わらべうた




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祇園から見上げる秋の月は屯所で見るそれよりもより一層美しくその光を放っていた。
さる料亭の前で土佐藩邸へと戻る駕籠を見送り、近藤はため息をつきながら
「これで手打ち…か」
と呟いた。
先日新撰組が二名を惨殺、一名を捕縛とした『三条制札事件』。その件で土佐の上役に呼び出された近藤、土方、伊東は祇園での会食を行い、逃げ出した数名の浪人については土佐藩にその一切を一任することで今回の事件はこれで終いにしてほしいと頼まれたのだ。
妥協した結末を迎えたことについて近藤は少なからず脱力したが、
「彼らが約束通り本当に身内である逃亡者を捕縛するかどうかわかりませんが、土佐藩は幕府に近い立場ですからお断りするわけにはまいりませんね」
伊東は「仕方ありません」と慰める。同盟を結んだ薩摩と長州…その仲介を果たしたのは土佐の浪人だという。その経緯から幕府は土佐藩を警戒しているが、その思惑は見えないままだ。
「そうだな…会津からも将軍が不在の今、無用な騒動を起こすべきではないと指示が出ている」
「…会津は一橋公の就任を容認するお考えですか」
「容認も何も、それ以外に相応しいお方がいないとおっしゃっていた」
「しかし尾張の徳川義勝公などは…」
「会津公によるとご本人にその気がないというお話でした。…参謀は一橋公が将軍職に就かれることについて何か?」
「…不満を持つ者は多少なりともいるのではないでしょうか」
伊東は他人事のように話をすり替えて扇を開いてその口元を隠した。核心に触れようとするとその表情を隠すのは彼の癖のようなものだ。すると伊東は傍らで二人の会話を黙って聞いていた土方へ「土方副長はいかがですか」と尋ねてきた。
「…個人的には気に食わないが、仕方ないことだと思っている」
淡々と答えると、伊東は「局長と同じですね」と口にした。その声のトーンにはいくらかの無念さと近藤に同調するだけの土方への倦む感情が見えた。しかしいつもの伊東ならそれも隠して見せただろう。
(よほど、一橋公が将軍になるのが嫌らしい)
そうしていると呼んでいた駕籠がやってきた。
「近藤局長、どうぞ」
「いや、私はこのままここから近い別宅に歩いて帰ろうと思う」
「そうですか。でしたら土方副長」
「…俺も歩いて帰る。参謀が使ってください」
伊東は少し迷ったが、「ではお言葉に甘えて」と駕籠に乗り込みそのまま屯所方面へと戻っていった。彼が去ると近藤は「ふう」とそれまでの緊張を解いた。
「参謀があのように食い下がるのは珍しい。一橋公について思うところがあるのだろうな」
「…流石にかっちゃんでも気が付いたか」
「当然だ。まあ…水戸藩と一橋公にはいささかの因縁があるから仕方ない。それに俺だって…家茂公がお亡くなりになったとはいえ、長州との戦を途中で投げ出した一橋公に思うところがないわけではない。お陰で長州や薩摩が大きな顔をするようになってしまった。挙句の果てに土佐だぞ?」
「…俺たちの手に負えるようなことじゃねえよ」
熱くなる近藤を土方は止めた。いくら憤ったところで手の届かない所での話だ。近藤は「そうだな」と別宅へ向けて歩き出した。
「歳、屯所まで歩いて帰るつもりか?」
「かっちゃんを別宅まで送ったら駕籠でも捕まえる」
「俺は一人でも平気だ」
「…同じ方向なんだからいいだろう」
土方は近藤と並んで歩き出す。月明りが眩しい夜、二人が手にする提灯がゆらゆらと足元を照らしていた。単純で単調な仄かな明かりに心を落ち着かせたのか二、三言雑談を交わした後、近藤が「そういえば」と口を開いた。
「歳、最近上七軒には行っているか?」
「上七軒?」
北野の上七軒はかつて君菊や山南の馴染みであった明里の置屋大津屋がある。今晩の祇園や島原のように仕事があれば足を運ぶが、個人的な花街への外出はこのところはない。
「特に行っていないが…」
思い当たることがない土方の返答に、近藤が急に「拙い」という顔をしてしどろもどろになった。
「そ、そうか。あー…その、このところその大津屋で君鶴という天神が人気らしい。知っているか?」
「いや…」
「はは、そうか。別宅に出入りしている魚屋がしょっちゅう芸子の噂を持ってくるんだ。君鶴はまだ若いが大人びたいい女だとか何とか…そういう話をしているとお孝が不機嫌になって困るんだが、しかし…」
「かっちゃん、何が言いたいんだ」
土方には幼馴染が何か言いたげにしていることはすぐに分かった。核心をつくと、素直な近藤は伊東のように隠したりせずに話し始めた。
「いや、実は…その君鶴という芸妓がお前の馴染みだってことになっているらしくてな」
「は…?」
「祇園や島原ならともかく上七軒にはお前だって思うところがある。まさかそんなはずはないと思っていたんだ」
「君鶴だって?会ったことも見たこともない女だ」
「そうだよな、じゃあただの噂話だ」
近藤はそう言って話を切り上げたが、土方には不快さが残った。自分の知らないところで立つ噂、上七軒という場所、そして君菊を彷彿とさせる『君鶴』という天神…勝手に噂しておけばよいと思うが、近藤の別宅に出入りする魚屋の耳に入っているということは巷で大きな噂になっているのだろう。
(面倒な)
土方は深いため息をついた。今夜は疲労感だけが募った。



「斉藤さん」
文学師範である伊東の講義が終わると、斉藤は藤堂に声を掛けられた。それはただ呼び止められたというのではなく、明らかなる『敵意』とともに引き留められたという方が近い。
受講生たちが去っていくなか片隅に呼び寄せられ、
「いったいどういうつもりですか」
と問い詰められる。
見た目の上品さとは裏腹に彼が熱しやすい性格だと重々理解している斉藤はできるだけ淡々と答えた。
「…どういうつもり、と聞かれても。伊東参謀の講義に『副長助勤が参加してはならない』という規約はないはずだが」
「だからって今まで全く興味のなかった斉藤さんが足しげく通うなんて、皆、変に思っていますよ」
「変に思われようとどう思われようとかまわない。参謀の講義は剣術一辺倒だった俺には興味深く知らないことが多い。出来ればもっと学びたいものだ」
「…」
言葉に詰まった藤堂がまじまじと斉藤を見る。けれど彼のつぶらな黒目は何も捉えることができずに困惑したままだ。
彼は疑心暗鬼になっているのだろう。
先日の城多の一件を斉藤に目撃され、それを口外しない代わりに伊東に近づいている…そんな斉藤のことを藤堂が受け入れらるはずはない。彼を説得するには説明よりも時間が必要だろう。
二人が睨み合っていると
「斉藤先生」
と呼んだのは伊東の実弟である鈴木だった。
「…何か?」
「兄…伊東参謀がお呼びです」
「わかりました」
寡黙な鈴木からも同じように冷たい視線を浴びる。それは藤堂のむき出しの『敵意』ではなく、静かなる『警戒心』。
(やれやれ…)
斉藤は二人を振り切って歩き出した。










解説
なし



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