わらべうた




545


夏の盛りは過ぎて、夜はようやく涼しい風が心地よく感じられるようになった。
三浦は煙草を吹かしながら、雲ひとつない月夜を見上げていた。澄んだ空気のせいで星が眩く目を奪われる景色だが、一方で店の中からは見知った隊士たちの騒ぎ声が聞こえるーーー酒に酔い、女と戯れる…次第に辟易として金だけ渡して店を出た。隊の厄介者である三浦に近付く理由が、手持ちの金だということはよく知っていた。最初はそれでも良いから孤独ではありたくないと願ったが、今はこうして一人になる時間も悪くないと思える。
(母上は息災だろうか…)
殺された父・佐久間象山の仇討ちをするために新撰組に入隊したと思い込んでいる母は、定期的に激励の手紙と金を送ってくる。世間知らずの母は父を殺したと噂される河上がどのような男か、そして己の息子がどれだけ脆弱か…知らないのだ。
それを愚かだとは思わない。世の中には知らないで良いのならその方が良いことは沢山あるのだ。
例えば、本当は誰が父を殺したのか。
「…」
吐き出した灰色の煙が、美しい月夜を汚すように上って行って、消えた。
思考を止めようと別のことを考える。近藤から聞いた『帰藩命令』…本音を言えば悪くないと思った。新撰組から脱する方法は逃げ出すか、死ぬかしかない。特別扱いだと非難を受けそうなものだが、京都所司代からの命令ともなれば誰も非難の声を上げることもないだろう。退屈で窮屈で空気の不味い…こんな場所に居続ける理由なんてないのだから。
それなのに、口をついて出た言葉は『佐久間の家を継ぐつもりはない』という意固地なものだった。父への多少の憧れはあったが家へのこだわりは無く妾腹の子である自分が肩身の狭い思いをするのは目に見えてわかる。それに表向きは『仇討ちのため』に新撰組に入隊したのだから、それを果たせずに帰藩など笑われるに決まっている。
どちらに在っても息苦しい。
「…くそっ」
苛立ちは募って、ふと足元にあった石ころを蹴った。勢いよく転がって何かにぶつかって止まった。
「…」
「…」
『それ』と向き合ったのは随分久しぶりのことだった。
けれど『それ』がずっとそばに居たことは知っていた。
「…俺の目の前に現れるなと言っただろう」
芦屋登。かつての自分の下僕であり、従者だった。けれど父を殺したと知ってから、その存在を無視し続けてきた。
最初は怒りに囚われ、自分を監視しているのだと憤ったが、今はすっかり慣れてしまいこうして夜歩きしていても(どこかで見ているのだろう)と気にすることはなかった。彼は決して姿を現さずにいたからだ。
芦屋は地面に膝を折り、土下座した。
「…なんの真似だ」
「お許しください」
「何を…っ」
カッと炎が灯ったように感情が湧いた。
(許す?一体何を…)
芦屋は顔を上げることなく俯いたまま
「こうして姿をお見せしたことです」
と答えた。
三浦は芦屋に歩み寄った。そして土下座する彼の肩に片足を掛け、力を加えた。
「…っ」
「お前は犬以下の分際で約束を違えた」
「…申し訳、ございません…」
芦屋は抵抗しなかった。三浦よりも体格が良く剣技にも優れ…何もかも上回っているのに、甘んじで受け入れた。
(ますます腹立たしい…)
芦屋は何年もそこにある石像のように動じない。そうされるのが当然であるとすっかり受け入れている。
頭を地面に擦り付けながら、芦屋は呻いた。
「帰藩の、命令が出ています…」
「…!」
「土方副長より…説得せよとの命令が下りました」
脳裏に土方の不遜な態度が浮かんだ。彼は勝海舟との縁戚に当たる三浦へ強く帰藩を命令することはなかったが、まさか芦屋を使ってくるとは思わなかった。厄介者を早く追い払いたい…土方の意図がはっきりとわかる。
三浦はさらに意固地になった。
「…誰がお前のいうことなど聞くか。副長にもそう伝えておけ」
「…」
「今、帰藩すれば仇討ちできずにおめおめと引き下がったことになる。そんな恥ずかしい真似できるか!」
三浦は芦屋の肩を蹴り上げた。骨の太い芦屋の体はそれくらいで動じることはなかったが、彼の顔は痛みで少し歪んだ。
(苦しめ)
裏切られ続けてきたこの心の痛みに比べれば、こんな痛みなど大したことはないはずだ。
「…じゃあな」
三浦はそう吐き捨てて去ろうとしたが、彼は手を引いた。
「っ、なんだよ!」
「俺を殺してください」
「は…?」
「俺を殺せば、貴方の面目は立つ」
あの雨の日。
『坊ちゃんの仇討ちの相手は私です、さあ…私を殺してください』
芦屋は剣先を首筋に当て、命を差し出した。虚ろな目をして、なんでもないことのように。
今、目の前にいるのと、同じ姿で。
(俺は…あの時に選んだ…)
死ぬよりも苦しいことを、彼に与えた。
でも同時にそれは、自分のために選んだはずだーーー。
「…お前を殺したところで、誰が父を殺したのがお前だと信じるものか」
「…それは…」
「もういい、離せ!」
「坊ちゃん!」
三浦は手を振り払い、駆け出した。途中何かにぶつかったがそれを気に止めることなく、走り続けた。
もう影に囚われたくはなかった。
なのに、眩しい月は影を作り出す。どこに逃げても、追ってくる。


縁側の床板はひんやりとして夏の暑さに火照った足の裏を心地よく冷やした。
「土方さん、今日は良い月夜ですよ」
雲ひとつない空に浮かんだ月の模様がよく見える。
総司は縁側に誘い出そうとしたのだが、土方は「ああ」と生返事をしながら忙しそうに書類に目を通していた。
総司は仕方なく一人で腰掛けると、世話役であるみねから受け取った餅を口にした。近藤の別宅とこちらの別宅を掛け持ちしているみねだが、仕事はきっちりこなしていて庭の剪定も見事だ。お陰で優雅な気持ちで満月を見上げることができている。
「…お前、今日は昼の巡察だったよな」
餅を食べ終える頃、相変わらず書類に目を通したままだが、土方が声をかけてきた。
「そうです」
「いつもと変わったことはなかったか?」
「ないですよ。…ああ、もしかして河上のことを気にしているんですか?遭遇したらもちろん報告しますし、無茶なことは二度としません」
「どうだか。お前は案外剣の抜くと見境がなくなる」
「…否定はしませんけど…」
総司はそれ以上は言わずに二つ目の餅に手を伸ばした。
土方のいうとおり河上だけではなく、剣を抜いて対峙するとそれだけで頭がいっぱいになってしまう。
(もし河上にまた対峙したら…)
蛇のような不気味な目つきを思い出すだけで、自分の中の何かが燃え立つ。
(わかっている…)
彼の中の何かが『同じ』なのだ。立場も性格も志も何もかもが違うのに、ある部分だけが同じ
。しかしそれを説明したところで理解は得られないだろう。
幸いなことに土方はそれ以上追求せず、筆を置くと新しい紙に手を伸ばした。
「お前、平助とは話してるか?」
「え?何ですか、藪から棒に」
「いや…何も突然ってわけじゃない。前々から気になっていた」
「…」
数年前ならなんて事のない話題だったのだが、今は言葉に窮してしまう。
彼と亀裂が生まれたのはいつからだったか。山南が切腹した時はどうにか修復した。けれど彼は旧知の仲である伊東へと傾倒し、ことあるごとに近藤や土方に意見し始めた。特に河上が切腹した一件が決定的となり、総司を避け始めた。つい最近では近藤が孝を妾にしたこともよく思っていないようだ。
「…藤堂君は、色々思うところがあるようですけど…根っこの部分は変わらないと、信じたいと思います」
「…お前は、お人好しだな」
「土方さんはどう思うんです?」
「…」
土方は手を止めた。そして間をおいて、まるで重たい物を持ち上げるような気だるげな様子で答えた。
「…あいつはもう試衛館食客と呼ばれたくはないのかもな」
「…」
曖昧で、不明瞭で…けれども寂しさの混じった現実だった。
人の心は移ろい、あちこちに散らばっていく。
「ケホ…」
不意に咳をした。
「あんまり薄着で外に出るなよ」
「はい」
総司は縁側から中に入った。









解説
なし
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