わらべうた




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三条大橋の近くにある会所から眺める景色は、毎夜変わることなく平穏そのものだった。
「ほら、回ってきたぞ」
ある十番隊の隊士が浅野に差し出したのは春画本だった。組長の原田が持ち込んだものが隊士たちに順々に回されて暇つぶしになっていた。浅野はそれを受け取りつつ周囲に目をやった。初日の緊張感はどこへ行ったのか、隊士たちは屯所のようにあちこちで寛ぎ、囲碁や将棋に興じたり、酒を酌み交わしたりしている。浅野にはそれが悪いことだとは思わなかった。暇をつぶすことがこんなにも苦痛なことなのかと実感しているところだ。
春画本をパラパラとめくりながらも、頭では別のことを考えていた。
数日前の非番の日、居酒屋の暖簾の隙間から除いた若者の姿が脳裏から離れなかった。大石に引き留められその正体を掴むことはできなかったが、日に日に(あれは銀平なのではないか)という疑念が深くなっていた。三浦を襲い、芦屋に怪我を負わせた銀平の消息はわかっていない。事情が事情だけに新撰組ではすでに無罪放免となっているが、普通なら報復を恐れ都から離れているはずだ。銀平には身寄りもいないはずだから、あの家を出た時点で頼れる者はいない。
だから順当に考えれば、ここにいるはずはない。
(だが…あの背格好は銀平に似ていた…)
少し小柄で薄い肩。遠目には女子のように見える華奢な体――剃りたての月代とぎこちない帯刀も、すべて銀平の姿に重なっていく。
(だが、俺には確かめる術がない…)
十番隊の一員として高札警護にあたる今やすやすと抜け出すことはできず、情報漏洩を疑われ降格した立場で自由に動くことはできない。
もどかしい思いを抱えながら、春画本の最後の頁に差し掛かる。そこには男装をした女と男がまぐわう独特なシチュエーションの一枚があった。
浅野が思い出したのは情報漏洩を疑われた河上との夜だった。酒に酔って詳細は覚えていないが、居酒屋で声をかけてきた河上は色白で切れ長の整った容姿のせいで女にしか見えず、腰の刀を見るまでは男だとは気が付かなかった。
(…あの時は女装をした男だと思ったが…)
うっすらと覚えている曖昧な記憶の中で、弱弱しい女だったものが、次第に大胆で豪胆で浅野の身体の一部が侵食されていくような感覚を覚えた。妖艶で美しい蝶が周囲を魅了しながらも虫を食らうような、息を飲む圧倒的な存在感。
(俺が河上に三浦の脱走の件を漏らし、銀平もあれに会った…)
認めなくないことだが監察方の見立て通りだとしたら、河上が銀平の居場所を知っているのではないか。
「なかなか風変わりな趣味、持ってんなぁ」
深く考え込んでいたところで、背後から原田に声を掛けられた。浅野がその頁に見入っていると思ったのだろう。
「ご、誤解です」
「誤魔化さなくったって良いだろう?ふうん、そういう趣味だったのか、今度そういう女が良そうなところに連れて行ってやるよ」
「ですから、誤解です!」
原田はけらけら笑ってからかう。彼の隊士との距離の詰め方は友好的ではあるが、たまに話が大きくなってしまうのが玉に瑕だ。浅野は慌てて話を変えた。
「それより、何かお話でも…」
「おう、そうだった。お楽しみのところ悪いがちょっといいか?」
原田は浅野を誘い会所の外に出た。言われるがままに人気のない細道に移動するとそこには大石がいた。彼は斥候の一人として今回の任務にあたっている。
「浅野、悪いが大石と一緒の任務にあたってほしい」
「…斥候、ですか」
「ああ。高札自体はまだ何の危害も加えられていないが、この周囲には妖しい奴らが多い。長州だけじゃなく、薩摩や土佐…いわゆる『どっちつかず』な藩の奴らが屯してやがる。監察の手が足りねぇみたいだ」
「しかし…」
浅野としては古巣の仕事故にその内容に戸惑いはないが、一度は監察方をクビになっている立場だ。信頼関係を要する任務に簡単に復帰して良いのだろうかと迷った。
すると原田が続けた。
「土方さんの許可は出てる。いや、むしろ土方さんの方からお前を大石と組ませて斥候の任務にあたるようにお達しがあったんだ。余計なことを考えずにやればいい」
「…そうですか…」
浅野は大石の表情を窺った。傘を深く被りその表情は半分ほどしか見えないが決して信頼されているとは思えない。そしてそんな大石とわざわざ組むように仕向けた…土方の考えは手に取るようにわかる。
(俺を試しているんだろう…)
敵とのつながりはないのか、もう一度裏切らないのか―――剣の腕で勝る大石を傍に置いて監視させる。土方の考えそうなことだ。
しかし浅野には断る術などない。
「わかりました」
裏切る意図などもともとないのだから原田の言うように『余計なこと』など考えずにすれば良い。それに
(斥候なら…銀平を探し出せるかもしれない…)
そんな微かな希望に縋るしかなかった。


庭の紅葉が美しく色づき始めていた。
あちこちに広がった落ち葉を集めながら花香が「いいお天気どす」と縁側で腰を下ろして寛ぐ伊東に声をかけてきた。
花街では甘ったるい声色と年よりも若く見える化粧で男たちを虜にしてきた彼女だが、妾としてこの家で暮らし始めると案外家庭的で洗濯や掃除、食事の準備など卒なくこなしていた。たまに子供っぽくなるのは性格上仕方ないのだろうが、それでも伊東の門下生たちが集う勉強会には一切関わろうとせず、また知ろうともしない興味のなさは伊東にとってはありがたい。彼女は別宅を設ける口実に過ぎないのだから。
そうしていると内海がやってきた。
「大蔵さん」
普段は淡々とした無表情を崩すことは少ないが、少し焦った様子だった。
「…花香、あちらへ行っていてくれ」
「はぁい」
花香は不満そうにしながらも箒を置いて去っていく。内海は「すみません」と前置きしながら膝を折った。
「何かあったのか?」
「…篠原に調べさせていた件です。城多さんの件ですが…どうやら厄介な相手に気づかれてしまったようです」
「厄介な相手?」
「三番隊組長の斉藤先生です」
「…」
内海の報告にさすがの伊東も顔色を悪くした。
監察方である篠原によると城多と藤堂が待ち合わせる場面を斉藤が目撃し問い詰めているのも、篠原の配下にある下男が見ていたということだった。
「藤堂先生はたまたま鉢合わせただけで、決して手紙の件やその差し出し主が大蔵さんであると口にはしなかったということですが…」
「彼は義理堅い。だが…斉藤君はどうだろうか?」
「不思議なことに、土方副長以下監察にはこの件は伝わっていないそうです」
「私のところにもそういう咎めはない。…しかし、城多は池田屋の残党だ。彼は土方副長に近い存在であるし、黙っておく利点はないはずだが…」
伊東は困惑した。もともと斉藤との接点はあまりないが、寡黙で何を考えているのかわからない節があるものの、『試衛館食客』として一時身を置いていただけあって土方が信頼している稀有な存在だ。
(いったいどういうつもりなのか…)
伊東が考え込む前に、しかし結論は出た。
「伊東せんせ、お客様どす」
花香の甘ったるい声とともに案内されてきたのは、藤堂と斉藤だったのだ。





解説
なし

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