳…ございませんでした…」
「イチ…」
「全て自分の責任です。若様を襲ったのは自分の師匠で、一橋派に傾倒する者です。自分はそうではありませんが…若様にはお辛い思いをさせてしまったことは、弁明のしようもありません」
「む…」
全面的に非を認めたことで篠原の怒りは削がれたようだが、若様は未だに俺から身を隠すようにして篠原の背中で震えていた。
近づいたと思っていた距離が、遠のいていくようだ。
いや、近づくはずなどなかった。
(ああ…俺は夢を見ていたのだ)
次期将軍である若様と『友人』になれるという甘い夢を。
そして俺が若様を守れるはずだという勘違いをして。
(結局俺の中にいた、醜悪な怪物を若様の前に晒して怖がらせてしまっただけだ…)
俺はゆっくりと顔を上げた。
「…若様。ご安心ください、自分はもう二度と若様に会うことはありません」
「イチ…ちがう、私はそんなつもりは…」
「良いのです。本来の暮らしに戻るだけのこと…自分と若様はもともと『友人』などではありません」
「イチ!嫌だ…っ」
若様は必死に俺を繋ぎとめようとしてくれた。けれど若様が感じた『恐怖』は消えることなく、俺を思い出すたびに同時に湧き上がってくることだろう。
だったら俺は若様の前から消えるべきだ。恐ろしい記憶と共にもう二度とこの姿を若様にお見せしない。…それだけが、俺にできることなのだから。
俺はもう一度頭を下げた。
(だが…無かったことになどできない)
若様と過ごした時間を、日々を、もう無かったことにはできない。たしかにそこに在ったのだから。
だったら形を意味を変えるしかない。
「若様、自分は…若様に忠誠を誓います」
「…イチ…」
「どこにいても必ず…永久に、お守りします」
たとえ若様のお側にいられなくてもいい。だから、せめてそれだけは許してほしい。
『友人』ではない。せめて若様を守る『忠臣』…いや、『忠犬』で居させてほしい。
「イチ…」
若様は何も言わなかった。
そして篠原が若様を抱えるようにして去っていく。
彼らの足音が聞こえなくなった頃、俺は力が抜けたようにその場に仰向けに倒れこんだ。
若様が美しいと感嘆した星空が、俺には眩しすぎる。


それが別れとなった。



530


話を聞き終えた松本は、彼らしくなく唖然とした顔をして
「俄かには信じられねぇ話だが…」
と零した。それは斉藤の傍で聞いていた総司も同じだったが
(きっと本当のことなのだろう…)
とすぐに信じた。寡黙な斉藤がわざわざ作り話をするとは思えなかったし、内容にはリアリティがあった。
松本は問いかけた。
「それで、その後はどうなったんだ?」
「…『先生』は幕臣でしたが、何故死んだのかその経緯を明らかにすることはできませんでした」
「当然だな」
「結果咎を負った俺は江戸を追われましたが…篠原の助けを得て、どうにか落ちのびました。彼もあの時若様から目を離してしまったという罪を感じていたのだと思います」
斉藤はそれが篠原の贖罪であったと納得していた。彼の困難な人生はそこから始まったことになるだろうが、それを後悔している様子はなくむしろそれが命運だったのだと受け入れているようだった。
総司はさらに尋ねた。
「じゃあ新撰組に入隊したのは…」
「…もちろん試衛館との縁も理由の一つだが…上様をお守りするには京都守護職であり、上様に忠実な会津藩に関わる必要があると思ったからだ。そして上様がこちらに上洛された際、側近になっていた篠原と再会した」
「それで新撰組とは別の仕事を請け負っていたということですか?」
「…」
それまで饒舌に語っていた口元が止まる。総司は不味い事を聞いてしまったかもしれないと思ったが、今更引き返すことはできなかった。すると斉藤は逡巡しながらゆっくりと答えた。
「…それが幕府の、そして上様の為になるのならと請け負ったことはある。篠原にとっては面倒で汚い仕事を押し付けただけなのだろうが…それでも構わないと思っていた」
それが上様のためになるなら。
その頑なな言葉で総司は斉藤の秘めた忠誠心を知った。心の奥底で刻まれたその途方も無い誓いを、誰にも語らず誰にも漏らさず貫いてきたことは紛れもなく斉藤の強さに繋がっているのだろう。
斉藤はそれまで口にしなかった過去を話してくれた。けれど総司が感じたのは彼を理解できたということよりも、彼がもっと別の次元で生きているのではないかということだった。会津お抱えという末端の立場であるにもかかわらず、天ほど遠い場所にいる大樹公に忠誠を誓い、それだけのために生きている。
(それが少しだけ…寂しい気がする)
自分勝手な感傷なのだろうけれど、総司は何だか取り残されたかのような気持ちを覚えた。
「話はわかった」
松本が重々しく切り出した。
「お前さんの話は信じる。だが、たとえ大樹公と過去に縁があったとしてもそれは『過去』だ。今の大樹公にお前を会わせる理由にはならないだろう」
「…」
「松本先生、なんとかなりませんか?」
黙った斉藤に代わって総司は懇願したが、松本は難しい顔のままだった。
「こんな話聞かせてもらっちゃどうにかしねぇといけねぇと思うのは人情だが、そう簡単にはいかねぇんだよ。俺は幕府御典医だが所詮は東洋医学が闊歩している世の中じゃ蘭方医は新入りみたいなものさ、権限はない」
「でも先生の他に頼る人はいません」
「わかってる。…少し考える時間をくれ。だがあんまり期待してくれるなよ」
松本は最後まで難しい顔を崩さなかった。それだけ無茶なことを懇願しているのは二人ともわかっていたので、それ以上は何も言えなかった。ただ斉藤は、
「ありがとうございます…」
深々と頭を下げたのだった。


南部の診療所を出る頃には、すでに夕暮れとなっていた。太陽は西に傾き、橙色の空が夜の闇と混じり始めている。
二人の足は自然と屯所に向かう。だが斉藤は重々しい雰囲気で固く口を閉ざし、総司もまた彼に掛ける言葉を見つけられないでいた。
(やっぱり…僕には話したくないことだったのだろう)
斉藤は過去の話をする前に、はっきりと総司には聞かせたくないことだと拒んだ。しかし総司が譲らなかったため仕方なく語った…それを後悔しているのだろうか。
小道から大通りへ出てそのまま東へ向かった。日中は人々が行き交い活気があるが、日が落ち始めている今は人通りは疎らだ。そしてまた西本願寺へ続く南へと曲がったところで、斉藤が突然足を止めた。
「斉藤さん?」
「…どう思ったんだ?」
「どう…って」
「言っただろう、自分の気持ちを試したいと。…俺は全てを話した。あんたはどう思ったんだ?」
「…」
総司も足を止めて向き合う。
聞きたいと懇願しておきながら、有耶無耶にして何も言わないのは卑怯だとわかっていた。試したい…そう言ったのは自分の方なのだから。
総司は真っ直ぐに斉藤を見た。
「安心しました」
「安心…?」
「はい。もちろん戸惑いましたが、やっと腑に落ちたような気がしました。今まで疑問に思いながらも尋ねられなかった…底知れない、なにか深い事情があるとわかっていたから、踏み込んではいけないと思っていたんです」
水野の件だけではなく、過去にも斉藤は新撰組以外の場所で命令を受け、それをこなしてきた。斉藤はそのことを匂わせながらも「お前には関係ない」と言わんばかりに背を向けていたのだ。
「でも斉藤さんを突き動かす衝動が『上様への忠誠心』だと知って、安心したんです。理由や経緯はどうあれ…新撰組や私と同じ方向を向いているんだって」
総司の忠誠心は、近藤に注がれている。だがその近藤の気持ちは会津公に留まらず上様に向かっている。だったら斉藤が秘めた忠誠心と違うことはない。
「…」
だが斉藤は険しい顔のままだった。
「斉藤さん?」
「…同じ方向かどうかはわからない。俺はあの頃の俺とは違う。多くの命を奪いそのことに慣れすっかり汚れた。そんな醜悪な怪物になった俺が、上様に忠誠心を誓ったところで…すべてが容認されるものではない」
「…」
「だが…一つ言えるのは、今まで生かされてきたのは上様のおかげだということだ。あの方への忠誠が無ければとっくにこの命を粗末に扱っていただろう」
太陽が沈む。刻一刻と闇が辺りを包み、互いの顔さえ見えなくなっていく。
せっかく近づいたと思った距離が離れていく。
「…斉藤さんは、上様にもし何かあれば…」
総司はハッとして思わず手で口を覆った。つい口をついて出てしまったが、不敬極まりない発言だった。
「すみません、つい…」
「その時はご一緒するつもりだ」
「…!」
薄暗闇のなか、斉藤が迷いなく放った重たい言葉に総司はゴクリと息を飲み込んだ。彼の中にある深い深い忠誠心を超えた何かが、突き動かしている。
「…戻ろう」
斉藤は話を切り上げて背中を向けた。総司は咄嗟にその後ろ姿を追いかけて、その腕を掴んだ。
「待ってください…!」
「なんだ」
「…その気持ちがわかるなんて簡単に言えません。私も近藤先生の身に何かがあれば…同じようにするかもしれません。でも…私は斉藤さんに生きていてほしい」
わがままだとわかっていても、自分を棚に上げておいてと言われても、その気持ちは本当だ。
「だから…お願いですから、そんな簡単に言わないでください」
「…」
斉藤はしばらくなにも返さなかったが、沈黙を経てようやくふりかえる。
「…俺は時々、あんたのことが嫌いになる」
「え…?」
「この身体が上様への忠誠心だけで満たされていれば意志が揺れることなどないのに…そうやって無遠慮に掻き乱す」
斉藤は総司の手を払い、代わりに総司の肩を掴んだ。
「…そのくせ、あんた自身が乱されることはない」
「斉藤さ…」
「言いたいことはわかった。だからもう何も言うな」
斉藤は総司の肩を押し、そのまま踵を返して去っていく。
総司はそれを追うことはできなかった。











解説
522 伊東の帰営は谷死去よりも前です。
524 斉藤の過去についてはもちろん創作です。
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