わらべうた




568


心に空いた穴は埋まらないまま、抜け殻のようにこの身体はただただ息を吐く。
手に残った感触だけが生々しくて、夜になると自分のしでかしたことに震えた。
逃げて、遠くへ行けばいい。
やり直せる。すべて忘れてこの地を離れれば、何もかもを一から始めることができるだろう。
でも、どうしてだろう。
この足は動かず、ここにとどまることを選んだ―――。


その日も昼過ぎから行われた『勉強会』は夕刻頃にようやく終わりを迎えようとしていた。
藤堂は日に日に熱の入る講義にただ耳を傾けていた。最初は幕府の末端である新撰組の屯所では行いづらい反幕的な内容を分かりやすく講義していた伊東だが、その話は徐々に尊王攘夷へと傾き、幕府を批判するものへと変わった。
特に冗長に語られたのは水戸天狗党の話であった。
天狗党は水戸の熱心な尊攘思想家の一派であり亡き主君である徳川斉昭の遺志を継ぎ、元治元年に蜂起した。幕府の制止に応じず抗戦を続けたが斉昭の実子である一橋慶喜を征討軍総督に据えることで加賀にて降伏。ただ国を憂い、攘夷を訴えた若者たちはその後、その主君である慶喜によって斬首された。例えやり方が強引であったとしても、武士として切腹も許されず斬首に処された若者の無念は藤堂にも理解できる。
「幕府に楯突く勢力への見せしめだとしても、公を慕って降伏した志ある者を無残な刑に処するなど言語道断。その報せを聞いた時から私は尊王攘夷の決意を固くしたのです」
伊東の瞳に昏く固い決意が宿る。水戸に遊学し尊王攘夷を学んだ伊東からすれば例え共に挙兵しなかったとしても、心の同志を多く失ったのだ。
すると受講生の一人が手を挙げた。
「質問です!参謀は一橋慶喜が将軍職に就くことについてどうお考えですか?」
血筋的にも立場的にも時期将軍は一橋慶喜が就く可能性が高い。その場にいた者たちは臣下をやすやすと切り捨てる上司に不安を持ったことだろう。
伊東はしばらく考え込むように二、三度扇を掌に打ち付けた。藤堂は息を飲んで答えを待った。
「…私は一橋慶喜が嫌いです。天狗党の一件だけではない、帝の意思を無視した休戦協定や前線に出ぬ無責任な戦いぶりも…すべてが幕府の弱体化を示している」
「でしたら…!」
「将軍職に豚一公が就く…その時こそ、新撰組に変化が必要な時でしょう。我々は佐幕のみを一辺倒に説く無能な狼に成り下がってはならぬ!」
伊東らしくない強い語尾、そして鼓舞するような物言いに受講生たちはワッと沸き立つ。その一人である藤堂もまた胸が躍った。
『変化』
その言葉は藤堂が求めていたものだ。
(やはり、新撰組を変えてくださるのは伊東先生しかいない…!)
佐幕だとか攘夷だとかそんなことはわからない。ただ伊東は伊東なりの信念をもって新撰組を変えようとしている。暴力ではない、力でもない、法度でもない―――山南のように言葉を尽くして。
居心地が悪いと感じていた屯所外での勉強会が、今は心地よい。試衛館食客として言いようもない溝を感じるあの場所とは違う。
藤堂が高揚感に包まれているうちに講義は終わった。欠かさず講義に参加する藤堂の姿を見て受講生たちも態度を軟化させ、「お疲れ様です」と数名の隊士たちが声をかけて去っていく。
「藤堂君」
人が少なくなったところで伊東が声をかけてきた。
「伊東先生!今日の講義も大変参考になりました!」
「そうか、それは良かった。…ところで藤堂君を信頼して一つ頼みがあるのだが、聞いてもらえないだろうか?」
「は…はい!」
藤堂は即答し、伊東に従って別宅の奥の間に入った。そこはいくつもの書物が積まれた書庫のようになっていて、それ以外は文机くらいしかない。
「…山南さんの部屋みたいだ…」
藤堂は思わずつぶやいた。西本願寺移る前の前川邸にいた頃、山南の部屋は同じように書物に埋もれていた。
『ついつい買い求めてしまった』
照れ臭そうに本を読み漁る山南の姿はまだ目に焼き付いている。
伊東は微笑んだ。
「いくつか山南総長の本も受け継いだからね。君には懐かしいかな」
「はい…!」
「それで頼みたいことというのは…皆には内密にお願いしたいのだが」
「もちろんです!」
伊東が声を潜めたのに対し、藤堂は声を張り上げる。「すみません」と頭を掻くと、伊東は苦笑して頷いた。
そして文机の上にある文箱から一通の手紙を取り出した。
「これは…?」
「この手紙を私の友人に渡してほしいんだ。古くからの友人で、いま都にいる」
「はぁ…しかし先生ご自身でお渡しされては…?」
友人が都にいるのなら待ち合わせでも何でもできるはず。藤堂は率直に素直な疑問を口にしたが、伊東はさらに声を落とした。
「私が会うと非常に疑われることになってしまうんだ。その友人は尊王攘夷の志が熱く…とても新撰組の参謀が会えるような相手ではない。それにこの頃は監察の目も厳しくなったように思う」
「…監察が先生を疑っているのですか…?」
「どうだろうか。土方副長は私のことをあまり好いてはいないし、別宅を持って隊士たちを呼んでいることにも気が付いているだろうからね」
「それは…」
監察とは土方のことを指す。二人の間には決して友好な関係が結ばれているというわけではなく、近藤を間に挟んで距離を取り続けている。藤堂は河合の一件から土方を避け続けているのでますます敵意を感じてしまう。
「私は友人との接触を決して監察には知られたくない。君なら『試衛館食客』としての肩書があり、簡単に疑われることはないはずだ」
「…しかし…手紙の内容はどういったものでしょうか…?」
「私の友人の命がかかっている。どうか内容は聞かずに届けてくれないだろうか」
伊東の両手が藤堂の肩を強くつかむ。彼の美貌を目の前にすれば拒める者などおらず、また今の藤堂には断る理由など一つもない。
「…わかりました!お任せください」
「ありがとう!恩に着るよ!」
「先生、代わりと言っては何ですが、一つだけお願いがあるのです」
「なんだろうか、私にできることならなんでも叶えよう」
藤堂は手紙を握りしめながら伊東を真っすぐに見つめた。
「俺のことを…『試衛館食客』として扱うのは止めていただきたいのです。最近俺は…そう呼ばれることに、どこか居心地の悪さというか、違和感を覚えてしまうのです」
「…わかった。そうしよう」
伊東はその美貌で頷いた。藤堂は言いようもない喜びと安堵を覚えたのだった。



十番隊が高札警護に当たって十日ほど。
高札はもちろん動くこともなく、ただそこに在って役割を果たし続けている。もうこのまま何も起こらないのではないかという疑念さえ生じさせるほど平穏で、だからこそ十番隊隊士たちは終わりのない仕事の過酷さを身に沁みて感じていた。
その筆頭が原田で土方に窮状を訴え、ようやく一日だけの非番を与えられることとなった。
「今日は一日好きに過ごせよ!」
原田は隊士たちにそう告げると、自分は足早に家族の待つ家へと戻っていった。そして隊士たちも各々自由に短い休暇を過ごすべく、散り散りに散っていく。浅野も隊士の一人に居酒屋に誘われたものの、「行きたい場所がある」と断りを入れて、屯所を出た。
久々に与えられた非番は浅野にとっては随分久しぶりの自由な時間だった。監察方から小荷駄方へ降格処分になってからは自由に行動することすらできずにいたのだ。
(銀平を探そう…)
浅野は足早にかつて『金山福次郎』としてのテリトリーであった場所へ足を向けた。幸いなことに商家の裕福な次男坊に扮していた『金山福次郎』と今の浅野ではまるでイメージが違うのか、誰一人として気が付く者はいない。銀平の家である箭内屋の前に立った。
がらんとした空き家は埃が溜まり始めていた。ここに銀平が戻ってきた様子はなく、あの日から何も変わったところはない。しかしその場に残る雰囲気や空気感には銀平のあどけない笑顔が染みついているように思う。
「本当に…お前がやったのか…?」
浅野は思わず問いかけていた。
土方の話によると、銀平は浅野も出会った河上に唆されて三浦啓之助を襲ったということだった。父親の無念を晴らそうとしたのだろうが、しかし下僕である芦屋に庇われて彼は腕一本を失ったらしい。
最初は信じられなかった。銀平の手は繊細な和菓子を作ることしか知らなかったはずだ。それなのに芦屋の腕を切り落とした…銀平のなかにあった仇討という復讐心がそうさせたのだとしたら、やはり犯人が分かっていながらそれを銀平に伝えらなかった自分は意気地なしだったのだろう。
銀平はそのあと姿を消した。
(一言、謝らせてくれよ…)
それさえも拒むように、去って行ってしまった。
ぼんやりと店を眺めていると、隣の町屋からガタンっと物音がした。大家だろう…顔見知りに会うのは流石に拙いと思い、浅野は店を離れた。
そのままあてもなく銀平を探し続けた。新撰組を恐れて洛外に逃げ延びたに決まっている…普通ならそうするだろうとわかっていたのに、彼の気配をどこかに探してしまう自分がいた。
謝りたいなんて、ただの自己満足だろう。けれどこのまま銀平と別れるのは、一生の後悔となって胸の中に残り続ける気がした。
(俺はとっくに監察方失格だったのかもしれないな…)
どんなに親しくても、割り切った関係を築けることこそ監察方に必要な才覚だろう。銀平に固執する自分はとっくの昔にその枠を外れていたのだ。
そのまま時は無情に過ぎていき、太陽は沈んだ。
「…戻るか」
浅野は花街と言われる歓楽街を通り、屯所を目指した。降格処分を受けた身として夜中に遊びまわるという選択肢はなかった。
「…ん?」
すると一件の居酒屋が目についた。特に変哲もないはずだが、その扉の隙間からちらりと見えた若い男が銀平に似ていたような気がしたのだ。
(まさかな…)
こんなところにいるわけがない、と思いながら浅野は自然を装って暖簾をくぐりその扉に近づいた。そこには長い刀を腰に差した男たちが数名いて、そのなかに目に入った若い男が混じっていた。彼の横顔と剃りたての月代しかわからず、彼が酌をして回っているのが見えた。
(いや…そんな、まさか…)
似ている。銀平に似ている。
だが彼には不似合いな月代も物騒な刀も持っていないはずなのに。








解説
特になし
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