わらべうた





594


あれは江戸にいた頃。
出稽古のため肩に竹刀を担いで日野に向かう途中、ふと土方が立ち止まったことがあった。
「歳三さん?」
彼が遠くを見て難しい顔をしているので、総司も気になってそちらを見る。するとそれなりに裕福な家の前に喪服を着た人々が集まっていた。
「葬式ですか」
肩を寄せ合う大人に、目元を抑える女子…遠くからでもその重苦しい空気が伝わってくるようだ。
「ああ…昔、付き合いがあった家だ。喜六兄から当主が労咳になったと聞いたが…亡くなったのか…」
顔見知りだが葬式に行くほどの間柄ではないらしい。土方は心底残念そうに顰めっ面をして続けた。
「俺より少し年上だがまだ若いはずだ。確か親父さんも同じ病で亡くなって若くして家を継いでようやく跡継ぎが生まれたと聞いていたが…血脈だろうな、労咳とは恐ろしい」
「昔、姉から不治の病だと聞きました。若くても治らないものでしょうか」
「むしろ若いほど進行しやすいと聞いたことがある。完治した話も聞かないことはないが…」
土方は少し手を合わせると、「行こう」と再び歩き出した。
「血を吐けば最後、奇跡が起きない限り治る方法はない。それに感染る病だから外聞を気にして家人は口を閉すし、隔離される…虚しい最期になる」
「へぇ…」
薬売りとして過ごしてきた土方は、そのような場面に立ち会ったことがあるのだろうか。不治の病を前に自分の無力さを噛み締めたのだろうか。しみじみと語る横顔は見たことがないほど深刻だった。
しかし総司は
「そんな最期は嫌だなぁ…」
と子供でも思うような当たり前の感情しか浮かばなかった。
どこかで自分には関係ないことだと思っていたからだ。若くて丈夫な身体が病に蝕まれることなど想像すらできなかったから。
(もしそんなことになったら…)
剣を握れなくなって、居場所を無くして、人を遠ざけて、一人になって。
(僕は…そんなことに耐えられるだろうか)
命が尽きる心配ではない。孤独という毒に犯されることが身震いがするほど恐ろしかった。
土方も同じだったのだろうか、
「ああ、俺もだ」
と顔色を悪くしていた。
「…もうやめましょう、この話」
総司は話を切り上げた。
『武士』として生まれたのだから、刀で死ぬことは覚悟している。姉からも近藤からもそうやって教わってきた。
だからこそ、畳の上で死ぬなんて想像はできなかった。


目を覚ました時、一番初めに身体が軽くなったことに気がついた。意識を失う前の鉛のように重たい身体はそこにはなく、穏やかな心地になる香が抱きしめられた布団に寝かされていた。
次に、見たことのない天井の木目が目に入った。辺りを見渡すと年季の入った襖に囲まれていて、生活感のある衣紋掛けや小箪笥、鏡の前に並べられた口紅や筆…四畳半ほどの部屋は、総司には縁のないものばかりだった。
ゆっくりと体を起こした。どうやら二階のようで窓からは清々しい青空が見えた。
(長く眠ったわけではない…)
窓の外は閑かで鳥の声も聞こえてくる。『新撰組の沖田』が倒れて担ぎ込まれたともなれば大騒ぎになるはずなので、正体は露見していないのだろう。その事実に心から安堵した。
ふと手のひらを見ると血で染まったはずだが綺麗に汚れが落ちていた。
「お気づきになられましたか?」
襖が開いて君鶴が顔を出す。手には湯桶があった。
「…ここは?」
「ここは置屋のうちの部屋。まあうちの部屋ゆうても相部屋やけど。…もう吃驚しましたえ、突然倒れはるから…あれからすぐに小者の男衆を呼んで抱えてお連れしました」
「それは…ご迷惑をお掛けしました。すぐにお暇しますから」
総司はそばに置いてあった刀を手に布団から出ようとするが、
「何アホなことを」
と君鶴に引き止められた。
「血、吐いて倒れはったんや、安静にしてくれなあかん」
「…でも今日会ったばかりのあなたにこれ以上世話になるわけには…」
「昔から置屋には、病の者はたくさんおります。梅毒や労咳なんてしょっちゅうや。珍しゅうもない」
君鶴はあっさり聞き流すと「ええから」と総司の肩を押して引き止めた。年は十ほど下のはずだが、その世話焼きぶりは姉のようだった。
君鶴は一呼吸置いてまじまじと顔色を窺いながら、尋ねてきた。
「…やっぱり、労咳?」
彼女の淀みのない質問は、針で刺されたかのようにちくりとした痛みを与えた。
『労咳』…そうかもしれないと思うことはあったが、他人に尋ねられることがこれほど苦痛なことだと知った。
総司は努めて笑顔を作った。
「…どうでしょう。このところ風邪気味で、咳も酷かったので喉が切れただけかな…」
「嘘や。初めてのことやないはずやし、あれはただの咳やあらへん。さっきも言うた通り、お客さんから労咳を貰う芸者は沢山おります。うちの知っとる姐さんも何人か同じような咳をしてはりました。皆、亡くなってしもうたけど…」
「…」
君鶴はあっさりと嘘を看破し現実を突きつける。
彼女の言葉が、心を抉っていく。
そしてあの出稽古の途中で交わした土方との会話を思い出す。
(認めるわけにはいかない…)
黙り込んだ総司を見て、言いすぎたと思ったのか君鶴は「堪忍」と謝ったが、尚も続けた。
「ちゃんと養生せなあかん。よう診てくださるお医者様を呼びにいかせてます。せめてそれまではここに、どうか」
「…」
無理矢理にでも出ていくことはできたが、総司は手にしていた刀を置いた。彼女の親切心を無碍にしたところで、少し休まなければ平常心で屯所には戻れないだろう。
君鶴は袖を捲り手拭いを絞って額にのせてくれた。火照った体と心が落ち着いていくようだった。
「…着替えさせてくれたんですね、ありがとう」
「それくらいはお安い御用どす。昔から病になった姐さんたちのお世話をしてました…」
目を伏せながら君鶴は語る。少女と女性の間にある可憐さに、一瞬影がさす。
「…せやからほっとけません」
先程、何人もの姐さんを看取ってきたと言っていた。悲しい経験を何度も重ねてきたからこそその幼さに相応しくない悲しさを帯びているのだろう。
君鶴は温かくなった総司の額の手ぬぐいに手を伸ばし、冷たいものと入れ替えた。
「…あの、御武家様…一つ聞いても?」
「なにか?」
「さっきゆうてた…『叶わない願い事』って、病のこと?」
三光門の前で交わした何気ない会話をしっかりと覚えていたようだ。聡明な少女にまるで何もかも見透かされているようで、苦笑するしかない。
「…そういうわけではないけれど…そんな資格がないと思ったんだ」
「資格?」
「決して褒められた人間じゃないから」
何人もの人間を殺めてきた自分が、都合よく神仏に祈ったところで聞き届けてくれるわけがない。それは今だけではなく、初めて人を斬った時から思っていたことだ。
「資格なんて、必要やろうか…そんなこと考えたこともなかった」
君鶴は可愛らしく首をかしげる。三光門を見上げていた少女の無垢な姿を思い出し、より一層
(これ以上、関わるべきじゃない)
と思った。
きっと土方とのことも噂でしかない。新撰組の馴染みなど尋ねる必要もなく嘘に決まっている。
そして労咳であったにせよ、なかったにせよ、自分はここにいて良い人間ではないし無垢な彼女に関わるべきではない。それこそ、その『資格』はない。
総司は身体を起こし、再び刀を手にした。
「やはり、帰ります」
「え?なんで…」
「君に…君鶴さんには感謝しています。会えて良かった」
「待ってって…」
君鶴が両手を広げて再び引き留めようとしたとき、
「お鶴、お医者様来られましたえ」
と女の声がした。君鶴は「ほら!」と総司の袖を強く引いたとき、案内されてきた医者が部屋にやってきた。
それがまさか、
「…英、さん…」
宗三郎こと、英だとは思いもよらないことだった。




解説
なし


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