わらべうた




551


朝、目が覚めたとき自分がどこにいるのかわからなかった。見たことのない天井の木目を呆然と眺め、視線を周囲へを向ける。
(誰もいない…)
誰もいないのに、どうしていたような気がしたのだろう。
浅野は身体を起こしたが、途端に激しい頭痛に襲われ頭を抱えた。
「いっ…て…」
その痛みが引き金となって昨晩のことを思い出す。
溜まり溜まった鬱憤を晴らすように飲んだ。店の娘が困ったような顔をしていたが、泥酔といえるほど飲み尽くした。意識が朦朧としてきた頃、誰かが話しかけてきた。色白の整い過ぎた女…
(いや、男だった…)
そうだ。男だったことを知っている。彼は刀を帯びていたし、それに…。
「…!」
浅野はハッとしてもう一度周囲を見渡した。やはり誰もいない…艶やかでありながら鍛えられた裸体を晒した男の姿はどこにもない。
「…夢…じゃねぇか…」
ここが狭い四畳半のいわゆる『茶屋』であり、まるで暴れたように乱れた二人分の寝具を見ると、紛れもなく現実だったのだと思い知ることができる。二日酔いの自分でもさすがに夢だと片付けることはできない。
一先ず、脱ぎ散らかした衣服に袖を通すことにする。
「失敗したなぁ…」
茶屋に入ったことは覚えているが、それ以降の記憶はなく一体何を口走ってしまったのか全く覚えていない…監察として失格だ。
後悔に苛まれながら身なりを整えたところで、枕元に置いてあった一枚の紙の切れ端を見つけた。
『良い夜だった』
そう一言書かれていて、
「くそ…」
と不甲斐ない自分と、どこか気分が高鳴る自分がいた。またいつか会えるだろうかーーーそんな期待が心に過ぎる。
それからそそくさと茶屋を出ると秋晴れの昼となっていた。今まで自分がいた場所がまるで別の世界だったかのように、そこにはありきたりな日常とどうしようもない現実が流れている。
浅野がその人並みという波に飲み込まれようと踏み出した時、
「…福次郎はん?」
と聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。浅野は振り返るのが恐ろしかった。
(この声は…)
「…ぎ…」
振り返って銀平、と応えることはできない。今の自分は『金山福次郎』ではない。
けれど、銀平は構うことなく浅野の前に回り込んだ。大きな荷物を抱えてひょっこり顔だけ出している。
「やっぱり福次郎はんや。何や雰囲気が違ったから人違いかと思うた」
「あ…あぁ…こんなところで会うなんて…な…」
「こんなところゆうても、店の近くやし」
「え?」
浅野は驚いて周囲を見渡す。銀平の言った通り見覚えのある町家が並んでいる。
(くそ…つくづく、俺ってやつはどうしようもない…)
頭を抱えそうになったところで、銀平は「あっ」と声を上げて少し顔を赤らめた。
「…か、堪忍…」
「な…何が?」
「今ここから出てきたやろ?」
「あ…」
銀平が指差したのは先ほどまで寝こけていた出会茶屋だ。浅野は咄嗟に
「ご、誤解だ」
と口から溢れたが、何も誤解などない。名前さえ知らぬ男と一夜を過ごしたのだから銀平が想像している通りなのだ。
「察しが悪くて堪忍な。…もう行くから」
「ま、待ってくれ」
「ええから、えええから。もう忘れるから」
「銀…」
銀平は振り切って小走りに去って行く。大きな荷物を抱えた彼はふらふらと重心が定まらない様子で追いつけない早さではなかったが、浅野の足はうまく動かなかった。


脱退を明日に控え三浦は質屋へ向かっていた。帰藩命令が出ているとはいえ華々しく出て行くわけではなく、夜道を人目を忍んで出て行くことになるのだから荷物は少ないに越したことはない。一度も袖を通したことのない羽織や不要な雑貨などをまとめて質屋に出すことにしたのだ。
三浦は荷物の重さに耐えながらしかめっ面をしていた。
(それにしても気に食わないな…)
今朝、密かに近藤に呼び出された。近藤はなにかと気を遣った喋る方をするが、それは三浦の背中にいる会津藩や勝海舟の姿を見ているのだ。そんな近藤から脱走の手順、洛外へ出たら会津藩士の何某と合流し郷へ向かう…などということを再確認され、洛外に出るまではかつての上司であった総司が付き添うことを知らされた。
(なぜだ!)
咄嗟に近藤へ牙を剥きそうになったが事を荒立てたところで明日には切れる縁だ、とグッと飲み込んだ。しかし不満はじわじわと募っていく。
三浦は総司が苦手だった。『仇討のため』として入隊した時厳しく接せられたのもあるが、誰にでも向ける穏やかで爛漫な笑顔が、何もかもに不満を持ちいつも不機嫌な自分とは真逆にいるような気がしていた。
それに総司は自分と芦屋とのことをよく知っている一人でもある。
(嫌がらせか…)
散々迷惑を被った最後の嫌がらせだと思えば得心行く。そんな事を考えながら質屋に辿り着いた。
店の主人に荷物を渡し、店の隅に腰かけた。どれもこれも値の付くものばかりで主人の目が次第に輝いていく。
金に無頓着な三浦にとってどういう金額になろうとも構わなかったが、主人によって小気味よく算盤の目が弾かれて行く光景は面白かった。
そうしていると別の客人がやってきた。
「らっしゃい…ああ、銀か」
「堪忍、また用立ててもらえへんかと思うて」
「かまへん、ちょっと待ち。…なんや顔が赤いな、風邪かいな?」
「ちゃうちゃう」
馴染みの客なのか『銀』と呼ばれた青年は慣れたように大きな風呂敷を主人に手渡した。
「どうや、落ち着いたか?」
「いやざ…親父が借金残してたから」
「あちゃー久兵衛はん、無理してはったんやなぁ」
(…久兵衛?)
「うん、いつもそういうことは言わへんかったから…」
「明るい人やったからなぁ。ほんまに…新撰組は鬼畜やなぁ」
興味のなかった二人の会話に、三浦は次第に耳を欹てる。主人がしみじみと話し青年が寂しく頷く…『久兵衛』『新撰組』…その言葉の意味に気がつき、三浦は冷や汗を�惜きはじめた。
(俺が…殺した…)
俯く青年は自分が殺してしまった『箭内久兵衛』の忘れ形見なのだろう。そして話を聞く限りでは彼は父親が亡くなったことで店を畳み、生活に困り質屋に出入りしている…その状況を引き起こしたのは紛れもなく自分に違いない。
胸が痛んだ。事故だったとはいえ、殺したくて殺したわけではない。
「お客はん」
「…」
「お客はん、終わりましたえ」
「あ…ああ」
三浦はふらふらと主人の元へ向かった。主人はあれがいくら、これがいくらと細かく説明したが何も頭に入らず、(早くここを立ち去りたい)という気持ちでいっぱいになっていた。
「…そういうわけで、全部で十五両二分でどうやろか」
「あ、ああ…それでいい」
「おおきに」
低い値をつけられたのかもしれないが、構わずに応じた。そして庶民なら何年かは生活できそうな金を巾着に入れる。ズシリと重たいそれを懐に入れるつもりだったが、しかし三浦はそうしなかった。
青年の前に立ち、突き出した。
「へ…?」
「くれてやる」
「な、なんで…」
「受け取れ」
呆然とする青年と主人を無視して三浦は強引に巾着を押し付けると、そのまま暖簾をくぐって店を出た。そして追いかけられないように小走りに駆け出して離れた。
あれだけの金があれば当分は暮らせるだろう。それが謝罪にすらならない自己満足の行為だとわかっていたが、あの場で何事もなかったかのように立ち去ることはできなかったのだ。
(俺にもそのくらいの情はある…)
明日の夜には都を離れる。もう二度と青年に会うことはないだろう。




552


夕方。
茜色に染まる夕闇のなか人々が家路を急いでいる。銀平はガランとした店で暖簾のない入り口越しにぼんやりとその人並みと夕陽が落ちて行く様を眺めていた。外の時間は過ぎているのに、この店の中はまるで時間が止まったかのように静かだけれど、空気は流れていてポカン、と開いた唇が乾いている。
他人から見れば両親を亡くし孤独な青年が、心ここに在らずで孤独に苛まれている憐れな姿でしかないだろうが、大方その通りだと思う。ぽっかり胸に穴が開いてしまった。
(誰も彼も、遠くへ行ってまう…)
最初に亡くしたのは母だった。次に父を亡くし、兄弟のいない銀平にとって血の繋がった人間は誰もいなくなった。誰とも血の繋がりのないということの頼りなさと脆さを日々思い知っている。
誰も彼もがそう言って慰めたように、悲しみは時を経るごとに薄れるけれど、そのスピードは人によって違う。自分と同じ鈍さで忘れて行く者はおらず、誰もがいつまでも傷の癒えない自分を置いていつもの日常へと戻って行くのだ。自分はその後ろ姿を眺めるだけ。
(福次郎はんも…そうや…)
所詮は他人なのだから、仕方ないのかもしれない。けれど出会茶屋の前で偶然出くわした時に、どうしようもない焦燥感に駆られながら、
(福次郎はんも所詮は他人や)
と思い知った。彼は銀平を置いて誰かと情を交わせるような『日常』に戻ったのだ。
(それを…『裏切り』やなんて、きっと烏滸がましい)
『家族』と『友人』は違う。過ごして来た時間や積み重なった愛情に決定的な差があるのだから、銀平と同じように悲しみに浸り続けているわけではない。
だが、それでも。
(たったひとつの…たった一人の、縁(えにし)やのに…)
銀平は俯いた。この寂しさが自分一人のものでしかないのだと気がつくことで、グッと唇を噛んで堪えないと泣いてしまいそうだった。
(なんで泣くのかわからへん…)
何が悲しいのか、何が寂しいのか、よくわからなかった。
「ごめんください」
「!はっ、はい!」
突然鼓膜に響いた声に驚いて、ほぼ反射的に顔を上げた。するとそこにいたのは目深に頭巾を被った小柄な女だった。彼女はゆっくりと店の中を見渡した。
「…か、堪忍。店はもう閉じてしもうて…」
「そう」
てっきと客かと思ったのだが彼女は特に驚く様子もなくあっさりと頷いた。切れ長の目と形の良い唇、そして涼やかで聞き取りやすい声。女の見た目からはそれだけしかわからないのに、自然と身体がたじろいだ。
「箭内屋の息子?」
「えっ?へ…へえ、まあ」
「ふうん」
品定めのような不快な眼差しと遠慮のないもの言い。異質な雰囲気を感じ銀平はゾクッと悪寒を覚えた。
「ご…ご用件はなんやろうか?」
「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か久しかるべき」
「…は?」
突然何を言い出すのかと驚く銀平とは裏腹に、彼女は涼しい表情を崩すことはない。
「在原業平への返歌」
「あり…?」
「紀有常の作だと言われている」
「そ、それが…?」
幼い頃から勉学が苦手だった銀平には彼女の口から出てくる全ての言葉が理解しずらい。ただわかるのは、彼女はただの客ではないということだけだ。
「桜は散ってこそ尊い。そもそもこの世に永遠なんてものはない、という意味だ」
女はゆっくりと頭巾に手をかけた。細く長い髪がはらりと肩口に掛かり、銀平はようやく気がついた。
(女…?いや、男…?)
「だ、誰やあんた…」
「誰でも良い。ただ、お前に忠告しに来てやっただけだ」
「忠告…?」
彼は一歩、二歩と銀平に近づくとその白く長い手を差し出し、その指先で遊ぶように顎を取った。
彼との距離は拳一つもない。それだけ近づいているのに銀平には目の前にいるのが男なのか女なのか、はたまた人間なのかそうではないのかさえわからなくなっていた。
彼は磨かれた鉱物のように美しいのに、触れられた指先は氷のように冷たいのだ。
異質な存在を前にピクリとも動けない銀平を見て、彼は笑った。
「臆病だな。…唯一の肉親を殺されたというのに、敵討ち一つしようとせず、こんな場所でのうのうと。…親父もあの世で悲しんでいることだろう」
その挑発に突然感情の火がついた。
「…なっ!」
「新撰組が怖いのか?」
「…もう下手人は捕まったって…!」
「そんな子供騙しのような話をまさか信じているのか?親父を殺したのは新撰組だと、本当はわかっているのだろう?」
「…っ」
役人から父を死に至らしめたのは酔っ払いの初老の男だと知らされた。その男を連れてきたのは新撰組で、もちろん銀平も役人も納得はしていなかったが、『壬生狼』に逆らうと何をされるかわからなかったから幕引きにするしかなかった。
彼は薄く笑った。
「『散ればこそ』…人が最も美しいのは死ぬときだ。それさえも嘘で汚された親父の無念を誰が晴らせるというのだ」
「そんなこと…言われても…」
「本当は誰が親父を殺したか…教えてやろうか」
「!?…な、なんで、あんたがそんなことを知っているんだよ!」
「理由などどうでも良い。お前にとって本当は誰が殺したのかだけが重要だ」
「…」
「早く答えろ。さもなければ…今晩中に真犯人は逃げ果せてしまう」
「…え?」
彼の細い指先が顎から首筋へと伸びた。見下すように銀平を見る冷たい眼差しがゆっくりと、確実に身体を支配していくような感覚を覚えた。


星のない夜空に浮かぶ月に、薄い雲に覆われている。
秋の夜はずいぶん早くやってきて、だんだんと陽を遮っていく。深い闇は暗さとともに静けさを齎し、沈黙と不安を与える。
「…なんだか、嫌な夜だな…」
ほとんど無自覚に呟いた言葉は思った以上に部屋に響き、土方の耳に入った。彼は手を止めて「どうした」と尋ねてきた。
「いえ…別に、何かあるわけじゃないんですけど。嫌な感じがして」
「お前の『嫌な感じ』はいつも厄介だ。今晩、三浦を洛外まで無事に届ける任務があるんだからな」
「わかってますよ。ちゃんと気をつけます…もうそろそろ出なきゃな」
総司は腰の大小を差し直し、気持ちを切り替える。自分の嫌な予感がよく当たることは土方以上に自分がわかっているのだ。
少しだけ強張った背中に、フッと温かさを感じた。土方が総司の肩に羽織を掛けたのだ。
「着ていけ。秋の夜は思った以上に冷える」
「…はい」
少しだけ大きい土方の羽織に袖を通す。彼の匂いが染み付いたそれは自分のものよりも暖かく感じた。
すると土方は少し声を潜めた。
「一つ言っておくが」
「?何ですか?」
「俺はお前さえ無事なら何でもいい。三浦が死のうと芦屋が死のうと…近藤先生以外なら他の誰かに何があっても、お前が無事ならそれでいい」
土方の両手が背中から伸びてそのまま抱きしめられた。温かさに包まれ、総司は自然と力が抜けた。
「…なんてこと言うんですか。三浦君を無事に送り届けなきゃ任務失敗でしょう?」
「副長としてはその通りだが…個人としてはどうでもいい。ただ俺はお前の『嫌な予感』が当たりそうで、嫌なんだよ」
「…大丈夫ですよ」
総司だけではなく土方も同じ気持ちだったのだろう。別の人間である彼と気持ちか重なっていることが、総司を『大丈夫』にする。
土方の手のひらに自分のそれを重ね「大丈夫です」と繰り返した。

総司が屯所の裏口にやってくると、すでに三浦の姿があった。旅姿の彼は少し緊張しているのか表情が硬い。
酒癖が悪く金遣いの荒い嫌われ者の三浦だが、総司は彼の唯一といえる長所を見つけていた。
(相変わらず姿勢が良いなぁ)
佐久間象山の厳しい躾のおかげなのかどうかわからないけれど、彼はいつも背筋をピンと伸ばしその姿勢を保ち続けている。傲慢で利己的だと陰口を言われても、いつも凛としてその誇りを忘れることはなかった。
(その誇りの矛先が僕たちと同じ方向なら良かったのに)
意固地なほどの強さとプライドの高さで任務を務めることができれば、有用な隊士に成り得たのではないかとさえ思うのだ。
そうしていると三浦が総司に気がつき軽く頭を下げたので
「行きましょうか」
とともに屯所を出た。




553


月明かりだけの静かな夜、西本願寺裏手から北へ上がる大宮通りを歩き、五条へ出た。総司は西へ行き鴨川を渡るまで三浦を見送ることになっている。
(ひと一人いないな…)
寝静まった町のそれはいつもの光景に違いなく、何の不思議もないことなのだが今夜ばかりは胸騒ぎの一因となる。自分でもどうしてこんなにも感情を揺さぶられるのかわからない。
前を行く三浦は無言のまま歩き続けている。旅姿の彼の荷物は少なく、身の回りのものは随分処分したのだろう。会話もろくに続かない彼が一体何を考えているのか、総司にはわからなかった。
(彼にとってのこの数年は何だったのだろう…)
妾腹の子として生まれ、父親の仇討ちだと持て囃され、けれどそれを果たせないままこんな夜中に惨めに去ることになってしまったーーー新撰組隊士として過ごしたこの数年を無意味なものと思うだろうか。
そんなことを考えていると、三浦が足を止めた。
「どうしました?」
「…いえ…」
総司は三浦の視線の先に目をやった。するとそこには野良猫の親子が数匹が屯していて、二人を見ると逃げ去って行った。
先程から三浦はこうして気配を感じると歩みを止め、視線を泳がせている。まるで何かを探しているように。
総司は足を早め、三浦に並んだ。
「三浦君、これからどうするつもりですか?」
「…さあ、何も考えていません。江戸藩邸に向かうようにと言われているだけですから。…ご心配されなくとも新撰組のことは他言しません」
三浦の返答は淡々として冷たかったが、いつものことなので総司は気にならなかった。
「そんなことは心配はしていません。君はちゃんと約束は守るでしょう」
「…そりゃ、鬼副長に『新撰組のことは他言無用、口外すれば脱退したとはいえ容赦しない』…とキツく念を押されましたから」
「はは、それは怖いな。…でも君は何だかんだとありましたが、自分の意思を曲げず一本筋が通って約束は違えない男です。私は副長に念を押されなくても君が何かを言いふらすような人だとは思っていませんよ」
「…今更そんなことを言われても」
三浦は顔を背け総司の賞賛を素直に受け取ろうとはしなかったが、構わず続けた。
「たしかに私が君の上司だった期間はとても短い。だから何を言ったところで詮無いですが…井上組長には世話になったでしょう?」
「…それは…」
「預かりものをしています」
総司は懐紙を取り出し三浦に差し出した。直属の上司である井上が、立場上見送ることはできないから、と総司に託したものだった。
三浦は訝しげな表情を浮かべたもののそれを受け取るとゆっくりと開いた。
「…下げ緒…?」
「真田紐だそうですよ」
鞘と腰紐を結びつける色鮮やかな朱色の下げ緒だった。渋好みの井上らしくない餞別を三浦は不思議そうにまじまじと見ていた。
「『腰帯にしっかりと巻き付けろ』…それが伝言です」
「……」
井上は『そう伝えるだけで良い』とそれ以上は説明しなくても良いと言っていた。
下げ緒を腰帯に結びつけることで鞘が抜け落ちず、不意に刀を奪われたり、取り落としの防止に繋がる。刀を帯びる者として初歩中の初歩ではあるが、それは同時に戦闘の意思がないことを示すことになる。
もう刀を抜くことはない。安穏に暮らせーーー井上はそういう意味で下げ緒を餞別としたのだ。
(ちゃんと伝わるか、わからなかったけれど…)
三浦はしばらく下げ緒を見ると「わかりました」と真摯な表情で頷いて懐に入れた。井上の意図はちゃんと伝わった…その姿に総司は安堵した。
二人は再び歩き出すと、鴨川の悠然として静かな川音が聞こえてきた。そして五条の大橋の手前で足を止めた。
「ここまでですね」
「…ありがとうございました」
「どうか達者で暮らしてください。…それから、余計なお世話だと思いましたが…」
「え…?」
橋の袂から足音もなく人影が現れた。大きな体躯をしたそれは二人の前で平伏した。
「…芦屋…」
「坊ちゃん…俺をお連れください」
「…」
芦屋は深々と頭を下げたまま懇願した。
総司は三浦が脱退する日程が決まったのち、芦屋と接触しその事実を告げた。途端彼は目の色が変わり『お供したい』と申し出たのでこの場所を教えておいたのだ。
三浦は『勝手なことをするな』と激高するかと思ったが、静かに芦屋を見下ろしていた。
「坊ちゃんの前から姿を消すこと…それだけが、罪深い俺のできることだと…ずっと、考えていました…」
芦屋は声を震わせて声をあげた。
「けれど…!けれど、この身は…坊ちゃんとともに在らねば意味がありません…!犬でも、捨て駒でも、何でも構いません。どうか、どうかこの身をお連れください…!」
彼の必死の懇願は静かな夜に響き渡った。それまで抱え込んできた激情が破裂するような叫びだった。
それを三浦は黙って聞いていた。
「坊ちゃん…お願いいたします。この身が不要ならいつでも捨て置いて良いのです。ですからその日まではどうか…」
「…もう…」
「…三浦君?」
「もうやめてくれよっ!」
三浦が耳を塞いで絶叫した。頭を下げ続けていた芦屋は驚いて顔を上げ、総司も言葉を失った。
「俺は…っ、俺はそんな人間じゃないんだよ!剣も立つ、頭も良い、役に立つお前とは違う。何処に行っても邪魔者で何の意味もない、ただのお飾りで、空っぽなんだよ…!」
「坊ちゃん…」
「だからお前がそうやって、いっつも俺に頭下げていちいち許しを請うのが、バカにされてるみたいなんだよ…っ」
「俺はそんなつもりは…!」
「もう、俺はお前と同じ罪人だ。しかも無害な一般人を殺した…お前がそうやって懇願するような人間じゃないんだよ…っ」
だからもうやめてくれ。
勝手に祀りあげて、特別だと嘘をついて、遜らないでくれ。
「…お前は、自由なんだから…」
三浦はその場に膝をつき、がっくりとうな垂れた。するとポツ、ポツと雨が降り始めた。
二人の沈黙の間に雨粒が落ちる。それはさながら二年前のあの夜を繰り返しているような光景だった。
そう、繰り返しているような。
「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か久かるべき」
凛と響いたその歌は、雨の音をかき分けて総司の耳に入った。
総司はその声を知っていた。だからこそ無意識に刀に手が伸び、抜いていたのだ。
すると背中からタッタッタッタとこちらに近づいてくる足音が聞こえた。けれどそれは声とは違う方向からやってくる。そして
(それは奴のものではない…!)
「三浦君!芦屋君!刀を抜きなさい!」
「え…?」
総司は咄嗟に叫んだ。三浦は突然のことに驚き刀に手を伸ばすが旅姿の刀袋に収められてしまっている。芦屋もまた平伏した体勢から瞬時に動くことはできなかった。
薄暗闇を切り裂くように、刀身だけがキラリと光を放った。
「うわあああああああああああああ!」
誰のものかわからない絶叫とともに鋭利な刃は三浦を目掛けて襲いかかる。
「坊ちゃん…!!」
「あし、や…」
芦屋は三浦を庇って両手を広げた。そしてその右腕が闇夜に舞った。
「芦屋ーーーっ!」
総司は前方を警戒しながら、二人に襲いかかった刀を払いのけた。するとあっさりとバランスを崩してその場に転がった。
まだ若い子供のようだった。
「芦屋!おい、芦屋…!」
「坊っちゃん…ご無事、ですか…」
「俺は無事だ……くそ…!血が、止まらない…!」
「三浦君、下げ緒を使いなさい!」
動揺する三浦は総司の言われた通り懐から下げ緒を取り出し、止血のために腕に強く巻いた。ぐったりとした芦屋を支えながら若い男を睨みつける。けれど怒気は彼の顔を見た途端に一気に失われた。
「お前…は…」
「親父の仇だ!」
そう叫び、若い男は走り去っていく。三浦は追うことはせず、芦屋の腕の下げ緒をさらにきつく締めた。そして小さく
「…ごめん…」
と呟いた。
芦屋は穏やかな表情で「これからもお守りします」と答えた。

総司は倒れ込んだ芦屋と介抱をする三浦を背に、前方からやってくるただならぬ気配に構えていた。芦屋をすぐに医者に見せなければ、と思うが背を向けることはできなかったのだ。
(知っている…)
姿形の見えないのに、まるで目の前にいるかのような威圧感だ。その圧倒的な存在のせいで芦屋の腕を斬った男を追いかけることはできなかった。
すると雨が小さくなっていく。通り雨だったのだろう…そして雨が止むと同時にその声の主は姿を現した。
「久しぶりだな」
「…河上…」
やはり、と唾を飲み込んだ。
小柄で色白で、男とも女ともわからない異質な存在…総司にとって河上彦斎は特別な相手だった。
彼はふっと笑みをこぼした。
「本懐は遂げられなかったが…まあ、素人にしては十分な結果だろう。俺としても二年前、罪をなすり付けられた仇があったのだが、これでチャラでいいか…」
河上はブツブツと小声でつぶやく。総司にはまだ状況は読み込めなかったが、彼が関わっているのは間違いないのだと理解した。
総司は一層強く柄を握り、河上に向ける。しかし彼は「勘違いするな」と制した。
「俺は父親を殺された憐れな青年に仇討をけしかけただけで、指一本、刀に触れていない。それにまさかお前がここにいるとは全く考えが及ばなかったのだ。やりあうつもりはない」
「ここにいるというだけで、貴方は斬られるべき存在でしょう」
「手厳しいな。まるで害虫を見るようだ」
茶化した河上は余裕のある笑みをこぼす。口元は緩んでいるのに眼光だけは鋭い。
「今夜は挨拶だけだ。俺はしばらく都に留まる…また顔を合わせることはあるだろう、その時に仕切り直そう」
「何を…!」
「じゃあな」
河上はひらりと背を向けて踏み出す。威圧的な存在感とは裏腹に彼は足音ひとつなく去っていく。
「ま…!」
待て、と引き止めようとしたところで、総司の身体が竦んだ。喉に差し込んだ冷たい夜風が激しい咳を誘発したのだ。
「ゲホッゲホッゲホ…ッ!」
これまでに味わったことのないような息苦しさを感じながら、総司は胸を抱える。そうしているうちに河上はいなくなってしまった。






554


明け方になって、総司は一人で屯所へ戻り土方の元を訪ねた。
土方は最初は眠そうに顔を歪めていたのだが、総司の深刻な様子を察知するとすぐに表情を強張らせ事情を話せと促した。
総司はゆっくりと思い出しながら口を開く。
目的地の五条大橋までたどり着いたこと、芦屋が同行を願い出たこと、何者かが三浦を襲い芦屋が庇って腕を斬られたこと、そして総司自身は河上と対峙したこと。全てが現実味がないように思えるのは、真夜中の視界が遮られたせいだろうか。
土方は腕を組んで唸った。
「…芦屋はどうした」
「三浦君と共に近くの町医者に運び…どうにか血は止まって一命は取り止めました。いまは三浦君が付き添っています」
「そうか…」
「申し訳ありませんでした」
総司は両手をついて深々と頭を下げた。
「目的である三浦君を無事送り届けること叶わず…彼らを襲った刺客も、河上も逃してしまいました。私の失態です」
「…お前の任務は五条大橋まで届けることだ。その先にあいつらに何があろうと関係ない。三浦が襲われたのはある意味自業自得だ」
土方なりの励ましなのだろうが、総司には受け入れがたく首を横に振った。
「でも河上を逃してしまいました…」
「仕方ない。お前が追いかけなかったのは芦屋の命を優先したんだろう?」
「…」
総司は土方の問いかけに曖昧に頷いたが、それは真実ではない。
(あの時…)
本当は、激しい咳に襲われて去っていく河上を追いかけることができなかった…などと土方には言えなかった。しかしそんなことを話せばただでさえ満足に任務を遂行することはできなかった挙句、不要な心配をかけてしまう。
土方は一息ついて、気だるげに肘掛に身体を寄せた。
「…しかし…何故、河上は今晩、三浦が脱退することを知っていたんだ。組長以上、監察にしか知らせていないはずだ」
「たしかに河上は二年前、三浦君たちに関わっていますが…そのことを今更持ち出すようにも思えません。本人は憐れな青年に仇討をけしかけただけだと言っていましたが…」
「誰が彼らを襲ったのかは調べればすぐにわかるが、もうどうでも良い。あいつらはもう新撰組隊士ではないのだから深追いする必要はないだろう…ただ情報源だけが気になる」
「…そうですね」
土方はしばらく黙り込んだ。
単純に考えれば組長以上、監察の誰かが情報を漏らしたということになるが、そんなことをしたところで誰が得になるのだろうか。
「…総司、もうわかった。下がって休め」
「わかりました。…失礼します」
総司は土方に言われるがままに部屋を出た。眠気はないが身体が怠い。
東の空から眩しい陽が差し込もうとしている。昨日とは違う、いつとも違う、今日がやってくる。それは当たり前の毎日の繰り返しなのに。
(どうして僕はこんなにも苦しいのだろう)
芦屋に怪我をさせた罪悪感か、河上を逃したことへの無念か、それとも…土方に嘘をついたことへの後ろめたさかだろうか。


柔らかく、眩しい、温かい。
まるで真綿に包まれているような心地よさを覚えながら芦屋はゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井の木目からゆっくりと視線を落とすと障子の賽の目から朝陽が差し込んでいた。その光に導かれるように頭が冴えていく。
(昨晩は…色々あった…)
夢のようにぼんやりとした夜だったが、感覚だけは生々しく覚えている。土下座し同行を願い出たときの土の触感、突然降り出した雨が背中に落ちた重さ、そしてーーー右腕を斬られた時の激しい痛み。
芦屋は自分の右半身に目をやった。そこには在るべきはずの右腕がまるでなくなっていて、代わりに何重にもガーゼが巻かれていた。
痛みはあるがショックはなく、不思議と気持ちは落ち着いていた。
(…人間の憎悪というものは恐ろしい力を発揮する…)
襲ってきた青年はおそらく菓子屋の倅だろう。彼の父親の葬式に顔を出した時に一度会った。若く細く、とても剣を身につけているという風ではなかったが、憎しみを込めたその一振りは芦屋の右腕を難なく切り落としてしまったのだ。
怒りはない。むしろ青年が三浦ではなく自分に襲いかかってくれたことに感謝しているくらいだ。
(坊ちゃんは…)
芦屋は反対側へと視線をやった。そこには壁を背に上半身を揺らしながら眠る三浦の姿があった。
腕を失った後、大量出血しながら町医者に運ばれた。医者は芦屋の怪我に目を剥き『助かるかどうかは運次第や』と吐き捨てながら処置を施した。その時三浦はくしゃくしゃに顔を歪めまるで祈るように付き添ってくれたのだ。
(俺はもうそれだけで…満足だ…)
二年前、三浦から二度と目の前に姿を現わすなと吐き捨てられこの世の絶望というものを思い知った。それまで離れることなく傍にいたのに急に存在すら認められないというのは、嫌われる以上に苦しく悲しいことだった。
だがそれも自分の犯した罪のせいなのだから仕方ない…このまま存在を認められずとも側にいよう、そう決めたのだ。
「…ん…」
三浦がゆっくりと目を覚ます。芦屋と同じように部屋中に視線を漂わせた後、カッとその目を開いた。
「芦屋!目が覚めたのか?!」
「…はい。ご心配をおかけして申し訳ございません」
「馬鹿か!お前が謝ることなんて何もないだろう!痛みはないのか?ああそうだ、お前が気がついたら医者を呼ぶように言われていたんだ。今すぐ呼んで…」
「お待ちください、坊ちゃん」
慌ただしく部屋を出て行こうとする三浦を引き止めた。
「少しお話を…」
「…話なんて医者に診てもらった後で良いだろう」
「いま、お話ししたいのです」
これくらいの小さな我が儘でさえ以前は口にすることはなかった。
三浦は渋々と芦屋のそばで膝を折った。
「…坊ちゃんには、お怪我は…」
「ない。かすり傷ひとつない…お前のおかげだ」
「…」
芦屋は少し驚いた。三浦から感謝を口にされたこともないし、それが主従関係なのだから当然だと思っていたのだ。
三浦は少し恥ずかしそうに視線を外した。
「…まじまじとみるな。お前に助けてもらったことにはちゃんと感謝している」
「当然のことをしたまでです」
「当然?馬鹿を言うな。全て自業自得だし、刺客の…青年の顔を見た時…殺されても仕方ないと思った。青年の憎悪に応えるにはそうするしかないって。…それなのにお前が庇ってしまった」
三浦は俯き、唇を噛んだ。自尊心を傷つけてしまったのだろうか…芦屋は
「…ご迷惑でしたか」
と尋ねると「迷惑だ」と返ってきた。しかしその表情は今にも泣きそうなほど歪んでいた。
「坊ちゃん…?」
「…あの時わかったんだ。…自分が斬られる以上に、誰かが…お前が傷つく方が嫌だって」
「坊ちゃん…」
「だけど、俺はこんな性格だし、これからもお前に迷惑をかけ続けるだろう。…だから…」
「坊ちゃん」
芦屋は左腕を伸ばした。二年ぶりに触れた三浦の指先は小さく小さく震えていた。
「俺には…もう左腕しかありません。利き腕のない俺は役立たずどころか、足枷にしかなりません。…しかし…それでもこの身は弾除け程度にはなりましょう。左腕も利き腕にしてみせます。ですから…どうかお側においてください」
三浦の震えがゆっくりと止まっていく。凍てついた氷が柔らかな朝日を浴びてゆっくりと溶けて、氷水は地面に落ち無くなっていくように、同じように二人の間にあった険しい隔たりは消えていく。
「…うん」
三浦は頷いた。そして芦屋の指を握り返した。
何もかもを無かったことにはできない。二年間…それ以上に二人の間には蟠りがあったのだ。
けれど再び共に歩むことはできる。それがどういう形になるのかいまかわからないけれど…
(もうこんな未来などないと思っていた)
芦屋は自分の顔が綻ぶのを感じた。
笑う方法なんて、いつのまにか忘れていた。








555


「ほな、行ってくるわ」
浅野は『金山家』の次男坊として慣れたように悠々と店を出た。『金山家』の両親は新撰組の協力者である。当初、偶然降って湧いたような次男坊の存在を店子たちは不審そうに見ていたが、『あれは長年放蕩していた息子だ』と言い放ち信じ込ませたという、なかなかの役者ぶりだ。
お陰で特に怪しまれることなく監察方としての成果を上げて来られたのだ。
(さて…)
店を出て秋晴れの空を見上げた。
右に行けば噂話の聞けそうな居酒屋がある。左に行けば尊攘派の集う遊里だが、銀平の店の前を通ることになる。
「…」
銀平とは数日前、出会茶屋で出くわしてから顔を合わせていない。純朴な青年である銀平は真昼間にそんな場所から出てきた自分のことを軽蔑しているだろうし、父親が殺され自分をほっておいて無神経だと思っているだろう。
それに昨晩は、三浦が脱走し帰藩を果たしたはずだ。
結局自分には、何もできなかった。銀平の仇である三浦をみすみす逃してしまった。
(そんな俺がどんなツラ下げてあいつの前に立つっていうんだ…)
浅野は己の不甲斐なさを思い起こし、うな垂れた。けれど足は左へと向かい始めた。
(様子を…見るだけだ)
新撰組隊士としての浅野薫は銀平の前に立つ資格すらない。けれど『金山福次郎』という彼の友人としてなら許されるのではないか。
数軒隣にある銀平の家を訪ねた。相変わらず暖簾はなく外からでは中がどうなっているのかはわからない。
入口の取っ手に手をかける。きっと開いていないだろう…そう思ったが、ガラガラとあっさりと戸は開かれた。
「不用心やな…」
そう苦笑したのは束の間だった。
店の中には何もなかった。
亡くなった親父さんの商売道具や菓子が並べられていた陳列棚、そして何代も続いていたという暖簾すら何もない、まっさらな状況だったのだ。
「おい、なんだよ…なんの冗談だ」
動揺しながら浅野は店の奥へと駆け出した。居住スペースになっているそこにはきっと彼の生活の痕跡があるはずだ。
土間に踏み込み中を覗く。けれど悪い予感の通り、その先には座布団一つ残っていなかった。
「おい、銀!銀平!!」
浅野の声が何もない町家の中でこだまする。当然、返事はない。土壁に吸い込まれるように虚しく消えていくだけだ。
「銀…銀!」
けれども浅野は諦めきれず家財道具一つ残っていない家中を駆け回った。しかし襖を一つ一つ開けて空っぽなことに驚愕し、『銀平』というその一切が消え失せて冷たい空気だけが流れていることを見せつけられるだけだった。
(俺に黙って…出て行っちまったのか…)
いつもそこにあった無邪気で明るい笑顔が、もう二度と見ることがないのだということを知る。
浅野は店先に戻るとふらふらと腰を下ろした。
(どういう…ことだ…)
頭を抱えて思案を巡らせるが、今の浅野には答えを見つけることはできない。
すると突然、「なんや騒がしい」と年増の女が顔を出した。扉は開きっぱなしだった。
「あぁ、あんた、銀ちゃんのお友達やったなあ」
「…あんたは、大家の…」
彼女はこの家の大家だ。何度か家賃の催促で店に来ていたことを思い出す。
「銀平は…どこへ?」
「昨日、出ていったえ。店のもん売り払って、身の回りのもんと位牌抱えて…今までのお家賃ぜぇんぶ払うて…」
「…」
大家が嘘をつくわけがない。事実を突きつけられ、浅野はますますうな垂れた。
「…どこへ…行ったんやろうか」
「さあなあ。銀ちゃん遠くに親戚がおるだけで、身寄りがないはずやし…聞いても答えへんかったわ」
「そう…か」
「そうや、あんた銀ちゃんの一番のお友達やな?預かり物があるんや」
「…預かり物?」
大家は「ちょっと待っててな」といって踵を返して去っていく。
(あんなに溜め込んでいた家賃を払ったのか…銀らしいな)
きっと家財の一切を売り払い、身の回りのものだけを抱えて銀平はこの店を去って行ったのだろう。その姿を想像するだけで彼の孤独で寂しい背中が見えるようだった。
(俺は馬鹿だ…)
無力さに苛まれ、立ち止まり続けた自分が情けなくて仕方ない。別れさえ告げずに行かせてしまうとは。
そうしていると店内に人影が差し込んだ。大家が戻ってきたのか…そう思ったがそこにいたのは意外な人物だった。
「これ、大家から預かってきたで」
「やま…さき、さん…?」
元監察方の山崎丞。今は新撰組の副長助勤兼医学方として表舞台に復帰しているが、もともとは浅野の上司に当たる立場だ。
その彼が顔を隠すことなく、新撰組隊士として目の前にいる…その光景は浅野にとって違和感でしかなかった。
「何故、ここに…」
「お前に用事があるからや。…まあ、その前にこれ、受け取ったり」
懐紙に包まれた小ぶりなそれを浅野はゆっくりと開く。そこにあったのは見たことのある桃色の花をモチーフにした生菓子だ。
「あ…」
『まだ形は良くないんやけど、味は自信作やから!』
河川敷で『味見して』と食べさせられた菓子。親父さんが亡くなってからはもう一度作ってみろ、と浅野の方が背中を押した。
「…っ」
(あいつ…)
家を片付けて、借金を返して、最後の最後に浅野と交わした約束を銀平は守った。この別れの餞別を作っている時、銀平は何を思ったのだろう。それを考えると浅野の胸に込み上げてくるのは喜びと悔しさだった。
(…綺麗な、桃の花だ…)
季節外れの桃の花がそこには咲いていた。鮮やかな色あいと均一な花びらが、銀平の笑顔に重なるようだった。
浅野は懐紙に包み直した。それを何も言わずに見ていた山崎が口を開く。
「浅野…悪い知らせや」
「…なんですか?」
「お前に情報漏洩の疑いがかかってる」
非現実なことが続くと、頭がうまくついていかない。
浅野はぼんやりとしたままその言葉を受け取った。


山崎と浅野は連れ立って西本願寺の屯所に戻った。浅野が屯所に顔を出すのは久々のことだったが、隊士たちの大部屋を抜けて奥の部屋に向かうと、自然と体が強張っていった。
「失礼します」
山崎とともに頭を下げて中に入ると、近藤と土方、伊東の三大幹部が揃っていた。その事実だけでも大ごとだと突きつけられるようだった。
三人の前に座り、山崎はその後ろに控えた。
「…浅野君、事情は山崎君から聞いているか?」
近藤のいつもよりも堅い問いかけ。浅野は曖昧に頷いた。
「…三浦啓之助が洛外へ脱走する際、何者かに襲撃され芦屋が負傷した…と」
「そうだ。だが、二人とも表向きには脱走を果たしたことになっているため、公にはできない事件ということになる」
「重要なのは、情報の出所だ」
近藤に変わって、重く低い土方の声が短く簡潔に責める。
「…まさか、俺が…?」
「襲撃者は二人。三浦の証言によるとひとりは死んだ和菓子屋の息子」
「銀平が…っ?!」
土方の話に浅野は素直に驚いた。普段は争い事に一切関わらない銀平がまさか大胆な行動に出ているとは思わなかったのだ。
土方は続けた。
「そしてもう一人は…河上彦斎」
「かっ河上彦斎…!」
それは監察であれば誰でも知っている尊攘派の志士だ。暗殺者として名を馳せ暗躍している。まさかその河上が関わっているとは思いもしなかった。
けれど驚く浅野を土方はギロリと睨みつけた。
「…芝居が上手だな、浅野」
「え…?」
「お前、数日前に河上彦斎とともに茶屋に入っただろう」
「ちゃ…や…?」
「公言するのが憚られるような茶屋ですよ」
それまで涼しい顔をしていた伊東が扇子を片手に補う。
(茶屋…?あれは女…いや、男だったが…しかし…)
頭が混乱する。
あれは女と見間違うほどの端正な顔立ちをした男だった。彼と一夜を過ごしたのは間違いないが、あの時はかつてないほど酔っていた。そう、酔っていた。
(覚えて…ない…)
普段、飲まない酒に溺れ彼と何を話ししたのか覚えていない。銀平のことで頭がいっぱいだった自分はもしかして何かをぶちまけたのだろうか。
「浅野、監察は剥奪する。一隊士として謹慎していろ。釈明したいなら…その足りない頭で思い出せ」
土方は鬼のような鋭い目で浅野を見据えていた。浅野はただ自分のしたことに震えるしかなかった。




556


冬の到来を知らせるような冷たい秋風が通り過ぎていく。身体の芯から冷えていくような寒さのなか、総司はぼんやりと柱に背を預け境内を眺めていた。
今日は井上の指導で剣術の稽古が行われている。素振りを何度も繰り返す天然理心流の稽古はすっかり新撰組に馴染んでいて、木枯らしが吹く中でも隊士たちは汗をダラダラと掻きながら太い木刀を振り回す稽古に励んでいた。
いつもならその稽古に加わる総司だが、今はそんな気分にもなれず、ずっと脳内に反芻するある言葉を思い出していた。
「…『散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か久かるべき』」
「伊勢物語の『渚の院』ですか」
ふっと隣に気配を感じ、総司は驚いた。
「…伊東参謀…!」
「失礼、驚かせましたか。風流な独り言をおっしゃっているのでつい声をおかけしてしまいました」
手慣れたように扇子で口元を隠しつつ伊東は微笑んで続けた。
「在原業平の『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし』の返歌と言われています。春になると桜が咲いて散る…その様子に我々は一喜一憂させられる。それほどまでに美しい桜の素晴らしさを讃えた歌に対して、返されたものです」
「…そうでしたか。すみません、ただ…知り合いが口ずさんでいたものを覚えてしまっただけで、よく意味はわからなかったのです」
総司は己の無知を恥じながら頭をかいた。もっとも隊内で一番の博識である伊東の前では誰もが『無知』であることに違いはないのだが。
伊東は「ああ、なるほど」と頷いた。春夏秋冬、どのような季節でもいつでも涼しい顔をしている伊東の形の良い唇からスラスラと言葉が流れていく。
「先ほどの『散ればこそ』…簡単に言えば桜は散るからこそ美しいという歌です。この世の中で変わらないものはないのだから…そういう意味です」
「…散るからこそ…ですか」
「ええ、風流な返しかと思います。私などは『散り際』に想いを馳せるのは、どこか我々に似た思想を感じますね」
「…」
桜の季節、宴会の席などでそのような会話があるならまだしも、これはあの夜河上彦斎が口ずさんでいた歌だ。
(あの時は意味がわからなかったけれど…)
影の存在として生と死の狭間を歩き続けている河上にとって、伊東の言うように『散り際』とは『死』だ。それを深く意識したものだとすれば、彼は何を見て、何が言いたかったのだろうーーー。
「どうか?」
「…あ、いいえ…そういえば今日は浅野君の審議でしたか」
聡い伊東に深く追及されたくなくて、総司は話を変えたが、伊東は「ああ…」とその整った顔立ちを少しだけ歪めた。
「監察によると浅野君が河上と接触したことに間違いはないようですが、情報を漏らしたという確信はなく、謹慎中の本人も酒に酔い記憶にないようです。三浦君の件は会津との関わりもあり、表向きには彼を追い詰めることもできないでしょう」
「…そうですか」
三浦と芦屋は脱走したことになっているため、例え浅野が彼らに関する情報を漏らしたとしても表立って咎めることはできない。
伊東は眉をひそめた。
「…そもそも監察の身でありながら、記憶をなくすほど酔潰れるなど以ての外。彼の監察としての資質に問題があると思いますが……そういえば彼は沖田君の元部下でしたね」
「ええ、まあ…池田屋の頃までは。真面目で仕事熱心だったとは思いますが」
「そうですか。…ああ、このようなところでする話ではありませんでしたね」
伊東は表情をコロリと変えて微笑んだ。「そろそろ講義の時間です」と話を切り上げた。
「あ…色々とご教授頂いて、ありがとうございました」
「いえ、文学師範として当然のことです。たまには沖田君も講義にいらしてください」
「はは…機会があれば」
「お待ちしています。…ああ、そうだ。その歌を口ずさんでいた方はもしかしたら『死』を強く意識しているのかもしれませんね」
「……」
「失礼します」
少ない会話と短い情報だけで伊東はまるで見透かすような一言を置いていった。
身震いがしたのは冷たい風のせいだろうか。


一方。
「浅野君は平隊士へ降格。それでいいじゃないか」
近藤の提案に対して土方は硬い表情を崩さなかった。
今朝は監察方からの報告を受け、伊東を含めた三人で浅野に対する処遇について検討してきた。伊東は情報漏洩の疑いがある以上、浅野を監察方に置くべきではないという意見のみだったが、土方はさらに上の処分を考えていた。
「三浦の件だったからまだ良かったものの、敵に情報を漏らしたかもしれないんだ。降格なんて手緩い」
「だからといって切腹にするのか?そうなれば隊士に対して説明が必要になる。…表沙汰にできない以上、降格以外の処分はできないだろう?」
近藤は池田屋以前からの同志である浅野に対して温情があるようで、しきりに庇った。いつもなら土方は「私情を混えるべきではない」と諌めるが、表沙汰にできない理由なのだから切腹に処すべきではないという彼の主張はもっともなので否定することはできない。
近藤は土方の表情を伺うように
「歳、何を意地になっているんだ?」
と尋ねた。
「…別に意地になっているわけじゃない。浅野は監察方として長く活動してきた。倒幕派と繋がるさまざまなツテを持っていてもおかしくはないだろう」
「だがそれも証拠がないんだろう。彼のこれまでの働きぶりは監察として適正なものであった…そう監察方も言っていたじゃないか」
「…」
「確かに…監察はお前の直属の部下のような存在だ。許せない気持ちはわかるが、彼も一人の人間だ、失敗は犯す」
「一番、失敗が許されないのが監察だ」
「だから、彼にその資質なしと判断して監察から降格…それでいいだろう?」
「…」
このような近藤とのやりとりは数回続いている。伊東は局長の判断に任せると言うことだったので土方がいくらごねても結論は変わらないのだろうが、土方としては己の身内が犯した失態を簡単に許すことはできなかったのだ。
だがいい加減、この堂々巡りにも結論を出さなくてはならない。土方は大きくため息をついて折れた。
「…十日の謹慎、そのあとは近藤局長の指示に従う」
「うん、わかった」
近藤は満足そうに頷いた。そして気が抜けたように足を崩し、「やれやれ」と息を吐いた。
「長州との戦は休戦と言う名の敗北に近い。長州がますます力を持ってくるなか、一橋様は将軍職を拒否され、幕府の将が不在…不安な時だからこそ隊の結束が揺らぐのは良くない」
「ああ…わかっている。だからこそ身内に近ければ近いほど…甘い処分を下すわけにはいかねぇだろう。今回の件が三浦のような密命でなければ切腹にしている」
「…そういう考え方もわかるが」
「もうこの話はやめよう」
結論が出た今、不毛な議論は不要だ。土方は話を切り上げた。
すると近藤は「そうだ」と近くにあった文箱を引き寄せて中の手紙を土方に渡した。
「これは…?」
「総司に渡してくれ。おつねの手紙と一緒に届いた」
「…『おみつ』。総司の姉さんか」
みつは総司と年の離れた姉だ。総司は幼い頃に姉から手ほどきを受けたせいか、姉弟で良く似た筆跡をしている。
「もちろん中を読んだわけじゃないが、おつねによると近々、京に来るということらしい」
「おみつさんが?」
「相変わらず梨の礫の弟に痺れを切らして会いに来るのだろう」
ハハッと師匠は呑気に笑ったが、治安の悪い都へ送り出した姉としてなんの知らせもなければ気が気ではないだろう。
「…渡しておく」
土方は手紙を受け取って懐に入れた。





557


十日間の謹慎を終え浅野が配属されたのは十番隊原田左之助の組下だった。
「ま、大石が監察に移動した穴をお前が埋めるってわけだな」
組長以上は浅野の嫌疑について知らされていたが、原田は豪快に笑いあっさりと受け入れた。しかし浅野はそう簡単に心を入れ替えることなどできるはずはない。
(謹慎後に監察から平隊士への降格…当然、邪推されるに決まっている)
周りの隊士からの冷たい視線をひしひしと感じていた。
一番隊から監察方へ…隊士たちを取り締まる立場から急転直下の降格。皆が出世コースを外れた情けない男だと嗤っているに違いないーーーそんな風にしか考えられなかった。
「…まあ、しばらくは巡察に加わらずに小荷駄方として武器弾薬の整理に当たるようにってお達しだ。しっかりやれよ」
「わかりました…」
原田は浅野の肩を軽く叩き、そのまま手をひらひらさせながら去っていった。
その場に一人残された浅野だが、背中に視線を感じていた。それは隊士からのものではない。
謹慎の終了を言い渡された時の土方の言葉を思い出す。
『謹慎は終わりだが、お前の嫌疑が晴れたわけではなく、また記憶は無くとも河上が再びお前に接触する可能性はある…しばらくはお前を監視することになるだろう』
どこからか、かつて同じ立場だった監察が見張っている。
(立場がすっかり逆になったな…)
浅野は「はは」と自虐的に笑う。掠れ乾いた生気のない声だ。
そして無意識に溢れた。
「…銀…」
全てを失った浅野にとって、心の拠り所はあの無邪気で明るい笑顔を思いだすことしかなかった。


「沖田せんせい、なんや元気あらへんなぁ?」
丸々とした大きな瞳に覗き込まれ、総司はハッと驚いた。
非番の今日は久々に壬生子供達の遊び相手になっていたのだ。
「…ごめん、為坊、何でもないよ」
「ほんまに?」
「ほんまにほんまに。鬼ごっこに疲れただけだよ」
「ふうん?」
屯所として世話になっていた八木家の子息の為三郎はまじまじと顔を覗き込んできたが、総司はどうにか笑って誤魔化した。
「じゃあ、今度は鬼ごっこやめて泥団子にしよ。知ってる?雪合戦みたいに投げ合うんやで」
「泥団子って…こんな寒いのに」
「寒くなんかあらへん!」
為三郎が声を上げると、一緒に遊んでいた近所の子供達もまるでカエルの輪唱のように「やるで!」「泥団子!」と喜んで散り散りに駆け出してしまう。こうなると総司には止められないので、仕方なく付き合う以外に選択肢はない。
(気が紛れていいや)
此の所、気落ちしていた。理由は河上のことや浅野のことなど様々あるのだが、そのどれもがそうでもないような気がして的を得ず不明瞭だ。
ただただこみ上げる漠然とした不安ーーー言葉に形容するのは難しい。
総司は無邪気な子供達を眺めた。この世の混乱など彼らの小さな世界には関係なく、日々が彩り豊かな笑顔に包まれている。そんな彼らが湿った土を小さな手のひらでせっせと丸くする様子が愛おしくて、総司も混じって同じように繰り返す。
(そういえば、試衛館にいた頃…雪が降れば雪合戦は定番だったなぁ…)
流石に泥団子は作らなかったが、試衛館に積もった雪を誰からともなく丸め始め、いつの間にか雪合戦に発展していった。原田や永倉、藤堂が率先して参加し、山南は最初は遠慮がちにしていたが雪団子を作るのは一番上手だった。そしていつもは遅くまで寝ている土方もその時ばかりは早くに起きて采配を振るっていたものだ。
あの頃皆良い年の大人だったはずなのに、無我夢中になっていた。
(今では考えられない光景だけれど…)
もう二度と繰り返されることはないけれど鮮明に思い出せるほど、楽しかった記憶。
「いくでー!」
泥団子を作り終えた子どもたちがあちこちで投げ合いを始める。始まりのスタートもなくただ泥団子に当たらないようにするだけという無秩序なルールだけれど、子供達ははしゃぎ、壬生寺の境内を走り回った。
総司は数人の子供の標的にされ四方八方から泥団子の応酬に会う。手加減をするものの避け切るのも難しく袴のあちこちが泥に汚れた。
「やったなー!」
「わぁ!あかん!」
「逃げるでー!」
試衛館の庭よりも壬生寺の境内の方が当然広い。そのせいで鬼ごっこよりもゴールのない駆けっこのようになってしまい、息も切れ切れだ。しかし身体の疲労は蓄積されても、心の中は童心に戻っていくかのように心地よい。
疲れ知らずの子供達は顔を泥だらけにしたまま走り回りその範囲を広げていくが、次第に人通りのある表門へ近づいていく。
「そっちはあぶな…」
総司が注意しようとした時だった。
「…あ…っ」
顔面を蒼白にした為三郎が立ち尽くし、そして目の前には武家風の男が一人立っていた。男は羽織の袖についた黒い汚れに目を向けていた。泥団子が当たってしまったのだと気がつき、それまではしゃぎまわっていた子供たちが一気に黙り込み、重たい空気に包まれる。
総司は為三郎のもとへ駆け寄った。
「申し訳ありません、お召し物は…!」
といいかけたところで、その男と目があった。
「…鈴木さん…」
「あなたでしたか…」
九番隊組長鈴木三樹三郎は一瞥をくれると少しため息をついたのだった。

総司は鈴木から羽織を受け取り、境内の水場で汚れを落とすことにした。鈴木は最初に拒んだが、「早く汚れを落とさないと」と総司はやや無理やり彼を誘った。
「子どものした事なんで勘弁してやってください。汚れが落ちなければ私が弁償しますから」
「…構いません。生地はもともと黒で汚れは目立ちません」
「そう言っていただけるとありがたいです」
淡々とした物言いだが別段彼が怒っているわけではないことに安堵した。子供たちは無表情の鈴木に怯えていたようだが、彼はいつも物事に動じず表情を変えないのだ。
「…よし、汚れは随分落ちたと思いますが」
「ええ」
「良かった。…はは、試衛館にいた頃、よく胴着の汚れを落としていたことが役立ちました」
「…そのような下働きを?」
鈴木は少し驚いた顔をした。
「もともと貧乏武家の食い減らしとして試衛館に入りましたから。料理に洗濯、掃除…当時の女将さんにはしっかり仕込まれました」
「…てっきり環境に恵まれているのだと思っていましたが」
「はは…確かに幼少の頃は食うにも困っていましたが、結果的には恵まれていますよ。近藤先生は下働きの私に剣術を学ぶ機会を与えてくださった…感謝しています」
「…そうですか」
彼は頷きつつ、起伏のない相槌を打った。そして総司から羽織を受け取ると袖の汚れをまじまじと見た。傍目には汚れているようには見えないはずだ。
「正直…汚れが落ちなければ困っていました。この羽織は兄上から頂いたものでしたから、弁償などできようもない」
「伊東参謀の…」
「だから兄上に…子どもの投げた泥団子が避けられなかったなど、恥ずかしくて言い訳にも、笑い話にもなりません」
「はは、確かに!」
総司は声を上げて笑ってしまった。頑なに無表情な鈴木は内心子どもに憤っているのだろうと思っていたので、そんなことを考えていたなんて思いもよらなかったのだ。
すると彼は失言だったと思ったのか少し頬を紅潮させて「屯所に戻ります」と踵を返して歩き出してしまった。
「待ってください、私も戻りますから一緒に行きましょう」
「何故あなたと…」
「まあまあ、良いじゃないですか」
鈴木は不満そうだったが帰る道が同じなので渋々受け入れた。
初対面からどこか互いに苦手意識があり遠ざけていたが、
(悪い人ではないのかもしれない)
と総司は思った。







558


土方の別宅の小さな庭が見渡せる縁側に出ると、金木犀の良い香りがした。総司が辺りを見渡すと庭の隅に置いてある鉢植えのなかで金木犀が咲いていた。
「どうしたんですか、これ」
「ああ…近藤先生の別宅からもらってきたそうだ」
「おみねさんが?」
「庭に植え替えるそうだ」
「それは良いですね、この匂い好きです」
書類の整理をする土方の隣で、総司は縁側に足を伸ばし寛いでいた。
屯所から距離を置いて心を安らげるための別宅なのに、土方は相変わらず仕事に勤しんでいる。彼にとってそうして忙しくしている方が日常なのかもしれないが。
「そうだ…浅野さんの様子はどうなんですか?」
「小荷駄方として仕事はこなしている。落ち着いたら十番隊の隊士として復帰させるつもりだ」
「そうですか…彼は有能な人ですから、挽回できるとは思いますが」
「どうだろうな」
土方が曖昧な返答をしながら処分する手紙や書類を麻紐でまとめあげていると「そうだ」と声を漏らした。
「先日、お前が巡察の時に松本先生が屯所に来られた。ようやく大樹公の件が終わって大坂から戻ってきたそうだ」
「…そうでしたか。先生も大変だったでしょう」
「ああ。それで…あの娘も、そろそろ長崎から戻るそうだ。お前に伝えるように頼まれた」
「娘…って、もしかしてお加也さんですか!?」
総司が驚いて問い詰めると、土方は頷いた。
加也はかつての総司の縁談の相手であり南部の義理の娘だ。色々あって縁談は破談となり、医者を目指して長崎へ留学していたが、もう半年以上経つ。
彼女は勝気で気の強いところがあったが、総司にとって志高く真摯に仕事に向き合う姿は女子という隔たりを超えて尊敬できる存在だった。
「ああ、そうなんですね。きっと立派なお医者さんになられていることでしょうねぇ。南部先生もお喜びでしょう」
「…そうかもな」
彼女の帰還を喜ぶ総司とは対称的に土方はすっかり仏頂面になって縁側から庭に出た。総司が集めていた落ち葉に火を焼べてそこに束にした書類を投げ入れる。その姿がいかにも不機嫌そうで、総司は
「妬いてるんですか?」
と尋ねた。すると土方はそっぽを向きながら
「…ああ、焼いてるな。枯れた葉はよく燃える」
と嘯く。総司はくすくす笑いながら同じように縁側に降りて土方の隣で膝を折った。
「最近、良いことがあったんですよ」
「良いこと?」
「この間の非番の日、たまたま伊東参謀の弟の鈴木さんと居合わせて色々お話ししたんですよ」
「…鈴木だと?」
土方はあからさまに眉間にしわを寄せた。
「お前、あいつとは仲が悪いって言っていただろう」
「まあ、一方的に避けられていたんですが…話してみると分かりづらいけれどとても良い人だと思いました。彼はあまり話さなかったけれど私のくだらない話にも屯所まで付き合ってくれましたし、面倒そうだけど相槌は打ってくれました」
「…それ、決して好かれているわけじゃなさそうだな」
「良いんです、それで。嫌われていても、避けられていても…またいつか仲良くできるってわかったのが嬉しかったんで」
総司は少しずつ燃え上がる焚き火に手を当てた。
土方には鈴木のことだけではなく、藤堂のことを示唆をしているとわかっただろう。彼とは山南の切腹以来どこかギクシャクした出来事が続いていて、距離ができ始めていた。それが心のどこかで引っかかり続けていたが、いつか時間が解決してくれるはずだと思うことができた。
土方はしばらく黙って何も言わなかったが、
「…どちらにせよ、腹がたつな」
と呟いた。
「え?」
「女でも男でも変わらん」
土方はそう言いながら側に置いていた桶の水をひっくり返し、焚き火を消した。そして驚く総司の手首を掴んで部屋の中に入るともつれあうように押し倒し、口付けた。息もつかせない豪雨のようなそれに互いの息が上がっていく。静かな部屋に響く二人だけの音が鼓膜を支配した。
「…っ…、歳三さん」
「なんだ」
「妬いてますよね?」
「…そうだな」


曇天の空から予想通り雨粒が落ちてきたのは正午を過ぎた頃だった。
「あーあ…降ってきちゃったな」
雨が降ったからと言って不幸になるというわけでもないのに藤堂は残念な気持ちになりながら手持ちの傘を開いた。そして風呂敷の荷物を濡れないようにと胸元に抱え込む。
風呂敷の中身は数冊の本だ。恩師である伊東から借り受けたものでようやく読み終わったのを返却するために、彼の別宅へ向かっているのだ。
(しかし読み終わるのに三ヶ月もかかってしまった…)
藤堂は「ふふ」と苦笑してしまう。
文学師範である伊東の元で積極的に学ぼうとしているものの、自分の中の本質はやはり『武』に傾いていて、集中力が途切れてしまう。本を片手に稽古がしたいと思いながら何度居眠りをしてしまったことか。
しかし、学ぶことを止めることはできない。
(新撰組のためになるはずだ…)
『いつまでも壬生狼と嗤われていては我々は飼い慣らされるだけです。知性を身につけ、役立つ存在にならなければなりません』
文学師範である伊東の言葉に感化されたのは、山南の死後だっただろうか。
自分が留守の間のこととはいえ、兄弟子であった山南を助けられなかった無念と後悔に苛まれていた藤堂にとってそれは一条の光となった。そして相次ぐ仲間の裏切りや処分を目の前に、その思いを募らせた。
(このままでいいなんて…そんなことはないはずだ)
今の新撰組は法度に縛られている。それを良しとしていたのは結成の頃だけで今は誰もが窮屈な思いをしていることだろう。そのせいで何人もの死人が出た。それを仕方ないことだと割り切っていては何も変わらない。
(世の中は変わったんだ)
絶対的な揺らぐことのない存在であった幕府が事実上、長州との戦争に敗れた。この流れは止めどなく続いていくだろう…そんなことは藤堂にも察することはできる。
(新撰組にできることを考えなくちゃいけないんだ…)
雨が強くなってきて藤堂は足を早めた。生垣を風除けに進むと伊東の別宅が見えてきた。
「あら、藤堂せんせ、おこしやすぅ」
やや気の抜けた女の声が聞こえた。伊東の妾である花香だ。手ぬぐいを手に洗濯物を取り込んでいたらしい。
「花香さん…あの、伊東先生は?」
「へえ、中におります。隊士の方も何人か」
「あ…そうですか」
訪問の約束はしていなかったので出直そうかと思ったが、花香が「どうぞどうぞ」とやや強引に背中を押したので仕方なく玄関から入った。何人分もの草履が並んでいる。
「奥の部屋でお勉強会とかおっしゃってましたえ」
「わかりました」
「ごゆっくりぃ~」
色街から身請けされた花香は店にいた頃のクセが抜けないのか間延びした話し方をするので、まるで茶屋に連れ込まれたような気分になってしまう。
(伊東先生のお相手にしては何だか似つかわしくないような気もするけれど)
藤堂はそんなことを思いながら何気なく奥の部屋へ向かう。強い雨のなか賑やかに秋の花が咲き誇る庭を見渡せる廊下を進んだ。
すると、
「何者だ!」
静寂を切り裂くような突然の怒鳴り声に藤堂は驚いた。そして障子が乱暴に開く。
「…え…?あ…」
金切り声をあげたのは伊東の腹心である加納鷲雄だ。しかし部屋にいたのはそれだけではなく同じく腹心の内海、篠原、服部…少なくとも15名ほどの伊東に親しい者たちが狭い部屋に推し詰になっている。
そして上座に座っていたのは当然、伊東だった。加納の血気だった様子とは正反対に穏やかだった。
「藤堂くん、どうしましたか」
「は…はい。借りていた本をお返しにあがったのですが…お約束もなく申し訳ございませんでした」
「わざわざありがとう。…皆、落ち着きなさい。彼は同志で敵ではないだろう?」
伊東の取り成しに半分は納得し、もう半分は未だに厳しい目を向けた。藤堂自身、試衛館食客の一人なのだという意識はあったが、これほどまでに敵視されるのは初めてだ。
戸惑いながら本を手渡すと、
「ああ、そうだ。君も参加してはどうかな。皆で勉強会をしていたところなんだ」
「勉強会…ですか」
「昨今の情勢は複雑になってきている。佐幕派の多い屯所では話しにくい話を皆で共有していたところだよ。君もどうかな」
「伊東先生」
伊東の誘いを遮ったのは内海だった。彼は伊東に一番近い側近だ。しかしそれを無視して
「参加していきなさい」
と伊東は食い下がった。藤堂は「はい」と答えるしかできなかった。





559


昼間から続いた雨が止んだ頃、伊東の別宅での勉強会がお開きになった。伊東に近い隊士たちがバラバラと屯所に戻る中、藤堂はその場に残り呆然としていた。
「藤堂先生」
声をかけてきたのは伊東の一番の側近である内海だった。
「内海さん…」
「少しあちらでお話ししましょう」
内海に誘われるまま、藤堂は従った。
縁側から見える庭に咲く花々は雨露に濡れていた。厚い雲の合間から夕陽が差し込みキラキラと輝く姿には思わず目が止まった。
(別世界のようだ…)
その姿を見るだけで誰もがふわふわと浮き足立つ。魅せられて、のぼせて、ゆらゆらと。
すると内海が縁側の最奥で足を止めた。
「今日の勉強会のことですが、近藤局長や土方副長…ここにいない者には他言無用にお願いしたいのです」
「…他言無用…ですか」
「理由は口にしなくともお分かりかと思います」
「…」
内海が言う『勉強会』は屯所で行われている文学師範の『講義』とは違っていた。世情の混乱を紐解き、新撰組の立ち位置を理解させ、教養を持つべきだと論じる『講義』とは一線を画し、『勉強会』はこれからどうあるべきか、どう行動すべきかーーーそんな伊東の考えに耳を傾ける、独演会のようなものだったのだ。そして招かれている隊士たちもその考えに共感し、恍惚とした表情で頷いていたのだ。
「…俺は、伊東先生のお考えが間違っているとは思いません。幕府が弱体化している今だからこそ、新撰組は変わるべきだし、幕府に追従するだけではダメだ…このままではダメだと思う」
「…」
「でも……だからって、あれは…幕府を見限るべきだなんて…そんな簡単には…」
伊東は熱く語った。
長州一藩に敗戦を喫しこのまま沈没する幕府になど見切りをつけて、行動すべきだと。
それは絶対的に幕府に恭順する近藤の考えとは相反するものであり、口にしただけで首が飛びそうな極論だ。
しかしあの場にいた者は誰一人として反論せず、「その通りだ」と協調した。藤堂にはそれがクーデターの前触れのように感じてしまい、圧倒されたのだ。
「それに近藤先生や土方さんに知られたら、どんなことになるか…」
「そうです。局長や副長の論とは異なる…だから他言無用をお願いしているのです」
それまで平坦だった内海の口調が強いものへと変わった。
「藤堂先生、あなたは伊東先生とも親交があるが、客観的に見れば試衛館食客のひとりであり局長や副長に近い。ですからこの勉強会には出て欲しくなかった…けれど、伊東先生はあえて引き止めたのです。その意味がわかりますか?」
「…俺を信頼している、と?」
「その通りです。あなたが密告などせず、伊東先生の考えに共感してくれると…そう信じている」
「……」
『信じている』
単純で簡単で、ありふれた言葉だ。
けれどそれは藤堂が二年前に失ったものだった。
(誰も信じられない)
山南の自決…仲間の犠牲、全てが藤堂の不信感を募らせていった。荒波に突き落とされ縋るワラさえ見つけられず、深みへ深みへ…そしていつか自分の河合のように誰をも信じられないまま沈んでいってしまうのだろうと。
だからこそ、伊東の気持ちが心に響いた。
(信じてもらっている…)
「…わかりました。今日のことは誰にも言いません…その代わり条件があります」
「条件?」
「今後も…俺をこの勉強会に呼んでください。伊東先生のお考えを…もっと聞いてみたいのです」
藤堂の申し出に内海は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで「もちろん」と答えた。
夕陽は山際へその姿を隠そうとしていた。


昼間の雨に濡れた地面の泥濘が鬱陶しい。
暗闇のなか手にした提灯で足元を照らしながら生垣を辿り、裏口へと至る。この時間なら玄関から入っても問題はなさそうだがこの家を正面から訪ねるのにはいつも躊躇いがあるのだ。
竹で作られた簡素な扉を押すと、待ち構えていたように縁側に土方の姿があった。
「遅かったな」
そう声をかけてきた。
「巡察に手間取りました。一人を捕縛し役人に引き渡し済みです」
「そうか」
淡白な反応はいつものことだ。しかしわざわざ監察を使ってここに呼び出したのだからよほどの用件があるに違いない。
身構えていると締め切られた障子の向こうから少し物音が聞こえた。
「…沖田さんですか?」
「ああ…よく寝ているから気にしなくていい」
「…」
「斉藤、お前に話がある」
土方は改まって切り出した。
「浅野の件、どう思った?」
「俺はよく事情を把握していません」
「お前の考えを聞いている」
「…浅野は古参隊士です。敵に下り情報をわざと漏洩したということはあまり考えられません。それに今回のことはあの河上が関わっていて…漏れた内容も三浦のことで隊の機密に関わることではありません。偶然の事故のようなものだと考えます」
「好意的だな」
「副長のお考えは違うのですか」
「そうだ」
土方はふんと吐き捨てた。
「監察一人一人を尋問してやりたい気分だ」
「…監察は副長の直属の部下です」
「だからこそ、今回のことは気にくわない」
今回の漏洩は内容が内容だけに、局長の計らいで浅野は謹慎と平隊士への降格の処分のみとなった。土方も近藤に説得されてようやく首を縦に振ったようだが、到底納得していなかったのだろう。
「山崎が監察にいる頃はそれで抑止力になったが、あいつも顔を知られ監察として動くのは難しい。監察のなかには伊東の推薦で何人か紛れ込んでいるし、最近は伊東たちの動きも怪しい…それを考えるとお前のいう通り今回は偶然の漏洩事故だったかもしれないが、今後はそうではないかもしれない」
眉間にしわを寄せ不快感をあらわにしていた。今回の一件が土方へそれほどの危機感を与えたのだ。
「…それで、なぜ俺を呼び出したのですか」
「お前には山崎の代わりになってもらう」
「監察へ異動ですか…」
「いや、もうお前の顔もあちこちに知られちまっている。お前は三番隊組長のまま、俺の右腕として動いて欲しい」
「…」
土方が示唆しているのは不逞浪士を取り締まる外向けの仕事ではなく、内部に目を向ける間謀だ。誰とも距離を置き、時には密告し法度を盾に同志を追い詰める。
彼が『右腕』というからには一番機密を共有する存在となる。
そのことが斉藤にとって気が進まないということはない。しかし今までもそうしてきたので、改まって明瞭にされると何だか具合が悪い。
「…俺じゃなくても良いのではないですか。試衛館食客は他にも…」
「永倉は根が真面目すぎるし、原田は口が軽い。藤堂は問題外だし、総司にはできない。お前しかいない」
「…」
まるで候補を一人ずつ消していった余りのような物言いだ。斉藤は未だに納得できなったが、
「それに…俺は総司の見る目を信じている」
「…は?」
「あいつは誰でも信用しているようでそうでもない。食客たちは共に暮らしているから別として、自分から距離を詰めようとは思わない奴だ。血の繋がった家族でさえも、な」
「…」
「その総司がお前には特別の信頼を置いている。…まあ、それがたまには気にくわないが…俺にとってお前を信用するという理由として事足る」
土方はさらに「今までの成果も加味してある」と付け加えたがやはり総司からの信頼がその理由なのだろう。
斉藤はしばらく口を噤んだ。
土方のもつ危機感を感じていないわけではない。今はあちこちに燻る火種がいつか繋がって大きな唸りになるかもしれないーーーその時に自分が守りたいものは何か。
「…お受けします」
答えはもう自分の中に確かにあった。だからこそそれ以外の返答はなかった。
土方は少し茶化すように
「裏切るなよ」
と言った。
「ええ…あなたが俺を裏切らない限り」
「はは…それでいい」
月明かりが眩しい夜だった。


翌朝は朝から心地の良い秋晴れだった。道の所々にある水溜りを避けながら、昼から非番の総司は土方とともに屯所に戻る。
「昨晩、斉藤さんきてました?」
「ああ…ちょっと話があったんだ」
「ふうん…」
心なしか土方の表情はすっきりしている。別宅にいた時の少し不機嫌そうな様子は消え失せていたので、斉藤とのやりとりで何かがあったのだろう。
雑談を交わしていると西本願寺の大きな屋根が見えてくる。
その時だった。
「総司?」
聞き覚えのある声に呼び止められ、総司は振り返った。そういう呼び方をする者はたくさんいるが、声の主は女子だ。
そしてとても聞き覚えのある声だった。
「…姉さん…」






560


「姉さん…どうしてここに…」
久々の姉弟の再会が現実と思えず、総司は呆然と立ち尽くす。久々に会う姉は姿形はさほど変わっていなかったが、数年会わなかった分だけ大人びて落ち着いて見えた。
しかし突然の姉を前にして総司は言葉が出ず、みつは困惑して首を傾げる。するとその場にいた土方が「あっ」と声をあげた。
「…悪い。お前に手紙が届いていたこと、ゴタゴタしてすっかり忘れていた」
「え?手紙?」
「かっちゃんからお前に渡すように預かっていたのをそのまま…」
「そういうことでしたか。土方さまはお忙しいのでしょう、どうかお気になさらないでくださいませ」
総司はまだ驚きを隠せなかったが、みつは状況を理解すると丁寧に頭を下げた。
「大変ご無沙汰をしております。弟がお世話になって…」
「いえ、こちらこそ…隊士募集で江戸に戻った時以来、二年ぶりでしょうか」
「ええ、お元気そうで何よりでございます」
みつは穏やかな笑みを浮かべ土方へ一通りの挨拶を述べるとようやく総司の方へ視線を向けた。
「…元気そうね、良かった」
「姉さんも…義兄さんも一緒に?芳次郎は…」
「今回は私の一人旅よ」
「え?江戸から一人で?女子の一人旅なんて危ないな」
総司の言葉にみつは目を丸くすると口元を押さえて笑った。
「あなたからそんな気遣いの言葉を聞けるなんて…少しは大人になったようね」
「私もそれくらい言います」
「どうかしら。なかなか手紙の一つも寄越さないくせに」
京にやってきて総司が故郷に宛て手紙を書いたことは片手で足りるほどしかない。痛いところを突かれ総司は言い返せなくなる。するとみつはくすくすと笑った。
「良いのよ。便りがないからこそあなたに会いに来る口実ができたのですから」
「もう。姉さんらしいなあ…」
姉弟として気の置けない会話をするのは久方ぶりだが、不思議と懐かしさはなくいつもそうしていたように思う。試衛館とは違う血縁の距離感に総司も自然と微笑んだ。
すると土方が
「良かったら屯所に案内します。近藤も今日は一日屯所にいるでしょうから。…総司、お前は永倉か斉藤あたりにこれからの巡察を代わってもらえ」
「良いんですか?」
「姉弟水入らずは何年振りだ。気にせず…」
「いけません、土方さま」
土方の誘いをみつは強く遮った。
「しかし…」
「良いのです。私はあと数日こちらに滞在しますし、総司とはお役目のない時にまたゆっくりと…」
柔らかい微笑みに反して強い眼差し。昔から長女として責任感の強いみつにそう言われては、土方でさえもそれ以上は食い下がることはできない。
「土方さん、姉はこういう人ですから」
「ああ…」
土方は渋々「わかりました」と了解した。


総司は予定通り巡察に向かい、土方はみつとともに近藤の部屋を訪ねた。
突然の訪問に近藤は驚きながらも歓待した。
「いやあ、お久しぶりです。何度か手紙のやり取りはありましたがこうして実際にお会いするのは…三年前に江戸に下った時以来ですかな…おみつさん」
「はい。いつも総司が大変お世話になっております」
「いやいや、よく働いてくれています。俺たちは老けましたが、お変わりなくお美しい」
「まあ、お上手ですこと」
近藤がさらりと挟んだ褒め言葉にみつは微笑んだ。長い睫毛、高い鼻梁、形の良い唇ーーーその横顔は見れば見るほど総司とよく似ていて、もし女装させることがあればみつにそっくりになるだろう。
近藤は腕を組みながら土方に目を向けた。
「しかし、総司は巡察か?歳、せっかくこうして足を運んでくださったのだから観光案内くらいさせたらどうだ」
「ああ…」
「近藤先生、土方さまを責めないでくださいませ。私がお断りしたのです。…総司には昔から与えられた仕事は例え身内に不幸があろうともやり遂げるように教えてまいりました。私がここに来ただけのことでお役目を蔑ろにさせるわけにはまいりません」
「はあ…そうですか」
近藤は頭をかいて「おみつさんらしい」と苦笑した。
やや潔癖すぎるほど総司にも己にも厳しいみつは『姉』である以上に『親』なのだろう。生まれたばかりの総司を親の代わりにしつけ、試衛館に下働きに遣るまで育てた。武家でありながら貧しい境遇に育った総司が、捻くれることなくまっすぐに育ったのもみつの教育の賜物だろう。
近藤はみつの方へ姿勢を正した。
「それで…おみつさん、遠路はるばる都まで足を運ばれたのは何か理由が?総司のことなら定期的におつねから知らせるようにしていたはずだが…」
「はい、近藤先生とおつねさまにはお気遣いをいただき誠にありがたく思っております。あの子は相変わらず梨の礫で…便りがないのは元気な証拠とは思っておりますが、顔を見て話したいこともありまして…」
江戸からわざわざ足を運んだ理由…近藤は思い当たることはなさそうだが、土方は察していた。
「その…総司の縁談の件です」
自分から言いだすべきではないと口を噤んでいたが、みつが切り出した時心臓がチクリと疼いた。土方は悟られまいと表情を変えなかったが、近藤はあからさまに動揺する。
「あ…あぁ、その件ですか。いやあ、申し訳ない。何人か縁談相手を見繕って見合いをさせたのですがどうもうまくいかず…ははは、江戸では新撰組の勇名が轟いているようですが、こちらでは悪評も広まってまして、なかなか良い相手に巡り会えず…」
冷や汗を拭いながら近藤はチラチラと土方の方を伺った。
総司は土方との関係について近藤を納得させたが、みつまでは話を通していなかったのだろう。もともと総司の縁談は近藤の長州征討に伴って持ち上がったが、みつからの後押しもあったのだ。
「そうでしたか…お忙しいなかお手間を取らせて申し訳ございません」
みつはその長い睫毛を伏せ、残念そうに視線を落とした。
近藤は「何か言え」と言わんばかりに土方に視線を送るが、
(だが…俺から何かをいうわけにもいかねぇ)
と、押し黙るしかない。
みつは再び顔を上げた。
「総司にも縁談について気がすすまないところがあるのでしょう。私からも説得してみます」
「は…はは、そうしてやってください」
それからは近藤がやや不自然に話題を変えながら雑談を重ねた。
そうして半刻ほどして旅籠に行くというので土方が見送ることにした。
部屋を出て屯所を歩く。通り過ぎて行く隊士たちは一様にみつの美貌に目を見張り、足を止めて振り返った。みつは慣れているのかその視線を躱し、気に留めない様子だった。
「新撰組の懇意にしている旅籠があります。よろしければそちらに移ってください」
「助かります、ありがとうございます」
土方は近くの旅籠へ案内する。みつはしばらく黙っていたが「あの」と切り出した。
「総司は…元気にしていますか?その…身体の方は…」
「問題ありません。新撰組の主治医をしてくださっている幕府御典医の松本先生や会津藩医の南部先生にも気をつけていただいています」
「まあ…そうですか、ありがたいことです」
土方がそういうとみつは少し安堵したように頷いた。
みつが父親の労咳について打ち明けたのは、前回に再会した時だ。あの時は池田屋の一件で様々な風聞が広まり、総司が暑気あたりで倒れたのが血を吐いて倒れたなどという間違った風聞として伝達されてしまったのだ。父親を労咳で亡くしているみつは気が気ではなかったのだ。
土方はあえて松本や南部の名前を挙げてみつを安心させようとしたが、それでも末弟への心配は尽きないようだ。
「労咳は防ぐこともできなければ、直すこともできない不治の病…そのことは父の時に理解しております。心配したところで何も手立てはないのに…土方さまに打ち明けてしまって、重荷を背負わせてしまったのではないかと…本当はあの後、後悔していたのです」
「…とんでもない。あいつは無理をするところがある。知らせてくださったおかげで気を配ることができる」
「そう言ってくださると嬉しいです。どうか総司のことをよろしくお願いいたします」
「…ええ」
「それからもう一つお願いが…」
「なんです」
「手紙のことです」
みつは一層神妙な顔になった。
「手紙…?」
「あの…私がお送りした手紙です。まだ総司の元には…?」
「ああ、俺が持っています。もちろん読んでいません」
「良かった。申し訳ないのですが総司には渡さずにそのまま捨てていただけませんか?」
「捨てる?しかし…」
みつは足を止めて深々と頭を下げた。
「不要なものなのです。…お願いいたします」
有無を言わせない物言いに、土方は「わかりました」と答えるしかなかった。































解説
554三浦啓之助、芦屋昇について。
二人の間柄についてはもちろん創作ですが、慶応二年ごろ一緒に脱退したと言われています。その辺の創作についてはいろいろあるようですが不明のようです。

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