わらべうた




578


思えば、不気味な夜だった。
陽が落ちてからずっと厚い雲と深い霧に覆われていたのに、子の刻(十二時)にまるで光明が差すかのように突然月明りが差し込んで、提灯がいらないほどにあたりを照らし始めたのだ。暗闇でありながら明るい…ちぐはぐで静かな夜。
「春雨に しっぽり濡るる鶯の 羽風に匂う 梅が香や 花にたわむれ しおらしや…」
銀平と安藤以外の男たちはすでに酔いが回り千鳥足になりながら歌い歩いていた。季節外れの春の小唄は先日花街で同席していた女が披露していたものだ。
「小鳥でさえも 一筋に ねぐら定めぬ 気は一つ わたしゃ鶯 主は梅~」
数人の男たちによる大合唱。酔っぱらいの戯言だと通りすがりの者たちが迷惑そうな白い目を向けた。男たちの中でも一番上機嫌な藤崎が音程を外しながら叫ぶ姿は騒音に等しい迷惑なものだが、鴨川に近づくとその川の流れに同調して幾分か気にならなくなった。
「やがて身まま気ままになるならば さぁ 鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな さぁさ なんでもよいわいな」
いつか自由になれたら、夫婦になりたい。一緒になれるのなら何だってかまわない―――廓に身を預けた女が男と添い遂げたいと願う。廓という狭い箱庭の中にあって、いじらしくて純粋な女たちの歌。
銀平にとって心情は理解できても、あまりにかけ離れた別の世界の歌のような気がしていた。自分には消え失せた色恋の純粋な感情――羨ましいほどに世俗的で呑気だ。
ようやく長唄が終わった時、酔いつぶれた男を背負う安藤が「藤崎さん」と呼び止めた。三条大橋は目の前だった。
「なんや」
「霧は濃いが月が出てきた。誰かに見られたら拙いのじゃないか?」
「見られても構わん。小心者の足軽は黙っていろ!」
「…」
藤崎が怒鳴り、安藤は黙る。銀平は(そんな言い方はないやろ)と憤慨していると、藤崎は「行くぞ」と酔っぱらった男たちを手招きして三条大橋西詰北側にある制札場に向かう。そしてそのまま躊躇いもなく柵を乗り越えてしまった。
「え?」
目の前で起こっている状況が飲み込めず銀平は困惑した。
男たちの一人が懐から取り出した矢立てで制札を乱暴に黒く塗りつぶし、あっという間に引き抜いた。そしてそのまま鴨川の河原に「でやっ」と放り投げ、砂利を踏み荒らしながら下りていくとバンバンと踏みつけ始めた。酔っぱらった藤崎たちは笑い声をあげながらまるで子供の悪戯のように楽し気にしている。
銀平は唖然としてその光景を見るしかなく、また安藤も隣で無言のまま立っている。
「あ…安藤さん…あれは…制札…ですよね」
「…幕府の制札に間違いない。長州を追放する旨が書かれてる」
「あんなことして大丈夫なんですか…?」
「夏に制札が壊されたち話を聞いて、悪戯半分に藤崎さんたちが真似をした。それがバレることのう上手ういって…憂さ晴らしとはいえ悪い遊びを覚えてしもうたようだ」
「…」
近くで暮らしてきた銀平にとって、制札は遠い場所にいて自分たちを治める幕府や将軍という存在を示す唯一の片鱗のようなものだった。神聖で触れたら罰が当たる…お堂の奥に隠された仏のような触れられない恐ろしいものだった。
しかしそれを彼らはあっさりと踏みつぶしている。そこには高らかな尊王攘夷の志など無く、また制札に書かれた長州を擁護するつもりなども無く、ただ日頃のうっ憤を晴らすだけの何のこともない悪戯だった。はしゃいで大声をあげ…しかし銀平にはその光景が酷く滑稽に映り、また己がその一部であるという事実を突き付けられ、一気に身体の力が抜けていくように感じた。
(俺は何をしているんやろう…)
新撰組が憎いと語る藤崎の考えに肩入れし、同情し同情されここにいる。自分ひとりだけで立つことができず素性の知れない粗暴な彼らとともに行動する…それが何と小さく惨めなことか。
(俺は…弱かっただけや…)
父を失い、人としての一線を超え、手を掛けた…その圧し潰されそうな罪悪感を憎しみに置き換えて誤魔化して留まった。そうすることが正しいのだと言い聞かせて、何もかもを失った絶望感から目を逸らして。
「潮時かもしれん」
安藤がつぶやいた一言は、まるで自分の口から出た言葉のようだった。
潮時…そう、自分には向かなかった。重たい脇差も剃ってしまった月代も何もかもが自分には不似合いだった。
「安藤さん、俺…!」
と、言いかけたその時、
「新撰組原田左之助 一番乗り!」
威勢の良い名乗りとともに突然、制札場近くの町屋から十数人の男たちがなだれ込んできたのだった。



―――その少し前。
乞食に扮し薦を被っていた浅野は、同じく斥候役を務める橋本皆助という隊士とともに三条大橋の下で身を潜めていた。
「霧が濃いですね…」
「…」
橋本の呟きを聞き流し、浅野は周囲に目をやった。靄のかかった視界には橋本の言う通り何も映っていないが、目を凝らし続けていた。
(この仕事が終わったら…俺は隊を抜けよう)
数日前、河上との邂逅を果たし決心した。
土方の推察通り、酔っぱらっていたとはいえ敵方に情報を漏洩していたのだ…それは監察方として許されない行為でありすでに切腹を言いつけられてもおかしくない失態だ。浅野は幸運にも降格処分で済んでいるが故に、このまま黙っていれば良いのかもしれない。時が経て何もかもなかったことになるのかもしれない。
けれど、そうすることはできなかった。それは自分の中にある責任感や正義感、誠実さなんて潔いものが理由ではない。
(俺はもう…疲れたんだ)
新撰組隊士としてふるまうことも、自分ではない自分を演じることも…すべてに疲れ切っていた。河上からあの夜の話を聞いた時に心底、疲れたと思ったのだ。蓄積していた負の感情が雪崩のように脆く崩れた――それ故に隊を抜けるのだ。
(脱走の罪で捕らえられるか…はたまた幸運にも逃げ果せるか、それは俺の運次第だな…)
その成り行きさえもどうでも良い。
浅野がそんなことを考えていた時。
「…浅野さん、あれを見てください」
「…」
橋本が指さした先――数名の男たちが屯して制札場の前にいた。小競り合いがあったのかよく聞こえないが、姿は良く見えた。
(いつの間に、雲間から月明りが差し込んでいたのだろう…)
「浅野さん、あいつら柵を乗り越えましたよ」
「…」
「浅野さん!」
リアクションのない浅野を橋本が急かす。
「あ…ああ、原田組長に報告を。俺は東の…大石の元へ行く」
「わかりました」
橋本は暗闇を選びながら小走りに駆けていく。彼がまず原田の元へ報せ、浅野が三条大橋の向こうの町屋に潜む大石の元へ向かうのは段取り通りだ。橋本の姿が見えなくなったあと、立ち上がった時、ふと気が付いた。
(あれは…まさか…)
七、八人の男たちの殿で所在なく立つ一人の青年…幸運なのか不運なのかその姿を淡い月の光が照らし出す。
「銀…!」
月代を剃っている、脇差をしている…そんなことは浅野にとって関係ない、それは銀平に間違いなかった。
(どうしてこんなところに…!)
『案外、近くにいるかもしれぬ』
不意に河上の言葉が蘇る。彼がこのことを知っていたのかからかっただけなのかはわからない。けれど事実として銀平は目の前にいる。
しかしそれは二人にとって幸運な再会とはならなかった。
「でや!」
浪人風の男たちが制札を引き抜き、鴨川沿いに投げた。それを踏みつぶしケラケラと笑い始め…それは浅野たち十番隊がずっと待ち構えていた『敵』だったのだ。
浅野はその場から動けずに成り行きをみているしかなかった。そしてそこに原田の怒号が聞こえてきたのだった――。




解説
なし

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