わらべうた




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伊東に奥の部屋へ招かれる。花香に茶を運ばせて内海も藤堂も遠ざけ、部屋には斉藤と二人だけだ。
積み上がった書物は整然と並んでいるところもあれば、読みかけの開いたままの冊子がいくつか広がっているスペースもある。文机は書きかけの手紙と乾燥し割れた筆が置かれ、屯所では隙なく振る舞う伊東のほんの少しの油断が現れているようだ。
「人、というものは期待しないではいられない生き物だ」
互いに向き合って座ると、伊東が語り始めた。先程の憤怒した感情は消え失せていたが、いつもと違う感情の揺れはあった。
「私は水戸で学んだ者として幕府には些か思うところがあったが、それでも希望を見出し池田屋で名を挙げていた新撰組に身を投じた。いつまでも道場主で燻っていても仕方ない…動かねばならぬと」
「…」
「しかし…船の舵取りの意思は関係なく、潮の流れには誰も逆らえぬ。いつしか潮目が変わり、何かが変わるのかもしれない…そんな期待を、してしまったのだ」
「…裏切られましたか」
「潮目は変わらなかった。それを裏切りだと言うのは傲慢だな…私は動かずに待っていただけだったのだから。期待は、ただの期待でしかなかったのだろう。…君はどう思った?」
「新撰組の組長として、でしょうか。それとも…」
「君個人として聞いている」
伊東の語気は未だに荒い。斉藤は言葉を選んだ。
「…幕府に対し、期待も失望も…そのような感情を持ったことはありません。ただそういうものだ、と受け入れてきました。主君に従うことが喜びであり、盲目的であることが忠誠心の顕れだと信じたからです。しかし…主君を失えば見えていないものが見えて来る」
「何が見える?」
いつもの伊東なら斉藤へ答えを求めずに飲み込んだだろう。先回りして結論を見出し頷いたはずだ。
しかし彼は言葉を求めた。
「見えなかったものです。見えなくても良いと思えたものが、見える、見えてしまう。…幕府には先がない。そして新撰組にも…この先は行き止まりです」
斉藤の答えに伊東は満足そうに笑った。どうやら彼の思い描いた答えを口にできたらしい。
伊東は懐からいつもの扇子を取り出した。そして咳払いし、何度かそれを手のひらに打ちつける。
「私はこれ以上、時間を無駄にはできない。潮目は変えられないが航路は変えられる。…君の提案を聞きたい」
ようやく本題へ伊東が促し、斉藤は背筋を伸ばした。
「…この状況を変えるには、新撰組では難しいと考えます。近藤局長は天領の地に生まれ幕府への忠誠心は誰よりも強く何があっても翻意することはないでしょう。また同じように土方副長の局長への親愛は厚く結束は揺らがない。つまり新撰組は幕府と会津の下部組織として機能し続けます。そして…脱走もできない。いくら参謀とはいえ容赦なく切腹を命じるでしょう」
「当然だ。あの山南総長でさえ切腹となったのだ」
「そしてたとえ脱走が叶ったとしても監察の目がある都では身動きが取れない。では…分派という形はどうでしょうか」
「分派…?」
伊東は怪訝な顔をしたが、斉藤は続けた。
「なんらかの理由をつけて隊を二分するのです。重要なのは新撰組を裏切る理由ではないこと、そして出来るだけ多くの隊士…できれば組長級の同志を引き入れることです」
「君のような?」
「はい。藤堂組長は参加するでしょう。そして以前から局長や副長に意見していた永倉組長も可能性がありますし、彼が同調すれば情に厚い原田組長も加わるかもしれません」
「まさか」
伊東は冗談だろうと苦笑したが、斉藤は真顔だ。
「山南総長が切腹したあと、局長や副長は憔悴していました。同じことは繰り返したくないと思うでしょう。数が多ければ多いほど、また同じ窯の飯をともにした食客が加われば加わるほど分派を認めるはずです」
「…」
「俺も試衛館の居候は半年に過ぎませんが…それなりにお役に立てるかと」
『お別れは寂しいですからね』
総司の何気ない言葉がヒントとなり浮かんだ『分派』という提案はなかなか幼稚ではあったが不可能ではない。
斉藤は伊東の顔色を伺った。最初に疑い、笑い飛ばしていた表情は消え失せ、目を伏せて思案を巡らせている。
彼は数年前の建白書の件を知っている。永倉や原田、そして斉藤が事と場合によっては近藤らと袂を分かつと。
そう、期待する。
『人というものは期待せずにはいられない生き物だ』
「…君の提案は理解した。ただ分派の理由と彼らを説き伏せることが必要だ」
「それは参謀にお任せします」
「やれやれ、肝心なところは丸投げだね」
伊東は微笑みながら口元に扇をトントンと押し当てた。彼はすでに計算を始めている。自分の航路へ進むためになすべきことと勝利の確率を。


数日後。
「面白い話を聞いたんだが、聞くか?聞くよな?」
隊の巡察を終えた原田が嬉々として非番の総司に声をかけてきた。彼の表情からして好奇な噂話だろうと察することはできた。
「ハイハイ、聞きたいです聞きたいです」
「おっ?そうか?でもなー、どうしよっかなー」
「勿体ぶるなら結構ですよ。いまから壬生の子供たちと鬼ごっこの約束があるんです」
「お前なァ、ガキとの鬼ごっこの約束より重要な話なんだぞ?」
「だったら早く話してくださいよ」
総司は草鞋の紐を結びながら聞き流す。原田は「仕方ねぇなぁ」と恩着せがましく言いながら隣に腰を下ろした。
「うわさ話なんだけどな、花街で下男から聞いたんだ」
「あ、おまささんに言いつけますよ」
「バカ、重要なのはそこじゃねえよ。なんと…土方さんに馴染みの女ができたってよ」
「…まさか」
「お前にとっちゃ複雑かもしれねえけど、モテるから仕方ねぇ。しかもその女が上七軒の舞妓だって言うんだよ、いやぁ、土方さんにそんな趣味があるなんて知らなかったなぁ!」
ケラケラと笑いながら原田は手を叩くが、総司は意に介さず反対の草履の紐に取りかかった。
「あり得ないですね。土方さんに幼子の趣味があるかどうかは知りませんけど、馴染みを作るにしても、上七軒だけはありませんよ」
総司は強がりではなく本気でそう思った。上七軒には一度は身請を決意した君菊や山南の馴染みであった明里の置屋があったのだ。土方がそこへ足を踏み入れることすら考えられなかった。
「でもそういう噂が広まってるらしいぜ?しかも名前が君鶴って言ってな…」
「あくまで根も葉もない噂じゃないですか。原田さんも不用意に広めると土方さんに怒られますよ…約束の時間に遅れるから行きますね」
「おいおい、まだ話は…」
原田は引き止めようとしたが、総司は無視して歩き出した。
屯所をでて壬生までは目と鼻の先だが、次第に胸のあたりがムカムカし始めていた。
(うわさ話だとしても、よりによって上七軒だなんて…)
土方にとっても、そして総司にとってもそれは心外な噂に違いない。きっと総司の耳に届いているくらいなのだから土方はすでに知っているはずだ。
(君鶴か…)
原田がチラリと口にした名前、君菊と同じ置屋なのだろうか。
「…」
原田の前では気に留めないように話を切り上げたが、やがて言いようもない不快な気持ちが迫り上がってきた。
そして総司の足は壬生を通り過ぎて上七軒へと向かっていたのだった。



解説
なし


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