わらべうた




561


翌日は青天に恵まれ、総司はみつとともに都の散策に出かけた。
人通りの多い五条通りを東へ歩き、河原町の賑わいに目を細め鴨川を渡り清水へ。
江戸とは違う街並みは誰もが浮足立つような雅な雰囲気だ。総司は上洛した当初、見慣れない風景にいつまでも落ち着かずふわふわと気持ちが浮いていた記憶があるが、みつは特にはしゃぐことなく「素敵ね」とほほ笑んであちこちの仏へ静かに手を合わせ深々と頭を下げた。歳の離れた姉はいつまで経っても総司よりも大人だった。
清水の舞台から整然と居並ぶ街並みを見渡して、みつはしばらく眺め続けていた。総司が指をさしてあちらが屯所、あちらに御所、二条城―――と教えると何度も頷いていた。
そうしてしばらく歩いた後、
「休憩しよう」
総司の提案で清水の坂にある茶屋に入る。温かい茶で喉を潤すと、みつは小さく息を吐いた。
「美しい町…。思った以上に落ち着いていて、穏やかで安心したわ」
江戸へ伝えられる都の現状は噂話に尾ひれがついたものが多いという。みつも事あるごとにそのような噂を耳にしていたため、もっと治安の悪い土地だと思っていたのだろう。
みつは続けて苦笑した。
「昨日、土方様は『姉弟水入らずなんて何年振りか』とおっしゃったけれど、実は初めてよね。こうして二人で出歩くなんて」
「…そうかもしれない。家を出たのは幼いころだったし、家にはなかなか帰れなかったから…」
「帰れなかった、のではなくて、帰る気がなかったのでしょう?」
「はは…そうかも」
総司が笑ったところで店の女中が頼んでいた団子をもってやってきた。姉弟揃って甘いもの好きなのでみつは喜ぶかと思いきや、神妙な顔をしたまま手を付けなかった。
「姉さん…?」
「…ごめんなさい、下働きとして家を追い出していながら私が言えることではなかったわ」
みつがその長い睫毛を伏せながら謝罪した。総司からすれば単なる軽口でそれほど重みのある意図なかったのだが、みつは酷く後悔しているように見えた。
総司は手に持った串を一度置いた。
「『追い出された』なんて思ったことないよ。試衛館に下働きに出たのは近藤先生が好きで、自分から進んで道場に行きたいと思ったからだよ。それを今まで悔やんだこともないし、姉さんを恨んだことはない」
「…でも、あなたは家に寄りつかなかった。正月もお盆も…浪士組の出立のあいさつで顔を出したくらいで、滅多に帰らなかったでしょう?」
みつは尚も疑うように総司の顔色を窺った。
姉の言う通り、江戸にいた頃は暇があってもわざわざ家まで帰らなかったし、出稽古で近くまで行っても顔を出すことは少なかった。みつが試衛館に顔を出した時もどこか他人行儀だったかもしれない。
どんなに離れて暮らしていても姉は目敏い。少ない時間したか共に過ごせなかったとしても、感じ得るものがあるのかもしれない。
総司は素直に吐露した。
「…さっきのは少し嘘だったかもしれない。幼い頃は帰りたいと何度も思ったよ。女将さんの下働きとしての仕込みは厳しかったし、突然離れて独りきりになるのは心細かったところもある」
「…」
「でも後悔したことは一度もない」
時折訪れた寂しさも孤独も、すっかり忘れてしまうほど吹き飛ばしてくれるものがあった。
総司の顔には自然と笑みが零れていた。
「姉さん、たぶん私は…もう一つの家族を得ることができたんだと思う」
「家族?」
「近藤先生がいて、土方さんがいて…食客の皆はまるで年の離れた兄弟ばかりだった。家と変わらない貧乏な暮らしをしていたけれど、毎日がとても楽しかった。家にも帰らなかったのは…きっと、日が暮れても遊びまわっている子供と同じだよ」
楽しくて仕方なくて、離れるのが嫌で留まり続けた。やがてそれが確かな絆となり家族へと昇華した。
(その後ろめたさだったのかもしれないな…)
本当の血のつながった家族よりも居心地の良い場所を見つけてしまった。だからこそ、家への後ろめたさが募り、年々顔を出すことができなくなってしまったのだ。
みつは少し呆然としながら、ゆっくりと「そうね」と頷いた。
「昔から…総司は夢中になると家に戻ってこなかった。夕方何度、旦那様と探し回ったか…手の焼ける弟だったわ」
「今でも変わらないよ」
遠く離れた場所でどれだけ姉に心配をかけていることだろう。両親を早くに亡くし婿を迎えながらも一家の大黒柱として振舞ってきた姉の心労を思えば、自分が家を出たことなんて大したことでもない。
姉はようやく納得してくれたようで
「そう言ってもらえるなら、少しは気が楽になるわ」
と笑った。
そうして二人でようやく団子に手を付けた。上品な甘さに舌鼓を打ち、その好物のおかげか雰囲気は随分和らいだ。皿に盛られた団子を平らげたところで、みつが徐に「先ほどの話だけれど」と切り出した。
「話って?」
「ええ…あなたが家のこともちゃんと思ってくれていることはわかりました。下働きに出たことにもわだかまりはないと」
「うん」
突然、姉は居住まいをただした。総司もつられて背筋を伸ばす。
「私は貴方が生まれた時のことをはっきり覚えています。ようやく男児が生まれた…亡くなった父にも顔向けできると生まれたばかりの貴方をまるで宝のように拝んでいました」
「…」
「常々、旦那様とも話をしています。いま沖田家は私が預かっているだけで、いずれ総司に渡すべきだと。もともと旦那様もそれを納得したうえで婿入りしてくださったのです」
「姉さん…」
「そろそろ身を固めなさい」
姉の眼差しがまるで使命感を帯びたように強く総司を射抜いていた。


日中の晴天は雲に隠れてどんよりとした雲が都の空を覆っていた。土方は屯所の自身の部屋で肘掛に身体を預けながらその空を眺めつつ、
(どうしたものか)
と考え込んでいた。するとそこに近藤が顔を出した。
「歳…どうした、何かあったのか?」
深刻そうに見えたのか近藤が眉を顰めて膝を折る。
「…大したことじゃねえよ」
「大したことじゃない顔をしていないぞ。何か悩み事か?」
「まあ…これだ」
土方は手にしていた手紙を近藤に差し出した。近藤は受け取ると訝し気に首を傾げた。
「これは…おみつさんの手紙じゃないか。総司に渡してくれと頼んだだろう?」
「すっかり忘れていた。総司にもおみつさんにもそれは伝えてある」
「だったら…」
「おみつさんに、総司には渡さずに処分してくれと頼まれた」
「ふむ…?何か事情があるのか?」
「さあな」
流石に自分宛ではない手紙の内容を確認しようとは思えなかったが、みつの言ったとおりに簡単に処分するのも憚られた。彼女が「他愛のない」内容だと笑うのならそれでも良いが、あの時のみつは心底、この手紙が総司にわたっていなかったことに安堵したように見えたからだ。
理由を聞いた近藤は困惑しながら手紙を返す。
「おみつさんがそういうのなら処分したらどうだ。気が進まないなら、おみつさんに返すと良い」
「…そうだな」
土方は受け取って文箱に入れた。近藤の言う通りいずれ機会があるときにみつに返すのが一番良い方法だろう。
すると近藤は「話は変わるが」と切り出した。
「歳、総司の縁談のことはお前に任せるからな」
「…」
「もともとは俺がおみつさんに託されたことだが、経緯を説明するのは俺の役目ではないと思う。…そうだろう?歳」
「…ああ」
勿論そのつもりだと土方は頷く。
曇天の空はそのまま夜に飲み込まれていった。







562


口の中に広まっていた団子の甘さが、まるで潮が引くようにスッと消えたように思った。
みつの真っすぐな視線は決して冗談などではなく、姉が心に秘めていた決意はきっとそういうことなのだろうと悟った。そして同時に総司が生まれてから二十数年、姉がそんな決意を固めていたことを知ったのだ。
「…でも」
「貴方が言いたいことはわかっています。自分は江戸に帰るつもりはない、沖田家は旦那様が継いでくれれば良い…そう思っているのでしょう?」
「…」
総司は言葉に詰まった。みつの言う通り、自分は『家』というものに固執するつもりはなく、婿である林太郎やその子供が継いでいくれればよいと安易に思っていたのだ。
みつは続けた。
「…私が生まれ、次の子も女子。そして貴方を身ごもったのちに父が亡くなり…母は武家である沖田家の断絶を恐れ、どうか男であれと願い、貴方を生みました。母はすぐに亡くなりましたからあなたはおぼえていないでしょうけれど…これで沖田家は途絶えることなく続くのだと安堵しました」
「母のことは…正直、何も覚えていません」
母の面影さえ総司の記憶にはなく、幼い頃はみつを母だと勘違いしていたくらいだ。そしてみつもまた母のことを話すことはなかったので、総司には自分がそれほどまでに望まれて生まれたのだという実感はない。
みつは少し寂し気に「そう」と呟いたが、すぐに表情を戻した。
「近藤先生に、あなたが縁談を何度か断ったと伺いました。それはもしや沖田家を継ぐつもりがないからですか?」
「…それは…」
「すぐに江戸に戻ることができないことは承知しています。けれど嫁を迎えて家名を継ぐことはできます。幸いにも近藤先生やお内儀のおつね様が良い縁を探してくださっているのですから、あなたも前向きに考えてはどうです」
「…」
姉の眼差しからその真摯な思いがひしひしと伝わってくる。責任感と義務感…そしてそれ以上に弟の身を案じ、もしもこの身に何かあった時に後悔することのないように計らってくれているのだとも理解できる。姉として、そして母としての言葉だ。
姉の思いに「わかった」と答えるのは簡単だろう。形だけの縁談を受け続けて「気に入らない」と断り続け…そうしているうちに姉が諦めてくれるのかもしれない。
(けれど…)
みつが真剣であればあるほど、偽りを述べて逃げることはできない気がした。たとえそれが姉にとって受け入れられない事実だとしても、
(僕の決意はもう揺らがないのだから)
近藤に加也との縁談を断った時と同じだ。
総司は改めて居住まいを正し、姉に向き合った。近藤や土方などは姉のことを変わらない美人だと持て囃していたけれど、昔に比べれば目元の皺が増えた。それだけ時が流れたのだ。
「姉さん…私は嫁を迎えるつもりはありません。家のことは…まだ考えられないけれど、とにかく縁談はもう受けないつもりです」
「…理由を聞かせなさい」
みつの目元が鋭くなった。その表情を見ると懐かしい気持ちが沸き上がった。
(姉さんは怒るといつも眉間に皺が寄る)
既に二人の子がいるみつは同じように自分の子を叱っているのかもしれない。そんなことを考えながら続けた。
「大事な人がいるからです。その人以外に一緒に生きていきたいと思えない…それは近藤先生にもお伝えしています」
「それは…花街の女ですか?それとも既にご亭主のいる方とか…」
「違います」
「…身分の違う方ですか?そういえば近藤先生も花街の芸妓を妾に迎えたと伺いました。英雄色を好む…と言いますから、複雑とはいえ仕方ないことかと思います。あなたもそれを望むのなら本妻とは別に…」
「違うって」
先走るみつに総司は苦笑したが、姉は「笑い事ではありません」と怒った。
「だったらどういうことなのです。あなたに意中の相手がいるのならそう言ってくれれば…」
「男だからだよ」
総司は何の躊躇いもなくそう言った。けれどみつはしばらく表情を失い呆然とし、
「…お、…男?」
と、乾いた声を絞り出す。
「そう」
「本当なの?…あなたには男色趣味がある、ということなの…?」
「そういう趣味かどうかはわからないけれど…その人しか好きになったことはないから」
「…そう…なの…」
想定していない答えだったのか、みつは黙り込んだ。過保護な姉はまた先走ってよからぬことを考えているのかもしれない。
総司は意を決した。
「相手は…土方さんだ」
「…え?…まさか、そんな…」
「嘘じゃない。本当のことだよ」
困惑する姉に、今度は総司が曇りのない目を向けた。そうすれば冗談などではなく、本当のことなのだと姉になら伝わるはずだ―――。



日が暮れる頃、土方は巡察に向かう前の原田に出くわした。
「浅野の様子はどうだ?」
原田は小荷駄方と十番隊の組長を兼任している。監察方から小荷駄方に異動させた浅野は彼の監視下にあるのだ。
「ん、まあ、そこそこに」
「…そこそこってなんだ」
原田の適当な返答に土方は少し呆れた。好奇心旺盛ながら呑気で楽天家の彼は、土方にとって監察であった浅野の裏切りがどういう意味かあまり理解していないのかもしれない。
「そこそこと言えば、そこそこだぜ?俺からすれば、監察から小荷駄方にあからさまに『降格』したんだから、張り切って仕事する方が異常じゃねえかと思うけどな」
「それは…」
「心配することはないと思うぜ。それに土方さんだって妙にやる気を出されたり、仕事放り出して遊んでるほうが怪しいだろう?」
「…そうだな」
毎回、厄介な隊士を原田の組下に置くのは彼の懐の大きさと、人を見る感覚が優れているからだ。それは野生の勘に等しいのかもしれないが、いつもフラットな態度で隊士と接する原田だからこそ気づけることがあるし、隊士たちも胸襟を開く。
「ああ、そうだ。組下の一人がこの間の巡察で怪我をしたんだ。大した怪我じゃねえが、一人隊士が足りない…浅野を加えてもいいか?臨時って形でいいからさ」
「…ああ、わかった」
土方としては浅野への疑いが晴れたわけではないが、いつまでも罰を与え続けるつもりはない。もともとは古参隊士として能力のある男なのだ。原田は笑顔で「じゃあさっそく」と浅野を呼びに行った。
すると入れ替わるように総司がやってきた。
「…土方さん。ただいま帰りました」
「ああ…どうした、疲れたのか?」
一日非番の総司は姉のみつとともに洛内を観光に出ていた。歩き疲れてたのかと思ったが、普段鍛錬を積む総司がそれくらいで疲労を見せることなどない。
「まあ…久しぶりに小言を頂戴しましたから」
「お前がマメに手紙を送らないからだろう。姉弟として心配するのは当然だ」
「そうなんですけどね…頑固なのは姉弟で似てしまったんでしょうねえ…」
「は?」
「何でもありません」
総司はそう言うと「部屋に戻ります」と話を切り上げた。






563


秋の空は移り変わりが激しい。昼間の突き抜けるような青さは夕暮れが来る前に灰色の雲に覆われ、空気を冷やす…久々に巡察に加わった浅野は視線を上げながらそんなことを考えていた。
朝のは突然、原田からの指示で十番隊の一員としてしばらく巡察に加わることになった。小荷駄方として武具の整備に明け暮れていた浅野にとって久々の外出であり、任務だ。しかし心の中に清々しいものは一切ない。
胸の中で閊える思い―――人通りを見つければ銀平の姿を探していた。
(もう一度会って謝りたい)
浅野はそんな思いに突き動かされていた。



土方は手桶に白の百合の花を抱え、西本願寺から北へ上り懐かしい壬生の道を歩いていた。
(すっかり静かになったな…)
毎月、この道を通るがそのたびに壬生の小さな田舎は素性の知れぬ浪人の姿がいなくなったことで、本来の静けさに戻っていく。八木家の人々は別離を惜しんでくれたが、近所の住人はようやく与えられた安寧に安堵していることだろう。
前方に新徳寺が見えてきた。壬生にいた頃の思い出と切り離せないのは芹沢鴨の存在だ。江戸にいた頃から何かと因縁のあった男は、この新徳寺で浪士組との決別を宣言し壬生浪士組を名乗ることとなった。尊大で横暴で苛烈な男――土方とは対立したがこの男がいなければ今の新撰組がないことは確かだ。
(供養してやる…気にはなれないが)
あの頃感じた『憎悪』はもうない。今はただ愛妾とともに静かに眠ることを願うのみだ。
そんなことを考えながら少し歩き、右へ曲がろうとしたところで見覚えのある人影を見つけた。
「…おみつさん」
八木邸の玄関から出て来たのはみつだった。土方の姿に気が付いた彼女は一瞬だけ戸惑った表情を見せたが「土方様」と近寄ってきた。
「このようなところでなにを…」
「ええ、こちらの八木家の皆様にお世話になっていたと伺いまして、一度ご挨拶にと思いまして。とてもご親切な方々ばかりで心が和みました」
みつは笑みを浮かべた。
すでに八木家から西本願寺の屯所へ移って数年が経つ。みつが挨拶へ行く義理はないはずだが、彼女らしい律儀な行動だ。
みつは土方が手にしていた手桶と花へ視線をやった。
「土方様は…お墓参りですか」
「ああ、この先の光縁寺へ」
「光縁寺…宜しければ私もご一緒してもよろしいですか?」
それまで穏やかな笑みだったみつが神妙な表情で訪ねてきた。光縁寺に誰が眠っているのか…総司か八木家の人々から聞いたのだろうか。土方は拒む理由はなく「どうぞ」と応じた。
光縁寺までの短い距離を共に歩く。みつは少し後方を歩いていたが土方は何となく彼女が自分と距離を取っているような気がした。
(新撰組の鬼副長と隣は流石に外聞が悪いか…)
とも思ったのだが、ここはみつのテリトリーではないのだから構わないはずだ。土方は少し考えたがしかし光縁寺までの距離は短く、その答えを出すには至らなかった。
住職に簡単に挨拶を済ませ、奥の墓地へと向かう。いくつも並んだ墓石の中でひと際新しい花が添えられている墓へと向かった。
「…こちらが、山南先生の…」
「ええ。隊士たちがよく墓参りに来ているようです」
丁寧に磨かれた墓石は月命日に訪れる隊士たちによるものだ。山南の人柄故なのか未だに墓参りをする者は絶えず、いくつもの線香の痕が残っている。
土方は持参した花を手向け、手を合わせた。みつも同じように従った。
「…土方様も時折いらっしゃるのですか?」
「月命日には必ず。総司と約束しているものですから」
「総司と?」
「今日はあいつは巡察で一緒ではありませんが…そのうち、顔を出すでしょう」
「そうですか…」
みつも多少は山南と面識がある。どういう経緯で彼が死に至ったのか知っているのかはわからないが、しみじみとした様子で墓石に刻まれた戒名に目をやっていた。
「…こちらもお仲間の…?」
「まあ…病で死んだ者や職務に殉じた者…それだけではありませんが」
「…」
山南の傍には新撰組所縁の者の墓が並んでいる。その件について深く話すつもりはなかったが、みつも新撰組の評判などは耳にしているため察することはできるだろう。彼らが処罰を受け粛清された者であろう、と。
みつは
「江戸で安穏と暮らしている私には想像のできないことばかりです」
と呟いたが、土方はあえて何も返さずに
「……帰りましょう」
と立ち上がった。「はい」とみつは頷いた。
ふたりは再び同じ道を辿る。相変わらずみつは少し距離を取って歩いていたが、
「…実は、総司に会うのが少し怖かったのです」
と切り出した。
「…なぜ」
「幼い頃にあの子を手放してしまった…その負い目があるのは昔から変わりませんし、これからも変わらないでしょう。けれど特に都へ行ってしまってからは何の報せもなく、ただ漏れ伝わる新撰組の噂話だけがあの子を知る手がかりでした」
「…」
その噂話には尾ひれがついたものが多いが、非情な真実も含まれている。遠い場所でそれを耳にするだけしかなかったみつにとってどれほど不安だったことだろう。
「鬼の剣士だとか、残虐非道な人斬りだとか…決してそれを信じたわけではありませんが、けれどあの子が変わってしまったのではないか、と思うことは多々ありました。呑気で明るいだけではいられない…特にこの都では厳しいと聞いています。だから少しだけ会うのが怖かったのです」
「…実際は…」
「実際は相変わらずでした。明るくて笑顔も変わらなくて…私の小言を少し面倒そうに聞いている。幼い頃と変わらなくて安心しました。でも…」
みつは不意に言葉を無くして足を止めた。土方も同じようにして振り返る。
「…おみつさん?」
「でも…本当は変わってしまったのかもしれませんね。私の前だからこそそういう仮面を被ったのかもしれない…宿でそんなことを思いました」
「…」
「土方様にはあの子のことがどう見えますか?」
壬生寺から南へ歩く。みつの滞在する宿は西本願寺の近くなのでそのまま送り届けることになるだろう。土方はその長い距離のなか言葉を選んだ。
「…俺には、総司が変わったとかそういうことはわかりません。なんせずっと共に暮らしていますから」
「…」
「正直に言えば…こちらに来てからは特にあいつにとって不本意なことも多かった。望まぬ仕事や…無情に人を殺さねばならぬ時もあった。それは否定できない事実です」
みつは顔を歪めた。
しかし土方は綺麗ごとばかりを口にはできなかった。芹沢を殺したのも総司であり、仲間の粛正に関わったこともあった。そして山南も最後は総司の介錯で死んだのだ。
決して汚れない子供のままだとは言えない。
「けれど…だからと言ってあいつの根底にあるものは揺るがない」
「…根底、ですか…」
「おみつさんに見せた顔はきっと偽りではないはずです」
(あいつはそこまで器用ではない)
総司が器用に仮面を被ったとしても実姉のみつなら看破できる程度だろう。素直で明るいみつの知っている総司は例えどんな状況になったとしても消えることなくどこかにいる。
みつは強張っていた表情を少し和らげて、再び歩き始めた。
「…そう言って頂けて安堵しました。もしかしたら私の方が急に大人っぽくなった総司に遠慮しているのかもしれませんね」
「そういうものですか」
「ええ…大切な弟に変わりないのに、疑うなんてお恥ずかしいことです。…でしたらあの子の話したことは嘘ではないのでしょう」
「…何か?」
「土方様…弟と特別な関係にある、というのは本当のことですか?」
その直球の問いは、土方の言葉を詰まらせた。








564


曇りのない真っすぐな眼差しは血の繋がった姉弟であることを示すかのように総司にそっくりで、顔の造形だけでなくそんなところまで似ているみつを目の前にして、土方は
「はい」
と、答えるしかなかった。
みつは一瞬狼狽えた表情を見せたが、「そうですか…」とその長い睫毛を伏せた。
姉として縁談を臨んでいた彼女にとって複雑な事実のはずだ。しかし総司から聞いていたことで心の準備ができていたのか取り乱すことはなかった。そのまま静かに尋ねる。
「…総司が縁談を断っていたのは土方様とのことがあったからですね」
「最初は…あいつには縁談を受けるように言いました。近藤の希望でもあり、俺とのことは関係なく家のことは大切だと…そう伝えたのですが」
「あの子はそう器用な子ではありませんね」
みつは苦笑して続けた。
「…縁談を断るためについた嘘であってほしいと思いましたが、総司がそんな嘘をつく必要はありませんし、真剣なのは顔を見てわかりました。納得するしかありませんね」
「…そう簡単に言えるものですか」
「…」
土方が尋ねると、みつは黙って歩き出した。土方はその後ろで彼女が出す答えを待つことにする。
みつは長い間黙り込んでいた。
彼女の葛藤を思い知る長い長い沈黙だった。どれだけ平気な顔をして取り繕っていても、本当は安定した普通の生活を送ってほしいと願うだろう。そもそも遠い都で新撰組の一員として活動することすら彼女にとっては耐え難いことなのかもしれないのに、その上兄弟子とそのような関係だと聞かされ、たった一晩で受け入れることなどできるはずはない。
口を閉ざしたみつとともに壬生を南へ歩き続け、そのうち西本願寺の大きな屋根瓦が見えてきた。彼女が滞在している宿はもうすぐだ。
「…あの子の人生なのですから、私が口出しすべきではないのでしょう」
沈黙を破ってみつの口から言葉が零れた。長い逡巡の果てに辿り着いた答えには力ない諦めとやり切れなさが含まれていた。
「おみつさん…」
「何度も申し上げますが…私には負い目があります。小さな弟を家から追い出した…そんな姉が、今更何を言えるというのでしょうか。あの子の苦労はいつも遠い場所にいた私には何もわかりません」
みつは振り返った。彼女の目尻にはうっすらと光るものがあったが振り切るように微笑んで見せた。
「総司に明日には江戸へ発つとお伝えいただけますか。…よろしくお願いします」
「…」
みつは軽く頭を下げてそのまま宿へと歩いていく。土方は「待ってください」と引き留め、懐から折りたたまれた手紙を取り出した。
「これは…」
「お返しします。中身は見ていませんが…もし、手紙の内容のなかで総司に伝えるべきことがあるのなら…」
直接伝えた方が良いと言いかけた時、俄かに西本願寺の前が騒がしくなった。
「医学方を呼べッ!」
「止血しています、あまり動かさないで!」
「オウ!」
島田の大音声のおかげで一番隊が帰還したのだとわかる。数名の隊士により戸板で運ばれていくのは隊士の一人だ。
するとそのなかにいた総司がふと土方に近づいて駆け寄ってきた。血まみれだが総司の動作に支障はないようなのですべて返り血だろう。
「土方さん、死番の隊士が一人やられました。我々の巡察の経路を知り、物陰に隠れていたようです。仲間が数人いましたが取り逃しましたが監察が追っています」
「怪我は深いのか?」
「いえ、浅手です。念のため南部先生をお呼びしていますが、出血の割には大したことはないはずです。下手人は仕留めました」
「そうか…」
「巡察の経路について再考しなければならないかもしれません」
「そうだな」
総司は事務的で淡々と状況を説明する。それは副長と組長としてのいつものやり取りではあったのだが、傍にいたみつは絶句していた。土方がふっと彼女の方へ視線を向けると、総司は姉の存在に気が付いていなかったようで
「あれ?姉さん…」
と驚いた顔をした。冷静沈着なみつもさすがに血まみれの弟にまともに言葉が紡げず、口元に手を当てて青ざめていた。
「総司…」
「姉さん、心配しなくても大丈夫だよ。怪我はしていないし、いつものことだから」
「いつもの…」
総司は平気だと伝えようとしたのだろうが、それが日常であると受け取ったみつはますます顔色を悪くする。そして「失礼します」と頭を下げてそのまま逃げるように小走りで宿に駆け込んでいってしまった。
総司は「あれ?」と首を傾げた。
「驚かせてしまったかなあ…でも姉さんがあんなに狼狽えるのを初めて見ました」
「…お前、今の自分の恰好が分かってねえな。顔も血まみれだ、女子なら怖がるに決まっている」
「そういうものですかね」
呑気な返答をする総司に内心ため息をつきながら、土方は「顔を拭け」と懐紙を差し出した。総司は素直に受け取ると頬にべったりと付いた血を落とした。
「…お前、おみつさんに言ったんだな?」
「何をですか?…ああ、土方さんのことか。駄目でしたか?」
「駄目ってわけじゃねえが…おみつさんは随分、考え込んでいたみたいだ」
周囲への気遣いを忘れないみつがあれほど長い沈黙ののちに「自分には何も言う資格はない」と結論付けたのだ。総司に真実を聞き、この一晩でどれほど悩んだのか察することができる。
けれど弟の方は
「でも、本当のことですから」
とあっさりと答えた。
「隠すこともできましたし、のらりくらり縁談を躱し続けることもできると思います。でも…もうそれで誰かを傷つけることはしたくないんです」
総司はみつが去っていった宿の方向へと目を向けていた。凛とした横顔と言葉は何の偽りもなく真っすぐで、姉にそっくりだ。
「…明日には江戸へ帰ると言っていた」
「そうなんですか…見送れるといいな」
みつは総司への罪悪感から距離があるのだという。それは幼少期に離れ離れになってしまったことで生まれた遠慮なのだろう。そしてまた総司にも血の繋がった家族というものを縁遠く感じ、気軽に接せられない部分がある。
客観的な立場にある土方には、それが『距離感』ではなく互いに互いを思いやる『優しさ』なのだとわかる。
(そういうところも含めて…姉弟だな)
「…何笑っているんですか?」
いつの間にか視線を戻した総司が首を傾げていた。
「何でもない。戻るぞ…怪我をした隊士が気になる」
「そうですね」
ふたりは屯所へと歩き始めた。




夕刻。
伊東の別宅での『勉強会』が終わると隊士たちは散り散りに屯所へ戻っていく。あまり大人数で行動すると怪しまれるため、それぞれが二、三人の組を作ってバラバラと戻るのだ。
しかし藤堂はその輪には入らずに一人で行動をしていた。伊東に心酔する門下生たちからすれば、試衛館食客であり近藤たちと距離の近い藤堂はまだ受け入れがたいところがあるのだろう。
「藤堂君」
書物をまとめていると伊東に声を掛けられた。傍にはいつものように内海が侍っている。
「先生…お疲れ様です」
「今朝は八番隊は巡察だったのだろう?そのあとに講義に参加してくれているのはありがたいが、疲れているのではないかな?」
「お気遣いありがとうございます。けれど先生のお話は興味深く時間があっという間に過ぎます」
「そう言ってくれると嬉しいな」
上品に笑う伊東の隣で内海は表情を変えずに藤堂を見ていた。
(警戒されているのだろうな…)
けれど藤堂は構わず「お伺いしたいことがあります」と切り出した。
「何かな?」
「今の西国の情勢や幕府の衰退…いまこそ尊王攘夷の志を果たすべきだというお考えは尤もだと思います。そもそも新撰組の前身である浪士組を組織した清河先生もそのような意図をもっていたと」
「清河八郎先生だね。大胆なことをするものだと驚いたよ」
「はい。あの時、新撰組…いえ、壬生浪士組は将軍警護のために都へ残りました。しかし将軍様は大坂へお戻りになり役目は果たせぬまま、そしてついには薨去されてしまった…」
「そうだ」
「最初は都の治安を維持することが大切だと、その思いで突き進んできました。池田屋も…隊士を多く募集したのもそのためです。しかし今、新撰組がどう在るべきなのかを考え込んでしまうのです」
「ほう…」
伊東が腕を組み、藤堂の話に耳を傾けた。
「今、俺は目的がない…空虚だと思ってしまうのです。戦は遠い場所で起こって、遠い場所で負けて…俺たちは宙ぶらりんのままなのに、毎日を変わらず同じように過ごしている。それで良いのでしょうか。何かすべきではないでしょうか」
「…さすが『魁先生』だ」
「そのあだ名はやめてください。自分でも不相応だと思うので」
「そんなことはない。真っすぐで素直な気持ちを隠さず吐露してくれる…なかなかできることではない」
「…」
伊東一流の過剰な誉め言葉だと思う。けれど胸に刺さらないわけではない。
(俺は…安心している)
ゆっくりと耳を傾けてくれる伊東の存在に、間違いなく安堵を覚えている。かつて山南がそうしてくれていたのと同じように。
伊東は穏やかに返答した。
「…新選組がどう在るべきか。それは私も常に考えている。けれど考えれば考えるほどドツボに嵌るかのように抜け出せなくなってしまう」
「そうです!その通りなんです、法度がある限り何も自由にはできない。こうして伊東先生とお話しすることさえも屯所では憚られてしまう…どうしようもない焦燥感に駆られます…!」
このままじゃだめだと声を荒げることが、法度が蔓延る新選組では罪になってしまう―――藤堂は自らの足に枷がついたかのような重さを感じていた。
息苦しくて、常に溺れているような。
しかし伊東はそんな藤堂を見て、未だに穏やかに微笑んだまま
「だからいっそ…壊すしかないのかもしれないね」
「…え?」
「やり直すんだよ」
と囁いた。






565


朝陽の昇らぬ早朝。
みつは風呂敷の紐をきつく結んだ。数枚の着替えと家族への些少の土産を包んでも大した荷物にはならず、女一人での江戸への帰路の邪魔にはならないだろう。
旅支度を整え、懐に土方から受け取った手紙を忍ばせる。
「…きっとこれで良いのです」
みつは自分に言い聞かせるようにつぶやいて、そのまま宿を出た。
名前も知らぬ東の山に朝陽の片鱗が見える。その方向へ向かって歩き始めた。


「ああ、ここにいたのか、総司」
朝餉を食べ終えた総司が屯所を出ようと草履の紐を結んでいると、近藤が急いでやってきた。
「近藤先生、どうか…?」
「おみつさんの見送りに行くのだろう?餞別に手土産をと思ってな。お前から渡してくれないか」
「これは…紅の筆ですか?」
「うん、最初は菓子の類が良いかと思ったのだが…お孝が見立ててくれたんだ。女子はこちらの方が良いとな」
渡されたのは紅や刷毛といった化粧道具だ。近藤なら絶対に思いつかないような女性らしい気の利いた土産だ。総司はありがたく受け取った。
「ありがとうございます。姉はきっと喜ぶと思います」
「うん。しかし遥々江戸からやってきたんだ、もう少しゆっくりされるのだと思っていたんだがなあ。よろしく伝えてくれ」
「俺も行く」
会話に割って入ったのは土方だった。
「土方さんも?そんな仰々しい見送り、姉は嫌がりますよ」
「あんな別れ方じゃ後味が悪いからな。近藤先生の分まで挨拶してくる」
「そうか、よろしく頼むよ」
近藤はそのまま会津・黒谷本陣に向かうようで数名の隊士を引き連れて先に屯所を出て行った。
総司は土方と、彼が雇ったという小者を連れて宿へと向かう。小者は江戸へ向かうみつに同行させるのだという。
「女子の一人旅だと何かと物騒だろう」
「…ありがとうございます。正直、それは心配していたところなので助かります」
それこそ「仰々しい」とみつは嫌がりそうだけれど、治安の悪いなか遠い都まで何事もなく来られた方が奇跡のようなものだ。誰かが同行してくれるなら総司も安心できた。
冬を予感させる空の隙間から、穏やかで優しい日差しが差し込んでいる。風だけが冷たく頬を撫で、通り過ぎていく。
久々の姉との再会と、あっという間に訪れたしばらくの別離。
総司の中に今までなかった『寂しさ』という感情が沸き立っていた。今まで手紙を数えるほどしか送っていないくらい、疎遠にしていたくせに。
そのせいだろうか、総司は自然と思い出話を切り出していた。
「…昔、一度だけ姉とかくれんぼをしました。あれは二番目の姉が嫁いだ次の日だったと思うんですけど」
「二番目の姉?」
「ええ、おキンと言います。私が物心つく前に嫁いでしまったのでほとんど記憶にありませんが…幼い子供ながら、家族が一人減って寂しかったのかもしれません。姉に構ってほしくて、かくれんぼをしようと駄々を捏ねたんです」
すでに婿養子である林太郎を迎え、第一子を産んだばかりだった姉は、その日忙しい様子だったが「仕方ない」と付き合ってくれた。
「小さな子供にしかわからないような物陰に隠れました。大人には視界に入らないような場所で息を潜めて…私のことを探し回る姉をずっと見ていた。もちろん最初は右往左往する姉が面白かったんです。そのうち出て行って『ここだよ』って…そう言うつもりだったんですけど」
総司は苦笑しながら続けた。
「…姉が必死になって私を探してくれるのが嬉しかった。二番目の姉がいなくなって、義兄と姉の間に子供が生まれて…子供ながら自分の居場所がなくなってしまったと思ったのかもしれません。でも探し回る姉を見ていると『大丈夫だ』と。自分は求められているのだとそう思えて……でも、いつの間にか寝てしまって、随分叱られました」
目が覚めたのはもう夕暮れが迫ろうかという頃。姉は林太郎と近所の住人の手を借りて大捜索する事態になってしまった。
「…手のかかる弟だな」
土方は穏やかに総司の話を聞いていた。昔のことを思い出すことすらなかった総司にはそれがなんだか今までに味わったことのないむず痒いような気持ちを抱かせる。
「手がかかるのは今でも変わらないでしょう。こんな遠くに来て、鬼なんて言われて、挙句…縁談は受けないと困らせて…」
「後悔してるのか?」
「いいえ」
総司は即答した。すると土方も「俺もだ」と頷いた。
言葉にせずともわかる、強い意志に奮い立たされる。
そうしているとみつの滞在する宿に辿り着く。しかし顔なじみである宿の女将は土方と総司の顔を見ると困惑したように「それが…」と話し出した。
「朝早くに荷物をまとめて出て行ってしまわれて…もうここにはおらへんのです」
「出て行った?」
「へえ。それに宿代は新撰組の方からいただいてるってゆうたのに、せめて半分払わせてほしいといわはって…」
無理矢理、半値の額を置いて去って行ってしまったというのだ。律儀なところはみつらしいが、見送りさえ拒むように去って行ってしまったことは気がかりだった。
「いつ、出て行きましたか?」
「へえ…一刻ほど前やったろうか…」
「ちょっと行ってきます!」
総司は宿を飛び出して走り出した。時間は経ってしまったが、女の足ならそう遠くへは行ってはいないはずだ。追い付けないわけではない…すると土方もあとを追ってやってきた。
「小者は宿に預けてきた」
「すみません、迷惑をかけて…」
「そんなことはいい。それより…やはりおみつさんはお前に何か話したいことがあるんだろう」
「縁談のことではなく、ですか?」
「たぶんな」
漠然とした答えであったが、土方は何か確信があるようだ。
二人は足早に歩きながら周囲を見渡しつつ、東へと向かう。時が経つにつれ大通りには人だかりができ、真っすぐ進むのが難しくなる。四方八方に視線を巡らし、姉の背中を探す。
(あの時とは反対だ…)
弟のかくれんぼに付き合って、探し回る姉。疲れ果てるほど歩き回り、けれど諦めることなく探し出してくれた。
姉は何のために江戸からやってきたのだろう。
縁談のことなら総司に手紙を出し、近藤に頼めば良いだけだ。それなのに小さな子供を置いてわざわざ一人でやってきて、『顔が見たかった』…とそう微笑んだ姉が一体何を隠していたのか、そんなことを考えることすらなくて。
(なんて薄情な弟なのだろう…)
自己嫌悪に駆られ、自然と歩幅が大きくなった。どうしてだろう。姉を見つけられなければ、何かを無くしてしまいそうな焦燥感が募る。
「総司、あそこ…」
「…姉さん!」
鴨川にかかる橋を渡りきった先――七條大橋のたもとにみつの姿を見つけた。声が聞こえたのだろう、みつは振り返り二人の姿を見ると足を止めた。
「総司…土方様…どうなさったのです…」
「どうって…姉さんが水臭いことをするから」
「…ごめんなさい」
総司たちを避けた自覚があったのかみつは素直に謝った。すかさず土方が「立ち話もなんですから」と近くの茶屋誘い、総司はみつの荷物をやや強引に奪い取る。みつは躊躇いながらも観念し、「わかりました」と茶屋に向かった。
人気のない茶屋だったが、一番奥の部屋に通してもらい、土方は女中に人払いを頼んだ。さらに
「俺も出ましょうか」
姉弟水入らずが良かろうと土方はみつに申し出たが、彼女は「いいえ」と首を横に振った。
「ここまで追いかけて御足労をおかけしたのです。きちんと事情は…お話します」
「そうですか…」
土方は総司の隣に腰を下ろし、みつと向き合った。三人の間に流れる重たい沈黙…いつになく冴えない表情をしていたみつだったが、一息ついて意を決したように懐から手紙を差し出した。
「…これは…」
「私が総司に宛てた手紙です。今回の上京の件と…相談したいことがあって、書き認めました」
「相談って…縁談のこと?」
「もちろんそれは気になっていたけれど…性急に事を進めるつもりはありませんでした。…相談というのは妹の、おキンのことです」
「おキン姉さん?」
意外な名前に総司は驚いた。
次女であるキンが嫁いで久しい。キンは江戸詰めの越後三根山藩家臣中野家に嫁いで以来、実家に顔を出すことはなく総司も曖昧にしか面影を覚えていない。姉も手紙のやり取りだけだという。
「…実はおキンには小さな子供が三人生まれているのですが…ご主人が病気をされ、今は生活が苦しいそうなのです。それで私のところへどうか金銭を工面してほしいとの手紙が…しかし我が家も裕福というわけではなく、それで…」
みつは視線を落としながらなんとも言いづらそうに言葉を紡ぐ。沖田家の貧困は昔からのことだが、姉はそれをあまり言葉に出すことはなかったため総司も見ていられなくなって、
「だったら私が仕送りします」
とみつを遮って申し出た。
「やっぱり姉さんは水臭いな、そういうことなら早く言ってくれればいいのに…いつも給金の使い道には困っていたし、屯所にいる限りは衣食住に困ることもないんです。だから…」
「違います。おキンに仕送りをしてほしいわけではありません」
「…だったら…?」
「あなたが今まで私に送ってくれたお金を…おキンに渡しても良いか、それが聞きたかったのです」
みつの言葉に総司は一瞬何のことがわからなくなり、思わず土方の方へ視線を向けた。彼もまた不思議そうに顔を顰めているだけで理解ができていないようだった。
「…もしかして、今まで姉さんに送っていたお金は…」
「一銭も手を付けていません」
「えぇ?!」
総司は驚きのあまり声を上げた。
上京して数年、新撰組は当時としては珍しい給金制を設けていたため、定期的に金が入ってくる。それにプラスして池田屋などの報奨金が加わっており、金に興味のない総司が姉に送っていた額は手を付けていないなら莫大な金額になるだろう。
もちろん実家の困窮を知っていたからこそ仕送りをしていたので、まさか姉が一銭も使っていないとは思いもよらなかった。
「ど、どうして…」
「…あなたの給金だからです。旦那様とご相談して、これは総司から預かっているだけだということで、ずっと貯めていたのです」
潔癖で真面目な姉らしい行動だと総司はため息をついた。自分の身に余る金には手を付けない…没落したとはいえ武家の娘として誇り高い生き方だ。
みつは続けた。
「でも…やはり良くないことだと思いなおしました。昨日、あなたが血まみれで仕事から戻ってきたでしょう?それを見て猶の事、あのお金には手を付けてはならないと…命を賭けて働いているその代償なのだと、思い知ったのです。ですから、おキンのことは私の方で何とかします。今日のお話は忘れてください」
みつが固い決意をもって総司と土方に頭を下げた。
何故、みつが別れを拒み早朝に宿を出て行ってしまったのか―――それは自分を恥じたからなのだろう。命を賭して働く弟に金の話をすることがどれだけ傲慢なことだったのかと。
頭を下げ続けるみつに総司は何も言えなくなってしまった。姉の凛とした美しい思慮深い生き方は尊敬できる…けれど、何か遠い。
(家族なのに…家族じゃないみたいだ)
「おみつさん、一つ良いでしょうか」
総司が何も言えないでいると、隣にいた土方が「この件に関して部外者ですが」と前置きして話し始めた。
「確かに…総司の給金はその働きに応じて分配されたもので、簡単に手にしたものではない。けれど、だからこそ…おみつさんに仕送りしている。それは家族として『そうしたい』と思っているからでしょう」
「…」
「あなたが言うように姉弟として距離があるかもしれない。姉として弟への罪悪感が在るかもしれない…しかし、果たして金に手を付けないでおみつさんが困窮することが、その金の正しい使い方なのでしょうか。俺には…それが総司の望みだとは思えない」
土方はちらりと総司に視線をやって(お前も何か言え)と言わんばかりに促してきた。
「…土方さんの言う通りです。私は…近藤先生のために働いて使命を全うできれば良くて、お金については興味がなくて…でもそのお金で姉さんやおキン姉さんが楽になるのなら、それが自分の望みなんです」
「総司…」
顔を上げたみつは戸惑っているように見えた。自分の志と総司の思いやりに決意を鈍らされたのだろう。総司はだからこそ、揺らぎようのない言葉を口にした。
「だって、家族だから」
どんなに遠く離れて暮らしていても、幼い日にかくれんぼをしたあの思い出が消えないように、家族であることは変わらない。たとえ互いに遠慮がちな態度しか取れなくても心の奥底では必ず繋がっている。
(不思議な感覚だな…)
総司は初めて、自分のなかにそのような感情があったことに気が付いた。決して自分が一人で生きているとは思っていなかったけれど、試衛館以外にも家族は在った。
姉は
「ありがとう」
と言った。美しい繊細でいて温かな笑みだった。
もしかしたら姉は、そう言ってほしかったのかもしれない。総司が下働きとして出て行ってから、ずっと―――。



茶屋を出ると秋なのに澄み切った青空が天を覆っていた。
姉はこのまま江戸へ戻るという。キンに一刻も早く金を渡してやらなければと口にした。そして
「あなたの仕送りは非常時に使わせてもらいます」
とやはり頑なな一言もあったが、あまりに姉らしいので「わかった」と答えた。気兼ねすることなく使ってほしいとも思ったが、いざという時に頼れる金があるというだけでみつたち一家も安心できるはずだ。
「俺は小者を呼びに行ってきます」
みつの泊まっていた宿に置いてきたのを呼びに行かなければならない。土方が申し出るとみつは「待って下さい」と引き留めた。
「姉さん、小者が江戸まで同行することはさっき納得したでしょう?」
「そのことはわかりました。仕方ないですから受け入れます。…そうではなく、土方様にお話があるのです」
「話?」
みつは土方の前に立ち、見据えると深々と頭を下げた。
「総司のことをよろしくお願いします」
「…おみつさん…」
「あなたたちのことを受け入れられるとはまだ言えませんが……どうか信じさせてください。総司の選んだ答えが正しいと。この子を幸福にするのだと…」
「姉さん…」
姉として複雑な胸中は変わらない。だが、総司の選んだことなら受け入れる―――姉の精一杯の気持ちが有難かった。
そして
「わかりました」
そう答えた土方もまた凛々しい横顔で頭を下げた。
晴れやかな青空の下、土方と姉との会話は恥ずかしい気持ちもすこしあったけれど、心が満たされていくようだった。
こんな日がいつまでもいつまでも続いていくのだ。
この時は信じていた。






566


「いったいどういうつもりなんでしょうか…」
内海がつぶやいた疑問に対して、伊東は「何が?」と惚けた。
伊東の別宅で定期的に行われている『勉強会』は、もともと伊東の門下にあった者たちに加え、新撰組の体制に疑問を持ち講義を受けて伊東に偏ってきた隊士たちが集まり、連日盛況だった。そこに最近は七番隊組長の藤堂が加わっているのだ。
内海は渋い表情だった。
「惚けないでください。藤堂君…藤堂先生のことです。彼はもともと大蔵さんの門下とはいえ、試衛館食客の一人です。他言無用を条件に勉強会への参加を許可しましたが…」
「彼は本当に他言無用を貫いているのだろう?そして熱心に私の話に耳を傾けている」
「…確かに、その通りですが」
藤堂が参加するようになってから監察の目が厳しくなったということはない。表向きは講義の延長とした課外授業だが、幕府に寄りがちな新撰組とは反対に尊王に傾くような内容となっている。藤堂が土方あたりに密告したならば、咎められそうな集会だが今のところはその様子はない。
内海は藤堂を疑うが、伊東は「杞憂だ」と笑った。
「『魁先生』…その言葉通り、彼は真っすぐで猪突猛進でありそこは美徳とすべきところだが、決して器用ではない。彼に間者のような真似はできまい」
「でしたら、いざという時は裏切ってこちら側に付くと?」
「直接的な言い方だな。…『いざという時』がいつかなんてわからないし、まだ彼らと対立しているわけではない」
「『まだ』でしょう?」
言葉尻を捕らえる内海に、伊東は苦笑で返した。
「…彼を懐柔するのは簡単だよ。彼が求めている言葉や態度は手を取るようにわかる。…藤堂君は、亡き山南総長の代わりを私に見ているのさ。法度という暴力ではなく互いに論じることで道を模索すべきだと、そういう理想を私に求めている」
「…彼は山南総長を追って試衛館に入門したという話がありますから、それはその通りなのでしょう」
「うん…私が総長を嵌めた張本人だとも知らずに、ね」
「…」
いつは数年前に思いを馳せる。
あの頃、山南は土方との考え方に違いに悩んでいた。そして与えられた職務を全うできない自分のままならない姿に追い詰められ、支えてくれていた芸妓を失うかもしれないと思ったことで箍が外れた。伊東としてはそのまま尊王の考えに傾倒してくれれば良いと思ったのだが、脱走を選ぶとは思いもよらなかった。山南には例え苦境に陥ろうとも揺れない信念があったのだ。
しかし藤堂はどうだろう。自分の知らないところで恩師が亡くなり、その理由もわからないまま納得しろと詰め寄られ、表向きは頷いたとしても心の中では疑念が燻り続けたはずだ。その気持ちが募って、伊東の懐に逃げ込んでもおかしくはない。しかし、
「あと一歩…足りない」
藤堂の中で自分が『試衛館食客の一人である』という気持ちはいつまでも在り続ける。それを翻意させるには何かきっかけが必要なはずだ。
「…その顔、嫌なことを考えていますね」
内海は目ざとく指摘する。名前が『伊東』に変わる前からの古い付き合いである内海には察せられてしまうのだろう。だが、伊東は微笑みで聞き流して「そういえば」と話を変えた。
「会津から馬鹿げた依頼が来ているらしい。三条大橋の高札警護依頼、だとか」
「…高札の警護?三条大橋とは言えば、最近法度書きの高札が鴨川に捨てられているという話ですが…まさかその高札ですか?高々高札の?」
「そう。なんとも幼稚なことだ」
伊東が吐き捨てると内海も同調しため息をつく。
伊東は手にしていた書物を置き、立ち上がるとそのまま縁側に向かった。穏やかな秋の陽気は決して心を慰めることはない。
「…これだから、幕府も一橋慶喜も嫌いだ。長州征討も帝の勅命を無視して中止し、家茂公の喪に服すという理由で休戦の勅を出させた…さらには天子様を侮辱するだけではなく、己の体面のために将軍職を固辞し…そのような幕府の配下である新撰組にいる自分が、このほど心底情けなくて仕方ない」
「…同意します」
「一橋慶喜が将軍職に就いた時こそ…『いざという時』なのかもしれないな…」
縁側に冷たい風が吹く。
静かな秋の日和をかき乱すように。



一方。
「高札の警護ぉぉ?」
近藤と土方が会津藩から寄せられた『三条大橋の高札警護』の依頼について話すと、原田は心底面倒な顔を見せた。
「左之助、気持ちはわかるが話を聞いてくれ」
「いんや、聞かなくてもわかるぜ?長州許すまじの高札が何度も引き抜かれ鴨川に捨てられちゃ、幕府の面子が立たない。だからとっ捕まえろってことだろう?」
「…有体に言えばその通りなんだが」
原田らしい解釈に近藤は苦笑するしかない。しかし彼は続けた。
「幕府の要人警護ってなら喜んでやるけどさ、相手は突き刺さってる棒っ切れだぜ?動かねえ、喋らねえやつを何が楽しくて警護なんかしなきゃならねえんだよ、三十人もかけて!」
原田が呆れていたのは警護対象に対する隊士の規模だ。せいぜい数人かと思いきや、監察方などを巻き込んで三十名ほどになるという。いつもなら悪乗りして「やってやる」と引き受ける原田も文句を言わずにはいられなかったのだ。
すると土方が「いいから話を聞け」と続けた。
「長州処罰の高札を引き抜くって言うのは、幕府の決定に不満を持つ政治犯の仕業だ。将軍不在のいま、悪戯であったとしても幕府の威信が丸つぶれになるような行為は例え人数をかけても取り締まるべきだろう」
「だからって三十人も必要か?十番隊だけで十分だろう」
「念には念を入れるだけだ。…高札警護が終わるまで十番隊は毎日の巡察を免除する。監察が奴らを見つけるまで、十番隊は近くの宿を借りて待機するだけだ」
「なんだ、それを早く言ってくれよ」
原田はニヤッと笑って「わかった」と頷いた。現金な彼は日頃の巡察に比べれば楽な任務だと受け入れたのだ。
土方が詳細は追って相談すると告げると原田は軽い足取りで部屋を出て行った。それでも「面倒だ」と駄々を捏ねるかと思っていたので土方は安堵したが、近藤は深いため息をついた。
「…幕府の高札警護は重要な任務だと思うが…左之助の言う通り、傍から見ればたかが高札を三十名で警護とは、情けない話かもしれないな」
近藤が会津からこの任務を受けた時、『幕府から直々の依頼』だということで舞い上がっていたが、よくよく考えればそうしなければならないほど幕府の威信というものは揺らいでいるということだ。
「長州征討は家茂公の喪に服すために休戦。民衆には『敗戦』だと言われ一刻も早く立て直しが必要だというのに、一橋公はいまだ将軍職に就かれず…十一月に諸侯が集まって会議を催すようだが、それもどうなるか…。刻一刻と異国が迫っているというのに、内戦ばかりに目を向けていてはこの国の行く先は真っ暗だ」
「…天子様は揺るぎない尊王攘夷のお考えをお持ちだ。そう心配することはないだろう」
「そうかなあ…」
「それよりも、局長がそういう不安を表に出すな。高札警護だって馬鹿らしい任務かもしれないが、失敗すれば猶の事笑われる。万全を期すために三十人を配するんだから、堂々としていろ」
「…お前は相変わらず、迷いがなくて良いな」
近藤はそう言って頷いた。土方からすればそのような政治的な事情に感情移入するほど暇ではないだけなのだが、新撰組局長として表立った活動をする近藤には思うところが色々とあるのだろうと思う。
そうしていると「失礼します」と総司が顔を出した。
「巡察の報告に来たのですが…」
「ああ、入っていいぞ」
近藤に手招きされ、総司は中に入った。
「巡察の方は特に問題ありません。先日怪我をした隊士も復帰しましたが、任務に支障はないかと思います」
「そうか」
「後遺症がないようで何よりだな」
土方の淡々とした返答と近藤の穏やかな笑み。総司は相変わらず対照的な二人の様子に安堵しながら続けた。
「それから…市中で河上らしき人物の目撃情報がありました。監察方の協力者からです」
「河上彦斎か…」
「彼も顔を知られてきましたから、そろそろ都から引き揚げそうなものですが…未だとどまっているあたり何か目的があるのかもしれません」
総司の報告に土方が「そうかもな」と剣幕を鋭くする。先日、三浦啓之助脱走の件との関わりから監察に言い含めて警戒させているが、未だに尻尾を掴めないでいた。近藤は訊ねた。
「俺はその、河上という男に遭遇したことがないが、いったいどういう男なんだ?」
「剣術については私と互角くらいかと思います。…身の丈は低く小柄で色白で…一見すると女と見分けがつきません」
「そうなのか、想像と違うなぁ」
京を騒がす人斬りと聞けば、誰もが体格の良い男を想像するだろう。しかし河上は一見すると貧弱な容姿で突出したものはないが、人の心の隙間に入り込んできそうな妖しい笑みを浮かべている。口を開けば残虐な人間性が垣間見れるが、決して無知というわけではない。
「歳、もしかしたら河上は高札の件にもかかわっているのかもしれないな?」
「…そういうことに加担するような男とも思えないが…」
「高札?何のことです?」
総司が尋ねると、近藤は高札警護について簡単に説明したのだった。





567


三条大橋西詰近くの三条会所に十番隊隊士ら十数名が待機し、町屋などに監察が配備につくこととなった。
最初は物珍しい任務に意気揚々と仕事にあたっていた隊士たちだが、数日が経つと喋りも動きもしない高札の警備にはさっさと飽きてしまい、ただ時間をつぶすだけの任務となっていた。
「つまんねぇなぁ」
その先陣を切っていたのが組長である原田なのだから、だれも止めるものはいない。
近藤は『幕府から依頼された重要な任務だ』と仰々しく言っていたが、幕府に恨みを持つ討幕派の仕業…とも言えず、ただの悪戯なのだ。しかしその悪戯さえも『幕府の権威を汚す』行為なのだと憤慨してしまうあたり、組織の弱体化が見え隠れする。
深夜、監察方として任務にあたる大石が会所に顔を出した。元十番隊の大石だが今ではすっかり監察方の一員として小汚い物乞いに身をやつしている。大石と入れ替わるように十番隊に加入した浅野にはその姿がどこか自分と重なって見えた。
大石は原田に短く耳打ちしたあと、さっさと会所を出た。原田は大きなため息をつくと首を横に振り、収穫がないことを隊士たちに知らせ皆が落胆する――幾度となく繰り返してきたやり取りだ。
「浅野」
原田から手招きされ、浅野は「はい」と近づいた。すると懐から財布を取り出すとジャラジャラと小銭を渡した。
「酒とツマミ、買ってきてくれねえか?」
「…まさかここで飲むおつもりですか?」
「大石から今夜は動きはなさそうだってことだし、バレなきゃ大丈夫だ。全員少しずつ飲めればいい」
「しかし…」
「隊士たちも辟易してる。士気に関わるだろう?」
「…」
浅野は周囲に目を向けた。壁にもたれ掛かり居眠りをする者や、つまらなそうに武具の手入れをする者、苛立ちを隠せず目つきが鋭くなっている者もいる。原田の言う通りいざという時にこの状態では失態を犯しかねない。
「…わかりました」
「悪いな」
原田の軍資金を預かって、浅野は会所を出た。
この辺りは監察方の頃によく出入りしていたので夜更けまで開いている酒屋を知っているので、戸惑うことなく店を目指して歩き始めた。
十番隊の一員として巡察に参加するようになってから半月ほど。最初は顔を晒して市中を堂々と歩く行為そのものに抵抗があった。誰かに正体を露見するのではないか――そんなのは杞憂でしかなく、浅野はただの『新撰組隊士』となっていた。
(これでいい…)
池田屋以前からの古参である浅野はこれまで数々の同志の死を見てきた。失態を犯した者、規律から逃れた者、指示に逆らった者――様々な理由で切腹が言いつけられ、むざむざとこの世を去った。その者たちに比べれば降格で済んでいる浅野は幸運な類だろう。
しかし。
(…これでいいのか…?)
自分へ問いかけずにはいられない。副長助勤でもなく、監察でもなく、『金山福次郎』でもなく、ただの浅野薫となってしまった自分にどんな価値があるというのか。
「…おっと、ここだ」
深く考え事をしていたせいで酒屋を見過ごすところだった。店にはまだ明かりが灯っていたので安心して暖簾をくぐろうとする。
すると
「あっと…」
店から出てくる客に肩がぶつかった。小柄で細身の男は大切そうに徳利を抱えていた。
「すみません」
「…」
夜も更けた暗さでは相手の顔は見えないが彼は浅野を無視して顔を逸らし、そのまま小走りに逃げるようにして去っていった。剃りたての月代だけが月明りに照らされている。
(銀平…?)
何故だか銀平の姿が重なって頭をよぎった。だが彼は下戸でましてや月代なんてあるわけがない。そんなわけはないとすぐにかき消して、暖簾をくぐったのだった。


翌日。
毎日の稽古を終えた総司は井戸にいた。
「空振りらしいぜ」
稽古の当番を終えた永倉が同じく当番であった総司に話しかけてきた。
「高札の警護ですか?」
「ああ。引き抜かれているっていっても今年になってまだ三度しかないんだから仕方ないよな。こればっかりは左之助に運があるかどうかだ」
夜通し見張りを続ける十番隊の隊士たちはこのところげっそりとした表情で屯所に戻ってきては仮眠を取り、夕刻頃にまた出かけていくという日々を繰り返していた。楽な任務だと高を括っていた隊士たちも五日も続けばうんざりするようになったらしい。
永倉は「二番隊に振られなくてよかった」と心底安堵して続けた。
「連日、動かない棒っ切れをただただ眺めているなんて俺には耐えられないな」
「原田さんだって耐えられないんじゃないですか」
「昨日は酒を飲んだと言っていたぞ」
「…それ、バレたら土方さんに大目玉を食らいますよ」
永倉が「黙っていてやれよ」と苦笑した。高札警護に一番辟易としているのは原田で、永倉によく愚痴っているらしい。
「そのうち女でも呼ぶと言い出すかもな。おまささんのところに帰れないって嘆いていたから」
「それはお気の毒ですけど、さすがに宴会は怒られますよ」
「俺もそう思う」
総司は永倉の話を聞きながら手拭いを水に浸して固く絞り、それを首元に当てていた。冷たい井戸水が心地よく身体を冷やしていくが、その様子を見て永倉は首を傾げた。
「…なんだ、暑いのか?今日は指導だけで楽な稽古だっただろう?」
「ええ、そうなんですけどどうも身体が火照って…汗はかいていないんですけど」
「寝不足か?大事になる前に養生した方が良いな」
「肝に銘じます」
池田屋で昏倒したのは周知の事実なので忠告はありがたく受け取る。永倉は「じゃあな」と手を振って去り、入れ替わるように斉藤がやってきた。
「悪いが水をくれ」
「どうぞ」
総司が桶を差し出すと斉藤は両手で顔を洗い始める。それを二、三回繰り返すと「ふぅ」と大きな息を吐いた。その目元には微かなクマが見えた。
「寝不足ですか?それに…なんだか久しぶりな気がしますね」
「ああ。このところは一番隊とは巡察が重ならなかったからな」
「それもありますけど…」
非番の日は常に斉藤の姿は屯所にはなく、総司と顔を合わせる機会はなかったので少し不思議に思っていたのだ。
総司は声を潜めて尋ねた。
「…何か密命でも?会津からとか…」
「そういうわけではない。ただ…やるべきことがあるだけだ」
「やるべきこと?」
総司が食い下がると、斉藤はもう一度顔を洗って「言えない」とはっきり答えた。
「沖田さんに関係がない、とは言わないが今は少なくとも関係はない。俺のことは気にしないでくれ」
「はぁ…」
斉藤は総司の疑問を今まで聞き流すことが多かったので、そこまで断言するのは珍しい。それほど詮索されたくないことなのだろうか。
「無理しないでくださいね」
「ああ」
斉藤はそのまま背を向けて去っていく。自室に戻るのではなくそのまま屯所を出るようだ。
「…ケホッ」
総司は永倉や斉藤の前で堪えていた咳を吐き出した。
「風邪かなあ…」
木枯らしの乾いた風は身体に悪いという。きっとその類だろうと思いながら、総司は自室へ戻ったのだった。






568


心に空いた穴は埋まらないまま、抜け殻のようにこの身体はただただ息を吐く。
手に残った感触だけが生々しくて、夜になると自分のしでかしたことに震えた。
逃げて、遠くへ行けばいい。
やり直せる。すべて忘れてこの地を離れれば、何もかもを一から始めることができるだろう。
でも、どうしてだろう。
この足は動かず、ここにとどまることを選んだ―――。


その日も昼過ぎから行われた『勉強会』は夕刻頃にようやく終わりを迎えようとしていた。
藤堂は日に日に熱の入る講義にただ耳を傾けていた。最初は幕府の末端である新撰組の屯所では行いづらい反幕的な内容を分かりやすく講義していた伊東だが、その話は徐々に尊王攘夷へと傾き、幕府を批判するものへと変わった。
特に冗長に語られたのは水戸天狗党の話であった。
天狗党は水戸の熱心な尊攘思想家の一派であり亡き主君である徳川斉昭の遺志を継ぎ、元治元年に蜂起した。幕府の制止に応じず抗戦を続けたが斉昭の実子である一橋慶喜を征討軍総督に据えることで加賀にて降伏。ただ国を憂い、攘夷を訴えた若者たちはその後、その主君である慶喜によって斬首された。例えやり方が強引であったとしても、武士として切腹も許されず斬首に処された若者の無念は藤堂にも理解できる。
「幕府に楯突く勢力への見せしめだとしても、公を慕って降伏した志ある者を無残な刑に処するなど言語道断。その報せを聞いた時から私は尊王攘夷の決意を固くしたのです」
伊東の瞳に昏く固い決意が宿る。水戸に遊学し尊王攘夷を学んだ伊東からすれば例え共に挙兵しなかったとしても、心の同志を多く失ったのだ。
すると受講生の一人が手を挙げた。
「質問です!参謀は一橋慶喜が将軍職に就くことについてどうお考えですか?」
血筋的にも立場的にも時期将軍は一橋慶喜が就く可能性が高い。その場にいた者たちは臣下をやすやすと切り捨てる上司に不安を持ったことだろう。
伊東はしばらく考え込むように二、三度扇を掌に打ち付けた。藤堂は息を飲んで答えを待った。
「…私は一橋慶喜が嫌いです。天狗党の一件だけではない、帝の意思を無視した休戦協定や前線に出ぬ無責任な戦いぶりも…すべてが幕府の弱体化を示している」
「でしたら…!」
「将軍職に豚一公が就く…その時こそ、新撰組に変化が必要な時でしょう。我々は佐幕のみを一辺倒に説く無能な狼に成り下がってはならぬ!」
伊東らしくない強い語尾、そして鼓舞するような物言いに受講生たちはワッと沸き立つ。その一人である藤堂もまた胸が躍った。
『変化』
その言葉は藤堂が求めていたものだ。
(やはり、新撰組を変えてくださるのは伊東先生しかいない…!)
佐幕だとか攘夷だとかそんなことはわからない。ただ伊東は伊東なりの信念をもって新撰組を変えようとしている。暴力ではない、力でもない、法度でもない―――山南のように言葉を尽くして。
居心地が悪いと感じていた屯所外での勉強会が、今は心地よい。試衛館食客として言いようもない溝を感じるあの場所とは違う。
藤堂が高揚感に包まれているうちに講義は終わった。欠かさず講義に参加する藤堂の姿を見て受講生たちも態度を軟化させ、「お疲れ様です」と数名の隊士たちが声をかけて去っていく。
「藤堂君」
人が少なくなったところで伊東が声をかけてきた。
「伊東先生!今日の講義も大変参考になりました!」
「そうか、それは良かった。…ところで藤堂君を信頼して一つ頼みがあるのだが、聞いてもらえないだろうか?」
「は…はい!」
藤堂は即答し、伊東に従って別宅の奥の間に入った。そこはいくつもの書物が積まれた書庫のようになっていて、それ以外は文机くらいしかない。
「…山南さんの部屋みたいだ…」
藤堂は思わずつぶやいた。西本願寺移る前の前川邸にいた頃、山南の部屋は同じように書物に埋もれていた。
『ついつい買い求めてしまった』
照れ臭そうに本を読み漁る山南の姿はまだ目に焼き付いている。
伊東は微笑んだ。
「いくつか山南総長の本も受け継いだからね。君には懐かしいかな」
「はい…!」
「それで頼みたいことというのは…皆には内密にお願いしたいのだが」
「もちろんです!」
伊東が声を潜めたのに対し、藤堂は声を張り上げる。「すみません」と頭を掻くと、伊東は苦笑して頷いた。
そして文机の上にある文箱から一通の手紙を取り出した。
「これは…?」
「この手紙を私の友人に渡してほしいんだ。古くからの友人で、いま都にいる」
「はぁ…しかし先生ご自身でお渡しされては…?」
友人が都にいるのなら待ち合わせでも何でもできるはず。藤堂は率直に素直な疑問を口にしたが、伊東はさらに声を落とした。
「私が会うと非常に疑われることになってしまうんだ。その友人は尊王攘夷の志が熱く…とても新撰組の参謀が会えるような相手ではない。それにこの頃は監察の目も厳しくなったように思う」
「…監察が先生を疑っているのですか…?」
「どうだろうか。土方副長は私のことをあまり好いてはいないし、別宅を持って隊士たちを呼んでいることにも気が付いているだろうからね」
「それは…」
監察とは土方のことを指す。二人の間には決して友好な関係が結ばれているというわけではなく、近藤を間に挟んで距離を取り続けている。藤堂は河合の一件から土方を避け続けているのでますます敵意を感じてしまう。
「私は友人との接触を決して監察には知られたくない。君なら『試衛館食客』としての肩書があり、簡単に疑われることはないはずだ」
「…しかし…手紙の内容はどういったものでしょうか…?」
「私の友人の命がかかっている。どうか内容は聞かずに届けてくれないだろうか」
伊東の両手が藤堂の肩を強くつかむ。彼の美貌を目の前にすれば拒める者などおらず、また今の藤堂には断る理由など一つもない。
「…わかりました!お任せください」
「ありがとう!恩に着るよ!」
「先生、代わりと言っては何ですが、一つだけお願いがあるのです」
「なんだろうか、私にできることならなんでも叶えよう」
藤堂は手紙を握りしめながら伊東を真っすぐに見つめた。
「俺のことを…『試衛館食客』として扱うのは止めていただきたいのです。最近俺は…そう呼ばれることに、どこか居心地の悪さというか、違和感を覚えてしまうのです」
「…わかった。そうしよう」
伊東はその美貌で頷いた。藤堂は言いようもない喜びと安堵を覚えたのだった。



十番隊が高札警護に当たって十日ほど。
高札はもちろん動くこともなく、ただそこに在って役割を果たし続けている。もうこのまま何も起こらないのではないかという疑念さえ生じさせるほど平穏で、だからこそ十番隊隊士たちは終わりのない仕事の過酷さを身に沁みて感じていた。
その筆頭が原田で土方に窮状を訴え、ようやく一日だけの非番を与えられることとなった。
「今日は一日好きに過ごせよ!」
原田は隊士たちにそう告げると、自分は足早に家族の待つ家へと戻っていった。そして隊士たちも各々自由に短い休暇を過ごすべく、散り散りに散っていく。浅野も隊士の一人に居酒屋に誘われたものの、「行きたい場所がある」と断りを入れて、屯所を出た。
久々に与えられた非番は浅野にとっては随分久しぶりの自由な時間だった。監察方から小荷駄方へ降格処分になってからは自由に行動することすらできずにいたのだ。
(銀平を探そう…)
浅野は足早にかつて『金山福次郎』としてのテリトリーであった場所へ足を向けた。幸いなことに商家の裕福な次男坊に扮していた『金山福次郎』と今の浅野ではまるでイメージが違うのか、誰一人として気が付く者はいない。銀平の家である箭内屋の前に立った。
がらんとした空き家は埃が溜まり始めていた。ここに銀平が戻ってきた様子はなく、あの日から何も変わったところはない。しかしその場に残る雰囲気や空気感には銀平のあどけない笑顔が染みついているように思う。
「本当に…お前がやったのか…?」
浅野は思わず問いかけていた。
土方の話によると、銀平は浅野も出会った河上に唆されて三浦啓之助を襲ったということだった。父親の無念を晴らそうとしたのだろうが、しかし下僕である芦屋に庇われて彼は腕一本を失ったらしい。
最初は信じられなかった。銀平の手は繊細な和菓子を作ることしか知らなかったはずだ。それなのに芦屋の腕を切り落とした…銀平のなかにあった仇討という復讐心がそうさせたのだとしたら、やはり犯人が分かっていながらそれを銀平に伝えらなかった自分は意気地なしだったのだろう。
銀平はそのあと姿を消した。
(一言、謝らせてくれよ…)
それさえも拒むように、去って行ってしまった。
ぼんやりと店を眺めていると、隣の町屋からガタンっと物音がした。大家だろう…顔見知りに会うのは流石に拙いと思い、浅野は店を離れた。
そのままあてもなく銀平を探し続けた。新撰組を恐れて洛外に逃げ延びたに決まっている…普通ならそうするだろうとわかっていたのに、彼の気配をどこかに探してしまう自分がいた。
謝りたいなんて、ただの自己満足だろう。けれどこのまま銀平と別れるのは、一生の後悔となって胸の中に残り続ける気がした。
(俺はとっくに監察方失格だったのかもしれないな…)
どんなに親しくても、割り切った関係を築けることこそ監察方に必要な才覚だろう。銀平に固執する自分はとっくの昔にその枠を外れていたのだ。
そのまま時は無情に過ぎていき、太陽は沈んだ。
「…戻るか」
浅野は花街と言われる歓楽街を通り、屯所を目指した。降格処分を受けた身として夜中に遊びまわるという選択肢はなかった。
「…ん?」
すると一件の居酒屋が目についた。特に変哲もないはずだが、その扉の隙間からちらりと見えた若い男が銀平に似ていたような気がしたのだ。
(まさかな…)
こんなところにいるわけがない、と思いながら浅野は自然を装って暖簾をくぐりその扉に近づいた。そこには長い刀を腰に差した男たちが数名いて、そのなかに目に入った若い男が混じっていた。彼の横顔と剃りたての月代しかわからず、彼が酌をして回っているのが見えた。
(いや…そんな、まさか…)
似ている。銀平に似ている。
だが彼には不似合いな月代も物騒な刀も持っていないはずなのに。






569


突然腕を引かれ、浅野が驚いて振り向くと、手拭いを頭に巻き小汚い衣服を着崩した男がいた。常人なら振り払ってしまうだろうがもともと監察にいた浅野にはすぐに分かった。
(大石…!)
彼は大石鍬次郎。もともと十番隊に隊士で浅野と入れ替わるように監察方に配属された男だ。監察方としてのキャリアは短いがすっかり『らしく』なっている。
「うちの店の方が開いてまっせ」
客引きのつもりなのか誘われたので、浅野も「じゃあ」と応じた。大石に引きずられるように銀平に似た若者がいる居酒屋から離れ人目のつかない物陰に入る。
大石はすぐに口調を変えた。
「悪いがあの居酒屋には立ち入らないでくれ」
大石は今回の高札警護に参加する監察の一人でもある。十番隊は非番を与えられたが、彼らの任務は遂行中であるのでその一環なのだろう。元監察である浅野には大石の言い分はすぐに理解できたが、しかし尋ねずにはいられなかった。
「…中にいるのは、どういう連中なんだ?」
「土佐だ」
「土佐…今回の高札の件に関わりがあるのか?」
「まだわからない。先日の薩長の同盟以来、土佐は佐幕か討幕か微妙な立場にある。それ故に慎重に物事を進めている」
「…」
大石は淡々と語る。
もともと口数の少ない男だが、彼は実弟を同志に殺されて以来さらに感情が見えなくなった。新撰組を憎んでいるかもしれない男を監察に置く…土方の采配は時に難解だ。
「…じゃあ、そういうことだ」
大石は用件は終わったとばかりに戻ろうとしたが、浅野が「待ってくれ」と引き留めた。
「一つ尋ねたいことがある。…中にいた若者…小柄で剃りたての月代の男だが、何者か知らないか?」
「…」
大石は少し沈黙したが表情は変えなかった。
「…最近加わった小間使いだろう。正体は知らぬ」
「そ、そうか…」
「話はそれだけだな」
そう念を押すと、今度こそ浅野を置いて大石は去っていった。屈強な体格が人ごみに紛れてその姿が溶けてわからなくなっていく。
大石の答えに浅野は落胆と安堵を同時に感じた。大石の言うように土佐は微妙な立場にあり、いつ態度を翻してもおかしくはない。
(…危険な連中に関わってほしいわけではない…)
浅野はちらりと銀平に似た若者がいた居酒屋へ目を向けた。暖簾の向こうにはもう何も見えなかった。



翌日、伊東の手紙を携えて藤堂は町に出た。
手紙のあて先は『木田善兵衛』殿となっていて、伊東の段取りでは人気のないある寺で待ち合わせているということ…藤堂はそれ以外のことを何も聞かなかった。
(根掘り葉掘り聞くのは伊東先生を疑っているのと同じこと…)
藤堂は余計なことは考えなかった。
いつから自分のあだ名は『魁先生』となったのだろう。池田屋で真正面から傷を受け、額に勲章を刻んだ頃だろうか。あの時は訳も分からず無我夢中で敵の正体なんて考える余地もなく戦い、ただ終わってみれば『新撰組』の名が轟いていた。そして意気揚々と江戸隊士募集に向かい、戻ってみると状況は一変していた。
山南がそこにいなくなっていた。
(いつまでも引き摺っていると、皆は嗤うだろうか…)
月命日になると山南の墓は華やかに彩られる。隊士たちが山南を慕っていた証拠であり、それくらい必要な人だったということだ。
(だから…今の新撰組には伊東先生が必要なんだ…)
確信と決意を込めて、藤堂は歩みを進める。そのうち伊東から指定されていた寺に辿り着いた。鬱蒼とした雑草が多い茂った管理されていない様子だが、歩道だけは人一人は歩けるようになっている。外から中の様子をうかがい知ることはできず、秘したい待ち合わせにはうってつけの場所だ。
藤堂は枝葉を避けながら歩道を歩く。すると本堂近くの大木の傍でちらりと人影が動いた。
「…木田殿ですか。俺は伊東の使いの者です」
藤堂が名乗ると、その影の持ち主は警戒しながらもゆっくりとその姿を現した。地味な衣服にその身を包み目深に笠をかぶって表情は窺うことはできなかったが、色黒の肌と無精ひげが印象的だった。
木田は警戒心が強いのか藤堂を前にしても口を開こうとはしなかった。
「…これを、伊東から預かってまいりました」
「…」
藤堂が差し出した手紙を木田は受け取るとすぐに中を開いて読み始めた。そしてすぐに顔を顰めると野太い声で
「恩に着る、と伝えてくれ」
と言ってすぐに去っていってしまった。
愛想がないのは警戒されているから仕方ないと思ったが、藤堂は今更ながら言いようもない気味の悪さを覚えた。
(あの男はいったい…何者なのだろう…)
意図を深く考えないことが、伊東を信頼することに否定すると思っていた。けれど木田という男から感じた雰囲気は決して味方に与する者のそれではなく、どことなく敵のある距離感ではなかったか。
(俺はもしかして、とんでもないことをしてしまったのか?)
たかが手紙を渡すだけ…それだけで伊東の信頼を得るのなら喜ばしいことだと安請け合いしたが、それは『間違っていなかったのか』…急にそんなことが気になり始める。
その時だった。
「誰だ?」
雑草がガサガサと揺れる音が聞こえてきた。それは明らかに風の仕業ではなく足音共に確実にこちらに近づいてくる。
相手からの答えはなく、藤堂は鞘に手を伸ばし柄を握った。木田が仲間を連れて戻ってきたのかもしれない――しかし姿を現したのは意外な人物だった。
「…斉藤さん…?」
「…」
刀に手を掛けている藤堂を見て、斉藤は眉間に皺を寄せた。
「俺を斬るつもりか?」
「え?いや…まさか、斉藤さんだとは思わなくって…ハハ」
藤堂は取り繕いながら警戒心を解き、「どうしてここへ?」と尋ねた。人の立ち入らないような物騒な寺に用事があったとも思えない。しかしそれは藤堂も同じだ。
「それはこちらの台詞だ。…藤堂さん、何でこんなところにいる。先ほどの男はあんたに用事があったというのか?」
「先ほどの男って…斉藤さん、知っているんですか?」
「…」
斉藤は急に剣幕を鋭くした。まじまじと藤堂を見て「あの男を知らないのか?」とさらに訊ねてきた。
(伊東先生のことを話すわけにはいかない…)
「その…少し、立ち話をしただけで…知り合いというほど知り合いではありません」
「こんな人気のない寺で立ち話を?」
「…」
咄嗟の言い訳のような嘘を斉藤は信じてはくれない。しかし藤堂はそれ以上は何も言えず口をつぐむしかなかなく、二人の間には重たい沈黙が流れた。
すると深いため息をつきながら斉藤が口を開いた。
「あの男は『城多董(きだただし)』…水口藩の尊王派の大物だ」
「城多…って、池田屋の時に名前が挙がっていた、あの…?」
「ああ。宮部や吉田とともに計画を立てていたが、運よく池田屋にいなかったとされる人物だ。最近は将軍襲撃にも関与したことが分かり見廻組からも追われている。俺は今日は非番だが、よく似た男がここから出て来たから気になってここに来たんだ」
「…そんな…」
藤堂は絶句した。
まさか伊東がそのような人物と友人だとは思いもしなかったし、あて先が『城多』だったなら察することはできたかもしれない。けれどもし相手が尊王派の大物だと知っていたとして、藤堂は伊東の依頼を拒んだだろうか。
(いや…むしろ率先して受けていたかもしれない…)
『恩に着る』
男は…城多はそう言った。伊東は何かを伝えた。
(伊東先生には何かお考えがあるはずだ…)
もともと伊東は入隊前から尊王派の考えが強いのだから、たとえ城多が追われる身であったとしても友人であることに間違いはないのだろう。
「藤堂さん、あんたはあの男とここで待ち合わせをしていたのか?」
「…たまたま話をしただけです。城多とは思わず、捕らえられなかったのは申し訳なく思いますが他意はありません」
「…」
斉藤が藤堂を疑いを持って見ている。しかし藤堂はその目を真っすぐ見返した。
(もう後戻りはできない)
伊東の依頼で、城多に手紙を渡した。――例え何も知らなかったとしてもその事実は揺らぐことはなく、斉藤に言い訳など通じないだろう。
(だったら貫くだけだ)
城多のような大物に手紙を渡すという重要な任務を任せてくれた。自分はそれに答えたいと思った。
だから、伊東を信じるということを貫く…それこそが自分が為すべきことだ。
斉藤と藤堂はしばらく視線を交わし合う。それは傍目にはお互いに敵意を向けているように見えただろう。じりじりとした緊迫感が二人の沈黙に加わった。
やがて斉藤の敵意が諦めへと変わっていく。
「…藤堂さん、あんたは馬鹿だ」
斉藤は心底呆れたような顔をして、背中を向け去っていったのだった。





570


彼らは独特の訛りを織り交ぜながら豪快な会話を交わしている。
「もうすぐ幕府は倒れるに違いなか」
「一橋は戦を前に逃げ出した臆病者や」
「豚一公が将軍になるなら終わりは近いぜよ」
懇意にしている居酒屋だからこそ大音声で箍が外れた言葉を口にしているのだろうが、傍から聞いているだけでもハラハラするような内容だ。見廻組や新撰組が聞きつけたらどうなるだろうかと危惧するが、彼ら曰く「わしらは大丈夫」らしい。幕府の不安定な情勢や各藩の力関係がそこに絡んでいるらしいのだが、力説されたところで新参者の若者にはいまいち理解できなかった。
彼らは訛りのほかにも特徴があって、目立つほど長い刀を腰に差している。長い刀ほど有利だとか笑っていたが、いわゆる彼らの中の『流行』だそうだ。おかげで同じ国だとすぐに分かった。
「安藤、酒頼んで来い」
酒で顔を真っ赤に染めた藤崎という男が、安藤に声をかけた。安藤は目つきの鋭い無口な男だが特に逆らうことなく「わかった」と従順に頷いて女中の元へ向かい熱燗と茶を頼み受け取った。
「安藤さん、俺が持っていきます」
若者が声をかけると「気にするな」と仏頂面のまま答えた。
「俺はもともと足軽だ。こんなこと苦でもない」
「でも…」
「それより藤崎の機嫌を損ねると面倒だ、隣で酌をしてやってくれ」
「…はい」
安藤に言われ、若者は渋々藤崎の隣に座った。酔っぱらった藤崎は「来たか来たか」と上機嫌になり、まるで女にするように若者の太ももを豪快に掴んだ。彼はこうして若者をぞんざいに扱う。
「藤崎さん、俺は男ですよ」
「男でも女でも構わん。見目が良けりゃぁそれでいい。…お前、月代剃っちまったんだなぁ、もったいねえ。うぶで良かったのによ」
藤崎は若者の剃りたての月代を眺めながら「だよなあ」と周囲に語り同意させた。若者は彼らに…特に藤崎に可愛らしい見た目をからかわれるのが嫌で剃ったのだとは言えなかった。彼にその趣味があるのかはわからないが藤崎の指先がいやらしく若者の太ももを撫でまわす。
藤崎は話を変えた。
「それはそうと、新撰組の奴らこの辺りじゃ見かけんようになったな?」
「最近は新撰組よりも見廻組の方がよう見る。あいつらは所詮幕臣の集まりやき、大したことはない。それに今は土佐もんに手出しはできんはず」
「ふん…新撰組の奴らに早う兄貴の敵を討ちたか」
藤崎は少し苛立った様子を見せた。彼の兄は数年前の池田屋事件の際に殺されたらしい。
(藤崎のことは嫌いやけど…そこはおんなじや)
新撰組に対する憎しみ―――それは仇討ちを果たしたからと言って決して終わるものではない。若者は誰よりもそのことを知っていた。



秋の行楽日和が続いていた。
瑞々しい葉はいつの間にか紅く染まり、木々を揺らす風に誘われるように一枚、また一枚とその葉を散らし始めていた。
そんな中、十番隊による高札警護は一日の非番ののち連日続けられていた。
「だんだん気の毒になってきました。ただでさえ原田さんには似合わない仕事なのに、終わりがないなんてうんざりしているでしょうね」
総司が部屋を訪れて率直な感想を述べると、近藤も苦笑した。
「そうだな。長男の茂君も生まれて間もないというのに、可哀そうなことをしてしまったかもしれない」
「おまささんもご亭主が帰って来ないんじゃ気の毒ですね。茂君もあっという間に大きくになるでしょう」
「うむ…このまま十番隊だけに任せるのは忍びないな。他の組にも持ち回りさせるように歳に少し進言してみるか…」
近藤はそう言いながら団子を口に運んだ。師弟は時折茶菓子を囲んでとりとめのない会話を交わすのだ。
「そういえば、昨日別宅の方にお加也さんが足を運んでくださったぞ。長崎から戻った挨拶と深雪に手を合わせにきてくれた」
「ああ、そろそろ戻るというお話でしたね」
「俺も初対面だったがお孝は齢が近いせいか気が合ってな。何というか…気が強い物同士、意気投合したようだぞ」
「はは、それは良かったです」
男ばかりの医学所で働く加也と新撰組に対して物怖じしない孝…総司には二人が似た者同士のように思えたので、近藤の言うように良い友人になれるだろう。孝はこちらに知人はいないので姉の深雪も喜ぶに違いない。
「早速南部先生のところで忙しなく働いているようだ。長崎から戻った優秀な女医だってすでに近所じゃ評判らしいぞ」
「お加也さんは長崎に行く前から優秀な方でしたから。これからますます腕を上げて松本先生のような立派なお医者になられることでしょうね」
「ああ。お前と縁組をして嫁になっていたらどれだけ良い奥方になったかと…おっと」
つい口が滑ったのか、近藤が「すまん」と謝った。
加也との縁談は実現はしなかった仮初の話であり、近藤としてはその方が良かったはずだ。彼の親心から出た言葉なのだろうと総司はすぐに理解した。
「…先生が謝ることはありません。お加也さんが素敵な方だというのは間違いありませんから」
「ああ…嘘をついても仕方ないな。正直に言えば初めて会ってみて、しっかりした芯のある良い女性だと思ったしこういう人がお前の嫁に来てくれたならおみつさんも安心しただろうと思ったのは本音だ」
「確かに…姉さんは気に入りそうです」
「でもな、それでもお前がお加也さんを断っておみつさんを説得して、歳を選んだんだと思ったら、それはそれで良いと思うのも本音だぞ」
「近藤先生…」
近藤は総司の目を見据えて続けた。
「男と女なら家族という形になれる。男同士がどう添い遂げるのか俺にはよくわからないが…この先、歳の隣にお前がいるんだと思ったら、あいつの幼馴染として心底安心できるんだ。あいつは、自分を犠牲にして俺のことばかり考えているからな」
近藤は穏やかな笑みを浮かべた。
「歳のことを頼む」
幼馴染として、親友としての近藤の言葉が心に響く。託された嬉しさと重さが心を占め、総司はただ万感の思いで
「はい」
と答えるしかできなかった。
すると「近藤先生」と障子の外から土方の声が聞こえたので「噂をすればだな」と近藤が笑って応えた。顔を出した土方はいつも通り忙しなく少し不機嫌そうだった。
「ああ、お前もいたのか」
「…いちゃいけないんですか?」
「別に、何も言っていないだろう。何、不機嫌になってるんだよ」
「土方さんに言われたくありませんよ」
土方の様子では二人の会話は聞こえていなかったようだが、総司は恥ずかしさで居たたまれなくなって「失礼します」と席を立った。土方が
「なんだあいつは」
と不思議そうにしていたけれど構わず部屋を出た。
生垣越しに見える西本願寺の木々の枯葉が風に舞っていた。時間は限りなく続いている。その中で終わりがあるのだとすれば自分の命が尽きる時なのだろう。
「…ケホッ」
総司は小さく咳き込んだ。喉に張り付く違和感は乾いた風のせいだろうと思い、道場へと足を向けることにした。




















解説
565キンについての困窮状況等は創作です。
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