わらべうた




577


慶応二年十月。
視界を遮る霧の下りた秋の夜は、この先の季節を予感させるかのように静かで重たかった。
「おう、来たな」
総司をはじめとした一番隊を右手を挙げて迎えた原田の頬は、すでに赤く染まっていた。
「…原田さん、今夜は飲まない方が良いんじゃないですか?」
「大して飲んだわけじゃねぇよ。お前も知っての通り酒には強いんだ、いわばこれは前祝の酒ってことだな」
原田の悪びれのない様子に、「やれやれ」と総司は苦笑するしかない。しかし仕切り役の原田に力が入ってしまうと隊士たちも緊張してしまうのでこれくらいで良いのかもしれない。
「それで、配置の方は?」
「この一番近い先斗町会所には俺をはじめとして十人、三条大橋の向こうの町屋には大石と十名の隊士、三条小橋の酒屋に新井達を数名。一番遠いから待機のみの援軍扱いになるだろうが、その酒屋へ一番隊の人員を割いてほしい」
「わかりました」
一緒に話を聞いていた島田は総司の視線に頷くと、手筈通りにそのまま隊士たち数名を引き連れて会所を出た。もともと援軍として一番隊の隊士を呼んだのだから後軍に回るのは当然だ。そして残ったのは山野と数名のみだった。
「悪いな、一番隊を援軍なんかに回らせちまって」
「いえ、最初からそのつもりですし、手柄は十番隊に上げてもらわないと困りますから」
「まぁ、そういうことだな。…で、何か差し入れとかないのか?」
「もちろん土方さんから預かってますよ。…山野君」
「はい」
山野は抱えていた風呂敷を広げ笹の葉で包まれた握り飯を並べたが、原田は不満そうに口を尖らせた。
「なんだ、握り飯じゃあ酒の肴にならねぇじゃねえか。土方さんも気が利かねぇなぁ」
「当たり前でしょう、ようやく今夜に決着かもしれないっていう時に」
「わかってねぇなあ、だからこそ気分を高揚させるために必要なんだって」
原田はそう言いながら握り飯を手に取ると早速口に運んだ。酒には合わないと不満そうだったが、あっという間に一個を食べ切った。山野らが配膳に向かわせ、総司は原田の隣に座った。
「…監察から有力な情報があったと聞きましたけど」
「ああ。監察の協力者からの密告で、この近くの宿屋に背格好が似てる奴らがいるって話だ。制札の件も自分たちがやったって嘯いていたとか…酒の席の話らしいが、八人ほどの土佐ものらしい」
「土佐ですか」
てっきり制札で槍玉に挙げられている長州の浪人あたりの仕業だろうと思っていたので、総司は少し驚いた。原田は二個目の握り飯に手を伸ばしながら続けた。
「俺は詳しいことはよくわからねぇけど、長州と薩摩をくっつけたのは土佐だって話だろう?それに夏の長州征討の戦も中途半端なことになっちまって、どうやら長州の奴らが盛り返してきてやがる。制札だって三年も前から立てかけてあったものが今更投げ捨てられるなんて、いつの間にか立場が逆転されちまって長州だけじゃなくっていろんなところの奴らから幕府が馬鹿にされてるってことだろ?」
「…制札は禁門の変で御所に砲撃した長州を咎める内容ですからね」
「ああ。つまりそれを投げ捨てるって言うのは長州に味方する者が少しずつ増えてるってことだ。…俺は今、誰が敵で誰が味方か、よくわからねぇよ」
「そうですね…」
原田の気持ちはよく分かった。
京にやってきた頃は、幕府の安泰を信じて疑うことはなかった。開国か攘夷かで揺れる中、討幕を掲げる長州は異端者だった。しかしそれがいくつかの出来事を経て現実味を増していつの間にか間近の問題になろうとしていて、それは数年前の自分たちには想像もできなかった現実なのだ。
誰が敵で、誰が味方か。その線引きはいったい誰にわかるというのだろうか。
総司が考え込んでいると原田はふん、と鼻で笑った。
「…ここで動きもしない制札を眺めるだけの暇を持て余していると、俺らしくねえ、つまらねぇことを考えちまうんだ。さっさと仕事を終わらせて嫁さんの隣でゆっくり寝てぇよ」
「茂君も待ってますよ。…そういえば、浅野さんは?酒屋の方ですか?」
「あれ?土方さんから聞いてねぇのか?浅野は大石と組ませて斥候役だ」
「斥候…」
「もともと浅野は監察だ、適役だろう?」
原田は何の気もなく笑ったが、総司の脳裏には何かが引っ掛かった。それは屯所を出る前に土方がわざわざ彼の名前を出して『気を付けろ』と言ったせいだ。
(…土方さんは何を予感しているのだろう)
その答えはもちろん、わからなかった。



鴨川沿いの居酒屋は何度か足を運んだことのある懇意の店だった。奥の座敷を八人ほどの男たちで囲むと狭苦しい。
「もう一杯!」
「藤崎さん、呑みすぎやよ」
同志に窘められるほど泥酔した藤崎は、それでも「まだ呑める」と言い張り追加を準備させた。時折隣に座った銀平の太ももを女にするように撫でながら、しかし今夜の良い方は少し乱暴だった。「畜生畜生」とうわ言のように繰り返しいくら呑んでも酔い足りないと口にする。
「銀、お前も呑め」
「頂いてます」
「嘘つくな。…ったく俺の酒は飲めねぇってことか?」
「藤崎さん、代わりにもらいますから」
銀平を庇うように安藤が口をはさんだ。藤崎は「ふん」と不満そうにしながら安藤が差し出した猪口に酒を注ぐ。安藤はいくら呑んでも酔わない体質のようで宴会ではいつも最後まで正気を保って世話役に徹している。それは自分が足軽出身だという引け目かもしれないが、元来の性格なのだろう。
藤崎は「小用を足してくる」と座敷を抜けた。すると安藤が
「昨晩、亡くなった兄上が夢枕に立ったそうだ」
と彼が荒れている理由を教えてくれた。
「あ…池田屋で殺されたと…?」
「ああ。ただ、正しゅうは池田屋の騒動のあと周囲を警戒していた兵にやられたという話や。新撰組に直接手を下されたわけじゃねえが、怪我を負うて土佐藩邸に引き渡された後に腹を切った…」
「…」
亡くなった兄からすればもしかしたら事故だったのかもしれない。その夜に出歩かなければ、兵に会わなければ、池田屋の騒動さえ起こらなければ防げた死なのかもしれない。
(…お父ちゃんもおんなじや…)
あの夜、ようやく風邪が治ったと上機嫌に散歩に出かけ、そのまま亡くなった。引き留めていれば、新撰組に出くわさなければ…。
(本当はわかってるんや…)
事故だったのだとわかっている。けれど、偶然の出来事が重なって起きた不幸を『不運だった』の一言で終わらせることができなくて、どうしようもなくぶつけようもない恨みだけが募っている。それはきっと藤崎も同じなのだろう。
この薄汚れた気持ちが晴れない限り、もう元の生活には戻ることはできない。
「そういえば、この先の三条大橋で斬られたんやったな…」
安藤が目を細めた…その時、小用から戻ってきた藤崎が血走った眼をして
「決めた。今晩やるぞ!」
と突然叫んだ。すると同志たち数人が「おお!」と呼応し場の空気が一気に熱を帯びていく。何のことかわからず戸惑う銀平の横で安藤が深いため息をついた。
「…仕方ないな…」
「安藤さん、いったい…?」
「ついてきたらわかる」
安藤は詳しくは語らなかったので、銀平は彼らに従った。
濃い霧が視界を狭めていた。しかし厚い雲が風に流れて月が顔を出し不気味な光に照らされていた。




解説
一番隊が応援に加わっていますが、二番組、六番組、七番組が十番隊とともに参加したと言われています。

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