わらべうた





601


慶応二年の師走も末になる頃。
その日は朝から大粒の雪が降っていた。
沖田総司は屯所から遠く離れた旅籠へと足を踏み入れた。できる限り監察の目の届きにくい場所を選んだが、どこに彼らの協力者が潜んでいるかはわからない。
(なんだか悪いことをしているみたいだ…)
普段とは違う体験に自然と顔が綻んだ。誰かに知られるのは死活問題だというのに、まるで子供の悪戯みたいだ。
「あのぅ…」
暖簾をくぐるなりほくそ笑む総司を、女中が当然怪しんだ。
「あ…すみません、こちらに南部診療所の…」
「こっちだよ」
旅籠の二階から英が降りてきて手招きした。女中は待ち合わせだと分かるとそのまま下がり、総司は彼に呼ばれるがままに階段を登った。
「すみません、遅くなりました」
「今来たところだ」
英は素っ気ない返答をした。長い睫毛と色白の肌は出会った頃と変わらない若々しさであり同時に寄せ付けないほどの麗しさがあるが、あの頃のような危うさはなく落ち着き、しっかり根の生えたしなやかな柳のような風情だ。
決して大きくはない旅籠の二階には二つの部屋があって奥の部屋に案内される。襖を開けるとそこには懐かしい顔があった。
「お加也さん…」
「ご無沙汰をしております、沖田さん」
加也は総司との再会を穏やかに微笑んで迎えた。
長い黒髪、凛とした眼差し…久しぶりの再会だが彼女はいっそう美しく大人びていた。
加也と出会ったのは一年ほど前、彼らの師匠であり幕府御典医である松本良順の中立による縁談がきっかけだった。色々あってその縁組は取りやめとなり、彼女は長崎へと旅立った。
総司は彼らの前に腰を下ろした。
「なんだか…照れますね。別人のようですよ」
「そうですか?わたくしは先日お会いしたような心地です。…深雪さまのことは義父から伺いました、残念なことです」
近藤勇の妾であった深雪は、都へやってきてから体調を崩し加也が往診していた時期があった。結局は彼女が長崎にいる間に亡くなってしまったが、親しくしていたのだ。
「ええ…近藤先生も酷く悲しまれましたが…今は、お加也さんの提案で身請けされた妹御と暮らしておられます。秋には子も産まれるそうですから、深雪さんもお喜びでしょう」
「そうですね」
加也は頷くと、スッと息を吐いた。そして雰囲気を変え真剣な眼差しを向けた。
「それで…血を吐いたのはいつ頃ですか。どれくらいの量を?」
「…お加也さんらしいな。もう本題ですか?もっとお話ししたいことはありますよ。長崎でのことを教えてください」
「診察の後でいくらでもお話ししましょう。いまは…一刻も早くお身体のことを伺いたいのです」
加也は髪を一つに纏めはじめると、それが合図なのか英が診察道具を準備し始める。師匠と弟子のようだ。
「…英から内密に相談があると言われ聞いた時には驚きました。てっきり置屋の遊女が病だと思っていたので…しかも、あの時が初めての吐血ではないのでしょう?」
「半月ほど前にも少し…」
「血を吐くなど尋常なことではないのです。早く医者に診せてください」
早速、叱られてしまい総司は苦笑する。
それから英がやったように身体のあちこちを診察され、特に胸の音を熱心に聴かれた。
長崎へ行く前、加也は自分が医者になることを否定していた。松本はその腕を見込んでいたのに女子は医者にはなれない、なれるはずがないのだとしきりに繰り返していた。まるで自分に暗示をかけるように否定的だったが、長崎から戻ってその意識が変わったのだろうか。
(時間は人を変えるな…)
同じだけの時間を過ごしていた彼女の成長を見ると、自分の至らなさが情けないような気持ちになる。あげく病にかかって面倒をかけているのだから。
「…もう良いわ」
加也の指示で英が聴診器を受け取った。彼女の視線が一瞬伏せられたことで悟る。
「…労咳、ですか?」
努めて淡々と尋ねたつもりだが、彼女がどう受け取ったのかわからない。
「吐血の様子や胸の音を聞く限り…英の診断通りだと思います。親族に労咳の者はいますか?」
「…どうかな…父は早くに亡くなり、母も私を産んだ後に亡くなりましたが、そういえばどういう死因だったのかは尋ねたことはありません」
「そうですか…この病は血脈だという話もありますが、原因はわかりません。ただ、療養をしなければ必ず命を縮めます」
総司は体を起こし身なりを整えた。
「療養はできません。隊務に支障をきたしますから、できれば自然に誰にも迷惑をかけずに過ごしたいと思います」
「…」
加也はチラリと英を見た。おそらく総司の無茶な願い事もあらかじめ耳に入れていたのだろう。
「…沖田さん、それは無理です。英からも聞いているはずです、この病は呼吸の病…息切れや動悸は日常茶飯事、いつ吐血するわからない。次第に呼吸もできなくなって床から起き上がることもできなくなるのですよ」
加也の語気が強くなる。
「本当なら今すぐにでも隊を抜けて、静かな場所で静養してほしい。奇跡的にこの病を治した患者はそうして回復したのです」
「治ればそれに越したことはありませんが、回復しなかったら意味がありません。それに静かな場所なんて、『新撰組の沖田』にはどこにもありませんよ」
「茶化さないで」
加也は叱りつけるが、総司は引き下がらなかった。
「…お加也さん、私が知りたいのは治す方法ではなくて、どうすればできるだけ長く誰にも迷惑をかけずに過ごせるのかということです。日常で気をつけることとか、もし吐血した場合の対処法とか…」
「そんなものはありません。身体を動かさずにいることです」
「ですからそれは…」
「わたくしは医者としてここにいるのです。そのわたくしに、どうすれば生き長らえるのではなく、どうすれば誤魔化せるのかを聞くなど間違っているとは思いませんか」
「…」
加也は怒っていた。強気で意固地な彼女が怒っているのは初めてみる気がした。
彼女が正しいのはわかっている。至極まともな意見であり、総司のような患者は迷惑でしかないだろう。
けれどその正しさを受け入れられない。病が近藤や土方たちに公表されて、病人として扱われるなど…生きている意味すらない。
「…でしたら、今日のことは忘れてください。もともとお加也さんや英さんにご迷惑をおかけするつもりはなかったんです。ただ、南部先生や松本先生には内密に願います」
「わたくしは患者のことを易々と漏らしません。そのかわり、一度でも診察したならばわたくしの患者です」
「強情ですね、その患者が忘れてくれと言っているんです」
「忘れられるなら忘れます。でもこんなこと忘れられるはずがありません」
加也は一歩も譲らないと言わんばかりに総司を睨みつける。彼女を説得するのは骨が折れそうだと覚悟を決めたところで、
「やめやめ」
それまで黙っていた英が譲らぬ総司と加也の間に割って入った。
「姉さん、相手は病人だ。しかも死病を告げられているんだ、ちょっとは手加減してやってくれ」
「英、あなたも医者ならばわたくしの言いたいことはわかるでしょう。そして沖田さんがどれだけ無茶を言っているか…」
「勿論わかっている。まったく呆れて言葉も出ないほどだ。…でも、俺はまだ医者の端くれに過ぎないせいか、この無謀な望みを叶えてみたいと思う」
「英さん…」
英は加也の前に膝を折り、手をついた。
「…長く生き続けることだけが幸せではないと、俺は知っている。療養をしても命尽きたならこの男は必ず後悔する。だったら望み通りできる限り今の状態を維持するように助けるのが…俺の『縁』だと思っている」
「…」
「…これは俺の勝手であり、武士って生き物の性分だ」
英が深々と頭を下げたので、総司は慌てた。
「英さん、頭を上げてください。お加也さんは至極真っ当なことをおっしゃっていて、我儘なのは私です。それに英さんにそこまで…」
「あんたは黙ってて。この馬鹿げた願いの、片棒担いでやるって言ってるんだ。でもそのためにはまだまだひよっこの俺一人では心許ない。姉さんの協力が必要だ」
英は加也を見据える。総司や加也以上に強情な眼差しが向けられていた。
「…姉さん、頼む。無謀なのは重々承知しているが、彼らは命の恩人だ。俺のためだと思って引き受けてくれ」
数年前のあの日、河上のせいで火事が起きたとき逃げ出さなければいまの英はいなかった。松本に導かれ南部の弟子となり、新しい名前を与えられた英にとって、憎くもあるが恩人でもある。
深くて強い『縁』が英を突き動かしていた。
「……本当に、無謀だわ」
加也は唇を噛み、目を伏せた。そして傍らにあった風呂敷を総司の前に差し出した。
「これは…?」
「労咳の療養について書かれた書物とわたくしが調合した薬です。もちろん気休め程度の咳止めと解熱剤で…病を治すものではありませんが病は気から、と良順先生もよくおっしゃいますから」
加也は「負けました」と肩をすくめながら深くため息をついた。
「…約束してください。その書物をよく読んでくださること、せめてお休みの日は療養に努めてくださること、診察には素直に答えてくださること…英のいうことをよくよく聞いてくださること。それができないのであれば、南部と良順先生にすぐにでもお話しします」
「お加也さん…ありがとうございます…!」
「感謝されても困ります。まだなにも…為していないのですから」
彼女にとって、不本意な選択をさせてしまったのだとはわかっている。けれど心強いのは確かだった。
「必ず約束します。どうかこれからよろしくお願いします」
総司は深々と頭を下げた。その姿を見て「あの」と加也が何かを言いかけたが、
「いえ…なんでもありません」
と言葉をつぐんだ。
いつの間にか朝から降り続けていた大粒の雪が止んでいた。不似合いなほど燦々と照る太陽の元で、溶かされた雪が屋根を伝ってボトリと落ちた。






602


「長崎の話はまた今度にしましょう」
そう言って加也は往診があるとのことで早々に宿を出ていった。頼もしい背中を見送りながら、しかし彼女がいなくなった途端に後悔が募った。これから総司の嘘に彼女を巻き込むことになってしまう…ただでさえ彼女には世話になりっぱなしだというのに。
「申し訳ないな…」
ぽつりと呟いた言葉を英は聞き逃さなかった。
「あの人は自分で決めたことは梃子でも動かない。俺の話を聞いた時点で用件は想像できただろうし、納得できないなら南部先生にとっくに相談してる。そうせずに付き合うと決めてくれたなら、感謝こそすれ申し訳なく思う必要はないと思う」
「…そうだと良いのですが…」
「病人は余計なことは考えなくていい」
心地よいほどに話を切り上げて、「それよりも」と切り出した。
「俺も姉さんも協力する。いつか露見するに違いないができるところまで付き合う。…だからこそ聞いておきたい」
英の本題はこれからなのだろうという深刻な雰囲気を感じ取り,総司は居住まいをただした。
「なんでしょうか」
「歳さんとのことはどうするつもり?」
「…」
それはいつか、英や加也から尋ねられることだろうとは思っていた。もしかしたら彼女が先ほど言葉を濁したのはこのことだったのかもしれない。
しかし、誰に聞かれても答えは決まっていた。小さく息を吸って口にした。
「…お別れをするつもりです。まあ、お別れと言っても同じ隊にいますし、親しい家族のような仲間であることは変わりませんが…それでもできる限り距離を置くつもりです」
「そんなことできるのかい?」
「できなくても、やります。そうするしかないでしょう?」
他人に感染するかもしれない病を抱えた自分はお荷物でしかない。それならばせめて誰とも距離を取って万が一が起こらないように努める。
(そんなこと、罪滅ぼしにもならない…けれど)
総司の拳に自然と力が入った。
本当は想像すらできない。彼のために死ぬことがあっても、彼と離れて真逆の道を歩むなんて考えたことすらなかった。
悔しくて、寂しくて、苦しくて、痛い。
だがそんな感情を吐露してしまえば、止められなくなってしまいそうだった。
英は食い下がった。
「…歳さんには話した方が良いんじゃないのか?」
「まさか…一番、知られたくない人ですよ」
「そうかもしれない。けれど、一番頼りになるはずだ」
「いいえ、そういうわけには…」
「現実的に考えてみたら隠し通せるとは…」
「わかってます!」
総司は声を張り上げ、拳を畳に打ち付けていた。英に対する怒りではない。自分に対しての苛立ちだ。
「監察が配下にいる歳三さんに隠し通すことがどんなに無茶で、非現実的か。そんなことはわかってます…でも、他に何ができると言うんですか。歳三さんに全て打ち明けたところで病が治るわけじゃない。同じ苦しみを背負わせてしまうだけです」
ここにいたいというわがままは、いつまでも通せるわけがない。そう遠くない未来に巻き込むことになるだろう。
けれどそれまでは、一日でも長く、苦しまないで欲しい。
「…歳三さんは、きっと私のためにあらゆる手段を取るでしょう。労咳の隊士は基本的に除隊です。でもそうはしない…役ただずの私をどうにか側におこうとする。それが法度を歪ませ、隊の規律に矛盾を生むことになる。その亀裂は近藤先生と作り上げてきたものを壊し、今まで死んでいった同志を裏切ることに繋がる。そんなことは絶対にできません。だから私がすべきことは…歳三さんを殺さないこと。新撰組副長土方歳三の名前を汚さないことです」
彼と同じ道を歩むことはできなくなってしまったけれど、せめてその道をまっすぐに進めるように、自分は決して足枷にならない。
(それだけが望みなのだから…)
「…どうしようもない奴だって見放してくれるように、別れるつもりです」
「簡単にあんたを見放すような…そんな人じゃないだろう」
「ええ…だから、困ってるんです」
色恋に疎い自分にはどうやったら別れられるのか見当もつかない。考えるのが嫌になって、ずるずると言い出せないのだ。
すると英は「わかった」と頷いた。
「歳さんには話すべきだと思うけど…あんたのその気持ちもわかる。だから、良い方法を教える」



「…何の、冗談だ?」
いつも平然として冷静な彼が、ほんの少しだけ言葉を震わして尋ねた。
遠くで除夜の鐘が聞こえる。毎年この夜は、いつもと同じようで違う特別なものだった。全てのしがらみから解き放たれるように穏やかに朝を待つ…そんな日々を過ごしてきたし,彼は今年もそうだろうと思っていたはずだ。
「冗談ではありません。私とお別れをして、兄弟子と弟弟子、もしくは上司と部下、あるいは昔馴染みの食客同士へと戻って欲しいとお願いしているんです」
「…面白くねぇ冗談だな」
「冗談ではないから面白くないんですよ」
総司が苦笑すると、土方は眉間の皺を深く刻んだ。
ようやく本気だと気がついたのだ。
「理由は?」
怒気を孕んだ質問ーーー総司はできるだけ平静を保つ。
「疲れた…のかもしれません」
「疲れた、だと?」
「あなたはいつも不機嫌で忙しなくて、心休まることは滅多にない。そういう日々に疲れたというか…」
並び立てた理屈を土方が受け入れるはずがない。総司の襟を掴み、引き寄せると
「本当のことを言え」
と詰め寄った。
(流石に誤魔化されてくれないな…)
総司が思いつくような安易な理由では納得するはずがない。内心苦笑した。
なので、英の提案通りの台詞を口にした。
「本当は…好きな人ができたんです」
「…は…?」
「安直な理由だと思いましたか?でもこればっかりは仕方ないじゃないですか」
「どこのどいつだ」
「男じゃありませんよ。おなごです、相手は言えませんよ…新撰組の鬼副長に恨まれちゃ気の毒です」
かつて英が宗三郎、あるいは薫として陰間であったころ、心変わりしていく男たちは皆、正気に戻ったように女の元へ向かった。英はどうしようもない隔たりに諦めざるを得なかったという。
土方が強く襟を掴み、喉を圧迫する。
「嘘を言うな。昔から色恋に疎いくせに」
「いつの話をしているんですか……離してください」
総司の要求に土方は荒々しく応えた。畳に叩きつけるように投げると、そのまま馬乗りになって押さえつけたのだ。
「やめてください」
彼が見下ろしている。かつて向けられたことのない侮蔑の表情だった。
「…俺が相手にしてやらないから、他に目がいっちまったってことか?お前はそんなに尻軽だったのか?」
「尻軽かどうかはわかりませんが…酔いが覚めたようなものです。もともと男色の気はないのですから」
総司の言い草は火に油を注ぎ続ける。
「酔い、か。お前の覚悟やら決心やら…薄っぺらい言葉のあやにすぎなかったということか?」
「そう思っていただいても構いません。…人の心は移ろいますから」
土方はどうにか感情を堪えようとしていたが、隠し切れないほどに憤っていた。目が血走り、唇を噛み…見たことがないほど、絶望している。
(早く僕を見限って欲しい…)
そうすればもうこんなふうにあなたを傷つけなくて済む。
こんなことが言いたいんじゃない。
本当は違う。
「心変わりなんて、誰でもあるでしょう。夫婦じゃないのですから約束を反故にしたわけでもありませんし」
「…お前が心変わりしようと、俺は変わらない。俺は来世でもお前を選ぶ」
不意打ちのような土方の言葉に、それまで冷徹を貫いていた心が激しく揺れた。
『僕もだ…!』
そう叫んで、全部嘘だった、冗談だったのだと許しを乞いたい。けれどそうしないのは、なによりも土方のためだ。
(あなたを巻き込みたくない)
「私は…来世では…どうかなぁ…」
そう茶化しながら誤魔化すので精一杯だった。
「…そうかよ」
土方から怒りが消えた。そして馬乗りのまま総司の頭上に転がっていた脇差に手を伸ばすと、ゆっくりと鞘から刀身を抜いた。
月明かりに薄らと照らされた刃先がゆらりとこちらを見ている。
「…斬りますか」
「来世が無理だと言うのなら、せめて今世は手放すつもりはない」
土方は柄を反対に持つと、そのまま振り下ろした。刃先は総司の耳を掠めるほどにグサリと畳を貫く。
「…土方さん…」
「お前の気持ちなんか知るか」
子供のように吐き捨てて、土方は総司の髪を乱暴に引っ張るとそのまま襟を掴み、鎖骨に噛み付いた。
「いた…ッ」
皮膚が裂けるような熱さと痛みを伴う。しかし逃れようとするとすぐ近くで直立した脇差が喉元を斬ることになるだろう。
逃げられないーーーいや、逃げるつもりはない。
(気が済むまで甚振れば良い)
そうすれば彼も自分も諦められるかもしれない。
土方の指先が皮膚に食い込んだ。
彼はもう何も言わなかった。しかしその吐息から、眼差しから、ぬくもりから…彼の激情が伝わってくる。
総司はそれをやり過ごすことしかできなかった。
(これが最後の夜だ…)
虚しい空っぽの大晦日。
そして眩しい新年がやってくるーーー。








603


ピピピ、と囀る小鳥の声で目が覚めた。
薄い朝陽が差し込む部屋には誰も居らず、少しだけ開いた障子の隙間から光が差し込んでいた。
「う…」
総司は手のひらで額を支えた。身体が鉛のように重たく、頭を起こした瞬間にクラっと眩暈がしたのだ。両手を畳につきながら四つん這いになってようやく身体を起こすと適当に掛けられた上着が肩から落ちた。
記憶にない無数の傷があちこちにある。それこそ足先から指先に至るまで…チリチリとした痛みを伴いながらまるで刺青のように深く刻まれている。
「ハハ…乱暴だな…」
総司は苦笑しながら乱れた髪をかき上げて、身体を引き摺りながら床の間を縁取る立派な柱に背中を預けた。そうしなければ自力で座ることすらできない状況だった。
あちこちに痛みがあったが土方を責めるつもりは毛頭なかった。いっそ殺してくれればそれでも良いと思っていたので、まだ優しかった方だろう。突然の別れを切り出された土方の怒りはこの程度ではないはずだ。
普段なら一年を振り返り、労わる大晦日のはずが、新年を跨ぐ夜は互いにとって悪夢となった。
(でも…これでいい)
膝を折り、身体を抱えながらこれで良かったのだと自分を慰める。
そう仕向けたのは自分だ。随分と酷い嘘をついて、それでも譲らなかったのだから。
すると外から物音が聞こえた。障子はゆっくりと開き、眩しい光が部屋を明るく照らし出す。
「あ…」
土方だった。憮然とした様子で腕を組んでいる。
総司は何を言ったらよいのかわからずにそのまま呆然としていたが、
「…俺は屯所に戻る。お前は休んでいけ」
気遣いの言葉はなく、ただ総司の足元に膏薬を投げて寄越した。それでも「ありがとう」というのは違う気がして、総司は何も言えなかった。
黙り込んだ総司を見て、土方は固い表情を崩さなかった。
「俺は納得していない。だから謝らない」
「…」
土方はそのまま障子を閉めて去っていく。その足音が遠ざかり、玄関から出て行くのを耳で確かめた後、身体中の力が抜けたようにその場に倒れこんだ。両手、両足を広げて身体全体で呼吸をする。
生きているのに―――死んでいるようで。
目を閉じて昨日の悪夢を振り返る。
ほとんど何も覚えていないほど、彼の怒りをただただ受け止める時間が続いた。されるがままに応えることだけが今の総司にできることだと腹をくくり、また土方も言葉の通じない人形のような身体を虚しく抱いたことだろう。
その最中、一度だけ、まるで聞き間違いのように土方が言った。
『嫌いになったのか…?』
とても頼りなくて、弱弱しくて、彼の言葉じゃないみたいで―――総司は息を飲んだ。当然答えられるはずはなく聞こえないふりをした。
(そんなはずはない)
むしろ思いは募るばかりで、こんな思いを捨てたら楽になれるのにと苦しいばかりだ。嫌いになれたらどんなに楽か。
「…嫌いになれるわけがない…」
だからこの思いには蓋をして、二度と開かない鍵をかける。そして悪役に徹し、彼が諦めて手放してくれるように願う。
別れる時は死ぬ時だと思っていた。この関係の終わりはそこにしかない――その覚悟はとっくに決めていたのに。
憎むべきは病だ。
けれど病になった身体は、自分のもので、この身体で生きてきたから憎もうにも憎めない。
「ああ…」
土方がくれた膏薬が指先に触れた。
彼の優しさが辛いなんて、知らなかった。
だから早く、早く、どうか早く見切ってほしい。
何度も願ったけれど、誰に願ったらよいのかわからなかった。



慶応三年の正月は日差しは暖かいものの、あちこちの地面に氷が張り凍てつくように寒かった。
「あー畜生…」
鼻をすすりながら永倉新八は別宅から屯所へ戻ってきた。大晦日から朔日は別宅にて小常とともに穏やかに過ごしたものの、楽しい時間はあっという間だ。
西本願寺の門をくぐり、門番から新年の挨拶を告げられる。晴れ晴れしい新しい年の幕開けのはずだが、年末の帝の崩御や幕府の情勢を鑑みるとそう楽観的にはなれず、現実に引き戻されるようで少しぐったりしてしまう。
「あけましておめでとうございます」
すると意外な人物から声を掛けられた。
「おめでとう……まさか待っていたのか?宴は今夜だろう?」
門番の次に挨拶したのが斉藤一だった。腕を組んでいたのを解いてこちらにやってくる姿は、偶然通りかかったというよりも永倉の帰りを待っていたようにみえる。
「そろそろ永倉さんが戻る頃合いかと」
「待ち伏せじゃないか。左之助ならともかく君が…?」
「宴の約束を反故にされたら困ります」
斉藤の言葉に少しドキリとした。正直に言えば、宴の約束などしなければ小常の元でもう少しゆっくりできたのに、と心の中で何度も後悔したのだ。
「…反故になんかしないさ。君の誘いなんて物珍しくて、今後も無さそうだからな」
「どうでしょうか。…来てくださるなら結構です。ついでに局長たちへの正月の挨拶も共に参りましょう」
「ああ」
二人は並んで歩き出す。
巡察では何度も隣を歩いたことがあるが、二人きりというのは初めてのような気がした。
同じ試衛館食客という立場でありながら斉藤は少し距離を置いている。そもそも試衛館に居候したのはわずかな時間に過ぎず、互いを理解する前に分かれたため顔見知りという方が近いのだ。
けれどたった一晩でも同じ釜の飯を食った…というのは案外それだけで友誼を結ぶには十分なのかもしれない。その証拠に今や土方の右腕として信用されているのだから。
(それに…時間は関係ないな…)
いくら長くともにいたからと言って、決別するときは決別する。
山南は思い詰めて脱走した。そして藤堂もこのところずっと伊東らと行動を共にし、試衛館食客という肩書は消え去り始めている。彼らこそ何年も同じ釜の飯を食ったというのに、その味を忘れてしまったのだろうか。
(いや…そうじゃないな…)
きっとその味は覚えている。朧気ながら身体のどこかにずっとある―――だから苦しいのだ。
「どうでしたか、別宅での年越しは」
「あ?ああ…そりゃ最高だ。毎年毎年男ばかりのむさ苦しいなかで年越ししていたんだ。まるで竜宮城のようだった」
「竜宮城ですか」
「ああ。だからこうしてすぐ帰ってくる羽目になるのさ」
泡沫の夢だからこそ良い。ずっとそこに留まっていたいと思ったら最後、現に戻った時にすっかり刀は錆びてしまう。
「なるほど」
斉藤は淡々と返事をした。相変わらずそう思ってはいなさそうな返事だった。

二人で正月の挨拶を済ませた。局長、副長、参謀を目の前にした正月の恒例行事だったはずだが、今年は少し様子が違った。
「…何なんだよ、あれはよぉ…」
永倉はただでさえ憂鬱な気持ちで屯所に戻ってきたというのに、挨拶が終わると一層身体がずっしりと重くなってしまったのではないかという錯覚に陥った。
近藤勇はいつも通りだった。大きな口で笑って「あけましておめでとう」と互いに頭を下げて「今年も頼むよ」と言った。そして隣にいた伊東もまた「良い年越しでしたか?」と小常と過ごした時間を喜び、労わってくれた。
問題はもう一人だ。
「まるでこの世の不幸を全部背負ったみたいなただならぬ様子だったじゃねえか。挨拶以外はちっとも笑いもしない、むしろ怒ってるような不機嫌な顔で…晴れ晴れしいはずの正月が一気に喪中の気持ちだ」
永倉が愚痴をこぼすと、珍しく斉藤も「同意します」と頷いたので続けた。
「毎年正月は総司と一緒に別宅にいるはずだろう?喧嘩したにしてもあそこまで不機嫌を丸出しにされるとな…。いったいどんな大喧嘩をしたって言うんだ。あれじゃ平隊士たちはビビッて逃げ出しちまう。まあ、逃げたら切腹だけどな。…まったく…総司にはさっさと機嫌を取ってもらうように急かさなきゃならねぇ」
「副長の機嫌一つで隊の雰囲気が変わる…暗澹たる思いです」
無口な斉藤は近藤らの挨拶に「はい」「はい」と返すだけだったが、それでも土方の様子には思うところがあるようだ。ただしそれを口に出してしまうのは彼らしくない。
「…珍しいな。そういうことは言わないのだと思っていた」
「そう努めていますが…俺も人間ですから、吐き出すときは吐き出します」
「ふうん。…だから最近は伊東参謀の講座なんかに通ってるってことか?」
「そういう側面もあります」
永倉なりに引っ掛ける質問をしたつもりがあっさりと認められてしまう。総司と同じように剣術一筋だった斉藤が足しげく伊東の元で勉強をしているのを怪しむ話は聞いたことがあるが、実際その通りなのだろうか。
「ま…あの人の態度には俺の昔から思うところがあるからな。右腕のお前にはもっと思うところがあるだろう」
数年前、池田屋あとの近藤や土方の態度を見かねて会津藩へ窮状を訴える建白書を提出した。どうにか会津候の取りなしを得て和解したが、わだかまりが残っていないわけではない。
(そういえば建白書の一件は、斉藤も参加したんだったな…)
そう思うといつかは局長たちと反目し、伊東と行動を共にするのも道理が通っている。いつか彼も藤堂のように離れていくのだろうか。
「…よし、今日の宴会は浴びるように飲むぞ。この鬱憤を晴らさなきゃやってらんねえからな」
初めは気が進まなかった宴会も、今は悪くないと思える。
永倉は斉藤の肩を強引に寄せ「それで、今日はどこで宴会なんだ?」と尋ねた。斉藤は
「島原です」
と相変わらず淡々と答えたのだった。









604


正月の島原はいつも以上にひっそりとしていた。
毎年正月は営業をしていないというのももちろんだが、昨年末に亡くなった天皇崩御の大喪のため松飾りや餅などの新年の祝いや鳴り物は禁止となり、静かな正月を過ごしている。
「こんな時だっていうのに、店を開けてくれるのか?」
人通りのない花街への道。斉藤とともに島原に向かいながら永倉が尋ねる。
「ええ…懇意にしている角屋ですから、問題ありません。誰にも話してませんよね?」
「ああ、もちろんだ」
前もって斉藤から誰にも話さないようにと釘を差されていた。隊でも喪に服すように言われているなかで酒を飲む罪悪感はあるが、年明け早々のストレスは酒を飲まなければやってられない。
(要は静かに飲めばいいんだろう)
酒豪の原田もいないことだし、騒がしくはならないはずだ。多少の後ろ指は差されるかもしれないがそれくらい構わないだろう。今の永倉はそんな投げやりな気分だった。
角屋に到着すると女中が案内してくれた。二階の奥の座敷…少し狭いが通りからは遠く目立たない部屋に通されるとそこには意外な光景が広がっていた。
「やあ、来てくれたね!」
既に宴会が始まっており、中心には伊東がいた。ずらりと内海、服部、加納ら馴染みの『伊東の門下生』たちが並び、伊東を慕う隊士など二十名ほどが集まっていたのだ。当然、芸妓たちも何人も呼ばれていて酌を始めていて、永倉が考えていた『静かに飲む』とはかけ離れた光景が広がっていた。
「お…おぉ」
(これは参謀の宴会だ…)
あまりの場違いな面子に永倉は後ずさりするが、斉藤に背中を押され伊東が拍手を叩いて歓迎するので後には引けなくなってしまった。
永倉は促されるがままに斉藤とともに伊東の傍に膝を折った。
「さ、参謀…これは…」
「いや、申し訳ない。局長や副長の前では『静かな正月を』なんて口にしたが、宴を催したのは私なのだ。彼らに罪はない、どうか大目に見てほしい」
「は、はぁ…宴にのこのこと来た自分も同罪ですが…しかし、自分は場違いなようですが?」
「そんなことはない。そうだろう、皆」
伊東の問いかけにその場にいた者たちがうんうん、と一様に頷いた。もちろん鵜呑みにする永倉ではなく、(信奉者ならそう言わざるを得ないじゃないか)と思ったが、取り立てて綺麗な芸妓に「どうぞぉ」と酒を勧められると断るわけにはいかなかった。
「さあ、乾杯だ!」
伊東の音頭で皆が一気に酒を煽る。すでに顔を真っ赤にして酔いつぶれ始めている者もいるようで、これは騒ぎになる気配がする。
(早々に退散すべきだな…)
永倉はそう思いながらちらりと斉藤へ視線をやった。彼は涼しい顔で芸妓たちの色香を交わし酒を飲んでいる。彼はきっと伊東に頼まれて永倉を宴に誘っただけなのだろうが、こんなつもりではなかったと文句を言いたくなるほど淡々としていたので、何を言っても無駄なのだろう。
すると伊東が酒を差し出した。
「永倉君、来てくれてありがとう。自分を律することに長けている君だからてっきり来てくれないかと思っていたよ」
「はあ…まあ斉藤に誘われるなんて珍しいですし、今日は酒が飲みたい気分だったもので」
「ハハ、もしかして土方副長のことかい?今日はいつにもまして機嫌が悪い様子だったね。何かあったのかなんて聞けるはずもないが、あの雰囲気ではこの一年の先行きが怪しいよ」
「まったく、その通りです」
今の心情を擽るような慰めの言葉に永倉は深く頷いた。常套手段なのかもしれないが、幾分か緊張が和らいだ。
すると伊東の腹心の部下と噂の内海次郎がこちらにやってくる。
「永倉先生、宜しければ池田屋の件についてお話しいただけませんか。あの時、先生は藤堂先生とともに先陣を切られ見事に死地を切り抜けられたとか。ぜひお聞きしたいと話していたところなのです」
「お聞かせ願いたい!」
「浅い怪我しか負われなかったとか!」
「ぜひ!」
「うちも聞きたいわぁ」
あちこちで隊士たちや芸妓から「ぜひ!」との声が上がりあっという間に永倉は宴会の中心となってしまう。そして伊東が
「ああ、ぜひ私も聞いてみたいな」
と口添えしたことで永倉は「構わないが…」と答えるしかなくなる。永倉にとって名前も所属もあやふやな隊士たちに囲まれて、かつての武勇伝を語るのは悪くない気分だが、その時にふと気が付いた。
(平助はいないのか…)
この宴会には藤堂の姿がない。池田屋の話なら同時に突入した彼から聞けば良いものを、彼は話さなかったのだろうか――。
そんな疑問を覚えつつ、池田屋のことを話す。
祇園祭の宵山、汗だくであちこちを探し回り池田屋に突入し数名の浪士たちを捕縛したこと、二階から一階に移動し何度も死にかかったこと、利き手に怪我を負いもうだめかというところで土方や斉藤達が駆けつけたこと。隣にいる斉藤はその場にいたはずなのに素知らぬ顔で酒を飲み続けているが、すでにその頃にはそんなことが気にならないほど酒が入り始めていた。
伊東が拍手する。
「素晴らしい、素晴らしい!怪我を負った藤堂君や昏倒した沖田君の話はよく耳にするが、永倉君がいなければ全滅していたに違いない。新撰組が存続できたのは君のおかげなのだろうな」
「ほめ過ぎです。それにあの時は無傷の近藤先生がいたのだから、俺なんて…」
「何を言う。もちろん局長の幸運は他人を上回るのだろうが、君の活躍には目を見張るものがある。むしろ局長が怪我を負うことなく終えられたのは君のおかげだろう!」
「は…はぁ、そうですかね」
ほめ過ぎだろうと思うが、周囲の隊士たちも同調し賛同するものだから永倉も素直に受け取るしかない。そして酒が入ると気持ち良くなってきて、思考が鈍化していた。
その後は池田屋の後の禁門の変の話で持ちきりとなる。
池田屋を契機にして上京した長州が禁裏に向けて大筒を放ったことは許されないだとか、あの時の薩摩の立ち回りには疑問があるだとか宴のあちこちで議論が起こっていた。そのどれもが白熱した様子となり、時々喧嘩のように盛り上がっては伊東や内海が仲裁を買って出る。
その様子を眺めながら永倉は肴を口にした。
(新撰組は変わったな…)
あの頃は手柄を上げたことに舞い上がり、長州が乗り込んで戦を仕掛けるという話を聞けば「受けて立ってやる」などと原田が息巻いた。怪我をしていた永倉と藤堂は屯所に残ったが、それでも細かいことを考えることはなくただ目の前の戦に勝たなければならないと必死だった。
どちらが正しいだとか間違っているだとか、許すとか許されないだとか―――そんなことを考えたことはない。
(それは愚かなのか…?)
「なあ、おい」
永倉は猪口を手に隣の斉藤に話しかける。そこに置いてある置物のように無口な男はチビチビと酒を飲んでいるだけだった。
「何か考えがあるのか?」
「…考え?」
「とぼけるなよ。俺をこんなところに連れてきて、何を企んでる?」
二人の会話は宴の騒がしさにかき消されている。伊東は隊士たちの間に入って酒を酌み交わしている…聞き耳を立てる者はいない。
しかし
「何も。…思うままに楽しんでくれ」
「…そうかよ」
(だったら付き合ってやろうじゃないか)
永倉は酒を飲み干し、近くにいた芸妓に酌をさせた。
やがて門限の時間となるころには、隊士たちはべろべろに酔っぱらっていたが、門限を破ると処罰があるため皆ぞろぞろと帰り始めた。酒を飲んだはずだが素面に見える内海が立ち上がれないほど飲んだ隊士たちを担ぎ出しながら、背中を押して退店させていく。
「では、伊東先生」
「うん、宜しく頼むよ」
内海は軽く頭を下げて去っていく。部屋に残ったのは伊東と永倉、斉藤だけだった。
永倉も最後の酒を飲み干すと「我々も戻りますか」と膝を立てた。組長以上にももちろん門限があり、破ると隊士以上の処罰が与えられる。しかし
「何をおっしゃる。話はまだ途中ではないか」
伊東が引き留めた。
「途中?いや…禁門の変あたりで終わりですよ、俺の武勇伝なんて」
「謙遜を。是非とも建白書の件をお伺いしたい」
伊東はにやりと笑って誘ったが、永倉は戸惑った。
「いやぁ…あれは武勇伝なんてことではありません。結局はとん挫したし、皆を巻き込んだ」
「しかし局長たちに歯向かって生き残っている。これは稀有なことだ」
「大袈裟ですよ。それに話すと長くなる…門限は」
「私は新撰組の参謀だ。文句など言わせないさ」
永倉はこのような強引で挑発的な誘いを口にする伊東を初めて見た。おそらく屯所では絶対に口にはしない自信と過信…酒が彼を狂わせているのか、もともと秘められていた部分なのか永倉には判断がつかない。
ひとまずは座に戻り
「しかし、門限を破れば処罰があります。それに本来は喪に服すべきところをこうして宴を催して…」
「うん、我らに非はある。…だが、私は試してみたい」
「試す?」
「参謀、組長が二人…この状況をどう局長と副長は糾弾するのか、試してみたいのさ」
永倉は伊東という人物とまるで初めて相対しているような気がした。色白の肌に切れ者を感じさせる鋭いまなざしに高い鼻梁、狡猾に動く唇…そのどれもが浮いている。新撰組という存在から、彼だけが浮いているのだということを改めて感じさせる。それは寄せ付けないとも言えた。
異質なものを受け入れがたい…その一方で近づいたなら一気に吸い寄せられる。
「…つまり、副長が俺たちを切腹にさせるかどうか、ですか…」
「『副長が』というあたりが君の聡いところだ」
フッと笑う伊東を見て、永倉はほとんど無意識に同じように笑っていた。
「は…ハハ。ハハハ、おかしいな、俺は酔っている。それが面白そうだと思えるあたり、本当に酔っぱらっているようだ」
永倉は足を崩し、胡坐をかいた。
普段の永倉ならこのような判断は決してしなかっただろう。昔から生真面目で慎重な性格だ。しかし今そうしなかったのは土方の態度に未だに引っ掛かりを覚えていたのと、単に羽目を外したというだけだ。
永倉は岩のように黙ったままの斉藤に視線をやった。
「斉藤はどうする?付き合うか?屯所に戻るか?怖気づいたなどと責めるつもりはないぞ」
「…もちろん、残る」
短く、強く答えた斉藤は近くにいた芸妓に「酒を」と追加を頼んだ。彼女は少し呆気にとられた顔をしていたが「へえすぐに」と答えて出て行った。
「いやぁ、楽しい。楽しいよ!」
伊東は手を叩いて喜び、「飲もう飲もう」とさらに酌をした。
夜は更けていく。








605


「ご挨拶が遅くなりました。申し訳ありません、近藤先生」
朔日の日が落ちた頃、屯所に戻った総司はまず近藤のもとを訪ねた。新年の挨拶が遅れたことを詫びたが、近藤は「それよりも」と首を傾げた。
「歳が人を寄せ付けないほど不機嫌で驚いたぞ。隊士たちもあまりに不穏な様子に怖がってしまった。喧嘩でもしたのか?」
と、早速尋ねられてしまった。
「…喧嘩、というわけではありませんが…少し揉めています」
「揉める?何をだ?」
「いえ、先生にはご迷惑をおかけしません。隊士たちには申し訳ないですが…大丈夫ですから」
まさか別れ話を持ちかけた、など正月朔から言えるわけがなく、総司は答えを濁した。土方の性格では幼馴染の間柄である近藤にすら今回の件は相談はしないだろうから、心配をかけるだろうが。
「歳の不機嫌はお前のせいではないが…。まあ、いい。長く付き合えばそういうこともあるだろう。できるだけ早く解決してくれよ」
「はい。申し訳ありません」
総司はなんだか申し訳なくて深々と頭を下げた。近藤は「何を他人行儀な」と苦笑していたが、それ以上は尋ねなかった。
「今年もよろしく頼む」
「はい」
総司は挨拶を済ませると部屋を出て、一番隊の隊士の元へ向かった。天皇崩御により喪に服した正月を過ごす彼らは、真面目なことに誰一人浮かれることなく、書物を読んだり、囲碁や将棋に興じたり…と静かに過ごしていた。
「先生、お帰りが遅かったですね。別宅の方でゆっくり過ごされたのですか?」
山野が声をかけてきた。河上の襲撃によって負った怪我も随分良くなったようで後援ではあるが、任務に復帰していた。
「ええ…まあ、そんなところです」
「そうですか。良かった、まさか先生も参謀たちの宴に参加されたのかと…」
「宴?いったい何の話ですか?」
心当たりのない総司が尋ねると、山野は周囲を見渡して少々警戒しながら「こちらへ」と人気のない場所へと案内した。
そして声を潜めた。
「実は…伊東参謀の門下たち数名が島原の方で宴を催したそうなのです。門限ギリギリに酩酊して帰営した者もいて…この時勢ですから少し問題に」
「ああ…土方さんが謹慎でも言い渡しかねない失態ですね」
「はい。副長があのように機嫌を損ねるのも当然かと」
土方が不機嫌なのは総司が理由なのだが、隊士たちが時系列を把握できるわけがなく、そういうことになっているらしい。
総司は何となく居心地が悪く「それで?」と先を促した。
「ですが問題はそれだけでなく…宴を開いたのが伊東参謀ご自身だったそうなのです」
「参謀が?」
「そして、参謀は未だお戻りでなく…宴に加わった永倉組長と斉藤組長もご一緒に」
「え?」
意外な二人の名前に総司は驚きを隠せなかった。
「それは本当ですか?斉藤さんと永倉さんが?」
「僕も信じられないのです…最近、参謀と距離を縮められていた斉藤先生はともかく、永倉先生はそのような素振りがなく…皆んな驚いています」
永倉は真面目な性格で、反骨精神は持ちながらも規律を乱すことはなく、酔い潰れて門限を破ったことなど一度もない。加えてまともな会話すらしたことのない伊東の宴に参加しているのも不釣り合いな感じだ。
(だとすれば、斉藤さんになにか考えがあるのだろうけれど…)
総司は察するが、隊士たちはそうではない。
「永倉先生は昔、建白書を会津に出されたこともあります。斉藤先生も以前それに加わっていて…今回もなにか事を構える布石なのではないかともっぱらの噂です」
「まさか…例えそうだとしても永倉さんらしくない行動ですよ」
「しかし、組長格が門限を破れば隊士以上の処罰があります。それを犯してまで…想像ができません!」
「全くその通りだよなぁ」
驚く総司と興奮して熱が入る山野の会話に参加したのは、ふらりとやってきた原田だった。
「新八の野郎、なんか企んでるなら俺も誘ってくれれば良いのにな。正月、酒が飲みたいのは皆んな同じだってのに、抜け駆けだよなぁ」
「原田さん…そう暢気な話ではなさそうですよ」
山野とは正反対に原田に深刻な雰囲気はない。それどころかせせら笑って腕を組んだ。
「大丈夫だって。どうせ酒が入って楽しくなっちまってるんだ。門限が過ぎてるとなりゃ帰りづらくなる」
「はぁ、そういうものですか?」
「小常とのんびり過ごすなんて惚気てた新八が、謀反を起こすなんてありえねえよ。考えすぎだ」
永倉とは友誼を結ぶ原田が断言すると、総司もどこか安堵した。
「たしかに、永倉さんが何かを起こすなら原田さんを誘うはずですからね。…山野くん、不用意な噂が広まらないように皆を諭してください」
「…わかりました」
山野は未だに懐疑的だったが、
「酒は羨ましいが、伊東参謀との飲みだなんて俺は勘弁して欲しいけどな」
と本音を漏らす原田には、思わず吹き出して笑ってしまったのだった。


一方。
「内海さん、これはどういうことです」
酩酊して帰営した隊士たちを介抱しながら、鈴木ははっきりと尋ねた。宴に誘われなかったどころが、その話すら耳に入っていなかったのだ。
しかし内海は聞き流しながら
「少し飲ませすぎましたね」
と素知らぬふりで酔潰れる若い隊士に水を飲ませた。彼自身も飲んできたそうだが、その様子は全くわからない。
鈴木はさらに問い詰めた。
「内海さん。宴のような祝い事は自粛しているはずです。それなのになぜこのような…俺に一言もなく」
「なにも君だけを誘わなかったわけではない。藤堂先生や他にも数名は宴には参加しなかった」
「でしたらこれはただの遊興でしかないと?なぜ兄上は戻らないのです?」
鈴木が語気を強めると、近くにいた藤堂が「お静かに」と諭した。誰が聞き耳を立てているかわからない状況だ。
藤堂は声を落としながら続けた。
「宴の件は俺も寝耳に水です。ですが、伊東先生には何かお考えがあるはずです。意味もなく危ない橋を渡るはずはない」
「その通りです」
二人から説得され、鈴木は黙るしかない。しかし事情を知らないらしい藤堂もまたどこか不安そうな顔を隠すので精一杯のように見えた。鈴木を諭した言葉は自分に言い聞かせるようでもある。
「…では、俺は夜番なので失礼します」
藤堂が去り、鈴木は再び内海に向き合う。
「兄上は尊皇のお考えが強い。その兄上が天子様崩御のこの時に浮かれ、宴を開くなど信じられない。それに…斉藤組長だけでなく、永倉組長とともに未だに帰営せぬとは…兄上らしくない行動です」
「お考えがあるのですよ。…大蔵さんは決心をされたのです」
「決心…?」
「これ以上はご本人から聞いてください」
「…」
兄弟であるとはいえ、疎まれ遠ざけられている自分に何を話してくれるというのか。
そしてそれを内海も知っているはずだ。
(遠回しな嫌味なのか…)
内心、チッと舌を打つ鈴木には
「危険な賭けゆえに君を巻き込みたくなかったのでしょう」
という内海の励ましなど耳には入らなかった。
泥酔した隊士たちの介抱を放棄して苛立ちながら部屋を出る。
冬の澄み切った冷たい空気の中、燦々と月が煌めいている。しんと静まった夜のどこにも兄の姿はない。
いつも兄は自分を遠ざける。
過去の行き違いや思い違いがそうさせるのか、異母兄弟ゆえの距離感なのかーーー真実を知っているのは兄だけだ。
(兄上はどんどん遠くへいく…)
焦燥感だけが募る。







606


淡い陽の光で目が覚めた。
「…」
暫くはここがどこで、今が何時で、いったいどういう状況なのか…自分でも把握できないことが多く混乱したが、一つ一つを思い出し次第に冴えてくると、一瞬背筋が凍った。
(門限を破ったどころか…今朝は二番隊が巡察だったはずだ…)
永倉は身を翻して周りを見渡す。宴席の名残はいまだに残りその光景はすでに昼と思える日差しに照らされている。時すでに遅しとはこのことで、きっと巡察も終わっているはずだ。
「やっちまったか…」
永倉は頭を乱暴に掻いた。現状を把握すると久々の二日酔いが一気に押し寄せたがそのせいか深刻さは削がれ、うまく思考がまとまらない。門限を破れば切腹だったはずだが、それがリアルに考えられない。
(今から急いで帰って…いや、どんな言い訳をすれば良いんだ??)
「やあやあ、おはよう!目が覚めたかい?」
そうしていると席を外していた伊東が戻ってきた。手元には湯気が立つ湯呑が三つ盆に乗せられていた。
永倉がもう一度周囲に目をやると、部屋の隅で腕を組んだまま眠る斉藤の姿があった。どうやら誰一人逃げ出すことなくこの朝を迎えたらしい。
「参謀…」
「とりあえず白湯を飲みたまえ。実に清々しい朝だ」
「はあ…」
場違いとも思える参謀の明るさに圧され、永倉は素直に湯呑を受け取った。人肌ほどのそれを両手に抱えゆっくりと口を付けると確かに慌てふためいていた気持ちも穏やかに静まっていく。加えて伊東がこの場に残っていたことが少しだけ永倉を安心させた。
「斉藤君はまだ寝ているのか。仕方ない、彼は朝方まで話に付き合ってくれた」
「俺は…そうだ、途中で寝てしまったのか。申し訳ないことをしました」
「構わないよ。水戸にいた時の話が長くなってしまった…尊王だ、攘夷なのだと思わず、ね。はは、興奮して眠れない夜など久しぶりだ」
伊東は一刻ほど仮眠を取っただけで、誰よりも早く目覚めてしまったのだという。若き青年のような無邪気さを目の前に永倉はその距離が縮まったのを感じた。その証拠に最初に抱いていた伊東に対する警戒心はすっかり薄れていた。
「俺も楽しい夜でした。参謀のお考えは…その、俺には難しいのだと倦厭していたのを反省します。わかりやすく飲み込みやすく…平助や隊士たちが参謀の元に集うのも頷けます」
「ありがとう。しかし君も、自分の考えをしっかり持っている。建白書の件はとても有意義な話だった」
「…恐れ入ります。ですが、いまいち自分が何を語ったのか覚えていないのですが」
「正直なお人だ」
酒が入り過ぎて記憶があやふやだ。伊東は微笑を浮かべていた。
「池田屋の報奨金や局長の尊大な態度を巡り、山南総長の意見を参考に原田君、斉藤君、そして葛山君だったかな…彼らとともに会津へ建白したこと。それに島田君も加えて本陣に乗り込んだが、近藤局長の仲裁で和解したこと。しかし…一人、脱走して死んだ、と」
「…ああ…」
永倉は(そこまで喋ったのか)と少し自分にため息をついた。
建白書の件を積極的に語りたくない理由として、葛山の件があったのだ。彼は永倉の意見に賛同し協力してくれたが、その後怖気づき脱走を図り…粛清された。法度により脱走が切腹であるのは事の前後で変わりないことだが、この件がなければ彼は脱走などしなかっただろう。彼にどんな心境の変化があったのか、原田はそれを「弱い奴だ」と断じたが、永倉はそうは思えなかった。
「表向きでは池田屋の報奨金や局長への不満だ…と語りますが、一番は土方さんへの喧嘩を売っただけです。山南さんを閑職へ追いやり、局長を盾に隊内を支配している…意気揚々と自分が正しいのだと信じて疑わなかった。だから少し後悔しているのです。自分の意見を貫くために葛山を巻き込んでしまったことを。誰かが死ぬとわかっていたら、あんな真似はしなかった」
「それは仕方のないことだ。誰にも未来はわからない」
「…まあ、それはそうなんですけどね…」
そんな正論は自分でも何度も言い聞かせたが、やりきれない気持ちは残る。だからこそ武勇伝なんてものではない。ただ自分勝手にかき乱しただけなのだ…永倉が項垂れると
「それは間違っている」
と遠くから声が聞こえた。いつの間にか斉藤が目を覚ましていたらしい。
「間違っているって…何だよ」
斉藤はゆっくりと立ち上がり二人の元へやってきた。
「葛山は思い悩んで脱走を図ったわけではない。…土方副長の手にかかった」
「な…っなに?」
斉藤からの思わぬ告白に、永倉の声が上擦った。伊東も目を見張って「どういうことだい?」と尋ねた。
「建白書の件は会津候と近藤局長の取りなしでおかげで事なきを得たが、しかしそのようなことがほかの隊士の間で起こる可能性もあった。だから見せしめで、葛山が死んだ」
「見せしめって…葛山は脱走したはずだ!」
「だから、脱走を『させた』。葛山は島田の署名を偽装し、無理矢理判を押させた…土方副長はその件で『このままで済むと思うな』と釘を差し…恐怖に震えた葛山は、案の定脱走した」
「それは本当か?!」
永倉が詰め寄ると、斉藤は頷いた。
「嘘をついても仕方ないだろう」
淡々とした答えに、永倉は全身の力が抜けるような気持ちになった。心のどこかで棘のように刺さっていた後悔が、あの時の熱を思い出すかのように膿み始める。
伊東は胸の前で腕を組み深く頷いた。
「…確かに、土方君の考えそうなことだ。誰かが責任を取らなければ丸く収まらなかったのだろう」
彼は理解を示しながらも「惨いことだ」と首を横に振って、続けた。
「我々が知らないだけで土方君は色々なところで暗躍していたのだろう。…永倉君、君が責任を感じることはない。君の行動に関係なく、葛山君は脱走したのだ」
伊東は打ちひしがれる永倉の背中を摩る。だが、永倉は被害者になるつもりはなかった。
「それでも…変わりません。俺が無茶をしなければ山南さんを困らせず、葛山は死ななかった。斉藤の言う通り見せしめとして死んだのかもしれないが…俺は土方さんを責める気持ちにはなれないな…」
有耶無耶にして会津や局長の一言で終わり、にはできなかった。それほど大事になっていたのだ。
永倉は立ち上がり、「厠へ行ってきます」と部屋を出た。重たい十字架を背負わされたような後ろ姿を伊東と斉藤は見送った。
暫くの沈黙の後、伊東はフッと息を吐き懐から扇子を取り出した。
「…彼は混乱しているようだ。しかし数年間自分のせいだと思っていたことが、実は土方君の策略なのだとわかったのだから、自分を許しその怒りを彼にぶつければ良いものを…誠に生真面目なことだな」
「永倉組長はそういう人ですから」
斉藤は冷めきった白湯を一気に飲み干した。眉から口元…表情一つ変えない斉藤を伊東はまじまじと見ていた。
「…一つ、無粋なことを聞いても?」
「どうぞ」
「そもそも建白書の件はどうも違和感がある。何故、君が加わったのか。…君は確かに池田屋では土方君の元で働き報奨金については異論があったのかもしれないが、君はもともと幕府と会津の間者として新撰組に加わったのだろう?報奨金の取り分など気に掛けなかったはずだし土方君の振る舞いに異議があったわけでもないはずだ。それなのになぜ賛同したのか?」
ほぼ徹夜だというのに伊東の洞察力は休むことなく優れている。むしろ血走った眼にはいつも以上の生気が漲っていた。
斉藤は白湯を飲み干した湯呑を指先で弄ぶ。どう答えたら良いものか思案しているように。
「…伊東先生のお考えの通りです」
「建白書に加わること自体、もともと土方君の指示だったと?」
「少し違います。建白書の件は新撰組だけではなく会津を巻き込んでいたため、俺はそれに関わる必要があった。手を尽くし落着させるために動く…そのために加わりました。そして決着したあとは誰かに責任を負わせなければならなかったのです。それが組長では大事になる、巻き込まれただけの島田では不憫、そして結果的に葛山になった。…永倉さんには黙っていてください」
「…勿論だ」
斉藤はあっさりと認めた。きっとその事実は今まで土方と斉藤の間にのみ取り交わされていた秘密のはずだ。彼が負う咎。
(打ち明ける必要などなかった)
真実を話したところで、永倉の性格を知っていれば意味がない告白だ。永倉は土方を悪者にはせず、この秘密を墓まで抱えて生きるだろう。簡単に人に与するような性格ではない…それを理解したうえで、それでも打ち明けた。
そしてこの一件は、彼が伊東に近づく動機でもあったはずだ。それを今更翻し、真実を吐露するなんて。
(彼は本当に…新撰組を見切ったのか?)
万が一、伊東や永倉が公表に踏み切れば斉藤は立場を追われ、土方に断罪されてもおかしくはない。そんな危険な賭けを彼がするだろうか。
伊東は不謹慎な口元の笑みを扇で隠した。
「…実に面白い宴だ」
その呟きが斉藤は聞こえたはずだが、彼はやはり淡々として何の反応も示せなかった。
そうしていると昼餉とともに酒が運ばれてきた。
「ああ、頼んでいたアヒルだ。私の好物でね」
「頂きます」
宴はまだ続く。








607


正月二日は雪が降った。いつもは凍てつくような水を含んだ雪が地面をべちゃべちゃと濡らすようなものだったが、今日は大粒の雪がふわりふわりと舞っている。それらは京の優雅な瓦屋根の上を白く染め、子供たちが道の端に薄く積もったそれで小さな雪だるまを作り始めていた。そんな穏やかな光景を眺めながら総司が二日の巡察から戻ると、未だに伊東、永倉、斉藤は帰営していないとのことだった。不在の永倉に代わり二番隊を率いた巡察で隊士たちは一様に不安な顔をしていたが、その知らせを聞くとさらに顔を曇らせた。あの真面目な永倉が巡察の当番さえすっぽかすとは。
「永倉組長は何をお考えなのだろうか…」
「それよりも処罰だ。まさか切腹なんてならないよな」
「伊東参謀がご一緒なのだからさすがにないだろう!」
「何かの間違いに決まっている!」
隊士たちが互いの意見をぶつけ合う。疑問を持つ者、反感を持つ者、今後を恐れる者…彼らの苦悶の表情を見ると昨日までの楽観的な考えだった総司さえも少なからず心が揺れる。本来であれば噂話を窘めるところだが「推測はほどほどに」と言うに留めて場を離れた。
見渡すと、屯所のあちこちで隊士たちが話し込んでいる。深刻になっている二番隊、三番隊の隊士たちだけでなく伊東に心酔する者も落ち着かない様子だ。
すると遠巻きにこちらを見ていた原田がいた。
「まったく、新八の野郎…本気でかえって来ねぇつもりかよ…」
腕を組み気だるげに柱を背にした彼はブツブツ文句を言っていた。彼のその視線は屯所の門に向いていて、いつ戻ってくるのかと今か今かと待ち受けているように見えた。
「これは大事になりそうですね。土方さんは迎えの使者を送ったりしないのでしょうか」
「さあな。どうも、土方さんよりも忠誠心に厚い近藤先生の方がお怒りらしいぜ。誰よりも天子様が崩御された正月は厳かに過ごすべきだと言っていたからな…いつも以上に厳しい処分があるかもしれねぇぞ」
「…切腹、ですか…まさか」
「想像できねえな。だが、こんな簡単なこと参謀ならわかっているはずだろう?だから何かを企んでいるに違いねぇ。それにしても…隠し事なんて水臭ぇよなぁ…」
原田は「チッ」と舌打ちして「厠に行ってくる」と腹立たしそうに背を向けた。彼は伊東の行動を不審に思っているのではなく、そしてこの状況に怒っているのではなく、無二の友である永倉に事情を明かしてもらえなかったことにショックを受けているのだろう。言いぐさが仲間外れにされた子どものようだった。
総司はもう一度門の向こうへと視線をやった。そこには当番の門番が立っているだけで、三人が戻ってきそうな気配すらない。けれど原田がいつまでもここで彼らを待っていたい気持ちはわかる気がした。
(裏切られたくない…)
もう仲間を失うのは嫌だ―――その気持ちが心の中にずっとあるのだ。
「総司」
突然、声を掛けられて驚きのあまりびくっと肩が揺れた。ここにいるはずがないと思っていたから余計心構えができていなかった。
「…土方さん…」
「巡察が終わったのなら、さっさと報告に来い」
土方は言いたいことだけを言って、部屋へ戻っていく。
今まで巡察の報告が多少遅れたところで急かされたことなど一度もない。それどころか土方がわざわざ出向いて呼びつけるなんてことすら滅多にないのだ。
雰囲気がピリピリしている。それを隊士たちは伊東らが帰営しないせいだと思うだろう。
(怒らせているのは僕だ…)
総司はゆっくりと息を吸い、呼吸を整えた。
(万が一、土方さんの前で咳き込んだら意味がない…)
幸いにも呼吸は乱れておらず身体に不調はない。総司は意を決して土方の待つ部屋へと向かった。
障子をゆっくりと開く。いつもより重く感じたが、きっと気のせいだろう。
「…失礼します」
いつもはもっと無遠慮に出入りする部屋が、まるで牢獄のように暗く陰気な雰囲気に感じた。総司の気持ちの問題であるし、その部屋の主がいつも以上に立腹しているからだろう。
先に戻った土方は、肘掛に身体を預けて何も答えない。総司は彼の前に膝を折り「特に問題はありませんでした」と報告した。二番隊の隊士たちは複雑だろうが自分たちの気持ちに折り合いをつけて巡察に臨んでいたので、滞りはなかった。
すると土方が
「障子を閉めろ」
と指さした。開けっ放しだったのが寒い…というわけではないだろう。これから人に聞かれたくない話をするのだ。総司は言われるがままに閉めた。
(近藤先生は不在か…)
この部屋の周りには人の気配がない。いつも以上に機嫌の悪い鬼の住処に近寄る者などいないので、話をするにはうってつけだ。
総司は一息ついた。
「…土方さん、永倉さんたちの件ですが…」
「その話は良い。お前には関係ない」
「関係なくありません。居続けなんて…斉藤さんはともかく、真面目な永倉さんのことですからきっと何かの誤解や行き違いに違いありません。誰か迎えの使者を遣って様子を…」
「お前には関係ないと言っているだろう」
土方が語気を強め、総司を睨みつけた。ここ数年、向けられたことのない獰猛で苛立った眼差しだった。
しかし怯えるわけにはいかない。
「…だったら、これ以上のお話はありません。もう宜しいですか?」
「俺を納得させてから出ていけ」
「…」
「言っておくが、お前に好いた女子がいるなどとそんな作り話は信じない。本当のことを言え」
一昨日のやり取りの続きのように、土方は問い詰めた。短い時間のなかで彼は彼なりに何かを考えたはずだが、それでも総司の申し出を『真実』だとは認めようとしなかった。
(当然だ…『嘘』なのだから…)
「…好いた女子がいると言うのは本当のことです」
「誰だ、言ってみろ」
「言いません。その娘に迷惑が掛かります。…それに、それが誰であれば納得してもらえるのですか?偽りでなければ良いのですか?」
「…本当か、嘘か、それを確かめてからだ」
総司が何を言っても、自分の勘を信じる。土方は頑なにそう決めているようだった。
(その勘は正しい)
誰よりも総司のことを知っているからこそ、土方は真理をついている。だから総司は土方よりもいっそう頑なに、嘘を貫き通すしかない。
「自分勝手な人ですね」
「…何だと?」
「ちゃんと私の言った言葉に向き合ってください。好いた人ができた、別れたいって言っているんです!」
「嘘を付くな!」
「嘘じゃない…!」
土方は苛立ち、肘掛を片手で障子へ投げつける。ガンッという激しい音が響いて、落ちた。今までいくら腹立っても物に当たる土方を見たことがない。今回のことはそれくらい彼を憤らせている。総司は怖気づかずにただ焚き付けた。
「…まるで、駄々を捏ねてる子供みたいだ」
「お前…!」
「じゃあ、こうすれば満足ですか?」
総司は居住まいを正し、背筋をピンと伸ばして頭を下げた。額は畳に重なって深々とした土下座となる。
「…どうかお願いします。私と別れてください」
彼にとって、それがどれだけ屈辱的だったことだろう。
土方は立ち上がると、総司の髪を掴み頭を上げさせた。そしてその胸倉を乱暴につかみ放り投げる。無抵抗な総司はガシャンッという音とともに背中から障子にぶつかりそのまま外へと投げ出された。
身体中の痛みなど感じなかった。ただただ―――胸が苦しい。
「土方さん…」
倒れこみ見上げた土方は、唇を噛んでいた。何か言いたげで、でもそれは言葉にはならなくて。
「…お前には失望した」
「…」
「望み通りにしてやる。…しばらく顔を見せるな。報告もいらない」
土方はそう言うと総司を残して部屋を出て行った。その後ろ姿には先ほどまで燃え盛る業火のようだった怒りがすっかり無くなっている。
(あきれ果てたのかな…)
土下座という行為が彼の怒りをさらに煽るのだとわかってたから、あえて白々しく頭を下げて彼の誇りを傷つけた。もうそれ以外の方法がわからなかったのだ。
土方は去っていった。
一生許されない歪を作った自分の元から、いなくなった。
それを悲しむ資格などないことはわかっている。自分の勝手で、我儘で、そう決めたのだから。この結末を望んでいたのだから。
鼻先がつんと冷たくなった。
ハラハラと舞う大粒の雪が鼻先で溶けていった。
不意に思い出す。
こんな雪の降る日とは正反対の、むしむしとしたある夏の夜。祇園祭の宵山のなか、死を覚悟した戦を前に総司は誓った。
『――私は私を信じます。私が傍にいることで土方さんの為になれるように、頑張ります。…それから、土方さんのことも信じます』
『私は、土方さんのことが…好きです』
付かず離れずだった距離を一気に縮めた告白は、今から思うととても初々しく瑞々しいものだった。
あれからいくつの季節が通り過ぎただろう。けれどあの時の熱量と溢れてしまいそうな感情の渦はいまだに昨日のことのように覚えていた。
けれど、それもすべて過去のこと。
「…冷たいな…」
続けた睫毛の上に落ちた雪粒も頬を流れて行く。けれどそれは雪の冷たさだけではなかった。
総司は顔を伏せ、投げ出されたままの身体を抱えた。
こうなって初めてわかる。
本当はこんなことを望んでいたわけではない。
病の自分を支えてほしい。助けてほしい、見捨てないで、どうかともに在ってほしい―――そう縋りたかった。
でもそんな自分を許せそうもない。
万が一、病が彼に移ったらどうする?それが彼を殺したらいったいどれほどの後悔をするのだろうか。想像するだけで身震いがするほど恐ろしい。だからこそ、一秒でも早く彼の元から離れたいと思ったのだ。彼のためにではない。自分のために、そうしたのだ。
―――私が傍にいることで土方さんの為になれるように―――。
(これでいい…これで…)







608


厠から戻ってきた永倉は、
「飲みましょう!」
とハイテンションになってどこからか調達してきた酒を煽り始めた。建白書の真実を知り、少なからずショックを受けた反動だろう、この特殊な状況も相まって半ばヤケになっている様子だったが、
「いいね、肴をもっと頼もう」
伊東はさらに女中を呼んでツマミを頼んだ。二日目の居続けに角屋の女将らも困惑気味だったが、日頃の新撰組との付き合いと伊東の人柄のおかげか嫌な顔はしなかった。
そうしているといつのまにか陽が落ちて二日目の夜を迎える。
「いやぁ、流石に連れ戻されるかと思ったが、使者の一人も送ってこないとは。参謀、もしかしたら我々はすっかり呆れられ用済みだと捨てられたのでしょうか!」
永倉が頰を真っ赤に染めながら冗談めかして伊東に尋ねる。斉藤は黙々と酒を飲むだけでほとんど二人で会話を交わしているため、当然仲が深まり、肩でも組みそうな勢いだ。
「ハハハ、まさか。ここには新撰組の二番隊組長と、三番隊組長がいるのだよ。二人がいなければ隊は回らないさ」
「参謀こそ」
「いやいや、『参謀』の肩書きこそ立派だがこれまで私が何か策を立てたことがあったかな」
「まぁ…そういうのは、土方さんの役割ですからねぇ」
永倉は言葉を濁す。しかし伊東はあっけらかんと笑うだけだった。
「そう。私がやったことといえば、近藤局長の長州行きに同行したくらいだろうか。それさえも目立った成果を上げていないのだからどうしようもない。今回の居続けももしかしたら私が全ての責任を取って終わりになるのかもしれないな」
「…そうはさせませんよ。俺も責任を取ります」
義理堅い永倉は酔っ払っていながらも真面目に返す。伊東は片手を差し出して永倉の掌を握った。
「心強いよ、ありがとう」
「当然のことです。それに、そんなことになったら参謀を慕う隊士たちが黙っていないでしょう。下手したら隊を二分して大混乱に……」
永倉はまるで酔いが覚めてしまったかのようにハッと言葉を止めた。そして目の前にいる伊東、静かに酒を飲む斉藤をまじまじと見た。
「…まさか、それが目的ですか?」
「目的?」
「参謀が何らかの処罰を受けることになれば必ず反対する隊士たちがいる。とても全員に切腹を申しつけることのできないほどの数になるでしょう…参謀、今回のことは新撰組を裏切るための布石とか?」
永倉はゆっくりと慎重に握手していた手を離した。単なる宴への誘いかと思いきや、こんな裏があったとすれば自分はそれに加担してしまうことになる。
一気に血の気が引いた永倉とは正反対に、伊東はその切長の瞼をゆっくりと伏せ、人当たりの良い口元を緩ませながら、盃を手に取って手酌した。図星をさされたような動揺はなく、斉藤もまた余裕の態度を崩していない。
そして伊東は微笑んだ。
「…永倉君、よくよく考えてくれ。隊を裏切るなんて真似できるわけがないと、山南さんの件で皆思い知ったはずだ。あれほどの知己にあっさりと切腹を申しつけた…土方君は冷酷だよ。…水戸の天狗党のように、邪魔なものは全て切り捨てるかもしれない」
国のために蜂起し、無惨に散った尊攘派の若き志士たちーーーそれを引き合いに出す伊東の言葉は重かった。それまでの朗らかな雰囲気が一変するほど、伊東の表情が曇る。
永倉も手酌で酒を煽った。頰を紅色に染めているが頭が切れる伊東と、ちびちびと飲み続け酔っていることすら感じさせない斉藤。
(俺はもしかしたらとんでもないのを相方にして飲んでいるのかも)
ほんの少しの沈黙のあと、伊東は「すまない」と雰囲気が悪くなったことを詫びた。
そして話を続けた。
「永倉君、君の推測は表情に面白い。こんな宴一つで新撰組が分裂するような大事にはならないと思うが、もし仮にそうだとして君はどうする?ともに居続けをした私たちと行動をともにするのか、それとも隊に残るのか」
伊東は手にした猪口をぐるぐると回す。溢れるか溢れないか…その淵をなみなみと注がれた酒が回っていた。
何気ない質問だが、それが伊東が一番聞きたかった本題なのではないか。
永倉はそう思った。周りくどい言い回しも、作り込まれたこの酒の席も、全てはこの質問の答えを聞きたいがために用意されたものなのではないか。
永倉は「そうですねぇ」と言葉を紡ぎながらちらりと、斎藤の表情を伺った。それまで無関心を貫き右から左へと会話を聞き流していた彼が、こちらを見ていた。
彼が何を言いたいのかわからない。けれど求められていた答えはわかる気がした。
「…もしそういうことになれば…残念ですが、俺は隊に残るでしょう」
「それは、なぜ?」
「気に食わないことはある。意に沿わないこともある。参謀との縁も感じています。…しかし、俺は新撰組の行く末を見届けようと決めています。試衛館を出て、都へ向かってから。そして建白書の件や山南さんのことを経て余計決心が固まっています。だから、すみません」
永倉は深く頭を下げた。
正しい、正しくないの基準は永倉にとって重要ではない。そんな不確かで移ろいやすいものよりも、己の決意を鈍らせずに貫くことが大切なのだ。
(我ながら案外簡単に答えたでたな)
永倉は内心苦笑した。もっと悩むかと思っていたのに、伊東とともに行くという想像すらできなかったのだ。
「…永倉君、頭を上げてくれ。そして謝らないでくれ、これは仮の話だと言っただろう?非常に残念だが彼らとの絆が深いのだから仕方ないよ」
伊東は表面上、穏やかに和やかに受け取っていたが、その刹那に『失望』を垣間見た。
(…恐ろしい人だ)
命を危険に晒してまで、その答えが聞きたかったのか。いや、追い詰められてこそ、本音が聞き出せると思ったのだろうか。
(二度とごめんだが…)
しかし何気ない日常にこんな刺激があるのも悪くはない。
「…飲みましょう!明日の朝まで無事にこの命があるかはわかりませんが!」
永倉は明るく振る舞って酒を注ぐ。伊東は微笑み、斉藤は肴に手を出した。


同じ頃。
「先生、お風邪ですか?」
山野に尋ねられて、総司は「な、なんで?」とあからさまに驚いてしまった。
「何故って…少し咳き込まれてますし、ぼうっとされているので…」
「…大丈夫ですよ。ああ、昼間に、派手に喧嘩したせいかなぁ」
総司がハハハ、と笑って誤魔化すと、山野は
「あれはすごかったですね」と同意した。
「敵の襲来があったのかとみんな騒然としていましたよ。まさか先生が突き飛ばされて動けないなんて…よほど土方副長を怒らせてしまったんですね」
「はは、そうみたいです。壊れてしまった建具の修繕は大丈夫ですかね」
「心配すべきはそこではないと思いますが、島田先輩が手配したみたいですから問題ないと思います」
「そうですか、よかった」
山野は総司の顔色を伺っていたが、明るく振る舞うので山野はそれ以上深く尋ねることができなかったようだ。それに、総司と土方が喧嘩をするのはさほど珍しいことではない。
「あ…そうだ」
山野は自分の行李から温かそうな襟巻きを取り出し、総司へ差し出した。
「これ、よかったら使ってください。首元が温まると身体の具合が良くなると思います」
「…ありがとう」
「早く仲直りできると良いですね」
「…そうですね」
山野の純粋な励ましと優しさが、今の総司の心に沁みた。
自分のせいなのに、傷つく資格なんてないのに…まるでぽっかりと穴があいてしまったかのようで。
そのせいか、早速受け取った襟巻きを使うととても温かった。
「それにしても…今夜も永倉先生はお戻りにならないのでしょうか…」
山野が心配そうに隣室の二番隊へと視線を向けた。彼らも組長の不在に困惑しているはずだ。
「…明日になったらきっと戻ってきますよ」
総司は山野を慰め、また自分へ言い聞かせる。
(どうか、何かの間違いでありますように)
そう願うしかなかった。






609


正月三日。
うっすらと雪が積もる中、眩しい朝陽が差し込んでいた。
近藤は朝早く土方の部屋にやってくるなり、
「まだ帰っていないようだぞ。いったいどういうことだ?」
と、問い詰めた。土方は「知るか」とぶっきらぼうに答える。幼馴染が朝に弱いのはよく知っているが、今日の土方は輪をかけて不機嫌で目元にはクマが浮かび顔色が悪い。その様子を見て近藤は「大丈夫か?」と少し正気に戻った。
「…寝不足なだけだ。それで、参謀たちは戻っていないって?」
「ああ。三人とも戻っていない」
近藤は困惑していた。
初日、伊東らが門限を破ったと耳にした時は「不謹慎だ」と怒り、いつになく厳しい処分を口にしていたが、時が経つにつれその興奮も落ち着いたようで、今ではいつ戻ってくるのかとソワソワしていた。
「やはり迎えの使者をやった方が良いんじゃないのか?新八や斉藤くんが抜けると隊務に支障をきたすし、士気に関わるぞ」
「使者…か。誰を遣る?」
「誰でも良いだろうが…しかし、角が立たない方が良いな。総司にしよう」
「…山南さんの時と同じだな」
寝不足の土方がついぽろりとこぼした言葉に、近藤は苦い顔をした。あの時は連れ戻した先には重たい切腹という末路が待っていた。
近藤は首を横に振って撤回した。
「やめておこう。妙な詮索をされては困る」
「ああ…。近藤局長はどういう処分を考えている?門限を破った組長は隊士よりも厳しく処分するんだろう?」
「うむ…」
近藤は腕を組み直し、目を閉じて考え込む。しばらくそうした後、
「…とにかく、話を聞かねばならん。三日も居続けるなど何か考えがあるに違いない」
「その『考え』によっては『切腹』もありうると?」
「……それは、その後に考えよう」
近藤は結論を棚上げして、とにかく使者を、と急かした。土方はそれに従い山崎を呼びつけて任せることにした。
近藤はとりあえず落ち着いたようで小さく息を吐くと、まじまじと土方を見て
「大丈夫か?」
ともう一度同じことを聞いた。
「…寝不足だと言っただろう」
「いつものお前なら参謀たちの暴挙を素早く諌めたはずだ。使者だって俺に言われなくともさっさと立てたに違いない」
「疲れているんだ」
「…よほどの大喧嘩なのか?」
近藤は激しく損傷した障子を眺めながら問うた。総司が身体ごと突き飛ばされて壊れたそれは、正月が明けないと修繕できないらしくそのままにされている。おかげで二人の喧嘩の激しさが垣間見えた。
「…かっちゃんには関係ない」
「それはそうだが、試衛館にいた時だってお前が総司に手を出すなんて滅多になかったじゃないか。それに総司は寒空の下でしばらく動けなかったらしいと聞いたぞ。兄弟子として心配して当然だろう?」
「…なんでもかんでも話せるわけじゃない」
「それはそうだが…」
「もう聞くな」
土方は気怠るそうに文机に体を預けてもたれかかった。そしてそのまま目を閉じてしまう。
近藤さえも寄せ付けないあからさまな拒絶を感じ、
「…わかったよ」
と出て行くしかなかった。


伊東らが未だに帰営しないと耳にして、総司はなんとなく気が重くなり屯所を出た。今日はちょうど非番で稽古の当番もない。山野からもらった温かい襟巻きをして長い散歩に出ることにした。
気を紛らわせたい…と賑やかな大通りに出ると、喪に服しながらも新しい年を迎えた人々が清々しい様子で出歩いていた。子どもたちは駒を回し、羽子板で遊んでいる…正月らしい彼らの穏やかな日常を目にして、総司の鬱々とした気持ちは少しだけ和らいだ。
この人たちは知らない。
隊内のいざこざも、土方との別れも、抱えている病もーーー関係のない別の世界の人々だ。でもそれぞれに何かしら悩みはあるのかもしれない。
(僕だけが悲しいわけじゃない)
そう自分を励ましながらも
『お前には失望した』
不意に思い出す土方の言葉に胸が締め付けられた。過去の全てを忘れて約束を覆し、別れてくれと頭を下げる総司に、呆れ果てていた。誰に蔑まれても構わないと思っていたのに、本心でなかったにせよ心が抉られた。
でもそれ以上に嘆いているのは土方のはずだ。
(僕が傷つく資格なんてない)
感情を押し殺すが、それでも止められず溢れでた悲しみのせいで鼻先がツンとする。それと同時に冬の冷たい風のせいだろうか、身体に悪寒が走る。
その時だった。
「お武家さま」
「…君は…」
君鶴だった。気がつけば上七軒の近くまで来ていたようで、彼女は親しげに声をかけつつも総司の顔色の悪さに驚いて、すぐに腕を取った。
「こちらへ」
病のことを知っている彼女に抗う気力もなく、言われるがままに彼女との出会いであった北野天満宮の境内へと入った。すぐそばで腰を下ろし、君鶴は自身の肩掛けを掛けてくれた。
「こんな寒い日に出歩いて…英せんせに怒られますえ」
「すみません、すぐに良くなりますから…あなたが風邪をひく」
「構いまへん。うちは丈夫やから」
君鶴は微笑んでいた。可憐な見た目であると同時に大人っぽい落ち着きのある彼女には何故だか抗えず、「ありがとう」と素直に受け入れた。
君鶴は隣に座った。風上に座り風除けをするように寄り添ってくれる姿は傍目には恋人というよりも、兄妹のように見えるだろう。
「あれから具合はいかがどすか?」
「変わりありませんよ。薬を飲んで出来る限り養生して、英さんにも良くしてもらいました…あなたのおかげです」
「ふふ、うちのおかげやのうで、天神さんのおかげや。うち、毎日ここでご無事をお祈りしてますえ」
君鶴は冗談っぽく笑ったが、きっと嘘ではないのだろう。総司は再び
「ありがとう」
と感謝した。
君鶴に借りた肩掛けが温かく身体を包んでくれたおかげで、先ほど感じていた悪寒はいつのまにか消えていた。君鶴は懐から小さな巾着袋を取り出すとなかから金平糖を取り出して総司に渡す。手のひらにコロコロと広がった可愛らしい金平糖たちを見ていると、なんだか可笑しくなってきた。
「ふふ…」
「なに?金平糖お嫌い?」
「いえ、大好物です。でもあなたの方が年下なのに子供扱いされているみたいで」
兄妹ではなく、姉弟のようだ。君鶴も笑った。
「なんや不思議な縁を感じてます。うちはお武家様のお名前も存じ上げへんのに」
「ああ、そうでした。私は…」
世話になっておいて名乗っていないことを失念していた。しかし君鶴は人差し指を総司の前に立てて首を横に振った。
「知らへん方が面白い」
悪戯をする子供のように笑う君鶴は、幼児と女性の間を行き来するような無邪気さがある。総司はすっかり気を許し、彼女の遊びに付き合うことにした。
「今日、稽古抜け出して良かった。そうやないとお武家様にお会いできへんかった」
「初めて会った時もそんなことを言ってましたけど」
「ふふ、うちは出来損ないの弟子やからとっくに先生にも見放されてます。お歌も踊りもなんやつまらへん…けど、拾うてくださった姐さんのためにも頑張らんとて思うんやけど…」
君鶴は遠い目をした。
「姐さんはもうおらんから…」
「…亡くなったのですか?」
「ようわからへんのです。行方を眩ませて、いなくなって…おかみさんに尋ねてもはぐらかされて。赤毛のうちの世話を焼いてくれたのは姐さんだけなのに…」
「…」
君鶴は金平糖をひとつ、口の中に放り込んだ。総司は初めて会った時、髢の下に赤毛を見てしまい彼女は慌てて隠して口止めしたのだ。
しかし君鶴は話し始めた。
「うちは置屋の前に捨てられてて…どこの子ともわからん、しかも赤毛の赤子やなんて気味が悪い…みんなそう言って見捨てようとしてたとき、まだ禿やった姐さんだけが助けたいっておかみさんに頼み込んで、拾われたんどす。姉さんの借金が増えるだけやのに…」
「…恩人なんですね」
「へえ。ほんまに可愛がってもらいました。せやからいまは寂しい…」
彼女はいつもこの広い境内でこうやって時間をやり過ごしているのだろう。口の中に広がる仄かな甘みが孤独を癒し、いつか再会できるように願っているのだ。
「…あ」
君鶴は「みて」と近くの木の枝を指さした。総司が視線を向けると寒空の下だというのに梅の蕾が膨らんでいた。
(梅…か…)
生き急ぐ梅の蕾をみて、土方のことを思い出す。桜よりも梅を好む彼は今どんな気持ちでいるのだろう。
「まだ冬は長いのに…せっかちなお梅さんやなぁ」
君鶴は微笑みながら立ち上がり、その枝に手を伸ばすとあっさり折ってしまった。そしてその枝を総司に差し出した。
「良いのですか?」
「うちは信心深い氏子やから、きっと構いまへん。それにしばらく寒いからきっと枯れてしまう」
「ハハ、そうですね」
彼女は哀愁を漂わせながらも、自由で囚われない鳥のようだ。
「ありがとう」
何度目かわからない礼を告げると、彼女はまた笑った。









610


山崎がやってきたのは、三日目の昼過ぎのことだった。
「伊東参謀、永倉組長、斉藤組長…局長がお呼びです」
いつもは飄々としている語り口が、固い表情のまま短い言葉だけを告げられる。永倉はそれなりに付き合いの長い山崎の表情で状況はなんとなく飲み込めたが、
「そうか、じゃあ戻ろうかな」
と参謀である伊東が気楽な様子なのですっかり拍子抜けしてしまった。
結局、正月一日から三日まで酒を飲みながら持論を交わしつつ、時折砕けた話を挟みながら時間は過ぎていった。たまに腹の探り合いのような会話もあったが、仲間に誘われたのは一度きり。永倉にとっての収穫は、今まで別世界の人間だと思っていた伊東が案外気さくで話しやすいこと。しかしそれ以上に何を考えているのかわからない底知れなさも感じた。
そんな彼が切腹級の隊規違反を犯しながらも、鬼気迫る様子もなく楽観的でいる。
(まさか
伊東参謀までグル…なわけ、ないか)
永倉を陥れるために罠とも考えられたが、だったら自らの命を危険に晒すような回りくどい真似はしないだろう。
(もしかしたら、最初に言っていた通りなのかもしれないな…)
『この状況をどう局長と副長は糾弾するのか、試してみたいのさ』
「戻りましょう」
深く考え込む永倉を気遣って、伊東が声を掛ける。永倉は頷いて立ち上がると、山﨑の先導とともに階下へ降りて預けていた大小を受け取った。そして店を出ようとしたとき、伊東は「ふふ」と口元に笑みを浮かべながら永倉、斉藤へと向き直った。
「永倉君、斉藤君、愉快な三日間だったね。我々は余命幾ばくもないかもしれないが、それでも悪くないと思えるほど充実していたよ」
神妙な表情をした山崎の前で、伊東は全く悪気がない余裕の笑みを見せた。永倉は思わず言葉に詰まってしまったが、斉藤は
「そうですね」
とあっさり同意してしまった。それをみた山崎は酷く不快そうに顔を顰めていた。


永倉が思っていた以上に、屯所では騒ぎになっていたらしい。
帰営した三人の表情を見るや、隊士たちはあっと驚いた顔になりザワザワと騒がしくなった。
「伊東先生!」
「参謀!」
伊東に同調する者たちは心配そうに近寄ってきて、それ以外の者はまるで腫物を扱うように遠巻きにしていた。驚き、呆れ、畏怖、怪訝…さまざまな反応を見せるなか、二番隊の隊士たちが困惑していた。それをみて初めて
(悪いことをしてしまったな…)
と永倉は反省した。しかし山崎が「こちらへ」とさっさと先導するので何も言い訳ができなかった。
案内されたのは当然、局長の部屋だ。伊東を先頭に中に入ると、近藤と土方が固い表情で並んでいた。
伊東は彼らの怒りは当然察していたに違いないが、それでも涼しい顔をして膝を折って軽く頭を下げた。永倉と斉藤もそれに従った。
「一体どういうことか、説明してください」
いつもは伊東に対しては丁寧に接する近藤も苛立ちを堪えられなかったのか急かした。伊東は慌てずに答えた。
「…私が斉藤組長と永倉組長を誘い、居続けを。二人に咎はありません」
「何故、そのような真似を。帝の崩御にあたり謹んだ正月を送るようにと伝達していたはず。それに隊規違反だ」
「居続けしてしまったという事実は変わりありません、処断されるべきですが、あえて理由を述べるならば…私の心の弱さでしょうか。帝の崩御の知らせに思っていた以上に動揺していたのです。酒を呑み気が緩み、現実逃避のような真似をしてしまいました。申し訳ございません」
永倉は「はぁ?」という声が喉まで出かかったがどうにか堪えて伊東とともにぎこちなく頭を下げた。
(心の弱さ?現実逃避…?まさか、あれほど雄弁に持論を語っていたではないか!)
彼の口からサラサラと出てくる自己弁護の言い訳に永倉は驚いた。初日の宴は賑やかであったし、それからの居続けはとても愉快だと笑っていた。
(そうだ、それを山崎も聞いているんだぞ…)
山崎はすでに部屋を去ったが、土方に事細かに報告されれば伊東の嘘などすぐに暴かれる。
永倉はほんの少し交流を深めたせいか伊東の言動には自分のことのようにハラハラした。ちらりと隣の斉藤を見ても彼は無表情のままだ。
「酒のせいか突飛な行動を起こしてしまったことを反省しております」
伊東がしおらしく頭を下げると、近藤は少し絆されたようで、
「…帝の崩御の知らせについては、私も気落ちしている。お気持ちはわからないではないが…」
と理解を示した。人の良い局長は『弱さ』を責めない。伊東がすぐに非を認めたので苛立ちはすぐに消えていた。
近藤は「永倉君、斉藤君は?」と促す。
永倉は迷った。
伊東の言い訳は全部嘘だ。自分たちは喪中の正月の中で酒を酌み交わし女を呼び全てを投げ出して遊んでいただけ。
(全部嘘だ…なんてひっくり返せるか!そんなことをして誰が得をする??)
「…伊東参謀と同じです。羽目を外してしまいました。申し訳ございません」
心苦しく思ったが、伊東に同調するしか選択はなかった。そして隣の斉藤も言葉少なく「俺もです」と認めたので、近藤は納得したようだ。
「歳…いや、土方君、彼らの処分はどうする」
しかし鬼副長はそう簡単ではない。近藤が矛先を向けたことで永倉の中での緊張は一気に高まった。近藤のすぐそばに控えていた土方はまるで置物のように動かずにじっとこちらを見ていた。眉間の皺はまるで木彫りのように深く刻まれていて一日に挨拶した時と大差ない不機嫌さだ。
永倉は覚悟した。
(切腹を申しつけられても仕方ねぇ…)
緊張し全身がピィンと張り詰めた針金のようになるほど固まった。…しかしそれは杞憂となった。
「近藤局長に一任する」
土方が重々しく告げた言葉を、永倉は最初理解ができなかった。
(一任…?一任だと?)
隊規に則って切腹…土方の口癖のような常套句でこれまで何人もの隊士が切腹してきた。今回の件も同様に厳しく処断するはずだと思っていた。しかしそれを温情派の近藤に任せるとは、ほぼ無条件に許すと言っているようなものだ。
永倉は動揺し、思わず伊東を見た。彼の美しい横顔もどこか困惑しており、思っていた展開ではないことが伺えた。
近藤は「うぅん」と悩み、腕を組み替えた。
「勤皇の考えがお強い参謀の動揺は計り知れぬ。それに参謀と組長が二人も長く不在となれば隊務にも支障が出るだろう。それなりに示しのつく処分が良いと思うが…」
近藤は考えを述べながら土方を見るが、彼は何も言わないため、決断を下した。
「三人とも三日の謹慎としよう。ただし、これ以上の混乱を招かぬように事情を隊士たちに説明してください」
永倉は拍子抜けした。
まるで些細なミスを咎めるだけの寛大すぎる処分だ。近藤らしいといえばらしいが、これまで処断されてきた隊士たちを考えると甘すぎる処分。
「…寛大なご判断を、ありがとうございます」
伊東は丁寧に頭を下げた。近藤は「二度目はありませんよ」と少し苦笑していて、相変わらず土方は表情ひとつ変えずにじっと伊東を見ていた。
永倉は我慢できなくなった。
「あの…!」
「どうした?」
「俺は…その、以前、建白書の件でもやらかしています。うっかり飲み過ぎた参謀や斉藤とは立場が違います。とても三日の謹慎では隊士たちも納得しない…せめて彼らの倍、六日、謹慎させてください」
永倉は深々と頭を下げた。
偽りの言い訳をあっさり信じた近藤の甘すぎる処分を頼るほど、愚かではなかった。
「永倉君、君は真面目だな」
近藤は笑って「わかったよ」と受け入れた。
そして「話がある」と切り出した伊東を置いて、斉藤とともに部屋を出た。
冬の冷たい空気がキィンと頭を冷やしてくれた。少しばかり残っていた酒もすっかり消えた。
「…斉藤、何を企んでいるのか知らないが…これきりにしてくれ。俺は何も言わない」
得体の知れぬ者への好奇心ーーーしかしそれは触れてはいけない深淵だったのだと今更思い知っていた。
「わかった」
斉藤は短く答えて去っていった。彼の表情がどこか安堵しているように見えた。

























解説
604 宴会には実弟の鈴木もいたとされていますが、今回は不参加にしています。
610 伊東らの居続けについては永倉が後年に語った部分が多く不確かなところがありますが、組み込んでいます。永倉の処分について斉藤、伊東よりも長い六日とされたのは建白書の騒動を根に持たれたため、と本人は語っています。




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