わらべうた





61
文久三年四月八日。この日は朝から忙しかった。

「無くなったのは八木さんの使用人…か」
朝一番に届いた訃報は、悲しみと言うよりも驚きを居候達に与えた。が。
「でも聞いたことないひとですよねぇ…」
名前を聞いても残念なことに、誰一人その女中のことを知らなかった。
「俺さえも知らなかったんですよねぇ」
その中でとりわけ、残念そうに藤堂が肩を落とした。
「俺「さえ」も?」
「俺、人の名前と顔を一致させるのって特技なんですよねぇ」
箸を加えて藤堂がもう一度溜息を付いた。それをからかうように原田が身を乗り出す。
「じゃあここの近所に住んでる格子の家の女の名前、知ってんのか?」
「ああ、おまつさんですよね。一年前に旦那さんを亡くされて今は幼い子供と三人暮らしでしょう」
「じゃあそこの角の家は?」
「柏さんでしょう?大工をされている」
「へぇ~」
藤堂の答えは正確なものだった。加えて近所の子供はフルネームで答えられると自慢そうに語った。「まあそれはとにかく。」と、話は女中に戻って。
「その女中、俺たちがここに来る前に病でやめたらしいな」
「ちょくちょく来てたみたいだけどなぁ、誰か見たことあるのか?」
永倉が朝食を食べる面々に尋ねるが。
「いーや、誰も」


えーん、えーんと子供の泣きじゃくる声が壬生寺に響いていた。境内に腰掛けて大粒の涙を流すのは八木家の子息、為三郎。そしてその傍らにいたのは総司と斎藤だった。二人とも戸惑いを隠せないでいる。
為三郎は亡くなったという女中によく懐いていて、昔は忙しい両親に代わってよく世話を焼いてくれたらしい。為三郎に字を教えたのはその女中だという。
隣に座る総司は為三郎の気持ちが痛いほど伝わるようだった。とうの昔に両親を亡くした総司は、姉のミツが母親代わりに育ててくれた。そのミツが一度病に罹ったことがある。大事には至らなかったし、傍には夫である林太郎がいたのだがとてつもなく不安になったのを覚えている。
つまらない想像ばかりして、このまま死んだらどうしよう、と口に出すこともできず悩み続け、とうとう幼い「宗次郎」は押入のなかで泣き続けたのだ。
「為三郎……」
総司はゆっくりと為三郎の頭を撫でてやる。落ち着くように、包み込むように。そうすれば安心することを知っていたから。
「…う、っ、うぅぅ」
目が真っ赤に腫れていた。
「泣きやむことはないよ。今はしっかり泣いてその女中さんのことを忘れないように刻みつければいいんだからね」
「んぅぅ」
為三郎は唇を噛み、何度も何度も頷いた。

「子供の扱いになれているんですね」
為三郎を挟んで隣にいた斎藤が、感心したように総司を見た。斎藤は総司に連れ出されて散歩に出かけ、偶然為三郎にあったというわけで為三郎に特別親しいわけではなかった。子供の扱いもどこかぎこちない。
「あー。斎藤さんも馬鹿にするんでしょう?子供の扱いになれているのは、自分も同類だからだって」
「どうしてそう卑屈に捕らえるんですか」
斎藤は苦笑した。
「むしろ尊敬してるんですけど」
「この位で尊敬して頂けるなら、今度一緒に遊びますか」
いや、と斎藤は手を振った。子供好き…というわけではないらしい。


女中の葬儀は昼から行われた。葬儀に似合わない春の日射しで、滲む汗を堪えながら「居候」たちは葬儀の準備をした。
そしてぽつり、ぽつり、と故人を知る近所の人々が集まった。その受付を務めたのは局長の芹沢と山南、斎藤、総司だった。芹沢は単なる飾りで、実際の事務処理は山南が担当する。小さな机の前に山南が座り、その隣に総司、斎藤反対側の端に芹沢があぐらを掻く。総司が芹沢の隣ではない、というのは斎藤の配慮らしい。
斎藤と芹沢の間に何かがあった、というのは総司も知っていた。試衛館から去っていく斎藤は「いつか話すから」といって、姿を消した。総司は未だその理由を聞けていないのだが……。けっして穏やかなものではないだろう。芹沢の隣に座る斎藤の顔は、無表情でまるで壬生寺の観音様のようだった。
「また会うとは思わなかったなぁ……斎藤」
芹沢がにやりと、斎藤を見た。斎藤はそれでもその表情を崩さない。
「世話になった先輩にお礼の言葉もないのか?」
「世話になった覚えがありませんので」
「そうか」
きっぱりとした斎藤の言い分に、芹沢はふん、と口だけで笑った。事情の知らない総司と山南はそのやりとりに緊迫して固まったままだった。
「あ、あの……弔問客が少ないんですね」
総司がその場をやり過ごそうと山南に問う。山南もそれに気が付いていて「あ、ああ、そうだね…!でもまだ葬儀には半刻程あるから……」とわざとらしい会話をした。

「おいちゃん」
弔問客かと身構えると、そこには先程まで寺で一緒だった為次郎がいた。泣きはらした目は痛々しかったが、ある程度の落ち着きは取り戻しており手には古びた駒を抱えていた。
「どうしたの」
おいちゃん、とは総司のことだ。おじちゃん、と呼ばれるのにはすこし抵抗を感じるが、幼い子供からすれば大人などみんな同じ年齢に見えるのだろう。実際、土方と近藤の年の差など子供のころにはわからなかった。
てっきり近藤の方が十程年が上なのかと思っていたら、実際は一つしか違わなかったことに、子供ながら、おどろいたものだった。
「あんな、この駒 菊さんにあげたいんや。一緒に燃やしてもらえるやろか…」
「そうだね。きっと八木さんに言えば……」
と辺りを見渡すが、ここにいる四人以外に大人の姿はいない。
と。
「小僧、こっちにこい」
それまで怠そうにあぐらをかいていた芹沢が急に立ち上がった。ふらり、と山南の所に行き「紙と筆をかせ」と強引に手に持った。
為次郎は恐怖し、おそるおそると芹沢に近づく。
芹沢は元の位置に戻って、再びあぐらを掻く。そして筆をもち、紙にすらすらと線を引いていく。器用に動く芹沢の指は次第に、何かの形を示し始めた。総司も身を乗り出した。
「なんです?」
「まあ見てろ」
楕円形の中に、目、鼻、口……そして最後にはシワを付け足す。目尻に深いシワ、口元のえくぼ……だが総司には見覚えのない顔だった。誰だろう、と首を傾げるとそれを黙ってみていた為次郎が「あっ」と声を上げた。
「菊さん……!」
そして嬉しそうに笑顔を浮かべた。芹沢が書いていたのは、亡くなった女中の菊で為次郎が「そっくりや!」と声を上げる程似ていたらしい。
「芹沢先生、女中をご存じだったんですか?」
傍で見ていた山南が興味深そうに尋ねた。
「少し見たことがあっただけだ。小僧、やる」
「おおきに!」
為次郎は嬉しそうに受け取って走り出した。

「ありがとうございます」
総司は単純に嬉しかった。
為次郎はどんな総司の慰めの言葉にも笑顔を見せてくれることはなかった。きっと芹沢にとっては何の行為でもないだろうが、それでも。
「礼などいらん。子供がぎゃぁぎゃぁ泣くのは好かんだけだ」
素っ気なく言った芹沢だが、総司はもう一度「ありがとうございます」と繰り返した。
やっぱり悪い人じゃない。
女中の顔を描いているときに見せた芹沢の表情こそが、「本物」の芹沢なのではないか、とふと思った。


八木家の葬儀はしめやかに行われた。参列者は少なかったものの、長年世話になったらしい八木の人々はみな号泣し、悲しんだ。為次郎はキュッと唇を噛んで、必死に涙を抑えているようだった。
菊の棺に自分のお気に入りの駒を入れ、泣きたいのを我慢して「さいなら」と呟いた。その瞳に焼き付けるように、して涙を流さなかった。


62
文久三年四月二十一日。壬生浪士組に初めての公式な命令が下された。

「大坂へ?!」
ぴょんっと耳を立てた犬のように、総司が嬉しそうに声を張り上げた。前日、二十日の夜のことである。会津黒谷から戻った近藤と芹沢は、公用方から初仕事である、将軍下坂に伴う警護を命じられたのだ。
「そういやぁ、俺たちそのために来たんだっけなぁ」
「ホント、忘れてましたよねぇ」
しみじみと語る原田にうんうんとうなずく藤堂。その隣でおいおいと苦笑する永倉。
「大樹公(家茂公)摂津海(大阪湾)視察の道中警護だ。みんな今日は早く寝て明日に備えてくれ」
うれしさを隠しきれない、という様子で近藤が命じる横で、土方が口の端だけでほほえんでいた。

「もう。なに考えているんですか?妖しい笑い方してー」
総司が厠に行こうと縁側にでると、月を眺めるようにして土方が座っていた。月明かりだけで十分見える、その顔はやはり少し綻んでいた。
「なんだ、おまえ。お子さまは早く寝ろ」
「そんなの、こっちの台詞です。お子さまは土方さんの方ですよ、楽しみで眠れないんでしょう?」
くすくすと笑って総司はその隣に座って、月を見上げた。
「立派なお月さんだ。俺たちの門出にふさわしいぜ」
「…満月だからかな。土方さんが饒舌。おかしいなぁ」
ぽかんっと軽い平手が飛んできて、総司はいててて、と大げさに頭をかいた。
「よく考えてみろよ。京に来て会津お預かりになったのはいいものの、何の命令も役目もなかったんだ。一介の浪人だった俺たちが、やっと信用されかけてんだ。ちったぁ喜べ」
やっぱり饒舌。
それをいうと2発目の平手打ちが飛んできそうなので、密かに口を詰む。本当に子供みたいな人だな、と思う。普段は決してそんな一面を表に出すことがないけれど、きっと本人も無自覚なんだろうなぁ。
しみじみと月を見上げる土方の横顔をみる。
「私は細かいことがわからないけど、近藤先生が嬉しそうなのが一番嬉しいです」
「…そうだな」
恥ずかしげに小さくうなずいた土方は、寝るぞ、と総司に言った。
「月明かりが眩しくて、寝れそうにないですね」
嬉しくて、心躍って。眠れないのは総司も同じだった。だけど、土方に知られたくなくて、少し言い訳をした。

結局余り眠れないまま次の日を迎えた。
「…忘れてた」
昨日の表情とは一変、土方は苦い顔をした。
「芹沢先生、よくお似合いです!」
「ええ、この晴天の元、よくお目立ちで・・!」
褒め称える取り巻きたちに満足して、芹沢は軽々と持った鉄線を振り回す。そう。羽織。段だら模様の浅黄色。京の人はもう見慣れたようだが、今度は大坂。浪士組の存在さえ知られていない町を、こんな目立つ格好で歩く羽目になるとは。
「俺の美意識に反する…」
「まあまあ、美意識なんてあるようでないようなものでしょう、土方さん。江戸の頃は節操なしって噂だったんですよ?それに比べればこんな格好」
「…うるせぇ」
土方の機嫌をさらに損ねたようで、すねたように怒ったしまった。


「もう。芹沢さんが絡むとすぐ拗ねるんですよね」
「そりゃ、沖田さんが心配だからでしょう」
浅黄色の羽織に身を包んだ斉藤が総司の隣を歩く。屯所から出た隊士たちは、まず会津藩と合流するため黒谷に向かった。朝早くからぞろぞろと歩く段だら模様に、町人は訝しげに首を傾げるがそんな視線もすでになれてしまった。
「芹沢さんとあんなことがあったんですからね。私的にもあんまり親しくしない方をおすすめします」
「…それ、言わないでくださいよ」
あんなこと、というのはもちろんあの日のことで、総司は思い出すだけで耳の裏から真っ赤になってしまった。あの日のことは忘れることで消化していた。悩んでも結局「お遊びだろう」という結論にしか至らなかったのだ。…それ以外は考えたくなかったのかも知れないが。
「そうだ、そんなことより。斉藤さん、敬語やめてくださいよ。なんか痒くて仕方ないんですよね」
話を変えようと今まで思っていたことをいってみた。
「そういわれても、私の方が年下ですし。沖田さんも敬語じゃないですか」
「私のは生まれたときからの癖みたいなものなんです。藤堂くんは美男子だから、私よりも年下ーって感じはするんですけど、斉藤さんはそういう訳じゃないし」
「美男子じゃないってこと?」
「そうそう」
斉藤がぷっと吹き出した。
「私よりも大人っぽくて、忠義に厚そうな武士っぽい感じじゃないですか。そんな人に敬語使われるといつもとまどっちゃうんですよね。」
あわてた総司のフォローはフォローになるはずもなく。
「わかりましたよ。出来るだけ努力はします。美男子じゃないし」
どうやらこれからのからかいの種を与えてしまったようだ。


壬生浪士組のこのときの様子について、会津公用方広沢安任はこう述べている。「浪士、時に一様の外套を製し、長刀地に曳き或いは大髪頭を覆い、形貌甚偉しく列をなしていく。逢う者、皆目を傾けてこれを畏る」
そんな具合に、壬生浪士組の名は浅黄色の段だらと共に大坂に広まった。
か、どうかは定かではない。


大坂は京と変わらない空で覆われていた。しかしかつて「天下の台所」と歌われただけあって人通りの多さは半端ではない。
うまそうな店が建ち並び、いい匂いが充満していた。
「うまそー…」
原田がふらりと横道にそれそうになるのを、藤堂、そして永倉ががっちりつかむ。この三人はどうやら息が合うようだ。

所定の場所に着き、あとは会津公の指示を待つことになった壬生浪士組は小休憩、という具合に皆腰を下ろしていた。
「案外騒ぎにはなっていないようですね」
山南が近藤に話しかけた。
「ああ。やはり警護の数が並じゃないからな。俺たちなんて端役にすぎんさ」
「いえ。それでも江戸のいたときに比べたら、信じられません。私たちが大樹公とともに下坂するなど」
「そうだな」
ふ、と微笑んだ近藤はぎゅっとその拳を握りしめた。夢じゃないと言い聞かせるように。
「待てよ。こんなんで満足してもらっちゃ困るぜ」
その様子を横目で見ていた土方が諭すように言った。
「俺たちはこれから始まる。俺たちの名前は一気に大坂に広まった。この羽織も少しは役に立つようだな。京に帰ったらまずは隊士を増やそう。それから隊の基本組織を考えねぇといけねぇ」
「歳は、楽しそうだな」
「ああ、楽しい」
一生届かなかっただろうものに、今指先が触れているような気がしてならない。頼りないつながりでも、時代に触れている感触が心地よくて仕方ないのだ。
「そうだな…始まりだ」
その言葉に山南もうなずいた。

と。
「泥棒やー!だれか、だれかつかまえてぇな!!」
近藤たちが腰を休めていた近くで、大声があがった。
「行くぞ!」
「おい、待て近藤さ…!」
近藤は土方の制止も聞かず、走り出した。

このあたりはちょうど出店も多く立て込んでいた。
しかも今日は大樹公の列もあるということでごった返し、なかなか前に進めなかった。
「くそ…!」
人混みをかき分け、声がした方に進む。すると
「ああ!」
という男の野太い声がした刹那、ちゃりん!という音が何度も木霊し響いた。小判が二十枚ほど、男の風呂敷からこぼれ落ちていた。
「おまえか!」
近藤が男の手首をつかみあげると、さらに何枚もの小判が地面に落ち、それまでごった返していたはずの人混みが円を作るようにして遠ざかった。
「ひぃぃぃ!」
「奉行所に引き取ってもらわねばならんな」
男は一気に青ざめ、がくん、とうなだれた。するとあの大声を張り上げていた店の店主が駆け寄る。
「どうも、おおきに。ありがとうございました!」
「いや、なに。偶然だ」
「いえ!こいつには何度も手ぇ焼いてたんです。ほんまに、助かりました!」
顔は大坂人らしい少し強面の感じだが、口を開くと商売人。舌が回るのが早そうだ。
「わたくしは京屋忠兵衛。両替商を営んでおります。あなた様は、壬生浪士組のかたですな」
「知っているんですか」
「へぇ、そりゃぁもちろん。わたくしは元は江戸っ子でして。忠臣蔵が大好きなんだよ。その、みなさんの志、立派ですな」
「ほお!」
非常に気持ちのいいこの初老の男は、壬生浪士組に嫌悪感も持っていないようで、近藤もかえってそういう人間が新鮮なほどだった。京の人間は本音を言わない言い回しで、本意を図り損ねるところがある。だが、この男は心からの賛辞を述べているのだと、近藤は感じた。
「このお礼はまた!」
後、京屋忠兵衛は新撰組が大坂においての、最大の協力者となる。
そんなことを知る由もない近藤は、引っ立てた男を奉行所に連れていき所定の場所に戻ったのだった。


「ったく、一隊の大将がやすやすと持ち場を離れんじゃねぇ!」
と盛大に土方にはどやされたのだが、その日の夕刻に届いた京屋の「お礼」にそんなことを忘れてしまった。
「ご…五十両?」
届けられたのは小判の山だった。

かくして。
大変収穫の多い大坂行きは、何の問題もなく無事に終わった。まもなく帰路に就いた壬生浪士組の隊士たちは、両手いっぱいに土産を抱えて「なにしにいったんだっけ?」と毎度の感想で「将軍警護」を締めくくったのだった。


63
「あ、あの人太刀筋が良いですね」
総司が目を見張ったのは、まだまだ声の高い、青年だった。
「楠くんか」
山南の端正な字で書かれた名簿に目を通し、斎藤が答えた。
「なんか綺麗っていうか、若いっていうか」
「それをいうなら相手の方もありますし。正確だし、キレもありますし」
「っていうか斎藤さん、また敬語だし」
「あ、ごめん。つい。美男子じゃないから気をつけるよ」
「………」
すっかり斎藤に根に持たれたようだ。落ち込んだ総司に斎藤が 腹を抱えて笑い出した。


第一次隊士募集が行われたのは、もうそろそろ桜が散ろうかという五月の上旬だった。
「あの目立つ羽織りもちったあ役に立ったみてえだな」
ふんと鼻を鳴らし、腕を組んだ土方は八木邸の頑丈な柱にもたれかかっていた。
大坂から帰還した二日後に行われた隊士募集には約二十名もの猛者たちが集まった。あの恥ずかしい派手な羽織りも宣伝効果があった、ということだ。だがたいした資格条件を出さなかったため、身分は様々、口先だけの剣流はたいしたものだが実際はどうか、という腕前。いわゆる魑魅魍魎が集まったわけで。
「人数が多いのに当たりが少ないんですよね。剣流名はたいしたものですけど、どこか平和ボケしているような」
手ぬぐいで汗を拭きながら総司が土方に近付いた。今回の隊士の選抜は総司に任せている。
「お前にやらせたのは失敗だったかもな」
「どうしてです」
「基準が高すぎる」
土方はふと総司が江戸にいたころを思い出す。情け容赦なく塾生をどやしていたことがよくあった。手加減をしらない総司は自分の基準で相手をみてしまうのだ。
「大丈夫ですよ。ちゃんと土方さん辺りを基準に選んでますから」
「コノヤロウッ」
振りかぶると総司は身を翻して避けた。
「芹沢先生もいらっしゃらないから、人手不足で困っているんですよ、土方さん暇でしょう?手伝ってください」
「あいにく隊編成で近藤さんと話し合ってるんだ。お前が代わりをするなら考えないことも…」
「遠慮します」
考え事の苦手な総司はすぐに閉口した。
「とにかく、会津からの要請で人数を増やすのが先決だ。お前が気に入らなくても、それなりに腕の立つやつは入れろ」
「わかってますよ」
総司は閉口して去っていった。

巡察に出掛けた永倉、藤堂、野口、そして飲みに出掛けた芹沢など以外が隊士の選別に従事した。
そしてその筆頭となったのが総司と斎藤だった。
「めぼしい人はいる?」
総司は剣術の試験を任していた斎藤に話し掛けた。
「そうだな。あの今面を打ったの、それからその隣の背は低いが素早いの、あとあっちで休んでいる坊主頭。それから棒術を使うあれ、というところかな。あーあとデカイあれ」
すっかり敬語を使わなくなった斎藤は、次々と指名した。
「棒術?」総司は物珍しそうに見た。その男は長身の身長を利用して、巧に棒を振り回し、槍使いの原田を圧倒していた。
「まあ土方さんが使い道を考えてくれるだろう、使える男だ」
「ふーん」
すっかり土方を信用しきっている斎藤の様子に不自然さを感じながら、総司は群がるなかに戻った。


「暫定的ですが、おそらく確定になると思われる人の名前を呼びますので、前に出てください」
「三番、松原くん。六番楠くん、八番、武田くん、十五番、佐々原くん……」
原田の明瞭な声が響き、歓声と落胆のため息がこだました。入隊したのはのちに組長となる、武田観柳斎、坊主頭に愛嬌のある松原忠司、巨漢の島田魁、美男五人衆の楠小十郎、佐々木愛二郎など十数名。みなのちに新撰組として名の残る男たちだった。


さて、こちら八木邸の座敷には、いつの間にか幹部となっていた五人が顔を合わせていた。
「俺は組長がいいとおもうがな。」
憮然と芹沢は文句を言った。少し頬が赤いのは酒を飲んでいたのか。
「私は隊長がいいとおもいますけど」
言いにくそうに意見を述べたのは近藤だった。隊拡張に伴い、壬生浪士組には明確な組織としての形が必要となった。そのため組の頭を決めているのだが。
「壬生浪士組なのだから組長だろう。なあ?」
「その通りです」
同意した新見は苦笑を浮かべていた。近藤達を嘲笑っているのか、それとも芹沢をか……。
「隊長のほうが大きく聞こえます。」
近藤を擁護すべく口を挟んだのは土方だった。土方には譲れない一線があった。昔からこの人のよい近藤を「隊長」にしてやりたいという夢が。
「では壬生浪士隊にするか。だか歯切れが悪いじゃないか。」
全くです、とまた新見が同意する。
埒があかないなと舌打ちすると、それまで口を開いていなかった山南が「では、局長はどうですか」と新たな提案をした。
「局長?」
「隊と言うにはまだまだですし、組としては器が小さすぎるでしょう。会津公用方では長のことを局長、と使います」
「それはいい」
即答で返事をした近藤に続いて、芹沢も頷きこの議論は終わりとなる。
土方には少し悔しい気持ちが残ったが、近藤さんが納得したのなら。と気持ちを沈めた。
「それに加えて、組長というのも、副長助勤というのはどうでしょうか。どこかの本で読んだことがあります」
「副長助勤か…」
聞き慣れない名称に新鮮さを感じ、副長助勤については満場一致で決まった。また勘定方にソロバンが意外にも得意だという平間重助が任じられた。現在所属している隊士は皆、副長助勤となり今回から募り加入した隊士を平隊士とすることが決まった。
「局長には俺と近藤君。副長には土方君、山南君、それからお前だ」
「承知しました」
芹沢はそれだけを独断で言い放つと立ち上がった。
「女との約束に遅れるんでな」
そして隣の酒瓶を持ち上げた。

「チッ…」
芹沢、新見のいなくなった部屋で土方は小さく舌打ちした。
「なんの不満があるんだ、歳。俺と芹沢さんが局長だなんて、お前の思惑通りだろ」
「終始芹沢の言う通りじゃねぇか。気にいらねえ」
「そうか?」
近藤は首を傾げた。
「ですが、芹沢さんの局長職は言わば名誉職でしょう。実権はこちらにあります」
「…上手く立ち回らねぇとな」
土方は呟いた。

「ふくちょうじょきん……」
聞き慣れない名に思わず反復した総司は尚も首を傾げていた。
「名前だけ聞くと、土方さんにこき使われる役職みたいですけど」
「まぁそれもある意味正解だが」
土方はゲッという表情をした総司に苦笑した。
「正式に決まったらこれ以上芹沢に近付くなよ」
「……それは言われなくてもそうしますけど」
前科もあるし。
「これからはどれだけ平隊士を「こっち」に引き寄せるかが勝負なんだ。変に関わるな、特に金策、妓関係はな。」
「…芹沢先生だってそんなに悪い人じゃないですよ」
「まあお前は「芹沢贔屓」だからな」
急に口調が冷たくなった土方の口調に、総司は俯いた。そして土方は何も話さず押し黙ってしまった。


64
 運命だ、と街中で騒ぎ、踊るように屯所に帰って来た彼の顔はとろけていた。紫陽花の咲く季節である。


「新八っつぁん!」
図体のでかい男が、無骨な肩に抱き着いた。
「ったく、なんだよ暑ぐるしい!原田!」
原田の長く太い腕を邪険に払い、呆れ顔で続けた。
「きいたぞ、おまえ、仏光寺通りで女に絡んで騒いで抱き着いた揚句、『運命だ』とか何とか叫んだようだな」
「ん?はえぇな、情報が。」
「おまえの組の奴に聞いたんだよ。副長助勤がなにしてんだ」
「だってさー。運命だろ。上京途中にであったあの娘に会えたんだぜ?」
「は?」
永倉にはまったく心辺りがなかった。覚えているのは本庄宿でのあの一件だけで…。
すると忘れたのかよ、と原田が歎く。
「京に上るときに立ち寄った茶屋にいただろー」
「茶屋?」
うん?と首を傾げて考えてみれば、もうすぐ京、というころ原田が腹を壊し、それに付き合って永倉と共に茶屋に入ったことがあった。そういえばそのときに…。
「……そうだ、お前がいきなり『妻になってくれ』とか叫んだときの娘か?」
「なんだ、覚えてるじゃねぇかよ。」
「でもなんであの娘が…?まさかお前ッ!あの娘に会いに巡察に…」
「んなわけねぇだろ。ったく新八っぁん、俺のことを信用してないだろ。」
だって行動が行動だし。
「巡察途中に再会したんだよ!上洛のときのあの茶屋はあの娘の親戚がやってて、あのとき、ちょうど手伝いに行ってたらしいぜ。おばさんが腰悪くしてたらしい。すげーだろ、これは運命だぜぇ?」
「相手には不運かもな」
こそっと呟いた言葉は、有頂天となった原田には届かなかったらしい。微笑みが絶えない。
「だが、町人の娘だろ?いいのか?身分が釣り合わないぜ。」
黒船来航以来、騒がしくなった世の中だが、身分制度は固く守られていて、身分違いの妻を娶る場合、 いざ仕官となったとき障害になる場合がある。リスクを承知していなければならなかった。
「仕官も大事だけど、これはもう運命だしなぁ。俺はあの娘に惚れてるし…」
「その娘がお前に惚れてるかどうかはわからない…だろ?」
「世紀の美男に何を言う」
「…口を閉じていればなぁ」
永倉がぼやいた。
原田は大柄な体型だが着痩せするタイプですらっとしていて、黙っていれば土方と並ぶ、美形だ。だが鋭い土方のようないタイプの美男というよりも愛嬌があり、腰が軽い。遊び人タイプだ。
永倉の無骨な硬派の真逆という具合。 足してニで割ればちょうどいいと以前吉原の芸子に言われたものだ。
「しかも、京女とは一口違って、勝ち気で強気で…性格も可愛いんだ」
うっとりしている横で永倉は空を見上げた。 まぁ少し夢をみるくらいいいか。 こっそり思った。


仏光寺通りは出店や買い物客が多く、茶屋も立ち並んでいた。
原田が強引に永倉を連れてやってきたのは、古きよき店構えをした小さな茶屋で入口に『甘味』と大きく書かれていた。彼女はここで働いているらしい。
「本当は老舗呉服屋のお嬢さんらしいんだけど時間があれば手伝いに来ているらしいぜ。気の優しい娘だよなぁ」
「お前、いやにくわしいな。そこまで親しくなったのか?」
「山崎に調べて貰った」
職権乱用…。
山崎は先日の隊士募集で加わった、監察方である。 土方直属の彼はほとんど屯所にはおらず、どこかに潜伏しているらしい。永倉も隊士募集以来、顔を見ていない。
「ったく…今日は奢ってもらうからな」
図体のでかい純朴な青年は嬉しそうに笑った。

「いらっしゃい」
暖簾をくぐると反射的に若い女の声が響いた。中には数人の客がいるが店内は静かだった。
「おまさちゃーんッ」
…そこへ原田のあまあまで暢気な声が響く。店内の客の視線は一気に集まった。
「…またきはったん?」
幾分か嫌そうにおまさは溜息を付いた。
おまさは小柄で可愛いらしい女性で、前掛けをした家庭的な姿がよく似合った。原田と並べば身長差は歴然だが、少しだけお似合いな気もする。
「何度だってくるぜ、おまさちゃんが俺を受け入れてくれるまで!」
「阿呆いわんといて!あんたみたいな素浪人、生まれ変わっても勘弁や!」
持っていたお盆で叩かれた原田だが、その顔はどこか嬉しそうだ。幸せボケともいう。
「結婚してくれよー」
「冗談いわんといて。うちの一生台無しにさせる気ぃ?」
「俺が責任とるぜ」
「何にいたしましょ?」
おまさは原田との会話に嫌気がさしたのか、永倉に話を振った。
「あんみつ…」
「へぇ。ああ、あなたもそういえばあのときご一緒でしたね」
「ええ」
おまさは永倉が原田に付き添っていたことを覚えていたらしく、ゆったりと微笑んだ。
「これも何かのご縁やし。どうぞよろしゅう」
「あ、ああ」
おまさにあしらわれたのにも関わらず、上機嫌の原田は永倉とともに一番奥の席に座った。
「可愛いだろー?」
「確かに。でも意外だったな。お前、吉原や島原ではいつも大夫とか天神でも、切れ長の美人ばっかり選んでただろう。ああいう家庭的な女は好みじゃないのかと思ってたよ」
「芸子と妻は違うだろう?」
本気で妻にするつもりだったのか…。
いまいち掴み所のない原田に永倉は圧倒された。これほど自由な男はみたことがなかった。
「健康そうな身体だろ」
「…わかった、ただの変態か…」
やっと合点がいくコメントだった。

「お仲間どすか?」
おまさはくずきりを差し出しながら永倉に尋ねた。 態度が冷たいのは原田に対してだけらしい。
「ええ」
「なんや信じられへんわ。あんさん、真面目そうなのに、こん人のお友達なん?」
「……はぁ」
永倉は明らかに原田を白い目で見ているおまさに苦笑した。
「俺だって真面目だぜ、なぁ、ぱっつぁん」
「阿保いわんといて、公衆の面前であないにして叫ぶ男、お世辞にも真面目なんていわんわ」
「おまさちゃんに対する気持ちは超真面目」
「あほ」
おまさは気持ちがいいほどきっぱり言い切って踵を返そうとした。
と。
「どこをみて歩いとんじゃぁ!!」
と野太い男の声が店内に響き渡った。
永倉がくずきりに運んだ手を止めて見遣ると、入口に一番近い席で女が男数人に囲まれていた。女はこの店のもので、勘忍、と何度も頭を下げているあたり、何か失敗をやらかしたらしい。
おまさは血色を変えて駆け寄った。
「すんません、この子まだ今日が初めてなんどす。許しておくれやす」
永倉が凝視すると大声を上げていたのは浪人風情の男三人だ。 そのうちのリーダー風の男の子袴には真新しい染みがついていた。どうやらくずきりを零したらしい。
「かんにん…」
「その程度で許されると思ってんのか!」
「へぇ、お着物はちゃんと洗って…」
「ふざけるな!」
店内は騒然となり、何人かの客はそそくさと立ち去った。まずいな、と永倉が振り返ると。
「ぱっつぁん」
「ん?」
「刀忘れた」
「………」
目前の男は人懐っこい顔で笑っていた。
「…無用心にもほどがある」
「だってよー。刀もってたらおまさちゃんがそんなもん持ち歩かんといて、っていうもんだからさぁー」
「……はぁ」
永倉の選択肢はその重たい腰を上げる以外になかった。

かくして。 「おい」 と永倉が声をかけると三人の男は一斉に振り返った。
「なんだよ」
「そのくらいにしておけ」
「なにもんだ、お前」
「壬生浪士組、永倉新八」
壬生? 男達は次々と訝しげに永倉をみた。
「染みくらい、洗えば取れるだろう」
「お前には関係ねぇ!引っ込んでろ!」
男は吐き捨てた。仕方ない、と永倉はため息をついて男の腕を一瞬にして折り曲げた。男は情けない悲鳴を上げる。 腕を折られた男を見た仲間は一斉に刀を抜いた。
喧嘩と火事は江戸の花、というだけあってこういう場面に出くわすことは江戸では多かったが、京に入ってからは初めて売られた喧嘩だった。売られた喧嘩は買うのが礼儀…だが、だが、今は身分が違う。ここでひと悶着起こせば、土方…副長にどんな処罰を受けるか。たまったもんじゃない。
永倉はそう、思い留めて刀にかけた手をほどいた。 男二人はそれを確認すると一気に降り掛かってきた。
「きゃぁぁぁ!」  
おまさと女は悲鳴を上げるが、血しぶきがあがることはなかった。永倉は鞘で男二人の刀を振り払うと、刀を抜くことなく急所へ狙って打ち付けた。 右側の男が壁まで吹っ飛び、そのまま気絶した。その様子で恐怖したのか、左側の男は振り落とされた刀を慌てて拾い、悔しそうな顔で「覚えてろよ」とお決まりの台詞を吐き捨て逃げ出した。
店内は永倉の華麗な動きに、一時魅了されていた。


「お疲れーぱっつあん」
「ったく、どうせ刀を抜かないんだったらお前も手伝えば良かったのにな」
「腹一杯で動けねぇんだよな」
原田が笑うと永倉は、小さくため息を付いた。
だが、これが原田最大の誤算だったのだ。
「あの、永倉…はん?」
「え、ああ。お怪我はありませんでしたか」
「へ、へぇ…」
おまさは急に他人行儀のように振る舞い、恥じらいを含めた表情で永倉の質問に答えた。ん?と原田が思ったときにはすでに後の祭り。
「おおきに。あ、あの、永倉はんこそお怪我のほうは…」
「ああ、俺は大丈夫。それよりこの男たちを番所に届けてきましょう」
「…おおきに」
 どう見てもそれは、おまさが永倉に惚れた光景だったのだから。

その後、原田はしばらく永倉を口を聞かなかったという。 色恋ごとに鈍い永倉はてっきり腹を下したのだと思っていたのだが。


 65
「すんまへん。芹沢鴨先生、おいやすやろか?」
 浪人が割拠する壬生へ訪れたのは一人の女性だった。五月の初めのことである。


 偶然にもその女性を出迎えたのは総司だった。八木家の子息と遊んでいるところに、声をかけられたのだ。
「芹沢…先生ですか?今は離れにいると思いますが…失礼ですが、あなたは」
「菱屋のもので、梅と申します。先日のお召もののお代金をいただきに」
 女性はどうやら店の使いだったようで、総司は「あー…」と頭をかいた。芹沢が町のあちこちに借金をしているのは有名な話で、もちろんそれを返す宛てなどどこにもない。今までも何人か店の使いの者が代金を回収にきたものの、芹沢はまともに相手をせず追い返していた。このことを芹沢に進言したが、鉄扇で打たれたというのも最近野口から聞いたばかりだ。
「あの…申し訳ないんですが…たぶん今日すぐに、というのは難しいと思います。芹沢先生には私から伝えておきますので、今日はどうぞこのままお帰りください」
 芹沢先生に、というのはもちろん嘘で、伝えるのは山南に、だ。金の管理をしている土方と山南だが、土方に相談したところで「追い返せ」の一言だろう。(そういうところは芹沢さんと一緒なんだよなぁ)と総司はふぅ、とため息をついた。
 しかし、女…梅はその答えに満足しなかった。
「でも、今日は頂ける約束やったはずです。別のうちの店の者がこの間こちらにお邪魔した時に、今日来れば頂けるゆうて…だから、うち、いただけない限り、帰れへん」
「…う」
 梅は大層な美人だった。品の良い着物の色合いは良く似合っているし、面長な顔は、まるで浮世絵にでてくるかのように美しく整っている。雰囲気は姉であるすこしミツに似ているような気もするが、落ち着いた息遣いとただよう色香は芸子のように艶めかしい。
「…わかりました。ちょっと待ってください」
 総司は遊んでいた為次郎に「この続きはまた今度」と言って、部屋に戻って行った。


 残念なことに山南は留守中で、いたのは土方だった。そして予想通り
「追い返せ」
 といった。
「追い返せるなら追い返してますよ…」
「いくらなんだ」
「五十両」
「そんな金はない」
「そんなの知ってます。でも貰えない限りは帰れないと…たぶん、店の奥さまだと思うんですけど」
 土方は手にしていた筆を置き、ため息をついた。
「いや、奥さまじゃねぇよ」
「何故ですか」
「こんなむさ苦しい男が群雄割拠する壬生に来るわけないだろ。妾か女中かだろう」
「はあ…」
 総司は首をかしげた。土方が「まあいい」と立ち上がる。
「女はどこにいる?」
「玄関に待たせてます」
「じゃあお前はここにいろ。芹沢はいるんだろう」
「ええ」
 土方は総司を置いてでていってしまった。

 玄関までたどり着くと、女が一人待っていた。しなやかな体躯で玄関に腰かける様は、確かに美しいと形容してもいい。焼け野原に咲いた一輪の花のように、ここには似合わない光景だった。
「待たせた」
 土方が声をかけると、梅は軽く頭を下げた。
「話は聞いた。すまんが金はない」
「へえ…。せやけど、もらわな、うちも旦那さんに叱られます」
 言い張る様子を見ると強情そうだ。総司が言い負かされたのもわかる。梅を寄越したよほど菱屋の主人も立腹なのだろう。返してもらえるまで帰るなとでも言われたのだろうか。
「…悪いが本当にないんだ。だから…」
「誰だ」
 土方が懐柔させようとしているところで、張本人の芹沢が通りかかった。ご自慢の鉄扇で残暑を凌ぎながら、取り巻きを連れて歩いているところだった。
「…菱屋の梅という女です」
 最悪な展開だな、と土方は嘆息したものの、芹沢に紹介する。
 梅は形よく頭を下げ「梅どす」と挨拶した。
「菱屋…何の用だ」
「すんまへん。先日のお召ものの代金、頂にまいりました」
 梅は率直に用件を話した。芹沢に怖気づくこともなく、淡々とした様子だ。
「また出直せ、女」
 口を出したのは、新見錦。芹沢の腹心だった。芹沢の借金は方々にあるが、それに隠れて彼もいくつか借金をしているのを土方は知っている。瓜顔で八方美人な男だ。
「芹沢先生は今お忙しいのだ、金は…」
「黙れ、新見」
 得意げに話そうとした新見を制したのは芹沢だった。
 芹沢は「ふん」と鉄扇を口元に当てながら、梅を見る。まるで品定めをするかのようだ。梅もその視線に気がついたのか怪訝な表情になった。
「…お前ら、好きなようにでかけろ。わしは女と戻る。土方君、この女のことは任せろ。手出しは無用だ」
「…わかりました」
「…」
 芹沢は梅を連れて離れに戻る。梅は嫌がることなく逃げることもなく、芹沢に従った。

「あれ、帰ったんですか?」
 言われたように土方の部屋で待機していた総司は、予想より早く帰ってきた土方に驚いた。土方の部屋にあった菓子をつまみ食いしていたようで、ばれちゃった、と舌を出す。
「もう少し遅くなるかと思ってたのに。あのひと、強情そうだから」
「ああ…美人だが、扱いずらそうな女だな」
「その様子だったら、土方さんの好みじゃなかったみたいですね」
「当然だ」
 総司は手にしていた菓子を口に入れた。
 てっきり土方好みの女性なので、うっかり口説き始めるんじゃないかと内心予想していたのだが、そういうことにはならなかったらしい。それどころか土方の顔はあまり冴えない。
「どうかしたんですか?」
「…いや、芹沢が梅を連れていった」
「え?」
 通りかかったんだ、と説明すると総司は笑った。
「じゃあ無事にお金を返してもらえそうですね」
「馬鹿。んなわけねぇだろ」
 土方がポコンと総司を殴る。総司は「いたた…」と土方をにらんだ。
「なにするんですか」
「あのな、こんな男だらけの場所に、あんな美人を遣ってくるってことは、どうしても金を回収してこいってことだ。どういう手段を使っても、な」
「それは…」
「体を使ってもってことだ」
はっとして総司は立ち上がる。土方はもちろん引き留めた。
「やめておけ。お前がいってどうなる問題でもない。女も了承の上に違いない」
「そんなの、わからないじゃないですか!」
 総司は部屋を飛び出し、芹沢の離れを目指した。


総司が離れに駆け込んだ時、芹沢はすでに梅の着物に手をかけているところだった。その扇情的な情景に少しためらいを覚えたものの、総司はこの女を助けなければ、と意を決して「芹沢先生!」と叫んだ。
芹沢は総司を見て、最初は驚いていたもののにやりと笑った。
「なんだ、お前も混ざりたいのか」
 検討違いの芹沢に「そんなわけないじゃないですか!」と総司はなおも叫ぶ。
「その人を離してください!その人はお金を貰いにきただけです。菱屋のお妾さんですよ?!」
「子供だな、お前は。この女だってこうされることはわかっていてここにきたはずだ」
 梅はその言葉に唇を噛んだ…ように見えた。悔しさからか、情けなさなのかはわからないが、彼女がそれを望んでいないことだえは総司でもわかった。
「とにかく、やめてください。こんな無体なことをしないでください!」
「無体なこと、ねぇ」
 芹沢は変わらず笑みを浮かべたまま「まあいい」と梅を離した。首筋が顕わになった梅は急いで着物を直す。
「冷めた。女、もう帰れ」
 と芹沢は女に告げた。女は何だか複雑な顔をしている。何か言いたそうな顔だ。だが芹沢はそれを無視し総司を見た。
「お前の望むとおりにしてやった。今度はお前が相手をしてくれるんだろ」
「え?」
「こっちにこい」
 芹沢は総司の手を引いた。そのまま強い力で引っ張られると、畳の上に叩きつけられる。
 てっきり、喧嘩か何かかと思うほどの強引さだったが、どうやら目的は違うようで「まさか」と総司は驚いた。
「そのまさかだ。お前が俺を喜ばせろ」
 驚いたのは総司だけではない。助かったはずの梅も目を丸くしている。
「ちょ…先生!」
 覆いかぶさってくる芹沢を両手で押すが、その立派な体躯はビクともしない。土方のそれとはちがう、石のように引き締まった筋肉が総司の抵抗を許さない。まるで押しつぶされるようだ…!
「芹沢先生」
 そこに低い男の声がした。
「土方さ…」
「五十両はこちらで準備します。女と総司を返していただく」
 目的だけ告げた土方は女の手を引き、無理やり立ち上がらせる。梅は困惑顔でされるがままになった。芹沢は「ちっ」と舌打ちし総司から引いた。総司はその隙に土方に引っ張られる。
「では」


 その後、言われるまでもなく大目玉をくらった総司は、梅を見送るべく壬生寺のあたりまで来ていた。
「今日はすみませんでした」
 結局、五十両のうちの半分を梅に持たせ、帰らせることにしたのだ。梅は受け取ると「あの」と総司をみる。
「今日は…なんで?」
「え?」
「なんで、うちを助けてくれたん…?」
夜風が吹き、少し解けた髪が梅の輪郭を撫でる。その表情は訪れた時と違ってすこしあどけなく見えた。
「…理由なんて、ないです。ただ、ちょっと私の姉に似ていたからかもしれません」
「お姉さまに…」
「実際は全然似てないんですけどね。あなたよりもう少し年は上だし、怖いし」
 総司は苦笑した。すると梅も安心したように笑い、頭を下げた。
「今日はおおきに。…あの、お名前は?」
「私ですか?私は沖田と言います」
「沖田、様」
 梅は同じように繰り返し、「おおきに」ともう一度言って去って行った。
66
紫陽花の花が八木邸の庭を埋めていた。 本邸の奥に、井戸つきの小さな庭は、まもなく訪れる梅雨を予感させている。

土方は机に向かっていた。手に握る筆の墨はすでに乾き、何刻も同じ格好をしているせいか少し腰が痛い。だがそんなことを気にする隙もないほど、目の前に書かれた隊編成の紙を見つめていた。
もっとも、その紙には先日追加された隊士の名前しか書いていないのだが。
「土方君」
そんなぴりぴりした空気のなか、温和な声で山南が部屋に入ってくる。
「あ?なにかあったか?」
「いや、たいしたことじゃないんだよ」
山南はそれでも穏やかに笑っている。その表情は少し嬉しそうにも見えた。
「玄関先で沖田君の客人が見えてね。どこにいるか、知らないかい」
「客人…?ガキじゃなくて?」
「ああ、女の人だよ」
女?と土方が首をかしげる。総司はほかの連中と違って遊里に繰り出すこともなく、また原田のように運命の女に出会ったわけでもない。いつも隣の壬生寺で遊んでばかりなのだ。一向に一行に思い当たりがない土方の横で、山南が続けた。
「綺麗な人だよ。京美人というのはああいう人をいうのかな。なんだかよく知らないが沖田君に礼がしたいんだそうだ」
「……ああ、あの女か」
土方の脳裏に、女とともにあのときの光景が浮かんだ。 そしてふいに、妙な直感が働く。
「山南さん。俺が取り次ぐから総司には知らせないでくれ」
土方は筆をおき、部屋を出た。その様子に山南は首を傾げるだけだった。


玄関先には土方の予想したとおりの女が訪れていた。
「…また、芹沢に目をつけられるぞ」
土方はそういって毒づいた。 女…梅は土方に気がつくと、一瞬身じろぎながらも深々と頭を下げた。
「あの時は…えろう、ご迷惑をかけてすみません」
白いうなじが昼間の明るい日差しに映えた。お梅にとってさりげないしぐさだったのだろうが、ひどく扇情的だった。 おとなしい色使いの着物はいっそうそれを囃し立てるかのようだ。
「総司に用か…?」
「へぇ。あの時はお礼もあまりできんままでしたし…。あの、それで沖田様は」
「あいつなら出かけいる」
本当は隣の壬生寺で子供たちとはしゃいでいるだろうが、土方はそれを教える気にはならなかった。 この梅を総司に近づけるのはとても危険だと思っていたからだ。
「それでしたら…これを。もしかしたら御口に合わないかもしれまへんが…」
梅は持っていた風呂敷の中から酒瓶を取り出した。 京では有名な酒屋の酒だ。芹沢がよく好んで飲んでいる。もっとも、土方にとっては薄口で余り好みではないのだが。
「ありがたく受け取る。だがあいつは酒は飲まないんだがな」
「えっ…そう、でしたか」
梅のあわてるしぐさも、節目がちの目も色香を漂わせている。 少し目のやりどころに困るほどだ。
「あんた、菱屋の妾だろ。こんな高い酒、よく買えたな」
「……」
梅は視線をはずした。
すると
「あ、土方さーん!…何して……あ」
大声で総司の声が響いた。土方にしてみればバットタイミングだ。思わず眉間のしわを寄せる。
だが総司も客人に気がついたようで、あわてて口をふさぐがいまさら遅い。駆け寄りながら客人を確認するとさらに「あ」と呟いた。
「あのときの…」
「へぇ、梅どす。あの時はおおきに…」
「い、いえ。こちらこそ、あんなひどい目にあわせて…申し訳ありません」
お梅にあわせるように総司も慌てて頭を下げた。その子供っぽいしぐさに梅が微笑む。
「先日のお礼に参りました。やけど、沖田様はお酒を好かんと聞きまして…。また参ります」
「い、いえ。お酒ならみんなが喜んで飲みますから、それだけで結構ですよ。それに何度も来ていただいては…危ないでしょうし」
今、たまたま芹沢はいないのだが、いつもは昼間から八木邸で飲むこともある。芹沢の予定など誰も把握できないのだ。
「いえ。そうゆうわけには参りまへん。沖田様は何かお好きな食べ物でもありまへんか?」
お梅の強情さに押された様子で、総司も「甘いものなら…」と思わず返事をしてしまう。すると了解したようにお梅が微笑み、「ほんなら、また」 と踵を返した。 見返り美人、とはよく言ったもので、振り向きざまに頭を下げた彼女はまるでそのようだった。


「あーびっくりした。お梅さんも勇気がある方ですね。またここにくるなんて…」   
梅が玄関から見えなくなると、総司が感心したように呟いた。
「ふん。ただの男好きだろ」
土方は毒づいた。
「そんな風には見えないですよ!もう、適当なこと言わないでください」
「妾って言うくらいだから前は遊里で働いてたんだろ。いちいち仕草に色仕掛けを感じる」
「やめてくださいってば!!」
総司はむきになった。
「…なんだよ、女のことで大声出すなんてお前らしくない」
「土方さんこそ、あんなに綺麗な人を馬鹿にするなんてらしくないです。あの人は被害者なんですから!」
総司にしてみればどうして土方がこんなに梅を貶すのかわからなかっただが、その様子に土方は苛立った。
「お前、妾ってのをわかってねぇな」
「な、なんですか…」
土方の鋭い目つきに、総司は少しひるむ。
「菱屋の主人はあの女で芹沢から金を引き出させようとしたんだろ。たとえどんな手段を使っても、な。 最初から身体使って芹沢から金をせびるのをあの女は決めてきたんだよ」
「そ、そんなの…わからないじゃないですか」
露骨な表現に総司は真っ赤に顔を染めた。 だが土方はからかうこともしないで続ける。
「俺は遊里を出たところで金をせびる女は好きじゃない。それにろくな女がいない。悪いことは言わないから、あの女には近づくな」
「べ、別にそういうつもりはありませんよッ」
「いいから近づくなっていってんだろっ!!」
今度声を張り上げたのは土方だった。びくっと総司は身体を震わせる。
土方がこんなの大声を上げるのは、もしかしたら初めてかもしれない、と思った。なにか、悪いことをしたのだろうか…土方から視線をはずす。
だが土方は血相を変えたまま、大きな足音を立て、奥へと去っていってしまった。


「ひぃー。おっかないぜ、土方さん」
総司の耳に、庭先から揶揄するように原田の声が飛び込んだ。 振り返れば新入隊士の島田が後ろで脅えたように総司を見つめている。 大柄で巨漢の島田だが、意外に心優しい性格で、土方に心酔している。そんな彼にとって、土方があんなに大声を張り上げることはとてつもない驚きだったのだ。
「原田さん。何してるんですか」
「槍の稽古。島田が槍を使いこなせるといろいろ重宝しそうだしな」
「へぇ」
島田が総司に一礼した。
「それにしてもどうしてあんなに怒ってるんだ?」
「自分も驚きました」
原田も島田も不思議そうに総司に尋ねた。
「おかしいですよねぇ。いつもの土方さんならあんなに綺麗な人、放っておくはずがないのに…」
「確かにいい女だよな。まあ、まさちゃんには劣るけど」
「でも…自分にはあの方は沖田先生に気があるようにみえましたけど…」
島田がその大柄な巨体には似合わない小声で呟いた。
「え?」
「お前、にっぶいなー。それは思ったぜ。あの梅って女、お前に気があるって。じゃなきゃこんな場所こねぇだろ」
原田の言葉にうんうん、と島田が頷く。
「でもあの人は菱屋の妾さん…ですよ」
「なに、妾だろうと人妻だろうと惚れちまったもんは仕方ねえだろ。
あー…だからか、土方さんがあんなに怒っていたのは」
原田は一人で納得してうんうん、と頷いた。島田もそして総司もわからないので首を傾げる。
「どういうことです?」
「そりゃ、お前をあの女にとられるから焼きもち焼いてんだろ?」
「はぁ?」
「ひ、土方先生が??」
島田が目を丸くする。総司よりもはやくその意味を察したのか微妙に顔が引きつる。だが総司は何もわからず
「どういうことなんですか?」
ともう一度尋ねる。だが原田は「自分で考えろよ」と茶化して島田とともに庭に戻っていった。
島田は複雑そうに総司を見ながら「そういう関係だったんですね」と呟いて原田に従った。


後日、予告どおり、お梅がやってきた。老舗の干菓子を持参し、壬生寺でたまたま会った総司に渡した。 土方にまた怒られはしないだろうか、とびくびくしながらお梅と会話を交わし、すぐに屯所に戻った。 だが珍しい干菓子を持っていた、という時点でバレバレのようだ。
しかし今度は土方は何も言わず、お梅とあったことを咎めようとはしなかった。

ちなみに。
島田は土方と総司の関係を知ったものの、『己の胸のうちに秘めておこう』と彼なりの気遣いで固く決心し、誰にも漏らさなかった。彼がその誤解に気がつくのは当分先である。


67
文久三年(1863)六月一日。
会津から壬生浪士組へ大阪での不逞浪士の出没について報告があった。同日夜、早速壬生浪士組から10名が大坂へと下った。

「あー。なんか変な感じがしますよね」
大坂への道中、総司が永倉へと洩らした。もうすぐ到着、というところだ。
「ん?なにが」
「だっていつもはあーだこーだうるさい土方さんとか、腹が減ったーって騒いでる原田さんがいるじゃないですか」
「だから静かでおかしいってか?楽だろ」
永倉は苦笑した。すると後ろにいた斉藤が言う。
「寂しいとか?」
「そ、そんなわけないじゃないですかっ」
斉藤の無表情でからかう口調にまんまと乗ってしまった総司は顔を赤らめた。
今回大坂へ下坂するのは、芹沢、近藤、山南、井上源三郎、永倉、斉藤、芹沢派の平山、野口、新入隊士の島田、それから総司の十名である。
土方は雑務で忙しく、原田は永倉のいないうちにまさを落とそうと必死。藤堂も土方の補佐のため残留している。
というのも、下坂の目的は会津から報告があった不逞浪士の捕縛だが、相手は高沢民部、柴田玄蕃と名乗る二名。 本来なら十名も必要ないため、当初は近藤一派だけで下坂しようと考えていたのだが、「大坂見物をしよう」という芹沢の申し出を断ることはできなかった。 そのため、このような大所帯になってしまったのである。

予想通り、不逞浪士の捕縛は翌日には難なく終わった。 二人の身柄は大坂東町奉行所に引き渡され、事件は早々に解決したのだった。


近藤、井上がことの次第を報告をするため、別行動をとることになった。
「芹沢さんのこと、くれぐれもよろしく頼む」
近藤が小さく耳打ちした相手は山南で、心得た彼も深く頷いた。 だが芹沢は近藤の心配をよそに、
「夕涼みへいこう」
とみなを誘った。すでに酒を手にし、それは決定事項のようだった。

宿泊していた八軒屋から小船を出し、一同は夕涼みへと繰り出した。 小さな船で八人乗るのはなかなか難しかったが、芹沢が面白がって全員を乗せた。 そして芹沢は狭い船の上で、画策したかのように、総司の隣に座った。
「お前も飲むか?」
芹沢は総司に酒瓶を突き出す。芹沢がすでにつまんだのか、中身はもう少ない。
「ご遠慮しておきます」
「夕涼みに酒がなくてはおもしろくなかろう」
「いえ、涼しいし、船には余り乗ったことがないので楽しいです」
そういうと芹沢はガッハッハ、と大声で笑った。
「お前みたいな子供あいてに、よく土方が盛れるな」
「…?おっしゃる意味がわかりませんが」
怪訝そうに首を傾げる総司に、また芹沢が笑った。酒も入っているせいか上機嫌だ。そして「まあいい」と前置きする。
「ところであの女にはあれから会ったか」
「あの女…?」
「梅、とか言ったな」
総司はハッとした。そして悟られないようにもしたが、芹沢にはバレバレだったようで 「会ったのか」 とさらに詰め寄られた。
「会ってどうしたんだ。抱いてやったのか?」
「なっ…!そんなわけないじゃないですか…!」
「ま、そうだろうな。お前からそんな匂い、しないからな」
上目で尋ねられると、どうもからかっているようにおもえる。総司はそれが不快で、ふいっと目をそらした。
「ふん…じゃあ代わりにわしが抱いてやろうかな」
「や、やめてください!手篭めにするようなことは…!」
思わず総司は芹沢につかみかかるようにしていた。芹沢は面白いものを見つけたかのように 妙な笑いを浮かべ、
「やっぱり、あの女に惚れたのか」
と笑った。
 と、そこで。
「う…っ!」
総司の隣に座っていた斉藤が妙な声を上げた。
「さ、斉藤さん?」
普段は無表情な彼だがどうも様子がおかしい。顔は真っ青で冷や汗は止め処なく流れている。
「は、腹が…」
「え?」
斉藤がうめきながら答えたのは「腹」というだけであとはうずくまるようにしてしまった。
「さ、斉藤さん!」
「斉藤先生っ!」
総司と呼応するようにあわてたのは島田。そしてその隣で永倉が叫ぶ
「あー。船頭。近くの岸に寄せてくれないか」
「へーぇい」

「大丈夫ですか?」
総司が永倉が持っていた薬を渡すと、斉藤は水とともにそれを飲み込んだ。永倉曰く「マジで苦い薬」なのだが、それは本当のようで斉藤の顔がゆがんだ。
「す、すまない」
「いえ。でも斉藤さんが腹痛なんてなんだか珍しいですね」
「…今朝の貝が当たったな…」
「貝?」
そういえば今朝の朝食には貝の入った味噌汁が出されたが…運悪く斉藤が当たってしまったようだ。
「ふん、せっかくの夕涼みが」
斉藤を見下すように毒づいたのは芹沢だった。 その表情は少し侮蔑がこめられているように聞こえ、総司はびくっとしてしまったようだが「申し訳ありません」 と斉藤は平然と答えた。   
斉藤と芹沢にはなにか特別な確執があるようなのだが、総司はまだ聞けずにいた。試衛館から突然斉藤が姿を消してしまったのも、どうやら芹沢に原因があるようなのだが。
「先生。この近くには北新地がありますよ。おいしい料亭も手配させてますから」
芹沢を宥めようと声を上げたのは野口だった。芹沢一派となっている彼だが、総司や斉藤とは少し親しい台所仲間だ。
「お、そうか」
芹沢は持っていた鉄扇をパチンと閉じ野口が先導するのに従った。 いっきに機嫌がよくなったのは、今回の大坂行きの目的だった北新地の名前があがったからであろう。 野口と総司の視線が一瞬合い、野口は少し笑った。「すみません」という風に。

「斉藤さん、どうしますか」
「いや、行くよ。北新地」
総司に差し出された手に引かれ、斉藤は立ち上がった。
「でも…」
「宿の飯はもうこりごりだ。それに大して腹は痛くないんだ」
「え?」
斉藤が呟くように言った。
「あんたはあんまり芹沢さんに近づくな」
「……」
斉藤がまるで土方のようなことを言い、総司は呆気にとられた。
「け、仮病?」
あれは迫真の演技だったのか、と総司が驚くと、斉藤は苦笑した。
「いや、貝があたったのは本当だろうが。それよりも俺は土方さんの不機嫌を被るほうが怖かったから」
「え?」
「いや、こっちの話だ。とにかく、あんたは芹沢さんに近づくな。前科もあることだし」
「は、はい…」
先ほどまでの真っ青になった斉藤はどこかにいってしまったかのようにしっかりした足取りで彼は歩き出した。
総司はしばしぽかん、とその様子を眺めていたが、あわてて追いかける。
どうやら妙な話になりかけた芹沢から、総司をかばってくれたらしい。 そう気がつくのは少し時間がかかった。


北新地は大坂の中でも一番大きな遊郭で、芹沢が一番楽しみにしていた場所である。野口の案内でそこへ向かう芹沢の表情は終始上機嫌で、近藤から芹沢のことを任されていた山南は少し安心した。女遊びはよいことではないが、乱暴を起こされてはどうしようもない。
「山南先生。少し顔色がが悪いようですが」
そんな山南を心配したのは新入隊士の島田。大柄で芹沢をも圧巻させる彼だが、気は優しく、隊の中ではだれよりも繊細で気遣いのできる人物だ。
今回派遣されたのもその人柄であろう。
「いや、大丈夫だよ」
「そうですか…」
島田は心配そうにもとの視線に戻す、と。
「あ」
島田の背の高い目が、一番にそれをキャッチした。
「大坂力士だ」
「え?」
永倉が興味深く目を凝らす。
「あ、ホントだ。でっけぇなぁー」
数人の相撲取りが集団に歩いている。どの力士も丸々と太り、この炎暑でどれもが脂汗を流していた。 力士たちがわいわいと群れたがり、ついに蜆橋あたりで芹沢と相対す。
「やば…」
察したのは永倉だったがもう遅い。
「どけよ」
芹沢が持っていた鉄扇を突き出して相撲取りの棟梁らしき人物に怒鳴った。しかし力士は臆することなく、「うん?」と芹沢を見下げる。
「あんたがどければええやろ」
相撲取りにとっては芹沢はただの素浪人。どける価値さえないと思ったのだろう。しかし芹沢は壬生浪士組の頭である、というプライドがある。
「二度とはいわんぞ。どけよ」
芹沢の目が鋭くなり、その物言いもきつくなる。だがそれに力士が応じるわけがない。
「二本差しやからって、誰もがお頭さげるとおもわんほうがええで」
とさらに悪態をついた。
すると芹沢が持っていた鉄扇を振り上げ、相手の肩をしたたかに打ちつけた。
「ぐぅっ…!」
鉄扇をくらった仕切りはどすんっとその場に倒れこんだ。 芹沢の鉄扇は300匁(約一キロ)あり、まともに当たれば骨も砕けるだろう、特製だった。
「頭領!」
「大丈夫ですかい!」
数名の力士は倒れた男に駆け寄り、また数名はこちらを睨みつける。 だが芹沢は憮然と言い放つ。
「無礼打ちだ。そうだな、平山?」
「え、ええ…」
取り巻きの一人である平山も、あわてて頷いた。もし否定すればその鉄扇は己に降りかかってくるだろう。 それくらい急に芹沢の機嫌は悪くなった。 そして、さらに芹沢は刀を抜いた。
「まだ痛い目にあいたいやつは斬ってやる。この壬生浪士組、局長がな」
芹沢が言い放ったが、力士たちの反応は
「壬生…浪士組やて?」
「しっとるか?」
「いや、しらん」
いまいちだった。
だが、数名の力士はまだ興奮が冷め止まぬ様子で
「なんや!わけのわからんお前らに開けてやる道はないで!」
「そうや!そうや!」
「熊次郎に怪我させて、こっちがなんもせずに引き下がるとおもうたら大間違いやで!」
と、どんどん声が上がっていく。だんだん騒ぎも大きくなっているようで、後ろで見守っている総司もはらはらした。 それはみな同じだったようで山南などは顔面蒼白だ。
「…芹沢先生の主張も間違ってませんから、止めようもないですよねぇ…」
総司が呟くと永倉が呼応した。
「だな」
「でもいつまでもこうしてると…」
「ああ、壬生浪士組の評判も悪くなるな…」
大坂の人々は相撲に熱狂的で、もしここでさらに力士と騒ぎが大きくなれば、大坂での活動はしにくくなるだろう。
そんなことは芹沢も知っているはずだが、酒の入った彼を抑えることなど、赤子をあやすより難しい。
それをわかっている山南は思わず頭を抱えた。 だがしかし、芹沢はさらに大声を上げた。
「ふん、殺してほしいようだな!!」
芹沢の怒りが頂点に上ったのか刀を振り上げる。「やばい」と思った瞬間斉藤は総司を視線を合わせる。
「沖田さんっ」
「はい」
斉藤が総司に声をかけ、一瞬にして芹沢の前に出た。 そして二人がかりで力士の一人に飛び掛り、押さえつけ、無理やり土下座をさせた。「ぬうっ」と力士が押さえつけられ 声を上げた。
「ここは謝っておけ。このお方は会津お預かり壬生浪士組の局長だ」
「…っ」
斉藤の耳打ちで、会津お預かり、と聞くと力士の表情に影が差した。どうやら事の重大さに気がつき始めたらしい。 その証拠に抵抗はしなかった。そして総司が芹沢に言う。
「芹沢先生!この者はすでにこうして芹沢先生に謝罪しております。今日のところはご勘弁ください」
「……ふん。お前がいうのなら、そうしてやろう」
芹沢はなにか含ませた物言いをしたが、この場を収めてくれそうなので総司もほっとする。
芹沢は刀をしまった。
「力士一同に伝えよ!武士に無礼な振る舞いをするな、とな!」
おずおずと道を開けた力士たちは、それでも憎しみの表情を収めることなく芹沢たちを睨みつけていた。




68
文久三年六月三日、夜。
北新地、住吉楼で壬生浪士たちは大宴会を開いていた。 芹沢の機嫌も良好で、みな、安心しきって酒を飲んでいた。


「斉藤さん。腹痛、よくなりました?」
大宴会が開かれてる次の間で、腹痛を装った斉藤が一人酒を楽しんでいた。すると総司は避難がてらやってきた。
「もともとたいした腹痛じゃないし」
「貝があたったっていうから皆、貝だけ避けて食べてますよ」
「そうか」
斉藤は苦笑した。
「良くなったのなら、みんなと一緒に酒を飲んだらどうですか?」
「そういうあんたこそ、飲めばいいじゃないか」
鸚鵡返しに質問されて、総司は頭をかいた。
「酒はあんまり好きじゃないんです。甘酒がぎりぎりかな」
「甘酒なんて俺は飲めないな。甘くて」
つくづく趣味が合わない、と苦笑した二人だが、どうしてか気が合うのは不思議だ。そして
「いやな予感がするんですよね」
「ああ、俺もだ」
そういった意味でも、なぜか通じる部分があった。

そうしていると隣の間から女の声がした。芹沢が女郎を侍らすように言ったらしい。きゃあきゃあと男にすがる女の声がして、さらに総司はため息をついた。こういった宴会の場は楽しくて好きだが、女を呼んで遊ぶのはあまり好きではない。 遊ぶのなら近所の子供と遊ぶほうが数倍好きだった。
「あ」
酒を飲みながら窓辺から外を眺めていた斉藤が、何かに気がついた風に呟いて酒を置いた。
「的中だ」
「え?」
「来たな」
短い斉藤の言葉に、総司はとっさに理解ができなかった。 首をかしげながら外を見た。


住吉楼の周りは、野次馬とともに大勢の肉厚に囲まれていた。 肉厚の正体はもちろん大坂力士だ。八角に削った樫の棒を手にし
「壬生浪士を出せー!」
「熊次郎の敵や!」
「浪人どもを打ち殺せー!」
と次々に騒ぎ、辺りは騒然としている。

「お客はん。困りますえ。店を血ぃで汚すようなまねは…」
店主はおろおろと芹沢たちに頭を下げる。頭を下げる義理もない店主だが、このままでは相撲取りたちに、店を打ち壊されてもおかしくない。事態は深刻なのだ。 周りに侍らせていた女たちも逃げるように去った。
「迷惑などかけん。いいから刀を出せ、始末してやる」
殺気立ったのはもちろん芹沢だ。口元には笑みが零れている。この事態を深刻に捉えるどころか遊び半分なのだろう。
だがあわてたのは山南だ。
「芹沢先生!困ります」
「困りはしないさ。あんな力士ども、二、三人斬れば怖気づいて逃げていく。それに武器は木棒だろ。たいしたことはねぇ」
芹沢は店主から刀を受け取ると、血気盛んに階段を駆け下りた。それに平山、野口が続く。
「山南さん、どうしますか」
永倉が問うと
「…仕方ない。芹沢先生に怪我をさせるわけにもいかない。われわれも行こう」
としぶしぶ了承した。それを聞いた永倉は笑う。
「痛めつけてやる程度でやればいいな。久々に腕が鳴る」
「いいっすね。自分もやりますよ」
島田もやる気十分の様子で永倉とともに駆け下りた。ただ一人「ああ…。胃がいたい…」 山南だけが行く末を案じ、が柱にもたれかかった。
「…なにが怖いって、あとで土方さんにどれだけ怒られるか、ですよねぇ」
山南を気遣うように苦笑したのは総司だったが、その顔はすこしうれしそうだ。それを見た山南はさらにため息をついて
「なんでみんなそんなに嬉しそうなんだ…?」
といった。山南は頭が言い分、この先の展開が読めるのだろう。
「だってこんなところにいたら腕が鈍りそうだったんです」
総司の満面の笑みに、山南はさらに重くため息をつき、斉藤は苦笑した。


住吉楼の裏口まで力士は取り囲み、力士の数は20~30人ほど。 だが体格が大きい分、50人以上いるのではないか、と錯覚するほど圧迫感を感じた。
「いいか、皆。できるだけ峰打ち。それから死者を出さないように」
山南が頼むから、という目でみなを見る。
「はいよー」
軽く返事をしたのは真面目だったはずの永倉で、山南は思わず嘆息した。

力士たちがもつ八角棒は思わぬ威力と破壊力を持っていた。 もしもろにぶつかれば骨が折れるだろう。 総司は目の前に襲ってくる敵を、斉藤と背中を合わせ、切り伏せた。もちろん峰打ちだ。 しかし肉厚のせいか峰討ちがただの打撲にしかなっていないようだ。倒れた力士たちは何度も起き上がり、襲ってくる。
「斉藤さんっ!これじゃあきりがないですよ」
「仕方ない、急所をはずして斬るしかないか…」
斉藤は襲い掛かってきた相撲取りの腕を切りつけた。
「うぉぉぉぉ…!」
脂ぎった肉厚から血が噴出し、力士たちは急に怖気づく。しかし。
「こ、怖くないで!大坂力士の力、見せ付けてやるわ!」
誰かが叫ぶと力士たちは血色を取り戻し「おおおお!」とどよめきが起こる。
「…逆効果?」
「かな」
背中合わせの斉藤と、苦笑する。 だが悠長にしている暇はなく次々と総司よりも二倍大きいだろう力士たちが襲い掛かった。 力士たちの屈強さはできるなら土俵の上で味わいたかったものだ、と思いながら総司は急所をはずし、刀を振り続けた。
「いたっ!」
が、ずっとこちらが有利であるはずもない。
「どうした?」
「い、いや。鼻をやられました…」
棒の先端が総司の鼻をかすめ、折れはしないものの、大きなダメージが襲う。そして水っぽい。
「あ、鼻血」
「…鼻をやられたんなら仕方ない」
斉藤のそっけない気遣いに、総司は少し落ち込んだ。

「こ、殺されるで!逃げるんや、退却やー!!」
突然、相撲取りの大きな声が怒鳴り、力士は八角棒の手を緩めた。
もう数人の力士が倒れ、総司たちも体力を失いかけたころだったので、朗報にも聞こえる。しかし先ほどまでやる気満々、張り倒す気十分だった相撲取りがあっさり退却とは、少し納得がいかない。
「…どうしたんでしょう」
「さあ…」
力士たちがその声に呼応するように退却を始めた。
総司と斉藤の目の間にいた力士たちも悔しそうに二人を睨みつけながらも、帰っていく。息のあるものは引きづられるようにして、力士たちは突然、姿を消した。


「どういうことなんですか?」
鼻を懐紙で押さえ、総司は山南に聞いた。
総司と斉藤が力士と争っていたのは店の裏口で、表口担当だったほかの五人とは少し離れていた。
「いや、最初は峰打ちで追い払おうとしていたんだが…芹沢先生が、キレて力士を一刀両断にし始めてね」
山南は愕然となっていた。
「死者を出し始めたから力士たちも逃げていったんだ」
表口には三、四人の力士たちが血まみれで倒れていた。何人かは息があるようだが これはもう助からないだろう。
「ふん、おかげで刀もぼろぼろになっちまった」
芹沢は不満そうに呟いて刀を拭いた懐紙を投げ捨てた。芹沢に怪我はないようだ。
「ん?どうしたんだ」
芹沢が総司に気がついた。総司が懐紙で鼻を覆っていたからだ。
「鼻をやられました。折れてはいませんが……その、鼻血が」
総司が恥ずかしそうにいうと、芹沢ははっはっはと大声で笑った。
「鼻血か!どれ、わしがなめてやろうか」
「け、結構です!!」
芹沢のからかいに総司はあわてて逃げた。 斉藤の背中に隠れたのが正解だったようで、芹沢は「つまらん」と呟いた。そして 「よし、飲みなおしだ」 と高らかに叫んだのだった。


「永倉先生、申し訳ありません…」
負傷組は再び開かれた宴会の次の間で、手当てをすることになった。 負傷したのは総司と永倉だ。 永倉は島田の刀がたまたま腕をかすめ、切れてしまったらしい。
「いや、たいしたことないから気にするな」
「いや、しかし…」
島田は申し訳なさそうに頭を下げる。大柄なのにとても小さく見えた。
総司のほうは鼻血も止まり、残るのは鼻の痛みだけだ。
「折れてはなさそうだな」
山南の手当てを受けている総司の傍らで、斉藤が必死に腹を抱えていた。
「斉藤さん?また腹痛ですか?」
「い、いや、そうじゃない…。鼻血を出しながら刀を振るあんたがおもしろくて…ぷぷっ…思い出してしまった…」
「ひ、ひどい…」
腹を抱えて笑うほど、斉藤にはツボだったらしい。総司は赤面しながら、口を尖らせてすねた。

奉行所への届けがすんだ頃、近藤と井上と合流し、事の次第が近藤へ伝えられた。近藤は唖然としながら、
「……歳に怒られるかもな」
と次なる危機をそれとなく感じていた。



69
芹沢をはじめとする十名は大坂から帰営した。 乱闘事件から三日後のことである。

「馬鹿野郎!」
十名に含まれていた試衛館メンバープラス島田は、予想通り土方の罵声を浴びることになった。大坂の乱闘事件はすでに土方も承知しており、総司たちが言い訳をする隙などなかった。
「これからは大坂に金を借りにいくこともある!こんなことで俺たちの評判を落とすわけにはいかねぇ! なのにさっそく大坂力士と乱闘だと?いきなり評判を悪くしてどーするんだ!ついでに木棒相手に刀で応戦して4人殺してどーするんだよ!民衆の評判がガタ落ちだろうがっ!」
土方のご意見はごもっともで、近藤、山南さえも頭が上がらない。でも総司は素朴な疑問を呟いた。
「これからって…もう大樹公は江戸に帰られるんでしょう?」
「あ?」
土方が虚をつかれた表情になった。激昂していたあの熱がどこかに吹き飛んでしまったようだ。
「……なんだ、そんな話、聞いてねぇ」
「だって、ねぇ、近藤先生」
「あ、ああ…歳にはまだ言ってなかったな」
近藤が土方の表情を伺うようにして、頭を上げた。

総司たちが壬生浪士組になる前。
江戸で集められた清河八郎の浪士組は京都に上る将軍警護の目的で、将軍よりも『先に』京都に送られた。その後、清河の裏切りなどがあって大部分の浪人たちは江戸に戻った。
残った総司たち壬生浪士組は、その後都に上った将軍を警護(という名の野次馬をし、その目的で現在も将軍の動向に合わせて滞在している、というのが現在の状況だ。
つまり、将軍家茂が江戸に帰るならば、壬生浪士組は会津お抱えとはいえその存続理由をなくすということになる。

「大坂にいたときに松五郎さんに会って聞いたんだよ。近いうちに大樹公が江戸に戻られると」
松五郎とは井上松五郎といって井上源三郎の兄である。
「だから一緒に私たちも帰るってことですよね」
総司が聞くと近藤が言葉に詰まった。 本来ならそうすべきなのだろうが、そうできない理由がいくつもあったからだ。
「でもな、総司。これであっさり将軍と一緒に帰っちまったら、芹沢さんの借金とかはどーすんだ。踏み倒すってことだろ?」
永倉の率直な理由に総司も「あー」と納得気味に返事した。確かに後味が悪い。
「まだ俺たちは会津お抱えだ。会津からお達しがない以上、勝手に解散するわけにも、帰るわけにもいかねぇ」
それにまだ、叶えていない夢と野心がある。 土方の瞳はもう江戸へは向けられていなかった。

「まあ、歳。落ち着け」
近藤が宥めるように言った。
「大坂のことは心配しなくても大丈夫だよ。あの乱闘事件の後、大坂相撲部屋に線香を上げにいったんだが」
「あ?そんなことしたのかよ」
「そこの大将とは和解しているんだ。あちらにもこちらにも落ち度があったわけだからな」
近藤は笑った。無骨な男がこうして笑うから、相手の大将も許さずにはいられなかったのだろう。 土方は不満に思ったが、すべてにカタがついているのなら何も言いようがない。
「…ま、今回のことは大目にみてやる」
土方の渋々の了承にみな心の中で万歳した。


「総司」
土方の小言の時間が終わり、皆が次の災いが起こる前に、と解散する中。 土方に呼び止められた総司は「げっ」と思わず声を上げてしまった。
「げってどういうことだよ」
土方が後ろから首根っこを捕まえた。
「だってまた怒るんでしょう?もー勘弁してくださいよ」
「そうじゃねぇよ。お前、大坂では何もなかったんだろうな?」
土方の問い詰め方はいつも乱暴で、答えなければこの首根っこを捕まえた手は離してくれないらしい。総司は「何もありませんよ」 と呟くように答えた。だが土方がそれを悟るのは俊敏で
「嘘だな。何かあっただろ。芹沢絡みなら俺に言えよ。わかってんだろ?」
その意味と、理由は。
付け足さなくても聞こえる土方の声に、総司はあわてて言い訳を考えた。 船の上でいろいろあったといえばあったのだが、それをいちいち土方に報告する必要はないだろう。
そんなことを報告したところで、神代が去ったあのときのように、亀裂を生むだけかもしれない。
「さ、斉藤さんに…」
「斉藤に?」
総司はおずおずと口にした。
「笑われました」
「……は?」
予想だにしなかった総司の答えに、土方は思わず首根っこをつかんでいた手を緩めた。
「あの無表情の斉藤が?お前、なかなかやるな。なにやったんだよ」
本気で驚いた様子の土方が興味本位でたずねる。 おかげで総司は力士との乱闘で怒った己の羞恥プレイを明かさなければならなかった。
「は、鼻血が…出て。それでそのまま刀を振り回してたんで…」
「……ぷっ」
しばしの間は土方の想像時間だったのか、時間差で土方が笑った。 それこそ、腹を抱えて。
「ははっ!!なんだよ、それ。見たかったな」
「もー!だから言いたくなかったんですってば!」
総司はバシバシと土方の胸倉を殴った。
そして内心、ごまかせれてよかった、と胸をなでおろしたのだった。


「……ぷっ」
「もー…いい加減にやめてくださいよ、斉藤さん」
大坂の反省会が終わり、飲みに行こう、という斉藤の誘いにつきあった総司だが、肝心の斉藤はまだあのときの羞恥プレイが頭から抜けきっていないようで。 総司の顔を見るたびにこれである。
「いや、こう…考えるたびにおもしろくて」
「ひどいですよね。人が必死に戦ってたのに…斉藤さんはそんなに余裕があったんですか?」
「相手は素人だから、まあ、それなりに……ぷっ」
「……もー」
斉藤と打ち解けたことは嬉しいが、意外と記憶力が良いので総司は閉口した。

屯所から少しはなれ、二人は五条通の酒場に来ていた。酒場といってもつまみも豊富で総司はそればかり注文し、また斉藤に苦笑された。
当の斉藤は、酒を一人でちびちびと飲む。斉藤はどうやら一人酒が好きらしい。
「あ。そういえば、聞こうと思っていたんですけど」
総司はイカのカラスミを箸でつつきながら、気になり続けていたことを口にした。
「何を」
「斉藤さんは芹沢さんとはどういうご関係なんですか?」
「……」
突然、斉藤の口が閉じた。だが銚子から酒を注いているので思考は停止していないらしい。 総司は不味いことをいったかもしれない、と思いつつも、ここまできたら、と腰を括る。  
すると斉藤が重い口を開いた。
「…試衛館に行き着く前、俺は芹沢のもとで働いてたんだ」
「え?」
意外な言葉に、総司は唖然とした。斉藤が「あの頃は俺も若かったから」と苦笑するが、今も十分若い。
ということは十代の頃、ということなのだろうか。
「あの頃は芹沢も乱暴で…ひょんなことで知り合った芹沢さんに面白い、と思って取り巻きのようにしていたさ。 ちょうと今の平山、平間のように」
「…へぇ…」
総司にはその光景はなかなか想像できなかった。こんな無表情な斉藤が、乱暴狼藉を働いていたとは。
「だがある日、俺は人を斬った」
斉藤の口調が厳しくなった。
「斬った…」
「芹沢に言われるがままに…元は芹沢の代わりに斬るように言われて斬ったんだが、役人に問い詰められ 芹沢は俺に罪としてなしりつけた。……まあ、斬ったのは俺だ。だが」
ぐいっと斉藤が酒を飲んだ。
「ちょうど、沖田さんのような存在だったのかもしれない。人を斬った俺を観察して、楽しむような」
「……」
「これ以上、関わりたくない、と思って芹沢のもとから姿を消した。 まあ、そのあと、奴は投獄されて俺を探すような真似もできなかったが…。修行しなおした俺は、試衛館にたどり着いた。それで芹沢に再会した」
「それで…いきなり、姿を消したんですか」
斉藤は黙って頷いた。
「芹沢のことだから、試衛館に迷惑がかかるかもしれなかったから」
「……そう、だったんですか」
総司は、芹沢の恐ろしさを再確認したような、そんな気分だった。
そして今までの芹沢とのかかわりを振り返ると、斉藤に良く似ている。
「だからあんまりあんたも芹沢に近づかないほうがいい。標的が俺からあんたに変わっただけの話だ」
「気を…つけます…」
総司のか細い返事に、斉藤は笑った。
「まあ、土方さんもいるから、大丈夫じゃないのか」
「え?土方さん??」
総司の驚いた顔に斉藤は「やっぱりな」と気がついた。 総司がむっとして「やっぱりってなんですか?」とたずねる。
「再三の土方さんの忠告をわかってないんだ」
「忠告?」
「あの人は勘がいいから、きっと本能的に芹沢が危険だってことがわかってる。だからあんなに荒げた声を出したりしてあんたに忠告してるのに」
「あ、ああ…そう、いうことだったんですねぇ…」
冷や汗を流しながら、総司は苦笑した。
土方はただ単に芹沢を嫌っているから、ああしたことを言うんだと思っていたのだが…どうやら真意はそれらしい。 己の鈍感さを、しみじみ感じた総司だった。


数日後の六月九日。将軍家茂は江戸に戻るために京都を出立。
主をなくした壬生浪士組だが、会津からはこのままお抱えの身分を授けられることになる。一同は安心し、乾杯の祝杯を挙げた。
しかし、安穏な日々は、そうそう続かない。




70
文久三年六月下旬。連日続く芹沢の暴動に、近藤、土方そして山南は頭を悩ませていた。
そして壬生浪士組の名は、いろんな意味で、世間に広まりつつあった。

「あー、総司。今局長室に近寄らないほうがいいぜ」
ちょうどそこへ向かおうとしていた総司に話しかけたのは原田だった。
上半身裸の彼は、庭でお気に入りの島田とともに槍の修練をしていたらしい。
「え?どうしたんですか」
「や、別にたいしたことはねぇけど。土方さんが不機嫌だからさ」
「へぇ…」
ちょうど見回りの報告に向かおうとした総司だが、さほど急ぐ用でもない。
「なんで不機嫌なんですか?」
「まず、この間壬生浪士組の騙りが出ただろ?それから芹沢さんの金策の横暴っぷりが激しくなってるし、加えて借金も多くなってる。取り立てもくるしさぁ」
「はぁ…」
原田でさえもこれだけ把握しているのだから、実情はもっと多いに違いない。
騙りが出る、というのは壬生浪士組の名が広まっている証拠なのだろうが、悪名では困る。大坂での評判はあの力士との乱闘から頗る悪い。加え、京までもそうなれば活動はしずらくなるだろう。町人からの情報提供も信用がなければできなくなる。
土方の不機嫌の理由は大体わかる。
と。
「じ、自分は沖田先生が土方先生のもとに向かわれると、とても機嫌がよくなると思います!」
島田が顔を赤面して、なぜか高らかに宣言する。 総司が目を丸くした。
「え?むしろ不機嫌になると思うんですが」
「なぁ」
総司が原田が顔を見合わせて首をかしげた。
「い、いや、だって、その…」
島田が口ごもった。 すると。
「総司!報告がまだだろ!!さっさと来い!」
噂の渦中の人物が大声を張り上げた。もちろん、土方である。
「あ、はいはーい。まったく、そんなの怒鳴らなくても聞こえるのに…」
総司は「じゃあ」と原田、島田と別れ、局長室に向かった。暗雲たちこめる部屋に入るのは気が進まないが
呼ばれたものは仕方ない。意を決した。
一方。島田はいまだ己がもつ誤解に気がついてはいない。 そしてその誤解を解消するチャンスを再び失ってしまった。

近藤、山南ともに去った部屋は静かだったが、空気は何ゆえかどんよりしていた。
「不機嫌だそうですね」
「ああ」
総司の率直な問いに、率直に答えてしまうほど土方は眉間のしわを寄せていた。また新たな問題でもあるのだろうか、と思ったが先に口に出したのは土方のほうだった。
「今日、芹沢の申し出で角屋で大宴会がある。だがお前は来るなよ」
「え?」
相槌を打つ前に釘をさされ、総司は虚をつかれた。
「ちょ、ちょっと待ってください。そもそも何でそんな大宴会なんて…お金もないのに」
「さあ、芹沢がどっかから勝手に金策した金だ。心配する必要はない。だがお前は来るなよ。酒も飲めないしな」
土方の言い分は少し横暴だった。不機嫌にさらに板がついたように。 だが総司は土方の不機嫌には慣れている。臆することはなかった。
「酒は飲めなくても料理は食べれます。私だけ仲間はずれなんていやですよ」
「ったく…お前はなんでそんなに物分りが悪いんだ…」
土方がくしゃっと頭を掻きあげた。
「芹沢さんのことなら、私も気をつけます」
「…ちったぁ、学習したみたいだな」
先日斉藤から聞いた話がいつも総司の頭をよぎっていた。
それからなんとなく芹沢にも注意するようになったし、自分でも学習したな、と思う。
「何度も何度も土方さんが同じこと言いますからね」
ふふん、と総司が自慢げにいった。
「酒の席だから芹沢さんもそんなに悪態がつけませんよ。だから、ね、行ってもいいでしょう?」
総司の懇願に土方は反論の余地がなくなったようで
「仕方ねぇな…」
と呟いた。その代わり俺のそばを離れるなよ、と念押しした。


隊の宴会は角屋総揚げでの大宴会となった。
芹沢がどこかで金策した金は50両以上あり、角屋の主人も丁寧に壬生浪士組ご一同をもてなす。島原中の娼妓、芸妓、舞妓がそろい、大盛り上がり。女も何人も呼び、きゃっきゃっと華やいだ席になった。
とりわけ人気だったのは上座に座る芹沢とそのそばにいた土方、そしてその隣にいる総司だ。
「土方せんせ、うちの酌受け取っておくれやす」
「いやん、うちの番やし」
「沖田せんせも、はぁい」
「は、はぁ…」
土方は適当にあしらっているようだが、とばっちりを食らうと(自分では思っている)総司はいい迷惑だ。女は苦手だし、こういった場ではすみのほうで料理に手を出すほうがすきなのに。
だが土方がそばを離れるな、といったものだから、逃げられない。心の中では大きなため息を何度もついた。
が、さらに。
「厠に行ってくる」
と、土方が席を立った。どこだ、と女に聞いて足早と去っていく。 その少し冷たいような土方の態度では女に嫌われないのかな、と思った総司だが
「ああいう冷たい感じもええなぁ」
「そうそう、無口でなぁ」
と女には好評のようだ。押してだめなら引いてみろ、というよりも根っからのタラシ戦法のようだ。吉原でもこうだったのかもしれない、と思わず総司は脱力してしまった。
「総司」
土方のいなくなった隣に、芹沢がやってきた。
「芹沢先生」
「酒は飲まんのか?酌をしてやろう」
「い、いいえ…」
総司は一瞬警戒したが、おずおずと酒を受け取る。拒めばまた難題を吹っかけられるに決まっているからだ。それでも以前よりは警戒しているつもりだ。並並と注がれた酒を持ち、総司は意を決するように一気飲み。
「おお、やるなぁ」
すでに酔っている芹沢は総司をほめた。総司も笑って答えるが、内心はびくびくだ。
「今夜はどうするんだ?」
「え?」
芹沢がにやりと笑った。
「女を買うのか?」
「まさか、とんでもない。芹沢先生のお邪魔にならないように、屯所に戻ります」
落ち着き払って総司は答えたが、芹沢はさらに
「じゃあわしの閨に来るか?」
と、総司を誘う。そのゴツゴツした手が総司の輪郭に這わされ、総司は動揺を隠すことで精一杯だった。
「あ、ああ、あの、芹沢先生!私の酌も受け取ってください」
総司はあわてて芹沢に酒を注ぐ。芹沢も嬉しそうに「そうか」と受け取り、一気に飲み干した。 少し安心した総司だが、すぐに「わっ!」と声を上げた。芹沢のもう片方の手が総司のしりを撫でていたからだ。
「わ、そ、そのっ!ちょっと、せり…」
「芹沢先生」
あわてた総司の頭上から、どす黒い重さを持った声が落ちてきた。
「…ひ、じかたさん…」
「なんだ、邪魔をするのか?」
突然芹沢の剣幕が鋭くなった。
それはそうだろう。土方が明らかな殺気を漂わせ、芹沢を睨みつけていたからだ。一触即発、というその雰囲気は、刀を持っていれば場外乱闘になっただろう。
「ええ、邪魔をさせていただきます」
「ひ、土方さん!」
間に挟まれた総司は動揺した。あわてて土方の袴を引っ張るが、無視される。
助けを求めようと近藤を見るがすでに妓と甘甘状態。ほかの皆も地唄で騒ぎ、踊りまわっている。誰も気がついていない。
「総司、」
「は、はい?」
「…来い」
土方は急に総司の手をとった。引っ張るようにして立たせるとそのまま手を引いて部屋を出る。
「ちょ…っ!土方さん?!」
その様子は明らかに怒っている。その背中から読み取った総司はちらり、と芹沢に眼を向けた。不機嫌そうに酒を飲み続けていた。

土方が酒を運ぶ芸妓に声をかけて、別部屋を取らせた。
今夜は角屋総揚げでの宴会だから部屋は十分あいていた。 投げ込むようにして総司を部屋に入れ、土方はふすまを閉めた。途端。
「馬鹿野郎!!」
と怒鳴った。
「ば、馬鹿って…そんなこと言われたって仕方ないじゃないですか!」
「仕方ない、で納得してお前は閨に行くのかよ!もうちょっとは警戒心ってのを持て!」
「持ってます!」
「いや、持ってねぇ!!」
総司が言い返せば鸚鵡返しに土方が怒鳴り、まるで子供のけんかのようだった。
「大体土方さんが厠に行くのが悪いんじゃないですか!そばを離れるなよって言ったくせに!」
「俺のそばを離れるなって言ったんだ!俺がお前のそばを離れないっていつ言ったんだ!」
確かにそのとおりで総司は「うぐっ」と言葉に詰まった。 昔から口げんかで土方に買ったことはないような気がする。
「…ったく、おかげでお前と二人で部屋とっちまったじゃねぇかよ…」
土方がポツリと呟いた。言いくるめられて悔しい総司は
「じゃあ芸妓を買えばいいじゃないですか。私のことは放っておいて」
「ふん、いい女がいねぇからな」
「その割には女をたらしまくってたじゃないですか!」と言い返しそうになった総司だが、懸命にもとどめておく。 女のことで喧嘩などこの
人とできるわけがない。
「仕方ねぇ。芹沢じゃねぇが、お前でいいか」
「は?」
すると土方が総司の手首をすばやく取り、そばに敷いてあった布団に転がるように押し倒した。
「…酔っているんですか?」
「ちょっと、な」
土方の息が少し酒臭い。そんなことを感じてしまうほど、至近距離にあった。
すると。
「土方先生、おき―…!」
駆け込むように足音が響き、その部屋のふすまが開いた。飛び込んできたのは巨漢、島田だ。
土方と総司は驚き、それこそ眼を丸くしたのだが、それ以上に驚いたのは島田のほうだ。
「し、し……失礼、でしたか…??」
この光景はどうしても土方が総司を押し倒し、これから事に及ぼう、という扇情的な場面だ。
ウブな島田は動揺し、顔を真っ赤に染めた。 土方は「ふう」と小さく息を漏らし、立った。
「どうした、何かあったか」
その様子は冷静沈着だ。いつもの副長に戻っている。島田も思わず背筋を伸ばす。
「はっ!そ、その、芹沢先生が乱暴を…」
「…ちっ…またか」
土方は島田とともに駆け出した。総司もあわてて後追う。もちろん、島田の誤解を解く暇はなかった。


原因は些細なことだった。
角屋総揚げの大宴会、という前置きだったが、どういうわけか、角屋の仲居が一人もおらず、ほかの店から借りてきた仲居が給仕を勤めていた。すでに泥酔していた芹沢がこのことに気づき「無礼だ!」と騒ぎ立てた。
「おやめください!芹沢先生!」
近藤の静止も振り切り、芹沢は相撲取りを殴り倒した鉄扇を振るい、辺りの膳椀から瀬戸物まで片っ端から叩き壊し始めた。永倉、原田、藤堂などもすっかり酔いがさめ、芹沢につかみ掛かるが芹沢の酒乱の激しさについていけず 静止させることができない。 次第に座敷の太鼓を外に放り出し、三味線や床の間の掛け軸を破り、置物を破壊した。女たちは恐怖に脅え逃げていった。原因は確かに角屋の無礼に違いないが、その不機嫌の原因を作ったのは土方に違いなかった。土方が総司を連れて行ってしまったことで、そのとばっちりが女たちに行ったのだろう。
土方は思わず目を覆った。そして盛大なため息をついた。
「また…余計なことを…!」
座敷はボロボロに破壊。だがその上座には、べろべろによった芹沢がまだ酒を飲んでいた。そして叫ぶ。
「角屋徳右衛門!不届きにつき、七日間の閉店を申し付ける!」
主人は頭を下げ
「へえ!」
と叫ぶが、総司には不憫でならなかった。
「総司!」
「え?」
意外なところから己の名前が呼ばれ総司は上座を見た。
「…怖いか?怖いだろう?!」
尋ねながら大笑いする狂気じみた芹沢に、総司は一瞬だけ、畏怖を再び感じることになった。

この角屋での騒ぎは尾ひれをつけて、たちまち京中に広まるところとなり、土方の不機嫌はさらに加速した。



解説
なし
目次へ 次へ