わらべうた




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上七軒のほど近く「北野の天神さん」と親しまれる北野天満宮が見えてくる頃、ハラハラと雪が降り始めた。
その冷たい一粒が頬で溶けて、その冷たさに気がついた時ようやく気持ちが落ち着いた。
(上七軒に行ったってどうしようもない)
総司は足を止めた。
土方とその「君鶴」との噂はあくまで噂でしかなく、自分は土方を信じている。多少の遊びはあるかもしれないが心情的にその遊び場に上七軒を選ぶはずがないと言うことも、頭ではわかっていた。
「…馬鹿だなぁ…」
根も葉もない噂をいつもなら信じたりしないのに、どうして心を揺さぶられてしまったのか。
(きっとどこか弱気になっているからだな…)
いつも通りの日常に疑いを持っていたからこそ、確かめたくなっただけだ。
土方に聞いてみれば良い。きっと
「お前までそんな馬鹿な話を信じるのか」
と呆れて憤慨するだろう。変な噂が立つものだと互いに笑って、それでおしまいだ。
君鶴という君菊に似た名前を持つ舞妓には興味があったが、そもそもこんな昼間に訪ねて行って会えるわけがないのだ。
「…帰ろうかな」
踵を返そうとしたが、せっかくここまできたのだからと「北野の天神さん」に立ち寄ることにした。
今出川通りに面する大鳥居をくぐり、広い境内を見渡す。ここは梅の名所であるが、まだ時期が早く枯れ木が静かに早春を待っていた。その東にあるのが上七軒で、芸妓たちは「北野の天神さん」の氏子になるそうだ。
何人かの参拝者はいたが、ふと大鳥居のそばにある松の木の前で佇む女子の姿が目に入った。シンプルだが上品な紫の着物に身を包み、肩掛けで寒さを凌ぎながらも雪を厭う様子はなく一心不乱に松の木を見上げていた。空から舞う一粒一粒の雪が松の細い葉にかかるのを数えるように、目を離さなかった。不思議な雰囲気を感じた。
総司が一、二歩、近づくと彼女が呼んでもいないのに振り返った。白い雪と対称的な黒髪、そしておなじような肌、すっと通った鼻筋、つぶらな眼ーーーまだ幼いがどこか女としての美しさの片鱗を見せている。
「詩を詠まれるのですか?」
「…詩?」
彼女は問いかける。何の脈絡もなく突然に。
「この松は、影向松いいます。ここが『天神さん』にならはる前からある御神木…毎年、初雪が降ると天神様がここに降りはって、詩を詠まれるとか」
「へぇ…」
「せやから今日は硯と筆と墨がお供えしてあります。今頃、一捻りしてはるはず」
彼女の手が指す方には確かにそれがある。初雪を眺めながら神がどう詠むのか…なにやらロマンチックな話だ。
「詳しいのですね」
「上七軒の女子なら誰でも知ってはることです」
「じゃあ君は上七軒の…」
「へぇ、まだ舞妓やけど」
お見知りおきをと言わんばかりに彼女は微笑んだ。美しさとあどけなさが同居する特有の可愛らしさがある。
壬生に行けば子供たちと戯れることに何の躊躇ない総司だが、大人と子供の境目のような彼女のような年頃の女子とは関わったことがなく、どこか不慣れな対応になってしまう。
「お武家様は天神さまに神頼み?」
「…はは、違います。近くを通りかかったので手を合わせようかなと。長く住んでいるのに初めて来ましたから」
「それやったら本殿までご案内いたします」
「え?でも…」
「置屋に戻っても芸事の稽古ばかりやから。せやったらお武家様を天神さまにご案内する方が信心深い行いやし、有意義やおもいます」
悪戯っぽく笑うと、彼女は総司の腕を引いて本殿へ向かい歩き出す。やや強引だが白く細い手を振り払うことはできず(まあいいか)と受け入れた。こんな非日常も悪くない。
彼女の語り口は滑らかで、あちこち指差して雑学を披露した。太閤が茶会を開いた時に使用した茶室や井戸、神の使いである牛像とその由来…饒舌に語る彼女と二人、平坦な石畳を並んで歩きながら、楼門を潜り絵馬所を通り、やがて本殿が見えてきた。
「あれが、名高い三光門」
彼女が足を止めたのは『天満宮』の文字と豪華絢爛な造りが施された立派な門だった。
「三光門?」
「三光、いうのは日、月、星のことを言います。ようみてみて、梁の間…日、月と彫られてます」
「…本当だ」
「せやけど星はあらへん。なんでかわかる?」
「わからへん」
総司は首を傾げながらも茶化して答えると、彼女は嬉しそうに答えた。
「夜になるとこの門の真上に『子(ね)の星』(北極星)が昇るから、必要あらへんのです。せやから、『星欠けの三光門』とも言います。うちはここから夜空を見上げるのが大好き」
「どうして?」
「まるで天と繋がっているみたいやから。夜になると日と月と、星が一緒になって…まるでどこか遠い場所に繋がってるみたい。手を合わせれば願い事が叶いそうや」
「…」
立派な門とその向こうに見える北を示す動かぬ星。彼女にはそれが神秘的な夢のように特別な景色に見えるそうだ。うっとりと見上げる彼女は純真で純朴そのものだった。
「叶うといいね」
「御武家様は?願い事」
「…そうだな…でもきっと叶わないよ」
「どうして?そんなに難しいこと?」
「叶えてもらえそうにないよ」
総司が苦笑すると彼女は「ふうん」と首を傾げた。
「あ、ツグミや」
門を見上げていた視線が、鳥を追いはじめる。彼女は嬉しそうに声を上げた。
「冬に渡来するツグミは、滅多に鳴かへん。せやから口をつぐむで、『ツグミ』……可愛らしなぁ」
彼女の言う通り、鳥は鳴くことなく何度か地面を啄み飛び立っていく。巻き上がるような風と共に白と灰色で濁った冬の空のなかへ消えて、それと同時に黒髪が靡いたーーーと。
「赤毛…?」
風によって浮き上がった髪の奥に、見慣れない赤毛がチラリと見えた。彼女は咄嗟に両手で頭を抱えるようにして隠したが漆黒の黒髪だからこそ、はっきりと目に焼き付いた。
「…バレてしもうた」
それまで饒舌に語っていたのに、一気に言葉が重くなる。
「これは髢で…うちの地毛はこれ。女将さんには秘密にするようにきつういわれてますさかい、内密に…」
「それはもちろん…」
誰に話すつもりもない…そう口にしようとして冷たい風が喉に張り付いた。
(まずい)
と思った時には咳き込んで、その場に膝をついていた。
「ゲホッゲホッ」
「お武家様?」
「…っ、だい…ゲホッゲホッゲホッ!」
駆け寄り背中をさする彼女に大丈夫だと言うことすらままならず、激しく咳き込んだ。呼吸する暇すら与えられない首を絞められたかのような苦しさは、河上と対峙した時と同じだ。
体を折り尋常な様子ではなく咳き込み続ける総司を見て、彼女は狼狽した。次第に只事でないと察したのかあたりを見渡し助けを求めようと叫ぶ。
「だ、誰か!」
「…呼ばなくて、良いから…!」
「せやかて顔、真っ青…」
「ゲホ…ッ」
体の奥底から湧き上がってくる不快感…棘のような咳以上に体を傷みつける。それをようやく吐き出した時、
「血…っ?えっ、なんで…?!」
さすがに年相応に、彼女は身が竦んだ。砂利に飛び散ったのは喀血だったのだ。
総司は申し訳なさを感じながらも、意識が薄れていくのを感じた。
(夢かな…)
この期に及んで、と苦笑したくなるが、初めて会った少女と初めて踏み入れた神聖な場所。そして幻だと信じていたかった再びの喀血。何もかもが現実味がない。
「お武家様!お武家様!!」
「…名前は…?」
「え?そんなんどうでも…」
(そういえば名前を聞いていなかった)
必死に体を揺する彼女は、つい先ほど会ったばかりだというのに悲しそうに顔を歪めていた。
優しい女子だら、
「うちは、君鶴いいます」
(そんな気がしていたんだ)
霞む視界の向こうに三光門が見えた。
星欠けの入り口の向こうには何があるのだろう。意識を失いながらそんなことを考えた。






解説
なし


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