わらべうた




621


しんしんと降る雪はもう見慣れた。
雅だと思ったのは浪士組として上京した最初の年の数日だけで、盆地特有の身体の芯まで凍えるような寒さには毎年辟易としている。
火鉢の前で暖を取りながら土方は別宅の小さな庭を眺めていた。みねや庭師によって手入れの行き届いた植木には雪が積り、それが時折重さに耐えきれず落ちた。その小さな音さえもよく響いている。
「…」
静かだ。あまりに静かすぎて、誰もいない格式の高い寺で座禅でも組んでいるかのようだ。
その静寂を破ったのはガラガラと裏口の扉が開く音だ。建て付けが悪いのかスムーズには開かないのですぐにわかる。
やってきたのが総司だとは思わなかった。
「まあ、土方せんせ」
顔を出したのはみねだ。普段は近藤の別宅で身重の孝の世話をしているのだが、定期的に手入れに通っているらしい。
土方の在宅を知ると少し驚きながら頭を下げた。
「申し訳ございません、いらっしゃるとはつゆ知らず…」
「ああ」
「お邪魔になりませぬようすぐにお暇いたします。雪で玄関が汚れておりますから、それだけお掃除させてくださいませ」
「無理をしなくて良い。まだ降るだろう」
「いいえ、玄関は家の顔です。…すぐに終わりますから」
年配のみねだが、この頃は正気が漲るように若々しくみえる。孫の懐妊が背中を押しているのだろう。
早速着込んで出ていったみねが箒を掃く音が聞こえて来る。シャーシャーと一定のリズムを刻むのを耳にしながら、土方は目を閉じた。
(考えることは考え尽くした…)
最近は屯所で仕事を片付けると別宅に足を運ぶ。一人になりたかったし、総司と物理的にも距離を取っていたかった。
数日前、近藤の『お使い』でやってきた総司の顔を見ることができなかった。自分の感情で精一杯で総司のことを推し量れずに追い返した…そんな自分に嫌気がさした。
(何か事情があるに違いない…)
土方の馴染みということになっている君鶴のことなのか、はたまた別の事情があるのか…あの時なら話し合いができたかもしれないのに。
(結局…俺は受け入れられないだけなのか…)
昔から火遊びを繰り返してきた。大抵最後には愛想を尽かした女が離れて行き、土方はこれ幸いと別の女に夢中になった。去っていく者を追いかけようとはせず(そんなものだ)と忘れた。
そうできないのは、やはり総司は特別なのだろう。誰とも違う、誰と比べるべくもない、失くせないーーーー。
そんなことを考えていると、いつの間にか箒の音が消えていて、みねが戻ってきて顔を出した。
「お花の水を…あら?」
花壺の水を入れ替えようとしたのだろう。しかしすでに梅の枝は寂しくなっていた。
「枯れてしもうたんやろか?もう咲いてると思いましたんやけど…」
「ああ…それは…」
みねの残念そうな表情に応えようとした時、ガラガラと音がして
「歳、いるか?」
と大きな声が聞こえてきた。

みねは突然やってきた近藤と土方に温かい茶を出して去っていった。
「このところお前は屯所にいないだろう?ここだと思ってな…迷惑だったか?」
「いや…」
近藤は「そうか」とその大きな口で笑って頷く。
普段、この別宅にやってくるのは総司とみね、山崎と斉藤、そして監察の一部の隊士だけだったので近藤がいるのは珍しい光景だ。
「やや狭いが良い家だな」
「近藤局長の別宅より大きいわけにはいかねぇ」
「そんなことで遠慮するな」
近藤はそう言ったが、部下として示しがつかない。それにゆっくりと過ごせる場所なら立派だろうと狭かろうとどんな場所でも良かったのだ。
茶を飲み干した近藤がおかわりを注ぐ。そして本題を切り出した。
「…いい加減、仲直りしたらどうだ?」
「…」
「理由は知らぬが、お前以上に総司の方が頑固者だから、折れてやれ」
幼馴染だからこその遠慮のない助言は、屯所なら突っぱねて「関係ないだろう」と拒絶していただろうが、今は違った。何も知らずに心配をしている彼に申し訳なく思ったのだ。
「…仲直りだとか、そんな子供じみた話じゃないんだ」
「そんな大ごとなのか?たしかに総司があそこまで頑なになってお前を避けているのは珍しいが…」
「別れてくれと言われた」
近藤は盛大に咳き込んだ。幸運にも空になっていた湯飲みを落としてしまうほど、茶番のようにあからさまだった。
懐紙で口元を拭いながら、顔を真っ赤にして
「まさか!」
と声を張り上げる。しかし土方の表情は変わらないせいで、近藤も次第に顔色を悪くしていった。
「じょ…冗談ではないのか?」
「あいつに聞いてくれ。年越しからあの調子だ」
「し、信じられぬ。つい先日、上京したおみつさんに打ち明けたと言っていたじゃないか。家族にまで伝えるのなら余程の覚悟を決めたのだと…」
近藤の戸惑いは当然だ。青天の霹靂だったのは土方も同じなのだから。
「…何か思い当たることがあるのか?浮気をしただとか、花街へ通っているだとか…」
「そんな暇があるか」
「お前は暇がなくても女遊びをしていただろう?」
「昔の話だ」
近藤はよほど吉原通いをしていた印象が強いのか、疑い深い眼差しを土方に向けていた。しかし総司と関係を持ち、君菊を失ってからは仕事以外では足を踏み入れなくなった。
近藤は腕を組み「うぅん」と眉間に皺を寄せる。
「…歳、俺は隊内での噂はあくまで噂だと一蹴していたのだが…」
「俺と総司が同じ女を取り合っているって?」
「そ、そうだ。知っていたのか」
「ありえない」
土方は強く否定した。くだらない噂話は耳にするだけで苛立つ。
「前にかっちゃんが話していた上七軒の君鶴だ。総司は顔見知りのようだが、俺は座敷で会ったことすらない」
「会ったことがないのに馴染みだという話になっているということだったな?」
「ああ。だが全く関係ないというわけではない。君鶴は君菊の禿だったそうだから取り違えているのだろう」
事実はどうであれ、君菊と親しくなり身請けの準備まで進めていたのだから馴染みだという話は甘んじて受け入れるが、彼女が亡くなった今、その禿と親しいなどという噂話は心外だった。
土方の怒りに接し、近藤も「なるほど」と納得した。
「そう勘違いしている輩がいるのだろうな。…しかし君鶴がなぜ否定せずにいるのかはわからぬし、総司と顔見知りとは驚いた」
「…あいつは好いた女子ができたから、別れると言っていた」
「それが君鶴だと?それこそあり得ない!」
近藤はその大きな口ですぐに否定した。土方のネガティヴな考えをあっさりと吹き飛ばすような快活な物言いだった。
「知っているはずだぞ?俺たちの弟はそんな器用じゃない。試衛館にいた頃はウブで奥手で、恋なんて興味のかけらも無く、剣のことしか見えてなかった」
「…今は違うかもしれないだろ」
「変わらない。万が一、あいつがそんな邪なことを考えているなら師匠の俺にはすぐにわかる!」
近藤が自信満々に誇る。しかし総司は近藤だけは決して裏切らないからこそ誰よりも説得力のある言葉だった。
そして続けた。
「歳、総司がお加也さんとの縁談を断って欲しいと懇願してきた時、俺になんて言ったと思う?自分にとって不幸なことは、お前がいないことだと。
限りある時間ならお前と過ごす…それが生きる意味だとも」
「…」
「それを聞いた時、俺と深雪は驚いたがそれほど心に決めたのだと理解したんだ。…ああ、そういえば深雪は女子なら卒倒すると笑っていたな…」
近藤は不意に思い出す穏やかな記憶に視線を落とす。しかしすぐに土方をまっすぐ見た。
「あの時の言葉には嘘はない。もしその誓いを破るなら総司は真っ先に俺に話すはずだ。だから、お前は疑うな、総司を信じていれば良い」
近藤の大きな手が、土方の肩を強く叩く。あまりに強い力に土方は顔を顰めた。
「…いてぇ」
「む、すまん。全く、そんなことで悩むなんてお前らしくないな」
「…ああ。そうかもな…」
(そうだあの時、あいつは…)
加也との縁談を断ってきたと報告してきた時、総司は土方との未来を誓いながら、言っていた。
『もしも、はぐれたら…ちゃんと探してください。迷子になってしまう』
(お前は今…迷っているのか?)
こんな冷たく凍えるような寒さのなか、孤独を抱えて彷徨っているのだろうか。
「…かっちゃん、悪いが先に出る」
土方は近藤に鍵を渡した。幼馴染は心得たように頷いて
「ちゃんと、話を聞いてやれ」
と背中を押したのだった。






622


総司は非番の日は欠かさず外出していたが、町をぶらぶらするのにもついに飽きてしまい、このところは壬生の光縁寺を訪れ、山南の墓の近くに腰掛けて過ごすことが増えた。冬の墓地には人気はなく、誰とも会わずに陽が落ちることも珍しくない。
「ふぁ…」
堪らず出た欠伸を手で隠す。加也から宿題のように渡されている『医学書』は普段から本を読まない総司にとって難解な読み物だった。
「ふふ、山南さんなら門外漢でもきっと理解できるんでしょうけど」
総司が墓石に話しかけると(そんなことないよ)と山南が微笑んだ気がした。時折、こうして会話を楽しむのも悪くはない。
自分の病を知るのは大切なことだと理解はできるが、屯所で開くわけにもいかず、また熟読している様子を見られるのも困るのでこうして誰もいない寒空の下で読むしかない。
総司は一息ついて、書物を閉じた。
(読んでもわからなかった、ということにしよう)
聡い加也はお見通しかもしれないが、読んでいると具合が悪くなりそうなのだから仕方ない。
「山南さんもそう思いますよね?」
そう語りかけながら、総司は懐に本を戻した。もちろん返事はないがそれでも傍であの穏やかな笑みで見守ってくれているような気がするのだ。凍えるような寒さの日も、それだけで心が安らぐ。
「…」
誰もいない敷地をぼんやりと眺める。雪が降っているせいか今日は特に町には人が少ない。特に細道に入るこの墓地には人っ子ひとり見当たらず、まるでこの世界には誰もいないかのように静かだ。そして月命日でもないのでここを訪れる隊士もいないだろう。
「安心するなぁ…」
喀血したあの日から誰かの前で血を吐いてしまうのが怖かった。鈴木は約束を守ってくれているが、他の隊士はわからない。ほんの少しも油断できない緊張感が重なり、以前は安らげる場所だったのにいまは屯所にいることが落ち着かず、正直疲れていた。
身体中が重いーーーきっと病のせいだけじゃない。精神的にも疲労していた。
「…山南さん。私は…矛盾してます、自分でもよくわかっている」
ハラハラと舞う雪が墓石に積もる。それを払いながら総司は誰にも言えない思いを口にした。
「こんな医学書を読まなくったってどんなに重い病か、わかっているつもりです。いつか皆んなに知られて迷惑をかけてしまう…いまはほんの少しの猶予をもらっているだけで、すぐに私は役立たずになってしまう」
指先から雪と墓石の冷たさが伝わる。
「早く身を引いて離れなきゃいけないのに、それができなくて嘘をついて…ただ逃げているだけです。…ああ、言葉にすると情けないや」
心のあちこちでぽつりぽつりと浮かんでは消える本音を溢すと、いっそう歩むべき道を違えているのではないかと揺らぐ。
これが本当の望みなのか。
誰かに心配されながらゆっくりと朽ちていくのが堪えられないのなら、山南がそうしたように自分でケジメをつけるべきなのではないか。終わり方を選ぶことができるのは今のうちだ。
「…」
総司はふとそんなふうに思い、両膝を地面について脇差を抜いた。それを首に当てると刀身がヒヤリと冷たく、まるで氷を押し当てているようだ。
このまま強く力を込めれば、この苦しさから解放される。とても簡単に。
生と死の狭間を実感しながら、総司が目を閉じると、目の前に座っている山南の姿が見えた。切腹した時のあの姿のまま。
「山南さんも…そう思ったんですか…?」
あの微笑みの裏で、絶望していたんですか?
その手は震えていなかったんですか?
『せめて最後は…花となって散る様に、武士として誇らしく死にたいんだ』
大津の宿で懇願した山南の気持ちが…今は少しわかる。
「山南さん…これが誇らしいのかはわかりませんが…みすぼらしい最期にはならないはずです」
総司が柄を持つ手に力を入れた。精神が研ぎ澄まされるように静かに沈んだ…その時。
「なにやってるんだ!」
「!」
首の皮に触れた一瞬、怒鳴り声とともに刀身が離れた。現実に引き戻され総司が驚いて振り返ると土方がいた。彼は目を見開き切っ先を手で握り、血を流していた。
「土方さんこそ!」
総司はすぐに脇差を投げ捨てて土方の手に飛びついた。握りしめていた手から血が流れている。
「ちょっと待ってください、すぐに止血を…」
慌てて手拭いを取り出すが、それよりも先に土方に強く抱きしめられた。
「ひじ…」
「俺のことはどうでもいいだろ!お前は何を考えてるんだ!!」
「…っ」
山南の墓前で脇差を首に当てていたーーーそんな状況は誰が見ても驚くだろうし、死のうとしていると思うに違いない。
総司はうまく言い訳が思いつかず、正直に話した。
「…ごめんなさい。何も考えてなくて…」
「はぁ?!」
「ただの好奇心なんです。本当に…死のうと思ったわけじゃありません」
(半分は本当で…半分は嘘だ)
首に刀を当てた時、思考がすっきりとして久々に清々しく感じた。もう何も考えなくて済む…その安堵感に傾いて死を選びそうになったのは間違いない。
けれどきっと土方が来ても来なくても、結果は同じだっただろう。
「…本当か?」
土方が明らかに疑いの目を向けていた。総司が頷くと一応は納得してくれたようで止血に応じてくれた。
総司は手のひらを裂く傷口を手拭いで強く抑える。そうしていると血が止まり始めた。
「…土方さんはどうしてここへ?今日は月命日じゃありませんけど」
「お前を探していた」
「…あ…」
突然の出来事に動揺してすっかり忘れていたが、総司はこうして土方と会話をすることすら久しぶりであることに気がついた。
「何か急用ですか?」
急によそよそしくなる総司を土方は再び引き寄せた。逃がさないように、強く。
「お前に確かめたいことがある」
「…何を…」
「あれから何度も考えたが…好いた女子がいるというのは嘘だろう。お前はそんな器用なことができる性格じゃない。…隊内では可笑しな噂話になっているが不本意だし、不愉快だ。…だから何か気に食わないことがあるのなら、正直に言ってくれ」
土方は冷静で、正月の手のつけられないような怒りはない。そんな彼にまた嘘を重ねたところで信じてもらえるとは思えなかった。
「…私もその噂は耳にしました。君鶴さんとは偶然知り合って…土方さんの馴染みだということは後から知りました」
「馴染みじゃない。顔は知っているが、会話をしたことすらない」
「そうだとは思いました。よりによって上七軒の女子に手を出すことはないだろうと」
「仕事以外で廓に足を運んだことはない」
「わかってます」
総司は土方を疑ったわけではない。彼と同じように根拠のない噂話は不快だったが、しかしそれを利用したのは間違いない。
総司は観念した。口先だけの嘘は彼には通じない。
「…好いた女子がいるというのは、嘘です。そういえば納得してもらえると思って…」
総司は手ぬぐいを割いて、包帯代わりに彼の手のひらを巻いた。
「左手で良かったです。浅手だと思いますけど、早めに南部先生に診ていただいた方が良いかもしれません」
「話を逸らすな。そこまでして別れたいと言ったのは何故だ?」
「…」
もともと頭の回転の早い土方を言い負かすなんてできやしない。話を逸らしたところで引き戻されてしまう。
それに総司の心は、すでに離れていた間にぐらぐらと揺れていた。決心して別れを切り出したのに、何もかもを捨て去ることはできなくて。
そして彼を目の前にするといっそう強く思うのだ。
(嘘をつきたくはない)
総司は唇を噛んだ。どう答えて良いのかわからなかった。
「総司」
土方が総司の両肩を掴んだ。間近に見える彼の端正な顔が…愛おしい。
閉じて、鍵をかけた。背中を向けて無かった物だと決め込んだ思いがあっさりと溢れてくる。
でもなんていえば良いのかわからない。
かわりに出てきたのは、堪えきれない涙だった。
「…何故泣く?」
土方は少し驚いていたが、総司は言葉を忘れてしまったかのようにうまく言い表せない。とめどなく流れるそれを両手で拭い続けた。すると土方は懐から折り畳まれた小さな紙を取り出した。
「…これ、お前が別宅に持ってきたんだろう?」
そこにはみねに託した早咲きの梅の花が、押し花となって形を残していた。
「…っ、これ…歳三さんが…?」
「柄じゃないってわかってる。ただ…この梅を見た時にきっとお前の仕業だと思ったんだ。だから…枯らすのが惜しくて、こうして…残していた」
「…歳三さんが?」
「何回も聞くな」
土方は居心地悪そうに視線を逸らした。
彼があの別宅でせっせと押し花をしていたなんて…総司はなんだか気が抜けたけれど、一方で凍てついていた心のどこかに小さな炎が灯ったかのようにあたたかな気持ちになった。
「…ちゃんと、咲いたんですね…」
「随分せっかちだった。まだ冬の最中だというのに…」
「でも綺麗です」
気の早い春を迎えたこの梅は、主人に代わって土方に何を伝えたのだろう。
総司は一歩、前に踏み出して土方の胸に額を押し当てた。
「…歳三さん、お願いがあります」
「なんだ」
「私を許してください。そして…何も、聞かないでください」
「…何も?」
総司は頷いた。彼に顔を見られないように胸へ顔を埋めた。
「誓って、好いた女子ができたわけでも、あなたが嫌いになったわけでもありません。でも…訳は聞かないで。いつか…ちゃんと、話しますから…」
(僕は自分に甘い)
けれど、これ以上彼の気持ちを嘘で裏切ることはできず、また自分の気持ちを誤魔化すこともできなかった。自分勝手なわがままだと十分わかっている。だからいつか天罰が下るのだろうけれど。
(僕はそれでも構わない…)
ほんの少しの間でもこの人の温かさに触れられるのなら、それだけでいい。
土方はしばらく何も言わなかったが、
「わかった」
と了承した。そしてゆっくりと総司の背中に腕を回して抱き締めた。
「もう二度と、離れるな」
凍えていた身体が熱に溶かされるかのように緊張を解く。彼の少しだけ早くなった鼓動を聞きながら総司はしばらく身を委ねた。
(山南さんが呼んだのかな…)
光縁寺にやってきたのは土方にとっては虫の知らせだったのかもしれないが、総司には山南が呼び寄せたような気がしてならなかった。







623


寒さの極まる九州。春の暖かさは遠く、太宰府の梅はまだ咲かない。
参拝者の行き交う参道を望む宿の二階から、伊東は愛用の扇を取り出した。冷気を払うようにゆっくりと仰ぎながら呟いた。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
「先生、流石にその有名な歌は学のない俺でも知っていますよ。菅原道真公ですね」
同行した新井が火鉢に手を翳しながら少し得意げに喋るので、伊東は頷いて微笑んだ。
「そうだよ。菅原道真公が大宰府へ出立する際に詠まれた和歌だ。それにしても、道真公を慕って都から一夜にして飛んできたと伝えられている『飛梅』がまだ蕾だったのは残念だよ」
「自然のことですから仕方ありません。温かくなるまで逗留されては?」
「そんな悠長なことはできないよ。遊びに来たわけではないのだから」
新井は「冗談です」と頷いた。
伊東は窓際に腰を下ろして新井に気づかれないようにため息をついた。
一月中旬に都を経ち、約一ヶ月が過ぎた。大目付の永井と別れさまざまなツテを頼って尊王派の志士たちに面会を果たしたが、良い結果はなかなか得られなかった。
(新撰組の悪評は思った以上だ)
やはり池田屋の一件で名を上げ、ことごとく彼らの活動を阻んできた新撰組は目の敵にされていることが多く、脱退したと言ってもなかなか話すら聞いてもらえない。対面を話しても嫌疑をかけられるばかりだが、それ以外の肩書きでは取り次いでもらうことすら出来ずに己の力不足を感じていた。
「伊東先生、この先はどうされるのですか?」
新井は監察の一人であり、伊東が加入する以前からの隊士だ。彼は隊内で生きづらさを感じ脱走も考えるほどだったが、伊東の勉強会に参加してからその考え方に共感し、何かと力になっている。今では忠実な同志の一人だ。
「そうだな…太宰府で会うべき者には一通り会った。…長崎に向かおうと思う」
「長崎ですか」
「見識を広めるためには一度行ってみたいと思っていた」
「良いですね。…ああ、そういえば宿の主人から文を預かっていました。内海先生からです」
「内海か」
新井から文を受け取ると、伊東は早速開いた。生真面目な内海らしい硬い筆跡で書かれた文には、堅苦しい挨拶文から始まり、新撰組の近況や門下生たちの動向など細かく報告されている。そして最も熱心に書かれていたのは戒光寺とのやりとりだ。
読み進めるごとに興奮した。
「…でかしたぞ、内海…!」
思わず声を張り上げたのは、気の滅入る日々ばかりだった伊東を喜ばすような朗報だったからだ。
「先生、良い知らせが?!」
「ああ。戒光寺のご長老が朝廷へ御尽力下さり、『御陵衛士』の拝命が決まった!」
分離を決断する前から戒光寺の湛念は伊東を気に入り、また伊東も熱心に尽くしてきた。その成果が花開くように新たな居場所を得ることができたのだ。
「御陵衛士…!それが我々の…?」
「ああ。もう新撰組と名乗る必要はない。我々は御陵衛士…先帝のしもべだ!」
新撰組の肩書きに苦しめられてきた今だからこそ、喜びはひとしおだ、新井は両手を振り上げて万歳し、伊東は何度も文を見返した。
まだ内海が先方から伝えられただけで仮の決定であると書き添えてあった。慎重な内海らしい。
「内海によればまだ内々のことのようだ。近藤局長や土方副長には伏せておかねば」
「でも先生のお話に真実味が増します。我々が『御陵衛士』となる話を広め、そして都に戻った暁には本当に『御陵衛士』を名乗れば、たとえ今嫌疑をかけられようとも、疑いを晴らすことができるでしょう!」
「ああ…その通りだ」
新井の喜びにいつもは冷静な伊東もついつい感化される。
たまには酒でも飲もうと新井に買いに行かせた。
伊東は再び窓辺から景色を望む。まるで別の景色を見るかのように新鮮だ。
「御陵衛士…御陵衛士か。良い響きだ」
扇を軽く仰ぎながら、呟く。
すると「伊東先生、わしです」と襖の向こうから掠れた声が聞こえた。
伊東はごほん、と一度咳払いをして気持ちを整えた。
「入れ」
小柄で粗野な男が姿を表した。名前はない…伊東が便利に使っている男だ。
「何かあったのか?」
「林田勘七郎をご存知で?」
「…赤禰とともに釈放された尊攘派の志士だな」
男は頷いた。
赤禰武人は最初の廣島行きの際、永井や近藤らとともに幕府に同行し長州との仲介役となるはずだった男だ。しかし、廣島で逃亡し仲間と合流したものの間者を疑われ理解を得られず、故郷で捕縛、処刑されたと聞いている。そしてこの一件はこの男と知り合ったきっかけでもあった。
「久留米に戻り、その後は潜伏していると耳にしたことがあるが…」
「殺されたゆうて」
「…そうか。やはり赤禰と同じで間者であるという疑いは晴れなかったか」
二人とも幕府に捕縛されその後の釈放が早過ぎた。そして赤禰が幕府側の一人として同行したことが林田にも影響したのかもしれない。
すると男がまじまじと伊東を見ていた。不躾な視線に、「なんだ?」と尋ねると、
「巷では新撰組参謀の仕業だと」
「なに…?」
身に覚えのない話に伊東は素直に驚いた。そしてハッと男が説明する前に理解した。
「罪を着せられたか…!」
新撰組参謀が遊説中であるこのタイミングで殺されれば、伊東たちが暗殺の疑いをかけられるには格好の的だ。実際に林田がどういう存在であったとしてもその憎しみは簡単に『新撰組』へと向く。
男はさらに続けた。
「その、林田の首が太宰府に送られとるて噂があります。早くここを発った方が宜しかろう」
「ああ、その通りだ。新井を連れ戻せ!」
「へえ」
男は小走りに去っていった。
(やはり無用な肩書きだ!)
伊東は苦々しく思いながら扇と手紙を懐に入れ、行李へ荷物をまとめ始めるのだった。



近藤は火鉢で餅を焼く。ゆっくりと時間をかけ柔らかくなって、最後には割れてぷっくりと真ん中から膨れていくのをただただ見ているのが好きだ。
「よかったじゃないか」
それに加えて幼馴染と愛弟子が仲直りしたと聞かされたのだから重畳だ。
しかし、火鉢の反対側に座る土方の顔はいまいち冴えない。
「結局は何が理由だったのかわからない」
総司は頼むから聞くなと懇願したらしい。土方はそれに応じてしまったため聞くに聞けないとのことだ。
近藤は苦笑した。
「それはお前が何かしでかしたに決まっている」
「勝手に決めつけるな」
「では、例の君鶴との関係を疑ったのだろう」
「…そんなことであんなには頑なになるようなやつじゃないだろう」
「それはそうだが、もう解決したことだ。ネチネチと尋ねるのは男らしくないぞ」
「…」
土方は難しい顔をして腕を組み直した。近藤が助言するまでもなく分かっているのだろう。
「なあ、かっちゃん。あいつが泣いているのを見たことがあるか?」
「…幼い頃は姉さん恋しさに泣いていることはあったぞ」
「もっと大人になってからだ」
「どうだろうな…お前の前ならともかく、師匠の俺の前では滅多にない」
「俺の前でもあいつは泣かない。それなのに…」
土方はそこまで言いかけて、言葉をつぐんだ。
近藤は土方の素行のせいだと単純に思ったが、理由も言わず堪えきれず泣く弟子のことを想像すると、何か深い理由があるのではないかと察する。それ故に土方も引っかかっているのだろう。
「俺からもそれとなく聞いてみるよ」
「ああ…頼む」
「あんまり期待するなよ。…そういえば伊東参謀から文が届いたぞ」
近藤が話を切り上げると、土方が目の色を変えた。『鬼副長』に戻ったのだ。
さっさと受け取り、素早く読み込む。
「太宰府から…長崎か」
「うむ。尊攘派の大物と話をしたそうだ。どのような話かはわからぬが…案外、分派という策はうまく行くのかもしれないな」
「…」
近藤の楽観的な感想に、土方は何も答えなかった。口元に手を当てて深く考え込むようにして黙る。
そして突然立ち上がると「じゃあな」と部屋を出ていってしまった。
「…やれやれ」
近藤はその背中を見送って、よく焼けた餅に手をつけたのだった。










624


寒い寒いと身を屈める冬のなかにも、ふっと安らげる小春日和がある。
「斉藤さん、探しましたよ。何処へ行っていたんですか」
屯所へ戻ってきた斉藤に声をかけてきたのは藤堂だった。
「非番だからどこへ行っても勝手だろう」
「もちろんそうですけど。…内海先生がお呼びなんです、一緒に来てもらえますか?」
「ああ」
断る理由がなく、斉藤は藤堂とともに再び屯所に背を向けることになる。彼はご機嫌だった。
「今日は久々に陽が差して暖かいですねぇ。俺は冬が苦手だから毎日こうだと助かるんですけど。あ、昼餉はもう済みました?この先に伊東先生に教えてもらった川魚のおいしい店があるんです」
「もう済ませた」
「そうですか、じゃあまたの機会にしましょう。あ、酒も良いのが揃ってるんですよ」
斉藤のぶっきらぼうな返答にもめげずに藤堂はあれこれと一方的に雑談する。少し前まで隊内のいざこざで反目していたのが嘘のように彼は距離を縮める。それは何か明確な意図があるのではなく、彼本来の人懐っこい性格のせいだろう。
(その素直さが徒とならないと良いのだが…)
斉藤はそんなことを思いながら彼の話を聞き流す。やがて藤堂の案内でたどり着いたのはすでに暖簾の仕舞われた店だったのだが、なかで内海が待っているということだったので人目については困ることだろうと察した。
女将の案内で一番奥の部屋に通されると、内海は一人で酒を飲んでいた。
「お呼び立てして申し訳ありません」
藤堂とは違い、内海はいまだに斉藤を親しくは思っていないようだが今日は表情が違った。淡々とした口調の奥にどこか焦りがあったのだ。
「いえ…何かありましたか?」
「…藤堂君、周囲には誰も?」
「はい。他の客もいませんし、女将も戻りました」
藤堂も彼の深刻さを察したのか緊張感をもって答えた。すると内海は懐から手紙を差し出した。美しく整った書体…見慣れた伊東からのもののようだ。
「昨日届いたものです。…手紙によると、大蔵さんは一通りの人物には面会を果たしたそうで、大宰府から長崎へ向かわれるということでした」
「ご無事で何よりです!それに伊東先生は前に長崎にご興味があるとおっしゃっていましたからお喜びでしょう」
「ええ…それで、斉藤先生」
内海は斉藤に視線を向けた。藤堂の無邪気さとは正反対に彼は青ざめている。
「…『林田勘七郎』をご存知ですか?」
「それは変名で、ほかにも井村簡二、高瀬屋長兵衛とも呼ばれている…渕上郁太郎のことですか」
「さすが、お詳しい」
冷静に答える斉藤、苦笑する内海の間で藤堂だけが首を傾げていたが、二人は話を進めた。
「池田屋の残党として長州に匿われたものの、幕吏に捕縛され件の赤禰武人とともに釈放されたはずです。今は久留米に戻り、潜伏しているという話は耳にしましたが」
「先日、殺されたようです」
「そうですか。…それと、伊東参謀にどんな関係が?」
「大蔵さんが手を下したという噂になっているそうです」
「まさか先生が!」
藤堂は声を上げたが、斉藤は表情を変えることなく「なるほど」とゆっくりと頷いた。
「当然、新撰組の『悪評』は九州にも届いている。これ幸いと暗殺の容疑を擦り付けられてもおかしくはない」
「ええ。それで大蔵さんは急ぎ長崎に向かっているそうで、無事に到着次第また手紙を寄越すとのこと」
「それで、俺に何の用件が?」
斉藤は差し出された手紙を開かずにそのまま内海に返した。彼の説明だけで伊東の状況はくみ取ることができたので、今度は内海の用件を聞く番だ。
内海は苦々しい顔をしていた。
「…大蔵さんは渕上が殺害された日の前後は日田にいたとのことで、関わっていない証拠もある。しかし釈明をしたところで『新撰組参謀』の肩書は重く、今後も動きずらい。そこで…斉藤先生に協力を仰ぎたい」
「…伊東参謀が無関係であると進言すれば良いのですか」
「あなたの人脈なら…多少なりとも大蔵さんの役に立つはずです」
「わかりました」
斉藤はあっさりと引き受けた。それには内海も少し驚いたようで「宜しいのですか」と念を押して尋ねてきた。
「伊東参謀がお困りなら当然です。難しいことでもない…冤罪なら急いだ方が良い、すぐに手配します」
斉藤は席を立ち、唖然とする内海と藤堂を残して「では」とさっさと部屋を出て行ってしまう。
暫くの沈黙の後、藤堂は笑った。
「ハハハ、内海先生、やはり斉藤さんに疚しい考えはないんですよ。ちゃんと伊東先生のために役立ちたいと思ってくれています」
「…藤堂君ほど私は彼を知らない。今回の件は彼の様子を見たいと思ったので私の独断で動いたのです。…しっかり彼の動きを見張ってください」
「はあ…わかりました」
藤堂に内海の深い疑いは到底理解できず、頭を掻いたのだった。



鴨川にほど近い船宿の一室には活気の良い商人たちの声が聞こえてくる。出入りする客人も多くその人々の営みの気配を感じながら、総司は羽織に袖を通しながら英の診察を終えた。彼は商売道具と呼ぶ道具を片付けながら、
「この間よりも顔色が良くなった」
と上機嫌だった。それには総司も同意した。
「はい。やっぱり性に合わないことはするものじゃありませんね」
既に英には事の経緯を話していた。土方へ好いた女子の話は嘘だと明かし、別れ話は撤回した…そう説明すると「そうだろうと思った」と彼はお見通しだった。
「俺の悪知恵のせいとはいえ、むしろバレずによく続けられたものだ。それにそのせいで屯所にいられず寒空の下で過ごしてたなんて、姐さんに知れたらどんなに叱られるか。黙っておいてくれよ」
「勿論です、きっと私も叱られる」
加也には「安静に」ときつく言いつけられていたので、二人の秘密にしようと互いに約束した。
あれから、総司は非番の日は土方の別宅で過ごす時間が増えた。屯所で喀血するよりはマシだろうし、このところ伊東の九州遊説のおかげで多忙な土方は別宅に戻らないため二人で過ごす時間も少ない。別宅にいれば仲直りしたのだろうと近藤や隊士たちも思っているだろうし、土方も何も聞かないでくれた。
しかし完全に気が晴れたわけではない。
「…でも、申し訳ない気持ちです。まだ病のことを隠して…身を引こうとした本当の理由も言えず。本当は土方さんだって気になっているんだろうと思うし…私は自分を甘やかしてしまったんだと思います」
あの日、本当は病のことも打ち明けるべきだったのかもしれない。けれどあの時はその覚悟がなく、ただ彼がまだ自分を思ってくれているその優しさにほだされ、引きずられた。
彼のそばがひどく心地よいと同時に病を隠す後ろめたさが混在する。そんな複雑な心情に囚われる総司に対して、英は
「病人だというのに、自分に厳しすぎる」
と苦笑した。
「海を渡る渡り鳥だっていつかは羽を休める。これから毎日病に向き合っていかなきゃならないのだから、少しは気を抜く時が必要で、それが今なんだ。考え込むのもほどほどにした方が良い」
「そうでしょうか…」
「もちろんいつか話さなきゃならないだろう。でもそんな日が来たとしても、今の状況を誰も責めやしないだろうさ」
英は一通り片付け終えて、総司に向き合った。
「…そんなに怖がらなくても良い。病ごときで見放すような人じゃない。それはよくわかっているだろう?」
「…はい」
英は次回の診察までの薬を手渡すと先に部屋を出て行った。彼の言う通り今はほんの少し土方の傍で羽を休めているだけなのかもしれない。
(でも…ちゃんと覚悟を決めるべきだ)
いつ彼の前で喀血するかわからない。何も知らない彼を驚かせたくはない。
「…気持ちいいな…」
部屋の窓の外から、厳寒の冬の合間に訪れた束の間の春の光が差し込んでいる。
英のおかげだろう。もう少しだけその穏やかな暖かさに身を委ねていたい…そう思った自分を、許せたのだ。








625


暖かい日差しはすぐに厚い雪雲によって隠れた。大粒の雪が傘の上に溜まり、時々肩にも落ちるので定期的に払いながら歩いた。
斉藤は所用を終えて屯所へ戻ろうとしていた。大雪のおかげで人通りは少なく視界も悪いため隠密行動にはうってつけの気候ではあるが、寒いのは得意ではない。特に盆地である都の痺れるような寒さは昔から慣れないのだ。
「…」
そんな寒さに苛立ちながらも背後に視線と気配を感じていた。最初は同じ立場の人間かと警戒したが、まるで素人の動きだ。そしてそれが誰かすぐに察することができた。
(面倒だが、付き纏われては困る)
斉藤はすぐ先の角を曲がり、追手を待った。すると易々と引っかかり小走りにやってきた男の肩を掴み、そのまま強引に引き寄せた。二人の間に二本の傘が落ちる。
「…なんのつもりだ」
「ハハ…やっぱり、バレましたか」
茶目っ気のある顔で藤堂が「すみません」と笑った。斉藤ほど深刻な様子はなくまるで鬼ごっこで捕まった子供みたいだ。
「間者にしては下手くそな尾行だった」
「間者なんて大袈裟な。俺は非番でぶらぶらしていたところで偶然斉藤さんを見かけたから追ってきただけですよ」
「あからさまな嘘をつくな。こんな寒い日にわざわざ出歩いた挙句、偶然出くわすなんてありえない」
「えーっと、それは…」
「気がついていないとでも?もう四半刻もつけ回しているだろう」
「わかりました、降参です」
藤堂は両手を上げて素直に負けを認めたので、斉藤もようやく彼の肩から手を離し、落ちた傘を拾った。
「それで、何の用事だ。おそらく内海さんあたりに見張るように言われているのだろう」
「はぁ、斉藤さんには嘘がつけません」
藤堂はがっくりと肩を落としながら続けた。
「内海先生はその…斉藤さんのことをまだ疑っているみたいです。俺は何度も協力してくれているし、今回の九州でのことも請負ってくれているのだから疑う余地はないと言ったのですが…」
「内海さんや他の伊東派の古参が俺を疑うのは仕方ないと割り切っている。だから役立つと証明しているだろう」
斉藤は懐から手紙を取り出し、藤堂の前に広げて突き出した。
「これは密書の類だから詳細は明かせぬが…『林田勘七郎』はこちらの筋によると大人数で襲われている。伊東参謀の共は新井のみであるし、話通り日田にいたことも証明できるだろう。それにあちらの奉行所では広田某という男が大勢を引き連れて暗殺したという話になっているそうだから、伊東参謀の疑いはじきに晴れる」
「本当ですか!ああ、良かった!」
藤堂は喜び、思わずその密書に手を伸ばすが斉藤がさっと取り上げて懐に戻した。
「これからも役立つことを証明する…内海さんにはそう伝えてくれ」
「勿論です!斉藤さんが取り計らってくれたこともちゃんと伝えます!」
「…まったく、藤堂さんは間者には向かない。内海さんにそのまま伝えたら、俺を見張っていたことが知られるだろう」
「あ、確かに」
藤堂は困ったな、と首を傾げる。斉藤はつくづく素直な男だと半ば呆れながらため息をついた。
「…内海さんにはそれとなく解決した旨を伝えてくれ。俺も尾行に気がついたことは黙っておく」
「助かります」
「ただし、一つ条件がある」
「何でしょう、何でも聞きますよ」
普通、交換条件を出されれば少しは考えるものだが、彼には全く躊躇いがない。
「…少し付き合って欲しいだけだ」
「かまいませんよ」
即答する藤堂とともに斉藤は少し歩き、居酒屋に入った。店の主人と常連らしき客が数名いるだけの店に、斉藤は慣れたように腰をかける。すると何も言わずとも女将が熱燗を持ってきた。
「ここは斉藤さんの行きつけですか?」
「行きつけというほどのことはないが、たまに来る」
「へえ…」
藤堂はぐるりと見渡して「良いところですね」と早速酒を口に含む。それは一気に体を暖め、寒さで強ばった身体を解き始める。
「それで…何かお話が?」
「…伊東参謀たちとこの先を共にするつもりか?」
斉藤は相変わらずの無表情だったが、世間話も何もなく核心をつく。藤堂は少し戸惑った。
「…斉藤さんが言うこの先、というのがわかりませんが…勿論、そのつもりですよ。斉藤さんは違うんですか?」
「志が同じである限りは従うつもりだ」
「違うことがあれば心変わりもあると?」
「勿論そうだ。誰だって普通は自分の利になるように動くだろう」
斉藤の言葉に、藤堂は不快感を滲ませた。
「…利にならなくても、一度決めたことを覆したりはしません。俺は主従関係のごとく、この先の命運を共にするつもりです」
「そうか。…間者として生きてきた俺にはわからないな」
眉間に皺を寄せた藤堂は猪口の酒を一気に飲み干して、熱燗に手を伸ばした。喉かカッカッと熱いが気にならなかった。
「さっき、斉藤さんは俺が間者に向かないと言っていましたけど、その通りのようです。俺はあっちこっちに身を寄せるような…斉藤さんのように柔軟にはいきません」
「ふん…まさか冗談だろう?藤堂さんだってわかるはずだ。一度は近藤局長たちと命運を共にすると決めたのに、それを伊東参謀へ鞍替えした」
「鞍替えだなんて!」
藤堂はカッとなり声を張り上げた。だが静かな店内に響いてしまい、一気に冷静になった。
「…傍から見ればそうかもしれませんが、俺の気持ちは変わっていません。むしろ…裏切ったのは近藤先生たちの方です」
「山南総長を殺したからか?」
「……俺を怒らせたいんですか?」
斉藤があまりにも挑発的な言葉を投げかけるので、藤堂は怒りよりも彼が何を言いたいのかと疑心暗鬼になる。
しかし斉藤はちびちびと酒を飲み、自分のペースを崩さない。
「本音を聞きたいだけだ。試衛館食客の立場である藤堂さんがこの先、どうするつもりなのか」
「…その肩書きはもう無くしました。たぶん、山南さんが亡くなった時に」
藤堂は視線を落とした。そして女将に熱燗をもう一本頼み、また一気に煽った。
「一度は許したはずでした。でも…次々と同志が死んでいく姿を見て、山南さんの時もこうだったのかと失望していった。誰が何を言おうと俺はその現場にいなかったのだから慰めにもなりません。…そんな時に手を差し伸べてくれたのが伊東先生であり、俺は先生なら新撰組を変えられると…信じました」
「藤堂さんにとって、伊東参謀は山南総長の代わりなのか」
「…同じことをこの間、土方さんにも聞かれましたよ」
藤堂は苦笑した。誰も彼にもそう見えてしまうのかと。
「土方さんの前では強がって、『そんなことはない』と答えましたが…本当は、図星でした。教養があって誰にも分け隔てなく優しい…山南さんと伊東先生はそういうところが似ています。だから面影を重ねて、頼って…ついていこうと思いました。外野がどう見ているのかはわかりませんが、俺にとって鞍替えという気持ちは決してありません。周りが変わっただけで、俺は何も変わってない」
一気に煽った熱燗が、藤堂の頬を染めていく。酔いが回るのが早かったせいか、口は饒舌になった。
「それに…別に、分派は裏切って脱退というわけじゃない。要はやり方を変えるだけでしょう?だったら良いじゃないですか」
「…その通りだ。だがそれを皆が信じるとは限らない」
「信じてほしいなんて思いませんよ…。自分の気持ちは自分さえわかっていれば良いんです。斉藤さんは誰かに信じて欲しいと思うんですか?」
「…」
藤堂は「空腹のせいで酔いが回った」と頭を抱える。そして白湯とツマミを頼んだ。
斉藤は酒を飲む手を止めていた。
『あんただけは絶対に裏切らない』
去っていく総司の背中にそう投げかけた。彼は軽く頷くだけだったが、あの時の自分は彼に信じて欲しいと願っていた。
(信じて欲しい…そう思っている俺は二流だな)
そして愚直だと思っていた目の前の男が、案外自分の軸を持っていることに気がつかされた。
「…変なことを聞いて悪かった。俺の奢りだ」
「やった。じゃあ、酔潰れるまで付き合ってくださいよ」
「ああ」
さっきまで憤慨していたのが嘘のように、彼は人懐っこく笑いツマミに手を伸ばした。この哀れなほどに無邪気で素直な男だけはどうにか生き延びてほしい…斉藤はそんなことを思ったのだった。


総司は別宅で、空から舞い落ちる雪を眺めていた。小さな庭の地面はほんの少し白く色を変えつつり、このまま夜を迎えればもっと深く積もるだろう。
(明日の朝には雪だるまでも作ろうかな)
そんな呑気なことを考えていると、フワッと背中に温かいものを感じた。
「土方さん」
「もっと厚着をしろ」
肩にかけられたのは先程まで土方が着ていた綿入れだ。縁側でのんびり雪を眺めているなんて、彼からすれば寒々しく見えたのだろう。
「もう中に入るから大丈夫ですよ」
「いいから」
土方に促され、総司は綿入に袖を通して中に入った。そして彼と同じように火鉢の前に座り両手を翳す。
土方は相変わらず忙しそうにいくつかの書面に目を通していた。それは今まで通りの何気ない日常であり、変わらない日々だ。
「…なんだ?」
ジロジロと見ていたせいか、土方が尋ねてきた。
「何でもありません。忙しそうだなと思っただけで…続けてください」
「…そうか」
土方は再び視線を戻す。
どこかぎこちない空気が流れている。それは総司が黙り、土方が何も聞かないせいだ。
でも、それでも
(幸せだな…)
総司はそう思いながら、また土方の横顔を眺め続けたのだった。







626


連日、大雪が続いていた。
土方が駕籠から降り、踏み固められた雪の上に立つ。もう夜も更け始めているというのに鴨川沿いのお座敷はどこも明かりが灯り盛況だった。
「歳、こっちだ」
先に駕籠から降りていた近藤が店の軒先で手招きする。土方が心底気の進まない表情を浮かべながら店に足を踏み入れたので、近藤は苦笑した。
「そう、面倒そうな顔をするな。美味い酒と料理が用意されている」
「何もこんなクソ寒い日に…」
「仕方ないだろう。会津のお偉方が新年の挨拶に招いて下さったんだ。昨年は伊東参謀とともに顔を出したが、今年は不在だ」
「近藤局長一人でも良いだろう」
「先方がお前を指名してくださったんだ。無碍に断るわけにはいくまい。…形式的な挨拶をしたら折を見て帰ってくれれば良い」
「…仕方ないな」
短時間で済むなら、と土方は渋々引き受けることにする。
もともと華やかな場所が嫌いなわけではない。酒はあまり嗜まないが、芸事を見るのは好きだし昔は女を侍らせて楽しんでいた。しかし人をもてなしたり煽てたりする宴会は気が進まない。口先だけ気持ち良い言葉を並べることはできるが、酷く疲れるのだ。
迎え出た女将に案内され、長い廊下を歩いていく。途中の中庭はまさに冬景色という具合に木々や庭石が雪によって白く化粧をしているようで、目を奪われるものがある。できればこの見事な景色をのんびり総司と眺めたいものだ。
そうしてたどり着いた座敷は一番乗りで、次第に会津藩士や幕臣たちがやってきた。近藤は愛想よく頭を下げて迎え入れ、土方もそれに従った。昔、まだ『壬生浪士組』だった頃は身元もはっきりしない烏合の衆としてぞんざいに扱われることも多かったが、土方が同席しない間に新撰組局長である近藤の地位は確固たるものとなっていて、対等に会話を交わしていた。一人の武士として男として信頼を得ているその横顔を見ていると、ますます
(まだ浪人だって言うのが歯がゆいな…)
と土方は思う。いくら論を交わし有能であってもいざとなった時にその立場は浪人でしかなく、それ以上の出世は見込めない。農民の出だった自分たちが望むには、ないものねだりかもしれないが、近藤が偉くなればなるほど土方の気持ちは逸るのだ。
十数名が揃い踏みとなり一通りの形式ばった挨拶を終えると、乾杯の音頭の後にあちこちから呼び寄せた芸妓たちが座敷を彩り始めた。皆、馴染みを招いたようで一気に場が緩み、酒と肴、唄や踊りに酔いしれる。
近藤が慣れたようにその輪のなかに入っていき、時論を交わし始めた頃
「土方君」
酒を持って土方の元へやってきたのは会津公用方の広沢だった。土方は慌てて猪口で酒を受けた。
「広沢様、申し訳ありません、自分からご挨拶に伺うべきところを…」
「いや、畏まったことはもう良い。…君がこういう席に来るのは珍しい」
「は…あいにく、伊東が不在でして」
「うむ、永井様と九州へ行ったのだったな」
広沢は土方の隣に座り、声を顰めた。
「その件で少し君に聞きたいことがあったのだ。伊東君は遊説とのことだったが、近況は把握しているか?」
「近況…ですか。太宰府から長崎へ向かったと聞きましたが」
「では林田の件は?」
「…林田勘七郎の件でしたら、伊東は無関係です」
九州での「噂話」はすでに土方の耳にも届いていた。分派を考える伊東と新井が倒幕派を刺激するように暗殺するとは考えられなかったので、すぐに新撰組の悪評に便乗した冤罪だとは察することができた。のちに伊東からも弁明の手紙が届いており、そのうち立ち消えになるだようと想像していたところだ。
広沢は頷いた。
「そうか。君たちに関する噂話はあちこちで聞こえてくるからいちいち相手にしていられないのだが…今回ばかりは相手が大物だったからな。もしやと危惧していた」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
土方が丁重に謝ると広沢は「良い良い」と手を振った。
それで話は終わりかと思いきや、広沢は続けた。
「君とこういう場で語らう機会は少ないからぜひ尋ねたいのだが…伊東君の『分派』についてどう思っている?」
すでに伊東の分派の件については広沢や他の公用人たちと意見を交わしていた。伊東の有能さを熟知している彼らは分派を否定せず、容認する方向だ。彼らにとって隊内のルールは無関係の取り決めでしかない。
「…会津藩が容認するなら、そのお抱えである近藤も私も拒むことはできません」
「そういう建前の話ならこんな席では聞かぬ。君個人の考えが聞いてみたいのだ」
「…」
土方は言葉を選んだ。広沢にとっては酒の肴のような雑談かもしれないが、土方にとっては違う。
「いずれ、このような日が来ると思っていました」
「ほう。伊東君には最初からその思惑があったと?」
「最初からかどうかは定かではありませんが…長く居座るつもりなど毛頭なかったでしょう。伊東は常に新撰組参謀の立場を自身の踏み台にする機会を窺っていたように思いますし、それが今なのだろうと理解しています」
遅かれ早かれ彼とは道を違えていた。近藤は残念がるかもしれないが彼の底知れなさには気がついているので引き止めはしないだろう。
「なるほど…では君にとって悪い話ではないのか」
「悪くないわけではありません。兵や同志を失うことになります」
伊東が何人連れて行くつもりなのかわからないが、藤堂は新撰組を離れることになる。きっと長年共に暮らしてきた永倉や原田は戸惑うだろうし、隊士たちも同調して規律を乱すかもしれない。
「いくら伊東が目障りであっても、分派を歓迎することはできません」
広沢は土方の本音を垣間見て、笑った。
「ハハ…君はとても冷静だ。気が合わない相手だとしても感情的にならず俯瞰的にみている。きっと戦の将としても役目を果たせるだろう」
「…まさか」
広沢とは長い付き合いだが、こうして私的な会話を交わしたことは一切なかった。自分に対する過分な評価だとは思ったが、彼が新撰組を認めてくれていることはひしひしと感じた。
(俺は会津と気が合う)
近藤は幕府や将軍という存在自体に忠誠を誓っているが、土方にとっては身近な会津にこそ自分が従うべき相手だと思える。治安の乱れた都を守るため、義理堅く働き新撰組を重用してくれているのだ。
そんなことを考えている時、とりわけ美しい芸妓が舞を披露し始め、皆が音頭を取り始めた。明瞭で心地よい歌声と三味線が場の空気に花を添える。
広沢は「そうだ」と思い出したように手を叩いた。
「今日は君がきてくれると聞いたから、君の馴染みを呼んでいるんだ」
「馴染み?」
「気がついているのだろう?隠さなくて良い。いま長唄を歌っている」
広沢が指差す方向…一人の芸妓が音頭に合わせて軽やかに歌っていた。幼いのに大人びて見える、けれど透き通った白い肌とつぶらな瞳が人を惹き寄せる…みたことのある顔。
(あれは…確か)
北野天満宮で遭遇した彼女、君鶴に違いなかった。





暴れ馬の池月は相変わらず人を寄せ付けない凶暴さで、世話役の安富を手こずらせていた。総司が顔を出すと安富はほっとした表情となり、池月も落ち着いた。
「ここは私がみていますから、少し休んだらどうです?」
「ありがとうございます…そうさせていただきます」
よほど疲れていたのかげっそりとした安富は総司に場を任せて休息のために去っていく。
すっかりおとなしくなった池月は総司が毛を撫でても、鼻筋に触れても嫌がることなく受け入れた。
「全く…安富さんの言うことをちゃんと聞かなきゃ。せめて近藤先生を乗せて立派に歩いてくれないと、土方さんあたりにもう食べてしまおうなんて言われちゃいますよ」
それは困ると言わんばかりに池月は鼻を鳴らし、総司の手を舐めた。総司は「よしよし」と可愛がり、しばらく大人しくしていた。
そうしていると
「ここでしたか」
と聞き慣れない声が馬屋に聞こえて振り向いた。
「…鈴木さん?」
心底嫌そうな表情をしてやってきたのは鈴木だった。顔の前で手を何度か払ったので独特の動物の匂いが苦手なのだろう。
「どうしました、こんなところへ…」
「あなたを探していたら安富がここにいると」
「私を探していたんですか?」
「…人目があるところでは差し障りがあるでしょうから」
そう言いながら懐から取り出したものを総司に渡した。
「これは…人参?」
「高麗人参です」
「私のために、ですか?」
「その…御寺の住職に頂いたので」
「御寺?」
総司がなんの気無しに問い返すと、鈴木は「しまった」という顔をした。つい口を滑らせてしまったのか、目を泳がせる。
しかし彼の親切心に違いなかったので、総司は聞かないふりをした。
「滋養に良いと言いますよね。ありがたくいただきます」
「…はい」
鈴木は気まずそうにしていたが、総司の横に並んだ。池月は途端に警戒心をあらわにし、蹄を鳴らす。
「…この馬は沖田さんにしか懐かないと安富から聞きました」
「ええ、安富さんは大層手を焼いていると思います。ここにきた時から私以外には全くダメで…でも聡い子です」
「ふうん…」
根拠のない台詞だったが、鈴木は深く追及しなかった。彼がいつものようにさっさと立ち去る気配がないので、思い切って総司は切り出すことにした。
「私も…鈴木さんに聞いてみたいことがあったんですけど」
「なんですか」
「初めてお会いした時…入隊した頃、ひどく私を嫌っていましたよね。それはやはり私と土方さんが衆道関係だと知らたからですか?」
「…」
鈴木は口籠った。池月が「ヒヒィン!」と大袈裟に鼻を鳴らしたが、それにも動じることなくしばらく沈黙した。
そしてゆっくりと口を開いた。
「…あの時は感情的になって申し訳なかった。理由は今言った通り、あなたと副長が衆道関係だと知ったからだ」
「それは…そういうのを受け入れがたいと思うからで?」
「逆です」
鈴木は険しい顔をした。
「…羨ましかったのかもしれない」








627


「羨ましい…?」
思ってもいない言葉に総司は驚いた。あの時の鈴木は嫌悪感を隠そうとせず否定したので、てっきりただ男色が嫌いなのだろうと思っていたのだ。
鈴木はゆっくりと語り始めた。
「…別に隠してはいないのですが、兄と俺は異母兄弟です。俺は父が外に作った子で、母を亡くしたので物心つく前に父の元へ引き取られてきた…それは乳母から聞かされていました。兄の母である方には嫌われていたので、幼少の頃は兄とは隔離され、一切兄弟と言えるような生活は送っていませんでした」
鈴木は遠い目をしていた。総司には淡々とした語り口が逆に彼の寂しさを表しているようだった。
「兄は幼い頃から優秀でした。どこへ行っても褒められ持て囃され人徳があって…自慢の兄でしたが、同時に自分の凡庸さが際立つようでした。兄弟なのに才覚も性格も違う…けれど兄は俺を否定せず、時折でしたが優しく接してくれました」
疎外感を感じ続けた幼少、時折ではあったが眩い存在に手を差し伸べられればそれだけで救われるだろう。引き取られた負い目も溝も埋まっていくような。
しかし鈴木の表情は次第に曇っていく。
「先日あなたは似ていると言ってくれましたが、本当は今ですら異母兄弟であることを確信できません。母は奔放だったと聞きましたし、あまりに似ていなくて真反対で…もしかしたら他人かもしれない、ある日そう思い立ちました。そう思ってしまったが故に憧れ以上の何かを…兄に見てしまった」
鈴木はまるで後悔するように両手で顔を覆い、さらに声のトーンを落とした。
「兄はそれに気がついた。そして異母兄弟だと知った。だから家を出て家族を拒み俺のことも遠ざけている」
「…」
「俺は後悔した…男女ならともかくこんな汚らわしい感情を持つ自分が惨めだった。…だから関係を隠さずにいるあなた方が羨ましくて…腹立たしかった。こっちは必死に押さえつけているのに」
総司は遠回しな言い方に戸惑いながらも、彼の懺悔をただ聞いていた。いっそ兄弟ではなく出会っていたら、こんな冷たい間柄にはならなかったのかもしれない。
彼は顔を覆っていた手をゆっくりとおろし、目を伏せた。
「だったら…どうして伊東参謀はあなたとともに新撰組に入隊を?」
「…一時兄と離れ、俺は荒れました。兄は体面を守るため、何かしでかさないように俺を近くに置いているだけです」
「でも、組長にまで抜擢したじゃないですか」
たとえ過去に何かあったとしても、今は信頼を得ているからこそ組長に置いたはずだ。総司が尋ねるが、鈴木は首を横に振った。
「重要な地位に置いておけば大人しくしているだろうと考えたのでしょう。兄は俺に何も期待はしていません」
彼は幾度となくその淡い期待を打ち砕かれてきたのだろうか。総司の言葉は跳ね返り、虚しく足元に落ちていくようだ。
その時、池月が大きく鼻を鳴らした。休憩にを取っていた安富が戻ってきているのが見えたのだ。
鈴木は一度天を仰ぎ、総司の方へ向いた。
「あの時のことは八つ当たりで、申し訳なく思っています。あなたの秘密は守りますから、この話は忘れてください」
「…でも…」
「じゃあ」
鈴木は話を切り上げて背中を向けた。
彼はわかりづらいし、誤解もされやすいが、優しい人だ。過去の過ちを素直に認め謝罪し気遣いもできる…そんな弟のことを伊東がそれほど疎ましく思うだろうか。
「池月はどう思う?」
尋ねると、池月はプイッと顔を背けて「知らないよ」と無関心な様子だった。



土方が君菊と初めて出会ったのは、彼女が足を挫いたのかぎこちなく歩く様子を見かけたからだ。なんとなくほっとけない雰囲気に手を貸してやり、薬を渡した。彼女はとても喜んで恩に感じ、それ以来親しくなったのだ。座敷でも再会し彼女の人脈の広さを知った土方は、彼女の好意を知って身請けすることを条件に間者になるように依頼した。いまなら、新撰組として功を挙げるために焦っていたのだとわかる。…そして最終的にはそれが原因で殺されたのだ。
藩士たちを前に長唄を披露する君鶴は、確かにあの頃君菊のそばにいた禿に似ていた。あれから数年しか経っていないが、子供の成長は早いのだからあれほどの年齢になっていてもおかしくはない。そして何より雰囲気がよく似ている。
少し幼く奔放で、でも座敷では凛とした美しさを放つ…数人の芸妓のなかでも一人だけどこか浮世離れしていて可憐だ。
「まだ年若だが、将来有望な芸妓だ。さすが、土方君は見る目があるな」
「はあ…」
広沢の褒め言葉を聞き流していると、長唄が終わり座敷は拍手に包まれた。再び酒を手にした歓談に戻ると、君鶴は何を思い立ったのかまっすぐ土方の方へ向かってくる。
「おっと、お邪魔だな」
広沢は茶化しながら席を立ち、入れ替わるように君鶴が目の前で膝を折った。
「どうぞ」
「…」
土方は盃を受けながら、君鶴の思惑を探るがその表情は何も語らず愛想もなく淡々としている。まだ若いのに貫禄すら感じた。
「…噂のことは承知している。悪いが俺は馴染みのつもりはない」
「へえ、勿論。こうしてお座敷でお会いするのは初めて。せやから噂は噂に違いないのですから…いつの間にか消えるもの」
「『虎の威を借る狐』という言葉を知っているか?俺はそういう姑息な真似は好かん」
新撰組副長の馴染みだと評判になり、座敷によく呼ばれているらしいという話は聞いていた。あまりに動じない君鶴を嗾けるが、彼女はまるで聞こえていないというふうに微笑んだ。
「うちもどのように噂が立ったのか…存じ上げまへんが、否定したところで焚き火に薪をくべるようなもの。聞き流しておれば、いつの間にか消えてしまいます」
「…今日は薪をくべているようだが」
「フフ、そうどすなぁ」
彼女は余裕の笑みで返すが、その瞳はちっとも笑っていない。北野天満宮で見かけた時とは様子が違うように思えた。
(生意気なガキだ…)
彼女には聞きたいことが山ほどあった。特に総司との関係について問い詰めたかったが、この様子だとのらりくらりとかわして本音など聞き出せそうもない。それに会津や諸藩の役人が揃っているなかで親密なやりとりをするとまた面倒なことになる。
「もう良い」
土方は猪口を膳に置き、立ち上がる。近藤に「帰る」耳打ちし賑わう座敷を出た。
冷たい空気が酔いを覚ます。不快な気持ちで熱くなった頭も冷えていく。
「全く…」
一回りも年が離れた子どもを相手にするなんて慣れないことをするものじゃない…と疲れを感じながら歩き出すと、
「土方さま!」
と、突然君鶴の声が聞こえた。切羽詰まった悲鳴に何事かと振り向くと、彼女がこちらに駆け込んでくるーーーその手には小刀が握られていた。
「ご覚悟…ッ」
土方は素早く刃先から逃れ、素早く彼女の両手を叩きまず小刀を廊下に落とした。そして手を後ろに回して拘束し動けないように押さえつけた。
「っ、離して!」
「…お前、新撰組副長にこんな真似して無事で済むと思っているのか?」
簡単に武器を手放してしまうようなか弱いおなごだ、酒が入っているとはいえほぼ素面の土方にとっては道場での練習にも及ばない。
君鶴が尚もバタバタと暴れるので、土方は仕方なく会いている部屋に連れ込み、拘束を解いてやった。幸運にも誰かに見られずに済んだようだ。
「あまり騒ぐなよ。大事になるのは面倒だ…お前も困るだろう?」
「うちは小心者やない、大事になっても構わへん!」
「どういうつもりだ」
「どういう?そんなん、言わなくてもわかってはるでしょう!」
「君菊の敵討ちか」
君鶴はぐっと唇を噛んだ。
先程までの大人びて達観している様子とはまるで違う。こちらが彼女の本質で、先程まではどうにか仇討ちしたいという興奮を抑え込んでいたのだろう。
「君菊姐さんは…死にはったの?」
「…長州の浪人に殺された」
「やっぱり…そうやったんや…行方不明やなんて、皆んな隠して…」
君鶴は一気に青ざめ、語尾が力なく震えていた。おそらく君菊を慕う幼い禿には残酷な真実は告げられなかったのだろう。
「…うちのこと、覚えてへんのやろ?」
「悪いが禿には興味がない」
「ほんまは、姐さんにだって興味なかったくせに」
「…」
子供っぽい皮肉だが、案外窓を射ている。土方は好意を持たれていると知っても、君菊を女として見ていたわけではない。
「…気の合う友人だと思っていた」
「友人?…そんな嘘、姉さんが浮かばれへん」
「部外者が口を挟むことじゃない」
土方は二の句を継げなくなった君鶴に、小刀を返した。
「やるなら、もっと上手くやれ」
「…ッ、バカにして!」
君鶴は涙目で土方を睨みつけながら、小刀を払い除けた。ただ気が強い…というよりもじゃじゃ馬のような娘だ。土方はため息をつきながら、
「じゃあな」
さっさと部屋を出た。
座敷のあちこちで明るい声と小気味の良い三味線の音が聞こえてきた。







628


二月。
深夜にしとしとと降った雨が翌朝、水溜りで凍て付いていた。
夜番を終えた総司が土方の別宅にやってくると、主人の姿はなく、冷え切った室内はしんとしていて誰かがいた形跡すらない。
(近藤先生の別宅で話し合いだとか言っていたけれど…まだ戻っていないのかな)
伊東不在のいま、彼に関することなら屯所で話し合えば良いのだが、よほど誰かの耳に入るのを警戒しているのか昨晩から二人とも屯所を離れていた。
身内に近い総司にさえ話を伏せるのだから、重要なことなのだろう。胸騒ぎはしたけれど、自分が関わるべきではないのだろうと悟っていた。
無人の別宅で火を起こし火鉢に移し、厚手の掛け布団を引っ張り出して横になる。身体が暖かくなるとすぐに瞼が重くなってうとうととし始めた。
「眠い…」
以前なら夜通しの夜勤でも、仮眠程度で朝方から日常を送れるほど体力も気力もあったが今はそれがない。病のせいで普段は感じない体力の衰えを感じる。
身体は冷え切っているのに、鼓動だけが早く高鳴って落ち着かない。それなのに鉛のような疲労感が身体中を支配しているようだ。
そのせいか、浅い夢を何度か繰り返し見た。
なんて事のない屯所での毎日、壬生の子供達と遊ぶ穏やかな時間、懐かしい試衛館で近藤の娘であるたまをあやしている光景…夢だと頭ではわかっていてもその夢から覚めるのが惜しいような、そんな時間。
一体どれくらい寝ていたのだろうか…そうしているとそれは不意に訪れるのだ。まるで夢に浸る時間すら奪われるように。
「…!」
総司は飛び起きて、咄嗟に両手で口元を覆った。そしていまだに重たい身体を引きずって縁側から雪が積もっている庭に飛び出した。裸足だったのだがそれが気にならないほど慌てていた。
「ゲホ…ッ!」
真っ白な雪の上に、堪えきれずに四つん這いに倒れ込み吐き出したのは真っ赤な血…喀血だった。
息も付けないほどの咳が襲う。ぜーぜーと喉が鳴る。
(もう、四度目か…)
ゲホッと何度か繰り返し身体を逆流するような衝動を吐き出した。まるで溺れるように肩で荒い息をして絶え間なく血を吐く。白と赤のコントラストが目に焼き付いて、総司はもがきながらもそれを雪で隠した。
太陽は真上に昇ろうとしている…もう昼だ。
(土方さんが帰ってきたら…大変だ…)
どうか、どうか、戻ってきませんように。
必死に隠した鮮血の跡は、雪と地面の土が混ざって茶色い泥に変わった。そうしていると喀血も無事に収まっていき、激しい咳だったのだが誰にも気付かれずに済んだようで周囲に人の気配もなかった。
ほっと安堵しながら立ち上がり、ふらふらと後ずさってようやく縁側に腰を下ろした。口元の血を懐紙で拭い、火鉢で燃やした。
息を整えてつぶやいた。
「ああ…汚れちゃったな…」
別宅の小庭は手付かずのまま真っ白に染まっていたのに、そのど真ん中が汚れてしまった。まさか血を吐いたなんて思われないだろうけれど、景色を損なっている。
(そんな呑気なことを考えている場合じゃないのだろうけれど…)
そんな現実逃避をしていないと、気がおかしくなりそうだ。
重かった体が軽くなり、ようやく足先と指先が冷えて痛みを感じ始めた。
そういていると背後からガラガラと扉が開く音が聞こえた。立て付けの悪い裏口の扉からやってきたのはみねだった。
「こんなお寒いのにそんな、縁側で、薄着で」
みねは慌てて部屋に上がり自身の羽織を肩から掛けてくれた。
「大丈夫ですよ、おみねさん。すぐに中に入りますから」
「へえ、そうしてください。まあ、裸足で…!お庭で何をなさっていたのです?」
「…遊んでいたんです。雪は江戸では滅多に積もりませんから、つい」
「まあまあ」
子供っぽい言い分にみねは半分驚き、半分呆れるという具合で、総司をせかして火鉢の前に座らせた。
すぐに温かい茶を入れてくれて、身体の中から温まったおかげか気分も随分と良くなった。
だがあとほんの少し喀血が遅かったら。
ほんの少しみねが早くここに来ていたら…そう思うと冷や汗が流れた。
「…おみねさんの淹れてくれる茶は、いつも美味しいなぁ」
有り難く湯飲みを両手を添えながら飲んでいると、みねは穏やかに「おおきに」と微笑んだ。そして茶菓子を差し出しながらまじまじと総司を見ていた。
「なにか?」
「…実は、沖田せんせはもうここにはいらっしゃらないのかと思うてました」
「え?」
「お正月の時、お会いしたでしょう?あの時ただならぬ雰囲気で…もう何か心を決めていらっしゃるご様子で梅の枝をお預けになった。ここには来ないおつもりでは…と、そう勘ぐっておりました」
「…」
「せやからこうして、こんな老婆の淹れた茶を飲んでいただけること、嬉しゅう思いますえ」
総司はみねがそんなことを察しているとは思わなかった。いつも穏やかに一歩引いたところから見守ってくれている、まるで親戚のような穏やかさには他の誰とも違う安堵感を覚える。そのせいか、
「おっしゃる通りです」
と認めてしまった。
「あの時、私は…ここにはもう来ないつもりでした。土方さんと離れて生きて行くことを決意して…あの梅の枝はせめてものお詫びだったんです。突然の決別を許して欲しい…そんな、気持ちでした」
「…せやけど、またこうしていらっしゃいました」
「情けないことに…その決意を翻してしまったんです。おみねさんにはご心配をおかけしてしまいましたね」
総司が詫びると、みねは微笑んだままだった。
「事情はわかりまへんが…情けないことなんて。長く共に歩めば迷いもございましょう。時には間違うことも…うちも長く生きると色々間違えましたが、それでも今はこれでよかったと思えますえ」
みねの歩んできた人生について詳しくは聞いたことがない。けれど花街から子を捨てて身請けされたものの、主人を亡くし下女として働いてきた…と話していた。彼女が話す通り山あり谷あり困難な道のりであったが、深雪や孝とめぐり合い過ごしている今が幸せであることには違いない。
「そうですね…」
(僕もそう思えると良いけれど)
いま迷い、悩んでいる全てがこれで良かったのだと思える日が来るのだろうかーーー今はまだ確信が持てない。そう思える日まで生きていられるのかすら、わからない。
すると再びガラガラと扉が開く音が聞こえた。今度はスムーズに開いたので表の扉だろう。
「おかえりなさいませ」
みねが深々と頭を下げたのは主人の土方がやってきたからだ。彼は総司を見ると「ここにいたのか」と探していた様子だった。
「何か?」
「お前に話がある。悪いが…」
「へえ、すぐにお暇いたします」
みねはすぐに理解して自分の分の茶を片付け、土方の分を準備すると「ほな」と出ていった。
土方は疲れた様子だった。
「何かあったんですか?」
「いや…近藤先生との話し合いが朝方まで続いただけだ。そのまま少し仮眠してここに来た」
土方は茶を飲み干すと「お前は?」と尋ねた。
「私は夜番でしたので、終わってここに…。少し寝ていたらおみねさんが来て雑談を」
「そうか…誰も来ていないのか?」
「ええ」
来訪者の予定でもあったのだろうか、土方は周囲を伺うように見回したが総司以外には誰もいない。
「それで、話というのは?」
「ああ…近藤先生と一部の監察しか知らせてない話だ」
「私が伺っても良いのですか?」
「いずれ耳に入ることだ」
土方は一息ついて、声を顰めた。
「伊東が数日中に長崎から帰る。その後、数名の隊士とともに脱退することになった」
「脱退って…法度で切腹では?」
「表向きは『分派』だ。新撰組と反目して別の組織を作るが、情報は共有する。…だが俺たちからすれば奴らは新撰組を裏切り、見限って出て行くだけだ」
「…」
俄には信じられない話に、総司は言葉を失った。伊東たちとは長く共に歩むとは思っていなかったが、こんな突然に別れが訪れるとは。
寂しさというよりも、驚きの方が大きい。
「…そんな簡単に分派なんて…」
「伊東は周到に準備していた。親しくしていた御寺の長老から朝廷と繋がり、『御陵衛士』を賜ったようだ」
「御寺?」
『御寺の住職にいただいたので』
高麗人参を手に鈴木が口走った台詞が蘇る。
(そういうことか…)
鈴木はその『御陵衛士』の件で御寺に足を向けたのだろう。土方の話に現実味が帯びた。
「どうした?」
「いえ…なんでもありません。それで誰が出て行くのですか?」
「…まだわからないが伊東に近い者たちと、藤堂は確実だ」
「藤堂くんが…」
彼が伊東と親しく、逆に試衛館食客たちと距離を置いていたのは周知の事実だ。元々門下生なのだから違和感はないが、それでも彼が『出て行く』という選択をしたのは総司にとって素直に寂しかった。
「引き止められないのですか?」
「ああ…近藤先生とも今朝方まで話し合ったが、本人がその気なのだから仕方ない。引き止めたところでますます意固地になるだろう」
「…でも、さっき土方さんは『裏切り』だって…。いつか互いに争うことがあるかもしれないってことですよね?」
仲違いならまだ良い。しかし、長年の友人と敵として相対することになるのは受け入れ難い。
土方は目を伏せた。彼としても不本意だったのは間違いない。
「今後のことはわからない。ただ…近藤先生はあいつはいつまでも『試衛館食客』だと言っていた。たとえ伊東たちと出て行っても、それは変わらないと」
「…私も同じ気持ちです。藤堂くんが嫌がっても…私にとって彼は仲間です」
「…」
土方は何も言わなかった。
仲間だとも、同志だとも。それが冷たいのではなく、総司には彼が感情に流されまいとしているのだとわかった。
「藤堂は新撰組と御陵衛士の橋渡し役になる。縁が切れるわけじゃない」
「…そうですか…」
「お前に頼みたいのは、永倉と原田の説得だ。御陵衛士の件はまだ伊東派の中でも数人しか知らぬことのようだが、あいつらに漏れ伝わるようなことは避けたい。しかし近藤先生や俺から伝えると、藤堂を追い出したと反発するだろう。これ以上話をややこしくしたくない」
「わかりました」
どうしても立場が上の近藤や土方から伝われば、二人は良い気にならないかもしれない。土方なりの気遣いだと理解して総司は頷いた。
「顔色が悪いな」
突然、土方が手を伸ばし総司の頬に触れた。驚いた総司はその手を反射的に払い退けてしまう。
「あ…」
すぐに後悔した。土方が困惑していたからだ。
「す、すみません。考え事をしていて驚いたから…」
「いや…いい。あまり寝ていないんだろう?ここで休めばいい」
「土方さんは?」
「俺は屯所に戻る。仕事があるからな」
土方は何も気にしていないというように深くは尋ねず、「じゃあな」と背を向けた。
彼がいなくなって急に体の力が抜けて総司は横になった。
やりきれない喪失感とやり場のない虚無感、そしてどうしようも無い孤独を感じながらしばらくぼんやりとして時間を過ごしたのだった。







629


長崎での収穫は大きかった。
都への帰路、伊東は思ったよりも長くなった旅を回想していた。
蒸気船で悠々と出立したはずが、降り立った九州の太宰府では志士たちから冷遇を受け、謀殺の危険さえ感じた。当然、新撰組参謀の肩書はなかなか信を得るのは難しいとは思っていたがこれ程かと思ったのは、会ったこともない林田暗殺の嫌疑をかけられたことだ。
(全く、野蛮な奴らだ)
話の通じない彼らから長崎に逃れた。その頃には林田暗殺の件は別の志士によるものであるということが公然となり身軽になったが、内海からの文によると斉藤が力添えしてくれていたとのことだ。
(どういう考えがあろうとも、彼は使える)
不幸な出来事であったが、斉藤については疑心よりも有用性が勝ることが証明できたように思えたのは良いことではあった。
そしてたどり着いた長崎では視野が広まったような気がした。
「なんだが離れ難いですねぇ」
同行した新井が述べたのと同じことを伊東も思っていた。
急勾配の坂を登ると眺めの良い景色が見渡せた。ぽつぽつと浮かぶ小島の向こうには果てしない海が広がり、その海を渡る異国船を迎える港はまるで別の国のような異文化が栄えていた。国を開くとはこういうことかーーー伊東の頭の中でしか想像したことのない、いやそれ以上の光景が、目の前に広がっている。その事実に言葉を失い、心が騒ついた。
(我々は小さい)
都で幕府だ、藩だと競い合う世界が酷く窮屈なものに思えた。もちろん新撰組などこの開かれた世界の前では小さく無力な集団でしかない。それを自覚すればするほど焦った。
何者かにならなければ。
太宰府で燻っていた気持ちが解き放たれるように、伊東はさまざまな人物に出会い、議論を交わした。特に長崎奉行が招いた英語教師フルベッキとの交流はそれまで抱いていた伊東の異国嫌いを融和させ、彼らの文化や言葉に触れたことでますます朝廷による開かれた国作りへと気持ちを加速させた。
彼らとの交流が非常に興味深く、十日ほど滞在し見聞を広げるとこができたのだ。そして得たものはそれだけではない。
(長崎奉行から三百両頂戴できたのも大きかった)
伊東の優雅な佇まいと柔軟な考えに同調し、支援金として三百両を得ることができた。これは『御陵衛士』としての当面の活動資金にも充てることができるのだが、それよりも彼らの信頼を勝ち得たという事実が背中を押す。
「伊東先生、まもなく大坂です」
「ああ…」
新井の声かけに伊東は頷いた。
小さな世界に戻ってきた。新撰組参謀伊東甲子太郎は、まず御陵衛士を率いて有象無象が跋扈するなか生き抜かなければならない。
新たな決意とともに伊東は都にもつながる淀川を眺めたのだった。


赤子の泣き声が響いていた。
「泣くなよ、なあ茂。よーしよしよし、そんなに泣くと母ちゃん困らせちまうだろう?」
原田が我が子を泣き止ませるべく、手当たり次第玩具を駆使するが効果なく、わんわんと泣き続けていた。実の父親であるというのにたまにしか家に戻れない多忙な原田は不憫なほど懐かれていないのだ。
その様子を総司は苦笑して眺めていた。
「新撰組十番隊組長も赤子の前では形なしですね」
「当たり前だろ、俺なんかこの通り泣かれちまって他人も同然なんだぜ。哀れな父親さ」
耳をつんざくような泣き声は一向に止む気配なく、ついに台所仕事をしていたまさがやってきて
「ほんま、左之さんは役立たずやなぁ」
とひょいと抱き上げるとあっという間に泣き止ませてしまった。その様子を見て原田はヘソを曲げて
「役立たずで悪かったな」
と拗ねる。まさは構わず「ほんまに」とトントンと茂の背中でリズムを取った。
「相変わらず仲睦まじい夫婦漫才ですね」
「いややわ、そんな。せやけど沖田せんせなら子守も得意そうやし、良い父親になれそうやなぁ」
「…はは、どうですかね…」
まさの無邪気な会話に、総司は思わず言葉が詰まる。もちろん彼女に深い意味はないのだろうが、土方との関係や病のことを考えると最も遠い未来だ。
するとちょうど「遅くなった」と永倉がやってきた。
「揃ったな。…総司が話があるなんて珍しいこと言い出すからさ、驚いたぜ」
昨日、総司は二人を呼び出し「話がある」と持ちかけた。内密の話であることを伝えるとそれがただことではないと察したのか、原田が別宅であるまさとの住まいに永倉とともに招いてくれたのだ。
まさは茶を出すと「うちはこれで」と茂とともに席を外した。
永倉は茶に手をつけながら、
「まったく…なんの話かと気になって巡察に身が入らなかった」
と冗談っぽく愚痴る。
「ほんとだよな。総司がこんな難しい顔してるなんて珍しいからさ、俺もついに土方さんと別れたのかとヒヤヒヤしたぜ」
「…はは、そんなんじゃありませんよ」
…数日前はそのつもりだったとは言えず、総司は苦笑しながら聞き流す。
そして茶を一口飲んで足を組み替えた。
「実は…伊東参謀が数日後に戻るそうなんですが、その後早々に分派という形で隊を去ることになりました」
「なんだって?!」
原田は声を張り上げ、永倉は目を丸くした。
「それは…脱走と同義ではないのか?」
「伊東参謀を処分すれば多くの隊士が続き、隊は混乱します。それに、彼らは表向きは離反しますが、今後の協力関係を結び情報交換をするそうで、敵対するわけではないということです」
総司の説明を聞き永倉は眉間に皺を寄せ不快感を滲ませた。原田はあからさまに憤慨し
「隊を抜けたい奴らの、ただの理屈っぽい言い訳じゃねえか」
と吐き捨てる。もちろんそのような反発を伊東は予測していた。
「ただ、すでに朝廷から『御陵衛士』という名を賜っているそうです」
「御陵衛士…」
「なんだそりゃ、墓守か?」
「詳しくはわかりませんが…とりあえず、すでに彼らを引き止めるのは難しく、十数名の隊士を引き連れて数日中に分派を果たすことは決まったようです。それで…今日、先んじてお二人にお話ししたのは土方さんから…頼まれて」
総司は慎重に言葉を選ぶ。
「…藤堂くんも、出て行くことになったようです」
彼の名前が挙がった途端、永倉は「やはり」と言わんばかりに落胆し、原田は「嘘だろう?!」と叫んだ。
「なんでだよ?!あいつは…試衛館食客、新撰組八番隊組長だ!いくら参謀と仲が良いからって…!」
「藤堂くんの希望だそうです。彼が…どういう気持ちなのかはわかりませんが…もう決めているようです」
「そんなの、引き止めたら良いだろ?!」
「左之助、落ち着けよ」
身を乗り出して総司を責める原田を、永倉が冷静に止めた。
「…平助はずっと悩んでいたんだ。山南さんが死んでからずっと…」
「…っ!悩んだのはあいつだけじゃないだろ?!俺たちだって、ずっと…!」
「それはそうだ。だが…死に際に立ち会えなかった平助はずっと心の整理がつかなかったんだ」
原田は悔しそうに唇を噛んだ。
言葉にしないだけで、試衛館の精神的な支柱であった山南の死は誰もが心の傷となって残っていた。陽気な原田でさえも長く後悔していたのだ。
興奮する原田を宥め、永倉は言い難い理不尽を飲み込むように苦しい表情を浮かべていた。
「正月の一件で、俺は伊東参謀は長く新撰組には居座るつもりはないのだろうと思っていた。あの人は底知れぬ…野望がある。きっと俺を居続けに誘ったのはその野望に引き込めるか試したのだろうな」
「じゃあ…斉藤も、出て行くっていうのか?」
「あ…」
永倉とともに居続けに加わった斉藤は堂々と同じように伊東と距離を詰めている。土方は彼の名前を挙げなかったが、立場は藤堂とほぼ同じだ。
総司は原田の言葉を聞くまで彼の名前が思い当たらなかった。それくらい傍にいるのが当たり前でいなくなるはずがないと思い込んでいたからだ。
「どうなんだろうな。伊東参謀は斉藤を気に入っているようだったが…」
「…まさか。斉藤さんはきっと、残りますよ。土方さんの懐刀ですから…」
『俺はこれから伊東に近づく。信用を得るためにしばらく気にかけてやれない』
『俺は、あんただけは絶対に裏切らない』
(あれは…別れるとわかっていたから?)
だからあんなことを言ったのだろうか。まるで言い残すみたいに。
原田は深く息を吐き、ゆっくりと吸った。
「…俺は、平助から直接聞くまでは信じないからな」
「左之助…」
「無理矢理連れて行かれることになってるかもしれねえだろ?説得して引き止める。…新八つぁんも付き合えよ」
すっかり意固地になった原田に、永倉は仕方ないと言わんばかりに頷いた。







630


厳しい冬の季節が、ようやく終わりを迎えようとしていた。積雪の日々が終わり梅の蕾が膨らみ始める夜、別宅の庭の出入り口からやってきたのは斉藤だった。彼は人目を憚るように頭巾で顔を隠していた。
「慎重だな」
深夜の都は静かだ。土方は大袈裟だと思ったが、
「ここでバレると台無しです」
と斉藤は慎重だった。土方は彼を縁側から部屋に上がらせた。
「…それで、伊東は大坂か?」
「はい。内海によると明後日には淀川を下り都に戻るのではないかと。大坂に数名の隊士を呼び寄せて打ち合わせをしているようです」
「お前は呼ばれていないのか?」
「明日、向かいます」
斉藤の無駄のない報告を耳にして、いよいよかと土方は実感が湧く。伊東が九州へと立って約二ヶ月、『御陵衛士』を拝命し着々と分派へと進む彼の動きについて土方は把握するのみで手は出さなかった。
「誰が出て行く?」
「こちらに」
斉藤は小さく折り畳んだ紙を差し出した。土方はサッと目を通す。
「…案外、少ないようだが」
「分裂ではなく分派であることを内外に示すため少数を選び、信頼できる者を残すようです」
「ふん…小賢しいな」
土方としては伊東に与する者は皆出て行っても構わなかったのだが、新撰組の動向を知るためにも同志を残すようだ。面倒だと思ったが、土方が伊東の立場なら同じことをしただろう。
斉藤はふっと息を吐いた。
「…これからはここに訪ねることは難しくなります。山崎さんの配下から情報を流すことにはなりますが、暫く時間がかかるかと」
「ああ。伊東の目を誤魔化すのは簡単じゃない。お前を間者だと疑っているだろう…できればもう一芝居打っておきたいところだが…」
「俺は大根役者ですから、勘弁してください」
斉藤は拒んだが、先日、勘定方の前で披露したイヤミっぽい言い分は真に迫っていた。あながち芝居ではなく本音なのかと思ったほどだ。
「伊東はともかく、ほかの者はどうだ?お前のことをどう思っている?」
「藤堂さんは完全に信じ切っているようです。ほかの腹心の部下である篠原や加納も同志として認めているようですが…内海はいまだに懐疑的なようです」
「内海か…」
伊東の最も信頼する部下で、冷静沈着、頭の良い内海は土方も一目置いていた。いつもどこか新撰組に馴染もうとはしない孤高の存在で、伊東以上に慎重に物事を判断するだろう。
「やはりもう一押し欲しいな」
「…検討します。ですが内海は小手先の芝居ではなく、わかりやすい『成果』を求めます」
「渕上の件で恩を売っただろう?」
「はい」
伊東へ向けられていた暗殺容疑は斉藤の持つ伝手のおかげて、スムーズに解決したはずだ。それでも納得しないのでは、疑り深い内海には何をしても無駄なのかもしれない。
「…まあ、いい。今後何かあれば山崎を頼れ。他の監察にはお前のことは伏せている」
斉藤の御陵衛士潜入は土方と山崎だけが知る最重要機密だ。近藤や総司にさえ事実を伏せ、これから来るべき時までその正体を明かさず『離反した仲間』として敵対する。
その重要な役目を、土方は彼にしか託せなかった。
「悪いな」
土方は短く謝った。斉藤にとって不本意な仕事だろう。
しかし幕府や会津ともパイプを持ち、間者としての能力があり剣の腕に長け…信用できる稀有な存在はなかなかいない。本人も自覚しているだろう。
「構いません。慣れています」
淡白な返答だが、気遣いは無用だという彼の意思を感じた。
二人の間に少しの沈黙が訪れる。無口な斉藤との話すのは案外苦痛ではない。むしろ土方の考えをすぐに理解できる片腕である彼を重宝し、信頼しているのだ。
斉藤はどう思っているのかわからないが、
「…ひとつ、気がかりがあります」
と切り出した。
「なんだ?」
「沖田さんのことです。この頃、様子がおかしく…よく外出をしているようですが」
「…耳が早いお前なら、隊内の噂は知っているだろう?」
「くだらない与太話だと聞き流していました」
斉藤はあっさりしていた。土方と総司が女を巡って諍いになっている…偶然と妄想が重なって尾鰭のついたでたらめは、確かに彼の言う通りの与太話に過ぎない。
「ああ、噂は噂だ。しかしお前の言う通り少し様子が違う。理由を尋ねてもあいつは何も言わないが…」
「思うに、河上の件から…どこか思い悩んでいるように思います」
「河上か…」
昨年末、土方は総司が河上と対峙し取り逃したという報告は聞いていた。捕縛できなかったのは残念だが、それほどの腕の持ち主であることは周知の事実であり無事に帰還したのだから良いと思っていたのだが、同じ剣士として何か思うことがあったのだろうか。
「何か聞いているか?」
「いえ…互いに腕前が拮抗して、一太刀も浴びせることができなかったと。それを恥じているのかもしれませんが…」
「…一太刀も?」
「はい。怪我一つ負わせることができなかった…そう聞いています」
「…」
『どうした?汚れている』
土方はたまたま近藤に報告を終えた総司と会った。胸元の血に少し驚いて尋ねたのだが総司は、
『…これは河上の血です』
青白い顔をしてそういうと、さっさと話を切り上げて去って行った。そのあと近藤から詳細を聞き、総司の様子に納得していたのだが。
(少なくない血の量だったが、あいつは怪我をしている様子はなかった。そして河上の返り血でもない…だったら、誰の血だ?)
「…なにか?」
土方が考え込むのを見かねて、斉藤が不審がる。他の誰かのことなら彼も気にしないだろうが、他でもない総司のことだからこそ気にかけているのだろう。
しかし、土方も明確な答えが浮かばずに「なんでもない」と返した。
「あいつのことは気にするな、きっと大したことじゃない。…お前は自分の役目に集中しろ。足元を掬われれば命に関わる」
「…はい」
斉藤はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は何も言わずに「では」と立ち上がって去って行く。
闇夜に消えたその姿を見送り、土方はゆっくりと息を吐いた。


翌日。
春の兆しのような明るい日差しに恵まれ、総司は非番の一日を過ごす。
「先生、またお出かけですか?」
「ハハ、金平糖を買って帰りますから、大人しく留守番しててください」
「僕は壬生の子供ではありませんよ!」
拗ねる山野を慰めつつ、総司は屯所を出た。今日は鴨川沿いの小料理屋で英の診察を受ける約束になっていた。
「風は冷たいな…」
日差しは暖かくとも、風はいまだに冷気を孕んでいる。総司は襟巻きを巻き直しつつ首を竦めた。
近いうちに伊東が戻ってくることになっている。そして彼は同志を引き連れて新撰組を去る…いつも華やかで近寄り難いほど優美だった参謀がいなくなること自体に違和感はない。むしろ粗野な武装集団である新撰組は彼には不似合いだったのだと総司ですら思うくらいだ。しかし彼はまるで春の嵐のように掻き乱し、仲間を連れて行ってしまう。
原田と永倉の説得に、藤堂は全く応じなかったようだ。永倉が諭しても原田が嘆いても、譲らずに首を横に振り、
『俺のことは放っておいてください』
と拒んだ。彼の決意を前に二人はそれを尊重するしかなく、くれぐれも無茶をするなと念押ししたらしい。藤堂の頑な態度を見て、二人もようやく諦めたようだがそれでも寂しさは尽きないだろう。
試衛館にいた頃、三人は常に一緒だった。大人びた永倉とやんちゃな原田、好奇心旺盛な藤堂は流派も年も違うのに不思議と気があっていた。ーーーもうその姿は見られないのだろうか。
(…先のことを考えるのはやめよう)
総司は自分に言い聞かせながら、目的の小料理屋に辿り着く。女将に桟敷へ案内してもらうとそこには約束していた英と、
「あれ?」
「お加減はいかがです?」
凛々しい姿で待つ、加也がいたのだった。






















解説
621 過去の話は440話のあたりのお話です。




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