わらべうた




589

空気がすっかり冷たくなり、乾燥していた。
壬生の屯所から移築した道場には隙間風が入り込み、朝の調練を妨げる。しかし
「素振りはじめ!」
の号令がかかるとあっという間に体から蒸気が出るように暑くなり、始めは白かった息も見えなくなっていく。狭い道場はひしめき合う隊士たちの熱気によってあっという間に蒸し風呂状態だ。
「あっちぃなぁ」
早速、原田が着崩すと隊士たちも次々に続いた。彼らが首筋から鎖骨へと流れる汗を拭うなか、総司は端に身を寄せ息を整えていた。
(しんどいな…)
幼い頃から鍛えられたしなやかな体躯は滅多に疲労などしないはずだが、たかだか素振りで息が上がってしまう。
いつもとは違う…幸いなことに目敏い斉藤は非番、心配性の山野は怪我のため稽古に不参加のためその事実に気がつく者はいなかった。
「よし、乱取りでもするか」
「…良いですね」
総司は原田の得意な稽古に同意する。指導役に徹するだけの稽古は今はありがたかった。
原田の指導で始まった乱取り稽古を眺めながら、総司はこの数日の思考を整理する。
夢でも幻でもなく、あの日、吐血した。正しくは喀血なのかもしれないが河上にまともに対峙できないほどの出来事だった。
疑ったのは労咳だ。肺を蝕む不治の病ーーーその時は絶望感に打ち拉がれたけれど、その後、吐血することはなく誰にも疑われることのない日常生活を送ることができている。気怠さはあるが回復している…理由はわからない。
(だから、労咳と断ずるのは早計だろう…)
近藤のような胃潰瘍かもしれない。ともかく医学の知識がないのでどのような病かはわからないが、自力で立て直すことができたのだから大袈裟な病ではないのだ。
今日のような稽古にはまだ後遺症があるだけでいづれ全快するだろう。期待を含んだ甘い考えかもしれないが、そう自分に言い聞かせた。
なんでもないはずだ。
何より、そんな事実を認めるわけにはいかない。
(もし労咳なんかになっていたら…)
錆びて斬れなくなった刀のように役立たずになる。それどころか死病を抱えた自分は忌避され、居場所はどこにもない。
(近藤先生や…土方さんのそばには、いられない…)
それは総司にとってなににも変えがたい苦痛だ。
「どうした?」
「…えっ?」
いつの間にか原田が総司の顔を覗き込んでいた。彼の野生の勘が働いたのだろうか…総司は一瞬冷や汗を掻くが、
「怖い顔してるぜ、土方さんみたいだ」
と笑われてしまったので、
「なんでもないですよ」
と同じように笑って返した。
何気ないやりとりに、心から安堵しながら。


文学師範としての講義から別宅での『勉強会』に呼ばれるようになってしばらくが経った。
「斉藤さん」
連日の勉強会を終えたとき、藤堂に呼ばれた。
「なにか?」
「先日の件ですが、伊東先生がお喜びでした。有用な情報であったと」
「藤堂さん」
勉強会を終えたとはいえ、門下生をはじめとした隊士たちが部屋にはまだ数人残っている。場を弁えるように視線を送ったが、藤堂は「問題ありませんよ」と微笑した。
「ここにいるのは『本当の同志』だけです、口は固く他言はしません」
「…そうか」
藤堂の言い分に斉藤は納得するフリをした。
つい先日までの敵意丸出しの態度だったのにいまはすっかり消え失せている。その変わり身の速さは藤堂の素直な性格故なのだろうが、ほんの少し情報を提供しただけで、あっさり信用されてしまうのは居心地が悪い。
しかし、一方で彼はそれほど伊東に心酔しているのだろう。心の拠り所として役に立ちたいと願い、新しい仲間を求めている。彼は信じることに飢えている。
(…もしも山南総長が御存命ならば…など考えても仕方ないが…)
「おっと。…伊東先生がお呼びです。奥の部屋にどうぞ」
「…ああ」
藤堂に促され、斉藤は教鞭を取る広間から奥の客間へと移る。
そこへ招かれるのは入隊以前の同志など本当に伊東に近しい者だけだ。今日も腹心の部下である内海と篠原が控えていた。
「やあ、今日も居残りをさせてすまない」
伊東の歓迎を受け取り、腰を下ろす。斉藤はチラリと二人の男に目を向けた。
内海は藤堂のように簡単ではなく未だに厳しい視線を向けている。篠原は仲間意識が強く結束を大事にする人格でなかなか斉藤を受け入れようとはしない頑なさが滲み出ている。
そして目の前で微笑む伊東ーーその本意は未だ計りかねる。たかが一度情報提供したくらいで全面的に信頼できる味方などと思ったわけがあるまい。せいぜい幕府と会津側の間諜であることを認めたくらいだろう。
「先日は助かったよ。君の言う通りだった」
あれから斉藤の進言した通り、幕府より大沢源次郎という元見廻組の男を捕縛する命が下ったのだ。藤堂の言った通り伊藤は上機嫌だった。
「いえ…俺の立場をご理解頂ければ十分です」
「それは信じよう。次は心だ」
「…心…ですか」
「同志とは同じ志と書く。当然同じ思想と理念の元に行動をともにしなければならない」
「…おっしゃる通りです」
伊東に言われるまでもない、と斉藤は頷いた。彼はまだ自分を試したいのだろう。
すると優雅に微笑んでいた伊東は扇を広げその口元を隠した。その癖は不便なことに表情が読み取りにくくなる。
「…さて、斉藤くんはすでに承知のことと思うが、私は今の幕府には大変失望している。局長とともに長州へ向かった際、武士とは名ばかりの自堕落な兵士たちには閉口した…そしてものの見事に長州一藩に敗北を喫した幕府には未来がないと考えている」
「同感です」
「そしてその頭領に一橋が就くのなら、一層愛想が尽きる」
扇を介してもわかる、伊東の剥き出しの嫌悪感に
「…水戸のご出身の参謀なら、当然かと」
と同意した。
尊王攘夷を強く唱える水戸藩士と一橋公は衝突した過去がある。伊東の一橋嫌いは当然だ。
「そう、私は伊東甲子太郎として受け入れがたいのだが…佐幕派の新撰組参謀として意を唱えることはできない。幕府に心酔する局長を説得することは難しく、それに従う土方副長も局長の意に反して動くことはないだろう。しかし…」
「脱走は切腹です」
「その通り。山南総長すら許されなかったのだ、例外はないだろう。…この板挟みの状況に私は苦心している。そこで、君に良い考えはないだろうか」
「…」
問いかけながら、伊東がじっと斉藤を見ていた。ほんの少しの動揺も迷いも見透かすような鋭い針のような眼で。
彼は勉強会という名ばかりの集会を利用して自分に陶酔する隊士たちを見極め、焚きつけようとしている。幕府への失望を植え付け、朝廷の正統性を論じ、直接表現しないにせよ倒幕もやむなしと隊士たちを信じ込ませる。そしていつのまにか伊東のためならば玉砕もやむなしという覚悟を身につけ、『味方』を増やし続けている。
(いつしかその波が隊を覆うかもしれない)
川の水が堰を切って溢れ出るように、飲み込まれてしまう。
「少し…考えさせて頂けませんか」
「ほう?」
「伊東参謀すらお答えを導き出せないことを、俺のような凡人がそう簡単には応えられません」
「…良いだろう。答えがまとまったら聞かせてくれないか」
「かしこまりました」
斉藤は深々と頭を下げて「失礼します」と腰を上げた。すると
「待ってくれ」
と伊東が呼び止めた。
「なんでしょうか」
「一つ、否定しておくよ。君は決して凡人ではない…私はそう思っている」
彼の微笑みはまるでトゲのある花のようだ。誰にも触れられない高嶺の花であるからこそ、皆が見上げて憧れる。
「…ありがとうございます」
果たしてその花が本当に美しいのか…見定めるのは自分しかできないだろう。








解説
余談ですが、大沢源次郎捕縛について渋沢栄一が書き残しています。幕臣であった渋沢に土方が同行し、捕縛したとされています。渋沢栄一からみた近藤、土方の様子が書き残されていますので興味のある方はお調べください。



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