わらべうた




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総司が巡察から戻り報告のため土方の元へ向かうと、珍しく「お帰り」と上機嫌に迎えた。総司は思わずしかめ面で土方の表情を伺った。
「…お帰り、なんて今まで一度も行ったことがないじゃないですか。気持ち悪いなあ」
「別にいいだろう。それで?」
「特に…最近、色白で切れ長の美人が界隈で話題になっているとか、そんな感じでした」
「何だそれは」
「平和だってことですよ。でも明日から平和じゃなくなるかもしれません。土方さんが『お帰り』なんて言うから雨嵐かな」
総司の軽口にも土方は「そうかもな」と軽く受け流す。どうしたのかと首をかしげながら彼の前で膝を折ると
「面倒な案件が片付いた」
ということだった。
「面倒な案件って…ああ、もしかして三浦くんのことですか?」
「何だ、知っているのか?」
「井上のおじさんが説得して、三浦君もそのつもりのようだったので…」
「ああ。帰藩に応じるそうだ」
今朝方、三浦自身が土方の元にやって来て殊勝な態度で「帰藩する」と申し出たそうだ。彼の意固地な態度が最近の土方の悩みの種だったので彼はすっかり上機嫌なのだ。
「だが表向き、脱退を認めるわけにはいかねえから脱走をしたことにする。罪の重さに耐えかねて、居心地が悪くなって…三浦が脱走する理由はいくらでもある。監察に含ませて黙認すれば良いだけだ」
「監察…か」
総司の脳裏に浮かんだのは監察方の浅野だった。殺された箭内屋と懇意だという彼は三浦の処遇に対して思うところがあるだろう。
(土方さんはきっとそれさえも試そうとしているのだろうけれど…)
今後、浅野が監察として忠実に任務を遂行できるかどうか…土方は踏み絵にしているのだ。
「…芦屋君はどうするのですか?」
「ああ…三浦は連れていくつもりはないようだ」
「そりゃ、三浦君はそうでしょうけれど…」
「芦屋がどうするかは本人に任せる。残るなら監察として働かせるし、行くなら…追わない」
「…そうですね」
土方は芦屋の意思を尊重するというよりも、これ以上面倒ごとに関わりたくないという態度だった。もともと会津藩の要請で三浦と芦屋を預かり、多くのことを黙認してきたのだから当然だ。
もちろん総司としても思うことがないとは言いきれず蟠りはあるものの、彼らを引き止める理由はない。
「いつ出て行く予定なのですか?」
「三日後だ。深夜、洛外に出るまでは一応、警護をつけるつもりだ。この都で何かあったら面倒だからな」
「…だったらその警護役、私にやらせてもらえませんか?」
「お前に?」
土方は怪訝な顔をしたが、総司は構わず頷いた。
「別に他意があるわけではありませんが…何か話したいことがあるような、気がするんです」
「…わかった。お前なら確実に守りきれるだろう」
「任せてください」
土方は「局長に伝えておく」と言って了承した。


「お客はん、もうそのくらいに」
酒を追加で頼むと、店の娘である可愛らしい女子がやんわりと制したが、構わずに「おかわり」と言い放った。女子は困った顔で店の奥へと消えて行った。
浅野は夜の花街で久々に羽目を外していた。今日はだれでもない、名前のない泥酔の男…を演じている。
(いや…もはや、その境界がわからねぇや…)
自分は息を吐くように嘘をついて生きている。誰にも本当のことを吐き出すことはできなくてやりきれない思いを抱え、逃げる場所は酒しかなかった。一番隊にいた頃は好物だった酒が、今は不味くて仕方ない。
浅野の元に別の監察方の隊士から土方からの指示が伝達された。
内容は『三浦が脱退する。見逃すように』…簡潔な指示はそれ以上の詮索は無用だということだ。
(帰藩が決まったのだ…)
お荷物だった三浦がついに隊を去る…土方にとってこれ以上の好機はなく、彼の行動に気を配っていた監察方も一息つく。
だが浅野には言いようもない苦しさしかなかった。銀平の仇である三浦がのうのうと逃げ延びる…それを許していいのか。
机に顔を埋めていると、若い青年たち二、三人が楽しそうに酒を酌み交わしていた。
(銀平と同じ齢くらいか…)
溌剌とした表情で語らう彼らが何を話しているのかは、居酒屋の騒がしい中では聞こえてこない。
(銀平…銀平…)
何もできない。あいつのためになにもしてやることができない。
いま、銀平は何をしているだろうか。たった一人になってしまったあの家で一人孤独に泣いているのだろうか。
(俺は…慰めてやれない、励ましてやれない…)
肩を抱いて、抱きしめることはできない。この手は汚れている…新撰組である自分が彼に触れる権利はない。
(触れるって…なんだ、それ…)
はは、と苦笑が溢れたとき、目の前に熱燗が置かれたと同時に隣に誰かが座った。
「この席、空いてるかい?」
「…あ…ああ…」
浅野はどうにか返事をしたが、眼は隣席の女に釘付けになった。
(…綺麗な、女だな…)
彼女の存在はこの汚い居酒屋の中で浮いていた。まるで陽に晒したことがないような真っ白な肌に切れ長で矢のように鋭い目元。すっとした鼻の高さにピッタリと沿うような口唇。小柄な体躯なのにその存在すべてに吸い込まれるようだーーー。
「何か嫌なことでもあったのかい?」
女はそう言った。最初は自分に話しかけているのかわからなかったが、彼女の視線の先には自分しかいない。
「…俺に言っているのか?」
「もちろん。随分酔っている…それに、飲み慣れていない」
「まあなぁ」
彼女の遠慮のない言葉がとても澄み切った清涼なもののように聞こえる。騒がしい居酒屋で小鳥の囀りを聞くような。
(俺は酔ってるな…)
心なしか視界も曇っている。しかし、遠慮ない彼女の言葉が何故か心地よい。
彼女は肘をついて尋ねた。
「…あんた、西の方の出かい?」
「ああ…備前だ」
「良いところだ」
「あんたは?都の人間じゃないだろう」
「ああ。同じようなところだよ」
彼女は酒を一気に煽って飲み干した。浅野の口元が緩んだ。
「良い飲みっぷりだ…」
「そうかい」
「ああ…奢らせてくれよ」
彼女とまだ会話を続けたい。
(俺の寂しさを埋めてくれ…)
浅野の懇願を受け入れるように、彼女はゆったりと微笑んだ。
「…じゃあ、別の場所で飲み直さないかい」
「別…の…」
「酔っていても意味はわかるだろう?」
「…」
いつもならこの手の誘いをサラリとかわす浅野も、今晩は気が緩んでいた。
「…ああ、行くよ」
重たい身体をどうにか持ち上げて、「お勘定」と言って店の娘に多めに金を渡した。娘は少し困惑したようだったが「おおきに」と受け取って見送った。
外に出ると冷たい夜風が吹いていた。だがいつもより多く飲んだ浅野の酔いを吹き飛ばすほどではない。
「ああ、いい月夜だ」
まん丸とした月が一片の雲もない夜空に浮かんでいる。その淡い光は彼女の横顔を映し出した。
「あ…」
浅野はふと気がついた。彼女は小柄だが腰に刀を帯びている。
「なんだい」
「いや…あんた、男か」
「何だ、気がついてなかったのか。…すっかり酔っているようだ」
彼女…彼は浅野の頬に手を伸ばし「熱いな」と少し笑った。彼の性別が自分と同じであったと気づいても、最初に感じた端正な姿は崩れることはない。
「じゃあここでお別れか?」
「…いや…」
「行こう」
男はふっと小さく笑って歩き出した。浅野はその背中を追いかけながら、
(銀平…)
と、もう触れることのできない友人の顔を思い浮かべていた。







解説
なし
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