わらべうた




611


「話がある」と切り出した伊東は、永倉と斉藤が部屋を去っていくのを足音で聞き届けた後、ようやく口を開いた。
「…近藤局長、土方副長。先程までのお話は表向きのこじ付けでした。謀るような真似をして申し訳ございません」
伊東は先程までの発言をあっさり撤回し改めて頭を下げる。近藤は少し困惑した顔をしたが、
「あなたらしくないとは思っていた」
と多少の違和感を覚えていたことを告げた。新撰組の参謀として、突然の帝の崩御があったにせよ理性を失うほど酔潰れることはないはずだ。
すると、それまで石像のように動かなかった土方が腕を組み直し、伊東を見据えた。
「下手な芝居はもう良い。…参謀にどのようなお考えがあるのか、お聞かせ願いたい」
短く畏まった言い方だが、言葉の節々に土方の牽制が伺えた。それまで生気がなかったのが嘘のように臨戦態勢となる。
伊東はふっと口元を緩めた。
「私は…帝が崩御されたいまこそ、動くべきだと決意したのです。帝は異国を憎み、長州を厭われ、幕府を頼りとされていた。私は水戸出身として勤皇の志が根強く、帝が信任される幕府のもとでならこの命を賭しても良いと考え、新撰組に入隊したのです。しかし、その帝が崩御されたとなれば話は変わります」
伊東はお得意の扇子を取り出さなかった。かわりに土方へと視線を向けた。彼が放つ強い疑心を真っ向から受け止めるように。
伊東は続けた。
「次の帝になられる祐宮様の後ろにはすでに薩摩がいます。これから朝廷は薩摩の色が強くなる。…私は薩摩の動向を探ることが、今後の幕府や会津、新撰組にとって肝要なことと考えます」
「…それは会津公も気にかけておられたが…薩摩が何を考えているのかどう動くのか、掴むのは難しい。さまざまな派閥もあるようだ」
「ええ。ですからいっそ、私が自ら動きたいと思うのです」
「なに?」
近藤は驚き声を上げたが、土方はふっと鼻で笑う。
「新撰組の参謀という肩書きで薩摩からどのように情報を得ると?」
「ですから、私は居続けをしたのです。誰もが喪に服すべきこの正月に、島原で派手な宴を催し隊規違反を犯した…その『噂』はいづれ薩摩の耳にも入ることになる。何しろ芸妓たちのお喋りは倒幕、佐幕関係なく筒抜けです。おそらく今頃、新撰組の参謀が組織に反発したことが広まっているでしょう」
「…つまり、つまり…」
近藤は難しそうに顔を顰める。伊東の話の続きが読めないのだろう。しかしそれとは正反対に土方は表情を変えずに伊東を挑発したままだ。
「俺たちが仲違いをしている…薩摩にそう思わせたい、と?」
「はい」
「子供騙しだ」
土方はそう言い放つ。伊東は「そうでしょうか」と笑みを浮かべた。
「少なくとも今のままでは薩摩の懐に入り込み動向を探ることなど不可能だったはず。もちろんただこれだけのことで事足りるとは思っておりません。そのための布石は…打っているつもりです」
伊東の言い分に、土方は尚も気に入らない様子だったが、近藤が「ちょっと待ってくれ」と話を止めた。
「つまり…参謀は新撰組を抜けると?」
「いいえ。法度で脱退は認められていませんし、隊士からも異論が出るでしょう。ですから…分派、という形を取りたいのです」
「分派…」
「私たちは信頼できる数名の隊士とともに新撰組を離れます。外向きは脱退、しかし反目するのではなく協力関係を結ぶのです。私は薩摩や朝廷から情報を得て、新撰組にそれを流す…そうすれば互いにこの国のために盤石な体制で働くことができると考えます」
「……土方君、どう思う?」
近藤は悪い案ではないと思ったのだろう、土方へ視線をやった。
土方は首を横に振った。
「互いに信頼関係があればこそ、成り立つ話だ。残念ながら我々にそれがあるのか」
「おっしゃる通りです。ですから、藤堂君に仲立ちを頼むつもりです」
「平助に?」
近藤は目を見開き、土方も眉をピクッと動かした。
「新撰組の食客であり、私の門弟。これ以上の適任はいないでしょう」
「藤堂はすでに承知しているのか?」
「いえ、彼の意思は尊重するつもりです」
伊東は涼しい顔で答えたが、勝算はあるようだった。さらに続けた。
「まだ机上の空論にすぎません。反対されるのであれば撤回します」
「…参謀はすでに動いている。この話を無かったことにするには、参謀を切腹させるしかない」
「ええ…そうなりますね」
伊東は少し困ったように答えたが、土方の答えなどわかっているのだろう。
謀反を働いた隊規違反で切腹ーーーそうなれば少なくはない伊東派たちが反発し、新撰組は二分する。余計な争いを生むことになる。
それほどの覚悟があるのか、伊東は試しているのだ。自分を殺せばどうなるのか…わかっているからこそ、先手を打った。
(気に入らない…)
だが、それほどの賭けに出るほど伊東は追い詰められたのだ。帝が亡くなったこと、一橋慶喜が将軍職に就いたこと、新撰組が幕府での地位を固めていくことーーー己の居場所がここではないことを悟った。
近藤はううん、と深く唸った。
「…伊東参謀、少し考えさせて欲しい。何しろ急な話だ。すぐに答えが出ることではない」
「もちろんです。私は三日謹慎します。その間にご熟考ください」
「わかった」
伊東は微笑んだ。そして深く頭を下げると部屋を出ていく。
その足音が聞こえなくなる頃、近藤は
「歳…」
と心配そうに土方を見た。隊の分裂だけでなく、藤堂の名前があがったのだから当然だ。
「近藤先生は心配するな。これも…考えられない選択肢ではない。それに悪い話ではない」
「そうか…?」
「ああ。ようやく目の上のたんこぶが居なくなるんだからな」
土方が吐き捨てると、近藤は苦い顔をして
「そういうことじゃないだろう」
と何やら力が抜けたようだった。


同じ頃、君鶴と別れた総司は土方の別宅へと辿り着いていた。家主がいないことを確認すると、奥の間からみねが顔を出した。
「まあ、沖田せんせ。あけましておめでとうございます」
台所の用事をしていたのか、みねは慌てて身なりを整えて丁寧に挨拶をする。総司も同じように頭を下げた。
「おめでとうございます。すみません、驚かせてしまいましたね」
「いいえ、いいえ。お孝と一緒におせちを拵えまして、そのお裾分けに参ったのです。土方せんせはしばらくこちらには…?」
「ああ…仕事が忙しいから戻らないかもしれません」
「そうですか。では日持ちするものだけ置いておきましょ」
みねは穏やかに笑って台所へ戻ろうとするので、総司が「待ってください」と引き留めた。
「あの…しばらく私もこちらには来られないと思うんです」
「まあ、お忙しいので?」
「…そのようなものです。土方さんは分かりませんが…ですから、おみねさんは近藤先生の別宅のお世話に注力してくださって結構なので」
「そうですか…」
みねは少し寂しそうに表情を落とした。総司としても和やかゆったりとしたみねとの時間は、心休まる貴重なものだったが、易々とこの別宅に顔を出すことはできない。そして「別れた」などと言って彼女を困らせるのも本意ではない。
「あと…これを」
「これは…まあま、梅の蕾やろうか?えらい早咲きやこと」
「ええ、随分せっかちな梅なんです」
総司は君鶴からもらった梅の枝をみねに渡した。一足もふた足もはやい春の訪れにみねは笑っていた。
「土方せんせは梅がお好きやいうお話でしたね?手頃な花壺に挿しておきましょ」
「はい。…ただ、私が持ってきたことは内緒にしてもらえますか?」
「へぇ?」
「お願いします」
君鶴から梅を受け取った時、土方に渡そうと思った。けれどすぐに自分にはそんな資格はないのだと思い至り、困った。けれど君鶴の優しさを無碍にはできず総司自身もこの梅に愛着を持っていたので別宅に持ってきたのだ。
総司は「お願いします」ともう一度頼んだ。たかが花の枝ひとつに頭を下げる総司を見て、みねは思うところがあったのか、
「わかりました」
と深くは尋ねずに受け入れてくれた。
そして総司の首に手を伸ばし、乱れていた襟巻きを直す。母かあるいは姉がそうするように整えてくれた。そして柔らかく微笑んで
「…寒うなります。お身体は大事に」
と気遣った。総司の病まで察していたわけではないだろうが、顔色が悪くらしくない様子には気がついたのだろう。
「ありがとう…ございます」
総司はどうにかそう答えて「では」と背中を向けて別宅を後にした。早く去らなければ土方と出くわしてしまうかもしれないし、みねの優しさに甘えてしまいそうだった。
するとまた大粒の雪がハラハラと舞い始めた。冷たい冬の空は灰色に覆われている。
(どうか、あの花が土方さんを慰めますように)
そう思いながら総司は襟巻きに顔を埋めた。










612


総司が別宅から戻ると、すでに伊東ら三人は帰営しており謹慎という判断が下されていた。大ごとにならず安堵したものの、同時に疑問の残る処分でもあった。
(組長以上の隊規違反だからもっと重たいと思っていたのだけれど…)
そう思っていたのは隊士たちも同じようで、
「謹慎三日って、案外短いな」
「流石に参謀を切腹にはできないだろう?」
「なんだか拍子抜けだ」
口々に複雑な思いを吐露していた。さらに
「永倉組長だけなぜ、六日なんだ?」
「ほら、過去の建白書の件があるだろう?その分、重かったのさ」
「だとしたら陰険だな!」
と噂話はあちこちで尾鰭をつけてますます膨らんでいくので、
「局長と副長がそう判断したんだ、もういいだろう?」
と原田が諌めた。そのため表向きの不満は聞こえなくなった。しかし今まで切腹してきた隊士たちへの判断と比べると、どこか不平等な結末に納得できない者も多く、隊の雰囲気はますます悪くなっていった。
原田は珍しく眉間に皺を寄せて大きなため息をついた。
「全く、新八のやつ、世話かけさせやがるぜ」
「まあ隊士たちの気持ちもわかりますけどね」
「はぁ、お前がそれを言うなよ」
原田は首を横に振って勘弁してくれ、と肩を竦めた。すると同じように疲れた表情の井上がやってきた。
「やれやれ、無事に帰営しても手がかかる」
「おじさん、お疲れ様です」
「ああ。聞いたか?最初は三人とも三日の処分だったのを、永倉は自分から六日にしてくれと言ったそうだ。建白書の件を首謀した自分が居続けをしたのは二人よりも厳罰にすべき、とな」
「はは、なるほど、新八らしいぜ」
原田も得心したのか声を出して笑う。
「おじさんは誰にそれを聞いたんですか?」
「もちろん近藤先生さ。今回の件は近藤先生の判断だったらしい。歳だったら、もっと別の形になっていただろうな」
「…」
原田と井上はよかったよかったと頷き合う。総司は土方らしくない判断にはいまだに引っかかるものがあったが、いまはそれを直接尋ねられる立場ではなく蚊帳の外だ。
(自分が選んだことじゃないか…)
「総司、どうした?」
「え?」
「顔色が悪いぞ」
井上は総司の顔をまじまじと見る。遠縁の親戚であり、試衛館にいた頃から何かと気にかけている井上なら、総司の不調に目敏く気がつくかもしれない。
総司は努めて笑った。
「いえ、何でもありません。永倉さんたちが戻ってきてどっと疲れが出たのかな。…ちょっと休んできます」
「ああ、そうした方が良い」
井上に背中を押され、総司は部屋に戻ることにした。


同じ頃、
「藤堂」
巡察を終えた藤堂の元へ、土方がやってきた。人を使わず直接やってくるのは珍しい。
「何か?」
「話がある。一緒に来てくれ」
「…わかりました」
鬼副長直々の呼び出しを積極的に断る理由がなく、藤堂は同意する。土方はすぐに踵を返して歩き始めてしまったので藤堂は急いで上着を抱えてその背中を負った。
てっきり副長の部屋に呼び出されるのかと思いきや、土方はそのまま屯所を出る。
夕暮れ時の橙色の空が夜の闇に侵食されようとしていた。冷たい空気が二人の間を通り抜けていく。藤堂は一、二歩ほど後ろを歩きながら、
「あの」
と黙り込む土方に切り出した。
「なんだ?」
「伊東先生の件、なぜ謹慎だったんですか?土方さんならもっと重たい処分を下すと思っていました」
『魁先生』に相応しい直球の質問だった。藤堂の周りの『伊東派』と揶揄される隊士たちは戦々恐々としていたので、今回の処分には安堵と驚きがあったのだ。
土方は少し黙り、ゆっくりと答えた。
「…そもそも、隊士への処分は近藤先生が判断することだ。今回が特別と言うわけではない」
「表向きはそうですが」
「表向きも何もない。局長が不在の時以外、俺が判断を下したことはない」
土方は頑なにそれ以上は答えようとしなかった。まるで藤堂の言葉がその背中に跳ね返るような。
「…山南さんの時も、ですか?」
藤堂の問いかけに、土方はようやく足を止めた。振り返ったその顔は、いつも以上に疲れた表情を浮かべ小さなため息をついた。
「いつまで…山南さんの話をするつもりだ?山南さんは自分から脱走して、切腹を望んだんだ。永倉や原田も引き留めたが、それでも意志が固かった…そう皆が話しただろう?」
「…江戸にいた俺にとっては他人から聞いただけの話です。それが真実だったかはわかりません」
「仲間がそう言ってもか?…お前にとって試衛館の食客はもう仲間じゃないのか」
「…そんなわけ、ありませんが…」
藤堂は躊躇いながらも答えた。自分でもなぜ即答できなかったのかわからない。土方はそんな藤堂の様子を目敏く気がついたが、何も言わずにそのまま再び歩き始めた。
しばらくすると土方の別宅に辿り着いた。噂には聞いていたが藤堂にとって初めて足を踏み入れる場所だった。伊東の別宅ほど華やかではないがこじんまりした落ち着いた佇まいだ。
家主に促されるままに部屋に上がり、向かい合って膝を折る。
すると土方が口を開いた。
「伊東…参謀は、新撰組の分派を考えているようだ」
「分派…?」
土方が結論から話し始めたので、藤堂は混乱する。
「今回の居続けも、単なる酔った末の行動ではなく分派に向けた行動の一端だったようだ。参謀は朝廷や薩摩の情報を得ることが新撰組の利になると考えている。…そのために、表向きは脱退とし、信頼できる者とともに動きたいと」
「…でもそれは脱走で切腹、ではないのですか?」
「参謀が切腹となれば、隊士たちも反感を持つ。…お前だってそうだろう?」
「…」
どんな理由であれ、伊東に何かあれば腹心の者だけでなく入隊後に増えた伊東を信頼する隊士たちも立ち上がるだろう。隊が二分され、最悪仲間同士で内乱が起きる。伊東はそれを逆手にとって動いたのだ。
(さすが伊東先生だ…)
表向きは繊細そうだが、時に大胆に動く。藤堂はそう感心しながらも同時に少しの後ろめたさを感じていた。
(俺はもう伊東先生に付くつもりだ…)
ともに脱退するのだろう…そんなことを思いながら土方の話は続く。
「しかし簡単に認めるわけにはいかない。一つ間違えばただの脱退だ。両者の信頼関係が必要だと話すと、参謀はお前に仲立ちを頼むつもりだと言っていた」
「仲立ち?」
「お前が適任だと」
藤堂は自分の気持ちが高揚するのを感じた。伊東が重要な橋渡し役を任せようとしてくれている…その信頼が素直に嬉しい。
「お前は引き受けるつもりなのか、参謀の謹慎期間に確かめておきたかった。この件は近藤先生と俺しか知らないことだ…お前の気持ちを聞きたい」
「…この『分派』は、隊を裏切るものではないんですよね?」
「一応、そう言う建前だ」
「だったらお断りする理由はありません。伊東先生からそのような話があった場合は喜んで引き受けます」
藤堂は迷う暇なく頷いた。伊東の門下生として、そして新撰組の隊士として名誉ある役割だと信じて疑わなかった。
そんな真っ直ぐな藤堂を土方は複雑な表情で見ていた。聡い彼は藤堂がそう答えるのは予感していたはずだが、それでも受け入れ難い返答だったのだろう。だが、引き止めはしなかった。
「…わかった。近藤先生にもそのように話しておく。ただ今回の件は内密に頼む」
「勿論です」
「話はそれだけだ」
藤堂は満面の笑みで「わかりました」と立ち上がり、刀を持つ。
「藤堂」
「はい?」
「…伊東参謀は、山南さんの代わりなのか?」
土方の問いかけに、藤堂は驚いた。他の誰でもない土方がそんなことを聞いてくるとは思わなかったのだ。
「伊東先生は伊東先生です。山南さんの代わりなんて…何処にもいません」
「…そうか」
「失礼します」
藤堂はこれ以上の質問を拒むように部屋を出て逃げるように別宅を離れた。その簡素だが趣のある住まいが見えなくなる頃、ふと思う。
(なぜだろう…もう、土方さんとこうして話す機会がないような気がする)
それは寂しいと言うよりも虚しい感情だった。
同じ感情を、土方も持っていた。
藤堂がいなくなった場所をなぜかぼんやりと見ていた。
(俺は期待していた…)
藤堂が『新撰組に残る』と口にすることを。
まやかしの様な山南の影を伊東に見ていることを認めると。
柄にもなく期待していたのは、なぜだろう。
「…梅…か」
この部屋に入った時から目についていた一枝の梅の蕾。質素な部屋に不似合いな可憐なそれは早咲きにしても早すぎる花を咲かせようとしていた。







613


居続けの三日間はジリジリとした緊張感のせいか長く感じたが、謹慎の三日はあっさりと過ぎて行った。
再び近藤と土方に呼び出された伊東は深々と頭を下げて
「改めてこの度の突飛な行動をお詫び申し上げます。謹慎のおかげですっかり頭が冷えました」
伊東は反省の弁を述べたが、土方の耳には大袈裟な芝居のようにしか聞こえなかった。彼はきっと誰にも邪魔されず思考を整理し作戦を改めて立てたはずだ。そう思うと与えた謹慎さえも恨めしい。早速、
「それで、先日のお話ですが…」
と、伊東が本題に入ったので土方が口を挟んだ。
「その件なら局長と協議した。…伊東参謀の提案をひとまずは会津に掛け合った上で決定したい」
「なるほど…お二人は概ね賛成ということでしょうか?」
「それは…」
「正直申し上げると、考えれば考えるほど現実味がない」
近藤が難しい顔をして土方の言葉を遮って続けた。
「表向きは脱退し、我々と袂を分かったとして…新撰組を抜けて薩摩から情報を得るなど、本当に可能でしょうか。薩摩は長州とも手を組んでおり、幕府との距離もある。そんな彼らから信用を得るなど…」
「でしたら、どうでしょう。私を試すというのは」
「試す?」
伊東は穏やかに微笑んだ。まるで何の企みもないかのように。
「実は大目付の永井様が視察のため九州へお立ちになるという話を耳にしました。酒の席ですが私も同行を誘われ…もし、ご一緒できるならば九州を遊説し、薩摩などから情報を得て参りましょう」
大目付の永井とは昨年の廣島行きの際に伊東と懇意になり気に入られている。そのような話があってもおかしくはないが、
(この三日で考えたことか、それともその前からか…)
と土方は疑心を抱く。隣にいた近藤は(どうする?)と言わんばかりに視線を向けていた。
土方の答えは決まっていた。
「…良いでしょう。ただしこの度のことはあくまで『遊説』とし、連れて行く隊士は一人のみ」
「構いません。…ああ、でしたら新井君を。彼は監察として優秀ですし腕も立つ」
名前の挙がった新井忠雄は伊東よりも以前に入隊した隊士だが、今では『伊東派』の一人だ。土方の要求に無駄なく返答したあたりこれもまた彼の想定内のことだったのだろう。
土方は続けた。
「…もう一つ、条件がある」
「何でしょうか」
「伊東参謀の『企て』を聞いた後ですから、こちらも疑心を抱く。例えば、九州へ遊説し戻って来ないこともありうる」
「…私が弟子たちを置いて逃げると?」
「可能性はある」
伊東は少し不快そうに顔を顰めたが、「仕方ありませんね」と自分に言い聞かせるように呟いた。
「参謀が戻られない場合…実弟である鈴木君に責任をとってもらう」
「…弟ですか…」
それは流石に想定外だったのか、伊東は少し考え込むように黙り込む。しかしすぐに笑みを浮かべた。
「…土方副長はご存知ないかもしれませんが、私と鈴木は兄弟といえども、縁の遠い兄弟です。人質として役に立ちますまい。…他の、内海や篠原を据えては?」
「いや、変えるつもりはない。仲が悪くとも家族であることに違いはない。あなたが戻らなければ切腹を申しつける…これが条件だ」
「…」
「受け入れられないというのならこの話は無かったことに」
土方の条件を伊東はどう思ったのだろう、聞こえない程度に鼻を鳴らして「わかりました」と受け入れた。
「もとより、逃げ出すつもりはありません。土方副長の杞憂に終わるでしょう」
「ああ…そうだと良い」
「では、私は早速、永井様のもとへ参ります」
伊東は深々と頭を下げて出ていく。その無駄のない礼儀正しさが今の土方には忌々しく感じられた。
隣にいた近藤は「ふう」と大きなため息をついた。
「やれやれ…俺はお前たちがいつ刀を抜くのかとひやひやしたぞ」
二人の間にある緊迫感が、近藤には殺伐として見えたのだろう。しかし土方からすれば伊東が入隊してから彼の対する印象は変わっていない。そしてそれは伊東も同じだろう。
近藤は先程まで伊東が座っていた場所を眺めた。
「遊説か…参謀も考えている」
「今は奴の独りよがりな空想でしかない。お手並み拝見には良い機会だ」
「真意を見定めることができるかもしれないな。…それにしても、伊東参謀は鈴木君のことになると表情が変わる。冷たいというか何というか…」
「それだけ特別ということだろう」
近藤は「そういうものかな」と呟いた。そしてそばに置いていた湯飲みに手を伸ばし一口飲むと、ぐるぐると手元で回す。
「平助は何て言ってた?」
「…喜んで引き受けるそうだ。参謀の役に立つのなら是非もないと」
「そうか…」
近藤は目を伏せて寂しそうに表情を落とした。分かっていた答えだっただろうが、それでも藤堂に少しの躊躇いがあればまだ落胆せずに済んだはずだ。しかし、藤堂にはその様子すらなかった。
土方は近藤の肩を軽く叩いた。
「あいつは素直すぎるんだ。それに裏切ったわけじゃない…そう落ち込むな」
「ああ…そうだな…」
近藤は頷きながらもまだ湯飲みを回していた。



伊東とともに謹慎から隊務に復帰した斉藤は早速、三番隊の指揮を取り巡察に出ることになった。周囲からの視線など気にする素振りはなく、淡々とした態度はいつも通りでまるで謹慎したのが嘘のようだ。
「なんだか久しぶりに会う気がしますね」
ともに巡察をする一番隊を率いつつ、総司は斉藤に声をかけた。
「ああ」
「私にはわかりませんが、三日三晩も酒を飲むと流石に飽きません?いくら参謀がお話上手でも美女がお酌をしてくれても、話題が尽きるんじゃないですか?」
「どうだかな。永倉さんが相手をしていた」
「やっぱり、斉藤さんは黙って飲んでいたんでしょう?永倉さんは不憫だなぁ」
ハハハ、と面白がる総司の横で斉藤は無表情だ。総司には他意のない雑談だが、彼らに従う一番隊と三番隊の隊士たちはハラハラと聞き耳を立てているだろう。
そうしていると今日の巡察の目的地にたどり着いた。死番を確認し、隊士たちが散って行く。それを待つ間、斉藤がめざとく
「顔色が悪いな」
と指摘した。総司はドキリとしながらも平静を保った。
「…久しぶりに会うせいじゃないですか?」
「何かあったのか?」
「何もありませんよ。このところ寒いし…斉藤さんたち心配をかけるからじゃないですか?」
総司としては上手く話を逸らしたつもりだったが、斉藤はまだ訝しんでいる。総司は「厠に」とどうにか誤魔化して場を離れたが、それでも斉藤の視線を感じていた。
(斉藤さんに知られるのは時間の問題かもしれない…)
斉藤はいつも土方以上に総司の些細な変化に気がついてきた。そして、土方のように無理矢理離れる理由もない。
「困ったな…」
物陰に隠れながら呟くと、それは突然訪れた。
肺を圧迫するような痛みとともに身体中の血が回り沸騰するような感覚。
「ぐっ…!」
総司はその場に座りこむ。咳き込むのを抑えるが堪えきれない苦しい吐息が漏れ、咄嗟に押さえた両手は真っ赤に染まった。
しかし不幸中の幸いか人通りは少なく斉藤や他の隊士たちから死角であったので気づかれてはいない。そして吐血もその一度だけでどうにか止まり、あとは息苦しささえ落ち着けば何とかなりそうだ。
総司は懐から懐紙を取り出して手を拭いた。深呼吸を繰り返して、息を整える。ゼエゼエとなかなか治らなかったが、意識を失うことになっては取り返しがつかない。
そのことに集中していたせいか背後の気配に気がつかなかった。
「どうした?」
「!」
耳馴染みのない若い男の声。その口ぶりから隊士ではなく、斉藤でもない。
総司は振り向いた。しかし、そこにいたのは知らない男ではなかった。
「…!」
視線が重なった時、互いに目を丸くした。
「な、なぜ…?」
驚きながら声を漏らした彼は、総司の顔と手にしていた真っ赤な懐紙を見てさらに驚愕する。総司が血を吐いたーーーそれはすぐに察せられる状況だっただろう。
総司は咄嗟に彼の腕を掴み、身体中の力を振り絞って引き寄せた。
「…お願いです、黙っていてください」
「な…なにを!」
「今、見たこと全てです。お願いです、時期が来たらきちんとしますから」
「…」
有無を言わせない総司の物言いに、彼の表情が強張ったが眉間に皺を寄せた後、ひとまずは頷いてくれた。
そうしていると
「何をしている?」
と斉藤の声が聞こえた。なかなか戻らない総司を心配したのが、もしくは彼の姿が見えたからやってきたのかもしれない。
総司は汚れた懐紙を背中に回しつつ、微笑んだ。
「…偶然、会って話をしただけですよ。そうですよね…鈴木さん」
鈴木は躊躇いながらも頷いた。斉藤は「そうか」と答えたが、その視線は何か言いたげにこちらを見ていた。










614


斉藤はじっと鈴木を見ていた。鈴木が一方的に総司を嫌っていることを知っている彼は、鈴木が何か良からぬことを企んでいるのではないかと疑っているのだろうが、実際は真逆だ。鈴木は言われもない敵意と状況に戸惑っているようだった。
「…斉藤さん」
偶然居合わせただけだというのに責められるのはお門違いだ。総司は斉藤の腕を軽く叩いて気を逸らそうとしたが、いまだに疑心を向けている。
そうしていると巡察を終えた隊士たちがぞろぞろと集まりはじめた。組長三人が睨み合っている状況に困惑している。総司としては、またいつ喀血するかわからない状況で多くの視線を集めるのは分が悪い。
「あの、沖田先生…?」
隊士のなかから伍長の島田が声をかけてきた。
「…巡察は終わりましたか?」
「は、はい。特に問題はありません」
「でしたら帰営しましょう。私は鈴木組長とお話がありますから、斉藤さんとともに戻ってください」
「は、はあ…わかりました」
島田は不思議そうにしているがとりあえずは頷いた。しかし斉藤はそう簡単に納得してくれない。
「話があるなら屯所で良いだろう」
「…大した話じゃありませんから。申し訳ないんですけど、隊士たちを頼みます」
「待て」
斉藤は去ろうとした総司の腕を掴む。鈴木の件だけではなく、彼は本能的に何かを察しているので気がかりなのだろう。
しかし総司はそれを振り払った。
「離してください。何もないと言っているじゃないですか。…それに…なにかあったとしても、あなたには話しませんよ。こちら側かあちら側か…わからない、あなたには」
「!」
総司の拒絶に対して、斉藤は彼らしくない驚きを見せた。そしてそれを聞いていた島田も
「先生!そのような言い方は…!」
と声をあげる。斉藤は謹慎が明けたばかり。伊東に与するような行動に対して皆が猜疑心を持っている。そのような状況で総司からはっきりと拒まれればさらにその立場が揺らぐだろう。
斉藤は再び淡々とした表情に戻った。
「…わかった。島田、戻るぞ」
「は、はい…」
斉藤は足早に背をむけ、島田は何か言いたげに総司を見ていたが命令に従った。そうして一番隊と三番隊の隊士たちが去っていき、鈴木とともに残される。総司は安堵しながら
「行きましょう」
と人気のない場所へと鈴木を連れていく。屋内となるといつ誰が聞き耳を立てているのかわからないので、監察の目が少ない鴨川沿いの木陰だ。
「…すみません、巻き込んでしまって…でも何も言わないでくださって助かりました」
総司は丁寧に頭を下げた。あの状況で鈴木が喀血のことを言えば全てが水の泡となっていたのだ。
鈴木は眉間に皺を寄せていた。
「…兄の謹慎が解け、好物の菓子を買い求めた帰りに出くわしただけなのですが」
「もちろんわかっています。斉藤さんは…なんていうか、用心深い人なので深読みしただけだと思います。許してあげてください」
「…兄も斉藤組長のことは気に入っていますから、揉めるわけにはいきません」
無闇に疑われれば不快に思うのは当然だが、兄のためにどうにか矛を収めてくれたようだ。
鈴木ははぁ、とため息をつきながら
「それで、労咳ですか?」
と率直に尋ねた。彼は伊東とは真反対で周りくどい言い方はしない。そのせいか総司も誤魔化すつもりは毛頭なかった。
「…ええ。そのように医者から言われています」
「近藤局長や土方副長はご存知なのですか?」
「いえ…」
早速核心を突かれ、総司は視線を外す。
しかし鈴木は同情などはしなかった。
「医者に診せたのなら養生を勧められたのでは?それに労咳は死病で、感染る病と聞いています。今までも何人か隊士が除隊になっている」
「…」
「俺が言わなくとも、自分の取るべき道は分かっているのではないですか」
清々しいほどに正しい指摘だった。どんな理由があっても、病を隠してまで隊にいたいなんて総司の甘えでしかないのだ。
しかし。
「…鈴木さんは想像したことがありますか?自分が戦場で死ぬことができず、畳の上で終わりを迎えることを」
「…」
「私は想像したことがありませんでした。病なんて自分には関係ない…なぜそんな風に思えていたのか今ではわかりませんが、自分の思い通りに生きて、死ぬことができると過信していたんです」
一本の剣として、折れる。
それができるなら本望だと思っていたのに、実際は錆びて朽ちていくだけの古刀に成り下がるしかないなど、考えたことがなかった。
「いつまでも隠し通せることだとは思っていません。いずれ、養生するつもりです。でもそれまで黙っていてもらえませんか?」
総司はもう一度頭を下げた。鈴木には黙っている理由はなく、ただ懇願することしかできなかったのだ。
すると鈴木はしばらく黙り込み、「なぜ」と呟いた。
「え?」
「なぜ、土方副長に黙っているのです。あなたとは…そういう仲のはず、なぜ打ち明けないのですか」
英と同じ質問をまさか鈴木からも尋ねられるとは思わなかった。彼はどこか土方と総司の関係について否定的だと思っていたのだ。
「…大切だからこそ言えません。あの人がどんな反応をするか…わかってしまいますから」
「…」
「でも…そうですね、いつか知ってしまうことになるでしょう。その時は、謝るしかありません。役立たずで、申し訳ないと…」
そんな日は永遠に来なければ良いけれど、近いうちにやってきてしまう。想像するだけで胸が締め付けられるような寂しさが溢れる。
すると、鈴木ははっきりと「違う」と口にした。
「違う…?」
「謝られる側の立場を考えたら良い。どんなに苦しく…情けないことか」
鈴木は総司がその言葉を理解する前に、手にしていた小包を押し付けるように渡してきた。
「これは兄上の好物です。甘いものですから、あなたも好きでしょう」
「え…?」
「いずれ話すことなら、俺は黙っています」
それだけ言うと、鈴木は去っていく。あまりに突然の行動に総司は感謝も謝罪も口にすることができずに、あっという間に小さくなる背中を見送った。
「…憎めないひとだな…」
総司は苦笑する。そして彼が言い放った言葉の意味をゆっくりと理解した。
(僕は勝手だ…)
自分のことで精一杯で、土方の気持ちをわかっているようでわかっていないのかもしれない。



鈴木が屯所に戻ると、伊東の腹心である内海が
「ああ、戻りましたか」
と待ち侘びていたような言い方をして呼んだ。
「…なにか?」
「伊東参謀がお呼びです。大切なお話だそうですから、すぐに来ていただけますか」
「わかりました」
内海に言われるがままに、屯所の奥、参謀の部屋に入った。部屋は少し物が減ってすっきりとしているように見えた。
「兄上、お呼びですか」
「座りなさい」
「どこへ行っていた?」
そんなことを尋ねられるのは、初めてのことかもしれない。兄弟として特別扱いされることもあるが鈴木自身は兄である伊東とは距離を感じていた。それは幼い頃の境遇の違いか、それとも父が違うせいか…いつか尋ねてみたいと思うがその日は永遠に来ない気がしていた。
「…非番でしたので、少し町へ…」
謹慎明けの兄を喜ばせようと菓子を買い求めたのだが、結局はそれは総司の手に渡ったので曖昧に答えるしかない。
(あの人が病であることは…兄にとって有用な情報なのかもしれない…)
そう思いつつも話す気にはなれなかった。兄への忠心よりも総司との約束が勝ったのは自分でも意外なことだったが、
(気が進まないだけだ)
と自分に言い聞かせた。
「その…お話というのは?」
「…明日から、新井君と九州へ行くことになった」
「九州へ?」
鈴木は驚いた。兄は謹慎明けの身でありしばらくは不自由を強いられると思っていたのだ。
「大目付の永井様に同行する。薩摩などを廻り、ふた月ほどで戻ってくる予定だ」
「そんな…危険な道中では…」
「安全ではないが、重要な旅だ。皆にも伝えるが、お前には……無駄に騒ぎ立てることなく、大人しく屯所で責務を果たすように…そう、伝えるために呼び出した」
弟に対していつも不遜な伊東だが、らしくなく少し言葉を選ぶように言った。そばに控えていた内海が何かを咎めるようにチラリと伊東を見たが、意に返さずに
「わかったか?」
と念を押された。鈴木は戸惑いながらも、兄はきっと早く話を切り上げたいのだろうと察して
「兄上がそうおっしゃるのならば…もちろん、その通りにいたします」
と素直に頷く。すると伊東は「話が終わりだ」と告げて退室を促してきた。
雑に扱われるのは慣れているので、言われるがままに鈴木はそのまま去った。伊東の遊説については色々と尋ねてみたいことはあったが、きっと何か考えがあるのだろう。
その鈴木の足音が聞こえなくなる頃、
「大蔵さん」
と、内海が責めるように昔の名前を口にした。
「…いいだろう、別に…そもそも逃げるつもりなどない、あいつは通常通り過ごせば良いのだ」
「もちろんそうですが、人質である旨は伝えるべきなのでは?」
「…妙な勘違いをされては困る。ただ血縁だという理由しかないのだから」
伊東は扇を少し開いてはパチンと閉める動作を何度も繰り返していた。無意識なのだろうが、内海にはそれが苛立った様子にしか見えなかった。
「…わかりました。必要になればこちらから伝えます」
「頼む」
伊東がようやく一息ついた時、
「伊東先生、藤堂です、よろしいでしょうか?」
と明快な声が聞こえてきた。








615


藤堂は伊東の顔を見るや、安堵の表情を浮かべて深々と頭を下げた。
「三日間に及ぶ謹慎、お疲れ様でした」
「私には悪くない謹慎だったが、皆には心配をかけました」
「いえ、先生のことですから何かお考えがあるのだと皆、信じていました」
「君が励ましてくれたのだろう?内海から聞いているよ」
伊東は実弟の鈴木とは真逆の態度で、柔和な表情を浮かべて藤堂を労った。素直な彼は照れ臭そうに頭をかいて「俺なんかなにも」と謙遜した。
「でも、永倉さんまでご一緒だったなんて…あの人は漢気があって頑固ですから、この状況での正月の宴なんて誘いに応じるなんて意外でした」
「斉藤君がうまく誘い出してくれたんだ。彼とはあまり一対一で話をしたことがなかったが、とても有意義な時間だったよ」
「先生のお味方になりそうですか?」
藤堂は飾らない言葉で尋ねるが、伊東はすぐに察した。
「…もしや、土方君から既に話を聞いているのかい?」
謹慎前に分派の際には藤堂を仲立ちにしたいと申し出ていたのだ。すると藤堂は頷いて、声を潜めた。
「伺いました。先生は今後の新撰組のために分派をお考えだと。そのための新撰組との橋渡し役に俺を指名してくださったと…」
「すまない、私の独りよがりの勝手な考えにすぎないのだ。分派には危険を伴うし試衛館の仲間たちともなかなか会いづらくなるだろう。もちろん、君の意思を尊重するつもりだよ」
「俺の気持ちは固まっています」
藤堂は即答し、改めて姿勢を正した。
「…薩摩の情報を得るのは我々にとって急務だと思います。危険を承知で動かれる伊東先生は素晴らしいと思いますし、先生が信頼してくださった光栄なお役目、喜んでお引き受けしたいと思います」
「分派という形だが、裏切りだと後ろ指を刺されるかもしれない。それでも良いのかな?」
「勿論です。その覚悟はできています」
藤堂は淀みなく称賛し引き受けると宣言した。伊東は膝を立て近づくと藤堂の両手を強く握った。
「ありがとう。君が間に立ってくれなければ局長たちの信頼を得難く説得できないのだ…恩に着るよ」
「はい!」
藤堂は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。まるで犬が主人に尻尾を振っている姿そのものだ。
「私は明日から新井とともに九州へ赴くことになった。いつ戻るかわからないが、これも今後のためだ。くれぐれも皆と…愚弟をよろしく頼む」
「任せてください!」
藤堂は伊東の強く手を握り返す。「痛いよ」と伊東が冗談めかして笑うと、「すみません」と慌てて離した。そして上機嫌のまま部屋を去っていく。
「藤堂先生はあっという間に大蔵さんの虜のようだ。…この三日間で、土方副長も動いているようですね」
内海が声のトーンを落としながら伊東に視線を送る。伊東は頷いた。
「当然だ。土方君としては、藤堂君を近くに置きたかっただろうが…彼のことだ、無理強いすればするほど心は離れていく。藤堂君はあくまで仲立ちなのだから裏切ったという感覚は少ないだろう」
伊東は手にしていた扇をパチンパチンとゆっくりと手のひらに打ちつけた。
「…永倉君は藤堂君も言っていたが、漢気がある。それ故に残念ながらこちら側につくということはないだろう。まあ、藤堂君と斉藤君を得ただけで重畳としなければならないか…」
「大蔵さんは斉藤組長がこちら側の仲間だと?」
内海が怪訝そうに尋ねてきた。彼はいまだに疑いを持って接しているのだ。
「…仲間かどうかはわからないが、こちら側に立とうとしているのは感じる」
「曖昧な。どういう意図でこちら側になろうとしているのかわかったものではない」
内海はよほど気に入らないのか、彼らしくなく吐き捨てた。
「わかっているよ。信じているわけではない…それに土方君の指示で近づいているのなら、それはそれで面白いじゃないか」
「面白い?大蔵さん、これはこれまでのような遊びではありませんよ。下手すれば命に関わる」
「それ以上はここではやめよう」
その言葉で内海はハッとした。ここは伊東の別宅ではなく、誰が聞き耳を立てているかわからない屯所の一角なのだ。「申し訳ありません」と頭を下げる。
「それから…私はもう大蔵ではない」
「…いえ、敢えてそう呼ばせていただいています。最初から『甲子太郎』という名前には違和感があったのです」
『甲子太郎』は新撰組に入隊する際にその喜びを示して改名したものだ。これまで伊東は幾度となく言い間違える内海を糺してきたが、もしかしたら最初から彼は抗っていたのかもしれない。
「そうか…そうかもしれないな…」


斉藤は屯所に戻ると、土方のもとへ訪れた。ちょうど勘定方の隊士数名が隊費の報告に居合わせていたが、
「報告しろ」
と土方が促したのですぐに膝を折った。
「異常ありませんでした」
短い言葉に「そうか」と返す。いつものやりとりだが二人の間には緊張感があり、間に挟まれた平隊士たちは居心地が悪そうだ。
土方は筆を置いて、ふん、と鼻で笑った。
「伊東との宴はどうだった?三日三晩、規則を破って爽快だったか」
「…悪くはありませんでした」
「悪くない、か。お前にしては上々の褒め言葉だな」
「…」
苛立ちをぶつけてくる土方に対して、斉藤は淡々として表情ひとつ変えなかった。彼がそのような嫌味を口にすることはわかっていたからだ。
「…伊東先生は話し上手であり、聞き上手です。隊士たちが心酔するのも理解できます」
「お前もだろう?」
「そうですね」
土方の挑発に対し斉藤があっさりと即答したので、隊士たちはさらに肝を冷やしたように背筋を伸ばした。二人の間にピリピリと焼きつくような緊張感はピークに達し、彼らは居た堪れない様子だ。
「酔いが覚めていないらしい。あと数日、永倉のように謹慎したらどうだ」
「罰はずるずると長引かせるべきではありません…と、伊東先生ならおっしゃると思いますが?」
「…もういい、出ていけ」
土方が手を振ってぞんざいな態度を見せる。斉藤も「はい」と短く答えて背中を向け去った。その場に残された隊士たちは肝を冷やしたが、
「お前たちも出直せ」
と土方が人払いを求めたので、内心安堵しながら部屋を出て行った。
土方は誰もいなくなった部屋で深くため息をついた。
(全く…こんなに憎まれ口が得意だったとはな)
内心苦笑しながら、土方は冷たくなった茶を飲み干した。乾いた喉に流し込まれたそれはちっとも美味しく感じない。ただ感じるのは、疲労感だけだ。
「疲れたな…」
声に出したのは久しぶりだ。弱さを吐露すれば隙になる…そんな風に自分を律したのは一体いつからだっただろう。それを平気だと思えていたのはきっとそばに理解してくれる存在があったからだ。
「…総司…」
無意識に呼んでいた。
あの日以来、顔を合わせていない。互いに避けているし、声すら聞こえないほど遠くにいる。
あれから何度も考えた。総司が言っていることは本当なのか、好いた女子がいるというのも事実なのか、それとも別の理由があるのか…。もちろん監察を使って探り出すことは可能だろうが、彼との間に別の人間を挟むような無粋なことはしたくはない。
本人に尋ねてみるしかないのだろうが、頑固なのは昔からなのでそう簡単に口を割らないだろう。
「…くそ…」
(それでも俺は…お前のいうことを信じたくはない)
過去も現在も未来も…共に在ると誓った約束を、無かったことにはしたくはない。







616


新しい年を迎えて数日、一段と冷え込む真冬の天候が続いていた。
「喀血は一度だけ?」
英の問いかけに、総司は「はい」と頷いた。
ひっそりとした路地にある旅籠は屯所から少し距離のある場所にある。念を入れて毎回待ち合わせ場所を変えて診察を受けているが、今のところ監察からの尾行はついていないようだ。もちろん病以外で邪なことはないので、一番隊組長である自分に疑いが向くはずはないのだが、それでも非番の隊士や顔見知りは多いので、こうして診察を受けている間も緊張感が拭えない。
英もそれを悟ったのか、何度も
「ゆっくり息を吸って、吐いて」
と指摘した。
定期的な診察は英に任せ、病状が進行すれば加也を呼ぶことになっていた。最初はぎこちなかった英との時間も三度目にしてようやく慣れてきたところだ。
「血を吐いたのはいつ?」
「三ヶ日から少し経った頃ですね。ちょうど巡察をしていて…」
「誰かに見られた?」
「同僚の、組長に…。胸に留めておいてくれると約束してくれましたが…」
偶然通りかかった鈴木は病を隠す総司をはっきりと責めたが、それでも内密にしてくれているようで音沙汰はない。もっとも、数日前に彼の実兄である伊東が九州へ遊説に出たことでそれどころではないのかもしれないが。
「同僚って…斉藤さん?」
「いえ…斉藤さんは同じ巡察だったのですが、どうにかやり過ごしました」
「ふうん…あの人も案外抜けているんだな、気がつかないなんて」
英は苦笑した。
総司は彼と斉藤の関係については詳しくは知らない。ただ何らかのタイミングで出会い時々ともに飲んでいるのだと聞いたことがある。蟒蛇の斉藤に付き合えるくらいなので、英も相当なのだろうし、軽口を言えるくらいには仲が良いのだろう。
「…まあ、ちょっと酷いことを言ってしまいました」
あの時、無関係の鈴木を責める斉藤をはっきりと拒み、島田や一番隊、三番隊の隊士の前で伊東に寄りつつある斉藤を信頼できないと口にしたのだ。それ以来斉藤とは会話はなく、そのせいで二人が仲違いをしたと噂は加速した。さらに斉藤は土方とも対立したと勘定方からの追い風があり、いっそう孤立を深めた。
もちろん総司の本心ではない。蚊帳の外ではあるが総司なりに知恵を働かせたのだ。
(斉藤さんにとって都合が良いように動けるはずだ。それに…病のことも気づかれずに済む)
察しの良い斉藤があらゆることに気づかないはずがないのだ。だから斉藤の立場を利用した。我ながら人が悪いと思うけれど。
「どんなことを言ったのかわからないけれど、あの唐変木が簡単に傷ついたりはしないだろうさ」
英は聴診器を外しながらそんなことを言った。彼なりの慰めだったのかもしれない。そして英は医者の顔に戻った。
「特に大きく進行しているわけではなさそうだけど、喀血があったのならやはり悪くなっているはずだ。喀血があった時はできる限り心の臓を下にして横になり、落ち着いて深呼吸をすることが肝要だ」
「わかりました」
「あとは滋養の良いものを食べること。少し…痩せている」
総司には自覚はなかったが、食欲があるかと言われれば減退はしている。病のせいか精神的な面か、そのどちらもなのか。
「しばらくここで休んで行ったら良い。今日は休みなんだろう?」
「ええ…でも、長く屯所から離れるわけにはいきません」
総司は病がわかる前まで非番の日でも屯所で過ごすことが多かったため、こうして休みのたびに出歩くと変に思う者も出てくるかもしれない。
すると英は呆れたようにため息をついた。
「全く…病人の自覚がないから困る。姉さんも言っていただろう、非番の日は身体を休めるようにと。約束を破ったと言いつけるぞ」
「それは勘弁してください。お加也さんは怒ったら怖そうだ。…わかりました、少し横になります」
「その襟巻きをしたら?暖かそうだ」
「はい。配下の隊士が贈ってくれたんです」
総司はこのところ愛用している襟巻きを肩から掛けた。温かな山野の優しさに包まれるようだ。
そのせいか、その時フッと彼の顔が浮かんだ。池田屋で倒れて以来、何かと体の具合を気遣ってくれた彼は労咳を知ったらどう思うだろう。気づかなかった自分を責めるだろうか、後悔するだろうか。
「…やっぱり、私は勝手ですよね」
「何が?」
「同僚に尋ねられたんです、なぜ打ち明けないのか。私はそれは自分のわがままで、いずれ気づかれた時には謝るつもりだと答えたら、それは間違っていると。土方さんや斉藤さん、他の皆がどう思うのか考えるべきだと…」
寡黙な鈴木がそんな意外なことを口にしたのであの時は驚くだけだったが、その言葉はじわじわと胸の中を占めていた。
大切な人たちに少しでも早く打ち明けることが、彼らの後悔を減らすのならそうすべきではないか。刻一刻と命と時をすり減らしているというのに、自分の勝手で彼らとの時間を減らしているのではないかと。
「この選択が正しいのか、少しわからなくなってきました…」
病を伏せておきたいのは、現実逃避しているだけではないのか。
そうすることで人を守るつもりで、自分を守っているだけではないのか。
自分に問いかけても答えは出なかった。
英は診察道具を片付けながら、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「…俺にはよくわからない。病のことはわかっても、いつも患者の気持ちは十人十色だ。悲しみも、後悔も…人それぞれ大きさも深さも違う。だから一つだけ言えるのは、『正しい』を求めない方が良いということだと思う。『正しい』のは大切だが、一番大切というわけではないはずだ」
「…」
「少しでも後悔があるのなら、『正しさ』よりも心の赴くままに動く方が、きっと『間違ってはいない』だろう」
いつも正しいのではなく、最善であれば良い。
英の言葉が雁字搦めになった心を少し解きほぐす。
労咳になってからずっと自分を許せずに、自分のすべきことを考えた。細い綱渡りを繰り返すようにどうすべきか何度も何度も。
けれど本当は他にも道があるのかもしれないということに目を向けてもよかったのに。それが逃げ道だと感じ、許せなかったのだ。
「…ああ、何だからしくないことを言った気がする。本当にあんたといると調子狂うよ」
英は照れ隠しのようにそういうと「じゃあ」と立ち上がり部屋を出て行こうとする。
総司はその背中に
「ありがとう」
と言った。彼はひらひらと手を振って、そのまま去っていった。


その日の夕刻、総司が屯所に戻る途中に再び鈴木と出会った。彼も非番だったようだが、その顔は険しく歪んでいる。
「どうかしました?」
「…この数日、嫌な視線を。屯所にいても外に出てもまとわりつくから、監察の類だろう」
「監察って…」
「兄が九州に出立してから特に強くなった」
鈴木は面倒そうにため息をついた。
先日の正月の宴、そして伊東の九州行きで伊東派への風当たりが強くなった。小さなヒビのような歪みが隊士の中で生まれつつあるせいで、監察が目を光らせているのかもしれない。
「九州行きは大目付の永井様たってのご希望で伊東参謀が同行されたと伺いましたが」
「…さあ、俺はいつも蚊帳の外で兄の考えていることはわかりません」
鈴木は総司を警戒し口を閉ざしている…というよりも本音が漏れたような言い方をした。兄弟でありながら親しくしている素振りは一切なく、むしろ兄である伊東が鈴木をぞんざいに扱っているようなところがある。兄弟仲は決して良くはないのだろう。
鈴木が歩き出したので、総司も隣に並んだ。彼は一瞬気に留めたようだが、嫌がらなかった。
まじまじと総司は鈴木を見た。まるで人形のように精巧な美しさを持つ伊東の美貌とは違い、彼は硬派な偉丈夫で真反対のように見える。しかし兄が目立ちすぎるせいであって、決して彼が劣るわけではない。むしろ
「ああ、よく似ているんですね」
と総司は思わず漏らしていた。すると鈴木は驚いた顔をした。
「似ている?まさか、兄と?」
「え?ええ。今まであまり似ていない兄弟だと思っていたんですか、横顔はよく似ていますよ」
光と影のように正反対であってもその輪郭が同じであるように、二人の凛とした眼差しはよく似ていた。今まで気がつかなかったのは彼とこうして向き合う機会がなかったせいだろう。
鈴木は総司の素直な感想に唖然としていたが、視線を逸らして「そうですか」とそっけなく答えた。いや、そっけないのではなく気恥ずかしいようだ。
(耳が真っ赤だ)
総司は何だか可笑しくなった。
「似てるって言われたことないのですか?」
「ありません、皆口を揃えて似ていないと」
「へえ、でもきっと笑ったらもっと似ていると思いますよ。ほら、伊東参謀のように口角を上げて笑ってみてください」
「調子に乗らないでください」
茶化す総司を鈴木は嫌がる。しかしそれまでのような嫌悪はなく、まるで友達のような距離感だ。
「きっと似ているのになあ」
総司はハハ、と笑う。
久しぶりに心から笑ったような気がした。









617


朝の巡察を終えると、総司は引き止められた。
「先生、お話があるのですが…」
いつになく神妙な顔で申し出てきたのは山野だった。河上による怪我は癒え、ようやく完全復帰を果たした彼だったが浮かない表情だ。
「構いませんが…」
最初、総司は彼が自分の病を察したのかと思ったが危急の雰囲気ではなく思い悩んでいるように見える。総司は「場所を変えましょう」と西本願寺の屯所を出て、当てもなく歩き始めた。
しばらく隣を歩きながら山野は何か言いたげだったが、言葉選びを迷っているように見えた。何か言いかけてはその口を閉じ、もごもごと思案している。総司は辛抱強く彼の話を待ちながらふらふらと歩くと、
「…その襟巻き、使ってくださっているんですね」
と、ようやく話し始めたが、本題ではないだろう。
「愛用してますよ、暖かくて助かっています」
「…そうですか、良かった。このところお出かけのたびに使ってくださっていて嬉しいです。そのぅ…これは、原田先生から伺っただけの、下世話な噂話に過ぎないのですが。もちろん、僕は信じてはいないのですが」
「うん?」
くどい前置きをしたあと、それでも山野は何か言いづらそうにしていたが、ついに意を決して切り出した。
「先生、懇意の女子がいるというのは本当ですか?」
その質問に総司は唖然とし、思わず足を止めた。
「…私に?」
「はい。最近、非番のたびに外出されて帰営も遅く…そのように勘繰る隊士がいるようなのです」
「ハハ、そんな理由で?」
「いいえ、それだけではありません。先生が上七軒の芸妓と話し込んでいるのを見た隊士がいるのです。とても親しげだったと…。しかも、その女子が土方副長と何やら噂になっている女子だとか…」
「…」
「だから、先生と副長が喧嘩をしているのはそのせいではないかと…原田先生だけではなくそんな根も葉もない話を何度か耳にしたのです。僕としてはとても信じられず馬鹿馬鹿しいと思うのですが、無闇に否定すると話は大きくなると島田先輩が仰るので応戦するわけにはいかず…歯がゆいのです」
山野がとても真摯な表情を浮かべており、彼が本気で心配していること、そして彼から向けられる信頼をひしひしと感じた。それと同時に『根も葉もない噂話』というのはなかなかないものだと感心してしまった。
土方と君鶴に面識があるのかはわからない。けれど総司と君鶴が知り合いであるということはつまりそういう推測が成り立ってしまう。
(なるほど、考えもつかなかったな…)
「先生?」
「…ああ、すみません。まさかそんな話になっているとは思わず、驚いてしまいました」
総司は苦笑しながら再び歩き始めると、山野が少し遅れて追いついた。
「でしたら、先生、ただの噂なんですよね?よりによってお二人が女子を巡って喧嘩だなんて僕は信じられません」
「…喧嘩の理由は違いますが、私がその女子と顔見知りであるのは間違いありませんよ。何度か話し込んだことはあります」
「…それは、その…?」
山野は困惑していたが、総司は続けた。
「まだ若いですがとても聡明で可愛らしい女子です。まあ…土方さんと懇意であってもおかしくはないかな」
「まさか!」
山野は通行人が驚くくらいの大声を張り上げて、総司の前に立ち塞がるようにして立った。そして総司の両腕を掴み「あり得ません!」と首を横に振った。
「先生!土方先生が別の誰かを懇意にするなんて、そんなはずはありません!なぜそんなことをおっしゃるのですか!」
「山野君…」
「先生は、最近らしくありません。土方先生だけなく斉藤先生とも仲違いをされ…全然、いつもと違う」
「…」
「僕はお二人の喧嘩の理由はわかりませんが、それでも僕は…信じてます、そんなことあり得ないと!絶対にです!」
彼があまりにも必死に訴えるので、総司は「落ち着いて」と彼を宥めた。そして往来から人の目が少ない小道へ移り、なぜか涙目になっている山野の肩を撫でた。
「…すみません、山野君を心配させるつもりではなかったんですが…言い方が悪かったですね」
「先生…」
「私も…疑っているわけではないんです。ただ今は…別のことで、揉めていて」
「揉めている?どうしてですか」
「それは…」
別れ話をしている、など近藤にさえ言えなかったことを配下の山野に話すわけにはいかない。それにただの噂話でこれほど心配をかけているのだからこれ以上、彼を悩ませるわけにはいかないだろう。
「…そのうち、仲直りしますから。だから心配しないでください」
「…本当ですか?」
「本当です。それに、非番のたびに出歩いているのは気分転換というか、今は色々あって屯所のなかの空気が悪いでしょう?ややこしいしがらみが面倒で…ただ、それだけですから」
「…わかりました」
山野は全て納得したというわけではないようだったが、それでも頷いて目尻の涙を袖で拭った。まるで子供がするような仕草に総司は自然と笑みが溢れた。しかし同時に罪悪感も生まれる。
「…甘い物でも食べに行きますか」
「はい。温かいものが良いです」
山野のリクエストに総司は「はいはい」と応える。
ちょうどはらはらと雪が舞い始めていた。



土方は別宅へ足を踏み入れた。
会津本陣から戻った近藤から報告を受けていたのだが
「具合が悪いのだろう?」
とあっさり見破られたのだ。寝不足と疲労が重なっていたことに加え、伊東が出立するまで気を張っていたせいかいなくなった途端、一気に気が抜けた。
「屯所だと気が休まらない。俺に任せて別宅で休んだらどうだ。そうしろ」
近藤の助言に従い、土方は別宅に向かったのだ。
世話役のみねの姿はなく、無人の別宅はしんと静まりかえっている。ガラガラと開けた扉の音でさえも響き渡り、いつもよりも広く感じた。
「…」
水を汲み、飲み干した。凍るような冷水が身体の隅々まで行き渡り、少し気分が良くなった。
重たい身体を引きずるようにして部屋に上がる。文机だけの部屋に殺風景な部屋に総司はいない。
(当然だろう…)
自分から遠ざけておいて、求めるなんてーーー具合が悪いせいか、思考が鈍っている。
そんな風に自分を責めながら土方は身体を横たえた。
ふと視界に文机の上にある花壺が目に入った。先日から彩られた梅の枝は外の冷風から逃れたおかげかその小さな蕾を開き満開を迎えていた。
「…」
可憐な梅の花が、この虚しい部屋に咲いている。その不釣り合いな光景に目を奪われた。
誰にも見られることなく、土方のためだけに咲いたような。


山野とともに屯所に戻ると、近藤が待ち構えていた。
「どうしたんですか、先生」
「うん、お前に頼みがあってな。会津からの書状があるのだが、別宅に届けてほしい」
「…先生、これはお急ぎですか?」
「もちろん、大急ぎだ」
「でしたら足の速い隊士に持っていかせましょう。あ、山野君にお願いしようかな」
「僕ですか?」
総司が話を振ったので山野は首を傾げたが、近藤は「ダメだダメだ」と手にしていた書状を無理矢理総司に押し付けた。
「歳の別宅は遠いし道が入り組んでいる。それに鬼副長の別宅にか弱い子犬のような山野君を行かせるなど可哀想じゃないか。なあ、山野君?」
「は…はい、僕では道に迷ってしまうかもしれませんし、恐れ多くて別宅になど近づけません!」
近藤と山野は視線を合わせてうんうん、と頷き合う。どうやら二人の意思疎通ができたようだが、鈍感な総司でさえ彼らが何を言いたいのかわかる。
「……先生、私は…」
「いいから、頼むよ。大急ぎの書状なんだ、必ず手渡ししてくれよ」
近藤が「頼むよ」と笑って総司の肩を強く叩く。仲直りしてこい、と背中を押すように。
「…わかりました」
総司は書状を懐にしまい、もう一度屯所を出ることにした。







618


日が暮れた頃、縁側に人の気配を感じ土方は目を覚ました。
「誰だ?」
玄関ではなく人気のない裏口から庭に入り、縁側からやってくるのは限られた者だけだ。いつもは寝起きの悪い土方だが、不思議とこのルートからの人の気配には敏感になっていてすぐに意識が覚醒する。
「俺です」
そのルートの常連の声がして、土方は障子を開けた。そこには提灯を持った山崎がいた。
「急ぎの用事か?」
「いえ、ただ早めにお耳に入れた方が良いかと思いこちらからお邪魔しました。お休みでしたか」
「いや…良い。上がれ」
土方が招き山崎は「では」と遠慮なく縁側から部屋に入る。彼は外と大差ない部屋の寒さに気がつくと眉間に皺を寄せた。
「火鉢もつけず…具合が悪いと局長から伺っていましたが」
「いつの間にか寝ていた」
「はぁ…らしくないこともあるものですな」
山崎は障子を閉め膝を折ると、提灯の火を近くにあった火鉢に移した。早速仄かな温かみをもたらしはじめた火鉢を土方の傍に寄せ、懐から薬を差し出した。
「念のため、南部せんせのところから頂いた風邪薬です。副長のとこの石田散薬ほど効き目はないかもしれまへんが」
「…いや、ありがたく頂く」
土方は山崎の軽口にも乗らず素直に薬を受け取った。
いまは組長としての働きだけではなく医学方として隊を支える山崎だが、かつての『癖』が抜けないようで
「伊東派の動きですが」
と領分外の本題を切り出した。
「…何か動きがあったのか?」
「腹心の内海と篠原が戒光寺を訪ねたようです」
「戒光寺…」
「御寺の塔頭のひとつです。参謀が以前から足を運んでいました」
御寺は東山泉涌寺の別称である。歴代天皇の墓所があり昨年末薨去した孝明天皇の御陵もここになり当然、朝廷と関係が近い。
「ここの湛然という僧侶はえらく参謀を気に入ってました。噂では威厳のある長老ですが若く美しい者なら男でも女でも寵愛するのだとか…」
「ふん、あの顔で勤皇を語れば篭絡するのは容易い」
「おそらく。それで…朝廷からなんらかの後ろ盾か役職を得ようとしているのではないやろかと」
山﨑に言われる前に土方も察していた。
「ああ…奴の考えそうなことだ。御寺を頼ったということは寺侍か墓守にでもなるつもりか。お似合いだな」
「御寺には『知り合い』がおりますんで、また報告します」
「ああ、頼む」
監察方には有能な隊士を置いているが、山崎の人脈に勝るものはない。籍を離れたものの監察としての癖が骨身に染みているようだ。
火鉢がその役割を果たし始め、土方は冷たく凍った手を翳した。大抵、用事が済んだらさっさと出て行く山崎だが、今回はそうはせずに留まっている。
「まだ何かあるのか?」
「へえ…まあ…」
曖昧な答え方をした山崎は、少し迷っているように見えた。しかし一息ついて話し始める。
「その…副長は、隊内の噂はご存知で?」
「…俺と総司のことか?」
「そうとも言えますが…えらい、くだらない噂です。お二人が女子を取り合っているなどと」
「へぇ?」
山崎は土方のリアクションでまだ彼の耳に入っていなかったことを察する。
「上七軒の君鶴という舞妓はご存知ですか?」
「…俺の馴染みだということになっているらしいという話だけは聞いた」
「はい、花街ではそのような話がまことしやかに。実はその女子が沖田せんせともお知り合いのようで」
「…」
「隊士の誰かが親しげに話しているのを見たということで、そのような噂になっているようです」
山崎は吐き捨てるように言ったが、土方は合点がいく。
(総司の相手がもしその君鶴なら、あいつが頑なに口を閉ざすのも理解できるな…)
土方の馴染みだと勘違いしているなら、絶対に名前を出さないだろう。
山崎は続けた。
「それで、その上七軒の君鶴ですが…心当たりがありまして」
「心当たり?」
「ええ…確認したところ、やはり数年前まで『鶴』と呼ばれた、君菊の禿でした」
懐かしい名前を久々に他人の口から耳にした。誰もが土方の前ではその名を出さずにいた女子ーーーしかし、上七軒の『君鶴』と聞いて思い当たらない方が難しい。土方にはすでに予感があった。
山崎も君菊とは池田屋の際に浅からぬ縁があるので、すぐに思い至ったはずだ。
「そうか…」
「もしかしたら君菊と君鶴が混同して副長の馴染みだという噂になっているのかもしれまへんな」
「…総司は知っているのか?」
「さあ…」
そこまでは、と山崎は首を横に振る。
「必要なら、探ってみましょか」
「いや、必要ない」
土方は即答した。試衛館食客のなかでも、近藤と総司のことを第三者に探らせるなど土方の中の選択肢にはない。山崎も心得ていて「わかりました」とすぐに引き下がった。
「では、俺はこれでお暇します。そろそろ客人がいらっしゃる頃合いでしょう」
山崎がそんなことを言って膝を立てた時、扉を叩く音が聞こえた。火の消えた提灯を持ちきた時と同じように縁側から姿を消し、その気配はすぐに闇夜に紛れてわからなくなった。
そうしている間にもコンコン、と中の様子を伺うように何度か扉を叩く音が聞こえる。土方は羽織を肩からかけて扉の前に立った。
「…土方さん」
扉の向こうから聞き慣れた声がする。山崎の意味深な物言いのせいで、何となくそんな気がしていた。
「何の用だ」
「近藤先生に書状を渡すように頼まれたんです」
「そこに置いておけ」
「いえ…手渡しするようにと。渡したらすぐに帰ります」
「…」
扉の向こうから聞こえる総司の声を聞くだけで、心が揺れる。彼がやってきたのは近藤のいらぬお節介なのだろうが、あれほど顔を見せるなと拒絶しておいてこの扉を開けようとしている自分がいる。
顔を見たら、この複雑な感情をぶつけてしまう。
君鶴とはどんな関係なのか、お前の想い人なのか、本当に別れるつもりなのかーーー女々しく当たり散らしてしまいそうで。
「…そこに置いておけ。お前が去ったらすぐに受け取る」
扉を前に苦々しい気持ちで拒む。総司からしばらく返事がなく、二人の間に重たい沈黙が流れた。
「……土方さん…」
「なんだ…」
「…」
「…何だって?聞こえない」
扉の向こうでか細い声が聞こえる。言葉として何を口にしているのかはわからなかったが、絞り出すような哀しみ含んだそれは、まるで助けを求めるかのように弱々しい。
「…いえ、じゃあここに置いておきます。近藤先生には手渡ししたと報告しますから話を合わせてください。…では」
やや早口で総司はそういうと、踵を返して戻っていく気配がする。一歩、一歩…遠ざかっていく足音を耳を澄ませて聞いていた。
けれどついには我慢ができなくなって、ガラガラと扉を開けて、気がつけば、
「総司!」
と叫んでいた。
けれどすでに総司の姿はない。足早に去っていってしまったのだろう。
「くそ…!」
土方は苛立ち、後悔した。なぜ扉を開かなかったのか、総司が何を言ったのかもっと聞こうとしなかったのか。
あんな風に悲しませるくらいなら、どうして引き止めて抱きしめなかったのだろうーーーと。


土方に冷たく拒まれ、総司は自分が思った以上にショックを受けていることに気がついた。
扉の向こうが果てしなく遠く感じ、何を言ってももう彼の心の扉が閉じられてしまったのだと感じた。
(わかっていたのに…)
傷つく資格なんてないのに、思わず口にしていた。
「ごめんなさい…」
けれど幸か不幸かその言葉は扉に阻まれ土方の耳には入らなかったようだ。
これ以上ここにいてはダメだと逃げるように踵を返し、別宅を離れたところで「総司!」と自分を呼ぶ声が聞こえた。自然と足が止まりかけたが、どうにか奮い立たせて再び屯所へと戻ることにする。
(自分で決めたことだ…)
ハラハラと舞う雪が肩に落ちる。総司はそれを払いながら、襟巻きを巻き直した。












619


僕の上司は最近様子が変だ。
「…先生、沖田先生!」
僕、山野が何度か声をかけると、沖田先生はハッと驚いたような顔をして「何?」と問い返した。
「先生の番です」
僕が将棋盤を指さすと、「ああ、そうだった」と苦笑しながら盤面を見てあっさり『歩』を進めた。対戦相手は初心者の島田先輩なので長考するまでもないのだが、それにしても先生はぼんやりとされる時間が多い。
様子がおかしくなったのは、年の明けのあたりから。帝が崩御されたとはいえ新しい年を迎え、誰もが清々しい気持ちで正月を過ごしたはずなのだが、沖田先生と土方副長は違った。別宅からただならぬ雰囲気で戻ってきた副長は近藤局長でさえも声をかけづらいほど不機嫌であったため、隊士の誰もが「触らぬ神に祟りなし」と遠巻きにしていた。一方、遅れて戻られた沖田先生は少しお疲れの様子ではあったがいつもの穏やかな調子だった。しかし近くにいた僕は知っている…先生のお体にはいくつかの痣が残されていた。
(大喧嘩をされたのだろう…)
僕は心配しながらも、すぐに仲直りされるだろうとたかを括っていた。先生たちは長年共に過ごされた相思相愛のご関係だ、外野が心配することなどひとつもなく、詮索したところで藪蛇でしかない。
しかし、未だにお二人は距離を置いている。
先生は「仲直りする」と言っていたけれど、近藤局長の助太刀さえも力及ばず…。一体どうなってしまうのだろう。
それに、他にも気になることがある。
「あ、斉藤先生。お疲れ様です」
朝番から戻られた斉藤先生が近くを通りかかった。沖田先生と島田先輩が将棋をしているのを見るや、こちらにやってきた。そして戦況を見るや
「島田、進歩がないな」
と的確に指摘する。先輩は苦笑して「面目ない」と頭をかいた。すると沖田先生が
「じゃあ斉藤さん、交代してください。私は用事があるんです」
と突然立ち上がった。そしてそのまま行李から襟巻きをして避けるように去っていってしまった。
斉藤先生は仕方なく沖田先生の代わりに先輩の相手を務めることになる。流石に先輩も恐縮したのか、
「あの…斉藤先生、自分はこのまま終わりでも構いませんが」
と申し出たが、
「どうせあと五手で終わる」
と勝利宣言を受け、がっくり項垂れてしまった。
沖田先生と斉藤先生に距離ができてしまったのは謹慎明けの頃だ。詳しいことはわからないが、最近伊東参謀と親しい斉藤先生が居続けをしたことで不信感を募らせ、沖田先生がはっきりと信用できないと拒んだとか。たしかに斉藤先生の行動は僕にとって理解できない部分はあるが、だからと言って仲の良かった沖田先生が絶縁宣言するほどのこととは思わない。その辺りは島田先輩も「先生らしくない」と不思議がっていた。
そしてこのところ先生は非番のたびに屯所を出て行く。僕が尋ねると居心地が悪いから、と言っていたけれど…。
「あの、斉藤先生。沖田先生はこのところどちらへ行かれているのでしょうか」
島田先輩の長考に付き合う斉藤先生は相変わらず無表情のまま
「俺が知るわけないだろう」
と答えた。
「そう…ですよね。きっと僕が心配しすぎなんですよね…」
「ああ」
斉藤先生はずいぶんあっさりとしていて、沖田先生の冷たい態度も意に介してないように見える。
けれど僕は何だか沖田先生を見ていると心がザワザワと落ち着かない。先生は土方副長と離れ、斉藤先生と拒み、一人になりたがっているみたいだ。その様子がまるで想いが通じ合っているはずの二人が別れたみたいに見えるから。憧れの二人がそんな悲しい結末を迎えるなんて信じられない。
(まさか…いや、そんなはずない…)
僕の心が落ち着かないのは、きっと隠し事をしているせいだ。


話は正月の頃に戻る。
伊東参謀、永倉先生、斉藤先生が島原で居続けをして戻らないと騒ぎになり始めた頃だ。
「きっと何かの間違いに違いない!」
僕はそんな風に自分に言い聞かせていたけれど、当事者である二番隊と三番隊の隊士たちの不安は大きく、このまま三人が切腹になるのではないかとそんな話まで飛び出した。
「そろそろ迎えの使者を出すはずだ、皆は余計な詮索をせぬように」
伍長である島田先輩が言い聞かせ一番隊は平静を保っていたけれど、誰もが落ち着かない日々を過ごしていた。
そんな時。
ガシャン!と大きな物音が聞こえた。
「賊か!?」
島田先輩が駆け出し、僕もそれに続いた。いつだって敵の多い新撰組だ、いつ何時屯所を襲撃されたっておかしくはない…緊張感を持って音が聞こえた方へ走る。しかし辿り着いた場所は屯所の最奥にある土方副長の部屋で、そこには数枚の障子が投げ飛ばされその先には沖田先生が倒れ込んでいた。
「先生…!」
僕は先生の元へ駆け寄った。先生はひどく髪と襟が乱れ、頬が赤くなっていた。僕はこの状況から先生が部屋から投げ出されたのだと察する。しかし、鈍感な島田先輩は
「先生、これは…賊ですか?!誰かに襲われたのでは?!」
と尋ねると、先生はどうにか微笑んで
「…大丈夫ですよ。ちょっと…喧嘩です」
と答えた。土方副長の姿はすでにない。次第に騒ぎに気がついた隊士たちも集まってきて「何でもないですよ」と先生は気丈に笑った。
「先生…」
僕は唇を噛んだ。
いくら喧嘩したとはいえ、自分の尊敬する人が酷い仕打ちを受けている…まるで自分が踏み躙られたような気持ちになった。
先生はまるで何事もなかったかのように振る舞い、島田先輩にに後のことを任せて場を離れたが、僕の気持ちは治らず、その日の夕刻土方副長が部屋に戻ったの見計らい訪ねた。
「…土方副長、山野です、宜しいでしょうか…!」
緊張のあまり声は裏返っていた。鬼の住処と揶揄される副長の部屋だ、滅多に近づくことはなく呼び出されれば死を覚悟する…平隊士にとって大袈裟でなく足を踏み入れたくはない場所だ。
「入れ」
いつも以上に不機嫌な返事がしたが、後戻りはできない。
(虎穴に入らずんば虎子を得ず…!)
動揺する僕は支離滅裂な奮起をして中に入った。
副長は疲れているように見えた。
「何の用だ?」
「…僕は沖田先生を尊敬し、師と仰いでいます。その師が粗暴な扱いを受け黙っていることはできません!」
いくら犬も食わない喧嘩だとしても、一方的に手を挙げるなど僕は許容できない。
切腹覚悟の抗議だ。
「僕にとってお二人の関係は理想ですが、今回の件では見損ないました。何があったのか存じ上げませんが、どうか沖田先生に謝罪を!」
「…」
「以上です!法度に背くならどうぞ切腹にしてください!」
僕は深々と頭を下げた。自分の正義感は貫いたが、もちろん副長の気分を害したに違いない。事情も知らぬ下っ端から抗議だなんて耳を貸すわけがない。
(僕もこの部屋から投げ飛ばされるかも…)
そう構えていたのだが、一向に副長からの返事がない。僕は恐る恐る顔を上げた。そこには無表情のまままじまじと僕の顔を見る副長がいた。特に激怒している様子はない。
「…あの…?」
「いや…あいつは律儀な配下を持ったな」
「は、はぁ…」
声が掠れた。まさか誉められるとは思わず、僕は驚き惚けたのだ。
そして副長は壊された建具へ視線を移した。
「…俺もあいつに手を上げたのは初めてだ。何か言っていたか?」
「い、いえ…何でもない、といつも通り…」
「そうか…」
土方副長は少し考え込んだように黙ると、何も言わずに立ち上がり部屋の隅にある唯一の家財である飾り棚の引き出しを開け、その中にある風呂敷を取り出した。それを僕に手渡す。
「あの…これは?」
「いずれ渡すつもりだったものだ。…俺からと言わずお前から渡せ」
「…」
僕は有無を言わさぬ命令と予想外で展開に困惑する。
けれどわかったのは、副長は決して先生のことを疎んでいるわけでもなく、感情が昂った末の行動を後悔しているということ。
(やはり藪蛇だったみたいだ)
「…副長から渡されては?」
「俺からでは受け取らないだろう。…いいから頼む」
「かしこまりました」
仲直りのきっかけにしてくれれば良いのにと思ったけど、そう簡単な話ではないのだろう。それに副長から「頼む」なんて言われて拒む方が不可能だ。
「それから…今回のことはおまえが正しい。これからも総司に尽くせ」
「は、はい!」
抗議に来たのに最後は褒められるなんてバツが悪くて、僕は荷物を抱えて慌てて部屋を出た。去り際に副長が「悪いな」と言っていたけれど
(その言葉は沖田先生にお願いします…)
そう思いながら僕は早足に去る。そして落ち着いた頃、手渡された風呂敷をそっと広げた。そこには暖かそうな濃紺の襟巻きが畳まれていた。一眼でわかる上品な品はそこらの店に並べられているものではなく、苦労して探されたものだろう…副長の思いやりを感じた。


「ただいま」
沖田先生が屯所に戻ってきたのは夕刻のことだった。当然、島田先輩と斉藤先生の勝負はとっくに終わり、僕が先生の宣言通り五手で終わったと伝えると
「ハハ、手加減しないなぁ」
と先生は明るく笑った。斉藤先生の前で見せた冷たさは無く、屈託のない笑みに僕の心は安堵する。
(きっと何か事情があるのだろう)
僕は今度こそ余計な詮索やお節介は控えようと決める。
「先生、その襟巻きは暖かいですか?」
「ええ、重宝してます。とっても暖かいんですが、もしかして高級な品なのではないですか?」
「ふふ…秘密です」
先生の首元で濃紺の襟巻きがたなびいている。それを見るたびに(いっそ土方副長からの贈り物だと伝えた方が良いのだろうか)と思うが、やっぱり余計なお世話なのだろう。
(先生が早く気付きますように)
僕はそんなことを願うのだ。






620


今年の冬はよく雪が降る。
「はぁー」
喉の奥から吐き出した息は白くなって冬の空に溶けていった。
総司は自然と手を擦りながら暖を取る。こんな日は火鉢の前に座って蜜柑でも摘んでいたいけれど、少しでも屯所で喀血する可能性を減らしたい。
「じゃ、行ってきます」
山野が心配そうにして見送ってくれたけれど気が付かないフリをした。
しかし、総司が襟巻きと羽織を着込み屯所を出ようとすると、「待て」と引き止められた。
「…斉藤さん」
「話がある」
「…」
総司は困惑しながら頷き、ひとまず門の外に出た。半歩ほど後ろを歩く斉藤に
「どこへ行く?」
と尋ねられ、答えに困った。ぶらぶらと時間を潰しているだけなので目的地はないのだ。
「…鴨川沿いの、甘味屋に」
「分かった」
苦手な甘味屋と答えれば引き返すかも、という総司の淡い期待はあっさりと打ち砕かれる。斉藤は隣に並んだ。
連日続く雪のため、町は少し静かだ。そのせいかいつもはなんてことのない彼との沈黙が今日は長く重く感じる。
「…まだ予備の刀を使っているのか」
「え?」
斉藤が指さしたのは総司の腰。河上との斬り合いで傷んだ「加州清光」は屯所に置き、今は隊の予備の刀を使用しているのだ。
「ああ…まだ良いご縁が無くて。この刀でも十分使えますし、気長に探しますよ」
「前は『安定』が良いと言っていただろう?」
「まあ…急ぐことでもないですから」
刀に詳しい斉藤が同じ状況なら一刻でも早く刀を探すだろうし、少し前の総司ならそうしていたかもしれないが、今はそう急くつもりはない。
(こんな病の身で、良い刀なんて望んでも仕方ない)
そんなふうに自棄になっているのかもしれない。
そうしてポツリ、ポツリと雑談を交わしながら鴨川沿いにたどり着く。川沿いは寒さが増すせいか人はまばらだ。
総司は団子屋でみたらし団子を買い求め、河原に座った。隣に座った斉藤は当然「いらない」と言ったので仕方なく一人で食べることにする。
すると斉藤が本題を切り出した。
「…先日の件だが。鈴木と何あったのか?」
「やっぱりそのことですか。何もありませんよ。たしかに以前は嫌われていると思っていましたが、何度か会話を交わしているうちに少し打ち解けて来たんです。むしろ、斉藤さんがあんな風に責めるから気を悪くされたじゃないですか」
「…鈴木は伊東参謀の弟だ」
「そうですが、謀を巡らせるような人じゃありませんよ。素直な人です。心配してくださったのはありがたいですが、何もありませんし、これからも心配は無用です」
総司は一串食べ終え、もう一つに手を伸ばす。しかしその手を斉藤が止めた。
「この間のは…本気か?」
「…この間の、とは?」
「俺を信用していないという話だ」
「…」
総司は答えに窮した。そして彼が掴んだ手が擦り解けないほどに強かったからさらに困った。
「…半々です。ああ言えば斉藤さんが動きやすくなると思いましたが…斉藤さんが何を考えているのかわからないというのも本音です」
「それは…」
「もちろん何か密命が有るのは分かっています。でもそれは私には関係のないことでしょう?」
斎藤の気が緩んだ一瞬に、総司は彼の手から逃れそのままみたらし団子の串を掴んだ。甘いはずのそれが何故か味がしない気がした。
斉藤はしばらく総司の横顔を見て
「…らしくないな」
「らしくない?」
「お節介なあんたが『関係ない』とは」
「…お節介が過ぎると反省したんですよ」
「俺の過去にあんなにこだわっていたのに、何を今更」
斉藤の言うことは尤もで、総司は言葉に詰まる。何気なく発した言葉一つ一つに鋭い彼が何か勘づいてしまいそうで。
総司はみたらし団子を押し込むように飲み込んだ。
「話したいことはそれだけですか?私はこれから用事があるんです」
総司は立ち上がると袴をパンパンと払う。するともう一度斉藤が総司の手首を掴んだ。
「さい…」
「俺はこれから伊東に近づく。信用を得るためにしばらく気にかけてやれない」
「気にかけてくれなんて頼んでませんよ。子どもじゃないんですから…」
「河上とやりあってから様子がおかしい。副長とも何かあったんだろう?」
斉藤の真摯な顔を見て総司は思わず唇を噛む。
「何もない」と簡単に言えるなら楽なのに、そうできないから苦しいのに。
「…生きていれば、いろいろなことがありますよ」
「そういう意味では…」
「斉藤さんは斉藤さんのやるべきことを全うしてください」
総司は努めて笑った。ぎこちなかったかもしれないが、彼を突き放すのはこうして微笑むことだと思ったからだ。
斉藤が掴んでいた手首を振り払い、背中を向けた。
一歩、二歩と歩いたところで、
「俺は、あんただけは絶対に裏切らない」
背中から聞こえる声に、総司は何も言わずに頷いた。
(信じているに決まっている)
改めて言葉にしなければならないほど、希薄な関係ではないはずだ。
だからこそーーー何も言えない。
「ゲホ…」
軽く咳をして襟巻きを巻き直す。仄かな温もりが総司の心を少しだけ癒した。


内海が茶屋で伊東から届いた手紙を広げると、向かいに座っていた藤堂が嬉々として尋ねた。
「先生は何と?」
「無事に九州に着いたそうです。やはり蒸気船は早い」
「羨ましいなぁ。俺は都から西には行ったことがないんです」
「いまは太宰府だそうで、梅の見頃にはまだ早く残念だと」
「はは、伊東先生らしいや」
藤堂は女中が持ってきた温かい茶を頼み、一息つく。
「…でもいくら伊東先生が雄弁とはいえ、倒幕派の志士たちが分離の話を素直に受け止めるでしょうか。俺だったらとても信じられないけれど」
「それは大蔵さんも了承の上でしょう。新撰組の参謀ですから命も危ないかもしれない。新井くんにはよくよく言い含めておきましたが…大蔵さんが無理をするかもしれませんね」
「危険な場所なのに同行するのが一人だけなんて…土方さんの嫌がらせですかね」
藤堂は憤慨するが、内海は「仕方ない」と宥めた。分離という形を取るだけで、反旗を翻すことと紙一重なのだから土方が警戒するのは当然だ。
熱くなっていた藤堂だが、冷静な内海を見て落ち着いた。
「…内海先生は伊東先生とは長いお付き合いなのですか?」
「そうですね…大蔵さんが水戸に遊学してからの付き合いですから。寡黙な私と良く語る彼は不思議と気が合い影響を受けました。その付き合いが今まで続いている…逆に言えばそれ以前のことは鈴木君の方がよく知っているでしょう」
「実の弟ですよね?伊東先生は何故、あのように冷たく接せられるのでしょうか…」
藤堂は首を傾げる。実の弟でありながら姓が違い、容姿は似ておらず、性格が正反対。傍目には兄弟には見えないだろう。それ故なのか伊東は誰の目から見ても明らかに弟を冷遇し続けているように見える。
内海は苦笑した。
「ああ見えて、大蔵さんは鈴木君のことを案じていますよ。冷たく突き放すのも自分の周りには危険が伴う為とも考えられます。弟の彼は不器用で人に利用されやすい、それ故にあえて遠ざけているのでしょう」
「…そういうものですかねぇ…」
藤堂はあまり信じていないようだった。伊東があまりにも弟を突き放すのでなかなか好意的に解釈できないのだろう。
内海は話を切り上げた。
「それで…今日、藤堂先生を呼び出した件ですが」
「内海先生、せめて二人きりの時は『先生』などと呼ばないでください」
「では…藤堂君。話は斉藤先生のことなのですが」
「斉藤さん?」
今日、藤堂は内海から『内密の話がある』とわざわざ遠くの馴染みのない茶屋に呼び出されていた。
「大蔵さんは斉藤先生のことを面白がって仲間として迎え入れようとしていますが…私はどうにも信用できない」
「…でも、斉藤さんはこれまでいくつか有用な情報をもたらしています。正月の居続けも共にしましたし、土方さんとも距離を置いていると聞きますし…考えすぎではありませんか?」
「幕府の間諜として働いていたのです。そして土方副長の右腕としても。だとしたら疑うのは普通でしょう」
「…」
藤堂は少し戸惑った。
斉藤とは何度か意見が合わないことがあった。特に勘定方の河合の切腹の際には酷く揉めたし、その後も引きずった。しかし今は伊東の元で力を合わせられると信じているし、やはり同じ試衛館食客という肩書きを持つ斉藤を疑いたくはなかった。
(そんなことを思ってしまう、俺はまだまだ未熟だな)
あれだけ試衛館食客であることを否定したいと思っていたのに、斉藤のことを安易に疑うことはできない。それは同じ窯の飯を食べた「よしみ」なのだろう。
「…何かあれば内海さんに報告します。それで良いですか?」
「勿論です。些細なことでも知らせてください」
内海は安堵しつつも少しため息をついたのだった。















解説
なし


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