わらべうた




559


昼間から続いた雨が止んだ頃、伊東の別宅での勉強会がお開きになった。伊東に近い隊士たちがバラバラと屯所に戻る中、藤堂はその場に残り呆然としていた。
「藤堂先生」
声をかけてきたのは伊東の一番の側近である内海だった。
「内海さん…」
「少しあちらでお話ししましょう」
内海に誘われるまま、藤堂は従った。
縁側から見える庭に咲く花々は雨露に濡れていた。厚い雲の合間から夕陽が差し込みキラキラと輝く姿には思わず目が止まった。
(別世界のようだ…)
その姿を見るだけで誰もがふわふわと浮き足立つ。魅せられて、のぼせて、ゆらゆらと。
すると内海が縁側の最奥で足を止めた。
「今日の勉強会のことですが、近藤局長や土方副長…ここにいない者には他言無用にお願いしたいのです」
「…他言無用…ですか」
「理由は口にしなくともお分かりかと思います」
「…」
内海が言う『勉強会』は屯所で行われている文学師範の『講義』とは違っていた。世情の混乱を紐解き、新撰組の立ち位置を理解させ、教養を持つべきだと論じる『講義』とは一線を画し、『勉強会』はこれからどうあるべきか、どう行動すべきかーーーそんな伊東の考えに耳を傾ける、独演会のようなものだったのだ。そして招かれている隊士たちもその考えに共感し、恍惚とした表情で頷いていたのだ。
「…俺は、伊東先生のお考えが間違っているとは思いません。幕府が弱体化している今だからこそ、新撰組は変わるべきだし、幕府に追従するだけではダメだ…このままではダメだと思う」
「…」
「でも……だからって、あれは…幕府を見限るべきだなんて…そんな簡単には…」
伊東は熱く語った。
長州一藩に敗戦を喫しこのまま沈没する幕府になど見切りをつけて、行動すべきだと。
それは絶対的に幕府に恭順する近藤の考えとは相反するものであり、口にしただけで首が飛びそうな極論だ。
しかしあの場にいた者は誰一人として反論せず、「その通りだ」と協調した。藤堂にはそれがクーデターの前触れのように感じてしまい、圧倒されたのだ。
「それに近藤先生や土方さんに知られたら、どんなことになるか…」
「そうです。局長や副長の論とは異なる…だから他言無用をお願いしているのです」
それまで平坦だった内海の口調が強いものへと変わった。
「藤堂先生、あなたは伊東先生とも親交があるが、客観的に見れば試衛館食客のひとりであり局長や副長に近い。ですからこの勉強会には出て欲しくなかった…けれど、伊東先生はあえて引き止めたのです。その意味がわかりますか?」
「…俺を信頼している、と?」
「その通りです。あなたが密告などせず、伊東先生の考えに共感してくれると…そう信じている」
「……」
『信じている』
単純で簡単で、ありふれた言葉だ。
けれどそれは藤堂が二年前に失ったものだった。
(誰も信じられない)
山南の自決…仲間の犠牲、全てが藤堂の不信感を募らせていった。荒波に突き落とされ縋るワラさえ見つけられず、深みへ深みへ…そしていつか自分の河合のように誰をも信じられないまま沈んでいってしまうのだろうと。
だからこそ、伊東の気持ちが心に響いた。
(信じてもらっている…)
「…わかりました。今日のことは誰にも言いません…その代わり条件があります」
「条件?」
「今後も…俺をこの勉強会に呼んでください。伊東先生のお考えを…もっと聞いてみたいのです」
藤堂の申し出に内海は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで「もちろん」と答えた。
夕陽は山際へその姿を隠そうとしていた。


昼間の雨に濡れた地面の泥濘が鬱陶しい。
暗闇のなか手にした提灯で足元を照らしながら生垣を辿り、裏口へと至る。この時間なら玄関から入っても問題はなさそうだがこの家を正面から訪ねるのにはいつも躊躇いがあるのだ。
竹で作られた簡素な扉を押すと、待ち構えていたように縁側に土方の姿があった。
「遅かったな」
そう声をかけてきた。
「巡察に手間取りました。一人を捕縛し役人に引き渡し済みです」
「そうか」
淡白な反応はいつものことだ。しかしわざわざ監察を使ってここに呼び出したのだからよほどの用件があるに違いない。
身構えていると締め切られた障子の向こうから少し物音が聞こえた。
「…沖田さんですか?」
「ああ…よく寝ているから気にしなくていい」
「…」
「斉藤、お前に話がある」
土方は改まって切り出した。
「浅野の件、どう思った?」
「俺はよく事情を把握していません」
「お前の考えを聞いている」
「…浅野は古参隊士です。敵に下り情報をわざと漏洩したということはあまり考えられません。それに今回のことはあの河上が関わっていて…漏れた内容も三浦のことで隊の機密に関わることではありません。偶然の事故のようなものだと考えます」
「好意的だな」
「副長のお考えは違うのですか」
「そうだ」
土方はふんと吐き捨てた。
「監察一人一人を尋問してやりたい気分だ」
「…監察は副長の直属の部下です」
「だからこそ、今回のことは気にくわない」
今回の漏洩は内容が内容だけに、局長の計らいで浅野は謹慎と平隊士への降格の処分のみとなった。土方も近藤に説得されてようやく首を縦に振ったようだが、到底納得していなかったのだろう。
「山崎が監察にいる頃はそれで抑止力になったが、あいつも顔を知られ監察として動くのは難しい。監察のなかには伊東の推薦で何人か紛れ込んでいるし、最近は伊東たちの動きも怪しい…それを考えるとお前のいう通り今回は偶然の漏洩事故だったかもしれないが、今後はそうではないかもしれない」
眉間にしわを寄せ不快感をあらわにしていた。今回の一件が土方へそれほどの危機感を与えたのだ。
「…それで、なぜ俺を呼び出したのですか」
「お前には山崎の代わりになってもらう」
「監察へ異動ですか…」
「いや、もうお前の顔もあちこちに知られちまっている。お前は三番隊組長のまま、俺の右腕として動いて欲しい」
「…」
土方が示唆しているのは不逞浪士を取り締まる外向けの仕事ではなく、内部に目を向ける間謀だ。誰とも距離を置き、時には密告し法度を盾に同志を追い詰める。
彼が『右腕』というからには一番機密を共有する存在となる。
そのことが斉藤にとって気が進まないということはない。しかし今までもそうしてきたので、改まって明瞭にされると何だか具合が悪い。
「…俺じゃなくても良いのではないですか。試衛館食客は他にも…」
「永倉は根が真面目すぎるし、原田は口が軽い。藤堂は問題外だし、総司にはできない。お前しかいない」
「…」
まるで候補を一人ずつ消していった余りのような物言いだ。斉藤は未だに納得できなったが、
「それに…俺は総司の見る目を信じている」
「…は?」
「あいつは誰でも信用しているようでそうでもない。食客たちは共に暮らしているから別として、自分から距離を詰めようとは思わない奴だ。血の繋がった家族でさえも、な」
「…」
「その総司がお前には特別の信頼を置いている。…まあ、それがたまには気にくわないが…俺にとってお前を信用するという理由として事足る」
土方はさらに「今までの成果も加味してある」と付け加えたがやはり総司からの信頼がその理由なのだろう。
斉藤はしばらく口を噤んだ。
土方のもつ危機感を感じていないわけではない。今はあちこちに燻る火種がいつか繋がって大きな唸りになるかもしれないーーーその時に自分が守りたいものは何か。
「…お受けします」
答えはもう自分の中に確かにあった。だからこそそれ以外の返答はなかった。
土方は少し茶化すように
「裏切るなよ」
と言った。
「ええ…あなたが俺を裏切らない限り」
「はは…それでいい」
月明かりが眩しい夜だった。


翌朝は朝から心地の良い秋晴れだった。道の所々にある水溜りを避けながら、昼から非番の総司は土方とともに屯所に戻る。
「昨晩、斉藤さんきてました?」
「ああ…ちょっと話があったんだ」
「ふうん…」
心なしか土方の表情はすっきりしている。別宅にいた時の少し不機嫌そうな様子は消え失せていたので、斉藤とのやりとりで何かがあったのだろう。
雑談を交わしていると西本願寺の大きな屋根が見えてくる。
その時だった。
「総司?」
聞き覚えのある声に呼び止められ、総司は振り返った。そういう呼び方をする者はたくさんいるが、声の主は女子だ。
そしてとても聞き覚えのある声だった。
「…姉さん…」











解説
なし
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