わらべうた





595


久々に再会する彼は、火傷の跡は残るもののそれすら凌駕する、相変わらず美しく整った面立ちをしていた。凛として少し大人っぽく見えたのは時が経ったせいもある
が、医者として成長している証だろう。しかし流石に総司の顔を見て表情を変えた。どういう理由で呼び出されたのかは定かではないが、まさか浅からず因縁のある相手が置屋に担ぎ込まれているなんて夢にも思わなかっただろう。
けれど、たじろぎはしなかった。
「…お鶴さん、人払いをして。この部屋には誰も近づけないように」
「へえ…わかりました…」
君鶴は総司と英の間に流れる妙な緊迫感に勘付いていたようだが、追求はせずに英の指示に従って部屋を出た。四畳半の狭い部屋に二人きりになる。
英は少しため息をつきながら、膝を折って座って、呟いた。
「…まさかこんなところで会うなんて、想像もできなかった」
「私もです。…ご無沙汰しています。斉藤さんや山崎さんから何度かご様子は伺っていましたが…お元気そうでよかった」
「あんたは元気ではないようだ」
英は世間話は要らないと言わんばかりに話を切り上げて、真っ直ぐ総司を見た。かつて『宗三郎』として眺めているわけではなく、『医者』として診ている。
たじろぐのは総司の方で、目をそらした。
「…君鶴さんからどう聞いているのかはわかりませんが、大袈裟なことではありませんよ。ちょうどお暇しようとしていたところで…」
「ひどい顔色をしている。もしこのまま屯所に戻るなら途中で行き倒れて辿り着けないだろう。そうなれば『新撰組の沖田が倒れた』と街中が大騒ぎだ…それがあんたの望みか?」
「…」
総司の誤魔化しすら通じず、彼はただ顔色を伺っただけですぐに判した。脅しではなく、淡々と事実を述べるように。
それが逆に総司に胸騒ぎを起こす。
(そんなに悪いのか…?)
唖然となりながら、英に促されるままに横になる。彼はてきぱきとまぶたの裏や爪の色を確認しながら、胸に聴診器を当てた。無駄のない流れるような手際の良さだった。
「血を吐いたのは何度目?」
「…二度目です」
「誰にも診せていないのか」
「ええ…タチの悪い風邪だと言い聞かせていました」
偽る気持ちになれず、素直に返答する。英は少し呆れたようにしていたが責めはしなかった。
窓から穏やかな風が流れてくる。髪で隠れた火傷の痕が痛々しくその姿を現した。けれど彼は隠すそぶりも気にするそぶりもなく、その長い睫毛を伏せて総司の体に向き合っている。
そして一息ついた。
「…残念ながら風邪ではないだろう。すぐにでも南部先生か松本先生に診てもらった方が良い」
「いえ…あなたから聞きたい」
「…俺はまだ修行中の身。今日は懇意にしているお鶴さんから呼ばれたから往診に来ただけで…正確な診断はできない」
「それでもあなたの口から聞かせてください」
総司は食い下がった。
数年前、彼と出会った。感情の行き違いから一悶着あったが、彼が医者となりこうして再び巡り合ったことにはきっと意味があるはずだ。
総司の無理な頼みを聞いて、英は苦い顔をしていた。そして「おそらく」と前置きした。
「胸の音が健常なものとは違う…労咳かもしれない」
どこかで構えていた。
これは風邪ではない。一時的な病ではない。きっとこれはーーー昔、姉が忌避し、土方が悔やんだ労咳なのかもしれないと。
だから彼の形の良い唇が、無情な宣告を告げるかもしれないと、わかっていたのに。
(ああ…)
総司は天を仰いだ。見慣れない低い天井、嗅いだことのない香の匂い、天神様から流れてくる穏やかな風ーーーなにもかもに現実味がないけれど、まぎれもない現実。
両手で顔を覆った。涙は流れてこない、むしろカラカラに乾いていたのに目を閉じることはできなかった。
(僕は恐ろしい…)
死ぬことが怖いわけではない。いつどこでこの身が果てようとも後悔しない生き方を貫いてきた。一本の刀として、この命を使い果たすなら本望だと。
けれど、まるで枯れ木が朽ちるように少しずつ蝕まれて、錆びて、やがて一人で死ぬーーーいや、それも心構えさえできれば恐ろしくはない。
恐ろしいのはこの身に宿った毒が誰かを殺すこと。
(僕は…早く、捨てなくっちゃ…)
持っているものを。
得ている幸福を。
この身に余る想いを。
「英さん。この病は…誰かに感染るのですか?」
「…それは…わかっていない。家族で引き継がれるように労咳になる者もいれば、廓で流行ることもある。一方で全く感染らない者もいる」
「そうですか…」
ほんの少しの慰めもいまは耳に入らない。
ただ思うのは
(この部屋から出て、僕はどうすれば良いのだろう…)
という直近の悩みだ。
真っ直ぐ屯所に帰る?それともこのまま行方を眩ますべきか、もしくはーーー。
少しぼんやりしていると、カチャッと聞きなれた音がした。いつのまにか英が総司の刀を抱えていたのだ。強く離さないように。
「…英さん…?」
「普通、労咳と聞けば誰もが取り乱す。いつ死ぬのか、どうやって死ぬのか、治る方法はないのか…寡黙なおっさんが突然泣き喚いて縋るなんて珍しくない。家族は泣き暮れて無力な医者は気休め程度の薬を置いて去る。…それなのに、あんたはそれを一切聞かない。そんなの嘘だと拒絶もせずに淡々と受け入れて…挙句、最初に口にしたのが『誰かに感染るのか?』って?」
「…」
「そんな頭のおかしい奴の考えていることは、医者の卵に過ぎない俺にだってわかる。あんたが考えているのは、『さあ、どう死ぬか』。どうやって死んだら誰にも迷惑がかからないか、誰にも気付かれずに死ねるか…そうだろう?」
英の言葉に総司は何も言い返すことはできない。
その通りだ。
(誰にも心配をかけたくない)
労咳だと知れば、近藤は嘆くだろうし、食客の仲間も心配させ、気遣ってくれている山野や組下を後悔させるかも知れない。
そして土方はーーー想像するだけで胸が苦しい。
英は続けた。
「これだから武士は嫌いだ。…言っておくけど、労咳は不治の病ってわけじゃない。安静にして治った事例もある。今すぐに新撰組を抜けてどこか静かな場所で静養すれば数年後には快癒できるかもしれない」
「安静にして何もしないでいると、刀は錆びていきます。その錆びは他の刀を腐らせる。そんな役立たずはみんなの足を引っ張るだけです」
「いまは自分の心配だろう。それにあんたは刀じゃない、人だ」
英は叱りながら諭す。医者として人として真っ当なことを口にしていると、総司もわかっている。
けれど、
「…英さん、私は自分よりも大切なものがたくさんあるんです」
江戸を出るときに一本の刀として役立ちたいと誓った。近藤のために、土方のために役立つことが生きる意味とさえ思った。
それが果たせなくなるとわかったいま、何ができる?
「私の望みは、労咳だろうとそうでなかろうと変わりません。近藤先生と土方さんのために生きて死ぬこと。その為に為すべきことをするだけです」
ずっと前に決めて、何度も繰り返してきた誓い。まるでそれが決まり文句のように繰り返してきた言葉なのに…何故だか今日は苦しい。労咳のせいだろうか、息苦しくて、胸が痛くて、顔が熱い。
「…あれ?」
泣いていた。
(僕が、泣いていた)
どうしてだろう。
あんなに死ぬことは怖くないと思ったのに、それを目の前にした途端に尻込みするなんて、どうしようもない。
(僕は怖い)
死ぬことじゃない。
これから歩む道がどんなに孤独で、どんなに長く続く暗闇なのか…それを思うと、恐ろしい。
そして
(命は惜しくないと思っていたのに…)
あなたと離れると思うと、息が止まる。
たとえば特別な関係でなければ『武士』として迷いなく死ぬ道を選べたかもしれないのに。
この手を離さなければならない。ずっと一緒にいると誓ったのに、もうそれを破らなくてはならない。
突然襲われた虚しさに苛まれていると、ふと暖かなものに包まれた。
細い髪が輪郭を撫で火傷の痕が頰に重なった。まるで親が幼子を抱きしめるようにトントンと背中を優しく打たれ、凍った氷が解けるようにまた涙が溢れてくる。
「やっぱり…あんたは刀じゃない。れっきとした人だ」
そういう彼こそ、れっきとした医者だった。誰であろうと弱き者に無償の手を差し伸べる
「松本のおっさんに言われていた…『借り』を返すっていうのが、いまなのかな…」
そう呟いて、それ以上は何も言わなかった。






解説
なし


目次へ 次へ