わらべうた




541


漠然とした不安と、矛盾と、疑心に苛まれ始めたのは一体いつからだったのだろうか。


新撰組は、局長、副長、参謀、副長助勤、伍長、平隊士に区分される。副長付きという立場である助勤には、一番隊から十番隊の各隊の組長だけではなく、一部の監察の隊士が含まれている。隊の外だけではなく内側を観察する…いや、監視することをどれだけ重要視しているのか、その肩書きでわかるのだが。
(しかしその監察に向いているかどうか…未だに自分にはわからん)
久々の晴天に恵まれた都の大通りを歩きながら、商家の放蕩次男坊『金山福次郎』に扮した浅野薫は、腕を組み考え事をしていた。商家の次男坊という役所は浅野の持つ役名の一つでしかない。生来真面目な自分がこうして白昼堂々と気ままに過ごすのは、日々命を張る同志へどこか申し訳ない気持ちがあったが、みすぼらしい衣服に身を包み顔を隠して物乞いに成りすますよりはよっぽどマシだった。
新撰組に入隊したのは会津から『新撰組』という名前を頂戴する前後だったか…記憶は曖昧だが、池田屋でのことは鮮明に覚えている。何故か近藤とともに少人数の精鋭部隊の一人として戦い、命からがら生き延びた。たちまち古参隊士として注目を浴び、監察の副長助勤にまで出世したのだ。
真面目だけが取り柄だった。同じ頃に入隊した山崎烝から手ほどきを受け、監察としての様々な心得を習得し、それなりに役立てるようになった。華々しくはない隠れた仕事であったが、それなりの成果もあげた。…だが、この監察という仕事は深く潜り込めば潜り込むほど、わからなくなっていく。
(一体本当の自分がどこにあるのか…)
今日の『放蕩次男坊・金山福次郎』も確かに自分であることに間違いはない。むしろ『新撰組隊士・浅野薫』に時々違和感を覚えてしまうこともある。
(…潮時かもしれん)
先輩であった山崎も、長州へ同行したものの医学方へ異動した。自分もそろそろ身を引くべきか…そんなことを考え始めた時だった。
「福次郎はん!」
そう呼ばれ身体の半分は咄嗟に身構えたが、もう半分は聞き覚えのある声に油断した。
「銀」
まだあどけない表情を浮かべた青年…銀平が手を振りながらこちらに近づいてきた。新撰組の協力者である商家『金山』の近所に住む和菓子屋の息子で、何故か浅野に懐いている。
「福次郎はん、久しぶりやなぁ。江戸に行ってはったんやろ?」
子供のように飛びつき目を輝かせた銀平はとても二十歳を過ぎた青年には見えない。
金山家は江戸との商いで富を得た豪商だ。架空の次男である福次郎は時折江戸へ行くため、不在がちである…と銀平は思っている。
「まあな。…ちょうどよかった、土産の『兔餅』や」
「兔餅っ?ほんまに?おおきに!」
懐から取り出した薄皮のあんこ餅を受け取ると銀平ははしゃいだ。和菓子屋の跡取り息子として修行に励む銀平は、菓子に目がない。
「福次郎はん、知ってる?なんで『兔餅』ってゆうか」
「知らん」
「店先で兔を飼っていたからなんやって。面白いやろ?それにうまい!『耳長ふ聞き伝えきし兔餅 月もよいから あがれ名物』…あれ、これ詠んだの誰やったっけ?」
「大田南畝」
「それ!福次郎はん、意外に物知りなんやなあ」
銀平はその口を閉じることなく菓子を食べながら喋り続ける。人懐っこく愛想の良い銀平はこの辺りでは評判の青年で「今度は安倍川餅」とねだるのも気分を害することはない。
銀平は兔餅を食べ終えると「ご馳走様でした」と手を合わせて浅野を拝んだ。
「ところで福次郎はん、こんなところでなにしてはるん?」
銀平にとって何気ない質問だったが、まさか新撰組監察としての自分の立場に想いを馳せていた…なんてことは口にできるはずもない。
「…別にええやろ、ぼうっと考え事してたかて」
「ふうん…あ、せやったら甘味屋いかへん?」
「前もゆうたやろ、甘いもんは好かん」
「茶飲むだけでええから」
銀平に無理やり腕を引かれ、億劫ながら彼に付き合うことにする。彼の強引さは何故か嫌味がなく、自然と受け入れてしまうのだ。
足取り軽く上機嫌に隣を歩く銀平。菓子のことばかり語り、無邪気に笑う…時折この姿が儚い幻のように感じていた。
(もし新撰組の隊士だと知れたら、離れて行くだろう)
地に足のつかない『自分』の存在。銀平によって認められているのは『金山福次郎』であるそれ以外何物もない。そう思う時、虚しさが募るのだ。

甘味屋を目指し、歩き続けているとふと騒がしい声が耳に入った。下品な笑い声は店外に響き、昼間だというのに飲み騒いでいるのだということはすぐにわかった。
「ああ、また来てる」
銀平は顔をしかめた。
「また?」
「うん。このところ、若い男たちが何人かよう来て飲みはるみたいで…。ここの店主の奥さん、病で寝込んでるんだ。せやから落ち着かんやろなぁって…まあお客はんやから文句はいわれへんやろけど」
銀平がよく事情を知っていることにも驚いたが、その騒がしい声のなかでいくつか聞き覚えがあることに気がつき、頭がいっぱいになった。
浅野は素知らぬ顔で尋ねた。
「…知っている男か?」
「俺は知らんけど…新撰組やって」
(やはり…)
古参隊士であり監察である浅野にはその声の主がすぐにわかってしまい、特に六番隊の隊士が多いようだ。
(六番隊…)
その隊のことを考えるとある二人の男の顔が浮かんだ。一人はおそらくこの宴会の中心にいる隊士。そしてもう一人を探し、銀平に悟られないように目を配った。並んだ軒先の影、誰もが見逃してしまう場所…。
(…いた…)
芦屋昇。
ある事情により一番隊から監察へ異動した隊士だ。彼は物乞いに身をやつしながら居酒屋の様子を伺うことができる場所でじっと身を潜めて座り込んでいた。
「福次郎はん?」
「…行こう。新撰組に絡まれる面倒や」
「せやな」
銀平の背中を押し、浅野は場を離れた。
芦屋がここにいたとなれば、やはり中にいるのは六番隊の三浦啓之助だろう。彼らは仲違いをしたまま数年が過ぎたが、芦屋はその姿を隠したまま、未だに献身的に三浦に尽くし続けている。そこにあるのは単純な主従関係ではない。
「…銀平、ここにはよく来るのか?」
「ん?まあ、あの居酒屋のおっちゃんとは懇意にしてるし…」
「時々様子を教えてくれ。…新撰組がたむろされたら、迷惑や」
「はは、こんな往来でそんなこと言うやなんて、福次郎はんは怖いもんなしやなぁ」
銀平は笑いながら「ええよ」と引き受けてくれた。彼の人の良い笑顔とは対照的に、姿を潜めた芦屋の表情は重く暗かった。


総司が巡察を終えて部屋に向かうと、土方だけではなく近藤までも厳しい顔をしていた。
「何か…?」
総司は恐る恐る尋ねると、近藤がためらいがちに答えた。
「いや、悪い知らせではないんだ。むしろ隊にとっても本人とっても良い話だと思えるのだがなあ…」
腕を組み直し「うーん」と呻く近藤からは一体何の話なのか見当がつかない。総司は仕方なく視線を土方に向けた。
「三浦に帰藩の話が来ている」
「…帰藩…ですか?」
土方の口から『三浦』の名前が出たことにも驚いたが、それ以上に『帰藩』という耳慣れない言葉にも驚いた。
「父の佐久間象山が暗殺されたときに、佐久間家は御家断絶処分となったが、京都所司代の松平様が処分の見直しを松代藩に指示されたんだ」
「三浦君の叔父は勝海舟。…その辺の力も働いたんだろう」
近藤が説明し、土方がぶっきらぼうに付け足した。三浦は洋学者佐久間象山の妾の子であるが唯一の血縁者だ。二人の話を
「良い話じゃないですか」
と総司はすぐに受け取った。一度は御家断絶にまでなりかけたのを帰藩まで許されたのだ。喜んで受け入れるだろう…と思ったのだが、二人の表情を見ると単純に話は進まなかったようだ。
「あのお坊ちゃんは断りやがったんだよ。今更佐久間の家を継ぐつもりはないと」
「あぁ…言いそうなことですね」
傲慢で素直でない三浦が、鬼副長を前にしても動じることない口ぶりで拒否したのが目に見えるようだ。総司は苦笑したが、土方は「笑い事じゃねえ」とため息をついた。
「松平様の助言があったのに一介の隊士が拒んで終わりっていう話じゃねえんだ。それにお前も無関係ってわけにはいかねぇんだからな」
「はあ…まあ、そうかもしれませんけど」
遠い昔のように思えるが、確かに三浦のことには関わりがあるのは間違いなく、彼とその忠臣であり同時に仇である芦屋の行く末を案じないことはないのだが。
(なんだか…嫌な予感がするな)
久々の晴れ渡った空なのに、なぜ嵐が来るような予感がするのだろう。






542


あれからどれほどの月日が流れたのか…さほど経っていないのかもしれないし、まるで一瞬のことのように過ぎていったのかもしれない。
周囲の環境は間違いなく変わり、移ろい、新撰組という大きな組織は駆け足でこの時代を駆けていくのに、その場で立ち竦み取り残されたように重たい身体が呆然としている。
少なくとも、時が止まっていた。
紐解ようのない主従関係はあの雨の日に打ち砕かれ、雨粒と一緒にどこかへ消えてしまった。
だが、皮肉なことに―――今はただ彼に『嫌われている』という事実だけが、それだけが己を生かしている。


「つまみがたりねぇ」
「おい、酒を持ってこい!」
居酒屋の外まで聞こえる騒がしい声。
昼間から酒を飲む…非番の隊士には許されているもののそれが毎回ともなればよく思わない者は多くいるだろう。それは町人だけではなく、新撰組の内部の人間もそうだ。だが、彼には『勝海舟』と『会津』という後ろ盾があり、簡単に文句を言えない立場だ。もちろん土方などは当然その存在を疎ましく思っているが、不思議と手を出さないでいる。
浅野はボロボロの着物に、褌、顔の大部分を覆い隠す頭巾という出で立ちで、その居酒屋の前で眉をひそめていた。傍目に見れば新撰組の横暴な様子を疎ましく思う平凡な何処にでもいる物乞いに見えるだろう―――『金山福次郎』という放蕩息子はそこにはいない。居るのは、ただの『三郎』だ。
そしてその居酒屋の傍、誰もが目を向けない細い路地に男がいた。
「おい」
浅野は声を掛けた。同じ監察でありながら彼が何と名乗っているはか知らないが、彼が芦屋昇という名前の隊士なのはよく知っている。
芦屋はその大きな体を曲げ膝を抱えたまま虚ろな眼差しで浅野を見上げた。焦点の定まらない目線や目元の真っ黒なクマ、窶れた口元は同じ物乞いとして迫真の演技…とも言えなくないが、それが仮の姿なのかどうかはわからない。
「…」
「中にいるのは『お坊っちゃま』か」
「…」
芦屋は何も答えない。
見かねた浅野は大きなため息をつきながら芦屋の側に腰を下ろした。
「帰藩の話は知っているだろう」
浅野は短く尋ねた。平隊士には知りようもない内部事情も監察には伝えられるため、彼の主人である三浦に『帰藩』の命令が出ていることは耳に入っていた。
それは芦屋も同じはずだ。
「悪い話じゃねぇはずだろう。一度は御家断絶になった…それなのにお偉いさん方の威光でここまで生き延びてきたんだ。この時代じゃなきゃとっくにのたれ死んでる」
「…」
「このどんちゃん騒ぎでわかるだろう?このままここにいても、いつか法度に背いて切腹になる…まあ、簡単にはならねぇだろうが、それでも結末は目に見えてる。…命令に従ったほうが、坊ちゃんのためだ」
親切心からの忠告のつもりだったが、芦屋は何の反応も見せない。
まるで死んでいるように。
何の反応も見せないと、流石の浅野も苛立つ。
「…まあ、いい。お前もあの坊ちゃんを付け回すことが仕事じゃねぇんだ。何のつもりかしらねぇが無意味なことはやめろ」
そう吐き捨てて「やれやれ」と立ち上がった時、
「無意味などではない」
低い呻き声のような重たい声が聞こえた。それは芦屋のものとは思えないほど、獣の唸り声のように暗い。
「…じゃあ、意味があるってのか?」
「…」
「少なくとも、坊ちゃんの方は迷惑しているだろうな」
「…」
芦屋の返答はない。もう何も言わないだろうと浅野は悟りそのままその場を離れた。
入隊以前からの歪な主従関係。なぜそれが壊れたのかは監察でも知られていない。三浦の方は芦屋の存在を徹底的に無視し視界に入れることはないが、芦屋の視界には三浦しかないように見える。一方通行の忠誠ーーー狂気を孕んだ愛情。
(…俺には理解できねぇが…)
薄暗闇の路地から抜け出すと、夏のまっすぐな日差しが浅野を照らした。それが眩しくて仕方なかった。



「井上のおじさん」
総司はそう口にして「あ、間違えた」と笑った。すると呼ばれた井上の方は
「なんだよ、沖田『先生』」
と茶化した。
総司からすれば三十歳以上年の離れた六番隊組長の井上源三郎は、西本願寺の境内を眺める場所でスイカにかぶり付いていた。誰の目も気にすることのない飾らない姿は試衛館にいた時と変わらなかったため、思わず『井上のおじさん』と呼んでしまったのだ。
「ほら、お前も食うか」
「いただきます」
総司は井上の隣に座り、スイカを受け取った。
井上は近藤の兄弟子という立場だがその剣の道は地道で、近藤とつねの婚礼の頃にようやく免許皆伝となったいわゆる努力家タイプだ。剣の腕では組長として劣る部分もあるがその分、総司のような天才肌とは違い、平隊士たちの立場を慮ることができ、信頼も厚い。一方で頑固な側面もある。
総司はスイカを口にした。程よい甘さと水分が身体に染み渡る。
「今日は暑いですね」
「ああ。江戸と違ってこっちは、まるで同じぬるい風がぐるぐる同じところを回ってやがるようだ。鬱陶しくてかなわねぇな。…お前はしっかり水を飲め、池田屋のこともあるんだからな」
「わかってますよ」
池田屋の時、熱中症で倒れたことを井上は昨日のことのように言い聞かせる。だいたい夏になったら同じことを言うので総司はすっかり聴き慣れてしまった。
井上は種を「ぶっ」と吐き出して食べ終えた。
「三浦のことか?」
「何も言ってませんけど」
「お前の言いたいことは大抵顔に書いてある。昔からそうだろう」
「…そうですかね。最近は大人になったと思うんですけど」
「どうだか」
井上は少し笑ったが、すぐに表情を落とした。そして言葉を絞り出すように続けた。
「…まあ…あんまりいい噂はねぇけど、悪いやつじゃねぇと俺は思う。例の一件から隊務にもそれなりに向き合ってるし、無茶苦茶はしない。酒癖が悪くて偉ぶっちまうのはあいつの境遇なら仕方ねぇところもあるだろう」
井上は同情めいた言い方をした。
彼の包容力や懐の大きさゆえに、六番隊にはさまざまな問題児が集う。傍目には「押し付けられている」ように見えるかもしれないが、井上の場合は試衛館にいた頃から稽古に身の入らない門下生の世話を焼いていたのだ。
「だから、帰藩って言われても素直に受けとらねぇのは当然だろうな。あいつからすれば厄介者扱いみたいに新撰組に入れられちまって、抜け出すこともできねぇんだから、可哀想なところもある」
「…そんな風にいうのは井上のおじさんくらいでしょうね」
「お前はどう思ってるんだ?」
「私は…」
総司はスイカを頬張った。このあっさりとした味わいのように、簡単に返答はできない。
「…私がどう思うとしても、三浦くんはきっと誰の言うことも耳を貸さないでしょう。一番信じていた人に裏切られて…ああ見えて、きっと孤独なはずです」
あの雨の日。
悲しい真実を知った三浦は絶望に突き落とされ、芦屋もまた何もかもを失った。その現場に立ち会った総司は三浦の下した決断に驚いたが、それが憎しみの形となった。
「…あながち、間違いじゃねぇようだな」
「何がです?」
「大人になった、っていうのは」
「…そうでしょ?」
総司は笑って、スイカにかぶりつく。その様子を温かき眼差しで眺めながら、しかし井上はため息をついた。
「帰藩するにしてもしないにしても…あいつらはここにいるべきじゃない。ここは、そんなに生ぬるい場所じゃねぇんだよな…」





543


誰に対しても大きな懐で受け止める井上が激昂しているのを見たのは、総司とスイカを食べた暑い日からさほど経っていない頃だった。
隊務を終えた六番隊の隊士たちがぞろぞろと部屋に戻る中、
「死番だってわかってるくせに二日酔いたぁどういう了見してやがる!」
まさに怒髪天を衝くような怒りの声が響き、屯所にいた全ての隊士達の視線は一箇所に集まった。井上の前で立ち尽くしているのは組下である三浦だ。顔を真っ赤に染め眉を釣り上げる井上に対して、三浦は淡々とした表情を崩すことはない。
「…何事もなく勤め終わりました。問題はありません」
「ああ、そうだ!雑魚みてぇな浪人ばっかりでてめぇはついてたんだからな!」
「…」
「そういうことを言ってんじゃねぇってわかってんだろ!責任感を持って勤めろって言ってんだ」
井上の説教に対して三浦は涼しい顔のままだ。何があったのかはそのやりとりで周囲にも朧げに理解でき、二日酔いで巡察に出た三浦に非があるのは明らかなのだが、彼はまさに暖簾に腕押し、聞こえてすらいないのではないかという澄ました態度だ。
それがますます井上の怒りに火をつけようとしたところで、「まあまあ」と原田が仲裁に入った。
「源さん、きっとこいつも反省しているだろうからその辺にしとこうぜ」
「む…」
「三浦も一言『すみません』て言えば済む話だろう?な?」
原田の言葉に少し冷静になったのか井上は口をへの字にしたまま頷いたが、今度は三浦が噛み付いた。
「問題なく隊務を終えたのに責められるなど心外です。自分は確かに体調不良でしたが死番として任務を果たしました」
「てめぇ、いい加減にしろよ!」
言い返したのは井上ではなく、導火線の短い原田だ。噛みつかんばかりに感情をむき出しにし、あっという間に三浦の胸ぐらを掴んだ。だが三浦は動じず
「私闘は禁じられていますよ」
と原田を煽る。「なんだってぇ?!」とさらに息巻く原田に、遠巻きに見ていた隊士たちが駆け寄りようやく二人を引き剥がした。
両腕をつかまれながら尚も怒りを滲ませる原田とは対照的に三浦は「ふん」と息を吐きつつ襟を正すと強気な態度を崩さなかった。
最初は無関係を装っていた隊士たちもあまりにも強情で無礼な三浦の様子に「おい」「いい加減にしろよ」と反感の声を挙げる。次第に二人だけではなく周囲にまで嫌悪が広がっていき、雰囲気が悪くなっていく。
それを止めたのは、それまではなしの中心にいた井上だった。
「三浦」
先程とは打って変わったような落ち着いた声で三浦の前に立った。
「死番でお前が死ぬのは勝手だが、その骸を持ち帰らなきゃならねぇのは俺たちだ。お前が一人死ぬと迷惑がかかる」
「…」
「人は一人では生きられねぇし、一人で死ぬこともできん…ヤケになって馬鹿な真似をするんじゃねぇ」
井上はそれだけ言うと背中を向けて去っていく。原田も「くそ」と毒を吐きながらもその場を後にしてその場はなんとなく解散となった。
三浦は俯いたまま、静かに気配を消した。


「…で、それを黙って見ていたと?」
土方に鋭く指摘され、総司は苦笑した。
「だって私が出て行ったところで火に油を注ぐだけじゃないですか」
土方は過去に総司と三浦の間にあった蟠りを知っているので「それはそうだな」と頷いた。総司は続けた。
「それにあの温厚な井上のおじさんを本気で怒らせるなんて、試衛館にもなかなかいなかったですよ。大物だなあ」
「呑気なことを言っている場合じゃねえだろ。せっかく帰藩なんて願っても無い話が持ち上がってるんだ、厄介なことが起こる前にお引き取り頂かねぇと」
「土方さんは相変わらず三浦君が邪魔なんですね」
「当たり前だろう。剣もロクに使えない、世間知らずの坊っちゃまを預かってやってるんだ。勝海舟の後ろ盾がなきゃとっくに法度違反で処断してる。…お前だって面倒だと思っているんだろ?」
「面倒…とは少し違いますけど」
三浦の行動は目に余るものがあり土方が邪魔者扱いするのは当然だろう。総司も最初彼が一番隊に配属された時には辟易としたものだが、しかし簡単に『面倒』と割り切れないところもある。
総司が言葉に詰まっていると、「もういい」と土方が話を切り上げた。三浦のことを考えるだけで疲れるのだろう。
「そんなことより、長州征討は終わったようだ」
「終わった?休戦ですか」
「表面上はな。実際には…全面敗北だ」
土方は苦々しく吐き捨てた。
六月から始まった長州征討は、当初は幕軍が優勢と思われていたが、長州の反撃に会い次第に膠着状態に陥った。軍艦の撤退や小倉藩の孤立など想定以上の長州の戦力を前に徐々に幕軍が不利となるなか、全軍の長であった将軍が死去した。それにより幕府が朝廷から休戦の勅命を得て、停戦状態になったのだという。
総司は首を傾げた。
「将軍家を継がれた一橋様が自ら出陣されるって噂を聞きましたけど…」
「小倉が陥落したって話を聞いて怯んで取りやめだ。豚一公は口だけ達者な食わせ者のようだ、気に入らねえ」
次期将軍となるであろう一橋慶喜は豚を好んで食したため、『豚一公』と揶揄される。忠誠心の厚い近藤がこの場にいれば一喝されるような物言いだが、停戦の経緯だけでなく、徳川家だけ継承し将軍の職には就かないという慶喜の煮え切らない態度に辟易としているのは土方だけではないのだろう。
しかし総司にとっては手の届かない遠い世界の話としか感じられなかった。
すると土方が一枚の紙を広げた。
「豚一公の話はとにかく…。この人相書きに見覚えはないか?」
「女…ですか?」
総司は広げられた紙を手にしてまじまじと見る。髪が長くほっそりとした輪郭は女のようで最初は検討もつかなかったが、細部に目を凝らすよりも遠目でみると見覚えのある顔だった。
「…河上、河上彦斎ですか?」
河上彦斎と対峙したのはもう一年ほど前になる。英…当時は宗三郎と名乗っていた彼に近づき、間者に仕立てようとしたが失敗、火をつけて去って行ってから邂逅することはなかった。
河上は稀代の人斬りとして名を挙げているが、実際には小柄で色白の女顔であったためイメージとはかけ離れた容貌なのだが、何度も顔を合わせた総司にはその射抜くような眼差しが焼き付いていた。
土方は「やはりか」と続けた。彼も一度対峙したことがあるためその予感があったのだろう。
「最近洛内を騒がせている『人斬り』だそうだ。幕府側の役人を何人か殺している。河上は長州の奇兵隊に加わっているという話だったからもしや人違いかと思ったが…こっちに戻ってきやがったんだな」
「…」
総司は土方の言葉が耳に入らなかった。
思い出すのは河上と対峙したあの火事の日。宗三郎を人質に取りながら、彼は人殺しの理由について
『邪魔だからだ』
とはっきり答えた。家畜と同じだと迷いなくさも当然のことのように微笑む男にはきっと言葉など通じないのだろうという隔たりを感じたが、一方で彼が『同じ類の人間だ』という厳然たる現実も突きつけられた。総司が彼との斬り合いに一種の興奮のような喜びを覚えていたのも確かなのだ。
だからこそわかる。
(…呼ばれているのだろう)
わざわざ都へ戻り思想なき人斬りを繰り返すのは、そうしていれば治安維持を務める新撰組、そして総司の耳に自分の存在が知れると思っているはずだ。
「英に聞いたが、河上はお前に執着している部分がある。気をつけておけ」
「…わかりました」
総司は人相書きを土方に返しながらふと思い出す。
(そういえば…三浦君の父君を殺したと噂になったのも河上だった…)
表向きは河上は佐久間象山を暗殺し、それが理由で三浦は新撰組に仇討ちのために入隊したことになっている。そしてまた三浦の名前が挙がった頃に河上と邂逅することになる―――偶然に違いないが、必然とも言えるタイミングに意味があるのだろうか。
そんなことを考えた。





544


突然の将軍の崩御、長州征討の停戦…幕府の求心力の低下を思わせる出来事が続き、次第に世間には不安の声が上がり始めていた。将軍の座が不在である幕府への不満、力を持ちつつある長州への賞賛や否定、内戦の影響で各地で打ちこわしや一揆が多発している現状…一時的には収束したとしてもまだ戦の炎は燻り続けている。
「福次郎はん!」
「銀」
『金山福次郎』として大通りを歩いていた浅野は変わりない様子の銀平に声をかけられて足を止めた。人通りの多い道だというのに銀平は子供のように駆け寄った。
「また江戸に行ってはるんかと思うてた」
「しばらくはこっちにある。…んで、何の用や?」
普段から実家の和菓子屋で手伝いをしている銀平は愛想の良い表情を崩さないが、今日は一段とご機嫌な様子だ。おそらく彼が抱えている小さな風呂敷にその理由があるのだろう。
銀平は満面の笑みで頷いた。
「福次郎はん、時間ある?俺の作った菓子、食べてくれはらへん?」
「甘いもんは好かんって何度も言うとるやろ」
「今日は会心の出来なんや!きっと福次郎はんも気にいるって!」
子供のように腕を引いて「な?な?」と上目遣いに懇願されては拒むことはできない。浅野は「仕方あらへん」と苦笑しながら頷いてやった。
「やった!じゃあ河川敷に行こ!今日はきっと涼しくて過ごしやすいはずやし」
「わかったわかった」
浅野は銀平に背中を押され、近くの河川敷に向かって歩き始めた。
決して甘いものは得意ではないが、無邪気な銀平と過ごすときはたとえ偽の姿であったとしても自分自身が安心して気を抜ける時間でもあった。裕福な商家の次男坊『金山福次郎』でもなく新撰組の『浅野薫』でもなく…何か別の存在になれるような不思議で安らかな気持ちになるのだ。
そうしてたどり着いた河川敷で二人は並んで腰を下ろした。男同士で肩を並べて菓子を食べるなど、妙な誤解をされそうなものだが、小柄で人懐っこい銀平が隣では兄弟にしか見えず邪推されないで済むだろう。
早速、彼は得意げに風呂敷を開き、自慢の菓子を披露した。見た目は白あんをベースにした桃色の花をモチーフにした生菓子だ。
「まだ形は良くないんやけど、味は自信作やから!」
「ふうん」
浅野は銀平から受け取り、ひとくちで口に入れた。見た目とは異なりしつこいこともなくあっさりとした甘さだ。
「…悪くない」
「せやろ?」
「少なくともお前が俺に食べさせた中で一番良い出来やな」
「やった!」
銀平は両手で拳を作って振り上げ喜びをあらわにした。
「絶対、そう言ってもらえると思うてたんや!福次郎はんに食べてもらえてよかった」
「美味いとはいうてへん」
「わかってる。せやけど、甘いもん嫌いの福次郎はんがそういうなら『ええ出来』なんやって!」
無邪気な銀平は目を輝かせて浅野を見る。まるで子犬のような真ん丸い瞳に見つめられると、浅野には居心地が悪い。それ故に
「…せやけど見た目がまだまだや。親父さんに仕込んでもらえよ」
とつい喜びに水を差すようなことを言ってしまった。
モチーフが花の形だというのはわかるが、なんの花なのかはわからない。浅野が指摘すると銀平は「ああ、うん」と突然、声のトーンを落として消沈した。先程までの喜びようが嘘のようだ。
「…何や。いつもこのくらいのダメ出し、凹まなやないか」
「そうなんやけど…」
表情を落とす銀平は少し言葉を選ぶように逡巡した。
「…親父の具合があんまり良くないんや」
「親父さんが?」
浅野は驚いた。
何度か銀平に連れられて彼の和菓子屋を訪れたことがある。何代も続く由緒ある店頭に並べられた繊細で色とりどりの菓子…それを作ったとは思えないほど、快活で明るい親父だったので、具合を悪くしているとは思わなかったのだ。
「最近風邪もらって、ずっと寝込んでる。店も休みっぱなしや…」
「そうか…」
銀平の母親も数年前に流行病で亡くなっている。一人っ子の銀平にとって父は師匠であると同時にたった一人の家族でもあるのだ。家族と縁遠い浅野には、彼に何を言ってやれば良いのかわからずに一緒に黙り込むしかない。
二人はしばらく川のせせらぎの音に耳をすませた。穏やかで延々と続く日常の音は、いつもそこにあるのに、いつもはその存在を気に止めることはない。
銀平は顔を上げて、また微笑んだ。
「…せやから、早く一人前になって親父を安心させたいんや。福次郎はん、協力してや」
「…もちろん、俺にできることなら」
「ほんまに?じゃあ毎日味見してもらお」
「毎日は困るな」
浅野が正直に答えると銀平は「冗談や」と言って、二人で顔を見合わせて笑った。銀平は無邪気に笑ったが、浅野はちくりと胸が痛んだのを隠した。
(銀とは…普通に出会いたかった)
『金山福次郎』でもない『新撰組隊士』でもない、ありのままの自分で会いたかった。そうすれば気の置けない友人になれただろう…そんなどうしようもない想像が頭を巡る。
「あ」
銀平はふと空を見上げた。先程まで照りつけていた日差しが厚い雲に覆われて辺りは薄暗くなる。そしてポタポタと雨粒が溢れてきた。
夏の天気の豹変は珍しくない。二人は急いで河川敷を離れ、人気のない母屋の軒先を間借りして雨を凌いだ。
「そうや、前に福次郎はんが気にしてた新撰組のこと…」
「ああ…」
「このところまた騒がしくしてるって。酒癖が悪いからどこの店でも嫌がられてみたいやけど、金があるし乱暴やから蔑ろにするわけにもいかへん…みんな困ってるみたいや」
「…そうか…」
屯所での三浦は幹部からお灸を据えられたのか、このところ大人しくしているようだが、外ではその鬱憤を晴らすように暴れているのだろう。彼には給金以外にも佐久間象山の妾である母からの仕送りがあるので金には困らないはずだ。
(やれやれ…)
浅野が肩でため息をつくと、銀平がまじまじと見ていた。
「なんや?」
「何で新撰組のことなんか気にしはるんかなあって」
「…言っただろう。身の回りに屯されるのは迷惑やって」
「そうやけど、なんか…迷惑っていうより憎んでるみたいやなって」
「…」
どきりとした。
銀平の言葉には一切の邪推はなく、素直なものだ。だとしたら傍目には本当にそう見えるのだろう。
それを観察として自分が有能であるととるか、それともそれが本心であるととるか…それは浅野次第でしかない。
「…京に新撰組のことを好いてるもんなんておらへんやろ」
「ふうん…」
次第に雨は大粒のそれへと変わっていった。


突然の土砂降りのせいで傘は重く身体中がずぶ濡れになったが、物乞いの衣服に執着はないので厭わず歩いた。
先程まで人々の往来で賑わっていた大通りも、雨が降り出すとあっという間に引いていった。お陰で物乞いのような格好でど真ん中を歩いても咎められることはないのだが、それでも一目につかないように端っこを歩く。それが監察としての習慣…というより、性なのだ。
西本願寺の屯所を避けて静かな道を行く。やがて辿り着いたのは庭のある町屋だ。特筆して特徴はなく周囲と溶け込んだ小さな邸宅だが、ここに来ると自然に緊張感が増した。
庭に続く扉を開け中に入る。いつもなら足音一つ立てずに入るが、雨に濡れて泥濘んでいるのでそれはできない。そのせいかいつもよりも早く庭の障子が開いた。
「やっと来たか、芦屋」
憮然と言い放ったのは、別宅の家主である新撰組副長の土方だ。芦屋は庭に腰を下ろし頭を下げた。
土方は縁側に出た。
「帰藩の話は耳にしているだろう」
「…はい」
「三浦を説得しろ」
誰にも文句を挟む暇を与えない端的な命令はいつものことであるし、抗おうと考えたことすらないが、芦屋には流石に頷くことはできなかった。三浦と芦屋の主従という関係はとっくの昔に破綻し、芦屋は彼の中でいないことになっているのだ。あれから言葉すら交わしていない。
「…しかし…俺は…」
「早く手をうたねぇと、法度違反になるのが先になる」
「…」
脅しとも言える土方の態度に、芦屋は言葉に詰まった。
新撰組の隊士として三浦は相応しくないと誰もが思っている。法度に触れれば誰であろうと処断する…三浦はいまギリギリのところで踏みとどまっているだけだ。
「…わかりました」
芦屋にはそう答えることしかできなかった。
雨が強さを増す。
あの日のように、全てを流して行くのだ。




545


夏の盛りは過ぎて、夜はようやく涼しい風が心地よく感じられるようになった。
三浦は煙草を吹かしながら、雲ひとつない月夜を見上げていた。澄んだ空気のせいで星が眩く目を奪われる景色だが、一方で店の中からは見知った隊士たちの騒ぎ声が聞こえる―――酒に酔い、女と戯れる…次第に辟易として金だけ渡して店を出た。隊の厄介者である三浦に近付く理由が、手持ちの金だということはよく知っていた。最初はそれでも良いから孤独ではありたくないと願ったが、今はこうして一人になる時間も悪くないと思える。
(母上は息災だろうか…)
殺された父・佐久間象山の仇討ちをするために新撰組に入隊したと思い込んでいる母は、定期的に激励の手紙と金を送ってくる。世間知らずの母は父を殺したと噂される河上がどのような男か、そして己の息子がどれだけ脆弱か…知らないのだ。
それを愚かだとは思わない。世の中には知らないで良いのならその方が良いことは沢山あるのだ。
例えば、本当は誰が父を殺したのか。
「…」
吐き出した灰色の煙が、美しい月夜を汚すように上って行って、消えた。
思考を止めようと別のことを考える。近藤から聞いた『帰藩命令』…本音を言えば悪くないと思った。新撰組から脱する方法は逃げ出すか、死ぬかしかない。特別扱いだと非難を受けそうなものだが、京都所司代からの命令ともなれば誰も非難の声を上げることもないだろう。退屈で窮屈で空気の不味い…こんな場所に居続ける理由なんてないのだから。
それなのに、口をついて出た言葉は『佐久間の家を継ぐつもりはない』という意固地なものだった。父への多少の憧れはあったが家へのこだわりは無く妾腹の子である自分が肩身の狭い思いをするのは目に見えてわかる。それに表向きは『仇討ちのため』に新撰組に入隊したのだから、それを果たせずに帰藩など笑われるに決まっている。
どちらに在っても息苦しい。
「…くそっ」
苛立ちは募って、ふと足元にあった石ころを蹴った。勢いよく転がって何かにぶつかって止まった。
「…」
「…」
『それ』と向き合ったのは随分久しぶりのことだった。
けれど『それ』がずっとそばに居たことは知っていた。
「…俺の目の前に現れるなと言っただろう」
芦屋登。かつての自分の下僕であり、従者だった。けれど父を殺したと知ってから、その存在を無視し続けてきた。
最初は怒りに囚われ、自分を監視しているのだと憤ったが、今はすっかり慣れてしまいこうして夜歩きしていても(どこかで見ているのだろう)と気にすることはなかった。彼は決して姿を現さずにいたからだ。
芦屋は地面に膝を折り、土下座した。
「…なんの真似だ」
「お許しください」
「何を…っ」
カッと炎が灯ったように感情が湧いた。
(許す?一体何を…)
芦屋は顔を上げることなく俯いたまま
「こうして姿をお見せしたことです」
と答えた。
三浦は芦屋に歩み寄った。そして土下座する彼の肩に片足を掛け、力を加えた。
「…っ」
「お前は犬以下の分際で約束を違えた」
「…申し訳、ございません…」
芦屋は抵抗しなかった。三浦よりも体格が良く剣技にも優れ…何もかも上回っているのに、甘んじで受け入れた。
(ますます腹立たしい…)
芦屋は何年もそこにある石像のように動じない。そうされるのが当然であるとすっかり受け入れている。
頭を地面に擦り付けながら、芦屋は呻いた。
「帰藩の、命令が出ています…」
「…!」
「土方副長より…説得せよとの命令が下りました」
脳裏に土方の不遜な態度が浮かんだ。彼は勝海舟との縁戚に当たる三浦へ強く帰藩を命令することはなかったが、まさか芦屋を使ってくるとは思わなかった。厄介者を早く追い払いたい…土方の意図がはっきりとわかる。
三浦はさらに意固地になった。
「…誰がお前のいうことなど聞くか。副長にもそう伝えておけ」
「…」
「今、帰藩すれば仇討ちできずにおめおめと引き下がったことになる。そんな恥ずかしい真似できるか!」
三浦は芦屋の肩を蹴り上げた。骨の太い芦屋の体はそれくらいで動じることはなかったが、彼の顔は痛みで少し歪んだ。
(苦しめ)
裏切られ続けてきたこの心の痛みに比べれば、こんな痛みなど大したことはないはずだ。
「…じゃあな」
三浦はそう吐き捨てて去ろうとしたが、彼は手を引いた。
「っ、なんだよ!」
「俺を殺してください」
「は…?」
「俺を殺せば、貴方の面目は立つ」
あの雨の日。
『坊ちゃんの仇討ちの相手は私です、さあ…私を殺してください』
芦屋は剣先を首筋に当て、命を差し出した。虚ろな目をして、なんでもないことのように。
今、目の前にいるのと、同じ姿で。
(俺は…あの時に選んだ…)
死ぬよりも苦しいことを、彼に与えた。
でも同時にそれは、自分のために選んだはずだ―――。
「…お前を殺したところで、誰が父を殺したのがお前だと信じるものか」
「…それは…」
「もういい、離せ!」
「坊ちゃん!」
三浦は手を振り払い、駆け出した。途中何かにぶつかったがそれを気に止めることなく、走り続けた。
もう影に囚われたくはなかった。
なのに、眩しい月は影を作り出す。どこに逃げても、追ってくる。


縁側の床板はひんやりとして夏の暑さに火照った足の裏を心地よく冷やした。
「土方さん、今日は良い月夜ですよ」
雲ひとつない空に浮かんだ月の模様がよく見える。
総司は縁側に誘い出そうとしたのだが、土方は「ああ」と生返事をしながら忙しそうに書類に目を通していた。
総司は仕方なく一人で腰掛けると、世話役であるみねから受け取った餅を口にした。近藤の別宅とこちらの別宅を掛け持ちしているみねだが、仕事はきっちりこなしていて庭の剪定も見事だ。お陰で優雅な気持ちで満月を見上げることができている。
「…お前、今日は昼の巡察だったよな」
餅を食べ終える頃、相変わらず書類に目を通したままだが、土方が声をかけてきた。
「そうです」
「いつもと変わったことはなかったか?」
「ないですよ。…ああ、もしかして河上のことを気にしているんですか?遭遇したらもちろん報告しますし、無茶なことは二度としません」
「どうだか。お前は案外剣の抜くと見境がなくなる」
「…否定はしませんけど…」
総司はそれ以上は言わずに二つ目の餅に手を伸ばした。
土方のいうとおり河上だけではなく、剣を抜いて対峙するとそれだけで頭がいっぱいになってしまう。
(もし河上にまた対峙したら…)
蛇のような不気味な目つきを思い出すだけで、自分の中の何かが燃え立つ。
(わかっている…)
彼の中の何かが『同じ』なのだ。立場も性格も志も何もかもが違うのに、ある部分だけが同じ
。しかしそれを説明したところで理解は得られないだろう。
幸いなことに土方はそれ以上追求せず、筆を置くと新しい紙に手を伸ばした。
「お前、平助とは話してるか?」
「え?何ですか、藪から棒に」
「いや…何も突然ってわけじゃない。前々から気になっていた」
「…」
数年前ならなんて事のない話題だったのだが、今は言葉に窮してしまう。
彼と亀裂が生まれたのはいつからだったか。山南が切腹した時はどうにか修復した。けれど彼は旧知の仲である伊東へと傾倒し、ことあるごとに近藤や土方に意見し始めた。特に河上が切腹した一件が決定的となり、総司を避け始めた。つい最近では近藤が孝を妾にしたこともよく思っていないようだ。
「…藤堂君は、色々思うところがあるようですけど…根っこの部分は変わらないと、信じたいと思います」
「…お前は、お人好しだな」
「土方さんはどう思うんです?」
「…」
土方は手を止めた。そして間をおいて、まるで重たい物を持ち上げるような気だるげな様子で答えた。
「…あいつはもう試衛館食客と呼ばれたくはないのかもな」
「…」
曖昧で、不明瞭で…けれども寂しさの混じった現実だった。
人の心は移ろい、あちこちに散らばっていく。
「ケホ…」
不意に咳をした。
「あんまり薄着で外に出るなよ」
「はい」
総司は縁側から中に入った。





546


残暑。
夏の忘れ物と秋の気配が混ざりあう街角で、浅野が物乞い『三郎』に身をやつし道端に腰を下ろしていた。着物というよりもハギレで身を隠すだけの衣服を窮屈に纏い、踏みつけるばかりの荒れ果てた地面に横たわる、人によっては苦痛な仕事だろうが、浅野にとっては悪くない時間だった。
(何も纏わないで済む)
何も持たない物乞いは、新撰組隊士でもない、裕福な商家の次男坊でもなく、浅野薫という人間ですらない。いくつもの仮面をかぶる監察にはそんな空っぽの時間が必要なのだろうとさえ思う。
横たわって見据える世相は、最近はより一層騒がしい。
「お上が長州一国に負けるやなんてなぁ」
「戦になるかもしれへん」
「米も少のうなって…いややわあ」
年老いた老人から女子供まで揺れ動く時勢を憂い、あちこちで噂話をしている。長州の世になるのか、都が戦場になるのか、異国に攻め込まれるのではないか…根拠のない不安があちこちで煙のように立ち上がって、ゆらゆらと広がって消えていく。しかし漠然とした気配だけを残して。
新撰組に入隊した頃、浅野も血気盛んな若者らしく幕府の衰退を憂い、長州憎しと憤った。特に池田屋の一件で新撰組の名が一気に世間に広まった時は町を歩くことさえ誇らしく思ったものだ。しかし副長助勤に出世した頃から…その気持ちはやがて薄れていった。
(どうせ世の中は俺の知らないところで動いて、変わっていく)
そんな無力感に苛まれ、ただ従順に仕事をこなすだけの日々を送っている。
仮面を被りすぎたのだろうか。
「『箭内屋』のご主人、気の毒やったなぁ」
ふと、通りすがりの老人の声が耳に入った。身なりの整ったそれなりの家の隠居だろう、若い付き人の男を連れて歩いている。
(箭内屋…)
それは銀平の和菓子屋だ。
「あすこのご主人の草餅は絶品やった。もう食べられへんやてなあ」
「へえ、ほんまに」
「倅はまだ若かったはずや。跡継ぐゆうてもなあ…」
浅野はハッと身を起こし、「もし!」と彼らのところに駆け寄った。物乞いが急に駆け寄ってきたものだから二人は「ひっ!」と驚いて後ずさりしたが、浅野はかまわず詰め寄った。
「箭内屋のご主人、なんやあったんか?!」
「お…お前さん、お知り合いかい?」
老人の問いかけに頷く。すると彼は顔のシワを寄せて「怪我が悪化してなぁ」と続けた。
「倒れた拍子に頭を強う打ったらしゅうてなぁ。昨日、亡くなったらしいわ」
「怪我って…親父さん、風邪をこじらせたって…」
銀平は父親は風邪で寝込んでいると言っていた。怪我とどうも結びつかない。すると付き人の男が「新撰組の仕業やって噂や」とうんざりするように吐き捨てた。その瞬間、身体に電撃のような何かが走る。
「新撰組…?なんでや…」
「ご主人が散歩してはったときに、新撰組に引き倒されたらしいわ、ほんまに粗暴な奴らやな」
「…」
「残念なことやなぁ」
「もうええか?」
しみじみと寂しさを漂わせる老人は付き人の男に背中を押されて歩き出す。みすぼらしい物乞いとこれ以上関わりたくないと思ったのだろう。しかし浅野にはそんなことすら気にならないほど頭が真っ白になっていた。
(引き倒されたて…)
いくら新撰組でも不逞浪士以外に乱暴を働くようなことはない。だとすればそれ以外の揉め事なのか。
「…くそ」
浅野は駆け出した。銀平の和菓子屋は少し離れている。
万が一のことを考え、『金山福次郎』と『三郎』のテリトリーは離れていて極力近づかないようにしているのだが、今はそんなことを考えることすらできなかった。
(どういうことだ…一体、何があった…!)
銀平のことを慮る気持ちと、焦りが心を占める。何も分からないのに、悪い予感だけが募っていく。
人目もはばからず走り回り、ようやく店が見えてくる右の角を曲がろうかという時、不意に足が止まった。
(この姿で…銀平に会えるはずがない)
もどかしい理性が体を止めた。名もなき物乞いでしかない自分には、嘆き悲しむ銀平の前に立つことすらできない。慰めの言葉一つ、かけてやることができないのだ。
「くそ…」
無力な自分に苛立ちながら、しかし立ち去ることはできずに角を曲がり、物陰に姿を隠した。
店の様子を伺うと視界に銀平の姿が入った。白い喪服に身を包み、数名の弔問客と思われる大人たちに頭を下げ続けている。会話までは耳に入ってこないが「気丈に」「しっかり」…そう声を掛けられているのだろう、銀平はどうにか微笑んで頷いていた。
底抜けに無邪気で明るい銀平を知っている浅野には、その姿が痛々しく映り、見ていられない。ましてやそれが新撰組のせいだとすればなおさらだ。
(なにかの間違いかもしれない…)
自分を誤魔化す期待…しかしこちらに歩いてきた弔問客の言葉ですぐに打ち砕かれる。顔を知っている和菓子屋の常連客の夫婦だ。
「新撰組に突き飛ばされたってなぁ」
「銀ちゃん、どないするんやろうか。事故とはいえ、不運なこと…」
(事故…だと…)
夫婦が通り過ぎたあと浅野は銀平へと視線を向けた。彼はひとり、涙を堪えるように空を見上げていた。浅野はその場から動くことすらままならなかった。


三浦は井上に呼ばれ、ともに各組の部屋を通り抜け、西本願寺の奥へと歩いていた。
(嫌だな…)
先日諍いを起こした上司の井上に連れられるというのも気が進まないし、この先には局長と副長、参謀の部屋がある。大抵そこに呼び出される隊士には良いことはない…隊士たちもそれを重々知っているので、連れて行かれる三浦の姿を見て何かを察したはずだ。
(指をさして笑っているに違いない)
卑屈な気持ちに苛まれながらたどり着いたのは局長の部屋だった。鬼の副長の部屋でなかったことには少し安堵できたが、しかし「失礼します」と軽く頭を下げて部屋に入ると、三人が揃っていたのだから同じことだ。
三浦は局長の前に渋々座った。
(どうせ帰藩のことだろう…)
そう高を括ったが、近藤は「三浦くん」と重たい口調で口を開いた。
「一昨日の夜はどこにいた?」
「…一昨日、ですか」
思わぬ質問に三浦は困る。一昨日は隊士たちも数人と飲み、飽きた頃に金を置いて店を出た。そしてそのあと芦屋に会ったのだ。
(あいつ…何か言いつけたのか…)
不信な気持ちで「鴨川沿いで飲んでいました」と淡々と答えた。もっとも一昨日は非番だったので問題はないはずだ。しかしその答えを聞くと局長の表情はますます渋くなり、参謀は視線を落としながら扇でその口元を隠す。副長だけは表情を変えなかった。
「…なにか?」
「一昨日の晩、新撰組の若い隊士に突き飛ばされ怪我をしたという報告があった。打ち所が悪く昨日亡くなったそうだ」
土方の淡々とした言葉の後、参謀が三浦を見た。
「場所は鴨川沿いのある店の前。その時間、近くで飲んでいた隊士は、君が先に店を出たと証言していますよ」
「俺が突き飛ばしたとでもいうのですか?!」
三浦は(冗談じゃない)と声を荒げたが、一方で身体のどこかが重たかった。
あの時、芦屋とのやりとりにうんざりして駆け出したーーーそして何かにぶつかった記憶がある。
(まさか…そんな馬鹿な…)
悪い夢に違いないーーー三浦はそう信じたかったが、早々に打ち砕かれる。
「残念ながら、監察から報告が上がっている」
土方の言葉に、
「芦屋ですか?!」
と咄嗟に詰め寄った。あの場にいたのは芦屋だけで彼が告げ口したのだと思った。
(あいつが…!)
だが
「違う」
とすぐに否定され、それ以上は土方は答えなかった。
(…他の監察をつけていたっておかしくはない…)
三浦はそう悟り、グッと唇を噛み締めた。目の前に近藤は困ったように息を吐く。
「三浦くん、君は身に覚えがないというのか?」
「……覚えがありません」
どうにか答えたその言葉はどこか空々しく部屋に響いた。
肯定も否定も誰の耳にも入らない。誰も何も答えずに沈黙だけが流れる。そのゆっくりとした時間は虚しい孤独に落とされるようだった。
「…すみません」
その沈黙を破ったのはそれまで口を挟まなかった井上だった。
「おそらく、三浦は突然のことで困惑してます。責任を持って謹慎させますんで、時間をもらえませんか」
「…そうだな。いいかな、副長」
近藤が土方に話を振る。土方は「ああ」と短く答えた。







547


数日後、浅野は『金山福次郎』として初七日が開けた日に店を訪れた。
堂々と掲げられた『箭内屋』の看板とは正反対にしんと静まった店には、自慢の菓子は当然一つもなく時が止まったかのようで虚しい。
浅野がしばらく立ち尽くしていると、「すんまへん、今日は…」と奥から銀平が顔を出した。客がきたのかと思ったのだろう、銀平は浅野の顔を見て「福次郎はん…」と安堵の表情を浮かべた。
「…銀、すまないな、行商に出ていてすぐには来られなかった」
浅野はそう言い訳したが、本当は彼の前に顔を出しても良いのか躊躇っていたのだ。彼にとっては友人であっても本当は新撰組隊士だ…浅野自身の気持ちの整理がつかなかったのだ。
「大変やったな」
「うん…」
銀平は少し顔を伏せたが、すぐに「中入って」と奥へと案内した。店先へは何度か足を踏み入れたことがあるが、奥に入るのは初めてだ。
居住スペースである部屋と職人である父親が菓子を作っていたであろう広めの土間と台所があって、隅々まで綺麗に片付けられている。葬儀のためかもしれないが生活感がまるでなく、まるで誰もいないかのように息をしていない。
「位牌はこっちやから、線香あげたって」
「あ、ああ…」
浅野は戸惑いながらも部屋に上がり、位牌の前に座った。年季の入った小さな仏道の前にある真新しい位牌は父親のもので、その後ろにある小さめのものは母親だろう。こうして並べているのを見ると銀平がたった一人になってしまったのだということを思い知る。
「…」
浅野は線香の火を消した。ゆらゆらと立ち上る白い煙だけがこの静かな家で生きているように見えた。
手を合わせ、一息ついたところで浅野は銀平へと身体を向けた。
「…何があったんや?」
自分でも白々しい、と思いながらも尋ねる。しかしまだ何かの間違いではないのかという期待を捨て切れなかったのだ。
銀平は顔を顰めた。
「新撰組にやられたんや」
「…それじゃ、わからん。親父さんは新撰組に恨みを買っていたんか?」
「違う。…あの晩は、やっと風邪が治って、夜風が気持ちええから散歩に行くなんて親父が言い出したんや。『無理したらあかん』って言いかけたんやけど、まあそれくらいはええかって送り出したら…」
近所の住人が親父が頭から血を流し、呻き声を上げ倒れているのだと知らせに来たという。近くの医者に診てもらったが打ち所が悪くそのまま亡くなった。
「…それが、なんで新撰組やって…」
「親父が倒れていたすぐそばの店で、新撰組の奴らが飲み騒いでたんや。そのうち外でも喧嘩が始まって…そのあとすぐに親父の声が聞こえたって。知らせてくれた近所のおっちゃんが居酒屋で居合わせてたんや、間違いあらへん!」
「…」
目にいっぱいの涙を浮かべ、銀平が声を荒げた。くしゃくしゃになった顔は悲しさよりも悔しさが上回る悲痛なものだった。
銀平は続けた。
「役人にももう届けてる。新撰組にも伝わってるはずやのに…誰が親父を死なせたか、わからへん…悔しい…」
堪え切れない大粒の涙が銀平の�茲を伝い落ちる。それを両手で子供のように拭うが、しゃくり上げるほどの悲しみには追いつかずにポタポタと流れて行く。
浅野は咄嗟に銀平を抱きしめた。細く小さな彼は思った以上に小さい。
こんな小さな体で、こんな静かな家で、たった一人で苦しみ続けている銀平が哀れで仕方ない。
銀平は浅野の肩を涙で濡らしながら
「憎い…憎くて仕方あらへん…!」
と繰り返した。
明るく社交的な銀平から、憎悪の言葉が出るだけで浅野の胸を締め付ける。そしてそれがお前が憎いと言われているような気がした。

しばらくして銀平がようやく落ち着くと、少し照れ臭そうに浅野から離れた。
「へへ…なんか、ちょっとスッキリした。おおきに」
目元を真っ赤に腫らしながら銀平は少しだけ笑った。
「…これからどうするつもりや?」
「うん…とりあえずこの家は出ることになるかな」
「お前が継がないのか?」
浅野が尋ねると銀平は「まさか」と苦笑した。
「俺にはまだそんな腕は無いし…実は親父が寝込んでいる間に借金が嵩んだんや。働いて返さな…」
「…そうか…」
「ほんまは親戚から一緒に暮らそうって言われたんやけど…断った」
「なんでや」
「都を離れることになってまう。…それは、嫌や」
銀平の瞳に奥が暗く陰った。その意味が浅野にはわかった。
浅野は彼の細い腕を掴んだ。
「…お前、バカなこと考えてるんやろ」
「バカなことって?」
「…新撰組に復讐、や」
「…」
浅野は確信を持って尋ね、銀平は無言で返した。それは嘘のつけない銀平にとって肯定だった。
「お前のこんな細っこい腕で何が出来るんや。新撰組は人斬り集団やぞ」
「せやからっておめおめと引き下がれへん!せめて誰が親父を殺したんか、その顔拝まな、あの世で親父に顔向けできへんやろ!」
「その気持ちはわかる。せやけどお前なんて返り討ちにあっておしまいや」
「…っ、なんでそないなこと福次郎はんに言われなあかんのや!」
「俺だから言ってるんだ!」
「…?!」
思わず言葉の武装が剥がれた本音が溢れ、浅野はハッとした。銀平も驚いた顔で唖然と見ている。
「…泣き寝入りせぇとはゆうてへん。俺に任せてくれ」
「なんで…福次郎はんに」
「ええから」
浅野の説得に銀平は納得していなかったようだが、「わかった」とどうにか剣を鞘に収めてくれた。


「じゃあ、俺は帰る。お前はしっかり休め」
「わかってるって、福次郎はんもしつこいなあ」
銀平は浅野を送るため店先までやってきた。幾度となく休むように念押ししながら、がらんとした店を眺める。入り口近くに立てかけられた暖簾が寂しさを際立たせた。
「お前、もう菓子はつくらへんのか?」
「…師匠の親父がおらへんようになったんやから、もう…」
「この間の菓子は美味かったな」
河川敷で味見しろと半ば無理やり食べさせられたが、甘いものが苦手な浅野でも『美味しい』と感じられる一品だった。
銀平は少し顔を赤らめながら、拗ねたように
「…見た目がようないってゆうたくせに」
と返した。
「見た目なんて食うて仕舞えば関係ないやろ」
「はぁぁ、福次郎はん、和菓子屋に対してなんてこというんや」
「ええから、もう一回作ってみろ。…俺が食うたるから」
「…わかった、おおきに」
銀平は頷いたのを見て浅野は「じゃあな」と外に出て別れた。
ふと見上げると陽が傾き空は茜色に染まり始めている。
「…ん?」
浅野は店から少し離れた先に見知った顔を見つけた。だが、彼はそこにいるべきではない人間だ。
「…芦屋…?何故、こんなところに…」
「…」
彼は何も答えない。いつもの物乞いの姿とは違う、顔を隠すことすらない姿で立っていた。
芦屋は主に隊外の諜報を任務とし、それ以外の時間は自主的にかつての主人の側で護衛をし離れようとはしない。その彼がこんなところで立ち、銀平の店へ目を向けている。
「まさか…」
浅野の脳裏に嫌な予感がした。その時、芦屋は踵を返して浅野に背を向けた。
「なんでもない」
「おい、待てよ!」
浅野は駆け寄ると芦屋の手を強く引いた。すると芦屋の懐から激しい音を立てて何かが落ち…袱紗に包んだ金が地面に散らばった。
芦屋は慌てて金を拾う。その姿を見て浅野は頭の先から足の先まで電撃が走ったかのような衝撃を覚えていた。
「…その金…どうするつもりだ…」
唇が震えていた。芦屋はまるで聞こえていないように何も答えずに袱紗へ金を戻していく。
「おい!芦屋!」
「…」
「芦屋!答えろっ!」
浅野はようやく立ち上がった芦屋の胸ぐらを掴んだ。
「……菓子屋の親父を殺したのは…坊ちゃんか?」
「…」
「その金は罪滅ぼしってことか…っ?!おい、答えろ!」
「殺したのではない。……不幸な事故だった。過失はない」
芦屋の答えは、浅野をますます焚きつけた。
「ふ…ふざけんなよ…」
「…」
「クソ!」
浅野は芦屋を置いて走り出した。






548


夕刻。
非番の総司は通い慣れた土方の別宅へと向かっていた。別宅は静かな町家の一角にある。
するとこちらにやってくる人影が見えてきた。
「おみねさん」
総司が軽く手を振りながら近づくと、小さな風呂敷を抱えたみねがにこにこと微笑んで会釈した。
「沖田せんせ、今から向かわれるところですか?」
「はい。あ、もう土方さん来てました?」
「へえ、早めに夕餉をお召し上がりになられました。沖田せんせの分もございますのでどうぞ」
「いつもありがとうございます。…おみねさんはこれから近藤先生の別宅ですか?」
「へえ」
みねは近藤と土方の別宅の世話をしている。二つは遠く離れているわけではないが、以前、行き来するのは大変だろうと尋ねると「うちが好きでさせてもろうてます」と、むしろ積極的に働いていた。
「お孝に料理を教えて欲しいとせがまれるのです。…ふふ、不器用でなかなか不恰好な御膳ですが、近藤せんせはいつも喜んでお召し上がりになられます」
「へぇ…」
あの無愛想で頑なだった孝が近藤のために懸命に台所に立っているのかと思うと微笑ましい。加えてみねが自然に『お孝』と呼び捨てにしていることが彼女たちの雪解けを表しているようだった。
「近藤先生は昔から煮っころがしがお好きです。是非お孝さんにお伝えください」
「へえ、おおきに」
総司はみねと顔を見合わせてクスクスと笑った。
みねは「では」と頭を下げて夕闇の中を去っていく。総司も彼女に背を向けて別宅へと向かったが、生垣が見えてきたところで再び立ち止まった。
男が一人立ち尽くしていた。
(あれは…)
一見、商人のように見える。乱れのなく纏めた
髷に上品な衣服…しかしそれをまとっているのは見知った顔だった。
「…浅野さん…?」
「!」
浅野薫は現在監察方だがそれ以前は一番隊の所属だった。久々に邂逅した彼は顔を上気させ、息を切らし張り詰めたように唇を結んで別宅を見据えていたのだが、総司を見てハッと眼を開いた。
「沖田…先生…」
「どうしたのですか、こんなところで…そんな格好で…」
彼は監察として新撰組とは無関係の何らかの人物になりきっているはずだ。決して『鬼副長』の別宅の前で出会うべきではない。
「取り敢えず中へ入ってください、どうぞ」
「…」
浅野は総司に背中を押され玄関へと足を踏み入れた。すると様子を察した土方が顔を出した。
「浅野…?」
「…突然お訪ねし、申し訳ありません…」
浅野は玄関に膝を降り頭を下げた。土方は怪訝な表情で「どうした」と式台へ降りたのだが、彼は強張った表情のまま何も話そうとしない。むしろ言葉を選んでいるようにも見えた。
「監察方として屯所にすら近づかない貴方がここまで来たのですから、何か早急の用事があったのでしょう?」
「…」
「言ってみろ」
総司と土方に促され、浅野はようやく口を開いた。
「…三浦…三浦、啓之助のことです」
「三浦?」
「町人を…殺したというのは、本当のことですか」
「…」
土方が剣幕を鋭くし、総司は首を傾げた。
三浦が誤って人を死なせた…その件ついて、最初は副長助勤以上の幹部のみに知らされたが、いつのまにか隊内に広まってしまった。彼が居酒屋を抜け出したと証言した取り巻きの隊士が口を滑らせたのだろうが、普段から素行の悪い三浦を庇う者は誰もいなかった。浅野は隊を離れて久しいためその情報は耳に入らなかったのだろう。
「…本人は覚えていないと反論しているが、ほぼ間違い無いだろう」
「三浦の処分は」
「まだ検討中だ。…何故そんなことを気にかける?お前は隊外向きの任務が担当のはずだ」
「死んだのは…知り合いの、父親でした」
浅野の言葉に土方は眉を顰めた。
「…それはお前の協力者か?」
「…」
土方の問いかけに対して、聞かれたくないことだったのか浅野は少し怯んだようだった。
「そういうわけでは…ありません。『金山福次郎』の知人です」
「だったら、お前が慌てふためいて、わざわざその姿でやってくる道理がないだろう。誰かに見られたらどうするつもりだ」
「…おっしゃる通りです…が…」
「なんだ、言ってみろ」
土方が威嚇し、浅野は反発する…二人の間に険悪な空気が流れ始める。総司は口を挟むことはしなかった。
玄関の外は夕陽が隠れてすっかり暗くなっている。
「…三浦は…局中法度で切腹、ですよね…?」
「…」
「今まで散々見過ごされてきましたが…士道に背く間敷事…幾人もこの法度で、この言葉で、死んできました。三浦も例外ではないはずです」
新人隊士が喚くのとは違う、古参隊士の浅野だからこそ言葉に重みがあった。彼は数々の隊士がこの法度で死んでいったのを目の当たりにしている…だからこそ矛盾が許せないのだ。
土方は「ふう」と深く息を吸って吐いた。
「…処断したいのは山々だが…そうもいかない」
「何故…!」
「帰藩の話が来ている。藩からの要請ならまだしも京都所司代直々のお達しだ…その三浦をどうして役人に突き出すことができる?」
それはこのところ土方を悩ませている問題だった。三浦を承諾させれば帰藩が叶うところまできて、この事件が起きたことで話がややこしくなってしまったのだ。
「しかし、法度は…!」
「お前の言い分はわかる。だが、これは新撰組だけの話ではなくもともと三浦の身を預かった会津にも関係があることだ」
「…っ では、どうするおつもりですか…」
「…」
土方は少し考え込むように目を閉じた。浅野は今か今かと待ちわび、総司は静かに見守った。
そして土方がゆっくりと口を開いたのは
「…身代わりを出すしかない」
三浦の体裁を守り、真実を歪める…そんな保身と諦めの結末だった。


「…浅野さん、あれで納得してくれたんですかねぇ」
浅野が去った別宅で、総司は冷めてしまった夕餉に手をつけた。土方は気だるそうに寝そべっている。
あの後、浅野は土方の言葉を聞いてしばし呆然とし「そうですか」と感情のない返答をして去っていった。それまで憤りで火がついていた瞳がすっかり冷めて、まるでどこも見ていないような虚ろなものへと変わった。
土方は「仕方ないだろう」と吐き捨てた。
「小物を雇って身代わりを出頭させて、三浦を帰藩させる。それが会津にも所司代にも迷惑をかけない且つ、厄介者を追い払うことができる方法だ」
「土方さん的には後者の方が重要なんでしょう?」
「まあな。他に良い案があるのなら教えてほしいくらいだ」
あっさり肯定した土方に総司は苦笑しながら漬物を頬張る。
「でも…浅野さん、その知人に思い入れがあるようですね。昔は一番隊の隊士でしたがあんなに感情的になっているのを初めてみました」
「ああ…面倒なことにならなければ良いが…」
「…土方さん、芦屋君はどうするつもりなんです?」
「…芦屋か」
土方は身体を起こし、両手を伸ばして背伸びをした。
「三浦と一緒に帰藩させることになるだろう」
「でも…三浦君が承諾するでしょうか。芦屋君のことを無視し続けているでしょう」
あの雨の日から、三浦は徹底的に芦屋の存在を認めようとしなかった。誰よりも三浦に忠誠心を誓う芦屋にとってそれが苦しいことだと知っているからこその仕打ちだったのだ。
「三浦が承諾しようとせまいと…芦屋は一緒に隊を出るだろう。たとえそれが脱走だと咎められてもな」
「確信があるのですか?」
「ああ。現に今も芦屋は三浦の傍にいる」
「え?」
「任務以外は片時も離れようとしない。非番の日も…まるで犬、というよりも犬そのものだ」
土方は蔑むわけでもなく淡々と評したが、総司には芦屋の一方的な思いが狂おしく思えた。





549


『身代わりを出すしかない』
頭のどこかで土方はそう言うだろうとわかっていたのに、実際に耳にするとやりどころのない怒りと虚しさで身体が支配されたようだった。
そのあと、土方の別宅からどうやって退出したのか記憶にない。ふらふらと重心の定まらないまま外に出て、気がついた時にはすっかり暗くなってしまった夜空にうかぶ眩い月をぼんやりと力なく見上げていた。
(俺は…何をやっているんだろう…)
直談判したところで何も変わらない。三浦が処断されることもなく、銀平が救われることもない。三浦が持つ生まれながらの厚遇には誰も口出しできない。
浅野は立ち止まり、こめかみをさすった。
(嫌気がさす…)
その状況を甘んじて受け入れる三浦も、病的に忠実な芦屋も、手をこまねいている土方も、何も言わなかった総司も…そして偽りの姿で銀平を騙す自分も、何もかもが煩わしく感じる。
いつの間にか大通りへ出た。閑散としている道はどこか遠くへと繋がっている。
(いっそ…逃げ出してしまいたい)
新撰組隊士でもない、商家の次男坊でもない、誰も知らないしがらみのない場所へ行けたらどれだけ楽だろう。
だが、浅野の足は一、二歩進んだだけですぐに止まった。引き止めるのは理性と法度だった。
監察方の自分には、逃げ出すのがどれだけ難しいかよくわかっている。
(おそらく今日の一件で俺に監察がつくだろう)
誰よりも忠実であるべき監察が副長に刃向かったのだから当然だ。
「ああ…くそ…」
理性が感情を引き止める。感情が消えれば冷静な判断だけが残って、また嘘を重ねるのだ。
銀平に、自分に…嘘をつくのに慣れてしまった。
浅野は振り返った。そこには誰もいない真っ暗で真っ黒な道が続いていて、途切れていた。


数日後。
三浦はあっさりと謹慎を解かれた。その知らせと同時に和菓子屋の主人箭内久兵衛を突き倒したという初老の男が役人に拿捕されたという知らせが入った。男は当時の状況を酒に酔っていたので覚えていないとし、詳しくは語らなかったそうだ。
しかし、その話を信じる者など誰もいなかった。
「金を握らせて身代わりを立てたに決まっている」
「いいよなぁ、やりたい放題でさ」
「あいつが黒に決まってる」
「傲慢なやつだぜ」
三浦へは、辛辣な陰口と冷たい目線が浴びせられた。加えてそれまで三浦を盛り立てていた隊士たちも距離を取り、素知らぬ顔で無視した。
(散々、金を払わせておいて…)
手のひら返しの仕打ちかと睨みつけるが、彼らは気づかない。同じ六番隊の隊士たちも腫れ物に触れるのを毛嫌いするように誰も話しかけてこなかった。この状況では誰もいない部屋で謹慎させられていた方がましだ、孤独どころか居心地が悪い。
そうしていると
「三浦」
と声がかかった。渋く低音の声…組長である井上だ。手招きして呼ばれ、三浦はそれに従った。
井上とともにやってきたのは屯所の裏手だ。豚小屋の近くは臭いがキツく、潔癖な部分もある三浦は近づくことすら厭う場所だったが、拒むことはできなかった。
井上はその異臭を意に介することなく切り出した。
「もう潮時じゃねえか」
「…なにが…」
「トボけた事を言うんじゃねえ、十分頭を冷やしただろう。…故意ではなかったとはいえ、罪のない人間を一人殺している。それでも罰せられずに、帰藩も許されている。…これ以上、何を望むっていうんだ」
「…」
「前にも言ったよな、お前が死ぬのは勝手だが、必ず誰かに迷惑がかかる。一人で生きていると思っているなら大間違いだ」
井上の説教に三浦は反抗しなかった。すっかり状況を飲み込んだ三浦は彼が言っていることが正論であり、何一つ間違っていないことは理解していたからだ。
大人しい三浦の様子を見て井上は穏やかに語りかける。
「三浦、今回のことを含めてお前は憎まれ役に違いないが、悲しむ者もいるだろう。故郷の母さんや…芦屋は」
「芦屋は関係ありません」
反射のように拒んだ。その存在を認識するどころか、他人に知らしめられるのも嫌だった。
そんな三浦の反応を見て、井上はため息をついた。
「いい加減、素直になったらどうだ。過去に何があったのかは知らねえが、そんなにも許せれないものか?」
「…あいつは、俺を裏切りました。嘘をつき続けていた…だから…」
芦屋が父である佐久間象山を殺したのだと知ったとき、その事実を隠してずっと側にいた芦屋が、それまで何を考えていたのか、想像するだけでゾッとした。そして裏切られた悔しさと悲しみから、芦屋の存在を消した。
そうすることで芦屋と決別したつもりだった。
「それが本音か?」
「…」
「本当はもう許してるんじゃねえのか?」
井上の言葉は凝り固まったガチガチの心に、針のようにチクリと刺さった。
離れれば離れるほど、その存在を忘れられなかった。飲み歩いても遊び歩いても、傍に芦屋の存在を感じていた。最初はそれが鬱陶しくて仕方なかったけれど、次第にそれは『日常』となり安堵へ変わった。
(この人の言う通り、本当は…俺は許してしまっている)
そうでなければ、先晩、芦屋が話しかけて来たときに無視して通り過ぎたはずだ。そうせずに罵倒したのは、たとえ歪でも彼を認めている証拠だ。
自分が認めなくないのは芦屋の存在ではない。許してしまっているという自分自身だ。
この憎しみと猜疑心は消えることはないだろう。まだ自分と同じように芦屋が苦しめばいいと思う。
それなのに、傍にいろなんて言えるわけがない。
三浦は深い息を吐いた。
「…帰藩の件は前向きに検討します。数日、時間をください」
「そうか、わかった。副長にも伝えておく」
「失礼します」
三浦は足早に去った。これ以上井上に悟られるのは嫌だったし、いい加減、豚の異臭は限界だったのだ。

三浦が去ったあと、井上はおもむろに振り向いて「聞いているんだろう?」と声をかけた。すると豚小屋の後ろから総司が顔を出した。
「…おじさん、聞き耳が得意な土方さんと違って、わざとじゃないんですよ。豚小屋に来ていたのは私が先だったんですから。おじさんたちが急に話し始めちゃったから出るに出られなくなっただけなんです」
「別に疑っちゃいねえよ」
「良かった。でも、昨日生まれた子豚を見に来たら、意外な会話が聞けました」
「まあ、このまま納得すればいいけどなぁ」
総司が安心したのとは正反対に井上はまだ渋い表情を崩さなかった。一年以上三浦を組下に置いているだけあって、彼の心情は総司よりもはるかに理解しているだろう。
その井上はゆっくりとため息をついた。
「…俺は三浦のことを組下として気にかけているから、脱退してくれればそれでいいと思う。…だが、今までこの法度で何人も死んで来た事を思うと、ちょっと遣る瀬無いところがあるな」
「…それは、わかる気がします」
士道に背く間敷事、脱退を許さず…その文言の前に一体何人の屍が生まれて来たことだろう。身内の山南でさえ許されなかった法度が、一隊士である三浦の前では何の意味もなさない。それに反感を持ち、批判的な眼差しを三浦に向けるのは仕方ないことだろう。
「このまま平穏に脱退とはいくまい。…総司、面倒だとは思うが乗りかかった船だ、気にかけてやってくれ」
「…わかりました。結果的に聞き耳を立ててしまったのですから、そのくらいはします」
「そうだな、それくらいはしろよ」
井上は少しだけ笑うと、「じゃあな」と手を振って三浦と同じ方向へ去っていった。






550


総司が巡察から戻り報告のため土方の元へ向かうと、珍しく「お帰り」と上機嫌に迎えた。総司は思わずしかめ面で土方の表情を伺った。
「…お帰り、なんて今まで一度も行ったことがないじゃないですか。気持ち悪いなあ」
「別にいいだろう。それで?」
「特に…最近、色白で切れ長の美人が界隈で話題になっているとか、そんな感じでした」
「何だそれは」
「平和だってことですよ。でも明日から平和じゃなくなるかもしれません。土方さんが『お帰り』なんて言うから雨嵐かな」
総司の軽口にも土方は「そうかもな」と軽く受け流す。どうしたのかと首をかしげながら彼の前で膝を折ると
「面倒な案件が片付いた」
ということだった。
「面倒な案件って…ああ、もしかして三浦くんのことですか?」
「何だ、知っているのか?」
「井上のおじさんが説得して、三浦君もそのつもりのようだったので…」
「ああ。帰藩に応じるそうだ」
今朝方、三浦自身が土方の元にやって来て殊勝な態度で「帰藩する」と申し出たそうだ。彼の意固地な態度が最近の土方の悩みの種だったので彼はすっかり上機嫌なのだ。
「だが表向き、脱退を認めるわけにはいかねえから脱走をしたことにする。罪の重さに耐えかねて、居心地が悪くなって…三浦が脱走する理由はいくらでもある。監察に含ませて黙認すれば良いだけだ」
「監察…か」
総司の脳裏に浮かんだのは監察方の浅野だった。殺された箭内屋と懇意だという彼は三浦の処遇に対して思うところがあるだろう。
(土方さんはきっとそれさえも試そうとしているのだろうけれど…)
今後、浅野が監察として忠実に任務を遂行できるかどうか…土方は踏み絵にしているのだ。
「…芦屋君はどうするのですか?」
「ああ…三浦は連れていくつもりはないようだ」
「そりゃ、三浦君はそうでしょうけれど…」
「芦屋がどうするかは本人に任せる。残るなら監察として働かせるし、行くなら…追わない」
「…そうですね」
土方は芦屋の意思を尊重するというよりも、これ以上面倒ごとに関わりたくないという態度だった。もともと会津藩の要請で三浦と芦屋を預かり、多くのことを黙認してきたのだから当然だ。
もちろん総司としても思うことがないとは言いきれず蟠りはあるものの、彼らを引き止める理由はない。
「いつ出て行く予定なのですか?」
「三日後だ。深夜、洛外に出るまでは一応、警護をつけるつもりだ。この都で何かあったら面倒だからな」
「…だったらその警護役、私にやらせてもらえませんか?」
「お前に?」
土方は怪訝な顔をしたが、総司は構わず頷いた。
「別に他意があるわけではありませんが…何か話したいことがあるような、気がするんです」
「…わかった。お前なら確実に守りきれるだろう」
「任せてください」
土方は「局長に伝えておく」と言って了承した。


「お客はん、もうそのくらいに」
酒を追加で頼むと、店の娘である可愛らしい女子がやんわりと制したが、構わずに「おかわり」と言い放った。女子は困った顔で店の奥へと消えて行った。
浅野は夜の花街で久々に羽目を外していた。今日はだれでもない、名前のない泥酔の男…を演じている。
(いや…もはや、その境界がわからねぇや…)
自分は息を吐くように嘘をついて生きている。誰にも本当のことを吐き出すことはできなくてやりきれない思いを抱え、逃げる場所は酒しかなかった。一番隊にいた頃は好物だった酒が、今は不味くて仕方ない。
浅野の元に別の監察方の隊士から土方からの指示が伝達された。
内容は『三浦が脱退する。見逃すように』…簡潔な指示はそれ以上の詮索は無用だということだ。
(帰藩が決まったのだ…)
お荷物だった三浦がついに隊を去る…土方にとってこれ以上の好機はなく、彼の行動に気を配っていた監察方も一息つく。
だが浅野には言いようもない苦しさしかなかった。銀平の仇である三浦がのうのうと逃げ延びる…それを許していいのか。
机に顔を埋めていると、若い青年たち二、三人が楽しそうに酒を酌み交わしていた。
(銀平と同じ齢くらいか…)
溌剌とした表情で語らう彼らが何を話しているのかは、居酒屋の騒がしい中では聞こえてこない。
(銀平…銀平…)
何もできない。あいつのためになにもしてやることができない。
いま、銀平は何をしているだろうか。たった一人になってしまったあの家で一人孤独に泣いているのだろうか。
(俺は…慰めてやれない、励ましてやれない…)
肩を抱いて、抱きしめることはできない。この手は汚れている…新撰組である自分が彼に触れる権利はない。
(触れるって…なんだ、それ…)
はは、と苦笑が溢れたとき、目の前に熱燗が置かれたと同時に隣に誰かが座った。
「この席、空いてるかい?」
「…あ…ああ…」
浅野はどうにか返事をしたが、眼は隣席の女に釘付けになった。
(…綺麗な、女だな…)
彼女の存在はこの汚い居酒屋の中で浮いていた。まるで陽に晒したことがないような真っ白な肌に切れ長で矢のように鋭い目元。すっとした鼻の高さにピッタリと沿うような口唇。小柄な体躯なのにその存在すべてに吸い込まれるようだーーー。
「何か嫌なことでもあったのかい?」
女はそう言った。最初は自分に話しかけているのかわからなかったが、彼女の視線の先には自分しかいない。
「…俺に言っているのか?」
「もちろん。随分酔っている…それに、飲み慣れていない」
「まあなぁ」
彼女の遠慮のない言葉がとても澄み切った清涼なもののように聞こえる。騒がしい居酒屋で小鳥の囀りを聞くような。
(俺は酔ってるな…)
心なしか視界も曇っている。しかし、遠慮ない彼女の言葉が何故か心地よい。
彼女は肘をついて尋ねた。
「…あんた、西の方の出かい?」
「ああ…備前だ」
「良いところだ」
「あんたは?都の人間じゃないだろう」
「ああ。同じようなところだよ」
彼女は酒を一気に煽って飲み干した。浅野の口元が緩んだ。
「良い飲みっぷりだ…」
「そうかい」
「ああ…奢らせてくれよ」
彼女とまだ会話を続けたい。
(俺の寂しさを埋めてくれ…)
浅野の懇願を受け入れるように、彼女はゆったりと微笑んだ。
「…じゃあ、別の場所で飲み直さないかい」
「別…の…」
「酔っていても意味はわかるだろう?」
「…」
いつもならこの手の誘いをサラリとかわす浅野も、今晩は気が緩んでいた。
「…ああ、行くよ」
重たい身体をどうにか持ち上げて、「お勘定」と言って店の娘に多めに金を渡した。娘は少し困惑したようだったが「おおきに」と受け取って見送った。
外に出ると冷たい夜風が吹いていた。だがいつもより多く飲んだ浅野の酔いを吹き飛ばすほどではない。
「ああ、いい月夜だ」
まん丸とした月が一片の雲もない夜空に浮かんでいる。その淡い光は彼女の横顔を映し出した。
「あ…」
浅野はふと気がついた。彼女は小柄だが腰に刀を帯びている。
「なんだい」
「いや…あんた、男か」
「何だ、気がついてなかったのか。…すっかり酔っているようだ」
彼女…彼は浅野の頬に手を伸ばし「熱いな」と少し笑った。彼の性別が自分と同じであったと気づいても、最初に感じた端正な姿は崩れることはない。
「じゃあここでお別れか?」
「…いや…」
「行こう」
男はふっと小さく笑って歩き出した。浅野はその背中を追いかけながら、
(銀平…)
と、もう触れることのできない友人の顔を思い浮かべていた。















解説
三浦と芦屋のお話については215話あたりです。
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