わらべうた




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「そうか、取り逃したのか…残念だな」
「申し訳ありません」
総司は巡察を終え、永倉とともに報告に向かった。土方は不在であり、近藤へことの経緯を報告すると眉をひそめて「残念だ」と繰り返した。
「山野くんが怪我をしたのだろう、彼は無事か?」
「浅手ですから数日静養すれば問題ありません。念のため、南部先生の元へ治療へ向かわせました」
「そうか。大事ないと良いが…しかし精鋭の一番隊、二番隊から易々と逃れ、総司をもってしても捕らえられないとは…暗殺ばかりを担うその歪んだ志はともかく、剣士としてはこの国で指折りの存在なのだろうな」
近藤は腕を組みながら、何度も逃げ果せた河上に対して半ば感心した様子を見せたが、永倉は未だに憤慨していた。
「そんな悠長なことを言っている場合ではありません。今回だけではなく河上には何人も死傷しています…同志の仇を取らず逃げられてしまうなど新撰組の恥になる」
「無論、その通りだ」
「…だいたい、総司が何人か引き連れていれば簡単に逃げられることはなかったはずだ。一番隊の組長が単独行動など、言語道断だろう」
「…申し訳ありません」
「一人でなんとかできるならもっと昔に捕らえることができている。それができない相手だからこそ確実に捕らえられるような数で対峙する…制札の件でもそうだったはずだ」
「おっしゃる通りです」
永倉の厳しい指摘は尤もだ。個人的な感情を優先して単独行動をし、その結果取り逃がすなど失態でしかない。組下を殺された永倉の悔しさに対し、総司はただ謝ることしかできなかった。
永倉はやり場のない怒りを抱えながらも、総司の殊勝な態度にひとまず納得したのか
「…もういい。次こそは捕らえてやる」
と息巻いて「失礼します」と去っていった。いつもは冷静な永倉の憤った姿に、近藤は苦笑した。
「はは…随分、怒っていたな。だが永倉くんの言う通りだ。お前が河上に特別な感情を抱いていたとはいえ任務の最中なら隊士たちを引き連れて向かうべきだった。…犠牲を出したくなかったと言うお前の配慮なのかもしれないが、蔑ろにされたと感じる隊士もいるだろう」
「はい。先生と永倉さんのおっしゃる通りです。申し訳ありませんでした」
「次こそは頼む」
「はい。ですが…次、はもうないかもしれません。永倉さんには言えませんが河上は故郷へ帰るのだと口にしていました。もしかしたら都へは二度と足を踏み入れないかもしれません」
『終わらせよう』
『もう二度と会うことはない』
彼が口走った言葉にはでまかせではなく別れの意図があった。そして
『引き分けが運命だ』
ともーーー。
「…そうか。お前がそう言うのならそうなのだろう。決着がつかずに残念というか、平穏で良いと言っていいのかわからないな」
「…そうですね」
「疲れた顔をしている。部屋に戻って休んだ方が良い」
「はい」
総司は深く頭を下げた。近藤の温情に感謝し、またいつも通りの報告を終えたことに安堵した。

総司は部屋を出てすぐに深呼吸した。
秋から冬にかけて、乾燥した冷たい空気が肺に入り少し温かくなって吐き出される。それを何度か繰り返すが一連の動作に乱れはなくいつも通りだった。
(…悪い夢だったのかもしれない)
河上と対峙し、ついに決着かと言うときに喀血した。真っ赤に染まった視界にグラグラと頭が揺れ、息苦しくて溺れているようなーーー河上が去ったあとどうにか這いつくばるような気怠さを堪え、永倉と合流し鈍った頭で河上を取り逃がした言い訳を考えて、帰路に着いた。身体中を冷たい汗が流れていたがどういうわけか次第に落ち着き、屯所にたどり着く頃にはそんな息切れが収まり、今ではすっかり消え失せていた。
(少し調子が悪かっただけだろう…)
ここのところ咳が出ていた。何かの拍子に喉が切れてしまったのかもしれない…そう言い聞かせるが、一方で背中を伝うような寒気のようなものがあった。否定すればするほど身体の芯が冷えるようだ。
確かなのは自分の身体ではないような浮遊感のなか、河上が四つん這いになった自分を見下ろしていたことだ。傷つけられたわけでもなく倒れた憐れな剣士を見て、温情を与えた…それが何よりも屈辱で、頭が沸騰しそうだった。
「総司、戻ったのか」
急に土方がやってきて総司は驚いた。自分が気づかなかったことに驚いたのだ。
「土方さん…え、ええ、巡察の報告を近藤先生に…」
「どうした?汚れている」
着物の血の汚れを土方が目ざとく見つけた。同時に総司が怪我をしていないことも確認する。
総司は咄嗟に嘘をついた。
「…これは河上の血です」
「河上?河上彦斎か?」
「残念ながら逃しました。詳しいことは近藤先生に報告していますから聞いてください。私は…疲れたので、休みます」
「おい…」
土方は何か問いかけようとしていたが総司は聞こえないふりをして立ち去った。
河上は怪我などしていない。互いの刃先は傷を負わせることはなかったのだから、これは総司の喀血だーーーそんなことまで土方が気がつくわけがないのに、聡い彼に全て見透かされてしまいそうで恐ろしかった。
喀血などしたと知れたらどうなる?土方ならすぐに労咳を疑うはずだ。
(絶対に気づかれちゃだめだ…)
だから身体の悲鳴に耳を塞ぐ。見たものを見なかったことにする。
どうか、どうか。
悪い夢から早く覚めれば良い…そう思うことでしかいまは正気を保てなかった。


近藤から報告を聞いた土方は納得した。
「ああ…それであいつは様子がおかしかったのか」
河上との邂逅、単独行動、取り逃した失態…総司の表情が冴えない理由がようやくわかった。
「志が違うとは言え、実力の並ぶ河上の存在は総司にとって好敵手だっただろう。敵味方がどうのこうのというよりも剣のことになると見境がなくなるところがあるからな」
「近藤先生に似たんだ」
「はは、そうかもな。…総司曰く、河上は都を離れるらしい。それが本当ならしばらく平穏になるだろう」
「河上の言葉を簡単に信じることはできないが…総司の勘は当たる。その通りなのかもしれないな…」
長く続いた河上との決着はつかなかったかもしれないが、正体の掴めない暗殺者が一人減ることは都にとって悪いことではない。
土方は足を組み替えながら息を吐く。総司を慰めなければと思いながら。
すると近藤は「ところで」と話を変えた。
「上七軒に行ってきたのだろう?」
「…なんでわかる」
「お前は自分の与り知らぬところで噂が立つのを嫌う。確かめなければならぬタチだ。…君鶴という女には会えたのか?」
近藤は普段鈍感なくせにこういう時だけは勘が良い。隠すのは無意味だ。
「…遠目から眺めただけだ」
「お前を手玉にとるくらいだ、相当の切れ者だろう?」
「ガキだった」
「なにぃ?」
「舞妓だ」
近藤にとっても予想外だったのか、「嘘だろう」と前のめりになる。しかし嘘偽りない現実なのだから仕方ない。
「とても新撰組の鬼副長の懇意だとは思うまい。そのうち噂も立ち消えになるさ」
「うーむ、そうか…」
「なんで残念そうなんだよ。面白がるつもりだったのか?」
「その通りだ」
近藤は冗談めかして笑い、土方は「勘弁しろよ」と応じた。
(誰があんなガキ…)
傍目にもただの噂なのだと誰もが笑うだろう。けれどもどこかでこれで終わりではないという予感もあった。









解説
なし



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