わらべうた




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冬の到来を知らせるような冷たい秋風が通り過ぎていく。身体の芯から冷えていくような寒さのなか、総司はぼんやりと柱に背を預け境内を眺めていた。
今日は井上の指導で剣術の稽古が行われている。素振りを何度も繰り返す天然理心流の稽古はすっかり新撰組に馴染んでいて、木枯らしが吹く中でも隊士たちは汗をダラダラと掻きながら太い木刀を振り回す稽古に励んでいた。
いつもならその稽古に加わる総司だが、今はそんな気分にもなれず、ずっと脳内に反芻するある言葉を思い出していた。
「…『散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世に何か久かるべき』」
「伊勢物語の『渚の院』ですか」
ふっと隣に気配を感じ、総司は驚いた。
「…伊東参謀…!」
「失礼、驚かせましたか。風流な独り言をおっしゃっているのでつい声をおかけしてしまいました」
手慣れたように扇子で口元を隠しつつ伊東は微笑んで続けた。
「在原業平の『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし』の返歌と言われています。春になると桜が咲いて散る…その様子に我々は一喜一憂させられる。それほどまでに美しい桜の素晴らしさを讃えた歌に対して、返されたものです」
「…そうでしたか。すみません、ただ…知り合いが口ずさんでいたものを覚えてしまっただけで、よく意味はわからなかったのです」
総司は己の無知を恥じながら頭をかいた。もっとも隊内で一番の博識である伊東の前では誰もが『無知』であることに違いはないのだが。
伊東は「ああ、なるほど」と頷いた。春夏秋冬、どのような季節でもいつでも涼しい顔をしている伊東の形の良い唇からスラスラと言葉が流れていく。
「先ほどの『散ればこそ』…簡単に言えば桜は散るからこそ美しいという歌です。この世の中で変わらないものはないのだから…そういう意味です」
「…散るからこそ…ですか」
「ええ、風流な返しかと思います。私などは『散り際』に想いを馳せるのは、どこか我々に似た思想を感じますね」
「…」
桜の季節、宴会の席などでそのような会話があるならまだしも、これはあの夜河上彦斎が口ずさんでいた歌だ。
(あの時は意味がわからなかったけれど…)
影の存在として生と死の狭間を歩き続けている河上にとって、伊東の言うように『散り際』とは『死』だ。それを深く意識したものだとすれば、彼は何を見て、何が言いたかったのだろうーーー。
「どうか?」
「…あ、いいえ…そういえば今日は浅野君の審議でしたか」
聡い伊東に深く追及されたくなくて、総司は話を変えたが、伊東は「ああ…」とその整った顔立ちを少しだけ歪めた。
「監察によると浅野君が河上と接触したことに間違いはないようですが、情報を漏らしたという確信はなく、謹慎中の本人も酒に酔い記憶にないようです。三浦君の件は会津との関わりもあり、表向きには彼を追い詰めることもできないでしょう」
「…そうですか」
三浦と芦屋は脱走したことになっているため、例え浅野が彼らに関する情報を漏らしたとしても表立って咎めることはできない。
伊東は眉をひそめた。
「…そもそも監察の身でありながら、記憶をなくすほど酔潰れるなど以ての外。彼の監察としての資質に問題があると思いますが……そういえば彼は沖田君の元部下でしたね」
「ええ、まあ…池田屋の頃までは。真面目で仕事熱心だったとは思いますが」
「そうですか。…ああ、このようなところでする話ではありませんでしたね」
伊東は表情をコロリと変えて微笑んだ。「そろそろ講義の時間です」と話を切り上げた。
「あ…色々とご教授頂いて、ありがとうございました」
「いえ、文学師範として当然のことです。たまには沖田君も講義にいらしてください」
「はは…機会があれば」
「お待ちしています。…ああ、そうだ。その歌を口ずさんでいた方はもしかしたら『死』を強く意識しているのかもしれませんね」
「……」
「失礼します」
少ない会話と短い情報だけで伊東はまるで見透かすような一言を置いていった。
身震いがしたのは冷たい風のせいだろうか。


一方。
「浅野君は平隊士へ降格。それでいいじゃないか」
近藤の提案に対して土方は硬い表情を崩さなかった。
今朝は監察方からの報告を受け、伊東を含めた三人で浅野に対する処遇について検討してきた。伊東は情報漏洩の疑いがある以上、浅野を監察方に置くべきではないという意見のみだったが、土方はさらに上の処分を考えていた。
「三浦の件だったからまだ良かったものの、敵に情報を漏らしたかもしれないんだ。降格なんて手緩い」
「だからといって切腹にするのか?そうなれば隊士に対して説明が必要になる。…表沙汰にできない以上、降格以外の処分はできないだろう?」
近藤は池田屋以前からの同志である浅野に対して温情があるようで、しきりに庇った。いつもなら土方は「私情を混えるべきではない」と諌めるが、表沙汰にできない理由なのだから切腹に処すべきではないという彼の主張はもっともなので否定することはできない。
近藤は土方の表情を伺うように
「歳、何を意地になっているんだ?」
と尋ねた。
「…別に意地になっているわけじゃない。浅野は監察方として長く活動してきた。倒幕派と繋がるさまざまなツテを持っていてもおかしくはないだろう」
「だがそれも証拠がないんだろう。彼のこれまでの働きぶりは監察として適正なものであった…そう監察方も言っていたじゃないか」
「…」
「確かに…監察はお前の直属の部下のような存在だ。許せない気持ちはわかるが、彼も一人の人間だ、失敗は犯す」
「一番、失敗が許されないのが監察だ」
「だから、彼にその資質なしと判断して監察から降格…それでいいだろう?」
「…」
このような近藤とのやりとりは数回続いている。伊東は局長の判断に任せると言うことだったので土方がいくらごねても結論は変わらないのだろうが、土方としては己の身内が犯した失態を簡単に許すことはできなかったのだ。
だがいい加減、この堂々巡りにも結論を出さなくてはならない。土方は大きくため息をついて折れた。
「…十日の謹慎、そのあとは近藤局長の指示に従う」
「うん、わかった」
近藤は満足そうに頷いた。そして気が抜けたように足を崩し、「やれやれ」と息を吐いた。
「長州との戦は休戦と言う名の敗北に近い。長州がますます力を持ってくるなか、一橋様は将軍職を拒否され、幕府の将が不在…不安な時だからこそ隊の結束が揺らぐのは良くない」
「ああ…わかっている。だからこそ身内に近ければ近いほど…甘い処分を下すわけにはいかねぇだろう。今回の件が三浦のような密命でなければ切腹にしている」
「…そういう考え方もわかるが」
「もうこの話はやめよう」
結論が出た今、不毛な議論は不要だ。土方は話を切り上げた。
すると近藤は「そうだ」と近くにあった文箱を引き寄せて中の手紙を土方に渡した。
「これは…?」
「総司に渡してくれ。おつねの手紙と一緒に届いた」
「…『おみつ』。総司の姉さんか」
みつは総司と年の離れた姉だ。総司は幼い頃に姉から手ほどきを受けたせいか、姉弟で良く似た筆跡をしている。
「もちろん中を読んだわけじゃないが、おつねによると近々、京に来るということらしい」
「おみつさんが?」
「相変わらず梨の礫の弟に痺れを切らして会いに来るのだろう」
ハハッと師匠は呑気に笑ったが、治安の悪い都へ送り出した姉としてなんの知らせもなければ気が気ではないだろう。
「…渡しておく」
土方は手紙を受け取って懐に入れた。





解説
なし
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