わらべうた




551


朝、目が覚めたとき自分がどこにいるのかわからなかった。見たことのない天井の木目を呆然と眺め、視線を周囲へを向ける。
(誰もいない…)
誰もいないのに、どうしていたような気がしたのだろう。
浅野は身体を起こしたが、途端に激しい頭痛に襲われ頭を抱えた。
「いっ…て…」
その痛みが引き金となって昨晩のことを思い出す。
溜まり溜まった鬱憤を晴らすように飲んだ。店の娘が困ったような顔をしていたが、泥酔といえるほど飲み尽くした。意識が朦朧としてきた頃、誰かが話しかけてきた。色白の整い過ぎた女…
(いや、男だった…)
そうだ。男だったことを知っている。彼は刀を帯びていたし、それに…。
「…!」
浅野はハッとしてもう一度周囲を見渡した。やはり誰もいない…艶やかでありながら鍛えられた裸体を晒した男の姿はどこにもない。
「…夢…じゃねぇか…」
ここが狭い四畳半のいわゆる『茶屋』であり、まるで暴れたように乱れた二人分の寝具を見ると、紛れもなく現実だったのだと思い知ることができる。二日酔いの自分でもさすがに夢だと片付けることはできない。
一先ず、脱ぎ散らかした衣服に袖を通すことにする。
「失敗したなぁ…」
茶屋に入ったことは覚えているが、それ以降の記憶はなく一体何を口走ってしまったのか全く覚えていない…監察として失格だ。
後悔に苛まれながら身なりを整えたところで、枕元に置いてあった一枚の紙の切れ端を見つけた。
『良い夜だった』
そう一言書かれていて、
「くそ…」
と不甲斐ない自分と、どこか気分が高鳴る自分がいた。またいつか会えるだろうかーーーそんな期待が心に過ぎる。
それからそそくさと茶屋を出ると秋晴れの昼となっていた。今まで自分がいた場所がまるで別の世界だったかのように、そこにはありきたりな日常とどうしようもない現実が流れている。
浅野がその人並みという波に飲み込まれようと踏み出した時、
「…福次郎はん?」
と聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。浅野は振り返るのが恐ろしかった。
(この声は…)
「…ぎ…」
振り返って銀平、と応えることはできない。今の自分は『金山福次郎』ではない。
けれど、銀平は構うことなく浅野の前に回り込んだ。大きな荷物を抱えてひょっこり顔だけ出している。
「やっぱり福次郎はんや。何や雰囲気が違ったから人違いかと思うた」
「あ…あぁ…こんなところで会うなんて…な…」
「こんなところゆうても、店の近くやし」
「え?」
浅野は驚いて周囲を見渡す。銀平の言った通り見覚えのある町家が並んでいる。
(くそ…つくづく、俺ってやつはどうしようもない…)
頭を抱えそうになったところで、銀平は「あっ」と声を上げて少し顔を赤らめた。
「…か、堪忍…」
「な…何が?」
「今ここから出てきたやろ?」
「あ…」
銀平が指差したのは先ほどまで寝こけていた出会茶屋だ。浅野は咄嗟に
「ご、誤解だ」
と口から溢れたが、何も誤解などない。名前さえ知らぬ男と一夜を過ごしたのだから銀平が想像している通りなのだ。
「察しが悪くて堪忍な。…もう行くから」
「ま、待ってくれ」
「ええから、えええから。もう忘れるから」
「銀…」
銀平は振り切って小走りに去って行く。大きな荷物を抱えた彼はふらふらと重心が定まらない様子で追いつけない早さではなかったが、浅野の足はうまく動かなかった。


脱退を明日に控え三浦は質屋へ向かっていた。帰藩命令が出ているとはいえ華々しく出て行くわけではなく、夜道を人目を忍んで出て行くことになるのだから荷物は少ないに越したことはない。一度も袖を通したことのない羽織や不要な雑貨などをまとめて質屋に出すことにしたのだ。
三浦は荷物の重さに耐えながらしかめっ面をしていた。
(それにしても気に食わないな…)
今朝、密かに近藤に呼び出された。近藤はなにかと気を遣った喋る方をするが、それは三浦の背中にいる会津藩や勝海舟の姿を見ているのだ。そんな近藤から脱走の手順、洛外へ出たら会津藩士の何某と合流し郷へ向かう…などということを再確認され、洛外に出るまではかつての上司であった総司が付き添うことを知らされた。
(なぜだ!)
咄嗟に近藤へ牙を剥きそうになったが事を荒立てたところで明日には切れる縁だ、とグッと飲み込んだ。しかし不満はじわじわと募っていく。
三浦は総司が苦手だった。『仇討のため』として入隊した時厳しく接せられたのもあるが、誰にでも向ける穏やかで爛漫な笑顔が、何もかもに不満を持ちいつも不機嫌な自分とは真逆にいるような気がしていた。
それに総司は自分と芦屋とのことをよく知っている一人でもある。
(嫌がらせか…)
散々迷惑を被った最後の嫌がらせだと思えば得心行く。そんな事を考えながら質屋に辿り着いた。
店の主人に荷物を渡し、店の隅に腰かけた。どれもこれも値の付くものばかりで主人の目が次第に輝いていく。
金に無頓着な三浦にとってどういう金額になろうとも構わなかったが、主人によって小気味よく算盤の目が弾かれて行く光景は面白かった。
そうしていると別の客人がやってきた。
「らっしゃい…ああ、銀か」
「堪忍、また用立ててもらえへんかと思うて」
「かまへん、ちょっと待ち。…なんや顔が赤いな、風邪かいな?」
「ちゃうちゃう」
馴染みの客なのか『銀』と呼ばれた青年は慣れたように大きな風呂敷を主人に手渡した。
「どうや、落ち着いたか?」
「いやざ…親父が借金残してたから」
「あちゃー久兵衛はん、無理してはったんやなぁ」
(…久兵衛?)
「うん、いつもそういうことは言わへんかったから…」
「明るい人やったからなぁ。ほんまに…新撰組は鬼畜やなぁ」
興味のなかった二人の会話に、三浦は次第に耳を欹てる。主人がしみじみと話し青年が寂しく頷く…『久兵衛』『新撰組』…その言葉の意味に気がつき、三浦は冷や汗を�惜きはじめた。
(俺が…殺した…)
俯く青年は自分が殺してしまった『箭内久兵衛』の忘れ形見なのだろう。そして話を聞く限りでは彼は父親が亡くなったことで店を畳み、生活に困り質屋に出入りしている…その状況を引き起こしたのは紛れもなく自分に違いない。
胸が痛んだ。事故だったとはいえ、殺したくて殺したわけではない。
「お客はん」
「…」
「お客はん、終わりましたえ」
「あ…ああ」
三浦はふらふらと主人の元へ向かった。主人はあれがいくら、これがいくらと細かく説明したが何も頭に入らず、(早くここを立ち去りたい)という気持ちでいっぱいになっていた。
「…そういうわけで、全部で十五両二分でどうやろか」
「あ、ああ…それでいい」
「おおきに」
低い値をつけられたのかもしれないが、構わずに応じた。そして庶民なら何年かは生活できそうな金を巾着に入れる。ズシリと重たいそれを懐に入れるつもりだったが、しかし三浦はそうしなかった。
青年の前に立ち、突き出した。
「へ…?」
「くれてやる」
「な、なんで…」
「受け取れ」
呆然とする青年と主人を無視して三浦は強引に巾着を押し付けると、そのまま暖簾をくぐって店を出た。そして追いかけられないように小走りに駆け出して離れた。
あれだけの金があれば当分は暮らせるだろう。それが謝罪にすらならない自己満足の行為だとわかっていたが、あの場で何事もなかったかのように立ち去ることはできなかったのだ。
(俺にもそのくらいの情はある…)
明日の夜には都を離れる。もう二度と青年に会うことはないだろう。








解説
なし
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