わらべうた




531


雨の日が増えた。
季節は着実に梅雨へと向かい、そのうち晴れ晴れとした夏の青い空がこの曇天を覆うことになるのだろうが、いまはそれが想像できない。
「お加減はいかがですか、近藤先生」
「うん、大分いい」
気丈な近藤はそう答えたけれど、持病である胃痛のため顔色はあまり良くなかった。
近藤を悩ませる原因は二つあった。
一つは間近に迫った三度目の長州征討だ。近藤は二度に渡って長州との交渉を試みたが失敗、ついには内戦へと向かっている。挙国一致で異国の脅威に立ち向かうべきだ、と考える近藤は端役に過ぎない立場ではあるが、そのことに心を痛めているのだ。
そしてもう一つは孝のことだ。彼女へ縁談を持ちかけて激怒させてから別宅には足を運んでいないようだ。深雪を亡くして、妹の孝と親交を得ることが心の癒しとなっていた近藤は、こっ酷く拒まれたことにショックを受けているのだ。
近藤は悩ましげにため息をついた。
「お孝はどうしているのだろう…」
「…おみねさんが仰るには、深雪さんを亡くされた時ほどではないにせよ、覇気の無いご様子だということでした」
「そうか…なあ、総司、俺が縁談を持ってきたことがそんなにお孝を怒らせるようなことだったのだろうか?」
「それは…」
正直、総司にもよくわからなかった。
縁談についてはまだ時期尚早だとは思ったけれど、孝にとって悪い話では無いはずだ。それなのに、
『ようわかりました。うちのこと邪魔やて思うてはるってこと』
と青ざめた表情で近藤に激怒していた。深雪と違って我の強い孝は自分の行く末について勝手に決められたことが癇に障ったのかもしれない、とその時は思ったが、今は違うような気がする。
(近藤先生に捨てられるって…そう思ったのかな…)
深雪を妾にした近藤について孝は前々から良い感情は持っていなかったはずだ。
考えているうちに頭が混乱してきた。
(僕はそもそも女子の気持ちはよくわからない)
「土方さんなら…わかるかもしれませんが」
「…」
近藤は渋い顔をしたが、以前は土方の名前を出すだけで不機嫌そうにしていたので幾分かマシになったようだ。
「…あの、近藤先生。そろそろ土方さんと仲直りされてはいかがですか?」
「しかし…」
「もちろん先生のお気持ちは理解しているつもりです。深雪さんの喪が明けないうちにお孝さんを妾に…だなんて極端だし、不謹慎なことかもしれません。でも土方さんは土方さんなりに、近藤先生にとってお孝さんが必要だと思ったからそう言ったんだと思います」
「必要?」
「今も、お孝さんのことをご心配になられているじゃないですか」
それが色恋の情愛ではないにせよ、深雪の妹への慈愛はあるはずだ。土方が「妾に」と言ったのは極論かもしれないが、互いを慰め合う存在として側に置いていてもいいのではないかという提案だったのだろう。
近藤は少し息を吐いて、呟いた。
「…本音を言うと、お孝にはもう少しあの家で暮らしてほしいと思っているんだ。俺が彼女とともに深雪に想いを馳せる時間が、唯一の癒しだ。悲しみを思い起こすこともあるが、楽しい思い出で前を向くことができる。…だが一方で、早く嫁に出したほうがいいとも思う。深雪はともかく、俺や新撰組のことなんて忘れて関係のない場所で幸せになってほしい。それもまた本音だ。だがら、側にいてほしいなんて思うのはそれは俺の独りよがりな我儘だろう?」
「それは…お孝さんに聞いてみないとわかりませんが」
「うん。だが、歳はたぶん俺の我儘を見抜いていたんだな。あいつは昔から女関係にことには鋭い…」
近藤は「ふっ」と口元に笑みを浮かべた。昔の幼馴染の恋愛ごとを思い出していたのだろう。
「お前の言う通りだ。こういうことは歳に相談しよう」
「そうしてください。私じゃまったく力になれませんから」
「それもそうだな!」
土方はよく、近藤と総司を似た者同士の師弟だと言っているが、全くその通りだ。
総司は久し振りに吹き出して笑ったのだった。



久し振りにくしゃみが二回出た。
「お風邪ですか?」
「いや…」
「二回連続なら誰かが噂しているということでは?」
鬼副長である土方のことを噂しているものなど数え切れないほどいるだろう。気に病むことではない。
だが、こんな軽口を聞くことができるのは試衛館食客たちと目の前の男くらいだ。
「ご苦労だったな、山崎」
今日は、元監察でありいまは医学方を勤める山崎との半年以上ぶりの再会だった。彼は一度目の廣島行きからずっと長州に潜伏し、伊東の動向を探っていた。
「やっぱり監察の方が性に合ってるような気ぃがしました。表を堂々と歩くのが気恥ずかしくて」
「俺もお前は監察方が向いていると思うが」
「分かってます、都では顔が知られすぎました。今回のような遠征でしたらお力添えできるかと思います」
「その時は頼む」
土方は試衛館食客たちとは別の意味で山崎に信を置いていた。彼が壬生浪士組時代以来の同志と言うこともあるが、彼を入隊させた時から地理に詳しく機転に富んだ彼を重宝してきた。山崎もまた責任感を持って仕事をこなしてくれている。
山崎は懐から折りたたんだ報告書を差し出した。
「全てはこれに書いてある通りです。参謀は前回の廣島行きで何らかのツテを得ていたようで、各藩と接触を図っていました」
「西国なら新撰組など門前払いになるだろう」
「そういうこともありましたが、あの美貌と雄弁な語り口やから…本気ではないにせよ耳を傾ける者もちらほらと。具体的な成果はわかりまへんが、顔を売ることには成功したのではないかと思います」
「…ゆっくり読ませてもらう」
土方は報告書を自身の懐に入れ、話を切り上げた。誰が聞き耳を立てているのかわからない屯所で伊東に関わる話題を続けるのは危険だ。
「それで、大石はどうだった?」
「至って普通でした。いや、普通ゆうのは語弊があるかもしれまへんが、淡々といつも通り」
「ふうん」
大石鍬次郎は数ヶ月前、屯所内で同志を斬りつける騒ぎを起こした。そこには弟の死がからんでいたのだが、切腹を言い渡さない代わりに近藤の提案で廣島へ同行させていたのだ。
山崎は苦笑した。
「ただ敵地に乗り込んで淡々としているというのも、肝が座っていると言うか…怖いもの無しゆうことですかね」
「…」
大石は一連の騒動を経て己の命について無頓着になっている。いつでも投げ出せると思えば敵地でも怯むことなく任務の遂行ができたのだろう。
「監察に向いていると思うか?」
「はい、それはそうかと」
「わかった」
山崎が言うのなら確かなのだろう。土方は大石を監察に残すことにした。
「そういえば松本先生にご挨拶に行きましたが、残念ながらお留守でした。なんや大坂城へしきりに足を運ばれているそうで」
「大樹公のお身体の具合が宜しくない…というのは、噂ではないようだな」
「長州征討は六月で決まりだと耳にしました」
「六月…」
それは土方の知らない情報だったので驚いた。つくづく監察として優秀な男だ。
だがそれを聞いた途端、土方のなかで何か嫌な予感が湧きたち、渦巻いた。
(悪い予感ほどよく当たる…)
誰よりもそれを知っている土方だったが、それが何に起因した不安なのかはわからない。
「何か?」
山崎が目ざとく尋ねてきたが彼の前で曖昧なことを口にするのは憚られ「いや」と短く返した。
そうしていると、障子の向こうから「土方さん」と呼ぶ声が聞こえた。土方が応えると総司が顔を出した。
「あ、山崎さん。戻られていたんですね、ご苦労様です」
「へえ、先生もお元気そうで。じゃあ俺はこれで失礼します」
山崎は軽く頭を下げると腰を浮かして部屋を出ていった。交替するように土方の前に座った総司はなんだか嬉しそうにしている。
「なんだよ。山崎に会えたのがそんなに嬉しかったのか?」
「いいえ。ご無事に戻られて良かったとは思いますが、そうじゃなくて。…土方さん、近藤先生がお話があるそうですよ」
「話?」
近藤とはしばらく距離を置いていた土方には寝耳に水だったが、総司は口角を上げっぱなしなので悪い話ではないのだろう。
「…で、どこに行けばいいんだよ」
「甘味屋です」
「またかよ…」
土方はため息混じりに立ち上がった。そして遠い昔も同じように甘味屋で仲直りをしたことを思い出した。



532


甘味屋から戻ってきた二人の表情は対照的だった。
憑き物が落ちたかのようにすっきりとした笑顔を見せた近藤と、居心地悪そうに目をそらした土方。けれど二人の間には以前の険悪な雰囲気はなく、幼馴染の独特な穏やかな風が流れていた。
きっと近藤が笑って「すまん」と謝って、土方は「ああ」とぶっきらぼうに答えて受け入れたのだろう。長年の付き合いである総司は聞かなくても彼らが互いに納得できるところに着地したのだと想像できる。
「良かったですね。深雪さんもきっと安心してますよ」
総司は二人にそう言った。近藤は満足げに「うむ」と大きく頷いたが、土方は仏頂面のままだった。
「じゃあ俺は別宅に行ってくるよ」
近藤は機嫌よく手を振りながら去っていく。土方と仲直りしたことで気分が高揚したのか、足取りは軽い。
「…お孝さんのこと、ちゃんと助言してあげたんですか?」
「まあな」
総司は近藤を見送った後、土方とともに彼の部屋に入った。
「あいつは奥手すぎるんだ。恋愛経験の足りない頭でグダグダ考えたってしかたねぇし、どうせロクな答えにしかたどり着かない」
「またそうやって怒らせるようなことを」
「こういうことについては俺の方が上手だとかっちゃんはよく分かってるよ。お孝の心はお孝しかわからねえんだからさっさと本心を聞いてこいと嗾けておいた」
土方は何事もなかったかのようないつも通りの口ぶりだが、総司は彼の口から出る『かっちゃん』という優しい響きに安堵した。
(あとはお孝さんが近藤先生のお気持ちを受け入れてくれると良いな)
「近藤先生と土方さんが仲直りして、山崎さんが戻ってきてようやく元どおりって感じですね」
「元どおりってわけじゃない。これから…変わっていく」
「…伊東参謀のことですか?」
土方は「ああ」と頷いた。そして声の調子を落としながら続けた。
「これから長州征討が始まる。今まで幕府側だった薩摩が今回の戦には兵を出さないことを決めたらしい」
「それは…長州と同盟を結んだから、ということですか?」
「おそらくそうだろう。あくまで中立的な立場だと主張するようだが…どうだか。だがそんな時に西国を周り、倒幕派の奴らと接触を図った…何か企んでいるとしか言いようがないだろう」
「…伊東参謀は何と?」
「ただの遊説だとシラを切られた」
土方は吐き捨てる。
伊東が入隊して以来、新撰組は近藤のように忠義を尽くし無骨で一本気な武者と、議論を戦わせ知能を併せ持った伊東のような論客に分かれた。それは隊士が増えたことによる多様性とも言える反面、一致団結できない要因となり陣頭指揮を取りづらくする。それは決して土方の望む形ではない。
土方は「ふう」と息を吐いた。
「…とにかく、かっちゃんじゃねえが、あれこれ考えても仕方ねぇ。戦の成り行きを見守るしかできねえんだから」
「そうですね…山崎さんが戻ってきて心強いですし」
「ああ」
土方はあっさりと肯定した。医学方として監察を離れたとはいえ山崎が土方の片腕であることに間違いはないのだ。
(もう一本の片腕は…)
「あの…土方さん」
「なんだ」
「…斉藤さんのことなんですけど…」
「様子が変だった、というのはさっきかっちゃんから聞いた。言われて見れば覇気がないような気もするが、あいつの感情を読み解くのは難しいからな」
「ええ…」
総司は茶を口に含んだ。
斉藤はずっと己に課せられた使命を表沙汰にすることなく、淡々と遂行してきた。寡黙な表情の裏でどんな葛藤があるのか誰にも悟られることはなく、自身の感情をひた隠しにして生きてきたのだから土方でさえその本心を知るのは難しいだろう。
『醜悪な怪物』だと痛めつけて、忠義という縄で縛られても、それでも守るべきものを守る。
(今頃、きっと上様の身を案じている…)
そして万が一のことがあれば、忠義に殉ずる覚悟をしている…それを知ってしまった。
「心配なんです」
「…は?」
「斉藤さんはいつも芯がぶれることがなくて、強くて、年下なのに私なんかよりよっぽど大人です。…それなのに今は、何だか…目を離すことができないっていうか…放って置けなくて」
(僕がこんなこと考えていることすら斉藤さんには迷惑なのかもしれないけれど)
それでも何も聞かなかったことにできるほど、斉藤との距離は遠くない。
総司はただただ気にかかるばかりだったが、土方は顔を顰めた。
「お前、あいつから何か聞いたのか?」
「…」
「かっちゃんは様子のおかしい斉藤をお前に追いかけさせたのだと言っていた。そして二人ともそのまま夜まで帰って来なかった…と」
土方の言い振りは、問い詰めるというよりも疑うように厳しいものだった。
「どんな話をした?」
「…それは、言えません」
斉藤がひた隠しにしてきた過去を、簡単に口にすることはできない。彼がどんな思いをして吐き出したのかと思うと胸が張り裂けそうになるからだ。
けれど、土方はそんなことを知る由もない。
「おい!」
土方は総司の腕を掴んで強く引き寄せた。
「い、痛い…」
「何故言えないんだ。それは言えないようなことなのか?俺に隠し事をするのか?」
「…っ、言えないことは言えないんです。でも誓って歳三さんを裏切るようなことはしてません」
「は…っ、どうだかな。お前は随分あいつに気を許しているだろう」
土方の冷笑に総司は息を飲む。
違う、と否定することはできた。気持ちは全て土方に向いているのは間違いないのだから。…けれど彼の指摘通り斉藤に気を許しているところは確かにある。抱きしめられたことも口づけをされたこともある。
それを幾度となく許してきたのは、斉藤が特別だったからだ。
「斉藤さんのことは…歳三さんとは違う意味で、大切なんです」
その素直な感情が土方をさらに苛立たせた。
総司は掴まれた腕をさらに引っ張られ、そのまま畳に叩きつけられた。背中に走る衝撃に狼狽えていると、その上に土方は馬乗りになった。
「歳三さん…!」
「…今まで、お前と斉藤の仲について俺は何も言わなかった。どんなにあいつがお前に懸想しても…お前の気持ちが俺に向いていると思っていたからな」
「それは変わっていません!でも…んぅっ」
言い訳を封じるように、土方は口を塞いだ。強引な口づけには愛情はなく噛み付くように激しいだけだった。
(こんなのは…いやだ…!)
総司は土方の胸板を押したが、ビクともしない。息継ぎさえ許されず次第に頭がぼうっとしてくる。
そしてそのまま土方は着物襟に手をかけた。
「歳三さ、ん…」
「…屯所では嫌だというのなら、さっさと言え。斉藤はなんて言ってたんだ」
「だから…それは、できないんです…」
「強情だな、お前は」
ハッと短く息を吐き、土方は懐から取り出した手拭いを強引に総司の口に突っ込んだ。
言えというくせに、塞ぐ。
矛盾した行動から、土方の憤りが伝わってくるようだ。
彼の指先が輪郭から首筋、鎖骨へと流れる。いつもの優しいそれではなく、指先まで彼の感情が浸透しているかのように熱く鋭く、痛い。
『二つとも得ようっていうのは浮気者、何一つ選べないのは卑怯者』
不意に松本の言葉が蘇る。心は固まっている…だからそのどちらでもないと思ったのに。
(僕は…卑怯者なのかな)
傍目には…土方にはそんな風に見えているのだろうか。そう思うと悔しくて恥ずかしくて目に涙が滲んだ。
知らないうちに斉藤を傷つけ、秘密を持ったことで土方を怒らせた。これは鈍感でいたことに対する当然の報いなのだろうか。
すると土方が呟いた。
「…お前は、変わるな。俺だけを見ていろ」



533


慶応二年、六月。
長州領である屋代島への砲撃を持って第二次長州征討が開始された。
「先生、戦況が不利…というのは誠ですか?」
巡察を終えた一番隊の一人が総司に尋ねてきた。
開戦された当初は幕艦によって易々と幕府軍が勝利を収め、隊士たちもこのまま長州を攻略するに違いないと意気揚々だったが、このところは占領した屋代島の奪還を許し、芸州口で幕府歩兵隊などがあっけなく壊滅した…など悪い知らせが続いていた。
一人が不安を吐露すると、それは自然と伝染する。
「一橋公の弟君が藩主である浜田城も陥落されたとか」
「俺は敵の木造船の砲撃で幕府の鉄製蒸気船が壊滅したと聞きました」
「まさか!そんなことがあり得るのか?」
「幕軍の歩兵は何をしているんだ!」
普段は任務を忠実にこなし、文句ひとつ言わない隊士たちが声を上げていく。総司は困惑しながらそれを受け止めるしかなかったが、
「皆、先生を問い詰めても仕方ないだろう!」
という島田の一喝でとりあえずは収まった。
だが彼らが耳にしたことは総司もすでに近藤から聞き及んでいた。
「…確かに、幕府軍は苦戦を強いられているようです。戦に慣れていない幕府軍が戦力を増強してきた長州を相手に戸惑っているのでしょう。…歯がゆい気持ちはわかりますが、私たちにできるのは天子様や大樹公がいらっしゃるこの都をお守りすることですよ」
総司が穏やかに諌めると隊士たちは「はい」とうなずいた。隊内でも選りすぐりの隊士たちだ、己の感情を抑えるすべはよくわかっている。
「では、解散しましょう。お疲れ様でした」
総司が声をかけると隊士たちは解散したが、島田と山野が残った。
「どうしました?島田さん」
「いえ…伍長として皆にはあのように諌めましたが…むしろ自分こそ焦燥感に駆られているのです」
島田は肩を落とした。
「自分も幕府の戦況を憂いていますが…むしろ…幕軍の情けない噂に失望しています」
「噂?」
「幕軍は大島を占領した後、島民に乱暴狼藉を働き…民家へ放火を繰り返したそうです」
「…」
「幕府に忠実な人間こそが武士なのだと思っていましたが…敗者へのそのような仕打ちは武士としてあるまじき行為であると思います。結果的に島は奪還されたそうですが…それは当然の結果でしょう」
「…そうですね」
温厚な性格だが熱い忠義を秘める島田にとって、戦況よりも落胆した知らせだったのだろう。がっくりと肩を落とす島田に山野がそっと寄り添い、励ました。
「そのような不忠の武士はごく一部でしょう。先輩のような歩兵もいるはずです」
「…そうだろうか」
「そうですよ。きっとここから盛り返して勝利を収めるに違いありません」
山野が口にした肯定の言葉に、島田は頷いて受け入れた。二人の間に流れる空気はほかの隊士たちとは違う。穏やかで優しくて、ぬるま湯のように心地よい。
「…じゃあ私は土方さんへ報告へ行きますね」
そんな空気に充てられて総司はそそくさと背中を向けた。けれどその足取りはひどく重たい。
(…僕もああして寄り添えたらいいのに)
土方とはあれから巡察の報告以外にろくに会話を交わしていない。近藤と喧嘩をした時以上にピリピリと張り詰めた空気を醸し出している。それは隊士たちが気にしていた長州征討の戦況のこともあるだろうが、一番は総司の煮え切らない態度のせいだろう。
察しの良い土方は、総司と斉藤の間に何があったのだと気がついてしまった。けれど総司はそれを口にすることはできない。今まで斉藤が隠し続けてきた秘密を簡単に教えることなど当然できるはずがなかった。
(もっとちゃんと…僕が強ければいいのに)
つらい過去を誰にも話すことなく顔に出すことのなかった斉藤のように、土方の前でシラを切ることができれば良かったのに。
総司はふと右手首に薄っすらと残る赤い痣に目をやった。あの後、土方の怒りが刻まれたように真っ赤に腫れていたが、今ではそれが消えかかっている。
(このまま、消えなくてもいいのに)
そんなことを思いながら左手で摩った。あの時の土方のなんとも言えない表情が脳裏に残っていた。


梅雨の合間の六月の快晴は、自然と気分を高揚させる。
「旦那様ァ、花札せぇへん?」
甘えた声で伊東に声をかけてきたのは、妾の花香だった。年齢を感じさせない愛らしい子供のようなまん丸な目を向ける。廓へ通う男どもはそれで難なく籠絡されてしまうのだろうが、伊東はそうではなく、あっさりと受け流した。
「また花札かい?」
「へぇ。旦那様がお留守の間に強うなりましたえ」
花香は自慢げに笑った。ずいぶん長い間留守にしたので彼女の腕は鍛えられていることだろう。伊東も微笑んで返したが彼女に付き合う暇はない。
「残念だが、私はいま忙しいんだ。内海に付き合ってもらったらどうだ?」
「いやや。内海様は勝っても負けても無表情で面白うない。篠原様や服部様は弱いし…」
「では鈴木に相手してもらいなさい」
今日は内海と鈴木を同行させていた。無愛想な鈴木もまた面白みのない人間であるが、花香にとって伊東の実弟である彼とは距離を縮めておきたいはずだ。すると予想通り不承不承という表情を浮かべながら「そうしてもらいます」と部屋を出て行った。
伊東は一人きりになった部屋で手紙を開いた。送り主は名もなき男…最初の長州行きの際、長州藩士赤禰武人と近藤を暗殺しようと目論んだ一味の一人だ。伊東が男の命を助け、ありったけの金を渡して別れたが、二度目の長州行きの際に再会を果たし、西国を回る手助けをしてくれた。それまで数々の汚い仕事を請け負っていた男は沢山のツテを持っていて、顔が効いた。
(良い拾い物だった)
伊東はそう思っていた。
都へ戻る際、再びありったけの金を渡し長州の状況を伝えてくれるように指示している。いつ裏切るかわからない無頼の者だが、今のところは忠実に働いてくれていた。
男からの手紙には長州征討の戦況が書かれていた。大島を奪還したことを皮切りに長州は士気を上げ、芸州口や石州口で勝利を収めているということ。そして隣接する廣島藩が幕府の出兵を拒み、いつ寝返ってもおかしくない状況だということ。そして今度は小倉で海を挟んだ戦がが始まるのではないかと噂されていること。
「…思った通りだ」
予想通りの報告に伊東は自然と笑みがこぼれた。
このままいけば長州が勝利を収めるだろう。三百年続いてきた幕府がたった一藩に敗れる…その事実は衝撃を持って伝えられ、長年続く幕府の安寧は崩れるに違いない。薩摩藩や廣島藩のように幕府を見限り出兵を距離する藩は増えていくだろう。そして長州藩や薩摩藩が政局を牛耳るようになれば、世の中は変わる。
(あとは…朝廷だ)
天子様…孝明天皇は将軍家茂公に妹を降嫁させ幕府との距離を縮めて公武合体を推し進めている。民には朝廷を重視する考えが強く、天皇の一挙手一投足で政局は左右される。
(西国と連携しながら…朝廷との足掛かりを作る)
今後の自身の身の振り方について考えていたところで、「失礼します」と内海が顔を出した。
「どうした?」
「いえ…花香さんがあちらの部屋にいらっしゃったので、私は席を外させて頂きました。お邪魔ですか?」
「いや、いい」
伊東は笑った。内海は相変わらず花香のことが苦手なようだ。
「花香は鈴木と花札を?」
「はい」
「あんな無愛想な男と花札など、面白くないだろうな」
「…まあ、花香さんは親しげに鈴木君に声をかけているようですが…反応は薄いというか」
「眼に浮かぶようだ」
伊東はハハッと笑った。その軽快な反応に内海は「ご機嫌ですね」と目ざとく反応した。
「ああ、まあ…そうだな。思った通りにことが運んで喜ばしいことだよ」
「それは良いことですが、そういう時こそ身の回りにご注意ください。特に土方副長は…」
「わかっているよ」
内海に言われなくとも、伊東は土方の敵意を認識していた。片腕である山崎も帰還したので一層伊東の身の回りを注視されることだろう。
けれど今の伊東にはそれが苦痛ではなかった。
(それさえも…面白いと思える)
不適に微笑む伊東を内海は心配そうに見ていた。


534


しとしとと涙のような雨で地面を濡らしながら雨雲が屯所を覆う。特に夜に降る雨はその姿を闇に隠し、まるで一面に雨が降っているような錯覚を与えていた。
静かな屯所に明かりが灯っているのは土方の部屋だ。
「…以上、捕縛者一名、もう一人には逃げられました」
斉藤の端的な報告に対して、土方を相槌も打たなかった。機嫌が悪いのだろう…斉藤はそう察したが、
「二人とも捕縛しねぇと意味がねえだろう」
という言葉でやはり機嫌を損ねているのだと確信した。いつもなら悪い成果でも「そうか」と言って必要以上に責めることはないので、わざわざそれを口にしたということは余程のことだ。
「申し訳ありません。雨で視界が悪く、見失ったようです」
「言い訳だ」
「はい」
斉藤は素直に認めた。不機嫌な彼に対して抗ったところでますます苛立ちを増長させてしまうのだ。
試衛館食客ほどではないが、長い付き合いである斉藤はそれがわかっていたしそれを恐れることはない。
「失礼します」
こういう時はさっさと退くに限る…そう思ったのだが、土方が「待て」と引き止めた。
「…何でしょうか」
「浜田城が陥落した。海峡を挟んでの戦でも幕府側の小倉藩が苦戦していると聞いている」
「…」
「お前が知っていることを教えろ」
土方の目は、まるで敵対する人間を問い詰めるような厳しいものだった。
斉藤は居住まいを正して身構えた。
「…俺は皆が知っている以上のことは何も知りません」
「今更隠すな。お前が会津や幕府となんらかの繋がりがあることはわかっている…さっさと言え」
「…」
今までになく強い口調だった。
これまでそのことについて土方が示唆することはあっても、直接的に指摘することはなかった。彼の不機嫌の要因がそこにあるのだと思った時、斉藤もまた疑念を抱き咄嗟に
「沖田さんが何か?」
と尋ねた。
土方が突然斉藤の身辺について言及するのは、総司が何か言ったのだと思ったからだ。斉藤の話した重たい過去を抱えきれず、一番近くにいる土方に相談してもおかしくはないし、それくらい彼を追い詰めていることもわかっていた。
だが土方は「ふん」と鼻で笑っただけだった。
「やはり、あいつの隠し事はそのことか」
「…試したのですね」
「まあな」
その一言で斉藤は土方がカマをかけ、またミスを犯したのは自分なのだと気がついた。話の流れで総司の名前を出すのはおかしいと誰でもわかる。それに総司がそれまで隠してきた斉藤の思いを簡単に踏みにじることはない。
(いつもならこんな馬鹿げた失態はしない…)
斉藤は思った以上に自分が動揺していたのだと悟った。
土方は腕を組み直して一息ついた。
「あいつは何も言わない。近藤先生と同じで随分と頑固だからな。…ただお前のことが心配だと、それだけだ」
「…」
「…何か言ったらどうだ」
土方に促されたが、斉藤は即答することはできなかった。部屋の外から聞こえるシトシトとしたもの淋しい音だけが二人の間に流れていた。
「…心配をかけていることはわかっています。本当なら話すべきではなかった…苦しませることだとわかっていました」
「だったら、何故話した。巻き込むとわかっていただろう」
「…俺の我儘です。いつまでもあの人に『親切な友人』だと思われることに、限界を感じ…いっそ自分とは違うのだと突き放したいと思いました」
光が眩しければ眩しいほど、影は際立つ。
思い焦がれるほど、己の卑小さに気がつく。
「俺は…自分の意思に関係なく、誰でも殺せる醜悪な存在です。たとえ同じ殺人でも沖田さんのそれとは違う。だから惹かれ…だからこそ、これ以上近づくべきではないと思います」
あの優しく穏やかな若様を、恐れさせ傷つけた。そんな自分が誰に心を許し、許されることが出来るというのか。
(あの人にこれ以上、惹かれるのが恐ろしい)
その先に何があるのか、考えるだけで身震いがする。
(いっそ…この雨に流れていけばいいのに)
いつまでも止まない雨に打たれ続けていけば、身体が心が冷えて、熱い塊のようなこの想いが姿を潜め、灰になるだろうか。
沈黙した斉藤に、土方はゆっくりと口を開いた。
「…お前は総司に嫌われたいのか?」
「…」
「お前はあいつが好きなんだろう?」
土方の直球の問いかけに、斉藤は一瞬言葉を失った。
「…何故、あなたがそんなことを聞くのですか」
「さあな…俺も、お前に嫉妬しているのかもしれない」
「何故です。あなたは紛れもなくあの人の気持ちを得ている。俺を羨むことなど何も…」
「そうでもない。もしかしたらあいつの心を占めているのは近藤先生が一番で、俺とお前はほんの少しの違いしかないのかもしれない」
「まさか…」
「この間は俺の目の前でお前は『違う意味で特別』だとぬかしてやがった。…だから少なくとも今は、お前のことばかりを考えているようだ。俺はそれが…思った以上に、気にくわない」
斉藤は土方の不機嫌の理由を見誤っていたのだと気がついた。彼の機敏さなら総司の考えていることなどすぐに理解してしまう、だからこそ苛立っていたのだ。
「…あの人のことは俺も特別に思っています。その理由はおそらく…とても子供染みたものです。でもその気持ちを俺は持て余していた…というよりも扱いに困っています」
「困る?」
「こういうことが、昔から苦手です」
家族でさえ見放す無口さ故に、孤独だった。だがそれを孤独と思うことなく生きて、心の中にポッカリと空洞があった。
最初にそれを埋めてくれたのは若様だった。分け隔てない無償の優しさに触れ、『友人』だと笑った若様の顔がいつまでも忘れられない。けれどその信頼を裏切ったのは自分の中に眠る凶暴さだった。
だからそれまで以上に人との関わりを避けてきた。そうするべきだと思っていたし、たった一人で生きていくことに何の迷いもなかった。若様への『忠義』を貫くことだけが贖罪になるのだと信じた。
けれど、ここに来てまた出会ってしまった。
「…いつか、また…傷つけることが怖い」
その言葉は自然と溢れていた。その言葉が自分のものだと気がついて、ハッと咄嗟に口を噤んだが既に遅い。
(俺はそんなことを恐れていたのか…)
御託を並べて取り繕っていても、己の根底に眠る弱さがある。…だがその事実に、愕然とすることはなかった。
(嫌われたくないと…そんな人間らしいことを思っていたのか)
そしてまた目の前にいた土方も軽く笑った。
「総司はそんなに弱くない。昔は俺や近藤先生の言いなりだったが…今は違う。それはお前もわかっているだろう」
「…ええ」
決められたレールの上で皆に守られて生きる若様とは違う。彼には彼のはっきりとした道があり、強い心でその道を歩むのだと決めている。
孤独を選び、一人で生きるよりも余程苦難な道を歩む彼を誰が弱いというのだろうか。
「総司はお前が放って置けないと言っていた」
「…いつものお節介です」
「ああ、そうだろう。だが一つだけ言っておく。…お前の過去に何があったのかは知らねぇが、総司を想うことで生きていく糧になるというのなら、勝手にすればいい。俺はお前に渡すつもりはないがお前の気持ちまで遮ることはできない」
「…」
「だから、あいつがお前のことを『特別だ』と言った気持ちを…蔑ろにするな。あいつを傷つけたくないというのなら、逃げるな」
『鬼の副長』と揶揄する人々は、近藤が光で土方が影だと言うのだろう。しかし斉藤からすれば土方もまた光の中の存在であり、どこまでも眩ゆい。
(…相変わらずこの人は酷なことを言う)
実らない思いを持ち続ける苦しさを押し退けて、思い続けろと言う。決してそれが土方の望みと言うわけではなく、総司のための言葉なのだろう。
だが幾分か気持ちが楽になっているのも事実だった。土方は、斉藤自身が否定した気持ちを肯定したのだ。
「…わかりました」
「最後に聞かせろ」
「はい」
「子供染みた理由って、なんだ?」
尺で向き合って重たい話をしたというのに、土方が気にしていたのはそこなのかと斉藤は内心苦笑した。
「…俺なんかに優しく接してくれた。ただそれだけのことです」





535


七月上旬。
依然として幕府軍の不利な状況は続いていた。
近藤は江戸の実家から送られてきた手紙に目を通しながら眉間にしわを寄せていた。
「江戸では米の価格が暴騰しているようだ」
幕府軍の勝利に終わると思われた戦は、一ヶ月がたっても勝敗がつかずに長期化していた。その為各藩が兵糧米を備蓄し、庶民に出回る米価が高騰したのだ。
近藤は続けた。
「打ちこわしや一揆があちこちで起こっている。天領だった石見銀山が長州に制圧されたことで、同じ天領の日野の人々も動揺しているようだ」
「流石に日野に何かあるってわけじゃねえだろうが…」
「油断はできぬ」
近藤の言葉に土方も頷いた。
(このまま幕府が負ける…なんてことがあったらどうなる…)
幕府がたった一藩に敗北を喫したということになれば当然求心力を失ってしまう。薩摩や土佐だけではなく各地の有力な藩がこぞって長州につくかもしれない。
「…もどかしいな」
想像を巡らせ、土方は思わず吐露した。
小倉口での戦いは激化し、有力な海軍力を持ちながらも九州の大里(だいり)への上陸を許してしまった。鍋島藩(佐賀藩)は援軍を拒み、幕府軍は窮地に追い込まれている。
そんな不利な状況がわかっていながら、ここにいて何もすることができない。自分が指揮官だったら…と戦術を巡らせても、それはただの絵空事でしかなく虚しい思いが募るだけだ。
「…なんだ、歳もそう思ってたのか」
「当たり前だろう。俺が兵を率いることができるならこんなヘマはしねぇ」
「お前は相変わらずだな。昔から鬼ごっこでは子供を集めて指揮を振るっていたし、将棋は強かった」
「遊びと一緒にするなよ」
子供の遊びとはレベルが違う。しかし近藤の表情は冗談を言っている風ではないのだが、その物言いに少し気が抜けた。
「…そういえば、お孝のことはどうなったんだ」
「むぅ…それがなぁ」
近藤はますます難しい顔をした。
深雪の妹の孝の今後について、近藤は縁談や養子縁組先を見つけて孝に提案した。もちろん近藤なりに『良かれと思って』の行動なのだがそれが孝の機嫌を損ねてしまったのだ。土方は落ち込む近藤の背中を押し、「話を聞いてこい」と嗾けたのだが、表情を見る限り良い結果とはならなかったようだ。
「今後のことについてはお孝の良いようにすれば良い、俺は助力を惜しまない…と言ったのだが、やはり不貞腐れてしまった。歳、俺にはお孝が何を考えているのかわからないよ」
「…かっちゃんがどう思っているかっていう話はしたのか?」
「どうって…。だからお孝の良いようにだな…」
「本当にそう思ってるのか?」
その問いかけに近藤はサッと目をそらし、泳がせた。
「本当に…思っているさ。深雪の妹は俺の妹のようなものだ」
「俺にはそれが本心には聞こえねぇな」
「…」
幼馴染の直感は違うことはない。近藤もそれを知っているからこそ、やがてため息をついて頷いた。
「…お前には何も隠し事ができない」
「ああ、そうだな。局長の隠し事を見抜けねぇと副長なんてやってられるか」
「たしかにその通りだ」
近藤は冷めた湯飲みに手を伸ばし、一気に煽った。「はぁー」と堰き止めていた何かを吐き出すように声を上げる。
そして土方を見据えた。
「…不思議なことだ。外見はそっくりでも中身が違う。深雪とは何もかも正反対のお孝のことを、最初は『深雪の妹』としか思えなかったのにな」
「…惚れたのか?」
「惚れた…とは少し違う。お孝のことを考えて遠ざけようとすればするほど…お孝といる時間が惜しくなったんだ。最初は嫁にやる娘への複雑な父親の心境なのかと思っていたが、どうやら違うようだ。…だがこんな虫の良い話、お孝に言えるわけがない」
「何故だ?」
「何故って…わかるだろう?」
近藤は苦笑まじりに続けた。
「深雪が亡くなって半年も経たないというのにこんなことになって…俺は惚れたとかそういう喜びの感情よりも深雪への申し訳ない気持ちの方が上回った。自分がこんな軽い男なのかと…心底、ガッカリしているところだ」
いつも前向きな近藤が己を蔑む姿に、土方は何を言えばいいのかと迷った。
もしかしたら、近藤が深雪が亡くなった後、すぐに孝に縁談の話を持ち出したのは無意識に彼女を遠ざけようと思ったのかもしれない。ずっと深雪を想っていたかった、妹へ邪な感情を持ちたくなかった…そんな清廉な自分でいたかったのだろう。
近藤の深雪への想いはたしかにあった。かつてないほどの愛情と優しさを注ぎ、彼女を失った時は慟哭して悲しんだ。深雪への愛情は決して嘘ではない…幼馴染としてそれをよく知っている。
「…そういうものだろ。周りがなんて言おうと、惚れたもんは惚れたんだ」
「でも俺は深雪を忘れることはできない…」
「それはお孝も同じだ。もしかしたらこれは深雪が繋いだ縁なのかもしれない」
「はは…歳にしては楽観的だな」
いつもと立場が逆だ、と近藤は少し笑った。いつも前向きなのは彼の方なのだ。
「正直に言えば局長って立場がかっちゃんにとってどれだけしんどいのか、わからねえ。だからこそ深雪のような妾が居て良かったと思ったんだ。俺に総司がいるように、かっちゃんにも深雪がいる。俺は深雪をそういう意味で信頼していたんだ。…だが、もういなくなった。間違いなくここにはいない」
「…」
「いなくなった人間は、生きている奴を過去の楽しかった思い出に引きずり込むことしかできない。かっちゃんが深雪を想えばあの時は良かったと後ろ向きになる…日野にいたただの『島崎勝太』ならそれでもいい。だが、ここにいる『新撰組の局長』はダメだ。こういう戦況にあるからこそ、屋台骨が緩んじゃ困る」
土方は近藤の両肩を強く掴んだ。
「酷なことかもしれないが、深雪のことは吹っ切れ。そしてお孝に惚れた自分を認めろ。いい加減本当の意味で前を向け」
無茶を言っている自覚はあった。
人の心は他人が動かせるものではない。土方が深雪のことを忘れて孝へ愛情を注げと言ってそうできるなら、近藤はとっくにそうしていたのだから。
「…歳に言われると、そうしなければならないという気持ちになるなぁ」
「人に言われて自覚するなんてこと、いくらでもあるだろう」
「いや、歳だからだ。お前のことを俺は自分以上に信頼している。そして間違いはない」
近藤は肩を掴んでいた土方の手の甲を、もう大丈夫だと言わんばかりにポンポンと軽く叩いた。
「お孝が俺のことをどう想っているのかわからないが…正直に伝えてみよう。それで嫌われるなら仕方ない。当たって砕けろ、だな」
「ああ…」
近藤はいつも通りの笑みを取り戻し、土方もそれに応えて頷いた。
(まあ…当たって『砕ける』ことはないだろうが…)
土方には確信があったのだがそれを口にするのは止めた。
「しかし、歳はお孝のことをあまり好いていないのだと思っていた。総司に聞いたが、お前はお孝を身請けしたときに『お前は下働きだ』と言い放ったのだろう?」
「それは脚色が過ぎる。お孝が身請けの金は返す、借りは作らないと言ったから言い返しただけだ」
「ははは、新撰組の鬼副長を相手にお孝もよく言ったものだ。もしかしたらお前たちは気が合うのかもしれないな」
「勘弁しろ」
思い詰め翳りがあった表情がすでに晴れている。そのことに土方は安堵していた時、
「近藤先生、よろしいですか?」
障子の向こうから声が聞こえてきた。近藤が答えると総司が顔を出した。
「どうした、総司」
「はい、会津の平沢様がいらっしゃっています」
「そうか、すぐに行くよ」
近藤は立ち上がり、部屋を出て行く。しんと静まり自然に土方と総司が残された。
「…近藤先生、少しお元気になられましたね」
「ああ…そうだな」
「やっぱりこういうことは土方さんに任せるべし、ですね」
「…」
「…」
総司はどこかぎこちない素振りを見せた。先日斉藤の件で揉めてから、二人きりになるということがなかったのだ。
「…土方さん、あの…」
「かっちゃんは恋愛ごとに関して自分のことになると疎い」
「え…?」
総司の言葉を遮って、土方は続けた。
「一番弟子のお前も同じだな。人のことは必要以上に心配するくせに、自分の周りのことはみえていない」
「…それは斉藤さんのことですか?」
「そうかもな」
土方は立ち上がり、去ろうとした。しかし「歳三さん」と引き止める総司の声に立ち止まった。
「…確かに私は鈍感で斉藤さんのことをちゃんと理解できていないのかもしれません。自分のことも…曖昧なところはあります。でも確かなこともあります」
「…」
「私は歳三さんを誰とも天秤にかけたことはありません。ちゃんと気持ちは、固まってます」
総司はその先を明言はしなかった。そうしなくても伝わるだろうと信じていたからだ。
それを土方は受け取った。
「…ああ、知ってる」
怒ってぶつかって、時々確かめたくなるだけだ。
(俺もお前には弱い)
そうやって自分が人であることを思い出すことができる。
土方は総司の頭を軽く撫でた。






536


初夏の兆しが見え始めた七月のある日。
総司は近藤とともに彼の別宅へと向かっていた。
「近藤先生、お孝さんとのことなら私じゃなくて土方さんに付き添ってもらった方が良いんじゃないですか?」
『お孝と大切な話があるから一緒に来てくれ』
近藤に懇願されて同行しているものの、色恋沙汰に疎い総司が役に立てそうとは思えなかった。しかし近藤は笑った。
「俺もそう思ったんだが…歳は総司を連れて行った方が良いというんだ」
「なぜでしょう」
「わからないが、『新撰組の鬼副長』が傍にいてはお孝も萎縮してしまうだろう」
「お孝さんが土方さんに対して萎縮しているようには見えませんけど」
「それもそうだな。あれは歳に負けず気が強い」
そうしているうちに別宅の姿が見えてくる。ちょうど玄関周りの掃除をしていたみねがこちらに気がついた。
「まあ近藤せんせ、沖田せんせも…よういらっしゃいました」
「毎日ご苦労様です」
「評判の菓子を持って来たんだ。…お孝はいるかな?」
「へえ、どうぞどうぞ中へ」
みねに促され、総司は近藤とともに中に入る。我が家だというのに近藤の横顔は先ほどまでの気楽な会話が嘘のように強張り、緊張しているように見えた。
庭が見渡せる部屋に入り最初に深雪の仏前に座った。ピカピカに磨かれた仏壇には鮮やかな花が備えられている。二人で手を合わせ、少しして顔を上げると近藤はまだ深々と目を瞑ったままだった。
(近藤先生…)
その横顔は深雪と話し込んでいるようだ。どんな会話を心のうちで交わしているのかわからないが、それは強張った近藤の表情に顕れているようだった。
そうしていると孝がやって来た。
「…おこしやす」
近藤と総司を見ると丁寧に膝を折り深々と頭を下げた。深雪に似た美しく整った顔立ちだが、相変わらずの仏頂面だ。
深雪の死を経て一旦は家族として絆が結ばれたが、近藤が縁談の話を持ち出したことで再び距離が開いてしまったのだと先日近藤が語っていた通り、孝には何かふつふつとした苛立ちが見えた。
「やあ…これは土産の茶菓子だ」
「おおきに。お茶を入れてまいります」
「もうおみねさんにお願いしているよ。…お孝、話があるんだ」
「…」
近藤は孝の前でいずまいを正した。真摯な表情で孝を見つめる近藤と、それを受け止めまっすぐに返す孝…二人の間には他人を寄り付けない緊張感があった。
「…近藤先生、席を外しましょうか」
「いや、このままここにいてくれ」
「はい…」
総司は戸惑いながらも従い近藤の後ろに控えた。近藤はすっと息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「お孝。…君には今まで縁談や養子縁組の話を持ちかけて来た。全て君は断ってしまったけれど…君のためになると思ったからだ。ここにいたままでは傍目には『新撰組局長の妾』として好奇な目に晒されてしまう…それを申し訳なく思っていた」
「…」
「君にはここから離れて、新しい人生を歩んで欲しい…そう願っているのは間違いなく本心だ」
「うちは…」
孝は何かを言いかけて止めた。苛立ちから悲しみへと変わる。
代わりに近藤が続けた。
「だが…だが、それだけが俺の心のうちの全てだというわけではない」
「え?」
俯いていた孝がふっと顔を上げた。
「俺は…君にここにいて欲しいと思っている」
「…うちが姉を亡くして身寄りのない、可哀想な女やからでしょう…?」
「違う」
「せやったら、お姉ちゃんに似てるから?お姉ちゃんの代わりや」
「君と深雪は違う!俺は君を幸せにしたいと思ったんだ!」
近藤の言い放った言葉に、孝は目を丸くした。だが徐々に赤らんで行く近藤の表情を見て総司でさえその意味を察することができた。
「…どうにか君に幸せになって欲しい。そう思って最初は縁談に奔走し、どうか良い相手と巡り合って欲しいと思ったんだ。だが…次第に迷いが生じた」
「迷い…」
「商家の次男坊や医者の卵…ツテを頼り色々紹介していただいたが、どんな男でも俺は納得ができない。いつしか、『俺なら…』とそんな青臭いことを思うようになった」
近藤はまるで思春期の少年のように顔を真っ赤に染めている。聞いている総司も居心地が悪くなるほどまっすぐな告白だ。孝も近藤につられるように恥ずかしげに俯いた。
「確かに最初は深雪の妹としての身請けした…でも今は違う。君がうんと言ってくれるなら…このままここで暮らしてくれないか?俺を支えて欲しい」
「妾…ゆうこと?」
「君が許してくれるなら」
「…」
「いや、違うな…。俺がそうしたいんだ。深雪と同じように大切にしたい」
近藤の向けるまっすぐな感情は、本人の自覚なしにその人の心を揺さぶる。固く強張っていた孝の表情は徐々に解けて行く。
提案する縁談を悉く断り続けた孝にも近藤と同じような気持ちがあったのではないか…見守る総司はそう思ったが、それでも孝は簡単には応えず首を横に振った。
「…うちには、無理やと思います」
「何故だ」
「お姉ちゃんみたいにお淑やかで優しくあらへん。似てるのは顔だけ…旦那様もいつか愛想尽かしはります」
「俺はそう思わないが…今後のことは誰もわからないじゃないか」
「いやや…」
近藤がそう言っても、孝は拒んだ。
「お姉ちゃんの仏前で…こんな話、聞かせたくない」
「深雪の前だからこそだ」
孝の困惑を断ち切るように近藤はきっぱりと断言した。
「俺は君や深雪に嘘をつきたくない。だからこうして深雪の前で話をしているんだ」
総司は近藤が深雪の仏前で深々と手を合わせていた理由を察した。姉であり妾であった深雪に許しを乞うていたのだろう。そして近藤なりに深雪の返答を聞いたはずだ。
孝は目に涙を浮かべた。
「…お姉ちゃんに申し訳ない…」
「深雪が君を叱るとでも?もしそんなことがあれば俺が誠心誠意、謝ろう。君の妹に惚れてしまったのだと」
「…っ」
近藤の告白に、孝は両手で顔を覆う。
悲しみか喜びか迷いかーーー彼女にも彼女なりの葛藤があるはずだ。その涙の意味は彼女にしかわからない。
しばらく静かな時間が流れ、孝のすすり泣く声だけが部屋にこだましていた。
近藤は待ち続けていた。孝の答えを、言葉を。けれど孝のなかで簡単に答えが出ることではないだろう。けれど断らずに迷うということは、彼女のなかに近藤の気持ちを受け入れることができる下地があるのは確かだろう。
「最初は家族としてでいい。徐々に俺を受け入れてくれないか?」
「…」
孝はゆっくりと顔を上げた。幼子のように目元を真っ赤に晴らした彼女は、帯に挟んだ簪を近藤の前に出した。
「これは…」
「…旦那様が廣島へ行かれていた時に、思いを込めて預けられていた簪です。うちが…死に際、お姉ちゃんから受け継ぎました」
古い簪だが綺麗に磨かれている。姉妹にとって大切なものなのだ。
「廣島に行かれている間、お姉ちゃんからずっと旦那様のことを伺いました。とても…とてもお優しい、素直な方だと。大坂での馴れ初めやここでの暮らしぶりなんかも嬉しそうに…。うちはすぐすぐには受け入れられへんかったけど…せやけどお姉ちゃんが旦那様をとても好きなのだということはわかりました。せやから何遍も同じ話聞いてるうちに……」
孝は唇を噛み、言葉を詰まらせた。
彼女は顔以外は似ていない姉妹だと語ったが、そうではなかったのかもしれない。強情で活発な孝の内面が深雪のそれと似ているのだとしたら、深雪の話を聞いているうちに触発されて同じ気持ちを抱いてもおかしくはない。
「…これを受け取った時…旦那様のことを任せるて、お姉ちゃんに言われたような気がしました。もしかしたらお姉ちゃんはうちの邪な気持ちに気づいていたのかもしれまへん…」
「そうかもしれない…深雪は聡い女子だった」
「うちは迷うてました。でも他の殿方と縁談やなんて考えられへんかった…」
深雪の思いと、自らの感情と、近藤の親切。孝はその全てに挟まれて苦しい思いをしたに違いない。
孝はグッと唇を噛み、目尻の涙を拭った。
「せやからうちは…お姉ちゃんの気持ちを、受け継ぎたいと思うてます」
この簪に込められた思いを絶やさないように。
孝は居住まいを正した。
「不束で…我儘で面倒やと思います。それでもよろしければ…よろしく、お願いします」
孝は深々と頭を下げる。
総司には深雪が初めてここにやってきた時の凛とした姿に似ているような気がした。


総司が部屋を出ると、台所の片隅で涙を拭うみねの姿があった。
「おみねさん…」
「ほんまに…ほんまに、おおきに。ありがとうございました」
「私はなにも…近藤先生がお決めになったことです」
「へえ、ありがたいことです」
みねは涙を滲ませながらも笑顔を見せた。孝の祖母として彼女の本心に気がついていたのかもしれない。近藤が縁談を持ち出した時に複雑な表情を浮かべていたのもそのせいだろう。
「これからも近藤先生をお孝さんをよろしくお願いします。土方さんの別宅は私もお世話しますし、時々で良いですから」
「おおきに。せやけどどちらもうちのお仕事。気張ってさせてもらいます」
みねは笑って呟いた。
「お孝様がお幸せになることが、うちにとって贖罪になると思うてます」
「…そうですね」
総司は頷いた。
初夏の晴れ晴れとした青空が眩しい。ここにいる誰もが晴れやかな気持ちになっていることだろう。





537


夜から降り続けている雨が屯所のあちこちに大きな水たまりを作っていた。
「お疲れ様です、沖田さん」
巡察を終え、帰営したところで珍しい人物から声を掛けられた。
「藤堂くん…」
八番隊組長の藤堂は当然、試衛館食客の一人である分ほかの組長よりは近しい存在のはずだが、ここ最近彼はかつての同門である伊東と懇意にしており総司とは距離があった。山南の一件で彼は彼なりに納得したはずだが、それでも河合が死んだ一件では遺恨が残っているのだ。表情や言葉が硬い。
「どうしました?」
「お話があるのですが…ここでは…」
「…わかりました」
総司は藤堂とともに場所を移動し、裏手にやってきた。雨樋から溢れる雨水が地面に激しく打ち付けられてうるさいが、人に聞かれたくない話なら丁度良いだろう。
「それで話って…」
「近藤先生の件です」
「先生の?」
「…前の妾の妹を妾にした、というのは本当ですか?」
「…」
藤堂は総司に鋭い目を向けた。
近藤が孝と通じ合い、深雪と同じ立場になったことは伏せられていた。内戦状態のなかで皆に公表すべきではない、という土方の判断だったのだが、なぜか藤堂の耳に入ってしまったらしい。
「…お孝さんは元々近藤先生に身請けされた方です。何も不思議なことはありません」
「そういう意味じゃないのはわかっているでしょう。妹は姉の看病のために身請けされた…そういう建前があったからこそ隊士たちも納得していたんです。だから姉が亡くなったのなら、どこかへ嫁に出すのが当然でしょう。それなのにまさかご自分の妾にしてしまうなんて…」
「…お孝さん自身も望んだことです」
「当人同士がどう思っていようが関係なく、周囲の…隊士たちがどう思うかです」
真っ直ぐな感情を伝えてくる…さすが『魁先生』といわれる藤堂らしい行動だ。
(近藤先生も土方さんも…誰かがこんな風に言い出すことはわかっていたはずだ)
「…隊士たちには分かってもらえないかもしれませんが、お孝さんはきっと近藤先生を支えてくださいます。それが結果的に隊のためになる…土方さんもそう考えているはずです」
「…どうですかね。近藤先生も土方さんも…変わってしまったようですから」
「…」
藤堂は少し吐き捨てるように口にした。以前の明るく快活な彼ならそんな言い方をしなかっただろう。総司にはむしろ変わってしまったのは藤堂のように思えた。
「藤堂くん、その話は誰から聞いたのですか?」
「…別にいいでしょう、そんなこと」
「よくありません。時期が時期ですから公表を避けていた話題です。…伊東参謀ですか?」
「違います」
藤堂は即答したが、少し目をそらしていた。
「藤堂くん…」
「…隊内でそういう噂になっているだけです。それに…疾しいことがないのなら最初から公表すれば良いことじゃないですか」
「それは…」
「昔の近藤先生なら…そうしたと思います」
藤堂はそう言い残すと「じゃあ」とさっさと話を切り上げて戻っていってしまった。
昔の…と彼が語るのは池田屋以前の頃かそれとも試衛館にいた頃のことか。だが今の状況はあの頃と何もかも違う。近藤は局長として重要な立場であり、それを支える土方は山南がいなくなってから特にどの地盤固めに余念がなくなった。近藤が精神的な支えを欲したとしても誰も責められないだろう。
(せめて食客のみんなはそう解釈してくれると思っていたのに…)
そんな風に期待してしまったのが間違いなのか、それとも藤堂にとって『試衛館食客』という肩書きは無意味で邪魔なものなのではないだろうか…。
「はあ…」
ため息をついて壁に背を預けた。
近藤と孝のことを手放しで祝福していた総司にとって釘を刺されたような気持ちだった。滝のように降る雨が視界を遮り、鼓膜だけを震わせ続ける。
そんな時、ガタガタッとすぐそこに裏口の引き戸が動いた。交替で見張りをする隊士だろうか…と思ったが、
「松本先生?」
顔を出したのは幕府御典医の松本だった。傘をさしているが激しい雨に肩口が濡れていた。
「おう、なんでこんなところにいやがるんだ?」
「いえちょっと…そんなことより松本先生こそどうしてこんな裏口から…表よりいらっしゃってくだされば良いのに」
「仰々しいのは面倒だし、内密なことなんだよ」
「内密って…」
松本は「やれやれびしょ濡れじゃねえか」と毒づきながら傘を畳み、総司のいる軒下にやってきた。
「先生もしかして…」
「ああ、例の一件だ。悪いが斉藤と土方を呼んできてくれねぇか、俺はここで待つ」
「わかりました」


すぐに総司は斉藤と土方とともに裏手に戻った。
「先生」
「おう、土方」
「松本先生…これは一体…?」
「悪いが事情を話している暇はない。斉藤を大坂まで借りるぞ」
「は…」
「大坂…」
事情を知らない土方は当然驚いたような顔をしたが、斉藤と総司は行き先が『大坂城』であることを確信した。松本がどうにか斉藤の希望が叶うように手段を整えてくれたのだ。
斉藤は頷き、
「すぐに支度をします」
と踵を返して小走りで部屋に戻っていく。
松本は総司が持ってきた手ぬぐいで頭を拭いた。
「明後日には屯所に戻す。悪いが何か適当に理由をつけてくれ」
「それは構いませんが…どういうことです」
「すまんが、あまりベラベラと話すことじゃないんでな。全てが終わった後に斉藤から聞いてくれ」
「…わかりました」
土方は未だに納得できていないようだったが、松本がそういうのなら、と仕方なく飲み込んだ。
だが食い下がったのは総司だった。
「松本先生、私も連れていってくれませんか?」
「はぁ?お前なぁ、斉藤ひとりを連れて行くのだって結構面倒なんだぞ」
「無理は百も承知です。でも…もう乗りかかった船です、お付き合いをさせてください」
総司は深々と頭を下げた。
事情を知ったからこそ、斉藤を一人で行かせることができなかった。彼の並々ならぬ覚悟の先にどんな結末があるのか…それを想像すると屯所でのうのうと待っていることなどできなかったのだ。
松本は苦い顔をしたが「仕方ねぇな」と頷いた。
「何考えてるのかわからねぇ奴とふたり旅っていうのも気がすすまねぇからな、連れて行ってやる」
「ありがとうございます!」
「土方、いいな?」
「…はい」
土方はより嫌そうな顔をしながらも引き止めることはなかった。そうしているうちに斉藤が戻ってくる。
「斉藤、沖田も連れて行くことになった、時間がねぇから異議は認めねぇ。…俺は外に籠を待たせている。沖田、早く準備してこいよ」
「はい」
「…」
斉藤も土方と同じように苦い顔をしたが松本が釘を刺したおかげで何も反抗せず、ともに裏口から出て行った。
「土方さん、すみません、勝手を言って…」
「ああ、全く。勝手な奴らばっかりだ。一番隊と三番隊の組長がいなくなるなんて何を詮索されるか…」
土方は文句を言いながら、腕を組み深い息を吐いた。
「だが…お前が『言えない』と言ったことと関係があるんだろう?」
「…そうです。事情は後で話しますから、どうか待っていてください」
「別に話さなくてもいい」
「え?」
「俺はお前のことも…斉藤のことも、信頼している」
その言葉の重みを総司は知っている。試衛館にいた頃とは違う、その言葉は土方にとって特別なものだ。
「…歳三さん」
総司は土方の頬に両手を伸ばして引き寄せた。轟々と降る雨の中、二人の唇が重なって小さな音を立てながら離れた。その間だけは雨の音は何一つ聞こえなかった…きっと土方も同じはずだ。
「…何も変わりません。ちゃんとここに戻ってきますから」
「…お前、戻ってきたら覚悟しておけよ」
「はい」





538


総司と斉藤は松本とともに大坂へ向かった。
最初は大樹公との面会に難色を示していた松本だが、斉藤の思いを汲み弟子として入城できるように取り計らってくれた。
「お前たちは俺の弟子だ。ボロが出ちゃまずいから一言も喋るなよ」
「わかりました」
総司は答え、斉藤は頷いた。
相変わらず寡黙で無口だが、その表情にはいつもはない緊張が見えた。友人との数年ぶりの再会…その経緯を思えば単純な喜びではなく、戸惑いや憂いがあるのは当然だろう。
都を発った翌日、未だに雨の降る大坂にたどり着く。
荘厳な大坂城は大樹公が入場していることもあり警備の人数も多く、物々しい雰囲気だったが、幕府御典医の松本とその供だというとすんなり中に入ることができた。
(静かだ…)
十徳に身を包んだ松本とともに廊下を歩くが、世間の喧騒から隔離された城は、戦時中だというのに静かで空気が重たい。
(それくらいお加減が悪いのだろうか…)
総司は嫌な予感に苛まれながらちらりと斉藤を見る。彼も同じ考えだったのか、冴えない表情をしていた。
雨の音だけが聞こえるなか、城の奥へ進む。すると
「こちらへ」
年老いた女が松本を見るや案内した。その部屋に足を踏み入れると、広間に数名の紋付袴姿の重鎮たちが居並び、御簾の向こう…その先にいる大樹公の様子を伺っていた。松本は手慣れたようにその御簾の向こうへ向かって行くが、流石に総司と斉藤には躊躇いがあった。
「斉藤さん…」
「…大丈夫だ」
再び足を踏み出そうとした時、
「待て」
とすぐ側に控えていた紋付袴姿の男が小さな声で二人を呼び止めた。総司は露見したのかと一瞬で冷や汗をかいたが、男の視線は斉藤のみに注がれていた。鋭い眼光が混じり合った時、斉藤もその男に気がついたようでグッと唇をかんだ。
「…貴様…何故ここに…」
「…」
「篠原殿、知り合いですか?」
さらに別の重臣が声をかける。『篠原』という名前には当然聞き覚えがある…かつて斉藤を大樹公に引き合わせた側近の男であり、新撰組として都にやってきてからもなにかと彼から『雑用』を任されていたと聞く。
(誤魔化せない…)
このまま騒ぎになって追い出されるのかーーと総司が思った時、松本が引き返してきた。
「俺の弟子に何か用か?」
「ま…松本法眼、この男は…」
「弟子だ。…おい、二人とも。こんなところに突っ立ってねぇで一緒に来い」
「は、はい!」
総司と斉藤は松本の手招きに応じて場を離れた。松本が「なにやってんだ」と咎めるように二人を見据えた。
総司は斉藤とともに御簾の向こうに足を踏み入れる。松本と同じ格好をした数名の医者と身の回りの世話をする小姓や女中たち、そしてその中心には当然、大樹公が臥せっていた。
総司たちは松本の後ろに控えた。松本が他の医師らと病状について意見を交わしているが、とても耳には入らない。
総司にとって、今目の前にいる若き大樹公はまさに雲の上の存在であり、本来であれば総司の身分では一生目にかかることはないのだ。そのため直視することさえ憚られるが、松本の弟子としていつまでも頭を下げているわけにはいかない。遠慮がちながらもちらりと、目を閉じて苦痛に耐える横顔を見る。
(お若い…)
自分よりも年若だとは知っていたが、思った以上に幼さを残した青年という風貌だった。血の気のない肌とは対照的に上気した頬…一呼吸ごとに苦しそうな様子は素人の総司からしても重い病であることを実感させられた。
ふと、隣にいる斉藤に視線をやる。彼は表情を変えずにいたが、握りしめた拳だけはずっと小さく震え続けていた。
(斉藤さん…)
「浮腫を取り除いて差し上げることが肝要かと存じます。竹内法印」
松本はそう進言した。『法印』とは『法眼』よりも上の地位ある医師のことだ。『法印』と呼ばれた年老いた医師は頷いて指示を出す。
「芫菁発泡膏を心部に貼り、利水薬をお飲ませせよ」
「はい」
「かしこまりました」
虚ろな大樹公を小姓が支え、剃髪姿の医者が薬を飲ませた。
その傍で複雑そうに顔を歪める医師たちの姿があった。
「漢方医だ」
松本は小声で総司に耳打ちした。
「漢方医は今まで上様の症状について『脚気』だと主張し、手を尽くしてきたが一向にご快方に向かわれない。上様に進言しいまようやく西洋医学の出番ってところだ」
「…先生、大樹公のお加減は…」
「ああ…眠りが浅くいらっしゃる。…芫菁発泡膏ってのは劇薬でな…漢方医はことごとく使用を拒否してきたが、身体の老廃物を吐き出すにはうってつけの薬だ。これで楽になられると良いのだが…」
「…なるほど…」
薬を飲んだ大樹公はゆっくりと身体を倒し、そのまま浅い眠りにつく。その健やかな寝息にその場の家臣たちを含めた全員が安堵した。
松本は切り出した。
「法印、ここは私と弟子が上様のお側にお仕えいたします。しばらくお休みになってはいかがですか」
「うむ…連日の看病で目が疲れておる。法眼の言う通り、休ませてもらおう」
「はい。上様には静かな環境での安眠が必要です。家臣の皆様もご退出ください」
松本の指示で、側に控えていた竹内法印をはじめとした医者たちと御簾の向こうにいた家臣たちがぞろぞろと退出していき、数名の小姓と女中が残った。
静かな閨に大樹公の浅い吐息だけが響く。
松本は時折手首の脈や体温を図りながら看病を続けるが、総司はなにもできずにただ見守り続けるしかなかった。そして斉藤もまた微動だにせずに横たわった大樹公の姿を目に焼き付けるように見つめ続けた。
すると御簾の向こうからひとりの女がやってきた。年老いていながらも凛とした老女は羽織を引きずりながら歩き、大樹公ではなく、斉藤の前で膝を折った。
「…久しいですね」
「…」
「相変わらず無口なご様子。まさかお忘れですか」
「…ご無沙汰をしております。浪江殿」
口を開いた斉藤は深々と頭を下げた。大樹公の教育係の『浪江』だ。彼女は篠原のように敵意を向けることはなく、淡々とした表情だった。
「…まさかこんなところでお会いすることになろうとは思いもよりませんでした。…松本法眼の弟子とか?」
「…」
「それは仮の姿ですよ」
松本が斉藤の代わりに返答する。松本があっさり正体をバラしてしまうということは浪江を信用しているのだろう。浪江は「法眼らしい」と苦笑した。
「どういう経緯かはお尋ねせぬが…しかし、そなたが参られたこと、上様はお喜びになるでしょう。そなたが姿を消してから、上様は随分と落胆されました」
「…自分は…上様を喜ばせるような存在ではありません」
「あの夜、何があったのかは存じませぬ。しかしながら上様がそなたのことを悪く言うことはなかった。千代殿…数年前に亡くなられましたが、また『イチ』に会いたいと漏らしていたようです。一方でもう会えないのだろうとも…」
「…」
浪江は息を吐きながら「あとは頼みましたよ」と口にした。松本に言ったのか、斉藤に託したのか…総司にはよくわからなかったが、そのまま立ち上がると無駄のない仕草で閨を出て行った。

陽が沈み、夜になる。
蝋燭に炎が灯され淡い明かりが部屋を照らしていた。遠くから雨の音が聞こえるーーー城の厚い壁越しでも聞こえるほどの大雨のようだ。
物音一つ許されないような静けさの中、大樹公がゆっくりと目を開けた。
「…上様、ご気分は如何にございますか?」
松本が穏やかな声をかけると、大樹公は「うん」と頷いた。
「夢の中で…法眼…其方がいるような気がしていた。…懐かしい、江戸の…言葉が聞こえた…」
「光栄です。ですが…おそらく私ではありませぬ」
「ふむ…?」
大樹公の虚ろな瞳がぼんやりと周囲を見渡す。すると松本が斉藤を手招きするようにして呼んだ。
人払いをし誰もいない絶好の機会ーーーしかし斉藤は動こうとはしなかった。
「…斉藤」
「…」
「斉藤さん」
総司は軽く斉藤の背中を押した。彼はここまできて戸惑っていた。消えてなくなった存在に徹した自分が今更本当に姿を現していいのか、と。
けれど、そんな迷いはすぐに消え失せた。
「…イチ…」
その声に導かれるように、斉藤は腰を上げ大樹公…若様の元へゆっくりと向かったのだった。









539


その再会はとても静かなものだった。
寝床の傍に腰を下ろした斉藤は大樹公と目を合わせることなく深く深く頭を下げた。
そんな斉藤を大樹公は慈愛に満ちた瞳で見た。
「久しいな…まさか、こんなところで…会えるとは思わなかった」
「はっ…」
「イチ、顔を上げて…」
「できませぬ」
二人の間に流れる雰囲気は決して『友人』ではなく、『君主と臣下』だった。それは斉藤が別れの際に忠臣でいることを誓ったためだが、大樹公は酷く寂しい顔を浮かべた。
大樹公は頑なな様子を見て少し諦めたように息を吐くと、天井を見つめた。
「…私はずっと、イチに再会できたなら、謝らければならないと思っていた…。あの時、この身を助けてもらいながら、一時の恐怖に苛まれイチを怖れたことを…」
「当然のことです。故意ではなくとも…自分は上様に刃を向けたのです」
「いや…『友人』だと何度も言ったのは私の方なのに…情けないことだ。それにあのあと苦労をかけたのだろう…江戸を出て、名前を変えて…篠原から聞いた」
「…苦労など…何も。自分が選んだことです」
「それが本当なら…顔を上げてくれ。その顔を見せてくれ」
「…」
大樹公の言葉に斉藤は躊躇いながらゆっくりと頭を上げた。それでも伏し目がちになり目を合わせようとはしなかったが、「もっと近う」という言葉には逆らえずにすぐ傍に寄った。
大樹公は斉藤をまじまじと見て、微笑んだ。
「イチは、あの頃よりも大人になった」
「…もう、何年も経ちます」
「うん。…今は新撰組にいるんだろう。会津は…其方たちをとても頼りにしていると言っていた」
「…もったいないお言葉です」
「イチが一人孤独ではなくて良かった…」
大樹公はスッと息を吸い、虚空へとゆっくりと吐いた。言葉の一つ一つが苦しみとともに吐き出されるような状況だが、それでも目を閉じ、再び口を開く。
今まで抱えてきたものを吐き出すように。
「…私は、あの後も一人だった。将軍となり、多くの臣下を抱え、女中に囲まれ…何不自由ない暮らしなのに、それでも一人だった…」
「…」
「籠の中の鳥…まさに、それにふさわしい。私の存在など…世間を上手く動かすための、飾りに過ぎぬ」
「そのようなことはございません。上様は立派にお勤めを果たされていらっしゃいます!」
口を挟んだのは松本だった。将軍の御典医として側に使える松本には見過ごせない言葉だったのだろう。大樹公は「すまない」と苦笑した。
「法眼の言う通り…与えられた、勤めだけは果たそうと…ただそれだけであった。でもひとつ…良いこともあった」
「良いこと…」
「親子(ちかこ)に…巡り会えたことだ」
和宮親子内親王は孝明天皇の妹で徳川家に降嫁し、大樹公の正室となった皇女だ。傍目には朝廷と幕府を結びつける政略結婚として捉えられている。
「不本意な結婚にも関わらず…親子は、私に尽くしてくれた。彼女の優しさに触れ、ぽっかりと空いた穴が埋まっていく…親子との時間は、そのような、心地だった…」
親しげに『親子』と呼ぶ大樹公の表情は柔らかい。周囲の思惑とは関係なく、二人の間には夫婦としての愛情が芽生えていたのだろうということを伺わせた。
大樹公は再び斉藤へと目をやった。
「こうしてイチに会えた…わがままを、言わせてもらえれば…親子にももう一度、会いたいものだ…」
「無論でございます!良順、この身を賭しましても、必ずやご本復を…!」
「ありがとう、法眼…」
力強い松本の言葉に大樹公は頷いたが、途端に咳き込み始めた。松本は身を乗り出して背中をさすり木桶を準備する。するとその激しい咳を聞きつけ、世話役の小姓らが集まり始めた。
「…斉藤、ここまでだ。なにかお伝えしなきゃならねぇことはないのか」
「…っ」
斉藤は目を泳がせた。真っ青な大樹公の顔色と弱り切った身体に動揺して何も言葉が出てこないのだ。
すると大樹公は力を振り絞るように這い蹲り、斉藤の両腕をつかんだ。
「若様…!」
「…言いたい、ことが…あるのは、…私の方だ…」
「若様、ご無理は…!」
「親子と…一度、だけ…本当の蛍を、見た。覚えている…?源氏物語の、『蛍』だ…」
ひーひーと大樹公の息は荒いが、斉藤を掴む手の力は強かった。斉藤も握り返す。
「覚えて…おります…」
「…とても不思議な…生き物だ。美しい、光を放ちながら…暗闇を、飛ぶ。人間にはできない…美しい、光景だった…」
「…はい…」
「でも…イチとみた、あの星空には敵わない…」
「…!」
若様とイチ…短い時間であったが『友人』として見上げた荒れ山の星空が、いま斉藤の脳裏に鮮明に蘇った。若様が子供のようにはしゃぎ、手を伸ばす無邪気な姿がはっきりと。
あの瞬間は、斉藤にとっても人生最良の時間だったと思えたのだ。両親は健在、兄弟もいたのに何故かたった一人で生きてきた…そんな風に思えていた自分の人生の中で、唯一の輝かしい時間だった。
「また…共に行こう。『友人』として…親子とともに…」
「…!」
「もう限界です!上様!」
松本は数名の小姓と共に大樹公と斉藤を引き剥がした。床に臥せった大樹公は堰を切ったように荒い息を繰り返し、全身で呼吸する。
奥で休んでいた医師たちも駆けつけ閨は騒然となった。


深夜、大坂城を出る頃には雨は止んでいた。だが黒く厚い雲が月や星を隠してしまったせいであたりは朝陽が昇るまで真っ暗闇に包まれるだろう。
そんな旅籠までの道を総司と斉藤は無言で歩いていた。並んだ二つの提灯がゆらゆらと揺れている。
あれから大樹公はどうにか持ち直されたが、意識を失い今は安静を強いられている。そんな状況の中で無力な二人は何もできず、松本には「旅籠で待っていろ」と帰された。当然の判断だろう。
斉藤は道中、何も口にしなかった。
「…お会いできて良かったですね。松本先生の大胆な作戦は相変わらずですけど…上様もお喜びでしたから」
「…」
「きっとこれから持ち直されますよ。松本先生もおっしゃっていたじゃないですか。ようやく西洋医学の出番だって…だからきっと大丈夫ですよ…」
根拠のない言葉が吐き出されれば吐き出されるほどに、総司は虚ろな無力感に苛まれる。大樹公の様子を見て本当は先の明るい展望など考えられず、また大樹公もそれを自覚しているように見えた。
ぬかるんだ道を歩く。バランスが取れず体の重心が歪んでいるような錯覚を覚えた。
そうしてようやく旅籠にたどり着き、二人は二階の部屋へと上がった。
「もう…休みましょうか?」
「…」
「斉藤さん…」
部屋に灯された一本の蝋燭。淡い光は斉藤の影のある表情を映し出す。
(何を思っているのだろう…)
悲しみや慟哭、虚しさや悔しさーーー想像できうる以上に、きっと斉藤は言いようもない苦しみを味わっているに違いない。
「…羽織、濡れてるから脱いだ方が良いですよ」
部屋に入っても羽織すら脱ごうとしない斉藤に手を伸ばした時、突然その手首を掴まれた。
「え…」
「…頼みがある」
それは振りほどけないほど強い力だった。
「た、頼み…って…?」
「一度だけでいい」
「何が…」
「抱かせてくれ」
その短い言葉の意味を理解する前に、組み伏せられて背中を強く打った。その背中の痛みに気を取られていると互いの乾いた唇が重なった。
「ん…ぅ!」
総司は自由な片手で斉藤の肩を押したが離れることはなく、顔を背けて拒もうとしても顎を掴まれてしまう。
それは優しい口付けなどではない。獣が餌を食らうような獰猛さで口腔が飲み込まれてしまうように激しい。
「ぃ…ぁ…はっ!」
呼吸さえ塞がれ苦しい。けれど斉藤の方がもっと苦しそうに顔を歪めていた。
「さ、いとう…さ…」
「終わって…嫌ってもいい。だから…」
その先を斉藤は口にしなかったが、何も言わずに受け入れてくれとそんな風に続く気がした。
彼の牙が首筋から肩口に降り、そのまま噛み付いた。
「ぃっ…た…!」
傷になって染みる。噛み跡はおそらく深く刻まれた。
「さい…ん…!まって…」
「待たない」
斉藤は袴の紐に手を伸ばし、あっさりと解いてしまう。
「斉藤さん…!」
「…犬に噛まれたようなものだと思えばいいだろう。どうせ…副長に何度も抱かれているのだから」
「そんな…」
昏く虚ろな目には正気がなかった。普段の彼なら絶対に口にしない自分本位で横暴な言い方だった。
総司は、彼がこんな風に振る舞うのは、自分を軽蔑するように促しているのではないかと思った。嫌われて責められて…それでもいいから苦しさを紛らわせたい、そんな願望が見えた。
(僕は…そんなことを、したくない…!)
総司は渾身の力で斉藤を突き飛ばした。不意をつかれた斉藤はそのまま尻餅をつく。
「…斉藤さんが、こんなことをして気がすむのなら好きにしてください」
「…」
「私は軽蔑しません。でも…今までの全部が…きっと無かったことになってしまう。私と斉藤さんの間にあったのは、こんな一時の感情で無くせるほど簡単なものだったんですか…?」
「…」
「今の斉藤さんの気持ちを分かるなんて、簡単には言えません。でも…こんなことをしても結局は何の慰めにもならないと思うんです。何も変わらない」
「ああ…そうかもな…」
乱れた髪をかきあげた斉藤は深いため息をついた。先ほどまでのどう猛な牙は隠れたがそれでも身を削られるような悲しさがまとわりつく。
「だが…それでもいい。それくらい、苦しい」
「…斉藤さん…」
「俺にとって若様が人生の全てだった。若様を失うのならもう何も意味などない」
荒波に流され溺れかけている人に手を差し伸べない人などいない。それが近しい人なら尚更だ。
総司は項垂れる斉藤にゆっくりと手を伸ばした。そして腕をいっぱいに広げて抱きしめた。そうすることしかできない自分が歯がゆいまま、朝を待った。




540


総司と斉藤が都へ戻り、数日が経った慶応二年七月下旬…将軍徳川家茂の薨去の報が屯所に届いた。
「何と御労しい…!」
近藤は若干二十歳にしてこの世を去った将軍に大粒の涙を零して悲しんだ。同じ部屋にいた土方と総司も悲痛な気持ちは同じだ。
「松本先生は必死に手を尽くされましたが…残念なことです」
「ああ、朝廷や和宮様から名のある医師が派遣されたということだが…それでもご快癒されることなかった…。まだ御若いのになぁ…」
「若いからこそ病状が悪化しやすいということもある」
薬売りとして各地を回っていた土方の冷静な意見に、近藤は「そうだな」と言いながら鼻をかんだ。
「…公式発表は八月ということらしい。大樹公にはお世継ぎがおらず、再び世間は混乱するだろう。…ひとまず、隊士には伝えず歳も総司も胸に留めておいてくれ」
「わかりました」
「歳、伊東参謀には俺から伝える」
「ああ」
将軍の死は副長助勤以上のみに伏せられ、平隊士への伝達は公式発表を待つこととした。
近藤は早速伊東の元へ向かったが、土方は厳しい表情のままだった。総司はその理由を察していた。
「…近藤先生には上様が薨去されたばかりなのに不謹慎だと言われてしまいそうですが……長州との戦はどうなるんでしょうか?」
「ああ。幕府は苦戦を強いられている。西の城は次々に降伏し敗戦が濃厚だ。だから将軍の薨去は休戦の格好の理由になるだろうが…その後、戦を継続させるかどうかは次の将軍によるだろう」
「次の将軍って…一橋慶喜公ですか?」
将軍職を争って一橋派と南紀派が争ったのはわずか数年前のこと。あの混乱が再び訪れるのだろうかと総司は危惧したが、土方はあっさりと「そうなるだろうな」と肯定した。
「今の情勢で将軍職に就きたいと考える物好きなんてほかにいないだろう。いずれ敗軍の将になる…むしろ頭の良い一橋公が貧乏籤の将軍職に付くかどうかわからねぇな」
「…そうですか…」
漠然とした不安が胸に過ぎる。ほんの少し前までは二百年以上続いてきた幕府が『敗戦』することなど夢にも思わなかったのだ。だがその不安の原因はそれだけではない。
「…斉藤の様子はどうだ?」
土方に尋ねられ、総司は首を傾げた。
大坂から戻って数日、斉藤はいつもと何変わらない様子だった。大樹公に近しい立場であった斉藤はおそらく新撰組に知らせが届くよりも先にその死を耳にしていたはずだが、悲嘆にくれる様子も落胆することもなく、いつも通りに淡々と仕事をしている。
土方には大樹公と斉藤の関わりを簡単に説明した。誰もが最初は信じられないと驚愕するような過去だったが、土方としてはこれまでの彼の行動の辻褄があったと言ってすぐに納得し理解を示してくれた。
「いつも通りすぎて…逆に何だか不安になってきます」
大坂城から戻った明け方…斉藤は自暴自棄になりながら
『苦しい』
と漏らした。その言葉が胸が潰れそうなほど悲しく響いて総司は手を差し伸べ、共に体温を感じながらどうにか朝を迎えた。総司は少しだけ意識を手放して眠ってしまったのだが、起きた頃には斉藤はいつもの淡々とした様子に戻っていた。それは彼が悲しみから立ち上がったというわけではなく、硬い甲羅のなかに自分の感情を閉じ込めてしまっただけのように見えた。
総司は心配が尽きなかったが、土方は案外あっさりと
「あいつのことはお前に任せる」
と言った。
「…いいんですか?」
「俺はあいつに言うべきことは言った。それに大坂に出立する前に言っただろう、任せると」
「…わかりました」
土方からの信頼をひしひしと感じ、総司は頷いた。


部屋を出ると陽が西へと落ち、じわじわと夜が訪れようとしている。
総司はその空を見上げてぼんやりと立ち止まった。
このところ、陽が暮れるとあの夜のことを思い出していた。斉藤が噛み付いた傷跡は未だに肩口に残っている。
(醜悪な怪物…か…)
あのとき、斉藤は総司を組み伏せながら自分を痛めつけていたように思った。苦しみを紛らわせるために乱暴にすることで、自分を貶めてほしい。仕えるべき主君を失った斉藤にとって誰に好かれようと嫌われようとどうでもよくなったのかもしれない。
(でも…僕にとって斉藤さんは必要な人だ)
この関係にどんな名前を付けたら良いのかわからない。でも互いに必要としていることはわかっているはずだ。
「沖田先生」
「え?」
聞きなれない声に呼ばれ、総司はふと我に返った。目の前にいたのは癖っ毛が目を惹く、目鼻立ちのスッキリとした若い隊士だった。
「えっと…」
「梅戸勝之進と言います!」
「ああ、すみません。えっと三番隊…でしたっけ?」
「はい!」
元気で人懐っこい笑顔で頷いた梅戸だったが、すぐに「あのぅ」と声を落とした。
「うちの隊長…斉藤組長なんですが、大坂から戻ってから様子が…」
「おかしいですか?」
「いえ、そうでもないんですけど」
「えぇ?」
てっきり『おかしい』のだと報告にきたのかと思ったが、斉藤が部下に悟られる失態を犯すわけがない。だが梅度は「でも」と腕を組んだ。
「このところ、夜になるとふらりと出かけられるんです」
「夜に?」
「ここ数日…朝になると戻って来て、特に変わった様子はないのですがどうも気になっちまって…今夜も先ほど出て行って…」
梅戸の言葉を最後まで聴き終えることなく、総司は「ありがとう」と話し切り上げて歩き出した。梅度が何か声をかけたが構わずに早足から、駆け足に変わっていく。
外出を島田に告げて提灯を手に屯所を出た。梅戸は『先ほど』と行ったのでまだ遠くへは行っていないはずだ。そのうちに夕暮れが夜に覆われてあたりは暗くなっていく。
総司は東へ向かった。確信や理由があったわけではなく何となくそちらへ向かうべきなのではないかと思ったのだ。
七条の大通りを歩き続ける。人はまばらだが確実に減っていくなか、次第に水の音が聞こえてきた。その音は重なって、大きな蜿となって夜の都にただただ響いていく。
その川に架かった七条大橋ーーーその欄干に身体を預けるように斉藤が立っていた。
「斉藤さん…」
「……いつか、あんたがここに来る気がした」
総司の姿を見ると斉藤は特に驚く様子もなくそう言った。
「何しているんですか?こんなところで…」
「別に。ただ…水の流れる音を聞いている」
「…ご一緒しても良いですか?」
「勝手にしろ」
総司は斉藤と並ぶように隣に立った。
普段、人の行き来の激しい大橋では水音は人々の喧騒に掻き消されて耳に入ることはない。だが、夜の静かな橋の上では激しく鼓膜を揺らしまるで別の場所にいるかのような心地だった。
「梅戸…さん、でしたっけ。心配していましたよ」
「梅戸か。…普段は飄々としているくせに妙に勘が良い」
「…大樹公の薨去の知らせは…」
「ああ。数日前に篠原から聞いた」
斉藤は表情を変えることはなかったが、くるりと身体を翻し、暗くて何も見えない鴨川を見下ろした。
「…鴨川は、次第に桂川に合流し、最終的には淀川として大坂へ至る。この水の流れが若様に繋がっているような気がした。…だが…もう、お会いできることはない。お優しい若様は天へと召されただろうが…俺はきっと地獄へ落ちる」
「…そんなことを言わないでください」
『苦しい』
そう漏らした時とおなじ表情をしていた。何かを諦めて手放して…己の感情さえ蓋をして、それでも溢れ出る何かが息苦しくて。
「俺は…ずっと自分は一人きりで生きてきたのだと思っていた。小さい頃から誰にも理解されず、それが楽だとさえ思った。若様と出会い離別してからもそうだ…俺は寄る辺なき者としてずっと生きていくのだと、ずっと思っていた」
「…」
「だが、違った。どんなに遠くとも若様の存在が俺の身体の大半を占めていた。若様のために生きていた。…だから若様がお亡くなりになったのなら…何の意味もない」
「そんなことはありません」
総司は斉藤の腕を掴んだ。そのまま真っ黒な川に落ちてしまいそうな身体を繋ぎ止めるように強く握った。
「…なにが…」
「斉藤さんは自分が主君を失った無意味で無価値な存在だって…そう言いたいんですよね。でも…私にとっては斉藤さんは意味のある人です。私には…大切です」
「大切…?」
「もちろん…近藤先生や土方さんとは違います。近藤先生は私にとって主君に等しく、そして土方さんと同じことが斉藤さんとできるわけじゃありません。でも…大切なものって、優劣をつけるものじゃないでしょう。近藤先生と土方さんは私にとって同じくらい大きな存在です。だから、わがままだって言われたって、私にとって全部大切なんです。…斉藤さんは、大切な友人です」
雲に隠れていた月が顔を出す。それが水面に反射して、揺れて、少しだけ光が射した。
「ずっと斉藤さんのことを『強い人』だと思っていました。年下なのに、どうしてこんなにも強いんだろうって…。でもその理由は守るべき主君がいたからだってわかりました。守るべきものがあれば強くなる…それは私にもわかります」
「…ああ…」
「でも主君を失ってなにもかも自分に無くなったって斉藤さんが思っても…私や皆がいます。斉藤さんの存在に意味や価値を持っている人が必ず…。だから、ここにいてください」
総司は持っていた提灯を落とし、両手でその腕を掴んだ。
「苦しいなら受け止めます。悲しいなら一緒に悲しみます。それが…友人として私ができることです」
言葉は紡げば紡ぐほど虚しく足元に落ちていく。だからこそこんな風に指先から伝わることの方が多いような気がした。
人はどうして、理由なしにいきることができないのだろう。ありのままに、本能のままに生きればいいだけなのに、どうしてそれが無価値だと思うのだろう。
薄暗い月明かりのなか、斉藤の頬に一つ筋の涙が流れていた。多くを語らない彼が見せた初めての涙は、なんだか現実味がなかったけれどそれでも彼の心の片鱗であることに間違いはなかった。
「少しだけこのままでいてくれ…」
「…はい」
この夜が明ければ、彼はきっともうなにも言わないだろう。明日からはきっと元どおりの『いつもの』彼に戻っている。そうやって今を過去にしていくことで悲しみを癒すしかない。
(あ…)
欄干から大橋の下を覗いた。
水面に映る月の光が揺れた時、丸い光がふわりと飛んでいくように見えた。
(蛍…)
蛍の季節は過ぎ去っている。だからそれはまるで幻のような一瞬だった。
















解説
533 長州征討で幕府の富士山丸、八雲丸、翔鶴丸は砲撃を仕掛けてきた高杉晋作率いる丙寅丸を追跡し、見失いました。
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