わらべうた




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秋の空は夜になっても厚い雲に覆われ、時折眩く見えるはずの星をその背中に隠しながら流れて続けている。若者はただ変わり続ける夜空を、花街にある遊郭の片隅から眺めていた。
いつものように藤崎に誘われ数名の取り巻きらとともに廓へと足を運んだ。色白で化粧の濃い女たちが最初は上品に酌をし舞を披露したが、次第に酔いが回り低俗な呑み会へと変貌し目も当てられぬほどのどんちゃん騒ぎとなっていた。
若者は酔ったふりをして宴からこっそりと抜け出した。小さな庭をぐるりと囲む廊下に身を置きぼんやりと夜空を見上げながらあちこちから聞こえてくる男と女の騒がしい声を聞き流し続けている。
(花街なんて初めて来たけれど…うるさくて、臭いや…)
廓に足を運ぶなんて考えたことのなかった若者にとって煌びやかで華やかな世界は、最初は目に映る全ての異世界のような情景に圧倒されたものの次第に飽きた。それが朝が来れば消えてしまう空っぽな作り物だと気が付いたからだ。ここで過ごすのは虚しい時間でしかない。
そして特に女たちが纏う化粧や香料は若者を嫌悪させた。
(こんな匂い毎日嗅いでいたら舌が狂っちまう…)
舌だけではない。指先の感覚も、目に焼き付いた繊細な色彩も、幼い頃から鍛えられてきた何もかもが――すべて上書きされてしまうようだ。
「こんなところにいたのか」
部屋の障子が空いて藤崎が顔を出した。だらしなく襟を崩しぷんぷんと酒の匂いを充満させ顔を真っ赤に染めている。廓に来ていつも以上に酒が進んだようだ。
「…すみません、酔っちまって…」
「嘘つけ、たいして飲んじょらんやろう?」
若者はぎくりとした。藤崎の言う通り乾杯の一杯を口にしただけでそのあとは適当にやり過ごしていたのだ。
「酒は苦手で…」
「ふうん、どいつもこいつも酒によわすぎる。あいつら女たちと酔いつぶれちまった」
藤崎は咎めることなく吐き捨てるように笑うと若者の隣に腰を下ろし、そのまま強引に肩を組んできた。男の体臭と女の化粧と酒の匂い…若者は一瞬で嫌悪した。
「ちょ…」
「安い廓の女は不細工ばっかりだ…お前の方がよっぽどそそる。どうだ、部屋を取って飲み直さんか?」
「さ…酒は弱いんです。勘弁してください」
「やっぱりうぶだな。そがな意味やないのはわかるろう?」
肩を抱いていた手が次第に背中から腰に伸びる。どうにか身体を捩じり避けようとしたが、無遠慮な指先が若者の嫌悪感を高めていく。藤崎は前々からその手の趣向をほのめかしてきたが、酔いに侵されたその眼が本気なのか冗談なのかはわからない。しかし束ね役である彼を強く拒むことはできず困っていると、
「藤崎さん、手水へいったのではなかったのやか?」
と安藤が部屋から声をかけてきた。藤崎は「そうやったそうやった」と笑い、まるで何事もなかったかのように手水場へと去っていってしまった。
安藤はやれやれと言わんばかりに深いため息をつきながら若者を見た。
「この隙に宿へ戻ったらどうだ?」
「え…?」
「藤崎さんにそういう趣味があるのはわかっちゅうやろう?まあ、このまま食い物にされても構わんというなら止めんが…」
「そんなつもりはありません!今度からはちゃんと拒みます」
「…何、意地張っているんだ」
安藤は呆れたように若者を見た。
「お前は何のために俺たちと一緒におる?見ての通り俺たちは尊王攘夷だとか大けなことを口にしながら酒を飲むだけのあやかしい集まりだ。何かを成し遂げたいというのなら、無駄な時間になる」
「…」
「俺がいつも藤崎から助けてやれるわけじゃない」
安藤は酔っていない。足軽から身を立て藤崎らと行動を共にすることになった経緯は若者の知る由もないが、酒にも女にも溺れず自らを律する彼は、彼の理念があって行動しているのだとわかる。
それに比べて自分は、ただただ
「…俺は、どうしても…新撰組の奴らが許せないんや…」
その気持ちに囚われているだけだ。兄を殺された藤崎と変わらない、憎しみだけが突き動かしている。
「…復讐か。ありきたりな理由だな」
「ありきたりでも構わへん。せやから俺は…」
ここを離れなかった。
包丁を捨て、刀を取った。髪を剃り、姿を変えた。父を殺され、すべてを失ったこの復讐心はたとえ一人殺したとて消えるものではない。
「…好きにしろ、銀平」
安藤は何度目かわからないため息をついて部屋に戻っていった。



「今日の巡察も異常はありません」
「ご苦労だった」
幾度となく交わしてきた総司の報告を聞くと土方は頷き、近藤は腰を上げた。
「じゃあ俺は会津へ行ってくる。そのあとは別宅に寄って…夜には戻る」
「ああ」
「頼む」
幼馴染の短いやり取りもまたいつもの光景であるが、近藤はどことなく焦った様子で部屋を出て行ってしまった。
「…何かあったんですか?」
「いい加減、将軍不在も拙いって言うんでこのほど会議が持たれることになったらしい。血筋や家格の意味で一橋公が就任するだろうという目論見だが…尾張の前藩主である義勝公を推す声も挙がっている」
家茂公が薨去したあと、一橋慶喜は徳川家の当主の座のみを引き継いだため将軍が不在のまま数か月が過ぎている。長州とは喪に服すことを理由に休戦状態とはいえいつ戦が始まってもおかしくない状況のなか、頭取が不在なのは幕府として面目が立たない。
「早く将軍職に就いて頂きたいとは思いますが…私たち新撰組に手の届く話とは思えませんね…」
「まあな。ただ、近藤先生は会津公の良き相談相手になっているらしく、よくああやって呼び出される」
「それは名誉なことですね」
幕府への忠誠心が厚い会津と天領の地で育ってきた近藤…場所は違えど考えは共通する面が多いのだろう。最初は素性の知れない浪人としてぞんざいに扱われてきたことを考えると天と地の差だ。総司は何だか誇らしい気持ちになった。
土方は茶を口に含みつつ、「それから」と続けた。
「どうも、お孝が子を身ごもったようだ」
「お孝さんが?!」
「ああ。だがまだ内密の話だから誰にも言うなよ。近藤先生は心配してしょっちゅう別宅に足を運んで様子を見ているが、南部先生にも診てもらっているから問題ないだろう」
「それで何だか落ち着かれないご様子だったんですね。ああでもそれは良かった…」
総司はしみじみと安堵する。近藤の子は試衛館に残してきた正妻の子たまだけで、もし孝との間に男児が生まれるなら後継ぎとなる。総司が剣術を継ぐ必要はなくなり、近藤家が代々守っていくことになる。
「私は近藤先生のお子に剣を教えるのが夢なんですよ。鍛えて私や近藤先生よりも強くなってほしいんです」
「…お前のことだからあんまり厳しく嫌われるんじゃないか?」
「もちろん嫌われないように優しく指導しますよ」
「どうだかな」
ふん、と鼻で笑った土方も本当は安堵しているはずだ。








解説
なし

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