わらべうた




631


一通りの診察を終えた加也は渋い顔をして
「四度目ですか…」
と呟いた。
河上の目の前で吐血してから四度目…しかもその頻度は上がり次第に病が進行しているのは素人の総司でもわかっていた。
総司は衣服に袖を通しながら、彼女に借りていた医学書を手渡した。
「すみません、この難しい本は一通りは目を通したのですが…何せこういうことにはからっきしで、なかなか頭に入らず一度読むだけで一苦労でした」
「それでも読んでくださったなら、きっと良いことがあります」
総司の軽口に、加也は少しだけ笑ってくれたがすぐに真剣な表情に戻る。
「…沖田さん、この病は初めて吐血すれば一気に進行します。それ故に今までの生活を続ければもういつ吐血してもおかしくはないでしょう。わたくしの力が及ばず申し訳ありません」
「そんな…お加也さんが謝ることはありません。わがままなのは私です」
「…いま一度お尋ねしますが、全てを近藤様や松本に明かして静養に努めるつもりはありませんか?」
「…」
以前は「そのつもりはない」の即答し虚勢を張っていたが、時を経て病を自覚し冷静になった今は簡単に突っぱねることはできなかった。
「お加也さんの見立てではいつ、床に伏すようになるでしょうか?」
「このままなら……一年以内には。激しい稽古や不規則な隊務をこなすには体力が必要です。それが病で削られつつあるのです。…すでに、ご不調が続いているご自覚をなさっているので?」
「それは…」
加也の言うとおりだ。昔は易々とこなしていた稽古も巡察も、今は終われば息切れがなかなか終わらず、心配する山野を誤魔化すので精一杯だ。体の動きにキレがなく、師である近藤が見れば総司の不調などすぐに見抜くに違いない。
暗澹たる思いで黙り込む総司を見かねて、加也は総司の手に自身の手のひらを添えた。
「…沖田さん、なにごとも優先順位が大切です」
「優先順位?」
「何もかも、どれもこれもというわけには参りません。一番大切なことは、病を隠すことなのか、生きながらえることなのか、短くとも思うままに生きることか。その逆も考えるべきです。何を最も避けるべきか…近藤様や土方様に知られてしまうことなのか、いつか大勢の前で吐血してしまうことなのか…それらが心の内で決まれば自ずとやるべきことが見えてくるものです」
「…お医者様はそんなことまで糺してくださるのですか?」
一片の曇りもない加也の言葉は心の中にスッと風を吹かせるようだった。どんな治療よりも即効の薬のように。
総司が尋ねると加也はまた少し笑った。
「わたくしは、糺すなんて大それたことを口にはしておりません。ただ、友人として思うことを述べたまでのこと」
加也は重ねていた手を引いて、自身の膝の上に戻した。まっすぐ伸びた背筋はまるで太陽に向かって葉を伸ばす若葉のように清々しい。
「…お節介ついでに余計なことを申し上げると、本当はすでにお心が決まっているのではありませんか?」
「はは…やはりあなたは優秀なお医者様です。松本先生もよく心を見透かすようなことをおっしゃいますが、あなたも同じですね」
土方との別れ再び縁を結んでから、心は次第に固まりつつあった。いつまでも彼に隠し事をするわけにはいかない、同じ道でなくともせめて彼を支える道を歩むと決めたのだから。
総司はそれまで加也の助手に徹していた英へ視線を向けた。
「…英さん、北の天神さんの梅はもう咲きましたか?」
「いや…まだ蕾だ」
「ではその梅の花が咲く頃に…ちゃんと心を決めます」
どの花よりも早く春を迎える梅は、土方の好きな花だ。その花が咲く頃に偽りのない言葉で彼に向かい合おう。
(僕が、僕に甘えるのはそれまでだ…)
春が凍てついた心を溶かすだろう。そして美しい花がほんの少しでも彼を慰めるはずだ。
「…それが宜しいですね」
加也は心底安堵したように笑った。久々に見る彼女の本当の微笑みは春の日差しのように温かかった。


珍道中というほどではないが、大坂へ向かう道中はなんとも言えない空気が流れていた。
「…」
「…」
「…」
腹心である内海、実弟の鈴木、そして新入りの斉藤は揃って伊東が待つ大坂の旅籠を目指していた。商人たちの行き交う賑やかな雑踏に紛れているせいで、例え誰もが一言も口にしなくとも静まり返った重たい空気にはならないが、決して気楽な道中というわけでもない。
「…何故兄上は斉藤組長まで大坂に…」
ブツブツと文句をこぼしたのは鈴木だった。彼は血縁という意味では伊東に一番近い立場だが、今回の分派の件は未だに知らされていない。そして人一倍斉藤のことを警戒しているのだ。
「大蔵さんから重要なお話がある…そう言ったはずです」
「なにもわざわざ大坂まで…。副長の許可が簡単に出たものの、兄上は少し大胆すぎませんか」
「事は重要なのです」
内海は慰めるが、鈴木は聞く耳を持たずあからさまな敵意を斉藤に向けた。
「斉藤組長は土方副長から何か密命を受けて近づいているのでは?」
「…根拠が?」
「ない。しかし、簡単には信じられぬ」
淡々とした態度を貫く斉藤に、鈴木は「ふん」と顔を背けた。彼が反発する根拠は野生の勘に近いものなのだろうし、決して間違ってはいない。しかし兄に重用されないのはこの気の短さ故なのだろう。
「大蔵さんは斉藤先生を信用しているのです。そのようなことを口になさらぬように」
内海はそう言ったが、彼もまた斉藤を完全に信頼したわけではない。しかし、斉藤の持つ人脈や剣の腕が伊東の役に立つことは重々知っているため、このところ表立って非難する機会が減っていた。
内海の助言を受けながらも、鈴木は尚も不満そうなので、
「…内海さん、鈴木組長はどうも融通が効かぬようです。伊東先生のお考えを突然耳にして卒倒してしまうかもしれません。先にお話ししては?」
と斉藤は嗾けた。鈴木は斉藤の言い方に眉間に深い皺を寄せて不快感を露わにしたが、それ以上に「既にご存知なのですか!」と内海を問い詰めた。内海は面倒そうな顔で(余計なことを)という視線を斉藤に向けたが素知らぬふりを貫くので彼は仕方なく口を開く。
「大蔵さんは帰営したのちに分派を決められています。御寺の住職から朝廷に働きかけ、すでに『御陵衛士』という名前も賜っており、近藤局長と土方副長も了承済みです」
「な…」
「君には伏せていましたが…大蔵さんに頼まれて御寺に足を運んでいたのはこのためです」
内海の話に鈴木は絶句した。しばらく立ち尽くしこめかみのあたりを抑える…そして言葉を絞り出した。
「…なぜ、自分には…」
「この事は私と斉藤組長、藤堂君のみが知っていたことで他の同志も知らぬこと。それに…特に君には伏せるように大蔵さんに言いつけられていました」
「そんな、兄上は…そこまで…」
血が繋がっているということ以外、まるで他人のように信用してもらえない。
怒りから困惑、そして絶望…青ざめて嘆く鈴木は力なくその場に尻餅をついた。
「…一体、兄上は…なにを…」
「これからの展望は今夜聞かせていただけるでしょう。それに…大蔵さんは、君がそのように動揺することがわかっていたから話さなかったのです」
「……結局、足手まといであることに違いない…!」
鈴木は悔しそうに顔を顰め、俯く。
まるで子供が拗ねてしまったかのように縮こまる鈴木に、斉藤は仕方なく手を差し伸べた。
「あんたが、人質だったからだ」
「え…?」
鈴木が顔を上げる。斉藤はその腕を強引に掴んで立ち上がらせた。
「伊東先生のお考えを耳にした土方副長は、九州遊説を許可する代わりに、裏切り行為があればあんたを斬ることを条件にしていた。そのため、あんたに真実を告げ妙な行動をさせないように何も伝えなかった…内海さん、そうですね?」
「…なぜ、君がそれを?」
「なぜ?俺が知っていてもおかしくないでしょう」
斉藤の含ませた言い分に内海は黙る。彼の中でどんな想像が膨らんでいるのかはわからないが、鈴木は正気を取り戻したかのように頰を蒸気させ「本当ですか?」と内海に尋ねた。
「…本当のことです。大蔵さんには君には伏せるようにと釘を刺され…必要な時に話すべきだと」
「伊東先生は無事に戻られた。もう明かしても良いでょう」
困惑する内海に、斉藤は「行きましょう」と先を促した。
(まったく…駄々っ子の面倒は御免だ)
斉藤はそんなことを思いながら、約束の旅籠を目指したのだった。







632


小料理屋を出た総司は、英とともに歩いた。
「お加也さん…安心した顔をしてましたね」
他の患者の診察があるから、と先に出た加也は総司が病を打ち明ける約束をしたからか、肩の荷が降りたかのように安堵し、総司を英に託して去っていった。
英は頷いた。
「責任感のある人だから。女子の身だと揶揄されながらも医者としての責務を全うする…融通が利かないくらい頑固だけど、頼れる人だよ。だからこそ今回の件はずっと迷っていた。松本のおっさんや南部先生に打ち明けるべきか、考え込んでいたみたいだ」
「そうでしたか…悪いことをしました」
「仕方ない。患者は総じてわがままなものだ」
英はそう言って少し微笑んだ。彼も表には出さないが苦悩はあったのだろう。そう思うと、今後のことへの不安は尽きないが、間違ってはいないのだろうと思える。
そんなことを話していると、分かれ道へとたどり着いた。
「英さん、お時間があるなら一緒に天神さんへ行ってみませんか?」
「…俺は良いけど、あんまり一緒のところを見られるのは拙いんじゃないか?」
医者の卵である英が総司とともに歩いていたと知られれば勘の良い者は何か察するかもしれない。しかし、今日に限ってはその不安はない。
「大丈夫です。斉藤さんは今日は大坂へ行っているし、土方さんも屯所から出られる雰囲気ではないので…それに誰かに見られても、もう良いかなってそう思うんです」
自分自身の鎖を少し解いたせいか、総司にも心の余裕が生まれていた。彼と一緒のところを見られたからと言ってすぐに病に繋がるわけでもない。いつまでも気を張って誰彼かまわず無闇に怖がらなくても良いだろう。
英も同じだったのか、「そういうなら」と二人は北へ向かうことにした。
道中はまるで気を許した友人のように他愛のない雑談を交わした。本来、明るい総司と社交的な英は出会う場面が違っていたらもっと早くに意気投合しただろう。そう思ったからこそこんな日を待ち望んでいたのだ。
「そういえば、試衛館や新撰組以外で友人なんて、初めてのような気がします」
「なんだ、友達がいないなんて可哀想に」
「付き合うのは年上ばかりで…同世代は伊庭くんくらいだけどあの人は大人びているし…」
「ああ、あの幕臣のお坊ちゃんか」
「会ったことがあるんでしたね」
「すました顔で物見遊山に来たよ」
「あの人はいつも涼しい顔をしているんですよ」
記憶力の良い英は伊庭のことをしっかり覚えていたらしく、「俺の好みじゃなかった」と苦笑した。
彼との会話には遠慮がなく、気後れもしない。血を吐いてからというものの誰にも気を許さず緊張状態を続けていた総司にとっては貴重で楽しい時間だった。
そんな時間はあっという間に過ぎて、北野天満宮までやってきた。
「本当だ、まだ咲いていない」
梅の名所である境内の木々はどれもまだ固い蕾だ。まだ春は遠い様子で、内心まだ猶予があるのだと安心してしまった。
英はそんな総司の心情などお見通しなのだろうが、
「やれやれ嘘だと思ったのか」
と大袈裟に文句を言った。
「花が咲いているか咲いていないかは人によって感じ方が違うじゃないですか。でもこの分じゃ…まだひと月はかかる」
「…焦ることはない。ここまで来たら五十歩百歩だ」
英は「お参りをしていこう」と誘い、奥へと歩いていく。広い境内をしばらく歩き、本殿が見えてきたところまでやってくる。正面門、『星欠けの三光門』の前で両手を合わせる君鶴がいた。
「お鶴」
親しい英が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げたのだが、泣き腫らしたように目を真っ赤にしていたので二人とも驚いた。
「英せんせ、お武家様…」
「どうした?一体何が…」
「…」
「君鶴さん?」
いつも明るい君鶴があからさまに気落ちしており、とても放ってはいられず近くの縁台へ座らせた。
俯いた君鶴は目尻の涙を拭いながらも、総司を心配した。
「…お武家様、お身体の具合は…?」
「大丈夫ですよ。それより何かあったのですか?」
「お武家様、うち、自分では信心深い氏子やて思うてたんやけどそうでもないみたい」
「え?」
「せやから、堪忍どす。代わりにお武家様のお願い事が叶うようにって手合わせても…叶えてもらえへんかも…」
気丈に話し始めたが、次第に涙声になり最後には俯いた。英は隣に座り肩を引き寄せ励ました。
「そんなことはない。お鶴は毎日、境内の掃除を欠かさない、立派な氏子だ。皆そう思っているのに、なぜそんなことを思う?」
「…うちの本懐を遂げさせてもらえんかった」
「本懐?」
総司は首を傾げたが、英はハッと表情を変えて君鶴の両肩を掴んだ。
「まさか…!」
「ようやく、ようやくお座敷に呼ばれた…これは天の采配やと思うて…!」
「何を馬鹿なことを!」
優しく励ましていた英が一転して叱りつけるが、君鶴は首を横に振った。
「でも失敗や。あっさり気付かれて…挙句、何もなかったことにしてやるゆうて恩着せがましく不問にして!うちと姐さんは馬鹿にされたんや…!」
「でもその温情がなければ、命がなかった」
「それでもよかった!」
君鶴はわぁっと両手で顔を覆い泣いた。総司には詳しい状況はわからなかったが、君鶴の思い詰めた表情と短い言葉から、彼女が仇討ちに失敗したのだろうと察する。いつも朗らかな彼女の心の奥底にそんな憎しみの炎が灯っているとは思いもよらなかった。
しかしその相手が、
「悔しい…壬生狼の鬼副長…、憎くて仕方あらへん…」
と呟いたので尚驚く。
(土方さんを…?)
憎まれるのも、嫌われるのも慣れている。しかし馴染みだと噂される君鶴が、まさか真反対の感情を抱いているとは。
驚く総司がチラリと英を見ると彼は何か含ませた表情をして首を横に振った。今は何も言うな…と言いたいのだろう。
総司も自分が新撰組の一員であると告げていない。それは彼女のお遊びのような提案に乗って名乗らずにいたせいで、もし知っていたら彼女はとっくに拒絶していたのだろう。
そう思うと居た堪れず、
「先に戻ります」
と声をかけて背中を向けた。ワアワアと泣き喚く君鶴の声がいつまでも聞こえていた。


大坂は都よりは幾分か暖かく感じた。
「はるばる大坂まで呼び出して悪かったね」
約束の旅籠で三人を迎え入れた伊東は上機嫌だった。旅の疲れもなく、彼らしくなく浮き足立っているようにも見える。当然だ、近日中に屯所に戻れば念願の分派が叶うのだ。
「伊東先生もご無事で何よりです」
「斉藤くん、君の助力には感謝している!さあ、中に入りたまえ。篠原、彼等に茶を」
「は!」
先んじて大坂入りしていた篠原や加納といった親い者が数名集まっていた。もちろん九州行きに同行していた新井の姿もある。
「大蔵さん、これは頼まれていたものです」
「ああ、ありがとう。…私がいない間はどうだった?」
「問題ありません。分派についても数名の幹部のみに話は止まっており、隊内にはは全く広まっておりません。それから…鈴木君も無事です」
内海は一歩後方に下がっていた鈴木に視線を向ける。伊東は急に熱が冷めたように「そうか」と短く答えると
「人質の件を聞いたのだろうが、土方副長のお考えでそうなっただけだ。深い意味はない」
と早速釘を刺す。鈴木は何かを言いかけたが
「…はい」
とその言葉を飲み込んで黙り込んでしまった。
一方、歓待を受けた斉藤はまるで主賓のように招き入れられた。
「斉藤君、君のおかげで太宰府から長崎へ移ってからは身の危険を感じることもなく過ごすことができた。改めて礼を言わせてくれ」
「…伊東先生が無実の身であることをお話ししただけです」
「君は謙遜がすぎる。長崎でも各方面に話を通してくれたのではないか?幕府の要人や長崎奉行では何度も便宜を図ってもらった」
「…ご想像にお任せします」
「この恩は忘れないよ」
伊東が親しげに肩を叩く。彼の無邪気な笑みは本心なのか偽りなのか…斉藤にすら図りかねた。
「伊東先生、長崎でのお話を聞かせてください」
「なんでも英語教師らから西洋について学ばれたとか?」
「お聞かせください!」
同志たちは話をせがむが、伊東は微笑んで「それはまた今度にしよう」と頷いて、
「今日、皆に集まったもらったのはこれからのことを話すためだ」
と切り出したのだった。






633


「ここに集まってもらったのは内密に話を進めていた件について説明するためだ。屯所や私の別宅でさえ憚られる内容ゆえ、慎重にことを運ぶため信頼できる者にしか話していない…そして君たちを私とともに命運を共にしてくれる同志だと信じているからこそ、ついに明かすことにした」
伊東は長い前置きを語り、その緊張感が伝わったのか事情を知らぬ者たちはごくりと息を呑む。
そして
「私たちは、新撰組を脱ける。そして新たに御陵衛士として志を果たすことにしたのだ!」
高らかな宣言に、同志たちはワッと湧いた。
「本当ですか、先生!」
「我らの悲願が叶うのですか?!」
「しかし、脱ける…法度違反では?」
驚き喜ぶ者、言葉を失い感嘆する者、困惑し動揺する者…さまざまな反応がある。伊東は受け止めるように微笑んだ。
「我々は表向きは脱退ではなく別組織として分離する。すでに朝廷より『御陵衛士』を賜っており、新撰組とて手出しはできぬ故に安心してついてきて欲しい」
「御寺の住職に力添えいただき会津にも了承を得ています。明日、屯所に戻り近藤局長と土方副長から正式に分派の取り決めが為されるでしょう」
内海の補足でますます現実味が出たのか、同志たちは盛り上がり歓喜に沸いた。特に篠原は
「先生、ついに我々の悲願が叶うのですね…!」
と号泣した。
「その通りだ。皆、尊皇の志を持ちながら腐り切った幕府の元で働く苦痛によく耐えてくれた。これからは『御陵衛士』として先帝の御霊のために大いに働こうぞ…!」
それから伊東はこれまでの経緯とこれからの展望について細かく話し始めた。誰もが新しい未来を目の前に目を輝かせ、熱心に耳を傾けていた。
「分離の後は城安寺へ向かい、その後は善立寺を頼る手筈になっている。それから早めに正式な屯所を探すつもりだ」
話を聞いていた阿部十郎が「あの」と手を上げた。彼は壬生浪士時代に入隊している。
「先生、何事も金が必要です。新撰組は壬生浪士だった頃、商家に借金をして評判を下げました。我らは会津の後ろ盾を失いどのように活動を…?」
「当面、金子の心配はない。実は長崎奉行より五百両を拝領している。我々の活動に理解を示し、援助してくださったのだ」
「なんと!」
「素晴らしいです、先生!」
同志たちは沸き立った。長崎奉行から信頼と金を得たことは遊説の一番の成果と言っても良いだろう。
伊東は彼らの反応を満足げに受け取ったが、
「…そして、茨木くん」
と声のトーンを落として茨木司のもとに腰を下ろした。彼は若いが誰よりも真面目な性格で伊東から信頼を得ていた。
「君には別の、重要な任務を任せたい」
「先生のおっしゃることならなんでもお引き受けします」
茨木は即答したが、伊東が
「君には新撰組に残って欲しいのだ」
と言い出したので一気に青ざめた。ともに『御陵衛士』の一員になれると確信していた彼にとっては青天の霹靂だ。
「そんな…私は役立たずだと…?」
「断じて違う。重要な任務と言ったはずだよ」
伊東は彼の肩に手を置いた。
「今回の分離、表向きには新撰組と協力関係を保つことになる。そのため大人数を引き連れての分派することはできず、残念ながら数名を残していくことになる。彼らとともに新撰組の動向を伝えて欲しいのだ。新撰組にとって我々は目の上のたん瘤、邪魔だと判断されれば一番最初に敵になる…早めの情報収集が必要だ」
「なぜ…私なのですか…?」
「君は若いが冷静で統率力がある。それに先日の制札事件では高く評価され、監察の標的になりづらいだろう。…納得できないかもしれないが、他に残る隊士とともに任務を果たして欲しい」
伊東の説得に茨木は次第に絆されていく。
「…どうか、私に『残れ』と命じてください。そうすれば本当は皆さんとともに御陵衛士として働きたい気持ちを宥め、先生のために尽くすことができます」
「私は君の上司ではない」
「いいえ、先生。どうか…」
茨木は頭を深々と下げた。敬愛してやまない伊東から命じられれば、一切の感情を捨てることができる…茨木なりの気持ちの整理なのだろう。察した伊東は頷き、
「では…命じる。君は新撰組に残り使命を果たすのだ」
「かしこまりました…!」
茨木の決意に自然と拍手が起こる。こうして一致団結を果たした彼らは酒を酌み交わし、大いに酔った。
斉藤はその宴の中心にいながらも、その心は俯瞰していた。
(始まるのか…)
分派という道がどこへ繋がっているのか。願わくは地獄ではなく、伊東が語る輝かしい未来であって欲しいものだが
(それは賽の目のようにわからぬことだ)
そう思いながら、斉藤は酒を煽った。



北野天満宮から屯所に戻った総司はまっすぐ土方の元へ向かった。
「失礼します」
了解を得ずに部屋に入ると、土方は隊費の見直しをしていたのか彼の手元には算盤があった。
「どうした?」
土方は少し驚いていたが、何も言わず総司は土方の腕を取り背中に触れ、まじまじと身体を見回した。
「…なんだよ、突然」
「いえ…本当に怪我をしていないんだなと思って…」
君鶴は仇討ちに失敗したと言っていたが、それを確かめたくて急いで帰ってきたのだ。
土方はたった一言で、
「君鶴に聞いたのか」
とすぐに察した。総司は自分から切り出しておきながら土方の口から彼女の名前が出たことに少しドキッとした。
「…先程、たまたま…。仇討ちに失敗したと大泣きしていたので、驚いて…」
「ああ。新撰組の鬼副長が素人の女子にやられるわけにはいかねぇだろう」
「…君鶴さんは、君菊さんに縁があるのですか?」
「君鶴は君菊の禿だ」
「やはり…そうだったんですね…」
鈍感な総司でも彼女たちの似通った名前には気がついていたし、二人とも土方に関係しているのだからそんな予感はあったので驚きはしなかった。
そして以前、彼女が語っていた恩人である『姐さん』は君菊のことなのだろう。異国の血が混じり、赤毛だった君鶴を禿として迎え入れた…あの大らかな君菊ならそうしただろうと容易に想像がつく。そして君鶴は『行方不明』だと語っていたけれど池田屋を経て彼女がその犠牲になったのだと知らなかったのだ。それが土方への憎しみへ繋がり仇討ちを決意させた。
「…お前は、自分の正体を話していないんだろう?」
「ええ…君鶴さんに知らなくても良いと言われて」
「だったらもう関わらない方がいい。いずれ知ることになるかもしれないが…これ以上、君菊のことを掘り返されたくはない」
土方にとって君菊は特別な存在だ。恋人ではなかったが信頼し、身請けすることまで決意さえたたったひとりの女子。そしてずっと消えない心の傷ともなった存在。
土方はぶっきらぼうに言ったけれど、彼女の忘れ形見のような君鶴を傷つけることは土方にとっても本意ではないのだろう。
「わかりました…」
総司も自分から関わるのは良くないと思い、頷いた。
土方は「ところで」と話を切り上げる。
「明日には伊東たちが戻ってくる。そうなれば分派が了承されあいつらは出ていく…あんまりふらふら出歩かずに屯所にいるようにしろよ」
「…斉藤さんも出ていくのですか?」
「ああ」
土方はあっさりと認めた。総司の心は騒ついた。
「…あの…」
「あいつは将軍が薨去して幕府への未練がなくなったんだ。間者は自分の利になることを一番に考えて行動するものだ」
「…間者だなんて、私は斉藤さんのことをそう思ったことはありません」
土方が冷たく突き放すので、総司は思わず反論した。斉藤自身は自分が間者であり、邪道だと自負しているのかもしれないが…総司はそれを友人として受け入れたくはなかったのだ。
土方は言い返さなかった。
「お前はそう思っていれば良い。ただ結果として、あいつは伊東についていく…それだけだ」
「…」
土方には何か思惑があるのかもしれない。
斉藤には何か使命があるのかもしれない。
そして伊東には何か考えがあるのかもしれない。
でもそのどれもが、総司にとって知りようもないことで、とても遠く感じた。
(僕は黙って眺めているだけだ…)
病だと打ち明ければもっと遠くなるだろう。
「わかりました。…部屋に戻ります」
総司は膝を立て、土方に背を向けたのだった。








634


伊東が帰京したのは、春の兆しを感じられる小春日和のことだった。
伊東が正月の謹慎明けすぐに九州へ旅立ったことで、明らかに幹部たちの距離感を感じていた隊士たちは長州からの帰還とは違い、遠巻きに眺め、伊東に近い者たちが迎え入れただけだった。
「遊説の話を皆に聞かせたいが、すぐに近藤先生に呼ばれているんだ」
伊東は同志たちにそう告げて、島原にある新撰組が懇意にしている料亭へと出向いた。すでに待ち構えていたのは近藤と土方だった。
「まずは無事の帰還をお祝いしよう」
近藤はにこやかに盃を掲げ、三人は形だけの乾杯をした。伊東は酒を飲み干し微笑む。
「この度の遊説はとても有意義なものでした。倒幕を掲げる要人たちにも一通り会うことができ、長崎では知見を得ることができましたし…」
「顔を売るついでに、我々は新撰組を脱退する御陵衛士であると触れ込むことができた、と」
「…やはり、すでにご存じでしたか」
分派の提案はしたが、具体的な話は彼らにしていないはずだ。「御陵衛士」の名前もほんの数名しか知らないはずだが、新撰組の情報網は伊東も熟知しているので、驚きはしなかった。
「分派の件、検討すると受け取ったが、どうやら参謀の中では『了承した』と思い違いをしているようだ」
土方ははっきりと責めた。しかし伊東は怯まなかった。
「分離の提案をした時点で、私たちに居場所がないことはわかっていました。分派になるか、脱退になるか、隊規違反で切腹か…どちらにしても何事もなかったように新撰組に戻ることはできない。それ故に同志たちの受け皿を用意しなければならなかったのです」
「受け皿…にしてはたいそう立派な大皿のようだ」
「ご縁の賜物です。…前にもお話ししましたが、私たちは新撰組に敵対するつもりはなくむしろ協力関係を結びたいのです。必ずや近藤局長の御力になりましょう」
穏やかに土方をかわしながらも、伊東は折れない。彼はこれまで自分の意見を主張することはさほどなかったが、曲げることもなかった。
土方は睨み、伊東はそれを反射する無機質な鏡のように微動だにしない。そんな二人の狭間で、近藤は
「本音を話そう」
と切り出した。そして伊東の方へ居住いを正す。
「伊東参謀、私は江戸であなたに出逢い、その佇まいと知見の広さで新撰組を盛り立ててもらおうと思っていた。それ故に分派し活動するという結果は残念に思っている」
「…ご期待に添えず申し訳ない限りです。しかし情勢が変わりました。幕府という屋台骨がぐらついた今、別の立場から動くことが肝要だと気がついたのです。そしてそれは何も近藤局長がこの国を思う気持ちと違うわけではなく、方法が異なるだけです」
「その幕府の屋台骨を支えようとは思わないのか」
「思いません」
伊東はキッパリと言い切った。そして続けた。
「入隊前に私は勤皇の考えが強いことはお話ししました。それ故に新撰組への入隊を迷っていた…しかし大きな意味で新撰組に入隊することが幕府がお支えする帝のためになる…そう納得して入隊したのです。先帝は幕府を信用していた…しかし今は違います。幼き帝に何ができましょう。戦を放り出す幕府に何が守れましょう。…近藤局長、これは世の流れというものです。誰にも抗うことのできぬ流れのなかで、私はただ流されるだけでは己の信念を汚すと思うのです」
「では、その流れのなかで幕府を支えようと思う、私の考えは愚かかな?」
近藤は伊東に問いかける。それは土方のように挑戦的ではなく、ただ伊東の考えに耳を傾けるために。
(私は近藤局長のこういう部分が嫌いではない)
根付いた大木のように志は揺らがない。しかし広げた枝葉のように心は広く、風が心地よく流れていく。
「…愚かとは思いません。ただ、私の生き方とは違うのです」
「そうか…初めて参謀の本音を聞いた気がするな」
ふっと笑った近藤は伊東に酒を勧めてきた。
「分派は承知した。会津にも話を通してある」
「…ありがとうございます」
「寂しくなる」
「…」
近藤の言葉に嘘はない。真正面からのむき出しの感情を目の前に伊東は返答に迷い、土方へ矛先を向けた。
「…土方副長もご納得いただけたということで宜しいのでしょうか」
それまで黙っていた土方が腕を組み直した。
「近藤局長の決定には逆らわない。ただしいくつか決め事をしておきたい」
「ええ、そうですね」
「まず分派する者の名簿を。そして特別な事情がない限り、新撰組と御陵衛士の間で隊士の移動はない」
「…脱走した者を受け入れることはできないと」
「受け入れた時点で新撰組と敵対したと見なす」
「…わかりました。これが名簿です。各人にはすでに了解を得ています」
昨日、内海から受け取った名簿を土方に差し出した。その名簿に茨木をはじめとした忠臣の名前がないことは気がかりであったが、
(方法はまた考えれば良い)
とひとまず伊東は了承した。
土方はさらに条件を出した。
「橋渡し役である藤堂以外に新撰組隊士の接触は許可しない」
「当然です。それでは分派の意味がない」
「そして万が一、接触があった場合…その者を処分する」
「…わかりました」
伊東は暗に切腹させることを意味する新撰組の体制が、ずっと気に食わなかった。人を縛るだけの法度にどれだけ有能な人材が殺されてきたか。
(目に見えぬものに殺されるのは御免だ)
ようやく逃れられると思うとせいせいした。
土方は名簿に目を通すとそのまま何も言わずに折り畳んだ。眉ひとつ動かさない淡々とした表情に思わず
「何故、何も仰らないのですか?」
と尋ねた。
「…何を?」
「名簿です。ほとんどが私に近しい者ですが…藤堂君はともかく、斉藤君の名前がある。彼は試衛館食客のひとりであり、土方副長の懐刀でしょう。宜しいのですか?」
伊東は注意深く土方の表情を窺った。伊東に近づき距離を詰め、分派を提案し裏工作に協力した…伊東にとって有用な人物であるがそれは土方にとっても同じこと。簡単に手放せるような存在ではないはずだ。
土方はゆっくりと口を開いた、
「…斉藤はそもそも試衛館食客といえるほど居着いたわけでもない。都で再会し、剣の腕が立つから重用してきた。しかし…詳しいことは知らぬが、どこかの間者だ。いつ寝首をかかれるか、わかったものじゃない」
「…」
「伊東参謀も注意された方が良いだろう」
まるで使い捨てに過ぎないというような冷淡な物言いだった。そして間者だと吐き捨てる姿は遠回しに伊東を脅していた。
「肝に銘じましょう」
伊東はそう返答した。


大坂から戻った鈴木は総司を探した。
あちこち探し回り、いつもの馬屋にいるはずだと安富に聞き、不快な匂いが漂うのは御免だと思いながら、仕方なく足をのばした。
日が落ちるのが遅くなったとはいえ寂しい夕方。橙色の日差しのなか暴れ馬の池月は相変わらず「ヒィンヒィン」と鼻を鳴らし落ち着きがない。
その傍らで総司が座り込んでいたので、鈴木は駆け寄った。
「どうした…?」
「あ…ああ、鈴木さん。大坂から帰っていたんですね…」
ウトウトとしていたのか、総司は鈴木を見ると少し驚いていた。忙しない暴れ馬の近くで眠気に襲われていたのなら、よほど疲れているのだろう。
「顔色が良くないが…」
「そうですか…?ああ、この夕焼けのせいじゃないですか?」
「誤魔化しても無駄だ」
「…たしかに。あなたに嘘をついても仕方ない。すっかり誤魔化す癖がついちゃったな…。でも本当に少し寝ていただけなんです」
総司は鈴木の手を借りながらゆっくりと立ち上がった。
「それより、大坂はいかがでしたか?分派のお話があったのでは?」
「!…知っていたのか…」
「ええ、とても驚きましたが、伊東参謀はいつまでも新撰組に留まる方ではないでしょう。…あなたも出ていってしまうんですよね、寂しくなるなぁ」
「…」
鈴木は複雑そうに顔を歪めた。
「…鈴木さん?」
「昨日、初めて聞かされ…まだ頭が整理できてません。兄上が何をお考えなのか、理解が追いつかず…困惑しています」
「薩摩や諸藩の情報を得るために分派して動く…伊東参謀でなければ思いつかないような策ですね。でもあなたにとって兄上と行動を共にすることが望みなのではないのですか?何か問題が?」
「…」
鈴木は言葉に詰まる。
総司の言う通りだ。兄が何を考えていようとも、ただ従えば良い。兄のやることなら例え大悪事だとしても肯定して身を粉にして働くことができる。今までだってそうしてきた。
(しかし、言いようもない…不安がある)
こっちの道は間違っているーーー誰かが、そう言っているような。
「…今更、兄を止められません。残念ですがあなた方とはお別れのようです」
「ふふ、正直な人だなぁ。敵対するわけじゃない…そういう建前なのに、この世の別れみたいだ。伊東参謀はそう決意していらっしゃるんですね」
「…それは…」
「まあ皆、薄々感じていることです。互いの接触も禁じられると聞きますし、仲間とは言い難い関係になるのでしょう」
総司は遠くを見た。現実味がなくて、自分の周りからどんどん人が去っているような、言いようもない虚しさがある。
けれど、それも仕方がない。
いつまでも仲良しのふりはできないのだから。
「お互いに、自分の志を全うしましょう」
総司は右手を差し出した。彼の兄がいつもそうするように。
鈴木は少し戸惑っているようだったが、同じように手を差し出して二人は固い握手を交わした。
「…お身体を大事に」
「ええ…鈴木さんも」
夕陽が闇に侵食されていく。しかし互いの表情はよく見えた。






635


三月中旬。
伊東が帰京して数日で分離策は隊内に公表され、京都町奉行所や会津藩にも了承された。あらかじめ根回しをしていたこともあり話は着々と進むこととなり、伊東はのちに「意の如し」と自身の日記に書き残している。
そしてついに二十日、彼らは新撰組を出ていくこととなったのだ。

その前夜。
「沖田先生、本当に明日、藤堂先生たちは出ていってしまうのでしょうか…?」
巡察を終え、不安そうに眉をしかめながら山野は総司に尋ねてきた。
「ハハ、まさか今さら『撤回します』なんて伊東参謀がおっしゃるとは思えませんけど」
「でも僕はいまだに信じられなくて…。分派だとか分離だとか言いますけど、結局は脱退ですよね?病や怪我で認められることはありましたがこんなに堂々と出ていくなんて本当にありえるのでしょうか…それに古参の藤堂先生や斉藤先生までいなくなってしまうなんて!」
余程ショックだったのか山野はすがるように総司の腕を掴む。
しかし山野ほど素直な隊士はいないが、ほとんどの隊士が同じ気持ちだろう。いままで散々法度で禁じられてきた脱退がこれほど簡単に成るものかとこの数日、唖然とし、愕然とし、言葉を失ったままなのだ。だが一方で「納得した」という声もある。新撰組では近藤や土方に従順な隊士と、反感を持ち伊東に肩入れする隊士が二分されていた。今回出ていく十数人はその中でも特に伊東に近い者たちだったので「副長が追い出したのだろう」と割りきる隊士もいた。
「山野、落ち着け」
恐らく前者であろう島田は複雑な表情だった。
「島田先輩…」
「自分も昔から共に戦ってきた藤堂先生や斉藤先生が出ていってしまうのは残念だが…土方先生は『円満な分離』だとおっしゃっていただろう?我々にとって利になることもある。だったらこれ以上、疑うのはよくないぞ」
島田も不安に思うことはあるのだろうが、伍長として気を引き締めているのだろう。相変わらず一番隊は真面目でしっかり者が多くて助かる。
総司も山野の肩を軽く叩いた。
「島田さんの言う通りですよ。気持ちが整理できないのはわかりますが、彼らは彼らの信念を貫くだけです」
「そうだ、納得できないなら『お手並み拝見』とでも思っていれば良いんだ」
微笑む総司と、励ます島田。二人から慰められ山野はようやく気持ちを落ち着かせた。
「…わかりました。僕はお世話になった方へ挨拶に行ってきます」
そう言うと律儀な山野は部屋を出ていった。
島田はそれを頼もしい表情で見送ったが、彼がいなくなると顔を曇らせ少しため息をついた。
「…山野の前ではああ言いましたが、自分も本当は落胆しています。まさか藤堂先生や斉藤先生が参謀側について出ていってしまうなんて…」
「藤堂くんは原田さんや永倉さんの説得にも応じなかったくらいですから、相当気持ちが固まっているんですよ。斉藤さんは…きっと思うところがあるのでしょう」
「はぁ…分派の話を聞いてからのこの数日、昔のことをあれこれ思い出していました。特に池田屋の時は皆が一丸となって敵を追い詰め、命を懸けて戦い…必死でしたが高揚もしていました。いまでもあの日のことを思い出すと胸が高鳴ります。昔は良かったなど嘆くつもりはありませんが…あの時を共に過ごした方と別れてしまうのは正直、悲しいです」
「…気持ちはわかりますよ」
島田の言葉で、総司もあの夏の日を思い出す。病で倒れた自分にとっては不甲斐ない日でもあったが、夜通し戦い続けようやく昇った朝陽を浴びながら、だんだらの旗を掲げて屯所へ帰還したときはとても誇らしく心が満ちていた。だからこそ思い出を共有している仲間と別れるのは単純に寂しい。
感傷に浸っていた島田が「あの」と意を決したように切り出した。
「沖田先生、藤堂先生はもう覚悟を決められているのでしょう。でも斉藤先生は沖田先生が引き留めればまだ…!」
「俺は今さら撤回しない」
島田に返答したのは総司ではない。斉藤が淡々とした表情で一番隊の部屋に顔を出したのだ。お陰で部屋にいた隊士たちの緊張感が増す。
「斉藤先生…!」
「島田、説得は無理だ。悪いな」
「しかし…!」
「沖田さん、話がある」
斉藤は一方的に誘い、総司の返答を待たずに背中を向けて去っていく。総司は少しため息をつきながら部屋を出て彼を追った。
「…もう少し、島田さんの話を聞いてあげてくださいよ。彼は隊士の中でも特に古参です。言いたいことは山ほどあるでしょう」
「だからこそ無駄な手間を省いた方が良いだろう。どうせ…結果は変わらない」
「…」
斉藤は立ち止まることなくそのまま道場へ向かった。夜に稽古する者はおらず、冬の稽古場はシンと静まり返っている。彼は数本の蝋燭に火を灯し、総司に向かい合った。
「もう荷造りは終わったんですか?」
「ああ、荷物は元々少ない」
「島田さんじゃないんですけど、本当に出ていってしまうんですね。実感がないや…」
明日から頼れる友人がいなくなる。しかも接触すらできないほど離れてしまう。
島田や山野の前では平静を保ったけれど、総司も彼を引き留めたい気持ちは溢れそうなほどにある。けれど困らせるのは本意ではないし、彼を信じているからこそ再会を確信している。
斉藤はしばらく無言で総司の顔を見ていた。ろうそくの仄かな明かりでは何もかもを見透かすことはできないだろうけれど、総司は落ち着かない。
「…まさかこれから決闘しようというのではないですよね?勘弁してください、先程まで巡察で疲れているのに」
「分離前日にそんなことをすればややこしい噂になる」
「たしかに。折角円満な分離なのに」
「副長の言葉が無駄になる」
茶化しては真面目な返答をされる。それはいつものやり取りで別れの前日だと言うのに何ら変わりがない。総司はなんだか笑えてきた。
「ハハ、だったら早く用件をいってくださいよ。そんなに見つめられると困ります」
「…あんたこそ、俺に言いたいことはないのか?」
「ありますよ、山ほど。でも言いません。斉藤さんがどういうつもりで出ていくのか、詮索するつもりもない。引き留めても無駄なのもわかっています。だから…なんていえばいいのか、言葉に迷っています」
「…そうか」
「斉藤さんの質問に答えたのに、それだけですか?まったく、相変わらずつれない人だなぁ」
総司の軽口にも乗らず、斉藤は何も口にしないまま一歩、二歩と総司に近づいた。仄かなろうそくの明かりが風でゆらりと揺れた。
そして斉藤は、手にしていた刀を差し出した。最初は彼のものかと思ったが見覚えのない刀は拵えも上品で無駄がない造りだ。総司が戸惑っていると、斉藤はため息をついた。
「…どうせ、いまだに予備の刀なんかを使っているのだろう?これは餞別だ」
「餞別って…それは去っていく人にするものじゃないんですか」
「細かいことは良いだろう。良いから…受けとれ」
「…」
総司はおずおずと受け取り、促されるままにゆっくりと抜いた。細い刀身、反りが浅く乱れた刃紋…まさかと目を凝らし銘を確認した。
「これは…安定?」
大和守安定。伊庭が持ち、以前斉藤の前で欲しいと漏らした名刀。玄人向けだが五つ胴を斬ったものもあるという切れ味を持つ業物だ。
「探してくださったんですか?」
「…偶然、出会っただけだ。新撰組の一番隊組長が予備の刀を携えているなんて知られたら笑われるだろう。本物だろうが、切れ味は自分で試してくれ」
「…」
刀に詳しい斉藤の目利きなら間違いない。それに手に吸い付くような感触はまるで前から自分のものだったかのように馴染んでいる。もし刀屋で巡りあっていたらすぐに手にいれただろうとさえ思えた。
(以前の僕なら…喜んで受け取っていただろう)
だがいま、どんな名刀でもその本領を発揮できる自信がない。相棒に出会ったかのように思えるのに、ずっしりと重たく感じるのだ。
「斉藤さん、これは…」
「もらえないなどというなよ。遠慮はいらない、例え返されても俺には使いこなせない」
総司の冴えない表情で斉藤は察したらしく無理矢理、総司の手に握らせた。もっとも彼ならどんな刀でも使いこなせないなんてことはないだろう。
「…でも…」
「河上と何があったのか知らないが、剣の腕において新撰組にあんた以上の者はいない。局長の親衛隊である一番隊の組長として一番の使い手を自負するなら、それに見合う刀で局長を守れ。これから…何があるのか、わからないのだから」
日頃、斉藤は無口で無関心で他人を評価しない。誰が一番だとか二番だとか関心がないように己の腕だけを磨いている。そんな彼から受けた誉め言葉は誰よりも身に染みたし、同じ高みにいるからこそそれが嘘偽りのないものだと理解できる。
彼のいうように河上との最後の邂逅は、吐血した衝撃とともに悔いの残る一戦だった。拮抗した実力を持ちながら、最後は彼に情けをかけられた…誰にも漏らせない悔しさが病の悔しさと重なって、いままでずっとぐるぐると己のなかに渦巻いていた。予備の刀を使い続けていたのも「自分はこの程度のものだ」と貶めていたのだろう。そして斉藤はそれを見抜いていたのかもしれない。
けれど、斉藤の言葉によってほんの少しだけ解けた。共に戦ってきた同志だからこそ、彼の言葉が響いたのだ。
「…ではありがたくいただきます。でも困ったな、私はなにも餞別を準備してないんです」
まさかこんなことになるなんてと総司は悩む。何にも興味のない斉藤に何を渡したら良いのか咄嗟に思い付かないのだ。
すると斉藤は「これでいい」と総司の後頭部に手を伸ばし、髪を纏めていた組紐を解いた。
「そんなもので良いんですか?」
「ああ」
斉藤は突然、腰を屈め片膝をついた。まるで主人と従者のように。
「斉藤さん…?」
「少しの間、黙っていてくれ。これからろくに話もできなくなる…最後かもしれないから聞いてほしい」
「…」
いつになく真剣な声色だった。総司は口を挟まず彼の言う通りに黙った。
「…前にも話したが、俺にとって忠誠を誓うのは帝でも幕府でも会津でもなく大樹公のみだった。あの方は無気力な俺を生かした…だからお亡くなりになったいま俺の生きる意味はなく、本来は冥土へお供するつもりだった」
「…」
以前、斉藤から聞いた過去の話や家茂との最期の別れの憔悴ぶりで彼がどれほど厚い信頼を寄せ、命を賭けた忠誠を誓っていたかわかる。どの立場であっても彼にとって主君は一人だけだったのだ。
「だが…沖田さんが俺を引き止めた。あんたが必要だと言ったから、俺はまだ生きている。だから家茂公と同じだとまでは言えないが、俺にとってあんたは同じような存在だと思っている…これから、例え表向きはどう見えたとしても絶対に裏切らない」
「斉藤さん…」
「前に信じてくれと言ったが、取り消す。信じなくてもいい、ただ俺はあんたに忠誠を誓う。どんなに遠くにいても、離れていても、守るから」
斉藤は動揺する総司の手をとり、その甲に口付けた。一瞬の出来事に総司は圧倒されたが、彼の言葉の端々にその想いの強さが込められているようで受け流すことなどできるはずはなかった。
立ち尽くす総司の前で平伏す斉藤がどんな表情をしているのかわからない。けれど彼にとって『家茂公』の存在と並べた宣誓は、寸分の隙もない本心なのだろう。
しばらくして斉藤は再び立ち上がると、まるで何事もなかったかのように向き合い、
「言いたかったことはこれだけだ」
と話を終わらせた。斉藤は総司の返答など求めていなかったのだろう。しかし、総司は斉藤の腕を掴んで引き止めた。
「あの…」
「なんだ?」
「…どうか…お元気で」
再び彼に向き合うとき、きっと自分はもう病に伏せているだろう。もしかしたら御陵衛士として離れた斉藤の耳にも入り、彼に余計な心配をかけることになるかもしれない。
そんな自分が最後に「元気で」なんて不似合いかもしれないが、いまはそれを願うことしかできなかった。
斉藤は
「ああ」
と短く答えた。仄かな明かりの中で彼は少しだけ微笑んでいた。
そしてそのまま背を向けて迷いなく去っていったのだった。







636


「それでは、これで」
伊東の短い締めくくりの挨拶と共に、ずらりと並んだ伊東派…御陵衛士たちが頭を下げた。彼らの目の前には複雑な表情を浮かべた近藤と、厳しい顔を崩さない土方が並んでいて、いつもとは違う緊張感が張り詰めていた。
「…今までご苦労だった」
近藤が声をかけ、場はお開きとなる。分離し独立を果たす…言葉は仰々しいがあっけない時間だった。
伊東を先頭に背中を向けて歩き出す。それは思惑通りの分離を果たし意気揚々とした姿に見えた。
土方はその殿を行く斉藤を引き止めた。
「斉藤、ようやく縁が切れるな」
「…」
「その仏頂面が試衛館にいた時から気に食わなかった。腕が立つから重宝したが…お前の顔を見なくて済むと思うとせいせいするな」
土方が言葉を選ばず喧嘩を売るので、御陵衛士たちが一瞬で殺気立つ。斉藤はフッと笑った。
「その言葉をそのままお返しします。すぐに手を下す短絡的なお考えにはうんざりしていました」
「なに?」
「しかし親しい者もいる。彼らのためにせいぜいその船が沈まぬよううまく舵を取ってください」
「…斉藤先生、行きましょう」
内海が斉藤の腕を引き、彼らは矛を収め鬼副長へ憎々しい表情を浮かべたまま去っていったが、藤堂はその場に残っていた。
「…近藤先生…」
現実となった別れ。前向きな分離だとしても明るく出て行くほど彼の気持ちは冷え切ってはいなかった。
近藤は何も言わず、トントンと肩を叩き彼の背中を押した。藤堂は許されたように感じたのか、少し安堵したように頷くと伊東を追って去っていった。
静まった部屋で近藤はポツリとつぶやいた。
「お前たちは千両役者だな」
「…あいつは本音だろう。自分が大根役者だと言っていたからな」
「そうかもな」
フッと笑って近藤はその場で横になり、大の字に身体を投げ出した。
「やれやれ…なんだか、疲れたよ」
土方は何も答えず、そのまま部屋を出ていった。

伊東を先頭にした十五名は堂々と屯所の正門から荷物を抱えて出ていった。
永倉、原田は藤堂と熱い抱擁を交わし、隊に残る数名の伊東を慕う隊士たちも別れを惜しんだが、ほとんどの隊士たちはその様子を遠巻きに眺めるだけだった。
総司もその光景をぼんやりと見ていた。斉藤は一度もこちらを見ようとせず、内海や篠原たちに囲まれてやがて見えなくなった。鈴木は総司と目が合うと軽く一礼して大きな荷物を乗せた足車を引いて去っていった。
「なんだか、呆気ないものですね」
総司のそばで同じように成り行きを見守っていた山野が呟いた。この数日、落ち着かない様子だったが去っていってしまうとあっという間の出来事だった。
「遠くに行くわけじゃないですからね。三条の城安寺へ移ってその後は五条の善立寺に世話になるそうですから、いわばご近所さんですね」
「あのあたりなら巡察で鉢合わせになることになるのでは?」
「ええ、ですからもし出会っても他人だと思ってください。でも間違っても斬らないように」
「はぁ…」
御陵衛士との複雑な距離感に山野は戸惑う。彼だけでなく他の隊士たちも同じように困惑していることだろう。
「とにかく、三番隊、八番隊、九番隊の組長がいなくなったわけですからしばらく落ち着かないでしょうが、堪えてください」
「僕は構いませんが…これから新しい組長が据えられるのでしょうか?」
「いえ、隊編成を新しくするそうです。一番隊、二番隊とは別の形になるのかもしれません」
「そうなんですか…」
まるで一瞬の嵐が去っていったかのように消えていった彼らは、しかし確実に隊に大きな変化をもたらそうとしていた。それを肌で感じつつも、どこか他人事のような気がしていたのはいつかこんな日が来ると分かっていたからなのだろうか。
山野は「そういえば」と話を切り上げた。
「先生、刀を新調されたのですね」
「ああ…これは」
安定はまるで長年そこに収まっていたかのように馴染んでいた。さすが目利きの斉藤が選んだだけある名刀なのだが、彼から贈られたと話すと誤解が生まれそうなので伏せておく。
「ずっと予備の刀を使われていたので気になっていました。もちろん先生ほどの使い手ならどんな刀でも名刀のように扱われるのでしょうけど」
「ハハ、褒めても何も出てきませんよ」
「嘘偽りのない本音です!」
山野が力説したところで、他の隊士からお呼びが掛かった。器用でまめな山野はどの部署でも引っ張りだこなのだ。そんな彼を見送って総司はまたぼんやりと遠くを眺めた。
もう彼らはいない。
でもどこかに気配は感じる…そんな不思議な感覚を味わっていた。
「総司」
やってきたのは疲れた様子の土方だった。
「なにか?」
「久しぶりに試衛館の木刀で素振りがしたい気分だ。付き合え」
「あ、ちょっと…」
土方は総司の返事を聞かずにさっさと道場へ向かう。総司は仕方なくその後を追った。
屯所が壬生にあった頃に建てた「文武館」は三十坪ほどの大きさの道場だ。隊士が増えた今となっては手狭に感じるものの、試衛館よりもよほど立派な造りをしていて、そのまま西本願寺へ移築した。天然理心流の重たい木刀はここでも稽古に使用している。
「土方さん、無理しちゃダメですよ。左手の傷、まだ痛むのではないですか?」
「傷?ああ、あんな傷はもう瘡蓋になって剥がれた」
土方は半月ほど前、首に押し当てた総司の刀を素手で受け止めた。深い傷ではなかったが総司は彼にそのような怪我を負わせたことを後悔し、気にしていたのだが当の本人はすっかり忘れていたようだ。
(いや、土方さんのことだから忘れたふりなんだ…)
その傷と一緒に思い出すのは、総司が自害しようと試みていた光景だろう。今となってはなぜあんな衝動に駆られてしまったのか不思議だが、土方は不自然なほどそのことに触れようとはしない。
『もう少しだけ待ってください』
いつか話すーーー総司がそう言ったことを信じて待っているのだろう。
土方は早速、木刀を振りながら
「それ、斉藤からもらったのか?」
と尋ねた。彼の視線は総司の腰元を指していた。
「ええ…なんていうか、餞別だと」
「あいつらしいな。まったく…気に入らない」
「まさかそんな理由で斉藤さんを追い出したわけじゃないですよね?」
「さあな」
土方ははぐらかしつつ、木刀を振るう。
入隊した隊士は木刀の重さと太さに身体がついていかず大抵音を上げる。島田や山野によると隊士たちにとって通過儀礼なようなことになっているらしいが、免許を納めた土方の身体には染み付いていて問題なさそうだ。
「お、やってるな」
次に顔を出したのは近藤だった。「俺もやる」と木刀を手に取ると、土方の隣で同じように素振りを始めた。
「このところ、忙しかったからすっかり身体が鈍ったよ」
そう言いながら、二人は息があったように「ハッハッ」と素振りを続けた。冬の道場は空気まで冷え切って寒かったが、やがて彼らの体温で温まっていく。
局長と副長が並んで稽古している。それは隊士たちにとって珍しい光景かもしれないが、総司にとっては見慣れたもので
(試衛館みたいだ)
不意に懐かしさが込み上げてきた。
隙間風の吹く試衛館の道場はいつもそれを跳ね返すような熱気に溢れていた。若い道場主の元へ集う様々な門派の剣士たち…互いに切磋琢磨する仲間たちの間に冷たい冬の冷気など無意味だった。
狭い道場で太く大きな木刀を振り回す…厳しい鍛錬だったが、今はそれが愛おしい。
山南、藤堂が去った。
(ああ、寂しいな…)
言いようもない寂しさが込み上げる。きっと近藤も土方も同じで、だからこそここに来たのだろう。
寂しさを振り払うように。
穏やかな再会を願って。








637


凍えるような冬を超え、穏やかな春の陽気に恵まれる日が増えた。
待ちに待った春の到来に人々がなんとなく浮き足立つなか、総司だけが落ち着かない心地で晴れ渡る空を見上げていた。
(もう梅が咲くだろう)
大きく膨らんでいく蕾は、まるで総司の張り裂けそうな胸の内のようだった。

「ケホ…」
軽く咳をして袖で口元を覆う。肺の痛みはなく喀血の予感はない。しかし、
「風邪か?」
と通りかかった永倉から声をかけられたので総司は身体中に緊張が走った。
「ええ、まあ…」
「この間も風邪をひいていたよな。治らないようなら南部先生に診ていただいたようが良いのではないのか?」
「大袈裟ですよ。きっともう少し暖かくなれば良くなります」
「そうか」
勘の良い永倉を説き伏せて、総司は微笑んだ。
伊東派の分離から数日。十四名の隊士が抜けたが日々の巡察等は滞りなく、時は変わらぬ平等さで過ぎていく。
永倉は立ち話のついでに
「そういえば聞いたか?隊編成が大きく変わるようだ」
と切り出した。
「組長が三人も抜けましたからね…一番、二番のような括りではなくなるという話は聞きました。まあ、副長助勤の下に隊士を置くのは変わりませんが」
「それもそうだが…武田が降格するようだ」
「武田先生が?」
武田観柳斎は五番隊の組長であり、文学師範を務めている。永倉は急に渋い表情になり、腕を組んだ。
「幕府がフランス式の軍事訓練を取り入れるため、新撰組もそれに倣うと言っていただろう?武田の…何だったか、甲州流軍学はもともと時代遅れも甚だしいものだったが、ついには不要になった。それ故に文学師範から外れるらしい」
「まあ…伊東参謀が入隊されてからはそちらに隊士たちも傾倒してましたからね」
「そう。それなのに自分の兵学が役に立つと近藤先生には媚び諂い、隊士たちの前では威張るものだから嫌われているんだ」
「…永倉さんは武田先生が気に入らないんですね」
永倉は「もちろん」とあっさり肯定したので、総司は苦笑した。正義感の強い永倉は武田の態度が気に入らないだろうし、それを隠そうともしない。裏表がない分、融通も効かないがそれが彼の良いところだろう。
一方で総司はそこまで武田に嫌悪感はない。数年前の馬越の件で彼の為人は何となく理解できたし、彼も彼なりの形で近藤への忠誠を誓っているのだと思っていたからだ。
しかし、
「それに…まだ噂話に過ぎないが、分離前に武田が伊東参謀に擦り寄って、自分も離隊したいと申し出たという話を聞いた」
ということなので驚いた。
「本当ですか?」
「分離直前であったため断られたそうだが…当然、伊東参謀もわざわざ面倒なお荷物を引き取ることはないだろう。だが優秀な監察にバレて土方さんに伝わったんだろうな」
永倉は「いい気味だ」と吐き捨てる。総司も噂話とはいえ少し不快な気持ちになってしまった。
するとそこへ原田が巡察から戻ってきた。
「また不審火だったぜ」
早速彼はは愚痴った。総司は「またですか」と驚き、永倉は眉間に皺を寄せた。
「確か一昨日も祇園の方でボヤ騒ぎがあったな。今日はどこだ?」
「島原の近くだ。人気のない裏口から煙が出たってんで、火消しと一緒に向かったが発見が早かったおかげで塀と戸が一枚焼けたくらいで済んだ。
原田は羽織をパンパンと払いながらやれやれとため息をつく。
「江戸と違って町屋が焼けるとすぐに燃え広がっちまう。例え小さい火事でも油断できないぜ」
「火元はわからないんですか?」
「さぁなぁ…火消しの奴らは放火だとか騒いでたが。…とりあえず俺は報告に行ってくる」
原田は「じゃあな」と手を振って去っていった。
「放火だなんて…」
「決めつけるのは尚早だ。まだこれから続けばあり得るが…ひとまずは火消しに任せよう」
冷静な永倉はそれ以上は推測を控えたので総司も従った。
そのあと、永倉は稽古の当番だったので去っていき、総司も屯所を出て約束の場所に向かった。ある旅籠で診察のために英と待ち合わせをしていたのだ。
彼もまた火事の件を知っていた。
「たまたま患者の近くの家だったんだ。一人暮らしの婆さんの家だったが、留守のうちに燃えたから助かったとか」
「火元に覚えは?」
「全く覚えがないと言っていた。普段は裏口は使わないから、付け火だと騒ぎになっているらしい」
「…なるほど…」
永倉は様子を見た方が良いと言っていたけれど、民衆の間では数年前に起こった『どんどん焼け』の記憶も新しく、それも原因は付け火であったため恐怖を感じていることだろう。
診察を終えて英は広げた道具を慣れたように片付けた。彼は自分のことを見習いのさらに見習いだと揶揄していたけれど、手際良く器用にこなす姿を見ているとやはり医者の素養があるのだろう。彼を生かし南部に預けた松本の先見の明には感心してしまう。
互いに一息ついたあと、英は切り出した。
「それで…お鶴のことだけど」
「気になっていました。あれから…?」
総司は身を乗り出した。
仇討ちに失敗し悲嘆に暮れる君鶴を、英に託して去ったことがずっと気掛かりだった。
「落ち着いたと思う。疲れているようだったから、眠れる漢方も渡しておいた」
「そうですか…英さんは事情はご存知なのですか?」
「なんとなく。お鶴は君菊天神の禿で、実の姉のように慕っていたようだ。天神が所在不明となって界隈では新撰組に殺されたと噂になって、長くその姿を見た者はいなかったが、お鶴だけはずっと探し続けていた。…俺が往診で上七軒に出入りするようになってから、どこで聞きつけたんだか新撰組と関わりがあったことを知って、何かと尋ねてくるようになったんだ」
「…でも英さんは君菊さんのことはご存知ではないですよね?」
「ああ。同じ色街で名前くらいは知っていたがそれだけだ。だからお鶴には俺は何の力にもなれないと言い聞かせたんだ。でも実際、お鶴も心のどこかで天神が死んでいるとわかっていたんだと思う。それ故にずっと仇討ちの機会を待っていて…だから歳さんの馴染みだとか言われても否定はしなかった。いつか本人の耳に届いて顔を見にくるだろう…それを待っていたんだ」
君鶴にとってまたとない千載一遇の機会だった。けれどあっさりと希望が打ち砕かれた。
英は
「先に話さなかったのは悪かったよ」
と謝ったが、彼が新撰組や土方に関わることを避けているのはわかっていたので仕方ないと理解していた。
「…でも、土方さんは手練れです。女子相手に遅れを取ったりはしません。今回は見逃したようでしたが…」
「お鶴もわかっていた、仇討ちが叶うはずはないし、そんなことをしても天神は戻ってこない。だから…むしろ返り討ちに遭いたかったのかもしれないな。それくらい慕っていたようだから」
「…」
少女と大人の狭間、多感な年頃である彼女が人を恨み仇討ちに囚われ、若い命を散らそうとしている。土方はこれ以上関わるべきではないと諌め、総司も納得していたのだがこのまま放っては置けない気がした。
「事情は知らなかったとはいえ、君鶴さんも私の正体を知れば良い気持ちではないでしょう。今後は会うのを控えます。…ですから英さん、君鶴さんになにかあったら、また知らせてください」
「良いけれど…人の心配をしている場合じゃないと思うな」
「全くその通りですね」
総司がハハ、と笑うと英は苦笑した。










638


遠くでみねが玄関を藁箒で掃く音が聞こえる。雪解けの春を迎え、この別宅の手入れも少しは楽になったはずだ。しかし相変わらず塵一つない細やかな働きぶりだが、家主である土方はたまにしか寄り付かないので綺麗にした甲斐がないだろう。
「…」
土方は持ち込んだ仕事を一区切りして、気を抜いた。伊東たちが分離するまで緊張感を持って警戒していたが、それも幾分か必要なくなった途端、楽に感じた。
(奴が入隊してから張り詰めていたのかもしれない)
藤堂の紹介で入隊した伊東について当初から良い印象はなかった。人当たり良く丁寧で優雅…人を心地よくする賛辞は嫌味がなく、誰も拒まず受け入れる隙のない性が逆に人間らしくなくて信用できないと思ったのだ。
この数年間、相容れないと反発しながらも表向きは手を取り共に歩んできたが、
(結局、予想通り俺たちを踏み台にして去った)
彼が去るときの晴れ晴れとした表情は、憎らしくもあったが、これが本来の伊東という人間なのかと感慨深くもあったのだ。したたかで意志の固い尊王の志士…彼がこの先どのようにのし上がっていくのか、はたまた敵対することになるのか、興味深く面白いとさえ思える。
土方は休憩のつもりが結局、仕事のことで頭が一杯になってしまったと気がついて、側にある小さな書棚から帳面を取り出した。つらつらと書き並べているのは江戸にいた頃から続けていた発句だ。こちらに来てからは一区切りつけてしばらくは触れていなかったが、時折句作を練ることがあり書き留めていたものだ。総司などに見つかると揶揄われるので普段は隠しているが、今日の目的は句作ではない。
「…綺麗なもんだ」
間に挟んだ押し花ーーー先日、総司が残していた早咲きの梅を保存していた。あまりにせっかちに咲くのを『惜しい』と思いこうして残したのだが、今思えばらしくない行動だと思う。だがあの時は総司のことが理解できず、彼が置いて行ったであろうこの梅が何かのメッセージのように感じたのだ。
鮮やかな紅色の花びらを纏い、命を永らえた梅は上手くその姿を保っている。
土方は押し花を眺めながら思い出す。
あの雪の日、山南の墓の前で首に刀を当てていた光景を。
ゾッとすると同時に、瞼を閉じて覚悟を決めた姿が忘れられずにいた。
総司は『深い意味はない』といっていたが、信じるはずはない。きっと彼なりに思うことがあってああしていたのだろうし、土方の到着が少し遅ければどうなっていたのかわからない。
けれど土方が何も問い詰めないのは、総司が涙ながらに『いつか話す』と言ったことを信じたからだ。
「お掃除、終わりました」
考え込んでいるとみねが顔を出す。続いて窯を掃除すると言うので、
「少し良いか?」
と引き止めた。土方は家のことはみねに任せ口出しは滅多にしないので、彼女は少し驚いているようだった。
「なにか…?」
「総司のことだが…何か変わった様子はなかったか?」
「へえ…」
みねは少し悩んで考え込み、「大したことやありまへんが」と前置きした。
「先日、ここでお会いした時…どうもお顔色がお悪い様子で。お尋ねすると庭で遊んでいたとおっしゃったので、風邪でもお召しではないかと慌てて羽織をお掛けしました」
「…」
「その時は沖田せんせらしいなぁと思いましたが、それにしてもお一人で裸足で…不思議やなぁて思うてました。お顔色も真っ青で、ほんまはどこか具合が悪いんやないかって…」
「…そうか…」
「でもうちの思い過ごしやと思います」
「いや、良い。…仕事に戻ってくれ」
みねは「へえ」とそれ以上は言わずに掃除へ戻っていく。
土方は再び手にしていた押し花に向き合った。
(斉藤が言っていたな…)
昨年末の河上との邂逅で、総司が斉藤には『一太刀も浴びせられなかった』と無念そうに漏らしたと。しかし土方には自分の襟元の返り血について『河上のものだ』と答えた。
(どちらが正しい…いや、どちらも嘘なのか?あいつ自身が怪我を負ってそれを隠しているのか…)
出会った時から河上と奇妙な縁を感じ、何度も勝負にこだわっていた。そして最後の最後に河上を取り逃したことについて後悔がある様子だったので、怪我を負っていても口にしないだろう。
「…まさか」
それが山南の墓の前で自害を図るほどのものだとしたら、剣の腕に関わるのかもしれない。山南もまた利き腕に怪我を負ったことが起因で心を病んでいった経緯もある。もし、未だに思い悩み続けているのだとしたら…。
土方は
「…やむを得ないな…」
とある決心を固めたのだった。


三軒目の不審火が起こったのはその日の夜のことだった。
ちょうど夜番として巡察に出ていた総司と配下たちは火消しと共に現場に向かう。今度は小火では治らず炎が屋根まで立ち上り、辺りは騒然とした。
ただ幸運にも、その一帯は空き家だそうで数軒壊せば収まりそうで、被害は少なく済むだろう。
消化活動を手伝いながら、総司は火事を見にきた野次馬たちを観察した。もし放火ならどこかで火の手が上がるのを見ているはずだと思ったのだ。しかし老若男女入り乱れ、暗い夜の闇に紛れてしまいなかなか難しい。
すると山野が報告にやってきた。
「沖田先生、裏の空き家は壊し終えたそうです!」
「そうですか。じゃあこのまま燃え尽きてくれるのを待つことになりそうですね…」
「はい。怪我人もいませんが…やはりこれもまた付け火なのでしょうか…」
「空き家から火が出ることは少ないでしょうが…憶測で話すには、野次馬が多すぎるのでやめましょう。私たちは火が燃え広がらないように務めるだけです」
「わかりました!」
山野が島田たちと共に火消しに加わるのを視線で追うと、ふとある人影に気がついた。
(あれは…)
火事をまじまじと眺めていたのは、武田だった。非番なのか野次馬に紛れて目立たないが、山野たちの姿を見付けるや、表情を変えて背中を向けた。
(手を貸す…つもりはないのだろう)
火事の件は武田も知っているはずでこの場を去るのは新撰組の組長としてどうかとと思うが、非番なのだとしたら仕方ない。しかし先日の永倉の話のせいか捻くれた見方をしてしまう。
(何故、こんな真夜中にこんなところにいるのだろう…)
なんとなく総司は武田を追いかけた。しかし野次馬たちが進路を塞ぎ思うように進むことができず、そうしているうちに武田の姿を見失ってしまった。しんと静まった夜闇に消えてしまったかのように。
「…」
西はいくつか明かりが灯っているが彼の姿はない。だったら向かったのは祇園がある東の方向か。
しかし総司はそれ以上追わずに持ち場に戻った。その頃には鎮火し、あとは奉行所と火消しに任せ帰営した。
配下たちに解散を告げ、自分は報告へ向かったが土方は不在で近藤が夜更かしをしていた。
「先生、まだ起きていらっしゃったんですか?」
「ああ、お疲れさん。ちょっと調べたいことがあってな…また火事だって?」
「はい。空き家だったので被害はさほどありませんが…また付け火ではないかと」
「またか」
近藤は眉間に皺を寄せた。
「こう何件も不審火が続くと疑いたくなる。我々の領分ではないが警戒せねばならんな」
「はい、そう思います。本当に付け火なら早く捕まえないと大事になります」
「そうだな」
近藤や総司にとってもどんどん焼けは苦い記憶だ。壬生は戦果を免れたが、逃げ回る無実の民を見ていると心が痛んだ。特に犇めき合う町屋は一軒でも火事になれば瞬く間に広がってしまい、手がつけられなくなる。
「では、夜分にすみません、失礼し…」
「待て待て、ちょっと話がある」
もう夜更けだ、さっさと報告を終えようと気を利かせたのだが近藤に引き止められた。
「なにか?明日また伺いますけど…」
「いや、歳がいないうちに話しておきたいんだ。…お前、何かあったのか?」
「え?」
不意の質問にどきりと心臓が跳ねた。
「何か…って…」
「歳から様子が変だと聞いたんだ。別れ話を持ち出したって?」
「土方さんがそう言ってたんですか?」
弱みを見せない土方は誰にも話さないだろうと思ったが、幼馴染には打ち明けていたようで素直に驚いた。
「まあな。あいつも様子がおかしかったし…もう撤回したらしいが、お前がそんなことを言うなんて信じられなかった。何か事情があるのだろう?」
「…」
師匠である近藤の問いかけに、総司は黙るしかない。すると近藤はあっさりと
「まあ、いつか歳に話してやれ」
とあっさり引き下がった。
「先生は…なにもお聞きにならないのですか?」
「お前と歳の問題だろう。それに…その顔を見たらわかる。お前はきっといろんなことを悩んで、どう話すべきかまだ考えている最中なんだろう?だったら、それを部外者の俺が無理矢理聞き出すのも変な話だ」
「先生…」
何も知らないはずの近藤が総司の心中を察していることが、何も解決したわけでもないのに、とても安堵したのだ。
「遅くに引き留めて悪かった。もうおやすみ」
「はい…ありがとうございます」
「俺は何もしちゃいないぞ」
近藤はハハッと笑った。穏やかな笑みがなによりも総司に安らぎを与えたのだった。








639


新しい隊編成が発表された。
抜けた参謀と組長の穴はそのまま、一番、二番という形はなくなり各副長助勤の名前がその組の呼称となった。役割は変わらないので形式上のことであったが、最も変わったのはフランス式の軍事訓練を取り入れること。西本願寺の境内では時折、爆発音が響くことになり、大いに僧たちの顰蹙を買うことになった。
総司は慣れない銃を手に訓練を行う隊士たちを眺めていた。剣の腕に自信があってもろくに的に当たらない者もいれば、意外な才能を見出す者もいて、皆が新鮮な気持ちで訓練に臨んでいるようだった。
「フランス式の訓練だなんて、新しい物好きの土方さんらしいな」
隣にいた非番の原田も笑った。
「俺は悪くないと思うぜ。薩摩や長州の奴らも銃を仕入れて訓練してるんだ、遅れを取るわけにはいかない」
「そういうものですかね」
訓練を興味津々に見る原田とは違い、総司はあまり気が進まない。引き金一つで命を仕留めるのはとても無機質な行為のようで。
(簡単すぎて、恐ろしい)
しかしそれを口にするのは憚られた。剣が銃に劣るのか…それを考えるのはとても億劫だったからだ。
だが、
「嘆かわしい!」
とはっきり口にする者もいた。いつの間にか近くにいた件の武田だった。
「剣客集団と恐れられた新撰組が銃の稽古など!そんなものは歩兵に任せれば良いものを!」
彼の甲高い声はよく通り、稽古に勤しむ隊士たちを困惑させた。それでも構わず武田は「時間の無駄である」などと意気がる。よほど銃の訓練が気に入らないのだろうが、その態度は傲慢に見えた。
「…武田先生、銃の訓練は幕府からの要請を受け、近藤先生たちが決められたことです。隊士たちを責めても仕方ありません」
総司はやんわりと制したが、武田は聴き流す。
「剣を捨てて銃を取るなど、我々にとって誇りを捨てることと同義!まったく、局長や副長は何をお考えなのか…」
「…」
ブツブツと愚痴をこぼす武田に、総司は呆れて言葉が出ない。彼に何を言ってもそれこそ『無駄』だ。
すると原田が「ふん」と笑った。
「お得意の『甲州流軍学』とやらには銃がないんだろう?だから困ってるんだな」
「な…ッ!」
「残念ながら今度の編成でお役御免になっただろ?引っ込んでた方が無能を露呈しなくて済むぜ?」
原田が揶揄うと、その言い様に隊士たちの数人は吹き出して笑い、恥をかかされた武田は顔を真っ赤に染めた。そして
「勝手になさるが良い!」
と吐き捨ててダンダンと大袈裟に足音を立てて去っていく。ようやく稽古は再開し、原田は「すっきりした」と笑った。
「ぐうの音も出ないようだったな。見たか?あの顔…猿みたいに真っ赤だったぜ。新八っつぁんに見せたかったなぁ」
「…確かに真っ赤でしたけど…言い過ぎでは?」
「あれくらい言わなきゃ、あの野郎にはわからねえだろう。ただ僻んでるんだよ、軍事師範を外されてさ」
原田の言う通り、編成で話題になったのは師範から武田が外されたことだった。彼が教える軍学が古く隊士から評判も良くなかったため、この銃訓練に置き換わった形だ。それが武田には気に入らないのだろう。
「でも、少し様子が変でしたね。いくら思うところがあったとしても表立って近藤先生や土方さんのことを非難することはなかったのに…」
むしろ武田は近藤に諂う態度で隊士から嫌厭されていたのだ。
「伊東に近づいてるって噂があるだろう?自分の利になる方へ小判鮫の如く擦り寄ってるんだよ」
原田は吐き捨てて、「俺も」と嬉々として銃訓練へ加わった。
総司は長く息を吐いた。少し前までは白く色が変わっていたがそれもなくなり春が近くなった。
季節が変わるように、ずっと同じ場所にはいられない。新しいものを取り入れて歩み続ける隊士たちは、総司にはとても眩しく見えた。


「…というわけで、医学方と兼務で悪いが新しい編成で頼む」
土方は山崎を呼び出し、今後について話し合っていた。
「へえ、まあ…なるようになりますでしょ」
山崎はそう笑ったが、実際、副長助勤としての任務と共に医学方として学ぶのは苦労するだろう。それに加えて二人は口にはしないが、元監察の人脈を生かし斉藤との連絡役も務めるのだから気が休まらない。
「監察の方がよほどマシだったな」
「それはもちろん、性に合ってたんやと思います。せやけどもう俺は味のしなくなったスルメのようなもの…引き際を間違えると命取りになると思います」
山崎は未練はない様子だった。
土方は安堵しつつ、本題に移った。
「それで…聞きたいことがある」
「なんでしょ、改まって…」
「総司のことだ。なにか…変わったことはないか?」
「沖田せんせが?」
山崎は意外だったようで、目を丸くした。
土方も不本意だった。近藤や総司のことに関して監察や他人の目は不要であり、絶対の絆と信頼がある。わざわざ言葉にしなくとも繋がっていて理解し合えると思っていた。
山崎もそれを察し、踏み込めない領域だと思っていたのでよりによって総司のことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「…さぁ…いつもと変わらぬご様子やと思うてましたが…」
流石の彼もノーマークだったのか、考え込む。しばらく悩んで「そういえば」と口にした。
「なんだ?」
「いえ、些細なことやと思いますが、南部せんせのところのお弟子さんたちが話してました。うちの英と和解なさったのか、共に歩いているのを見た、と」
「総司と…英が?」
「あの一件以来、お互いに疎遠にされてましたでしょう。せやから良かったなぁいうて…」
「…」
あの騒動以来、英は松本と南部の元へ預けられ土方や総司と関わることはなかった。英は顔を合わせられないと避け、こちらはそれを尊重していたので、山崎という通り彼らが和解したというのなら悪い話ではない。
だが土方には言いようのない違和感を覚えた。
(もし本当なら、総司から報告があっても良いはずだが、あいつは何も…)
お節介の総司は事あるごとに英の近況を南部から聞いて気にしていたのだ。本当に和解が成ったのなら嬉々として土方に話すだろうが、それをしなかったのはそこに『隠し事』があるのではないか…。
「山崎、英と話がしたい。約束を取り付けてくれないか」
「…もちろん、声をかけることはかましませんが…英さんが応じるかどうか…」
山崎は難色を示した。英が最も顔を合わせたくないのが土方なのだ。それは当然理解していた。
「無理強いはしない。そもそもあいつのことを探るような真似は本意ではない」
「…本意ではないことを何故?」
「…」
「わかりました、聞いてみるだけ聞いてみましょ」
土方のただならぬ様子を察したのか、山崎はそれ以上は尋ねず引き下がる。
するとちょうどそこへ
「土方さん、良いですか?」
と総司がやってきた。刹那、二人の間に緊張が走るが、
「沖田せんせ、どうもどうも。もう話は終わりましたんで」
と流石の山崎はおくびにも出さず調子良く言って、部屋を出ていった。
「すみません、大切な話でした?」
「いや…何の用だ?」
「会津の広沢様がいらっしゃいました。近藤先生がお迎えしているので土方さんもきて欲しいと」
「広沢様が?」
会津公用人の広沢は新撰組との関わりが深く訪ねてきても不思議ではないが、約束なしにやってくるのは珍しい。
「わかった、すぐに行く」
「はい」
土方は身なりを整え、総司もそれを手伝った。至近距離で改めて観ると
(少し…痩せたような気がする)
「…何か?」
総司は土方の視線に気がついた。
もしいま、何もかもを問いただせば総司は答えるだろうか。あの墓石の前で悲壮感を漂わせていた時から、何か気持ちの変化はあったのだろうか。
「お前のことはなんでも知っていると思っていたのにな」
「え?」
「…何でもない。行ってくる」
土方は総司を残して部屋を出て行った。





640


近藤は泣いていた。
広沢が去り、客間には土方しかいないとはいえ、まるで涙腺が壊れてしまったかのように泣き続けていた。
「…もういいだろう。いい加減落ち着けよ」
広沢を見送るまではどうにか堪えたが、客間に戻った途端滝のように男泣きする幼馴染に、土方は次第に呆れた。
だが近藤は
「何を言ってるんだ、馬鹿野郎!」
と冷静な土方を叱った。そして土方ににじり寄り大きな掌を見せつけた。
「み、見ろ、この手を!震えているぞ、興奮か、武者震いかわからぬが、身体が熱いぞ!」
「熱でも出てるんじゃねぇのか」
「出ているさ、当たり前だろう!むしろお前がそうやって冷静に話してるのがおかしいんだ!」
「俺だってそれなりに驚いている。まさか…幕臣に取り立てられる、なんてな」
広沢がわざわざ屯所までやってきたのは、新撰組を会津お預かりから幕臣に取り立てる話があるという知らせを伝えるためだった。
『そなたたちの五年間の功労に応えるべく、我が殿は幕臣へ取り立てるよう願い出るおつもりだが、異論はあるか?』
思ってもいない申し出に、近藤はしばし言葉を失い固まった。土方に促されようやく正気に戻った時には既に感情が抑えきれない様子で、
『大変光栄なお話にございます…!』
と即答した。
当然だ、それは近藤の夢であり、目標であり、願いだったのだから。
「いまだに信じられぬ…浪人の身分から幕臣など…」
「まだ正式に決まった話じゃない」
「もちろんそうだが…会津公は約束を違えぬ御方。我々のことを信頼してくださるだけでなく、このようなお計らい…生涯をかけても報い切れぬ…!」
感動に咽び泣く近藤に土方は仕方なく手拭いを差し出すと、受け取らずに彼は抱きついてきた。
「おい…」
「お前ももっと喜べ!俺たちの夢が叶うんだぞ…!」
本当に、熱があるみたいに熱い。
近藤はずっと諦めなかった。農民として生まれても、田舎道場の主人となっても、掴みかけたチャンスを反故にされても…ずっと諦めず、前に進み続けてきた。
猪突猛進という言葉がふさわしい近藤に寄り添い、力を貸してきたのが土方の人生だ。何のために気の進まない汚れ仕事を請け負ってきたのか…。すべてはこの日のため。
(かっちゃんに言われなくとも)
「ああ…そうだな…良かったよ」
土方は近藤の大きな背中に手を添えた。
幼馴染で、大の男同士で恥ずかしいと思っていた抱擁によって、近藤の感情が流れ込んでくるようだ。
「…だが、あともう少しだ。正式に話が決まるまで、油断はできない」
「歳らしいな」
近藤はようやく身体を離し、照れたように頭をかいた。涙は止まり、その眼はまるで少年のようにキラキラと輝き始める。
いつまでもその灯火を消さないために。
(身辺は綺麗にしないとな…)
土方は鬼副長の顔に戻ったのだった。


御陵衛士は新撰組を脱け、西本願寺より人の賑わいのある善立寺に移った。ひとまず人脈を持つ伊東とそれに付き添う内海が地盤作りに奔走し、ほかの同志たちは時間を持て余すことになった。
「御陵衛士と名乗るからには御陵をお守りするのだと思ってました」
素直な藤堂は縁側で刀の手入れをする斉藤に愚痴る。
「なんだか暇です。都に来てから忙しなかった分、手持ち無沙汰で困ります」
「だったら新撰組に戻るか?」
「冗談がキツイですよ」
新撰組と御陵衛士の取り決めで、互いの隊士の受け入れは禁止となっている。重たい処分があることは口にしなくとも新撰組で過ごした者なら誰でもわかることだ。
「伊東先生は薩摩との折衝でお忙しそうだし…そういえばこの善立寺も仮の屯所だそうで、いつかは別のところに移る予定らしいです。そのせいかなんだか落ち着かないなぁ…」
藤堂は縁側に腰を下ろし、足をぶらぶらと投げ出す姿はまるで子供のように無邪気だ。裏表のない素直な性格の彼は、
「皆、何してるのかなぁ」
とぼやくので斉藤は流石に呆れた。
「…藤堂さん。俺たちは新撰組を脱けて来た身分だ、要するに見方によれば裏切っている。古巣を懐かしむのは勝手だが、口には出さない方が良いだろう」
伊東に近い篠原や加納に聞かれたらどう思われるか。
斉藤は忠告のつもりだったのだが、藤堂は意に介さず
「斉藤さんにしか言いませんよ」
と口を尖らせた。
「斉藤さんは心から新撰組を憎んでいるわけではないでしょ。多少の行き違いはあっても…長年過ごした情があるじゃないですか。だからつい漏らしちゃうんです」
「…一緒にされるのは迷惑だ」
「そう言わないでくださいよ」
斉藤の冷たい返答に藤堂は笑った。斉藤はなにを言っても暖簾に腕押しかとあきらめて刀の手入れに力を入れることにする。
藤堂はまだ世間話を続けた。
「そういえば、巷では放火があちこちで起きているそうですね。もう四軒くらいだったかな…物騒ですよねぇ」
「奉行所が対応するだろう」
「でも噂によると狙われている家は殆どが留守か空き家で被害は出ていないんだとか。放火だとしたら一体なにが目的なんでしょう」
「色々考えられるだろう」
「色々?」
斉藤は小さくため息をついた。
「…そもそも同じ人物の仕業か、模倣犯かもしれないし、愉快犯かもしれない。目的も色々ある。町屋は一軒燃えると周囲も焼く。目的の家を焼いていないかもしれない。もしかしたらその隣家を焼くつもりだったのかもしれない」
「うーん、そうなるとキリがないな」
「簡単なのは犯人を捕まえることだ」
藤堂は「そりゃそうだ」と手を叩いて納得した。物分かりは良いが少し世間知らずなのだ。彼との会話はまるで子供を相手にしているようだが、腹の内を探るような疲労感はないのでまだマシだ。
すると藤堂は「あれ?」とまた話を変える。
「この鞘に巻いてある…組紐ですか?」
「…ああ」
鞘の鯉口のあたりに組紐が巻かれている。
「こんなのありましたっけ?鞘に装飾なんて、邪魔じゃないですか?」
「良いんだ、これで」
「ふぅん。でも、これ見覚えがあるなぁ…」
「気のせいだ」
藤堂は「気のせいかぁ」とあっさり納得したが彼も知っているはずだ。組紐は総司からもらったもので、いつも身につけていた。愛着はそれほど無かったのか餞別にとやや強引に頂戴しても何も言わなかったが、斉藤にとっては特別なものだ。
そうしていると、伊東と内海が戻ってきた。
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
皆が出迎え伊東もそれに応えるが少し疲れているようで、別室に入って行ってしまった。共に外出していた内海が藤堂と斉藤を見つけると、
「ちょっと宜しいですか?」
と声をかけてきたので内海に従って人気のない場所に移る。
「どうかしました?伊東先生もお疲れのご様子でしたが…」
「…面倒なことに巻き込まれてしまいました」
「面倒なこと?」
内海が眉間に皺を寄せつつ、「他言無用で」と前置きした。
「武田観柳斎の件です」
「武田組長ですか?」
「いまは組長を外されて一介の隊士に降格しました」
藤堂は「へえ」と呑気に相槌を打ったが、斉藤は
「降格?」
と聞き流せずに問い返した。内海は頷いた。
「分離をきっかけに編成が大きく変わったようで、武田は軍事師範も組長も解任されました。…おそらく分離前に大蔵さんへ自分も脱退したいと申し出たことがきっかけでしょう。もちろん断りましたが…ただ土方副長の目は誤魔化せない。遠回しに処分を受けたようです。しかし、それが尾を引いて未だに武田がしつこく大蔵さんに近づいているのです。先ほども待ち伏せのような形で声をかけられました」
内海は不快そうに顔を顰めている。影響を受けやすい藤堂も「なんて人だ!」と憤慨していた。
しかし斉藤は武田ならさもありなん、と驚きはしなかった。彼の教える軍学は古臭く評判は悪かったし、土方に伊東に近づいたことが知られてますます居場所がなくなったのだろう。
「新撰組とは相互で人の行き来をしない約定を結んでいる…彼らに『勘違い』されるのは面倒です。藤堂くん、斉藤くん、君たちは付き合いが長い。いくら頼んでも無駄だと説き伏せてくれないか」
「それは…」
「もちろんです!」
斉藤の返事を無視して藤堂が快諾する。内海は「頼みます」と満足気に頷いてしまい、斉藤は言葉を飲み込んだ。
(やれやれ…)
どうやら猪突猛進の魁先生の子守役を仰せつかったようだ。











解説
なし


目次へ 次へ