わらべうた




576


秋の夜の雨は冷たく全身を濡らす。冷たい夜風と相まって頭の先から指先まで縮むような寒さに襲われるが、浅野には何故だか顔を晒し市中を堂々と歩き回る任務よりも馴染みがあった。
浅野は使い古しの笠の合間から狭い視界を見渡した。雨のせいで人通りは少ないが、制札に危害を加えるなら絶好の機会だろう。しかし残念ながら妖しい人影すらなくただただ平穏に時間が過ぎていく。葉の散った樹の袂で膝を追って佇む浅野の姿は物乞いにしか見えないだろう。その証拠にヒビが入り欠けた茶碗には通りすがりの酔っぱらいが投げ入れた小銭がいくつか入っている。
――静かで、暗く、雨の音だけが鼓膜を揺らす。
その静寂を崩すように、バシャバシャと容赦のない足音が近づいてきた。遠慮なく隣に腰を下ろしたのは似たような姿をしている大石だ。顔を土で汚しているがその鋭い眼差しは決して隠れてはいない。
「状況は?」
「…変化なし」
「そうか」
必要最低限の短いやり取り。監察として斥候として周囲に正体を知られるわけにはいかないので当然といえば当然だが、威圧感があり無口な大石は決してこの場でなくとも世間話を口にするようなタイプではない。だがこのままあっさりと去ってしまうのも不自然なので、
「今の役目はどうだ?」
と浅野は話しかけた。
大石は隊士に弟を殺され監察へと異動になった。その不運な事故の経緯は当時監察であった浅野も良く知っていたのが、まさかこちらに異動になるとは思ってもいなかったし務まるとも思えなかったが、彼は汚れ役になることも厭わない様子で淡々と任務をこなしていた。
(自分だったら投げ出すだろう…)
浅野はそう思っていたのだが、大石は少し間をおいて
「悪くない」
と答えた。
「…へえ」
「俺は一匹狼でいい」
ぶっきらぼうに言い放つと「もう行く」と大石は立ち上がりそのまま去っていく。道の端を歩き、存在感を消しながらもピンと背筋を伸ばして。
(もっと腰を曲げろよ…物乞いに見えねぇぞ…)
浅野は心の中で苦笑するが、しかし一方で堂々とそう言い切れる大石が羨ましかった。一匹狼でいい、嫌われても、罰せられても、自分の信念を貫く―――それが自分にあったなら。
(あったらなら…なんだって言うんだ)
大石の姿を見送っていると、カラン、という甲高く小気味よい音が耳に入った。目の前に置いていた茶碗に小銭が数枚入れられたのだ。
浅野は「おおきに」と口にしながらその姿を見ようと笠の隙間から見上げた。
(気配に気が付かなかった…)
上等な紫の傘、低く結んだ長い髪…一瞬、この辺りの芸妓かと思ったが、そうであるならば気配に浅野が気が付かないはずはない。そして同じような経験を前にもしている。
それに気が付いた時、身体に雷が撃たれたようだった。
「裕福な坊ちゃんが、今度は物乞いになったのか?」
「…っ…!」
中性的な声質は確実に脳裏に刻まれていた。
彼は雨をも厭わず膝を折り、浅野に近づいた。同じ傘に入ってしまうほどの距離――河上彦斎は目の前にいた。
浅野は咄嗟に背中に隠した脇差に手を伸ばそうとしたが、それ以上に早く河上の手がその手を止めていた。目にも止まらぬ早さとはまさにこのことだろう。握られた指先は縄のように強く少しも動かすことができない。
「お前…は…!」
「随分探した。…お前には礼をしようと思ったんだ」
「礼…だと?」
「先日の良い夜の礼だ。お前のおかげで面白い結末を迎えることができた…その礼だ」
河上は茶碗にさらに小銭を投げ入れた。警戒する浅野とは対称的な昏い影を持った眼にやりと笑った口元…色白の肌が不気味に美しい。
「…俺は…あの夜、…お前に、何を…」
「なんだ、覚えていないのか。…規律違反を犯した者が立場を利用して逃げ果せる、許せぬ許せぬとうわ言で繰り返していたではないか」
「…!」
(やはり俺は…この男に何もかも暴露していたのか…!)
サッと血の気が引くような心地だった。心の片隅で「そんなはずはない」と己を信じていたというのに、あっさりとその希望は打ち砕かれた。しかし一方で当然だと思った。この圧倒的な存在感を前にしては誰もが尻尾を巻き自分の弱さを吐露してしまう。
河上は続けた。
「しかもその者が佐久間象山の妾腹の子という。あの者とは禍根があった故、利用せぬ手立てはないと思った。…おかげで沖田と再び対峙できたのは誤算ではあったが、悪くない誤算だった」
「…」
浅野は絶句するしかないが、河上はまるで面白いおもちゃを見つけたかのように機嫌が良かった。
「結局、あの男どもは京を落ち延びたのだろう?死ななかったのが不満か?」
「…何故、それを…」
「お前にとって、何故知っているかは問題ではないだろう?」
肝心なことには答えず河上は目的だけを果たしていく。それはまるで誘導されているようだったが、彼の言う通りだった。
何故、何故、何故―――重なっていく疑問。けれど行き着く先は決まっている。聞きたいことは一つだけだ。
「何故…銀平を巻き込んだ…?」
河上はまるでその質問を待っていたというようににやりと笑った。
「…俺はいくつか自分にとって許せぬことがある。その中で最も許せぬことは、誰かの代替品にされることだ。代わりの利く人形に様に扱われるのは御免だ。…お前は何度も呼んだ。…銀、銀、と」
「…!」
「それ故、憎らしくなりその『銀』とやらを探し出し親切にも教えてやったのだ。お前の仇が今まさに京から逃げ出そうとしている…と。あとの顛末はお前の知っての通りだ」
河上はようやく掴んでいた手を離した。余りに強い力で握りしめられ血流が止まったかのようにジンジンと痛み力なくその場に落とされた。
そしてもうその手が脇差に伸ばされることはなかった。
「気が済んだ。もうお前に会うことはないだろう」
立ち上がろうとする河上を「待ってくれ」と浅野は引き留めた。
「銀は…銀平が今どこにいるのか、知らない…か…?」
「…」
(俺は…何を聞いているんだ…)
すべてこの男の手のひらで泳がされていただけだった――その事実を知ったというのに、何をまだ縋ろうとしているのだ。
すると河上はフッと少し笑った。口元を緩ませて
「案外、近くにいるかもしれぬ」
と冗談めかして去っていく。
河上がいなくなると、雨は強くなった。そんなはずはないのに、まるで彼がそうさせたかのように。
心地よいと思っていた秋の雨が、皮膚という皮膚を通り抜けて身体の芯を凍らせていくような鋭い刃へと変わっていた。
(寒い…)
身体が震えていた。


数日後の、十月下旬。
「総司、一番隊の夜番は十番隊の応援に入ってくれ」
巡察へ出かける準備をしていると土方がやってきた。
「十番隊…?つまり制札の件ですか」
「有力な情報が入った。これまで制札が引き抜かれた二件と類似する浪人たちが近くの宿に屯しているようだ」
「なるほど、このところの雨が止んで今晩は霧が濃い。確かに動くなら今日かもしれませんね」
「ああ」
土方の的確な指示を受け、総司は頷いた。早速伍長である島田に伝えて隊士たちに行き渡らせると彼らにも緊張が伝わっていく。
「それから、浅野のことだ」
「浅野さん?」
「ああ。…少し気を付けておけ」
「…わかりました」
土方に深くは訊ねずに総司は受け入れた。
(長い夜になりそうだ)
そんな予感があった。





解説
なし

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