わらべうた




586


「…」
土方は吸い寄せられるようにその女の元へ足を向けていた。女の長い髪が凩に揺れてその輪郭、スッと通った鼻筋、控えめな唇をあらわにする。一歩、また一歩と近づくと遠目からはわからなかったことに気が付く。女が案外背が低く小柄であること、そして紅葉を眺めるその眼差しがまだどこかあどけないこと―――。
(ガキか…)
鮮やかな紅葉を背景にしていたせいか大人びて見えたが、年の頃は二十歳にも満たないだろう。芸妓ではなく舞妓か。
(俺も随分、審美眼が狂ったものだ)
昔、江戸にいた頃は後ろ姿だけで美人を見分けていると伊庭に揶揄されたものだ。キリリと気の強い美人ばかりえり好みして、当然幼い舞妓になど目を奪われることさえなかったはずだが、けれど女には土方を惹きつける何かがあった。
すると女が紅葉の木から土方に目を向けた。大きな黒い瞳がジッと土方を見つめて、土方もまた吸い込まれるように女を見ていた。彼女と土方…まるでこの世界には二人だけしかいないかのように静寂な時間が流れていく。
(なんだ…この女は…)
大抵の女は土方を見るとその色男ぶりに頬を紅潮させて顔を逸らすか、好かれようと笑みを零す。それなのに彼女は顔色一つ変えず、むしろ土方の様子を窺うように視線を逸らすことなく見つめていた。
「…お前は…」
土方が口を開いた時、バタバタと騒がしい足音が近づいてきた。
「ここにいはった!」
背の低い奉公人と見える男が焦った様子で女の元へ駆け込んできた。眉を顰め「探しましたで!」と息を切らす。
「こんなところで油打ってる暇はありまへん、もうお三味線の稽古の時間や!」
「へえ、そうですか。紅葉があんまり綺麗やから稽古のことなんですっかり忘れてました」
「はあ、まったく困ったもんや…また先生に叱られます」
「そうかもしれませんなぁ」
奉公人の忙しなさとは裏腹に女は動じることなく聞き流し、尚も土方の方へ視線を向けていた。女のマイペースな様子に奉公人は「はぁー」と大きなため息をつき
「参りましょう、君鶴はん」
と無理矢理背中を押して元来た道を戻っていく。女は名残惜しそうに紅葉を見上げたが、抗うことはなかった。そして二人の姿が見えなくなるころ、ようやく土方は我に返り、
(君鶴だと…?)
と奉公人が口にした彼女の名前に驚いた。
てっきり生意気な芸妓が土方の名前を勝手に使って商売をしているのかと思いきや、目の前に現れた君鶴はどこかあどけなさの残る少女であり、とても人を踏み台にするような勝気なところは見受けられなかった。
(何かの間違いか…)
しかし優秀な監察方に調べさせたのだから間違いない。
土方は困惑しながら彼女が佇んでいた場所まで歩いた。まるで狂ったかのように境内で一本だけ真っ赤に染まった紅葉が頭上でその色を変えながら命を散らしている。
彼女のことはわからない。
けれどこの刹那的に美しい紅葉に目を奪られたことだけは、共感できた。


十数人の新撰組隊士たちが大通りを駆け回りあたりは騒然となるなか、その先頭を行く永倉が的確な指示を出した。
「二番隊半分は東へ、もう半分は西へ、一番隊は北へ向かえ!いいな、油断するなよ!」
「ハッ!!」
市橋を殺された二番隊と襲撃を受けた一番隊の隊士たちは我先にと命令通りに駆け出していく。河上を捕らえようとする隊士たちの誰もが必死の形相であたりを見渡し、人々は遠巻きに様子を窺うしかない。
「総司、河上は…あれ?」
永倉が振り返るが、そこに総司の姿はなかった。
――同じ頃、総司はひとり永倉達から離れ大通りから人目のつかない脇道へ入っていた。河上らしき人物の姿を見たという町人からこの視界に入りずらい道に入ったという話を聞いたのだ。もちろん本来であれば永倉と情報共有すべきことだが、今の総司はその考えに至ることはなかった。
河上とまともに対峙できるのは自分しかいない―――それが驕りである自覚はあったが、河上もそれを望んでいる気がしたのだ。
(彼の望みを叶えるためじゃないけれど…これは自分が向き合うべきだ)
脇道はやがて人一人通るのが精いっぱいの細道になる。野良猫が通るような狭い町屋の間を潜り抜け、暫く行くと突然視界が開けた。古く朽ちた空き家を倒したあとと思われる雑然とした空間に乱雑に木材が放置されているなか、一人の男が立っていた。その手には抜刀された刀身が握られている。
彼はゆっくりと振り返り、その男とも女ともとれる曖昧な顔立ちで微笑んだ。
「ようやく来たな」
「…待たせてしまいましたか」
「ああ、待ちわびた。ずっと…いつから待っていたのかわからないくらいだ」
河上は懐紙を取り出し、刃先へ向けて滑らせた。陽の光を浴びた刀身は鈍く、妖しく光り。そして彼はゆっくりと口を開いた。
「故郷へ戻ることになった」
「…」
「長州一国に幕府が負けた。屋台骨が弱体化する今こそ討幕へ動くべきだという声が大きくなってる。この流れに伸るか反るか…運命が大きく変わるだろう。故郷へ戻り、同志たちを正しい道へ導くつもりだ」
「…故郷、なんて温かなものをあなたが持っているとは思いませんでした」
「少なくとも母はいる。木の股から生まれたわけではない」
笑いながら茶化して答える河上だが、その雰囲気は一切緩むことなくピリピリとした殺気に包まれている。
そしてその刃先を総司へ向けた。
「心残りはお前だけだ。出会った時から殺したいと願い…ずっと叶うことはなかった。こんな相手は今までいなかった」
「…理不尽な言いがかりですね。私が何をしたと?その為にどれだけの人が傷ついたことか」
「何をしたということはないが、ただそこにいるというだけで気に食わない…不思議なことだ」
河上はまるで他愛もないことを口にするかのように微笑したままだった。総司からすればただ難癖をつけられているのだが、不思議と憤慨することなく受け取ることができたのはやはり彼と同じ感覚持っていたからだろうか。
ずっと彼のことが気になっていた。
自分こそが向き合わなければと思うのは、まるで鏡のなかの自分を見ているようだからか―――。
「…理由はどうでも良いです。それが真実だろうが、こじつけだろうが…あなたが私の部下に手を出したことに変わりないのですから」
「いつまでも待たせるからだ」
総司は刀を抜いた。すると河上は「ようやくか」と待ちわびたように片方の口角を上げて対峙する。彼の伸ばした右手に握られた刃先が、真っすぐと迷いなく総司の方へ向いていた。彼の感情の一部であるかのように悦んでいるように見えた。
「ああ、やっとだ。やっとお前を殺したときにこの沸き上がる好奇心の答えが出るだろう」
「死ぬのはそちらかもしれないのに?」
「そうかもしれないが、そうであったとしても悪くない…何故だろう、そんな気分だ」
(僕もだ)
そう言いかけて飲み込んだ。
それを口にすれば彼が笑うだろと思ったからだ。








解説
なし



目次へ 次へ