わらべうた




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突然の将軍の崩御、長州征討の停戦…幕府の求心力の低下を思わせる出来事が続き、次第に世間には不安の声が上がり始めていた。将軍の座が不在である幕府への不満、力を持ちつつある長州への賞賛や否定、内戦の影響で各地で打ちこわしや一揆が多発している現状…一時的には収束したとしてもまだ戦の炎は燻り続けている。
「福次郎はん!」
「銀」
『金山福次郎』として大通りを歩いていた浅野は変わりない様子の銀平に声をかけられて足を止めた。人通りの多い道だというのに銀平は子供のように駆け寄った。
「また江戸に行ってはるんかと思うてた」
「しばらくはこっちにある。…んで、何の用や?」
普段から実家の和菓子屋で手伝いをしている銀平は愛想の良い表情を崩さないが、今日は一段とご機嫌な様子だ。おそらく彼が抱えている小さな風呂敷にその理由があるのだろう。
銀平は満面の笑みで頷いた。
「福次郎はん、時間ある?俺の作った菓子、食べてくれはらへん?」
「甘いもんは好かんって何度も言うとるやろ」
「今日は会心の出来なんや!きっと福次郎はんも気にいるって!」
子供のように腕を引いて「な?な?」と上目遣いに懇願されては拒むことはできない。浅野は「仕方あらへん」と苦笑しながら頷いてやった。
「やった!じゃあ河川敷に行こ!今日はきっと涼しくて過ごしやすいはずやし」
「わかったわかった」
浅野は銀平に背中を押され、近くの河川敷に向かって歩き始めた。
決して甘いものは得意ではないが、無邪気な銀平と過ごすときはたとえ偽の姿であったとしても自分自身が安心して気を抜ける時間でもあった。裕福な商家の次男坊『金山福次郎』でもなく新撰組の『浅野薫』でもなく…何か別の存在になれるような不思議で安らかな気持ちになるのだ。
そうしてたどり着いた河川敷で二人は並んで腰を下ろした。男同士で肩を並べて菓子を食べるなど、妙な誤解をされそうなものだが、小柄で人懐っこい銀平が隣では兄弟にしか見えず邪推されないで済むだろう。
早速、彼は得意げに風呂敷を開き、自慢の菓子を披露した。見た目は白あんをベースにした桃色の花をモチーフにした生菓子だ。
「まだ形は良くないんやけど、味は自信作やから!」
「ふうん」
浅野は銀平から受け取り、ひとくちで口に入れた。見た目とは異なりしつこいこともなくあっさりとした甘さだ。
「…悪くない」
「せやろ?」
「少なくともお前が俺に食べさせた中で一番良い出来やな」
「やった!」
銀平は両手で拳を作って振り上げ喜びをあらわにした。
「絶対、そう言ってもらえると思うてたんや!福次郎はんに食べてもらえてよかった」
「美味いとはいうてへん」
「わかってる。せやけど、甘いもん嫌いの福次郎はんがそういうなら『ええ出来』なんやって!」
無邪気な銀平は目を輝かせて浅野を見る。まるで子犬のような真ん丸い瞳に見つめられると、浅野には居心地が悪い。それ故に
「…せやけど見た目がまだまだや。親父さんに仕込んでもらえよ」
とつい喜びに水を差すようなことを言ってしまった。
モチーフが花の形だというのはわかるが、なんの花なのかはわからない。浅野が指摘すると銀平は「ああ、うん」と突然、声のトーンを落として消沈した。先程までの喜びようが嘘のようだ。
「…何や。いつもこのくらいのダメ出し、凹まなやないか」
「そうなんやけど…」
表情を落とす銀平は少し言葉を選ぶように逡巡した。
「…親父の具合があんまり良くないんや」
「親父さんが?」
浅野は驚いた。
何度か銀平に連れられて彼の和菓子屋を訪れたことがある。何代も続く由緒ある店頭に並べられた繊細で色とりどりの菓子…それを作ったとは思えないほど、快活で明るい親父だったので、具合を悪くしているとは思わなかったのだ。
「最近風邪もらって、ずっと寝込んでる。店も休みっぱなしや…」
「そうか…」
銀平の母親も数年前に流行病で亡くなっている。一人っ子の銀平にとって父は師匠であると同時にたった一人の家族でもあるのだ。家族と縁遠い浅野には、彼に何を言ってやれば良いのかわからずに一緒に黙り込むしかない。
二人はしばらく川のせせらぎの音に耳をすませた。穏やかで延々と続く日常の音は、いつもそこにあるのに、いつもはその存在を気に止めることはない。
銀平は顔を上げて、また微笑んだ。
「…せやから、早く一人前になって親父を安心させたいんや。福次郎はん、協力してや」
「…もちろん、俺にできることなら」
「ほんまに?じゃあ毎日味見してもらお」
「毎日は困るな」
浅野が正直に答えると銀平は「冗談や」と言って、二人で顔を見合わせて笑った。銀平は無邪気に笑ったが、浅野はちくりと胸が痛んだのを隠した。
(銀とは…普通に出会いたかった)
『金山福次郎』でもない『新撰組隊士』でもない、ありのままの自分で会いたかった。そうすれば気の置けない友人になれただろう…そんなどうしようもない想像が頭を巡る。
「あ」
銀平はふと空を見上げた。先程まで照りつけていた日差しが厚い雲に覆われて辺りは薄暗くなる。そしてポタポタと雨粒が溢れてきた。
夏の天気の豹変は珍しくない。二人は急いで河川敷を離れ、人気のない母屋の軒先を間借りして雨を凌いだ。
「そうや、前に福次郎はんが気にしてた新撰組のこと…」
「ああ…」
「このところまた騒がしくしてるって。酒癖が悪いからどこの店でも嫌がられてみたいやけど、金があるし乱暴やから蔑ろにするわけにもいかへん…みんな困ってるみたいや」
「…そうか…」
屯所での三浦は幹部からお灸を据えられたのか、このところ大人しくしているようだが、外ではその鬱憤を晴らすように暴れているのだろう。彼には給金以外にも佐久間象山の妾である母からの仕送りがあるので金には困らないはずだ。
(やれやれ…)
浅野が肩でため息をつくと、銀平がまじまじと見ていた。
「なんや?」
「何で新撰組のことなんか気にしはるんかなあって」
「…言っただろう。身の回りに屯されるのは迷惑やって」
「そうやけど、なんか…迷惑っていうより憎んでるみたいやなって」
「…」
どきりとした。
銀平の言葉には一切の邪推はなく、素直なものだ。だとしたら傍目には本当にそう見えるのだろう。
それを観察として自分が有能であるととるか、それともそれが本心であるととるか…それは浅野次第でしかない。
「…京に新撰組のことを好いてるもんなんておらへんやろ」
「ふうん…」
次第に雨は大粒のそれへと変わっていった。


突然の土砂降りのせいで傘は重く身体中がずぶ濡れになったが、物乞いの衣服に執着はないので厭わず歩いた。
先程まで人々の往来で賑わっていた大通りも、雨が降り出すとあっという間に引いていった。お陰で物乞いのような格好でど真ん中を歩いても咎められることはないのだが、それでも一目につかないように端っこを歩く。それが監察としての習慣…というより、性なのだ。
西本願寺の屯所を避けて静かな道を行く。やがて辿り着いたのは庭のある町屋だ。特筆して特徴はなく周囲と溶け込んだ小さな邸宅だが、ここに来ると自然に緊張感が増した。
庭に続く扉を開け中に入る。いつもなら足音一つ立てずに入るが、雨に濡れて泥濘んでいるのでそれはできない。そのせいかいつもよりも早く庭の障子が開いた。
「やっと来たか、芦屋」
憮然と言い放ったのは、別宅の家主である新撰組副長の土方だ。芦屋は庭に腰を下ろし頭を下げた。
土方は縁側に出た。
「帰藩の話は耳にしているだろう」
「…はい」
「三浦を説得しろ」
誰にも文句を挟む暇を与えない端的な命令はいつものことであるし、抗おうと考えたことすらないが、芦屋には流石に頷くことはできなかった。三浦と芦屋の主従という関係はとっくの昔に破綻し、芦屋は彼の中でいないことになっているのだ。あれから言葉すら交わしていない。
「…しかし…俺は…」
「早く手をうたねぇと、法度違反になるのが先になる」
「…」
脅しとも言える土方の態度に、芦屋は言葉に詰まった。
新撰組の隊士として三浦は相応しくないと誰もが思っている。法度に触れれば誰であろうと処断する…三浦はいまギリギリのところで踏みとどまっているだけだ。
「…わかりました」
芦屋にはそう答えることしかできなかった。
雨が強さを増す。
あの日のように、全てを流して行くのだ。








解説
なし
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