わらべうた




571


その日は昼から薄暗い雲に覆われていて、しとしとと雨が降り続いていた。
いつもと変わらない別宅での勉強会を終えた藤堂は講師役の伊東に「少し宜しいでしょうか」と声をかけた。伊東は終始藤堂の表情が固かったことを察していたので、
「奥の部屋で良いだろうか」
と誘った。先日、藤堂と話し込んだ場所であり山南の置き土産である書物が高く積まれた書斎だ。
二人は向き合って座った。藤堂は話を持ち掛けたものの、どう話を切り出して良いかわからず黙り込んだが、目敏い伊東が「手紙のことかい?」と口を開いた。その様子に一切の焦りはなくいつも通りだ。
「責任感の強い君のことだから既に手紙を渡してくれたのだろう?ありがとう、恩に着るよ。…木田は何と言っていたかな」
「…その前に、その木田という男ですが…『城多董』という男で間違いないでしょうか」
「…」
伊東の剣幕が少しだけ鋭くなった。しかしそれを隠すように微笑んで見せた。
「申し訳ない。君を関わらせたくなくて詳細を省いてしまった…木田善兵衛というのは彼の前の名前でね、志を同じくする水戸にいた頃の友人だ」
「…!」
(嘘をついて隠すこともできたのに…)
伊東は一切偽りを口にすることなくすぐに認めた。その行動には何の躊躇いもない。藤堂は続けて尋ねた。
「…城多は池田屋に関わりのある人物です。新撰組にとって敵です…」
「そうであったとしても私の友人であることに間違いはない」
伊東の口調は穏やかないつものそれであったが、城多を庇う姿勢は譲らなかった。
しかし藤堂も諦めることなくさらに詰め寄った。
「先生、手紙の内容は…どういうものなのでしょうか。城多は『恩に着る』と言っていました…先生はいったい何を伝えたのですか」
「…それは、君には言えないな」
「なぜですか!俺は信用できないと?だったら何故俺に手紙を届けさせたのですか?!」
カッと熱くなった藤堂に対して伊東は
「藤堂君、声を潜めたまえ。…今日は雨とはいえ、そのような大声では皆に聞こえてしまうよ」
と治めた。
藤堂は唇を噛みしめながらどうにか感情を抑えつつ、続けた。
「…俺は、先生にお願いしたはずです。『試衛館食客』として扱うのはやめてほしいと。一人の門下生…いや、先生の『味方』として見てほしいと。ですから俺は手紙を届けたのです」
「…」
「そうしてくださるのなら、質問にお答えいただきたいのです。城多に何を伝えたのですか?手紙の内容はいったい何なのですか?」
小さく燻る疑念がいつか大きな溝になることを知っている。真実を隠され、自分だけ蚊帳の外に置かれる寂しさは藤堂の骨の髄までしみ込んでいる。
(もうあんな思いはしたくはない…!)
その一心で藤堂は伊東に食い下がった。
二人の間に少しだけ沈黙が流れる。振り続ける雨は少し強くなったようで風に吹かれて縁側を濡らし始めていた。
視線を外すことなく一心不乱に見つめる藤堂に根負けしたのか、伊東は「困ったな」と苦笑しながら懐から扇を取り出した。思案するように考え込み二、三回扇の骨を掌に打ち付けた。
「…これを話せば君を巻き込むことになってしまう…それは本当に私の本意ではない。しかし、ここで君を信用できないと突き放すのは簡単だが、生憎私は君を信じているからこそ今回の件を託した」
「先生…!他言はしません…!」
「そうだね…『試衛館食客』ではなく『私の教え子』として…話すべきだろう」
勿体ぶった前置きをして、伊東は扇を開いて藤堂に声を潜め耳打ちをした。
「見廻組が城多を捕縛しようとしている。しばらく姿を隠し潜伏するように忠告した」
「…!先生、それは…」
新撰組と見廻組…二つの組織は別ではあるが、市中警護を務める幕府側であることに間違いはない。その伊東が城多の立場を案じ、逃がしたのだとすれば背任行為だろう。
しかし伊東の表情には鬼気迫るものはなく、
「裏切り者だと密告するかい?」
と訊ねた。
「そんな…!そんなことはしません。俺は…先生には何かお考えがあるのだと…そう思っています」
「…ありがとう。城多は尊王派で力を持つ男だ。今回の件は友人として力を貸すだけではなく、彼に恩を売っておく好機だったんだ。今後、彼は我々にとって重要な存在になるだろう」
「我々…ですか…」
「意味はわかるだろう?」
伊東の問いかけに、藤堂は息を飲んだ。彼は『我々』を『新撰組』として使ったのではなく、信頼できる同志たちを指しているのだ。
自分はそのなかにいる。
(先生は、先生のお考えがある…俺はそれに従うと、決めた…)
「…わかりました。今回のことはもう俺は忘れます、これ以上はお尋ねしません」
「ああ。…君に任せてよかったよ」
伊東は扇を閉じて藤堂に握手を求めた。彼流の信頼を示す行為…汗をかいた藤堂とは正反対にその指先は冷え切っていた。

藤堂が部屋を去ると入れ替わるように内海がやってきた。
「久しぶりにあなたの性根の悪さを垣間見ました」
早速、毒舌で指摘した内海に対して伊東は苦笑した。
「内海だって隣の部屋で聞き耳を立てていたのだろう?お互いさまじゃないか」
「大声でしたから他の隊士に聞かれては困ると思い人払いしたのです。言い争いでも始まるのかと冷や冷やしていました」
「彼とは言い争いになどならないよ」
余裕の笑みを浮かべた伊東を見て、内海はやれやれと呟きながら藤堂がいた場所に座った。彼の熱意が残るかのように仄かに温かい。
「…信用して任せたなどと口にしていましたが、わざわざ『巻き込んだ』というのが正しいでしょう。彼はあなたへの尊敬の念が強すぎて気が付いていないが、城多さんに手紙を渡してしまった張本人である藤堂先生はどう言い繕っても新撰組に対して『裏切り行為をした』ことに間違いはない。しかし義理堅い彼はあなたの頼まれごとだったとは誰にも言えず……もうこちら側に付くしかない」
「前に言っただろう。彼はもう一歩決意が足りなかった。心は新撰組から離れていたのに、数年間積み重なった情だけが彼を引き留めていたんだ…私はそれを断ち切らせてあげただけだよ」
「巻き込んだとも言えます」
「味方は一人でも多い方が良いからね。それが新撰組の組長なら使い用がある」
淡々と語る伊東には罪悪感はない。内海はため息を漏らした。
「…藤堂先生とあなたの話を聞いていると私もあなたに騙されているような気分になりました」
「心外だな。今まで内海には嘘をついたことはないよ」
「どうでしょう。黙っていることはありそうですが」
「君だってあるはずだ」
内海との心地よい会話に伊東は微笑む。自分を一心不乱に信じる藤堂とは別の内海の遠慮のなさは快く、こうして会話を楽しんでくれる相手は彼くらいなものだ。
伊東は「しかし」と扇を広げて口元に当てた。
「…藤堂君が何故『木田』を『城多』と見破ることができたのだろう。あの警戒心の強い城多が自分で名乗るとは思えないが…」
「篠原に調べさせましょう」
「ああ…頼む」
陽が落ちるのと同じくして雨の音が止んだ。地面に沁みこんだ雨粒はその姿を消してしまう。
(私は新撰組の一人としてこのまま埋もれるつもりはない)
伊東はそんなことを思った。


雨が止んだ夜道、藤堂は伊東の妾である花香から提灯を借り屯所に戻っていた。時折抜かるんだ水たまりに足を取られながら伊東とのやり取りを反芻した。
(俺は…もう後戻りできないのだろう)
最初は山南と伊東を重ね、心に空いた穴を埋めるように慕っていた。けれど今となっては新撰組に愛着など無く伊東が描く未来を知りたいと願い…共にありたいと考えている。
『…藤堂さん、あんたは馬鹿だ』
あの時、斉藤が心底呆れた表情で藤堂を見ていた。そして、
「藤堂さん」
人気のない物陰から藤堂の名を呼ぶ…目の前の斉藤もまたその時と同じ顔をしていた。






572


彼はいったいいつからそこにいたのだろうか。既に雨は止んでいるのに斉藤の肩口が濡れていたが、全く気にする素振りを見せずに藤堂に近づいてきた。
「…待ち伏せですか?よほど俺のこと、疑っているんですね」
先日、城多との待ち合わせを斉藤に見られて以来、何かしらの視線は感じていた。けれどもそれは監察方によるものではなく、それよりも執拗な斉藤の重たいものだ。もっともそう感じるのは自分に罪悪感が在るせいかもしれない。
「疑っているならとっくの昔に土方副長に告げ口をしている。そうなれば伊東参謀とともにあんたは今頃処分を受けているはずだ」
「…」
尤もな指摘に藤堂は何も答えなかった。斉藤の言う通り、土方にこのことが伝われば隊を二分する騒ぎになる…けれど今それが起こっていないのは斉藤のところで留め置かれているからだ。
(同情して庇われている…というわけではないはずだ)
斉藤はきっと藤堂の様子を窺っているのだろう。ボロを出すまいと黙り込むと、彼はやれやれと言わんばかりに話を変えた。
「ところで…今日は『勉強会』か?非番の日に集まってわざわざ熱心なことだ」
「…伊東先生の講義は人気なんです。学びたいと集うことが悪いことじゃない」
「参謀を信奉するものがコソコソと別宅に集まる…傍目には何かを企んでいるようにも見えるだろう」
「何が言いたいんですか!」
伊東とは違う、じわじわと責め立てるような遠回しな表現に藤堂は反発した。こうやってすぐにカッとなるところがいけないとわかっていながらも、斉藤の無表情で淡々とした尋問は苦痛だった。
しかし斉藤はそのまま続けた。
「参謀が何を考えているのか、知りたいだけだ。もともと勤皇の考えの強い参謀がこのまま幕府に付き従う新撰組について何を思っているのか…興味がある」
「興味?土方さんに調べろとでも言われているんじゃないですか?斉藤さんは入隊した時から俺なんかよりよっぽど近藤先生や土方さんに信頼されているじゃないですか」
「信頼されているかもしれないが、こちらが信頼しているかどうかは別の話だ」
「…どういうことですか」
藤堂の目には、かつて少しの期間だけだが試衛館に在籍した斉藤は、その独特の物腰と誰ともつるまない孤高な姿から土方に重宝されているように見えた。しかし
「俺には俺の立場がある」
と答えた斉藤の表情は昏く読み取れない。
「どういう…意味ですか。立場って、副長助勤、三番隊組長としての立場ですか?」
「俺はある幕臣から使命を受けて新撰組に入隊している」
「…!」
藤堂は驚いた。「冗談を」と思わず零したが、斉藤の表情に嘘はない。
「幕府だけではない、会津とも縁がある」
「…まさか、信じられません…」
「俺に内偵させている幕臣の名前を教えても良い」
「…」
藤堂は斉藤とは付き合いがそれほどないが、このような冗談を言う性格ではないことは知っていた。ひとまずは飲み込んで受け入れ、耳を傾けるしかなかった。
「もともと浪人の集まりに過ぎない壬生浪士組が会津藩お預かりになったのは俺のような存在を潜入させていたからだ。それ故に俺は隊を仕切る土方副長の駒として従ってきたが…このところはその立場に違和感を覚えている。果たして盲目的に幕府に…一橋慶喜に従うことが新撰組の行くべき道なのか」
「…斉藤さんも一橋慶喜が嫌いなのですか」
「負け戦と決め込むと逃亡する将に従う部下などいない」
斉藤はきっぱりと言い切った。朝廷の意を受けようやく踏み切った第二次長州征討にて家茂公の逝去を理由にして休戦に持ち込んだ一橋慶喜について異を唱える者は少なくはない。斉藤も無表情ながら何か思うところがあったのだろうか。
「幕府の権威が失墜しつつある今だからこそ、自分の行く末は自分で決めたい。…城多は尊王派の急先鋒だ、伊東参謀にどのようなお考えと展望があるのかお伺いしたい」
「…何故俺にそんなことを言うんですか。斉藤さんが直接伊東先生にそう言えばいいでしょう」
「俺は土方副長に近すぎる。俺の考えを伝えたところで警戒されて参謀の本音を聞き出すことなどできないだろう。だから藤堂さんに橋渡しをお願いしたい」
「…それが…俺が斉藤さんと参謀を引き合わせることが、城多のことを黙っておく条件ですか?」
風が吹いた。雨上がりの夜空に燦燦と輝く月が顔を出す。
「その通りだ」
月明りに照らされた斉藤の表情は、影がありながらも強く藤堂を見つめていた。藤堂は自分の身体が自然と竦んでいることに気が付いた。



総司は稽古を終えた足で馬屋へ向かった。普段は馬術師範である安富才助が世話を務めているが、彼は勘定方も兼務しているため激務なのだ。もちろん雇っている下男も数人いるのだが、古株であり暴れ馬の『池月』は相変わらず安富にしか懐かず下男たちを手こずらせているというので、久しぶりに様子を見に足を運んだのだ。
小さな馬屋に池月が繋がれていた。総司を見つけるとその場で足踏みをして興奮した。
「久しぶり、池月。…少し肥えたんじゃないか?」
総司が話しかけると池月は不満そうに鼻を鳴らした。それでも総司が鼻先に触れると大人しくされるがままになっているので、好かれているようだ。
会津から下賜された『池月』を乗りこなせるのは馬術師範である安富と、不思議なことに気が合う総司くらいのものだ。隊士たちその暴れっぷりを倦厭して近づくことすらないが、総司とは脱走した山南を探すため大津へ向かうなどその背中を何度か借りてきた。言葉を交わすことはできないのに不思議な絆を感じている。
「…なんて、独りよがりかな…」
総司が通じるはずがないとわかっていながら声をかけると、ブルッと池月が顔を背けた。そして再びじっと総司を見つめると、刃物のように凶暴な眼差しが少しだけ柔らかくなる。瞳が潤み何かを訴えかけているような―――。
「ケホ…ッ」
「風邪か?」
突然声を掛けられると同時に池月が暴れ始めた。総司が「どうどう」と押えつつ振り返ると斉藤の姿があった。
「…風邪かもしれません。斉藤さんこそ、こんなところへどうしたんです。畜生の匂いは嫌いだと言っていたじゃないですか」
「その獰猛な馬を隊士たちは倦厭している。だから、ここには誰もいないと思ったんだ」
「先客がいて残念でしたね」
「ああ」
普段から西本願寺の隅にある馬屋には世話役の安富と下男たちを除いて隊士の姿はない。確かに一人になれる良い場所だが、潔癖な斉藤がざわざわ足を運んでいるとは知らなかった。斉藤の姿を見るなり暴れだした池月の様子を見る限り、懐かれているわけではなさそうだが。
斉藤は馬屋の柱を背にしてゆっくりと息を吐いた。彼の無表情ながらも疲弊した様子が総司にさえありありとわかる。
「なにかあったんですか?…って聞いても、斉藤さんは答えてくれないんでしょうけど」
「ああ…。慣れないことをするのはひどく疲れる」
「斉藤さんにも苦手なことがあったんですね」
「当たり前だ」
人をなんだと思っている、と言わんばかりに斉藤が不満そうな顔をした。
彼を取り巻く環境は総司のように単純ではない。幕府や会津、新撰組…複雑に入り組んだ特殊な立場だからこそ抱えるものも多いだろう。それ故に
「沖田さん…藤堂さんのことを、今でも『試衛館食客』だと思っているか?」
その唐突な質問に対して、『何故そんなことを聞くのか』『その意図は何か』などと探ることは野暮だろう。総司にとって意味のない質問であったとしても、彼にとってはそうではない。彼がどの立場でそれを口にしているのかなんて友人として考えるべきではない。
「もちろん、今でも思っています。藤堂君だけじゃありません、永倉さんや原田さん…亡くなった山南さんのことも近しい仲間だと思っています」
「…そうか」
その答えに対して斉藤は表情を変えなかった。
ただ、池月が不満そうに鼻を鳴らしていた。






573


三条大橋の近くにある会所から眺める景色は、毎夜変わることなく平穏そのものだった。
「ほら、回ってきたぞ」
ある十番隊の隊士が浅野に差し出したのは春画本だった。組長の原田が持ち込んだものが隊士たちに順々に回されて暇つぶしになっていた。浅野はそれを受け取りつつ周囲に目をやった。初日の緊張感はどこへ行ったのか、隊士たちは屯所のようにあちこちで寛ぎ、囲碁や将棋に興じたり、酒を酌み交わしたりしている。浅野にはそれが悪いことだとは思わなかった。暇をつぶすことがこんなにも苦痛なことなのかと実感しているところだ。
春画本をパラパラとめくりながらも、頭では別のことを考えていた。
数日前の非番の日、居酒屋の暖簾の隙間から除いた若者の姿が脳裏から離れなかった。大石に引き留められその正体を掴むことはできなかったが、日に日に(あれは銀平なのではないか)という疑念が深くなっていた。三浦を襲い、芦屋に怪我を負わせた銀平の消息はわかっていない。事情が事情だけに新撰組ではすでに無罪放免となっているが、普通なら報復を恐れ都から離れているはずだ。銀平には身寄りもいないはずだから、あの家を出た時点で頼れる者はいない。
だから順当に考えれば、ここにいるはずはない。
(だが…あの背格好は銀平に似ていた…)
少し小柄で薄い肩。遠目には女子のように見える華奢な体――剃りたての月代とぎこちない帯刀も、すべて銀平の姿に重なっていく。
(だが、俺には確かめる術がない…)
十番隊の一員として高札警護にあたる今やすやすと抜け出すことはできず、情報漏洩を疑われ降格した立場で自由に動くことはできない。
もどかしい思いを抱えながら、春画本の最後の頁に差し掛かる。そこには男装をした女と男がまぐわう独特なシチュエーションの一枚があった。
浅野が思い出したのは情報漏洩を疑われた河上との夜だった。酒に酔って詳細は覚えていないが、居酒屋で声をかけてきた河上は色白で切れ長の整った容姿のせいで女にしか見えず、腰の刀を見るまでは男だとは気が付かなかった。
(…あの時は女装をした男だと思ったが…)
うっすらと覚えている曖昧な記憶の中で、弱弱しい女だったものが、次第に大胆で豪胆で浅野の身体の一部が侵食されていくような感覚を覚えた。妖艶で美しい蝶が周囲を魅了しながらも虫を食らうような、息を飲む圧倒的な存在感。
(俺が河上に三浦の脱走の件を漏らし、銀平もあれに会った…)
認めなくないことだが監察方の見立て通りだとしたら、河上が銀平の居場所を知っているのではないか。
「なかなか風変わりな趣味、持ってんなぁ」
深く考え込んでいたところで、背後から原田に声を掛けられた。浅野がその頁に見入っていると思ったのだろう。
「ご、誤解です」
「誤魔化さなくったって良いだろう?ふうん、そういう趣味だったのか、今度そういう女が良そうなところに連れて行ってやるよ」
「ですから、誤解です!」
原田はけらけら笑ってからかう。彼の隊士との距離の詰め方は友好的ではあるが、たまに話が大きくなってしまうのが玉に瑕だ。浅野は慌てて話を変えた。
「それより、何かお話でも…」
「おう、そうだった。お楽しみのところ悪いがちょっといいか?」
原田は浅野を誘い会所の外に出た。言われるがままに人気のない細道に移動するとそこには大石がいた。彼は斥候の一人として今回の任務にあたっている。
「浅野、悪いが大石と一緒の任務にあたってほしい」
「…斥候、ですか」
「ああ。高札自体はまだ何の危害も加えられていないが、この周囲には妖しい奴らが多い。長州だけじゃなく、薩摩や土佐…いわゆる『どっちつかず』な藩の奴らが屯してやがる。監察の手が足りねぇみたいだ」
「しかし…」
浅野としては古巣の仕事故にその内容に戸惑いはないが、一度は監察方をクビになっている立場だ。信頼関係を要する任務に簡単に復帰して良いのだろうかと迷った。
すると原田が続けた。
「土方さんの許可は出てる。いや、むしろ土方さんの方からお前を大石と組ませて斥候の任務にあたるようにお達しがあったんだ。余計なことを考えずにやればいい」
「…そうですか…」
浅野は大石の表情を窺った。傘を深く被りその表情は半分ほどしか見えないが決して信頼されているとは思えない。そしてそんな大石とわざわざ組むように仕向けた…土方の考えは手に取るようにわかる。
(俺を試しているんだろう…)
敵とのつながりはないのか、もう一度裏切らないのか―――剣の腕で勝る大石を傍に置いて監視させる。土方の考えそうなことだ。
しかし浅野には断る術などない。
「わかりました」
裏切る意図などもともとないのだから原田の言うように『余計なこと』など考えずにすれば良い。それに
(斥候なら…銀平を探し出せるかもしれない…)
そんな微かな希望に縋るしかなかった。


庭の紅葉が美しく色づき始めていた。
あちこちに広がった落ち葉を集めながら花香が「いいお天気どす」と縁側で腰を下ろして寛ぐ伊東に声をかけてきた。
花街では甘ったるい声色と年よりも若く見える化粧で男たちを虜にしてきた彼女だが、妾としてこの家で暮らし始めると案外家庭的で洗濯や掃除、食事の準備など卒なくこなしていた。たまに子供っぽくなるのは性格上仕方ないのだろうが、それでも伊東の門下生たちが集う勉強会には一切関わろうとせず、また知ろうともしない興味のなさは伊東にとってはありがたい。彼女は別宅を設ける口実に過ぎないのだから。
そうしていると内海がやってきた。
「大蔵さん」
普段は淡々とした無表情を崩すことは少ないが、少し焦った様子だった。
「…花香、あちらへ行っていてくれ」
「はぁい」
花香は不満そうにしながらも箒を置いて去っていく。内海は「すみません」と前置きしながら膝を折った。
「何かあったのか?」
「…篠原に調べさせていた件です。城多さんの件ですが…どうやら厄介な相手に気づかれてしまったようです」
「厄介な相手?」
「三番隊組長の斉藤先生です」
「…」
内海の報告にさすがの伊東も顔色を悪くした。
監察方である篠原によると城多と藤堂が待ち合わせる場面を斉藤が目撃し問い詰めているのも、篠原の配下にある下男が見ていたということだった。
「藤堂先生はたまたま鉢合わせただけで、決して手紙の件やその差し出し主が大蔵さんであると口にはしなかったということですが…」
「彼は義理堅い。だが…斉藤君はどうだろうか?」
「不思議なことに、土方副長以下監察にはこの件は伝わっていないそうです」
「私のところにもそういう咎めはない。…しかし、城多は池田屋の残党だ。彼は土方副長に近い存在であるし、黙っておく利点はないはずだが…」
伊東は困惑した。もともと斉藤との接点はあまりないが、寡黙で何を考えているのかわからない節があるものの、『試衛館食客』として一時身を置いていただけあって土方が信頼している稀有な存在だ。
(いったいどういうつもりなのか…)
伊東が考え込む前に、しかし結論は出た。
「伊東せんせ、お客様どす」
花香の甘ったるい声とともに案内されてきたのは、藤堂と斉藤だったのだ。






574


伊東の目の前に現れた二人は対極的な表情をしていた。
不安げに眉を歪め何かを訴えるように伊東を見つめる藤堂と、涼しい顔で一切その感情を読み取らせようとしない斉藤―――直前に内海からもたらされた情報があったため、伊東は状況を掴めることができたがそうでなければ困惑していただろう。
伊東は微笑んだ。
「…いらっしゃい、斉藤君。まさか君がこんなところに来るなんて思いもよらなかったよ」
「お約束もなく突然申し訳ありません」
言葉ほどに「申し訳ない」という表情をしていない斉藤だが、丁寧に頭を下げてきた。
内海が何か言いたげに伊東を見ていた。普段は斉藤と同じく淡々としている彼でも、さすがにこの展開は予想していなかったようで敵意を隠そうとはしなかった。
「…こんなところではなんだから部屋に入ろう。花香、茶を頼む」
「はぁい」
場の緊迫感が伝わっていないのか、花香は相変わらずの調子で返事をした。彼女の鈍感さが今は羨ましい。
ひとまず普段は勉強会を開いている奥の部屋に入り、藤堂と斉藤と向かい合って座った。藤堂は茶を一気に飲み干したが、斉藤は花香が持ってきた茶には手を付けようとはしなかった。
「…それで、今日はどのような用件かな」
伊東が尋ねると、斉藤は
「城多董の件です」
とストレートに切り出した。伊東の傍に控えていた内海がごくりと息を飲み、場の緊張感がさらに高まった。しかし斉藤は意に介する様子はなく続けた。
「先日、藤堂さんが城多と話し込んでいるのを見ました。城多は尊攘派の大物であり、今は見廻組が捕縛対象としている人物です。藤堂さんは偶然出くわしただけだと言いますが…伊東参謀と何かご関係があるのかと思い、お伺いしました」
「…確かに、城多は新撰組入隊以前からの私の友人だ。しかしもう何年も会っていない。藤堂君が偶然出会っただけだというのなら、そうなのだろう」
伊東としては本人を目の前に罪を擦り付けるようで不本意ではあったが、藤堂もその方が都合が良いだろう。
「偶然、ですか…」
「都は案外狭い。…それにしても、斉藤君の方こそよく城多の顔を知っていたものだ。彼は元来慎重な男でいつも身を潜め表立った行動はしないはずだ。何故だろうか」
新撰組の監察方でも城多董の顔を知っているものは少ない。それなのに一組長に過ぎない斉藤が彼のことを知っていたのか―――逆に問い詰める。何かボロを出すのではないかと睨んだからだ。
しかし斉藤は表情を変えることはなかった。
「俺はある筋からの命令を受け、一時期城多を追っていました」
「ある筋…?土方君からの命令か?」
「いいえ。名前は明かせませんが…ある幕臣からの命令です。その頃、城多は同志の川瀬という男とともに将軍襲撃に関わったとされていましたのでその捕縛のために。川瀬は捕縛しましたが、城多は伊勢に逃れたようですが」
「待ってくれ。君は…何を言っている?」
あくまで淡々と言葉を並べていく斉藤だが、その中身は決していち新撰組隊士としてのものではない。伊東は頭を抱えた。
「君は…いったい、何者だ」
「俺はもともとその幕臣からの命令を受け、新撰組に入隊した…言葉を選ばずに言えば『間諜』です」
「…」
伊東ですら動揺を隠しきれず、ちらりと内海を見ると彼もまた言葉を失っていた。斉藤が口にした内容はとても真実とは思えなかったが、この場は冗談を言うような空気ではなく彼もまた嘘をついているようには見えない。内海もそう感じていたはずだ。
伊東は懐から扇を取り出し広げて頭を整理する。
「…つまり君の言うことを信じるならば、君は幕府からの間諜であり城多の捕縛任務を請け負っていたからこそ彼のことを知っていた、と」
「はい」
「なぜそれを私に明かしたのだろうか。土方君も知っていることかい?」
「直接は何も。まあ…あの人は察しが良いので何かしら気が付いているかもしれません。伊東参謀に明かしたのは…今後の身の振り方についてご相談したかったからです」
「なに…?」
伊東はパチン、と扇を閉じる。斉藤は続けた。
「今の新撰組の進む道について危惧しています。近藤局長はもともと幕府への忠誠心が強いため、新撰組は佐幕派としてこのまま進んでいくでしょう。しかしこの秋におそらく将軍職に就く慶喜公は…正直に申し上げれば、命を賭して仕えるほどの人物ではありません」
「…それには同意しよう。局長は幕府に対して盲目的な部分がある」
「俺が仕えていたのは将軍家茂公をご尊敬申し上げていたからです。薨去された今、幕府に忠義を尽くす必要はなく、新撰組で使い勝手の良い駒となるのもご免です。そこで…伊東参謀のお考えをぜひ聞かせていただきたい」
「何故私なのだろうか」
「参謀もいつまでも新撰組に留まるおつもりなど無いとお見受けしたからです」
淀みなく答えた斉藤はまるで遠慮なく人の庭に土足で踏み込んでくるような無遠慮さと大胆さを兼ね備えている。けれど不快にはならないのが不思議だ。
(彼が本当に『間諜』として優秀な働きをしてきたのだろうということはわかる)
伊東はもう一度扇を広げた。
「…大した役者だ」
彼は嘘をついてはいない。けれど彼の言葉を鵜呑みにして受け入れることはできない。
「君はそうやって自分の正体を明かして同情を誘おうとしているのかもしれないが…一方で城多の件を土方君には報告していない。城多を条件に藤堂君を脅しここに来たのだろう?」
「…」
「…先生、俺は…」
それまで黙り込んでいた藤堂が何か言おうとしたが、伊東は首を横に振って制した。
「私の真意を知りたいというのなら…君の本音も聞かせてもらおう。君は何の目的でここにやってきた?」
(これは駆け引きだ)
斉藤は態度こそ下手に出ているが、決して遠慮などしていない。彼には彼の目的があってこの戦場に足を踏み入れたはずだ。
斉藤はしばらく黙っていた。言葉を選んでいるのではなく、伊東をじっと見つめどう駒を動かすべき考えているのだ。そうして動かした駒は
「俺を仲間に加えていただきたいのです」
伊東にとっては『飛車』のように思えた。突拍子無く懐に飛び込んでくるような。
「仲間…?」
「俺は生来ずる賢い人間です。命は惜しい…このまま幕府や新撰組とともに沈没する船に乗るのは癪です。何かあった時には参謀の助け舟に乗りたい」
「どちらに身を置いても助かりたいと?武士としてあるまじき行動だ」
「人間としては正直な行動かと」
溺れる者は助かりたいと思えば藁をも掴む。高潔さを重んじる伊東としては斉藤が口にする言葉全てが信じがたいものだったが、それが心のうちの本音なのだと赤裸々に語る姿には隙がない。
(真実か…?いや、それとも何かの罠なのか…)
斉藤はまるで動かない石像のようだ。言葉は通じているのにその奥にある真意には届かない…それ故に近づけば近づくだけこちらの気持ちが揺れていく。
「…仲間、とは一朝一夕すぐになれるものではない。今後の君の行動によるだろう」
「わかっています」
「少し…考えさせてくれ」
伊東はそう言うしかなかった。


「罠です、大蔵さん」
「そうです、先生」
斉藤が去ったあと、部屋に残った内海と藤堂はすぐに口を開いた。特に内海は珍しく感情をあらわにしていた。
「斉藤組長は隊の中でも特に土方副長に近い存在です。その彼がこちら側に付きたいなど…とても信じられない。何か土方副長の思惑があるに違いないでしょう」
「俺もそう思います。それに自分のことを『間諜』だなんて、本当にそうならそんなことを軽々しく口にするでしょうか」
二人は疑心暗鬼に取り憑かれたように憤慨していた。しかし伊東の方は斉藤を目の前にしたときよりも随分冷静になっていた。
「…しかしその『思惑』があるとして、わざわざ斉藤君を使うだろうか?山崎君を監察から外した今、彼は土方君にとって有用な人物だ…傍に置いておきたいと思うのは普通だろう」
「それはそうかもしれませんが」
「それに…彼が城多の顔を知っていたことのは何らかの『間諜』であることを示している。つまり自分の正体について嘘を述べたわけではない。」
「大蔵さん、一つが真実だからと言って全て鵜呑みにするのですか」
内海は責める。彼は筋の通った人間だ、それ故に斉藤のどちらにも噛んでおきたいという主張が気に食わなかったのだろう。しかし一方で『間諜』として長年仕えてきたからこその絶望があるのかもしれないと想像はできる。人から隠れ裏切り続けることは案外精神を歪ませていく。だからこそ武士としてあるまじき発言が口から零れたのかもしれない。
伊東の知らない斉藤の一面があるのか。
「藤堂君、今まで斉藤君が何か局長や副長と揉めたことはあったかい?」
「…そういえば…俺が隊士募集のために江戸へ下っていた時に、会津へ建白書を提出するときに斉藤さんが連名したと聞きました」
「建白書?」
「池田屋の報酬の取り分について揉めて…永倉さんが中心になって原田さんが賛同したそうですが…数名の平隊士とともに斉藤さんも加わったと。結局は会津の取りなしで丸く収まったそうですが、話を聞いた時、斉藤さんはそういうことに無関心だと思っていたので珍しいな、と…」
「…そうか…」
伊東は花香が準備した茶に手を伸ばした。その茶はすっかり冷え切っていた。






575


秋の空は夜になっても厚い雲に覆われ、時折眩く見えるはずの星をその背中に隠しながら流れて続けている。若者はただ変わり続ける夜空を、花街にある遊郭の片隅から眺めていた。
いつものように藤崎に誘われ数名の取り巻きらとともに廓へと足を運んだ。色白で化粧の濃い女たちが最初は上品に酌をし舞を披露したが、次第に酔いが回り低俗な呑み会へと変貌し目も当てられぬほどのどんちゃん騒ぎとなっていた。
若者は酔ったふりをして宴からこっそりと抜け出した。小さな庭をぐるりと囲む廊下に身を置きぼんやりと夜空を見上げながらあちこちから聞こえてくる男と女の騒がしい声を聞き流し続けている。
(花街なんて初めて来たけれど…うるさくて、臭いや…)
廓に足を運ぶなんて考えたことのなかった若者にとって煌びやかで華やかな世界は、最初は目に映る全ての異世界のような情景に圧倒されたものの次第に飽きた。それが朝が来れば消えてしまう空っぽな作り物だと気が付いたからだ。ここで過ごすのは虚しい時間でしかない。
そして特に女たちが纏う化粧や香料は若者を嫌悪させた。
(こんな匂い毎日嗅いでいたら舌が狂っちまう…)
舌だけではない。指先の感覚も、目に焼き付いた繊細な色彩も、幼い頃から鍛えられてきた何もかもが――すべて上書きされてしまうようだ。
「こんなところにいたのか」
部屋の障子が空いて藤崎が顔を出した。だらしなく襟を崩しぷんぷんと酒の匂いを充満させ顔を真っ赤に染めている。廓に来ていつも以上に酒が進んだようだ。
「…すみません、酔っちまって…」
「嘘つけ、たいして飲んじょらんやろう?」
若者はぎくりとした。藤崎の言う通り乾杯の一杯を口にしただけでそのあとは適当にやり過ごしていたのだ。
「酒は苦手で…」
「ふうん、どいつもこいつも酒によわすぎる。あいつら女たちと酔いつぶれちまった」
藤崎は咎めることなく吐き捨てるように笑うと若者の隣に腰を下ろし、そのまま強引に肩を組んできた。男の体臭と女の化粧と酒の匂い…若者は一瞬で嫌悪した。
「ちょ…」
「安い廓の女は不細工ばっかりだ…お前の方がよっぽどそそる。どうだ、部屋を取って飲み直さんか?」
「さ…酒は弱いんです。勘弁してください」
「やっぱりうぶだな。そがな意味やないのはわかるろう?」
肩を抱いていた手が次第に背中から腰に伸びる。どうにか身体を捩じり避けようとしたが、無遠慮な指先が若者の嫌悪感を高めていく。藤崎は前々からその手の趣向をほのめかしてきたが、酔いに侵されたその眼が本気なのか冗談なのかはわからない。しかし束ね役である彼を強く拒むことはできず困っていると、
「藤崎さん、手水へいったのではなかったのやか?」
と安藤が部屋から声をかけてきた。藤崎は「そうやったそうやった」と笑い、まるで何事もなかったかのように手水場へと去っていってしまった。
安藤はやれやれと言わんばかりに深いため息をつきながら若者を見た。
「この隙に宿へ戻ったらどうだ?」
「え…?」
「藤崎さんにそういう趣味があるのはわかっちゅうやろう?まあ、このまま食い物にされても構わんというなら止めんが…」
「そんなつもりはありません!今度からはちゃんと拒みます」
「…何、意地張っているんだ」
安藤は呆れたように若者を見た。
「お前は何のために俺たちと一緒におる?見ての通り俺たちは尊王攘夷だとか大けなことを口にしながら酒を飲むだけのあやかしい集まりだ。何かを成し遂げたいというのなら、無駄な時間になる」
「…」
「俺がいつも藤崎から助けてやれるわけじゃない」
安藤は酔っていない。足軽から身を立て藤崎らと行動を共にすることになった経緯は若者の知る由もないが、酒にも女にも溺れず自らを律する彼は、彼の理念があって行動しているのだとわかる。
それに比べて自分は、ただただ
「…俺は、どうしても…新撰組の奴らが許せないんや…」
その気持ちに囚われているだけだ。兄を殺された藤崎と変わらない、憎しみだけが突き動かしている。
「…復讐か。ありきたりな理由だな」
「ありきたりでも構わへん。せやから俺は…」
ここを離れなかった。
包丁を捨て、刀を取った。髪を剃り、姿を変えた。父を殺され、すべてを失ったこの復讐心はたとえ一人殺したとて消えるものではない。
「…好きにしろ、銀平」
安藤は何度目かわからないため息をついて部屋に戻っていった。



「今日の巡察も異常はありません」
「ご苦労だった」
幾度となく交わしてきた総司の報告を聞くと土方は頷き、近藤は腰を上げた。
「じゃあ俺は会津へ行ってくる。そのあとは別宅に寄って…夜には戻る」
「ああ」
「頼む」
幼馴染の短いやり取りもまたいつもの光景であるが、近藤はどことなく焦った様子で部屋を出て行ってしまった。
「…何かあったんですか?」
「いい加減、将軍不在も拙いって言うんでこのほど会議が持たれることになったらしい。血筋や家格の意味で一橋公が就任するだろうという目論見だが…尾張の前藩主である義勝公を推す声も挙がっている」
家茂公が薨去したあと、一橋慶喜は徳川家の当主の座のみを引き継いだため将軍が不在のまま数か月が過ぎている。長州とは喪に服すことを理由に休戦状態とはいえいつ戦が始まってもおかしくない状況のなか、頭取が不在なのは幕府として面目が立たない。
「早く将軍職に就いて頂きたいとは思いますが…私たち新撰組に手の届く話とは思えませんね…」
「まあな。ただ、近藤先生は会津公の良き相談相手になっているらしく、よくああやって呼び出される」
「それは名誉なことですね」
幕府への忠誠心が厚い会津と天領の地で育ってきた近藤…場所は違えど考えは共通する面が多いのだろう。最初は素性の知れない浪人としてぞんざいに扱われてきたことを考えると天と地の差だ。総司は何だか誇らしい気持ちになった。
土方は茶を口に含みつつ、「それから」と続けた。
「どうも、お孝が子を身ごもったようだ」
「お孝さんが?!」
「ああ。だがまだ内密の話だから誰にも言うなよ。近藤先生は心配してしょっちゅう別宅に足を運んで様子を見ているが、南部先生にも診てもらっているから問題ないだろう」
「それで何だか落ち着かれないご様子だったんですね。ああでもそれは良かった…」
総司はしみじみと安堵する。近藤の子は試衛館に残してきた正妻の子たまだけで、もし孝との間に男児が生まれるなら後継ぎとなる。総司が剣術を継ぐ必要はなくなり、近藤家が代々守っていくことになる。
「私は近藤先生のお子に剣を教えるのが夢なんですよ。鍛えて私や近藤先生よりも強くなってほしいんです」
「…お前のことだからあんまり厳しく嫌われるんじゃないか?」
「もちろん嫌われないように優しく指導しますよ」
「どうだかな」
ふん、と鼻で笑った土方も本当は安堵しているはずだ。






576


秋の夜の雨は冷たく全身を濡らす。冷たい夜風と相まって頭の先から指先まで縮むような寒さに襲われるが、浅野には何故だか顔を晒し市中を堂々と歩き回る任務よりも馴染みがあった。
浅野は使い古しの笠の合間から狭い視界を見渡した。雨のせいで人通りは少ないが、制札に危害を加えるなら絶好の機会だろう。しかし残念ながら妖しい人影すらなくただただ平穏に時間が過ぎていく。葉の散った樹の袂で膝を追って佇む浅野の姿は物乞いにしか見えないだろう。その証拠にヒビが入り欠けた茶碗には通りすがりの酔っぱらいが投げ入れた小銭がいくつか入っている。
――静かで、暗く、雨の音だけが鼓膜を揺らす。
その静寂を崩すように、バシャバシャと容赦のない足音が近づいてきた。遠慮なく隣に腰を下ろしたのは似たような姿をしている大石だ。顔を土で汚しているがその鋭い眼差しは決して隠れてはいない。
「状況は?」
「…変化なし」
「そうか」
必要最低限の短いやり取り。監察として斥候として周囲に正体を知られるわけにはいかないので当然といえば当然だが、威圧感があり無口な大石は決してこの場でなくとも世間話を口にするようなタイプではない。だがこのままあっさりと去ってしまうのも不自然なので、
「今の役目はどうだ?」
と浅野は話しかけた。
大石は隊士に弟を殺され監察へと異動になった。その不運な事故の経緯は当時監察であった浅野も良く知っていたのが、まさかこちらに異動になるとは思ってもいなかったし務まるとも思えなかったが、彼は汚れ役になることも厭わない様子で淡々と任務をこなしていた。
(自分だったら投げ出すだろう…)
浅野はそう思っていたのだが、大石は少し間をおいて
「悪くない」
と答えた。
「…へえ」
「俺は一匹狼でいい」
ぶっきらぼうに言い放つと「もう行く」と大石は立ち上がりそのまま去っていく。道の端を歩き、存在感を消しながらもピンと背筋を伸ばして。
(もっと腰を曲げろよ…物乞いに見えねぇぞ…)
浅野は心の中で苦笑するが、しかし一方で堂々とそう言い切れる大石が羨ましかった。一匹狼でいい、嫌われても、罰せられても、自分の信念を貫く―――それが自分にあったなら。
(あったらなら…なんだって言うんだ)
大石の姿を見送っていると、カラン、という甲高く小気味よい音が耳に入った。目の前に置いていた茶碗に小銭が数枚入れられたのだ。
浅野は「おおきに」と口にしながらその姿を見ようと笠の隙間から見上げた。
(気配に気が付かなかった…)
上等な紫の傘、低く結んだ長い髪…一瞬、この辺りの芸妓かと思ったが、そうであるならば気配に浅野が気が付かないはずはない。そして同じような経験を前にもしている。
それに気が付いた時、身体に雷が撃たれたようだった。
「裕福な坊ちゃんが、今度は物乞いになったのか?」
「…っ…!」
中性的な声質は確実に脳裏に刻まれていた。
彼は雨をも厭わず膝を折り、浅野に近づいた。同じ傘に入ってしまうほどの距離――河上彦斎は目の前にいた。
浅野は咄嗟に背中に隠した脇差に手を伸ばそうとしたが、それ以上に早く河上の手がその手を止めていた。目にも止まらぬ早さとはまさにこのことだろう。握られた指先は縄のように強く少しも動かすことができない。
「お前…は…!」
「随分探した。…お前には礼をしようと思ったんだ」
「礼…だと?」
「先日の良い夜の礼だ。お前のおかげで面白い結末を迎えることができた…その礼だ」
河上は茶碗にさらに小銭を投げ入れた。警戒する浅野とは対称的な昏い影を持った眼にやりと笑った口元…色白の肌が不気味に美しい。
「…俺は…あの夜、…お前に、何を…」
「なんだ、覚えていないのか。…規律違反を犯した者が立場を利用して逃げ果せる、許せぬ許せぬとうわ言で繰り返していたではないか」
「…!」
(やはり俺は…この男に何もかも暴露していたのか…!)
サッと血の気が引くような心地だった。心の片隅で「そんなはずはない」と己を信じていたというのに、あっさりとその希望は打ち砕かれた。しかし一方で当然だと思った。この圧倒的な存在感を前にしては誰もが尻尾を巻き自分の弱さを吐露してしまう。
河上は続けた。
「しかもその者が佐久間象山の妾腹の子という。あの者とは禍根があった故、利用せぬ手立てはないと思った。…おかげで沖田と再び対峙できたのは誤算ではあったが、悪くない誤算だった」
「…」
浅野は絶句するしかないが、河上はまるで面白いおもちゃを見つけたかのように機嫌が良かった。
「結局、あの男どもは京を落ち延びたのだろう?死ななかったのが不満か?」
「…何故、それを…」
「お前にとって、何故知っているかは問題ではないだろう?」
肝心なことには答えず河上は目的だけを果たしていく。それはまるで誘導されているようだったが、彼の言う通りだった。
何故、何故、何故―――重なっていく疑問。けれど行き着く先は決まっている。聞きたいことは一つだけだ。
「何故…銀平を巻き込んだ…?」
河上はまるでその質問を待っていたというようににやりと笑った。
「…俺はいくつか自分にとって許せぬことがある。その中で最も許せぬことは、誰かの代替品にされることだ。代わりの利く人形に様に扱われるのは御免だ。…お前は何度も呼んだ。…銀、銀、と」
「…!」
「それ故、憎らしくなりその『銀』とやらを探し出し親切にも教えてやったのだ。お前の仇が今まさに京から逃げ出そうとしている…と。あとの顛末はお前の知っての通りだ」
河上はようやく掴んでいた手を離した。余りに強い力で握りしめられ血流が止まったかのようにジンジンと痛み力なくその場に落とされた。
そしてもうその手が脇差に伸ばされることはなかった。
「気が済んだ。もうお前に会うことはないだろう」
立ち上がろうとする河上を「待ってくれ」と浅野は引き留めた。
「銀は…銀平が今どこにいるのか、知らない…か…?」
「…」
(俺は…何を聞いているんだ…)
すべてこの男の手のひらで泳がされていただけだった――その事実を知ったというのに、何をまだ縋ろうとしているのだ。
すると河上はフッと少し笑った。口元を緩ませて
「案外、近くにいるかもしれぬ」
と冗談めかして去っていく。
河上がいなくなると、雨は強くなった。そんなはずはないのに、まるで彼がそうさせたかのように。
心地よいと思っていた秋の雨が、皮膚という皮膚を通り抜けて身体の芯を凍らせていくような鋭い刃へと変わっていた。
(寒い…)
身体が震えていた。


数日後の、十月下旬。
「総司、一番隊の夜番は十番隊の応援に入ってくれ」
巡察へ出かける準備をしていると土方がやってきた。
「十番隊…?つまり制札の件ですか」
「有力な情報が入った。これまで制札が引き抜かれた二件と類似する浪人たちが近くの宿に屯しているようだ」
「なるほど、このところの雨が止んで今晩は霧が濃い。確かに動くなら今日かもしれませんね」
「ああ」
土方の的確な指示を受け、総司は頷いた。早速伍長である島田に伝えて隊士たちに行き渡らせると彼らにも緊張が伝わっていく。
「それから、浅野のことだ」
「浅野さん?」
「ああ。…少し気を付けておけ」
「…わかりました」
土方に深くは訊ねずに総司は受け入れた。
(長い夜になりそうだ)
そんな予感があった。





577


慶応二年十月。
視界を遮る霧の下りた秋の夜は、この先の季節を予感させるかのように静かで重たかった。
「おう、来たな」
総司をはじめとした一番隊を右手を挙げて迎えた原田の頬は、すでに赤く染まっていた。
「…原田さん、今夜は飲まない方が良いんじゃないですか?」
「大して飲んだわけじゃねぇよ。お前も知っての通り酒には強いんだ、いわばこれは前祝の酒ってことだな」
原田の悪びれのない様子に、「やれやれ」と総司は苦笑するしかない。しかし仕切り役の原田に力が入ってしまうと隊士たちも緊張してしまうのでこれくらいで良いのかもしれない。
「それで、配置の方は?」
「この一番近い先斗町会所には俺をはじめとして十人、三条大橋の向こうの町屋には大石と十名の隊士、三条小橋の酒屋に新井達を数名。一番遠いから待機のみの援軍扱いになるだろうが、その酒屋へ一番隊の人員を割いてほしい」
「わかりました」
一緒に話を聞いていた島田は総司の視線に頷くと、手筈通りにそのまま隊士たち数名を引き連れて会所を出た。もともと援軍として一番隊の隊士を呼んだのだから後軍に回るのは当然だ。そして残ったのは山野と数名のみだった。
「悪いな、一番隊を援軍なんかに回らせちまって」
「いえ、最初からそのつもりですし、手柄は十番隊に上げてもらわないと困りますから」
「まぁ、そういうことだな。…で、何か差し入れとかないのか?」
「もちろん土方さんから預かってますよ。…山野君」
「はい」
山野は抱えていた風呂敷を広げ笹の葉で包まれた握り飯を並べたが、原田は不満そうに口を尖らせた。
「なんだ、握り飯じゃあ酒の肴にならねぇじゃねえか。土方さんも気が利かねぇなぁ」
「当たり前でしょう、ようやく今夜に決着かもしれないっていう時に」
「わかってねぇなあ、だからこそ気分を高揚させるために必要なんだって」
原田はそう言いながら握り飯を手に取ると早速口に運んだ。酒には合わないと不満そうだったが、あっという間に一個を食べ切った。山野らが配膳に向かわせ、総司は原田の隣に座った。
「…監察から有力な情報があったと聞きましたけど」
「ああ。監察の協力者からの密告で、この近くの宿屋に背格好が似てる奴らがいるって話だ。制札の件も自分たちがやったって嘯いていたとか…酒の席の話らしいが、八人ほどの土佐ものらしい」
「土佐ですか」
てっきり制札で槍玉に挙げられている長州の浪人あたりの仕業だろうと思っていたので、総司は少し驚いた。原田は二個目の握り飯に手を伸ばしながら続けた。
「俺は詳しいことはよくわからねぇけど、長州と薩摩をくっつけたのは土佐だって話だろう?それに夏の長州征討の戦も中途半端なことになっちまって、どうやら長州の奴らが盛り返してきてやがる。制札だって三年も前から立てかけてあったものが今更投げ捨てられるなんて、いつの間にか立場が逆転されちまって長州だけじゃなくっていろんなところの奴らから幕府が馬鹿にされてるってことだろ?」
「…制札は禁門の変で御所に砲撃した長州を咎める内容ですからね」
「ああ。つまりそれを投げ捨てるって言うのは長州に味方する者が少しずつ増えてるってことだ。…俺は今、誰が敵で誰が味方か、よくわからねぇよ」
「そうですね…」
原田の気持ちはよく分かった。
京にやってきた頃は、幕府の安泰を信じて疑うことはなかった。開国か攘夷かで揺れる中、討幕を掲げる長州は異端者だった。しかしそれがいくつかの出来事を経て現実味を増していつの間にか間近の問題になろうとしていて、それは数年前の自分たちには想像もできなかった現実なのだ。
誰が敵で、誰が味方か。その線引きはいったい誰にわかるというのだろうか。
総司が考え込んでいると原田はふん、と鼻で笑った。
「…ここで動きもしない制札を眺めるだけの暇を持て余していると、俺らしくねえ、つまらねぇことを考えちまうんだ。さっさと仕事を終わらせて嫁さんの隣でゆっくり寝てぇよ」
「茂君も待ってますよ。…そういえば、浅野さんは?酒屋の方ですか?」
「あれ?土方さんから聞いてねぇのか?浅野は大石と組ませて斥候役だ」
「斥候…」
「もともと浅野は監察だ、適役だろう?」
原田は何の気もなく笑ったが、総司の脳裏には何かが引っ掛かった。それは屯所を出る前に土方がわざわざ彼の名前を出して『気を付けろ』と言ったせいだ。
(…土方さんは何を予感しているのだろう)
その答えはもちろん、わからなかった。



鴨川沿いの居酒屋は何度か足を運んだことのある懇意の店だった。奥の座敷を八人ほどの男たちで囲むと狭苦しい。
「もう一杯!」
「藤崎さん、呑みすぎやよ」
同志に窘められるほど泥酔した藤崎は、それでも「まだ呑める」と言い張り追加を準備させた。時折隣に座った銀平の太ももを女にするように撫でながら、しかし今夜の良い方は少し乱暴だった。「畜生畜生」とうわ言のように繰り返しいくら呑んでも酔い足りないと口にする。
「銀、お前も呑め」
「頂いてます」
「嘘つくな。…ったく俺の酒は飲めねぇってことか?」
「藤崎さん、代わりにもらいますから」
銀平を庇うように安藤が口をはさんだ。藤崎は「ふん」と不満そうにしながら安藤が差し出した猪口に酒を注ぐ。安藤はいくら呑んでも酔わない体質のようで宴会ではいつも最後まで正気を保って世話役に徹している。それは自分が足軽出身だという引け目かもしれないが、元来の性格なのだろう。
藤崎は「小用を足してくる」と座敷を抜けた。すると安藤が
「昨晩、亡くなった兄上が夢枕に立ったそうだ」
と彼が荒れている理由を教えてくれた。
「あ…池田屋で殺されたと…?」
「ああ。ただ、正しゅうは池田屋の騒動のあと周囲を警戒していた兵にやられたという話や。新撰組に直接手を下されたわけじゃねえが、怪我を負うて土佐藩邸に引き渡された後に腹を切った…」
「…」
亡くなった兄からすればもしかしたら事故だったのかもしれない。その夜に出歩かなければ、兵に会わなければ、池田屋の騒動さえ起こらなければ防げた死なのかもしれない。
(…お父ちゃんもおんなじや…)
あの夜、ようやく風邪が治ったと上機嫌に散歩に出かけ、そのまま亡くなった。引き留めていれば、新撰組に出くわさなければ…。
(本当はわかってるんや…)
事故だったのだとわかっている。けれど、偶然の出来事が重なって起きた不幸を『不運だった』の一言で終わらせることができなくて、どうしようもなくぶつけようもない恨みだけが募っている。それはきっと藤崎も同じなのだろう。
この薄汚れた気持ちが晴れない限り、もう元の生活には戻ることはできない。
「そういえば、この先の三条大橋で斬られたんやったな…」
安藤が目を細めた…その時、小用から戻ってきた藤崎が血走った眼をして
「決めた。今晩やるぞ!」
と突然叫んだ。すると同志たち数人が「おお!」と呼応し場の空気が一気に熱を帯びていく。何のことかわからず戸惑う銀平の横で安藤が深いため息をついた。
「…仕方ないな…」
「安藤さん、いったい…?」
「ついてきたらわかる」
安藤は詳しくは語らなかったので、銀平は彼らに従った。
濃い霧が視界を狭めていた。しかし厚い雲が風に流れて月が顔を出し不気味な光に照らされていた。







578


思えば、不気味な夜だった。
陽が落ちてからずっと厚い雲と深い霧に覆われていたのに、子の刻(十二時)にまるで光明が差すかのように突然月明りが差し込んで、提灯がいらないほどにあたりを照らし始めたのだ。暗闇でありながら明るい…ちぐはぐで静かな夜。
「春雨に しっぽり濡るる鶯の 羽風に匂う 梅が香や 花にたわむれ しおらしや…」
銀平と安藤以外の男たちはすでに酔いが回り千鳥足になりながら歌い歩いていた。季節外れの春の小唄は先日花街で同席していた女が披露していたものだ。
「小鳥でさえも 一筋に ねぐら定めぬ 気は一つ わたしゃ鶯 主は梅~」
数人の男たちによる大合唱。酔っぱらいの戯言だと通りすがりの者たちが迷惑そうな白い目を向けた。男たちの中でも一番上機嫌な藤崎が音程を外しながら叫ぶ姿は騒音に等しい迷惑なものだが、鴨川に近づくとその川の流れに同調して幾分か気にならなくなった。
「やがて身まま気ままになるならば さぁ 鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな さぁさ なんでもよいわいな」
いつか自由になれたら、夫婦になりたい。一緒になれるのなら何だってかまわない―――廓に身を預けた女が男と添い遂げたいと願う。廓という狭い箱庭の中にあって、いじらしくて純粋な女たちの歌。
銀平にとって心情は理解できても、あまりにかけ離れた別の世界の歌のような気がしていた。自分には消え失せた色恋の純粋な感情――羨ましいほどに世俗的で呑気だ。
ようやく長唄が終わった時、酔いつぶれた男を背負う安藤が「藤崎さん」と呼び止めた。三条大橋は目の前だった。
「なんや」
「霧は濃いが月が出てきた。誰かに見られたら拙いのじゃないか?」
「見られても構わん。小心者の足軽は黙っていろ!」
「…」
藤崎が怒鳴り、安藤は黙る。銀平は(そんな言い方はないやろ)と憤慨していると、藤崎は「行くぞ」と酔っぱらった男たちを手招きして三条大橋西詰北側にある制札場に向かう。そしてそのまま躊躇いもなく柵を乗り越えてしまった。
「え?」
目の前で起こっている状況が飲み込めず銀平は困惑した。
男たちの一人が懐から取り出した矢立てで制札を乱暴に黒く塗りつぶし、あっという間に引き抜いた。そしてそのまま鴨川の河原に「でやっ」と放り投げ、砂利を踏み荒らしながら下りていくとバンバンと踏みつけ始めた。酔っぱらった藤崎たちは笑い声をあげながらまるで子供の悪戯のように楽し気にしている。
銀平は唖然としてその光景を見るしかなく、また安藤も隣で無言のまま立っている。
「あ…安藤さん…あれは…制札…ですよね」
「…幕府の制札に間違いない。長州を追放する旨が書かれてる」
「あんなことして大丈夫なんですか…?」
「夏に制札が壊されたち話を聞いて、悪戯半分に藤崎さんたちが真似をした。それがバレることのう上手ういって…憂さ晴らしとはいえ悪い遊びを覚えてしもうたようだ」
「…」
近くで暮らしてきた銀平にとって、制札は遠い場所にいて自分たちを治める幕府や将軍という存在を示す唯一の片鱗のようなものだった。神聖で触れたら罰が当たる…お堂の奥に隠された仏のような触れられない恐ろしいものだった。
しかしそれを彼らはあっさりと踏みつぶしている。そこには高らかな尊王攘夷の志など無く、また制札に書かれた長州を擁護するつもりなども無く、ただ日頃のうっ憤を晴らすだけの何のこともない悪戯だった。はしゃいで大声をあげ…しかし銀平にはその光景が酷く滑稽に映り、また己がその一部であるという事実を突き付けられ、一気に身体の力が抜けていくように感じた。
(俺は何をしているんやろう…)
新撰組が憎いと語る藤崎の考えに肩入れし、同情し同情されここにいる。自分ひとりだけで立つことができず素性の知れない粗暴な彼らとともに行動する…それが何と小さく惨めなことか。
(俺は…弱かっただけや…)
父を失い、人としての一線を超え、手を掛けた…その圧し潰されそうな罪悪感を憎しみに置き換えて誤魔化して留まった。そうすることが正しいのだと言い聞かせて、何もかもを失った絶望感から目を逸らして。
「潮時かもしれん」
安藤がつぶやいた一言は、まるで自分の口から出た言葉のようだった。
潮時…そう、自分には向かなかった。重たい脇差も剃ってしまった月代も何もかもが自分には不似合いだった。
「安藤さん、俺…!」
と、言いかけたその時、
「新撰組原田左之助 一番乗り!」
威勢の良い名乗りとともに突然、制札場近くの町屋から十数人の男たちがなだれ込んできたのだった。



―――その少し前。
乞食に扮し薦を被っていた浅野は、同じく斥候役を務める橋本皆助という隊士とともに三条大橋の下で身を潜めていた。
「霧が濃いですね…」
「…」
橋本の呟きを聞き流し、浅野は周囲に目をやった。靄のかかった視界には橋本の言う通り何も映っていないが、目を凝らし続けていた。
(この仕事が終わったら…俺は隊を抜けよう)
数日前、河上との邂逅を果たし決心した。
土方の推察通り、酔っぱらっていたとはいえ敵方に情報を漏洩していたのだ…それは監察方として許されない行為でありすでに切腹を言いつけられてもおかしくない失態だ。浅野は幸運にも降格処分で済んでいるが故に、このまま黙っていれば良いのかもしれない。時が経て何もかもなかったことになるのかもしれない。
けれど、そうすることはできなかった。それは自分の中にある責任感や正義感、誠実さなんて潔いものが理由ではない。
(俺はもう…疲れたんだ)
新撰組隊士としてふるまうことも、自分ではない自分を演じることも…すべてに疲れ切っていた。河上からあの夜の話を聞いた時に心底、疲れたと思ったのだ。蓄積していた負の感情が雪崩のように脆く崩れた――それ故に隊を抜けるのだ。
(脱走の罪で捕らえられるか…はたまた幸運にも逃げ果せるか、それは俺の運次第だな…)
その成り行きさえもどうでも良い。
浅野がそんなことを考えていた時。
「…浅野さん、あれを見てください」
「…」
橋本が指さした先――数名の男たちが屯して制札場の前にいた。小競り合いがあったのかよく聞こえないが、姿は良く見えた。
(いつの間に、雲間から月明りが差し込んでいたのだろう…)
「浅野さん、あいつら柵を乗り越えましたよ」
「…」
「浅野さん!」
リアクションのない浅野を橋本が急かす。
「あ…ああ、原田組長に報告を。俺は東の…大石の元へ行く」
「わかりました」
橋本は暗闇を選びながら小走りに駆けていく。彼がまず原田の元へ報せ、浅野が三条大橋の向こうの町屋に潜む大石の元へ向かうのは段取り通りだ。橋本の姿が見えなくなったあと、立ち上がった時、ふと気が付いた。
(あれは…まさか…)
七、八人の男たちの殿で所在なく立つ一人の青年…幸運なのか不運なのかその姿を淡い月の光が照らし出す。
「銀…!」
月代を剃っている、脇差をしている…そんなことは浅野にとって関係ない、それは銀平に間違いなかった。
(どうしてこんなところに…!)
『案外、近くにいるかもしれぬ』
不意に河上の言葉が蘇る。彼がこのことを知っていたのかからかっただけなのかはわからない。けれど事実として銀平は目の前にいる。
しかしそれは二人にとって幸運な再会とはならなかった。
「でや!」
浪人風の男たちが制札を引き抜き、鴨川沿いに投げた。それを踏みつぶしケラケラと笑い始め…それは浅野たち十番隊がずっと待ち構えていた『敵』だったのだ。
浅野はその場から動けずに成り行きをみているしかなかった。そしてそこに原田の怒号が聞こえてきたのだった――。





579


霧が濃く視界の悪い夜であったが、突然月明りが家屋の隙間から差し込むようになった。淡く眩しい光に照らされる屋外を見て
(不気味だな…)
と総司は刀を抱えながら膝を折っていた。同じ先斗町町会所で息を潜める隊士たちは十名ほどだが、同じように固唾をのんで合図を待っていた。
それらしい男たちが制札場に近づいているという一報が届いたのはつい先ほどのことだ。鼻歌混じりの七、八人の男たちはやはり土佐訛りだということだったがより確かな確証を得るためにより制札場に近い斥候たちの報せを待ち、実際に制札へ危害を加えるのを確認したらここを飛び出し捕縛することになっている。
「…へへ…身震いがするぜ」
原田は今か今かと待ちわびる。捕縛が基本とはいえ、彼は好戦的な表情を隠そうとはしなかった。何日もこの時を辛抱強く待ち続けたのだ、多少暴れたところで土方の小言を食らうくらいのことだろう。
耳を研ぎ澄ませると少し怒鳴り声がして、またすぐに静かになった。監察からの報せはない…堪えきれなかったのか原田は立ち上がり「行くか」と声を上げた。
「監察の報せを待たないんですか?」
「大丈夫だ、俺の野生の勘が早くいけって言ってる」
「はぁ、とんだせっかちな勘ですね」
原田の根拠のない言葉に総司は苦笑しかできないが、「だったらここで待ってるか?」と言われると
「行きますよ」
と同意した。身を隠して気配を探る…それが思った以上につまらなく、また彼と同じように自分もまた堪え性がなく監察向きではないことを思い知っていたところだったのだ。
原田は得意の槍を手にし十番隊の隊士たちも抜刀、応援の一番隊数名はその後方に付き町会所を出た。するとちょうど折よく乞食姿をした斥候役の橋本皆助がやってきたところだった。
「あっ、原田組長!」
「おう!どうだ、橋本」
「奴らです!制札を引き抜きました!」
「よくやった!」
「はい、俺は三条小橋の新井さんの元へ向かいます」
橋本の報告に原田は満足そうにうなずくと、「行くぞ!」と大声を張り上げて駆け出した。
先斗町会所から鴨川へは目と鼻の先だ。原田は壊れた制札を囲む男たちを見るや
「あそこだ!」
とまるで子供のように喜んで一番乗りで到着し「新撰組原田左之助 一番乗り!」と名乗りを上げて突進した。囲まれた男たちは
「なに?!」
とすぐには状況を掴めていない様子だったが、反射的に次々に抜刀した。彼らの足元にはバラバラに壊された制札が散らばっており、それが動かぬ証拠であった。
「制札壊しなんて下らねえ真似しやがって!死にたくなかったら大人しくお縄に就くんだな」
原田が挑発すると男たちが口々に叫んだ。
「怯むな!新撰組や」
「返り討ちにしてくれる!」
「新撰組がなんぼのもんじゃ!」
バラバラに壊された制札が足場の悪い砂利の上、十番隊の隊士たちが彼らを囲む。どちらともなく襲い掛かり静かだった夜の闇に耳を裂くような音が響き渡った。
「でやっ!」
「やぁ!」
「ああぁ!」
総司は後方に回り構えながら、月明りの元できらめく白刃を見ていた。不意を突かれた男たちと数日ぶりに解き放たれた十番隊の隊士たちの気合…どちらが勝るかなど考えるまでもない。原田などは久々の見せ場にいつもよりも動きは良いし、隊士たちもうっ憤を晴らすかのような働きぶりだ。それにしばらくすれば橋本が呼びに行った新井忠雄の部隊も加わるのだ。
(これなら手を出さなくて済みそうだ)
応援に来た一番隊が手柄を上げても仕方ない。…そう思っていた時、ふと先斗町とは反対側にあたる三条大橋を渡った先に控えているはずの町屋に何の動きもないことに気が付いた。
(確か…)
町会所に控えているとき、原田が言っていた。
『三条大橋の西側、こっちには橋本が知らせてくれることになってる。反対側は浅野だ』
(何かあったのだろうか…)
そうしていると背後から新井が率いる十数名の隊士たちが駆け込んできた。中には島田たち一番隊の隊士たちも混じっているが彼らは当初の指示通り後方へ回った。
男たちは流石に怯んだ。最初に飛び込んできた人数は少し新撰組が上回るだけ、切り抜けられると思ったのだろう。しかし今は二十数名以上の隊士に囲まれているのだ。
「どうする?逃げるか?」
「馬鹿野郎!今更尻尾を巻いて逃げられるか」
「じゃあどうするんちや!」
男たちは数名怪我を負っていた。この囲まれた状況の中では逃げるのも難しい…リーダー格と思われる男が「わしは逃げん!」と叫んだ。
「兄上の仇を打つ!俺は逃げんぞ!」
並々ならぬ決意を口にし、男は踏み出した。そうすると
「ヤァァァァアァ!」
と総司の背後から威勢の良い声が聞こえてきた。咄嗟に振り向き、声のする方向へ刃先を向けると男が一人こちらへ勇猛果敢にも突進してきた。
総司はその刀を薙ぎ払う。男は足場の悪い砂利で少しバランスを崩したがそれでも踏みとどまり「クソ!」と闇雲に刀を振り回した。何度か剣先が交差する…総司よりも身長が高いがその実力差は明らかであり、おそらく男は剣術など身に着けてはいないだろう。
(だが、躊躇いがない)
生きること、死ぬことに迷いがない。ただ彼の中にあるのは仲間への思いなのだろうか…しかしその躊躇のなさはこの状況に置いて最も強い。
「安藤!どいて逃げざった?!」
仲間のリーダー格の男がが問いかける。総司の目の前にいる安藤と呼ばれた男は「当たり前や!」と叫んだ。
「あんたたちはただの飲んべえだが、藤崎さん、足軽から俺を拾うてくれた、その恩義だけは忘れることはできん!」
「…大馬鹿者が!」
安藤と藤崎と呼ばれた男たちの奮起で再び勢いを取り戻す。圧倒的に不利な状況の中、彼らは怪我を負おうと仲間が倒れようと反発し続けた。死に物狂いの敵ほど実力以上の力を発揮するが、しかし兵力差に敵うことはない。総司は安藤を少しずつ追い詰め、そして肩口から腰に掛けて一閃させた。
「ああ、あぁぁぁ…!」
安藤は膝を折りその場に倒れこんだ。浅手だが傷は広い。血の流れる量も多いのでこのまま生きるか死ぬかは本人次第であり、少なくとも今立ち上がることはできないはずだ。
「…っ、ここまで…かっ!」
安藤は全てを悟ったのか最後の力を振り絞るように脇差を抜くと、自らの腹に突き立て押し込んだ。そしてそのまま絶命した。
同じように十番隊との決着がついていく。何人かは負傷し倒れこみ、藤崎と呼ばれた男は大の字に倒れこんでいた。数名の男は隙をついて逃げ出したようだ。
「終わりましたね」
「ああ、一人、二人死んだか。…くそ、五人ほど逃しちまったか…」
原田は人数で圧倒していた割には成果は少ないことに苛立っているようだった。逃げ延びた男たちの捜索には後方支援の一番隊を向かわせているが、いつの間にか眩しかった月が隠れ昏くなってしまったので難しいだろう。
そうしているところへようやく三条大橋の向こうから大石たち十数名がやってきた。
「遅ぇ!」
原田の一喝に大石は無表情ながら「申し訳ありません」と謝った。しかし総司は無表情の中にも彼の困惑を感じ取った。
「なにかあったのではありませんか?」
「…はい。斥候からの報せがなく鴨川越しに状況を認識し、やってきた次第です」
「報せがなかっただと?こっちには橋本が来たぞ」
「浅野は…来ませんでした」
「なにぃ?!あいつ、逃げやがったのか?!」
原田が叫び、大石は唇を噛んだ。だが数々の修羅場を潜り抜けてきた浅野がこの程度の騒ぎで逃げ出すはずはなく、しかも斥候役であり刀を持たないのだ。
「あの…すみません」
おずおずと声をかけてきたのは山野だった。総司とともに後方から支援していた。
「どうかしました?」
「実は…あの安藤という男が参戦する前、浅野さんがあの男たちの仲間と思われる一人と何処かへ消えていくのを見ました。最初は信じられずに見間違いかと思ったのですが…」
「なに?!あいつ裏切ったってのか?!」
「わ、わかりませんが…背格好は似ていて…」
原田は山野に掴みかかるが、彼もまた信じられないのか曖昧に言葉を濁す。
浅野は一度、隊を裏切ったという疑惑がある。
総司は何かの間違いだと思っていたが、山野の話すことが本当なら浅野は今度こそ裏切り者として処断される。
「…私が行きましょう。山野君、どちらに向かったかわかりますか?」
「は、はい…」
総司は原田に「任せる」と言われた。彼がここを離れるわけにはいかないのだ。
月が厚い雲に覆われ、夜は深まる。
まだ朝は来ず、終わらないのだと知らせるように。








580


『一番乗り』の名乗りとともに雪崩のように新撰組の隊士たちが駆け込んでくる。酔っぱらいながら制札を踏みつぶしていた藤崎たちはあっという間に彼らに囲まれてしまった。
河川敷を見下ろす場所にいたため彼らに気づかれることはなかったが、安藤に手を引かれ物陰に身を隠す。新撰組―――その存在を前にして銀平の足は竦んでいた。
「お前はここにいろ。…隙を見て逃げ出すがよ」
「そんなこと…!ようやく仇が現れたんや、俺も加勢します!」
「あんな大人数では太刀打ちできん、逃げ出すのがやっとだろう。それに…自分の手をよう見て見ろ…震えているぞ」
「…これは…」
「ただの無駄死にだ」
カタカタと指先が無意識に震えていた。新撰組の数は十数名、囲まれた藤崎たちは五名ほど。不利な状況のなか剣の覚えがない銀平が加勢したところで戦力にはならないだろう。
「あ…安藤さんは、どうするのですか…」
「…俺には恩がある。足軽の分際で勤皇や、討幕だと唱える俺を誰もが取り合わず嗤ったが、藤崎さんたちだけは耳を傾けてくれた。多少無鉄砲で愚かなところはあるが…見捨てることはできん。だがお前は違うろう」
「…」
「新撰組に恨みがあるのはわかっている。やけんどその恨みだけに囚われてこの先ずっと生きていくつもりか?その憎しみは命よりも大切なものか?一度考えてみるとええ。それでも恨みを果たしたいちょいうのならその時でも遅うないはずだ」
安藤は「もう時間だ」と抜刀した。状況はどんどん追い詰められ、奮戦する藤崎も怪我を負っている様子だ。
「さようならだ。達者で暮らせ」
「安藤さん…!」
安藤は笑みを浮かべるとそのまま背中を向けて河川敷を駆け下りて行った。振り返ることなく、迷うことなく、たとえ死ぬとわかっていても向かっていく姿を銀平はただただ見ていることしかできない。
(これが決定的な違いや…)
銀平はその場に座り込んだ。まるで自分の体中の力が抜けていくような感覚を覚える。
本当に新撰組を憎むなら、安藤のように命を投げ出してでも彼らを助けに行けば良い。たとえ何の力にもならなかったとしても駆け出して盾になれば良いのだ。
しかしそうしなかったのは、自分にはその覚悟がないから。
(そんな生き方は俺には不似合いなんや…)
改めてそう思った時。
「銀」
懐かしい声が聞こえた。空耳かと思ったがもう一度「銀」と呼ばれ、そちらに目を向けた。
目の前には顔が半分以上隠れた薦に穴だらけのボロボロの衣服に身を包んだ男が立っていた。不思議なことに「誰だろう」とは思わなかった。
「…福次郎…はん?」
彼は商家の次男坊でいつも小奇麗な着物に身を包み、粋な下駄を履いて飄々としていた。時折江戸へ行くと言っては土産に美味い菓子を持って帰った気さくな友人。
目の前の乞食のような男とは何もかも違うのに、銀平は彼は『金山福次郎』だと思った。
すると男は薦を脱ぎ捨てる。鬢付け油の匂いをさせ綺麗に整えられた髪ではないがしかし、乱れた髪でも福次郎だということはわかった。
「な…なんで、こないなところに…」
父を殺され新撰組の仇を打ち、都を離れようと思った時に唯一の心残りとなった福次郎の存在。銀平は一度金山家を訪れたが姿がなく噂で福次郎が長旅に出たらしいと耳にして、二度と会うことはできないのだろうと諦めた。
それなのにいま、目の前にいる。いつもとは真逆の姿で。
福次郎は膝を折り、銀平の肩に手を置いた。
「銀、逃げろ」
「え…?」
「もうすぐ新撰組の隊士の応援が来る。土佐者たちは逃れることはできない」
「…なんで、そないなこと福次郎はんが?だいたい、その恰好もどういうつもりで…」
「良いから、この場は言うことを聞いてくれ」
銀平の問いかけを無視し福次郎は何も語ろうとしない。今まで交わしていた京ことばも彼の口から発せられることなく、余裕のない様子で急かされた。
遠くで甲高い刀の音が響いている。獣のような怒号と悲鳴が交錯し戦いが激しさを増している。それが現実だとわかっているからこそ、偶然通りかかった福次郎が助けに来てくれた…それを奇跡だと信じられるはずはなかった。
「…新撰組…隊士…?」
「…」
「はは…まさか、そないな嘘や。なあ、嘘って言うてや、そないなわけあらへんやろうって笑うとくれや、福次郎はん!」
福次郎の両肩を掴み揺さぶった。しかし銀平の必死の問いかけの答えはなく、彼の表情が歪み唇は固く結ばれている。その表情で全てを確信したが、それでも彼の口から聞くまでは信じられない。
「頼むさかい教えて。そないしたら言う通りにする…!」
「…」
長い沈黙のあと、福次郎は意を決したように息を吐いた。そして銀平の両手を掴む。
「…商家の次男坊、放蕩息子の『金山福次郎』は監察方としての仮の姿だ。…俺は、新撰組隊士の浅野薫という」
「…」
「黙っていて悪かった…」
福次郎…浅野は力なく項垂れた。その姿にずっと浅野が抱えてきたものを見たような気がして、不思議と銀平の心に騙されたという怒りはなかった。
「…おしえてくれて、おおきに」
「怒らないのか…?」
「自分でもようわからへん。でも…あさのかおる…って、なんか優雅な名前やな。全然合うてへん…金山福次郎の方がお似合いやなぁ」
「…銀…」
「新撰組ってことは、俺が何やったか知ってるんや。妙な男の誘いに乗って、一人隊士を殺したって…知ってるんやろ?」
あの夜は男に唆されたせいか、それとも父を殺された怒りの熱量のせいか何の躊躇いもなく隊士を斬りつけたのだ。
浅野は「ああ」と頷いたが
「腕を無くすことにはなったが…死んではいない」
「え?」
「療養の後、そのまま江戸へ下ったはずだ。…お前にとって不本意かもしれないが」
「そうやったんや…」
庇った男の腕がまるで跳ねるように飛んで血が溢れたのは覚えている。銀平はその惨状を見てすぐに逃げ出したため殺してしまったと思い込んでいた。
銀平は自分が安堵していることに気が付いた。
(俺は殺していなかった…)
父親の仇を打てなかった。けれどギリギリで踏みとどまることができた…その事実を知り安心している自分にはやはり人の生死を手にすることは不向きだと思い知った。
そうしていると三条大橋の向こうからもバタバタと激しい足音が近づいてきた。新撰組の応援だ。
「…もう時間がない。逃げろ」
「でも…」
「ここにいればあの土佐者の仲間として一緒の扱いを受ける。…このまま西へ下り、備前へ行け。俺の故郷だ」
「福次郎はんは?こんなことして、大丈夫なん?」
浅野は「大丈夫だ」とほほ笑んだ。
「俺もあとで追いつく。…心配するな、もう一人にはさせない」
浅野は懐から財布を取り出すと全てを銀平に押し付けた。そして強引に立たせてそのまま背中を押す。
「それから、お前が最後に作ってくれた菓子、美味かった」
「…ほんまに?」
「ほんまだ。お前には…そういうのが似合っている」
餞別として大家に託した最後の菓子。それを彼は同じ柔らかな笑みで食べてくれたのだろうか。
「行け!」
「…うん…!」
銀平はその場に脇差を置き、駆け出した。
ちらりと河川敷を見ると安藤が倒れている姿が見えた。真正面から傷を負った勇敢な姿だったが壮絶で悲惨で…やはり自分がそちら側の人間ではないのだと気が付かされる。
(さようなら)
さようなら。
さようなら。
心で何度も繰り返した。


目の前に総司と山野が現れた時、弁解の必要はないと思った。
「…浅野さん、どうしてです」
「…」
「浅野さん。あなたは仲間の応援を呼ばずに敵を一人逃した。…あなたはそれが紛れもない裏切りだとわかっているでしょう」
淡々と問い詰める総司の言葉に、浅野は一切言い返すことはできなかった。かつての上司である総司と裏切りの疑いを掛けられても気にかけてくれた原田には申し訳なかったが、自分はすでに河上へ情報を漏らし彼らの信頼を裏切っていたのだ。そしてこの後には脱走するつもりだった…明らかに法度違反だ。
「浅野さん」
何とか言葉を引き出そうとする総司に、浅野は行動で答えた。
銀平が置いていった脇差を拾い上げ、ゆっくりと抜き…その刃先を総司へ向けたのだ。明かな敵意と反発…傍にいた山野の顔つきが鋭くなるが、総司は変わらなかった。
「それがあなたの答えですか」
そしてゆっくりと彼は刀を抜き浅野と相対する。山野には「下がっていなさい」と命令し、一対一で向き合った。
力で敵う相手ではないのはわかっている。それに監察方として脱走者を追いかけてきた浅野は易々と脱走できないことも知っていた。それ故にすでに自分の命に執着はなかった。
気がかりだったのは銀平のことだ。
(また嘘をついてしまったな…)
後で追いつくと言ったのに、そうはできそうもない。
(銀は故郷で俺を待ち続けるだろうか)
孤独な彼が哀れで仕方ない。でもいつか諦めてくれるはずだ―――俺は嘘つきだったのだと。所詮は新撰組の隊士だったのだと。
そうしてすぐに忘れてしまえばいい。
「ヤァァァアァァ!」
浅野は真っすぐに踏み込んだ。正面から振り上げるのが新撰組隊士浅野薫としてせめてもの償いだと信じた。けれど脇差は短く軽く、総司の胆力を前にあっさりと吹き飛ばされた。
そのあとのことはわからない。
意識とともに何もかもを無くしたのだ。












解説
571 伊東が城多董に見廻組の件を忠告した時期は本来はもう2か月ほど前のことで、実際は典薬寮医師山科能登助を通して伝えたとのことです。
577 一番隊が応援に加わっていますが、二番組、六番組、七番組が十番隊とともに参加したと言われています。
579 藤崎吉五郎、宮川助五郎が惨殺され五人が逃げ延びましたが、そのうちのひとり安藤鎌次はその逃亡の殿を務め奮戦したため思った以上の成果が上がらなかったと言われています。安藤は土佐藩邸まで逃げ込みましたが、切腹したとされています。
580 浅野は三条政札事件の際に臆病な振る舞いを咎められて新選組を追放されたとも殺されたともいわれています。


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