わらべうた




546


残暑。
夏の忘れ物と秋の気配が混ざりあう街角で、浅野が物乞い『三郎』に身をやつし道端に腰を下ろしていた。着物というよりもハギレで身を隠すだけの衣服を窮屈に纏い、踏みつけるばかりの荒れ果てた地面に横たわる、人によっては苦痛な仕事だろうが、浅野にとっては悪くない時間だった。
(何も纏わないで済む)
何も持たない物乞いは、新撰組隊士でもない、裕福な商家の次男坊でもなく、浅野薫という人間ですらない。いくつもの仮面をかぶる監察にはそんな空っぽの時間が必要なのだろうとさえ思う。
横たわって見据える世相は、最近はより一層騒がしい。
「お上が長州一国に負けるやなんてなぁ」
「戦になるかもしれへん」
「米も少のうなって…いややわあ」
年老いた老人から女子供まで揺れ動く時勢を憂い、あちこちで噂話をしている。長州の世になるのか、都が戦場になるのか、異国に攻め込まれるのではないか…根拠のない不安があちこちで煙のように立ち上がって、ゆらゆらと広がって消えていく。しかし漠然とした気配だけを残して。
新撰組に入隊した頃、浅野も血気盛んな若者らしく幕府の衰退を憂い、長州憎しと憤った。特に池田屋の一件で新撰組の名が一気に世間に広まった時は町を歩くことさえ誇らしく思ったものだ。しかし副長助勤に出世した頃から…その気持ちはやがて薄れていった。
(どうせ世の中は俺の知らないところで動いて、変わっていく)
そんな無力感に苛まれ、ただ従順に仕事をこなすだけの日々を送っている。
仮面を被りすぎたのだろうか。
「『箭内屋』のご主人、気の毒やったなぁ」
ふと、通りすがりの老人の声が耳に入った。身なりの整ったそれなりの家の隠居だろう、若い付き人の男を連れて歩いている。
(箭内屋…)
それは銀平の和菓子屋だ。
「あすこのご主人の草餅は絶品やった。もう食べられへんやてなあ」
「へえ、ほんまに」
「倅はまだ若かったはずや。跡継ぐゆうてもなあ…」
浅野はハッと身を起こし、「もし!」と彼らのところに駆け寄った。物乞いが急に駆け寄ってきたものだから二人は「ひっ!」と驚いて後ずさりしたが、浅野はかまわず詰め寄った。
「箭内屋のご主人、なんやあったんか?!」
「お…お前さん、お知り合いかい?」
老人の問いかけに頷く。すると彼は顔のシワを寄せて「怪我が悪化してなぁ」と続けた。
「倒れた拍子に頭を強う打ったらしゅうてなぁ。昨日、亡くなったらしいわ」
「怪我って…親父さん、風邪をこじらせたって…」
銀平は父親は風邪で寝込んでいると言っていた。怪我とどうも結びつかない。すると付き人の男が「新撰組の仕業やって噂や」とうんざりするように吐き捨てた。その瞬間、身体に電撃のような何かが走る。
「新撰組…?なんでや…」
「ご主人が散歩してはったときに、新撰組に引き倒されたらしいわ、ほんまに粗暴な奴らやな」
「…」
「残念なことやなぁ」
「もうええか?」
しみじみと寂しさを漂わせる老人は付き人の男に背中を押されて歩き出す。みすぼらしい物乞いとこれ以上関わりたくないと思ったのだろう。しかし浅野にはそんなことすら気にならないほど頭が真っ白になっていた。
(引き倒されたて…)
いくら新撰組でも不逞浪士以外に乱暴を働くようなことはない。だとすればそれ以外の揉め事なのか。
「…くそ」
浅野は駆け出した。銀平の和菓子屋は少し離れている。
万が一のことを考え、『金山福次郎』と『三郎』のテリトリーは離れていて極力近づかないようにしているのだが、今はそんなことを考えることすらできなかった。
(どういうことだ…一体、何があった…!)
銀平のことを慮る気持ちと、焦りが心を占める。何も分からないのに、悪い予感だけが募っていく。
人目もはばからず走り回り、ようやく店が見えてくる右の角を曲がろうかという時、不意に足が止まった。
(この姿で…銀平に会えるはずがない)
もどかしい理性が体を止めた。名もなき物乞いでしかない自分には、嘆き悲しむ銀平の前に立つことすらできない。慰めの言葉一つ、かけてやることができないのだ。
「くそ…」
無力な自分に苛立ちながら、しかし立ち去ることはできずに角を曲がり、物陰に姿を隠した。
店の様子を伺うと視界に銀平の姿が入った。白い喪服に身を包み、数名の弔問客と思われる大人たちに頭を下げ続けている。会話までは耳に入ってこないが「気丈に」「しっかり」…そう声を掛けられているのだろう、銀平はどうにか微笑んで頷いていた。
底抜けに無邪気で明るい銀平を知っている浅野には、その姿が痛々しく映り、見ていられない。ましてやそれが新撰組のせいだとすればなおさらだ。
(なにかの間違いかもしれない…)
自分を誤魔化す期待…しかしこちらに歩いてきた弔問客の言葉ですぐに打ち砕かれる。顔を知っている和菓子屋の常連客の夫婦だ。
「新撰組に突き飛ばされたってなぁ」
「銀ちゃん、どないするんやろうか。事故とはいえ、不運なこと…」
(事故…だと…)
夫婦が通り過ぎたあと浅野は銀平へと視線を向けた。彼はひとり、涙を堪えるように空を見上げていた。浅野はその場から動くことすらままならなかった。


三浦は井上に呼ばれ、ともに各組の部屋を通り抜け、西本願寺の奥へと歩いていた。
(嫌だな…)
先日諍いを起こした上司の井上に連れられるというのも気が進まないし、この先には局長と副長、参謀の部屋がある。大抵そこに呼び出される隊士には良いことはない…隊士たちもそれを重々知っているので、連れて行かれる三浦の姿を見て何かを察したはずだ。
(指をさして笑っているに違いない)
卑屈な気持ちに苛まれながらたどり着いたのは局長の部屋だった。鬼の副長の部屋でなかったことには少し安堵できたが、しかし「失礼します」と軽く頭を下げて部屋に入ると、三人が揃っていたのだから同じことだ。
三浦は局長の前に渋々座った。
(どうせ帰藩のことだろう…)
そう高を括ったが、近藤は「三浦くん」と重たい口調で口を開いた。
「一昨日の夜はどこにいた?」
「…一昨日、ですか」
思わぬ質問に三浦は困る。一昨日は隊士たちも数人と飲み、飽きた頃に金を置いて店を出た。そしてそのあと芦屋に会ったのだ。
(あいつ…何か言いつけたのか…)
不信な気持ちで「鴨川沿いで飲んでいました」と淡々と答えた。もっとも一昨日は非番だったので問題はないはずだ。しかしその答えを聞くと局長の表情はますます渋くなり、参謀は視線を落としながら扇でその口元を隠す。副長だけは表情を変えなかった。
「…なにか?」
「一昨日の晩、新撰組の若い隊士に突き飛ばされ怪我をしたという報告があった。打ち所が悪く昨日亡くなったそうだ」
土方の淡々とした言葉の後、参謀が三浦を見た。
「場所は鴨川沿いのある店の前。その時間、近くで飲んでいた隊士は、君が先に店を出たと証言していますよ」
「俺が突き飛ばしたとでもいうのですか?!」
三浦は(冗談じゃない)と声を荒げたが、一方で身体のどこかが重たかった。
あの時、芦屋とのやりとりにうんざりして駆け出したーーーそして何かにぶつかった記憶がある。
(まさか…そんな馬鹿な…)
悪い夢に違いないーーー三浦はそう信じたかったが、早々に打ち砕かれる。
「残念ながら、監察から報告が上がっている」
土方の言葉に、
「芦屋ですか?!」
と咄嗟に詰め寄った。あの場にいたのは芦屋だけで彼が告げ口したのだと思った。
(あいつが…!)
だが
「違う」
とすぐに否定され、それ以上は土方は答えなかった。
(…他の監察をつけていたっておかしくはない…)
三浦はそう悟り、グッと唇を噛み締めた。目の前に近藤は困ったように息を吐く。
「三浦くん、君は身に覚えがないというのか?」
「……覚えがありません」
どうにか答えたその言葉はどこか空々しく部屋に響いた。
肯定も否定も誰の耳にも入らない。誰も何も答えずに沈黙だけが流れる。そのゆっくりとした時間は虚しい孤独に落とされるようだった。
「…すみません」
その沈黙を破ったのはそれまで口を挟まなかった井上だった。
「おそらく、三浦は突然のことで困惑してます。責任を持って謹慎させますんで、時間をもらえませんか」
「…そうだな。いいかな、副長」
近藤が土方に話を振る。土方は「ああ」と短く答えた。








解説
なし
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