わらべうた




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人目につかない町家の一角、古びた廃屋は静けさに包まれていた。いや、実際は大通りと変わらない喧騒と人々の営みがそこにあるはずだが、二人の耳に入らなかったという方が正しい。張り詰めた空気がひたすら重い。
こうして改めて彼と対峙した今、総司には不思議と様々なことが駆け足に思い出された。
初めて出会った時ーーー三浦と芦屋が入隊した頃ーーー背後にはっきりとした殺意を感じ、気がつけば互いの刀が合わさっていた。
『沖田総司だな』
小柄で色白、声の低さに反して性の曖昧な顔立ち…見知らぬはずなのに、見知った顔に出会ったような既視感にひどく驚いた。己の名を彼が呼んだことすら、まるで数年ぶりの再会のような。
その初対面ではその正体が分からずその実力を図りかね、総司の手にしていた刀はあっさりと空を飛んだ。昔から天才と持て囃されてきた総司にとって手から刀が離れるなんて初めてのことで、彼の実力を認めざるを得なかった。
そしてその日から幾度となく顔を合わせることになった。三浦の敵討ち、いまは英となった宗三郎の間者騒ぎ、浅野の件、そして再び三浦の脱走に関わった。振り返ると倒幕派の浪士が新撰組を忌み嫌うなか、彼は積極的に関わろうとしているようにも思える。
見つけてみろ。
捕まえてみろ。
殺してみろーーー。
常に手をこまねいて挑発しているような。
それは奢りでも傲慢でもなく、きっと総司がいたからだろう。
(似た者同士だ)
似ているからこそ、理解して苛立つ。
「終わらせよう」
河上がそう呟いた瞬間、自分も(そうしよう)と思い、二人ともほぼ同時に踏み込んだ。彼得意の逆袈裟斬りに対して総司は薙ぎ払い対応する。それまで静かだった水面に大きな雫があちこち落ちて波紋を広げるように、耳をつんざくような金属音がとめどなく続いた。
右、左、右ーーまるで数十年の稽古を重ねたように息が合い、相手の繰り出す技が手を取るようにわかる。鏡の中の自分と相対している…そうしているうちに納得した。
『本当の顔を隠して穏やかに笑っているあなたが…昔から嫌いでした』
『切れ味の鋭い刀のように』
『冷酷で寒々しいほどの眼差しが』
『それこそが本当のあなただ』
かつて大石から投げかけられた言葉。そして土方さえも認めた事実…殺すべき相手を目の前にして自分は冷たい鬼のような形相をしているーーそれこそ、お前だと。否定しようの無い共存すべき一部であると。
そう、目の前のこの男と同じだ。
(彼は僕の『悪』だ)
理不尽な理由を人を殺し悪意ばかりを持ち合わせた河上は、総司のある一部をそのまま体現したような存在だ。倒幕という思想を持ち邪魔者を排除する彼と、『法度』という掟に縛られ同志を手にかける自分との違いは、客観的に一体どこにあるというのか。
そして河上もまた思っているはずだ。自分の中の一部と同じだと。『善』と『悪』その比重がかろうじて違っていて表面化していないだけだ。
だからこれは、ただの同族嫌悪だ。
「…やれやれ、これではいつまで経っても決着がつかないな」
河上は顎に流れる汗を手の甲で拭った。互いに息切れをし、額に汗をかき、散々突き合わせた刀は刃こぼれしている。全くの互角であり、このままでは日が暮れてしまう。時間がかかればかかるほど、血眼になって河上を探す永倉や隊士たちがここを見つける確率は上がっていくだろう。
(それは惜しい)
故郷に帰るという彼と勝負をつける千載一遇の機会だ。総司は深く深呼吸して気持ちを立て直した。
河上もまたニヤリと笑った。
「わかる…考えていることがわかるぞ。お前はここでどうにか決着をつけたいと思っている。おそらくもう二度と会うことはない…たとえ腕の一本を失ったとしても終わらせたいと、そう思っているのだろう?」
「…こうして刀を合わせているとだんだんと理解できました。あなたと私は似ている。だからとても…あなたの蛮行が受け入れがたい」
「蛮行か…」
河上は刀を下ろした。そして朗々と語る。
「そう、蛮行だ。気にくわない者を殺す。俺の生き様はまるで野生の畜生と同じ蛮行の繰り返しだろう。それを否定はしない」
「…」
「ただ、お前と何が違う?殺した人間の数以外、ほんの少しの違いしかない。そんなお前がまるで素知らぬふりで悪を隠し、幸福に満たされて暮らしている方が俺にはよっぽど不自然に思える」
「私には信念がある」
「信念があれば良いと?」
「私は敬愛する人のためにこの刀を振るう。あなたのように悪意に囚われ、暴走はしない。罪深いというのなら、喜んであの世で償います」
彼のいうようにそれが取り繕った姿だとしても、殺意の沼に引き入れられ飲み込まれてはならない。
信頼し、この身を捧げたいと思える人がいる。
(それがこの男との一番の違いだ)
『戻ってこい』
どんな時でも手を差し出し、待ってくれる人がいる。
(だから僕は死なない)
いつまでも彼のそばで、彼のために生き続ける。たとえ道が違っていたとしても出来る限り彼の近くとともに歩き続ける。その決意に一片の曇りもない。
総司は刀を強く握った。河上と対峙することで濁りかけていた気持ちが、彼の顔を思い出すことで澄んでいく。
(全く、僕はどうしてしまったのだろう)
いつの間にこんなにも彼のことを思うようになってしまったのだろうかーーー。
「…堂々巡りの議論をしていても日が暮れるだけだな」
河上は小さくため息をついて、刃先を真っ直ぐに総司に向けた。
「互いに似ているゆえに、分かり合えると思っていたが」
「…え?」
「勘違いだったようだ」
突然河上が強く土を蹴った。疾風のように素早い動きは、今までになく総司へ真っ直ぐに向かってくる。これが最後になるだろう…そんな直感を覚え総司もまた踏み出した時。
今までにない感覚に襲われた。
「…っ?!」
全身の血流が止まり、一気に体が冷たくなる。息が止まって身体の自由がきかず、総司はそのまま崩れ落ちた。
身体が重たい。ひたすらに重い。
(斬られたか…?!)
そう思ったが、河上の刃先はまだ届いておらず痛みはない。だったら勝手に自分が前のめりになってバランスを失って転けたのか…いや、違う。
気がつくと地べたに両手両膝をつき四つん這いになってゼエゼエと肩で息をしていた。そして体の奥底から不快なものがこみ上げてきて、そのまま口から吐き出した。
(血…?)
真っ赤に染まった吐瀉物がすぐに自分のものだとは思えなかった。天変地異が起こり赤い雨でも降ったのかと思ったが、しかし当然そんなことはない。
これは自分の体の仕業だ。その証拠に次には激しい咳が襲ってきた。
「ゲホッゴホっ、ゴホッゴホッ…カハッ!」
そして再び吐き出した。あちこちの雑草が赤く染まっていく。
(僕が…吐いた…)
吐血というよりも喀血。その違いを幼少の頃に学んでいた。
『あの家に近づいてはなりませぬ』
遠いあの日。悲しげに顔を歪ませた姉が感情をこらえながら幼い総司に言い聞かせていた。近所に住む親しい隣人が労咳になった時のことだ。
人に移る死病…治ることのない不治の病。
(まさか…そんな…)
混乱する総司の目の前に河上が立っていた。見上げると彼はひどく落胆した表情で総司を見下ろしていた。
「…お前も、所詮ただの『人』だったというわけだ」
「…っ…」
そう呟くと彼は刀を鞘に収める。すっかりその戦意が削がれ『興ざめだ』と言わんばかりだった。息苦しくて返答のできない総司を哀れな者を見るようにして
「引き分けが運命だったのだ」
と言い捨てた。そしてそのまま去っていく。
待て、と引き止めることすらできなかった。彼は『引き分けだ』と言ったがそんなはずはない。間違いなくその刃で首を落とすことができたのだ…温情で生かされた総司にとって『負け』に等しい。
(僕はもう…彼の前に立つことすらできない)
総司は投げ出された刀に目を向けた。『加賀清光』は自分の血に染まっていた。











解説
なし



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