わらべうた




552


夕方。
茜色に染まる夕闇のなか人々が家路を急いでいる。銀平はガランとした店で暖簾のない入り口越しにぼんやりとその人並みと夕陽が落ちて行く様を眺めていた。外の時間は過ぎているのに、この店の中はまるで時間が止まったかのように静かだけれど、空気は流れていてポカン、と開いた唇が乾いている。
他人から見れば両親を亡くし孤独な青年が、心ここに在らずで孤独に苛まれている憐れな姿でしかないだろうが、大方その通りだと思う。ぽっかり胸に穴が開いてしまった。
(誰も彼も、遠くへ行ってまう…)
最初に亡くしたのは母だった。次に父を亡くし、兄弟のいない銀平にとって血の繋がった人間は誰もいなくなった。誰とも血の繋がりのないということの頼りなさと脆さを日々思い知っている。
誰も彼もがそう言って慰めたように、悲しみは時を経るごとに薄れるけれど、そのスピードは人によって違う。自分と同じ鈍さで忘れて行く者はおらず、誰もがいつまでも傷の癒えない自分を置いていつもの日常へと戻って行くのだ。自分はその後ろ姿を眺めるだけ。
(福次郎はんも…そうや…)
所詮は他人なのだから、仕方ないのかもしれない。けれど出会茶屋の前で偶然出くわした時に、どうしようもない焦燥感に駆られながら、
(福次郎はんも所詮は他人や)
と思い知った。彼は銀平を置いて誰かと情を交わせるような『日常』に戻ったのだ。
(それを…『裏切り』やなんて、きっと烏滸がましい)
『家族』と『友人』は違う。過ごして来た時間や積み重なった愛情に決定的な差があるのだから、銀平と同じように悲しみに浸り続けているわけではない。
だが、それでも。
(たったひとつの…たった一人の、縁(えにし)やのに…)
銀平は俯いた。この寂しさが自分一人のものでしかないのだと気がつくことで、グッと唇を噛んで堪えないと泣いてしまいそうだった。
(なんで泣くのかわからへん…)
何が悲しいのか、何が寂しいのか、よくわからなかった。
「ごめんください」
「!はっ、はい!」
突然鼓膜に響いた声に驚いて、ほぼ反射的に顔を上げた。するとそこにいたのは目深に頭巾を被った小柄な女だった。彼女はゆっくりと店の中を見渡した。
「…か、堪忍。店はもう閉じてしもうて…」
「そう」
てっきと客かと思ったのだが彼女は特に驚く様子もなくあっさりと頷いた。切れ長の目と形の良い唇、そして涼やかで聞き取りやすい声。女の見た目からはそれだけしかわからないのに、自然と身体がたじろいだ。
「箭内屋の息子?」
「えっ?へ…へえ、まあ」
「ふうん」
品定めのような不快な眼差しと遠慮のないもの言い。異質な雰囲気を感じ銀平はゾクッと悪寒を覚えた。
「ご…ご用件はなんやろうか?」
「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か久しかるべき」
「…は?」
突然何を言い出すのかと驚く銀平とは裏腹に、彼女は涼しい表情を崩すことはない。
「在原業平への返歌」
「あり…?」
「紀有常の作だと言われている」
「そ、それが…?」
幼い頃から勉学が苦手だった銀平には彼女の口から出てくる全ての言葉が理解しずらい。ただわかるのは、彼女はただの客ではないということだけだ。
「桜は散ってこそ尊い。そもそもこの世に永遠なんてものはない、という意味だ」
女はゆっくりと頭巾に手をかけた。細く長い髪がはらりと肩口に掛かり、銀平はようやく気がついた。
(女…?いや、男…?)
「だ、誰やあんた…」
「誰でも良い。ただ、お前に忠告しに来てやっただけだ」
「忠告…?」
彼は一歩、二歩と銀平に近づくとその白く長い手を差し出し、その指先で遊ぶように顎を取った。
彼との距離は拳一つもない。それだけ近づいているのに銀平には目の前にいるのが男なのか女なのか、はたまた人間なのかそうではないのかさえわからなくなっていた。
彼は磨かれた鉱物のように美しいのに、触れられた指先は氷のように冷たいのだ。
異質な存在を前にピクリとも動けない銀平を見て、彼は笑った。
「臆病だな。…唯一の肉親を殺されたというのに、敵討ち一つしようとせず、こんな場所でのうのうと。…親父もあの世で悲しんでいることだろう」
その挑発に突然感情の火がついた。
「…なっ!」
「新撰組が怖いのか?」
「…もう下手人は捕まったって…!」
「そんな子供騙しのような話をまさか信じているのか?親父を殺したのは新撰組だと、本当はわかっているのだろう?」
「…っ」
役人から父を死に至らしめたのは酔っ払いの初老の男だと知らされた。その男を連れてきたのは新撰組で、もちろん銀平も役人も納得はしていなかったが、『壬生狼』に逆らうと何をされるかわからなかったから幕引きにするしかなかった。
彼は薄く笑った。
「『散ればこそ』…人が最も美しいのは死ぬときだ。それさえも嘘で汚された親父の無念を誰が晴らせるというのだ」
「そんなこと…言われても…」
「本当は誰が親父を殺したか…教えてやろうか」
「!?…な、なんで、あんたがそんなことを知っているんだよ!」
「理由などどうでも良い。お前にとって本当は誰が殺したのかだけが重要だ」
「…」
「早く答えろ。さもなければ…今晩中に真犯人は逃げ果せてしまう」
「…え?」
彼の細い指先が顎から首筋へと伸びた。見下すように銀平を見る冷たい眼差しがゆっくりと、確実に身体を支配していくような感覚を覚えた。


星のない夜空に浮かぶ月に、薄い雲に覆われている。
秋の夜はずいぶん早くやってきて、だんだんと陽を遮っていく。深い闇は暗さとともに静けさを齎し、沈黙と不安を与える。
「…なんだか、嫌な夜だな…」
ほとんど無自覚に呟いた言葉は思った以上に部屋に響き、土方の耳に入った。彼は手を止めて「どうした」と尋ねてきた。
「いえ…別に、何かあるわけじゃないんですけど。嫌な感じがして」
「お前の『嫌な感じ』はいつも厄介だ。今晩、三浦を洛外まで無事に届ける任務があるんだからな」
「わかってますよ。ちゃんと気をつけます…もうそろそろ出なきゃな」
総司は腰の大小を差し直し、気持ちを切り替える。自分の嫌な予感がよく当たることは土方以上に自分がわかっているのだ。
少しだけ強張った背中に、フッと温かさを感じた。土方が総司の肩に羽織を掛けたのだ。
「着ていけ。秋の夜は思った以上に冷える」
「…はい」
少しだけ大きい土方の羽織に袖を通す。彼の匂いが染み付いたそれは自分のものよりも暖かく感じた。
すると土方は少し声を潜めた。
「一つ言っておくが」
「?何ですか?」
「俺はお前さえ無事なら何でもいい。三浦が死のうと芦屋が死のうと…近藤先生以外なら他の誰かに何があっても、お前が無事ならそれでいい」
土方の両手が背中から伸びてそのまま抱きしめられた。温かさに包まれ、総司は自然と力が抜けた。
「…なんてこと言うんですか。三浦君を無事に送り届けなきゃ任務失敗でしょう?」
「副長としてはその通りだが…個人としてはどうでもいい。ただ俺はお前の『嫌な予感』が当たりそうで、嫌なんだよ」
「…大丈夫ですよ」
総司だけではなく土方も同じ気持ちだったのだろう。別の人間である彼と気持ちか重なっていることが、総司を『大丈夫』にする。
土方の手のひらに自分のそれを重ね「大丈夫です」と繰り返した。

総司が屯所の裏口にやってくると、すでに三浦の姿があった。旅姿の彼は少し緊張しているのか表情が硬い。
酒癖が悪く金遣いの荒い嫌われ者の三浦だが、総司は彼の唯一といえる長所を見つけていた。
(相変わらず姿勢が良いなぁ)
佐久間象山の厳しい躾のおかげなのかどうかわからないけれど、彼はいつも背筋をピンと伸ばしその姿勢を保ち続けている。傲慢で利己的だと陰口を言われても、いつも凛としてその誇りを忘れることはなかった。
(その誇りの矛先が僕たちと同じ方向なら良かったのに)
意固地なほどの強さとプライドの高さで任務を務めることができれば、有用な隊士に成り得たのではないかとさえ思うのだ。
そうしていると三浦が総司に気がつき軽く頭を下げたので
「行きましょうか」
とともに屯所を出た。







解説
なし
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