わらべうた




591

「困ったなぁ」
山野への土産のために飴屋に寄り、その後斉藤とともに向かった刀屋の主人にボロボロになってしまった刀を見せると
「これはもう新しいのを拵えた方がよろしい」
と進言されてしまった。そしていくつかの業物を斉藤とともに拝見したがそのつもりがなかったせいかどれもしっくり来ず、「またの機会に」と店を後にした。
「これも良い機会だ、良い刀を買うか、会津の藩工に作らせたらどうだ」
斉藤はそう言うが、総司は気が進まない。藩主の一族や有力者が打たせる「藩工」や「注文打ち」などこだわりがない上に身の丈に合わない気がしたのだ。
「私は斬れ味が良いならどんなに有名な刀匠でも無名の刀工でも構わないんです。これも乞食清光ですからね。それに私なんて会津の方にお願いするほどの立場ではありませんよ」
「局長に頼めば問題ないだろう」
「それでも気が進みません。それに…ちょっと気になっている刀があるんです」
「ほう?」
凝りがない総司とは正反対に刀に拘りのある斉藤は興味深そうに腕を組む。
「安定…大和守安定です。伊庭君も遣っている反りが浅くて細身の刀身…優雅で良いなぁって思っていたんです」
「安定か…扱いづらいが、沖田さんらしいな」
刀に関して博識の斉藤は唸る。
『良業物』とされる『大和守安定』だが極めて細身の剣先は斬れ味が良いが折れやすく扱いは難しい。遣い手を選ぶ玄人向けの刀だ。
「…まあ、何事とも『縁』ですから。しばらくは隊の予備の刀を使って、気長に探しますよ」
のんびりと構える総司に斉藤は「やれやれ」と言わんばかりに肩をすくめた。新撰組一番隊組長が予備の刀で良いなどと腑抜けたことを言っていると呆れたのかもしれない。
そうは言っても上洛から数年苦楽をともにしてきた愛刀を「斬れないから」と簡単に手放すのは惜しい。
「お別れは寂しいですからね」
ぽんぽん、と腰に帯びた『清光』に愛着を込めて触れる。すると少し呆れていた斉藤の表情が変わった。
「寂しい…か」
「そりゃぁ…長くお世話になってますから。別れないで済むならこのまま使いたいですからね。でも斬れないなら仕方ありません」
「そうか…いや、そうだな…」
斉藤が口元に手を当てて何か思案するように考え込む。総司としては深い意味があるわけではないのだが、彼にとっては違ったのだろうか。
「用事を思いだした」
と唐突に口にして去っていってしまった。小さくなって、やがて角を曲がった背中を見送って総司は大きく深呼吸した。
「…良かった」
昔、幼い頃に浅瀬で溺れたことがある。すぐに姉に助け出されたので溺れたと言うほどのことではないのかもしれないが、自分の体がコントロールを失い息すら出来ずに沈んでいく…そんな身の竦む恐怖は覚えている。
今の自分はそれに似ている。
大人になって少しは自分の身体の使い方がわかる分、外からはわからないかもしれないが確実に息苦しくなっている。
大丈夫だとそう思えば思うほど自覚するのだ。
決してそうではないことを。
気のせいだと笑い飛ばすことは、もうできない。
総司は手のひらを左の胸に当てた。
(どうか…少しでも長く、このままで…)


斉藤が総司と別れ伊東の別宅へ向かうと、たまたま藤堂と鉢合わせた。
「伊東先生のお宅へ向かわれるのですか?ご一緒しましょう」
「…ああ」
人懐っこい笑みで誘われると斉藤は受け入れるしかない。
勘定方の河合が謹慎していた頃、彼の解放に尽力する藤堂に対して非協力的な斉藤の態度に彼は激しく憤っていたが、いまはそれがまるで嘘のように親しげで朗らかだ。彼が心酔する伊東が斉藤を目にかけていると言うだけでこれほどまでに心変わりするものだろうか…と怪訝に思うが、一方でそれが「魁先生」らしさだと言うことを知っていた。短い間とはいえ試衛館で過ごした斉藤には、彼の直向きなまでの実直さと子供のような素直さが天性のものだとわかる。
だからこそもどかしく思う。
(こちらの道は危うい道だ)
そう伝えたいのに、感情に従い盲目となった彼にはきっと伝わらないのだ。
「今日は勉強会の日ではありませんけど、なにかお話でも?」
「ああ…先生はご在宅だろうか?」
「おそらく。でも珍しくご機嫌は宜しくないと思いますよ」
「一橋公が将軍に就いたからか」
「さすがです」
藤堂は困惑しつつ微笑んだ。
一橋慶喜が将軍に就くことは以前からの既定路線であったが、水戸出身の伊東からすればそれでも受け入れ難いことだろう。
「伊東先生だけではなく、内海さんもいつも以上にピリピリしてます。俺にはよくわからないのですが…」
「水戸藩士と一橋公の因縁は深い。気軽に慰めを口にすべきではないだろう」
「俺もそう思います」
頷く藤堂はそのあとはすっかり話を変えて雑談を口にした。隊内の噂話や評判の魚の美味い店…どれもこれも屈託のないとりとめのない話。
(彼は理解しているのだろうか…)
一橋慶喜が将軍になった意味を。
敬愛する伊東にとってどんな心境の変化があるのか。
そして、新撰組はどうなってしまうのかーーーそんな不安はないのだろうか。
「着きましたね」
藤堂が伊東の別宅の門扉を開く。すると途端に怒鳴り声が聞こえてきた。
「一橋公の下に就くことは、死んだかつての同志を裏切ることになるのだ!」
「大蔵さん、お気持ちはわかりますが…」
「わかるものか!いや、死んだ小四郎らの気持ちなど誰もわからぬ。信じていた主君に裏切られ鰊倉などに監禁され、人としての扱いを受けずに死んだ…その無念を思うと、こうしてのうのうと新撰組に与していることすら、恥だ!」
「落ち着いてください!」
感情を露わにする伊東と必死に宥めようとする内海のやりとり。
初めて耳にした怒鳴り声に固まってしまった藤堂を置いて、斉藤は中へ入る。
そして土間で言い合う伊東と内海を見つけた。
「参謀、お声が外まで聞こえています」
「斉藤くん…」
ハッと我にかえった伊東は
「すまない…わかっていたこととはいえ、我慢ならなかったのだ」
と、視線を落とした。
額に汗を滲ませていた伊東は、内海から懐紙を受け取って拭き取る。内海は伊東が落ち着いたらことに安堵し、よく見ると部屋の隅の方で主人の血相を変えた様子に怯える花香の姿もあった。
斉藤は軽く頭を下げた。
「…お気持ち、お察しいたします。俺の想像以上に参謀のお立場では歯痒いお思いもあるでしょうが、極端なお考えを口にするべきではありません、どうか冷静に。誰が聞き耳を立てているかわかりませんので。ひとまず奥のお部屋へ…」
「…君が、そうなのかもしれないがね…」
牙の矛先を変えるかのように伊東が噛み付く。よほど腹に据えかねているのだろう。八つ当たりにも等しいが腹は立たなかった。伊東は同志や友人を主君であった一橋公の裏切りで殺されているのだ。
(この人にも人間らしい喜怒哀楽があるのだな)
「お慰みにもなりませんが…一つ、案があり参上いたしました」
「案?」
「先日の『良い考え』です」
投げかけられていた現状を打破する方法。
斉藤は
「お話しさせていただいてもよろしいでしょうか?」
と誘う。伊東はニヤリと口元を光らせて「聞かせてもらおう」と答えた。
今までで一番、彼が人間らしい感情を剥き出しにした。
癖のように口元を隠す扇の下で、彼はその牙を隠し続けてきたのだ。







592


伊東に奥の部屋へ招かれる。花香に茶を運ばせて内海も藤堂も遠ざけ、部屋には斉藤と二人だけだ。
積み上がった書物は整然と並んでいるところもあれば、読みかけの開いたままの冊子がいくつか広がっているスペースもある。文机は書きかけの手紙と乾燥し割れた筆が置かれ、屯所では隙なく振る舞う伊東のほんの少しの油断が現れているようだ。
「人、というものは期待しないではいられない生き物だ」
互いに向き合って座ると、伊東が語り始めた。先程の憤怒した感情は消え失せていたが、いつもと違う感情の揺れはあった。
「私は水戸で学んだ者として幕府には些か思うところがあったが、それでも希望を見出し池田屋で名を挙げていた新撰組に身を投じた。いつまでも道場主で燻っていても仕方ない…動かねばならぬと」
「…」
「しかし…船の舵取りの意思は関係なく、潮の流れには誰も逆らえぬ。いつしか潮目が変わり、何かが変わるのかもしれない…そんな期待を、してしまったのだ」
「…裏切られましたか」
「潮目は変わらなかった。それを裏切りだと言うのは傲慢だな…私は動かずに待っていただけだったのだから。期待は、ただの期待でしかなかったのだろう。…君はどう思った?」
「新撰組の組長として、でしょうか。それとも…」
「君個人として聞いている」
伊東の語気は未だに荒い。斉藤は言葉を選んだ。
「…幕府に対し、期待も失望も…そのような感情を持ったことはありません。ただそういうものだ、と受け入れてきました。主君に従うことが喜びであり、盲目的であることが忠誠心の顕れだと信じたからです。しかし…主君を失えば見えていないものが見えて来る」
「何が見える?」
いつもの伊東なら斉藤へ答えを求めずに飲み込んだだろう。先回りして結論を見出し頷いたはずだ。
しかし彼は言葉を求めた。
「見えなかったものです。見えなくても良いと思えたものが、見える、見えてしまう。…幕府には先がない。そして新撰組にも…この先は行き止まりです」
斉藤の答えに伊東は満足そうに笑った。どうやら彼の思い描いた答えを口にできたらしい。
伊東は懐からいつもの扇子を取り出した。そして咳払いし、何度かそれを手のひらに打ちつける。
「私はこれ以上、時間を無駄にはできない。潮目は変えられないが航路は変えられる。…君の提案を聞きたい」
ようやく本題へ伊東が促し、斉藤は背筋を伸ばした。
「…この状況を変えるには、新撰組では難しいと考えます。近藤局長は天領の地に生まれ幕府への忠誠心は誰よりも強く何があっても翻意することはないでしょう。また同じように土方副長の局長への親愛は厚く結束は揺らがない。つまり新撰組は幕府と会津の下部組織として機能し続けます。そして…脱走もできない。いくら参謀とはいえ容赦なく切腹を命じるでしょう」
「当然だ。あの山南総長でさえ切腹となったのだ」
「そしてたとえ脱走が叶ったとしても監察の目がある都では身動きが取れない。では…分派という形はどうでしょうか」
「分派…?」
伊東は怪訝な顔をしたが、斉藤は続けた。
「なんらかの理由をつけて隊を二分するのです。重要なのは新撰組を裏切る理由ではないこと、そして出来るだけ多くの隊士…できれば組長級の同志を引き入れることです」
「君のような?」
「はい。藤堂組長は参加するでしょう。そして以前から局長や副長に意見していた永倉組長も可能性がありますし、彼が同調すれば情に厚い原田組長も加わるかもしれません」
「まさか」
伊東は冗談だろうと苦笑したが、斉藤は真顔だ。
「山南総長が切腹したあと、局長や副長は憔悴していました。同じことは繰り返したくないと思うでしょう。数が多ければ多いほど、また同じ窯の飯をともにした食客が加われば加わるほど分派を認めるはずです」
「…」
「俺も試衛館の居候は半年に過ぎませんが…それなりにお役に立てるかと」
『お別れは寂しいですからね』
総司の何気ない言葉がヒントとなり浮かんだ『分派』という提案はなかなか幼稚ではあったが不可能ではない。
斉藤は伊東の顔色を伺った。最初に疑い、笑い飛ばしていた表情は消え失せ、目を伏せて思案を巡らせている。
彼は数年前の建白書の件を知っている。永倉や原田、そして斉藤が事と場合によっては近藤らと袂を分かつと。
そう、期待する。
『人というものは期待せずにはいられない生き物だ』
「…君の提案は理解した。ただ分派の理由と彼らを説き伏せることが必要だ」
「それは参謀にお任せします」
「やれやれ、肝心なところは丸投げだね」
伊東は微笑みながら口元に扇をトントンと押し当てた。彼はすでに計算を始めている。自分の航路へ進むためになすべきことと勝利の確率を。


数日後。
「面白い話を聞いたんだが、聞くか?聞くよな?」
隊の巡察を終えた原田が嬉々として非番の総司に声をかけてきた。彼の表情からして好奇な噂話だろうと察することはできた。
「ハイハイ、聞きたいです聞きたいです」
「おっ?そうか?でもなー、どうしよっかなー」
「勿体ぶるなら結構ですよ。いまから壬生の子供たちと鬼ごっこの約束があるんです」
「お前なァ、ガキとの鬼ごっこの約束より重要な話なんだぞ?」
「だったら早く話してくださいよ」
総司は草鞋の紐を結びながら聞き流す。原田は「仕方ねぇなぁ」と恩着せがましく言いながら隣に腰を下ろした。
「うわさ話なんだけどな、花街で下男から聞いたんだ」
「あ、おまささんに言いつけますよ」
「バカ、重要なのはそこじゃねえよ。なんと…土方さんに馴染みの女ができたってよ」
「…まさか」
「お前にとっちゃ複雑かもしれねえけど、モテるから仕方ねぇ。しかもその女が上七軒の舞妓だって言うんだよ、いやぁ、土方さんにそんな趣味があるなんて知らなかったなぁ!」
ケラケラと笑いながら原田は手を叩くが、総司は意に介さず反対の草履の紐に取りかかった。
「あり得ないですね。土方さんに幼子の趣味があるかどうかは知りませんけど、馴染みを作るにしても、上七軒だけはありませんよ」
総司は強がりではなく本気でそう思った。上七軒には一度は身請を決意した君菊や山南の馴染みであった明里の置屋があったのだ。土方がそこへ足を踏み入れることすら考えられなかった。
「でもそういう噂が広まってるらしいぜ?しかも名前が君鶴って言ってな…」
「あくまで根も葉もない噂じゃないですか。原田さんも不用意に広めると土方さんに怒られますよ…約束の時間に遅れるから行きますね」
「おいおい、まだ話は…」
原田は引き止めようとしたが、総司は無視して歩き出した。
屯所をでて壬生までは目と鼻の先だが、次第に胸のあたりがムカムカし始めていた。
(うわさ話だとしても、よりによって上七軒だなんて…)
土方にとっても、そして総司にとってもそれは心外な噂に違いない。きっと総司の耳に届いているくらいなのだから土方はすでに知っているはずだ。
(君鶴か…)
原田がチラリと口にした名前、君菊と同じ置屋なのだろうか。
「…」
原田の前では気に留めないように話を切り上げたが、やがて言いようもない不快な気持ちが迫り上がってきた。
そして総司の足は壬生を通り過ぎて上七軒へと向かっていたのだった。






593


上七軒のほど近く「北野の天神さん」と親しまれる北野天満宮が見えてくる頃、ハラハラと雪が降り始めた。
その冷たい一粒が頬で溶けて、その冷たさに気がついた時ようやく気持ちが落ち着いた。
(上七軒に行ったってどうしようもない)
総司は足を止めた。
土方とその「君鶴」との噂はあくまで噂でしかなく、自分は土方を信じている。多少の遊びはあるかもしれないが心情的にその遊び場に上七軒を選ぶはずがないと言うことも、頭ではわかっていた。
「…馬鹿だなぁ…」
根も葉もない噂をいつもなら信じたりしないのに、どうして心を揺さぶられてしまったのか。
(きっとどこか弱気になっているからだな…)
いつも通りの日常に疑いを持っていたからこそ、確かめたくなっただけだ。
土方に聞いてみれば良い。きっと
「お前までそんな馬鹿な話を信じるのか」
と呆れて憤慨するだろう。変な噂が立つものだと互いに笑って、それでおしまいだ。
君鶴という君菊に似た名前を持つ舞妓には興味があったが、そもそもこんな昼間に訪ねて行って会えるわけがないのだ。
「…帰ろうかな」
踵を返そうとしたが、せっかくここまできたのだからと「北野の天神さん」に立ち寄ることにした。
今出川通りに面する大鳥居をくぐり、広い境内を見渡す。ここは梅の名所であるが、まだ時期が早く枯れ木が静かに早春を待っていた。その東にあるのが上七軒で、芸妓たちは「北野の天神さん」の氏子になるそうだ。
何人かの参拝者はいたが、ふと大鳥居のそばにある松の木の前で佇む女子の姿が目に入った。シンプルだが上品な紫の着物に身を包み、肩掛けで寒さを凌ぎながらも雪を厭う様子はなく一心不乱に松の木を見上げていた。空から舞う一粒一粒の雪が松の細い葉にかかるのを数えるように、目を離さなかった。不思議な雰囲気を感じた。
総司が一、二歩、近づくと彼女が呼んでもいないのに振り返った。白い雪と対称的な黒髪、そしておなじような肌、すっと通った鼻筋、つぶらな眼ーーーまだ幼いがどこか女としての美しさの片鱗を見せている。
「詩を詠まれるのですか?」
「…詩?」
彼女は問いかける。何の脈絡もなく突然に。
「この松は、影向松いいます。ここが『天神さん』にならはる前からある御神木…毎年、初雪が降ると天神様がここに降りはって、詩を詠まれるとか」
「へぇ…」
「せやから今日は硯と筆と墨がお供えしてあります。今頃、一捻りしてはるはず」
彼女の手が指す方には確かにそれがある。初雪を眺めながら神がどう詠むのか…なにやらロマンチックな話だ。
「詳しいのですね」
「上七軒の女子なら誰でも知ってはることです」
「じゃあ君は上七軒の…」
「へぇ、まだ舞妓やけど」
お見知りおきをと言わんばかりに彼女は微笑んだ。美しさとあどけなさが同居する特有の可愛らしさがある。
壬生に行けば子供たちと戯れることに何の躊躇ない総司だが、大人と子供の境目のような彼女のような年頃の女子とは関わったことがなく、どこか不慣れな対応になってしまう。
「お武家様は天神さまに神頼み?」
「…はは、違います。近くを通りかかったので手を合わせようかなと。長く住んでいるのに初めて来ましたから」
「それやったら本殿までご案内いたします」
「え?でも…」
「置屋に戻っても芸事の稽古ばかりやから。せやったらお武家様を天神さまにご案内する方が信心深い行いやし、有意義やおもいます」
悪戯っぽく笑うと、彼女は総司の腕を引いて本殿へ向かい歩き出す。やや強引だが白く細い手を振り払うことはできず(まあいいか)と受け入れた。こんな非日常も悪くない。
彼女の語り口は滑らかで、あちこち指差して雑学を披露した。太閤が茶会を開いた時に使用した茶室や井戸、神の使いである牛像とその由来…饒舌に語る彼女と二人、平坦な石畳を並んで歩きながら、楼門を潜り絵馬所を通り、やがて本殿が見えてきた。
「あれが、名高い三光門」
彼女が足を止めたのは『天満宮』の文字と豪華絢爛な造りが施された立派な門だった。
「三光門?」
「三光、いうのは日、月、星のことを言います。ようみてみて、梁の間…日、月と彫られてます」
「…本当だ」
「せやけど星はあらへん。なんでかわかる?」
「わからへん」
総司は首を傾げながらも茶化して答えると、彼女は嬉しそうに答えた。
「夜になるとこの門の真上に『子(ね)の星』(北極星)が昇るから、必要あらへんのです。せやから、『星欠けの三光門』とも言います。うちはここから夜空を見上げるのが大好き」
「どうして?」
「まるで天と繋がっているみたいやから。夜になると日と月と、星が一緒になって…まるでどこか遠い場所に繋がってるみたい。手を合わせれば願い事が叶いそうや」
「…」
立派な門とその向こうに見える北を示す動かぬ星。彼女にはそれが神秘的な夢のように特別な景色に見えるそうだ。うっとりと見上げる彼女は純真で純朴そのものだった。
「叶うといいね」
「御武家様は?願い事」
「…そうだな…でもきっと叶わないよ」
「どうして?そんなに難しいこと?」
「叶えてもらえそうにないよ」
総司が苦笑すると彼女は「ふうん」と首を傾げた。
「あ、ツグミや」
門を見上げていた視線が、鳥を追いはじめる。彼女は嬉しそうに声を上げた。
「冬に渡来するツグミは、滅多に鳴かへん。せやから口をつぐむで、『ツグミ』……可愛らしなぁ」
彼女の言う通り、鳥は鳴くことなく何度か地面を啄み飛び立っていく。巻き上がるような風と共に白と灰色で濁った冬の空のなかへ消えて、それと同時に黒髪が靡いたーーーと。
「赤毛…?」
風によって浮き上がった髪の奥に、見慣れない赤毛がチラリと見えた。彼女は咄嗟に両手で頭を抱えるようにして隠したが漆黒の黒髪だからこそ、はっきりと目に焼き付いた。
「…バレてしもうた」
それまで饒舌に語っていたのに、一気に言葉が重くなる。
「これは髢で…うちの地毛はこれ。女将さんには秘密にするようにきつういわれてますさかい、内密に…」
「それはもちろん…」
誰に話すつもりもない…そう口にしようとして冷たい風が喉に張り付いた。
(まずい)
と思った時には咳き込んで、その場に膝をついていた。
「ゲホッゲホッ」
「お武家様?」
「…っ、だい…ゲホッゲホッゲホッ!」
駆け寄り背中をさする彼女に大丈夫だと言うことすらままならず、激しく咳き込んだ。呼吸する暇すら与えられない首を絞められたかのような苦しさは、河上と対峙した時と同じだ。
体を折り尋常な様子ではなく咳き込み続ける総司を見て、彼女は狼狽した。次第に只事でないと察したのかあたりを見渡し助けを求めようと叫ぶ。
「だ、誰か!」
「…呼ばなくて、良いから…!」
「せやかて顔、真っ青…」
「ゲホ…ッ」
体の奥底から湧き上がってくる不快感…棘のような咳以上に体を傷みつける。それをようやく吐き出した時、
「血…っ?えっ、なんで…?!」
さすがに年相応に、彼女は身が竦んだ。砂利に飛び散ったのは喀血だったのだ。
総司は申し訳なさを感じながらも、意識が薄れていくのを感じた。
(夢かな…)
この期に及んで、と苦笑したくなるが、初めて会った少女と初めて踏み入れた神聖な場所。そして幻だと信じていたかった再びの喀血。何もかもが現実味がない。
「お武家様!お武家様!!」
「…名前は…?」
「え?そんなんどうでも…」
(そういえば名前を聞いていなかった)
必死に体を揺する彼女は、つい先ほど会ったばかりだというのに悲しそうに顔を歪めていた。
優しい女子だら、
「うちは、君鶴いいます」
(そんな気がしていたんだ)
霞む視界の向こうに三光門が見えた。
星欠けの入り口の向こうには何があるのだろう。意識を失いながらそんなことを考えた。





594


あれは江戸にいた頃。
出稽古のため肩に竹刀を担いで日野に向かう途中、ふと土方が立ち止まったことがあった。
「歳三さん?」
彼が遠くを見て難しい顔をしているので、総司も気になってそちらを見る。するとそれなりに裕福な家の前に喪服を着た人々が集まっていた。
「葬式ですか」
肩を寄せ合う大人に、目元を抑える女子…遠くからでもその重苦しい空気が伝わってくるようだ。
「ああ…昔、付き合いがあった家だ。喜六兄から当主が労咳になったと聞いたが…亡くなったのか…」
顔見知りだが葬式に行くほどの間柄ではないらしい。土方は心底残念そうに顰めっ面をして続けた。
「俺より少し年上だがまだ若いはずだ。確か親父さんも同じ病で亡くなって若くして家を継いでようやく跡継ぎが生まれたと聞いていたが…血脈だろうな、労咳とは恐ろしい」
「昔、姉から不治の病だと聞きました。若くても治らないものでしょうか」
「むしろ若いほど進行しやすいと聞いたことがある。完治した話も聞かないことはないが…」
土方は少し手を合わせると、「行こう」と再び歩き出した。
「血を吐けば最後、奇跡が起きない限り治る方法はない。それに感染る病だから外聞を気にして家人は口を閉すし、隔離される…虚しい最期になる」
「へぇ…」
薬売りとして過ごしてきた土方は、そのような場面に立ち会ったことがあるのだろうか。不治の病を前に自分の無力さを噛み締めたのだろうか。しみじみと語る横顔は見たことがないほど深刻だった。
しかし総司は
「そんな最期は嫌だなぁ…」
と子供でも思うような当たり前の感情しか浮かばなかった。
どこかで自分には関係ないことだと思っていたからだ。若くて丈夫な身体が病に蝕まれることなど想像すらできなかったから。
(もしそんなことになったら…)
剣を握れなくなって、居場所を無くして、人を遠ざけて、一人になって。
(僕は…そんなことに耐えられるだろうか)
命が尽きる心配ではない。孤独という毒に犯されることが身震いがするほど恐ろしかった。
土方も同じだったのだろうか、
「ああ、俺もだ」
と顔色を悪くしていた。
「…もうやめましょう、この話」
総司は話を切り上げた。
『武士』として生まれたのだから、刀で死ぬことは覚悟している。姉からも近藤からもそうやって教わってきた。
だからこそ、畳の上で死ぬなんて想像はできなかった。


目を覚ました時、一番初めに身体が軽くなったことに気がついた。意識を失う前の鉛のように重たい身体はそこにはなく、穏やかな心地になる香が抱きしめられた布団に寝かされていた。
次に、見たことのない天井の木目が目に入った。辺りを見渡すと年季の入った襖に囲まれていて、生活感のある衣紋掛けや小箪笥、鏡の前に並べられた口紅や筆…四畳半ほどの部屋は、総司には縁のないものばかりだった。
ゆっくりと体を起こした。どうやら二階のようで窓からは清々しい青空が見えた。
(長く眠ったわけではない…)
窓の外は閑かで鳥の声も聞こえてくる。『新撰組の沖田』が倒れて担ぎ込まれたともなれば大騒ぎになるはずなので、正体は露見していないのだろう。その事実に心から安堵した。
ふと手のひらを見ると血で染まったはずだが綺麗に汚れが落ちていた。
「お気づきになられましたか?」
襖が開いて君鶴が顔を出す。手には湯桶があった。
「…ここは?」
「ここは置屋のうちの部屋。まあうちの部屋ゆうても相部屋やけど。…もう吃驚しましたえ、突然倒れはるから…あれからすぐに小者の男衆を呼んで抱えてお連れしました」
「それは…ご迷惑をお掛けしました。すぐにお暇しますから」
総司はそばに置いてあった刀を手に布団から出ようとするが、
「何アホなことを」
と君鶴に引き止められた。
「血、吐いて倒れはったんや、安静にしてくれなあかん」
「…でも今日会ったばかりのあなたにこれ以上世話になるわけには…」
「昔から置屋には、病の者はたくさんおります。梅毒や労咳なんてしょっちゅうや。珍しゅうもない」
君鶴はあっさり聞き流すと「ええから」と総司の肩を押して引き止めた。年は十ほど下のはずだが、その世話焼きぶりは姉のようだった。
君鶴は一呼吸置いてまじまじと顔色を窺いながら、尋ねてきた。
「…やっぱり、労咳?」
彼女の淀みのない質問は、針で刺されたかのようにちくりとした痛みを与えた。
『労咳』…そうかもしれないと思うことはあったが、他人に尋ねられることがこれほど苦痛なことだと知った。
総司は努めて笑顔を作った。
「…どうでしょう。このところ風邪気味で、咳も酷かったので喉が切れただけかな…」
「嘘や。初めてのことやないはずやし、あれはただの咳やあらへん。さっきも言うた通り、お客さんから労咳を貰う芸者は沢山おります。うちの知っとる姐さんも何人か同じような咳をしてはりました。皆、亡くなってしもうたけど…」
「…」
君鶴はあっさりと嘘を看破し現実を突きつける。
彼女の言葉が、心を抉っていく。
そしてあの出稽古の途中で交わした土方との会話を思い出す。
(認めるわけにはいかない…)
黙り込んだ総司を見て、言いすぎたと思ったのか君鶴は「堪忍」と謝ったが、尚も続けた。
「ちゃんと養生せなあかん。よう診てくださるお医者様を呼びにいかせてます。せめてそれまではここに、どうか」
「…」
無理矢理にでも出ていくことはできたが、総司は手にしていた刀を置いた。彼女の親切心を無碍にしたところで、少し休まなければ平常心で屯所には戻れないだろう。
君鶴は袖を捲り手拭いを絞って額にのせてくれた。火照った体と心が落ち着いていくようだった。
「…着替えさせてくれたんですね、ありがとう」
「それくらいはお安い御用どす。昔から病になった姐さんたちのお世話をしてました…」
目を伏せながら君鶴は語る。少女と女性の間にある可憐さに、一瞬影がさす。
「…せやからほっとけません」
先程、何人もの姐さんを看取ってきたと言っていた。悲しい経験を何度も重ねてきたからこそその幼さに相応しくない悲しさを帯びているのだろう。
君鶴は温かくなった総司の額の手ぬぐいに手を伸ばし、冷たいものと入れ替えた。
「…あの、御武家様…一つ聞いても?」
「なにか?」
「さっきゆうてた…『叶わない願い事』って、病のこと?」
三光門の前で交わした何気ない会話をしっかりと覚えていたようだ。聡明な少女にまるで何もかも見透かされているようで、苦笑するしかない。
「…そういうわけではないけれど…そんな資格がないと思ったんだ」
「資格?」
「決して褒められた人間じゃないから」
何人もの人間を殺めてきた自分が、都合よく神仏に祈ったところで聞き届けてくれるわけがない。それは今だけではなく、初めて人を斬った時から思っていたことだ。
「資格なんて、必要やろうか…そんなこと考えたこともなかった」
君鶴は可愛らしく首をかしげる。三光門を見上げていた少女の無垢な姿を思い出し、より一層
(これ以上、関わるべきじゃない)
と思った。
きっと土方とのことも噂でしかない。新撰組の馴染みなど尋ねる必要もなく嘘に決まっている。
そして労咳であったにせよ、なかったにせよ、自分はここにいて良い人間ではないし無垢な彼女に関わるべきではない。それこそ、その『資格』はない。
総司は身体を起こし、再び刀を手にした。
「やはり、帰ります」
「え?なんで…」
「君に…君鶴さんには感謝しています。会えて良かった」
「待ってって…」
君鶴が両手を広げて再び引き留めようとしたとき、
「お鶴、お医者様来られましたえ」
と女の声がした。君鶴は「ほら!」と総司の袖を強く引いたとき、案内されてきた医者が部屋にやってきた。
それがまさか、
「…英、さん…」
宗三郎こと、英だとは思いもよらないことだった。







595


久々に再会する彼は、火傷の跡は残るもののそれすら凌駕する、相変わらず美しく整った面立ちをしていた。凛として少し大人っぽく見えたのは時が経ったせいもある
が、医者として成長している証だろう。しかし流石に総司の顔を見て表情を変えた。どういう理由で呼び出されたのかは定かではないが、まさか浅からず因縁のある相手が置屋に担ぎ込まれているなんて夢にも思わなかっただろう。
けれど、たじろぎはしなかった。
「…お鶴さん、人払いをして。この部屋には誰も近づけないように」
「へえ…わかりました…」
君鶴は総司と英の間に流れる妙な緊迫感に勘付いていたようだが、追求はせずに英の指示に従って部屋を出た。四畳半の狭い部屋に二人きりになる。
英は少しため息をつきながら、膝を折って座って、呟いた。
「…まさかこんなところで会うなんて、想像もできなかった」
「私もです。…ご無沙汰しています。斉藤さんや山崎さんから何度かご様子は伺っていましたが…お元気そうでよかった」
「あんたは元気ではないようだ」
英は世間話は要らないと言わんばかりに話を切り上げて、真っ直ぐ総司を見た。かつて『宗三郎』として眺めているわけではなく、『医者』として診ている。
たじろぐのは総司の方で、目をそらした。
「…君鶴さんからどう聞いているのかはわかりませんが、大袈裟なことではありませんよ。ちょうどお暇しようとしていたところで…」
「ひどい顔色をしている。もしこのまま屯所に戻るなら途中で行き倒れて辿り着けないだろう。そうなれば『新撰組の沖田が倒れた』と街中が大騒ぎだ…それがあんたの望みか?」
「…」
総司の誤魔化しすら通じず、彼はただ顔色を伺っただけですぐに判した。脅しではなく、淡々と事実を述べるように。
それが逆に総司に胸騒ぎを起こす。
(そんなに悪いのか…?)
唖然となりながら、英に促されるままに横になる。彼はてきぱきとまぶたの裏や爪の色を確認しながら、胸に聴診器を当てた。無駄のない流れるような手際の良さだった。
「血を吐いたのは何度目?」
「…二度目です」
「誰にも診せていないのか」
「ええ…タチの悪い風邪だと言い聞かせていました」
偽る気持ちになれず、素直に返答する。英は少し呆れたようにしていたが責めはしなかった。
窓から穏やかな風が流れてくる。髪で隠れた火傷の痕が痛々しくその姿を現した。けれど彼は隠すそぶりも気にするそぶりもなく、その長い睫毛を伏せて総司の体に向き合っている。
そして一息ついた。
「…残念ながら風邪ではないだろう。すぐにでも南部先生か松本先生に診てもらった方が良い」
「いえ…あなたから聞きたい」
「…俺はまだ修行中の身。今日は懇意にしているお鶴さんから呼ばれたから往診に来ただけで…正確な診断はできない」
「それでもあなたの口から聞かせてください」
総司は食い下がった。
数年前、彼と出会った。感情の行き違いから一悶着あったが、彼が医者となりこうして再び巡り合ったことにはきっと意味があるはずだ。
総司の無理な頼みを聞いて、英は苦い顔をしていた。そして「おそらく」と前置きした。
「胸の音が健常なものとは違う…労咳かもしれない」
どこかで構えていた。
これは風邪ではない。一時的な病ではない。きっとこれはーーー昔、姉が忌避し、土方が悔やんだ労咳なのかもしれないと。
だから彼の形の良い唇が、無情な宣告を告げるかもしれないと、わかっていたのに。
(ああ…)
総司は天を仰いだ。見慣れない低い天井、嗅いだことのない香の匂い、天神様から流れてくる穏やかな風ーーーなにもかもに現実味がないけれど、まぎれもない現実。
両手で顔を覆った。涙は流れてこない、むしろカラカラに乾いていたのに目を閉じることはできなかった。
(僕は恐ろしい…)
死ぬことが怖いわけではない。いつどこでこの身が果てようとも後悔しない生き方を貫いてきた。一本の刀として、この命を使い果たすなら本望だと。
けれど、まるで枯れ木が朽ちるように少しずつ蝕まれて、錆びて、やがて一人で死ぬーーーいや、それも心構えさえできれば恐ろしくはない。
恐ろしいのはこの身に宿った毒が誰かを殺すこと。
(僕は…早く、捨てなくっちゃ…)
持っているものを。
得ている幸福を。
この身に余る想いを。
「英さん。この病は…誰かに感染るのですか?」
「…それは…わかっていない。家族で引き継がれるように労咳になる者もいれば、廓で流行ることもある。一方で全く感染らない者もいる」
「そうですか…」
ほんの少しの慰めもいまは耳に入らない。
ただ思うのは
(この部屋から出て、僕はどうすれば良いのだろう…)
という直近の悩みだ。
真っ直ぐ屯所に帰る?それともこのまま行方を眩ますべきか、もしくはーーー。
少しぼんやりしていると、カチャッと聞きなれた音がした。いつのまにか英が総司の刀を抱えていたのだ。強く離さないように。
「…英さん…?」
「普通、労咳と聞けば誰もが取り乱す。いつ死ぬのか、どうやって死ぬのか、治る方法はないのか…寡黙なおっさんが突然泣き喚いて縋るなんて珍しくない。家族は泣き暮れて無力な医者は気休め程度の薬を置いて去る。…それなのに、あんたはそれを一切聞かない。そんなの嘘だと拒絶もせずに淡々と受け入れて…挙句、最初に口にしたのが『誰かに感染るのか?』って?」
「…」
「そんな頭のおかしい奴の考えていることは、医者の卵に過ぎない俺にだってわかる。あんたが考えているのは、『さあ、どう死ぬか』。どうやって死んだら誰にも迷惑がかからないか、誰にも気付かれずに死ねるか…そうだろう?」
英の言葉に総司は何も言い返すことはできない。
その通りだ。
(誰にも心配をかけたくない)
労咳だと知れば、近藤は嘆くだろうし、食客の仲間も心配させ、気遣ってくれている山野や組下を後悔させるかも知れない。
そして土方はーーー想像するだけで胸が苦しい。
英は続けた。
「これだから武士は嫌いだ。…言っておくけど、労咳は不治の病ってわけじゃない。安静にして治った事例もある。今すぐに新撰組を抜けてどこか静かな場所で静養すれば数年後には快癒できるかもしれない」
「安静にして何もしないでいると、刀は錆びていきます。その錆びは他の刀を腐らせる。そんな役立たずはみんなの足を引っ張るだけです」
「いまは自分の心配だろう。それにあんたは刀じゃない、人だ」
英は叱りながら諭す。医者として人として真っ当なことを口にしていると、総司もわかっている。
けれど、
「…英さん、私は自分よりも大切なものがたくさんあるんです」
江戸を出るときに一本の刀として役立ちたいと誓った。近藤のために、土方のために役立つことが生きる意味とさえ思った。
それが果たせなくなるとわかったいま、何ができる?
「私の望みは、労咳だろうとそうでなかろうと変わりません。近藤先生と土方さんのために生きて死ぬこと。その為に為すべきことをするだけです」
ずっと前に決めて、何度も繰り返してきた誓い。まるでそれが決まり文句のように繰り返してきた言葉なのに…何故だか今日は苦しい。労咳のせいだろうか、息苦しくて、胸が痛くて、顔が熱い。
「…あれ?」
泣いていた。
(僕が、泣いていた)
どうしてだろう。
あんなに死ぬことは怖くないと思ったのに、それを目の前にした途端に尻込みするなんて、どうしようもない。
(僕は怖い)
死ぬことじゃない。
これから歩む道がどんなに孤独で、どんなに長く続く暗闇なのか…それを思うと、恐ろしい。
そして
(命は惜しくないと思っていたのに…)
あなたと離れると思うと、息が止まる。
たとえば特別な関係でなければ『武士』として迷いなく死ぬ道を選べたかもしれないのに。
この手を離さなければならない。ずっと一緒にいると誓ったのに、もうそれを破らなくてはならない。
突然襲われた虚しさに苛まれていると、ふと暖かなものに包まれた。
細い髪が輪郭を撫で火傷の痕が頰に重なった。まるで親が幼子を抱きしめるようにトントンと背中を優しく打たれ、凍った氷が解けるようにまた涙が溢れてくる。
「やっぱり…あんたは刀じゃない。れっきとした人だ」
そういう彼こそ、れっきとした医者だった。誰であろうと弱き者に無償の手を差し伸べる
「松本のおっさんに言われていた…『借り』を返すっていうのが、いまなのかな…」
そう呟いて、それ以上は何も言わなかった。









596


しばらくして落ち着いたあと、英に懇願した。
「南部先生にはお伝えしないでください。それから松本先生にも…すぐに近藤先生や土方さんに伝わってしまいます」
その頼みに、英はすこし大袈裟に呆れた顔をした。
「…あのさ、そんなことができるとでも?もし労咳だとすれば、重病だ。普通の人は日常生活を送ることすらままならない。いまは平気でもこれからどんどん身体が重くなって動かなくなっていくだろうし、今日みたいに人前で血を吐くこともあるだろう。いつまでも隠しきれるものじゃない」
「それでも時間が欲しいんです。いつか…知られてしまうとしても、ギリギリまで普通にしたいんです」
「その無茶が結果的に命を縮めても?」
「そうです」
迷いなく頷いた総司に、英はさらに嫌そうに顔を歪める。
「はぁ…武士はこれだから。医者の前でそんな馬鹿げたことをいう患者はいない」
「すみません」
「でも借りがあるから仕方ないな…松本のおっさんと南部先生には黙っておく…けど、一つだけ条件がある」
「何でしょうか」
何でも聞くつもりで居住まいを正したが、その条件は意外なものだった。
「さっきも言ったけど、俺は修行中の身で労咳に対して深い知識があるわけではないから診断には自信がない。だから…もう一人協力してもらう、長崎帰りの女医さんにさ」
「あ…」
加也が長崎から戻ってきていることは近藤から聞いていた。彼女は英の『先輩』 にあたるのだろう。
「あの人なら見立ては確かだろうし、最新の西洋医学も身につけているからいい手立てを知っているかもしれない。それに見合いをした間柄なら互いの事情も知っているだろう?気が楽になる」
「…そうですね、ありがとうございます」
英は口は悪いが端々に気遣いと希望を見出すように励ましてくれていた。自分はまだ『修行中の身』だと謙遜するが、いまの総司にとって頼りになる立派な医者だ。
ひとまず英が曰く「気休め程度」の薬を出して、近いうちに加也の診察を受けることを約束した。
「やれやれ…じゃあ戻るか」
英は暮れてきた窓の外を眺めながら、「お鶴さん」と君鶴を呼んだ。彼の明瞭な声が置屋に響くと、小さな足音が近づいてきた。
「もうよろしいの?」
襖の向こうからヒョイっと顔を出す君鶴は子供のように幼く明るい。その無垢な笑みを見た途端、総司もなんだか心が穏やかになった。
「はい。君鶴さんにはとてもお世話になりました」
「…あ、ほんまや、英せんせのお陰で顔色がようなってはる。さすがやなぁ、せんせの花の顔を拝見したらみぃんな良くなる。美しさは罪やなぁ」
「はいはい」
揶揄をかわしながら英は帰り支度を始める。君鶴は綺麗に折りたたんだ総司の衣服を渡してくれた。
「これ、汚れは落ちてると思うんやけど」
「ありがとう、恩に着ます」
「それからな、さっきのお話やけど…」
「話?」
今日はいろいろなことがありすぎてどれのことだか思いつかない。
君鶴は総司に耳打ちした。
「天神さんでお話ししたこと。お武家様、『願い事は叶わない』とか『資格がない』とか言わはったやろ?…どないな理由があるのか分からへんけど、せやったらうちがお武家様の代わりにお願いしときます。きっと天神様は信心深いうちの言うことは聞いてくださいますから、安心してな」
冗談なのか本気なのか、君鶴は微笑んでいた。
不思議な娘だ。
花街で働いているとは思えないほどの無垢な子供らしさをみせながらも、その芯には容易くは折れない強さを感じる。
(少し似ているな…)
かつて上七軒にいた君菊もどんな嵐の中にあっても、決して曲げぬ信念を持ち、凛とした花であり続けた。
「ありがとう…」
出会って半日で、何度礼を述べただろう。自分より余程大人びた君鶴は「いいえ」と満面の笑みを覗かせた。

英とともに置屋を出ると空一面が茜色に染まっていた。二人で上七軒を出るまで歩く。
「君鶴さんとは長い付き合いなのですか?」
「別に…多忙な南部先生の代わりに往診に来るようになってからのことだ。初めて会った時は禿だったがあの器量と頭の良さ…すぐに芸妓になる」
世界が違うとはいえ、かつて有名な陰間だった英がそういうのだから、君鶴は見込みがあるのだろう。
上七軒は狭い。
話し込むには短く、加也を伴って近日中の診察を約束し別れようとした時。
「ひとつ、聞きたいんだけど」
と英が引き止めた。
「なにか?」
「…あんたはまだ俺と仲良くしたいとか思っている?」
総司は何の話か、最初はピンとこなかったが、そのセリフには既視感があった。
「あぁ…」
あの河上と対峙した火事の一件の直前、土方を巡った会話のなか総司は『それでもあなたと仲良くしたい』と告げていたのだ。嫌われているとわかっていながら食い下がった。
「よく覚えていますね」
「あの時のことはよく覚えているんだ。自分の人生が変わった日だから」
「…私は今でもそう思ってます。いつかまた再会したいとずっと思っていたんです」
松本や南部のところへ弟子入りした山崎から話は聞いていたが、自分からは会いに行くわけにはいかず、もどかしく思っていた。
「…上手く言えないのですが、あなたには縁を感じます」
「縁か…」
英は「縁か」ともう一度繰り返した。初めて出会った時から偶然が重なっていた…彼は少し納得したように頷いたのだった。


総司が屯所に戻る頃には陽が落ちていた。
「あ、沖田先生。副長がお呼びです」
と、部屋に入るなり島田から伝言を聞きそのまま土方の部屋に向かった。
彼に会うのは幾分か緊張したが、英の診察を受けたことで少し気持ちは落ち着いていた。
「遅かったな」
「ええ…ちょっと、遠出をしていたんです。どうかしましたか?」
「先日の制札の件だ。幕府から恩賞金を賜ったが…配分について相談がある」
幕府から下された恩賞金について主に十番隊や監察に配分し、当日のみの応援だった一番隊には少しの手当て程度になるということだった。
「構いません。後援の任務でしたし、あの件は…隊士たちにとっても後味の悪い結末でしたから文句は上がらないと思います」
「そうだな」
結果として元一番隊隊士が処断されたのだ、同僚として恩賞金を積極的に受け取る気持ちにはなれないだろう。
総司のリアクションは予想済みだったのか土方は「決まりだ」と満足げに頷いたが、総司はいつも通りの彼の話の内容と態度に安堵していた。
(でもきっといつか気づく)
誰よりも賢く、勘が良い土方はいつか総司の不調に気がつくだろう。薬売りの経験からそれが労咳だと理解するのも早いはずだ。
(僕にはやらなくちゃいけないことがある)
彼に気づかれる前に。
「…香の匂いがする」
「え?」
土方が眉間に皺を寄せながら総司を見る。彼に言われた通り鼻をすんすんと鳴らして嗅ぐと、確かに袖口から良い香りがした。
(あの子が焚きしめてくれたのか…)
血の汚れを落とすついでに気遣ってくれたのだろう。
「まさか女か?」
目敏い土方が尋ねる。総司は「まさか」と苦笑した。
「壬生の子どもたちと、良い匂いがすると香を焚いて遊んでいたんです。それが移ったのかな」
「ふうん…マセた遊びだな」
土方は疑う様子なく、そのまま筆をとって書き物を始めた。
上手くごまかせたことに安堵すべきなのに、総司には罪悪感が募る。
(これから、もっと嘘をつくことになるだろう…)
グッと握りしめた両手に力が入った。







597


ほろ酔いの近藤が別宅ではなく屯所へ帰還したのは深夜のことだった。
「てっきり別宅へ直行だと思っていた」
山のような仕事を抱える土方が出迎えると、
「酔って帰るとお孝に叱られるんだ。悪阻で疲れているところに酒の匂いなど持ち込むな、とな」
「すっかり尻に敷かれている」
「ああ。まぁ、悪くない。それに話し相手が欲しかったんだ」
近藤が満足げに笑い「付き合え」と酒を見せびらかす。土方は仕方なく頷いた。
それから土方の部屋で、火鉢を囲んで肴をあてに程よく飲んで気持ち良くなった近藤は、皆が寝静まった深夜にも関わらず土方を相手に持論を捲し立てる。それは試衛館にいた頃と変わらないが、話す内容は理想ばかり並べた若人のそれとは違う。新撰組の近藤勇はそれなりの立場になったのだ。
「一橋公が将軍に就かれたのはよかったが、しかし考えれば考えるほど二度目の長州征討は失敗だった」
酒を介して幕府を擁護する近藤が決して口にしない本音が出た。
「先の大樹公が崩御された故に停戦となったが、重要な拠点である小倉を奪われ、鉄砲では威力の差を見せつけられ…各地で負け、負け、負け!幕兵十五万がたった一国に敗れたなど、この三百年ありえぬことだったのだ!」
「そうだな」
「幕府側の薩摩などは高みの見物、挙句長州と手を組んだ。一橋公の元で団結できぬ幕府などもはや…いや、天領の民たる俺はこれ以上は口にせぬぞ!決してな!」
「ああ」
短い相打ちを繰り返す土方を熱を上げる近藤は恨めしそうにみる。しかし素面の土方からすれば近藤の本音など、家茂が崩御した時から感じていたことであり、今更ボヤいても遠い昔のことなのだ。
「まったく、幕府が倒れるかも知れぬという危機に瀕しておるというのに、お前は…」
近藤は手酌で猪口に並々と酒を注ぎ、煽る。そして続けた。
「最後の砦は帝だ。帝は昔から強硬な攘夷思想をお持ちで異国を嫌っている。それに、禁門の戦で砲筒を御所へ向けた長州のことを酷く毛嫌いしておられる」
「お気持ちが変わらなければ良いがな」
「それは心配ない。宮もそうおっしゃっていた」
今日のお忍びで酒を共にしたのは親王、中川宮だ。帝の側で国事御用掛を務めながら幕府と会津に近しい皇族として知られている。数年前の池田屋ではその標的にされ、それ以来新撰組のことも気に入っているようで、時折容保を通して近藤が呼び出されていた。
「宮様には良くしていただいている。お前にも一度会いたいとおっしゃっていたぞ。美男で評判の副長だと」
「勘弁してくれ。そういう場は苦手だ、鍍金が剥げる」
土方が拒むと近藤はその大きな口で笑った。新撰組局長として顔が広い近藤と違い、華々しい場は性に合わず、苦手だ。
「帝はとても一途な方だそうだ。民を大切に思うからこそ、開国を拒み、夷狄を嫌う。一貫してその想いに変わりはないそうだ。一橋公との相性はわからぬが、家茂公や容保様とは親しくされていた。心変わりなど簡単にはなさらぬだろうと、宮様はおっしゃっていた」
近藤は「そうだ」と思い出し、懐から懐紙に包まれたものを土方に差し出した。
「これは?」
「宮様からいただいた。銀二十枚だ、隊費に加えてくれ」
「…」
中川宮はおそらく近藤へ私的な意味でこれを渡したのだろうが、たとえ酒に酔っていなかったとしても近藤は実直にこの金を土方に差し出しただろう。政治的な駆け引きを厭う近藤らしい行動だ。
「…わかった」
「ふふ。宮様は俺なんかを自分の侍臣に迎えたいなどとお戯れをおっしゃる。俺は農民の出、身分はいまだに浪人だと言うのに…変わったお方だ」
近藤はふと手にしていた猪口を置き、障子を開けた。涼しいとは言えない夜風が部屋を一気に冷やす。
「寒いだろう」
「夜風が気持ち良い。それに今日は月がまん丸だ。月見だ、月見」
「秋の月見なんてとっくに終わっている。冷えるから閉めろよ」
「少しだけだ」
近藤は月を見上げながら猪口を手にした。
「宮様はお戯れをおっしゃるが、それを本気にしたい自分もいた。数年前まで江戸のゴロ付きにすぎなかった俺が、皇族の侍臣だぞ。…夢のまた夢と分かっていながらも、心の高鳴りは否定できない。だからせめてお前と共有したかったのさ」
「…」
自分一人の記憶ではない。たとえ冗談だとしても、夢だとしても、嘘ではない。
月を見上げながら嬉しそうに微笑む幼馴染が誇らしくて仕方ない。
土方は近藤に手を差し出した。
「ん?」
「酒、飲ませろ」
「おう」
飲みかけの猪口の酒を一気に飲み干した。もともと得意ではないが、今夜の酒は美味い。
「…まずは、武士にならなきゃ話にならねぇな。会津お抱えの兵士も悪くねえが、やっぱり幕臣に取り立てられねぇと。いつまでも伊庭の野郎に大きな顔させねぇためにもな」
「幕臣か。昔は夢のまた夢だと思っていたが、あながち遠くない気もするぞ」
「ああ」
満月がこちらをみている。何故か江戸にいた時よりも近くに感じた。


師走の年の暮れに迫り、屯所では正月に向けた掃除や準備で忙しなくなってきた。
そんななか鈴木は疎外感を覚えていた。兄である伊東が何かと自分を遠ざけていたのだ。
(何か気に障る事をしたのだろうか)
と、最初は自分を顧みていたものの次第にそうではないと感じた。
(兄上の周りがやたらと騒がしくなった)
まず試衛館食客であり、伊東一門を新撰組に引き入れた藤堂。もともと親交のあった彼は山南の死からいっそう距離を縮めた。最初は懐疑的だった内海などもいまや仲間の一人として扱っているようだ。実弟である鈴木から見ても、兄を心酔する藤堂の姿には嘘が無い。同志と言って良いだろう。
もう一人は斉藤だ。詳細は知らないが急に勉強会に参加し始め、兄に招かれて話し込むことも増えた。有用な情報をもたらすこともあるそうだが、土方の腹心であるという印象が強すぎて、当然のことながら鈴木だけでなく伊東の周りの誰もが受け入れることはできない。
(何かを企んでいるに違いないのに…)
誰が見ても異質な存在であるのに、伊東は親しい客人のように丁重に扱っている。
(兄には何か考えがあるのだろう…が…)
それを問うことができないほど、兄と言葉を交わしていない。もしかしたら兄は自分など忘れてしまったのかと思うほど、遠いのだ。
「鈴木君、稽古はどうだ?」
声をかけてきたのは篠原泰之進。稽古といっても彼が口にするのは剣術ではなく得意の柔術だ。ガタイが良く威圧感のある篠原の誘いを断るのはかえって面倒だ、言われるがままに道場へ向かった。
篠原はもともとは豪農の出だが、藩士に仕える中間となった。桜田門外の変の影響を受け、尊王攘夷の志を抱いて江戸や水戸、大坂など各地を転々としながら尊攘志士と交わり、一時は横浜の外国人居留地警備に当たったそうだ。その時、イギリス人が税関に乱入したため、縛り上げて海岸に放置したなど数々の武勇伝を語っている。伊東一派のなかでは一番怒らせてはいけない人物だと影で噂されるほどだ。
そんな篠原に鈴木は易々と投げられる。
「だめだだめだ!もっと体の軸を使え!」
「はぁ」
「もう一回!」
道場の端から端まで投げられて、息も絶え絶えだが篠原は指導の手を止めない。彼の荒稽古は隊では有名で『道場で目が合えば投げられる』と噂されるので誰も近づこうとはしない。
それが返って好都合だった。
「伊東先生からなにか話はあったか?」
篠原は声のトーンを変えて尋ねてきた。誰も近づかない道場は密談には適した環境だ。
「…ありません」
「最近は斉藤組長と何やら内密の話をしているようだが…あの男は危険だ」
「何かあったのですか?」
「いや、勘だ。しかしわかるだろう?あの得体の知れない雰囲気が。藤堂組長とは明らかに違う」
「…」
篠原の言いたいことはわかる。先ほどまで鈴木が考え込んでいたことと一致しているのだ。
「弟として先生の真意を確かめてくれ」
「…兄上は根拠のない進言を嫌います」
「根拠が乏しいからお前に頼んでいる。血を分けた兄弟なら通ずるものがあるだろう?」
「…」
皆は伊東と自分が兄弟だと信じて疑わないが、実は母親が違う。それ故に成長してきた環境も扱いも違う…兄からすれば自分は他人に等しい。
「とにかく頼んだからな」
「…」
篠原は自分勝手に稽古と話を切り上げて道場を去っていく。
「はぁ」
鈴木は体を大の字に投げ出して道場に寝転んだ。ひんやりと冷たい床が稽古で火照った身体に心地よかった。










598


枯れ木に残っていた最後の葉がはらはらと散った。カラカラの乾いた風がその葉をどこかへ運んでいって、あっという間に人の往来に紛れて消えて見えなくなった。
「しばらくは来られない」
斉藤がそう告げた。視線は空(くう)を向き、独り言のように喧騒にかき消される小さな声だったが、隣に居合わせた客人のような形をした男は
「なぜだ」
と問いかけた。
軒先で茶と団子を出す店は、客人でひっきりなしだ。誰も二人の会話に耳を傾けることはなく、むしろ別々の方向へ視線を向ける二人が会話を交わしていることすら気が付いていないだろう。
「別の仕事に注力する」
「…ふん、主人を失った途端、別の主人に尻尾を振るようでは困るぞ」
斉藤は男の嫌味を聞き流し、「では」と席を立った。男も本気で言っているわけではない…数年間も内密の仕事をこなしてきたのだから理解しているだろう。
「待て」
男は斉藤を引き止めて立ち上がると、小さな紙を手渡した。
「有効に使え」
「…」
短い言葉でそういうと、背中を向けて去っていく。傍目には通りすがりの客人がただすれ違っただけーーーそう見えるだろう。
斉藤は男とは別の方向に歩いていく。師走の人々の往来はいつもよりも忙しない。どれだけ世情が混乱しようと、誰の世になっても、時間だけは平等に年は暮れて明ける。
男から手渡された紙を開いた。文字列はいつもよりも乱暴な走り書きだったが、そんなことが気にならないほど内容は衝撃の事実が書かれていた。
「…まさか…」
つい口から溢れた。唇は少し震えていた。
斉藤は笠を深く被り直して足早に踏み出した。焦燥感に駆られる気持ちの中、一番『有効』な使い方を思案しながら。


「枯れ木さえもこの庭にはよく映える」
別宅の庭を眺めながら伊東が頷くと、隣の花香も嬉しそうに笑った。
「うちもそう思います。ふふ、旦那様が喜んでくれはるなら京で評判の庭師に任せた甲斐がありました」
「ああ。気持ちよく年が越せそうだ。…ああ、そうだ、もう少ししたら内海たちがくる。茶の準備を頼むよ」
それまで笑顔で受け答えしていた花香はあからさまに不満顔を作った。
「…旦那様ぁ。内海せんせや三郎さまがいらっしゃいますの?」
「愚弟は知らぬが…なんだ、嫌なのかい?」
「うちは別に…。せやけどお二人はうちのことがお好きやないみたいやから」
「…そんなことはないさ」
愚痴を言う花香を宥めながら、(案外この女は的を射ている)と少し見直した。学がないからしゃしゃり出ないだろうと身請けしたが、花街にいただけあって人を見る目はある。
「では篠原や加納はどうだい?」
興が乗って尋ねてみると、花香は「えーっと」と子供のように唇に指先を当てる。
「篠原せんせは時々チラチラとうちを見てはるけど、加納せんせはうちのこと好みやないんか、興味ないみたい」
「はは、面白いな。他には?」
「藤堂せんせはウブな感じでちょっと緊張しはるのが可愛らし」
「そうだね。では…斉藤君は?」
いまだに異質な雰囲気を醸し出す新入りをどう見ているのだろう。
彼女は睫毛を伏せた。
「…すこぉし、怖い方」
「怖い?」
「上手く言えへんけど…ああいう方はお会いしたことない…」
「…そうか…」
淡白で表情を変えない斉藤は、花香にとって一番底知れない存在であり、それが『恐怖』に匹敵する印象なのだろう。
「君は人を見る目がある」
「ふふ」
褒められて喜ぶあどけない花香と見つめ合っていると、門扉の開く音がした。聞き慣れた単調な足音が聞こえて来る。
「内海」
玄関を通さずに庭に来る方が早い。彼がそうやって訪れるとき、大抵は急用だ。
「大蔵さん、お話があります」
「…花香、部屋に下がっていなさい。茶も要らぬ」
「はぁい」
花香は頭を下げつつ素直に去っていく。
内海は周囲を見渡しながら「誰もいませんか」と尋ねてきた。
「まだ誰も来ていない。…何かあったのか?」
「…俄には信じられない話です」
「勿体ぶるな」
「天子様が…崩御なされたと」
「なに?!」
思わぬ内海からの知らせに、伊東は手にしていた扇を落とす。そしてその衝動のまま裸足で庭に降りて内海に近づいた。
「それは誠か?」
「信じられる筋からの知らせです。昨日、突然具合が悪くなられ、崩御された…と」
「そんな…天子様は、お若く御壮健だったはずだ」
異国を嫌い、弱腰な幕府と『公武合体』を図り国力を強めようとした。信頼を寄せた『一会桑』のなかでも会津・松平容保には特に贔屓され後ろ盾となっており、長州征討にこだわる強硬な姿勢に一部の尊攘派と公家からは嫌厭され、その権威は翳りを見せていたものの絶対的な存在だ。
「信じられぬ…」
「表向きは天然痘だと」
混乱する伊東に補足したのは、内海ではない。いつの間にか二人の背後に姿を見せていた斉藤だった。
内海は咄嗟に身構えて「無礼ではないか」と庭先に突然やってきた斉藤を咎める。
「申し訳ない。早急に知らせねばならぬと気が急いたのです。内海先生が先にご存知とは思わず…」
「…構わないよ、斉藤君。君も『その筋』から知らせが?」
「はい、先程。すぐに参謀に知らせねばならぬと参上いたしました」
「そうか…」
内海は険しい表情を崩さないが、伊東は斉藤までも同じ知らせを持ってきたことで真実であると受け入れた。
「それで…『表向き』だと?」
「はい。天然痘は高熱ののち顔面に発疹ができ、これが化膿してさらに熱が上がる。内蔵を侵され、呼吸ができずに死に至ります。二、三日の出来事ではなく、数日寝込み、魘される。そのようなことが天子様に起これば必ずどこかから噂になり、耳に入るはず。しかし、それもなく突然の知らせです」
「確かにその通りだが、そうなると…まさか」
「毒殺ではないかと。おそらく薩摩や長州の思惑でしょう」
「なんと…恐れ多い」
長州征討を強く主張する帝は確かに倒幕派にとって大きな障害となったに違いない。しかしだからといって手を下すなど、思いつくことすら不敬極まりない。
伊東は二人に背を向けて、落とした扇を拾った。その指先は震えていた。
(なんと野蛮な…!)
尊王攘夷、勤皇の志を持つ伊東には信じ難い事実だった。
しかし同時に別の感情が湧き上がる。
(今こそ…立ち上がらねばならぬのか…)
憎き一橋慶喜が将軍となり、帝が崩御され世が変わろうとしている。
『公武合体』を主張し一橋、会津、桑名を繋いでいた帝がいなくなることで結束が揺らぐだろう。次の帝はまだ幼く、周囲の人間の思惑で朝廷は動く。そうなれば長州征討に敗戦した幕府などさらに弱体化するに違いない。
「伊東参謀、動くべき時かと」
「…斉藤君…」
背中を押すように斉藤が口にする。彼は自分と同じことを考えていたのだろう。
しかし、
「大蔵さん、冷静に」
と内海が壁となるように間に立った。彼の眼差しは敵意を込めて斉藤へ向けられている。
「…斉藤先生。貴重な情報提供には感謝するが、ことは重大だ。君がそのような口出しをすべきではないと思うが」
内海に釘を刺されても、斉藤は表情を変えなかった。その通りだと言わんばかりに頷く。
「…この件、俺から局長、副長へは伝えません。当然いずれ伝わるでしょうが…」
「それが…君の『誠意』かい?」
「有用な情報は有用に使える方にお渡しすべきです。それを俺は果たしたまでのこと。…失礼します」
斉藤は背中を向けて去っていく。まるで何事もなかったかのように、冬の冷たい風がただ通り過ぎただけのように、いなくなった。
しかしその風はひどく乾燥している。
「大蔵さん、惑わされてはなりません。なにか考えがあるのでしょう」
「…しかし、彼の言う通り毒殺されたとすれば…この世は変わる。もしかしたらひっくり返るかもしれぬ!」
「…」
乾いた風は周囲を旋回し続けている。燻り続けた小さな灯火が煽られて、あっという間に大きくなる。
(時が来た)
伊東は決意した。










599


帝の崩御の知らせは、師走の都に瞬く間に広がった。民衆は驚き、天を拝み、嘆く。それはもちろん新撰組屯所も同じだ。
「おい、聞いたか?」
「当然だ。こんな時に身罷られるとは!」
「長州が手を下したって話も聞いたぞ」
「天子様は大の長州嫌いだ…そのまさかがあり得るぞ!」
屯所のあちこちで隊士たちが噂するなか、局長の部屋に土方がいた。
二人の間には重苦しい空気が流れる。近藤は俯き、項垂れていた。肩から溜息をつく。
「もし…天然痘なら中川宮からそういう話があるはずだ。おそらく公にできない理由があるのだろうが…」
顔色の悪い近藤は頭を抱えていたが、今回ばかりは土方も予想できない展開だった。
「幕府による尊王攘夷を強く主張され、公武合体を推し進めてきた天子様は長州や薩摩にとってさぞ邪魔だっただろう」
「しかしそれでも、天子様に毒を盛るなど…この国の民としてあり得ぬこと!」
考えることすら悍ましい、と近藤は文机を叩いて青ざめる。土方も同じ気持ちだったが、努めて冷静を保った。
「近藤局長、たとえ真実に近いとしてもあくまで根も葉もない噂話だ。それに長州に近い公家は多い、こんな大それたことは周到に準備されているはず…朝廷は認めないだろう。証拠もないのに糾弾はできない」
「む…むぅ…」
「それよりもこの先の舵取りが重要だ。次の天子様はおそらく睦仁親王…まだ十四。まだ幼く、禁門の変の時には大砲で卒倒されたと聞いたことがある。周囲の公家に良いように先導されるに違いない」
今まで土方は朝廷や幕府の動きについて意見はあれど、手の届かない雲の上の話と思っていた。端役の端役にすぎない自分が何を憤ったところでどこにも届くわけでもなく、虚しいだけだと。
しかし、今回は違う。
もし長州や薩摩の手によって日出る帝が崩御されたのだとすれば、いくら端役であったとしても耐え難いほどの義憤に駆られる。
(俺もこの日の本の民だったらしい)
冷静に、と自分に言い聞かせるほどに心の奥は熱く燃えたぎる。
土方は居住まいを正した。
「…近藤先生、…いや、かっちゃん。ひとつ聞きたいことがある」
「なんだ、改まって…」
「これから世の中は変わる。いままで天子様の後見があって幕府は成り立ってきた。天子様がこの世の舵取りを幕府に任せてきたから、どうにか幕府の面目が立ち、屋台骨が歪んでも何とかなってきた。…だが、これからはわからない。一橋慶喜がどう動くか、予想すらできない。もしかしたら幕府を蔑ろにして、異国に国を売り渡すかもしれない。かっちゃんの意に沿わないこともあるだろう…」
「…」
「それでもこの道を進むか?愚かだと分かっていても、幕府に尽くすか?」
土方は問いかける。
天領の民ーーーそれが近藤の誇りだった。たとえ農民でも我々は天領の民だ、君恩に報いるのだと。
それが正しいと信じてきた。
けれどその正しさはもしかしたら命を縮めるかもしれない。
それは惜しくないか,と。
「…歳、お前にしては愚問だな」
近藤は微笑んだ。先ほどまで絶望し青ざめていたその顔が、なんの揺らぎもなく澄んでいた。
「俺は…俺は十分、無茶をしてきた。農民が道場主になって、刀を持ち歩いて『新撰組』だぞ?一介の浪人が会津公や公家と渡り合うなんて、誰が想像できた?あり得ぬ喜びだ。そんな幸福な俺が今更幕府を見限るなどできるはずがない。たとえ…共倒れしたとしても、その時は笑って死んでやる」
本気なのか、冗談なのか、近藤はその大きな口で笑った。
「…そう言うと思った」
土方も笑った。
(俺はそんなお前について行く)
その決意は近藤と同じくらいに固い。
「全く…俺たちは大馬鹿者だ」
土方は懐から小さく折り畳まれた紙を渡した。
「これは?」
「一度読んでくれ。そして読み終わったら燃やして忘れてくれ。『これから』のことが書いてある」
近藤は一瞬躊躇いを見せたが、土方の表情から何かを感じ取り、頷いた。
(これから…俺はさらに修羅の道を歩む)
この愚かな覚悟を貫くために。


「昼間は晴れていたのに、あっという間に陰ってしまいました。これからきっと雪が降りますね」
総司が語りかけるが、もちろん相手から返事はない。
冷たい風に晒され続ける墓石はいつも綺麗に磨かれていて、こまめに花が添えられている。そこに眠る彼の人望を表しているようだった。
「月命日じゃないのに、なんで来たのかって思ってますよね。…それが、自分でもよくわからないんですが、屯所の居心地が悪くて…」
総司もまた新しい花を手向けるながら、話を続けた。
「ご存知でしょうけれど、天子様がお亡くなりになったんです。あまりに突然のことで色々みんな噂してます…私にはまるで遠い話だから実感はありませんが、山南さんがいれば近藤先生と一緒に嘆き悲しんだんでしょうね…」
試衛館にいた頃はよく議論を交わしていた二人なので想像に難くないが、決して実現はしない。願望が伴った仮の妄想は終わった後に無性な虚しさが溢れる。
総司は手を合わせて目を閉じた。
瞼の奥には穏やかに微笑む山南が容易に浮かび上がる。誰にでも優しかった彼と自分の間を隔てるのは『死』だけだ。
しかしそれさえも遠くはない。
「…あの時…山南さんがいなくなった時も雪が降っていましたね」
指先が凍るように冷たかった早朝、池月の手綱を握りしめて大津へと向かった。新撰組に絶望して逃げ出した山南はきっと怯えて恐れているに違いないと思ったのに、宿で手を振って迎え入れた彼はそれまでで一番安堵したように笑った。
彼は『死』をとっくに受け入れていた。
大津に着いたとき、あるいは意思を持って屯所を抜け出した一歩目からその覚悟をしていたのかもしれない。
誰にもわからない。
「…わからないけれど、いまならほんの少しだけ汲み取れた気がするんです」
総司の頰に冷たい雪の結晶が舞い降りた。幻のように溶けて無くなり、水となって流れて行く。
その瞬間に雪は死ぬ。
二度と同じ姿には戻らない。
死んだら全てお終いだーーーそんなことはわかっている。
「お加也さんには叱られましたし、英さんには呆れられました。でも…自分の命よりも大切なものは沢山ある。それを得ただけでとても有意義な人生だったと思える…だから良いんです。山南さんもそう思ったから、あの時一緒に屯所に戻ったんですよね。切腹するために」
生きていて欲しいと何人にも願われたのに、彼は固辞した。
命よりも大切な誇りを失いたくなかったから。
「…山南さん、何を言っても言い訳になるでしょうけれど…山南さんなら許してくれますよね」
曇天が空を覆い、白く澄んだ雪が舞う。はらはらと楽しそうに。
「…僕にとって歳三さんは縁(よすが)です。時に自分を失い、鬼に豹変してしまう僕の心の最後の拠り所…」
刀が鞘におさまるように、彼の隣は居心地が良い。これから先もこれ以上に大切なものは生まれないだろうと思う。
「だから僕は…それを、壊すことはできない。何がなんでも守ります。きっとこれからたくさんの嘘をつくでしょう。らしくない真似をして困らせるでしょう。…でも全てはあの人のためであり、僕のためなんです。僕の縁を守るために…」
総司は墓石に触れた。キンとした冷たさが伝わってくる。
「そんな僕を…空から見守ってください。馬鹿だなって呆れて、こうしてお参りに来た時は愚痴を聞いてください。それから…」
どうかどうか。
「守ってください…」
今度は頰に温かいものがスッと流れていった。
総司はそれを拭いながら「また来ます」と立ち上がり、背を向けた。
『いつでもおいで』
彼が微笑んでいる気がした。








600


「巡察終わりました…っと。あれ?」
総司が土方の部屋を覗くと珍しく不在であったので、仕方なく続きの間である隣の近藤の元へ向かった。
「先生、失礼します」
「おう」
火鉢を両手にかざした近藤はまだ紋付袴の正装だった。
「会津公から呼び出しを受けて戻ってきたところなんだが…こう寒いと着替えるのが億劫でな。ひとまず部屋が温まるのを待っているんだ」
「ああ、今日は一段と寒いですもんね」
「お前も大晦日まで巡察、ご苦労だな」
近藤のねぎらいに総司は「はい」と笑顔で返した。
年の暮れとはいっても総司は昼の巡察の当番であったので普段と変わらない一日だった。
「大掃除は一昨日までに終わりましたし、あとは穏やかな気持ちで新年を迎えるだけです。今年は…そう、派手に新年のお祝いもできませんし」
「うむ…隊士たちにもあまり羽目を外さないように通達したところだ。民が自粛しているなかでどんちゃん騒ぎは外聞が悪い」
「原田さんにはよくよく言い聞かせなきゃ」
「もうよくよく言い聞かせたところだ」
総司が茶化すと近藤はその大きな口で笑ったが、すぐに「ふう」と疲れたように溜息をついた。総司は火鉢の向かいに膝を折り同じように両手を広げた。氷のように冷え切った指先が融けていくようだ。
すると近藤がゆっくりと口を開く。
「…会津公は随分と塞ぎ込んでおられた。天子様は会津公をとても信頼しておられたんだ。徳川家に尽くし、京都守護職など大変な役目を引き受けた忠臣ぶりを評価し、時折労ってくださったそうだ。攘夷に固執されるところはあったが、全ては日の本の民のため…お若くして帝となられてからその御心は一片の曇りはなかった」
「そうですか…」
「病で亡くなられたのか、あるいはそうではないのか…歳とも議論したが、それは俺たちの知る由はないし詮索することも憚られるが、もし何者かが不穏なことを画策したのだとすれば…俺は、絶対に許すことはできぬ」
小さかった火鉢の炎が一瞬だけ燃え上がった。それと同じように近藤の目には固い決意と覚悟が滲み、そしてすぐに穏やかに消えた。
「…会津公とも話をしてきた。このようなことを口にするのは大晦日の今日までだ。明日からは新しい年…気持ちを新たに歩まねばならんな」
「会津公と近藤先生は…なんていうか、こういう言い方は失礼かもしれませんが、気が合うのですね」
「ああ…そうかもしれぬな。あの方だけは何があってもお守りしたいと思う。会津の家臣がみな忠臣ばかりなのは会津公の人柄故なのだろうな」
近藤は頷きながら、体が温まったのかようやく畏まった羽織を脱ぎはじめた。
「ところで、土方さんはどちらへ行かれたかご存知ですか?巡察の報告にあがったのですが…」
「歳なら別宅だよ。お前が報告に来るだろうからそう伝えてくれと言っていた。…全く、巡察で何かあったらどうするつもりだと尋ねたら、お前なら何事もないだろうと高を括っていた」
「ハハ、確かにこのような状況ですし、大晦日に事を起こそうなんて不敬な輩は流石にいませんでしたね」
「平和なら良いさ。あいつも大晦日くらいはゆっくりしたいのだろう。俺もこのあと別宅へ行くからお前もゆっくりしてきなさい」
「…はい」
凍てついていた指先はすっかり温かくなった。寒さのせいで滞っていた血の巡りが流れ出したように身体中を温める。
「…近藤先生」
「ん?」
近藤は紋付の羽織から普段使いのものへと着替える。総司はそれを手伝いながら尋ねた。
「…先生のお子はいつ生まれるのですか?」
「歳に聞いたのか?」
「はい。まだ内密な話とは伺っていますが…おめでとうございます」
「はは…まだ生まれていないぞ。だがお前は複雑だろう?おたまのことを可愛がっていた」
総司は紋付の羽織を衣紋掛けに掛ける。そして久々に近藤の口から聞いた娘の名前に想いを馳せた。
試衛館にいた頃、近藤とつねの間に生まれた一人娘のたまはよく泣く赤ん坊で手を焼いていた。特に近藤はなかなか好かれずに困っていたのだが、総司は平気だった。
「…そんなことはありません。跡継ぎのこともありますでしょうし、おつねさんがご理解されているのならこんなにめでたいことはありません」
「そうか…お前がそういってくれるなら有難い。産まれたら非番の日は世話を頼むぞ。おそらく夏頃だ」
「夏…か」
年を超え、冬に耐え、春を迎えた先ーーーそれが総司にはとても遠く感じられた。

夕刻。
身支度を整えながら原田は
「まったく、局長直々に忠告されちまったぜ」
と愚痴を溢すと、永倉が苦笑した。
「いや、俺は近藤先生が正しいと思う。お前のことだから正月に酒なんて飲んだら絶対に羽目を外して近所の顰蹙を買うに違いない」
「流石に俺は弁えてるって。けど、仕方ねえからおまさちゃんのところで飲むことにするよ。茂の顔を見ながらゆっくりとな」
原田は「良い年を」と手を振って去っていく。永倉もこれからの夜番が終わればそのまま別宅へ向かう予定だ。今年ようやく身請けした小常が待っている。
(悪くない)
今まで毎年、屯所で迎えていた新年を好いた女子と迎えるのは晴々しい。帝の崩御という悪い知らせはあるものの少しくらい浮かれても良いだろう。
そんな事を考えていると、斉藤がやってきた。
「永倉さん」
「おう…今晩は三番隊と一緒だったか」
「はい。…ところで、永倉さんは正月はどちらへ」
淡々とした表情はいつも通りなのに、このようなプライベートな質問を投げかけられることは珍しい。思わず永倉は怪訝な表情になってしまった。
「別宅にいると思うが…正月は組長以上の者は巡察以外は別宅で過ごしても良いという話だろう?」
「もちろんその通りです。ですが、宜しければ一日付き合ってもらえませんか」
斉藤はいつも表情を変えない。常に冷静で淡々とした姿は同い年として尊敬する部分でもあるが、理解できない部分でもある。
「…なんだか、楽しくなさそうな誘いだな」
露骨に嫌な顔を見せたが、斉藤は
「そうでもありません」
とまたなんの起伏もない返答だった。
人と群れず常に一匹狼、孤独を恐れず、けれど仕事は確実に、卒なくこなす。そんな彼が一体どんな正月の宴を催すというのか。
「…わかった、一晩だけな」
単純な好奇心がまさった。永倉が答えると、
「ありがとうございます」
と斉藤はほんの少しだけ笑った。


同じ頃。
総司が別宅を訪れると
「遅かったな」
と土方が出迎えた。彼にしては珍しく忙しい様子もなくのんびりと過ごしていたようだ。
「近藤先生と話し込んでいたんです。それにしても書き置きで良いのに、近藤先生を伝言役にするなんて…」
「最近、ゆっくりお前と話をしていないとボヤいていたからついでに頼んだだけだ」
「そうだったかなぁ」
玄関を上り、慣れた家を進む。ふと土間に目をやると綺麗に磨かれた台所と正月のお重が準備されていた。
「おみねさん、帰っちゃったんですか?」
「ああ、お前によろしくと言っていた」
「私からもご挨拶したかったのに」
「年が明ければすぐに会えるだろう」
「それはそうなんですけどねぇ…今年は散々お世話になりましたから…」
挨拶できないのが心苦しいとぼやきながら、総司は部屋に入った。
あちこち隅々まで綺麗になった室内は、新年を迎えるのに相応しい。いつもは何かしら埋まっている文机も片付いていて、土方も仕事を持ち込まず大晦日を静かに過ごしていたようだ。
「近藤先生じゃないが、俺もお前とゆっくりするのは久しぶりな気がする」
「…そうですかね。このところ忙しかったからかな…でもお互い様でしょう?」
「まあな」
総司は土方の前で膝を折る。
「色々、近藤先生から伺いました。もっと落ち込まれているかと思いましたが、少し前向きになっていらっしゃってよかったです」
「正月をお孝のところで過ごせばいくらか気が紛れるだろう」
「そうですね」
今年最後の夕日が落ちようとしていた。部屋に入る風は冷たいが行方が火鉢で暖めていたので心地よい温度が保たれている。
二人の間に流れるのは、いつもの空気。互いの言葉を交わしながらも、互いが何を言うのかわかる…そんな馴染んだ空間。
愛おしく、離れがたい。
涙が出るほど、手放したくない。
自然と指先が震えていた。それを隠そうと力を込めて握りしめたーーー土方に悟られないように。
「…土方さん、大晦日だから私も話があるんです。今年のことは今年のうちにって言うでしょう?」
「話?」
「はい。…今日をもって私とお別れをして欲しいんです」
流石の土方でさえも、それは予想していなかったようで絶句した。
それはそうだろう。
ずっと一緒だと何度も口にした場所で。
ずっと離れないと誓った証でもある場所で。
約束を破ろうとしているのだ。
(僕はなんて残酷なのだろう)
けれど、それが運命なのだと言い聞かせる。
僕たちは同じ道を歩んではいけない。
彼の道を途絶えさせるわけにはいかないのだからーーー。















解説
なし


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