わらべうた




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『身代わりを出すしかない』
頭のどこかで土方はそう言うだろうとわかっていたのに、実際に耳にするとやりどころのない怒りと虚しさで身体が支配されたようだった。
そのあと、土方の別宅からどうやって退出したのか記憶にない。ふらふらと重心の定まらないまま外に出て、気がついた時にはすっかり暗くなってしまった夜空にうかぶ眩い月をぼんやりと力なく見上げていた。
(俺は…何をやっているんだろう…)
直談判したところで何も変わらない。三浦が処断されることもなく、銀平が救われることもない。三浦が持つ生まれながらの厚遇には誰も口出しできない。
浅野は立ち止まり、こめかみをさすった。
(嫌気がさす…)
その状況を甘んじて受け入れる三浦も、病的に忠実な芦屋も、手をこまねいている土方も、何も言わなかった総司も…そして偽りの姿で銀平を騙す自分も、何もかもが煩わしく感じる。
いつの間にか大通りへ出た。閑散としている道はどこか遠くへと繋がっている。
(いっそ…逃げ出してしまいたい)
新撰組隊士でもない、商家の次男坊でもない、誰も知らないしがらみのない場所へ行けたらどれだけ楽だろう。
だが、浅野の足は一、二歩進んだだけですぐに止まった。引き止めるのは理性と法度だった。
監察方の自分には、逃げ出すのがどれだけ難しいかよくわかっている。
(おそらく今日の一件で俺に監察がつくだろう)
誰よりも忠実であるべき監察が副長に刃向かったのだから当然だ。
「ああ…くそ…」
理性が感情を引き止める。感情が消えれば冷静な判断だけが残って、また嘘を重ねるのだ。
銀平に、自分に…嘘をつくのに慣れてしまった。
浅野は振り返った。そこには誰もいない真っ暗で真っ黒な道が続いていて、途切れていた。


数日後。
三浦はあっさりと謹慎を解かれた。その知らせと同時に和菓子屋の主人箭内久兵衛を突き倒したという初老の男が役人に拿捕されたという知らせが入った。男は当時の状況を酒に酔っていたので覚えていないとし、詳しくは語らなかったそうだ。
しかし、その話を信じる者など誰もいなかった。
「金を握らせて身代わりを立てたに決まっている」
「いいよなぁ、やりたい放題でさ」
「あいつが黒に決まってる」
「傲慢なやつだぜ」
三浦へは、辛辣な陰口と冷たい目線が浴びせられた。加えてそれまで三浦を盛り立てていた隊士たちも距離を取り、素知らぬ顔で無視した。
(散々、金を払わせておいて…)
手のひら返しの仕打ちかと睨みつけるが、彼らは気づかない。同じ六番隊の隊士たちも腫れ物に触れるのを毛嫌いするように誰も話しかけてこなかった。この状況では誰もいない部屋で謹慎させられていた方がましだ、孤独どころか居心地が悪い。
そうしていると
「三浦」
と声がかかった。渋く低音の声…組長である井上だ。手招きして呼ばれ、三浦はそれに従った。
井上とともにやってきたのは屯所の裏手だ。豚小屋の近くは臭いがキツく、潔癖な部分もある三浦は近づくことすら厭う場所だったが、拒むことはできなかった。
井上はその異臭を意に介することなく切り出した。
「もう潮時じゃねえか」
「…なにが…」
「トボけた事を言うんじゃねえ、十分頭を冷やしただろう。…故意ではなかったとはいえ、罪のない人間を一人殺している。それでも罰せられずに、帰藩も許されている。…これ以上、何を望むっていうんだ」
「…」
「前にも言ったよな、お前が死ぬのは勝手だが、必ず誰かに迷惑がかかる。一人で生きていると思っているなら大間違いだ」
井上の説教に三浦は反抗しなかった。すっかり状況を飲み込んだ三浦は彼が言っていることが正論であり、何一つ間違っていないことは理解していたからだ。
大人しい三浦の様子を見て井上は穏やかに語りかける。
「三浦、今回のことを含めてお前は憎まれ役に違いないが、悲しむ者もいるだろう。故郷の母さんや…芦屋は」
「芦屋は関係ありません」
反射のように拒んだ。その存在を認識するどころか、他人に知らしめられるのも嫌だった。
そんな三浦の反応を見て、井上はため息をついた。
「いい加減、素直になったらどうだ。過去に何があったのかは知らねえが、そんなにも許せれないものか?」
「…あいつは、俺を裏切りました。嘘をつき続けていた…だから…」
芦屋が父である佐久間象山を殺したのだと知ったとき、その事実を隠してずっと側にいた芦屋が、それまで何を考えていたのか、想像するだけでゾッとした。そして裏切られた悔しさと悲しみから、芦屋の存在を消した。
そうすることで芦屋と決別したつもりだった。
「それが本音か?」
「…」
「本当はもう許してるんじゃねえのか?」
井上の言葉は凝り固まったガチガチの心に、針のようにチクリと刺さった。
離れれば離れるほど、その存在を忘れられなかった。飲み歩いても遊び歩いても、傍に芦屋の存在を感じていた。最初はそれが鬱陶しくて仕方なかったけれど、次第にそれは『日常』となり安堵へ変わった。
(この人の言う通り、本当は…俺は許してしまっている)
そうでなければ、先晩、芦屋が話しかけて来たときに無視して通り過ぎたはずだ。そうせずに罵倒したのは、たとえ歪でも彼を認めている証拠だ。
自分が認めなくないのは芦屋の存在ではない。許してしまっているという自分自身だ。
この憎しみと猜疑心は消えることはないだろう。まだ自分と同じように芦屋が苦しめばいいと思う。
それなのに、傍にいろなんて言えるわけがない。
三浦は深い息を吐いた。
「…帰藩の件は前向きに検討します。数日、時間をください」
「そうか、わかった。副長にも伝えておく」
「失礼します」
三浦は足早に去った。これ以上井上に悟られるのは嫌だったし、いい加減、豚の異臭は限界だったのだ。

三浦が去ったあと、井上はおもむろに振り向いて「聞いているんだろう?」と声をかけた。すると豚小屋の後ろから総司が顔を出した。
「…おじさん、聞き耳が得意な土方さんと違って、わざとじゃないんですよ。豚小屋に来ていたのは私が先だったんですから。おじさんたちが急に話し始めちゃったから出るに出られなくなっただけなんです」
「別に疑っちゃいねえよ」
「良かった。でも、昨日生まれた子豚を見に来たら、意外な会話が聞けました」
「まあ、このまま納得すればいいけどなぁ」
総司が安心したのとは正反対に井上はまだ渋い表情を崩さなかった。一年以上三浦を組下に置いているだけあって、彼の心情は総司よりもはるかに理解しているだろう。
その井上はゆっくりとため息をついた。
「…俺は三浦のことを組下として気にかけているから、脱退してくれればそれでいいと思う。…だが、今までこの法度で何人も死んで来た事を思うと、ちょっと遣る瀬無いところがあるな」
「…それは、わかる気がします」
士道に背く間敷事、脱退を許さず…その文言の前に一体何人の屍が生まれて来たことだろう。身内の山南でさえ許されなかった法度が、一隊士である三浦の前では何の意味もなさない。それに反感を持ち、批判的な眼差しを三浦に向けるのは仕方ないことだろう。
「このまま平穏に脱退とはいくまい。…総司、面倒だとは思うが乗りかかった船だ、気にかけてやってくれ」
「…わかりました。結果的に聞き耳を立ててしまったのですから、そのくらいはします」
「そうだな、それくらいはしろよ」
井上は少しだけ笑うと、「じゃあな」と手を振って三浦と同じ方向へ去っていった。








解説
なし
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